伝統板・第二

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幸福の筐を開く② - 伝統

2016/04/12 (Tue) 03:22:54

*伝統板・第二「幸福の筐を開く①」からの継続です。
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420


当り前のことを当たり前に感謝している人には「幸福」がポッカリと姿を現す。

           *「光明道中記」(4月12日)より抜粋

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。

「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17


             <感謝合掌 平成28年4月12日 頓首再拝>

幸福の声を聴く日 - 伝統

2016/04/14 (Thu) 04:35:14


           *「光明道中記」(4月14日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

             <感謝合掌 平成28年4月14日 頓首再拝>

「礼儀正しい人」で、幸せにならない人はいない。 - 伝統

2016/04/23 (Sat) 04:26:30


           *「上気元」斎藤一人・著(P55~61)より

笑顔にすることと、天国言葉を話すことと、もう一つ大切なのは「礼儀」。

人間っていうのは、「礼儀の生き物」なんです。
「おはようございます」とか「いつも、ありがとうございます」とか、
人に会ったら声をかけるの。

不幸な人って、礼儀が足りないんです。

礼儀って、挨拶することだけじゃないですよ。

みんなが楽しんでいるような席に来て、自分がイヤなことがあったからって、
ブスッとしていたり、人にあたったりしたら、「礼儀違反」なんですよ。

礼儀違反の人って、「あなた幸せですか? 」って聞いてみると、絶対に不幸せです。
この世っていうのは、「笑顔」で「礼儀正しい人」は、
幸せになっちゃうような法則があるんですよ。

昔、オードリー・ヘップバーンが演じた『マイ・フェアレディ』って映画がありました。

きれいな言葉や礼儀を知らなかったスラム街の女性が、
礼儀を覚えて、きらいな言葉を話して、ほほえみを絶やさないようにしていたら・・・。
どんどん幸せになって、奇跡のような出来事が起こった・・・という話です。

こ映画が、何を言いたいかわかりますか?

「礼儀とほほえみを絶やさない人は、幸せになる」

この世には、そういう法則があるということです。
神がそういうふうに作ってあるんです。
だから、幸せになりたかったら、その法則を犯しちゃいけないの。

いつも自分が「幸せだな」とか「ありがたいな」とか、機嫌よくしていて、
ほほえみがあって、礼儀を重んじている人は、幸せになっちゃうんです。

「礼儀やほほえみを絶やさない人は、幸せになる」という法則があるんだから、
その法則どおりにやれば、誰でも奇跡は起こせるんですよ。

その法則と逆のことをやると、どんなことをしても不幸になっちゃいます。
心配そうな顔、おっかない顔、人をにらみつけるような態度とか、人を不愉快にさせる
ような態度を取りながら、幸せになるってできなんですよ。

礼儀やほほえみを、やりなれていない人は、最初はぎこちないかもしれません。
でも、練習すれば、必ずよくなります。
これはダンスと同じなんです。

ダンスは、いくらステップを覚えても、踊ろうとすると最初はぎこちないものです。
でも、だんらん慣れてくると自然と優雅に踊れます。

それと同じように、礼儀やほほえみも、最初はぎこちなくてもいいんです。
慣れてくると、さらっとできるようになるんです。

            <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝>

本当の幸福の味 - 伝統

2016/04/26 (Tue) 04:42:43


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 平成28年4月26日 頓首再拝>

「幸福」の機関の運転に必要な「感謝と報恩」 - 伝統

2016/04/29 (Fri) 04:45:57


           *「光明道中記」(4月29日)より

【富を自分の方へ引き寄せようと思うまでに、
 自分自身を全体のために与えなければなりますまい。(『生命の實相』第十七巻)】

吾々の潜在意識の中には色々のものがある。
その中で最もどう云う種類の観念が優勢を占めているかと云うことによって
其の人の運命は決するのである。

其の人の周囲に集まって来る日常無数の出来事は、
その人の潜在意識中の優勢観念が磁石となって回転するのである。

吾々の潜在意識中の優勢観念が、「人間神の子・万事良くなる」という
大信念であるならば、その人の周囲に起るところの大小無数の事件は必ず
其の人が幸福になるように、その人が発展するように好転好転又好転するのである

―― 若しそれでもその人に幸福がやって来ないならば、その人は傲慢になり過ぎて、
万事が神から来ることを忘れ、自力の信念の効果によるものとして
感謝と報恩との行を忘れて了ったからである。

感謝は「幸福」の機関が回転する心棒に注す油のようなものである。

報恩は「幸福」の機関が生産した物品の配給である。

いくら「幸福」の機関が上等だからとて、油を注さなかったり、生産品を処置しなかったら、
その機関は詰って了い、「幸福」の機関の運転は停止して了うであろう。

            <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

幸せとは、今手にしているもの・ことを好きになることで生まれてくる - 伝統

2016/05/07 (Sat) 03:08:13


        *「トーチェ氏の心の法則」(P142~143)より

幸せとは、欲しいものを手に入れたり、なりたいものになったり、
したいことをすることから来るものではなく、今手にしているもの、
今の自分がしていることを、あなたが好きになるところから生まれてくるものです。

このことを忘れてはいけません。

あなたの心は、あなたの中に生まれた新たな満足感を
いっそう湧き立たせてくれるでしょう。
 
今自分がどんなに幸運であるかを言い聞かせ、納得させていきましょう。
遠からず、あなたはもっと多くの、もっとよい幸運の理由を見つけることが
できるようになるでしょう。

            <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

「今日の幸福度、何点だった? 」と自分に問いかける - 伝統

2016/05/13 (Fri) 04:16:00


          *「幸運に好かれる人が、密かにやっている小さなこと」
            ~松田 有利子・著(P114~115)より

夜、おふとんに入ったら、1日を振り返って質問しましょう。

「今日の幸福度、何点だった? 」

または、《「空のコップにどのくらい幸福水がはいったか」をイメージ》します。
実際に毎日アッピーグラスのダイアリーをつけてみましょう。

不満ばかりだと10~20点ですが、
どのことにも感謝すると70点以上になります。

もうこれだけで、あなたの脳波はアルファ波になります。
すると、ますますいい波動を出して、
ステキなことが次から次へと引き寄せられてきます。

このエクササイズを毎晩行なっていると、次第にセルフイメージがアップします。

それは、幸福のオーラがどんどん大きくなっていくからです。

            <感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>

正しき想念と正しき言葉が幸福を現象化する - 伝統

2016/05/16 (Mon) 04:23:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

釈尊は人生のもろもろの苦しみを解脱する八つの道を八聖道として教えたのであるが、
その最初に置いたのは正見(しょうけん)と正思惟(しょうしい)とであった。
正見とは正しき見解―正しき世界観の確立である。

