伝統板・第二

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「あなたはいつも健康である」 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 03:47:01

   *光明掲示板・第一「あなたは常に健康である (3205)」からの継続です。
      → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=626

《健康とは人間の自然の相(すがた)》

         *「光明道中記」(4月19日)より抜粋

若し不平を言うこと、呟くこと、憎むこと、人の欠点(あら)を探すこと、
尖った心を起すこと、人を遣(や)っつけたい感情を起すことを止(や)めなければ、
その人の病気は治らないであろうし、

また病気でない人も、かかる心持を持続する限り
「病気」の方向に向かって突進しつつあることを知らねばならぬ。

成功の秘訣がサービスにあることを知っている人は多いが、
健康の秘訣がサービスにあることを知らぬ人が多いのは、不思議なことである。

サービスは自分が働いて人を喜ばすことによって成立っている。

自分が働いて人を喜ばしたならば商売が繁昌するのは当然であるが、
その人の健康がよくなるのは、健康とは人間の自然の相(すがた)であるから、
人間が自然の道に乗れば健康になる。

            <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

細胞精神に呼びかけて健康に導く - 伝統

2016/04/28 (Thu) 03:37:44


         *『白鳩』誌 47年3月号より

肉体が不健康になる場合を考えて見ると、細胞の精神がなまけていて、
“神の叡智”の指令通りに活発に活動しない場合があるのである。

そのためには、その細胞精神に対して念じかけて、充分その細胞精神が目覚めて
完全なはたらきをするよう命令するのがよいのである。

『健全の真理』生活応用篇には、家族が病気になったような場合、
以上の原理を生活に応用して、直ちに彼らを健康に導く具体的方法が
次の如く述べられているのである。


(1)先ず患者を仰臥せしめて置いて、前額に掌を触れて、
   肉体の中枢精神に対して『病気の無』を思念し ―― とある。 

   それをもっと詳しく言えば、
   次の如き意味をあなたは患者に対して念ずるのがよいのである。

    
      『神はすべてのすべてである。
       神は善である、神はずべてのすべてであり、
       神は善であるから、一切の存在は悉く善である。

       一切の存在は善であるから
       悪しきものは決して存在しないのである。
 
       病気は悪しきものであるから、
       決して存在しないのである。
 
       病気が存在するかの如く見えるのは迷いである。
       汝、迷いより覚めよ。

       既に汝は迷いより覚めて
       今此処に完全健康なる自分自身を見るのである。』


患者の額に手を按して、その中枢精神に対して以上の思念を
20分間乃至30分間つづけると、どんなに苦しんでいる患者でも、
大抵は苦痛がやわらいで、スヤスヤと寝息をたてて眠りに落ちるものであるが、

その後も約30分間この思念をつづけると、
1回だけで、その病気が消滅してしまうことが多い。

 
家族の病気の際に、このような体験を重ねると、
病気というものが『心的』な現象であって『迷いの心』から起るものである
という信念が強くなり、真理に対して信仰が深くなるのであるから度々、
機会ある毎に実行するがよい。



しかし、これを他人に施す際には、手を相手の額や患部に触れないで念ずるがよい。
若し手を相手に触れて念ずれば、それは『手のひら療法』又は触手療法と誤解され、
相手の人は、この先生の手掌の霊気で病気が治ったと思って、

自分自身が『人間・神の子』であって、
その自覚が思念によって目覚めしめられて治ったのだという、
自覚(さとり)を得る妨害になるからである。

また“心”は互に通じ合うのだから、別に手を触れる必要はないのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24307459.html

            <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

永遠にすでに健康なのが人間の実相である - 伝統

2016/05/06 (Fri) 04:27:42


         *「生命の實相」第23巻常楽篇(P23~24)より

人間は神の子であるから本来病気は無いのであります。
だから生長の家の多くの信徒は、「神の子に病気は無い」と云う真理の霊感と共に、
自身も家族も共に病気が癒えたのであります。

その理由は、人間の本性なる生命は神より来れるものであり、
それ自身完全でなければならないからです。

そして人間の肉体なる物質はそれ自身生命なく、感覚なく、従って、それ自身痛むことも無く、
それ自身物質が移動して炎症を起こすことも出来ないものであるからであります。

だから、病気とは何であるかと言いますと、
ありうべからざるものを「有る」と信ずる妄信が形にあらわれたものであります。
妄信が原因であり、病気が結果であります。

本性を包み知らざること、即ち包み(罪)こそ病気の原因であり、症状は結果であります。

だから病気の時には狼狽(うろたえ)てはいけない。
心静かに、自分が肉体でないことを観ずるがよい。
肉体というものと自分というものとを分離して考えるとよい。
肉体を過去に自分が描いた絵画だと観ずるがよい。

痛いは痛いまま ―― それは自分が痛いのでない。
如実に痛い姿を自分の「念」の画筆が描いたのである。
描かねば、もう痛まない。

 ―― かく観じて、すでに痛んでる肉体より《心を放下し》一転して、
本来痛まない自己の実相を静かに観ぜよ。

 ―― かく実相を静観することは、過去の病念の画筆を抛(なげう)って
新たに健康の「念」の画筆をとって健全な肉体を描き上げることになるのであります。

            <感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>

疲れた時に元気を快復するには - 伝統

2016/05/13 (Fri) 04:18:01


        * 『白鳩』誌 昭和39年12月の箴言より

仕事に追いつめられて忙しく感じたことはありませんか。

あなたの周囲に片付かない色々の仕事が充満していて、
疲れ切ったと思うことはありませんか。


暫く目をつぶって宇宙に満つる神の無限の力を想いなさい。

次にその神の力に取巻かれている〃自分〃を想いなさい。
更につぎに、静かに息を吸いながら、その無限の神の力が自分の内に
流れ入りつつあると念じなさい。

そしてついに自分の内に無限の力が充満し、活気に充ち満ちていると念じなさい。
 
暫くこの通りに念じておられますと、疲れが消えて、気力が充満して来ることが感じられます。
そして再び仕事をつづけなさい。新しい元気で能率多く仕事がつづけられるようになります。


あなたが精神的な仕事をしていて疲れて来て、
もうこれ以上、よい考えが浮ばないというような時、
途方に暮れてどうしたらよいか分らないような時、
 
そのような時には、

静かに目を瞑って、全知全能なる神が宇宙に充ち満ちており、
且つ自分を取巻いている有様を心に描きなさい。

神の智慧は無限であり、
どんな問題でも解決する力があるのだということを憶い出しなさい。

自分は〃神の子〃であり、
その神の智慧を授かる資格があるのだということを想い出しなさい。

そしてその神の全知なる智慧を私は今吸い込むのだと思って、静かに息を吸いなさい。

そして「今この問題解決の智慧が流れ入りつつあるのだ」と念じなさい。

20分又は30分間それを繰返しお念じになれば、
自然にあなたの内から神の智慧が湧き出て来て、
新しいアイディアが想い浮んで来るに相違ありません。

そのアイディアを実行に移しなさい。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22343845.html

