伝統板・第二

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生命の教育 - 伝統

2016/04/09 (Sat) 05:01:56

このスレッドでは、『生命の教育』及び「生命の教育」誌に関する情報を集めてまいります。


『生命の教育』発刊の辞    谷口雅春

             *光明掲示板・第一「生命の教育」より

人類の偉大なるは人それ自身の本質による。
金の良質なるは金それ自身の本質による。

金は鉱石を外から磨いても純金となるのではなく、
その本質を抽出するところに純金が顕現するのである。

人間の教育もかくの如く、人間を外より磨くよりも、
その本質を内より抽出することによって完成するのである。
併し人は金よりもなお偉大なるものである。

金は自然に放任するときは、みずから内よりその純分を析出しないけれども、
人は生命であるから、本当に自然に放任するとき、栗の実が毬を破って出ずるが如く、
おのずからその本質のよさを呈露するのである。


人の偉大なるは縛られて善くなるのではない。
『本当の自然にまかす』とき、内在無限の善さが、内在無限の能力が、
内在無限の智慧が、内より呈露して発現するのである。

併し、『本当に自然にまかす』とは、何であるか。
それはただの放任ではない。大生命を知り大生命に任すのである。

ただの放任は『自然にまかせた』ように見えていて、
その実は今までの『悪しき惰力』に縛らせている場合が多いのである。

悪しき惰力に縛られずして、人それ自身に宿るところの大自然をよびだして、
それにまかせて教育する教育が吾らの生命の教育である。

人それ自身に宿るところの大自然とは何であるか。
これこそ吾らに内在する神性であり、仏性である。
この内在の神仏をよびだすは言葉の力により、文章の力による。


吾らの教育の本質と方法とを万人に宣べ伝えて、一挙にして全人類を光明化し、
地上に一人の劣等児なく、虚弱児童なく、家庭争議なく、一切の歪める思想家なく、
神そのものの如き人間を地上に創造せしめんがために、
吾らの地上天国建設運動に参加せられんことを庶幾う。

                      < 昭和10年6月 >

                 ・・・

『生命の教育』とは

生命の教育とは、『唯神実相哲学』を根幹として展開される谷口教育学の原理と方法のことで、
生命の本源にさかのぼり、神性一元の人生観、世界観に徹するところに窮極がある。

生命の教育とは、すべての子供に、神性・仏性・無限の可能性の内在することを信じ、
これを観ずること、すなわち、広義の“コトバ”の力によって〃引き出す教育〃のことである。

生命の教育では、『実相』と『現象』とを明らかに区別し、
現象に如何なる悪しき相(すがた)があらわれても、
唯、実相を観ずる『観の教育』で解消する。

生命の教育は、常に『今』を活かす教育で、子供の生長、発達の各段階に応じ、
内部生命の発現に相応する教育を行なう。


生命の教育は愛の教育である。

生命の教育は、生命顕現の法則に従い、秩序を尊び、中心に帰一し、
大和(だいわ)の理念、日本の使命達成のための教育を行なう。

              <『生命の教育』 はしがき >

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=681 より)

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「子どもの教育①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463326

(2)伝統板・第二「子どもの教育②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6643544


            <感謝合掌 平成28年4月9日 頓首再拝>

「円満完全性」を「信じて観」て「引き出す」 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 03:58:39


        *『生命の根元を培う新しき教育』(P10)より

   教育というものは、教え込むものではなくて
   本来の「円満完全性」を引き出すのでありますから、

   それを引き出すためには、
   その「円満完全性」を信ずることが先ず根本にならねばなりません。

   「円満完全性」なんか無いと信じていて
   「円満完全性」を引き出し得るものではありません。

   「信ずる」次には「観る」ことが必要です。
   「信じて観る」ことによって、内在の円満完全性があらわれて来るのであります。 

    (http://www.sni-honbu.or.jp/whda/wp/?p=193 )

            <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

人間の本当の善とは - 伝統

2016/04/30 (Sat) 04:30:55


          *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P83~84)より

たとえばここに一本の線を引くにしましても、定規で線を引くとまっすぐに引ける。

しかし、その線がまっすぐに引けましても、これは定規が機械的に引いたのであって、
人間が自由に引いた線ではないのですから、それは本当に芸術美の線であるというわけには
ゆかないようなものであります。

それはかくあるべく定規によって掟(おき)てられて仕方がなくして、
まっすぐに引けているだけであって、そこには生命がない、
生命のないところには「善」というものも「美」というものもないのであります。

少しぐらい曲がっても手で引いた、そこに本当に人間の生命が現われて、
《美しい線》というものができるのであります。人間の道徳的というのもそうであって、
ある人から見たらちっとぐらい脱線しているように見えているかもしれない。

レールの上を走る汽車のようにまっすぐには歩けないかもしれないけれども、
われわれの行(おこ)ないが、本当に自由に委(まか)されて、右するも左するも自由であって、
しかも自由意志の発露として、道に適(かな)ったように生活できる時に、初めて、
その人が道徳的善人であるということができるのであります。

(中略)

ともかく、われわれは、人を導く場合に、恐怖心を起こさせるような方法によって
善に導いたところが、かくして為(な)される善は本当の善ではないのでありますから、
人間を本当に善人たらしむることはできないのであります。

                  (平成27年9月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年4月30日 頓首再拝>

生命の尊さを教えよ - 伝統

2016/05/08 (Sun) 04:44:13


          *「生命の教育」(P170)より

まず子供に教えよ。
彼自身の生命の尊さを。
―人間の生命の尊さを ―そこには無限力の神が宿っていることを。

展けば無限の力を発し、無限の天才をあらわし、彼自身のためのみならず、
人類全体の輝きとなるものが彼自身の内に在ることを教えよ。

彼をして彼が地上に生命を受けて来たのは、自分自身のためのみでないこと、
人類全体の輝きを増し、人類全体の幸福を増すために神が偉大な使命を
彼に与えてきたのであることを教えよ。

この自覚こそ、最初の最も根本的な自覚であって、
この自覚が幼児期に植えつけられたものは必ず横道に外れないで、
真に人類の公けな歓びのため何事かを奉仕しようと喜び励む人になるのである。          

              <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

教育の根本 - 伝統

2016/05/15 (Sun) 04:38:09


          *「生命の實相」第25巻教育実践篇上(はしがき)より

教育の根本は児童にやどる可能性を信じ、発見し、それを賞揚し、激励し、
自信を高め、勉学に興味をもたしめることにあるのである。

子供の伸びる力は「生命」の伸びる力である。
生命は解放されてはじめてスクスク伸びるのである。

児童に宿る本来健全な優良な伸びる力を発現させるためにはまず縛りを解放することである。
心に児童の不良や欠点を見てはならないし、児童の劣等や悪意を見てはならない。
見ることはあらわすことであり発現させることである。

言葉で児童の不良や欠点を見てはならない。
また言葉で児童の劣等や悪意を言いあらわしてはならない。

言葉は創造者であるから、言葉によって不良や欠点を言い現わして、
それに注意を集中させて児童を優良児たらしめようというような
過去の教育は悉く失敗に終わっているのである。

成績の不良な児童を見て、それに精薄児だとか劣等児とかいう名称をつけて、
それを優良児にしようと思ってもその言葉に呪縛せられて、
児童の生命は委縮して伸びることはできないのである。

子供が何の気なしに過った行為をしたとき、それを悪意であると解して、
「なぜお前はこんなことをしたのだ」と咎めてみたとて、その子供は「自分は悪意あるものだ」
という暗示を受けて、悪意ある不良少年または少女だと、みずから信ずることによって、
かつては「無意識の過失」であったところのものが、今度は意識的な悪意に変ずるばかりである。


子供を愛する両親よ、そして教師よ、保護者たちよ。

あなたが扱った児童が、あなたの意図するように健康にならず、優良な成績をかち得ず、
怠け癖が直らず、反抗が止まず、不良の傾向がますます増加するように見えるならば、
前記のように「欠点」や「不完全」や「不良」を見て、それを言葉に言いあらわして、
その「欠点」や「不完全」や「不良」に気づかせて直そうと思うからである。

それは、心に思うことが顕われ、言葉で暗示することが実現するという
精神科学の法則に気がつかないからである。

このわたしの提唱した教育法では、
世界にはどんな劣等児も精神薄弱児童もないことになるのである。

戦後、各学校では自由教育方式が採用されて、
従来の「詰め込み教育」が廃される傾向になっているのは、まことに好ましい傾向であるが、
それにしても、単に「自由」に放任するだけでは足りないのである。

その根本に児童の生命の奥にある「円満完全なる神性」を見ることと
言葉に言い現わすことがなければ、自由や放任だけでは児童は必ずしも良くならないのである。

「見る」ことは「顕わす」ことであり、「言葉」は「創造者」である。

詳しいことは序文では書くことができないので、本文を読んでいただきたい。
本篇は教育実践篇であるから、より多く実践の方法が説かれている。

本書に挙げた多くの実例と同時に、『生命の實相』頭注版ではその十三巻に教育の根本原理
が詳しく書かれているから本篇と併せ読まれれば、諸君の愛児を健康にかつ「優良」に
育て得ること確実であると思う。

なお『生命の實相』全集のほかに、劣等児や普通以下の児童を優良化した実例と方法とを
収録した「優良児を作る」という書があるから、そのような児童に接する教師たちは
それも併せ読まれれば幸いである。


       昭和三十九年九月十日
                               著者しるず

              <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>

児童を善くしようと思ったならば - 伝統

2016/05/23 (Mon) 03:53:14


          *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P84~85)より

恐怖心を刺激して無理に自己がなそうと思っている悪を抑えますと、一見悪が消滅したように
見えますけれども、決してその悪をなそうとする衝動が消滅したのではないのであります。

悪をなさんとする衝動は押し込められ窒息してはいますが消滅したのでありませんから、
何か他(ほか)の形で現われようとする傾向が自然と出てくるのであります。

むろん「これをしてはならない」と威嚇してグッと抑えつけてしまいますと、
一時(いちじ)はそれをしなくなるかもしれませんけれども、他(た)のところから
いろいろの行為に代表的に現われてくるのであります。

そうなりますとせっかく人間を善くしたように見えても決して善くしていない。

《ひねくれ》坊主をこしらえたことになるのであります。
ですから強制と威嚇による児童の善導は
本当に児童をよくする道ではないということになるのであります。

それでは児童を善くしようと思ったならば、どうしたらいいかと申しますと、
親自身が心に善を描き、行ないに善を示して、それを模倣さえすれば、
児童が自発的に道徳善ができるように仕向けてやるほかはないのであります。

                  (平成27年9月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

恩を知る人を養成する教育が必要である - 伝統

2016/06/04 (Sat) 03:23:04


          *『生命の根元を培う新しき教育』 より

教育の根本は、「自己」(内在神性) の覚醒でありますから、
「愛し」 ながらも 「放つ」 ことが必要であります。 

いつも手を引いて歩かせて貰っている者は、
いつまでも独立して闊歩することが出来ないのであります。 

だから、相手の中に無限叡智の 「神性」 が存在することを‘信じて’、
それを言葉にて賞め、心にて観じ、言葉にて鼓舞激励し、そして、ある程度まで手を引いたら、
あとは、みずから立つ力を引き出すように、「放つ」 ことが必要なのであります。 

それが 「愛深き冷淡」 又は 「峻厳なる愛」 といわれるところのものでありまして、 
「君には出来る! ひとりで出来る。 神の子だから、必ずそれだけの力は内在する!」 
と断乎としてコトバの力によって宣言することが必要であります。


次に教育の基礎として必要なのは 「恩を知る」 という美徳を養成することです。

第二次大戦後の日本人は、民主化ということを穿きちがえて恩を恩と知らず、
個人の自由を振り廻して、恩義を蹂躙しても、自分さえ都合がよければそれで民主主義生活だ
などと思っておりますが、本当の個人の自由は、個人個人の相互の社会的連関の円滑によって
得られることだというとを知らなければなりません。

一人の個人の自由は、多くの人々の協調によってのみ得られるのであります。 

簡単な例を挙げてみましても、今日の私の朝食は午前6時に頂きたいと思いましても、
午前6時までに朝食を調理してくれるものがなければ、私が朝食を午前6時にたべたい
という自由は満足させることが出来ないのであります。 

そこに一人の人の自由への要求を満足させるためには、
他の幾多の人々の社会連関性が必要さということがわかるのであります。 
これが 「衆生の恩を知る」 ということであります。


恩には、天地の恩、神仏の恩、国家の恩、社会の恩、父母の恩、
その他家族全体の恩、師の恩、一切衆生の恩、天地万物の恩などがあります。 

生長の家の教えには 『皇恩に感謝せよ。 汝の父母に感謝せよ。 
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ』 ということが、
第一に挙げられておりますが、

大東亜戦争後の日本では、 「天皇の恩」 とか、 「忠孝」 とか申しますと、
封建的だといって叱られそうでありますが、
教育の基礎は、自分の生命の本源を知ることから始まらなければなりません。

「恩」 という字は 「因(もと)」 と 「心」 との合字であって、
自分の生命(いのち)の 「因」 を知り、自分の現在こうして生きていることを
得るための予見として 「因」 に対して感謝する心を 「知恩」 というのであります。 

