伝統板・第二

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言葉の力② - 伝統

2016/04/14 (Thu) 04:37:23

  *伝統板・第二「言葉の力①」からの継続です。
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6459722


《善(よ)き言(ことば)の創化力を祈りに利用せよ》

       *『 生長の家 』(昭和49年4月1日)の法語より

   “ ことば ”は アイディアを乗せた生命の波動であり、
   アイディアに描かれたる事物を 生命エネルギーを組み立てて
   創造する本質であり、材料であり、力である。

   それゆえに 何を“ ことば ”で唱えるか、
   何を“ ことば ”で念ずるかによって、
   その人の運命が支配され、

   善きアイディアを内容とする“ ことば ”を毎日念ずることにすれば、
   家庭は調和し、事業は繁栄し、家庭及び自分の健康は増進するのである。

   最近(昭和四十九年当時)発行された『 ジュニア希望の祈り 』というのは
   小中学生の年齢の児童たちが、“ 善き言葉 ”で毎日念ずることによって、
   健康で、善良な性格の、成績優良な子供になるための
   “ 祈り ”につかう、簡単な“ことば”を集めたものであるから

   子供をお持ちの方は、是非一冊をひとりひとりの子供のポケットに入れてあげて
   必要に応じて、どの言葉で祈るがよいかを辞書をひくように検索し得るよう
   小見出しをつけて工夫されたものである。

   大人の人たちの祈りのためには『 私はこうして祈る 』という本があるから、
   それによって検索して適当なコトバでお祈りになるとよいと思う。

   しかし本号には読者がすぐに利用できる短い“ 祈りの言葉 ”を書いて
   皆さまに差し上げることにした。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125



<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「言葉の持つ力 (5205)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1100  

(2)光明掲示板・第一「言葉の力」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=216    

(3)光明掲示板・第二「言葉の創化力」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=27

(4)光明掲示板・第三「言葉の力 (213)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=77

(5)光明掲示板・伝統・第一「言葉の力 (71)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=44

           <感謝合掌 平成28年4月14日 頓首再拝>

【かわいげのある言葉】 - 伝統

2016/04/23 (Sat) 04:28:07


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年04月19日)より

   (萩本欽一氏の心に響く言葉より…)

   言葉のパンチを出す人って、どこの会社にもいる。
   そういう人は、すぐに上司や同僚とケンカになって、
   職場の空気を悪くするし、自分の立場も悪くする。

   会社の中では「正論」が、危険なパンチになることがよくあるよね。


   これは言い方が正しくないってこと。

   言ってることが正しくても、言い方が正しくなければ、
   その日本語は正しくないし、相手を気持ち悪くさせる。

   「どうして、すぐにA社に連絡をしなかったんですか?
   それは、A社が処理すべき問題であって、ウチがやるべきことではないでしょう。
   莫大な時間と経費のムダですよ」

   なんて、まくしたてる。


   自分が言っていることに間違いはないと確信してるから、自信満々にまくしたてる。

   こんなことがわからないなんて、どうかしてるんじゃないですか?
   と言わんばかりに正論をぶつける。

   言われているほうとしては、こいつの言っていることは正論であるんだけど…、
   という気持ちすらフッ飛んで、ひたすらどこまでも気分が悪くなる。

   こいつは人の気持ちのわからないヤツだ、人間として最低だ、というような気分を高める。


   そうならないためには、どうすればいいのか。

   正論を言うときには、その頭やおしりに、かわいげのある言葉を足せばいいの。

   たとえば「ボクみたいな、いつもヘマばっかりやっている人間が言うのも
   なんなんですけど…」のような言葉を頭にくっつけてみる。


   感情が高ぶって、つい、頭に言葉を足すのを忘れたときでも、おしりのところに
   「…なーんて、みなさんが先刻ご承知のことをエラそうに言っている自分が、
   恥ずかしくなってきました」のような言葉を足せば、

   正論の破壊力が、ずいぶん緩和される。

   頭とおしりと両方に、かわいげのある言葉を足せば、もっともっと緩和される。

   自分なりにかわいげのある言葉を、いくつか用意して持っておくと、
   自分も相手も会話で気持ち悪くなることがめっきり減るから、すごくいい。

   言葉のパンチが、パンチじゃなくて、相手のほおをなでてるくらいの、
   ソフトな言葉に変わるからね。

         <『人生が楽しくなる気持ちのいい日本語』ゴマ文庫>

               ・・・

「感動」という言葉はあるが、「理動」という言葉はない。
人は、感じて動く生き物であって、決して理屈では動かないからだ。

それが、どんなに正論であっても、反論しようのないほど、
上から目線で偉そうに言われたりしたら、誰もが反発したくなる。


理屈の人にはかわいげがない。
言葉にも態度にも、親しみやすさや愛きょうがない。


正論だけでなく、ちょっとした意見でも同じだが、
そこにかわいげのある言葉をちょっと足すと相手に伝わりやすい。

「言葉のパンチではなく、相手のほおをなでてるくらいの、ソフトな言葉に変える」

かわいげのある言葉を使いたい。

           <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝>

コトバの威力 - 伝統

2016/05/02 (Mon) 04:08:29


         *「大いなる奇跡」松田 有利子・著(P279~285)より抜粋

わたしたちは、まず心で思うことがコトバとなって出てきます。
つまり、イメージ・想念を創るところ、それは精神です。神なのです。

わたしたちの真我は、そのまま「神我」です。
その神我はコトバとなって表れ、創造性をもちます。
それを日本惟神の道では、言霊と呼んでいたのです。

古人たちはコトバのもつ威力、つまり言霊の力を知っていました。
ですから日本のことを、「言霊の天照(あまて)る国」「言霊の活(はたら)きおる国」
と呼んでいたのです。

万葉集のなかにも有名な柿本人麻呂の歌があります。

『敷島の 日本(やまと)の国は 言霊の 佑(さきは)ふ国ぞ 福(さき)くありこそ』

『葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞわがする・・・』

コトバのもつ威力については、聖書の「大初(はじめ)に言葉ありき・・・」
で始まることからも、わかります。



『言霊は、いふ言に即ち神の霊まして、助くるよし也』  賀茂真淵

コトバとは波動であり、リズムでしょう。
生命とは、リズムそのもので、それが形となって表出したものが、コトバなのだと思います。


惟神ではコトバの力を重んじています。
祝詞をあげて禍いを祓うことなど、まさにその通りのことでしょう。
聖書にも「萬の物すべて言葉にて造られん」(ヨハネ伝第1章)とあります。

すべてのカギはコトバにあります。


コトバの威力と宇宙との関連性とを知れば知るほど、
コトバはポジティブであることが善いのです。
それが、未来を造るからです。


コトバの力は、想像以上に、いやこの宇宙エネルギーをも動かす力があると言ってもいいでしょう。

空海もまたこうした言霊のもつ力について残しています。

   『名教の興りは声字に非ざれば生ぜず、声字分明にして実相顕わる。
    また内外 の風気、わずかに発すれば必ず響く。名づけて声という。
    響きは必ず声による。声はすなわち響きの本体なり。発して虚しからず。
    必ず物の名を表す。号して字という。名は必ず体を招く。これを実相と名づく』

             (「神仏と人との交わり」春山光音:光輪出版)

つまり、宇宙を創ったそのものはコトバだということで、聖書と同一のことを言っているのです。
この世界、つまり実相はコトバだと言っています。
それは宇宙霊そのものは、コトバのひびきだということになります。

これほどまでに、コトバというのは具象化する力をもっていると言っていいでしょう。


    あなた方が四六時中使っている言葉・・・。
    自分の言葉に自分が尊敬を感じるような言葉をいっているか!

               (中村天風『真理のひびき』)

(中略)


どんな想念も具現化することは、峻厳な宇宙法則です。

コトバは、ブーメランのようにその言葉を発した人に帰っていきます。
ですから、自分の運命は自分が創っていることなのです。

そのことを端的に表したものが、ここにあります。
それが神道の「六根清浄」です。
これほど美しく、そして明瞭に宇宙の大法則を述べたものがあるのかと思います。


   【六根清浄の祓】

  掛けまくも畏(かしこ)き吾(あ)が大神の宣賜(のりたま)わく、
  人は則(すなわ)ち 天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり。

  須(すべから)く静謐(しづめしづまること)を掌(つかさど)るべし。
  心は則(すなわち)神明(しんめい)の本主(もとのあるじ)たり。
  我(わ)が神魂(たましい)を傷(いた)ましむること莫(なか)れ。


  是故(このゆえ)に

  目に諸(もろもろ)の不浄(ふじょう)を見て 心に諸(もろもろ)の不浄を見ず。

  耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず。 

  鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず。 

  口に諸の不浄を言いて 心に諸の不浄を言わず。

  身に諸の不浄を触れて、心に諸の不浄を触れず。 

  意(こころ)に諸の不浄を思いて 心に諸の不浄を想わず。

  此時(このとき)に清(きよく)潔(いさぎよ)ければ、仮にも穢(けが)るること無し
  説(こと)を取らば得可(うべか)らず。

  皆花(みなはな)よりぞ木実(このみ)とは生(な)る。

  我が身は則ち六根清浄(ろくこんしょうじょう)なり 

  六根清浄なるが故に、中府(ちゅうふ)の神君安寧(しんくんあんねい)なり 

  中府の神君安寧なるが故に、天地(てんち)の神と同根なり

  天地の神と同根なるが故に、万物の霊と同体なり。 

  万物の霊と同体なるが故に、為(な)す所(ところ)の願いとして成就せずといふこと無し。

  天地の諸神(しょじん)、祓い給え。清め給え。恵み給え。幸(さち)はえ給え。


           <感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>

言(ことば)は万事の本(もと) - 伝統

2016/05/03 (Tue) 03:27:09


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月3日)」より

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。
万(よろず)のものこれによりて成る」と「ヨハネ伝」の冒頭にあるとおり、
言(ことば)は万事の本(もと)である。

言(ことば)というのは空気の振動ばかりのことではない。
心の振動も、顔の皮膚の振動も、身体(からだ)の態度も、文章も、手紙も
すべてコトバである。

しかし根本的には心の振動が、言語という空気の振動ともなり、
表情という顔の皮膚の振動ともなる。

見ゆる形は、見えない心的エネルギーが現われたのである。

心を平和に、言葉に善きことのみを発し、表情を明るくすることが大切である。

            <感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝>

「好きなことができればお金は関係ない」は、悪魔の言葉 - 伝統

2016/05/10 (Tue) 04:02:57


      *「お金と人を引き寄せる50の法則」千田琢也・著(P74~77)より

これまで独立準備中のサラリーマンに数え切れないほど会ってきた。
有言実行でそのまま脱サラした人にもたくさん会ってきた。

せっかく独立しても失敗に終わってしまう人にはある共通点があった。

「好きなことができればお金は関係ない」が口癖になっていたということだ。

「好きなことができればお金は関係ない」は、悪魔の言葉だ。

言葉の力は恐ろしい。
自分の言葉はどんなに小さな囁きでも自分の鼓膜がダイレクトに聞いている。
鼓膜から脳に伝達された情報は、全身の細胞に言葉のイメージが刷り込まれていく。

