伝統板・第二

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なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
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教育勅語② - 伝統

2016/04/13 (Wed) 04:48:26

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その11

   *伝統板・第二「教育勅語」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6462898

★ 第二十三 「謝恩」

豊臣秀吉の夫人は織田信長の足軽なりし人の娘なりき。

伊藤右近という人、夫人の生まれし時より親切に世話し、
ようやく長ずるに及び、また世話して諸方に奉公せしめたり。

その頃秀吉は木下藤吉郎と言いて軽き身分なりしが、
夫人を妻にもらわんとて、その事を言入れしに、
右近は夫人のために支度を整えて、藤吉郎と結婚せしめたり。

その後藤吉郎は立身して太閤秀吉と仰がれる身となりしが、
右近を尋ねだして大阪城に来らしむ。

右近夫婦城内に至りし時、秀吉、夫人と共に懇ろに之を労り、
涙を流して恩を謝し夫人手づから多くの物を持ち出でて与えたり。

この時夫人は右近夫婦のそばにより、
「お身等の綿入れ汚れたれば、我洗濯してまいらせん。」と言い、
別に衣類を出して着替えしむ。

十日ほど過ぎて右近夫婦を招き、「さきの洗濯出来たり。」とて
夫人自ら持ち出でて之を渡し、やがて右近に禄を与えて大阪に留まらしめたり。

・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「教育勅語渙発五十周年に方りての講話(昭和15年10月23日)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=40

(2):光明掲示板・第一「教育勅語 (8421)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1586 >

(3)「わらいこうたろうの「教育勅語」ブログ~「教育勅語」は<いのち>の根ッコです。」
    → http://blogs.yahoo.co.jp/kyouiku88kyouiku/54105978.html

(4)愛国本流掲示板「谷口雅春先生の御遺言は「教育勅語の復活」であった。 (2495)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=930  →(消滅しております)

      → 次(5)のWeb内にて、その内容を確認できます。

(5)光明掲示板・第三「教育勅語渙発124年」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=277

(6)光明掲示板・伝統・第一「教育勅語 (101)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=60

          <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その12 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 03:23:30


★ 第二十四 「廉潔」

小島蕉薗、ある時役人となりて甲斐に赴きたり。

甲斐の風俗は荒々しくて治め難しとの評ありしか、
蕉薗ひたすら人民のためをはかりて治めしかば、人民いずれも蕉薗に喜び服せり。

数年の後、蕉薗その職を辞めて江戸に帰れり。

これより医を学びてこれを業とせしが、
家貧しくして居る所僅かに風日をおおうに過ぎしかど、
母に事へてひとえに孝養を尽くせり。

甲斐の人々蕉薗の貧しく暮らせるよしを聞き、相はかりて百両の金を集め、
之を贈らんとて総代三人江戸に来たり、蕉薗の家を訪いしに、
たまたま留守なりしかば、その金を蕉薗の母に託して旅宿に帰れり。

明日三人の者再び行きて訪いしに、蕉薗は酒食を用意して厚くもてなし、さてかの金を出して、

「厚意謝するに言葉なし。されどさきに我のなせし所は官命によりたるものなれば、
私にその報いを受けるべきいわれなし。かつ我には定まれる業あり、貧しけれども飢えるに至らず。
幸いに深くうれうることなかれ。」と言いて返したり。

三人は言葉を尽くして勧めたれども、蕉薗かたく辞して受けざれば、
せんかたなくして立ち帰れり。

かくて村民にその由を告げしに、いずれもますますその廉潔なる志に感じ、
その金にて蕉薗の為に社を建て、死後も永く之を祀りたり。

格言 不義の富貴は浮雲の如し。

・・・

小島蕉園 こじま-しょうえん

1771-1826 江戸時代後期の武士。
明和8年生まれ。小島恭従(唐衣橘洲(からころも-きっしゅう))の子。

幕臣。文化2年田安領甲斐(かい)(山梨県)田中の代官となり、仁政で領民の信頼をうける。

領民に「孝経」を講義して回ったため孝経代官と呼ばれ、
また上矢作村名主広瀬清左衛門妻志計を孝婦として表彰するなど、孝行の普及に務めた


4年職を辞し、江戸で徳本(とくほん)流の町医者となる。

文政6年悪政のため一揆(いっき)がおこった一橋領遠江(とおとうみ)(静岡県)
相良(さがら)の代官にむかえられた。
文政9年1月19日死去。56歳。名は恭之,彝。字(あざな)は公倫。通称は源一。

( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E8%95%89%E5%9C%92 )

          <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その12 - 伝統

2016/04/27 (Wed) 03:57:24


★ 第二十五 「博愛」

紀伊の水夫虎吉という者らは、江戸よりの帰途、暴風にふき流され、
2ヶ月ばかりも大洋に漂っていました。

その間に貯えの食物も尽きて、非常なる難儀にあえり。

たまたま北アメリカ合衆国の捕鯨船この海上に来たりて之を見つけ、
直ちに虎吉らを救い己が船に乗りうつらしめて、親切に労りたり。

かくてその船長は便船に託して虎吉等を香港まで送り届けしが、
そこには日本人にて仕立屋を業とする者あり、心を尽くして世話し、
またフランスの船に頼んで上海まで送ってくれました。

これより虎吉等は清国官吏等の保護を受け、
更に便船に乗って我が国に帰ることが出来ました。

我が国にても外国船の吹き流されて漂い来たりし時、
之に食物を与え厚く世話して国に帰らしめること度々ありき。

凡そ知ると知らざるとを問わず博く世間の人を愛するは人の道なり。

たとい敵国の人にても、
傷病に悩み瀕死の苦を為す者を助けるは、博愛の道にかなうものとす。

明治三十七、八年戦役に上村艦隊が敵艦リューリクを打ち沈めし時、
敵の溺死せんとする者六百余人を救い上げたるは極めて名高き美談なり。

          <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その13 - 伝統

2016/05/04 (Wed) 03:31:44


★ 第二十六 「生き物を憐れめ」

昔木曾山中に孫兵衛という馬子ありき。

ある時一人の僧その馬に乗りしに、道の悪しき所に至る毎に、
孫兵衛は「親方あぶなしあぶなし。」と言いて馬を助けたり。

この僧あやしみてそのわけを尋ねしに孫兵衛答えて、
「我等親子四人この馬に助けられて活計を立てる故、親方と思いてかくはいたわるなり。」
と言えり。

やがて約束の所に至りて僧は賃銭を渡せしに、孫兵衛はその中にて餅を買いて馬に食わせ、
また己が家の前に至りし時、孫兵衛の妻直ちに出で来たりて、馬に秣を与えたり。

僧は之を見て孫兵衛夫婦の心がけの良きことに感じたりという。

          <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その14 - 伝統

2016/05/10 (Tue) 04:04:59


★ 第二十七 「女子の務」

三宅尚齋ある時藩主の旨にさからいてとらわれの身となりたり。

尚齋家を出ずるにのぞみ、その妻に母及び二人の子の事を頼み、
奉養の為にとて金二十両を渡せり。

妻は留守を預かりて心細く暮らせしが、
これより倹約を守りて己が衣食を薄くし、暇あれば人のために裁縫・洗濯をなし、
これによりてよく姑に事へ、またその子供を養育したり。

三年の後尚齋赦されて家に帰れり。

この時妻はさきの二十両を出して返せしに、尚齋之を見て大いに怒り、
「かくては母の奉養を怠りしならん。」と言う。

妻は静かに留守中のことを語りて、
「母君を養いまいらせし費用は我自らこれを弁じたり。
この金は御身が帰り給う時の用にあてんとて残しおきたるなり。」と言いしかば、
尚齋は深く妻の労を謝したり。

          <感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第二期 尋常小学修身書 巻五~その15 - 伝統

2016/05/16 (Mon) 04:11:35


★ 第二十八 「良き日本人」

我が国民は万世一系の天皇を戴き、克く忠に克く孝に、数千年来の美風をなせり。

我等臣民たる者は常に天皇陛下・皇后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、
祖先の志を継ぎて忠君愛国の道に励まざるべからず。

父母には孝行を尽くしてその心を慰め安んじ、
兄弟互いに力を合わせて家門の繁栄をはかり、
主人は召使いを憐れみ、召使いは主人を大切に思うべし。

人と交わりては信義を重んじ、礼儀を守り、
人より受けたる恩を忘れず、度量を大きくすべし。

殊に盟友には親切に交わるべし。

世に立ちては産業を興して公益を図り、また博く世間の人を愛すべし。

人は常に誠実なるべし。

仁且つ勇にして進取の気象に富み、廉潔にして倹約を守り、
志を堅くし、油断をなさず、良く忍耐すべし。

常に、知識を広め、徳行を重んじ、良き習慣を作り、生き物を憐れむべし。

また女子は女子の務めの大切なることを心得おくべし。

これ等の心得を守るは明治二十三年十月三十日に下し賜りし
勅語の御趣旨にかない奉ることとなるなり。


されば人々勅語の御趣旨を深く心に銘じて良き日本人とならんことに努むべし。

          <感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その1 - 伝統

2016/05/23 (Mon) 03:43:02


★ 第一 「我が国」

昔天照大神は御孫瓊瓊杵尊をお降しになつて、此の国を治めさせられました。
尊の御曾孫が神武天皇であらせられます。
天皇以来御子孫がひきつゞいて皇位におつきになりました。

神武天皇の御即位の年から今日まで二千五百八十余年になります。
此の間、我が国は皇室を中心として、全国が一つの大きな家族のやうになつて栄えて来ました。

御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は祖先以来、
天皇を親のやうにしたひ奉つて、忠君愛国の道に尽しました。

世界に国は多うございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、
皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。

我等はかやうなありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、
又かやうな美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて
我が帝国のために尽さなければなりません。

          <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その2 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 03:48:28


★ 第二 「皇太后陛下」

皇太后陛下は御幼少の頃から御しつそにあらせられ、
御服装などもぜいたくなものは決してお用ひにならず、
学校にはたいてい御徒歩でお通ひになりまLた。
又大そうおいつくしみ深くあらせられ、人々をおあはれみになりました。

皇后におなりあそばしてからは、我が国の産業に御心をお用ひになり、
宮中で御みづから蚕をおかひになり、博覧会や共進会などにも、たびたび行啓になりました。
又諸種の学校に行啓になつて、教育が進歩するやうにおはげましになりました。

陛下は博愛慈善の事業に深く御心をお用ひになり、
日本赤十字社組合には毎回行啓あらせられて、
赤十字社事業が発達するやうにおのぞみになりました。

大正十二年九月関東地方に大地震があつた時、陛下は日光の御用邸に御滞在中でございましたが、
罹災者の身の上を大そう御心配あそばされ、間もなく東京に還啓あらせられ、三日にわたつて、
市内の病院や救護所などを御見舞になつて、罹災者をあつくお慰めになりました。

 御歌

  おほとのをたゝく霰の音にしも
      かりやのよるの寒さをぞおもふ

・・・

<参考Web>
光明掲示板・第二「国民のおばばさま、貞明皇后」
 → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1351

          <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その3 - 伝統

2016/06/10 (Fri) 04:43:08


★ 第三 「忠義」

後醍醐天皇の御代に、鎌倉の北條高時が天皇の仰に従ひませんので、
天皇は高時を討たうとなさいました。
高時は早くもそれを知つて、大軍を京都にのぼらせました。

そこで天皇は山城の笠置山に行幸になりましたが、
地方の豪族も賊軍の勢に恐れてお味方申し上げる者がありませんので、
大そう御心配になりました。

楠木正成は河内の金剛山の麓に住んでゐましたが、
天皇の御召をうけ、此の上もない武士の名誉と、勇んで笠置の行在所へまゐりました。

天皇は大そう御喜びになり、「高時を討つて天下を太平にせよ。」と仰せつけられました。

正戌ほ詔をありがたくおうけして、

「賊軍が強くても、謀を用ひて討てば、勝てないことはございません。
しかし勝負は戦の習でございますから、たまに負けるやうなことがありましても、
御心配には及びません、正成さへ生きて居りましたら、御運はきつと開けるものと思し召せ。」と、

たのもしく申し上げて御前をさがりました。

正成は河内へ帰つて赤坂城をきづき、僅か五百ばかりの兵で、まつ先に勤王の旗をあげました。
さうして天皇をお迎へ申し上げようとしてゐるうちに、
賊軍は笠置を攻落し、更に赤坂城におしよせて来ました。