            <感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>

《健康を常に思い浮べよ》 - 伝統

2016/05/20 (Fri) 03:42:35


         *『生長の家』(昭和26年4月20日の法語)より

   健康になろうと思えば、健康の想念を起さなければならない。
   想念は想念する事物を作るからである。

   だから健康になりたい人がどうしたら この病気がなおるかと、
   「病気」のことばかり思い浮かべているのでは、
   その病気は なおりっこはないのである。

   よろしく病気を思う心を放ち去り、

   「 神の無限の癒(いや)す力流れ入って
   光が暗(やみ)を消しつつあるかの如(ごと)く
   愈々(いよいよ)益々(ますます)健康が増大しつつあるのだ 」 と念ぜよ。


   この思念を毎朝起床時 及び 就寝時に、眼を閉じ合掌して念ずるのである。

   重態にて起きられない人は 寝床の中で合掌しても好(よ)いのである。

   又、随時、疲労を感じたときに かく念ずると健康回復に絶大な効果がある。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12224992.html

            <感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統

2016/07/07 (Thu) 04:39:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月7日>(P10~12)より

健康を得んと欲するならば、自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。
神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、「神の生命」が自己の生命で
あると観じられるかぎりにおいて健康を失うことはありえないのである。

瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて光明燦然と輝いている有様を瞑視して、
それに精神を統一せよ。
漠然と「健康」と観ずるよりも、具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。

自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。

次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、神はこの眼を
通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが眼の視力は増大
するのである。

神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく『耳よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、神はこの耳を通して大自然および神の子たる
人間の音楽のいかに美しきかを鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙で
あっていかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。

神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜にプラナを流れ入らしめたまいて、これらを
祝福して言い給う『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として具象化したまいしもので
あるから霊的実在であるのである。だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものでは
ないのである。自分はこの内臓が病菌に侵されるというような人類の共通観念を今かなぐり
捨てたのである。神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。

神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う『心臓よ、健やかであれ』と。
すなわちかくなりぬ。わが心臓は神の霊の具体化であるのである。
だからわれは神がすべての人を愛したまうごとくわれもまたすべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」

このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して現実的に一つひとつの
身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、神のプラナを吸い込むような
気持ちで呼吸をそれに合致せしめるといっそうよいのである。

           <感謝合掌 平成28年7月7日 頓首再拝>

全身は霊的エネルギーの層である。 - 伝統

2016/07/09 (Sat) 03:28:43


          *「光明法語」(7月9日)より

ロックフェラー研究所の外科医長故アレキシス・カレル博士は言っている。

「吾々の意識のすべての状態は脳髄の化学的変化に相互連関をもっている。
脳髄は全身に相互連関をもち、吾等の全身は恰(あたか)も心的及び霊的エネルギーの
層をなしているのである。意識のすべての状態は人体に一定の化学的又は生理的状態を
引起こす。

されば人間は或る動作によって自分の肉体を調整し得ると同様に、
瞑想により心を整えることによっても肉体を調整し得るのである。」

是が凡(あら)ゆる方面から人間の肉体を解剖した世界一の大医の言である。

           <感謝合掌 平成28年7月9日 頓首再拝>

《心を空っぽにして 「 健康 」 の念を注入せよ》 - 伝統

2016/07/24 (Sun) 04:49:42


          *『 生長の家 』(昭和26年6月1日の法語)より

   一度 器(うつわ)を空っぽにしてしまわなければ
   新しい酒は入れることができない。

   病気を心の中にしっかりと把握している限りに於いて、
   健康の観念をつぎ込むことは出来ない。

   病気を治すには第一 病気の観念を捨ててしまわなければならない。
   病気をわすれると云うことである。

   病気を治そうとあせっているものの病気が治らないのはそのためである。
   吾々は不調和を心から捨てなければ調和を得ることは出来ない。

   心に病気を描くこと、
   死を描くこと、
   恐怖すること、

   人を憎むこと、
   争うこと、
   悲しむこと、

   嫉妬(しっと)すること、
   猜疑(さいぎ)すること、

   すべて心の不調和である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127


            <感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>

「自分は健康だ」との観念を徹底させる - 伝統

2016/08/07 (Sun) 04:45:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月7日>(P43)より

健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。

いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、それと相撲をとっているからである。

「病気はない」は真理であり実相であるから、その健康なる実相を招(よ)び出そうと
しながら、「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。

「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。

ではその方法はいかん?

それは、すでに自分は健康である、完全に創造されているとの前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。

「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。

すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。

その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。

最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」の言葉を
できるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、その実感が徹底するまで
繰り返すがよいのである。

              <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

《常に自己を霊的実在なりと観ぜよ》 - 伝統

2016/08/18 (Thu) 04:20:09


          *『 生長の家 』(昭和26年6月3日の法語)より

   常に自己を霊的実在だと信じている者には病気はないのである。

   ただ吾々には日常生活中 五官の目で見る場合
   どうしても自己やすべての存在を霊的存在だと見得ないで
   物質的な固まりであると見る場合が多い。

   そのため いつの間にか自分自身を
   黴菌(ばいきん)に冒されるものと見る。
   不完全なものだと見る。

   その「 観(み)る心の相(すがた)」(即ち観念)が
   空間的に影をうつして、病気とあらわれて来るのである。

   従って 吾らが本当に常住健康の生活を送るためには、
   自己を物質と見る五官の眼(め)を瞑(と)じて、
   自己の全身を霊的実在であると観ずる神想観の如(ごと)き修行を
   一日一回以上修することが必要である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

              <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>

精神活動の統一と健康 - 伝統

2016/08/27 (Sat) 04:37:23


          *「光明法語」(8月27日)より

人間が健康になるには喜んで働く事である。

「自分の活動を正確に目的の方向に向ける時吾々の心理的・生理的機能は、
最も完全に調和を来たすのである」

とアレキシス・カレル博士も言っている。

又博士は

「精神活動の統一は、内臓や神経機能のより以上の調和を齎(もたら)すものである」

とも言う。

病床にいて仕事もなく、あれを考え、これを憂え、
精神活動に何の統一も集中も無なく ただ病気の悪くなる事のみを心に描いて
心配している様な生活が病気に悪いのは勿論である。

              <感謝合掌 平成28年8月27日 頓首再拝>

《貴方(あなた)は健康なのが本当だ》 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:37:46


          *『 生長の家 』(昭和26年6月25日の法語)より

   神があなたの生命である。
   あなたは生きている限りに於いて「 生命 」である。

   「 生命 」は「 生命 」より生まれる。
   その生命の本源は「 大生命 」である。

   だから貴方の生命は「 神 」である。
   そのほかにあなたの生命はあり得ないのである。

   しからば貴方の生命は健康であるほかはないのである。

   それだのに貴方の生命が若し不健康をあらわすならば、
   それは、あなたが折角(せっかく)、神から頂いた「 生命 」を
   「 大生命 」から孤立させてしまっているからである。