「皇恩」 とか 「天皇の恩」 とか申しますと、 
「天皇は戦争責任者ではないか、恩どころか、自分の父、夫、息子、兄弟等は
戦争のために戦死したのだから怨みに思う」 という人があるかも知れませぬが、
私の考えでは、天皇は戦争責任者ではありませぬ。 

群集ファッショの行われる世界に於いては、
一個人の自由意志の如きは蹂躙(ふみにじ)られてどうすることも出来ません。 

日米開戦当時の軍閥(当時の勢力階級たる軍関係の群集ファッショ)の旋風の如き
戦争へ駆りたてる群集心理は、天皇といえども、一木(いちぼく)のよく支うる
ところではなかったのであります。

ところが開戦数年にして現地敗戦事情は次第に明らかになり、日本の軍刀既に尽きんとして、
軍閥の権威地に堕ち、軍閥は群集ファッショとして、天皇及び国民の自由を強制する力が
薄くなって来たのであります。 

もう軍閥ファッショの旋風の如き力は、
天皇の自由意志を抑えることは出来なくなったのであります。


ここに、天皇は 「朕の身はどのようになっても好いから、国民をして
戦禍からまぬかれしめたいから、ポツダム宣言を受諾する」 との、自己を犠牲として
国民を救いたいという御聖断が、天皇の自由意志の表現としてなされたのであります。 

だから、天皇は戦禍の責任者ではなく、
かえって、天皇の御聖断によって国民は戦禍から救われたのであります。

爾来数年、吾等が兎も角も平和に家業にいそしみ、飢えることなく、
日本再建の努力をつづけ得るその本源は、この天皇の平和への御聖断に負うところ
甚大なのでありますから、吾等は当然、皇恩に感謝して然るべきであるのであります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18137254.html より転写)

              <感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>

子供の神性をまず拝む - 伝統

2016/06/15 (Wed) 04:24:37


子供の神性を尊重して道理を説いて聞かせよ

       *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P85~87)より

次に、子供をよくしようとするには、児童を頑是(がんぜ)ないわからず屋だと思わないで
児童の神性は必ずや善を理解しうると信じて道理を説いて聞かすのが一番良いのであります。

道理を説いて聞かすということは小言(こごと)を言えということではないのであります。
道理を説き聞かす場合にも、こちらが興奮して棘(とげ)だったような顔つき、語調をして
話すならば、言葉は道理を説いていても、それは叱責(しっせき)となり、かえって反抗心を
昂(たか)めてなんにもならないのであります。

《道理を説いて聞かすということは、相手の中に道理が宿っていることを信じて拝むのであります。》

子供は神の子であるから「神」すなわち「真理」であり「道理」であるから子供の中には
必ず道理が宿っているのであります。

子供に宿っているその道理を拝む。
拝む気持になって尊敬しつつ柔(やさ)しく道理を説いてきかさねばならない。

「あなたは神の子である、 善の子である、道理の子である、 真理の子である、
あなたの中には善があるんだから、善をなすのに極(き)まっている」と、

その神性を認めてその子供を拝むような気持になって、
静かにその宿っている道理を引き出すようにして話しかけるのであります。

いくら叱(しか)りつけて恐ろしい語調で道理を説いても、それは相手のうちに宿る真理すなわち
神なるものを拝んで説くのでありませんから、子供のうちの道理、真理が出てこないのであります。

同じ道理を説いても、相手を尊敬しつつ説かなければならないのはそのためであります。

「きさまみたいな奴(やつ)は人間じゃない、道理はこうだ」といって話したのでは、
その子供の中に道理が宿っておらぬと軽蔑心を起こして、内部の神性、仏性に蓋(ふた)
をして引き出そうとするのですから、その神性、仏性が出てこないのであります。

児童を良くするには、その神性、仏性をまず拝むのです。
拝めば扉(とびら)が開かれるのです。

「あなたは道理そのものである」とまず心で内部の神性を認めて拝んだら必ずそれが表面に出て、
その子供が良くなってくるのです。

親が子供を圧制的に育てた場合、その子供が、機会を得て会社の上役にでもあると、
非常に圧制的な上役にもなるのです。
そうして部下をむやみに圧制して鬼のように嫌われる上役になります。

これはやはり幼時に蓄積されたところの因(たね)が、同じような「縁」すなわち、
当時の親みたいな「年齢」とか境遇とかに触れますと、それが誘発されて出てくるのです。

ここにも同じような「縁」に触れた時、同じような「因(いん)」が
誘発されてくることがわかるのであります。

                  (平成27年9月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

家庭の雰囲気をよくしましょう - 伝統

2016/06/27 (Mon) 04:06:55


       *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P87~88)より

子供に道理を説いてきかすことには二重に収穫があります。
それは、一方において子供の心に明晰な思考力と推理力とを生長さし、
他方においては、道理に従うという従順さを湧わき起こらせるからであります。

これに反して、叱言(こごと)や威嚇(いかく)で子供を良くしようとしますと、
家庭の中に叱咤(しった)や罵詈(ばり)が絶えないで家庭の中が火宅(かたく)のように
なってしまいますが、道理を静かに説いて聞かすところには、そんな恐れはありません。

家庭で一人のどなる人があるために、どんなに家庭が不快になるかということは、
皆さんがすでに実験済みであろうと思います。

ほんのつまらないことに《がん》とどなりつける人が一人あると、家の中の空気が
非常に険悪(けんお)となってしまうのであります。

(中略)

子供をよくしてやろうと思って、ただ一回《がん》とどなる。
その金切(かなきり)声が、どんなに回り回って家庭の全体を悪くし、
子供を損(そこな)うかもしれないのであります。

ですから、われわれは子供を善に導こうとするならば、
常にまず相手に宿っているところの道理を拝む、神性を拝む、仏性を拝む、
そして優しい言葉で、子供に宿っている道理、神性、仏性を
導き出すようにしなければならないのであります。

                  (平成27年9月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>

「このお子さんは偉い人になりますぜ! 」 - 伝統

2016/07/13 (Wed) 04:24:21


        *『生命の實相』第25巻教育実践篇上(P23~25)より

「この子はとても乱暴で、勉強をしません。
今度中学に入るというのに、この分ではとても進めません、
こんななまけ者はありません」

といわれる。

それでわたしは申しました。

「あなた、子供の前でそんな悪口(あっこう)をいうものではありません。
この子は悪い子だ悪い子だといっていたら言葉の力で悪くなってくるのです。
こいつは悪い悪いと言っていると誰でも悪くなってしまう。

あなた、よくこのお子さんの顔をごらんなさい。
西郷隆盛によく似ているではありませんか。
立派な人相をしているではありませんか。

このお子さんは偉い人になりますぜ。

お母さんが悪い悪いというから悪い真似をしていたんだね。
あなたはきっと西郷隆盛よりも偉くなるんだよ。
明日から勉強をよくしますね」

と、わたしは信念を注(つ)ぎ込むような調子でそれだけ言ったのであります。

すると翌日母親が来られて、お蔭様で、
すっかりうちの子が変わりましたといって大変お礼を言われるのです。

これまでは、夜、寝しなに洋服を脱いだら、上着をポイとこっちへなげる、
ズボンはあっちへポイとなげるというような抛(ほう)りっぱなしだった子供が、

わたしに賞(ほ)められた晩からちゃんと脱いだ着物を始末して、
枕頭(まくらもと)に丁寧にたたんで積み重ねて置くようになりましたし、

勉強も落ち着いてするようになりましたと申されるのであります。

(中略)

賞めるということは実によいことであります。

《実に人類を光明化するのは賞め言葉であります》。

                  (平成27年10月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>

子供は親に喜ばれることをどんなに喜ぶか - 伝統

2016/07/28 (Thu) 04:31:56

         *『生命の實相』第14巻教育篇(P190~191)より

「下手だ」とか「悪い」とかいって叱りつけて、児童の心に自己の悪い方面を
印象せしめるような旧式の教育法は断然改めなければならないのである。

といって、下手のままで「これでよい」と慢心せしめるような教育法も失敗だと
いわなければならないのである。

「非常に上手にできたが、ここをもう少しこうしたらいっそうできばえがよくなるだろう。
それごらん、こうなるだろう。今度はここをもう少し注意してやってごらんなさい。
きっとまだまだ上手になる。

この子は少しでも善くない所はすぐ改める子だからどれだけでも上手になる子だ。
将来どれだけ天才になるか、わたしはお前を楽しみにしているのだ」

こういうふうな言葉を使って、善くないところを改善することに歓(よろこ)びを
見出すような誘導法を用いるのが最もよいのである。

常に子供を批評するときには、確定的な言葉で、彼の将来を祝福してやり、
子供の上達に親たちが望みをかけており、彼が上達することが真(しん)に
親たちの喜びであることを、ハッキリと彼の心に感じられるようにしてやるがよいのである。

子供は親に喜ばれることをどんなに喜ぶか!

(中略)

子供は親に喜ばれるためになら、どんな辛(つら)い努力でも吝(おし)まないのである。

「わたしが上手になっても誰も喜んでくれるものがない」
―― こう子供が思うようになっては、彼の進歩は行(ゆ)き止(どま)りである。

                  (平成27年10月号「生命の教育」誌掲載)


              <感謝合掌 平成28年7月28日 頓首再拝>

子供の「悪」を放置していてよいか - 伝統

2016/08/11 (Thu) 04:32:20

          *『生命の實相』第14巻倫理篇(P108~109)より

「悪」が現(げん)にここにあるのを見ないでもよいものでしょうか。

「悪」をそのまま放置してそれを改善するためのなんらの手段方法を
めぐらさないでもよいものでしょうかとは、
わたしがしばしば質問を受けることであります。

しかしわれわれは「悪」に執着しないでも
「悪」を改めしめることは可能であるのであります。

それが「悪」であるとわれわれが知るのは、
そこに「善」がないということであって、
《悪が積極的にあるということではないのです》 ――


これは実に大切なる真理であります。
「《悪》」は《無》でありますから、 「悪」を除かずとも
善をつけ加えれば「悪」はおのずから消尽してしまうのであります。

「善」をつけ加えるにはどうすればよいかといえば、どこまでも、
どこまでも相手を理想化し、さらに理想化してどこまでも無限に
相手を高め上げてゆくことにすればよいのであります。

どこまでも人間を理想化して眺(なが)めても、
人間は理想化しすぎるということはありません。

なぜなら人間の実相は神の子であり無限に善さを備えているからであります。

                  (平成27年10月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>

子供は必ず「善」を理解する! - 伝統

2016/08/22 (Mon) 04:47:23


       *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P85~86)より

《児童の神性を尊重して道理を説いて聞かせよ》

子供をよくしようとするには、児童を頑是ないわからず屋だと思わないで
児童の神性は必ずや善を理解しうると信じて道理を説いて聞かすのが
一番良いのであります。

道理を説いて聞かすということは小言を言えということではないのであります。

道理を説き聞かす場合にも、こちらが興奮して棘(とげ)だったような顔つき、
語調をして話すならば、言葉は道理を説いていても、それは叱責となり、
かえって反抗心を昂(たか)めてなんにもならないのであります。

《道理を説いて聞かすということは、
相手の中に道理が宿っていることを信じて拝むのであります》。

子供は神の子であるから「神」すなわち「真理」であり「道理」であるから子供の
中には必ず道理が宿っているのであります。子供に宿っているその道理を拝む。
拝む気持になって尊敬しつつ柔(やさ)しく道理を説いてきかさねばならない。

「あなたは神の子である、善の子である、道理の子である、真理の子である、
あなたの中には善があるんだから、善をなすのに極(き)まっている」と、
その神性を認めてその子供を拝むような気持になって、
静かにその宿っている道理を引き出すようにして話しかけるのであります。

いくら叱(しか)りつけて恐ろしい語調で道理を説いても、
それは相手のうちに宿る真理すなわち神なるものを拝んで説くのでありませんから、
子供のうちの道理、真理が出てこないのであります。

同じ道理を説いても、相手を尊敬しつつ説かなければならないのはそのためであります。

「きさまみたいな奴(やつ)は人間じゃない、道理はこうだ」といって話したのでは、
その子供の中に道理が宿っておらぬと軽蔑心を起こして、内部の神性、仏性に蓋をして
引き出そうとするのですから、その神性、仏性が出てこないのであります。

児童を良くするには、その神性、仏性をまず拝むのです。
拝めば扉(とびら)が開かれるのです。

「あなたは道理そのものである」とまず心で内部の神性を認めて拝んだら
必ずそれが表面に出て、その子供が良くなってくるのです。

                  (平成27年10月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝>

《国を愛するということ》 - 伝統

2016/09/02 (Fri) 03:27:38

        *新版『真理』第7巻・272~273頁)より

愛国心の昂揚などと言っても、愛し得る値打のある国というものがあれば愛するけれども、
愛し得る国としての資格があるかないかわからん現状のような日本国では愛することが
できないというのは、それは国というものを、唯、単に形にあらわれている現状の国

――即ち現象の国家――だけを日本国だと思っているために、こんなに強盗や、強姦や、
失業者や、ストライキや、戦争や、つまらないことばかり充満している此のような国家は、
愛することはできないということになるのでありますけれども、

その現実の奥に「理念の日本の国」なるところの、
目に見えざる「国の本体」なるものをみたならば、
其処に希望が生まれ、其の国に生きていることに、生甲斐を感じ、
其の国を愛することができるのであります。