正成は度度それを打破つたが、兵糧がつきたので、城を焼いて、身をかくしました。
間もなく、金剛山に千早城をかまへて、千人足らずの兵で立てこもり、
おしよせて来た賊の大軍をさんざんに苦しめました。

その間に正成の旗あげを聞いて、お味方申し上げる者が次第に多くなつて、
高時はとうとう打滅されました。

天皇が隠岐から京都へおかへりになる時、
正成は兵を引きつれて兵庫までお出迎へ申し上げました。

天皇は正成を御側近くお召しになつて、その忠義をおほめになりました。

正成は、「強敵を破ることが出来ましたのは、全く陛下の御徳によることと存じます。」と
お答へ申しました。

それから天皇は正成に前駆をさせて、めでたく京都へおかへりになりました。

・・・

<参考Web:楠木正成公>

(1)本流宣言掲示板「「正成一人生きて在りと聞こし召され候はば… (2404)」
     → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=474

(2)光明掲示板・第一「楠木正成(大楠公) (8665)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1620

(3)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「[292]  大楠公 『いのちの道』」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=56

(4)光明掲示板・第二「楠木正成公 (8470)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1683

(5)光明掲示板・第二「持仏堂の訓戒 (8550)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1698

(6)谷口雅春先生に帰りましょう・第二
   「大楠公の“いのち”が吾々の“いのち”の中に生きている (2132)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=432  (6/20追記)

          <感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その4 - 伝統

2016/06/20 (Mon) 04:37:31


★ 第四 「挙国一致」

明治三十七八年戦役は、我が大日本帝国が国家の安全と東洋の平和のために
ロシヤと戦つて、国威を世界にかゞやかした大戦争であります。

明治三十七年二月十日に宣戦の詔が下ると、国民は皆一すぢに大御心を奉体して、
国の為に尽さうとかたく決心しました。

出征軍人の元気は盛なもので、忠勇の美談はあげつくされない程ありました。

病をおし、傷をかくして召集に応じた在郷軍人もあり、
三人の兄が皆戦死して残つた末の弟が志願兵になつた家もありました。

戦地では雨霰と飛来る弾丸の中で、落ちつきはらつて自分の務を尽す者もあれば、
敵弾のために負傷しても、内地へ送りかへされることを拒んで、
「ぜひ今一度戦線に立たせて下さい。」と願ふ者もありました。

戦場に出ない国民も皆一致して忠君愛国の誠を尽しました。

働きざかりの壮丁が出征した後は、老人も婦人も少年も皆大決心で、
家業につとめ、倹約を守つたので、全国の貯金の高は却つて戦前よりも増しました。

戦費のために租税は平時よりも大そう多くなつたが、
国民は喜んで負担して納税を怠る者などはありませんでした。

軍人が出征する時には、各地の人々はまごころをこめて迭り迎へをしました。
戦地へは慰問袋や手紙を送り、軍人の家族・遺族にはいろいろと行届いた世話をしました。

出征者の妻は心を引きしめて、家事をとゝのへ、子供を育てて、
戦地の夫に心配をかけないやうにしました。

又身分の高い婦人は自分で繃帯を造つて、負傷者に送り、
或は進んで篤志看護婦となつて、親切に傷病者の世話をしました。

 明治天皇御製

  国を思ふ道に二つはなかりけり
     軍のにはに立つも立たぬも

          <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その5 - 伝統

2016/06/30 (Thu) 04:40:17


★ 第五 「公民の務」

郷里を愛するのは人の情であります。
我等が朝夕見なれてゐる山や川は、どこへ行つても忘れることが出来ません。
我等は他日市町村の公民となつて、我が愛する郷里を一そう楽しいよい所にしませう。

どの市町村も市役所又は町村役場を置き、学校を建て、道路を造り、橋を架けなどして、
そこに住む人々の便益をはかつてゐます。

かやうに公共の便益をはかるためには、たくさんの費用が入ります。
其の費用は市町村民が分担するのが当然です。
市町村税を納めるのはその為です。

税は進んで納むべきものであつて、
もし納税の期限におくれると市町村の仕事の妨になります。

市町村の規則を作つたり、予算をきめたり、教育・勧業・土木・衛生等の仕事をしたりするについて、
いろいろ評議するために、市町村民は自分等の中から、市町村会議員を選挙します。


市町村会議員はかやうに公共の事をきめる大切な役でありますから、
これを選挙する人ほよく考へて、よい人を選び、又選ばれて議員となつた人は、
熱心に公共の幸福を増すことにつとめなければなりません。

又市町村の代表者となつて公共の事務をとり行ふ者は市町村長です。
市長は市会で、町村長は町村会で選挙します。選ばれて此の地位につく人は、
それを名誉と思つて、忠実に市町村のために尽す心掛が大切であります。

我等は将来、公民となり、我が市町村のことは我がことと心得て、納税・選挙の務をはたし、
進んで産業を盛にし、風俗をよくするなど、協同一致して公共のために尽し、
我が郷里をりつぱな市町村にしませう。

          <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その6 - 伝統

2016/07/13 (Wed) 04:06:02


★ 第六 「公益」

古橋源六郎は三河の稲橋村の人で、家は代々酒造を業としてゐました。
我が国に始めて市制・町村制が実施された時、村長に選挙されました。

後に稲橋村が武節村と組合になつてからも組合長に選挙され、
死ぬまで引きつゞいて、この職をつとめ、公益のために力を尽しました。

源六郎は三河の土地が馬を飼ふに適してゐることを知つて、
奥羽産や外国産の良い馬を数十頭飼ひ、馬の改良をはかりました。

ところが、
「改良馬は大きいばかりで、女や子供が使ふにも困るし、其の上にのろくて役に立たない。」
と悪口を言ひふらす者がありました。

しかし源六郎は馬の市場を開きなどして、改良馬が大きくて力も強い上に、おとなしくて、
使ひやすいことを世間に知らせたので、悪口を言ふ者がなくなりました。

其の後、組合をつくつてだんだん事業をひろげて行くうちに、
一時に馬のねだんが下つて大損をしました。

源六郎は長い間、昼夜苦心してその回復をはかつたので、
とうとう損をとりかへすことが出来ました。

三河に良い馬をたくさん産するやうになつたのは源六郎の力であります。

源六郎は又父の志をついで、此の地方の人々に養蚕を勧めて、繭の産額が村の内だけでも、
年々八九万円以上になるまでにしました。

又自分で多くの費用を出して山に木を植ゑさせました。
それが今ではりつぱな森林になつてゐます。

源六郎は農事の改良をはかる為に、まだよそにないうちに村内に農会を設けて、
その発達に力を尽しました。農会はそれからだんだん全国にいきわたりました。

源六郎は又村に勤倹貯蓄の風を興さうとつとめました。
或時、村の人々と申し合はせて毎日一厘づつ積立てる一厘貯金といふことを始めました。
それを賛成する者が多く、後には全村で二万円以上の貯金となりました。

又村に悪い風がはいつて来て、仕事を嫌つて遊ぶ者や借金に苦しむ者が出来ました。
源六郎はそれを心配して、村の人々と規約を設け力をあはせて、
この悪い風をなほすことに骨折つたので、村の風儀もよくなりました。


          <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その7 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 03:31:35


★ 第七 「衛生」

伝染病の流布するのは、
多くは人々の衛生に関する注意が足らないところから起るものです。

伝染病については、国家も取締をしてゐるけれども、
人々が公衆のためを思つて、自分々々で気をつけなければ、
とても十分に其の流行を防ぐことは出来ません。

伝染病にはコレラ・チフスなどのやうに急性のものがあり、
結核・トラホームなどのやうに慢性のものもあります。
伝染病の外に寄生虫病といつて、虫が体内に宿つて起る病気もあります。

いづれも病毒が外から体内にはいつて、病気を起すものです。
例へば飲食物と一しよにはいつたり、呼吸の時にはいつたり、
又不潔なものに触れた時にはいつたりします。

伝染病にかゝらないやうにするには、常に身体を強壮にしておくこと、が弟一です。
又飲食物に注意し、身体・衣服・住居などを清潔にすることにつとめなければなりません。

伝染病の流行する時は、医師や衛生係の注意を守ることが大切です。

万一、伝染病にかゝつた時は、すぐに医師の治療を受け、他人にうつさないやうに、
十分に気をつけなければなりません。

隠して届出をしなかつたり、迷信から医師の診察を受けなかつたり、
又全快しないうちに人中へ出たりするのは、大そう危険です。

衛生に関する注意が足らないところから、伝染病にかかることがあると、
それは自分の禍であるばかりでなく、公衆に大そう迷惑をかけます。

まして自分の不注意から病毒を他人にうつし、大ぜいの人の命をそこなひ、
産業を衰へさせるやうになつては、公衆に対して其の罪ほ決して軽くはありません。

               ・・・

★ 第八 「倹約」

上杉鷹山は十歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来て、十七歳で米沢藩主となり、
よい政治をして評判の高かつた人であります。

鷹山が藩主となつた頃は、上杉家には借財が大そう多く、
其の上、領内には不作がつゞいて、人民も難儀をしてゐました。

鷹山は此のまゝにLておいてはならないと思ひ、
倹約をもととして家を立直し、人民の難儀を救はうと決心して、
まづ江戸にゐる藩士に其の志を告げました。

しかし、藩士の中には鷹山に従はないで、
「殿様は小藩にお育ちになつたから、大藩のふりあひを御存じない。」
などと言ふ者がありました。

鷹山は、少しも志を動かさず、領内に倹約の命令を出し、
まづ自分のくらしむきをずつとつゞめて、大名でありながら食事は一汁一菜、
着物は木綿ものばかりときめて、実行の手本を示しました。

鷹山の側役の者の父が、或日、在方に行つて、知合の人の家に泊つたことがありました。
其の人がふろにはいらうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、
ていねいに屏風にかけて置きました。

主人はふしぎに思つてたづねますと、
「此の襦袢は殿様がお召しになつてゐたもので、それを忰がいたゞいて帰つたのを、
私がもらつたのです。」と答へました。

主人はそれを聞いて、大そう鷹山の倹約に感心し、
其の襦袢を家内の人たちにも見せて、いましめました。

                     ・・・

★ 第九 「産業を興せ」

鷹山は人民の難儀を救ふために、倹約を勧めた上に、
なほ産業を興して領内を富まさうとほかりました。
荒地を開いて農業をいとなまうとする者には農具料・種籾などを与へ、
三年の間、租税を免じました。

又命令を出して村々に馬を飼はせたり、馬の市場を開かせたりなどして
農業を盛にするたすけとしました。

鷹山は又養蚕を勧めました。

領内には、貪しくて桑を植ゑることの出来ない者が多かつたので、
自分の衣食の費用の中から、年々五十両づつを出して、
桑の苗木を買上げて分けてやり、又は桑を植ゑる者に貸付けてやつて、
其の業を励ましました。

なほ鷹山は奥向で蚕をかはせ、その糸で絹や紬を織らせました。
又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとひ入れて、
其の方法を教へさせました。

これが世に名高い米沢織のはじめであります。

 なせばなるなさねばならぬ何事も
      ならぬは人のなさぬなりけり


          <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その8 - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:13:52


★ 第十 「孝行」

昔山城の川島村に儀兵衛といふ人がありました。
生まれは京都でしたが、生まれるとすぐこの村の貪しい家にもらはれて来ました。

十歳の時、養父に死別れ、それから三十九年の間、
身体の弱い養母に事へて、一心に孝行を尽しました。

家には少しの田地もないので、儀兵衛は人に雇はれて、
農業の手伝などして、やつとくらしを立てました。
毎朝早く起きて、母の食物やつかひ水などをそれぞれ用意して、仕事に出て行きました。

仕事がすむと急いで帰つて来て母に安心させ、毎夜湯をつかはせ、
又身体をなでさするなど、何事にもよく気をつけていたはりました。

儀兵衛は貪しい中にも、母だけには着物や食物に少しも不自由させないやうに心がけ、
母のたべたいといふ物はすぐにとゝのへ、母のこゝろよくたべるのを見て喜びました。

又母の気づかひさうなことは、なるたけ聞かせないやうにし、
母の喜ぶことは骨身を惜しまず何でもしました。

人に雇はれて京都や伏見に行き、用事がひまどつて帰りがおそくなることもありました。
そんな時には、母は待ちかねて、歩行も不自由なのに、杖をついて半町ばかりも迎へに出て
待つてゐます。

