伝統板・第二

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谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉⑤ - 夕刻版

2016/04/01 (Fri) 19:44:43

咽喉元すぎて熱さを忘れてはいかぬ

          *『真理』第10巻 實相篇 より 
 

生長の家に入って、一度正しい物の考え方になり、病気が治り、家庭が調和し、
人生が楽しくなったからとて、信仰に入ってから後いつの間にか、

心がなまけ、聖典を読まず、神誌を読まず、神想観せず、外界から入って来る不健全な
病的暗示に晒されて、いつの間にか其の人の潜在意識に病的観念がみたされるようになると、
元の黙阿弥になってしまって、運命が逆転することが往々ある。

何しろ、近頃のラジオの商業広告や、新聞広告の中には“病気”の存在を暗示して、
「人間は此の薬に頼らなければ決して健康にはなれないぞ」 と云うような観念を
植えつけるものがザラにあるからである。

人間が薬剤の前に跪いて、その憐れみを乞わなければならないような
心的状態になったならば、既に其の心が病気なのである。

 
だから私たちは常に毎日わずかづつでも 

『生命の實相』 を読んで 「自分は神の子である」 

と云う自覚を深めなければならぬ。

         (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19637630.html より転写)

         
<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(2)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(3)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070


          <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

『生命の實相』 と醍醐海軍中将 - 伝統

2016/04/04 (Mon) 19:16:49


           *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-08-09)より
                ~生長の家神奈川県教化部  大村 忠男

数年前、私は海軍通信学校の戦没した同期生の消息を調べるため 
『日本海軍潜水艦史』 という本を借りていた。 
或る日、何気なく本の真中あたりを開いた。 

思いもかけず、そこに 『生命の實相』 の文字があり、次のようなことが書かれていた。

最後の第6艦隊司令長官だった正三位勲一等侯爵・醍醐忠重海軍中将は、
昭和18年頃ボルネオのバリックパパンの第22特別根拠地隊司令官として在任中、
ポンチャナックで起きたトラブルに対し、最高指揮官としての責任を問われ、
オランダの戦犯として昭和22年12月6日現地で処刑された。

中将は処刑前日に書いた次の手紙以外、一切書いた物を残されなかった。

『皆様長い事お世話になりまして有難う。 9月22日約3時間の裁判があり、
10月3日約5分間で判決、死刑の宣告を受け、12月6日午前8時 〈当地の地方時間〉 
死刑執行の旨、昨12月4日午前申渡されました。

別段心乱れることもなく、案外平常と異ならず誠に有難く思って居ります。 
嘆願書 〈松平長芳、黒田長久夫妻、忠直、忠久、顕子〉 誠に有難う。 
感涙にむせび拝読しました。 松田、延谷両君のも読みました。 
御序の時よろしくお礼を願います。

 
刑務所で友人から 「生命の實相」 なる書籍9冊の内4冊を読み
大変教えられる所多く誠によい本ですから是非皆様も読むようおすすめします。 
赤坂檜町5、光明思想普及会発行、谷口雅春著で 「生長の家」 なる宗教であり、
道徳であり、教育法であり、大変解り易く書き、然も思想は片寄らず、良書です。

手紙はこれ以上書きませんから、親戚知人へその旨御序の折御伝え下さい。

何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれたし、私も霊界より、
又何遍も生れかわり、日本再建に力を注ぐつもりです。

私の部下の戦死者遺族達のことも心に留められたし。

 12月5日         醍 醐 忠 重  』



陸軍現地最高指揮官として同じ監獄で生活し、後処刑された海野馬一陸軍少佐は、
当時の思い出を秘かに 『生命の實相』 の行間に針穴で綴っていた。


 『12月5日

 昨日醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。 閣下は平然としておられる。 実に立派なものだ。 
 1、2日の内に死んで行く人とは思えぬ位に ・・・ 


 『12月6日

 海軍中将閣下銃殺さる。 余りにも憐れな御最後だったが、併し立派な死だった。

 国歌を唱い、陛下の万歳を三唱し斃られらた。 その声我が胸に沁む。 
 ・・・ 閣下は私が貸した 「生命の實相」 をよくお読みになり、死の前日その礼を申された。 
 閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。

       海 野 馬 一   合掌  』


中将は刻々迫る人為的 「死」 に対し、何ら動揺することなく、全く平常心であり、
軍人としての職務上から来る安心立命の境地から、もっともっと深い 「生長の家」 の 
「人間・神の子」 の根本真理を悟られ、久遠の生命を生きておられるのだと拝察する。

 
既に何処か 「生長の家」 の家庭に生れかわっておられるのかも知れない。 
それとも尊い犠牲となられた中将の霊魂は、一層高い霊界に進まれて
日本を導き守っておられるのかもしれない。

『生命の實相』 の尊い御教を一人でも多くの方に知って頂きたいと紹介したわけである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/909f9fba1dc8459f598a5d1b2aaeabab より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月4日 頓首再拝>

神癒祈願部で活躍する高級霊 - 伝統

2016/04/06 (Wed) 19:44:53


           *『光の泉』誌(昭和38年4月号) より

肉体を構成している物質は最初は精神という動力によって一定の方向に動いて、
肉体を健康にしたり、病気にしたりしていますが、その病気にしていた精神 〈心の持方〉 を
抜いてしまっても、その後、ある期間は惰力でやはり同じ方向に働いているのです。

それだから吾々の内臓に行われている病的傾向も、最初は自分の心の憎しみや怒りが
動力になって生じたものであっても、その後、憎しみや怒りを棄てても、
惰力が働いて居るから、一遍には良くなる方向には向わないことがあります。

その場合、人間だけの反省や努力によって、簡単に自分の家庭が良くなったというだけでは、
治らん時があるのでありまして、それを治すには、神からの癒しの霊波を直接受け、
神様からつかわされたところの高級霊に援けて貰うことが必要なのであります。

その為に 聖経『甘露の法雨』 の読誦をお勧めしているのであります。 

『甘露の法雨』 を読誦しますと、『甘露の法雨』 の言葉のリズムに乗って、
生長の家の人類光明化運動に携わって居られる所の観世音菩薩をはじめ、
霊界の諸々の天使・高級霊たちのうちに病気治しに特に優れていられる霊がやって来て、
他力的に癒してくれることになるのです。

 
霊界の諸霊のうちには天分に従って色々の働きをしているのがあるのです。 
皆さんは私の訳した 『霊界の妻は語る』という本をお読みになったと思いますが、

あの中に 「霊界に逝った自分の妻」 が、今は病気治しに非常に興味を持っている
高級霊の 「ランニング・ウォター」 〈流れる水〉 と自称せる高級霊が、
しきりに病気治しに懸命になっている。

霊媒的な霊的能力をもった人間が患者に思念したり、触手したりして治すようですけれども、
実は、その人間は一つのラジオ・セットのアンテナ的な媒介になっているのであって、
そこに実際、神癒力となって働いているのは高級霊の中の病気治しに非常に優れたる霊魂が
来ているのであります。

そのような高級霊は一つの目的をもっている。 

即ちこの人を治したならばこの人は将来人類光明化運動の為に、働きになる人だから
治さねばいかんというわけで、吾々の本部の講師とか地方講師とか、神癒祈願部の職員とかを
仲立ちとして霊界から派遣された高級霊が治すわけであります。


高級霊の上には宇宙普遍の霊があります。 
即ち 「宇宙を貫く法則、真理、光明、智慧、絶対の愛」 と 『聖経』 に示されている
ところの宇宙本源の神様の御心の人格的顕現としてのミカエル大天使、或は観世音菩薩、
或は住吉大神と称せられる方を総帥として、
その下に無数の霊 〈英語ではスピリット〉 が配属されて居るのです。 

その中には色々の役目があり、教をするのが上手な霊もあれば、
病気を治すのが上手な霊もいるし、色々の天分ある高級霊があるのであります。

それらの高級霊のうち特に優れたる病気治しの力を持っている霊魂が、
神癒祈願部に於ける先生がたや講師のうち、特に治病に興味をもつ講師を助けて
病気を治しているわけなんです。

それによって肝臓癌でも、膵臓癌でも、もう医者が駄目だと言って試みに開腹してみたが
手術の仕様がないので、そのまま縫い合わしてしまったような重症の患者も癒されたと言って、
講習会の席上その奇蹟の体験をお話しになる方も現れて来るわけであります。


こんな奇蹟があらわれるのは、霊というものは物質を超えた存在であるからであります。 

例えば幽霊というような 「迷っている霊」 でさえも、幽霊を恐ろしがって、
部屋にとじ籠って、ネジ釘で一所懸命に鍵をかけ、その上、蚊帳を釣ってその中に隠れて居ても、
その蚊帳の中へでも、ドロドロと入って来ることができるのですから、
高級霊は肺臓の中へでも膵臓の中へでも這入ってそこを修繕することができるのです。

 
霊というのは、三次元の縦・横・厚みの隔壁(しきり)以上の世界に住んで居りますから、
物質的な縦・横・厚みのひろがりの世界に入口がなくとも、肺臓の中でも膵臓の中でも腸の中でも
自由に入って来て、そこを治してくれるということになって居るのであります。

まあそういうわけで、あの時の福岡の講習会では肝臓癌、膵臓癌というような
絶対に治らんものが治ったという素晴しい体験の発表者が出たわけであります。 

又、渡辺さんという方は坐骨神経痛が治ったという体験を発表されましたが、こ
れは生長の家本部の神癒祈願部に申し込んだら治ったという話でありました。


《神癒祈願部ではこうして祈る》 

神癒祈願部では、どのようにして病気の治癒を祈るかといいますと、
先ず “人型” にその人の住所姓名と病名を書き、神癒係の職員がそれを掌の中に挿んで合掌し、
その人と一体感になります。 

そして神想観をその人に対して20分間厳修するのであります。 
そしてその神想観中に本来病気‘なき’ところの“神の子”の姿をジィーッと念ずるのであります。 
その念ずる言葉を本部では、 『神癒への道』 に示されているように念じているのであります。


あの本には病気を治す時にはこのように念じなさいということが詳しく書かれておりますから、
皆さんも、そのようにおやりになりますと病気が治るのでありますが、

「自分の念力」 だけに頼っておりますと、過去の 「迷いの念」 の惰力に 
「自分の念力」 だけでは打勝てないことがありますので、必ず 招神歌 を唱えて
神霊の降臨をお願いして神想観をせられることが必要であります。