   「 大生命 」に再び接触せよ、
   而(しか)して大生命の働きに自己をゆだねるとき、
   大生命の生かす力が滔々(とうとう)と流れ入って
   いと速やかに恢復(かいふく)するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127


              <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

健康のためには心を平和に - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:44:10


         *『幸福を招く365章』第3項(P55) より     

健康を欲する者は心を平静にしなければならぬ。
吾々の神経系統及び血液循環系統、消火器系統、呼吸器系統などは、
心によって著しく影響を蒙るものである。

一寸(ちょっと)びっくりすれば心臓がドキドキし、
呼吸(いき)がはずむのを考えても、
精神作用が心臓や肺臓に影響することは明らかである。

心配したときには食事が美味(おいし)くないのは、
心が消化力に影響する証拠である。

だから何事か驚くべき恐怖すべきことが起って来たときには、
その問題を自分で何とかしようと思って焦るよりは、
祈りによって、その問題を神にあずけて、心を平和にし、
其処から思いだされて来ることを正しいと信じて、実行すれば好いのである。

              <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

無限の健康調和 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 06:26:38


        *「光明法語(10月2日)」より

各々の細胞がその個性を発揮しながら完全なる協力を遂げているとき
人体の健康は最も完全に実現するのである。

完全なる協力は 「本来一」 の自覚より生ずる。
人間の健康も先ず人間同士が完全に 「一」 である自覚をもって互いに相結ばれ、
人間相互にその感情が調和している時にのみ真に実現し得るのである。

人間同士の感情が争っているときには、肉体は心の影であるから、
心の乱れている限り真に無限の健康は発揮されようはないのである。
汝ら互いに調和せよ。

              <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

健康は、吾は「霊なる完体なり」の自覚から生まれる - 伝統

2016/10/03 (Mon) 03:56:55


        *「光明法語(10月3日)」より

完全なる健康の裏には「完全」なる調和の念がなければならないのである。

先ず肉体は「物質」であるとの念を捨てよ。

物質は結局バラバラのものであって互いに漠然とした一体の自覚なきものであるから、
吾々の肉体が物質で出来ているものだとの考えが吾々の心を占めている限り、
自己の肉体はバラバラのものであると云う念を抱いていることになるから、
その念があらわれて完全なる健康は得がたい。

完全なる健康は、吾は「霊なる完体なり」の自覚から生まれるのである。

              <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

肉体健康の秘訣 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 03:31:23


        *「光明法語(10月4日)」より

肉体を健康ならしめるためには、肉体を愛しなければならない。
肉体を霊の敵であると憎んでいる限りに於いて、
その肉体は健康になる事は出来ない。

肉体を「霊の完全なる表現」であると信じ、それを愛し敬しなければならない。

肉体を醜いものと考えてはならないし、
それを神の人間理想の最高権限であると見なければならない。

常に神想観する時に「吾が肉体は神の最高美の理想的顕現である」と念ぜよ。
而(しか)して病気を見る勿(なか)れ、病気を想念する勿れ。

              <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

健康美を讃賞せよ - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:33:08


        *「光明法語(10月5日)」より

健康美の発現を悦べ。

それが体操であれ、スポーツであれ、舞踊であれ、
健康美の表現されているものを素直に悦ぶ心がなければ、
ただの健康は得られても健康美ある肉体の美しさは得られないのである。

何でも愉快に体操でもスポーツでも舞踊でも、
健康の美の発現を実際に喜んで実践するとき健康美はあらわれる。

何でもそれを讃えてやり賞(ほ)めてやり喜んでやったならば、
それは益々発達しその完全なる姿を現すのだ。

肉体美もその通りである。
肉体を軽蔑してはならぬ。

              <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

肉体を憎む勿れ - 伝統

2016/10/06 (Thu) 04:40:28


        *「光明法語(10月6日)」より

肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。

肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

              <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

《健康の念をつかめば健康となる》 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 04:54:28


        *『幸福を招く365章』第9項(P182) より

「今私は完(まった)き健康である」と念ずるとき、その時既にあなたは健康なのである。
健康とか不健康とか云うのは心的体験であって、心が無くなったり、
死骸になったりすると、もうそれは健康でも病気でもない。

あなたが若し「今私は完(まった)き健康である」と念じつづけることが出来るならば、
あなたの心的体験としては既にあなたは健康なのである。

そして理念は物質に先立ち、精神は肉体的組織を変化するから、結局、肉体までも
本当に健康になってしまうのである。

「病気」を心につかんでいて、病気をなくしようと思うのは、
火をつかんでいて火傷をしまいと思うのと同じである。
病気を心から放ち、健康をつかむことだ。

完全なる健康は、完全なる心の平和から来るのである。
完全なる心の平和は、神を信じ、神の愛と護りとを信ずることのみによって得られるのである。

吾々が神経過敏に反応し少しの出来事にビクビクし、不安や恐怖に襲われるのは、
神の愛と護りを本当に信じていないからである。

そして不安や恐怖でビクビクしながら物事に反応していたのでは
適当に物事を処置すべき、よき智慧は湧いて来ないのである。
従って恐れた通りに良くない事件が発生して来るのである。

若し何かの出来事で心が動揺しそうになって来たら、
「われは神の子である。常に神に護られているから何事も私を害する事は出来ない」
と念ぜよ。


              <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

<明るい楽しい想念は健康を構成する> - 伝統

2016/11/02 (Wed) 03:42:25


         *『善き人生の創造』第二章(P45~47)より

吾々の肉体細胞が、或る想念感情の「磁気的流れ」によって
実に急激に新しい成分を造り出すと云うことは、悲しくなればその瞬間に涙が流れ、
酸っぱい物を見ればその瞬間に、唾液が沢山分泌されるのでも明らかであります。

吾々は必ずしも「唾液」とは思わなくとも唾液が分泌せられるのであり、
「涙」と思わなくとも涙が分泌せられることに注意しなければならないのであります。

美味しいもの、快きものを思い浮かべると唾液が多く分泌せられるのでありまして、
美人を見て恍惚としても涎(よだれ)が出るのであります。

これを支那では「垂涎(すいぜん)三尺」と大袈裟に形容しましたが、
これさえも決して誇張とは言い得ないのであります。

悲しきもの、辛いものを思い浮べますと、
「涙」と思わなくなくとも「涙」が流れてくるのであります。

心で思うことが病気に現れると申しますと、
「私は決して『病気』などと思った事もないのに病気になった」と
云う人があるかも知れませんけれども、

それは悲しいことやつらいことを思えば、「涙」が流れて来るように、
「病気」を心に思わなくとも、心に不快なことを想った想いが具象化して
「病気」と現れて来たのであります。