やがて帰つて来た儀兵衛の顔を見ると、母は大そう喜んで涙を流し、
儀兵衛も母の迎をありがたがつて涙をこぼし、二人ともものも言へないで立つてゐます。

しばらくして儀兵衛は買つて来た土産を母に渡し、手を引いて家に帰つて行きます。
近所の人はこのやうすを見て、誰でも感心しない者はありませんでした。

この孝行のことが時の天皇の御耳にはいつて、儀兵衛は御褒美をいたゞきました。

          <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その9 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:29:57


★ 第十一 「兄弟」

伊藤小左衛門は伊勢の室山村の人で、味噌・醤油の製造を業としてゐました。
小左衛門に三人の弟があつて、兄弟互に心をあはせて家業に励んだので、
室山味噌の評判が世間にひろまりました。

或年、大地震があつて、その倉はたいていつぶれました。
その上、雨が長く降続いた為に、味噌・醤油はおほかた腐つてしまつて、
さしも繁昌してゐた伊藤の家もにはかに衰へました。

世間の人は誰も、「いくら室山の味噌屋でも、もとの身代になることはむづかしからう。」
と言つてゐました。

小左衛門は三人の弟に、「今から兄弟心をあはせて、少しも他人の力にたよらないで、
一生けんめいに家業に励み、三年の後には、きつともとの身代にして見せようではないか。」
と相談しますと、弟たちも皆進んで賛成しました。

それから兄弟は仕事を手わけして、大ぜいの人をつかひ、
一人はつぶれた倉のとりかたづけにかゝり、一人は味噌醤油の仕込を始め、
一人は又遠くへ行つて材木を買集め、小左衛門は全体のさしづをしました。

かやうにして四人の兄弟は日夜働いて家業に励んだので、
三年たゝないうちに前よりもりつぱな倉が出来、身代ももとの通りになりました。

其の後、小左衛門は製茶・製糸等の業を始めましたが、
兄弟はいつも力をあはせて助け合ひ、仕事に励んだので、家は益、繁昌して来ました。

          <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その10 - 伝統

2016/08/31 (Wed) 03:59:50


★ 第十二 「進取の気象」

小左衛門が製茶・製糸の業を始めたのは、横浜の港が開けた頃で、
外国では茶や生糸がたくさんいることに目をつけたからであります。

小左衛門は先づ茶の実を蒔いて、培養のしかたを研究し、
製茶の法にも工夫を積んだので、数年の後には、たくさんの茶が出来るやうになりまLた。
又其の地方の人人にも茶の木を植ゑることを勧めました。

小左衛門は又桑を植ゑて蚕をかひ、製糸の業を興しました。
初は僅か二人の工女を雇ひ、手ぐりで糸をとらせてゐましたが、
次第に人数を増して仕事を大きくしました。

しかし、手ぐりではどうしてもよい品が出来ないので、
機械で糸をとることを思ひ立ちました。
そこで機械の使用に熟練した人を雇ひ入れようと思つて、
あちこちとさがしたがなかなかありませんでした。

其の上、製糸にけいけんある人たちは、
「新しい機械で糸をとるのは、利益が少いから、始めない方がよい。」と言つたが、

小左衛門は、「これまでのしかたでは、とても外国にむく品は出来ない。」と言つて、
新しい機械をすゑて、生糸を製することを始めました。

しかし慣れないので、よい品が出来なくて損をしました。
そこで小左衛門は上野の富岡に行つて、製糸法をしらべて帰り、
また機械を改め其の数を増して、熱心に仕事に励んだが、
やはりよい品が出来ず、また損をしました。

小左衛門は進取の気象に富んでゐるから、少しもそれに屈せず、
新しい蒸気機械をそなへ、又親類の者を富岡にやつて製糸法を習はせ、
一生けんめいに改良をはかりました。

かやうに苦心に苦心を重ねた末、とうとう外国人等もほめる程の、
よい品が出来るやうになりました。
又その為にこの地方の製糸の業もだんだん盛になりました。

          <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その11 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 03:51:34


★ 第十三 「勤労」

伊予の筒井村の農家に作兵衛といふ人がありました。
祖先からの借金がたくさんあつたので、その日その日のくらしもなかなか難儀でした。
作兵衛は幼い時から、何とかして家の借金を返したいと思つて、一生けんめいに働きました。

15歳の時に、母は病気でなくなりました。
その後作兵衛は朝夕食事の世話をし、昼は父と一しよに田畑を耕しました。

又夜おそくまで草鞋を作り、それを軒下につり下げて置いて、往来の人に売りました。
その草鞋の丈夫なのと、はき工合のよいのが評判になつて、いつもすぐに売切れました。

作兵衛はかやうに夜昼一心に働いたので、
村の人は皆、若い者の手本だといつて、ほめない者はありませんでした。

そのうちに家のくらしも次第に楽になり、長い間の借金も残らず返してしまひ、
其の上に少しばかりの田地を買ふことが出来ました。
其の時の親子の喜はたとへやうもありませんでした。

作兵衛は勇んで村役人の所へ行つて、
買つた田地を公に自分のものとする手続をしました。

村役人たちは作兵衛の買つた田地が悪くて収穫が少いのに、
税を納めさせることを気の毒に思ひました。

しかし、作兵衛は、
「どんな田地でも骨折つて作つたならば、決してよくならないことはありますまい。
此の村に荒れた田地の多いのは、私どもの骨折がまだ足らない為だと思ひます。
私は出来るだけ働いて、悪い田地をよい田地に仕上げ、村の為になるやうにしたいと思ひます。」
と言ひましたので、村役人たちは、作兵衛の心掛に感心しました。

其の後、作兵衛は、はたして其の田地をよい田地に仕上げました。
なほ其の上に、よい田地をたくさん買ふことが出来ました。

・・・

<参考Web:模範の農民「作兵衛」
       → http://www.geocities.jp/rekishi_chips/syokuryou2.htm >

          <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その12 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:03:42


★ 第十四 「勉学」

勝安芳( 勝海舟)は若い時、西洋の良い兵書を読みたいと思つて、
しきりにさがしてゐましたが、
其の頃、舶来の書物は少くて、なかなか手に入りませんでした。

或日、本屋でふとオランダから新着の兵書を見つけました。
見ればなかなか良い本で、ほしくてたまりません。
価をたづねると五十両とのことです。

安芳は其の頃大そう貧乏で、とてもそんな大金は払へまゼん。
家に帰つていろいろ考へた末、あちこちと親類などに相談して、十日あまりもかかつて、
やつと其の金をこしらへました。すぐにさきの本屋にかけつけますと、
本はもう売れてしまつてゐたので、がつかりしました。

しかし、どうしてもそのまゝ思ひ切ることが出来ません。
そこで買つた人の名を聞いて、やつと其の家をたづね出し、わけをくはしく話して、
「ぜひあの本をおゆづり下さい。」と頼んだが、持主はなかなか聞入れません。

「それでは、しばらくお貸し下さい。」と言ふと、
「それも出来ません。」とことわられました。

安芳はしばらく考へて、「あなたが夜おやすみになつてから後でなりと、
どうかお貸し下さいませんか。」と折入つて頼むと、

「それ程に御熱心ならば、見せて上げませう。しかし、外へ持出されては困ります。」
と言ふので、安芳は次の夜から持主の宅で写させてもらふことにしました。

それから毎夜一里半もあるところを通つて、雨が降つても風が吹いても、
約束の時刻におくれたことがなく、半年もかゝつて、とうとう八冊の本を写し終りました。

其の時、意味の分らないところを持主に問ひますと、持主は、

「お恥づかしいことには、私はまだ読終らないので、お答へが出来ません。
それにあなたはこれを写して、其の上そんなにくはしくおしらべになつたのは感心です。
私のやうな者が此の本を持つてゐても、益のないことですから、あなたに差上げます。」

と言ひました。

安芳は、「私は写させてもらつたのでたくさんです。二通りは入りません。」と
ことわつたが、無理にすゝめられるので、とうとうもらひました。

安芳はかやうに学問に励んだので、後にはりつぱな人になりました。


★ 第十五 「勇気」

安芳は幕府の命を受けて長崎に行き、オランダ人について航海術を学びました。
修業がすんでからもつゞいて長崎に留つて、血気盛りの海軍練習生を教へ、
九州の近海で、あちこちと航海を試みました。

間もなく、幕府は使をアメリカ合衆国へやることになりました。
其の時、使は合衆国の軍艦にのせ、別に日本の軍艦を一そうやるといふ うはさ がありました。

安芳はそれを聞いて、我が航海術の進歩を見せるには、
この上もないよい機会だと思つたので、自分の教へた部下をさしづして
日本人の力だけで航海をしたいと願ひ出ました。

何分我が軍艦を外国へやるのは始めてのことであり、
まだ練習も十分に積まない日本人だけではあぶないと思つたので、
幕府は容易に許しませんでした。

しかし、安芳があくまで願つてやまないので幕府も遂に其の熱心と勇気に感じて、
咸臨丸といふ小さい軍艦で安芳等をやることにきめました。

航海中は毎日のやうに南風が続いて、海が大そう荒れました。
嵐がはげしい時には、船体がひどくゆれて、ねぢ折られさうになつたことが
幾度もありました。

しかし、安芳等は少しも恐れず、元気よく航海をつゞけ、
日本を出てから1か月半程でサンフランシスコに着きました。

アメリカ人は、日本人が航海術を学んでからまだ間もないのに、
少しも外国人の助を受けずに、小さい軍艦で、よくも太平洋を無事に越えて来たものだと、
大そう感心しました。

          <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その13 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 03:43:58


★ 第十六 「忍耐」

アメリカ発見で名高いコロンブスは、イタリアの海岸に生まれ、海が好きで、
十四の年から船乗になりました。

其の頃はまだ地理の学問が開けず、又さまざまな迷信などがあつて、
遠くに航海する者はありませんでした。

コロンブスはいろいろの記録や報告を深く研究して、
大地は水と陸とで出来てゐて、其の形は球のやうなものに違ひないから、
ヨーロッパから・西に向つて、どこまでも進んで行けば、
きっとアジヤの東に達することが出来ると言出しました。

しかし、其の頃の人は大地は平たいものとばかり思つてゐたので、
コロンブスの言ふことを誰一人として信じる者がなく、あざけり笑ふばかりでした。

コロンブスはそれに少しも屈しないで、熱心に研究を積んで、
いよいよ自分の考へてゐることに間違がないと信じました。

そこでどうかしてそれを実行しようとしたが、
自分にはとても航海の費用を出す力がなく、
さりとて事業を助けてくれる人もありません。

いろいろ苦心したけれども、久しい間、其の志を遂げることが出来ませんでした。
後にイスパニヤの皇后イサベラに知られ、其の助を受けて、
やつと年来の志を実行する時節が来ました。

そこでコロンブスは喜び勇んで、三ぞうの船に百二十人の水夫をのせ、
イスパニヤを出帆することになりました。

それから大西洋を西へ西へと進んで行つたが、日数がたつても、陸地の影さへ見えません。

水夫等は、このさきどうなることかと、次第に恐しくなつて、
このまゝ引返さうとコロンブスにせまつたが、コロンブスは落ちついて、
いろいろ水夫等をさとしました。

このようにして進んで行くうちに、陸地が見えたと喜んでゐると、
それは雲であつたことが度々でありました。

水夫等は失望して、もうとても辛抱しきれず、コ
ロンブスがどうしても引返すことをきかないなら、
海の中に投げこまうとたくらんだ者さへありました。

けれども、コロンブスは忍耐の心の強い人であつたから、
さわいでゐる水夫等を慰めたり、おどしたりして、
なほさきへさきへと進んで行きました。

出帆後70日たつて、遂に新しい島を発見しました。
これが今のサンサルバドル島です。

それからコロンブスは一たんイスパニヤへ帰つて、このことを皇后に報告し、
其の後、何べんも航海して、とうとうアメリカ大陸を発見することが出来ました。

          <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その14 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:35:52