この世界は有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏の世界であり、
すべて仏心の展開せる世界であって悪は存在しないとの正しき見解の確立である。
すべての人間はすでに成れる仏であって完全なる自由を有するとの正しき人間観の確立である。

かくて正しき世界観人生観立ってのち、われらは想念の自由によって
正しくその真理を思惟しなければならない。
またわれらは言葉の自由によって正しくその真理を表現しなければならない。

もしわれらが正しき世界観、人生観に到着していようとも、
正しく想念せず、正しく善き言葉のみを発しないときには、われらの人生は不幸にみちたもの
となり、われらの住む世界は悲惨憂苦みち満ちたものとなるほかはないのである。

われらの人生が幸福なものとなるか、不幸なものとなるかは、
われらの想念と言葉が何を表現するかによって定(き)まるのである。

人類の霊魂なお稚くして何を想念すべきか、何を言葉に表現すべきかを知らず、
いたずらに敵意ある世界を心に描き、(正見の反対の邪見である)互いに悪想念と悪感情とを
そそり、言葉に敵意を表現するをもって足れりとなす。

その行くところや悲惨なる末路なるべきは、およそ「心の法則」によって、
然らざるをえないのである。

人間の霊魂よ進歩せよ。高級の霊魂は今後の世界の推移をいかに見るか。
われらはここに人生の深き指針として本全集『生命の實相』第九巻・第十巻「霊界篇」を
世に送り、魂の向上の必須要件を説くとともに、今後の世界の推移を示す指標とするものである。

            <感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>

《自己を幸福にするには》 - 伝統

2016/05/23 (Mon) 03:46:32


        *『生長の家』(昭和26年4月1日の法語)より

   あなたの言葉、行い、想念、ことごとく
   神の国に 相応(ふさ)わしきものでなければならない。

   神の国には 讃嘆の言葉のみ充(み)ち満ちているのであって、
   決して憎みや、怨みや、呪いや、他(ひと)の悪を探す言葉には
   充ちてはいないのである。

   自分を最も害する言葉は、人を害する言葉であり、
   自分を最も害する想念、行動は、人を害する想念行動である。

   この真理が直ちに全人類にわかったとき全世界に平和が来るのである。
   自分を最もよくする想念感情は 「 愛 」 である。

   人のため人のためにと 愛念を起していると、
   愛念は 愛念を招(よ)びむかえ、
   自分自身が幸福になって来るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12188423.html

            <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

『幸せになる秘訣』 - 伝統

2016/05/28 (Sat) 04:05:24


        *「講演こぼれ話」『しあわせへの気づき』五日市 剛・著より

だれかに善きことをしてもらったら けっして忘れないようにしましょう。
だれかに悪しきことをされても それは忘れておしまいなさい。

同様に、誰かに一度でも
愛してもらったことは
けっして忘れないようにしましょう。
それはあなたの永遠の宝物なのです。

だれかを一度でも愛したことがあったら
それは忘れておしまいなさい。
それは相手にあげたプレゼントなのです。

その愛はすでに相手のものであって
あなたのものではありません。

有形のものでも  無形のものでも
もらったものに感謝し
与えたものはさっぱり手放すこと。

それが幸せになる秘訣ですよ

            <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

《幸福は外の世界に求めるな》 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 04:33:06


          *『光明法語』(6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は
「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざりじっと手を見る」
という石川啄木の歌のように、

いくら人間力で労して見ても幸福になり切れない場合が多いのである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

神は不幸を与え給わない - 伝統

2016/06/07 (Tue) 03:10:43


          *『光明法語』(6月7日)より

神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。

神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、『法華経』の長者窮子の譬えにあるように
神の子みずから親のみ許(もと)をはなれて神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。

先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。

そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだと思わぬことである。

            <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある - 伝統

2016/06/11 (Sat) 04:29:51


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、次の瞬間その幾億万円を眼界から
消し去って「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」と宣告しても
われらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」とわれわらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福に
なりえないであろう。しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。
金はたくさん持っているということが幸福ではなく、それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

            <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>

神は常に今此処に吾と共に在(い)ます - 伝統

2016/06/13 (Mon) 03:39:57


         *『光明法語』(6月13日)より

悦びの神が、無限健康の神が、無限供給の神が、幸福のほか与えることを知らぬ神が
自分と共にある事を自覚せよ。

今既に無限の幸福があるのである。
此処に今神がいまして吾等を護りていたまうのである。

現象が今如何にともあれ、現在の現象は過去の念の影に過ぎないのである。
吾々は今善以外を知らざる神に、幸福以外を知らざる神に、取囲まれているのである。
それを断々乎として自己の心の中(うち)に主張せよ。

然らば必ず幸福のみが出て来るし、善のみが出て来るし無限のよき物のみが出て来るのである。

        <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>

よき行為で幸福を味わう - 伝統

2016/06/17 (Fri) 04:31:43


《よき「行為(おこない)」の種を蒔け》

            *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

        <感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝>

《神の子たる貴方(あなた)の幸福は 自身以外の誰も奪うことは出来ぬ》 - 伝統

2016/06/30 (Thu) 04:54:01


            *『 生長の家 』(昭和25年5月16日の法語)より

   この世界は神の造り給うた世界であるから
   何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。

   他の人が何と云おうと、何をなそうと、
   彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。

   人間は神の子であるから、
   神の子には幸福がつきものであるのである。

   神は全能であるから
   神が神の子に与えた所の幸福を
   他(ほか)から奪うことはできないのである。

   吾は常に神とともに生き、
   神とともに働きつつあるのである。

   すべての幸福は
   自分のものであるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

        <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

《不幸を数えるよりも幸福を数えよ》 - 伝統

2016/07/17 (Sun) 03:58:34


         *『 生長の家 』(昭和25年5月8日)より
  
   吾は神の子であり、神の子が自分の実相であり、
   そこから健康が湧(わ)いて来、インスピレーションが湧いて来、
   日常生活についての色々の導きが得られるのである。

   吾が内に宿る 「 神の子 」 が
   人生を指導する 「 生きている力 」 である。

   「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と
   常に間断なく心の中に宣言せよ。

   それが自分の中に宿っている神の子を
   導きだして来る もっとも良き方法である。

   凡ゆる神の祝福が神の子には
   与えられているのである。

   まず不幸を数えあげるよりも、
   幸福を数えるようにすべきである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

        <感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>

《不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である》 - 伝統

2016/08/02 (Tue) 03:47:00


          *『 生長の家 』(昭和25年5月12日の法語)より

   何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、
   それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。