だから健康になるための根本的法則は、不快なこと、酷いこと、腹の立つこと、悲しいこと、
その他何事でも快からざる想念感情を連想的にでも惹起(ひきおこ)すようなものを
考えないことであります。

だから、病気のことを考えるのも、よくありません。

「病気を治したい、治したい」と思いながら祈ったり、思念したりするのは
効果が薄いのはこの理由によるのでありまして、病気は、
「病気を忘れてしまった時に治る」と云われているのもそのためであります。


吾々は肉体の状態に応じて、どのように生理作用を改造して行けばよいかを知りつくしてから、
それが「あるべき正しき状態」を心に想念して、新細胞が造構せられる過程を指導しなければ
ならぬと云うことはないのであります。

「美味しい食物」を考えるだけで、胃腸の事は全然考えなくとも、よき胃液が出ます。

その様に心に描くことが具象化するのでありますから、
吾々は、美しきこと、楽しきこと、美味しきこと、愛に満たされていること、
すべて円満完全な状態のみを、「既にあるが如く」心に描くようにすればよいのであります。

そうすると、如何なる成分が如何に結合して、如何なる成分が造られ、
如何なる細胞が形成せられるか ――
そんなことを吾々の現在意識は知る必要はないのであります。

吾々の《内に宿りたまう》「宇宙の叡智」がその過程も、方法も、成分の混合割合も、
新細胞の設計も知っていられるのであります。

吾々の内臓を動かしている「内臓の心」は
実は「宇宙の叡智」が内臓に於いて現れているのであります。

吾が心に不快な思いを抱いてその「宇宙の叡智」の磁場を撹乱しさえせねば、
「宇宙の叡智」の磁力的流れの中に一切の養分が置かれて、
その指導するまにまに健全なる新細胞を構成してくれるのであります。

・・・

<関連Web:『善き人生の創造』第二章
       → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15388555 >
  
              <感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>

霊は健康で迷わざるものである - 伝統

2016/11/12 (Sat) 04:22:08


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月12日)より

霊的自己 ―― 迷わぬ自己 ―― ただ一つ ―― 二つは無い。
迷っている自己、病んでいる自己、そんなのもは無い。
自己は二つない。一つきり。

健康な自己だけ。そのほかの自己を神は創(つく)らない。

霊は健康で迷わざるものである。

         <感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>

<潜在意識の希望の実現が病気を作る> - 伝統

2016/11/27 (Sun) 04:47:37


         *『善き人生の創造』第二章(P48~50)より


この世の中に、そして自分自身の関係あるところに、何物と雖(いえど)も、
自分の想念感情と全然無関係なものは生じて来ないのであります。

すべて自分の想念感情に類するタイプのもののみが形に現われて来るのであります。

想念感情が「唾液」を思わなくとも、「梅干」お想うだけで唾液が出るのは
「梅干」と「唾液」とは潜在意識の世界で或る連関をもっているからであります。

それは梅干の酸を中和せんがために潜在意識が、
アルカリ性の唾液を分泌せしめるのであります。
これは潜在意識が、梅干に対して正しき連関をもって働いたのであります。

潜在意識が「宇宙の太霊」(神の叡智)そのままを歪めないで
神意(みこころ)通りに働いた時には、それは健康を肉体の上に創造するのであります。

けれども、もしその潜在意識が、現在意識から「憎み」その他の悪感情を印象され、
「宇宙の心」(神)そのままに働かず歪めて働いた時には、
不健康となって現れてくるのであります。


フレデリック・W・ベイルズ氏はその著書の中で
次のような実例を挙げているのであります。

或る時、ベイルズ氏の許へ一人の激痛で苦しむ関節炎の患者が来たのであります。
病気は心で生ずるのだとベイルズ氏が話しますと、
「自分は関節炎のことなど心に思った事も無いのに関節炎になったのだから、
心で病気が起ると云う事は承服し難いことだ」と言いました。

ところが色々家庭の事情をきいて見ているうちに次のような事が分りました。
彼は同じ町の一哩も隔たっているっているところに住んでいる義妹夫婦を憎んでいたのです。

憎んでいたににも拘わらず、彼の妻は自分の妹夫婦のところへ
毎日曜の午後には一緒に歩いて往って訪問せよと云ってききませんでした。

彼は憎んでいる義妹夫婦を訪問したくはなかったのでありますが、
彼の妻が非常に押しの強い女性であって夫にどうしてもその訪問を強制するので、
彼は毎日曜日に嫌々ながら訪問する事にしていました。

自動車は持っていないので、一哩の道を、憎んでいる相手を訪問するのは
何としても快いことでありませんでした。

そこで12年間も続いていた抑圧された内部精神の葛藤と、妻に対する憤激の感情と、
それに加うるに何とか訪問しなくて済む口実を設けたいと云う希望が潜在意識に印象され、
それが、「宇宙の太霊」の正しい健康をもたらす生理作用を歪めて、

遂に関節リュウマチスを惹起し、
義妹夫婦を訪問しないで好い条件を作ったものだとわかりました。

かくて遂に彼は歩行不能となり、毎週の訪問は避けられましたが、
現在意識では関節炎の苦痛を逃れたくて、凡ゆる種類の治療法を試み、
虫歯の抜歯をやってみたり、扁桃腺の切除を試みたりしたが、
何等効果がなかったものであります。

ベイルズ氏はこの患者の潜在意識を分析して、義妹夫婦と和解するように誘導し、
心の生活態度を調和した姿に誘導した結果、2ヶ月のうちに全治してしまった
とベイルズ氏は書いているのであります。

・・・

<関連Web:『善き人生の創造』第二章
       → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15388555 >
  
              <感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>

《物質に健不健はない》 - 伝統

2016/12/13 (Tue) 03:52:38


         *『幸福を招く365章』第12項(P247~248) より

健康と云うのは物質の問題ではない。
物質には物理化学的性質があるだけあって、健不健はないのである。
肉体は物質であるから肉体に健不健はないのである。

肉体の状態を色々気にしている者があるが、健不健は 「 心 」 にあるのである。
吾々は五官の證明(しょうめい)を信じて、「此処(ここ)に病気あり」などと
考えてはならないのである。

人間は霊的実在であって「神より出でたる光」であるから、
物質の法則によって冒されるものではないのである。

自然科学の法則は人間に益するように利用することは出来るが、
人間を害するようには作用することが出来ないのである。

唯(ただ)、人間を物質的肉体だと云う群衆意識で自己暗示に陥って
物質の法則に害されるのである。


(初出~「生長の家(昭和25年10月13日))

              <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

《汝(なんじ)の肉体を讃美せよ》 - 伝統

2016/12/28 (Wed) 04:59:15


         *「生長の家」(昭和26年7月4日の法語)より

   あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
   肉体に小言(こごと)を云っては ならないのである。

   肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃(たた)え、
   肉体の健康を祝福しなければならないのである。