★ 第十七 「自信」

吉田松陰は長門の人であります。
十一歳の時、始めて藩主に召出されて兵書の講釈をいひつけられました。

家の人たちはいろ/\と気づかつたが、松陰は藩主の前に進み出て
大ぜいの家来の列んでゐる中で、少しも臆せず、自分の知つてゐる通り
はつきりと講釈したので、藩主をはじめ皆大そう感心しました。

松陰は外国の事情がわかるにつれて、我が国を外国に劣らないやうにするには、
全国の人に尊王愛国の精神を強く吹込まなければならないと、かたく信じて、
一身をさゝげて此の事に尽さうと決心しました。

二十七歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、弟子たちに内外の事情を説き、
一生けんめいに尊王愛国の精紳を養ふことにつとめました。

松陰は至誠を以て人を教へれば、どんな人でも動かされない者はないと、深く信じて、
「松本村ほ片田舎ではあるが、此の塾からきつと御国の柱となるやうな人が出る。」
と言つて、弟子たちを励ましました。

松陰が松下村塾を開いてゐたのは、僅かに二年半であつたが、
はたして其の弟子の中からりつぱな人物が出て、御国の為に大功をたてました。


 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂

          <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その15 - 伝統

2016/11/04 (Fri) 03:52:03


★ 第十八 「主婦の務」

滝子は吉田松陰の母であります。
松陰の父杉百合之助は松陰が少年の頃までは、
家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ませんでした。

そこで、滝子はよく夫を助けて、野に出て田畑を耕したり、
山に行つて薪をとつたりして、仕事に骨折りました。

又よく姑に事へ、子供の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから家事一切を
ひとりで引受けて、かひがひしく立働き、馬を飼ふ世話まで自分でしました。

滝子は姑を大事にしました。
三度の食事には暖いものをすゝめ、衣服は柔いものを着せなどしていたはり、
裁縫する時は、喜ばれるやうな話をして聞かせて、慰めました。

又姑の妹が上の家に世話になつてゐたが、或時、重い病気にかゝりました。
滝子は久しい間、夜もろくろく寝ずに心から介抱したので、
姑は、「忙しくて暇のないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、誠に有難い。」
と言つて、涙を流して喜びました。

後、百合之助は藩の役人に取立てられて、城内にうつりましたが、
滝子は家に留つて、よく家政をとゝのへ、松陰等の養育につとめました。

かやうに滝子は夫を助けて勤倹力行したので、家も次第に豊になり、
又教育の仕方がよかつたため、子供は皆心掛のよい人になりました。

中にも松陰は国の為に尽し、たびたび難儀に出会つたが、
いつも滝子は我が子を励まして尊王愛国の道に尽させました。

松陰が松下村塾を開いてゐた間も、滝子はよく弟子たちをいたはり、
又松陰をたづねて来る同志の人々を親切にもてなしました。

          <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その16 - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:35:44


★ 第十九 「朋友」

新井白石は九歳の時から、日課を立てて、少しの暇でもむだにせず、
一生けんめいに、学業に励みました。

後、木下順庵といふ名高い学者の弟子となつてからも、
貧苦をこらへて、益、勉強したので、日に日に学問が深くなりました。

或時、順庵は白石を加賀侯に推薦しようと思つて、そのことを白石に告げました。
其の頃、やはり順庵の弟子で岡島石梁といふ人がありましたが、その事を聞いて、
白石に、「加賀は私の郷里で、家には年よつた母がたつた一人で、私の帰るのを待つてゐる。
もし先生の御推薦で、私が加賀侯に仕へることが出来たら、母もどんなに喜ぶだらう。」
と言ひました。

白石はそれを聞くとすぐに、順庵のところへ行き、其のわけを話して、
「私の仕へますのは、どこでもよろしうございます。どうか私の代りに、
岡島を加賀へ御推薦下さい。」と願ひました。

順庵は白石が友情に厚いのに感心して、その通りにしました。

二年程たつて、白石は順庵の推薦で、甲斐侯に仕へることになりました。
侯が後に将軍となつてから、重く用ひられました。

          <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その17 - 伝統

2016/12/04 (Sun) 04:28:19


★ 第二十 「礼儀」

我等が世間の人と共々に生活するには、
知つてゐる人にも知らない人にも礼儀を守ることが大切です。
礼儀を守らないと、人に不快の念を起させ、また自分の品位をおとすことになります。

人の前に出る時には、頭髪や手足を清潔にし、
着物のきかたにも気をつけて、身なりをとゝのへなければ失礼です。

人と食事をする時には、音を立てたり、食器をらんざつにしたりしないで、
行儀をよくして、愉快な心持でたべるやうにしなければなりません。

又室の出はいりには、戸・障子のあけたてを静かにするものです。

汽車・汽船・電車などに乗つた時には、
互に気をつけて人に迷惑をかけないやうにすることが必要です。

自分だけ席を広くとつたり、不行儀ななりをしたり、
いやしい言葉づかひをしたりしてはなりません。

集会場・停車場其の他、人がこみあつて順番を守らなければならない場所で、
人をおしのけて、われさきにと行つてはなりません。

又人の顔かたちやなりふりを笑ひ、悪口を言ふのはよくないことです。

外国人に対して礼儀に気をつけ、親切にするのは、文明国の人の美風です。

          <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その18 - 伝統

2016/12/18 (Sun) 04:38:50


★ 第二十一 「度量」

西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んで居た頃、
或日友人やカ士を集めて、庭で相撲をとつてゐると、
取次の者が来て、福井藩士で橋本左内といふ人が見えて、
「ぜひお目にかゝりたいと申されます。」と言ひました。

一室に案内させ、着物をきかへて会つて見ると、
左内は二十歳あまりの、色の白い、女のやうなやさしい若者でした。

隆盛は心の中で、これではさほどの人物ではあるまいと見くびつて、
あまりていねいにあしらひませんでした。

左内は軽蔑されてゐることをさとりましたが、少しも気にかけず、

「あなたがこれまで国家の事にいろいろお骨折りになつてゐると聞いて、
したはしく思つてゐました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、
国家の為に尽したいと思ひます。」

と言ひました。

隆盛はそしらぬ顔で、

「いや、それは大へんなお間違です。私のやうな馬鹿者が国家の為をはかるなどとは、
思ひもよらぬことです。たゞ相撲が好きで、ごらんの通り、若者どもと一しよに、
毎日相撲をとつてゐるばかりです。」

と言つて、相手にしませんでした。

それでも左内は落ちついて、

「あなたの御精神はよく承知してゐます。そんなにお隠しなさらずに、
どうぞうちあけていたゞきたい。」

と言ひ、真心をこめて、自分の意見を述べました。

隆盛はぢつとそれを聞いてゐたが、左内の考が如何にもしつかりしてゐるので、
すつかり感心してしまひました。

隆盛は左内が帰つてから、友人に向ひ、

「橋本はまだ年は若いが、意見は実にりつぱなものだ。
みかけがあまりやさしいので、はじめ取りあはなかつたのは、自分の大きな過であつた。」

と言つて、深く恥ぢました。

隆盛は翌朝すぐに左内をたづねて行つて、

「昨日はまことに失礼を致しました。どうかおとがめなく、
これからはお心安く願ひたい。」

と言つてわびました。

それから二人は親しく交り、心をあはせて国家の為に尽しました。
左内が死んだ後まで、隆盛は、

「学問も人物も自分がとても及ばないと思つた者が二人ある。
一人は先輩の藤田東湖で、一人は友人の橋本左内だ。」

と言つてほめました。

          <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その19 - 伝統

2017/01/03 (Tue) 04:32:14


★ 第二十二 「信義」

加藤清正は信義の心の強い人でありました。

豊臣秀吉が明国を討つために、兵を朝鮮に出した時、
浅野幸長が蔚山の城を守つてゐたところへ、明国の大兵が攻めよせて来ました。

其の時、城中の兵が少い上に、敵がはげしく攻めるので、城は日にましあやふくなりました。
そこで、幸長は使を清正のところへやつて救を求めました。

清正はそれを聞いて、

「自分が本国をたつ時、幸長の父の長政がくれぐれも幸長の事を自分に頼み、
自分もまた其の頼を引受けた。今もし幸長のあやふいのを見て救はなかつたら、
自分は長政に対して面目が立たない。」

と言つて、すぐに部下の者を引きつれて出発しました。

清正は手向つて来る敵を僅かの兵で追散らして、蔚山の城にはいり、
幸長と力を合はせ、明国の大兵を引受けてこゝにたてこもり、
大そう難儀をしたが、とうとう敵を打破りました。

 格言 義ヲ見テ為ザルハ勇ナキナリ


★ 第二十三 「誠実」

清正は嘗て、石田三成等のざんげんで、秀吉の怒を受けて、
伏見の屋敷に謹慎してゐたことがありました。

ところが、或夜大地震があつて、多くの家が倒れました。
清正は秀吉の身の上を気づかつて、部下の者を引きつれてまつ先に城にかけつけ、
夜があけるまで、其の門を守つてゐました。

秀吉はそのやうすを見て、清正の誠実に感心して、怒もおのづととけました。

あくる日、清正を召出して、ざんげんのことを自分できゝたゞしLたが、
清正に罪のないことが明らかになつたので、
却つて前よりも厚く信用するやうになりました。

秀吉がなくなつた後、其の子の秀頼はまだ幼くて大阪城にゐました。
其の頃、徳川家康の勢が大そう盛になり、豊臣氏の恩を受けた者も
次第に家康について、秀頼をかへりみる者が少くなりました。

しかし、清正は相変らず秀頼の為に心を尽し、大阪を通るたびに、
きつと秀頼の安否をたづねました。

家康はそれをきらつて、そつと人にいひふくめて、やめさせようとしました。

清正は「大阪を通りながら、秀頼公のごきげんを伺はないのは武士の道でない、
又太閤の御恩を忘れてはすまない。」と言つて、聞きませんでした。

或時、秀穎が家康から京都まで面会に来るやうにと言つて、招かれたことがありました。
秀頼の母は家康に敵意のあることを気づかつて、秀頼の京都に行くことに同意しませんでした。

けれども清正は、この事で両家の仲が悪くなつてはならないと考へて、
「私が命にかけてお護り申しますから、ぜひお出を願ひます。」と言つてすすめました。
それで秀穎は清正と一しよに京都へ行くことになりました。

清正は秀頼が家康と対面する間はもちろん、往復の途中でも少しも側を離れずに、
秀頼の身を護つて、無事に大阪に帰りつきました。

其の時、清正は、「今日はいさゝか太閤の御恩に報いることが出来た。」と言つて、
涙をこぼして喜びました。

          <感謝合掌 平成29年1月3日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その20 - 伝統

2017/01/18 (Wed) 04:27:33

★ 第二十四 「謝恩」

豊臣秀吉の夫人は織田信長の足軽の娘であります。

信長の家来に伊藤右近といふ人があつて、
夫人の生まれた時から引取つて親切に養育し、
大きくなると世話をして奉公に出しました。

其の頃、秀吉は木下藤吉郎といつてまだ低い身分であつたが、
夫人を妻にもらはうと思つて、其のことを申し入れました。

夫人はまづ右近の所へ行つて相談すると、右近は、
「藤吉郎はちゑのすぐれた人だから、末の為によろしからう。」と言つて、
いろいろ支度をとゝのへて、藤吉郎と結婚させました。

其の後、藤吉郎は次第に立身して、とうとう太閤秀吉といつて、
日本国中の人から尊ばれる身となつたが、昔世話になつた右近のことを忘れず、
方々をさがさせて、やつとたづね出し、其の妻と一しよに大阪城につれて来させました。

秀吉夫婦は大そうねんごろに右近等をいたはり、昔のことなどを言出し、
涙を流して世話になつた礼を言ひ、夫人自らたくさんの物を持出して与へました。

此の時、夫人は右近等の側により、
「お身等の綿入は汚れてゐるから、私が洗濯してあげませう。」と言つて、
別に着物を出して着かへさせました。

それから十日程たつて、右近夫婦を招いて、
「さきの洗濯が出来ました。」と言つて渡しました。

秀吉は右近に禄を与へて、大阪に住まはせることにしました。

・・・

<参考Web:ねねの人物エピソードや偉業
       http://r-ijin.com/nene/ >

          <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その21 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 04:26:13


