伝統板・第二

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物質無 - 伝統

2016/04/02 (Sat) 03:30:15

《霊的世界を悟る日》

           *「光明道中記」(4月2日)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすので
あろうか。それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

・・・

<関連Web>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「物質の否定、棄揚、神国の肯定」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=44

            <感謝合掌 平成28年4月2日 頓首再拝>

《物質は観念の影である》 - 伝統

2016/07/26 (Tue) 04:12:10


         *『 生長の家 』(昭和26年6月2日の法語)より

   人間を物質的存在だと思っている限りにおいて、
   人間は恐怖心を捨てることは出来ない。

   人間の物質的有限観がまた争いを起す原因となる。

   そこで不調和を心から投げ捨ててしまうためには、
   人間の有限観をすてなければならない。

   人間を「 霊的実在 」だと知らなければならないのである。

   病気と云うのは真に「 病気 」( 心の不調和 )であって
   「 病体 」ではないのである。

   「 体 」と見えているもの、
   「 物質 」と見えているもの悉(ことごと)く、

   「 空間に投影されたる観念の綾(あや)、
   これを称して物質と云う 」(「甘露の法雨」)

   であるから、病的観念を投影すれば、病体となってあらわれ、
   健康の観念を投影すれば健康体となってあらわれるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 平成28年7月26日 頓首再拝>

《「 物質 」 の概念から脱け出すべし》 - 伝統

2016/08/08 (Mon) 03:57:46


         *『 生長の家 』(昭和26年6月4日の法語)より

   すべての不幸を癒(いや)し、病気を癒すための祈りの根本は
   「 神はすべてのすべて 」と云う真理である。

   そして「 神は霊的実在であるから、すべては霊的実在であり、
   物質はない 」と云う真理である。

   「 物質はない 」とは最も理解され難いことがらであるけれども、
   「 すべて物質と見えるものは物質ではない。
   従って物質と云うものは微塵(みじん)もない 」と云うことである。

   「 物質 」とは生々せん動波動せる神の生命の波を
   縦横厚みの空間的枠内に固定化して見た概念的存在にすぎないのである。

   それを「 物質 」として観ている限りに於いて、
   吾々は自分で造った「 固定概念 」に縛られているのである。

   「 物質 」と云う「 固定概念 」から抜け出すことが
   不幸から脱却する根本条件である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝>

汝ら今こそ物質を超越して汝自身の『生命』の実相を自覚せよ - 伝統

2016/09/01 (Thu) 03:46:49

物質

          *聖経『甘露の法雨』物質より

汝ら感覚にてみとむる物質を実在となすこと勿れ。

物質はものの実質に非ず、生命に非ず、真理に非ず、
物質そのものには知性なく感覚なし。
物質は畢竟『無』にしてそれ自身の性質あることなし。

これに性質を与うるものは『心』にほかならず。
『心』に健康を思えば健康を生じ『心』に病を思えば病を生ず。

そのさま恰も映画の舞台面に力士を映せば力士を生じ病人を映せば病人を生ずれども、
映画のフィルムそのものは無色透明にして本来力士も無く、
病人も無くただ無色透明の実質の上を蔽える印画液によりて生じたる色々の模様が、
或いは力士の姿を現じ、或いは病人の姿を現ずるが如し。

されど健康なる力士も虚弱なる病人も
印画液の作用によりて生じたる影にして実在に非ず。

汝ら若し活動写真の映写機に印画液によりて生じたる色々の模様なき
無色透明のフィルムをかけて舞台面にこれを映写すれば、
やがて老いて死すべき健康なる力士もなく
虚弱なる病人は無論なく
ただ舞台面にあるものは光明そのもの、
生命そのものにして赫灼として照り輝かん。

汝ら今こそ知れ、汝らの『生命』は健康なる力士の生命以上のものなることを。

如何なる健康なる力士も彼が肉体を実在と観、肉体即ち彼なりと観る以上は
彼は滅ぶる者にして真の『健康』に非ざるなり。

真の『健康』は物質に非ず、肉体に非ず、
真の『生命』は物質にあらず、肉体に非ず、
物質の奥に、肉体の奥に、霊妙きわまりなく完全なる存在あり。

これこそ神に造られたる儘の完全なる『汝そのもの』にして、
常住健康永遠不滅なる『生命』なり。

汝ら今こそ物質を超越して汝自身の『生命』の実相を自覚せよ。

            <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

<無は一切を創造する不可知の力> - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:18:51


    *「善き人生の創造」第八章「人間は何のために生まれたか」(P115~117)より

神はこの自在無礙の力をもって、
隠身(かみ)よりして無限に眼に見えるものを実現し給いました。
「無限」が自己自身を自己限定したのです。

是は先ず、地球の創造をもって始まります。
太陽系の創造だと云ってもよろしい。

それは換言すれば物質の創造であります。
或いは鉱物の創造であります。

最初にはまだ植物動物は現れてはおりませぬ。
それは星雲状態であります。
星雲とは原子力の一大集結体であります。
電子その他のエネルギーの微粒子の一大集団の出現であります。