外面の現象は如何にともあれ、
それを内在の理念――理想に近づけて行くところに希望が持て、
勇気が出、生甲斐は感じられて来るのであります。

此の肉眼には見えないけれども、既に在るところの日本をつくり出した「完全模型」
即ち「実相」というものを、智慧に依って直観して、それを見出し、
そうした完全模型 (理念) に向って、国を推し進めつつある日本国民が自分だ、
という自覚が出て来たときにのみ、本当に日本人としての生甲斐が感じら
れてくるのであります。

                  (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

・・・

<参考>「生命の教育」平成28年8月号 主な内容

特集 “日本の心”を守った人たち

先祖から受け継いだ日本の心  谷口雅春

日本の危機を救った快男児  代田健藏
------------------------------------

山田寅次郎
  トルコで一番有名な日本人

畠山勇子 
国の将来を憂え、一身を国に捧げた女性

久松五勇士
  敵艦隊見ユ― 国家危急にわが身を呈した青年

ポーランド孤児を救え!
 ― 日本とポーランドの絆 ―

八田與一 
台湾で今なお慕われている「嘉南大圳の父」

島田 叡 
戦場の知事 沖縄の島守

鳥濱トメ 
「特攻の母」特攻隊員に慕われた女性

-------------------------------

《先人に学ぶ子供たちの感想》
   石川真衣 坂口璃乃 R・A

《「伝記シリーズ」に魅せられて》齊藤千鶴子


子育ては母育て(46) 胎児の発育の様子
               田下昌明

園長先生の子育てワンポイント
              秋本勇次子

子育てQ&A    大原和子、國友規代

生命の教育でまなんだこと⑫ 木村亜樹

日本人100の誇り(48)  海水淡水化・浄水技術   岡田幹彦

親子で学ぶ世界と日本㉑    高木桂藏

http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/

              <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>

「大和(だいわ)の理念の国」日本 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 04:25:23


         *新版『真理』第4巻(P77)より

日本の国は「大和(だいわ)の理念の国」なのである。
詳しく言うならば瑞穂の国である。

「ミズホ」の国とは、水火国(ミズホノクニ)なのである。
水は陰であり、火は陽である。
「陰陽和合の理念」である。

陰 (西欧) と陽 (東洋) とは和合しなければならないのである。
その契機を司(つかさど)る「大和の理念」こそ日本の国なのである。
陰 (物質) と陽 (霊) とは和合しなければならないのである。

その契機を司るのが「大和の理念」であるのである。


日本国を「領土」と「主権」と「国民」との混合物の如き
バラバラの単なる現象的存在として考えるが故に、

領土の一部が削られたり、 「主権」が一時停止せられたりしたならば、
日本国の「久遠永続性」(天壌無窮)が中断された如く考えるのであるけれども、
それは国家なるものを《唯物論的》に、そしてただの「《現象》」として観みて
いるのであって、国家の《実相》を見ているのではないのである。

                  (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

日本民族の精神 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 03:31:58


日本の精神は風呂敷精神

         *新版『真理』第3巻(P232~233)より

日本民族は、人類互に相和そうと云う理想をもって、国をはじめたのでありまして、
「大和(やまと)」の国号(こくごう)がそれを示しているのであります。
これが日本建国の精神なのであります。

「形は心をあらわす」と云う諺(ことわざ)がありますが、日本人の発明した
風呂敷を見ればわかります。風呂敷はどんな形のものでも、その形を毀(こわ)
さずに一緒に包んでしまうことが出来るのであります。

他の国を毀(こわ)して併呑(へいどん)するのは覇道(はどう)であって、
日本の皇道(こうどう)ではありません。

日本の精神は風呂敷精神であります。
総(すべ)ての物を毀(こわ)すことなく一つに包んで「人類」と兄弟となり
一家族となるのを建国の理想としているのが日本民族であります。

(中略)

「人類は互に一つだ」と云う大和(だいわ)の精神が日本精神でありますから、
日本の建国の理想は「愛」だと云うことが出来るのです。
「愛」と云うのは、どの人種も、元は一つと云う自他一体の自覚であります。

自分と他(ひと)とは形の上では別々であっても、生命は一体だと云う自覚です。
「私はあの人を愛する」と云うことは、あの人と私とは本来一つである。
そこで彼の悦びを私の悦びとし、彼の悲しみを私の悲しみと感ずる、

これが「愛」であります。

それは、或は男女の恋愛のようにも現われ、
或は父母親子の愛と云うような関係にも現われ、
或は家族が一体であると云う感じの家族愛と云うものになって現われ、
或は国を愛する愛国心ともあらわれ、或は人類を愛する人類愛ともなって、あらわれます

吾々はこれらの色々の愛を、その内の一つでなく、みなことごとく調和した相(すがた)
で愛し得(う)るように努力するとき、偏った人間ではなく「全人(ぜんじん)」
としての完全な人間の魂がみがかれるのであります。

                  (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

                ・・・

日本民族の精神を象徴するもの

         *新版『真理』第3巻(P241)より

日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているのを一つに綜合(そうごう)する
ところの天分を持っているのでありまして、日本の国の名前を「大わ(やまと)」
と名づけられたということも、

「や」というのは「弥々(いよいよ)」と云う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。
弓で射る「的」を「まと」というのも、同じことでありまして、
中心に「纏まって」いる姿を現わしています。

いろいろに分かれていても、その悉(ことごと)くが一つに纏まるべきものであって、
決してバラバラのものは存在しない、宇宙は一つである、世界は一つである
というところのその人生観が、古代の日本民族を通して現在の日本民族に至るまで
ずっと貫き通しているところの民族的信念とでもいうべきものなのであります。

                  (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

言葉の力ですべてが現実化する - 伝統

2016/10/11 (Tue) 03:53:27


         *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇(P97~99)より


このように子供の天才を引き出すには子供の生命(せいめい)を見る、
これも、結局子供の生命(せいめい)の実相を見るのでありますが、

その生命(せいめい)がどういうことに出口を求めて生きようとしているか
ということを見て、その出口に「向かい水」を与えなければ
本当の教育というものは成り立たないのであります。


たとえば、子供が卓上に何かを落とすとする、物が落下する、音がする ―― 
これは子供にとって実に不思議な現象である。

手を離すと床の上に落ちる、落ちると反動で飛び上がったり、
転覆(くつがえ)ったりする、なかなかおもしろいから幾度もやってみる。

まだまだいっそう高い所から落としてみると、どういうふうになるだろう、
反動が強くて、跳び上がる分がおもしろい。

またこう、また落とす、ますますおもしろいからやっている、
あまり上から落とすとボーンと割れる 

―― 子供にとっては、先には割れなかったのに、今度は割れた、
実に脅威である。もう一度割ってみる ―― 

ところが、大人にとっては、この子供はことさらにコップを床に投げて割った、
実に乱暴なる子供であるということになるわけです。

それで、「なんという貴様(きさま)はいたずら小僧の悪い奴だ! 」
と言って怒鳴りつける。

すると、ここに子供の世界にはじめて、言葉の力で「悪」というものが出現するのです。
「悪」だと言わなければ、それは「悪」ではない、悪童だといわなければ悪童ではない。

それが「お前は悪童だ」という言葉によって「俺は悪童かな。悪童だから、こういう
悪いことをする性質だな」と子供の心に印象されて、せっかく「今」この子供の
伸びようとしているものが伸びないことになり、変な方向に曲がってしまうのです。

そういう場合にも、これは悪童である、これは乱暴な子供であると思ってしまうのは、
「仮の相(すがた)」に捉われているのであって、「実相」を見ないものである。

子供の実相を見る教育をするためには、何のために子供がこういうようにこんなものを
落っことして転覆(ひっくりかえ)してみたりするのであるかという、その奥にある
生命(せいめい)の流れを知らなければならないのであります。

子供が灰を掴んで投げるために座敷中灰まみれになったということはよくあることです
けれども、そこに子供が伸びようとする力が出ているのである。

その時に、「お前はいたずら小僧である。わるい子供である」と、
こう「汝は悪人なり」という言葉を発すると、言葉の力によって
本来「悪」をしようとおもっていないものに「悪」を教え込むということになり、
ここにはじめて子供の世界に「悪」というものが出現してくるのです。

それまではこの子供には、コップを破(わ)ってもそれは悪じゃなかった。
悪(あく)じゃなかったけれどもその時に大人が
「お前はわるい子だ、こういう『悪(あく)』をして悪い子だ」というと、

子供は「わたしは悪い子だな、わるい子はコップを破(わ)る、悪い子だから
コップを破(わ)るのはあたりまえだ」と、そういうぐあいにして
わるい子供というものが、言葉の力でこの世に現象化してくるのです。

                  (平成28年10月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

子供は実験しながら生命が伸びてゆく - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:53:15

         *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇(P99~101)より

ところが「これは落としから破(わ)れたでしょう。破(わ)れたら二度と水が
入らないでしょう。これじゃつまらないでしょう。だからこれから破(わ)れない
ようにしょましょうね」とだんだん教えていって、

破(わ)ったことに対して、破(わ)ったらこういう結果になる、
こういうぐあいになるから二度としてはつまらないと知らせる。

叱るのではない。

最初の《それ》は子供にとっては実験みたいなものなんですから、その破(わ)れた
ことに対して破(わ)れたら、「ここに水を入れてごらんなさい。入らないでしょう。
そら水が入らぬ、水が流れる、水が流れたら、あなたが水を飲みたくても飲めない
でしょう」というような塩梅式に、

子供がコップを破(わ)ったことに対してもそこにいろいろと生命(せいめい)を
引き出す教育ができるわけであって、それを「お前はコップを破(わ)ったから
悪童である」といって、

頭ごなしに断言してしまうと
「わたしは本来悪童というもので、善いことはできない者だ」と、
子供の生命(せいめい)の善さが押し込まれてしまうのであります。

すべての子供はみな善人であってわるい子供なんて本来ひとりもないのです。

だから、われわれは、大人の気持ちでもって子供を推し量って自分の幼児の
記憶を忘れてしまい、幼児の行為の形だけを見て「汝は悪人である」というような
断言や怒鳴りをすることは慎まなければならない。

子供というものは何でもいろいろと実験しながら、その生命(せいめい)が伸びてゆく。

だから、茶碗を破(わ)る実験も時にはいいのでありますから、
その実験にはいくらか金がかかりますが、中等学校の理科の実験室にも相当
金がかけてありますから、家庭ばかりを窮屈にするには及ばないでしょう。

さて、そういう物を破壊した場合には、それに伴うて不結果が起こるということを
理解させたら、茶碗を破(わ)った実験も無駄にはならない。

「茶碗が破(わ)れたら、そらこんな御飯を入れても入らない、水を入れても
入らない、そうすると食べたくても食べられない、つまらないでしょう。これから
大切にしましょうねえ。こうして大切に静かに取り扱ったらいつまでも使っても
破(わ)れないでしょう」

という塩梅式に教えてゆけば、
そこに本当に引き出す教育ができるのであります。


《建設的な方面に子供の生命力の発言を導く》

これは単に一例でありますが、そういうふうにして、あらゆる場合を通じて
「悪(あく)」というものは一つもない、ただ子供にはその生命(せいめい)が
溢れ出よう、出ようとしている。

その方向をリードしてゆくのがわれわれの指導であります。

生命力を押し込まずに導いて、その次には、こういう具合にしましょうね、
ああいう具合にしましょうねと言って破壊に転じて建設的方面に子供の生命力を
導いてゆくのであります。

そしてそこに建設的な何ものかが子供の力でできた場合には、大いに言葉の力で
賞(ほ)める。すると、悪いことをした時に「あんたは悪人だ」といってそこに
悪というものがはじめて出て来たのと同じように、

今度は言葉の力によって、善なる子供がただの理念だけではなく、
現実の世界に確実性をもって出来上がるのであります。

                  (平成28年10月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

《親の心が子供に影響を与える》 - 伝統

2016/11/09 (Wed) 03:27:08


       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P10~11)より

子供の教育ということは本当は大人の教育なのであります。
だから、わたしは子供の教育を説く前に
まず大人に説く倫理をもってしたいのであります。

子を良くするにはまず親を教育しなければならない。
それほど親の心は子に影響を与えるのであります。

例せば、昭和9年12月19日の報知講堂における
わたしの講演会の時、東京の落合に住まれる松本十九(とく)といわれる方が
講演を聴きに来ておられたのであります。

この方のお子さんが夜尿をされる、いろいろ手を尽くしてみてもどうしても
癒(なお)らなかったそうです。


大体すべて子供の病気は子供自身よりも親の悪い場合が多いのであります。
つまり親の心が子供に反映して夜尿を起こしていることが多いのであります。


この松本さんもわたしの講演を聴かれて、心境が一変されたら
その夜からお子さんの夜尿がぴったりとまってしまった。

その5日目にわたしのところへ来られて大変お礼を言われたのでありました。

そんことをわたしが関西旅行の時に関西の『生長の家』誌友に話したのでありますが、
それを聴かれた関西に住まわれる松本さんの知り合いの方が
「ほんとに谷口先生の講演で子供の夜尿がしっかり癒(なお)ったか」
と松本さんのところへ問い合わせが来たそうであります。

ところが松本さんのお子さんの夜尿は、講演会をお聴きになって
御自分の心境が変わられたその後の1週間は、たしかに癒っていたのでありますが、
それから1週間ほどたって講演の心的影響が薄れたころからまたお子さん