   こんな不健康な肉体を讃美し祝福することが出来ようと
   思う人があるかも知れないけれども、
   あなたの肉体の何処(どこ)かは健康であるであろう。

   肺のわるい人も 眼(め)は見えるであろう 耳は聞えるであろう。
   手足は健全であるであろう。

   然(しか)らば 何故、その眼を、耳を、手足を
   讃美し、祝福し、それに感謝しないのであろうか。

   真に神の恵みに感謝したとき、その肺も治るであろうに。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/80ce80b21afdac0966776c2b7e2d50be

              <感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>

《自然の賜(たまもの)を大切にせよ》 - 伝統

2017/01/14 (Sat) 04:42:16


          *『 生長の家 』(昭和24年9月14日の法語)より

   無知は最大の罪悪である。
   吾々は健康の法則を知ることが必要である。

   人間は 自己の中に 鉱物性なるもの、植物性なるもの、動物性なるもの、
   及び人間的なるもの、及び神的なるものを包容しているのであるから、
   その各々の法則を無視してはならないのである。

   自然界の法則を厳重に守ることは
   吾々が自然に対して値を払うことである。

   まず食物はもっとも自然に近いものが
   保健上有用なる成分を含有するのである。

   余り調理しすぎたものは 自然の与えた養分を
   概(おおむ)ね 捨て去っているから健康のためによくないのである。

   人間が短命であるのは 余り味覚にとらわれて
   自然のままの賜(たまもの)を破壊してしまうからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

              <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

常に健康であるための言葉 - 伝統

2017/01/31 (Tue) 04:52:47


          *『生長の家』(昭和42年9月臨時増刊号)より

人間には〃神の生命〃が宿っており、
神の生命があなたにおいて自己実現しているのであるから、
あなたも、あなたの家族も、健康なのが当然であるのである。

家族の誰かに病気があらわれているならば、
〃神の生命〃が実現するための出口〈または通路〉をふさいでいるからである。

夫婦喧嘩、親不孝、家族たがいの憎しみ、いきどおり、悲しみ、不安、恐怖、沈うつ、
その他陰気くさい考えや感情は、神の明るい生命に対して波長が合わないから、
神の生命の完全な顕現をさまたげることになるのである。

夫婦たがいに仲良くし、親に対して恩返しの心の起し、
家族全体が調和した心の状態になることが、家族全体を健康にする道であるのである。

子供の病気は概ね、親夫婦の心の不調和が反映して起るのであるから、
子供が病気になったときに夫婦互に反省して、とくに感情を調和するように
心掛けねばならないのである。

子供が喧嘩好きで神経がたかぶっているようなときには、
その家庭内の大人に何か不調和な精神波動があるものである。

良人と妻の間、姑と嫁の間、嫁と小姑の間などに争いの感情や、反感がないか
を考えて見て、それを是正するようにすると直るものである。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/21925020.html より転写)

              <感謝合掌 平成29年1月31日 頓首再拝>

健康増進の日 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 04:55:03


           *「光明道中記」(2月2日)より

【食事にうんと歓びのお菜を附けて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養に変わる
                            (『生命の實相』第八巻)】

戦前であったが、自殺して死んだ医学博士で羽太鋭治(はだえいじ)と云う人があった。
その人が若返り法の本を書いたことがある。
その本の中に肥えたい人の食事法と、痩せたい人の食事法とが書いてあった。

痩せたい人は畳の上に盆を置いて、低い位置に料理を置いて身体を屈み加減にし、
消化器を圧迫しながら、出切るだけ憂鬱な気持で食べるのである。
そうすると必ず痩せると言う。

肥えたい人はその反対をするのである。
腹を伸ばしてゆっくりと高い加減の食卓に坐し、天井に「アハハハハ」と大きく書いた紙を
貼り附けて置いて、食事をしながら、天井を仰ぎ見て、「アハハハハ」と時々笑うのである。

笑えば心が開く。
心が開けば血液の循環がよくなる。
消化器の分泌が豊富になり、粗食からでも豊富な栄養を吸収することが出来るようになる。

併し肥えるということは必ずしも健康の理想ではない。
或る人は痩せているがために他の内臓の能力(キャパシテー)と平衡を得て健康を得ている。

健康とは要するに全体の調和を意味する。
心臓や腎臓の能力(キャパシテー)の小さな人には筋肉の増大は返って負担となる。

              <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

仕事が安静健康法になる - 伝統

2017/02/13 (Mon) 04:46:38



《仕事をするのが安静療法である》

         *『 生長の家 』(昭和26年4月24日の法語)より

   アセルこと、イライラすること、イソグこと、アワテルことなどは
   「 心 」 の安静とは反対であるから
   病気を惹起(ひきおこ)す原因となるのである。

   仕事は急がず着々とやるべきである。

   急ぐなと言えばなまけることだと考えている人があるかも知れぬが、
   なまけるのは生命の停滞であるから却って病気の原因となる。

   着々と楽しく仕事を悦びながら 急ぐことなく、アセルことなく、
   イライラすることなく、感謝しながら仕事をなせば、
   仕事そのものが却って安静健康法となるのである。

   安静療法、安静療法ととなえながら、
   身体を楽にしているので暇があり過ぎて
   「 病気 」のことばかり心配しているのでは安静にはならない。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12237754.html

            <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

気持ちが変わるとからだが変わる - 伝統

2017/02/26 (Sun) 04:19:23

      *「笑って長生き 笑いと長寿の健康科学」昇幹夫・著(P101~102)より

WHO(世界保健機構)は健康の定義として、
「肉体的、精神的、社会的健康、スピリチュアルな健康」と提唱しています。

スピリットは魂、その形容詞のスピリチュアル、霊的健康。

人間の一番奥には魂(スピリット)があり、
その外にマインド(気持ち・こころ)があり、
一番外側にからだ(ボディ)があります。

からだはそのむかし、空陀(からだ)とか空魂(からだま)と書いたそうです。

そして、そのからだの修理ばかりしているのが西洋医学、
それができないときは臓器を取り替える、
その臓器移植が医学の進歩と称するものです。


でも人間、気持ちが変わるとからだは変わります。

その昔、江戸時代に『養生訓』を書いた貝原益軒は、
その著書の中で「心はからだの主人」なり」ということを書いています。
みんな気がついたところは同じなんですね。

名古屋の故きんさん・ぎんさんも百歳から若返りました。

人は気持ち次第です。


病気という字は「気が病む」と書きます。
ガン検診の結果が悪かったということを聞いたとたん、
腰が抜けて坐り込んでしまうのもまさにこれです。

聞く前と聞いた後で、何かからだが変わりましたか?