ただでさえ弱者なのに、ますます弱者へと落ちぶれてしまうのだ。

さらにその言葉をあちこちで唱え続けることによって、
周囲から応援されなくなってしまう。
名もなく貧しい弱者が成功するためには、周囲の応援がなければ不可能だ。

サラリーマン時代は会社の看板でチヤホヤしてくれていた人たちも、
独立した途端「お金は関係ないって言ってたでしょう? 」
と掌を返したように冷たくなる。

人間には素直でない弱者が落ちぶれていく姿を見てみたいという本能がある。
素直でない弱者には誰も手を差し伸べようとしてくれない。

こうして「好きなことができればお金は関係ない」は、
貧乏人コースへ一歩踏み出すためのスイッチをカチッと入れる呪文になるのだ。

本当は好きなことをするからこそ、お金が必要だ。
お金があれば、好きなことをするために最高の環境を獲得できる。

貧しい環境でチマチマと好きなことをするより、
豊かな環境で優雅に好きなことをするほうが断然楽しい。

これはサラリーマンの世界でも同じで、出世してお金持ちになったほうが、
好きなことを存分にできる環境を与えられるのだ。

「好きなことができれば出世お金は関係ない」と連呼していた人たちは、
最終的には好きなことができない窓際人生を送っていたものだ。


   《貧乏人コースへのスイッチを切れ!
      好きなことをするためにこそ、お金は必要だ! 》

            <感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>

《善き言葉を使いましょう》 - 伝統

2016/05/17 (Tue) 03:25:54


          *『幸福を招く365章』第4項(P71) より

祈りと云うものをただ神さまに泣きついたり、
懇願したりすることだと考えてはならないのである。

祈りとは命宣(イノリ)である。

「生命宣言」である。

生命(いのち)の底深く言葉で宣べることがすべて祈りである。
 
日本人は大東亜戦争が始まる前から「今度の戦争には勝つことが出来ない」と
生命(いのち)の底で考えていたのである。

上海事変のクリークの戦いで頑強に抵抗する十九路軍の前に続々日本の連隊が全滅した。

これが日本全国の新聞が名文をもって「言葉の力」で全国民の心に強く印象した。
その頃から「今度の戦争には生きて帰れない」と日本兵は家族と水盃して別れるようになった。

「言葉の力」が日本人の心に「全滅」を印象したのである。
「言葉の力」で(文章は文字に表現された言葉の力である)敗戦や全滅や
殺人や強盗やストライキを新聞に麗々しく書くものではない。

言葉は心を動かし、心はそれを行動化し具体化する。


           <感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>

《言葉の力、文章の力》 - 伝統

2016/05/23 (Mon) 03:50:19


          *『幸福を招く365章』第4項(P72) より


児童の学校放火を新聞が麗々しく書くと、頻々(ひんぴん)として学校放火が起る。
青酸自殺を新聞が報ずるとき青酸自殺が続出する。

これが言葉の力、文章の力である。

若し青酸自殺を新聞が絶対に書かなかったら、
特殊の化学者か医学者以外は青酸の人体に及ぼす影響を知らないから、
青酸自殺の新聞感染と云うことは起らなかったに相違ないのである。

これは一例であるが、悪い事件は、それを警戒せしめるに報道してさえも、
その報道の「言葉の力」によって、その不祥な事件を
現実の生活に模倣させることになるのである。

「人生は芸術を模倣する、芸術こそ真実の実在であり、人生はその模倣である」
といったオスカー・ワイルドの人生観は本当に正しいのである。

新聞記事でもラジオの報道でも小説でも言葉の力であるから、いくら憲法に
「言論の自由、表現の自由」が明記されているにしても、
よきことのみを表現して貰いたいものである。

           <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

真理の言葉の力 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 03:35:30


          *『生命の實相』頭注版39巻佛教篇(P21)より

真理の書物はそれをお読みになって、その真理がよく解ったとしましても、
それをもう一つ言葉に出して復唱するというところに、
そこに本当に言葉の力というものが出て来るのであります。

これが真言の力であり、あるいはお題目の力であり、阿弥陀仏の名号の力であり、
写経の力であり、言葉の力であり、言葉によって自己に内在する仏を招び出す
ということになるのであります。

だから一度悟ったからもう称(とな)えなくてもすむ、
一遍読んで真理が解ったから再読の要はない
というふうであってはならない。

常に念仏を称え、常に名号を称え、常にお題目を称え、
常に聖典を読み聖経を誦むというようにしておりますと、

今まで忘れていた(本当は忘れるということはないのですけれども)潜在意識の底に
埋れているところの真理が、言葉の力によって再びそこに生き生きと引き出されて来る、

そうしてもろもろの心の汚(けが)れが除(と)れ、
かの『阿含経』の比丘のように病気が治るというふうなことにもなるのであります。

           <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

善き言葉を駆使する術を知らねばならぬ - 伝統

2016/06/03 (Fri) 04:34:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月3日)」より

「知力も直覚も語(ことば)によって構成せられ、またそこなわれる。
善き語(ことば)、悪しき語は知力と直覚とをあるいは構成し、あるいはそこなうがゆえ、
十分語を選択する術(すべ)を知らねばならぬ」とパスカルは言っている。

言葉の暗示の力は、智力を増し、直覚を増す。
祈りが学業成績に影響するのは当然なことである。

子供の学修を指導しつつある父母がすぐ焦(じ)れてきて
「子供の頭の悪さ」に不平を言うがようなことでは、
その子供の学業成績は挙がるものではない。

            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

《汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ》 - 伝統

2016/06/12 (Sun) 04:08:58


          *『 生長の家 』(昭和25年5月13日)の法語より

   汝の舌によって憎みの言葉を語るな。
   悪しきことを語るな。
   人を呪(のろ)う言葉を語るな。

   汝の心に悪を思うな。
   怒る勿(なか)れ。
   憎む勿れ。

   そして唯 実相のみを見よ。
   これ汝らが神によって救われんがためである。

   神は無限の愛であるから
   何ものをも憎み給うことなく、
   怒り給うことなく、
   永遠に吾々を祝福し給うているのである。

   常に神にふりむけ、
   そして愛の言葉のみを語れ。
   人のよきことのみを語れ。

   かくれたる所にて
   凡ゆる人々をほめよ。

   それが自己に於いて
   神を現わす所の
   最善の智慧である。

   誰かが自分の心を傷つけようとも、
   それは かつて自分が誰かを傷つけたことがあるからである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝>

宇宙力と一体なり - 伝統

2016/06/17 (Fri) 04:27:34


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月17日)より

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。

その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。
宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。

そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。
各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。

そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。
これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。
自分はすでに成仏しているのである。

           <感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝>

言葉は、人生航海の舵 - 伝統

2016/06/18 (Sat) 04:13:45


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月18日)より

言葉が舵であって、人生の方向を定める。
言葉、言葉、言葉、言葉・・・・・
われわれの心に印象を深からしめるために「言葉」という字を繰り返し繰り返し書いておく。

船は船長の言葉の力でその方向に必ず進むのである。
船長はみだりにまちがった言葉を出すことはできない。
船長が「東」と言うのに、船が「西」に進むということはありえない。

では、われわれは「幸福」に人生を航海したいならば、「幸福」の方向にのみ
自分の「人生」を進めたいならば、われわれは自分の人生の船長であるから
「幸福」とのみ掛け声をかければよいのである。

「幸福」「幸福」とのみ毎日掛け声を掛けているならば、
必ず自分の「人生」は幸福の方向に進んで行くにちがいないのである。

「健康」「健康」とのみ掛け声をかめていれば、
必ず「健康」の方向にのみ自分の人生は進んで行くにちがいないのである。

それだのに「幸福」を切に求めながら、毎日「自分は不幸だ」と掛け声をかけたり、
呟いたりしている人があり、「健康」を切に求めながら、毎日「自分は虚弱だ」と
掛け声をかけたりしている人がある。

自分の運命について呟く人、自分の病身について呟く人はこういう種類の人であって、
その人がその生活習慣を改めないかぎり、本当に幸福と健康とは来ないであろう。

今現に不幸であっても「幸福」と言う人は、
西へ行こうとしている船が「東」と言う船長の言葉で「東」へ位置を変じはじめると同様に、
「幸福」の方向へ生活が転向しはじめるのである。

           <感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝>

否定的な言葉は打ち消しておくことが必要 - 伝統

2016/06/19 (Sun) 04:42:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月19日)より

「アダムの名づけたるところのものは、その物の名となれり」と
「創世記」にあるように言葉のとおりに事物はなるのである。

宇宙は感受力鋭敏なラジオ・セットのようなものである。
このラジオ・セットは言葉で放送したものを感受するほか、
心で放送したものを鋭敏に感受して、それを具体的可聴的可視的な存在とするのである。

自分の放送しないところのものは一つとしてこの世界に形を顕わさない。

妻を呪う言葉を出したときには、妻はやがてその呪わるべき形に変って来るだろう。
良人を呪う言葉を出したとき、良人はやがてその呪ったとおりの姿に現われて来るであろう。
自分の職業を呪い、境遇を呪うがごとき言葉は冗談にも発すべきではないのである。

もし過ってそんな言葉を出したならば、それと反対の言葉、
「善い良人だ」「善い妻だ」「自分の職業は良い職業だ」「自分の境遇は幸福な境遇だ」
というような言葉で打ち消しておくことが必要なのである。

           <感謝合掌 平成28年6月19日 頓首再拝>

目覚めの言葉 - 伝統

2016/06/23 (Thu) 03:15:37


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月23日)より

朝目を覚ましたとき、その疲労感に捉われるな。
多くの病人は、半睡半覚状態における身体の《だるい》感じを
「病気の執拗(しつこ)いためである」と錯覚しているのである。

「身体(からだ)の《だるい》のは同じ姿勢で長く寝ていたからである」と信ぜよ。

そして

「今後自分には善きことばかりが来るのである。
自分は神の子であり、神に祝福されたるものであるから、
常にいっそう幸運は訪れ、常にいっそう健康になるのである」

と瞑目のまま低声(こごえ)をもって繰り返し念ぜよ。

必ずその言葉の力のとおりになるのである。

           <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>

【言葉のパワー】 - 伝統

2016/07/06 (Wed) 04:08:07


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年06月16日)より

   (アンソニー・ロビンズ氏の心に響く言葉より…)

   何年か前、仕事上のあるミーティングで大いに目を開かれたことがある。

   そのときに学んだのが、すばらしい「言葉のパワー」だった。

   それは3人でのミーティングで、直前に、別のある仕事仲間が
   わたしたちを不利に追い込もうとしていたことがわかった。

   わたしはその状況に動揺していた。

   腹を立てていたと言ってもいいと思う。


   ひとりは怒りで顔を真っ赤にして、
   「絶対に許せない!」と吐き捨てるように言った。

   何もそこまで、と思ったので、なぜそれほど怒っているのかとたずねると、
   この友人は「心底から怒りをかきたてれば力が湧いてくる。
   そうすれば状況をひっくり返すことができるじゃないか」と答えた。


   しかし、もうひとりの方はじっと座ったまま、こう言った。

   「ちょっとヤダね」

   わたしはこの言葉に驚いた。

   「なぜ〈腹が立つ〉じゃなくて〈ちょっとヤダ〉なんだい? 」

   「頭に血が上ると自分をコントロールできなくなる。そうなったら相手の思うつぼだからね」


   〈ちょっとヤダ〉…わたしは、こんな間抜けな言葉は聞いたことがない、と思った。

   これほど成功した人物が、どうしたらまじめくさった顔で、こんな言葉を使えるのだろう。

   だが実は、この友人はまじめくさった顔などしていなかった。

   それどころか、わたしだったら気が変になりかねないこの話題を、
   ほとんど楽しんでいる雰囲気だった。

   この〈ちょっとヤダ〉は、彼にとっては絶大な効果のある言葉だったのだ。

   しかも、わたしにも効果があった。
   この言葉を聞いてから、どういうわけか、少し気分が落ち着いてきたのだ!