生長の家本部では 服部仁郎先生 を神癒祈願部の部長として、
その下に 西岡茂泰先生、井上如水先生 など、真剣に人類愛に燃えた人々が祈っています。

服部先生が病気中に服部先生に手紙を書くだけで治った人もある。 
これで人間自身が治すのではない、神 〈高級霊を含む〉 が治すのだということが判る。 

またあの井上如水先生は真心の人で、信心強く朝から晩までズーッと祈って居られる。 
生長の家では断食水行のような苦行はいらぬという事になっているのに、
井上先生は人類愛が深い為に、体を清めて、神癒の媒介に純粋になれるようにと、
3週間も断食水行せられたということもききました。


このような神剣な祈りというものが一つの媒介になりまして、
そして祈願に従って適当な霊がつかわされるわけです。 

そして病的精神波動によって色々の病気が起っているのを、
その病的な波を破砕するということになるのであります。

そういうように病気が、忽然と神癒祈願によって治るというような奇蹟が出て来るのは
高級霊の加護が加わるからであります。

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b219f02db36d8908f720c45d9e0fabd2 より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月6日 頓首再拝>

ホンモノを知らないからニセモノが解らない - 伝統

2016/04/08 (Fri) 20:40:48


            *Web:『生命の實相』哲學に学ぶ(2015/7/3)
                 ~生長の家富士河口湖練成道場総務 鹿沼 景揚

神の子の実相が現実にあらわれてくる上に、重要なプログラムがあります。 
それは、実相界の秩序を完全に理解し、それを現実の人生にあらわす実行をすることです。

第一は、中心帰一です。 特に父母への感謝、先祖への感謝。

第二は、陰陽の調和です。 夫婦が徹底して仲よくすること。

第三は、創造の原理です。 赤ちゃんが生れることへの感謝、
             流産児があれば、これに対する徹底供養をすることです。

以上の三点は『古事記』神話の冒頭にでてくる神の名によって示される
宇宙の法則が家庭教育に示されたものです。

多くの人たちは、何が「ほんとうの幸福か」ということがわからないことでしょう。
 
病気の人は体が丈夫になったら幸福になれると思う。 
貧乏な人は、金さえあったら幸福になれると思う、 
夫婦の争い、子供の反抗などで困っている人はそれさえ解決すれば幸福になれると思う。 

しかしながら、それらが解決すると数ヶ月は幸福感はあるが、
それが過ぎるとまたまた不幸になってゆく。

結局、肉体や富や ・・・ そういう物質の上の幸福は
ほんとうに長続きする幸福ではないとわかります。 
本当の幸福は現象の奥にあるホンモノ ・・・ 実相がわかるということに尽きるのです。


ホンモノ(実相)をつかめば、健康も富も、家庭のよろこびも、社会的な地位も名誉も、
あとからぞろぞろついてくることになるのです。 
子供の教育も、この実相の把握が肝心です。

昔、シナの商人は、ホンモノの金貨とニセモノの金貨を識別し得るか否かで、
成功するか否かがきまったということです。 
ホンモノとニセモノをどうしたら区別する力ができるか。

ホンモノとニセモノの二つの金貨を投げて、その音のちがいで区別するのですが、
交互にホンモノとニセモノの音を比較して区別しようとしていると、
何万回練習しても区別する力がつかないのです。

どうすればよいかと言えば、何千回、何万回となくホンモノの金貨の音だけを聞けばよいのです。 
そうしてからニセモノの音をきくと、一ぺんでピシャリと区別できるようになるのです。

教育の原理と方法もここにあります。 
たえずホンモノを観る。 それは 『生命の實相』 全40巻 を繰返し読む。 
他の本をしばらく読まない。 そして、神想観によって実相を観ずる練習に徹する。 
そうすると、ほんとうに教育の真髄が骨のシンにまでしみこみます。

ここが大切であります。 『生命の實相』 と神想観に徹しないで、比較検討している間は、
どうしてもホンモノの教育者にはなれないのであります。


今、練成道場のスローガンとして毎日朗唱しているのが
 
 一。 私は神の子です。 あなたも神の子です。 
    使命をもって生れてきました。 日本の国のお役に立ちます。

 二。 生命の実相の自性円満を自覚すれば大生命の癒力が働いて神癒となります。


生きることがたのしい、生き甲斐があること、それが幸福生活の基盤です。 
そのもとにあるのが人間観です。 神の子の大自覚があって使命感がある。 

そして自分の個の‘いのち’が、国の‘いのち’にまで拡大するようになると、
本当に幸福になるのです。

ゆたかな物質生活に飽いた人達がほんとうに求めていたものはこれだ
  ―  それを与えるのが生長の家の正しい人間観であり、
正しい生活法であり、正しい教育法であります。

                  昭和62年1月  

       (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19411857.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>

真に日本國を愛する日本人であることを欲する - 伝統

2016/04/13 (Wed) 20:44:30


          *『我ら日本人として』(はしがき) より
 

利己主義者は自分で自由に振舞って生活しているようで、実は非常に孤独である。 
自己を主張するだけで誰とも本当に一緒にいのちを融け合わして生活することができないからである。 
誰も魂の底から自分について来ないし、自分も誰にも魂の底からついて行かないからである。

自己愛と云うものは結局無限の淋しさにおそわれることになるのである。 
人間は決して自己愛だけで真に幸福な生活を送ることはできない。 
私たちが本当に生きるためには、私たちは自分の生命をしずかに見詰めて、
その生命が何処から来たものであるかを知らなければならない。


自分の生命は父母にこれをうけ、父母の生命は祖先にこれをうけた。 
その祖先が此の日本國を建てたのである。 
この日本國には祖先の生命がそそがれている。 

その日本國に私たちは生を享けたのである。 
祖先がなく、日本國がなかったならば私たちは無いのである。 
私たちの生命はそれゆえ、私たちの祖先の生命と切りはなすことはできないし、
日本國からも切りはなすことはできない。

私たちは日本人であるほかはないのである。 
日本人にとって日本國は、自分の生命が現実的には肉体から切り離すことができないのと同じ程度に、
切り離しがたき “魂の住む郷里(ふるさと)” である。 

私たちは自分の肉体がたとい今如何なる健康状態であろうとも、
自分自身を愛せずにいられないのと同じように、
私たちは、戦後の日本國が如何なる状態をしておろうとも、日本國を愛せずにはいられないのである。

「いまの日本國の現状が愛するに値する有様でないから日本國を愛することが出来ない」 
と云う人が往々あるけれども、 「愛する」 とは、美しい間だけは可愛いがって、
醜くくなったら嫌いになるような遊冶郎の “まこと” ではないのである。 

「愛する」 とは、自分の妻が美しい間も、病んで醜くくなっても愛することである。 
そしてその “病い” をなおして更に美しくしたいと意志し、努力する心である。


今の日本國は、「愛するに値するほど美しい」 とは言い得ないかも知れない。 
けれども、日本國が醜くければ醜くいほど、それを愛し育てて理想的な美しいものに
したくてならずにはいられないのが日本人の国民的貞操でなければならない。 

美しい女から美しい女へと愛を遷して行くドン・ファンのように、
愛すべき姿の日本國であるあいだだけ愛して、その愛を他国に遷して行くような人間は
日本人としての国民的貞操がないのである。 

そう云う人間は、日本人の顔をしていても日本人ではないのである。 
私は真に日本國を愛する日本人であることを欲するのである。 
真に日本を愛する愛をもたない人間は結局、人類としても傍観者であるほかはないであろう。


「日本を愛するよりも、先ず人類を愛せよ」 と先覚者ぶって言った人もある。 
しかし人類とは抽象概念であって、どこかの国民でない “人類” なんてものは、
具体的に存在しないのである。 

具体的人間は必ず 「日本人」 であるか 「某国人」 である。 そ
して日本國を清く正しく美しく愛してこれを正しい方向に育てて行くことによってのみ、
日本人は世界の平和に貢献し、人類全体の幸福に寄与することができるのである。


真にその人が “恋人” を愛するならば、
自己の理想を恋人に移入してこれを理想化せずにはいられなであろう。 

そしてその理想化の熱情が高度であればついに現実の醜くさを焼きつくして、
その恋人を理想的な姿にまで変貌してしまうことができるのである。


私はこの恋人の熱情のように日本國を愛し、どんなにまだ現実が 「まだ愛するに足りなく」 とも、
その熱情の焔をもって、現実の醜くさを焼つくして、日本國を理想の美しさにまで
変貌せんとするものである。 

私は日本を愛している間が幸福であり、魂が孤独ではないのである。 
そのために私が書きつづけた文章および折に触れて講演した論策を集めたのが本書である。 

しかし空想を私は述べているのではない。 
我ら日本人として 「國」 を如何に考うべきか、国際的立場を如何に考うべきか、
民主主義と民族主義とは一致するか、国会はどうすべきか、日本の建国の問題、愛国心の問題、
憲法改定の問題、マルキシズムの問題、世界平和の根本的基礎、やがて来る人類の運命等、
刻下の日本人にとって是非しらねばならぬ具体的問題について述べたものである。

若し諸君が日本の前途について真に憂えるところがあり、
日本人として生き甲斐と栄誉を知り、日本の政治や、日本國のあり方を、
少しでも一層よくしたいと思われるならば是非本書を読んで更に熟考して欲しいのである。


 昭和33年1月20日
                             著 者 識 す

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17387410.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

「朝に祈り夕に祈り  ―  師に恥じない者にならねばならない」 - 伝統

2016/04/15 (Fri) 20:06:15

         *『理想世界』(昭和47年5月号)より
         ~生長の家青年会副総裁 谷口 恵美子 先生


その昔、求めに求められてこられた神の御声が青年谷口の純粋なる魂に
そのまま流れ入って、すばらしい神示がつぎつぎとそのペンの先より
迸り出たのでした。 

その詩は、いつの間にか人々の病を癒し、不幸をいやし、遂に 聖経『甘露の法雨』 
と言われて、それを誦げることによって霊魂をも救うことができる数々の実例は、
43年間の記録に書き尽くせないほどになっているのです。

「この道をゆく!」 と若き頃、決意したことを一筋に進まれたとき、
個人の救いのみならず、国の大事をも救い、人類や言葉の違う人達をも、
どんなに多く救ったことでしょう。 

けれども、それは人間一人の力ではなく、常に祈りつづけられる生活の中に
実をむすんだものという他にないと思うのです。

ブラジルに於いて数多くの民族の間に、人間神の子の人類普遍の真理が伝わるやいなや、
地獄のような生活が天国となったという喜びの体験が次々と生まれて来たのでした。 

私達が2年前、サンパウロの総支部へ到着しましたときに、
「神と偕に生くる」 の聖歌を、ポルトガル語の合唱で迎えてくださった歓喜あふれる
外人達のお顔や、その後の数々の体験談を忘れることはできません。