★ 第二十五 「博愛」

紀伊の水夫虎吉等は、蜜柑を船に積んで江戸に行き、其の帰途で、暴風にあひました。
船は山のやうな大波にゆられて、遠くの方へ吹流され、
二箇月ばかりも大洋の中をたゞよひました。

其の間に、食物も飲料水もなくなつて、大そう難儀をしました。

或日、ちようど通りあはせたアメリカ合衆国の捕鯨船が虎吉等を見つけて、救ひ上げ、
パンなどを与へて、親切にいたはりました。

船長がどこの者かときいたが、言葉が通じないので、地図を出して見せて、
やつと紀伊の人といふことがわかりました。
それから、この船は北の方へ鯨を捕りに行き、半年ばかりたつて、
帰りに、船長は便船に頼んで虎吉等を香港まで送り届けました。

そこには仕立屋をしてゐる日本人があつて親切に世話をし、
フランスの船に頼んで上海まで送つてくれました。

それから虎吉等は支那の役人の保護を受け、
便船に乗つて、やつと我が国に帰ることが出来ました。

郷里では3年もたよりがないから、死んだことと思つてゐたところへ、
無事に帰つて来たので、夢かとばかり喜びました。

知つてゐる人も知らない人も博く愛するのが人間の道であります。

いろいろ災難にあつて困つてゐる者を救ふのはもちろん、
たとひ敵でも、負傷したり、病気になつたりして苦しんでゐる者を助けるのは、
博愛の道です。

明治三十七八年戦役に上村艦隊が敵の軍艦リューリクを打沈めた時、
敢のおぼれ死なうとする者を六百余人も救ひ上げたのは、名高い美談であります。


<参考Web>

(1)「上村彦之丞」なぜロシアの“海賊”を助けたのか
       → http://president.jp/articles/-/1360

(2)名将の本領② =臨機応変・船乗り将軍 上村彦之丞
       → http://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/17174110.html

          <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その22 - 伝統

2017/02/16 (Thu) 04:43:02


★ 第二十六 「徳行」

中江藤樹は近江の小川村の人であります。
幼い時から祖父の家に養はれ、其の後をついで、伊与の大洲侯に仕へてゐましたが、
故郷の母を養ふために、役をやめて小川村へ帰りました。

藤樹は貧しい中で、年よつた母に事へて孝行を尽し、又熱心に学問に励んだので、
とうとう徳の高い学者となりました。

そこで、藤樹をしたつて、遠い所からはるばる教を受けに来る者も多く、
馬子のやうな、学問をしない者までも、其の徳に感化されました。

それで世間の人が皆、藤樹を敬つて近江聖人といひました。
藤樹がなくなつてから、長い年月がたつてゐるが、
村の人たちは今でも其の徳をしたつて、年々の祭をしてゐます。

或年、一人の武士が小川村の近くを通るついでに、藤樹の墓をたづねようと思つて、
畑を耕してゐる農夫に道をきゝました。

農夫は自分が案内しようといつて、先に立つて行つたが、
途中で自分の家に立ちよつて、着物をきかへ、羽織まで着て来ました。

武士は心の中で、自分を敬つて、かやうにしたのだらうと思つてゐました。
藤樹の墓についた時、農夫は垣の戸をあけて、武士を其の中にはいらせ、
自分は戸の外にうやうやしくひざまづいて拝みました。

武士はそこではじめて、さきに農夫が着物をきかへたのは、
全く藤樹を敬ふためであつたと気がついて、
深く感心して、ていねいに墓を拝みました。

・・・

<参考Web:中江藤樹>

(1)近江聖人 中江藤樹 『孝』
       http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/63657171.html

(2)本流宣言掲示板「忍」子記事~百忍の詩 (5146)日時:2011年10月30日
     → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1067

(3)光明掲示板・第二「親への感謝・親孝行」子記事
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=15

  ①「近江聖人」(中江藤樹)が示した親孝行とは? (3721)日時:2013年12月18日

  ②親孝行のたねまき (8689)日時:2014年06月02日

  ③<中江藤樹先生と母親> ~橋本 徹馬 師 (10571)日時:2014年07月30日

          <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第三期 尋常小学修身書~その23 - 伝統

2017/03/07 (Tue) 04:34:32


★ 第二十七 「よい日本人」

我が大日本帝国は万世一系の天皇を戴き、
御代々の天皇は我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、
我等臣民は数千年来、心をあはせて克く忠孝の道に尽しました。

これが我が国の世界に類のないところであります。
我等は常に天皇陛下・皇后陛下・皇太后陛下の御高徳を仰ぎ奉り、
祖先の志を継いで忠君愛国の道に励まなければなりません。

忠君愛国の道は君国の大事に臨んでは、挙国一致して奉公の誠を尽し、
平時にあつては、常に大御心を奉じて各自分の業務に励んで、
国家の進歩発達をはかることであります。

我等が市町村の公民としてよく其の務を尽すのは、
やはり忠君愛国の道を実行するのであります。

父母には孝行を尽して其の心を安んじ、
兄弟は仲よくして互に助け合ひ、
主婦はよく家を治め子供を教養しなければなりません。

人に交つては信義を重んじ度量を大きくし、殊に朋友には交を厚くし、
人から受けた恩を忘れず、世に立つては産業を興し、公益を広め、礼儀を重んじ、
衛生の心得を守り、又博く人を愛し誰にも親切にしなければなりません。

常に誠実を旨とし、進取の気象を養ひ、自己に信頼し、勇気を励まし、
よく忍耐し、勤労を重んじ、倹約を守らなければなりません。

又身体の健康を進め、学問に勉め、徳行を修めるやうに心掛けることが大切です。

是等の心得を守るのは、数百に関する勅語の御趣意にかなふわけであります。
我等はこの御趣意を深く心にとめ、至誠をもつて是等の心得を実行し、
あつぱれよい日本人とならなければなりません。

          <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>

幻の「第二教育勅語」 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 04:38:19

森友学園問題で注目。知られざる幻の「第二教育勅語」とは?

            *Web:MAG2NEWS(国内2017.03.07)より

歴史家の八幡和郎氏といえば、蓮舫氏の二重国籍問題で強硬な論陣を張っていた人で、
この点に関しては私は賛同しかねます。

ですが、史家としては、情報へのセンスとバランス感覚に不思議な味があり、
100%とまでは言いませんが、興味深い指摘をしている方でもあります。

その八幡氏は、昨今話題の教育勅語について


   明治末期には教育の基本とするには時代遅れといわれ、
   西園寺文部大臣が国際性や女性の重視を加えた新しい勅語の制定を図り
   明治天皇の了承も得ていた。

   それが、明治天皇の崩御で改正の機会を失い、
   逆に大正や昭和を通じて不磨の大典化されてしまって弊害も多かった。


とコメントしています。

私は西園寺の「第二教育勅語」というのは不勉強で承知しておりませんでした。
この八幡氏の指摘で初めてその存在を知り、その中身を見てみることができました。

その全体像は、この論文の15ページにあります。

● 文部大臣西国寺公望の文教政策(https://core.ac.uk/download/pdf/35266813.pdf

文章のリズムや格調などクオリティとしては草稿ということで「イマイチ」なのですが、
色々と興味深い記述があったのも事実です。

例えば、中ほどに出てくる


   彼ノ外ヲ卑ミ内ニ誇ルノ随習ヲ長ジ、人生ノ模範ヲ衰世逆境ノ士ニ取リ
   其危激ノ言行ニ佑ハントシ、朋党比周上長ヲ犯スノ俗ヲ成サントスルカ如キ、
   凡如此ノ類ハ皆是青年子弟ヲ誤ル所以ニシテ恭倹己レヲ持シ、
   博愛衆一一及ホスノ義ニ非ズ。


という辺りは西園寺だけでなく、一説によれば陸軍の秋山好古なども
関与したというだけあって、非常にシャープな感じがします。

特に「衰退時の逆境の士を人生の模範にして、その過激な言動を真似しようとしてはならない」
というのは、非常に重たい指摘です。

楠木父子、赤穂浪士に新撰組という種類を教育の中で美化してはダメだと言っているんですね。
これは重要な指摘と思います。


後は、結語の部分も立派ですね。


   教育ニ懐クモノハ深ク朕カ深衷ニ顧ミ、
   百年国猷ノ在ル所ニ遵由シテ教育ノ方向ヲ誤ルコトナキヲ勉メヨ。


教育は「国家百年の大計に依拠しなくてはならない」というのは、実に重いです。

    (http://www.mag2.com/p/news/242012

・・・         

【「第二の教育勅語」】(文部大臣西国寺公望が起草、その後文部大臣退任で世に出ず)

教育ハ盛衰治乱ノ係ル所ニシテ国家百年ノ大猷ト相ヒ伴ハザル可カラズ。
先皇国ヲ開キ朕大統ヲ継キ旧来ノ植習ヲ破リ、知識ヲ世界ニ求メ上下一心孜々トシテ怠ラズ。
此ニ於テ乎開国ノ国是確立一定シテ、復タ動ス可カラザルヲ致セリ。

朕嚢キニハ勅語ヲ降タシテ教育ノ大義ヲ定ト雄モ、
民間往々生徒ヲ誘披シ後進ヲ化導スルノ道ニ於テ其歩趨ヲ誤ルモノナキニアラズ。

今ニ於テ之ガ矯正ヲ図ラズンパ他日/大悔ヲ来サザルヲ保セズ。

彼ノ外ヲ卑ミ内ニ誇ルノ随習ヲ長ジ、
人生ノ模範ヲ衰世逆境ノ士ニ取リ其危激ノ言行ニ佑ハントシ、
朋党比周上長ヲ犯スノ俗ヲ成サントスルカ如キ、


凡如此ノ類ハ皆是青年子弟ヲ誤ル所以ニシテ恭倹己レヲ持シ、
博愛衆ニ及ホスノ義ニ非ズ。

戦後努メテ騎泰ヲ戒メ謙抑ヲ旨トスルノ意ニ惇ルモノナリ。

今ヤ列国ノ進運ハ日一日ヨリ急ニシテ東洋ノ面白ヲ一変スルノ大機ニ臨ム。
而シテ条約改訂ノ結果トシテ与国ノ臣民ガ来テ生ヲ
朕ガ統治ノ下ニ托セントスルノ期モ亦目下ニ迫レリ。

此時ニ当リ朕ガ臣民/与国ノ臣民ニ接スルヤ丁寧親切ニシテ、
明ラカニ大国寛容ノ気象ヲ発揮セザル可力ラズ。

抑モ今日ノ帝国ハ勃興発達ノ時ナリ。
藷然社交/徳義ヲ進メ、欣然各自/業務ヲ励ミ責任ヲ重シ、軽騒/挙ヲ戒メ、
学術技芸ヲ煉磨シ、以テ富強/根祇ヲ培ヒ、

女子ノ教育ヲ盛ニシテ其地位ヲ嵩メ夫ヲ輔ケ子ヲ育スルノ道ヲ講セサル可カラズ。
是レ実ニ一日モ忽諸ニ付ス可カラサルノ急務ナリ。

朕ガ日夜鯵念ヲ労スル所以ノモノハ、
朕ガ親愛スル所ノ臣民ヲシテ文明列国ノ問ニ伍シ、
列国ノ臣民ガ欣仰愛慕スルノ国民タラシメント欲スルニ外ナラズ。

爾有衆父兄タリ、師表タリ。

或ハ志ヲ教育ニ懐クモノハ深ク朕カ深衷ニ顧ミ
百年国猷ノ在ル所ニ遵由シテ教育ノ方向ヲ誤ルコトナキヲ勉メヨ。



          <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その1 - 伝統

2017/05/16 (Tue) 04:47:04


★ 「国法を重んぜよ」

昔、ギリシヤに、ソクラテスという賢人がありました。
ソクラテスは、若い時から、国を愛する心が深く、三度も戦争に出て、
国のために勇ましく戦いました。

中年以後は、世人の迷をとき、正しい道をさとらせようとして、
毎日町に出て人々と語り合いました。

彼の真心のこもった道理のある話に、皆引きつけられて、
次第に其の教に耳をかたむける者が多くなりました。
殊に、青年は、彼の説に心服してしまいました。

ソクラテスのひょうばんが高くなるにつれて、
ソクラテスに言いこめられた人々やソクラテスを誤解している人々は、
彼をにくむようになりました。

そうして、これらの人々は、しまいには、ソクラテスを罪におとしいれようとして、

「ソクラテスは、ギリシヤの青年を惑わす者である。」

と言って、彼をうったえました。

ソクラテスは、法廷で、自分の正しいことを堂々と弁明しましたが、
陪審の人々の投票によってソクラテスに罪があることにきまり、
とうとう彼に死刑が言渡されました。

ソクラテスを信ずる人々は、どうかして彼を助けたいと思いました。
ソクラテスの親しい弟子に、クリトンという人がありました。

彼を助ける方法をいろいろ考えた末、或日牢屋へ行って、彼に面会して、

「あなたは、罪もないのに、死ななければならないわけはありません。
今、ここを逃出す方法がありますから、すぐにお逃げなさい。」

と言って、しきりにすすめました。

しかし、ソクラテスは、クリトンの熱心なすすめに従おうとしませんでした。
かえって、いつものようにおだやかに、

「クリトン、お前の親切はありがたい。
しかし、お前もよく知っている通り、私は、今日まで正しい道をふみ行い、
人にもそうするようにすすめて来たのである。

それを今、自分の命がおしいからと言って、
一たん国法の命じたことにそむくようなことがどうして出来よう。
国民たる者がそんな不正なことをするようでは、国は立って行くものではない。