こう云う微粒子はあまり小さくて実験するにも直接見ることは出来ませぬ。
顕微鏡でも見えませぬ。

それで、これを研究するには、粒子の走ったアトに忽ち霧が出来て、
霧の白い線が粒子の走ったあとに白木綿絲位に出来るように
空気中の湿度を加減し得るところの「ウイルソンの霧函」と云うのを使用します。

ウイルソンとはあちらの国の物理学者で、そんな装置を発明したから
ウイルソン霧函(チェンバー)と云うのだと云うことであります。

それによって実験した結果は電子のような微粒子は、その実験中、
一個の微粒子が突如として二個に殖えたり、(無よりして微粒子の創造)
今、出現しておった電子が突如として消滅する即ち
「無」に復帰することがわかったのであります。

すなわちすべての物質の最小単位であるところの素粒子は
「無」より出でて「無」にかえるものであることが分かりました。

すなわち物質は「無」の変形なのであります。

しかし「無」ならばどうして「無」そのものが電子として出現し得るだろうか。

「無」は「無」であって、永遠に「無」であるより仕方がない。

そうしたならば「無」よりして電子が発生するためには
何かの智慧あるエネルギーが「無」に附加しなければならない。
この「智慧あるエネルギー」が「神」なのであります。

そこで次のような方程式が成立つのであります。

   「無」+「智慧あるエネルギー」(神)=物質

      ∴ 智慧あるエネルギー=物質

即ち物質とは何であるかと云うと、
物質とは「智慧あるエネルギー」即ち神の変形なのであります。

『金剛経』に「山、山に非ず、これを山と云う」の語(ことば)がありますが、
「物質、物質に非ず、これを物質と云う」のであります。

地球はこうして「智慧あるエネルギー」の顕現としてあらわれたのであります。

   ・・・

(参照:谷口雅春先生に帰りましょう・第一
    「善き人生の創造」第八章「人間は何のために生まれたか」
      → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15472518 >
            <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

《空よりして一切を生ず》 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:24:16


           *『幸福を招く365章』第9項(P179~180) より

「空とは変化無常のことなり」と大谷光瑞師は解釈している。
小林一郎氏は「空とは変化しないこと、平等のことである」と解釈している。

仏教研究家は、こんな解釈をいろいろ読んでみても結局、どちらが本当かわからない。

『生命の實相』の中には、色即是空を解釈して、色即ち物質は是空である。
空は「無い」ことであるとハッキリ物質の「有(ゆう)」(実在)を断ち切ってある。

しかしこの「空」は一切のものを内に含む「空」であるとして、
空即是色を解釈して「空よりして一切を生ず」と断じてある。

一切を生ずる空なる実体であるから、
「変化無常の原理」だと云う光瑞氏の解釈にも当て嵌まるし、
「平等の原理」だという小林一郎氏の解釈にもあてはまる。

最近の原子物理学はそれを証明しつつある。

            <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

《物質より心が先である》 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 04:10:04


         *『 生長の家 』(昭和25年9月11日の法語)より

   物心一如(いちにょ)的立場から云うならば、
   事物の根元は 「 物質 」 であると云うのも、
   事物の根元は 「 心 」 であると云うのも
   一如(ひとつ)であると云うことになる。

   しかし、「 物質 」 と云うものの概念は、
   「 知性も感情もないものを物質と云う 」 意味に於いて
   考えられているのであるから、

   物心一如と云うことは 「 知性も感情もない物質 」 と
   「 知性も感性もある心 」 とは一如と云うことになる。

   こうして物と心とが一つであれば、どちらが先なのであろうか。

   「 知性も感性もある心 」 を高位とし、
   「 知性も感性もない物 」 を低位としなければならない。

   高位のものは内に低位のものを含み得るが
   低位のものから高位のものは生れ得ない、

   従って、心は物質に先立つのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

            <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

妙有を悟る日 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:49:43


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月23日)より

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。(『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、この偉そうな語(ことば)
が人々を誤らせて真空と云うものが妙有であると考えしめられている仏教研究者に
度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、或る物質的形態をもったところの
「病気の腐爛せる肉体」の如きものを本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、
病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、「物質”なし”、ただ妙有
のみ”あり”」とハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

《すべては霊的実在である》 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 03:53:43


          *『 生長の家 』(昭和25年9月26日の法語)より

   すべては霊的実在である。
   霊的実在を物質として固定化して観るときにこそ
   迷いを生ずるのである。

   霊は神通自在のものであり、物質は不自由なものである。
   神通自在の霊的自己を、不自由きわまる物質と思い誤まることが
   最初の迷いであり、その最初の迷いから一切の悪が
   第二次の迷いとして生じたのである。


   物質は本来無いのである。それは心に描かれたる影である。
   霊的実在を悟る程度に従ってこの世界が物質であると云う観念が
   薄らいで来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>

「物質はない」という真理の大前提 - 伝統

2016/12/10 (Sat) 04:44:37


           *「生命の實相」第21巻経典篇(P21)より

生長の家においてはまず 「物質はない」 という
一つの大いなる真理の前提があるのであります。

「物質は無(む)である」こういう真理の前提があるがために、
「この世(よ)」とか、「この世の創造主(つくりぬし)」とかいう場合の
「この世」なる この世は、決して この物質の この世でない、
ということを まず知っておかなければならないのであります。