   そこで、自分でも試してみることにした。


   ある出張でホテルへ着いたとき、
   たしかに予約したはずの部屋がとれていないことがわかった。

   部屋をおさえるのにずいぶん時間がかかったので、こう言ってみた。

   「ねえ、あんまり長く待たされると〈ちょっとヤダ〉なあ」

   フロント係りは顔を上げ、とっさにどう反応していいかわからず、思わず笑顔を見せた。

   わたしも、つい笑顔になってしまった。


   その後の何週間か、わたしはこの言葉を繰り返し使ってみた。

   するとそのたびに、このあまりに間抜けなセリフのおかげで、
   怒りや落胆を表現するときのパターンが崩れていくのがわかった。

   そしてすぐに、心のこわばりがとれていった。


   「腹が立つ」「頭にきた」「もう我慢できない」などの言葉を使ったあと、
   あなたはどんな感情を持つだろうか。

   自分に対してどんな質問をするだろう。

   あなたの意識はどこを向くだろう。

   血圧だって天井知らずに上がってしまうのではないだろうか。


   だが、「腹が立つ」の代わりに、「ちょっとヤダ」と言えばどうだろう。

   ほかにも、「とても手が回らない」を「引っ張りだこだ」、

   「頭にきた」を「少しうるさい」、

   「イライラする」を「刺激されている」

   「拒否された」を「誤解された」

   「もう我慢できない」を「少し気にさわる」


   などと言い換えていけば、また違った気分がしてこないだろうか。

   だまされたと思って一度やってみてほしい。


   言葉には感じ方を変えてしまうだけのパワーがある。

   だからこそ、「わたしには夢がある」というキング牧師の演説や、
   「自分が国のために何ができるかを考えよう」というケネディの言葉は、
   何十年も前のものでありながら、今でもわたしたちの心を打つのだ。


   逆もまた真なりだ。

   気分を表す言葉を変えるだけで、幸せな気持ちを増幅することができる。

   たとえば「まあまあだ」の代わりに「ゴキゲンだ」と言ってみよう。

   単に「おもしろい」というだけでなく「夢中だ」、

   「OK」の代わりに「最高」、

   「そこそこいい」よりも「すごい!」と感じるようにしよう。

   単に「決めた」というより「最後までやりぬく」の方がずっといい。

         <『人生を変えた贈り物』成甲書房>

             ・・・

「ヒトは悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」という有名な言葉がある。

「怒り」も同じだ。

怒鳴ったり怒りの言葉を発するから、ますます怒りがこみあげてくる。


どんなに頭にきても、ユーモアのあるひねりのきいたひと言が言えるなら、冷静になれる。

同様に、少し言い方を変えるだけで、幸せな気持ちを増幅する言葉もある。

「少し調子がいい」は「絶好調」。

「ちょっとうまくいった」は「ツイてる」。

「まあ、いい感じ」は「運がいい」。


《言葉には感じ方を変えてしまうだけのパワーがある》

どんなときも「いい言葉」を使いこなせる素敵な人でありたい。

           <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

言葉、人間だけが天から与えられたギフト - 伝統

2016/07/23 (Sat) 04:13:00


         *「ドラマ思考のススメ」平野秀典・著(P98)より

日頃発する言葉は、私たちが思っている以上の影響を、
他人よりも自分の心身に与えます。

「苦しい」「不愉快だ」「疲れた」「最悪だ」と言っているときに、
あなたはどんな気分になるでしょうか?

「うれしい」「楽しい」「ありがたい」「最高だ」と言っているときはどうでしょうか?

実際に言葉にしてみるとわかりますが、明らかに心身の感覚が違います。

言葉には、気分だけでなく人生を左右する力があります。

日頃使う言葉が消極に傾いているときには、パフォーマンスも低下し、
失敗やミスが多くなります。
そしてますます消極的な言葉が増えていきます。

この繰り返しが続くとどうなるか、想像できるでしょうか?

幸運やチャンスをしっかり受け取るためにすぐにできる準備は、
自分の意識でコントロールしやすい言葉を整えることです。

言葉は、人間だけが天から与えられたギフトなのですから。

           <感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>

有難いという言葉の力 - 伝統

2016/08/05 (Fri) 03:25:31

        *「古事記と日本国の世界的使命」(P141~142)より

先日、山口講師が九州地方を旅行して土産(みやげ)話を持って来られましたが、
その中にこんな話がありました。

或る人が『生長の家では、何でも有難いのじゃそうだが、そんな馬鹿なことがあるものか、
こんな不幸に遭ったり病気に遭ったり色々わるい事がある世界が何の有難いものか』
こうお考えになりまして、

反語的に《やけくそ》のようになって、何があっても
『ああ有難い! ああこれも有難い! これも有難い! 』と故意(わざ)と大声で
アクセントをつけ勤め先に行っても家庭に帰っても言っておられたのであります。

ところが暫くして自宅へ帰ると、皆の者が大変ニコヤカな顔をしているのです。

その人は、ただもう滅多矢鱈に反語的に
『有難い、有難い、私は生長の家で有難い、有難い』 と怒鳴っていられたのです。

何時(いつ)も苦虫噛み潰したような顔をして膨(ふく)れていた家族が、
何時の間にか穏やかなニコヤカな顔をしているので、

『お前達何が嬉しいのだ、大変かわっているじゃないか』と云ったら、
『だってお父さんだってお変わりになったじゃありませんか』とそう云ったそうです。

そうして、それ以来本当に家庭が楽しくなってしまったという体験を話した人が
あったそうです。

これは言葉の力であって、楽しくなくても楽しいような顔をして、
『ああ楽しい、ああ楽しい』『ああ有難い、ああ有難い』と本当にそう云って
おったら、『楽しい、有難い』ことが本当になって来るのであります。

           <感謝合掌 平成28年8月5日 頓首再拝>

【繰り返される暗示の力】 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 03:09:17


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年05月28日)より

   (宇野千代氏の心に響く言葉より…)

   《言葉が言葉を引き出す。前の言葉があとの言葉も引き出す。
    その自分の言葉でもっと亢奮(こうふん)したり、腹を立てたり、
    もっと情深くなったりする。言葉がさきに立って感情を支配する》


   それにしても、現代人は何て確信することが下手なのだろう。
   或いは疑うことが好きなのだろう。

   朝から晩まで、自分の体のことを疑ってばかりいる。
   疑って、びくびくしてばかりいる。


   まア、見てごらんなさい。

   年配になった男女が集まると、判コで押したように病気の話ばかりする。
   自分の体の状況を、あれこれとそれは詳しく述べ立てる。

   一体、自分の病気の話をしてどうなるのか。
   人の病気の話を聞いてどうなるのか。
   人の病気の話を聞いて、それで愉(たの)しいとしたら異常である。


   私は出来るだけ自分の体の具合の悪いことは人には話さない。

   これは自分の身の上話を人にしないのと同じ心理である。

   自分の体の具合を人に話すことによって、可厭(いや)でももう一度、はっきりと、
   自分の体の具合の悪いことを、心に思い浮かべる。

   これが可厭なのである。

   もう一つ、自分の体の具合の悪いのは、自分で知ってるだけでたくさんである。
   他人に聞かせて、他人にまで可厭な気持にさせるのは失礼ではないか。

   悪い話は、それが自分の体のことでも、決して口には出さない。
   「ああ、くたびれた」「頭が痛い」「何だか風邪をひいたようだ」
   「腹が痛い、胃潰瘍(いかいよう)じゃないか」などとは決して言わない。

   これも私の積極的養生法の一つである。


   その代わり、好い話は会う人ごとに自慢する。

   「私は風邪もひかないし、便秘も下痢もしないし、
   つまり、いつでも健康体の平均状態なんです」とか、
   「私は今年の秋で満72歳になるんですけど、何て言うか、
   体中に若い頃と同じような活力があるみたい。
   だから、72歳が自慢なんです」などと平気で言う。

   この自分の言葉は、もう一ぺん自分の中に戻って来て、
   そうだ、確かに若い頃と同じ気持ちだなア、と思うのである。

   つまり、自分の言葉で、繰り返し自分に暗示を与えるのである。


   この繰り返される暗示くらい、魔法のような力を持つものはない。

           <『幸福は幸福を呼ぶ』集英社文庫>

               ・・・

中村天風師はこう語る。

「実際人間が日々便利に使っている言葉ほど、
実在意識の態度を決定するうえに、直接に強烈な暗示力をもつものはない」

そして、天風師は、夜の寝がけに、嘘でもいいから

「俺は優れた人間だ」

「俺は思いやりのある人間だ」

「俺は腹の立たない人間だ」

「俺は憎めない人間だ」

「俺は焼きもちを焼かない人間だ」

と思うことだ、と言う。


昼間も、自分独自の暗示の言葉をつくっておくといい。

何かあったときにも、これらの言葉を唱えてみる。

「絶対大丈夫」

「必ずなんとかなる」

「必ずできる」

「うまくいってる」

「良き事がどんどん起こる」

「ツイてる!」等々。


自己暗示の力は魔法。

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

【日頃どういうものを発信しているのか】 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:28:25


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年08月16日)より


   (本田健氏の心に響く言葉より…)

   あなたは日常的に、どういうものを発信しているでしょうか。
   発信とは、フェイスブックやブログなどのメディアに書き込むことから、
   ふだん日常的に友だちに話すことまでを含みます。

   人生全体でどういうことを世界に表現しているのか、考えたことはありますか?