私も、私の父母や祖先も、皆国恩を受けて、一人前の人間になった。
国あっての私たちです。
国法の命ずることなら、どんなことでもそれに従うべきである。

私は我が国を愛し、死を決して三度も出征した。
それ程愛する我が国の、神聖な国法を踏みにじって、今さらどこへ逃げて行く気になれよう。
クリトンよ、私たちは国法を守らなければならない。」

と説ききかせて、落着いていました。

          <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その2 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 04:05:42


★ 第九 「倹約」

上杉鷹山は、10歳の時に、秋月家から上杉家へ養子に来ました。
14歳の時から、細井平洲を先生として学問にはげみました。
17歳の時、米沢藩主となり、よい政治をしてひょうばんの高かった人であります。

鷹山が藩主になった頃は、上杉家には借財が多く、
其の上、領内には凶作が続いて、領民も大そう難儀をしていました。

鷹山は、此のままにしておいては家の亡びるのを待つより外はないと考えて、
倹約によって家を立て直し、領民の難儀をすくおうとかたく決心しました。

鷹山は、先ず江戸にいる藩士を集めて、

「此のまま当家の亡びるのを待っていて、人々に難儀をかけるのは、まことに残念である。
これ程衰えた家は立て直す見込がないと誰も申すが、しかし此のまま亡びるのを待つよりも、
心をあわせて倹約をしたら、或は立ち行くようになるかも知れない。

将来のために、今日の難儀は忍ばなければならない。
志を一にして、みんな一生けんめいに倹約しよう。」

と言いきかせました。しかし、藩士の中には、鷹山に従わないで、

「殿様は小藩におそだちになったから、大藩の振合を御存知ない。」

などと悪口を言う者もあり、又、

「皆の喜ばないことは、おやめになった方がよろしゅうございましょう。」

といさめる者もありました。

しかし、鷹山は少しも志を動かさず、
藩士たちに倹約の大切なことをよく説ききかせました。

なお平洲に教を受けますと、平洲は、

「勇気をはげまして志を決行なさいませ。」

と言いましたので、鷹山は益々志をかたくして、領内に倹約の命令を出しました。

そうして、先ず自分のくらしむきをずっとつづめて、
大名でありながら、食事は一汁一菜、着物は木綿物ときめて、実行の手本を示しました。

鷹山は、或日平洲に向かって、

「先生、私は人々と難儀を共にしようと思って倹約をしています。
しかし、衣服も、上に木綿の物を着て下に絹・紬をかさねていては、
ほんとうの倹約になりませんから、下着も皆木綿の物を用いて居ります。」

と申しました。

かように鷹山は誠実に倹約を守っていましたが
、りっぱな大名が、まさか、上衣はもちろん下着までも木綿を用いようとは、
側役の人たちの外、誰も信じませんでした。

或日、鷹山の側役の者の父が在方へ行って、知合の人の家にとまったことがありました。
其の人がふろにはいろうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿の襦袢だけは、
ていねいに屏風にかけて置きました。

主人はふしぎに思って、

「どうして襦袢だけそんなに大事になさいますか。」

と尋ねますと、客は、

「此の襦袢は、殿様がお召しになっていたものをいただいたのですから。」

と答えました。

主人は、それを聞いて、大そう藩主の倹約に感じ入り、
其の襦袢を家内の人たちにも見せて、倹約をするようにいましめました。

それから、藩士はもちろん、領内の人々が此の話を伝え聞いて、
鷹山の倹約の普通でないことを知り、互につつしみ、よく倹約を守るようになったので、
しまいには、上杉家も領内一般もゆたかになりました。

          <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その3 - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:39:25


★ 第十 「産業を興せ」

鷹山は、領民の難儀をすくうため、倹約をすすめた上に、
なお産業を興して領内を富まそうとはかりました。

荒地を開いて農業をいとなもうとする者には、農具の費用や種籾などを与え、
3年の間の租税を免じました。

鷹山は、自ら荒地を開く所を見てまわり、或は村々に入って、
耕作の有様を見て人々の苦労をなぐさめました。
時には、老婆の稲刈にいそがしいのを見て、其の運搬を手伝ってやったこともありました。

又命令を出して、村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりなどして、
農業を盛にする助としました。

鷹山は、又養蚕をすすめました。
領内には、まずしくて桑を植えることの出来ない者も多くいましたが
、藩には貸与える金がないので、鷹山は役人を呼んで、

「物事は、急に成しとげようと思ってはならない。
小を積んで大を成し、ながく続くようにすることが大切である。
自分の衣食の費用は出来るだけきりつめてあるが、なおしんぼうして、
毎年五六十両ずつ出そう。

それを養蚕奨励の費用にあてて、十年二十年とたったならば、どれ程か結果があらわれよう。
自分が倹約して養蚕をすすめると聞いたなら、財産のある者は、進んで土地を開き、
桑を植えて蚕を飼おうとする考を起すであろう。」

と言いました。

役人は、大いに感じ入って、養蚕役場を設け、鷹山の衣食の費用の中から
年々五十両ずつ出して、其の金で桑の苗木を買上げて分けてやり、
又は桑畑を開く費用として貸付けてやって、其の業をはげましました。

なお鷹山は、奥向で蚕を飼わせ、其の糸で絹や紬を織らせました。
又領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとい入れて、
其の方法を教えさせました。これが名高い米沢織の始であります。

鷹山はかように心を産業に用いましたから、領内は次第に富み、
養蚕と機織とは盛に其の地方に行われ、米沢織は、全国に名高い産物の一つとなりました。   

   なせばなるなさねばならぬ何事も
            ならぬは人のなさぬなりけり

          <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その4 - 伝統

2017/07/03 (Mon) 03:24:33


★ 第十一 「進取の気象」

伊藤小左衛門は伊勢の室山の人で、味噌・醤油の製造を業としていました。
小左衛門は一家の人々と心をあわせて家業にはげんだので、家は次第に繁昌し、
室山味噌のひょうばんは世間に高くなりました。

或年、大地震があって、其の倉がおおかたつぶれました。
其の上、雨が長く降続いて、味噌・醤油は大てい腐ってしまいました。
其のために、さしも繁昌していた伊藤の家もにわかに衰えました。

世間の人は、「いくら室山の味噌屋でも、あれ程の災難にあっては、
もとの身代になることはむずかしかろう。」と、うわさし合っていました。

小左衛門には3人の弟がありましたが、小左衛門は弟たちと、
「今から兄弟が心をあわせ、他人の力にたよらないで、一生けんめいに家業にはげみ、
3年の後には、きっともとの通りに家を繁昌させて見せよう。」とちかい、
兄弟手わけをして、日夜仕事につとめました。

そうして3年たたないうちに、前よりもりっぱな倉が出来、
もとの通りに家が繁盛するようになりました。

其の後、横浜の港が開けた頃、小左衛門は、或日書物を読んで、
外国では茶や生糸の需要が多いことを知り、それらの品を外国に売出して
国益を増そうと思い立ち、製茶・製糸の業を始めました。

小左衛門は、先ず横浜へ行って、外国人相手の商売の様子を調べました。
そうして、人を方々にやって茶を買集めさせ、これを横浜へ送って外国人に売りました。

それから、野山を開いて茶の木を植え、栽培のしかたに苦心し、
製茶の法にも工夫をこらしたので、数年の後には、よい茶がたくさん出来て、
外国に売出すようになりました。

始め、其の地方の人々にも茶の木を植えることをすすめましたが、
誰もきき入れなかったのに、小左衛門の成功を見て、
我も我もと、製茶を始めるようになりました。

小左衛門は又桑を植えて蚕を飼い、製糸業を興しました。
始はわずか二人の工女をやとい、手ぐりで糸をとらせ、
それから、次第に人数を増して仕事を大きくしました。

しかし、手ぐりではどうしてもよい品が出来ないので、
機械で糸をとることを思い立ちました。

製糸にけいけんのある人たちに聞くと、機械で糸をとるのは利益が少ない
ということでしたが、小左衛門は、

「手ぐりでは、とても外国に向く糸はとれぬ。
ただ目さきの利益ばかりを考えては、品質の改良は出来るものではない。」

と言って、機械をすえて製糸を始めましたが、果して出来ばえがわるくて損をしました。

そこで、小左衛門は上野の富岡へ行って、製糸法を調べて帰り、
機会を改め、その数を増して仕事にはげみました。
ところが、やはりよい品が出来ず、また損をしました。

しかし一度や二度の損や失敗に屈する小左衛門ではありません。
さらに新しい蒸気機械をすえ付け、又親類の者を富岡へやって製糸法を習わせ、
一生けんめいに製法の進歩をはかりました。

かように苦心に苦心を重ねた末、とうとう外国商人もほめる程の
よい品が出来るようになりました。
又其のために此の地方の製糸業もだんだん盛になって来ました。

・・・

<参考 動画>
5世伊藤小左衛門(後編)
https://www.youtube.com/watch?v=z52V0U_CnSQ

          <感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その5 - 伝統

2017/07/18 (Tue) 03:34:14


★ 第十二 「自信」

アメリカ発見で名高いコロンブスは、今からおよそ五百年程前、
イタリヤのゼノアに生まれました。
海が好きで、十四の時から船乗になりました。

其の頃は、地理の学問が開けず、又さまざまの迷信があって、
まだ遠洋の航海を企てる者はありませんでした。

コロンブスは、いろいろの記録や報告を深く研究して、
「世界は水と陸とで出来ていて、其の形は球のようなものである。」という説を信じ、
「ヨーロッパから西へ向かってどこまでも進んで行けば、きっとアジヤの東部、
日本か支那に達することが出来る。」と言出しました。

しかし、其の頃の人は、世界は平たいものとばかり思っていたので、
コロンブスの言うことを誰一人として信ずる者がなく、ただあざけり笑うばかりでした。

コロンブスは、少しもそれに屈せず、さらに熱心に研究を続けて、
いよいよ自分の考えていることにまちがいはないとかたく信じました。

それからは、すっかり心が落着いて、誰の前に出ても、
自分の考ははっきりと言えるし、人のひょうばんなどで
心を動かすようなこともなくなりました。

コロンブスは、自分の考え通りに航海してヨーロッパからアジヤに至る航路を
開きたいと思い立ち、航海の費用を出してくれる人を探して、久しい間、
ヨーロッパの各地を旅行しました。

しかし、誰もコロンブスの企を助けてくれる人がなく、非常な貧苦におちいり、
其の日の食物にも困るようになりました。

しまいに、イスパニヤの皇后イサベラにお目にかかることが出来、
其の志をのべて助をこいました。皇后はコロンブスの人物を見込み、
又其の企の決して空想でないことを信じて、願い通りに費用を出されることとなりました。

そこでコロンブスは三ぞうの帆前船を仕立て、百二十人の水夫を乗込ませ、
喜び勇んでイスパニヤの港を出帆しました。

それから、大西洋を西へ西へと進んで幾日か過ぎました。
行っても行っても水また水で、陸地の影さえ見えません。
水夫たちは、心配になって来ました。

やがて自分たちの船の二倍も三倍もあったかと思われる船の帆柱が
ただよっているのを見つけました。それを見ると、水夫たちは恐しくなって、
とてもこんな小船で行ける処ではないと言ってさわぎ出しました。