 
「人間神の子」「肉体なし」「病なし」「求むるものは既に与えられている」
「朝起きて神想観をせよ」「夜眠る前に神想観をせよ」「真理の書を毎日読むこと」
「私は神のコトバを伝えるラッパである」等々、
限りないコトバの福音を伝えつつ祈りつつ過して来られたのでした。

 
或る日、青年会にいたという一人の青年から電話がかかってきて
「谷口先生にお会いしたいのです、どうしてもわからないことがあるものですから」

内容を伺うと、気にしなくてもよいようなちょっとしたことですので、

「『生命の實相』 を読まれたら全部答は書いてありますから、
読まれたら何でも解決しますよ」
 
と、申しあげると、40巻と聞いただけでたじたじとされたようでした。

「神想観をなさっていられますか? 」

「やればいいのですが、どうも雑念ばかり起こって ・・・ 」

そこで谷口先生に電話口に出てもらって、てっとり早く質問に答えてもらいたい
という風な調子で、いつまでもしゃべっていられるのです。

 
朝風呂で身を浄め、毎朝住吉神社にお参りしていられた時に、神示を受けて
はじめられた生長の家の御教から祈りを省いて考えることはできないと思うのです。 

祈りは神に泣きつくことでもなく、許しを乞うのでもなく、
神との一体感を深め、神に感謝を捧げるときに、おのずから道が開けてくるのです。

神想観によってはじめられ、神想観によって終わる生活、
そして必ず真理の書を読むようにと教えていられるのです。 

その言葉を実行しないで、インスタントに先生に会いたがる人が時にあるのです。 
そしてお忙しくて面会できませんとお断りをしていますと、

「釈迦や、キリストさえ大衆の前へ出て、直接手をふれられたではありませんか、
何故そのようにしないのですか」
 
と反駁してねばるのです。

私がまだ小学校へ通っていました時には、うちの3間つづきの座敷を開放して、
毎日、お講義や質疑応答や神想観の指導が行なわれておりました。 

それはごく人数が少なかったために行われたことで、百人も超えるとお座敷に溢れ、
庭に立って、とても自宅では集会ができなくなったのでした。

もっと以前住吉村にいました頃は、
ゆっくり一人一人に手を当てて祈ってあげられていたのでした。 

その頃は毎月1冊の 『生長の家』誌 をひとりで発行していられましたが、
今は毎月6誌に原稿を書き、講演旅行に出かけ、単行本の校正をみたり、
本部の書類の裁決、1週間1編の新聞随想 等並の人ではできない分量の仕事を
していられるのです。 

そして間もなく80歳を迎えられるという事も理解しないで、
電話口に出ないということに対して文句をいう人も時たまあるのです。

 
その人の立場に立って考えないということは人生経験の浅い青年には
時にはあり勝ちなことで、すぐに一つのことで善悪の判断をしてしまい、
よく考えないで、‘祈らないで’、右へ行き過ぎたり、左へ行き過ぎたりして
しまうものです。 

丁度幼い児がテレビをみて、「あの人いい人? わるい人?」と聞いて、
いい人を応援しようと思うのと似ていると思うのです。

朝に祈り、夕に祈り、真理の言葉を書きつづけていられる師に従ってゆこうと
決心した人は、その行いをも清く、師に恥じない者とならなければならないと思うのです。

ある時、何かうまくゆかないことがありましたとき、
父は「僕の祈りがたりないのだ」とポツリと言われましたのを忘れることができません。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b274302680ad369fcb81c778f0204e53 より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月15日 頓首再拝>

《あなたの子供に感謝し、子供を讃嘆しなさい》 - 伝統

2016/04/17 (Sun) 19:23:36


         *『白鳩』(昭和40年4月号)より

   あなたは他の人から感謝された時、心の悦びを感ずるであろう。
   そしてその人に何かもっと善き事をしてあげたいと思うであろう。

   また人から讃められたとき心に悦びを感ずるであろう。
   そして、もっと讃められるようなことをしてあげたいと思うであろう。

   では感謝と讃嘆とは相手から「善き事」を引き出すところの鍵である
   ことに気がつかれたに相違ないのである。

   それは神に対しても、子供に対しても同じことである。
   愛は無限であり、子供が親に対する愛も無限である。

   しかし、それらの愛は、或る程度以上は、
   こちらが“感謝と讃嘆の鍵”をもってひらくまでは出て来ない。

   “秘密の筐”は中に収められているのである。

   神に感謝し、神を讃嘆せよ。

   子供に感謝し、子供を讃嘆せよ。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24937360.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

自分は既に悟れりと慢心するな - 伝統

2016/04/19 (Tue) 19:26:22


             *「生長の家」誌24年4月号
               ~ 中島與一

実相は無限力であるからと云って、今現象界に無限力が既にあると慢心して
軽挙妄動するようなことがあると、却って羞を招くのである。

  
「人間神の子無限力」の自覚とは、今の状態はまだ無限力ではないと、
無限の可能性の自覚標準に比較して見て、現在のまだ不完全な状態に満足しない
自己反省がなければならないのである。

易に「その徳を恒にせず、或は之が羞を承く。貞しけれども吝」とあるのはそれである。

実相の徳を恒に現すことが出来ぬ癖に、既に悟れりと偽我慢心する者は羞を受ける。
実相は貞しいけれども、現象は吝(まずしい)のである。


従順がよいと云っても、従順ばかりがよいのではない。

「泥棒をせよ」と云われても、「姦通せよ」と云われても、
何でも素直に従いさえすれば好いなどと従順の徳を誤解してはならないのである。

我々が従順に従わねばならないのは、実相の催しに対して従順に従わねばならないのであって、
現象の誘惑に従順に従っていては、道がくだけるのである。


我々は時には「凡そわがために生命を捨つるものにあらずばわが心にかなはず」と
キリストが激語せられたように、
実相に従うために現象面では激しい否定を行わねばならぬ時もある。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22330786.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

唯物論的人間観では生命の尊重は成立たない - 伝統

2016/04/20 (Wed) 19:15:55


             *『白鳩』(昭和48年9月号 31―32P)より

人間の生命は、どうして尊重しなければならないか、 
その根本はどこにあるかという問題を考えて見たいのであります。


単に、女性の卵子と男性の精子とが結合した、 
その結果、化学的に物質的成分が結合してそれが積み重なって人間の形になった。 

それだけの肉の塊が人間である ――― としたならば、
それを尊重するという根拠は無いということになるのである。 

物質と物質とが化合して、アミノ酸みたいなものが出来て、そのアミノ酸が複雑に結合して
細胞が出来て、その細胞が色々に組み合わされて脳髄みたいなものが出来て、

人間が色々苦しんだり悩んだりしなければならないというのなら、
人類から悲しみや苦しみや悩みを取り去ってやる為に脳髄細胞が働かないようにして
殺して人間細胞の結合を分解させてやればよいということになるのである。


しかしながらそれでは、道徳というものも成り立たないし、
人間の生命尊重ということも成り立たない。 

平和平和、戦争反対、平和運動と称するけれども、単に物質が固まって
脳髄みたいなものが出来たから苦しまねばならないというのだったら、
そういう肉体の機構を破壊することこそ、人間の苦しみ悩みをなくしてしまう
ことになるということになる。

人間が単なる物質分子の結合なら、平和運動とか反戦運動とかいうものは
却って人類の苦しみを引き伸ばしているということになるのであって、
原子爆弾、水素爆弾が世界を覆って全人類が死滅してしまった方が、
もうどこにも悲しみも無いということになって、
却って平和を地上にもたらすところの救の手段となるのである。


こう考えて行けば唯物論的人間観では、生命の尊重ということは無いのであります。 
唯物論を唱えている共産主義的な人々が、平和運動、戦争反対などと言っているのは、
之は頭が悪いためにその矛盾に気がつかないのである。 

もし本当に生命を尊重するのだったら、
この唯物論的人間観を捨てて人間の生命を尊重しなければならない。

まことに人間は、神の生命が地上に顕現して或る使命を果すべく地上に出現してきた
のだということを先ず承認しなければ、生命の尊重という道徳の根拠が失われてしまう
のである。


《人間の地上降誕の意義について》
     
人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。 

この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。 
唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。

指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、
全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。 

だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、言い換えると堕胎する
 ――― 人工妊娠中絶するということは、せっかく神が個性を与えて特殊なる使命を
与えられて神の生命が自己実現して来ようとしているのを中断してしまうことになる。 

それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。

その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、
全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、彼は絶対価値の生命である。 

かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17391382.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

聖経 『天使の言葉』 読誦によって神に出会う - 伝統

2016/04/22 (Fri) 19:28:53


            *Web:『生命の實相』哲學に学ぶ(2015/11/13)より
                 ~日本教文社編集部  別府 正大

聖経読誦運動にいそしんでいらっしゃる皆さんは何と幸せな人たちでしょう。
それは誰れよりも誰れよりも神様に愛されていらっしゃるからでございます。

聖経の御言葉は神の愛のよび声であり、
観世音菩薩の摂取不捨の慈悲のよびかけでございます。

皆さん、お気づきになっていらっしゃいますか。

『天使の言葉』 の冒頭の 「久遠生命の神示」 の第1句に、
霊感にみちみちた啓示の御言葉がございます。

 「吾が臨れるは物のためではない、生命のためである」 と。

 「吾が臨れるは」 の第1句の霊感に私は打ち貫かれるのでございます。

大宇宙生命の御祖神がここに我ら人類に、住吉大神として、
そして観世音菩薩として臨まれているのでございます。

それに、今ここに、あなたにでございます。 
今、ここに私にでございます。

神はあなたのために、そして私のために、全人類のために、
今来り臨まれているのでございます。

この奇蹟を、この感謝をこの感動を心ゆくまで味わってごらんなさいませ。

神が今、あなたに、そして私に臨まれ、『生命の實相』 という不滅の真理を示され、
「我れに従え」とのたまうていられるのでございます。

さあ、皆さん、その大いなる宇宙の大生命なる神の御言葉に
あなたは無条件に、唯、ハイと従いなさいますか。

私達が、この大いなる神の生命(いのち)のひびきに打たれて、
神に従いたい気持が起るとき私たちの宗教生活が始まります。 
魂の目覚めが始まります。

さあ、聖経を静かに読誦されて、1句1句に神のいのちと愛を、
観世音菩薩の慈悲のひびきを体感なさいませ。

そして、あなたに、そして私に臨み給う神に念々に出会いなさいませ。

私達は聖経読誦によって神に出会うのでございます。 
神にじかにふれるのでございます。

何とドラマチックな感動でしょう。

そんな聖経読誦ですもの、どうして怠ることができましょう。

疲れたときほど、行き詰ったときほど、体の調子が悪いときほど、
忙しければ忙しい時ほど聖経読誦にお励みなさいませ。

そのときが聖経読誦行願をするチャンスです。

何故なら、私達が行き詰ったときは、きっと神を忘れた時だからです。

時間がないとおっしゃいますな。

神様と波長が合えば物事の判断は正しくなり、時間の無駄が消え
何事もすらすらと運び何でも順調に行くのです。 
険しきは平かとなるのです。 

忙しい時ほど聖経読誦に励みましょう。

       (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19704568.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月22日 頓首再拝>