   それは、「人生は素晴らしい!」ということでしょうか。
   それとも、「人生は苦痛でいっぱいで、大変だ」ということでしょうか。

   あなたは、友情を大切にする人だとまわりに知られているでしょうか。
   それとも、あなたはいい加減な人だと思われているでしょうか。

   あなたが発信するものが、将来あなたが受け取るものを決めます。
   なぜなら、あなたが出しているものを受信した人が、引き寄せられるからです。

   笑顔で挨拶をしたら、向こうも笑顔で返してくれるのは、
   誰でもイメージできるでしょう。

   
   ここに、宿命と運命のラインをどう引くかがかかっています。

   あなたが幸せや楽しさや友情、喜びを発信し続けていると、
   しばらっくして時間差で同じようなものが返ってくるでしょう。

   逆に、あなたがイライラや憎しみや怒りを表現していると、
   同じように世界は、それに呼応(こおう)して、
   憎しみや怒りを、あなたに返してきます。

   ふだんの発信をより楽しいもの、ワクワクすることに変えてみましょう。
   すると、それと同じぶんだけ、あなたが実現するものが少しずつ変わってきます。


   これには、想像以上の時差があります。
   途中、「あれ、全然変わらないや」と思ってあきらめずに、ぜひ続けてください。

   あなたがどういうものを得たいのかを考えて、
   そういう世界を発信してみてください。


   愛を得たければ、愛を。

   そして、友情を得たければ、友情を発信していくのです。

          <『人生の目的』大和書房>

                 ・・・

産婦人科医の池川明氏は、胎内の記憶や、前世を記憶する子どもたちは多くいるという。

その子どもたちに、この世に生まれてきた目的を聞くと、
「お母さんを助けるために、お母さんを選んで生まれてきた」、
「人の役に立つために生まれてきた」と異口同音に言うそうだ。


我々は、身近な人を喜ばせるために生まれてきたし、
人の役に立つことを望んで生まれてきたにも関わらず、
年を重ねるとそのことをすっかり忘れている。

日頃、身近な人に、どんな言葉を発信しているか。

「ありがとう」や「感謝の言葉」、明るい言葉を発しているのか、
反対に、グチや文句や悪口、人の非難や泣き言ばかり言っていないか。


身近な人だけでなく、会社や友人や会合で、どんな言葉を発しているのか。

あるいは、ブログやネットでどんなことを発信しているのか。


人を喜ばせているのか、がっかりさせているのか。

人に勇気をあげているのか、勇気を奪っているのか。

人の気分を良くしているのか、人の気分を悪くし、不機嫌をまき散らしているのか。


「我々は、まわりを喜ばせ、人の役に立つために生まれてきた」

日頃発する言葉が、自分の将来を決める。

           <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

明瞭に語られたる言葉は、実現力が強い - 伝統

2016/08/30 (Tue) 04:23:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月30日>(P68)より

明瞭に語られたる言葉は、曖昧に念ぜられたる言葉よりも実現力は強いのである。
合掌瞑目神想観の形式をとり、自分の耳に聞こえるほどの声をもって、
次のごとく誦(とな)えることは自己内在の無限の力が自覚する上に効果がある。

「神はすべてのものを我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の智慧を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の愛を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)
神は無限の生命(いのち)を我に与え給えり、ありがとうございます。(十回)」

十回には限らないのであるが、あまり永いのも長時間かかるし、短くても感銘が浅くなる。
十回と限定したのはそのためである。

敬虔の年を起こすために合掌の形式をとっているから、1回称えれば、右手の拇指に軽く力を
入れ相対する拇指を押し、2回称えれば右手の人差指に軽く力を入れて相対する指を押し、
順次に中指、紅指指、小指と移り、さらに左手の拇指より始めて左手の小指に至りて、
終われば合掌のまま、数のことを考えて意識を複雑にすることなしに十回称え終わるのである。

「ありがとうございます」と称える時は、すでにそれを受けたる感激に浸りつつ
本当にありがたい気持を起こすのである。

言葉は単なる思想以上の感情を招(よ)び起こし、
感情は単なる思想以上の動的創化力となるのである。

         <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

《吾は愛の言葉のみを語る》 - 伝統

2016/09/10 (Sat) 04:20:34


       *「生長の家」(昭和25年6月10日の法語)より

   今日、自分は新しき世界に目覚めたのである。

   この世界は物質の世界ではないのであって
   唯 自分の想念感情が造る世界であり、

   自分の想念感情を美しくよきものとすることによって、
   自由によき世界を現すことができる世界である。

   されば吾は 今よりよき言葉、深切の言葉、
   美しき言葉のみを口にする。

   今日一日は幸福の日である。
   神が造った日に悪い日などはないのだ。

   吾は今日、感謝と愛語と讚歎とのみに生きる。

   吾は仕事をなす度毎(たびごと)に
   神の愛と守りとに感謝しながらそれをなす。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

【楽天的になりたければ、プラスの言葉を】 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 03:08:28


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年06月01日)より

   (ドン・エッシング氏の心に響く言葉より…)

   イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、第二次世界大戦中の最も苦しい時期に
   「私は楽天家だ。悲観的になってもしょうがないからね」と言った。

   どんなときでも楽天的な姿勢でいられる人は、
   何らかの目標を持ち、自分と他人のいい面を見いだそうとし、
   現在から学びつつ未来を展望する人である。

   興味深いことに、楽天家といっしょにいればいるほど、自分も楽天的になれるものだ。

   楽天的な姿勢は、落ち込みそうになる自分を確実に救ってくれる。

   あなたは今日どのくらい楽天的だろうか。


   「あなたは元気がないときどうしますか? 」と質問されたとき、
   私は胸を張って「元気なふりをする! 」と答えた。

   私は、本当はそうでなくても、そうであるふりを
   50回以上すれば、本当にそれなれると信じている。

   自分がほしいと思っている長所を、すでに持っているかのように振る舞ってみよう。

   しばらくそしていると、やがて、そんなふりをする必要はなくなっているはずだ。

   あなたはもうそうなっているのだ!

        <『1分間でやる気が出る146のヒント』ディスカヴァー>

              ・・・

楽天的になりたければ、楽天的な振りをすること。

楽天的とは、どんなときもくよくよせず、明るく肯定的に考えるさまをいう。

「大丈夫」「何とかなる」「ツイてる」「うまく行ってる」等の
ポジティブな言葉を口ぐせにし、ニコニコと笑顔でいること。


元気がないとき、「元気なふりをする」というのは、
イヤなことがあったときに「ありがとう」と言うことと似ている。

「嫌なことがあったら、自分に『ありがとう』という。
また、いいことがあったら、『感謝します』という」(五日市剛)


嫌なことやつらいことがあったときには、
つい、グチや泣き言や悲観的なことを言ってしまう。

しかし、マイナスの言葉を使えば、マイナスの現象を呼び寄せてしまう。

そのマイナスの連鎖を断ち切る言葉が、「ありがとう」なのだ。


「元気なふりをする」には、ニコニコしながら、「ありがとう」と何度も言えばいい。

「ありがとう」は、ツキを呼ぶ魔法の言葉。

楽天的で、「ありがとう」の言葉多き人でありたい。

         <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

【刺し言葉】 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 03:18:47


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年09月20日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「なるほど」「そうね」で始まる会話、
   「でも」や「だって」でとぎれる言葉。

   自分の発言から「でも」や「だって」を取り去る。

   揶揄(やゆ)や嫌みや皮肉を言わないようにする。

   それだけで、まわりの世界は変わってくる。


   相手の発言に「なるほど」「そうね」と肯定すれば、会話はそこから始まります。
   逆に、「でも」「だって」と否定すれば、そこで会話はとぎれてしまいます。


   たとえば、「この前の週末、伊豆で桜が満開でした。すごくきれいでした」
   と明るい表情で話してくれた人に対して、

   「でも、うちのほうはまだ全然咲いていませんよ」と答えると、
   会話はそこで終わってしまいます。

   会話をするときは、最初から「でも」「だって」という言葉を
   使わないようにしたらいかがでしょうか。

   人間関係も変わってきます。


   もう一つ言ってはいけないのは、「揶揄」「嫌味」「皮肉」です。

   これはチクチク人を刺すので、私は「刺(さ)し言葉」と呼んでいます。


   たとえば、恋人に対してこんな言葉を投げかけたとしましょう。

   「そんなに仕事が好きなら、仕事と結婚したら? 」

   これは、おそらくかわいさ余って言ったのでしょうが、
   言われた相手はチクチク刺された痛みで逃げてしまいます。

   どんどん距離は離れていきます。


   「刺し言葉」は、発した人の意志とは逆の働きしかしない言葉なのです。

   「嫌味や皮肉でチクチク刺せば、ひと刺しごとに相手は離れる」
   ということを覚えておきましょう。

          <『心を軽くする言葉』イースト・プレス>

             ・・・

「あかるい」の「あ」を取ると、「かるい」になる。

明るい人は、軽い人だ。

軽さとは、「軽(かろ)やか」であり「さわやか」であり、
「軽妙洒脱(けいみょうしゃだつ)」。

軽妙洒脱とは、さわやかで洗練されていて、
俗っぽくないことであり、軽やかでしゃれていること


この反対は「重い」や「重苦しい」。
「揶揄」や「嫌味」や「皮肉」は、重苦しくて、暗くて、陰気になる。


肯定は明るいが、否定は暗い。


「でも」や「だって」や「刺し言葉」はやめて…

人の心を軽くする言葉を発したい。

         <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

善きことを信じて言葉に出す - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:27:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月8日>(P96)より

善きことのみを語り、善きことのみを考える習慣をつけなければならない。
自分の嫌いなこと、望ましくないことを語ってはならないし、思ってもならない。
言葉は想念と同様に強力なる具象化(かたちにあらわす)の力を持っているのである。

われわれは自己の運命ラジオのアナウンサーである。
われわれ自身が言葉に発するとおりに現象世界にあらわれてくるのである。

だから常に自己の欲することを、希望することをあたかもすでに実現せるがごとく
想念し言葉に出すようにつとめなければならない。
そして言葉に出す場合にそれを信じて出すことが必要である。

善き言葉がかえって実現しないように見えるのは、
悪いことを言う時にかえって信じながら話すからである。

           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

コトバの力で、「全一」から呼び出し創造する - 伝統

2016/10/19 (Wed) 03:24:28


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月19日>(P103)より

実在は「全一(ぜんいつ)」である。
「全一」は表現せられえない。
「全一」は一度に知覚せられえない。

そのことはわれわれの記憶内容全体のようである。

われわれは生れてからいろいろの機会に無数に触れ、見、聞き、経験した事柄を
記憶しているのであるけれども、その全体が一度に記憶の表面に浮かび上がって来ないのは、
「全一」なるものは、無数の相(すがた)が超時空的な世界に重なり合っているから、
知覚することができないためである。

それを記憶心象として脳髄の知覚面に浮かび上がらせうるには、
「全一」の中から、必要でないものを残して置いて、
「今」必要なものだけを、空間的表象面に浮かび上がらせなければならぬ。

それと同じく、「全一」なる存在が、それが知覚しうるように表現せられるためには、
「全一」の中からある物を”呼び出し”て来て、他を「全一」の中に残しておかなければならぬ。

表現はコトバであり、コトバは呼び出しであるのはこのためである。
われわれは善きコトバの力によって善き物を創造することができるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

「真」のコトバ、「偽」のコトバ - 伝統

2016/10/20 (Thu) 04:52:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月20日>(P104)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、み心の天になるがごとく地に成ることである。
真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

言葉の神秘を知る日 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:13:36


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月31日)より

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。 (『生命の實相』第二巻)】                    (『生命の實相』第二巻)】

早稲田政治科出身の先輩、上田謙氏は言語学を深く研究している人である。
次のような草稿を送ってこられた。

―― 言(こと)とは音(おと)に子音Kなる無意味の接頭語を飾りたるものです。
葉とは端(はし)くれ即ち現象の意。

然らば音とは何ぞや。
是れ印度(いんど)、波斯(ペルシア)、希臘(ギリシア)等に於ける拝火教によびなされし
音即ち odo と称する veda 教典に説く万有に貫通する生命乃至実在の事也(なり)。

希臘”オデ”イ・イリ”アド”は皆此の音乃至 odo の事にして、是が又歌とも同じものです。

其の証拠には「斯う云う事を歌って置き乍(なが)ら」云々の言葉の中の「歌う」とは
「言う」乃至言葉の意味なるに依(よ)りても知らる。

又音無(おとな)しい人とは、喋らぬ人の謂(いい)にて、是も音とは言葉である事が証さる。

かく日本人の上層を成せるものの名は正しく梵語と同一語源で出羽(でわ)は deva(神)、
佐分利(さぶり)は svara(日神<にのかみ>) 

幣原(しではら)は svara では余り梵語其の儘故、これを隠して「て」を入れて
「し(て)はら」であり、されば神の意である弊(しで)の字があるので、此の弊(へい)
の字が「しで」と読む理由が解る訳で字引には謎である。
んと撥(は)ねて「しんばら」となる。