からだは同じで、気が病んだのです。

そこで気がつきました。

魂の打ち震えるほどの感動、これがスピリチュアルなんだ。
無理して翻訳することはないんだ。

認知症の最初の症状は物忘れではありません。
感動がなくなることです。
ですから、若くても、無感動・無関心といわれて認知症みたいな青年もいます。

(中略)

感動する心はお花のようにたえず水をやらなければ枯れてしまいます。

だから、いつもわくわく、ドキドキ、これが大事です。

            <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

《明るい心象のみ描きましょう》 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 04:55:36


          *『幸福を招く365章』第1項(P22~23) より

光明思念によって病気を癒しまたは逆境を順境になおす方法は、
現象は病気であっても

「汝は神の子であって病気はない。逆境はない」

と強く想像して、心に「健康にして幸福」なる状態の心象を描くこと
によって成り立っているのである。

即ちすでに病気であっても、「健康」の想念をある時間持続することによって
健康になるのであるから、その逆もあり得るのである。

すでに健康であっても「病気になりはしないか」
「病気」を心に描くことによって病気があらわれてくるのである。

諸賢に告ぐ、此の新年から、
唯(ただ)、明るい心象のみ、「健康」の想念のみを描きましょう。

            <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

人間を物質だと思うな - 伝統

2017/03/21 (Tue) 03:30:12


           *「光明法語」(3月21日)より

人間を物質だと思っている
 ―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。

物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。

人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。

            <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

《苦痛は人間が苦しむのではない》 - 伝統

2017/04/07 (Fri) 06:16:57


         *『 生長の家 』(昭和25年9月14日の法語)より

   眼鏡(めがね)が毀れたので、
   人がその眼鏡を使わなくなったらもうその人間は
   死んだのだと考えたら間違である。

   眼鏡が毀れた後も人間は生きている。

   その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、
   「 人間 」 の道具である肉体の故障を告知して、
   その修繕作業を内部からも外部からも
   営(いとな)ましめるための信号なのである。

   人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。

   若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じが
   なかったならば、吾にはどんなに出血していても
   手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に
   帰してしまうのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

            <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>

元気充満の日 - 伝統

2017/04/16 (Sun) 03:32:23


           *「光明道中記」(4月16日)より

【「心が」或る一つの「迷い念」に引っかかって生命本然の自由性を失うところに、
 その「心の影」そして色々の病気があらわれる。(『光明の健康法』)】

不健康とは自然を失った状態である。
健康なのが人間の自然であるから、自然になりさえしたならば、
健康は自然に顕れるのである。

それと同じく、人間の成功も、幸福も、自然なのであるから、
人間が自然になりさえしたならば成功も幸福も自然にあらわれるのである。

健康や、幸福や、成功を何か異常な出来事であるかのように求める心が
間違っているのである。
此の間違った思想の中に誰でも生活している限り於いて
その人は本当に幸福にも健康にもなれる訳ではない。

吾々は人生観を根本的に置き換えなければならないのである。
人間は「神の子」であるから本来幸福に健康に成功するように
最初から定(き)まっているものなのである。

それなのに幸福と健康と成功とを何か特別な少数者だけのもののように、
それが異常な出来事のように考えているから、その考えが具象化して、
それが何か異常な出来事のように、少数者にしか実現しないのである。

吾々の健康の秘訣は、幸福の秘訣は、成功の秘訣は、
健康が、幸福が、成功が常に吾々を追い廻しているということを自覚するにある。

            <感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝>

相倶(あいとも)に扶(たす)くる日 - 伝統

2017/04/19 (Wed) 03:41:16


           *「光明道中記」(4月19日)より

【僕は何でも、過去のことは《過去として》それで善かったと思っています。
 過去は過去だ、後悔したりするのは嫌です。(『百事如意』)】

呟(つぶ)くこと、人の悪い噂をすること、不景気の話をすること、
詰まらない話をすること
―― こんなことに時間を費やしている限り、あなたの事業は衰退する。

そんな事をする暇に光明思想の本を常に携帯していて、
それを読んで心を光明に転向すれば、事業も亦(また)光明に転向する。

健康にしても矢張りそうである。

若し不平を言うこと、呟くこと、憎むこと、人の欠点(あら)を探すこと、
尖った心を起すこと、人を遣(や)っつけたい感情を起すことを止(や)めなければ、
その人の病気は治らないであろうし、

また病気でない人も、かかる心持を持続する限り
「病気」の方向に向かって突進しつつあることを知らねばならぬ。

成功の秘訣がサービスにあることを知っている人は多いが、
健康の秘訣がサービスにあることを知らぬ人が多いのは、不思議なことである。

サービスは自分が働いて人を喜ばすことによって成立っている。

自分が働いて人を喜ばしたならば商売が繁昌するのは当然であるが、
その人の健康がよくなるのは、健康とは人間の自然の相(すがた)であるから、
人間が自然の道に乗れば健康になる。

            <感謝合掌 平成29年4月19日 頓首再拝>

《今、自分は強いのである》 - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:32:33


         *『生長の家』(昭和24年11月21日の法語)より

   神は自分の肉体及び精神のすべての力の根源である。
   神が根源であるから 決して自分は弱いということは
   あり得ないのである。

   神の無限に強力なる力が自分を常に強力ならしめ健康ならしめ、
   永遠に疲労せしめ給うことはない。

   自分は今日、肉体的にも精神的にも
   自分自身の力が有限であるという考えを
   捨てたのである。

   今 自分は無限の力がある。
   ここに無限の富がある。
   ここに無限の能力がある。

   「 ここに 」 というのは 自分自身の実相のことである。

   今ここに自分は 無限の健康なのである。
   無限に調和しているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

《自分は霊体である》 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 03:38:43


           *『生長の家』(昭和24年11月28日の法語)より

   自分の体は肉体のように見えても、肉体ではないのである。
   自分は霊体である。

   自分の細胞の一つ一つは
   生ける神の生命のエネルギーの実現であるのである。

   それは生命のエネルギーであって、物質ではないのである。

   されば わが肉体は物質の法則に支配せられず、
   物質の法則を駆使して、
   神御自身の理念の姿にそれを造りあげるのである。

   神の知慧が 常に自分の肉体の全細胞を統一的に支配しているから、
   吾が肉体に不調和なることが起ることは決してないのである。

   不調和は 唯 自分の心の持ち方が混乱した時
   これが影をうつすにすぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

あなたは常に健康である - 伝統

2017/05/31 (Wed) 04:51:20

        *「生活の智慧365章」(P269)より

瞑想又は神想観によって霊的直観力を発達させることによって、
あなたは人間の神聖性を知ることが出来るようになります。

人間は肉体によって互いに孤立している存在でもなく、肉体が死〇ば、
個人の霊は宇宙の大海に没し去って「何もなくなる」と云うような存在でもありません。

    *〇:ね

個々人、ひとりひとりの霊が、神の各々異る理念の表現でありますから、
それは普遍と一体でありながら、「個」として永遠に存続するのであります。
個にして全、全にして個、此の不可思議にして広大無辺な存在が人間なのです。