   全(すべ)ては波動的順序をもって前進する、
   下にくぐった波は必ず上に上(のぼ)る。

   「 愛する者の死 」 があっても悲しんではならぬ。
   悲しまない模範(てほん)が見せてある。

   彼は本当には失われてはいない。
   いずれも波である。

   一層高き世界に上らんがために
   一時 姿を消したにすぎない。

   神の み手に於(お)いては
   何ものをも 未だかつて失われはしない。

   すべての悪く見えるものは すぎ行く。
   そしてよきものが顕現する過程である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

        <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝>

神の中には、幸福のみが満ちている - 伝統

2016/08/09 (Tue) 03:20:40


           *「光明道中記」(8月9日)より


【恐怖の宗教は人を迷いに導き、その挙句人を病気に突落す。(『生命の實相』第十巻)】
 
神の中には不幸はない。
不幸は神が完全に表現されていないからである。
神が完全に表現されていないのは、神を完全に観ないからである。

心の眼(まなこ)をひらいて神の全能を完全に観ないことを「迷い」と言うのである。
「迷い」は一つの「状態」であって「存在」ではないのである。だから不幸や災厄を
吾々の眼に視える世界から駆逐するには、ただ心の眼を開けば好いのである。

では心の眼をひらくにはどうすべきであろうか。

しずかに五官の眼を閉じ、五官によって仮りに見えているところの制限の感じを
取り去ることである。そして凡ての「善」のなかに、「幸福」のなかに、
包まれ切っているところの自分を静かに観ずるのである。

例えば次の如く ──

   自分は善のみ幸福のみの世界に住んでいる。
   自分の眼(まなこ)のとどく限り、
   自分の影響される限りの、

   すべての虚空にはただ神のみが
   幸福のみが善のみが満ちている。

          <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

《心の幸福が本当の幸福》 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 04:20:29


         *『 生長の家 』(昭和26年5月25日の法語)より

   この事さえ成就すれば私は屹度(きっと)幸福になれると思っている人が、
   それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。

   胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、
   胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。

   あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が
   結婚した後(のち)に毎日夫婦喧嘩(げんか)をして
   決して幸福でない実例もある。

   これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、
   それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して
   幸福になれない人もある。

   考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、
   其の人の心の状態にあるのである。

   心の幸福な人は常に幸福な人である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


          <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

「幸せの復元力」を持つ - 伝統

2016/08/31 (Wed) 03:50:33

【流された先で幸せを見つける】

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年08月23日)より


   (本田健氏の心に響く言葉より…)

   「無病息災」という言葉もありますが、それは無理というものです。

   なぜなら、私たちはみな、いつか必ず死ぬ運命にあります。
   この世に生まれてきた以上、それは避けられないことです。

   ということは、考えたくないことですが、
   その途中で病気になったり、事故にあったりもするでしょう。

   でも、その病気や事故を経験することで、
   初めて家族の絆(きずな)ができたりします。

   「問題だ」と思うことがあったからこそ、うまくいくこともあるわけです。

   そういう意味では、事故にあったり病気になったりしている人が
   必ずしも不運だとは言えないのではないでしょうか。


   幸せとは、人生で起きてしまう不運に見えるものを、
   どれだけリカバーしていくかだともいえます。

   つまり、「幸せの復元力」を持てるかどうかなのです。


   それに加えて、たとえどこかに流されたとしても、
   流された先で幸せを見つけられる能力も大切です。

   人生は、「私はここに行きたい」と願っても、
   必ずしもそこへ行けるわけではありません。

   むしろ流れ流れて、
   思ってもみなかったところに行く可能性のほうが高いかもしれません。

   そして流されていった先が、最初に思っていたような場所でなくても、
   その場所で幸せを見出せれば、その人の人生はうまくいっているといえると思います。

   人生においては、「幸せの見つけ方」はとても大事です。

   幸せも不幸せも、人生の過程にしかないからです。

         <『ずっとうまくいく人の習慣』王様文庫・三笠書房>

                 ・・・

人生は、偶然と偶然のつながりでできている。

子どもの頃からの夢が、寸分たがわず大人になって実現できた、
という人がもし仮にいたとしても、それも偶然という運やご縁の積み重ね。

その運やご縁に感謝しなかったとしたら、どんな成功も一瞬にして崩壊する。


ほとんどの人は、自分が思ってもみなかった人生を歩んでいる。
流され、流されてたどり着いた人生。

たとえそれがどんな人生であろうと、その場を楽しめるかどうか、
その中に幸せを感じることができるかどうか。


流された先で、幸せを見つけられる人でありたい。

          <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

幸福人と不幸人 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:01:26


      *Web:mixiユーザーの日記(2015年05月24日)より

ひすいこたろう氏&よっちゃん氏「Happy 名語録」から要約します。

ある派遣社員で4か月働いた後、契約更新を断られた方の話です

会社から通告されたときは、大変ショックを受け、悲しい思いでした。
でもふと、次のように、思ったそうです。


★☆★☆★☆   ★☆★☆★☆

「私は、なんでこの会社に派遣されることになったのだろう」と。

派遣先の企業を決める際、お互いの条件が合わなければその会社へは派遣できません。

自分が「前職を辞める」「どの派遣会社に登録するか」「どういう条件を出すか」と、
会社が「どの人に依頼するのか」「どういう条件を提示するのか」
「前任者がいつ辞めるのか」など、すべてのタイミングが合わなければ派遣されないのです。

それらの条件がすべて合ったから、この会社で仕事をすることになった。
これって、すごい確率だなと思いました。

そうしたら、4ヶ月間しかいられなかったから、縁がなかった」ではなく、
「たった4ヶ月間でも、ここに呼ばれる不思議な縁があったんだ」と、
素直に思えました。

会社の皆さんにもとてもかわいがってもらって、友達も一気に増えて、
なんて幸せな期間だったのだろうと。

そして、そういうふうに思えるということも幸せなことだと。

「私、何だかんだ言って、けっこうツイてるじゃん!」と思いました。



★☆★☆★☆   ★☆★☆★☆



「4ヶ月間“しか”いられなかった」ではなく、「4ヶ月間“も”いられ  た」。

“しか”が“も”に変わるだけで、人は一瞬で幸せになれるのです。

そして幸せな“気分”が、次に幸せな“出来事”を呼び寄せます。

幸せは幸せを呼ぶんです。


一方、「人生が辛い」って言っている人は、
辛いシーンばかり見て、辛いことばかり記憶している。

一緒に演じられている楽しいシーンには目もくれずに。
一緒に演じられている幸せには目もくれずに。


幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、
不幸人とは、それの反対を記憶している人々である。(萩原朔太郎)


悲観主義者とはドーナツの穴に目を向ける人のことだ。
(マックランドバーグ・ウイルソン)