御社(おんしゃ)の「光明」も「しばら」で光明真言に言う「じんばら」は此の「しばら」で
光明(神)の事です。

・・・・・

谷口雅春先生が説かれる「言霊」については、
光明掲示板・第一内のスレッド「『言靈と神通力』」で学ぶことができます。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=613 

・・・・・

           <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

「魔法の呪文」 - 伝統

2016/11/14 (Mon) 04:08:40


        *Web:MAG2NEWS(2016.10.06)より

不幸な出来事を忘れた上に幸せにもなれる「魔法の呪文」


《不幸を打ち消すマントラとは》

久しぶりにちょっとだけ怪しい系のネタを書いてみましょうか。
みなさん不幸ですか~? あれ、これはちょっと違うか。

でも生きていると誰しも、「チョ~最悪、やってられんわ」って
こぼしたくなるようなことって体験しますよね。

   おカネを落とした
   競馬でオケラになった

   左遷させられた
   解雇された
   離婚された

   車で事故った
   ケガをした

どんなことでも良いんですが、この程度の不幸をゼロにすることなんて
出来るわけ無いんですよ、ということは何度かこのメールマガジンでも、
もっと深い話はセミナーでもしています。

では発生してしまった不幸をどうやって止めるのか、
というワザを身に付けておくと人生は楽に生きられるんです。

その初級編が、「そんな事もあったなあ~」というマントラです。


マントラというのは呪文のようなもので、
不幸な状況になったらこの呪文を口で言えば良いんです。

たったいま発生した不幸であっても、その日寝る前に、
ベッドの上で、「そういう不幸なイベントもあったなぁ~」と呟くのです。

そうしたらその瞬間に、その不幸なイベントは過去のモノに変わるんです。
不幸は現在進行形だから辛いんです。
これが過去形になれば単なる思い出、記憶の問題ですから。

そのためには感情の部分でその不幸なイベントを過去形に変化させるんです。


そしてその直後に、
「ああいう辛い事があったから幸せになれちゃうんだよなあ」と呟くのです。

それを言った瞬間に、幸せになる未来のレールが作られるのです。

不幸をいつまでも現在形で抱え込んでいるから、いつまで経っても不幸が終わらないんです。
過去形にして人生の記憶にしてしまい、さらに明るい未来を作れば良いんです。

そうしたらその未来は、あなたが人生を歩むことで、現在形になるんです。

先に未来形を作っておかないと、それは現在形にならないんです。
というか、現在形になるべき未来形が存在しなければ、
いつまで経っても何も起こらないのは当たり前です。


ちなみにこれ、両方やらないとダメですよ。

不幸な現実を過去形に変換して、そして未来形を作る。
そうすると現在形が真空状態になるんですよ。

だってこのふたつの作業では、
どこにも現在自分がどうなっているのかを意識していないんですから。
そして時間軸というのはいつでも、現在から未来に向かって動いているんです。

そうしたら論理的に考えて、イメージした未来が
現在形になる以外に無くなっちゃうじゃないですか。

しかもこの現在形が、いまこの瞬間で空っぽなら、
真空のところにグイッとものが引き寄せられるように引っ張られるに決まっています。

このワザを使うと、一般人の10倍のスピードで不幸から離脱出来ますよ。

http://www.mag2.com/p/news/222662/2?l=ciu003d3c9

           <感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>

《怒りの言葉を発するな》 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 04:18:13


       *「生長の家」(昭和25年6月23日の法語)より

   一つの苦き言葉も病気の種である。
   
   一つの愛のささやきにも病気を治す力がある。

   涙ぐんでみつめる母の愛の眼差(まなざし)は
   どんな悪しき子も本来の善に転向せしめる力をもっている。

   思わず憤激してどなりつけた良人(おっと)の言葉が
   多くの婦人の病気になっている。

   怒りをしてこの世の中から姿を消さしめよ。

   憎しみをしてこの世の中から姿を消さしめよ。

   愛の言葉を、やさしさの言葉のみを周囲に対してなげかけよ。

   愛する者の明るき微笑は
   どんなに傷つけた人の魂を癒(い)やすかは知れない。
   それは 又 同時に肉体を癒やす。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

「こその妙味」 - 伝統

2016/12/12 (Mon) 03:42:46


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月12日)より

井上源蔵さんから「こその妙味」という題で興味ある原稿が来た。
本当に「こそ」の二字の置き所で地獄が極楽になり、極楽が地獄になるのである。
これが言葉の力というものである。

井上源蔵さんは中風で7年間半身不随で腰が海老(えび)のように曲がっていた老人であったが、
この「こそ」の妙味を体得して中風が癒え腰が伸びたのである。


(こそという言葉を自分につけたとき争いの因(もと)となる)

夫  貴様みたよなお多福婆(おたふくばば)をわしでありゃ《こそ》置いてやる
妻  わしじゃから《こそ》辛抱もするが誰が見るぞえ痩せ世帯(じょたい)

親  誰がお蔭でそうまでなったおれが学問させりゃ《こそ》
子  学問させてもみんなはできぬわしが勉強したりゃ《こそ》

地主  あれがああして暮らしてゆくもこちが畑田(たはた)を貸せば《こそ》
小作人 地主の田畑が荒れずにいるのもわしが小作をすれば《こそ》



(こそという言葉を相手につけたとき互いに仲よく和解する)

夫  外でわたしが働かれるも内をそなたが守りゃ《こそ》
妻  私みたいな不束者(ふつつかもの)をあなたなりゃ《こそ》深切に


親  あの子なりゃ《こそ》出世もしたよ苦労したのも甲斐がある
子  今日(きょう)のわたしの出世もみんな親の苦労があれば《こそ》

地主  田畑つくらず暮らしのたつのも小作する人あれば《こそ》
小作人 わが田なくても暮らしてゆけるこれも地主あれば《こそ》


 (これによって)

《こそ》と威張ってこちらにつけりゃなにをこしゃくと喧嘩腰

《こそ》とあがめて相手につけりゃにっこり笑ってあなた《こそ》

喧嘩するのも仲よくするも《こそ》の付けどこただひとつ


夫婦、親子、妻子、地主、小作人は言うにおよばず、資本家と労働者の関係も
債権者と債務者の関係もないし教師と生徒、主人と番頭、奥様と女中などの関係も
皆こうしたものであろうと思われる。


井上源蔵さんは自分の背の伸びたのを都々逸(どどいつ)に歌って曰く ―― 

   背だけのばしてもろうたこの身骨(みほね)を惜(お)しまにゃ気が楽よ
   細い道でも我(われ)から退(よ)けて人を通せば気が楽よ

   理づめ言わずに理のある事もまけてしまえば気が楽よ
   腹を立てるは至らぬからと思いいりゃこそ気が楽よ
   我意(がい)や気ままや無理いう人に勝とうと思わにゃ気が楽よ

   正直あつい寒いのいといなくはたらく人はよろず円満
   他事(ひとごと)と思えばやがてわが事よまことつくせばやがてわが事(こと)

            <感謝合掌 平成28年12月12日 頓首再拝>

【きれいな言葉を意識して使う】 - 伝統

2016/12/25 (Sun) 03:37:12


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月14日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   きれいな言葉というのは、意識して使わないと口から出てこないものです。

   それは、人間の脳と関係があるからです。

   人間の脳は、本能的に自分の身体を守ろうとするために、
   悪いことが起きる前提でものごとを考えています。

   要するに、前もって心配しているのです。


   頭の中で心配することによって、予期せぬできごとに対して予防線を張っています。
   あらかじめ心配しておけば、いざショッキングなことが起こっても
   ショックを和らげることができるからです。

   幸せになりたいと思ったら、「幸せだなあ」と声に出してみましょう。
   「幸せだなあ」と何度も声に出していると、
   あなたは幸せな顔になっているはずです。


   言葉はエネルギーです。

   口から出た言葉は、エネルギーになって天空を駆けのぼり、
   お星様に当たって再び自分の元に返ってきます。

   「幸せだなあ」と声に出せば幸せが、
   「ありがたいなあ」といえばありがたいことが自分に返ってきます。

   しかも、池に石を投げ込んでできる波紋のように、
   何倍も大きくなって返ってくるのです。


   おもしろいことに、「幸せだなあ」が口癖になってくると、
   「なぜ自分は幸せなのか」という理由がフッと出てくるようになります。

   なぜそんなことになるかというと、人間の脳にその秘密が隠されています。

   人間の脳は、脈略のないことを話していると思考回路が錯乱します。
   この錯乱を止めるために、脳は錯乱した原因を探しはじめます。

   「幸せだなあ」といった自分は、なぜ幸せなのかと原因を探しはじめるわけです。


   人間の脳はカラ回りをいちばん嫌うものです。
   だから、とにかくつじつまを合わせようとするのです。

   すると、「…だって、今日の天気はとってもいいからだよ」と、
   幸せである理由が勝手に口から出てきます。


   まわりの人間からは極楽とんぼといわれるかもしれませんが、
   そんな声には耳を貸さず、ドンドンいい続けましょう。

   変な奴だなといわれても、そこでやめてはいけません。


   さて、「幸せだなあ」という言葉の対極にあるのが
   「ため息」という行為です。

   ため息をつくというのは、世の中でいちばん悪いことです。

   ため息の中には夢がありません。

   そればかりか、夢を消して諦(あきら)めや絶望を生み出します。


   ため息は最悪の行為ですが、
   うっかりため息をついてしまうこともあります。

   でも心配はいりません。

   そんなときはあまり気にせず、続けて「幸せだなあ」と声に出してみましょう。

   こうしておけば、ため息の悪い部分を薄めて、幸せになっていきます。

   人は幸せになるために生きているのだから、
   邪魔するものは払いのけなくてはなりません。

         <『斎藤一人の絶対成功する千回の法則』講談社>

              ・・・

我々は時々、予防線を張ってしまうことがある。

出来なかった時のことや、失敗した時のこと、
結果が出なかった時などのことを考えて、
言い訳を前もって言っておく。

自分に自信がないからだ。


「幸せだなあ」と声にだして言ってみる。

まわりに聞こえて恥ずかしいなら、
一人のときや寝る前や朝起きたとき、にこっそり言ってみる。

「ツイてる」、
「うれしい」、
「楽しい」、

「感謝してます」、
「ありがとう」、

「ゆるします」も同じ。


「ツイてる」と言い続ければ、ツイてる理由を脳が勝手に探してくる。

きれいな言葉を意識して使いたい。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

言葉に行為に “誠” を表現しなければならない - 伝統

2017/01/09 (Mon) 04:45:14


        *『生長の家』(昭和40年新年号)より

私たちは、つとめて美しき言葉、感じのよい言葉、
内容のよい言葉を使うようにつとめなければならないのである。 

更に大切なのは美しき心、清らかな心、実相を観る心をもたなければならないのである。

人間、もし誠実な心を失うならば、
他の事が如何に立派であっても何の甲斐もないのである。

 
菅原道真は 『心だに誠の道にかなひならば祈らずとてや神は守らん』 と歌われたし、
金光教祖は 『實意丁寧』 という語で、この 『誠心(まごころ)』 を表現せられている。

では 『まこと』 とはどういう語源から来るのであろうか。 

黒住教祖はこれを “マルコト” を意味する、
円(まる)くして欠けていない心なのであると言っている。

 
私の解釈では、 
“まこと” は “真” であり、 “本物” であり、 “実相” である。 

人の生命の内にやどる真なるもの、 “神なるもの” があらわれる ―― 
“実相” があらわれたものが “誠” なのである。

そう解するとき、 『心だに誠の道にかなひならば祈らずとてや神は守らん』 
の意味がよくわかる。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24581932.html

