伝統板・第二

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無限の富を汲みだす② - 伝統

2016/04/05 (Tue) 04:26:53

*伝統板・第二「無限の富を汲みだす①」からの継続です。
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

・・・


        *『 生長の家 』(昭和25年1月23日~24日)の法語より

《富の原則は 「 与える 」 にある》

富の原則は、物質を追求することによって得られるのではない。

生命を捧(ささ)げることによって得られるのである。

捧げられたる生命の影が 富なのである。

「 正しく与えることが 豊かなる富を得る鍵(かぎ) 」であると
チャールス・フイルモアは いっているのである。

「 与えよ されば与えられん 」 というのが 無限供給の黄金律であるのである。

( 「 人間救いの原理 」 第二章参照 )


然し与えると云っても 正しく与えないものは 豊かに恵まれるということはないのである。

金でも労力でも 正しい与え方があるのである。

   (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/35076a103b53b142389c4fd0460e8110


《人を倒して自分が栄えてはならぬ》

自分の商売の競争者を打ち倒してしまうという考えをいだいて
商売をしてはならないのである。

佐世保に講習会があった時、

一人の玩具(がんぐ)問屋の主人公が私を汽車の中まで追いかけて来て話した所によると、
彼は同業者を悉(ことごと)く打倒(うちたお)して 一流の玩具問屋になったのであるが、
自分の留守中 店員が共謀して40万円の品物と金とをもって逃亡したというのである。

人を倒して自分だけが栄えようというような考えは
最初は一寸(ちょっと)成功するようにみえても最後には不成功に終るのである。

    (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f57d785003831fa0fde30ba870c4d18a



<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

            <感謝合掌 平成28年4月5日 頓首再拝>

先ず観点を変えよ - 伝統

2016/04/14 (Thu) 04:41:45


        *「生活と人間の再建」(P13~14)より

人類は観点をかえなければならないのである。
物質は有限ではないのである。
吾々は新興物理学の新らしき世界観から新しく出発しなければならない。

物質は真空から生み出されつつあるのである。
真空はその知性を以って法則と現われ、法則は一切のものを造り出す。
吾々の中に宿る「知性」は宇宙の「知性」と同じ「知性」である。

吾々が心を平和にして宇宙の「知性」に耳を傾ける時、
吾々は一切のものを生みだすところの「宇宙の知性」の即ち「神」のみ声を
きくことができるのである。

精巧なラジオセットが放送室から放送する立派な楽譜の音楽をそのままにうつし出すように、
吾々の精神が平和にみちて、静かなる寂(じゃく)の声に耳を傾ける時、

宇宙の一切のものを生み出した本源の智慧を交通して欲するものを
地上に生み出して来ることができるのである。


富むことが貧しきものに対する搾取とならずして、
富むことが貧しきものに対する豊富なる貯蔵庫となることができるのである。

自分が豊かに実ることが、人類全体への祝福であるような
美しき冨を築くことができるようになるのである。

これは唯物論ではできないのである。
唯物論を精算してすべてのものは神より来たり、神に交通することによってのみ、
すべてのものが得られるという唯神実相論の世界観に立たなければならないのである

            <感謝合掌 平成28年4月14日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2016/04/18 (Mon) 04:34:33


              *「光明法語」(4月18日)の法語より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわないと云うことは
ないのである。

            <感謝合掌 平成28年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 03:53:23


              *「光明法語」(4月19日)の法語より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

他からくすめたた富は、地獄の使者(つかい) - 伝統

2016/04/20 (Wed) 04:29:13


           *「光明道中記」(4月20日)より抜粋

世間にはただ投機的な活動や、自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、自分を高め勉強さすように利用されるとき、
その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような
金銭は却って地獄の使者(つかい)である。