           <感謝合掌 平成28年12月10日 頓首再拝>

「物質」は無い、《霊のみある》 - 伝統

2017/04/02 (Sun) 03:47:46


           *「光明道中記」(4月2日)より抜粋

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

           <感謝合掌 平成29年4月2日 頓首再拝>

万物何物も変化しないものはない - 伝統

2017/04/03 (Mon) 04:16:54


           *「光明道中記」(4月3日)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                           『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めない
と云う人は、「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く考えられ易いのであるが、
万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、その物質(茲では電子)が
あるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような固定したものではなく運動している
のである。運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2017/04/04 (Tue) 04:22:52

顛倒妄想を去る日

           *「光明道中記」(4月4日)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 平成29年4月4日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、物質に神の国を追い求むる勿れ - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:24:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

K氏は高血圧症にかかって常に頭に眩暈(めまい)を感じ、
少し歩行すれば心臓の鼓動激しく、
狭心症を起こして倒れてしまいそうになるのであった。

ところが道場へ通ってわたしの話を聴き、
『生命の實相』を読んでいるうちに高血圧症に伴う諸々の症候が消えてしまった。

ところが、支那事変前、日本の経済界が準戦時体制になってきて、
軍需工業会社が殷賑(いんしん)の兆(きざし)が見え、
軍需株の高騰する前途の見透しが、火を見るように明らかとなった。

これは神が示し給うのであると信じ、
K氏はその貯財の大半を割いて軍需会社の株式を買うべく
知人に託して現株の購入料として7千円を委託したのであった。

ところがいつまで経っても現株(げんかぶ)が来ないのである。
知人に催促してみると、現株の来ないのも無理はない。

その知人は預かった7千円を証拠金として、K氏の名前で定期相場に手を出して
その7千円を磨(す)ってしまったあげく、まだ3千円位も足が出て、
その損失もK氏が背負わなければならなくなっているのであった。

K氏は仕方がないと観念してみたが、
貯財の大半を一朝にして失ったことはK氏にとって大きな精神的打撃を与えた。

それに執着してなんとか取り戻す方法はないかと、
心をそれに縛りつけているかぎりにおいて、
肉体もともに傷(いた)んで数夜は安眠もとれなかった。

せっかく治っていた高血圧症もまた再発したらしく
蟀谷(こめかみ)の血管が怒張して、頭脳が朦朧となり、
眩暈が始まって、またいつ倒れるかわからないような状態になってきた。


約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ
 ―― と、K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、
心は物質に捉えられたとき直ちに地獄へ顛落するものであることが
K氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。
爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、人を救う人数は日に殖え、
人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる歓喜の情は、
まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

「物質は無い」とは - 伝統

2017/04/10 (Mon) 03:49:32


           *「光明道中記」(4月10日)より

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。

併し、「物質」と見えている其の儘に
その「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、
三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、
平面的存在の如く写真に写されているからとて、
その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば
其処に映し出された写真に映像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、
半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が
現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)された場合に
不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

            <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

《天地到る処に神を見出す日》 - 伝統

2017/04/29 (Sat) 04:58:49


   『物質は無い』と云うことは、
   『物質は、瓦礫に等しい無生物では無い』と云うことである。

   物質は生きていると云うことである。
   物質は物質ではなくて生命の表現である。

   人が自己に宿る神の智慧を働かせて、法則を発見すれば、
   神の力が物質と見えるものに活(はたら)き出すのである。

   何の役にも立たないと思われていたものから、
   素晴らしい価値あるものを生み出すことが出来る。

   人間の生活は要するに価値発見の生活である。
   価値発見の生活とは法則発見の生活である。
   価値は神より来り、法則は神の定め給いし法(のり)である。

   法を発見するのは神であり、
   神を発見するのは価値を発見するのである。

   神を発見するのは宗教家であり、
   法則を発見するのは科学者であり、
   価値を発見するのは倫理学者である。

   宗教と科学と倫理学とは決して別のものではないのである。
   一つのものの三つの顕れである。
   宗教と科学と倫理とは互に協力して行かねばならないのである。


   薬剤を必ずしも蔑視してはならない。
   火薬も薬剤であり、毒ガスも薬剤である。

   尤も薬剤は、そうした破壊作用を営む側には
   実にハッキリした効果をあらわす。

   併し、それが治癒作用をあらわす側には、まだ効果不確かだと
   云わなければならないものが多いのである。

   吾等は薬剤そのものを排斥するのではない。
   効果不確かな薬剤を排斥するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>

物質無とは、背後の理念を掴ましめんがための喝である - 伝統

2017/04/30 (Sun) 04:49:53


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。

なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月30日 頓首再拝>

物質と見えるものは想念の具象化である。 - 伝統

2017/05/14 (Sun) 03:27:04


          *「生活と人間の再建」第2章(P28~29)より

20世紀になってからも人類の最大の発見は事物の根底に横たわるものは
単なる物質ではなくして、「想念」であるということの発見である。

新興物理学の進歩の従って物質は結局「無」なるところのエーテルのうずまきに
すぎないということが発見され、かくてそのエーテルを動かしているところの力は、
「形のない知性的エネルギー」であるということが発見されたのであって、