宗教は個人だけの救いか、指導者は愛他的な魂を植えつけるよう指導せよ - 伝統

2016/04/24 (Sun) 19:20:23


          *『我ら日本人として』 より


生長の家は、人間を解放する宗教だから決して神罰観念で縛ることがない。

病気も神罰だとはいわないで、自己処罰だから真理を知って自己解放すれば治ると説く。 
だから治された利己主義の人は治ると殆ど皆去って行く。

私たちは最も正直に何らのオドシもなく恐怖心を与えず、
万人が解放される真理を説いているのだから、その誠実さを信じて、
この宗教に属していることを名誉としていつまでもこの運動に協力してほしいと思うのですが、

折角生長の家にお入りになっても、治ると出て行くから年間の統計によりますと、
100人のうち32人しか翌年迄続いておらんという。 
100人のうち68人は利己主義者で、
自分さえ救われたらそれでよいという人になっている。

これでは生長の家は短期大学みたいなものです。 
もっと真理の大学院に入って、更に更に深い真理を悟る。 

そしてこれを国家人類に及ぼして行くというような
愛他的な熱意が燃える人がすくないのが私は非常に残念であると思うんです。

それには指導者側にも、その指導の仕方が、個人利益を得るように教えていて、
愛他的な魂を植えつけるように指導しないところに欠点があると思います。

指導の目標が、病気治しとか個人の魂が永遠に生き通しである
ということだけに止まらないようにしたものと思うのです。

魂の永遠の生き通しは素晴しい真理なんですけれども 
「ああ、私の生命は永遠に生き通しだ。 歓喜無限だ」 と喜んでいるだけでは、
それでおしまいになって、更に他に及ぼすことができない。

人類光明化運動はもっと国家的運動に発展しなければならない。 

日本の国家の再建の哲学をもっている宗教は 
生長の家 と 法華経を説く日蓮上人の宗教だけである。 

私たちはもっと、生長の家を国家再建の運動として、
推し進めなければならないと思います。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19699838.html より転写)         

          <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

神への反逆 - 伝統

2016/04/28 (Thu) 20:06:00


         *『理想世界』誌 昭和48年8月号より
 
無限の個性を内蔵したまう神は、人間を、自己の個性的延長として
他に類例のない特殊な個性を人に与えて、それぞれ異なる使命を遂行する役割を
賦与して地球上に遣わされたのである。


他に類例や類型のあるものなら、その人間的顕現が失われ代用品がる訳だけれども、
類例も類型もない、かけ替えのない生命的顕現をなしているのが各人であるから、
各々の人間は絶対価値ある存在として尊いのである。


胎児の生命も、その 『かけ替えのない生命的顕現』 の途上にあるのであるから、
それを人工中絶によって殺してしまうということは恐るべき 『神への反逆』 という
大罪を犯すものであるのである。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17397838.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

【 私は天皇の実相を直視して 】 - 伝統

2016/05/05 (Thu) 18:26:14


    *『国のいのち 人のいのち-天皇・国家および自己存在の原点』( 17頁~18頁 )より

しかし私は天皇さまを、実相を直視(じきし)して
全知全能の神の御現(おんあら)われであるというように今も考えているのです。

私の考え方は、前述のような日本精神者の方便的言説とは断然違うんです。
弁護のための方便的言説と、実相を直視(じきし)して
真理を説く言説とは異(ちが)うんです。

白狐(びゃっこ)は稲荷(いなり)大神であり白蛇(はくじゃ)は弁天神であるという
ような意味での神だったら、「 人間神の子 」という真理を知っても
人間に内在する無限力を解放することにはならないのです。

「 人間、神の子 」という場合に、“ 全知全能、無限力の神 ”の子であるという、
そういう自覚から出発しなかったら本源に“ 無限力 ”がないから、何も大したことは
ないのであります。

平田篤胤(ひらたあつたね)式に 神というのは、不思議なる働きをするものは、
何もみな神であるというので 白狐(びゃっこ)みたいな獣類(じゅうるい)でも、
蛇のような爬虫類(はちゅうるい)でも皆神であるとして日本人はそれらの動物を
神様として祭っているのだというような考え方で神さまを想像して、
「 人間は神の子である 」と教えられたのでは、“ 神の子 ”というのは
爬虫類や獣(けもの)の子と同類に資格下げされたことになると私は思うのであります。

それですから、この種の神観で、天皇を神として尊敬するという事も
それに類して、白狐(びゃっこ)や白蛇(はくじゃ)大明神と同様に尊敬する
ということに成りかねないのです。

それと違って私が天皇陛下を尊敬するのは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の
御いのちの現われとして尊敬するということであります。

http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13955966.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年5月5日 頓首再拝>

光明の天使群は何を為すべきか - 伝統

2016/05/12 (Thu) 18:19:01


             *『白鳩』(昭和39年8月号 18ー19P)より

『人間には不幸が附きまとうものだ』 とか 
『人間は四百四病の病いの容れ物だ』 とか
云うのは皆、人類意識の中に漂うている想念のうちの暗い部分であります。

吾々 “光明思想家群” はそれらの暗い想念の雲を追い払い、
駆逐して光明を人類にもちきたす天使群だということができるのです。 

あなたも、この箴言をお読みになった限りは、
その暗黒の雲を吹き払う天使群の一員となったわけであります。

常に自己暗示と、神想観と光明語を繰返し唱える誦行 
《聖経読誦や、自己暗示や、実相円満誦行等》 を実践することによって、
暗黒の雲を人類から吹き払い、人類を幸福にしてあげると共に
自分自身も幸福になろうではありませんか。


あなたが、宇宙を浄化し、人類を光明化する天使群の一人だと自覚されたとき、
あなたは天使群の導きを受け、光明への道を歩み始めることになるのです。 

あなたは人類を光明化する天使の一人ですから、
その光栄ある聖使命を遂行しなければなりません。

それは神想観を実修して宇宙に光明の想念を放送し、世界平和の祈りをして、
世界及び人類に平和の想念を放送し、愛行によって光明思想を宣べつたえ、

病人があれば訪問して 『本来人間・神の子にして病なき道理』 を教え、
患者の元気を鼓舞して病床から立ち上らせ、

人工流産の非を説いて毎年三百万の胎児が殺されて闇から闇へ葬り去さられているのを
救うために、人工流産を許している優生保護法改正の運動をすることです。

日本人の大人の生活が、毎年胎児三百万人を殺すことによって、
辛うじて営まれている現状は、まったく文化国家とはいえないで世
界に対しても誠に恥かしい事であります。 

そして 『殺すものは殺される』 という因縁循環の理によって、
不幸が、やがて循環してやってくるということに彼らは気がつかないのです。
              
  (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17412819.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>

テロと自衛力 - 伝統

2016/05/16 (Mon) 18:01:05


         *『生長の家』(昭和59年2月号 巻頭言)より
          ~生長の家副総裁  谷口 清超 先生


自分の気にいらない者を「殺してしまえ」では、この人生は滅茶滅茶になる。 
つまり昔ながらの殺し合いの世界が続いてしまうのである。

折角ベイルートに駐留していた国連監視軍でも、大量虐殺され、
韓国の要人もビルマで虐殺された。 
フィリピンでもアキノ氏が殺され、中米のグレナダでも殺し合いが起る。

これは結局人々が「敵を殺せばよい」と思うからである。 
ところが実は「敵を殺してもダメ」なのである。 

それは蚊を殺したり、害虫を殺したりするようなものとは
ちがうことをよく知らなくてはならない。 

蚊や害虫なら、人間とは対等ではなく、

 「ひょっとすると、蚊の方が正しくて、吾々の方が間違っているのかも」

と考え、蚊に指導権をあけ渡すということはありえないし、
虫たちに「人間を治めてくれ」と政権を譲り渡すことはない。 

 
しかし相手が人間の場合、その相手の方が正しくて、
自分たちの方が間違っているかも知れないのである。

ところがもし一方的に「敵を殺せ」となると、
向うもこちらを敵と思って殺そうとするかも知れない。 

これはどこに間違いがあるかというと、思想や考え方のちがいを認めようとしないからだ。 
色々な人がいて、色々な考えを持ち、信仰をもつ。 

これを正しいと思う考えに変えたり、真理と思う信条に説得して行ってこそ、
この世はよくなっていくのに、それを「殺してしまう」のでは、どうにもならぬ。

「殺し」は「殺し」を生み出すだけで、殺し合いの争いは拡大する一方である。

たしかに一時的には「殺されたらかなわぬから、黙っていよう」という人々も出るかも知れない。 
しかしこうして人々の自由意志や信条が弾圧されると、そこにはもはや自由社会はなく、
地上天国はありえない。 

当然弾圧政治の恐怖時代が訪れてくる。

だから「殺し」を否定しなければならない。 

それには「殺してはいかん」といって分る人ばかりならよいが、分らぬ人もいる。 
その場合は「殺しを防ぐ」方法を考え、防衛する他はないのである。 
これが防衛力であり、自衛力だ。 

もしこれすら「いけない」というなら、「殺害者が勝利する」だけの話である。

国家でいうと、殺しのための強力な武力をもった国だけが、自己主張をして、
「殺戮」をチラつかせながら、他国を制圧する、「そんな国なんかいない」というかも
知れないが、現にテロ事件を起す人々がいる以上、国家的な規模でそれをやる国も
「いない」と断言するわけにはいかないのである。

だから『防衛の力』を持ちながら「殺し合い」ではなく、
話し合い、そして助け合い、ほめ合い、救い合いの世界へと
進んで行かなくてはならないというのである。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19713208.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>     

“法悦” とは何か - 伝統

2016/05/18 (Wed) 18:12:58

 
       *昭和43年7月28日 生長の家本部大道場に於ける御指導(速記録) より

『生命の實相』〈頭注版〉の第35巻102頁にですね、その7行目に、こう書いてあります。

「生長の家ではまず内在せる神というものを 『われわれの内に宿っているところの無限の善さ』 
と定義いたします。 無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさ ―― 
そんな尊いものが、われわれ人間の中には宿っているのであります。 