先ず神の完全さとその無限の力とを信じなさい。
その無限の力にて、その「完全」さを最高度に表現すべくつくられたのが、
「人間」なのです。

一度神が「完全」につくったところの人間が不完全に変化すると云うことは
あり得ないのです。だから貴方は完全であり健康なのです。

            <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>

神は人間を健康に造った - 伝統

2017/06/18 (Sun) 05:01:56


          *『生活の智慧365章』(P284~285)より

「創世記」には「神その造りたるすべてのものを見給(みたま)いけるに甚だ善かりき」と
書かれているし「神の像(かたち)の如く人を造り」とも録(しる)されているのである。

神がその完全なる自己の像に肖(に)せて人間を造った以上、
人間は完全で善であり健康であるほかはないのである。

そして神は、その創造せる一切のものを点検して
「甚だ善かりき」と言明していられるのである。

何人(なんぴと)の力をもってしても、如何なる力をもってしても、
《神が完全に造ったものを不完全に、不健康に変じ得ることはできないのである。》

従って人間が病気になった如く見えているのは
一種の妄想又は幻覚があらわれているに過ぎないのである。

私たちは、病気や症状の幻覚を見て、その病気を実在だと思ってはならない。

どこどこまでも神の善と愛と智慧と完全さと、その力とを信じ、その神よりつくられた
ところの存在が本当に完全なものであることを信じなければならない。

従って人間の完全さ健全さを信じなければならない。
それこそが真に神を信ずると言うものなのである。

            <感謝合掌 平成29年6月18日 頓首再拝>

人を憎んでいては、健康は期待できない - 伝統

2017/07/11 (Tue) 04:39:38


         *「光明法語」(7月10日~11日)より

《憎む心を捨てよ》

憎みの感情は血液内に毒素を生ずる。
それは精神の変化が脳髄に化学的変化を与え、脳髄と相互連関をもつ全肉体組織に、
敵に対して身構えするよう命ずることになるからである。

敵に対して身構えたとき、すべての生物は呼気(はくいき)より毒素を発し、
唾液の中に、敵に噛みついて殺傷するための毒素を生ずる。
これは武器が牙と爪とであった原始人時代の原始的機能を多少とも残しているのである。

それをゲーツ教授はすべての感情に於ける呼気(はくいき)の化学的実験で説明した。
副腎からはアドレナリンの分泌量の増加を起こす。


《汝の憎みを捨てよ》

人を憎んでいて健康は期待できない。
尤もデリケートな体質と、頑丈な体質とに於いては、
その精神的毒素の影響が迅速であったり緩慢(ゆるやか)であったりする。

それは一杯の盃に酔う人もあれば、一升飲んでも酔わぬ人もあるのに似ている。
だから一時的に見るならば、割合人を憎まない人が病気になったり、
大いに人を憎む人が健康でいたりするように見える。

併し時が来る。
集積した精神的毒素の総量がその人の体質に耐えられない極量程度に達した時に、
初めて大木が倒れるが如く、如何に頑丈なる体質も、病を発して倒れるのである。

            <感謝合掌 平成29年7月11日 頓首再拝>

病気の治し方 - 伝統

2017/07/26 (Wed) 03:25:46


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2016-01-28)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   ついでに病気の治し方も教えてあげるからね。
   この話は信じなくてもいいからね(笑)。

   コインには裏と表があります。
   それでモノにはなんでも裏と表があるよね。

   それと同じで病気と健康ってね、裏表のセットみたいなものなんだよ。

   ちなみに、この話は「医者に行くな」っていう話ではありません。
   薬も飲んでいいし、なにも変えなくていいからね。

   ただ、私は心の話をしたいんです。
   心だけのことを言いたいんだよ。

   それで、病気の人は“病気という裏の部分”ばっかり見てるんです。

   それと、病気という言葉自体、言霊(ことだま)が悪いんだけど、
   「自分は病気だ」って言い過ぎるんだよ。


   健康になりたかったら、これをひっくり返して
   「私は健康です」って1日10回くらい言えばいいの。

   元気になりたかったら「私は元気です」って決めつけちゃえばいいの。

   人に会ったら「私は元気です。私は健康です」って言う。


   ただ、医者に行って言っちゃダメだよ。

   「私、健康ですから」って言うと、
   「じゃあ、ここになにしに来たの?」って聞かれるからね(笑)。

   医者に行ったときだけは事情を言っていいけど、
   あとはね、まわりにいる人って、親とか兄弟とか会社の人とかね。

   言ったって心配させるだけなの。

   治すことはできないの。


   それで、治せない人に「病気です」とかいろいろ言ったところで、
   相手に心配かけるだけだよって。

   それよりも「私、健康です」「絶好調です」って言ってると、
   心が変わってくるんだよ。

   心が変われば、身体っていうのは後からついてくるんです。

   これが「心から治す」っていう治し方なんです。


   病気の人は考え方が病気なの。
   病気のことを考え、病気の話をするんだよ。

   それでいったい、どうやって健康になろうっていうの?


   ひっくり返して言えばいいんだよ。

   「健康になってから言う」じゃダメなの。

   「私は健康です」って1日10回くらい言う。

   そうすると、「健康なんだ」って気がしてくる。

   嘘みたいだけどそういうもんなんだよ。


   ようは、病気という「気」なの。

   元気という「気」なの。

      <『大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね。』サンマーク出版>

             ・・・

一人さんは、しあわせについてこう語る。

「とにかくしあわせって、なにがあっても
『100%しわせだ』と思えるかどうかなんです。

イヤなことがあっても「こんなのはしあわせの一部ですから」って言える人に、
しあわせがどんどん訪れます。

『ついてる人には悪いことは起きない』のではありません。

ついてる人にも悪いことは起きます。

ただ、起きても捉え方が違うんです。

いちいち起こることに左右されて、不機嫌になっていたら、
本当のしあわせにはなれないよね」(同書より)


幸せも不幸せも、健康も病気も、運も不運も、すべてはコインの裏表。

言葉が現象を引き寄せる。


暗いこと、嫌なこと、つらいこと、に焦点をあて、
グチや泣き言、不平不満を言っていれば、さらに嫌なことを引き寄せる。

明るいこと、ステキなこと、幸せなこと、に焦点をあて、
「しあわせ」「楽しい」「ステキ」「ありがとう」と言っていれば、
明るくステキな現実を引き寄せる。


「私は健康です。絶好調! 」と唱(とな)えたい。

            <感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>

「自分は健康だ」との観念を徹底させる - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:41:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月7日>(P43)より

健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。

いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、それと相撲をとっているからである。

「病気はない」は真理であり実相であるから、その健康なる実相を招(よ)び出そうと
しながら、「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。

「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。

ではその方法はいかん?