知性的エネルギーとは即ち想念に外(ほか)ならないのであるということが
発見されたのである。

宇宙にみつる一大本源が神であり、すべての天体も鉱物も植物も生物も、
すべてこの「神の一大知性的エネルギー」によって具象化されたものであると
いうことが発見されたのである。

この「知性的エネルギー」が吾々に宿って、
吾々の生命(せいめい)となっているのである。

従って吾々の起こす想念は宇宙にみつる神の想念の一部であり
全体につながっているのであって、吾々の想念が事物を創作するという
力があるということは当然のことなのである。

だから、根本に於いてこの世界の実相が「絶対善」であっても
吾々は想念によって仮りに悪をこの世界に創造して、
それによって自ら苦しむことができるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>

物質の「この世」を否定し、実相の「この世」を肯定する - 伝統

2017/07/31 (Mon) 03:41:40


         *『生命の實相』第21巻経典篇(P11~14)より

生長の家においてはまず 「物質は ない」 という
一つの大いなる真理の前提があるのであります。

「物質は 無(む)である」こういう真理の前提があるがために、
「この世」とか、「この世の創造主(つくりぬし)」とかいう場合の
「この世」なる この世は、決して この物質の この世でない、
ということをまず知っておかなければならないのであります。

(中略)

われわれはこの物質の世は本当の実在の世ではない。
完全な神が造った完全な世界はこの物質の世界以外に
どこかにあることを知らなければならない。

ところがやはりキリストはちゃんと「我が国はこの世の国にあらず」 ――
自分の句にはこの世ではない、この物質の世ではないということを
聖書中で言っているのであります。

キリストは決して、自分の父なる神がこの物質の世をこしらえたとは
言っていないのであります。

それで、この「物質は ない」という生長の家の発見したる尺度によって、
キリスト教を解(ほど)いてゆき、仏教を解いてゆくという時に初めて、
この神なるものと仏なるものとが 一つであるということがわかるのであります。

「神がこの世を造り固(かた)め給うた」として、
「この世」という言葉を「物質世界」と見る限りにおいて、それは 迷いである。

けれども その「この世」という言葉を物質世界の奥にある金剛常楽の
「実相の世」 という意味において 使う限りにおいては、
その創造主(つくりぬし)は 創造神(そうぞうしん)である
と同時に、一如(いちにょ)の仏であり 如来である。

その完全円満なることを 形容して この聖経には

「無限、宇宙を貫く心、宇宙を貫く生命、宇宙を貫く法則、真理、光明、智慧、絶対の愛。
これらは大生命 ―― 絶対の神の真性(しんせい)にして 」
と こう書いてあるのです。

こういう無量寿、無量光、絶対一如の真理であって 三世(現象世界)を超越し、
物質世界を超越せる妙妙(みょうみょう)なる大生命、
これが 仏教における仏 でなくてなんでありましょう。

           <感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>

物質の原因は心である - 伝統

2017/08/02 (Wed) 03:53:11


          *「光明法語」(8月2日)より)

原因あって結果来る。精神科学も物質科学も同様である。

物質科学は物質にのみ原因をもとめるが、
吾らは、その物質は如何にして生じたるかを追求し、

それがエネルギーの波動であることを明らかにし、
そのエネルギーの波動は、智慧あり秩序ある
エネルギーの波動であることを明らかにし、

智慧あり秩序あるエネルギーとは、物質的なるものではなく、
心的なるものであることを明らかにし、心によって物質の変化することを明らかにし、
心によって健康と運命をと支配するのである。

           <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

物、物にあらず - 伝統

2017/08/22 (Tue) 04:40:54


          *谷口恵美子先生編著『こころの旅路』(P208)より

 (谷口輝子先生のお言葉)

 
  神のいのちの現れである

  つつましく水を使ふこと
  つつましく火を使ふこと

  一片の菜も  一切れの芋も

  人参も牛蒡も生かして使ふこと

  一枚の小皿も傷つけたら詫びること

  有機物も無機物も一切の物のいのちを
  永持ちするやうに心がけること

  一切の物は神からの預りものである

           <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

量子論の世界 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 04:28:02


         *「思考のすごい力」ブルース・リプトン(著)(P163)より

物質は、中身の詰まった実体(粒子)であると同時に、
非物質的な力場(波)であると定義できる。

粒子については、質量や重さなどの性質を科学的に調べることができる。
この限りでは、原子は実体のある物質としてふるまう。

ところが、同じ原子が電位や波長などといった性質ももっている。
これはエネルギー(なみ)としての性質であり、もはや実体のある物質でない。

エネルギーと物質とがまったく同一のものであるというこの事実は、
まさにアインシュタインの到達した公式、E=mc2に表わされている。

この公式が明らかにしていることを簡単に説明しよう。

エネルギー(E)は、物質の質量(m)と光速を2乗したもの(c2)とを
掛け合わせたものに等しいというのだ。

私たちが暮らしているこの宇宙は、
確固たる実質的な物体が何もない空間に浮かんでいるのではない。

宇宙は一つにして分かつことのできない、ダイナミックで全体的な存在であり、
エネルギーと物質がからまり合っているので、両者を別々のものとして
考えるのは不可能なのだ。