            <感謝合掌 平成29年1月9日 頓首再拝>

「言葉」は両刃の剣 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 03:50:21

       *「「言葉」があなたの人生を決める」苫米地 英人・著(P38~39)より

あなたの人生を阻んでいるのは、あなたの内側に固く染みついた言葉の呪縛です。
(「私はこの程度の人間だ」「あまり多くを望みすぎてはいけない」・・・)

これらが自分自身の信念となり、あなたをいまの現状に縛りつけているのです。

《この信念は、何によってつくり出されているかといえば、言葉によってです。 》

たかがそんな言葉にさらされつづけるだけの単純なことで、
人間は「自分はこの程度の人間だ」などと思い込んでいます。

《言葉というのはたいへんな危険なシロモノ》です。


しかし、いっぽうで、こうした言葉が持つ力を逆方向に利用してやることは、
簡単なことです。

単純にいえば、「わたしはすごい人間だ」とか、「自分にはできる」という
言葉を、自分で自分に言い聞かせるわけです。

たったそれだけのことでも、人間のマインドは非常にポジティブに
変わってしまいます。

(中略)

《言葉というのは両刃の剣》です。

うまく使うことさえできれば、これほど強い味方はありません。
しかし、そうでない場合は、これほど人間をダメにしてしまうものはないといえます。


言葉を味方につけるコツを学ぶことにより、
自働的に人生のゴールを達成する方法を身につけることができるようになります。

(例、アファーメーション、セルフコントロール、情動・・・の活用)

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

《心の窓を閉じて自分を護ること》 - 伝統

2017/02/05 (Sun) 04:13:20


           *「生長の家」(昭和26年7月8日の法語)より

   外に寒い風が吹きすんだり、あまり外に埃(ほこり)が立つときには
   諸君は 窓をしめて、その風や埃が吹き込まないようにするであろう。

   それならば、誰かが貴方の心の中に激情の嵐を吹き込ませたり、
   怒りや憎みや悪口雑言(あっこうぞうごん)の埃を
   吹き込ませたりするときに

   何故 あなたは自分の心の窓をひらいていて、
   その嵐で自分の心の中をさわがせたり、
   吹き込んで来る怒りや憎みの埃だらけの心にしてしまうのであろうか。

   人が誰(だれ)かの悪口を云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が汝を悪しざまに云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が病気の話をするときには 自分の心の窓を閉じよ。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/12077fefc563c08d3dacc9c17d7a7a3f

   (『幸福を招く365章』第10項(P216~217)に収載)

・・・

<参考>【悪口は言ったほうが負け】

     *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年01月25日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   人間関係の問題は、いろいろあるんですけれど、
   「これだけ覚えておけばいいですよ」というものがあるんです。

   これだけ覚えておけば、いろいろな問題があるなかの8割は大丈夫。

   解決するんです。


   この世の中には“嫌なヤツ”っているでしょう?

   イヤミを言ったり、いばったりする“嫌なヤツ”がどこに行ってもいるんですけれど、
   それをやめさせようとしちゃいけないんです。

   「復讐するは我にあり」じゃないけれど、復讐は人間がすることではないのです。

   悪いことをした人には必ず、悪い報いがくる。

   だから、ことのなりゆきは、天の神さまにお任せするんです。


   そして…ここが大事なところですよ、いいですか。

   「やられたらやり返せ!」って、その“嫌なヤツ”の悪口を言っていると、
   今度は言った人に悪い報いがきてしまうんです。

   自分の畑にピーマンをまいたからピーマンがなる。

   自分の畑に、自分で麦をまけば、麦がなる。

   そして、自分がまいたものを、自分が刈り取るんです。


   隣の人が唐辛子をまいていても、
   唐辛子を収穫するのは隣の人であって、あなたではありません。

   それと同じで、あなたがイヤミなことを言われた場合、
   悪いことが起きるのは、あなたではありません。

   あなたにイヤミなことを言った、その人間です。

   つまり、放っておいても、勝手に相手は痛い目をみるようになっているのです。


   それを、あなたがもし「イヤミを言われて嫌な想いをさせられたんだから、
   こっちも、あの人にイヤミをお返ししてやるんだ」という気持ちでいると、
   あなたから、“居心地のよくない”ムード(波動)が出てきます。

   それではあなたに、人も、運も、お金も、近寄ってきてくれません。

   それどころか、自分が望まない、嫌なことを招き寄せてしまうんですよ。

   だから、復讐しようとしちゃいけないのです。

   復讐はあなたの仕事ではありません。

          <『絶対、よくなる!』PHP>

              ・・・

斎藤一人さんはこう語る(同書より)。

『誰かに悪口を言われたとき、
相手が私の悪口を言っていること自体が、私の勝ちだ、って私は思っているんです。

私は相手の悪口を一回も言わないから、私の勝ちだ、って。

最初のうちは、相手の言っていることを信じる人がいるかもわかりません。

万に一つ、そうだったとしても、長く言っているうちに、
人の悪口を言っている人は、段々、周囲から信用がなくなってくる。

だから、相手が悪口を言い出したら、私の勝ちなんです。

悪口は言ったほうが負け。

長く言えば、大負けです。

ですから、「あの人があなたの悪口を言っているよ」と言われたときは、
たった一言、こう言うのです。

「他人(ひと)が何を言うかは、どうしようもないんです。
この世でできるのは自分が言わないことだけなんです」』


ちょっとしたイヤミを言われたら、言われたほうもイヤミを言い返す、
などというシーンはよくある。

しかし、それを続けたら、自分も相手と同列になってしまう。


自分が、魂的な部分で相手より上だと思うなら、悪口もイヤミも、言ってはいけない。

威張るのはダメだが、魂の上で、自分の誇りを保つことは大事だ。


「悪口を言われても、自分が言わない」ということは、神さまからの大事な試験。

もし、悪口を言ってしまったら、何度でも同じ試験がやってくる。


悪口は言ったほうが負け、と心に深く刻みたい。

            <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>

自己否定から卒業する言葉 ―― 「あるがまま」 - 伝統

2017/02/15 (Wed) 04:13:38


           *「あなたのまわりに奇跡を起こす 言葉のチカラ」越智啓子・著
             (P30~36)からの要点の紹介です。

(1)言葉に宿る不思議な力のことを、日本では「言霊」という言葉でよく表現されます。

   「言った言葉通りのことが現実に起こる」
   「いい言葉はいいことを引き寄せ、悪い言葉は悪いことを引き寄せる」

    ・・・

(2)この書では「言霊」にはもう一つ新しい捉え方があることを、
   紹介したい思います。

   カギとなるのは、日本語の源流である「カタカムナ」です。
   カタカナはカタカムナから始まっています。
   先史時代の日本に会った超古代の言語といえます。

   カタカムナという「言霊のしくみ」から見ると、
   その言葉がもつ本質的な意味、エネルギーの意味がわかるのです。

   私たちが発音する ヒ・フ・イ・ヨ~ の音それぞれに
   「思念(言葉のもつエネルギー)」が込められているということを
   ぜひ覚えておいてください。

   たとえば、「愛(アイ)」を思念で読み解くと、
   「ア=感じる生命」「イ=伝わるモノ」で、
   「いのちを感じて伝えるもの」というエネルギーの意味になります。

(3)「あるがまま」に生きると言霊の力が増す

  ①ア=感じる・生命
   ル=止まる
   ガ=チカラ
   マ=受容・需要
   
   ⇒「いのちを感じながら、チカラを受け入れる」という意味になります。

  ②「あるがままに生きる」とは、
   自分のいのちが感じるままを受け入れて行動することになるのです。

  ③いろんな時代の過去生のやり残しや思い残しをしっかり終えると、
   つまり、人生の宿題が見事に終わると、「あるがままに生きる」
   流れに移行するのです。

   魂の宿題を終えた人は顔が変わり、リッラクスして笑顔になり、
   「ゆるゆるの気持ち」が自然に湧いてきます。

   ゆるゆるになると、不思議なことに発する言葉がパワーアップして、
   言霊になります。

   ゆるゆるになると、
   「~しなくてはダメです! 」
   「そんなこととても無理、せきない! 」
   と言っていた人が、

   「それでいいんじゃない~ 」とか
   「大丈夫よ~ 」
   「なんとかなるわ! 」
   などとプラスのせりふがゆっくりと笑顔で語られるようになります。

  ④私たちがゆるゆるになるときは、本来の自分になって自然体なのです。

   日本語が本来のあるがままの自然を映し出して作られた言語なので、
   あるがままの自然体になるほど自然な言葉になって、
   どんどん自然界のパワーがあふれてきます。

   あるがままになるほど、言霊が強くなるのです。

  ⑤自分が自分らしくあることが一番気持ちのいい状態です。
   とてもリラックスした状態です。

   笑顔があふれ、言葉がしっかりして、表現がわかりやすくなります。

  ⑥言葉をパワーアップさせて、言霊を自然に使えるようになるには、
   自然体の自分らしいあるがままの状態を心がけましょう!

   今のゆるキャラのように、歩くニコニコのゆるキャラになりましょう!

   あなたは今日から、言霊を語る歩くゆるキャラです!

           <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>

言葉の円味(まろみ) - 伝統

2017/02/18 (Sat) 04:49:22


           *「光明道中記」(2月18日)より

【言葉の円味(まろみ)は家庭の重要な要素である(『生命の實相』第八巻)】

言葉は創造の力をもっているのである。

”太郎”と呼べば”太郎”が出て来る。
”次郎”と呼べば”次郎”が出て来る。
”馬鹿野郎”と怒鳴りつければ、相手は狂い立って馬鹿な行為をする。

多くの家庭はその家の主人の言葉の乱暴さによって、
どんなに毒されているか知れないものである。

或る家庭では、その家の主人が妻を呼ぶのに
「オイ、馬鹿」と云う言葉以外で読んだことがない。

「馬鹿と言われて腹が立つが、私を呼んでいるに違いないから、主人の方を向き、
用事をきき、嫌々ながら仕事をしました」と言って述懐された奥様もある。

そう云う家庭の空気が棘(とげ)立ったものであり、不愉快なものであり、
不調和なものであり、従って、その家の運命が暗いものであり、
不明朗なものであり、病人が絶えないのは当然である。

優しい言葉、愛称を伴っている言葉は家庭の空気を円満にするものである。

先ず家長から目下の者に、朝起きたとき、
丁寧に「お早うございます」と言い得るようでないと本当でない。

何でも横柄に権利のような態度でせられると、味わいがすっかり無くなって了う。
細君が古くなるほど飽きられて来るのは、
何でも権利のような顔をして押が強くなるからである。


           <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>

できるだけ善いことを語る - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:33:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月23日)」より

ある教化団体のある講師があるところへ講演に出かけて行った。
彼はその教化団体で救われ人生観が一変し、性格が一変し、生活が一変したものであるから
そのことを聴衆に語りたかった。

どんなに自分の生活が一変したかということを知らせるには、
自分の過去の生活を述べねばならない。
彼は「わたしはこんなに悪い者だったのです」といって女を騙したことや、酒を飲んだことなどを
過去の生活を懺悔のつもりで50分間も喋り続けた。