がしくじり出してきたのです。

そこへ関西の知人から、「本当に夜尿は治ったか」と問い合わせがあったもので、
なんと返事を書いたものかと大変困られたそうであります。

いったん、治ったことは事実ではある。
しかし、また再発したことも事実である。
治ったともいえないし、治らないともいえないのでしばらく返事を出さずに
おきましたら、

ちょうど2月9日軍人会館でわたしの講演がありましたので、
松本さんは今度はお子さんを伴つれて聴きに来られたのでありました。
そして十時まで講演を聴いて帰られて、

「もう今日は谷口先生の講演を聴いたから寝小便なんてしないだろう」と強く思われて、
ふだんなら、就寝前七時と九時と十二時と三度させて、それでもまだ夜尿をしくじる
という状態のお子さんを、その夜は大丈夫と思って寝しなに小用をさせないで
寝かしてしまわれたそうであります。

それでもその夜はしくじらなくって、それからその状態が数日間続いたのであります。

これなど明らかに親の心が子供に反応しているという実例でありましょう。
親が講演をきいて子の病気が治ったなんて妙でありますが、実際のことであります。

講演を聴いて病気が治るならば、講演者の書いた本を読んでも親の心が
一転すれば子供の病気が治るはずです。

                  (平成28年7月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>

《通信簿の成績は親の成績》 - 伝統

2016/11/22 (Tue) 03:30:37

       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P15~16)より

《親の心が子に映るのが実際の事実としたならば、
親たちは考えなおさねばならないと思うのであります》。

子を教育する前にまず親がみずからを教育しなけれならない
と考えざるをえないのであります。


子の成績が悪いというのも、親あるいは学校の先生が悪くしている場合が
多いのであります。

千葉県の白里村に小倉久之丞(きゅうのじょう)さんという小学校の先生があります

その方は『教育芸術雑誌』に大分県日出(ひじ)高女の
小野久先生の書かれた「生長の家」の紹介文を読まれ、
さっそく『生著の家』の誌友になられたのでありますが、

ある日、他(た)の教室の授業時間を参観しておられましたら、
その組の受け持ちの女の先生が一人の子供をつかまえて大変怒っておられたのです。

「お前くらいできの悪い子はない。実にお前はなまけものだ。
先生の教えを少しも注意してきかない」

といってひどく叱られていたのでありました。

やがてその時間がすんでから、 おもむろに小倉久之丞先生がその子に近づいて

「あなたはよい子だねえ」と静かにお褒めになったそうであります。

「あなたはよく勉強するね、きっとよくできる子になるよ! 」と柔(やさ)しい、
しかし、子供の善(よ)さを固く信ずるような語調で、簡単にほめられたので
ありましたが、それ以後その子の性質が一変して、
大変よくできるようになったのであります。

その事実を見て、職員会議の時に
その女の先生が起ち上がって告白されたそうであります。

「わたしのこれまでの子供の教え方はまちがっていました」といって
皆の前で懺悔されたということでありました。

たんにそれだけの優しい、信じてくれる賞(ほ)め言葉が子供を善くするのであります。

「お前はほんとによい子だよ」という、
それだけの言葉にすら子供を生かす力があるのであります。

それに先生がヒステリーを起こして、 「こんな悪い子はありゃしない」なんて怒れば、
子供は正直なもので、 「先生は偉い」と信じきっているのでありますから、
その偉いと信じている先生が、 「自分を世の中で一番悪い子だというんだから本当
にそうかもしれない」と、子供がそう思ってしまったが最後、

勉強に興味がなくなり、先生に嫌われたと思って、教室にいてもおもしろくなく
成績もずんずん悪くなってゆくのであります。

ちょっとした言葉で子供が良くもなり、悪くもなる、
通信簿に書いてある子供の成績は、実は親の成績表であり先生の成績表だと
いってよいくらいであります。

                  (平成28年7月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年11月22日 頓首再拝>

子供に良き手本を示す - 伝統

2016/12/08 (Thu) 03:43:28


       *『生命の實相』第13巻倫理篇上(P50~51)より

母親の性質とか心持ち、態度というものが子供に最も多く現われて来るのであります。
でありますから、皆さんがお子さんにもっとよい性質がほしいと思われたら、
まずみずからを省みて自分がよくなっていただくことが肝心なのであります。

子供というものは、 「お前は悪い悪い」と叱ってもなかなかよくなるものではありません。
常に善い方面を見るようにして、悪は見ずに、子供の完全円満な実相を見るようにして、
それを賞め言葉で誘導していれば必ずよくなってくるのであります。

それからこれはさきほど申しましたが、わたしが水の飲むと、
皆さんも無意識に一緒に飲まれる、というのと同じことで、

命令や言いつけよりも、行ないで手本を示されますと、
子供はすぐその真似をするものでありますから、常に子供によい実例を示し、
常によき行為の模範になることが大切であります。

                  (平成28年7月号「生命の教育」誌掲載)

                  (昭和10年3月15日小学生の保護者向けの講演録)

              <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

親孝行とは何をすることですか - 伝統

2016/12/26 (Mon) 04:53:02


        *新装新版『真理』第5巻(P189~190)より

黒住教祖の黒住宗忠という人は、幼い時から非常に親孝行であったのであります。

どれ程親孝行であったかといいますと、何でもたいへん曇っている日に
使(つかい)に行くことになったのでありますが、お母さんが「雨が降りそうだから
傘(からかさ)を持って高足駄(たかあしだ)を履(は)いて行きなさいよ」と
こういわれた。宗忠は母の言うままに高足駄を履いて出かけると、

途中で出逢ったお父さんが「今日は天気だ。大丈夫だよ、草履(ぞうり)を履いて行け」
とこういわれた。

そこで「はい」といって、素直に片足に草履を履いて、片足に高足駄を履いて、
《ちんば》をひきながら用達(ようだ)しに行ったという位に、
素直な人であったのです。


親孝行という問題、これは現在の民主主義時代には余り尊ばれていないようでありますが、
しかし、これは大変な間違です。 「孝は百行の基(もと)」という言葉もありますように、
凡(あら)ゆる善徳の根元をなすものが、この親孝行というものなのであります。

真に親孝行であれば富みますし、真に親孝行であれば肉体も健康になります。

何故(なぜ)ならそれは根を培(つちか)うことになるからであります。
では、親孝行をするということは一体どうすればいいのであるかといいますと、
何も難かしいことはないのであります。

親の欲し給う如く、素直にその通りにしてあげたら、これが親孝行なのであります。
親の欲したまわないことを、勝手に人間知恵で、こうしたら善かろうか、
ああしたら善かろうかと思ってやると、親の好まないことを却って親に強制している
ことがあるものです。

「向(むか)わんと擬(ぎ)すれば却って乖(そむ)く」と云う語(ことば)
がありますが、人間知恵のはからいは駄目であります。

                  (平成28年12月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>

我(が)を捨てるところに「本当の自分」が生きる - 伝統

2017/01/10 (Tue) 04:45:58


        *「新装新版『真理』第5巻」(P190~191)より


黒住宗忠のように親が「高足駄を穿(は)け」といわれたら「はい」と高足駄を穿く。
「草履を穿け」といわれたら「はい」と草履を穿く。

それは非科学的な精神のようでありますけれども、
そこに本当の深い真理が現れるのであります。

キリストも同じようなことをいわれました。

「汝の右の頬を打つ者あらば、これに左の頬をもめぐらして打たせよ。
十里の公役(こうえき)を強いられなば、二十里を行け。
上衣(うわぎ)をとる者には下着をも取らせよ」

この素直の精神が、天地のはからいと一致することになるのであります。

素直ということは凡(あら)ゆる徳の中で一番素晴しい徳であるわけです。

キリストの謂(い)われた 「幼児(おさなご)の心」 です。

「素直」は、すなわち「我(が)」の絶滅です。

「我(が)」を主張することが民主主義だと、こういうように考えて、
到るところに「我(が)」をのさばらしている現代の日本の状態が、
どんなに其(そ)のために、混乱状態に陥っているかということは、
現実の世相(せそう)を見ればはっきり分るのであります。


                  (平成28年12月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>

子供は親を模倣する - 伝統

2017/01/24 (Tue) 04:58:01


       *『生命の實相』第30巻児童教育篇(P70~72)より

このように人間の模倣性はすべての生命(せいめい)、
すべての存在が本来自他一体であるという根本原理からくるのであって、

花という植物を見てすらも、人間がそれを模倣したくなるのでありますから、
人間を見て人間が模倣したくなるのは当然のことであります。

それで、人間は他の人間が何かをやれば自然と模倣したくなるのであります。
ですから子供をよくしたいと思う人は、必ず自分自身がよくならなければならない。

生長の家の誌友でGさんといわれる関西の実業家で偉い人がありますが、
この人の子供さんは大変よくできた立派な子供さんばかりであった。

それである実業界の集まりにおいて、ある人が

「どうもお宅さんのお子さんは非常にできの良い子供ばかりであるが、
わたしの家の子供なんかどうもできが悪くって品行(ひんこう)が悪くって困る。
お宅のお子さんばかりはどうしてあんなにいいお子さんばかりでしょうかね」

と訊(たず)ねたときに、そのGさんがお答えなさるには

「それは自分は、自分の心に恥じるようなことを子供の前ではしない。
また子供の前だけじゃなしに、自分自身そういう恥じるような、子供がして
くれたら困るというようなおこないをしない。ただそれだけであります」

ということを言われたそうであります。


(中略)

親の行ないを子供が真似するのは当然であります。だから

「自分はどんな社交的な会合があっても、昼はよそで皆さんと一緒に昼餐(ちゅうさん)を
食べるようなことがあっても、夜だけは必ず自分の家へ帰って息子と一緒に御飯を食べる」

とGさんは言われたそうであります。

必ずしもこのとおり形を真似なくともよろしいが、子供をよく育てるには
親がよくならなければならないということは、千古不磨(せんこふま)の真理であります。

子供は親の延長なのですから、親がよくならないでいて、子供にばかり
口(くち)小言(こごと)を言って、その小言によってよくしようと思っても、
かえってあまり口小言を言われると反抗心が起こるばかりであります。

言葉で小言を言わないで形で示す、《生活で示す》ということにいたしましたならば、
人間は模倣性の強いものでありますから、自然と真似するようになって
良き生活を送るようになってくるのであります。

                  (平成28年12月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>

国を愛するということ - 伝統

2017/02/28 (Tue) 03:40:46


           *新版『真理』第7巻(P272~273)より

愛国心の昂揚などと言っても、愛し得る値打のある国というものがあれば
愛するけれども、愛し得る国としての資格があるかないかわからん現状のような
日本国では愛することができないというのは、

それは国というものを、唯、単に形にあらわれている現状の国
―― 即ち現象の国家 ―― だけを日本国だと思っているために、

こんなに強盗や、強姦や、失業者や、ストライキや、
戦争やつまらないことばかり充満している此のような国家は、
愛することはできないということになるのでありますけれども、

その現実の奥に「理念の日本の国」なるところの、
目に見えざる「国の本体」なるものをみたならば、

其処に希望が生まれ、其の国に生きていることに、生甲斐を感じ、
其の国を愛することができるのであります。

外面の現象は如何にともあれ、それを内在の理念
 ―― 理想に近づけて行くところに希望が持て、勇気が出、
生甲斐が感じられて来るのであります。

此の肉眼には見えないけれども、
既に在るところの日本をつくり出した「完全模型」
即ち「実相」というものを、智慧に依って直観して、それを見出し、

そうした完全模型 (理念) に向って、国を推(お)し進めつつある
日本国民が自分だという自覚が出て来たときにのみ、
本当に日本人としての生甲斐が感じられてくるのであります。

                  (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>

「大和(だいわ)の理念の国」日本 - 伝統

2017/03/17 (Fri) 04:29:21


         *「真理」第4巻青年篇(P92)より

日本の国は「大和(だいわ)の理念の国」なのである。
詳しく言うならば瑞穂(みずほ)の国である。

「ミズホ」の国とは、水火国(ミズホノクニ)なのである。
水は陰であり、火は陽である。 「陰陽和合の理念」である。
陰 (西欧) と陽 (東洋) とは和合しなければならないのである。

その契機を司(つかさど)る「大和の理念」こそ日本の国なのである。

陰 (物質) と陽 (霊) とは和合しなければならないのである。
その契機を司るのが「大和の理念」であるのである。


日本国を「領土」と「主権」と「国民」との混合物の如き
バラバラの単なる現象的存在として考えるが故に、
領土の一部が削られたり、 「主権」が一時停止せられたりしたならば、

日本国の「久遠永続性」 (天壌無窮) が中断された如く考えるのであるけれども、
それは国家なるものを《唯物論的》に、そしてただの「《現象》」として
観ているのであって、国家の実相を見ているのではないのである。

                 (平成28年8月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>

いつも明るい笑顔を輝かせましょう - 伝統

2017/03/30 (Thu) 03:53:23


《家庭を幸福にする秘訣は、あなたの笑顔にある》

          *『生命の實相』第29巻(54~55頁)より

皆さん家庭を幸福にする秘訣は、
良人の顔を見るときの奥様の笑顔一つにあるのですよ。
年頃の息子、娘が、親に背いてゆくかゆかないかも親の表情一つにあるのです。

自分がここにいることを喜んでくれないで、
顔見るごとにたえず口小言を言っているようなことでは、

良人でも息子でも娘でも、
「わたしがここにいることは、妻を、母を、 兄弟を、 幸福にすることではない」
と思って、その「家」に背(そむ)いて行ってしまうのです。

               ・・・

《明るい生活に善いものが集ってくる》

          *新版『生活読本』(135~136頁)より

明るい生活の中にはすべての善いものが集ってくるのです。
昔から「笑う門(かど)には福来(きた)る」という諺(ことわざ)がありますが、
にこにこ笑っていると、自然に善いことが集ってくるのです。