           <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:40:15


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

霊に生きる日 - 伝統

2017/10/05 (Thu) 04:38:10


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月5日)より


【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、
物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、
物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。
物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。

物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。最初神をもとめて健康になると、
その健康を何に使うか、全然神とは似もつかぬ利己主義のことに使って
不健康となり、「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」
と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 平成29年10月5日 頓首再拝>

物質”なし”、ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2017/10/23 (Mon) 06:11:51


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月23日妙有を悟る日)より


【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。(『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、

「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」

とハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は? 」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

《物質は法則の現われ》 - 伝統

2017/11/09 (Thu) 04:52:09


        *『 生長の家 』(昭和25年3月4日の法語)より

   法則は材料であり、人間が創造者である。

   だからどんな物質でも、それ自身は法則の現われであって、
   毒になるとか薬になるとかというような
   自性(じしょう)はないのである。

   砒素(ひそ)といえども それは必ずしも毒薬ではないのである。
   それはその使いようによっては強壮剤ともなるし、
   害虫の駆除剤ともなるのである。

   物質は自分自身で 「 自分は毒薬だ 」 と
   自分自身の本性(ほんせい)をきめることはできない。

   人間がそれを毒薬にもし、強壮剤にもするのである。

   だから物質には自性はなく、人間が主動者であるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 平成29年11月9日 頓首再拝>

物質は、神の愛の具象化 - 伝統

2017/11/24 (Fri) 04:52:04


    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P178) より

《生活力欠乏の原因》

「物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。」

私たちが一片のパンの欠けらをも神の愛として感謝する心になるとき、
私たちは実相の世界にある無限供給の霊的波動に波長を合わすことができ、
必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることができるのである。

生活力の欠乏 ―― 即ち虚弱や病気 ――それから、経済力の欠乏 ――
すなわち貧乏や物質不足は、私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
テレビに放送が映って出ないように、受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

この原理を知らないために、或る種の人は、物質の潤沢を確保するために、
霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持ちになるのである。

           <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

物質は存在しない - 伝統

2017/12/12 (Tue) 04:18:13


        *「第二青年の書」第四章 より

物質というものは、それを細かく割れば分子となり、
更に割れば原子となり、原子を更に割れば電子とか陽子とか中性子とか
いうような素粒子となる。その素粒子も又消えてしまう。

そして終いに眞空になってしまうのです。

最近の物理学の研究によりますと、素粒子の中には
一億分の二秒しか存在しないというような、
極く僅かな時間だけパッと姿を現して消えてしまうようなものもある。

一秒間でも存在するというのだったら大したものだけれど、
一秒の一億分の二しか存在しないというような、
そんな素粒子は、パッと現れたかと思うと、もうすぐ消えて無くなっているのです。

結局「無い」のです。
その「無い」もの(素粒子)が集まって、
色々の姿を現しているのが物質だというのですから、
物質なんてものは實在しないということがわかるのです。


《神のみが實在する》       

併し「無いもの」なら、その中から「素粒子」も生まれて来る筈がない
という事になるわけであります。
だから何らかが「無」の奥になければならない。

そこで「物質はない」のだけれど、その「無いもの」を現しめるところの
何らかの「不可思議な力」が宇宙にあると認めざるを得ないのです。

物質は無いが、その無い物質をあるかの如く現わしめるところの
「不思議な力」がある、それは非物質の不思議な力でありますから、
「霊的力」であるというわけでありまして、
それが宗教家の説く神にあたるのであります。

神が一切の原因者で神一元であります。

私たちのようなこういう人間の姿が現われているのは
以上述べました通り宇宙に充ち満ちているところの「不可思議な力」が、
この様に現わしているのであって、

この人体の内部に「生命」として働いているのは、
その「不可思議な力」そのものであるのであります。

その「不可思議な力」が人間そのものでありまして、
肉体はその顕現(あらわれ)にすぎないのであります。


 (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943 より転写
         日時:2017年11月26日 (日) 10時08分名前:平賀玄米)

           <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>

《「霊的実在」の誤訳》 - 伝統

2017/12/31 (Sun) 04:26:12


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P274)より

「物質」は本来物質ではなく「霊的実在」なる本来の存在を、
吾々の「五官の心」が「物質」として翻訳して見せていてくれるものなのである。

それは翻訳と云うよりは誤訳と云う方が正しいのである。
本来自由自在なる「霊」を、不自由不完全なる物質と謂う「固定的な姿」に
翻訳したのであるから全く誤訳も甚だしいのである。


吾々は「霊的実在の世界」に於ける「健康なる生命(せいめい)の実相」や、
融通無碍なる「経済状態の実相」を見ることなしに、病気を見、物質の乏しきを見、
欲念を起こして奪い合いをし、戦争や闘争を繰り返しているのである。

これは人間が「智慧の樹の実」をたべた結果、「妄心(もうしん)」を起こして、
この世界を物質だと見、奪い合いをするほかには裕かになる道はないと錯覚した
錯誤観念の上に「妄想」を描いている結果である。

奪い合いをすれば裕かなものも却って乏しくなる。

           <感謝合掌 平成29年12月31日 頓首再拝>

物質は無いが、《霊のみある》 - 伝統

2018/04/02 (Mon) 03:21:22


           *「光明道中記」(4月2日 霊的世界を悟る日)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                 (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態を
あらわしているところの「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