しかし、コロンブスは自信に満ちて、顔色も変えず、静かに水夫たちをなだめました。

一度は大あらしに出あったこともありましたが、
幸い三ぞうがはなればなれになることもなく、それからは追風になって、
船は矢のように走りました。

或日、陸地が見えたという合図の鉄砲が鳴りました。
行手を見渡すと、なるほど黒い島が横たわっています。
喜んで船を走らせると、どこまで行っても島らしいものはなく、
翌朝になって一片の雲であったことがわかりました。

そんなことが度々あって、水夫たちは全く失望してしまいました。
そうして、すぐにイスパニヤに引返してくれなければ、
コロンブスを海に投込んで、自分たちだけで帰ろうとたくらみました。

コロンブスは水夫たちをおどしたりすかしたりして、なお先へ先へと進行を続けました。
或夜、コロンブスは、前方に当って火の光を見たと思いました。
其の夜明に近く、先頭の船から合図の砲声が聞えました。

果して、はるかかなたに陸地が見えて来ました。
それはイスパニヤを出帆してから、ちょうど七十一日目の朝のことでした。
人々は喜び勇んで、望を達したことを祝し、皆コロンブスの先見に服し、
さきにののしりさわいだことをわびました。

コロンブスが上陸したのは、今のサンサルバドル島でした。
コロンブスは、これをアジヤの東部にちがいないと思って、
一たんイスパニヤに帰って皇后に報告しました。

それから二度三度と航海して、三度目に始めてアメリカの新大陸を発見したのでした。

          <感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その6 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:07:10


★ 第十五 「度量」

西郷隆盛が江戸の鹿児島藩の屋敷に住んでいた頃、
或日、友達や力士を集めて庭で相撲をとっていると、取次の者が来て、

「福井藩の橋本左内という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されます。」

と言いました。

一室に通し、着物を着かえてあって見ると、
左内は、二十歳余りの、色の白い、女のようなやさしい若者でした。
隆盛は、心の中で、これではさほどの人物ではあるまいと見くびって、
余りていねいにあしらいませんでした。

左内は、自分が軽蔑されていることをさとりましたが、少しも気にかけず、

「あなたがこれまでいろいろ国事にお骨折りになっていると聞いて、
したわしく思っていました。私もあなたの教を受けて、及ばずながら、
国のために尽くしたいと思います。」

と言いました。

ところが、隆盛は、こんな若者に国事を相談することは出来ないと思って、そしらぬ顔で、

「いや、それは大変なおまちがいです。私のようなおろかな者が国のためをはかるなどとは、
思いも寄らぬことです。ただ相撲が好きで、御覧の通り、若者どもと一しょに、
毎日相撲をとっているばかりです。」

と言って、相手にしませんでした。それでも、左内は落着いて、

「あなたの御精神は、よく承知しています。
そんなにお隠しなさらずに、どうぞ打ちあけていただきたい。」

と言って、それから国事について自分の意見をのべました。

隆盛はじっと聞いていましたが、左内の考がいかにもしっかりしていて、
国のためを思う真心のあふれているのにすっかり感心してしまいました。

隆盛は、左内が帰ってから、友達に向かい、

「橋本はまだ若いが、意見は実にりっぱなものだ。
見かけが余りやさしいので、始め相手にしなかったのは、自分の大きな過であった。」

と言って、深く恥じました。

隆盛は、翌朝すぐに左内をたずねて行って、

「昨日はまことに失礼しました。どうかおとがめなく。これからはお心安く願います。」

と言ってわびました。それから、二人は親しく交り、心をあわせて国のために尽くしました。

左内が死んだ後までも、隆盛は、

「学問も人物も、自分がとても及ばないと思った者が二人ある。
一人は先輩の藤田東湖で、一人は友達の橋本左内だ。」

と言ってほめました。

          <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その7 - 伝統

2017/08/13 (Sun) 04:45:47


★ 第十六 「朋友」

新井白石は、九歳の時から日課を立てて、
少しのひまもむだにせず、一生けんめいに学業にはげみました。

後、木下順庵という名高い学者の弟子となって、
貧苦をこらえて益々勉強したので、日に日に学問が深くなりました。

順庵は、白石を見込んで、自分の昔仕えていた加賀の藩主に推薦することにしました。
加賀は百万石の大藩で、藩主もひょうばんの高いすぐれた人でした。
其の頃、順庵の弟子に岡島石梁という者がありました。

其の事を聞いて、白石に向かい、

「加賀は自分の郷里で、家には年よった母がただ一人、自分の帰る日を待ちくらしている。
此の頃来た手紙で見ると、大そう老い衰えたようで、心細いことばかり書いている。
もし先生のおとりなしで、自分が加賀の殿様に仕えることが出来たら、
母もどんなに喜ぶか知れない。」

と言いました。白石はそれを聞くと、すぐに順庵の所へ行き、其のわけを話して、

「私はどこでもよろしゅうございます。加賀へはどうか岡島を御推薦下さい。」

と願いました。順庵は白石が友情に厚いのに感心して、其の通りにしました。

そこで石梁は、喜んで、故郷に錦をかざることになりました。

翌年、甲斐の藩主から、順庵の一の弟子を召しかかえたいと申し込んで来たので、
白石は順庵の推薦によって、甲斐の藩主に仕えることになりました。

          <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その8 - 伝統

2017/08/28 (Mon) 04:34:26


★ 第十七 「信義」

加藤清正は、豊臣秀吉と同じく尾張の人であります。

三歳の時、父をうしない、母の手で育てられていましたが、
母が秀吉のいとこの間柄でしたから、後には秀吉の家に引取られて育てられました。

十五歳の時、一人前の武士として秀吉に仕え、度々軍功をたてて、
次第にりっぱな武将となり、後には肥後を領して秀吉の片腕となりました。

秀吉は、其の頃乱れていた国内をしずめ、更に明国を討つために、兵を朝鮮へ出しました。
清正は、一方の大将となって、彼の地へ渡りました。

清正の親しい友達に、浅野長政という人がありましたが、
其の子の幸長も、朝鮮に渡って勇ましく戦っていました。

ところが、或時、幸長が蔚山の城を守っていた所へ、明国の大兵が攻寄せて来ました。
城中には兵が少い上に、敵がはげしく攻立てるので、城はたちまち危くなりました。

そこで、幸長は、使を清正の所へやってすくいを求めました。
清正の手もとには、敵の大兵に当る程の兵力がありませんでした。

けれども、清正は、其の知らせを聞くと、

「自分が本国をたつ時、幸長の父長政が、くれぐれも幸長の事を自分に頼み、
自分もまた其の頼みを引受けた。今もし幸長を早くすくわなかったら、
自分は長政に対して面目が立たない。」

と言って、身の危険をかえりみず、部下の五百騎を引連れて、すぐに船で出発しました。
味方の船は、僅かに二十そうばかり、清正は、銀の長帽子のかぶとをつけ、
長槍をひっさげ、船のへさきに突立って部下を指揮し、手向かって来る数百そうの敵船を
追散らし囲を破って蔚山の城にはいりました。

それから、幸長とここに立てこもり、力を合わせて、明国の大兵を引受け、
さんざんにこれをなやましました。其のうちに、ひょうろうが尽き、飲水もなくなって、
非常に難儀をしましたが、とうとう敵を打破りました。

格言_義ヲ見テ為ザルハ勇ナキナリ。

          <感謝合掌 平成29年8月28日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その9 - 伝統

2017/09/13 (Wed) 04:37:41


★ 第十八 「誠実」

清正は、嘗て石田三成等のざんげんで秀吉の怒を受けて、
伏見の屋敷に謹慎していたことがありました。

其の時、或夜大地震があって、たくさんの家が倒れました。

清正は、秀吉の身の上を気づかって、二百人ばかりの部下を引連れて、
真先に伏見の城にかけつけ、夜が明けるまで城門を守っていました。

秀吉がはるかに清正を見ますと、清正は、此の年月遠く外国に出て戦ったため、
日にやけて色も黒く、やせ衰えていました。
其の難儀を重ねた様子がいかにも気の毒でしたので、
秀吉も思わず涙を流して清正の遠征の苦労を思いやりました。

そうして、今夜の清正の行に感心して怒もおのずからとけました。
そこで、あくる日、清正を呼出して、ざんげんのことを自らききただしたが、
清正に罪のないことが明らかになったので、かえって褒美を与えてほめました。

秀吉がなくなった後、其の子の秀頼は、まだ幼くて、大阪城にいました。
其の頃、徳川家康の勢が大そう盛になり、豊臣氏の恩を受けた者も、
次第に家康について、秀頼をかえりみる者が少くなりました。

しかし、清正は相変らず秀頼のために心を尽くし、大阪を通る度に、
きっと秀頼の安否を尋ねました。

家康は、それをきらって、そっと人に言いふくめて、やめさせようとしました。

清正は、

「大阪城を通りながら、秀頼公の御きげんを伺わないのは、武士たる者の道ではない。
又太閤の御恩を忘れては相すまない。」

と言って、ききませんでした。

或時、秀頼は、家康から、京都で対面したいと申し込まれました。
秀頼の母は、家康に敵意のあることを疑って、
秀頼が京都に行くことに同意しませんでした。

けれども、清正は、もし秀頼が此の対面をことわったなら、
豊臣氏と徳川氏との仲が悪くなるであろうと心配して、

「私が命にかけておまもり致しますから、ぜひお出でを願います。」

と言ってすすめました。そこで、秀頼は、清正と一しょに京都へ行くことになりました。

清正は、途中、徒歩で秀頼の乗物の側につきそって、京都の家康の所へ行きました。
家康は、自らげんかんまで秀頼を出迎えて奥の間に通し、互にあいさつをかわし、
それから御ちそうをしました。

清正もおしょうばんをしましたが、よい頃をはかって、

「さぞ、大阪では、お待ちかねのことでございましょう。さあ、お立ちなさいませ。」

と申しましたので、家康も、

「御もっとも。さてもさても、御成人でおめでたい。」

と言って、みやげをおくり、げんかんまで見送りました。

清正は、二人の対面の間は、少しもゆだんなく秀頼の側に居り、
帰りにも秀頼の身をまもって、無事に大阪に帰り着きました。

其の時、清正は、万一の用意にと、かねてふところに入れていた短刀を取出し、

「今日、いささか太閤の御恩に報いることが出来た。」

と言って、涙を流しました。

          <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その10 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 04:32:41


★ 第十九 「謝恩」

豊臣秀吉の夫人は高台院といって、
夫によく事えて、内助の功の多かった人であります。

夫人はもと織田信長の足軽杉原助左衛門という者の娘でした。
生まれた時から、同じ信長の家来の伊藤右近という人に世話になり、
親切に養育されました。

大きくなると、よい家に奉公に出してもらい、行儀などを見習いました。

其の頃秀吉は、木下藤吉郎といってまだ低い身分でしたが、
夫人を妻にもらおうと思って、其のことを申し入れました。

夫人は先ず右近の所へ行って相談すると、右近は、
「藤吉郎はちえのすぐれた人だから、末のためによろしかろう。」
と言って嫁入させました。

其の時、右近は、貧しい中から、
夫人に、夜着・ふとんや、鏡・くし・こうがいなど、
いろいろの支度をととのえて与えました。

其の後、藤吉郎は、次第に立身出世し、とうとう太閤秀吉といって、
日本国中の人から敬われる身になりました。

太閤夫人となった高台院は、昔世話になった右近夫婦のことを忘れず、
方々をさがさせてやっと尋ね出しました。
其の頃、右近は落ちぶれて、名をかくしていなかにかくれていました。