その無限の善さが少しでも余計出ればわれわれは歓びを感ずる。喜ばすにはおれない。 
そしてさらにその善さを一層余計にあらわしたい、そして遂に無限にまで到達したく希う
ところの、無限に対する要求というものが、わがうちに宿っているのであります」


と書いてありまして、その次の頁の3行目の所には、


「無限を発揮するまでは、それを憧れ求めずにはおられない。 それはなぜであるか? 
それは 『無限なるもの』 が自分のうちにすでに宿っているからです。 
そして、その無限なるもの ―― 無限の善さ、無限の美しさが、われわれの念のレンズを
とおして、意識なり、観念を指導すべく、ある標準を示した場合、これを理想といいます」


という様なことが書いてあります。

 
この “法悦” というものは何処から起って来るかといいますと、
法悦の法というのは、あの 「妙法蓮華経」 の法と同じでありまして宇宙の実相であります。 
実相の中から出て来るところの喜びが、これが “法悦” という意味であります。

それで、その実相の中の無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさとか、
色々数え切れない無数の徳がわれわれの内部に在る。 

それが、少しでも前より余計に発揮された時に、
そこに法悦 ―― 実相から湧き出て来る喜び ―― というものを
感ずるんだということになるのであります。


私がいつも申上げるように、人間には5の根本的願いがあるのであります。 それは 

(1) 認められたい  
(2) 愛されたい  
(3) 褒められたい  
(4) 人のお役に立ちたい  
(5) 自由になりたい  

この5つの願いであります。

この5つの願いが満足された時、人間は本当に生き甲斐を感ずるのであります。 
この5つの願いが閉塞されて了ったら人間は生き甲斐が感じられないでスランプに陥る。
 信仰も衰退して行くことになる訳です。 

そこで折角誌友にしたり、聖使命会員になった人を組織に入れたらですね、
これを認めてあげるということをやらなくちゃいかんのです。

その人達を認めてあげ、褒めてあげ、愛してあげる。 又色々の相談にものってあげる。 
そして、その人が生長の家に入って誌友になったら、本当に世のため人のため
お役に立っているんだという喜びを自覚させるように導いてゆかなければ、
折角誌友になったけれども、なっていることが何の役に立つのかというのでは、
これは継続していかんということになるんです。

 
大は日本国家のためになり、或は優生保護法改正の運動に参加して、
毎年三百万人も殺されている胎児が救われることになるんだというような
偉大な運動に自分は参加しているのだという、
そういう喜びを感ぜしめることが必要であると思うんです。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17408994.htmlより転写

          <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

神の御意志の中に - 伝統

2016/05/23 (Mon) 20:08:34


             *『白鳩』(昭和37年12月号 18ー24P)より 
              ~生長の家白鳩会 初代総裁  谷口 輝子 先生

まことに私たちの生も死も、すべて神の御意志(みこころ)の中にあるのであって、
生れることも、死ぬることも、自分勝手に為すことは許されないことである。 

いと小さい一人の人間をも、私たちは創り出す能力はないし、
一人の老人をも、死に到らしめることは許されないのである。 

一羽の雀を創ることも出来ないし、それを地に堕すことも赦されないのであって、
一切の生きとし生けるものの生命は、すべて神心(みこころ)によって生かされ、
神心によって亡びるのである。

 
最近、催眠薬サリドマイドを服用していた妊婦たちが、畸形児を生むのが多いので、
世界中の服用妊婦たちをふるい上らせていることが各紙に報ぜられている。 

(ここでは中略)

米国のフランセス・O・ケルシー女史は、米連邦食糧薬剤局に医務官として就任したトタンに、
サリドマイドの認可問題にぶつかった。 

動物実験で無害というデーターにも関らず、動物の睡眠に薬効のないことの矛盾を発見し 
「理屈に合わない」 と認可を却下した。 製薬業者や上司の圧迫をはねのけて認可を拒否し、
米国に畸形児出産の悲劇を未然に防いだので、
ケネディ大統領は官吏としての最高の勲章を授与した。 

それは彼女の科学者としての良心的態度として当然のことであるが、
その誠意と勇気とにふさわしい名誉である。


女性は優しいとか、柔かいとかだけでは足りないと私は常に言っていることであるが、
正義に適ったこと、愛に値することのためには、勇気をふるって戦わねば
神心に生きるものとは言われないのである。


さて、ケルシー女史の行為は正しく立派なものであったが、
ここに宗教的見地から大問題にされていることが、
アメリカの一夫人の行為によって起きつつあるのである。

アメリカのアリゾナ州で、テレビのプロデューサーをしているシェリ・フィンクバン夫人は
サリドマイドを愛用していたが、畸形児が生れるという評判を聞いて恐れをなし、
州の裁判所へ堕胎を申請したが、法律上認められないとて却下されてしまった。 

アメリカでは許可されないのなら、妊娠中絶を認めている日本へ渡ろうとしたが
時間の余裕がないので、やむを得ずスウェーデンに飛び、
ストックホルムの病院へすべり込んだ。 

堕胎には理解のある国だと思って行ったが、医療審議会の審議にかけても賛否両論に分れた。 
夫人は 「堕胎するのは、子供をみじめな畸形児として、一生を送らせたくないとの
母親の真情以外にはありません」 と訴えつづけた。

ついに審議会も、 「手術を行わなければ、母親の精神に異常を来す恐れがある」 
として断を下した。 胎児は両親の恐れていたとおり畸形児であったそうである。


このニュースがカトリックの総本山バチカンに入り、
手術の翌日バチカン放送は、夫人の名をあげて痛烈に非難した。 

道義的に言っても、宗教的に言っても、堕胎はまぎれもなく、犯罪である。 
しかも 『合法の仮面』 にかくれて行われたことは、一層遺憾であると云う意見であった。 
バチカンは畸形児の堕胎にさえ痛烈な批判をしている。

 
このバチカン放送に応えてスウェーデンのルーテル教会は 
「われわれは、夫人の行為を是認する。 
何となれば、それは愛の精神によって行われたからである」 と反論している。

もちろん、催眠薬の発売中止は言うまでもない。 
日本でも害毒を知らないので、サリドマイド系の催眠薬を服用していた妊婦が、
畸形児を生んだのがあるそうであるが、まことに気の毒なことに思う。


 
私たち生長の家白鳩会が、堕胎防止運動をはじめてから数年になるが、
近来はこの運動は政府も認め、一般社会でも多くの人が知るようになったので、
私たちは法律の改正の日を楽しみに待っている。 

最近の本部の白鳩会で、わざわざ質問のために近県から上京して来られた中年の一婦人が、

「私は46歳で目下妊娠中でございますが、この歳になって子供を生んだら
将来困ることになるだろうとて、周囲の人たちが口を揃えて中絶をすすめるが、
一番身近な夫が中絶を希望するのが悲しい。 夫に対して、どういう風に祈ったらよいか」  
と言われるのであった。 その婦人は  

「こんなに幸福感に満たされた善い心境の時に妊娠したのだから、
きっと善い子が生れると思うと楽しみに思う ・・・・・ 」  と言って居られた。

そのような幸福な母親の子供は、何人でも生れたらよい。 
神の与え給うた子供であるから、神が必ず老後といえども困らせないで、
立派に子供を養いたまい、成長させて下さるに相違ないのである。 

どんな子供でも、たとい畸形児でも、
神が創りたまい、神が与え給うた “いのち” である。

神は絶対に、生命(いのち)を殺すことを喜び給わないのであり、
殺すことを赦しはなさらないのである。 

神はすべてのものを生かし給うことのみを喜ばれるのである。 
如何なる理由があろうとも神は殺すことを欲したまわないのである。

      (以上  → http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17420745.html)               

白鳩会の堕胎防止運動は、完全なる胎児はもとよりのこと、
畸形児の堕胎をも防止しなければならない。 

みこころによって生れて来る子供たちは、素直にそれを受けて、
その子供を育てることに最善をつくさねばならない。 

神がもし、その畸形の子供を、この世の修行を終えたからとて、
お引取りになろうとされたなら、素直に御手にお返ししたらよい。 

西ドイツの六千人の畸形児の半数は死亡したということは、
神が適当な時にお引取りになったのであろう。 

親たちはひたすらに、みずからの生活を反省し、
サリドマイドを呑まねばならなくなった原因を解消せねばならない。 
そして、ふたたび催眠薬を服用しないですむような心境にならねばならない。


白鳩会の会員たちは、堕胎防止運動だけが仕事でないことは勿論である。 

畸形児を妊娠する以前の多くの婦人たちが、何故に催眠薬を呑まねばならなくなった
のであろうかということを考え、催眠薬を必要としない心境に導くべく、
それらの婦人たちに愛の手を差しのべて上げて欲しい。 

それが先決問題である。 

催眠薬をのまなければ眠れないような人たちは、必ず何か心に悩みがあるものである。 
平常な心の状態、他を愛し、自分を愛し、他の幸福を祈り、自分の幸福を感謝して、
やわらいだ平安な心境であったなら、おのずからすやすやと静かな眠りにつくことが
出来るものである。 

誰からも祝福され、誰をも祝福する人は、
その日その日に安らぎを得ることが出来るものである。


白鳩たちの使命の一つは、人々に平安な眠りをもたらすことである。 
西ドイツだけでも六千人もの母親たちが、畸形児を生んで嘆き悲しんでいるのであるから、
世界中ではどんなに多くの母親たちが苦悩にあえいでいるかわからない。 

不眠の母親たちが、サリドマイド系の催眠薬以外の催眠薬をのんで、
たとい畸形児を生むことをまぬがれたとしても、心の悩みを催眠薬によって一時的に押えたり、
ごまかしたりしただけであるから、永遠の平安は得られないし、
確乎とした幸福の自覚も得られないのである。


催眠薬によって不自然な眠りにつくという生活が毎日つづけられることによって、
その服用者たちの肉体は、次第に除々に害われ行き、悩みはそれに正比例して加わるであろう。 

人間は誰でも、その人に応じて六、七時間眠る人や、三時間ほとを眠る人や、
徹夜しても平気な人などもあるが、それは必要に応じて、おのずから眠りたくなり、
体を横たえたらひとりでに夢の国へ行ってしまうのが自然の姿であるから、
自然に反する行為をしていたなら、結果はよくないのが当然である。


アメリカは、フィンクバン夫人など少数の婦人たちが畸形児を妊娠したであろうけれど、
ケルシー女史の誠意と勇気とによって、大多数の不眠症の妊婦たちは、
畸形児を生むことから救われたのである。