           <感謝合掌 平成30年4月2日 頓首再拝>

物質という「固定せる《もの》」は一つもない - 伝統

2018/04/03 (Tue) 04:25:20


       *「光明道中記」(4月3日 動的天地の実相を知る日)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                         『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― 
この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く
考えられ易いのであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような
固定したものではなく運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 平成30年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相(すがた)はない - 伝統

2018/04/04 (Wed) 03:35:46


        *「光明道中記」(4月4日 顛倒妄想を去る日)より

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。言い換えれば、物とは「心の塊」である。
                          (『生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。
しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

吾々は近づくに従って富士山の相が変わって来るように、
吾々の肉体も巨視的から微視的へと次第に近づいて行くに従って
その相が変ってくる。

吾々はズッと近づいて普通に見える何十倍の大きさに見る視力を有てば、
どんな美人も孔(あな)だらけの羽毛(はね)を抜いた
裸の闘鶏(しゃも)よりも醜しい。

もっと拡大的な千倍、万倍に見えるレンズ的な眼球の水晶体をもっていたら、
吾々はもう人間の体を見出すことができない。

「人体」と見えるものは、自分に都合よい位置から視て、
勝手に「こんな形のものだ」ときめているに過ぎない。

「自分に都合のよい」とは心が定(き)めるのである。

           <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

物質は、「生ける実体」の顕われ - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:21:06


        *「光明道中記」(4月10日 幸福相(あい)踵(つ)いで来る日)より

【心に罪を背負っていては、罪から逃れることは出来ぬ。(『生命の實相』第十二巻)】


「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。
併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、三次元的に翻訳して
視ているのであるが、半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

無限次元的な存在であるところの「生ける完全なる実体」をば縦横厚みだけの
三次元的物質相に映し直し、翻訳し直しただけでは、それは無限次元が三次元に
減ぜられただけであって、不幸も病気も災難も起こらないのである。

それは恰(あたか)も、立体的存在としての肉体が、平面的存在の如く写真に写されて
いるからとて、その写真には健康者は健康として写っていると同様である。

ところが撮影又は現像の過程に不始末が起り、間違が起るならば其処に映し出された写真に
映像ムラが出来たり、ドギツイ現像になったり、半分消えて了っていたり・・・・
色いろの不完全さがあらわれる。

無次元的存在であるところの「実相人間」が現象界に三次元的存在として写象(うつしだ)
された場合に不完全さが時として現れるのはこの原理である。

しかし「本当の人間」は決して病んではいないのである。

           <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

「物質なし」とは、一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝 - 伝統

2018/04/30 (Mon) 04:48:47


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月30日 頓首再拝>

物質は、霊が自己表現の道具として創造したところのものである - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:40:44


     *「光明法語」(8月13日の法語 霊と物質との関係)より

物質は、霊が自己表現の道具として、自己を制約する「自己限定」のものとして
創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

            <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝>

《神のみを拝し神のみに仕えよ》 - 伝統

2018/09/02 (Sun) 03:03:40


        *『人生の秘訣365章』第7篇(P179) より

神と異なるものに信頼をおいてはならないのである。
神のみが實在である。
實在でないものを信頼してはならないのである。

神は物質ではないから、物質の富に信頼してはならないのである。
物質の富を軽んぜよという意味ではない。
影は影として、その本来の位置に於いてそれを尊重しなければならない。

物質が神の愛の顕現であり、隣人の愛行又は労苦によってあらわれたものである
と知るならば“物質”そのものを礼拝するという意味ではなく、その背後にある
“神の愛”及び衆生の愛を礼拝して、

“神の愛”という目的のために、それを使うようにすべきであって、
“物質”そのものを把んで放さないというようなことがあってはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2018/09/18 (Tue) 04:21:14


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 平成30年9月18日 頓首再拝>

物質からは生命は生れない - 伝統

2018/10/05 (Fri) 04:50:03


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月5日 霊に生きる日)より


【物質からは生命は生れない。生命を生むものは生命のみである。
                 (『生命の實相』第十一巻)】

物質文明は形骸(かげ)の文明であるから、物質文明のみを尊重して、
物質文明”のみ”で威力を示そうとするとき、それが霊の権威を失うとき、
物質文明はただ破壊力のみを揮うことになる。

物質は霊を失うときその自然の傾向が「破壊」と「分解」とにあるのは、
霊を失った肉体が自然に腐敗分解し自己破壊を遂げる事実を見ても判る。

物質とは本来建設的威力なきものである。

物質の優強を以て威力を示そうとする者はその破壊的威力によってみずからも、
その破壊的威力の前に多くの骸骨(されこうべ)を晒さねばならぬ。
物質文明の威力とは骸骨(されこうべ)の威力である。
骸骨は初めから人殺しであり、物質は初めから人殺しである。

最初は神を求めていた人が、神を求めたその結果、物質が豊かに整ってくると、
隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望み、今度は物質がもっと欲しくなり、
その時には神を忘れて了い、その結果失敗すると、
「あんな神はもう効かぬ」などと云う実例が往々ある。

病気の時にもよく似た例がある。
最初神をもとめて健康になると、その健康を何に使うか、全然
神とは似もつかぬ利己主義のことに使って不健康となり、
「生長の家に入ったら最初は病気が治ったが今は効かぬ」と不平を言う。

恐るべし。

           <感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>

大乗仏教の神髄 - 伝統

2018/10/21 (Sun) 04:09:39

          *『生命の實相』第一巻實相篇(P98)より

物質は無い! 