それは、すでに自分は健康である、完全に創造されているとの前提の下に神に感謝するのである。
合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。

「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。

すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。

その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。

最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」の言葉を
できるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、その実感が徹底するまで
繰り返すがよいのである。

          <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

《智慧は物質の配列を支配する》 - 伝統

2017/08/23 (Wed) 04:48:12


       *『 生長の家 』(昭和26年1月9日の法語)より

   色硝子(ガラス)が 無色の太陽光線を 種々様々の色にあらわすように、
   あなたの 「 智慧 」 は、健不健のどちらにも属しない素材である食物を
   利用して、或(あるい)は 健康なる肉体に構造し、
   或は 肉腫や、癌腫(がんしゅ)や、疣(いぼ)や
   潰瘍(かいよう)につくりあげる。

   物質は それ自身では、生きている有機体をつくることは出来ないで、
   智慧に導かれて 色々の姿に建造されるのである。

   同じ栄養の成分が 松の木の 「 智慧 」 によって
   配列されるならば 松の木に変ずるし、

   梅の木の 「 智慧 」 によって配列されるならば
   梅の木となるのである。

   それが人間の健康なる 「 智慧 」 によって配列されるならば
   健康なる肉体となるし、

   病的なる 「 智慧 」 によって配列されるならば
   病める肉体となって顕(あらわ)れる。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

喜んで働くと健康になる - 伝統

2017/08/27 (Sun) 04:31:08


         *「光明法語」(8月27日)より

精神活動の統一と健康

人間が健康になるには喜んで働く事である。

「自分の活動を正確に目的の方向に向ける時吾々の心理的・生理的機能は、
最も完全に調和を来たすのである」
とアレキシス・カレル博士も言っている。

又博士は
「精神活動の統一は、内臓や神経機能のより以上の調和を齎(もたら)すものである」
とも言う。

病床にいて仕事もなく、あれを考え、これを憂え、
精神活動に何の統一も集中も無(な)く
ただ病気の悪くなる事のみを心に描いて心配している様な生活が
病気に悪いのは勿論である。

          <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

精神は肉体を解剖的にも変化す - 伝統

2017/08/28 (Mon) 04:43:50


         *「光明法語」(8月28日)より

精神は精神、肉体は肉体だと別々に考えて肉体のみの治療を心掛けている人があるが、

カレル博士の
「或る種の精神活動は時として組織や器官に解剖的な機能的な変化を伴う事がある」
と云う学説を知れば反省して好(よ)い。

博士は世界中最完全の設備を有するロックフェラー医学研究所の外科医長として
凡ゆる方面から人間を解剖して研究した人だからだ。

生長の家では特殊な精神的悲しみの累積が腎臓結核を起こす事を、
其の悲しみを解剖する事によって治癒せしめて実証した。

          <感謝合掌 平成29年8月28日 頓首再拝>

《唯 「 健康 」 のみを念ぜよ》 - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:26:14


       *『 生長の家 』(昭和26年1月13日の法語)より

   想念に描かれたる姿が、物質 原子 分子の配列を指導して
   肉体をつくるのであるから、
   吾々が健康の観念と、病気の観念とを、同時にもっている限りは
   肉体は 健康となることは出来ないのである。

   「 わが生命は 神の生命やどりて出来たものであるから健康である 」 と
   一方に於(お)いて信じながら、他方に於いては、

   「 自分の生れつきの体質は 虚弱である 」 とか、
   「 自分は不治の病いに侵されているのである 」 とか
   考えている限りに於(おい)ては、

   健 不健 混合の想念によって肉体がつくられるから、
   いつまでたっても 或(あ)る程度の不健康さを
   肉体にあらわすことになるのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

《常に健康のみを想(おも)え》 - 伝統

2017/10/01 (Sun) 04:23:39


       *『 生長の家 』(昭和26年1月14日の法語)より

   思念治療に於いて、病者が健康となるのは、術者が病人に対して
   「 汝は健康である。汝の凡(あら)ゆる器官は健全である 」
   と云う式の想念に 心を集中するとき、

   術者の健康の想念が 患者の 「 病気の想念 」 を圧倒して
   それを 「 健康の想念 」 に変化するため、
   その 「 健康の想念 」 が肉体を改造して
   健康にすると云う原理に基づくのである。

   されば術者なくとも 自分自身が常に
   「 健康 」 の想念を持続することさえ出来れば、
   その想念が 肉体を改造して健康ならしむることが出来るのは
   当然であると云わねばならない。

   然るに 病者の多くは、大抵 常に 「 病気 」 のことのみを思い、
   その読む書物も、病気の恐怖を唆(そそ)るような
   通俗医学書や療病書のみを読むから
   その効果は 逆になって 中々治らないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

完全なる健康 - 伝統

2017/10/03 (Tue) 04:44:30

        *「光明法語(神の国の義(ただ)しきを観る 10月3日)」より

物質の自覚

完全なる健康の裏には「完全」なる調和の念がなければならないのである。

先ず肉体は「物質」であるとの念を捨てよ。

物質は結局バラバラのものであって互いに漠然とした一体の自覚なきものであるから、
吾々の肉体が物質で出来ているものだとの考えが吾々の心を占めている限り、
自己の肉体はバラバラのものであると云う念を抱いていることになるから、
その念があらわれて完全なる健康は得がたい。

完全なる健康は、吾は「霊なる完体なり」の自覚から生まれるのである。

          <感謝合掌 平成29年10月3日 頓首再拝>

肉体健康の秘訣 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:37:59

        *「光明法語(10月4日)」より

肉体を健康ならしめるためには、肉体を愛しなければならない。
肉体を霊の敵であると憎んでいる限りに於いて、その肉体は健康になる事は出来ない。
肉体を「霊の完全なる表現」であると信じ、それを愛し敬しなければならない。

肉体を醜いものと考えてはならないし、
それを神の人間理想の最高顕現であると見なければならない。

常に神想観する時に「吾が肉体は神の最高美の理想的顕現である」と念ぜよ。
而(しか)して病気を見る勿(なか)れ、病気を想念する勿れ。

          <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

健康美を讃賞せよ - 伝統

2017/10/05 (Thu) 04:35:57


        *「光明法語(10月5日)」より

健康美の発現を悦べ。

それが体操であれ、スポーツであれ、舞踊であれ、
健康美の表現されているものを素直に悦ぶ心がなければ、
ただの健康は得られても健康美ある肉体の美しさは得られないのである。

何でも愉快に体操でもスポーツでも舞踊でも、
健康の美の発現を実際に喜んで実践するとき健康美はあらわれる。

何でもそれを讃えてやり賞(ほ)めてやり喜んでやったならば、
それは益々発達しその完全なる姿を現すのだ。

肉体美もその通りである。
肉体を軽蔑してはならぬ。

          <感謝合掌 平成29年10月5日 頓首再拝>

肉体を憎む勿れ - 伝統

2017/10/06 (Fri) 03:17:54


        *「光明法語(10月6日)」より

肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

          <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>

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