もうひとつサッカーのオシム監督の言葉を紹介します。

優勝を争う大一番の試合で、ゴールミスをした選手に対して、
新聞記者からコメントを求められてこう答えていたのです。

「シュートは外れるときもある、それよりも、あの時間帯に
ボランチ(守備的なミッドフィルダー)があそこまで走ったことを
なぜ誉めてあげないんだ」

シュートは外れても、守備的な役割の選手があそこまでたどりつけたことを、
監督はしっかり気づいてくれている。

こういう環境では選手は伸びると思います。

どこを見るかで人生は変わります。

隠れた“ありがとう”に気づくとき、人生は一瞬で変わります。

http://open.mixi.jp/user/5089039/diary/1942421234

          <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

《現在の不幸より脱する智慧》 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 04:34:33


          *『生長の家』(昭和25年8月4日の法語)より

   現在の状態を、過去の自分の想念の結果だと
   正直に勇敢に承認することは 智慧の始めである。

   その時はじめて原因を改める事が出来るのである。

   若(も)し吾々が現在の困難の状態を
   自分以外の他(ほか)のものであると考えているならば、
   原因と違うところを探しているのであるから、
   原因を是正することは出来ず 其の人の不幸は去らないのである。

   一切万事 我が心より出(い)でて 我が運命となるのである。
   他を恨むような心は、人に害を与える心であるから、
   自分が害を与えられることになるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

          <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

『幸福源』 - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:26:54

 
        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

人は、どんな生き方をしたときに、幸せを感じるものか。

第1に、自分がやりたいこと、好きなことを仕事にしている時。

第2に、自分がやっている仕事が、基本的に周囲から評価・感謝されていて、
    社会的な意義があるという自信と誇りが持てるとき。

第3に、仕事が収入と結びついているとき。

この3つの条件が満たされたとき、人は最高の幸せを感じるものだと私は考えている。

だが、この3つを、すべて満足できるレベルで実感している人は、極めて少ないようだ。

講演や研修先などで出会うビジネスマンの印象では、多めに見積もって、
5人に1人(20%)くらいではないだろうか。
 
残りの80%は、「第3の条件はどうにか満たされてはいるが、
とくに好きな仕事でもなく、そう社会的な意義があるとも思えない」と感じているようだ。


父親から社長を継いだヤマト運輸の故・小倉昌男さんは、
1976年、小口の個人客相手の宅急便というビジネスを考え出した。
当時、会社の業績はジリ貧。これに社運を賭けると決断した。
 
だが、周囲は大反対だった。
特に、運転手にお客様も獲得してもらう「セールスドライバー」制度に反対が集中した。
「集金や伝票処理までやってられるか…」。皆、そっぽを向いたという。

しかし、個人のお客様は、直接「ありがとう」と言葉をかけてくれる。
これまでの企業相手の配達では考えられないことだった。

この「ありがとう」が、ドライバーのヤル気を大いに駆り立て、
やがて、「ドライバー制度」を受け入れていった。

便利さがくちコミで拡がることとあいまって、
宅急便は社会に欠かせないサービスに育っていった。

例えば冬、山の上の一軒家にも配達に行く。
相手が留守なら出直して、雪の山道を登って荷物を届ける。

そんなとき、相手の顔に喜びが輝き、
「息子からだよ。雪の中、本当にご苦労さんでした」と感謝の思いをぶつけてくると、
ドライバーの苦労は、いっぺんに吹き飛んでしまうという。

理屈から云えば、どんな仕事も、
それがお金を生み出す以上、何らかの市場価値を持っている。
役に立っているはずだ。

問題は、「ありがとう」の言葉が、耳に届くか届かないかだ。
それで、ヤル気は大いに変わってくる。

「ありがとう」と言ってもらえるようになるには、どうしたらいいのか?

私は、自分が相手に「ありがとう」という思いを持つことだと考える。

「つまらない」「価値がない」と思っているかもしれない今の仕事。
でも、その仕事で、あなたは毎日暮らしていけるのだし、
社会人として生きていくノウハウを吸収してもいるはずだ。

まず、仕事に向って「ありがとうございます」という、感謝の念を持ってみよう。
お客様に向かって「ありがとうございます」という感謝の思いを持ってみよう。

そうすれば、自分の仕事に、
社会やお客様が感謝してくださっていることがわかってくるはずだ。

 (http://www.jmca.jp/column/hito/hito74.html

          <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

「自発的幸せ」 - 伝統

2016/10/19 (Wed) 03:16:07


持っている者には、さらに与えられて、持っていない人は、持っているものまでも奪われる

           *「上気元」斎藤一人・著(P70~74)より

宝くじの当選者を調べてみると、お金のない人が当っています。
これはなぜかというと、お金を持っている人で宝くじを買う人が、あまりいないからです。

でも、もし日本国民が、宝くじを買うようになったら、どうでしょう?
お金のない人と、お金持ちの人と、どちらが当たる確率が高いでしょうか?

答えは・・・「お金持ちの人」
お金持ちのほうが、当たる確率が高いのです。
なぜかというと・・・これって「波動」なんです。

お金持ちの人はたいてい、「自分はツイてる」と思っています。
「ツイてる」と思っている人は、ツキを引き寄せるんです。

だから宝くじみたいな、誰にでもチャンスがあるものでも、お金持ちと、お金のない人が
同じ条件で買ったら、お金持ちの人のほうが当たる確率が高いんです。

キリストの言葉で
「持っている者には、さらに与えられて、持っていない人は、持っているものまでも奪われる」
という言葉があります。

「この言葉の意味は何ですか? 」っていうと、
「幸せなことを考えている人には、さらに幸せが与えられて、
不幸なことを考えている人は、ささいな幸せすら奪われる」ということなんです。

「オレ、最高に幸せなんだよな」って言っている人間には、幸せがやってくるんです。
だから、「幸せな気持ちを持っている者には、さらに幸せが与えられる」なんです。

極端に言えば、お金のある人のほうが、さらにお金持ちになるようになっているんです。

よく「金は天下の回りもの」って言います。
確かにお金は回っているけど、「不幸だ、不幸だ・・・」って
言っている人のところにはこないんです。

お金持ちになる人は、お金持ちになる派動が出ているんです。
幸せになる人は、幸せの波動が出ているんです。

どんなささいなことも幸せだと思って感謝して、
「今日、最高ですね」って言ってると、
最高の幸せがまた次にくるんですよ。

またそれに対して、「幸せだ、幸せだ」って言えばいいんです。
そうすると際限なく幸せがくるようになっているんです。

そうやって自分で自分が幸せにすることを「自発的幸せ」と言うんです。

            <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

《不幸が現れて来るのは現象の変化に心が捉われるから》 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:19:52


          *「生活と人間の再建」第5章(P75~76)より

吾々の生活に何か不幸が起こって来、力が欠乏して来るのは、
吾々が現象に現れている相(すがた)にとらえられて内部神性の無限力をくらますことになり、
不完全な状態が存在すると心に描いて、心によって不完全な姿を仮想像したに過ぎないのである。