人をたのしく愉快にしてあげることは
美しい行(おこな)いであり善いことであります。

その楽しく愉快にしてあげるには、色々の贈物をさしあげるのも、
一つの方法でありますけれども、物をさしあげなくとも吾々が
にこにこたのしい顔つきをして、たのしい心を他の人に移してやれば
それが最も深切な、人に幸福を与える方法であります。

               ・・・

《幸福とは心が楽しいことです》

          *新版『生活読本』(136頁)より

家の中に一人でも不機嫌な人がありますと、
その家の人達の心全体が乱れてくるのです。

そして家族は始終病気をしたり、面白くないことばかり起ってくるのです。
そんな家に住んでいる人は、お金が百万円つんであっても
幸福だということはできません。

幸福な生活とは心がたのしい生活です。
家族互いにうれしそうな顔をしてにこにこせずにはいられない生活が
幸福な生活です。

               ・・・

《愉快な顔をしていると自分の心もたのしくなる》

          *新版『生活読本』(138頁)より

人に愉快な顔をしてみせるのが大変善いことであるばかりでなく、
自分自身が愉快であることが、又自分自身にとって大変善いことをしているのです。

第一、どんなにつまらないことがあっても、
無理にでも顔つきをにこにこしていますと、
実際に自分の心がたのしくなってくるのです。

人間はたのしいと笑いますが、
無理に笑っていると仕舞(しまい)にはたのしくもなるのです。
だから面白くない時程(ほど)いっそう笑うようにすることが必要なのです。

「これは私の顔だから、勝手にふくれる権利がある」などというのではいけません。
「これは私の顔だから、人が何をいおうが、外の世界に何がおころうが、
私は私の顔をたのしく笑わす権利がある」というように

明るくくらさなければなりません。

               ・・・

《あなたの明るい顔が必要なのです》

          *新版『生活読本』(144頁)より

うれしい顔をするには何の資本もいりません。
深切な目付きをするにも何の資本もいらぬのです。

吾々は、この人をよろこばしてあげたいとただ思うだけで
深切な顔になれたり、愉快な微笑を顔に浮べたりできるのです。

あなたの愉快な顔つきは曇った日にさしこんで来た太陽の光のようなものです。
周囲の人が苦虫(にがむし)をかみつぶしたような顔をしていればいるほど、
あなたの明るい顔が必要なのです。

どんな富や財産をもっているよりも明るい心をもっているものは、
もっとも尊い宝をもっているものだといわなければなりません。

               ・・・

《明るい顔は人生の宝です》

          *新版『生活読本』(145頁)より

先ずあなたの顔を鏡にうつしてごらんなさい。

当り前にしている時の心持でわざと顔の表情をかえないで、
今あるままの顔で、口をボンヤリ開いているならば開いているままで、
眉をしかめているならばしかめているままで、ソーッと今
あなたの机の上にある手鏡を、あなたの顔の前に持ってお出でなさい。

そして、その鏡の中にうつっている自分の顔をごらんなさい。

あなたの顔は明るい気持の好(よ)い顔をしておりますか。
あなたの今のその顔は自分でも好きですか。
自分でもいやになるような陰気な顔をしておられはしませんか。

口がポカンとあいている癖があったら、これから常に心を引締めて物を
言わない時には、口がしっかりつぐんでいる習慣をつけましょう。

眉をひそめている習慣があるのは、心が常にイライラしているか、あせっているか、
悲しんでいるか、狭い心でいる証拠ですから、眉を左右に伸ばしてのんびり
とした広々とした愉快な気持におなんなさい。


そして口のあたりに微笑をたたえて、
すべての物にほほえみかける気持になんなさい。
そういう人は人生の宝です。

世の中が世智辛(せちがら)くなって、
みんながイライラした顔をしている中(うち)に、
そういう愉快な輝かしい顔をしている人は人生の宝です。

人生の宝ならば、あちらからも、こちらからも、来てほしいという人が
沢山あって、思わぬ幸福はそこから生れて来るのです。

                 (平成29年3月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

「夢を描く」 - 伝統

2017/04/21 (Fri) 04:12:44

「夢を描く」ということ

           *新版『生活読本』(64~65頁)より

心に夢をえがくということは何でも大きなことを成し就(と)げるのに
大切な事であります。

夢をえがくと言うのは、決して出鱈目(でたらめ)なことを考えるのではなく、
「必ず出来る」と未来におこる善いことを心に思い浮べることであります。

コロンブスは、これから西へ西へと進んで行(ゆ)けば大陸があると、
まだ肉眼に見えない世界を心にえがいて突進して行きましたから、
とうとう其の心にえがいたアメリカ大陸を発見したのです。

まだ見えないが、心の眼でじっと未来におこって来る
善き世界を、善き状態を、一層よき自分を、
心に描くことを「夢を描く」とうのです。

(中略)

しかし、心に強く夢をえがいても、他(た)を害して
自分がよくなろうとするようなことを心にえがいてはなりませぬ。

・・・

人のため、世のためになることを心にえがく

           *新版『生活読本』(66頁)より

すべて、金とか、権力とか、名声とか、贅沢(ぜいたく)とか、利己的なことを
心に描いて成就した場合には、多少とも自分を悩ますものがつきそうて来る
のであります。

真に悩みのない生活を送るには、そんな利己的なものを心にえがかず、
人につくすこと、世につくすこと、どうしたら人のために、また世のためになるか
ということを考えてサービスをつとめて行くようにすれば、

金も名誉も地位も自然に得られてくるのであります。

金や名前や地位などは目的にすべきものではなく、世のため、人のために

つくした誠(まこと)が自然にあらわれた結果でなければならぬのです。

                 (平成29年4月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年4月21日 頓首再拝>

花びらの降るような賞(ほ)め言葉 - 伝統

2017/05/07 (Sun) 04:05:23


人の悪口(あっこう)を言う暇(ひま)があれば、良き言葉を発すると、
自分自身がその良き言葉の力によって育てられるのであります。

善き言葉は空から花びらが降るような、音楽が聞えてくるような美しい感じがしますが、
悪しき言葉は雷(かみなり)のように吾々の心を暗黒(まっくら)にするのであります。

(中略)

それで皆さんは今日から、空から花びらが降るように、いつも善き言葉を
雨降らそうではありませんか。

皆さんの口から常に花びらのような良い言葉が出るようになったら、
どんな狭い裏長屋におりましても、そこがこの世の極楽となり天国となるのであります。

たいてい会社や、工場商店などの勤め先で面白くないと言う人は、
やはり家庭がどうも面白くない。家庭が面白くないのでそれで勤め先へ行っても
やはり能率がはっきり上(あが)らないで、そのために勤め先で又ぶつぶつやっている。

その結果、昇給もしないという事になります。
事業の発達しないのも、元(もと)はと言うと、皆家庭が悪いのであります。

家庭の中で讃(ほ)め合(あ)わず、暗い心持で、責め合っている時には、事業は失敗し、
工場や鉱山では故障が起り、子供の健康も成績も悪くなります。

(中略)

褒(ほ)める言葉ぐらい結構な事はないのであります。
ところがなかなか家族同士が褒め合えないものであります。

というのは、それは現象(あらわれ)に執(とら)われて、目(め)の前(まえ)の
姿に執われて、人間の実相(ほんとのすがた)を見失ってしまい、

人間が神の子である、ここが現実(このよ)の浄土であるということを忘れてしまって、
ちょっと何か外に現れた失敗があると、それに執われてしまって、
1分間あった失敗を1時間ぐらい呶鳴(どな)りつける。

その上、そのことをいつまでも心に持ち続けるというような事をしているような
人たちの集っている家庭は、いつも面白くないのであります。

(光明思想社版『人生読本』178~180頁)

                 (平成29年5月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝>

動作を丁寧に、表情を深切に - 伝統

2017/05/20 (Sat) 04:18:36


運命をよくするには常に善き言葉を使い、
身体(からだ)の動作を深切丁寧にしなければなりません。

丁寧にお辞儀(じぎ)をしたら損をするとか、
自分が相手より下のものだと思われて恥かしいとか考えるのは間違です。

世の中の人は、表情や身体(からだ)を深切丁寧にする人をかえって、
「あの人は偉い人だ」と賞(ほ)めるのです。

これに反して「あいつは馬鹿だ、ろくろく言葉の使い方も知らない、
お辞儀をする術(すべ)も知らない」と言って人から軽蔑せられるのは、
言葉使いのぞんざいな人や、身体(からだ)体の動作に
深切があらわれていない人です。

こんな人の運命はよくなりません。


(光明思想社版『人生読本』262頁)

                 (平成29年5月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

一寸(ちょっと)したことで人間の運が変る - 伝統

2017/05/24 (Wed) 04:35:50


世の中には学問も良くでき、立派な才能を有(も)ちながら、運が悪くて、
勤め先をあちらへ更(かわ)り、 こちらへ更(かわ)り、しまいには落ちぶれて
働く先もなくなるような人があります。

そんな人はたいてい、気が短くて、言葉使いに深切がなく、
身体(からだ)の動作に礼儀正しさのない人です。

礼儀作法は女だけの習うものではありません。
礼儀作法は男にも必要です。

人間の値打(ねうち)を智慧や学問ばかりにあると思うのは間違です。
尚(なお)それよりも態度の優美ということは、何よりも必要な人間の値打です。

最初はどういう態度が美しいかは、鏡を見て稽古をなさるのもよろしい。
どの程度に微笑する事が相手に気持のよい感じを与えるか、十分研究して置いて
相手に快(よ)い気持を与える稽古をなさい。

「そんな詰(つま)らないことを研究するよりも、本を読む方が偉くなる」
とお考えになるかも知れません。しかしあなたがいくら偉くなっても、
姿態(かおかたち)はあなた自身の玄関のショーウィンドーです。

ショーウィンドーが埃(ほこり)だらけでは、いくら家の中に上等の品物が
あっても、中まで入って買ってくれないでしょう。

あなたの中味の値打がどれほど偉くても、言葉態度が下手(へた)では、
その中味の値打を出す時が来ないのです。中味はどんなに美味(おい)しい
御馳走でも、泥(どろ)まみれにしたら誰でも食べ手がないでしょう。

せっかく立派な才能(ちえちから)を有(も)ちながらも、
言葉態度に深切丁寧さがなくては、せっかくのよい御馳走を
泥まみれにして出すのも同じことです。

(光明思想社版『人生読本』265~266頁)

                 (平成29年5月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>

「形」と共に「心」を深切にせよ - 伝統

2017/06/04 (Sun) 04:29:44


と言って、言葉態度の美しさは形ばかり真似ても、真似ないよりはよろしいが、
それだけでは本当に言葉態度が良くなりません。

心に気品を持ち、心に優しさを持ち、心に深切を本当に持たないで、
言葉や形ばかりを真似たのでは、どうしても嘘(うそ)らしい空々(そらぞら)しさが
見え透(す)いて人が感心するものではありません。

何よりも必要なのは本当に深切な心持です。
「あの人によい思いをさせてあげたい、あの人をよい気持にさせてあげたい、
どんな人にも不快な気持をさせたくない。 」

こういう気持を持つように日々(にちにち)心掛(こころが)けておれば
自然に言葉態度が優しく深切に、誰にとっても気持がよくなれるのです。


(光明思想社版『人生読本』267頁)

                 (平成29年5月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年6月4日 頓首再拝>

《子供を優良にするには》 - 伝統

2017/06/21 (Wed) 04:00:18


         *『 生長の家 』(昭和44年12月4日の法語)より

   実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、
   その円満完全さは観じて礼拝することによって
   現実となるのであるという方法論を

   生活に応用すれば、生活が裕かになり、
   教育に応用すれば子供が良くなり、
   治病に応用すれば、健康が増進するのである。

   神想観の姿勢をとり、合掌瞑目して、
   自分の子供が既に円満完全であるところの理想的姿を
   眼瞼(まぶた)の裏に描いて、それをジッと見詰めながら、

   “ ありがとうございます。私の良い子よ ” と
   念じて礼拝し感謝するがよい。

   この行事を毎日つづけるならば、
   あなたの子供の完全なる実相が現実化して、
   本当に優良な子供になって来るであろう。

   但し、「 この子は、“ どうも不良であるから ”、
   こうしてその不良を治すのだ 」 などと
   考えてはならない。


   「 不良である 」 という前提を深く信念に握っている限り、
   その信念が現実化するから不良が治らないのである。

   「 この子は、神の子であって、本来も、今も既に完全である 」
   と見立てて、礼拝し感謝するのでなければならない。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7139d937f364779ae4208dbb0affa066

              <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>

【祖先を供養することは、私たち子孫の務めです】 - 伝統

2017/07/08 (Sat) 04:25:17

「生命の教育」(平成29年7月)の谷口雅春先生のお言葉 より

【祖先を供養することは、私たち子孫の務めです】

《真理の念(ねん)を施(ほどこ)すことが最も尊い供養》
われわれが霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも
生活が下手である。霊界で病気している霊魂もあれな、悩んでいる霊魂もある。

それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描(か)いても布カンパスに描いても
依然として下手であるというのと同じようなわけであります。

ですからわれわれが自身または他(ひと)の霊界における生活状態というものを
良くしようと思うと、やはりどんなカンパス ―― 現世とか来世とかいうカンパスが
どんなに変わっても ―― どんな画布(カンパス)の上に描いてもいい絵が
描(か)けるようにしておかなくてはならない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンパスに何でえを描)か)くかというと、
念波で絵を描くのであります。念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、
その念波を善くし、またよくしてあげることが必要なのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施(ほうせ)というもの
でありまして、最も尊い施しであります。

われわれは人に施すのは、物施(ぶっせ)といって物を施すのと、
それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、真理の念波を施すという
ことが本当に最も根本的な供養になるのであります。

              ( 『生命の實相』頭注版第28巻70~71頁)




《祖先にお供えしたいという愛の念波》

むろん、われわれは霊界に行きましても、しばらくの間はこの地上における
薫習(くんじゅう)が抜けないのでありまして、地上において
御飯を食べておったような霊魂たちは、霊界に行っても
「御飯を食べたいな」というふうな感じがするのであります。

そういう霊魂たちに対して食物をお供えしてあげるということは必要であります。

「食物をお供えしても、お下がりを見ると何も食っておらん、何も食っておらんから
あんなことはただ形式的である」とこういうお考えになる人もあります。

けれども本当はそうじゃない。
霊魂は何を食べるかというとわれわれがこれをお供え申したいという
「念波」を食べるのであります。

それでリンゴならリンゴをわれわれが持って行って
「リンゴをお供え致します」と、本当にその念を切実に念ずると、
われわれの心にリンゴというものが念によって描かれ、

そうして描かれたリンゴと、あの人にあげたいという
すなわち念送の原動力となる念が結合する。

すなわちリンゴを祖先の霊(みたま)に送ろうという念波の放送により、
供える人の念にて造られたリンゴというものが霊魂の世界へ念波の放送に
乗って行くということになるのであります。

すると霊界には念によって仮作(けさ)せられたリンゴが出来上がる、
そうすると「あれはわたしに供えて下さったのだからいただこう」という気が起こると、
すっと自分の口に入ってしまって、そうして「おいしい、ああ満腹した」
という気持ちが起こるのであります。

その状態は「無量寿経」書かれている極楽浄土の状態のようなものであります。

             ( 『生命の實相』頭注版第28巻71~72頁)



《祖先の守護により幸福へと導かれる》

霊界は念波で作られた世界であって、われわれは供養の念を供えて、
供養の念を食べていただくということになるのであります。

むろんもっと向上した霊魂 ―― 肉体は無い、何も食べなくてもわれわれは
神の生命(せいめい)によって生かされているのであるという自覚を得た霊魂たちは
決して何も食べたいとは思わないのでありますけれども、

しかし、自分に対する愛念をもって供えて下さったという愛の念(こころ)は
やはり喜びとなり、その人を生長させるということになるのであります。


霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物(しょくもつ)として
生きているかというと、念を食物(しょくもつ)して生きているのです。

善念は最も霊魂を生長せしめる滋養物となるし、
悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。

ですから、われわれは近親者が旅行でもするという時に、
陰膳(かげぜん)というのを据(す)える人がある。
あれもまたはなはだよいことであって、迷信ではないのであります。

その人を目当てに陰膳(かげぜん)を据(す)えて、
「どうぞおあがり下さい。どうぞ健康でしらっしゃいますように・・・」
と念ずると、必ずその念波がその人に通じて、
その人が食物(しょくもつ)に不自由しない、

あるいは不自由するようなことがあってもあまり腹が減らないで、
念波の食物(しょくもつ)を吸収しているから腹が減らないで、
不思議に元気で働けるということになるのであります。


そういうふうに霊魂の食物(しょくもつ)というものは、
われわれから与えられる善念をもって最も滋養物とするのであります。

ことに、われわれが真理(さとり)の念波を放送して、真理(さとり)の念波を
相手方の霊魂に吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

それですから、『甘露の法雨』のようなお経でも、『生命の實相』でも、
また真理(しんり)が書いてあるものなら、キリスト教の聖書でも、
仏教のお経でもよろしいのです。

それを祖先の霊魂に、意味がわかって読んで誦げるということは大変よろしい。

ただ意味の分からぬ漢文の棒読みを、何が何やら分らないで
誦(あ)げているのでは、供養の愛念の放送としてはいくぶん効果があっても、
それはサトリの念波ではないから最高の救いにはならないのであります。

最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。
そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、
心が満腹し、生命が生長するということになるのです。

ですからわれわれは暇があれば朝晩は必ず「祖先の霊魂の悟りのための供養として・・・」
といって生長の家の聖経『甘露の法雨』を読むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を
読むということにされることが祖先に対する子孫の努めなのです。

よく病気の方で、あんたには祖先の障(さわ)りがあるからこれを読んであげなさいと
申しますと、治ったら読まなくてもよいかというようなことを考えておられる
利己主義の人がありますけれども、

これは自分が病気でなくても、病気が治っても、治らなくともわれわれは祖先というものが
あって今ここに生きる機縁を与えられているのでありますから、その祖先に対して
われわれが供養する、お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを供養する
ということは実に大切な子孫の努めであります。



この子孫の努めを行なうことそのことが善事であって、その結果自然とわれわれに幸福が
恵まれてくるということは、これは副作用とでもいいますか、随伴的な功徳であって、
その功徳そのものを目指すのではないのであります。

しかし実際上祖先に対してよく真理を施しておられる人々は、祖先の守護も多く、
また自分の善念の具象化として不幸というものがないのであります。

                  ( 『生命の實相』 頭注版第28巻72~74頁)


                 (平成29年7月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年7月8日 頓首再拝>

わずかな時間にこそ無限の価値がある - 伝統

2017/07/22 (Sat) 04:27:14


「いのち」を大切にせよ

         *「人生読本」(P176~177)より

たいていの人は、時間というものをぼんやりと過してしまう人が多いのであります。
ところが、 「時間」ぐらい大事なものは世の中にないのであって、何物をもって
較(くら)べてみましても、時間以上に尊いものはこの世にないのであります。

というのは、第一私達の寿命というものが時間によって成立っている。
人は生命(いのち)から二番目は金である、とこう申しますけれども、
その生命(いのち)そのものはもう一番目である。

その生命(いのち)が何によって成立っているかというと、時間の継続によって
成立っているのでありますから、この時間を十分でも無駄に費(ついや)したら、
その十分だけ自分の寿命が縮まった事になるわけであります。

しかも、それに気のつく人が実際少ないのは残念であります。
それに気のついた人は必ず何かできる人になっている。
必ず何か世の中で頭(かしら)になっておられるとか、
或いは何か事業に成功するとかしているのであります。

「時間」さえ生かして使えば私達はこの世の中に於(おい)て
なんでもできないというものはないのです。

               ・・・

《金貨よりも時間は大切》

         *「人生読本」(P177~178)より

ところが、この時間ぐらい目に見えないものはない。
目に見えないためにどうも粗末にされ易く、失われ易いのであります。
金はなくしたら人から借りる事もできますが、
時間をなくしたら人から借りる事はできません。

仮りに金貨を握ってそれを捨ててあるいたら、
「ああもったいない」と言って拾って歩く人はありますけれども、
時間を捨てて歩く人の後ろからついて往って、
「ああったいない」と言って時間を拾って歩く人はないのであります。

時間は目に見えないから拾って歩くわけにはゆかないし、
時計で測って見て、眼に見えたからといって、時計の捻子(ねじ)を逆に廻して、
針を逆さまに廻してみても、時間そのものは後へ戻って来るものでもなく、
「あんた時間を落としてますよ」と言って拾って上げるわけにもゆかないのであります。

このように時間と言うものは生命(いのち)から二番目の金よりも大切で、
一番の一番の生命そのものでして、時間を失ってしまったら
どうにも仕方がないのでありますから、

皆さんどうぞ1分間でも時間を生かして、
良い事に、勉強に、仕事に、人に喜ばれることに、
自分をよくする事に、人をよくすることに、人のためになることに、
使うことにいたしましょう。

               ・・・

《無限の値打ちの生み出し方》


         *「人生読本」(P180~181)より

私達が、もし自分のすべての時間を本当に生かすという事ができますれば、
私達は恐らく、今生きている何倍、否、何十倍も生きられることになるでしょう。

単に時間的に考えると、1日に4時間雑談に使うところを、
その4時間だけ何か勉強すれば、ただそれだけでも、
一つの事柄の大学者になることができるのであります。

人が出世できないのは時間の利用法を知らないからです。

その上、4時間を勉強すればその4時間だけ助かると思いますけれども、
それはそんな小さな問題ではないのであります。

そ4時間の時の流れの時々刻々を本当に生きてゆく事にしましたならば、
その4時間の中の時々刻々、一分一秒一瞬が又おのおの無限の価値を
もってくるのであります。

そうなりますと、私達の時間の生かし方によっては、
計算のできない無限の価値がそこから生まれてくるのであります。

               ・・・

《時々刻々千載一遇》

         *「人生読本」(P185~186)より


一日のお料理をいたしますにも、
今、この時間にお料理をする事その事が千載一遇の機会であります。

別の時は別の機会であって、「今」は「今」しかないのであります。

私達は常に時々刻々が千載一遇の好機会である
という事を知らなければならないのであります。

或いは難しいお姑さんのところにお嫁に行ったという事がありましても、
こんな尊い経験は又とないのでありますから、
それは実に千載一遇の機会であると喜ばなければならないのであります。

そういう口喧(くちやかま)しい姑さんの家に嫁に行って生活するという経験は、
他の処へ嫁に行っては味わうことのできない又とない尊い経験なのであります。
これが千載一遇の機会で、その機会を失ったら、又同じ機会は来ないのであります。

又厳しい工場監督さんの下に雇われて働くにしましても、
厳しい先生に叱られつつなにか勉強するにしましても、
厳しい監督さんや厳しい先生に逢わしていただくのも、

それでなければ得られないところの千載一遇の機会を恵まれて、
神さまが私にここにこいいう経験をさせてくださるのだと思えば、
その難しい監督さん、その難しい先生をありがたく拝みたくなるのが当たり前であります。


                 (平成29年6号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

愛によって自己を捧げる尊い生き方 - 伝統

2017/08/05 (Sat) 04:27:07

「生命の教育」(平成29年8月)の谷口雅春先生のお言葉 より


《高き理想に殉じた特攻隊の青年》

すべての人の運命は自己が内心に深く希(こいねが)ったものの
実現でありますが、輝く悲惨な死を遂げた殉教者の運命も亦
自己選択されたものであります。

色々の霊界通信や教えに殉じた人々の業績を辿(たど)って見ますと、
殉教者達は、殉教の苦痛を耐え忍ぶと云う尊き荘厳な目的の為に、
地上に生れ来(きた)った所のいと高き優(すぐ)れたる魂であるのであります。

彼等は或る理想を描く、そしてその理想に殉ずると云う荘厳なる行事に依(よ)って、
一躍跳入して霊の世界に於ける最後の段階に達せんが為に
暫く此世に生れ来(きた)った魂であります。

私は斯(こ)う云う人達を戦争中、多くの特攻隊の青年に見たのであります。

(中略)

彼ら青年は、或る理想を描いて、その理想を肉体的自我よりも高きものとして
それに殉じたのでありました。彼等に於いては肉体的自我の死を通して
唯(ただ)一つ魂の理想とするところのものが完成せられるのであって、

戦争は逆縁ながら、彼らが魂を浄化し、絶(た)ち難(がた)き肉体的欲望や
家族に対する愛着を絶ち切り、それによって最後の目的としているより大きな
目的なる、新しき生命――不滅の理念――と一体なる新しき生命を見出そうと
したのであります

彼らは形の世界に於いて、自己の欲する全てのものを失う。
否(いな)、単なる形の世界だけではない。愛情の世界に於いてさえも、
理性の世界に於いてさえも、将又(はたまた)意志の世界に於いてさえも、
彼等は、すべての現世的な一切のものを失う。

併(しか)しそれにも拘(かかわ)らず「生命を捨てんと欲するものは生命を得(う)」
と云うイエスの聖言(せいげん)の如く、彼らは神の国に於いて永遠なる
聖所(せいじょ)に高く揚(あが)りたる生命を見出すのであります。

その永遠なる聖所に於ける生命は地上の如何なる価値よりも、尚一層高く
遙(はる)かに貴(とうと)き価値を有するのであります。

       (「真理」第4巻青年篇<P385~386>)


・・・

《なぜ自己献身が必要であるのか》

ある人は言うでありましょう。何故(なぜ)自己献身が必要なのであろうか、
何故(なぜ)殉教精神が必要なのであろうか。
何故(なぜ)正しき者に苦しみが必要であろうかと。

その答えは譬喩的に言えばこうである。
高き者が低きものを上げる為に跼(かが)み込まなかったならば、
相手を高きに上げることは出来ないのであると。

高きもののうち最も高きものは愛であります。
そして其の愛なるものは、それ自身を他の為に与えんと欲するのであります。
これが最高の愛、自己献身の真理であります。

誠にも愛は、それがそのように為されなかったならば満足することが出来ないのであります。
愛はみずからを与え切らない限り幸福感を得(う)ることが出来ないのであります。