何という大胆きわまる宣言でありましょう。

しかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、
この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由がえられ、
自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。

釈迦は三千年前にすでにこの真理を明らかにせられた。

「物質は無い! 」 色即是空だ。

大乗仏教の経文の中心となっているのは、
この五字の真理につきるといってもよいのであります。

           <感謝合掌 平成30年10月21日 頓首再拝>

「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」 - 伝統

2018/10/23 (Tue) 04:51:26


       *「光明道中記」(10月23日 妙有を悟る日)より

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。(『生命の實相』第四巻)】


真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、
結局その念の支持力によって病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、
「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」とハッキリ「無し」と「有り」とを
裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く

「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 平成30年10月23日 頓首再拝>

物質は無いが、《霊のみある》 - 伝統

2019/04/02 (Tue) 04:25:26


         *「光明道中記」(4月2日 霊的世界を悟る日)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。
                     (『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、
エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、「無」であるが故に、
「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して
吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに
何故(なぜ)色々の様式をあらわすのであろうか。

それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、
ただ霊的波動を、吾々が仮に静止面空間に置き直して、
物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

           <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

物質という「固定せる《もの》」は一つもない - 伝統

2019/04/03 (Wed) 02:54:12


       *「光明道中記」(4月3日 動的天地の実相を知る日)より

【物質を有(あ)るとする迷いより貪欲、快楽主義、傲慢の3つの罪が生まれる。
                         『生命の實相』第七巻)】

「物資は無い」「肉体は無い」―― 

この言葉が奇矯に聞えてどうも充分呑み込めないと云う人は、
「固定せる《もの》」は一つもないと云う考えと置き換えたならば
却(かえ)って判るかも知れないのである。

「物質」と云うものは捉えた瞬間、もう次のものに変化しているのである。
元の儘ではないのである。

その変化の程度が微量であるがために、五官の大《まか》な観察では、
物質は捉える前も捉えてから後も同一のものであるかの如く
考えられ易いのであるが、万物何物も変化しないものはないのである。

最近の量子物理学は、精密なる測定機により物質を捉えようとしたけれども、
その測定機が精密であればある程、「今」如何なる速度で、
その物質(茲では電子)があるのか不明であると云うことが発見されたのだ言う。

大体、物質は今迄の概念(かんがえかた)のような
固定したものではなく運動しているのである。
運動しているものに一定の位置がある筈がないのである。

何万分の一秒の高速度で写真にとって、電子の瞬間的位置が判ったにしても、
それが動いている限り、それは本当はそこに《いない》のである。

ただその動きが微量(きわめてわずか)であるがために、
或る一点の位置を占めるかの如く撮影されるのである。

           <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

物質に本来の相はない。 - 伝統

2019/04/04 (Thu) 02:32:11


       *「光明道中記」(4月4日 顛倒妄想を去る日)より抜粋

【物質は凡(すべ)て心の顕れである。
 言い換えれば、物とは「心の塊」である。
              生命の實相』第九巻)】

吾々は「物質」を普遍巨視的(おおまか)に五官で視て、
物質は《ある》と考えるけれども、
遠くから富士山を見て「白扇(はくせん)逆(さかし)まに懸(かか)る」だと
視るのと同じである。

富士山そのものは「白扇逆しまに懸る」でも
「東海の秀峰(しゅうほう)」でもない。
溶岩の凝塊(かたまり)が石灰殻(がら)のようにザクザク堆積しているのだ。

しかし、然(そ)う視えるのもまだまだ富士山の本当の相(すがた)ではない。

富士山の物質を化学室で研究したら、また別の相に富士山は視えるであろう。

物質に本来の相(すがた)はないのである。
また本来の位置もない。
ただそれは或る相対的な位置から見たところの相は斯(こ)う視えると云うに
過ぎないのである。

           <感謝合掌 平成31年4月4日 頓首再拝>

「物質は無い」とは、三次元的な誤訳の否定である - 伝統

2019/04/10 (Wed) 03:45:16


    *「光明道中記」(4月10日 幸福相(あい)踵(つ)いで来る日)より抜粋

「物質は無い」―― とは、
すべて《ある》ものは「物質でなくして生ける実体」であると云う意味であった。

併し、「物質」と見えている其の儘にその「生ける実体」が存在すると云うのではない。

吾々が視ている姿は、半ばは「生ける実体」そのものを物質的に、
三次元的に翻訳して視ているのであるが、
半ばは其の翻訳の途上に誤訳をしていると云うことである。

           <感謝合掌 平成31年4月10日 頓首再拝>

本来「物質」は無い - 伝統

2019/04/26 (Fri) 04:55:13


        *「生命の實相」第13巻倫理篇(P132)より

だいたい「物」からわれわれの生命(せいめい)の歓びが得られる
ということはまちがいなのであります。

「生長の家」では、本来「物質」は無いということを
各方面から証明しているのでありますが、その〝無い〟物質から
生命の歓(よろこ)びが得られるはずはないのであります。