吾々が現象の姿に心をとらえられ、それを実在だと思っている限りに於いては
吾々は強力なる生き方をすることできないのである。

なぜなら、現象は断片的であり、個々別々であり
生滅常なく崩れ去るものであるからである。

されば、吾々は吾々の五官の完全な想念を以って
吾々の生活を支配しなければならないのである。

吾々は神は善であり、善が唯一の存在であり、善のみが実在であるから、
悪は存在するが如く見えようとも実在しないのであるから消滅するより仕方がない
ということを先ず知ることが必要なのである。

此の真理を知って、それを心に想い、言葉に出し、行に実現することが必要なのである。
即ち、身意口の三業にそれを実践するのである。

世の中には「人間神の子」の真理は頭には理解できるのですけれども、
生活が思う様に行かず何事もととのわないのですがこれはどうしたらよろしいでしょうか
と云って、尋ねる人が往々にしてあるのである。

それを一言にして言い換えれば、頭脳の智慧はどうしたら悟りの智慧になることが
できるかということであるのである。それは前世をひっくるめて業の結果によるのである。

結局、実相実現のための具体的方法は、想念と言葉と行いとの三つに、
神ならざることを思わず、言わず、行なわざる様に精進努力することが必要なのである。

            <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

《先ず心を幸福にせよ》 - 伝統

2016/11/14 (Mon) 04:21:01


         *『 生長の家 』(昭和25年9月7日の法語)より

   吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ
   吾々の住む世界は幸福にならないのである。

   貝類は自分の分泌する液によって、
   自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、

   吾々は自分の分泌する想念感情によって
   自分の住む環境をつくるのである。

   吾々は旅行するにも、その旅行を最も楽しきものにするには、
   旅行案内書を見て、どの行路をとるのが最も良き景色であるか
   を知らなければならないのである。

   そして、旅行地のどの点に心を注いで鑑賞しなければならぬか
   と云うことを知らねばならぬ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

            <感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>

無条件降伏は、無条件[幸福]の源泉 - 伝統

2016/11/29 (Tue) 03:30:00


       *「光明法語」(11月29日の法語)より

神への無条件降伏こそ、無条件[幸福]の源泉である。
無条件降伏はただの観念の問題ではなく、それは一つの実行である。

それは、上衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)をも与え、
十里の公役(こうえき)を強(し)いられなば二十里を行き、
右の頬を打つものあらば左の頬をも打たしめる実行である。

これを実行したときに奪われた上衣は戻り、敵は味方となり、
二十里を行って益々疲れず愈々元気旺盛となるのである。

与えることのうちにこそ、すべての自由と、無限供給の源泉があるのである。

            <感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>

幸せの一本道 - 伝統

2016/12/13 (Tue) 03:44:53


          *Web より

死んだ後、あなたは、どんな感じになるか知ってますか?

種々の話を足して組み合わせると・・・
 
 
あなたは、死にました。

神様が出てきました。
 
『後ろ、ふりむいてごらん♪ 』
 
 
振り向くと、そこには、自分が歩んできた【幸せの一本道】が見える。
  

見ながら、質問されます。
 
  
笑:『笑ってた? 楽しかった? 』

愛:『愛された? 役に立った? 喜ばれた? 感謝された?』
  
 

いろいろ大変だったけど、全部、実は幸せの一本道だった。
 
  
そして、その道の瞬間、瞬間に
笑って、楽しく、人の役に立つだけ。
 
あなたは、今日、笑ってましたか?

喜ばれましたか?

人の役に立ちましたか?
 

            <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

すでに、幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ - 伝統

2016/12/26 (Mon) 04:48:11


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月26日)より

不幸、災厄、病気・・・ことごとく心に描かれた観念が具象化するものであるから、
不幸を喞(かこ)つなかれ、災厄を呟くなかれ、病気を愬(うった)えるなかれ。

不幸来たるごとに、災厄来たるごとに、病気が来たるごとに、
その反対の幸福を語れ、祥益(しょうえき)を語れ、健康を語れ。

すでにかく幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ
―― それが実現するために完全なる智慧か流入し来たると念ぜよ。

自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。

もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。

そんな時に最もよいことは、ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。

            <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>

幸福成就の日 - 伝統

2016/12/28 (Wed) 04:57:26


           *「光明道中記」(12月28日)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、快楽を追求して結局得るところのもの
とては幸福ではなくて、苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、得れば尚一層、
得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に心身を疲労せしめている者も
金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

            <感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>

いつまでも変わらない幸福 - 伝統

2016/12/29 (Thu) 04:22:27


           *「光明道中記」(12月29日)より

【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
                        (『生命の實相』第一巻)】

幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではないと云うことが判ったならば、
吾等は別の方向から幸福を求めなければならないのである。

それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。

所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。

また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。

いつまでも変わらない幸福は、次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。

それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、離れていて味わい得るのである。

芸術を味わうよろこび、自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。

鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。

            <感謝合掌 平成28年12月29日 頓首再拝>

与えられた使命を生きるとき、幸福がある - 伝統

2017/01/04 (Wed) 04:53:29


           *「光明道中記」(1月4日)より

 【幸福とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。(「生命の實相」第十一巻)】

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津神霊(みおやがみもとつみやま)ゆ
幸(さきは)え給え」

「幸(さきは)え」は「咲(さ)き生(は)え」であり、「割(さ)き延(は)え」であり、
神の生命の顕現である。

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである。
人間の幸福は富を実現することではない。名声を挙げることでもない。
神の生命(いのち)を顕現することである。

梅の花は咲き出でることが幸福である。
それは名声を博するがためではないから奥山にいても依然として芳しく咲き匂うのである。
それは金銭のためでないから、盆栽として売られなくとも咲き出でるのである。

梅の花はただ咲き出で、人間はただ与えられた使命を生きる。
幸福そのなかにあり、悦びその中にあり、楽しきこと限りなし。

若(も)し人が労苦して、そこに悦びが感じられなかったならば、
それはその人が第二義的なものを求めている証拠である。

働きそのものが第一義的目的であり、働きの中に生命が延び、霊魂が進歩する。
第二義的なものは、そのときは値打があるように見えても、その価値には永遠性がない。

            <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

本当の幸福を把(つか)む日 - 伝統

2017/01/16 (Mon) 04:56:32


           *「光明道中記」(1月16日)より

【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。(『生命の實相』第十一巻)】

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。
肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。

幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。
光がなければ雲は重なれば重なるほど黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が金を蓄めているほど黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。