       (「真理」第4巻青年篇<P395~398>)

・・・

《愛を捧げ尽くすことの尊さ》

実に「愛」は人々に殉教を強(し)いるのであります。
否(いな)、愛は殉教そのものであります。

愛深き母は、病める子の褥(しとね)の側(そば)に夜を徹して看護します。
時にはそれが毎晩続いても彼女はそれに就(つ)いて何の不平も考えない。
血を喀(は)きながら、自分の身体(からだ)が何時(いつ)斃(たお)れる
かも知れないのに、神の福音(ふくいん)を宣(の)べつたえる人もあります。

其処には、過去の時代に於いて総(すべ)ての殉教者を鼓舞した精神と同じ
聖(とう)とき「愛」の精神を示現しつつあるのであります。

如何なる真の社会改善も、真の慈善事業も、若(も)しその為に自己の力と、財と、健康と、
更(さら)に進んでは自己の生命そのものさえも捧(ささ)げ尽した献身の生活に
依(よ)らなければ完全には達成出来ないのであります。

(中略)

何時(いつ)の時代にも、何処(どこ)の世界にも、愛のために、主義のために、
彼自身の肉体と生命とを与え与えて、喜んで現世的な総(すべ)てのものを
失った所の、貴(とうと)き魂があることを見出すのであります。

       (「真理」第4巻青年篇<P397~398>)

・・・

《神に対して自己を捧げることが幸福につながる》

最後に指摘して置きたいのは、
自我放棄の道は決して困難の道ではないと云うことであります。
「自分を捨てる」とか、 「自分を殺す」とかの道は難しいように見えるとは言え、
唯(ただ)それは最初そう見えるだけであって、単にそれは外見に過ぎないのであります。

神の目的と意志とに従って素直にその導きに従って行(ゆ)くならば、
喜びと、平和と、幸福とがおのずからあなたの生活に実現するのであります。

神に従うことのみが吾々に自由を与える唯一の道なのであります。
あなたはあなたの自我と、あなた自身の好む所を神に対して放棄することに依(よ)って、
決して何物をも失うものではないのであります。

神は無限でありますから、神に対して吾々の有(も)ちものを放棄するとき
吾々が放棄した所のものは百倍千倍万倍になって吾々に復(かえ)って来るのであります。

(中略)

若(も)し吾々が吾々を内部から導いて下さる神にまかせ、 吾々の、
自我に属する物ではなくして吾々の実相に属するところの総(すべ)てのものを
引(ひき)出(だ)して来るならば、吾々は何一つ失うことなく、
何一つ奪われないことを見出すのであります。

自我に属する一切のものを捨てよ。

そして実相に属するもののみを求めよ、

これが幸福を得(う)る秘訣であります。

       (「真理」第4巻青年篇<P404~405>)


              (平成29年8月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>

『生命の實相』は一大「生命の教育」書 - 伝統

2017/08/21 (Mon) 04:35:29


           *光明掲示板・第一より転写

現代教育に光をあてる生長の家の教育運動
~ 奥田寛 元・(財)新教育者連盟理事長



昭和4年12月13日、「生命の実相を知れ」「人間・神の子」「今即久遠」
「天地一切のものと和解せよ」との天啓を受けられた尊師谷口雅春先生によって、
翌昭和5年に『生長の家』誌が発刊され、革命的な人類光明化運動が発進しました。

更に谷口雅春先生は、昭和10年6月「生長の家教育者連盟」を創立され、
同時に『生命の教育』誌を発刊されました。

この発刊の辞こそ、現代教育に光をあてる生長の家の「生命の教育」の源であり、
基本理念であります。


もちろん私たち人類光明化運動の典拠となるものは、
生長の家の根本教典『生命の實相』全40巻〈頭注版〉でありますが、

その第25巻には、

「わたしはこの『生命の實相』を宗教と云うよりも
一大生命の教育書と云いたいのであります」

「わたしは『生命の實相』は偉大な生命の教育書だと言うのであります」

したがって、生長の家の教育 ―― 「生命の教育」の所与の根本教典もまた、
『生命の實相』であると言うことができます。


『生命の實相』全40巻のうち、

教育篇として特に第13、14巻には、教育のよってたつ土台としての
倫理観、人生観、世界観について論及されており、

第14巻後半には「生長の家の児童教育法」が総括的に述べられております。

第25、26巻は教育実践篇、
第29巻は女性教育篇、
第30巻は再び児童教育について、
第40巻には胎教及び胎教以前の重要性について、又乳幼児の教育について

それぞれ論述されております。


初歩、入門の方は、これ等教育篇のどの一冊からでも読みすすんで下さるか、
あるいは教育篇からの抜粋による『生命の教育』を先ずお読み下さるのも一方法でしょう。

(光明掲示板・第一「生命の教育」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=681

          <感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>

食物(しょくもつ)は神からきた賜物(たまもの)である。 - 伝統

2017/09/04 (Mon) 03:30:31

        *『真理』第9巻生活篇(P166~167)より

《食べ物の霊的成分をのがしてはならない》

私たちの頂く食物は唯(ただ)の物質の塊(かたまり)ではないのであります。
物質的成分は分析したら分(わか)ります。

けれども分析してもわからないところの不可知の成分が(霊的成分が)
それには、神から与えられているのであって、単に物質的成分の見地から、
”此の食物には何々の栄養分が足らぬから”などと考えて不平の心を
起こすときには、その霊的成分を吸収し得ずして、最も人間にとって
必要な成分を逃(の)がしてしまうことになるのであります。

お食事の最中に心配や不安や憎みや恐怖心を起さないで、なるべく食物が
神から来た賜物(たまもの)であり、無限の生かす力がこの中に蔵(かく)
されているので、

”今それを吸収させて頂いているのであり、ありがとうございます”

と念じながらいただくのがよいのです。

問題があって、心が落著(おちつ)かなければ食前に
心が落著(おちつ)くまで祈ってからお喫(あが)りなさい。

              (平成29年9月号「生命の教育」誌掲載)

・・・

平成29年9月号「生命の教育」誌
 → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

              <感謝合掌 平成29年9月4日 頓首再拝>

食卓が不快な場になってはならない - 伝統

2017/09/07 (Thu) 04:56:42


         *『生命の實相』第7巻生活篇(P210~211)より

私の知っているある家庭地獄では、事務所から良人が帰ってきて、
家族うち揃って晩餐の食卓に向かう時、そこが小言の審問所になるのである。

良人は事務所のいろいろの多忙な世間的な心遣いで神経が疲れていて、
ちょっとしたことにもイライラしたくなっている。

予想に反したお菜が食膳に並んでいると、最初はなんの気もなく
それをまずいと小言を言う「なぜこんなお菜をこしらえた?」といって咎める。

この時細君は細君でせっかくの心尽くしに小言をいわれては
引き合ったものではないというので、不快な顔をするであろう。
妻の不快な顔を見ていると良人の方ではますます不快になってくる。

「終日、勤め先で苦労して、さて慰められようとして帰って来たのに
お前はそんな膨(ふく)れ面をしてわたしを迎えるのか」と言いたくなる。

あるいはそれを言葉に出すか、言葉に出さなくともその思いが顔にあらわれる。
互いの不快が互いの心と顔とに相反映して、おもしろくない家庭の空気は
いよいよますます険悪になってくる。

              (平成29年9月号「生命の教育」誌掲載)

・・・

平成29年9月号「生命の教育」誌
 → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

              <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>

本当の善き家庭とは - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:42:54


         *『生命の實相』第7巻生活篇(P208~209)より

一日の勤労を終わって、外から家庭へ帰って来る時、
あるいは店をみまもる時間が終わって本当にホームというものに
われわれが落ち着くとき、そこは実際われわれにとって、
天国でなければならないのである。

そこでわれらが楽しい晩餐(ばんさん)に対(むか)うとき、
われらの前には、愛する家族たちの楽しい顔が並んでいる。

われらは互いに愛情のこもった微笑をえみ交(かわ)しつつ、
その日にありしナンセンスを語るであろう。

この時、すべての窮屈さはとれてしまい、寛(くつ)ろぎと、
自由さと、愛の言葉と、栄養を与えてくれる食物とが終日のわれわれの労苦を
なぐさめ癒してくれるのである。

かくのごとく本当の善き家庭は実に天国であるのである。

              (平成29年9月号「生命の教育」誌掲載)

・・・

平成29年9月号「生命の教育」誌
 → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59


              <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

神とその神の使いに感謝する - 伝統

2017/09/22 (Fri) 04:03:00


         *『生命の實相』第7巻生活篇(P211)より

与えられた食物は因縁により、神から与えられたものと信ずるがゆえに、
食事の直接のしつらえ役たる妻に対しては、神の使いとして感謝し、
食物そのものは神からの賜り物として感謝するのである。

食前にまず合掌し、食物を与えたまいし神に感謝し、
食物を料理し運んでくれた人々を神から来た接待係として感謝し、
しばらくその感謝の意(い)を黙念するならば、

すべての不平はその場でたちどころに消え失せ、
いかなる粗食も天徠(てんらい)の栄養料理に変わってしまうのである。

              (平成29年9月号「生命の教育」誌掲載)

・・・

平成29年9月号「生命の教育」誌
 → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59


              <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>

愛の心をもって家庭を調和たらしめる - 伝統

2017/09/29 (Fri) 03:43:33


         *『生命の實相』第7巻生活篇(P218~220)より

息子や娘を善くしてやりたい愛の心だといって、始終大きな声で口(くち)
穢(ぎたな)く罵(ののし)ることは失敗である。

それはたとい愛の心があっても、鬼の面を被(かぶ)った愛の心である。
鬼の面を被っている以上は、愛でも相手を恐れさすほかに能力がないのである。

汝の鬼の面をとれよ。そして本物の愛の顔を出(いだ)させよ。
相手は懐(なつ)いて、愛に感じて、喜んで善に遷(うつ)ってくれるのである。



たえず小言を言い、絶えず怒りを振り撒(ま)いて歩き、間断なく人の欠点を
さがしつつ、その人を善き人にしてやろうと思うのは、 「不調和」から「調和」が
生れ出て来るだろうと予想するのと同様な迷信である。

たとい、この世の中に瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が生れ出ようとも、
「不調和」から「調和」が生れて来ることは難しいのである。

諸君がもし諸君の立ち対(むか)う人たちをば善ならしめようと欲するならば、
自分自身が先(ま)ず調和した心持(こころもち)にならなければならない
のである。

自分の心が乱れ、癇癪(かんしゃく)に触って相手を鋭(するど)い言葉で
刺し貫いているようなことで、相手を善に化(か)し得(う)るなどと
偉そうなことを考えぬが好いのである。

(中略)

すべてあなたの家庭にてつかわれる言葉をば
「神の子」らしい洗練されたものたらしめよ。

互(たがい)を尊べ。
なぜならなら、あなたたちは皆みな「神の子」であり、
「神の子」の生活を成就するために家庭を造っていられるのであるからである。

              (平成29年9月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

内在する完全な「神性」こそが真のすがた~解決しない問題は一つもない - 伝統

2017/10/01 (Sun) 04:31:29


解決しない問題は一つもない

          *(新版『真理』第2巻43~44頁)より

吾々に現在与えられていることは悉(ことごと)く、
吾々の現在の魂の状態にとって、
すべて教育的なものばかりなのである。

その仕事を為(な)すことにおいて、その環境に処(しょ)することにおいて、
全力をつくし、全生命をかけ、全精神をつくしてそれと取組むことによって
吾々は魂が向上するのであります。

算数の問題は必ず答があるのである。

それと同じく吾々に与えられている問題は
必ず解決し得(う)るからこそ吾々に其の問題が与えられているのです。

神は決して吾々を難問題で苦しめて、
「好(い)い気味だ」などと笑っていられることはないのです。

算数の教師は生徒を苦しめるために算数の問題を課するのではなく、
生徒の内に内在する能力を呼び出すために問題を課するのと同じで、
何か問題がおこるならば、それはあなたの魂の向上のために課せられたのです。

              (平成29年10月号「生命の教育」誌掲載)

<参考>平成29年10月号「生命の教育」誌
    → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

「生命の教育」平成29年10月号 主な内容

特集 うちの子の悩み――問題ありません!