秀吉夫婦は、それを大阪城に招いてねんごろにいたわり、
昔のことなどを語り出し、涙を流して礼をのべ、
夫人自らけっこうな物をたくさん取出して与えました。

此の時、夫人は、右近等の側に寄って、

「御身たちの綿入はよごれています。昔のお礼に、私に洗濯させて下さい。」

と言って、新しい着物に着かえさせました。

それから十日ばかりたつと、また二人を城に招いて、
先日の洗濯が出来上ったからと言って、
夫人が手ずから仕立てかえてきれいにした綿入を渡しました。

秀吉は、右近に禄を与えて、其の後は、大阪に住まわせることにしました。

          <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その11 - 伝統

2017/10/10 (Tue) 04:54:56


★ 第二十 「博愛」

ナイチンゲールは、イギリスの大地主の娘でした。
小さい時から、情深い人で、常に貧しい家を見まって、
不幸な人をやさしくなぐさめていました。

又、生き物をあわれみ、犬猫などが病気をしたり、けがをしたりしたのを見ると、
薬を与えてかいほうしてやりました。

ナイチンゲールは、大きくなってから、毎年ロンドンへ行って
市中の病院をたずね、気の毒な人たちの様子を見まっていましたが、
25歳の時、ドイツ・フランス・イタリヤの諸国を旅行して、
行く先々で病院や盲唖院などを視察しました。

28歳の時、再びドイツへ行って看護婦学校にはいり、
約6箇月で卒業して帰りました。

ナイチンゲールは、それからロンドンで貧しい人たちをすくう病院の世話を引受け、
自らたくさんの金を出して、不幸な人々を助けることに骨折りました。

ナイチンゲールが34歳の時、クリミヤ戦役という戦争が起りました。
これは、イギリスとフランスが一しょになって、トルコを助けて
兵をクリミヤ半島に進め、ロシヤと戦った戦争です。

戦がはげしかった上に、コレラ・赤痢などがはやったので、
負傷兵や病兵がたくさんに出来ましたが、
遠く本国とへだたった戦地のこととて、医師も看護をする人も少いために、
軍隊は大そう難儀をしました。

情深いナイチンゲールは、それを聞くと気の毒でたまらず、
負傷兵を看護して国のために尽くすのは此の時であると思って、
陸軍大臣の許可を得、三十余人の看護婦を引連れて、はるばる戦地へ向かいました。

戦地に着くと、直ちに野戦病院に入り、
看護婦たちをさしずして、傷病兵の看護に当りました。

重い病人も、ナイチンゲールが病床に来てなぐさめる時には、
嬉しさの余り、声を立てて泣きました。

夜、医師の退いた後にも、ナイチンゲールは、小さい灯火を持って、
一々傷病者を見まってなぐさめました。

ナイチンゲールは、かように一生けんめい看護をしているうちに、
余り働き過ぎたためか、自分も病気になりました。

医師たちは心配して、皆、国に帰ることをすすめましたが、
きき入れないで、病気がなおると、また力を尽くして傷病兵の看護につとめました。

戦争がすんでイギリスへ帰った時、ナイチンゲールは、
女帝にはいえつを許されて厚くおほめにあずかり、
又イギリス国民は、たくさんの金をおくって其のてがらをほめました。

しかし、ナイチンゲールは、其の金を皆看護婦学校をたてる基本金に寄付して、
少しもてがらをじまんするようなことはありませんでした。

博く人々を愛するのは、我等の守るべき道であります。
災難にあった不幸の人をあわれむのはもちろん、たとい敵国の人でも、
傷を受けたり、病にかかったりして死ぬような苦しみをしている者を助けるのは、
博愛の道にかなうものであります。

日本人は、昔から、博愛の心の深い国民であります。
明治三十七八年戦役の時、我が国の将士が博愛の道に尽くした美談は、
我が軍の武勇のほまれと共に、世界にとどろいています。

中にも深く人々を感動させたのは、明治三十七年八月十四日の海戦の時の、
我が上村艦隊のりっぱな行であります。

其の日、上村艦隊は、朝鮮の蔚山沖で敵ロシヤのウラヂボストック艦隊が
南をさして進んで来るのを見つけて、ここに大激戦を開き、敵艦一そうを打沈め、
他の二そうに大損害を与えました。

敵艦の沈没する時、我が艦隊は、すぐ其の所へ行って、
おぼれかかっている敵を六百余人もすくい上げました。

          <感謝合掌 平成29年10月10日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その12 - 伝統

2017/10/27 (Fri) 04:41:04


★ 第二十二 「忠君愛国」

吉田松陰は長門の人であります。
小さい時から、父母や叔父の教をよく守って学問にはげみましたので、
学業が大そう進みました。

十一歳の時に、藩主の前に呼出されて、兵書の講釈をいいつけられましたが、
大ぜいの家来のならんでいるところで、見事に講釈をしたので
、藩主を始め皆大そう感心しました。

松陰は、少年の頃、父から我が国がりっぱな国であることを教えられ、
又先輩に外国の事情を聞いて、国のために尽くそうと志を立てました。

それから、各地を旅行して、すぐれた人にあって教をこい
、又内外の事情を知ることにつとめました。

其の頃アメリカ合衆国の軍艦が我が国に来て、交際を求め、通商をせまりました。
しかし、我が国は、久しい間、外国と交際をしなかったので、
どうしたらよいかと国中大さわぎをしました。

松陰は、此の国難をすくって国のために尽くそうと苦心しましたが、
自分一人の力では出来ないことを知り、藩主にいろいろと意見書を出しました。
其の一つを時の天皇が御覧になったと聞いて、松陰は感泣しました。

松陰は、

「我が国は万世一系の天皇のお治めになる国であって、
我等は祖先以来、天皇の臣民である。

天皇は皇祖皇宗の大御心のままに臣民をいつくしませ給い、
臣民は祖先の志をついで、天皇に忠義を尽くしてきた。

天皇と臣民とは、一体をなし忠と孝とが一致している。
これが我が国の万国にすぐれたところである。

誰でも日本人と生まれた者は、我が国体がかように尊いことをわきまえるのが、
最も大切なことである。」

と信じ、先ず自分の郷里から始めて、全国の人に此の事を知らせて、
忠君愛国の精神を振るい起させようと決心しました。

二十八歳の時、郷里の松本村に松下村塾を開いて、真心をこめて弟子たちを教えました。
或時は、十歳ばかりの幼い弟子が新年におけいこに来たのを喜び、
親切に教えてやってはげましました。

又霜の深い夜、炉をとり囲んで、弟子たちと国事を語り明かしたこともありました。

毎日ひるのおけいこがすむと、松陰は、弟子たちと一しょに、
畠を耕したり、米をついたりしました。

後には、塾に来る者が次第にふえて、八畳の一室では狭くなりましたから、
皆相談して一室を建増そうということになり、先生も弟子も力を合わせ、柱を立て、
壁をぬって、十畳半の一室を作り上げました。

かようにして松陰は、弟子たちと寝起きや食事を共にして、
書物を読み、意見をたたかわせ、熱心に教え導きました。

そうして、「松本村は、片いなかではあるが、此の塾からきっと
御国の柱となるような忠義な人が出る。」と言って弟子たちをはげましました。

松陰は、三十歳でなくなりましたが、
国体を明らかにし、皇室を尊び、我が国を盛にしようとした其の精神は、
弟子たちにうけつがれ、果して其の中から、りっぱな人物が出て、
御国のために尽くしました。

  身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

          <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その13 - 伝統

2017/11/13 (Mon) 03:40:31

★ 第二十三 「兄弟」

松陰には、一人の兄と四人の妹と一人の弟がありました。
みんな仲よくして助け合いました。

松陰の兄を梅太郎といい、すぐの妹を千代といいました。
此の三人は兄弟中でも年のちがいも少く、家がまだ貧しい時に
一しょに育ちましたので、助け合うことも多うございました。

松陰は、兄と共に父や叔父の教を受け、
二人で互にはげまし合いながらよく勉強しました。

松陰は、大きくなって、国のために尽くす大志を抱き、
全国を旅行したり、江戸にとどまっていたりして、家に帰ることは少かったが、
兄の梅太郎は、よく父母に事えて、故郷のたよりを、常に弟の松陰に知らせてやりました。

又松陰のために書物をととのえて送り、
松陰の苦労をなぐさめて其の志をはげましました。

松陰は、外に出ていても常に我が家のことを忘れず、
父母の側にいて事えることの出来ないのを残念に思い、
兄や妹に、自分に代って父母に事えてくれるように頼みました。


或年の正月、松陰は兄に手紙を送って、

  朝日さす軒端の雪も消えにけり
      わが故郷の梅やさくらん

という歌をよみ、新年のおよろこびをのべ、けさはおぞうにをたくさんいただいて、
少年の頃、一しょに楽しいお正月を迎えたことを思い出したと言って、喜びました。

松陰は妹たちをかわいがりました。
妹の小さい頃には、書物を教えたり、字を習わせたりしました。

大きくなって他家へ嫁入してからも、手紙をやって、
家をととのえ子供を教える道をこまごまと書いて与えました。

其の中に、

「およそ人の子の、かしこきもおろかなるも、よきもあしきも、
大てい父母のおしえによる事なり。」

と記して、殊に子供の幼い間は、母の教が大切であると誡めました。又、

「神明をあがめ尊ぶべし。
大日本と申す国は、神国と申し奉りて、神々様の開きたまえる御国なり。」

と記して、神を敬うべきことを教えました。

妹は、これらの教を長く忘れず、松陰がなくなった後も、
其の手紙を出して見ては、兄の親切を思い出して泣いたということです。

・・・

<参考Web>

(1)光明掲示板・第二「千代(松陰の妹)から見た吉田松陰」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902

(2)光明掲示板・第二「吉田松陰の末妹「文」の生涯」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140

          <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

(現行小学五年生用)第四期 尋常小学修身書~その14 - 伝統

2017/11/28 (Tue) 04:18:46


★ 第二十四 「父母」

松陰が妹に与えた手紙に、

「自分たちの家には、りっぱな家風がある。神様を敬うこと、祖先を尊ぶこと、
親類とむつまじくすること、学問を好むこと、又田畑を自分で作ることなどである。
これらのことは、父母の常になされるところであって、
自分たちはそれにならわなければならぬ。これが孝行と申すものである。」

と教えてあります。

松陰の父は、杉百合之助といいました。
松陰が少年の頃までは、家禄ばかりでは、くらしを立てることが出来ないので、
農業につとめました。

しかし、読書が好きで、米をつくときにも書物を読み、又畠に出ても、
あぜの草の上に書物を置いて、仕事の休の折に読みました。

松陰兄弟が大きくなってからは、かような時にも兄弟に書物を読んできかせました。
米つき場のあたりや田畑のあぜで、親子の読書の声が聞えると、
松陰の叔父は、「やあ、またにいさんのが始まった。」と言いました。

百合之助は、常々松陰たちに、
「むだ話をするひまがあるなら、書物を読め。」と言って誡めました。

百合之助は、神を敬い祖先を尊びました。
毎朝早く起きて井戸から新しい水をくみ、祖先の霊前に供えて拝みました。
祖先の祭日には、殊につつしんでお祭をしました。

毎月一日には、必ず、身体を清め衣服をあらためて、氏神に参りました。

松陰の母は、瀧子といいました。
二十歳の時、百合之助に嫁し、よく夫を助けて野に出て田畑を耕したり、
山へ行って薪をとったりして、仕事に骨折りました。

又よく姑に事え、我が子の養育につとめ、裁縫・洗濯のことから
家事一切をひとりで引受けて、かいがいしく立働き、馬を飼う世話まで
自分でしました。

瀧子は、姑によく事えました。
三度の食事には温い物をすすめ、衣服は柔かい物を着せていたわり、
裁縫する時などは、姑の側で、喜ばれるような話をしてきかせてなぐさめました。

又姑の妹が此の家に世話になっていたが、或時、重い病気にかかりました。
瀧子は久しい間、夜もろくろく寝ずに介抱したので、
姑は、「忙しくてひまがないのに、親類の世話まで親切にしてくれて、
まことにありがたい。」と言って、涙を流して喜びました。

後、百合之助は、藩の役人に取立てられて、役宅にうつりましたが、
瀧子はとどまって、よく家をととのえ、松陰たちの養育につとめました。

松陰の父母は、かように心をあわせて、
父は業務にはげみ、母は夫を助けて家をととのえ、
又共に我が子の教育に力を用いましたので、家も栄えるようになり、
子供は皆心掛のよい人になりました。

中にも松陰は、国のために尽くし、度々難儀に出あいましたが、
いつも父母は、我が子をはげましたり、いたわったりして、
よく尊皇愛国の道に尽くさせました。

松陰が松下村塾を開いていた間も、父は、公務のかたわら何くれと
松陰の相談相手となって助け、母は、弟子たちを我が子のようにいつくしみ、
又松陰をたずねて来る人々を親切にもてなしました。

          <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

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