本当の歓びは「無い物質」に心を捉(とら)えられなくなったとき、
ただ大生命からのみ得(え)られる。

大生命の恩寵(みたまさきはえ)が影を映(うつ)して、
現象界に「物」の無限流通となってあらわれる。

それを知るが故に「物」無限に〝あり〟ながら、
〝あり〟とも思わず、〝無し〟とも思わず、
用(よう)に従い、時に従い、使用するに従い また無限に循環する
 ―― これが 実相本源の神に結びついた経済生活なのであります。

だから「 生長の家倫理学 」 では、「 物 」の存在に引っかかって
人間の創造力を枯渇(こかつ)せしめるような出し惜しみなどをば
美徳とは認めないのでありまして、

そういうふうな形には捉われないので、創造の無限、供給の無限  ―― の実相、
「 与えれば与えられる 」「 生命力は出せば それが富にかわる 」という
真理を悟った上で、形の上では千変万化(せんぺんばんか)して来るのであります。

           <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>

「物質なし」とは、背後の理念を掴ましめんがための喝 - 伝統

2019/04/30 (Tue) 04:35:42


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」の教えが
生きてくるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

霊と物質との関係 - 伝統

2019/08/13 (Tue) 04:45:13


         *「光明法語」(8月13日)より

物質は、霊が自己表現の道具として、
自己を制約する「自己限定」のものとして創造したところのものである。

物質科学の進歩は、それ故に、一面霊の進歩を退歩せしめる。
物質科学に依存する事によって人々は霊感を失い、
直感や予知能力を失いつつあるのは事実である。

併し一面、霊は物質を通して自己を表現しつつあるのである。

人体は無論のこと、一枚の木の葉、一葉の草の葉、一片の花びらに到るまで、
霊は物質を通して自己の美と秩序と生命と智慧とを表現する。

            <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2019/09/18 (Wed) 04:13:44


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>

物質”なし”、ただ妙有のみ”あり” - 伝統

2019/10/23 (Wed) 04:19:44


       *「光明道中記」(10月23日《妙有を悟る日》)より 

【本当の美はそこに生命が生きていると云うことである。
                  (『生命の實相』第四巻)】

真空妙有と云うとこれ又中々偉そうな仏教哲学の言葉であるが、
この偉そうな語(ことば)が人々を誤らせて真空と云うものが妙有である
と考えしめられている仏教研究者に度々逢ったことがある。

つまり物質は無い、こんな形をしていると云う物質は無いけれども、
物質を形成している本体たるエーテルの如き、斬れども斬れぬ実体は有るのだ。

そのエーテルの如き妙なる実有(じつう)の顕れが「物質」であるから、
物質があるが儘にそれは真空であるとするのである。

併しこの観方では、本体の顕れが直に物質となるがために、
或る物質的形態をもったところの「病気の腐爛せる肉体」の如きものを
本体の顕現(あらわれ)であると認めることになり、

病気(その他の不完全相)も本体があらわしているのだ、
病気の実在性を強調することになり、結局その念の支持力によって
病気が何時までも消えないことになるである。

それは物質的不完全形態をそのまま妙有のあらわれと見ないで、

「物質”なし”、ただ妙有のみ”あり”」

とハッキリ「無し」と「有り」とを裁断したところにあるのであって、

「病気は?」 答えて曰く
「有に非ず、空に非ず、亦有でもあり、亦空でもある」などでは病気は消えぬ。

           <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

物質は無いが、《霊のみある》 - 伝統

2020/04/02 (Thu) 04:56:19


        *「光明道中記」(4月2日《霊的世界を悟る日》)より

【心の世界は時間を超越しコトバと同時に一切が成就する。(『生命の實相』第一巻)】

一(はじめ)に「無(む)」ありではない。
「無」が究極的存在ではない。
「無」は「無」であり、「《無い》」のである。

物質の究極的原始的存在はエーテルであり、エーテルは新興物理学の教うる処に従えば、
「無」であるが故に、「無」によって構成されたる色々の形態をあらわしているところの
「物質」は無いのである。

それ故に「物質」を称して吾々は「無」の色々の様式(Forms of Nothingness)と呼ぶ。

併し、「無」自身は無力でなければならないのに何故(なぜ)色々の様式をあらわすので
あろうか。それは斯くあらわしめるところの内在の言(ことば)―― 神 ――
生命(いのち)―― 霊的波動 ―― によるのである。

「物質」は本来無いとすると、「物質」と見えているものは、ただ霊的波動を、
吾々が仮に静止面空間に置き直して、物質としてそれを翻訳して感じているに過ぎない。

だから「物質」は無いと云うことは何もないと云うことではない。
「物質は無いが、《霊のみある》」である。
固定せる静止的物質と吾々が見たのは間違であったと云うことである。

万事万物ただ「霊」のみである。
肉体も外界の一切の事象も悉く皆「霊」の波であると云うことである。

           <感謝合掌 令和2年4月2日 頓首再拝>

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