            <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

《無限循環の法則について》 - 伝統

2016/04/29 (Fri) 04:47:53


       *「生活と人間の再建」第12章 無限供給を受くる道(P148~149)より

与えれば与えられるのは人生の法則である。
蒔かぬ種は生えぬのである。
先ず第一に種子を与えなければ収穫は得られないのである。

この明瞭な道理を自覚しない人達が随分多いのである。
与える量が多い程受ける量も尚多いのである。

吾々は与えることによって、
自分のもてるものがなくなってしまうと恐れる必要はないのである。

供給の本源は無限なる神から来るのであって人間から来るのでないから、
与えたからといって減ると思う必要はないのである。

豊かに与えるに従って神は豊かに与え給うのである。
吾々が他(ひと)に与えるといっても決して自分のものではないのである。
すべては神の造り給うたものである。

神から与えられたものをただ次へまわすだけである。
神は決してその恵みを吾々一個人の所有として独占するようには
決して与えたもうているのではないのである。

神は神の造り給いし全てのものに対して豊かな供給が循環し得るために
必要な具合に与え給うているのであるから、次へ次へと廻すに従って、
またその次が与えられるのである。

だから吾々は利己主義をふりまわして、自分に持ってるものを、
永遠に自分の所有として握ってはならないのである。


            <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

《富は如何に使用すべきか》 - 伝統

2016/05/08 (Sun) 04:40:27


       *「生活と人間の再建」第12章 無限供給を受くる道(P150)より

もし若干の金を持っていて何かに使おうとするならば、しばらく目をつぶって、
「神さま、これはあなたのお金でございます。このお金をあなたはどういうように
お使いになられますか教えてくださいませ」と心に祈って、

そして「神さまならこのように使うであろう」というように考えて、
そのように使うのが、本当に「与えよさらば与えられん」の法則に叶う所の
与え方であるのである。

ともかく吾々は、神からその無限の供給を神のみ心に従って適当な方面に活用するために
神から任命された番頭であると思って、自分のものという執着なしに、然(しか)も
他人のものだという「おろそかにする」気持ちもなしに、

神のみ心のままに必要な所へは豊かに豊かに与えるようする時更に
又豊かに与えられるようになるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

《ほめ、讃(たた)え、感謝するところに多くの恵みがあつまる》 - 伝統

2016/05/15 (Sun) 04:30:42


        *『 生長の家 』 (昭和25年1月25日の法語)より

   何でもほめるものが増えて来る。
   何でも讃えるものが増して来る。
   何でも感謝するものが増加する。

   自分が与えられている恵みを数えあげて感謝せよ。
   自分の今持てる其(そ)の少量の恵みに対して感謝せよ。
   それを神の恵みとして感謝せよ。

   こんなに僅(わず)かしか もたないとぶつぶつ不平を云わず、
   真に神に感謝する時、その感謝の念が磁石となって
   一そう多くの恵みが集って来るのである、

   ほめるものが増え 感謝するものが増えるのが 無限供給の法則である。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/09c55629349bd4c88305e05e512027e4

            <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2016/05/16 (Mon) 04:15:56


          *「光明法語」(5月16日の法語)より

富を獲得するためには何か不正なことを行なわないと得られないと思うのは間違いである。
また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2016/05/22 (Sun) 03:31:43


           *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2016/05/23 (Mon) 03:44:47


           *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

            <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2016/05/24 (Tue) 03:53:05


           *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

            <感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2016/05/25 (Wed) 03:08:57


           *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

            <感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2016/06/01 (Wed) 03:31:13


           *「光明法語」(P51)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。

人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもで、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

            <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2016/06/07 (Tue) 03:12:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

            <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

《富むために必要な心掛け》 - 伝統

2016/06/16 (Thu) 04:06:18


          *『 生長の家 』(昭和26年2月27日の法語)より

   彼が栄えるのは自分が栄えるのである。
   彼が貧しくなるのは自分が貧しくなることである。

   人の栄えるのを喜ぶような心のものでないと、
   みずから栄えることは出来ないのである。

   富める者を観て 「 搾取者 」 だとケチをつけるような心の者は、
   「 富 」 を排斥する心があるのであるから、
   自分の方へ富が集って来ないのである。

   人の幸福を見て羨(うらや)むような心の者は、
   幸福を排斥する心があるのであるから
   真に幸福になることは出来ないのである。

   損したことをクヨクヨ思うな。
   「 損 」 を心に抱いている限り
   「 損 」 を 此次(このつぎ)も引寄せることになるのである。

   「 損 」 をしたときに、
   今迄(いままで)、自分が富む事を妨げていた塵埃(ごもく)が消えて
   富の道が開通したと思え。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c25197c5b0c242d9adc97a16e73fbcc6