人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

            <感謝合掌 平成29年1月16日 頓首再拝>

幸福の感染する日 - 伝統

2017/01/20 (Fri) 03:23:13


           *「光明道中記」(1月20日)より

【心に善き言葉を食して心を幸福にすれば肉体は健康化し運命は良化する。
                               (『生命の實相』第一巻)】

幸福は感染する。病気が感染するばかりでなく幸福は必ず感染するものである。

家庭の一人が不幸せになった時、その家全体は何となく不幸の雰囲気に包まれ初(そ)める。
その一人の不幸が堤に穿(うが)たれた蟻(あり)の孔(あな)のように
全体の幸福を押し流して了うこともあるものである。

だから一人だけ不幸でいても好いと云うようなものではない。
自分一人が悲しみのために全体を不幸に陥れて好い権利はない。
悲しみが感染するものならば、悲しむ者はその悲しみを他の人に伝えることを、
伝染病を予防するが如き注意深さを以て避けなければならぬ。

悲しみのある時には、神にその悲しみを訴えよ。
神は光であるから悲しみの暗(やみ)は必ず消える。

悩みのある時には、神にその悩みを訴えよ。
神は悦びであるから、その悩みは悦びに必ず変る。

腹の立った時には人に手紙を書いてはならぬ。
必ずその手紙に剣があって相手に立腹を伝染するのである。

腹の立ったときには「腹の立つことは何もない、大調和が実相である」と念じて神想観せよ。

            <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>

【正負の法則と幸福三説】 - 伝統

2017/02/04 (Sat) 04:31:17


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月19日)」より

   (美輪明宏氏の心に響く言葉より…)

   世界の歴史の中で、超弩級(ちょうどきゅう)の美人だった人は、
   その美形度の度数が上がれば上がる程、《正負の法則》で
   それに見合っただけの悲惨な人生を送っています。

   クレオパトラも楊貴妃(ようきひ)も、小野小町(おののこまち)にしろ、
   ローラ・モンテスもエンマ・ハミルトンもグレタ・ガルボもヴィヴィアン・リーも
   エリザベス・テーラーもグレース・ケリーも、
   たび重なる心労、病気、大手術、孤独、波乱万丈、哀れな死。

   なまじ美人に生まれたばっかりに
   それに釣り合う代償を払わされる破目(はめ)になるのです。


   高い所へ登った人ほど、落ちた時には大怪我か即死です。

   低い所にしか登れなかった人は落ちてもせいぜい軽いカスリ傷か怪我くらいですむのです。

   それが《正負の法則》ですから仕方がありません。


   ですから、「まあどうにか見られなくもないかな」と言われるくらいの、
   容姿容貌の人々はそれにふさわしく、まあまあ可もなく不可もなくという
   無事平穏な人生を送ることが出来るのです。

   美人をうらやましがる必要は少しもありません。


   ハリウッドの女優だった、グレース・ケリーは、
   裕福な家庭に育ち、美貌で才媛、アカデミー賞を受賞して、
   それからモナコの王妃になりました。

   〈正〉だらけです。

   でもそういいことばかりがあるものではありません。
   
   子供たちはスキャンダルだらけ、心配事はひっきりなし、
   あげくの果ては事故で悲惨な死に方をしました。

   しかも、暗殺だとか他殺だとかいろんなことを言われて。


   グレタ・ガルボの場合は自分から〈負〉を作り、
   その〈負〉を受け入れて生きていった、稀有(けう)な存在です。

   大根役者ではありましたが、大女優の名をほしいままにしました。

   今の若い人たちはご存知ないかも知れませんが、
   「ガルボの前にガルボなし、ガルボの後にガルボなし」と
   言われたほどの美貌だったのです。

   彼女はある盛りを頂点として、自分からさっさと引退していったのです。

   そういう〈負〉の作りかたもあるのです。


   原節子さんの場合と似ています。

   同じように絶世の美女ですが、自分でさっと引退という幕を降ろし、
   〈負〉を選んで、それで〈プラス・マイナス・ゼロ〉にしてしまったのでしょう。

   その後は隠者のように遁世して暮らしていらっしゃいます。


   エリザベス・テーラーはアカデミー賞も受賞し、
   世界一と言われた美貌の持ち主でしたが、富と名声に恵まれ、子供たちもいて、
   何が〈負〉かと言うと、ここぞというときに必ず大病をするのです。

   それも大手術を伴うような命がけの大病ばかり。

   しかも8回も結婚と離婚を繰り返し、
   一生、男性の愛情による平穏が得られなかったのです。


   フレッド・アステアはタップダンサー、モダンダンサーとしては世界一でしょう。

   あれだけの踊り手はもう出て来ません。
   ただ彼は美しい男ではなかった。

   二枚目の役もやってはいたけれど、シリアスなものはいっさいダメでした。

   そして、彼の何よりの〈負〉はものすごいばかりの練習量だったのです。

   かの〈日本の誉(ほま)れ〉イチローさんも同じと聞いています。

   才能だけでなく、その努力たるやハンパなものではないそうです。

          <『ああ正負の法則』PARCO出版>

              ・・・

幸田露伴は、「幸福三説(こうふくさんせつ)」ということを言っている。

三説とは、
惜福(せきふく)」「分福(ぶんぷく)」「植福(しょくふく)」の三つの福のこと。


(1)惜福とは、福を全部使ってしまわずに惜しむこと。
   人気絶頂の俳優が、まだあと何十年と活躍できるにもかかわらず、
   惜しまれながら引退する、というようなこと。

(2)分福とは、人に福を分けること。

(3)植福とは、子孫や未来の子供たちのために、福を植えておくこと。


福が連続して続くことはない。

だからこそ、この「幸福三説」が必要となる。


表があれば裏があるように、正があれば必ず負もある。

したがって、どんな結果にも、その原因がある。

だから、もし努力を伴わない成功というものがあるのなら、
その代償はいつかどこかで払うことになる。


幸福三説の実践を重ねたい。

            <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>

いちばんの幸せとは何か? - 伝統

2017/02/18 (Sat) 04:32:52


       *「「第六感」で決めると、すべてに迷わなくなる!」
         普天間 直弘・著(P29~30)より

人生でいちばんの幸せとは「気づくこと」だと思っています。

では、いった何に気づくことなのでしょう。

それは、私たちそれぞれ一人ひとりが、自分の内側のど真ん中にもっている
「本来の自分自身=中庸の心」  ―― 、
つまり揺るぐことなく、ぶれることなく、ありのままの「本質」そのものに
気づくことをいいます。

五感が鈍っていたり、気持ちが情報に惑わされていたりすると、
「本質」を実感することができません。

ですから、ぶれているならぶれていると「気づくこと」が
幸せへの道へとつながっていくのです。

自分がなぜこの世に生まれてきたのか、
何を決めて人生という旅を歩いているのか、
その真実を思い出すことです。

            <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>

《心の幸福が本当の幸福》 - 伝統

2017/03/02 (Thu) 04:32:54


       *『幸福を招く365章』第11項(P236~237) より

この事さえ成就すれば私は屹度(きっと)幸福になれると思っている人が、
それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。

胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、
胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。

あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が結婚した後(のち)に
毎日夫婦喧嘩(げんか)をして決して幸福でない実例もある。

これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、
それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して
幸福になれない人もある。

考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、
其の人の心の状態にあるのである。

心の幸福な人は常に幸福な人である。

(初出~「生長の家(昭和26年5月25日)」)

            <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

幸福は内にあり - 伝統

2017/03/12 (Sun) 04:33:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月12日)」より

持ち主もなく宝物がいたるところに埋(うず)められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。

            <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>

幸福とは心の一つの状態である - 伝統

2017/03/13 (Mon) 04:49:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月13日)」より

幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。
あたりまえのことがあたりまえである。噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。
金殿玉楼の中にいて、輾転(てんてん)反側して眠れない人もいれば、
弾丸雨飛の中にいて喜びいっぱいの人もある。

            <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>

幸福は無我の中にある - 伝統

2017/03/16 (Thu) 04:27:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月16日)」より

幸福は無我の中にある。従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我漫の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

            <感謝合掌 平成29年3月16日 頓首再拝>

幸福の秘訣 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 04:53:36


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月25日)」より

胸を広くして待っていること。

ここに幸福の秘訣がある。

            <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

【しあわせおんちな人】 - 伝統

2017/04/11 (Tue) 04:24:11


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年02月25日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   私は会社に行くと必ず「ご苦労さん」とか「ありがとう」ってみんなに言うの。

   それでお茶を出してくれたら、また「ありがとう」なんだよ。
   社長にお茶を出すのは当たり前じゃないんだよ。

   それと同じで、旦那さんが給料を持って帰ってきてくれて、
   それが当たり前になったら、人生が急に味気ないものになっちゃうよね。

   社員だから働くのが当たり前じゃなくて、
   働いてもらっているんだから、「ありがとう」なんだよね。

   この世の中には、当たり前のものは何もないんです。


   あるはずがないことが起きたときに“有難い”っていうの。
   だから、ありがとうとは、あるはずのないことなんだよね。

   私は米一粒もつくったことないけど、それでも毎日ご飯を食べることができるの。
   それは、誰かが私の代わりに米をつくってくれるおかげなんです。

   私は漁師じゃないから魚もとれないけど、
   それでも魚を食べることができるのは、ありがたいことだよね。


   それを、どっかで当たり前だって言っちゃうんだよな。

   “あたりまえ”のことを“ありがとう”に変えたら、人生に花が咲くよね。


   当たり前のことに感謝しはじめると、
   人はもっとしあわせを実感できるようになります。

   しあわせって、結局、当たり前のことにどれだけ喜べるかなんだよね。

   私は毎日、朝、昼、晩と三度ご飯が食べられることがうれしいんです。
   たとえそれが、どんなおかずであってもうれしいんです。

   おいしい料理を食べることができたからうれしいとか、
   高級レストランで食べることができたからうれしいということではありません。


   “しわせおんち”な人って、
   たとえば100万本のバラの花を見ないとキレイだって思えないの。

   でもそんなのってめったに見ないよね。

   それよりしあわせって、
   道端に咲いているタンポポを見てもきれいだなって思えることなんだと思うの。

   どんな小さな花を見てもきれいだと思えると、
   毎日がしあわせになってくるんです。


   だから大切なことは、自分のしあわせを感じるレーダーの感度を、
   常に上げていかないとダメなんだってことなの。

   感度が鈍ってくると、目の前にあるしあわせに気づけなくなってしまうよね。

   それよりレーダーの感度を上げていけば、
   自分のまわりにしあわせがいっぱいあることに気づけるんです。


   しあわせってモノじゃないの。
   感じることだから、常に自分のアンテナをしっかり張ってないと
   感度が鈍るんです。


   自分のしあわせを感じるアンテナはちゃんと立っているだろうか。
   レーダーの感度は上がっているだろうかって考えてみるといいよね。

   そうすると「ここにも! 」「また、ここにも! 」って
   目の前のしあわせに気づけるようになりますよ。

          <『変な人の書いた世の中のしくみ』サンマーク文庫>

                 ・・・

ほんのちょっとのことで喜んだり、驚いたり、感謝したりする人のまわりには人が集まる。

自分まで明るくなって、楽しくなってくるからだ。


反対に、なにか素敵なことを教えたり、プレゼントしても、
無表情で反応がなく、少しも喜ばない人には、
「二度と教えるものか」とか「絶対にプレゼントしない」と固く心に誓ってしまう。


しあわせおんちな人は、喜び下手の人。

「喜び上手な人」、「驚き上手な人」、「感謝上手な人」は、
喜びや驚きや感謝を感じるアンテナの感度が高い。


「“あたりまえ”のことを“ありがとう”に変えたら、人生に花が咲く」

しあわせを感じるレーダーの感度を高めたい。

            <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>

当り前の事が当り前に出来るところに「幸福」がポッカリと姿を現す。 - 伝統

2017/04/12 (Wed) 04:56:53


           *「光明道中記」(4月12日)より

【心が豊富になれば自然に物も豊富になる。心が固定すれば、自然に物も固定する。
                             (『百事如意』)】

何かを紛失したときに、イライラした心で探し廻っては決して見附からないものである。
そんな時には、神想観を修して心を平和にして当り前の仕事を当り前に遂行していると、
突然その仕事の動作の進行中に、紛失した品物に出会すことが度々ある。

「先刻(さっき)ここを一所懸命に捜していたのに、どうして見附らなかったのだろう。
それは、こんな何でもない見附かり易い所にあったじゃないか」と気が着くことは
随分とあり勝である。

またトンと胴忘れした事柄を、その時如何に思い出そうと思っても思い出せないことが
試験場その他で随分ある。そして焦っている時には思い出せないでいながら、
もう思い出そうとも思わない時になって、突然ポッカリと頭に思い浮かんで来ることも
あり勝である。


「幸福」と云うものも同じようなものである。

「幸福」を追っ駈け廻している時には却って
「幸福」などと云うものはやって来ないのである。
「幸福」を追っ駈け廻すことを止めて、ただ当り前のことを当たり前に感謝して
行なっている人には「幸福」が予期しないのにポッカリと姿を現す。

            <感謝合掌 平成29年4月12日 頓首再拝>

招かずして幸福来る日 - 伝統

2017/04/13 (Thu) 04:09:59


           *「光明道中記」(4月13日)より

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。(『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。
恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、
相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了(しま)うか、
「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と「眠り」を追っ駈け廻す時は
「眠り」は逃げて了う。―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。