私は世界中の不眠症の人たちが、この世の一切の人と物とに感謝をもち喜びをもって、
心の平安を得られ、安らかな眠りを得られることを祈りたい。

そしてまた、すでに畸形児を抱いて、悲嘆に打ちひしがれている母親たちが、
自分の不幸な精神のゆえに、神に心を向けないで、毒薬に頼ったがために、
愛する我が子を畸形にしてしまったことを懺悔し、心の転換をこころざし、
ひたすらに神との波長を合わせ、

『み心のままになさしめ給え。 愛する哀れな我が子を、最も幸福な在り方にあらしめたまえ。 
我が子の生も死も、御手にゆだねます』

と祈られたがよい。 神様は各自の心境にふさわしく、その子を生かしたまうたり、
引き取りたまうたりされるであろう。


ヘルマン・ヘッセは、あらゆる辱めや苦悩も、神から与えらたものならば喜んで受けると言い、
亡ぼされることも、生かされることも、すべて神のみ手によって為したまえと祈っているが、

私たちの信ずる神は、辱めや苦悩を与えはなさらない神である。 

愛の神は、私たち神の子には、善きものだけを与えたまうのであるから、
私たちは安んじて、一切を神にゆだね、みこころを素直に受けて生きてゆくのが
幸せの道である。

   (以上 → http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17420771.html )


          <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

實相顕現のための手紙 - 伝統

2016/05/28 (Sat) 18:46:27


        *『白鳩』(昭和46年11月号 P12)より
 
    實相と申候ことは神のつくりたまへるその儘の世界のことにて候、

    その實相世界のそのままがあらはるれば、

    すべての人、

    すべてのもの、
 
    諸事ことごとく圓萬に調和した相(すがた)あらはれるものに候へども、

    その實相の完全な相(すがた)は、

    観ずることによつてあらはれるものに候。

    人々、

    おのおの観ずる力の相異により、

    現實には色々の有様にあらはれるものに御在候。


    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17434500.html より転写)
                     
          <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

自由性交を公許した憲法の弊害 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 18:59:54


          *『生長の家』(昭和47年3月号 29P)より

悲しいことに、占領憲法がフリー・セックスを奨励する基礎をつくって 
『婚姻は両セックスの合意‘のみ’に基いて成立し』 と明記したために、
結婚に関連あるあらゆる儀式、家族関係、法律的手続、社会の承認などは 
『両セックスの合意‘のみ’』 の圏外にあるものとして
尊重せられなくなってしまったのである。

つまりこの憲法では 『相互のセックスの結合満足』 のみが最高の基本人権であり、
『相互のセックスの結合満足』 そのものが既に 『婚姻の本質』 であるという意味を
露骨に提示しているのであり、

この観念にもとづいて姦通罪は廃されて姦通の自由が公許された訳で、
同時に良人に反(そむ)いて他の男を愛するようになっても、それは法廷で堂々と 
“離婚の自由” が主張できることになっている。 

そして妻子ある男と内証でセックスを楽しむことも、
良人ある人妻と内証でセックスを楽しむことも、どちらも自由である。 

そのような結果、妻子ある男と性関係を結んで妊娠した場合、
その男に社会的に地位があり、現在ではまだ、そのような性関係があることが
社会に知られると、その男の社会的名誉を傷つけるおそれがあるので、
その男の名誉を守ってやるために、妊娠の原因となった男の名前を秘密にする。 

しかしその男の子供を産みたいという場合に、
その女性は 『父のない子供』 を産むことになる。

戦前の日本の社会では、そのような 『父なし児』 を産むことは恥とせられていたが、
最近では占領憲法の公許によって自由セックスの波に乗って 
『父なし児』 を産むことは羞づかしくも何とも思わなくなって来たのである。 

それどころか、堂々と 『父なし児』 を産むことを 
『女性解放』 の選士のように賞揚するマスコミの文章も
出て来ることになって来たのである。


【性秩序というものは家庭の秩序の中心をなすものであるのに、
これが毀れて来ることは、国家ぜんたいの道徳的秩序を破壊してしまうことになるのである。】 


ああ、どうしても、一日も早く、此の占領憲法の無効を宣言しなければ、
日本民族は道徳的にダメになってしまうことを憂える。

          (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17425727.html より転写)

          <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝> 

人間《そのもの》の発見とその自覚 - 伝統

2016/06/08 (Wed) 18:29:51


        *「人間《そのもの》の発見とその自覚 」(P2~4)はしがき後半より
         
人間と生まれてその人が偉大なる理想をどの広さまで実現し得るか否かということは、
その人の自覚が人間そのものを如何なる広さにまで、如何なる深さにまで拡大深化して
自覚し得ているかに関っているのである。 

それ故に私は何びとにも此の書を幾度も繰返して心読して頂きたいのである。


人間にとって最も大切なことは、人間《そのもの》の発見であると私は言ったが、
人間《そのもの》の発見にも色々の広狭や階層の高さや愛の深さに度合が異る。 

その深度にしたがって諸君の生活が一変三変千変万化するのである。

人間《そのもの》と言っても、人間の表層ばかり見て
自己を理解し得たごとく軽く頷いてはならないのである。 

あなたが今如何なる地位にある人であろうとも、
すべて人間はまだまだ人間そのものの一部しか開顕し得ていないのだ。 

広漠たる眺望が、此の本を読み返し読み返ししていられるうちに、
人生には、そして自分の人生には、こんなに素晴らしい偉大なものが潜んでいたのか!! と、
膝を叩いて、今まで気付かなかった、脚下にある自性無限の美と愛と生命と能力とを
気づかなかった不思議にみずから呵々大笑して、広大な又、
別の新しき人生の開拓に進んで行かれることを期待してこの序文を終る。


私はあなたに期待し、あなたを信じ、あなたが此の書を機縁としてこんなに伸びたと、
私に礼状を送られる時が来ることを信じて、祈るのである。


 昭和五十六年十月十日
                            著者識す

          <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>  

谷口雅春先生の言葉を預かったというご文章 - 伝統

2016/06/12 (Sun) 18:57:00

谷口雅春先生の言葉を預かったというご文章が、
「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」に掲示されました。

    谷口雅春先生に帰りましょう・第二「N生に答えるNEW (1956)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=394


このご文章は、いろんな人がいろんな思いを抱きながら、
繰り返し読んでいると思われます。


そのご文章の中で、「その内容と響き(神韻)で判断せよと。」と述べられております。

私には、このご文章が、谷口雅春先生が直々に降されたものかどうかを
確認する能力はありませんが、

もし、谷口雅春先生が在世し、現時点での状況(教団「生長の家」、世界情勢等)を
俯瞰したならば、同じことを述べられると強く感じております。

次の点で、特に感じております。

(1)ご文章の響きは、谷口雅春先生のものと同じ響きを感じます。

(2)「私の書物をつまみ食いして自分の都合のよいように後付けの解釈をするもの
   が後を絶たない始末である。」との嘆きはもっともなことであること。

(3)谷口雅春先生だからこその内容が、簡潔に表現されていること。

  ①『生命の實相』は、幾十万という書物を三十年読み解き、そのエッセンスを書いたものである。

  ②度々繰り返した言葉があるであろう。
   それは、聖書に出てくる、「樹の善悪はその果実を見て知れ」と云うコトバである。

  ③大きな影響を与えたのが、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムの教えである。
   何を言っているかではなく、言われたことで何が起っているか、その起っていることから
   言われたことが正しいかどうか判断せよという教えである。

   だからこそ、私はあれほど体験談を重視したのである。

  ④現世は因果律の法則に沿って展開されねばならぬ。
   現世は過去の因果を解きほどく中で展開する。

  ⑤諸君が良心の判断に従って行動すること、それが神のコトバに従うことである。

  ⑥天皇国日本を救うために、今度は生長の家が殉死したのである。
   生政連の解散後の動きをめぐる中で、生長の家は確かに死んだのである。
   形の上で教団は残っている。

   しかし現世で生長の家を名乗る教団は、生長の家としては死んでいるのである。

  ⑦生長の家はそこにはない。死んだのである。
   1昨年に生長の家の大神の化身たる住吉大神を祭神の一つに格下げしたのは
   その最後の象徴である。

  ⑧この天皇を抱く日本が占領憲法下で危うくなっているから、今こそ住吉大神を直接仰いで
   日本国の実相顕現をせねばならぬと建立されたのが総本山である。
   この使命を実現をするのが生長の家の信徒の使命なのである。

  ⑨啓示の発端は、キリストの流れを汲むニューソートのフェンウィック・ホルムスの本に
   巡り合ったことである。
   それによって、不完全な現象を見て神を否定していた私の迷いが覚めた。

  ⑩天皇への中心帰一こそが生長の家の教えの核心であることを知らねばならないのである。
   これを明確にする為に憲法を改正せねばならないのである。

   幸いにも復刊された『久遠の實在』では中心に帰一する道という章で、
   中心をすめろぎとフリガナを振ってあり、その事が明確に説明してある。

  ⑪生長の家の教えは、天皇信仰である。
   日本の中心に天皇が座り、その日本が世界の中心になるとき
   世界に本当の平和が来るというのが根本の教えである。

(4)国際情勢をひも解き方

  ①かつて神示で示したことがあろう。国際連盟は中心がないから、いくらいつまで
   論争(ことあげ)してみたところで善きことは生れぬと。
   そして中心とは何かについて私は詳しく説いてきた。

   今の世界もその時と何も変わっていない。

   例として、尖閣海域で、中国とロシアの艦艇の示威行動がとられた。

  ②米ソの冷戦が一旦終結したが、まだ冷戦など終わっていない。

  ③アメリカの中国問題の第一人者マイケル・ピルズベリーの著書China2049で用いて、
   直近の中国の甘言に騙されてはいけない。

(5)その他・・・

              ・・・

よって、「コスモス さま」によって、読みやすく整えられたご文章を
別のスレッドに転写させていただきます。
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910755

          <感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝> 

生涯を決めた書物  ―  『聖道へ』 と 『限りなく日本を愛す』  - 伝統

2016/06/16 (Thu) 19:45:33



         *『生長の家』(昭和63年2月号)より
           ~生長の家長崎北部教区教化部長  阪田 成一


「青少年時代の読書の種類によってその人の将来の運命を決することにもなる」 とは、
よく言われることですが、私にとってもまさにその通りでありました。

中学3年生の時に手にした、谷口雅春先生の著書である 
『限りなく日本を愛す』 と 『聖道へ』 は、
今の私へと導いてくれた掛替のない書物です。


昭和35年5月、未だ祖国日本に復帰されていない沖縄に行く機会を与えられました。 
私の出身県である兵庫県の坂本勝知事が 「沖縄へやまびこの鐘を贈る運動」 を提唱され、
県下一斉に1円募金が展開されました。 