内在する完全な「神性」こそが真のすがた 谷口雅春

巻頭のことば 新教育者連盟理事長 代田健藏

「子供は神の子」と観る訓練です 大原和子


【子育てQ&A】
不登校の娘にどう接したらいいでしょうか? (回答)在原道子
息子がいじめた子が学校に来なくなってしまいました (回答)森田峯好
娘が急に反抗的な口をきくようになりました (回答)菊池正規

息子が友達からいじめられています (回答)木村次郎
塾に通わせた方がいいのでしょうか (回答)國友規代
娘に家の手伝いをしてもらいたいのですが (回答)齋藤千鶴子

学習障害なのかと不安でいっぱいです (回答)小林義典
多動性障害ではないかと言われました (回答)杉山紀代子


〈特別インタビュー〉
日本人が大切にしてきた子育てのこころ

「和楽舎」代表 辻川 牧子
生命の教育で学んだこと⑲ 長谷川望
子育ては母育て(59) 愛着理論と子供の心の安全基地 田下昌明

日本人100 の誇り(62) 正倉院 岡田幹彦
親子で学ぶ世界と日本㉟ なぜ北朝鮮はミサイルを発射するか 高木桂藏
親子で読むものがたり(62) 何事も慎重に考えましょう 南敏雄

子育てワンポイント(7) 子供の目の高さで 出口正博
「生命の教育」を生きる 七つの心得 (7)

              <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

内在する完全な「神性」こそが真のすがた~実相を観ると云うこと - 伝統

2017/10/10 (Tue) 05:07:03

          *(新版『真理』第2巻142頁)より

人を見るのにその外見をもってしてはならない。

人間の実相を見ると云うのは、人間の肉体や衣服は仮りの相(すがた)
であって、 「人そのもの」ではないと云うことを知り、
その奥に宿っているところの「神の生命」(仏教的に謂えば「仏性」)
を観ると云うことなのである。

何人(なんぴと)も神の自己顕現として、
自己の内に「神」を蔵しているのである。
これこそが「真の人間」であるのである。

そしてその「内部の自己」が「神」であることを自覚し、それを尊敬し、
その如(ごと)く生きようと努力するとき、自分の性
人の「内部の自己」が格も環境も健康も改まりはじめるのである。

そして他の人の「内部の自己」が矢張り「神」であり、
完全であることを心で一心に観て、それを尊敬し合掌礼拝する
ようにするとき、その「他の人」が礼拝されるに相応(ふさ)わしい
立派な人間となって顕(あらわ)れてくる。

              (平成29年10月号「生命の教育」誌掲載)

<参考>平成29年10月号「生命の教育」誌
    → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

              <感謝合掌 平成29年10月10日 頓首再拝>

悪があらわれても悪を見てはならない - 伝統

2017/10/15 (Sun) 03:31:37

内在する完全な「神性」こそが真のすがた~悪があらわれても悪を見てはならない

          *新版『真理』第2巻(142~143頁)より

若(も)し誰かが悪いことをしたと云う報告が来たならば、
すぐその人を悪(あ)しざまに思うことなく、又、叱ったり、怒鳴(どな)ったり、
罵(ののし)ったりすることなしに、 「悪く見えたその相(すがた)」は
仮(か)りの相(すがた)であって、実相(じつのすがた)ではないこと、
彼の実相(じっそう)は完全円満であって決して悪い事をするような人でないことを、
じっと心に描いて念ずるようにするのが好(よ)いのである。

やがて彼の悪い相(すがた)は消えて完全な相(すがた)があらわれ始めるのである。

若(も)し何か面白くない事件が起ったならば、
「今はあの事件は悪いような相(すがた)をあらわしているけれども、
あれは途中の経過であって、必ず良くなるより致(いた)し方(かた)がない」
と念じて、最善の努力を尽すならば、その事件は必ず好転して、
好い結果を生むようになるのである。

併(しか)し事情が好転するように誠心(まごころ)をつくして
努力することを忘れてはならぬ。


              (平成29年10月号「生命の教育」誌掲載)

<参考>平成29年10月号「生命の教育」誌
    → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

              <感謝合掌 平成29年10月15日 頓首再拝>

心に強く描くものが形にあらわれる - 伝統

2017/10/23 (Mon) 06:09:14

内在する完全な「神性」こそが真のすがた~心に強く描くものが形にあらわれる

          *(新版『真理』第2巻311~312頁)より

希望は実現の母であるが、恐怖も亦(また)、実現の母である。
それは「心に強く描いたものが形にあらわれる」と云う根本法則が
どちらにも働くからである。

希望はそれが熱烈に望まれたるとき常に強烈にその有様(ありさま)が描かれるが、
恐怖も強烈であればあるほど間断なく其(そ)の恐るべき状態が心に描かれる。
だから、どちらも同一の心の法則で実現すると云うことになるのである。

若(も)しあなたが、自己の好まない境遇や環境にいて、それを恐怖し、嫌悪し、
それから逃げ出そうと焦(あせ)るだけではその境遇から脱出することは出来ない。

何故(なぜ)なら、恐れるもの、嫌悪するものは常に心に描かれて離れないからである。
寧(むし)ろ現在の境遇環境を、自己の魂(たましい)を磨く道場として
其儘(そのまま)受けてその体験を卒業する時、逆境は変じて順境に変るのである。


              (平成29年10月号「生命の教育」誌掲載)

<参考>平成29年10月号「生命の教育」誌
    → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

              <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

心明るきことの功徳 - 伝統

2017/10/27 (Fri) 04:49:12

内在する完全な「神性」こそが真のすがた~心明るきことの功徳

         *(新版『真理』第10巻259~260頁)より

心の明るい人は事物を常に建設的に考える。
心の暗い人は事物を常に破壊的又(また)は退嬰的(たいえいてき)に考える。

そして前者は自分の有(も)っている能力を百パーセント発揮することが
できるが、後者は自分の本当の力の十分の一も発揮することができないのである。

心の明るい人は他(ひと)からどんなに批評されても、
自分を信じているがゆえに、動揺することもないのである。


若(も)しあの聾盲唖(ろうもうあ)の三重苦のヘレン・ケラーが心の暗い人であり、
暗黒な心でじっと自分の不幸を見つめているような人であったならば、決して
あのような不具者の福音(ふくいん)となり、光となる聖者とはなる
ことが出来なかったに相違ないのである。

心の明るい事はその事自体が一つの光を放つ宝であって、
どんな困難な人生の行路をも斫(き)り開(ひら)いて行くための
燈台(とうだい)となるのである。

その光の射(さ)すところ、すべての困難と暗(やみ)とは消え
安全な航海を約束するのである。


              (平成29年10月号「生命の教育」誌掲載)


              <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

日本人が大切にしてきた「大和」の心~神話にも現れている日本の精神 - 伝統

2017/11/11 (Sat) 03:51:10


        *(新版『真理』第3巻240~241頁)より
          (『真理』第3巻初学篇P282~284)

先ず『古事記』の冒頭をみます時に、 「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、
高天原(たかあまはら)に成(な)りませる神の御名(みな)は天之御中主神
(あめのみなかぬしのかみ)」と、こう書かれているのであります。

其処(そこ)に日本民族の個性ある表現がなされているのです。
日本民族は、生れて仰(あお)いで天を見、伏(ふ)して地を見て、
そうして天地が「一(いち)」であることを直観したのであります。

「一」という字を日本では「はじめ」と読みますが、
天地は二つに分かれているけれども、本来「一つ」であるということを
見たことがその叙述(じょじゅつ)の初めにちゃんと現れておるのであります。


日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれているものを一つに綜合(そうごう)
するところの天分を持っているのでありまして、日本の国の名前を「大和(やまと)」
と名づけられたということも、 「や」というのは「弥々(いよいよ)」」と云う字が
当てはまるので、いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。
弓(ゆみ)で射(い)る「的(まと)」を「まと」というのも、
同じことでありまして、中心に「纏まって」いる姿を現わしています。


いろいろに分かれていても、その悉(ことごと)くが一つに纏まるべきものであって、
決してバラバラのものは存在しない、宇宙は一つである。

世界は一つであるというところのその人生観が、古代の日本民族を通して
現在の日本民族に至るまでずっと貫き通しているところの民族的信念とでも
いうべきものなのであります。

              (平成29年11月号「生命の教育」誌掲載)


<参考>平成29年11月号「生命の教育」誌
    → http://www.shinkyoren.jp/publics/index/34/#page34_59

「生命の教育」平成29年11月号 主な内容

特集 日本への誇りが子供の生きる力を引き出す

日本人が大切にしてきた「大和」の心 谷口雅春
巻頭のことば 新教育者連盟理事長 代田健藏

ほのぼのと心あたたまる神話や昔話、日本の偉人の話を! 藤波礼子

【特別インタビュー】

問題を抱えていた子供たちが生まれ変わる
勇志国際高等学校校長 野田 将晴

神話が現代に生きる日本の素晴らしさを伝えて
日本航空大学校学長 浅川 正人


行き詰まった時にも前向きになれる 森本真由
人や国のお役に立つ人生に 井崎真理

子育ては母育て(60) 「母と子の世界」の始まり 田下昌明

子育てワンポイント(8) 「よい夫婦」に 出口正博

子育てQ&A 祖父母が甘やかしてばかり 大原和子

ゲームなどで遊んでばかり 小林義典

男の子に言葉遣いが悪い娘 國友規代


日本国憲法の問題点 勝岡寛次

道徳用教材『私たちの道徳』を活用しよう(上)

日本人100 の誇り(63) 桂離宮 岡田幹彦

親子で学ぶ世界と日本  パンダは日本・チベット友好のシンボル 高木桂藏

親子で読むものがたり(63) 第一代の天皇さま 神武天皇 千葉ひろ子

生命の教育で学んだこと⑳ 岩石紘子

新教連いんふぉめーしょん
◇ 11 月の研修会・特別講演会の案内、大阪支部講演会の案内
◇東京 親と子の楽習室の活動模様など
◇ 11 月支部行事
事務局短信・編集後記・次号案内

・・・

<参考:【特別インタビュー】勇志国際高等学校校長 野田 将晴氏 に関して>

「教育者は、聖職者である」野田 将晴・著

光明掲示板・第一「勇志国際高校の挑戦」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou/&mode=res&log=1944

              <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

日本精神 - 伝統

2017/11/20 (Mon) 04:00:05


日本人が大切にしてきた「大和」の心~《すべてのものを一つに包みこむ》

           *(新版『真理』第3巻232頁)より

おのおの、何々民族としての個性を有(も)ちながらみんな一家族たる
「人類」なる理念が天降(あまくだ)って来ているのでありますから、
みんな互に兄弟なのであります。

兄弟がおのおの個性をもちながら同じ生命のつながりであるように
人類はみな互に兄弟であります。

日本民族は、人類互に相和(あいわ)そうと云う理想をもって、
国をはじめたのでありまして、 「大和(やまと)」の国号(こくごう)
がそれを示しているのであります。

これが日本建国の精神なのであります。

「形は心をあらわす」と云う諺(ことわざ)がありますが、
日本人の発明した風呂敷を見ればわかります。

風呂敷はどんな形のものでも、
その形を毀(こわ)さずに一緒に包んでしまうことが出来るのであります。

他の国を毀(こわ)して併呑するのは覇道であって、日本の皇道ではありません。

日本の精神は風呂敷精神であります。

総(すべ)ての物を毀(こわ)すことなく一つに包んで「人類」と兄弟となり
一家族となるのを建国の理想としているのが日本民族であります。

              (平成29年11月号「生命の教育」誌掲載)

             ・・・

日本人が大切にしてきた「大和」の心~《日本精神とは「愛」のこころ》

         *(新版『真理』第3巻233頁)より

「人類は互に一つだ」と云う大和(だいわ)の精神が、日本精神でありますから、
日本の建国の理想は「愛」だと云うことがが出来るのです。

「愛」と云うのは、どの人種も、元は一つと云う自他一体の自覚であります。
自分と他(ひと)とは形の上では別々であっても、生命は一体だと云う自覚です。

「私はあの人を愛する」と云うことは、あの人と私とは本来一つである。
そこで彼の悦びを私の悦びとし、彼の悲しみを私の悲しみと感ずる、

これが「愛」であります。

それは、或は男女の恋愛のようにも現われ、
或は父母親子の愛と云うような関係にも現われ、
或は家族が一体であると云う感じの家族愛と云うものになって現われ、
或は国を愛する愛国心ともあらわれ、
或は人類を愛する人類愛ともなって、あらわれます。

吾々はこれらの色々の愛を、その内の一つでなく、
みなことごとく調和した相(すがた)で愛し得(う)るように努力するとき、
偏(かたよ)った人間ではなく「全人(ぜんじん)」」としての
完全な人間の魂がみがかれるのであります。

              (平成29年11月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>

《日本人としての生甲斐が感じられるには》 - 伝統

2017/11/26 (Sun) 03:49:05

日本人が大切にしてきた「大和」の心~《日本人としての生甲斐が感じられるには》

         *(新版『真理』第7巻272~273頁)より

愛国心の昂揚(こうよう)などと言っても、愛し得(う)る値打(ねうち)
のある国というものがあれば愛するけれども、

愛し得る国としての資格があるかないかわからん現状のような日本国では
愛することができないというのは、それは国というものを、唯(ただ)、
単に形にあらわれている現状の国 ―― 即(すなわ)ち現象の国家――
だけを日本国だと思っているために、

こんなに強盗や、強姦や、失業者や、ストライキや、戦争や、
つまらないことばかり充満している此(こ)のような国家は、
愛することはできないということになるのであります。

けれども、その現実の奥に「理念の日本の国」なるところの、目に見えざる
「国の本体」なるものをみたならば、其処(そこ)に希望が生まれ、
其(そ)の国に生きていることに、生甲斐を感じ、其の国を愛することが
できるのであります。

外面の現象は如何にともあれ、それを内在の理念――理想に近づけて行く
ところに希望が持て、勇気が出、生甲斐が感じられて来るのであります。

此(こ)の肉眼には見えないけれども、既に在(あ)るところの日本を
つくり出した「完全模型」即ち「実相」というものを、智慧に依(よ)って
直観して、 それを見(み)出(いだ)し、 そうした完全模型(理念)に
向って、国を推(お)し進めつつある日本国民が自分だ、

という自覚が出て来たときにのみ、本当に日本人としての
生甲斐が感じられてくるのであります。

              (平成29年11月号「生命の教育」誌掲載)

              <感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>

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