            <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ - 伝統

2016/06/21 (Tue) 03:46:34


三たび自己を顧みる日

          *「光明道中記」(6月21日)より

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。(『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

            <感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝>

お金は、全体のために有用に使う - 伝統

2016/06/22 (Wed) 03:51:55


            *「光明道中記」(6月22日)より

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、やがて頭脳が役に立たなくなって
来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

            <感謝合掌 平成28年6月22日 頓首再拝>

金は浄(きよ)きに非ず穢れに非ず - 伝統

2016/06/23 (Thu) 03:13:33


          *「光明法語」(6月23日)より

弱き善人は、強き悪人に及ばない。
善人は強くならなければならない。

悪人は金を集めてその勢力を次第に増大して行くが、
善人は金を集める事を穢(きたな)いとみずからの手に手錠をかけるが故に
悪人の力に滅ぼされてしまうのである。

善人はもっと勇敢に金を集めなければならないし、
よき事の為に金を集める事を穢いと思ってはならないのである。

金は穢いも綺麗もない。
それは如何に何に使うかによって綺麗と穢いとの区別が出来る。

釈迦曰く「飢饉の時には一層托鉢せよ」と。
釈迦は自分が貧乏だから行乞(ぎょうこつ)したのではない。

            <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>

《無限供給の法則》 - 伝統

2016/07/05 (Tue) 03:37:03


          *『 生長の家 』(昭和26年2月28日の法語)より

   出来るならば自己に負債ある者を赦して、
   他の人に対して負債の払い易いようにしてあげよ。

   其人が既に豊かに富める状態を心に描いて祈ってやれ。
   これが却(かえ)って
   自分に豊かなる富の流入を来らす方法になるのである。

   ケチな心を持つな。
   ケチケチした小細工で金を拵(こしら)えようと思うな。

   無限供給の法則を利用すれば 無限に富が流入して来るのである。

   法則を破って富を集めようとすることは、
   漏電によって電流の供給を受けようとするに等しいのである。

   ケチな心によって貧しくなった状態を癒やす道は
   ケチな心を捨てることである。

   自己に負債ある者を赦してやるのは必ずしも帳簿を消すことではない。
   心の世界にその負債を放つことである。



    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3ab4cce1d09504dac6878ee497fb6d4e

            <感謝合掌 平成28年7月5日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の動きは、「無限供給」の扉を開く - 伝統

2016/07/14 (Thu) 04:49:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月14日>(P19)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、
法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。

法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝>

《神の供給は無限である》 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 03:48:31


         *『生長の家』(昭和26年4月6日の法語)より

   宇宙は 無限の神の創造であるから、
   宇宙に於ける供給は 無限であるのである。

   吾々は 此(こ)の宇宙無限の供給を心に描いて
   自分に流れ来つつある有様を想念することによって、
   それを自分のものとすることが出来るのである。

   何人(なんぴと)も彼が神の子である限り
   欠乏すると云うことはないのである。

   すべての人は平等に富んでいるのである。
   それを欠乏させるものは 欠乏の感じにほかならないのである。

   「 欠乏を満たし給え 」 などと欠乏の語(ことば)を使って祈ることは
   心に「 欠乏 」 の感を深く印象することになって、
   その祈りは却って逆効果になるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12208729.html


         <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

《欠乏を豊富にかえる思念》 - 伝統

2016/08/12 (Fri) 04:07:10


           *『生長の家』(昭和26年4月7日の法語)より

   チャールス・フィルモァは 欠乏を満たすための祈りとして
   次の言葉を推奨(すいしょう)している。

   「 神はわが供給の本源であって、
   わがあらゆる事物に豊かなる供給を満たしたまうがゆえに、
   自分は最早(もはや)経済問題に
   何等(なんら)心配の感を抱かないのである。