そしてこんな浄まった生活になったのはこういう動機であるといって、
その転向の明暗を明朗(はっきり)させるつもりであったのだが、
彼が50分間も自分の過去の罪悪を喋っている間に、
聴衆は「そんな悪い人の話は聴く必要はない」と一人去り二人去りして、
彼が本当によくなったところを話すころには聴衆は四分の一に減ってしまった。

懺悔でも、悪いことをあまり喋りつづける者は、ついに人の信用を墜すものである。

言葉は力であるからできるだけ善いことを喋らねばならぬ。

美人の色の白さを引き立てるための斑点美粧(ビューティ・スポット)も、
それが顔半面イッパイに及ぶようになっては痣(あざ)としてまちがえられる。

光を引き立たす陰影(かげ)は濃く、ただし少量でなければならむ。  

               <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

高声、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならない - 伝統

2017/02/25 (Sat) 04:19:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月25日)」より


たえず親から叱られつづけてきた子は、どうも気遅れしがちである。
そうでなければ極端に反抗的に乱暴である。
 
この世の中に悪人はいないということ、もし欠点を指摘してくれる者があったら、
その人は決して悪意からでなく、自分をよくしてくれるために教えてくれるものである
ということを幼い時から子供に知らすことが肝要である。

子供の(大人も同じであるが)欠点を直すために指摘する際に、
腹立ち声を出すことはなんの益もない。ただ気遅れのする子供をつくるだけである。

その性質は生長後も時として「生涯つきまとい。その人の運命の重荷となることがあるものである。親が子を害していると知らないで、どんなに多くの子を害していることであろう。
 
心理学者の実験によると、幼児は一定以上の高声または高音響に対して
本能的に恐怖の表情を示すのである。そのことは学童以上の年齢になっても継続する。

もし子供をよくしてやりたいとの親切から子供の欠点を指摘するような場合には、
普通の話以上の高声を出したり、憤怒の調子を帯びた言葉で話してはならないことである。

もし相手に訓示を与える際に相手に恐怖や不快の念を与えたら、
それは反抗となってせっかく話したことが反対の結果になることがある。
 
恐怖は閉じる心である。形は心の影である。蛤を見て悟るがよい。
高音を出して恐れさせれば、その蛤は貝殻を閉じるであろう。

貝殻を閉じる蛤のような気遅れする人間に育てたのは、
物を教えるときに使う荒立った高声(こうせい)である。  

           <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2017/02/27 (Mon) 03:41:09


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>

言葉は人に宿る神の霊である。 - 伝統

2017/03/16 (Thu) 04:35:24


      *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P92~94)より

瑜伽(ヨーガ)の行者であり、霊覚者であるヨガナンダは、
瑜伽の哲学及び健康法から出発してメンタルサイエンスの説く真理を
それに融合させたのである。

彼の説く想念治療の限界や物質治療の限界は
極端に走らず極めて穏健である。

従って知識階級であって精神治療を研究したい人には
適当な諸説であるから爰(ここ)に紹介する所以(ゆえん)である。


人の言葉は人に宿る神の霊であるとヨガナンダはいう。

コトバは想念の振動によって起こされる所の響きである。
想念は人の魂によって起こされる所の振動であるのである。

吾々の口より出づるすべての言葉は、
吾々の魂の振動を運ぶ所のヴァイブレーションであって、
必ずや大いなる働きをなすべき筈のものである。

それにも拘らず、多くの人の言葉に生命(せいめい)なく、何らの権威も実現力も
発揮しないのは、唯(ただ)その言葉を機械的に発するだけであって、
魂の力がその中に吹き込まれていない言葉であるからである。

意味のない多弁、大袈裟の出鱈目や、嘘っぱちの噂などは、
火薬なしに玩具の鉄砲から発せられる弾丸のようなもので、
本当の「言葉」ではないのである。

多くの祈りや、役に立たぬ無駄話が、何等人生に貢献する所なく、
効果を現わさないのはそのためである。

吾々はいやしくも言葉を発するからには、真理の言葉を発しなければならない。
然(しか)も、その言葉の中に自己の魂の力をそそがなければならないのである。
魂の力の伴わない言葉は中味のない籾殻(もみがら)のようなものである。


誠実と信仰と信念と直観力とに満たされたる言葉は
最高級の火薬を以って発射した弾丸のごときものであって、
どんな困難の壁にぶつかってもそれを貫通して進むのである。
そして遂に難事と思われていた所のものを変化することができるのである。

不快なる言葉を語ることを避けよ。
たとい、それが現実であっても不快なことはいわない方がいいのである。
言葉は内部にある実相の善さをこめて話さなければならないのである。

もし吾々が感情の底から深く理解して「真理の言葉」を使うならば、
その「真理の言葉」は宇宙に偏在する宇宙の創造力に伝達されて
どんな困難をも解決することができるのである。

一切の疑いをかなぐり捨て、強く求むる結果を思い浮かべて、
その希望を実現するまで捨てることなく、宇宙生命(せいめい)の
無限力に信頼するものは遂に求める結果を得ることができるのである。

もし吾々が一向専心神に信頼することができず、
精神統一中にも心が右往左往するならば
それだけその結果も亦浮動するのである。

もし吾々が宇宙生命の大海に善き言葉を以って種子(たね)を蒔くならば、
それが真に発芽して成長するまでは、種子(たね)の発芽を
疑ってそれを抜き取ってしまうようなことをしてはならないのである。

          <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝> 

【人間関係とは「言葉のやりとり」である】 - 伝統

2017/03/29 (Wed) 03:28:02


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年02月12日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   「人から愛される人」をじーっと観察していると、あることに気が付きます。

   それは・・・、「話す言葉が魅力的なこと」。
   愛される人は、愛される言葉を使っている。
   このことにつきると、一人さんは思うのです。

   では、「魅力的な言葉」とは、どんな言葉をいうのでしょうか?

   ちょっと具体的にあげてみましょう。

   〇愛のある、明るい言葉
   〇聞いていて、自分も相手も、うれしくなっちゃうような言葉
   〇さりげないんだけど、思いやりがこもった言葉

   〇思わず「ふふふ…」とふきだしちゃうような、ユーモアのある言葉
   〇この言葉を聞くと、「よし、やるぞ!」と、やる気が満ちてくるような言葉
   〇押しつけがましかったり、上から目線ではなくて、さわやかで心地のいい言葉


   こんなふうな言葉をしゃべっている人って、すごく魅力的ですよね。

   「魅力的な言葉」が使えると、非常に便利なものです。

   何かトラブルやピンチにあったときも、
   たったひと言で、切り抜けることができます。


   緊迫した雰囲気の中でも、ちょっと機転のきいたことを言うだけで、
   その場の雰囲気がふっとなごむことがあります。

   魅力的な言葉を話せる人は、それだけでツキを持っている。

   まさに「言い方上手」は「生き方上手」だといえるでしょう。

   言葉というのは、その気になれば、
   誰もがタダ(ゼロ円)で変えることができるものです。


   ところが、「言い方ベタ」の人は、
   なぜか素直に「魅力的な言い方」を学ぼうとしません。

   「言葉なんかで運勢が変わったら、警察いらない」とか、
   「口が悪いのが、私の個性なんだから、放っておいて」とか言って、
   開き直ったりします。

   そして、いつも人とトラブルを起こして、
   苦しい人間関係の修業を永遠に続けることになります。

   「素直に魅力的な言葉を学ぶ人」と、どんどん差がついてしまうのです。


   言葉を魅力的にすると、とたんに運勢がよくなります。
   自分の言葉が「運気」を左右していることに気付いた人は、
   それだけでラッキーなのです。

         <『斎藤一人 カンタン成功法則』KKロングセラーズ>

                 ・・・

魅力的な人は、人の気持ちを楽しくさせたり、
嬉しくさせるようなことを常に考えている。

どんなことを言ったら、相手が喜んでくれるのかに注意をはらう。

反対に、魅力のない人は、誰と話をしても
自分中心にベラベラしゃべり、人のことなど考えない。

そして、相手が傷つくような言葉を平気でいう。


相手がうれしくなるようなとは言葉は、
相手の自己重要感を高めてくれるような言葉。

相手のいいところを見つけて、ほめたり、感謝したりする。


『人間関係とは「言葉のやりとり」である』

魅力的な言葉を学びたい。

          <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝> 

《人の悪しき言葉に乗るな》 - 伝統

2017/04/14 (Fri) 03:12:06


          *『幸福を招く365章』第3項(P57~58) より

怒りは火事のようなものである。
あなたの心を焼きつくし、地獄の焔の中に投げ込み、
ついに身体までも病気にする力をもっているのである。

誰かが不親切な言葉を発したからとて、
それを自分の心の竃(かまど)の中に抛り込んではならないのである。
不親切な言葉は、あなたの心の竃の中で燃える地獄の火の燃料となるのである。

不親切に対して深切をもってし、憎しみに対して愛をもってするのは、
自分の心の中にほり込む燃料に水を注ぐようなものである。

人の告げ口に乗るな。
それは怒りの焔を煽る風のようなものである。

愛語と調和の言葉を雨ふらして、心の火事を消すことである。

常に「平和」を念じて祈れ。 

          <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝> 

言(ことば)は万事の本(もと) - 伝統

2017/05/03 (Wed) 03:42:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月3日)」より

「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神なりき。
万(よろず)のものこれによりて成る」と「ヨハネ伝」の冒頭にあるとおり、
言(ことば)は万事の本(もと)である。

言(ことば)というのは空気の振動ばかりのことではない。
心の振動も、顔の皮膚の振動も、身体(からだ)の態度も、文章も、手紙も
すべてコトバである。

しかし根本的には心の振動が、言語という空気の振動ともなり、
表情という顔の皮膚の振動ともなる。

見ゆる形は、見えない心的エネルギーが現われたのである。

心を平和に、言葉に善きことのみを発し、表情を明るくすることが大切である。

            <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝>

魔女の呪い - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:32:05


         *『大切なことに気づく24の物語』中山和義・著(P97~100)より


先日、心理カウンセラーの勉強をしていて、役に立つ話を聞いたのでご紹介します。

女性からの相談で、

「どんな男性と交際しても、結婚する気にならない」

という相談が増えているそうです。

この原因の一つと考えられているのが『魔女の呪い』と言われている現象です。

この現象は娘さんが幼い頃、母親が幼いから何もわからないと思って、
父親がなかなか家に帰って来ないときに、

「また、パパは遅いの・・・。結婚する前はよかったのにねぇ・・・」

などと娘さんに愚痴をこぼします。

この言葉が呪いのように、幼かった娘さんの潜在意識に残ってしまうので、
娘さんが結婚しようと思ったときに、無意識に結婚を避けてしまう現象なのだそうです。

その他にも同じような現象として、
子どもに対して親が家事や仕事が忙しいからと言いって、
「うるさい」とか「邪魔だからあっちいって」などと幼い子どもに話すと、

中学生の頃に同じように親に話すようになるそうです。

こんな親に限って、

「どうして、息子は乱暴な言葉を使うのでしょうか?」

と相談に来るそうです。

この日、授業の最後に先生が子どもをうつ病にしたければ、
「あなたなんて産まなければ良かった」とか「
あなたの育て方を間違えた」

などと存在を否定する言葉を繰り返しつかえばいい。
このような言葉は絶対に使ってはいけないと力強く話してくれました。

私も忙しいとつい「うるさい」とか「邪魔だから」という言葉を使ってしまいます。

子供のために注意しないといけないと思いました。

              ・・・

どんなひどい言葉を言っても、幼い子どもが親を嫌いになることはありません。
一人では生きていけないので、本能で親を好きになろうとします。
母親に怒られるのは、自分が悪い子だからだと思い込もうとします。

