伝統板・第二

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「無我 ①」 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 04:01:46

《天地の生命と一枚になりきる》

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月19日)」より

鶯(うぐいす)が啼いている。実に澄んだ声で啼いている。玲瓏たる声だ。
どこにも汚(けが)れの感じられない声だ。
それは雌雄呼び交わす声であるのになんの卑猥(ひわい)も感じない。
天地そのものの讃歌のように聞こえるのはなぜであろう。

それは鶯には我(が)が無いからだ。
天地の生命(せいめい)と一枚になっているからだ。


梅の花が馨(かお)っている。清浄(せいじょう)そのものの匂いよ! 
その一輪一輪の浄潔(じょうけつ)とでも浄厳(じょうごん)とでもいいたいような花びら、
雌蕊(めしべ)、雄蕊(おしべ)の美しさにはなんらの卑猥の影もとどめない。

それだのに植物学者はその花はやはり雌雄呼び交(かわ)すための装いでしかないと教える。


人間ひとり、男女呼び交すことを卑猥に感ずるというのは、
人間には我があって、天地の生命(せいめい)と一枚にならないからである。
エデンの楽園を追放せられたのはアダムとイブが、智慧の樹(こ)の実を食べたからだと言う。

天地の生命(せいめい)と一枚になりきらないで、いろいろと人間の理屈で考える。
打算で考える、欲で考える、そこに純潔であるべきはずの恋愛が不浄なものとして感じられてくる。

自分の快楽のために楽しもうと思って性欲を扱うから、性欲が汚れたものに見えてくる。

・・・

<関連Web>

光明掲示板・第一「無私の人 (48)」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=35

           <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

生長の家の思想は無我の思想である - 伝統

2016/04/27 (Wed) 04:01:54


(自ら戒めて心を傲(おご)らざる日 )

           *「光明道中記」(4月27日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。


           <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

無我になって神の導きに随いましょう - 伝統

2016/05/05 (Thu) 04:15:40


          *「真理」第9巻生活篇(P327~328)より


『天使の言葉』には「人間は神より出でたる光なり」と書かれています。
人間の本質は神より出でたる霊光の波動なのです。
それは神より出でたるものですから、神の御意志を表現するのが使命なのです。

自分自身の”我(が)”を表現するために肉体を使ってはなりません。
”我(が)”を表現するために肉体をつかえば、それは本来の目的に反するものですから、
其処に摩擦が生じ、苦痛や悩みがでて来るのは明らかです。

自分の”生命(いのち)”のように見えても、自分の”生命(いのち)”ではない。
神の”生命(いのち)”なのですから、神の”生命(いのち)”の発現するように
無我になってしまったら何事もスラスラと運ぶようになるのです。

だから常に神想観を行ずるときには、
「神の智慧が流れ入(い)って我(わ)が生活を導きたまうように」と念ずるべきで
あって「わが智慧で欲する通りに物事を実現せしめ給え」と祈るべきではありません。

            <感謝合掌 平成28年5月5日 頓首再拝>

《内在の神の道具となれ》 - 伝統

2016/05/07 (Sat) 03:14:33


           *「光明法語」(5月7日の法語)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。
自己の内に神が宿っているのであるから、常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)を
なくならせて、ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

            <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

無我 - 伝統

2016/05/09 (Mon) 04:37:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

            <感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>

《あなたが 「 神意実現 」 のパイプとなること》 - 伝統

2016/05/17 (Tue) 03:32:49


        *『 生長の家 』(昭和46年3月28日の法語)より

   イエスのゲッセマネの祈りは、「 願わくはこの苦き盃をわれより取り去り給え。
   されどわが意を成さんとには非ず、御心の如く成らしめ給え 」というのであった。

   これが正しい祈りの極致であるのである。

   我意を通すために「 “神”という無限の力を利用しよう 」
   という考えほど不遜な考えはないのである。
   人間はもっと謙遜にならなければならないのである。

   「 我意を通すために 」ではなく「 神意を通すために 」
   「 私心を無にして、私をカラッポのパイプと成らしめ給え 」
   でなければならないのである。

   そのように自己を“ 無 ”にして神に全托するとき、神は無限の愛であり無限の智慧であり、
   その全智によって計画されたる「 愛の天国 」は、自然に私たちの「 カラッポの無私の心 」
   を通して現象界に流れ入って来て、あなたの身辺が自然に地上天国となるのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12725762.html

            <感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2016/05/18 (Wed) 03:31:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

                 ・・・

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

            <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

万感を込めて、無心で眺める - 伝統

2016/05/24 (Tue) 03:51:35


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年09月29日)」より

  (渡部昇一氏の心に響く言葉より… )