   正直、迅速、能率、秩序等 経済上に必要なる一切の徳は
   神から与えられて
   わが経済は順調に進むのである。

   自分は量に於いても質においても
   凡ての有限の感じから解放されたのである。

   キリストの超無限の富は今わがものであるのである。
   自分はあらゆる点に於いて繁栄し隆昌しているのである。」


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12212649.html


         <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝>

《金を愛するな》 - 伝統

2016/08/22 (Mon) 04:49:23


         *『 生長の家 』(昭和23年3月27日の法語)より
 
   富を愛することが悪いのではなく、
   金‘のみ’を愛することが悪いのである。

   金で‘もの’云わそうと云う根性が悪いのである。
   金はある程度まで人間の欲する物を与える。

   そのために人は、人間の欲するものの代表として
   「 金 」 そのものを愛する様になり勝ちである。

   併し金で買えないものがある。
   人間の愛であり誠である。

   人間の愛と誠とは、
   こちらが愛と誠とをもってしなければ購うことは出来ない。

   貨幣でツラをはろうと思っても
   本当の愛と誠のある人は金では自由にはならない。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13239072.html?type=folderlist


         <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝>

《感謝の念は供給を増す》 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 04:00:35


         *『生長の家』(昭和26年4月8日の法語)より

   チャールス・フィルモァは 『 心の原子爆弾的力 』 と題する書のなかで、

   『 我らが既にもてるもの、又は神の子として我々自身に期待し得るものに対して
   感謝する言葉は、唯(ただ)の一語でも、神の無限供給の本源より
   豊かなる供給を発掘する力があるのである 』 と云っている。

   それをメリー・ルーイズ・キュープファール女史は 註釈して、
   その感謝の実践は 「 什一税の実践 」 が最も好いのであるとしているのである。

   什一(じゅういち)税と云うのは 自分の収入の十分の一を神に感謝の意味で
   献げることなのである。

   その什分の一を献納することも
   慾ばる心や、単に機械的に行うのでは可(い)かぬ。

   真実感謝の念が伴わなければならないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12215673.html


         <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

責める心ではなく、「豊富」を念じる - 伝統

2016/09/06 (Tue) 04:01:27


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月6日>)より

相手が債務を履行しないことを責める心、払わせようと「損」を気に懸(か)ける心よりも、
「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方
が、実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、「神」はいたるところに充ち満ちていたまう
のであり、そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:35:49


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P76<9月8日>)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、
豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。


富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。


貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:07:15


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2016/09/13 (Tue) 04:54:43


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」
とかの観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。

その恵みに報謝する働きをしておれば
必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

富は有益に使うとき増殖する - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:43:58


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

《神の供給を大きく受けよ》 - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:37:57


        *『幸福を招く365章』第9項(P187~188) より

神より来(きた)る資源は無限である。
しかしその無限は只存在するだけであって、
具体的に人間のものになっていないのである。

具体的には人間のものとなるには、
それをみずから進んで受取らねばならぬのである。

神は光のようなものである。
地上に充ち満ちていても、みずから眼をひらかぬ者には、
神が眼瞼を押しあげて、光を押し込み給うことはないのである。

神は海原の水のようなものである。
大きな容器をもって行って汲めば、いくらでも多く満たしてくれて、
しかも其の資源は尽きないのである。

しかし小さな杯をもって汲めば小さな杯の分量しか与えられないのである。

心をひろく持つことである。

             <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

《外界の事物は素材に過ぎぬ》 - 伝統

2016/10/19 (Wed) 03:28:58


         *『 生長の家 』(昭和26年5月26日の法語)より

   外界の事物は吾々の幸福の素材になるに過ぎないので、
   その素材に対する心構えが間違っておれば
   却(かえ)って不幸を来すのである。

   素材を如何(いか)に取扱うかの心構えが大切である。

   富めること必ずしも幸福ならず、
   富めるために却って悩み多き人もある。

   然りと雖(いえど)も生長の家は「貧しさ」をまた
   礼讃するものでもないのである。

   「貧しさ」が生じて来たのも、
   自己の心の反映であるから心を変化すれば、
   富が生ずると云うのである。

   ただ富の求めようが、「富が得られたら幸福になる」と
   「富」そのものを求めては幸福は得られないのであって、
   先(ま)ず幸福な心持になり、富める心になって
   他に奉仕するとき幸福も富も得らると説くのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