親に虐待されている子どもも同様で、
殴られるのは自分の責任だと思っています。

以前に、ひどい暴行をされた子どもの母親が警察に連れて行かれるときに、

「ママを連れて行かないで・・・」

と暴行を受けた子どもが泣いていたという話を聞いて、
とても切なくなりました。

子どもは親を受け入れてくれる存在です。

親が怒っている以上に、子どもは親の言葉を深刻に受け止めます。

だから言葉の使い方に注意することが大切です。

          <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝> 

《善き言葉のみの日》 - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:24:19


         *「光明道中記」(5月24日)より抜粋


【言葉の種子も石地(いしぢ)に蒔いた種子は生えないが、
肥沃地の心に蒔けば良く生える。  (『生命の實相』第六巻)】


言語の発達は知能の発達を意味している。

野蛮人は思想感情の種類も大雑把であるから、言語も少ない。

文化人になるほど思想感情にデリケートな種類が発達するから、
それを表現する言語の数も甚(はなは)だ多い。

言葉は柔らかく、そして明瞭でなればならない。

柔らか味を失った言葉は砂漠のようで、
そんな言葉の横行する家庭では万物は育たない。

子供が育たないし、事業も育たない。

明瞭さを失った言葉は人間の知能を低下するものである。

          <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝> 

言葉の力は累積すると力を発する - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:50:23


         *「光明道中記」(5月28日)より抜粋

子供の性癖を直し、成績をよくするには
眠りしなに『甘露の法雨』を誦(よ)みきかしながら眠らせるが好い。

『甘露の法雨』を誦(よ)み上げる前に、子供に『甘露の法雨』を聴きながら
眠ったら大変成績がよくなって、健康になり、性質もよくなって、××の性癖も直り、
自然に好い子になれるんですよ ―― と子供に言って聴かせ、

さて親も敬虔な態度で「聖経の功徳によって斯(か)くならしめ給え」と合掌して念じ、
「さあ眼を瞑(つむ)って眠(ねむ)んなさい。聖経を誦んであげましょう」と言って
『甘露の法雨』を読誦する。

読誦が終れば子供は屹度眠っているから、

「さあ、これでもう貴方は成績がよくなりました。××が上手になりました。
身体は一層達者になる、性質はよくなり、××はしなくなった」

と云う風に眠っている子供の耳に内緒話のような声で、
下腹に力を入れた声で、囁きかける。

―― この方法を行なえば子供は確かに健康になり、成績がよくなり、
性質が改まってくるものである。

1回で効かないなどと思って、中断してはならない。

言葉の力は累積すると力を発する。
『生命の實相』第七巻にある自己暗示法をやらせるのも好い。

          <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝> 

善き言葉を駆使する術を知らねばならぬ - 伝統

2017/06/03 (Sat) 04:44:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月3日)」より

「知力も直覚も語(ことば)によって構成せられ、またそこなわれる。
善き語(ことば)、悪しき語は知力と直覚とをあるいは構成し、
あるいはそこなうがゆえ、
十分語を選択する術(すべ)を知らねばならぬ」

とパスカルは言っている。

言葉の暗示の力は、智力を増し、直覚を増す。
祈りが学業成績に影響するのは当然なことである。

子供の学修を指導しつつある父母がすぐ焦(じ)れてきて
「子供の頭の悪さ」に不平を言うがようなことでは、
その子供の学業成績は挙がるものではない。

            <感謝合掌 平成26年6月3日 頓首再拝>

言葉は、人生航海の舵 - 伝統

2017/06/18 (Sun) 04:57:46


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月18日)より

言葉が舵であって、人生の方向を定める。

言葉、言葉、言葉、言葉・・・・・
われわれの心に印象を深からしめるために
「言葉」という字を繰り返し繰り返し書いておく。


船は船長の言葉の力でその方向に必ず進むのである。
船長はみだりにまちがった言葉を出すことはできない。
船長が「東」と言うのに、船が「西」に進むということはありえない。

では、われわれは「幸福」に人生を航海したいならば、「幸福」の方向にのみ
自分の「人生」を進めたいならば、われわれは自分の人生の船長であるから
「幸福」とのみ掛け声をかければよいのである。

「幸福」「幸福」とのみ毎日掛け声を掛けているならば、
必ず自分の「人生」は幸福の方向に進んで行くにちがいないのである。

「健康」「健康」とのみ掛け声をかめていれば、
必ず「健康」の方向にのみ自分の人生は進んで行くにちがいないのである。

それだのに「幸福」を切に求めながら、毎日「自分は不幸だ」と掛け声をかけたり、
呟いたりしている人があり、「健康」を切に求めながら、毎日「自分は虚弱だ」と
掛け声をかけたりしている人がある。

自分の運命について呟く人、自分の病身について呟く人はこういう種類の人であって、
その人がその生活習慣を改めないかぎり、本当に幸福と健康とは来ないであろう。

今現に不幸であっても「幸福」と言う人は、
西へ行こうとしている船が「東」と言う船長の言葉で「東」へ位置を変じはじめると同様に、
「幸福」の方向へ生活が転向しはじめるのである。

           <感謝合掌 平成29年6月18日 頓首再拝>

否定的な言葉は打ち消しておくことが必要 - 伝統

2017/06/19 (Mon) 04:21:44


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月19日)より

「アダムの名づけたるところのものは、その物の名となれり」と
「創世記」にあるように言葉のとおりに事物はなるのである。

宇宙は感受力鋭敏なラジオ・セットのようなものである。

このラジオ・セットは言葉で放送したものを感受するほか、
心で放送したものを鋭敏に感受して、
それを具体的可聴的可視的な存在とするのである。

自分の放送しないところのものは一つとしてこの世界に形を顕わさない。

妻を呪う言葉を出したときには、
妻はやがてその呪わるべき形に変って来るだろう。

良人を呪う言葉を出したとき、
良人はやがてその呪ったとおりの姿に現われて来るであろう。

自分の職業を呪い、境遇を呪うがごとき言葉は
冗談にも発すべきではないのである。

もし過ってそんな言葉を出したならば、それと反対の言葉、

「善い良人だ」
「善い妻だ」

「自分の職業は良い職業だ」
「自分の境遇は幸福な境遇だ」

というような言葉で打ち消しておくことが必要なのである。

           <感謝合掌 平成29年6月19日 頓首再拝>

【秘密の「かけ声」】 - 伝統

2017/07/06 (Thu) 04:13:48


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年04月03日)」より

   (朝日大学経営学部准教授、藤野良孝氏の心に響く言葉より…)

   みなさんは、ビンのフタが固くて飽かないとき、
   「グゥーッ!」といった声を出しながら力を入れたら開いた、
   という経験はありませんか?

   私たちは力を入れてふんばりたいときによく声を出しますが、
   あれは実に理にかなった行動です。

   私は、「グゥーッ!」という声を出したとき、出さないときで、
   握力を測定する実験を行ったことがありますが、
   実に10人中8人が、声を出したときのほうが握力がアップしていました。


   実際、かけ声によって最大限のパフォーマンスを実現している
   トップアスリートは大勢います。

   ハンマー投げの室伏広治選手がハンマーを投げるときに
   「ンガーッ」と声を出しているところや、

   卓球の福原愛選手が試合中に「サーッ」という声を出している
   ところを見たことがあるでしょう。

   彼らは声を出すことで力が出たり、リラックスできることを、
   感覚的に知っているのです。


   私は、こうした体の動きと一緒に人々が発するかけ声を、
   主に「スポーツオノマトペ」と呼び、研究を重ねてきました。

   もともと「オノマトペ」とは、「擬音語」と「擬態語」のことです。


   これまでオノマトペの研究を続け、アスリートや一般の人々を対象に
   さまざまな調査・実験を行ってきたところ、
   私は、こうしたかけ声が想像以上に私たちの脳と体にプラスの影響を与えている
   ことを目の当たりにしてきました。

   かけ声を言いながら体を動かすだけで、暮らしの悩みがズバッと解決したり、
   自分をいままでより上手にコントロールできたり、
   スポーツや趣味の苦手を克服することもできます。

   さらに、人間関係をスムーズにすることだってできるのです。


   例えば…

   《ガマンでききない空腹感や食欲を抑えたい》

   やり方は簡単。

   「モグモグ…」とつぶやきながら、何かを食べているような感覚で、
   しばらくの間、あごを動かすだけ。

   声を出しにくい状況なら、心の中でつぶやきながらあごを動かすだけでもOKです。

   この方法は、あごを動かすことで脳をだまし、
   疑似的に心と体を「何かを食べている」という状態にしてしまうのです。

   “噛む”という行為そのものが満腹中枢を刺激することは、
   科学的に証明されています。

   結果的に、口の中に唾液が出てきて、空腹感がすーっとやわらぎます。


   《一気にやる気や自信を高めたい》

   天皇陛下の執刀医で、心臓手術の名手として知られる
   順天堂大学の天野篤先生は、「ヨッシャーッ!」と叫んで、
   自分に気合を入れてから手術にのぞむそうです。

   心と体を対戦モードに切り替え、やる気と自信を一気に高めるのです。

   オノマトペを叫ぶ瞬間、両手で握り拳を作って、
   ギュッと力を入れてみるのもいいでしょう。

   腹式呼吸の効果もあり、余分な緊張がとけ、肝が据わります。


   《自然な笑顔を上手に作りたい》

   笑顔を作るのが苦手な人は、ぜひ、
   「ニーッ」というオノマトペを使ってみてください。

   このオノマトペは、「当たり前」と感じていても、
   本当に声に出して実践している人は少ないはずです。

   やってみればわかりますが、人間はイの母音を口にすると、
   必ず口角が上がって笑顔になります。

   ですから、頭で「ニーッ」とイメージするだけでなく、
   小さな声でいいので、実際に口に出してみてください。

   また、無理にでも口角を上げていると、
   表情につられて気持ちも明るくなってくるため、
   いずれ本当に自然な笑顔も生まれます。

        <『脳と体の動きが一変する 秘密の「かけ声」』青春出版社>

            ・・・

アントニオ猪木の決め台詞「ダーーッ!」もオノマトペだという。

「なんだか疲れたな、元気を出したいな、というときには、
高い声で思い切り「ダーーッ!」と叫んでみましょう。

声と一緒に疲れなんか吹っ飛んでしまいます。

特に、片方の握り拳を天に突き上げるイノキポーズをとりながら叫ぶと、より効果的です。

このとき、顔も上に向けて、天を仰ぐような感じにするといいでしょう」(同書より)


元気の出るような「かけ声」。

ニッコリ笑顔がでるような「かけ声」。

楽しい気分になれるような「かけ声」。


あらゆるシーンで自分自身に、秘密の「かけ声」をかけてみたい。

          <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>

Re: 言葉の力② - mmedpkhkbjMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:55

伝統板・第二
mmedpkhkbj http://www.g703k29ayy129uztw0290e8iu6p1zp3ds.org/
[url=http://www.g703k29ayy129uztw0290e8iu6p1zp3ds.org/]ummedpkhkbj[/url]
<a href="http://www.g703k29ayy129uztw0290e8iu6p1zp3ds.org/">ammedpkhkbj</a>

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