  ハマトンは「知力には二種類ある」と語った。

  これを私の言葉で言えば、

  一つは鷲(わし)や燕(つばめ)の如く一挙にスーッと飛ぶような知力、
  もう一つは駝鳥(だちょう)の如く足を踏みしめて進むような知力である。

  鷲や燕は地面を歩けないけれど、大空を飛べる。

  駝鳥は地面を素早く歩けるが、走った先に何があるか案外わからず、
  走った先が崖ということもある。


  松下幸之助氏は雄大で、鷲のような知力を持っている。

  たとえ知識がなくとも、はるか遠方を見通せる。
  しかも見えるだけでなく、「電気器具の潤沢なる供給を目指すべきである」という
  独自の水道哲学を提唱する。

  なまじ学問がないので、考えることが皆独創的になるのだ。

  松下氏は子供の頃から通常の学問や常識にこだわらず、つねに先を見ていた。


  ではどうすれば「鷲の知力」が身につくかというと、「これ」という王道はない。
  それでもヒントはある。

  それは万感を込めて世の中を見続けることである。


  例を挙げるなら、昭和天皇である。

  ニクソンショックの後、それまでの1ドル=360円が308円になるという
  急激な円高が起きた。

  輸出産業が大打撃を受けると考えた当時の水田三喜男大蔵大臣は、
  「大変なことになりました」と、昭和天皇に報告に行った。

  ところが昭和天皇はこれを受けられて、
  「円が高くなるということは、日本人の労働の価値が高くなることではないか」
  とおっしゃった。

  水田大臣は返す言葉がなく、冷や汗を流して引き下がったという。

  これは昭和天皇が「日本人はこれからどうあるべきか」と、
  国や国民の運命を朝から晩まで無心でお考えになっていたからではないだろうか。

  そこから数字や理屈から導かれるものとは違う、
  鷲の目で見た答えを見出されていたのだ。

  無心とは、松下氏がよく口にした「素直な心」であり、つまりは「とらわれない心」である。

  万感を込めて、無心で眺める。
  
  これは知力の働きとしては受け身である。
  知識や情報を獲得しに行くのではない。
  受け身で世の中をザーっと眺め「こうではないか」と結論に至る知力なのだ。

  松下氏も積極的に情報を集めたり、計算をするといったことは、あまりしなかった。

  そうした中からこそ、「鷲の知力」は育まれるように思う。

  
  知識や数字を使うのは、参謀の役目である。
  リーダーは、決断さえできればいい。
  トップに立つには学歴は不要で、学歴が必要なのは人に使われる人である。

  最近では、「銀座まるかん」の創業者・斉藤一人氏がそうである。
  斉藤氏の学歴は中卒で、独自の人生訓やビジネス訓を記した著書を多く出している。

        <『人を動かす力』PHPビジネス新書>

   ・・・・・

松下幸之助氏と豊臣秀吉は規模は違うが似たところがある。
ともに学問や学歴がなかったが、秀吉は天下を統一し、
幸之助氏は松下電器(パナソニック)を創り上げた。

学問や知識がなくとも、未来を見通す知力がある人は、激動の時代を乗り切れる。

しかし、なまじ半端な知識があると、それにとらわれ、判断を間違える。

金融の世界では、一流の知のエリートたちが、
デリバティブという怪物をつくりあげ、その崩壊によって世の景気が一気に悪くなる
元凶をつくった。

つまり、「駝鳥の知力」だったからだ。


「鷲の知力」とは、高いところから見下ろすという、
俯瞰(ふかん)思考で、細かいところにとらわれないで、
ボーっとして眺(なが)めることだ。

宮本武蔵は五輪書の中で、物の見方は、大きく広く見ることが必要で、
遠い所を近くに見て、近い所を遠くに見ることが大事だ、と言っている。

相手の早い刀の動きは、凝視しせず、ボーっと見ることで、
わずかの差で太刀を避けることができる。

個々の現象にとらわれていては本質は見えない。

情報もまたしかり、である。


何かを判断するには…

「世のため人のためになるのか」、「人の喜びにつながるのか」、
を常に問い続け、その上で、万感を込めて、無心で眺めたい。

          <感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>

《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統

2016/06/01 (Wed) 03:33:33


       *『 生長の家 』(昭和25年4月22日の法語)より 

   神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
   凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
   不思議なる力がわが内に宿っているのである。

   その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
   自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから
   神の無限の癒やす力が豊かに流れ入らないのである。

   自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
   自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。

   自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、
   ゆったりとした時に
   神の癒やす力が豊かに流れるのである。