兵庫県民の真心をこめて贈られた “やまびこの鐘” の鳴りぞめ式に
子供の代表として沖縄に行くことになったのでした。 

その際に訪れた先の戦争の大激戦地であった南部の戦跡、
とりわけ若きいのちを祖国防衛のために捧げられた人々を祀る 
“健児の塔” と “ひめゆりの塔” に詣でて、その時聞いた数々の悲話に、
当時の私は強い衝撃を受けました。 

終戦の年に神戸に生まれた私は、こうした祖国の防波堤となって下さった人達が
おられたからこそ、自分がこうして生きてることが出来るのではないかと
その時気づいたのでした。

 
沖縄から帰った内地では、日米安保条約の改正をめぐって、
日本全体が安保反対の赤旗に埋まり、文字通り革命前夜の騒乱の場と化した
あの “60年安保闘争” が、激しくなろうとしていました。 

そうした中で、明石で戦前より熱心に 「生長の家」 の活動をしていた
伯母の書棚にあった 『限りなく日本を愛す』 の御本に出会ったのでした。

中学生の私にはとうてい読み通すことの出来ない難しい内容ではありましたが、
題名の 『‘限りなく’日本を愛す』 という言葉が、沖縄に行って、いわゆる
日本人としてのアイデンティティに目覚めつつあった私の心に強く共鳴したのでした。

この本との出会いによって、当時結成されて間もない 
生長の家高校生連盟 〈略して 生高連〉 に入れて頂くことになりました。 

因みに生高連が結成されたのは、昭和35年5月1日のことです。 
神戸市の西の端にある舞子に住んでいましたが、明石の生高連に入っていました。 

生高連活動を通して、 「生長の家」 の御教えを学んで行きましたが、
その頃私達の指導をして下さったのが、今も兵庫県で特務講師として活躍しておられる 
福島正俊講師 でした。 

この方より神想観をすることと、 『生命の實相』 を読むことの大切さを
徹底して教えて頂いたことは、実に有難いことでありました。

そして素晴しい先輩にもめぐまれ、多くのことを教えて頂きました。 
教化部長として活躍しておられる 森田征史さん、 中田安里さん、 
亡くなられた 濱田雄作さん、 これらの方々は大学生として
高校生、中学生の育成に献身的に尽して下さいました。 

私も大学生になって、先輩達のようになろうと思った人は多かったに違いありません。 
私もその中の一人でした。


その年の年末から正月にかけて、私は、 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 に参加いたしました。 
これは昭和34年9月26日の夜半から27日にかけて、東海地方を襲ったいわゆる
伊勢湾台風によって愛知、三重、岐阜の3県は史上未曾有といわれる大被害を受けました。 

この時、日本民族のふるさとである伊勢の皇大神宮も甚大なる被害を受けました。 
神域を包んでいた樹齢何百年という杉の大木が根こそぎ倒れ、或いは裂け、
手のつけられぬような荒廃ぶりでした。

それは、日米安保条約をめぐって国論が左右に分かれ、国民の精神が大揺れに揺れていた
当時の日本を象徴している感がありました。 

しかし現行の日本国憲法は、伊勢神宮を一介の宗教法人としてしまったが故に、
その荒廃を国家予算をもって修復することを許さなかったのです。 

こうした時、谷口雅春先生は 『理想世界』誌 を通じて  
「われ愛国の青年に嘱望す」  という御文章を発表され、
それに応えて実施されたのが 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 でした。

この練成会には全国から愛国の熱情溢るる青年たちを中心に、
生長の家信徒が続々と馳せ参じ、遠くブラジルからも奉仕団が結成されて参加されて、
誠のかぎりを尽して復旧作業にあたったのでした。 

谷口雅春先生は、とくにこの練成会のために 
「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 を授けられました。 

それは天照大御神の大生命と一体なるわが生命を観ずるものでした。

昭和35年12月31日から元旦にかけて、
伊勢神宮の内宮の内陣の玉砂利の上で行なわれた神想観は、
私にとって終生忘れることのない尊い体験でした。 

この伊勢練成会の帰り道のことです。 
5月に開かれる生長の家青年会全国大会で行なわれる弁論大会の予選に出ることを勧められ、
兵庫県での予選に出場することになりました。 

まだ中学生でしたから本当は出場権はないのですが 
〈当時は 「中学生ジュニア友の会」 はなかった〉 
4月には高校生になるというので認められました。 

兵庫県の教化部で行なわれた県の予選大会で、
沖縄での体験を中心に発表しましたところ、優勝してしまいました。 
中学生であるということが採点に有利になったに違いありません。 

その時に賞品として頂いたのが、 谷口雅春選集第7巻 『聖道へ』 であったのです。

主催者は、よもや中学生にこの本が手渡されるとは思ってもみなかったのでしょう。 
「あなたの好きな本と替えてあげよう」 と言って下さいましたが、
内容の難しい本であるとも知らず、 『聖道へ』 という今まで見たことのない題字に、
強く惹かれてそのまま頂きました。 

私はその時、口には出しませんでしたが 「せいどうへ」 と読んでいましたし、
むろんそれが如何なる意味であるか知るよしもありませんでした。

どなたであったか忘れましたが、 「この 『しょうどうへ』 と言う本は、
谷口雅春先生の若き日の求道論文集で、生長の家を深く知るためには、
ぜひ読まなければならない本である」 と教えて下さり、
その時 『しょうどうへ』 と読むことを知ったのでした。

全国大会での弁論大会に出場するには、さらに上の予選大会を突破しなければなりません。 
どういうわけか兵庫県は近畿地方であるにもかかわらず中国ブロックの予選大会に
出場することになっていて、尾道で開かれた予選大会に出場しました。 

その時は春休み中で、既に高校受験にパスしていましたが、
残念ながら優勝はむろん入賞することも出来ませんでした。 

因みにその時の優勝者は、後に 劇団「春の鳥」 を作り、
谷口雅春先生や谷口清超先生の戯曲を上演された島根県代表の 青砥洋 さんでした。


ところで 『聖道へ』 を頂いた私は、その日早速紐解きましたが、
目次を見て今の自分には到底読み進んで行くことすら困難であろうことが直に判りました。 

と同時に 「生長の家」 をより深く知るために
必ず読まねばならない本であることも肝に銘じたのでした。

幸いにもその内容が少しでも理解できる機会がその後すぐにやってきました。 

それは、私がはじめて参加した、その年 〈昭和36年〉 の青年会全国大会の
テキストの一つが 『聖道へ』 であり、さらに尊師谷口雅春先生が、この 『聖道へ』 を
テキストにされて 「若き日の求道生活」 と題してお話し下さったからでした。 

その御講話も当時の私には難しいものでしたが、また幸いにも、
この青年大会の主要な講義がのちに本として出版されたのでした。 

それは 『真理は人間を解放する』 と題する本で、
これによって 『聖道へ』 の内容が少し分ってきました。 

さらに有難いことにちょうど 『理想世界』 誌上でも、 
『聖道へ』 をテキストにした御講義がつぎつぎと発表されてゆき、
徐々にではありますが、 『聖道へ』 の内容も、理解されて行きました。

この本を読み切ることが出来たのは、生涯を人類光明化運動に捧げたいと決意して、
飛田給練成道場の練修生になってからで、大学2年になる春休みに一気に読み通しました。


そもそもすべての存在は、歴史的現実として今ここにその姿を表わしているのですから、
歴史を切り離しては、正しく理解することは出来ません。 

「生長の家」 も同じであって、「生長の家」 を正しく理解するには、
生長の家が出現するにあたっての、谷口雅春先生の信仰・思想史を知る必要があります。 

この 『聖道へ』 には、谷口雅春先生が 「生長の家」 の信仰と思想を
創(ひら)かれるまでの、先生の心の歴史が録されています。 

 
生長の家の説く有神論は、現象宇宙 〈物質宇宙〉 の創造神を、
仏教的な無明縁起によって完全に否定し去った後に、肯定されたる有神論ですが、
それに至る先生の思想の発展の過程が 『聖道へ』 に書かれています。


谷口雅春先生ご自身も 「生長の家思想の骨髄を知って貰うためには、
その思想の淵源を知らなければならぬ」 〈『佛教の把握』 “はしがき”〉 
と言われましたが、

私もこの機会に自分の生涯の方向を決めた、この2冊の書物を読み直し、
「生長の家」 を正しく把握して行きたいと思います。

因みに 『聖道へ』 が出版されたのは、大正12年2月13日のことです。 

私は偶然にもその初版本をふと入った古本屋で見つけましたが、
その時の感激と言ったら言葉で表わすことが出来ません。 
現在それは 温故資料館 に展示されています。 

谷口雅春先生は 「偶然は一つもない。 若し偶然があるとすれば
神の摂理の及ばぬ事物が何処かにあると云うことを認めなければならぬ。 
そしてこれは神の全智に対する甚しい冒涜となるであろう」
 〈『日輪めぐる』〉 と言われました。 

私はこのお言葉を大切にして行きたいと思っています。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18692594.html より)


          <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝> 

吾が國體を生命的に把握せよ - 伝統

2016/06/20 (Mon) 19:44:21


           *『行』(昭和16年10月号 19頁)より

生長の家は國體原理を明かにし、 
天皇の絶対神聖性を炳(あきら)かにする団体であります。

帝國憲法にありまする 天皇は神聖にして侵すべからずと云う其の「神聖」と云う意義も、
まだわかっている人が少ないのは残念であります。

その「神聖」という語(ことば)の意味を、只‘神聖なる機関’として置いてあるのだ
というような考えが今までの日本に相当弘まっていたのであります。

美濃部達吉博士が大学の講座で、そういう学説をずっと弘げておったのです。

それにかぶれた人たちが政治を致しますと、それはいつの間にか
幕府政治見たいなものになって来るのであります。

 
だから日本は本当の政治に帰らなくてはならない
  ―  それは、形態の上のみではありません。

信念の上から、生命的に 天皇の絶対神聖性を把握しなければならないのであります。

天皇は宇宙の大神として絶対の方であられるという此の実相を
把握申上げなかったならば、形態の上からは幕府政治でなくとも、精神の上から、
信念の上から、内容の上から幕府政治というものになって来るのであります。

 
そう云う上から生長の家が国家へ貢献している立場は、
北畠親房が神皇正統記を書き、頼山陽が日本外史を書き、
吉田松陰が松下村塾を経営したと云うのと同じ立場であります。

幾多の忠烈無比な将兵が生長の家から輩出してまいりました。

その第一線に於ける活躍振りを纂(あつ)めたのが 『戦線消息』 であります。

まだお読みにならない方は是非とも読んで貰いたい。 

一字一句の訂正なしに血のにじみ出るような活躍が、
その第一線からの本人の消息の上に浮かび上っているのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/90a97aabfefae9ec6e99d7928f75df08 より転写)