             <感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>

求むるに先立ちて財宝集る日 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 04:45:12


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月30日)より

【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
                             (『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心がなくなってしまわなければならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

天地の真心を受けたとき、創造が行われ、自然に儲かるのである。 - 伝統

2016/11/04 (Fri) 04:03:58


          *「光明道中記」(11月4日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、近来、資本主義の爛熟期に到達するに
及んで「設け」ずして、金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

          <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

無限供給を受くる日 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 03:34:12


          *「光明道中記」(11月5日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、金魚が陸(おか)から水盤の中へ
跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2016/11/11 (Fri) 04:03:59


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。


          <感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>

「無限循環の法則について」 - 伝統

2016/11/26 (Sat) 04:02:11


        *「生活と人間の再建」(P148~149)より

与えれば与えられるのは人生の法則である。
蒔かぬ種子は生えぬのである。
先ず第一に種子を与えなければ収穫は得られないのである。

この明瞭な道理を自覚しない人達が随分多いのである。
与える量が多い程受ける量も尚多いのである。

吾々は与えることによって、自分のもてるものがなくなってしまう
と恐れる必要はないのである。

供給の本源は無限なる神から来(きた)るのであって人間から来るのでないから、
与えたからといって減ると思う必要はないのである。
豊かに与えるに従って、神は豊かに与え給うのである。
 
吾々は他に与えるものといっても決して自分のものではないのである。
すべては神の造り給うたものである。
神から与えられたものを、ただ次へまわすだけである。

神は決してその恵みを吾々一個人の所有として独占するように
決して与えたまうているのではないのである。

神は神の造り給いしすべての者に対して豊かなる供給が
循環し得(う)るために必要な具合に与え給うているのであるから、
次へ次へと廻すに従って、又その次が与えられるのである。

だから吾々は利己主義を振りまわして、自分の持っているものを、
永遠に自分の所有として握ってはならないのである。

          <感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>

おかねのきもち - 伝統

2016/12/11 (Sun) 03:25:45


     *「こうすれば、夢はあっさりかないます!」はせくら みゆき・著(P158)より


わたしが どうして 生まれたか 知っている?

あのね わたしは みんなを よろこばせたいの

うれしくて たのしくて ありがとうって いわれたいの



だから ずーっと 暗いところばかりに とじけめないで

たまには 旅をして みんなに 笑顔 ふりまきたいよ

大好き 幸せ ありがとうって 思ってくれたら うれしいな



さらさら ながれて またもどる

ふえて ながれて めぐりゆく

よろこび かがやく 光の軌道



きん ぎん くがに 大切なもの

あなたを あらわす タベストリー

つむぐ 模様は 光の軌跡

よこいと たていと あやなして

めぐり めぐられ つながりあう

わたしはおかね めぐる愛の伝道師


*くがに=黄金 (沖縄の方言)? 

          <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>

真の富 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 04:47:49


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より抜粋

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。

多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に
入(い)ることの難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。


真の富はもっと精神的または霊的なものである。
鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ・・・
挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、
そこから引き出し来(く)る悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さ
であることを知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、
樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、

無限に豊富なる美の宝庫の中に入れられていてさえも、
そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。


しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を
探しもとめる犬猫のごとく、ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、

それは人間として与えられたる至高の特権を放棄せるもの
と言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。
精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。
あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

          <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2016/12/16 (Fri) 04:46:52


        *「光明法語」(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

          <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

富は入用の程度で満足すること - 伝統

2016/12/25 (Sun) 03:47:13


           *「光明道中記」(12月25日)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                              (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。
入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