    →  http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html

          <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>

捨我精進 - 伝統

2016/06/09 (Thu) 04:09:12


          *「光明道中記」(6月9日)より


【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

          <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2016/06/15 (Wed) 04:14:54


          *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

「無我随順」 - 伝統

2016/06/27 (Mon) 04:04:22

         *『白鳩』(昭和16年10月号)より

常に神の側(かたはら)にあると云ふこと。
神のみこころと偕に生きると云ふことよりほかに何も考へないこと。

神が望みたまふならば、生命までも捧げる決心を有つと云ふこと、
その覚悟が出来なければ人としての本当の生活にはならない。

我々にとっては、神とは 天皇にましますが故に、 
天皇の大御こころと偕に生きると云ふことよりほかに何も考へないこと。

天皇のみ民として生命捧げることよりほかに何事も考へないこと。

これが日本人としての道であり、生命の本然である。
 
何事にも利己と云ふことを考へず。与えられた統制を素直に上より受取ること。
利己といふことに心を労することが全く無くなって、ただみ民として国のために捧げる。

課せられたものは悦んで受ける。
一粒の御飯も、一掬の水も 天皇のたまはりものとして合掌して受けること。

この時はじめて、我々は真に幸福を知りはじめるのである。

        <感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>

神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する - 伝統

2016/06/30 (Thu) 04:50:08


        *「光明道中記」(6月30日)より

若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。

そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。

自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。

全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。

神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致する
が故に、神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。

あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と
拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。

        <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統

2016/07/15 (Fri) 03:22:26


           *『 生長の家 』(昭和25年4月22日の法語)より

   神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
   凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
   不思議なる力がわが内に宿っているのである。

   その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
   自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから神の無限の癒やす力が
   豊かに流れ入らないのである。

   自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
   自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。

   自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、ゆったりとした時に
   神の癒やす力が豊かに流れるのである。

 
   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html

        <感謝合掌 平成28年7月15日 頓首再拝>

我(が)は本当の自分ではない - 伝統

2016/07/31 (Sun) 03:25:32


            *「静思集」(P131~132)より

我(が)を捨てること。
我こそ一切の不幸の根因である。

すべての迷いは我を衛(まも)ろうとするところから起こるのである。
我を溶かし滅ぼしてしまったら、一切の不幸は消えるのである。

我欲、我執、自己弁解、つぶやき、不平、
すべて我より出(い)ずる一切のものは天国に到る道を鎖(とざ)すものである。

「我」は本当の自分ではない。
本当の自分をくらますものである。
「我」のあるところに不幸は起こり、病気は起こるのである。

生命(せいめい)は死に背反する。
生命は病気に背反する。

生きると云うことは死の原因ではない。
働くと云うことは病気の原因ではない。
生きないこと、腹かないことが死の原因であり、病の原因である。

「生(せい)」の中には「死はなく」、「生」の中には「病」はない。
怒りや呪いや憎みや呟(つぶや)きの中に「死」があり、病気があるのである。

生命(せいめい)は神であるから、
それ自体「自善(じぜん)」のものであり、「完全」のものである。
それを不完全だと思うことが問題なのである。

不完全と云うことは、唯(ただ)五官の認識上にのみあることである。

その五官の認識 ―― すなわち《もの》を認める働きは、
ものその《もの》を認めるのではなくして、心に描いてそれを
空間時間面に投影して認めるのである。

「五官はただ信念の影を見るに過ぎず」と『甘露の法雨』にあるのは
そのような意味に於いてである。 

        <感謝合掌 平成28年7月31日 頓首再拝>

我がなくなったのが仏 - 伝統

2016/08/13 (Sat) 03:49:23


            *「静思集」(P132~133)より

潔(いさぎよ)く生きると云うこと。
潔く生きるとは我(が)と云うものが無くなることである。
一寸(ちょっと)でも我(が)があったら潔くなれない。

潔いとは一寸も引っかからずにサラリと水のように
神様のみこころに流されていくことである。

「法(ほう)、法の中に住せず」と云う語(ことば)が『観普賢行法経』にあるが、
萬法すなわち萬ずの現象が、佳(とどま)まらず、流水のように引っかかりなく、
はからい心なく、そのままに流れて行くことである。

我(が)があっては、そう云うように引っかからずにある訳には行かない。

我(が)が無くなったのが仏(ほとけ)である。
我(が)と云う固塊(かたまり)が《ほとけ》てしまって、
ただ「神」がうちから湧き出てくることである。

強いて言えば「衆生の内から湧き出て来た神」が《ほとけ》である。
「《ほとけ》とは衆生が悟りを開いたものである」と云う意味は
斯(こ)う云う意味である。

衆生が悟りを開いて仏となるが、その仏なるものは、同時に超越的なところにあって、
この世界を《ある》べきようにあらしめているところの神である。

此の世界を《ある》べきようにあらしめていることを
此の世界を「神が造った」と云うのである。
そして、その神を創造神(そうぞうしん)と云うのである。

こう考えて来ると、衆生の内から湧き出てくるところの内在の神(仏性)と、
その外から、又は超越的なところから、この世界を《ある》べきようにあらしめている
「神」とは、本来「一つ」である。