人生も同じことである。
幸福に《なろう》とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと
予想することになるから、不眠の原因となる。

今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。
恐怖は外敵に対峙する感情であるから、
外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、不眠は自然の自衛作用である。

自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である。

            <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

幸福の声を聴く日 - 伝統

2017/04/14 (Fri) 03:09:52


           *「光明道中記」(4月14日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

            <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝>

神の御心のままに - 伝統

2017/04/15 (Sat) 04:24:33


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より

「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。

「《あれ》がほしい」と思って成就する時としない時との区別(けじめ)はそこにある。

こんな時に神から離れる者は永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。

・・・

喜びに招かれる日

           *「光明道中記」(4月15日)より

【・・・この力と接触する道は、最大多数の人間には最大多数の善を為そうと思って
 自己の生活を正しくすることです。『百事如意』】


「幸福」はあなたを愛人のように追駆けて走っており、
あなたも亦「幸福」を愛人のように追駆けて走っており、
そうして互いに相逢ことが出来ないのは、

「幸福」と同一円周上にいながらあなたが「幸福」をあまりに追駆け廻している
からだと云うことに気がお着きになったことでしょう。

一所懸命に「幸福」を追賭け廻している限り、
ついに吾々は「幸福」に追着くことが出来ないのです。

では停止して了(しま)ったら、「幸福」の方から追着いてくれるでしょうか。

吾々が人生の働きの歩みを停止したら、「幸福」の眼には吾々の姿が見えなくなるのです。
何故なら各人は、「生命」であり、「生命」は活動している時だけ、
その姿が顕れているからです。
「生命」が活動を止(や)めたときに、そこに吾々はもういない。

吾々の姿は無くなるのです。

だから「幸福」の天使(てんのつかい)に追着いて貰うためには
吾々は「幸福」を追駆け廻してはならないし、
それだと言って「生命」の歩みを止(と)めてはならないのです。

「幸福は必ず自分に追着いてくれるもの」と信じて、
急がず焦らず悠々と着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者には
遂に幸福が追着いてくれるのです。 

            <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>

本当の幸福の味 - 伝統

2017/04/26 (Wed) 03:26:38


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 平成29年4月26日 頓首再拝>

「幸福」の機関の運転 - 伝統

2017/04/29 (Sat) 04:53:09


           *「光明道中記」(4月29日)より抜粋

【富を自分の方へ引き寄せようと思うまでに、
 自分自身を全体のために与えなければなりますまい。(『生命の實相』第十七巻)】

吾々の潜在意識の中には色々のものがある。
その中で最もどう云う種類の観念が優勢を占めているかと云うことによって
其の人の運命は決するのである。

其の人の周囲に集まって来る日常無数の出来事は、
その人の潜在意識中の優勢観念が磁石となって回転するのである。

吾々の潜在意識中の優勢観念が、「人間神の子・万事良くなる」という
大信念であるならば、その人の周囲に起るところの大小無数の事件は必ず
其の人が幸福になるように、その人が発展するように好転好転又好転するのである

―― 若しそれでもその人に幸福がやって来ないならば、その人は傲慢になり過ぎて、
万事が神から来ることを忘れ、自力の信念の効果によるものとして
感謝と報恩との行を忘れて了ったからである。

感謝は「幸福」の機関が回転する心棒に注す油のようなものである。

報恩は「幸福」の機関が生産した物品の配給である。

いくら「幸福」の機関が上等だからとて、油を注さなかったり、生産品を処置しなかったら、
その機関は詰って了い、「幸福」の機関の運転は停止して了うであろう。

            <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>

【「ああ、そうなりましたか」と淡々と受け入れる】 - 伝統

2017/05/11 (Thu) 03:07:45


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月16日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   思い通りにならない、それが「苦」。

   「思い」がなければ、思い通りにならないという現象は起きない。
   「苦」は生じない。

   「思い」を持たない。

   それは、目の前で次々と起きる一般的に不幸だといわれている現象に対しても、
   「ああ、そうなりましたか」と単なる日常の1ページとして、
   淡々として受け入れていくということです。


   病気や事故、愛する人との別れといった、思いがけず自分の身に起こる出来事を、
   人生の一部として受け入れていく。

   「何でこんなことが起こったのだろう」という「思い」を持たない。

   目の前で起こるすべての現象を、
   「ああ、そうなりましたか」と受け入れていく、それだけです。

   家が火事になっても、事故に遭ってケガをしたとしても、
   「ああ、そうなりましたか」と受け入れる。


   「この世に修行にきたわけではなく、ただこの世で起こるいろんな現象を、
   人間の肉体を借りて味わいにきただけ」

   そんな観音様のような世界観を、己の人生観に取り込めばいい。

   「私たちは観音様の化身(けしん)なのだ」

   そう思えば人生はぐっとラクになります。

         <『努力ゼロの幸福論』大和書房>

            ・・・

小林正観さんは、同書の中で「努力」についてこう語っている。

「よく誤解されるのですが、私は『絶対に努力をしてはいけない』とか
『頑張ってはいけない』と言っているのではありません。

必死に努力して頑張ることで、
達成できることや解決できる問題も確かにあると考えています。

しかし、自分の努力や頑張りだけではどうしても解決できない問題もある。

人生では次から次へと手強い問題が押し寄せる時期もあるでしょう。

そのときは、『自分ひとりでは解決できない』と思い定め、『謙虚』にならざるを得ない。

それが、『努力しない』『頑張らない』『必死にならない』の本来の意味です。

最終的に私たちができるのは『おまかせ』をすることだけ、ということになります。

おまかせをするとは、目に見えない4者『神、仏、聖霊、守護霊』と、
目に見える4者『友人、知人、家族、自分の身体』に対して
いつも笑顔で『ありがとう』と言いながら、
宇宙とまわりのすべてに感謝の心をささげて生きていくことです」


世の中には、自分の努力や頑張りだけではどうにもならないことが多くある。

お釈迦様がおっしゃった「生老病死」という4つの苦だ。

生まれること、老いること、病気にかかること、死ぬことの4つは、
人間として免(まぬが)れない苦悩だ。


それに、「4つの苦しみ」を加えて、「四苦八苦」という。

4つの苦しみとは、

「愛する者との別れ」、
「嫌な奴や憎んでいる者と会わなければならないこと」、
「欲しいモノが手に入らないこと」、
「自分の肉体と精神のコントロールがうまくできないこと」。


免れない「苦」に遭ったときに必要なのが、
「ああ、そうなりましたか」と、淡々と受け入れること。

この世には、「人間の肉体を借りて味わいにきた」と思えるなら生きるのはラクになる。

            <感謝合掌 平成29年5月11日 頓首再拝>

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