          <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

人間への無限供給は神から来る - 伝統

2016/12/26 (Mon) 04:49:37


           *「光明道中記」(12月26日)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、自働的にそれが富自身を
追求するようになる時、それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、「
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。

ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。

蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

          <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>

冥加のある「富」 - 伝統

2016/12/27 (Tue) 03:56:47


           *「光明道中記」(12月27日)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

          <感謝合掌 平成28年12月27日 頓首再拝>

霊的、内的に高めよ - 伝統

2017/01/11 (Wed) 03:26:47


         *谷口清超先生『豊かなる富への鍵』より

「繁栄」とは、別に金銭問題に限った事ではないのであって、
人生全般に関して真の意味での「豊かなる生活」を送ることでなければならない。

しかし、普通「無限供給」とか「繁栄」というと、
経済的な問題が自由自在になることが先ず第一に思い浮かべられるであろう。

それも勿論大切なことであって、「神の子」たる人間が
「貧しく」シミッタレた生活をしなければならぬという道理は全く無いのである。

繁栄の原理は全く精神的なものであって、
物質を巧智によって盥廻しすることによって得られるのではない。

古来聖典類は多数あるが、それを死文化してはならないのであって、
日常生活に生かして霊的啓示を汲みとらなければならない。

古典を生かすも殺すも、みな読者の心の中にある。 
霊的啓示なくして霊的啓示を読むことは出来ないのである。 
又これを実生活に応用するにも、霊的に高められた魂を必要とするのである。

千万円使うには千万円使う能力がなければならず、
百億円を自由に使うには百億円を使うだけの力が養われていなければならない。 

3歳の童子に1億円の金をやる親はいない。 
されば神は、いかに人類を愛していても、3歳の童子の如き人間には
「無限供給」を与えるわけにはゆかぬのである。

先ず内的に高まらなければならない。 

さすれば外物は自ずから整うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/27058482.html より転写)


          <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

「無限の富」とは、必要なだけ現れるということ - 伝統

2017/01/23 (Mon) 04:58:03


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。
心が平和を得なければ億兆の富といえどもなんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

            <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>

《繁栄に対する新しき門》 - 伝統

2017/02/09 (Thu) 04:49:03


        *『 生長の家 』(昭和26年6月24日の法語)より

   吾々は 常に繁栄に対する門戸(もんこ)は
   ひらかれているのである。

   過去の仕事に行詰りが来ようとも、
   それは 新しき仕事の門がひらかれつつある証拠である。

   それを信じないものは仕方がない。
   それを信じたときに、信じた通りに門戸がひらかれるのである。

   新しき繁栄の門戸は智慧である。

   正しき情勢の判断と、それに処する正しき智慧、
   そして正しく人々に奉仕する道、これが神から与えられるとき、
   人は繁栄するしか仕方がないのである。

   更に明るい心、楽しい家庭の雰囲気と云うものは
   事業を育てあげるに必要な肥料となるものである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 平成29年2月9日 頓首再拝>

天の倉に貯える日  - 伝統

2017/02/22 (Wed) 04:27:54


           *「光明道中記」(2月22日)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、
天の倉に貯えられたる善行である。

すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを
先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と
言われるほどの不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる
自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、

その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が資本を積むが如く、
福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、
少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

            <感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2017/02/25 (Sat) 04:21:35


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、
それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは
何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。

人のためになることを余計すればするほど、
その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもで、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

貧しさの理由 - 伝統

2017/03/11 (Sat) 04:47:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月11日)」より

すでにあるのに、多くの人が貧しいのは、第一家庭の調和を欠いていること。
祖先の祭祀(さいし)が足りないので祖先の守護の足りないこと。

家族の不調和と祖先の祭祀の不足とで、その人が外に出ても自分の身辺に漂うている
雰囲気が刺々(とげとげ)しくて、他から好意を持たれないことなどである。

            <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2017/03/20 (Mon) 03:22:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

Re: 無限の富を汲みだす② - dwvjiyejryMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:23

伝統板・第二
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