神仏一体論は斯(こ)うしたところからも頷ける。

        <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

《利己を捨てたとき全体の生命が「自己」にあらわれる》 - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:28:19


         *『 生長の家 』(昭和26年6月6日の法語)より

   全体は一つであるから、全個(ぜんこ)であって他個(たこ)はない。
   他個はないから自個(じこ)もないのである。

   自個 即ち自分という個人が無いということがわかって、
   「 個人の利益 」と云うような考えを悉く捨ててしまって、

   ただ全体のために尽すと云う献身の心がもとになって、
   祈りや観行や働きのいとなみが行われるとき、

   本当にその祈りが成就し、観ずる通りに実現し、
   その人の働きが立派な栄える事業となって
   果(み)を結ぶのである。

   利己的な祈りが成就しないのは、
   「自個」が全体から切りはなされているために
   全体の生命(いのち)の流れも、全体智慧(ちえ)の流れも
   流れ入らないからである。

   神の栄えを個身(わがみ)にあらわすためには、
   自個がなくならなければならぬ。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

        <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

《我みずからにては何事をも成し得ず》 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 03:55:54


         *『 生長の家 』(昭和40年3月27日の法語)より

   イエスは

   「 我みずからにては何事をも為し得ず、
   天の父われに在して御業(みわざ)をなさしめ給うなり 」

   と訓(おし)えている。


   諸君は、自分が生まれて来ようと努力して、
   母親の胎内でその栄養分を自分で整理し排列して
   自分の人体を造ったのではないのである。

   「 われみずからにては何事をも為し得ず、
   天の父われにいまして、この人体を造り給うたのである。」

   それならば、私たちが母親の胎内から出て来てからも

   「 われみずからにては何事をも為し得ず」であって、
   自分の力では胃液を製造することも、各種のホルモンを製造することも、
   そのホルモンの精妙なバランスを得させることもできないし、

   自分の力では腎臓で不浄物を択(よ)り分けて
   排泄(はいせつ)することもできないのである。


   これらの働きは悉く神授のものであるのである。

   この真理が理解できるならば、私たちが病に罹(かか)ったとき、
   自己の内に宿っているこの無限の智慧の御(おん)はたらきに全托して

   「 神よ、み心の如くならしめ給え 」と、人間的心配を棄て去ったとき、

   神癒の力がこんこんと内部より湧き出でて
   速やかに癒される理由がわかると思うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

        <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

我でやれば失敗する - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:42:18


         *「光明法語」(9月15日)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、
時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。


吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

《“ 神の恵み既に汝に足れり ”》 - 伝統

2016/09/26 (Mon) 04:20:04


        *『 生長の家 』( 昭和46年3月27日の法語)より

   神を信ずることによって、
   神をして吾々に一層深切に仕えせしめようというような
   考えを棄てなければならないのである。

   神が使徒パウロに言いたまいし如く「 吾が恵み汝に足れり 」である。

   既に「 足れり 」即ち「 十全の恵み 」
   「 至らざる処なき完全不欠の恵み 」を
   神は吾々に与えてしまっていられるのである。

   「 それを何故 お前はとらないのか 」と神は仰せ給うているのである。

   神を私たちの祈りによって「 使おう 」と考えてはならないのである。

   私たちは如何にして自分をして神の恵みの流通する
   中カラッポのパイプになればよいかを考えればよいのである。

   私たち自身が、一切の私欲を去り、私心を去り、
   中カラッポに成り得た程度に従って、私たち自身が、
   神の最高の自己実現の役目を果たすことができるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12720463.html

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

《真に神のパイプとなるには》 - 伝統

2016/10/11 (Tue) 03:51:13


           *『 生長の家 』(昭和26年5月4日の法語)より

   自然現象のほかは、
   神は人間を通してその働きをあらわし給うのである。

   人間が神のよきパイプとなり、よき道具となることが必要なのである。

   自己を空(むな)しくしての祈りは
   人間をして神のよきパイプとなることを可能ならしめ、
   神の完全なる表現としての人間を完成することになるのである。

   人間を通して神は自己実現したまうのであるから、人間が働かないで
   行動しないでただ祈るばかりでは役に立たないのは明らかである。

   祈りによって神の御心(みこころ)と同調し、行動の方向が決定せられ、
   その決定せられた方向に行動をとることによって、
   その人は本当に神のパイプとなり、
   神の自己実現となるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


           <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

《神の容器(いれもの)として自分は空っぽである》 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:51:21


      *「生長の家」(昭和25年6月22日の法語)より

   今自分は全然 「 空っぽ 」 になったのである。

   自分は何一つ自分のものを
   求めようとは思わないのである。

   されば神は滔々(とうとう)として自分の中に流れ入って来るのである。

   神が流れ入って来た所の自分は
   もうすでに神そのものである。

   吾はすでに 「 新生 」 したのである。
   「 我 」 の造った凡ゆる悪しきものは
   流れ去ってしまったのである。

   自分は今日より後
   如何(いか)なる 「 自分 」 のことをも なさないのである。

   唯 神のことのみを なすのである。

   神は吾(わ)が内に現われ給い、
   神の力をもて神の仕事をなし給うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

「《わし》が」を捨てよ - 伝統

2016/11/01 (Tue) 04:00:50


          *「光明道中記」(11月1日)より抜粋

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>

七たび我を棄てる日 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 03:39:48


          *「光明道中記」(11月6日)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。事情をきいて見ると実に可哀相な
境遇です。私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、可哀相さに
同情して『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

我欲・我慢・我見・我癡は真理を知らぬのである - 伝統

2016/11/08 (Tue) 03:29:28


          *「光明道中記」(11月8日)より抜粋

天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

          <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

我慢の消ゆる日 - 伝統

2016/11/11 (Fri) 04:05:56


          *「光明道中記」(11月11日)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                             (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、我が無くなって仏の境界に入るが、
一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。
我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>

キリストの霊を受ける - 伝統

2016/11/15 (Tue) 04:09:55


          *「善と福との実現」(P284)より

真の幸福の生活は、形の教会や寺院をつかむことではなく、
真のキリストの霊を受けることなのであった。

しかしキリストの霊を受けるためには如何にすべきか。

先ず精神を弛緩して浮世の煩労を捨てることである。
次に神に心を集中することである。

そして「我を無くならしめ給え」と祈ることである。

そして常に善き言葉を黙然し、
それを心の奥底に浸透せしめることである。

           <感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>

「わしが」 「わしが」 の心を捨てる - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:40:38


《「声」と「コトバ」》

       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

・・・

《傲(たか)ぶる心を捨てよ》

       *「光明法語」(11月16日の法語)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

無我直心 - 伝統

2016/11/17 (Thu) 03:38:44


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

         <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>

心柔和なる者 - 伝統

2016/11/19 (Sat) 03:18:30


       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

         <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである - 伝統

2016/11/28 (Mon) 04:39:22


          *「光明道中記」(11月28日)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>

自然は低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。 - 伝統

2016/11/29 (Tue) 03:38:03


          *「光明道中記」(11月29日)より

【生命は常に生きている。吾々の生命は進んで行く、停止はない。(『百事如意』)】


生きているものは温い。

あまり熱くても生命は死に、あまり冷たくても生命は隠れる。
激しすぎてもならないし、熱し過ぎてもならないし、
冷たすぎても、無頓着過ぎてもならないのである。

調和した温かさこそ必要である。
激せず、熱せず、冷たくもならず、程よく温かいところに生命は大きく顕れる。

天は高きを以て低きを埋める。
水は上より下を満たし、山は崩れて低地をうずめる。

自然は《ひとり》高からんとする者を崩して低く謙(へりく)れるものに与えんとするのである。
だから高からんことを願わずして、低きに与えんとするものは
却って天の道に護られて力が強いのである。

水は低きにつこうとするが故に力が強い。
水は柔かであるが故に力が強い。

水が若し硬ければ蒸気となって諸種の機関を動かすことが出来ない。
水が若し硬ければ滝となって降ることが出来ない。
水が若し硬ければ落差によって水力電気を起すことは出来ない。
水が若し硬ければ蒸気になって空中に飛び上がることは出来ない。

水の偉大さはその柔かさにあり、人間の偉大さも亦(また)柔かさにある。

          <感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>

《去私すなわち神》 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 03:38:04


        *光明法語<道の巻>(12月1日)より

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

《我(が)を捨て、神に波長を合わす》 - 伝統

2016/12/02 (Fri) 04:30:08


        *光明法語<道の巻>(12月2日)より

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

          <感謝合掌 平成28年12月2日 頓首再拝>

無我になる - 伝統

2016/12/09 (Fri) 04:06:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、
その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

《神の完全通路となれ》 - 伝統

2016/12/24 (Sat) 03:54:28


        *『 生長の家 』(昭和25年11月13日の法語)より

   「 ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ 」
   と金光教組は喝破された。

   それが焼け糞(くそ)の 「 どうなとなれ 」 では、
   此の世に悪が存在すると云う前提の下での 「 ままよ 」 であるから、
   それは寧(むし)ろ破壊的に働くのである。

   「 神の み心に全託しましょう。悪いように見えても、
   神の み心の中には悪は無いのであるから、
   神の みこころのままよ 」 と云う全託、自己抛棄(ほうき)のカ
   ラッポの気持になったとき、

   そのカラッポを完全通路として、神の生かす力が働いて来るのである。

   無我全託(むがでそのまままかせきり)は
   神の創造には決して悪はないという
   神への「 絶対信 」 からのみ来るのである。


            <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>

【きれいご免さあ】 - 伝統

2017/01/09 (Mon) 04:27:29


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年06月18日)」より

   (津本陽氏の心に響く言葉より…)

   薩摩兵児(さつまへこ)の士風は、
   「やっせんぼ」(役立たず)と言われるのを忌み、
   「ぼっけもん」(快男児)とあがめられるのを好む。

   また、「ぼっけもん」とともに、薩摩武士があこがれたのが
   「きれいご免さあ」の性格であるという。

   名誉も財産も、命にも執着がなく、いつでもそれを
   恬淡(てんたん)と捨てられる身ぎれいな男のことである。


   西郷隆盛も桐野(きりの)利秋も「ぼっけもん」であると同時に
   「きれいご免さあ」に生きた男であった。

   それが郷中に集まる青少年武士の死生観をかたちづくっている。


   徳川幕府に朝鮮通信使がきて、たずねた。

   「日本には目付役(警察官)のいない国があると聞いていますが、ほんとうでしょうか」

   幕臣は即座に答えた。

   「それは薩摩という国のことです」

   薩摩人は罪を犯したとき、
   役人がくるまえに自らを処分するのを、習慣としていたのである。


   イギリスは文久三年(1863)七月の薩英戦争ののち、薩摩と親交をかさねたが、
   維新後、日本が日清戦争、日露戦争で眠れる獅子と呼ばれた清国、
   世界最強といわれた陸軍と大艦隊を擁するロシアの二大強国に勝ったとき、
   大活躍をしたのが鹿児島出身の将軍たちであったのを見て、郷中教育を研究した。

   明治四十三年(1910)、ジョージ五世の戴冠式(たいかんしき)に出席した
   乃木(のぎ)大将は、ボーイスカウトの訓練を見学し、その勇壮なさまに関心して、
   創始者のベーデン・パウエル卿(きょう)に聞いた。

   パウエル卿は答えた。

   「これは貴国の健児(けんじ)の社(郷中)の教育制度を研究し、
   その長所をとってつくりあげました」

   幕末の鹿児島をおとずれたイギリス軍は、
   郷中教育の徹底した武士道養成の方針を、見逃していなかったのである。


   『西郷南洲(なんしゅう)遺訓講話』という本がある。

   講話をおこなったのは、旧福岡黒田藩士筒井亀策(かめさく)の子として生まれた
   頭山満(とうやまみつる)である。


   頭山満講話。

   「勝海舟は幕臣中の切れ者であったが、維新のまえに九州を遊歴したとき、
   まず熊本の横井小楠(しょうなん)をたずねた。

   当時横井の名声は非常なもので、勝と対談すると雄弁滔々(とうとう)として
   とどまるところを知らず、時勢、人物を論評してさかんにまくしたて、
   勝はおしまいまで一言も吐くことができなかった。

   学問、識見、弁舌のいずれも聞きしにまさる大先生であると、
   勝はほとんど感服してしまった。


   それから鹿児島へ下って、西郷南洲翁に会ってみると、
   横井とはまるで正反対で、自分から一口もきかず
   ただ勝のいうのを、ハアハアと聞くばかり。

   しかたないので、こんどは勝のほうが説法をする役回りになった。

   さすがに勝じゃ。

   これはとても段ちがいの人物だと覚(さと)って、
   説法をするのと、説法をされるのとでは千里の違いがある、
   とのちに人に語ったそうじゃ。

   ここになると天品と人品との相違じゃ」

        <『武士道』三笠書房>

             ・・・

西郷隆盛は『西郷南州遺訓』の中で、
幕臣、山岡鉄舟のことを評してこう語っている。


「徳川公は偉いお宝をお持ちだ。
山岡さんという人はどうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、
何分にも腑(ふ)の抜けた人でござる。

命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、といったような始末に困るひとですが、
あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて
共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。

本当に無我無私、大我大欲の人物とは山岡さんの如き人でしょう」


「きれいご免さあ」

とは、まさに、命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ、
といったような始末に困る人のこと。

こだわりのない無我無私の人。


才気煥発(かんぱつ)の人は、自らを語ってしまう。

しかし、茫洋(ぼうよう)として腑の抜けた人は、
ハアハアと言ってじっと黙って聞くことができる。


「きれいご免さあ」の人には、限りない魅力がある。

            <感謝合掌 平成29年1月9日 頓首再拝>

《最早吾生くるに非ず》 - 伝統

2017/01/26 (Thu) 04:56:17


          *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

            <感謝合掌 平成29年1月26日 頓首再拝>

「我(が)」は「本当の我(われ)」を縛るところの《自己限定》 - 伝統

2017/02/18 (Sat) 04:45:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる
悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。
「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、「本当の我(われ)」ではない。
それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

            <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>

本当の信仰は無我になることから始まる - 伝統

2017/03/09 (Thu) 03:57:59


           *「真理」第5巻女性篇(P67~)より

だいたい信仰というものは、
無我になって、ただひたすら神の心が実現することであります。

我(わ)が意を実現することではないのであって、
神の心を実現するというのが是本当の信仰生活であります。

そして、神の御心を本当に実現出来たならば、
神の御心の中には悪いものはないのだから、
現実世界はまた必ずよく行くのであります。


(中略)

本当の信仰は無我になることから始まるのでありますから、
無我と謂うのは握っているものを先ず捨てることなのです。

「私は斯うし《たい》」と思っている其の
「《たい》」を捨てればいいのであります。

「無我即神」と言った人もありますが、
「無我」のところに神があらわれるのであります。

            <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>

無我になって宇宙の中心真理に帰一 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 04:58:55


           *『無門關解釋』「はしがき」からの抜萃

派閥や党派で到る處に争ひが見られる現代に、この戦中に書いた序文は
頂門の一針のやうな気がするのである。

みんな野郎自大、「わしが」「わしが」で争っていて、
その争いが終熄しないのは、無我になって宇宙の中心真理に帰一しないからである。

しかし「真理」と称する抽象的なものに帰一しようとすると、
真理は肉眼には見えないから、自分の主観で勝手な主義を樹て理想を描き、
相衝突してまた停止するところを知らない。

そこで現実世界に宇宙の真理・実相が地上に天降つて顕現する必要があるのである。

それがキリストの説いた「御意の天に成るが如く地に成る」ことである。
その時その無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的顕現が地上に顕現しなければ
ならぬのである。

そのやうな人格者を地上に求めるとき、キリスト教ではキリストの再臨という形で
それを表現しようとしているし、佛教では弥勒下生といふ形でそれを表現しようとする。

しかし即今キリスト何処にありや、弥勒いずこにありや、
ただ理想として心に描くだけでは抽象概念に過ぎないのである。

私は無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的表現を抽象概念ではなく
具体的に生ける人格として天皇に於て見出さんとするものである。

それが真実であることは終戦時の天皇の絶対無私の愛の行蹟が
この世界を戦火の地獄から救い出した事実によつてテスティファイせられているのである。

            <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

無我になったら天地ひろびろ - 伝統

2017/04/19 (Wed) 03:44:26


        *『人間無病の原理』(P64~66)より

世界の争いの因(もと)は「わしが」「わしが」という自己中心の心であります。

(中略)

「わし」というものがなくなってしまったならば、
天地はひろびろとしたものであって、
何物も衝突するものもなければ摩擦するものもなくなる。

自分がなくなるのですから、天地宇宙と一体で、ふらっとしている  ――  
謂わば、風来坊ですね、それがその儘なんですよ。


(中略)

此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、「自分」 という 「我」 の塊が
あったら決して一つにはなれません。 
「自分」 という塊がとけてしまわなければならない。 

ミキサーにかけるように、「自分」 と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

・・・

(初出は、『光の泉』昭和34年4月号)

            <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>

果報は寝て待て - 伝統

2017/05/06 (Sat) 04:47:09


        *『人間無病の原理』(P67~69)より

「果報は寝て待て」と云う諺がありますがね、
「果報」というものは、原因に対して起こる結果としての報いであります。

悪い原因に対して起こる結果は悪い報いとしてあらわれて来ますが、
「果報は寝て待て」と云う場合の「果報」は”善い果報”であります。

”善い果報”を得るには、「我」のはからいで妄動してはならない。
心を鎮めて、そのままの動きにまかせよと云うのが「寝て待て」であります。


「我」がなくなり天地自然と一つになって、自然と眼が覚めて天然自然にあくびもして、
《ほっ》と”伸び”でもしたら、棚にコツンと、伸ばす手があたると、
自然と棚から《ぼたもち》が落ちてくるのであります。

それは「我」のはからいではなく、自然の動きであります。
「動き」がなければならない。「行動化」がなければならないが、
「我の心」の行動化ではなく、天地自然の動きにそのまま動くことが必要なのであります。

紛失物を探すのにも、我々がうろたえ騒いでさがし廻ると、なかなか見付からない
ものですけれども、そう云うときに落ち着いて、心を鎮めて神想観をして、
天地自然の智慧と一つになって、

《ふと》明けたくなって抽斗(ひきだし)を開いてみると、

「ああ、ここに探していた品物があった。不思議だな、さっきこの抽斗は
中の物をひっくり返して調べてみたのに、あの時はどうしても見付からななかった。
それなのに、神想観をしてから、《ふと》開くと《そこ》にあった」

というようなことがおこってくるのであります。


すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の知恵の中に溶け込まないで、
「我」の塊で運動しているから、うまくいかんのであります。

「祈り」又は「神想観」によって天地の智慧の中に没入し「我」と云うものが
無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

併し祈ったり「神想観」すると言っても、動かないで祈っておったらいい
というわけではありません。

祈り且つ神想観をすれば、心が整って、實相の智慧と一つになるのです。

實相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという内からなる
“催し”が自然と湧いてくるのです。

その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動するという所に
信仰が行動化して運動化し、そこに實相の完全さが、その行動を通して実現して来る
ということになるのであります。

            <感謝合掌 平成29年5月6日 頓首再拝>

無我 - 伝統

2017/05/09 (Tue) 04:40:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで
、第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

            <感謝合掌 平成29年5月9日 頓首再拝>

無我の生活 - 伝統

2017/05/23 (Tue) 03:58:41


          *「生活の智慧365章」(P15)より

人間の悩みの多くは、
他(た)の人の思惑を気にするところから出て来るのである。

”人が何(なん)とか思いはしないだろうか”とか、
”人が自分にケチをつけはしないだろうか”とか、
”他(た)の人に負けてはならない”とか、

大体、人間相手の虚栄心や競争心から起こって来るものなのである。

虚栄を去り、見栄を求めず、競争心を無くして唯(ただ)、
「神」を表現しようとしたときに、初めて其の人は
心の自由を得(う)るのである。

ただ「神」のみを対象として、神にのみ仕える気持ちで
他(ひと)に盡すならば、人間の毀誉褒貶(きよほうへん)などは
何ら意に介するところとならないのである。

そして唯(ただ)、自己の生活に「神」を実現することだけが
神のこの上なき悦びとなるのである。

そして唯(ただ)「与える」自分となるのである。

しかし「与える」という自負的な感じすら無くなってしまうのである。

無我、無私にして唯「神」のみがその人の生活に実現するようになるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月23日 頓首再拝>

捨我精進 - 伝統

2017/06/09 (Fri) 03:38:41


            *「光明道中記」(6月9日)より

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

            <感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>

「自分は本来ない」 - 伝統

2017/06/13 (Tue) 03:43:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして
喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と
不平に思う人は、そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在は
どこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、
神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから
神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。


どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。
「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。

「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」と
祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。
相手の心に「我(が)」を握らせておいて、神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝>

我は無い、神ばかりの世界である - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:47:17


       *「光明道中記」(6月15日)より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

            <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

自然に逆らっていけません - 伝統

2017/07/04 (Tue) 04:10:24


            *「女性の幸福365章」(P83)より

(前半略)

真に幸福になろうと思ったならば自然(しぜん)に逆らってはならない。
そのままの逆らいのない生活は、自然(しぜん)の波に乗る生活である。

自然(しぜん)の波に乗るためには「我(が)」を捨てなければならない。

良寛和尚が火災に逢って、まる焼けになった友人に送った手紙にあるように

「災難に遭う時節になれば災難に遭うが宜しく候、
病気になれば死ぬが宜しく候。
これが災難よけの妙法に御座候」

このような完全に自然(じねん)の心境からこそ
病気も本当に治るのである。

            <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

『私』のいのちを捨てる - 伝統

2017/07/31 (Mon) 03:36:21


          *『愛と光との生活』(P166)より

先ず小さい『私』を捨てて大きい『私』を得るのであります。

『いのちを捨つるものはいのちを得、いのちを得んとするものはいのちを失う』
と云うキリストの言葉がありますが、
いのちを捨つるものと云うその捨つる方のいのちは『私』のいのちであります。

そしてその『私』のいのちを捨てた結果得られる『いのち』なるものは、
もっと大きな個性を絶したところの、宇宙に繋がる大きないのちであります。

『本当の自分』と云うものは捨てれば捨てる程大きくなるのであります。
『本当の自分』と云うものは丁度穴見たいなものであります。
穴は削れば削るほどその大きさが殖えてまいります。

            <感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>

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