          <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝> 

生命奉還  ―  真個無我に徹する - 伝統

2016/06/22 (Wed) 19:51:39


        *『生長の家』(昭和15年9月号 14頁)より

生命とは 「肉体」 ではございませぬ。 
生命とは 「物質」 ではございませぬ。 

さもなければ 「身を殺して仁を為す」 とか、
「生命を捐つるものは生命を得ん」 とか、
「義のために一身を空しくする」 とか、
四十七義士のハラキリとかは理解する事が出来ませぬ。

生命の凱歌は 「肉体」 を捨て 「物質」 を捨てたときあがるのであります。 

『生命奉還』 であります。 
天皇陛下に生命奉還であります。

 
教育勅語に 明治天皇が 「皇祖皇宗國を肇むること宏遠に」 と仰せ給いし際の 
「國」 とは 「宇宙 (くに)」 であります。 
「宇宙 (くに)」 の生命は皇祖皇宗が國を肇め給いしときに発生したのであります。

天地の初発の時に、天皇先いまして、その勅によって 
「漂へる國」 は初めて 「自凝島 (おのころじま)」 となったのであります。 

「漂へる國」 とは姿定かならざる宇宙であります。 
姿定かならざる宇宙とは 「無い宇宙」 であります。 
「自凝島」 とは姿をはじめて顕した宇宙であります。

「無い宇宙」 をして 「有る宇宙」 ならしめたのは、
其処に 「宇宙大生命」 が働いたのであります。 
宇宙大生命  ―  これを称して天之御中主神と申上げるのであります。

天之御中主神は宇宙の幽の幽なる本元の大神であらせられ、皇祖であらせられ、
歴史以前に遡れば大日本初一代の天皇 (すめらみこと) であらせられます。

凡て生命 天皇より流れ出ずるのであります。 
宇宙は 天皇の‘もの’であり給う。 
何一つ 「私」 は無いのであります。 

真個無我であります。

この真理を知るとき、おのずから 『生命奉還』 の心起るのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/886d724ea5739893f78ac5b67e0d95fa より転写)

          <感謝合掌 平成28年6月22日 頓首再拝> 

生長の家発見 - 伝統

2016/07/03 (Sun) 19:51:05

          *『光の泉』(昭和39年11月号、56~61頁)より

『若人のための78章』 の49頁にこう書かれております。

「自然が神の創作したまえる直接芸術であるに対して、
人生は人間の自由意志によって想像する芸術であるということが出来るのである。 

色とりどりの人生は、すべての人間の各々の想念という絵の具によって彩られて、
五彩七彩の輝きをあらわすのである。 

そこに悲劇があらわれているにせよ、喜劇があらわれているにせよ、
それは作者の創作であって、神が決して押しつけた運命ではないのである」


この人間の運命というものが、神が決して人間に押しつけたものではない、
すなわち決して宿命的なものでないということを吾々は知らなければならないのであります。

私は或る宗教におりました時代に、その宗教では、愈々近いうちに神様が此の世界を建て替える
最後の時が来ると申しておりまして、神様の気に入らないところの不良の人間を、

「地震、雷、火の雨降らして」 滅亡せしめて、神様の気に入る人間だけを
地上に残すというようなことを説いている教えであったのであります。

 
ところが私は或る日の事、自分の家の庭を見ておりますと、
一匹の蛇が出て来て蛙を呑んでいたのを見たのであります。

「ああ、可哀想だなあ、あの蛙は。 あの蛇を棒で撲って、蛙を助けてやろうか」

と一時は、思ったのでありますけれども、

「いやいや、蛙を助けて蛇を撲ったら一体蛇っていうものは何を食べて生きるんだろう。 
又別の蛙を掴まえて食べるからあの蛙は救かるかも知れんけれども、他の蛙は救からんことになる。 
或いは他の蛙が見つからないとしたらあの蛇は飢え死にをしてしまうかもしれない。 
蛙を救けると蛇が死ぬ、 蛇を救けると蛙が死ぬ。 何という不調和な世界なんだろう」

と私は思ったのであります。

「どうしてこんな不調和な世界を神様が拵えたのであろう」 と私は考えました。 

互に食い合い殺し合いをしなければならないような、
不完全な世界を神様は拵えたのは誠にもって怪しからぬ。 
これに創造主 (つくりぬし) があるなら創造主の責任である。 

そんな不完全な創造神が、人間が争い、食い合い、殺し合い、不徳な行いをするからといって、
人間に罰を与えて神様自身の気に入らぬ人間は、皆殺しに殺してしまうというような、
そんな不合理な事があるだろうか。 

神自身が不完全じゃないか。 
そんな不完全な神は 「神」 と称するに足りないものである。 
そんな神は存在しないのである。 

ついに私はこう考えたのであります。 
そうして私は、その宗教から脱退した。 

そして此の世界はそういう神様が拵えた世界ではない、これは人間の心が拵えた世界なのである。 
つまり人間自身の心が展開してそれが時間・空間面に現われている世界が、
この肉眼で見える現象世界である、こういう風に私はその時考えたのであります。

 
私はその時、神の宇宙創造説からぬけ出して、
この見える世界は 「唯心所現の世界」 であると考えるようになったのであります。 

この世界は唯心所現の世界、即ち 「心のあらわす処の世界」 であって、
神様が拵えた世界じゃないんだと考えるようになったのであります。

お釈迦さんも矢張りそう思われた時代があったという事を私は仏典で読んだことがあります。

お釈迦さんは或る日の事、王宮の外苑を散歩しておられましたら一匹の烏が出て来て
土を掘って何か蝉の幼虫のような、芋虫のようなものを掘り出して食べているのであります。 
その芋虫のような生物は烏の嘴につつかれて、からだをくねらせて痛そうに苦しんでいる。 

それを釈尊が御覧になった時に、 

「ああ、この世界は悲惨な世界である、生存競争の世界である。 
弱肉強食の世界である、殺し合いの世界である。 
そこには “生” の苦しみが充満している、
この “生” の苦しみを解脱するのにはどうしたらよかろうか」

と考えなやまれた。 

これが釈尊の出家せられた動機の一つになったということでありますが、
私は蛙と蛇との闘争を見て、此の世界は神の創造の世界ではない
  ―  愛深き神様が拵えた世界じゃないんだ、
人間の心の創作の世界であると考えるようになったのであります。


それからしばらくしまして、私は、宇宙の創造神が此の世界に地震、雷、火の雨をふらして
最後の審判をおこなうというその教団から脱退いたしまして、著述家になろうと思って
東京へ飛び出して、或る本を書いたのであります。 

しかしその教団を飛び出したけれども、心の奥底に、
この弱肉強食の闘争の此の世界を調和ある世界にするには如何になすべきか。 
このままでは人間は救われない。 

その救われないことに自分自身が悩む心が起って来るのは一体どうしてであろうか、
という事を考えずにはいられなかったのであります。

その闘争の世界から目を挙げて、“救い” を求める心というものが起って来るのは、
どうしてそれが起って来るのであるか。 

その “救いを求める心” がたまらなく自分の心をかき立てるのは、
何処かに、本当に 「救うところの本体」 があるからではないか  ―  だからこそ、
こういう “救いを求める心” が切実に起って来るのではなかろうか ・・・。

 《切実に吾々が魂の底から求めるのは、既にそれが‘ある’からそれを感じ求めるのではないか》

というような感じがして来たのであります。

即ちこの世界を造ったのは 「吾々の心」 であるが、
併し 「吾々を救う処の何か偉大なる者」 が何処かにあるに違いない ―― 。 

何処かにその偉大なるものがなかったら、こうして切実に魂の底から 
“救いを求める心” が起って来る筈がない。 

私の心の底は、何処かにその救いを求める尚一層大なるものにつながっていて、
それを感じているのである。 
既にそれを暗黙のうちに感じ知っているからこそ、それを求めるのではなかろうか ―― 。

 
「救いの本尊」 が何処かにある。 それを 「神」 と言えば 「神」 と言える、
しかしその 「神」 はこの悲惨な弱肉強食の現象世界を拵えたんじゃないんだ、
という直感が這入って来たのであります。 

ここに現象世界の創造者と、実在の世界の創造者とを
ハッキリ分けて考えなければならぬことに気がついたのであります。


その直感が今、生長の家の教えの奥底にあるのでありまして、
その 「救いの本尊」 は何処にあるかと言うと、それは 
「実相の世界」 にあるという風に今では生長の家では説かれているのであります。

 
この肉眼で見るところの世界は、殺し合いの世界は、奪い合いの世界は、食い合いの世界は、
それは吾々の “心” のあらわすところである。 “心” が変ればそれは変わる。 

けれども、その現象世界の、殺し合いの世界のその彼方に、もっと 「超越した処」 に
完全な実相の世界があって、そこはイザヤ書に書いてあるように、蝮のすむ孔に子供が指を突込んでも
蝮と子供とはたわむれ遊んで蝮が子供を傷つけない。 

ライオンと羊とは仲良く草を食っているようなそういう世界が既にある。 
既にあるからこそ吾々の求める気持が、自己の生命の奥底から押し出してくるのである。

実相の世界にはすべて生きとし生けるものが互に完全に調和した姿において、
‘そこに’既に在るのだ。 その世界はどうしたら出て来るか、どうしたら現象化して
出て来るかという事に、私は思い悩んだのであります。

そうして遂にそれを発見したのであります。 

それは現象世界は心のあらわす所でありますから、心を媒介として、心をレンズとして、
その心を澄み切らして、完全に心を透明にして 「実相の世界」 の光が射し入るようにした時に、
その心を媒介として心のあらわす処の現象世界に、実相世界の完全な相が投影して、
諸法がこのまま実相となる。 

 
この 「実相の世界」 のことを 「仏の世界」 と言ってもいい、
「神の世界」 と言ってもいい、天国と言ってもいい、「お浄土」 と言ってもいい、
それこそが本当に実在する世界である。 

その実在の既存の完全な世界が、心を媒介として吾々の現象世界にそれがあらわれて来させる
  ――  これが “地上天国建設運動” であります。


しかし、この真実在の完全な実相世界は、霊的世界であって、物質世界ではありませんから、
観じなければあらわれないのであります。 

その観ずる方法として私は 『神想観』 という観法を神から啓示されたのであります。 
その 『神想観』 によって実相の完全なる姿を心の眼をもって正観する時に、
完全な実在の姿が現象世界にまで延長して出て来るのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ec55561a7502828b7d61537c45497254 より転写)

          <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝> 

『天皇獨在』 の真理は病をも癒す - 伝統

2016/07/08 (Fri) 19:44:32


              *『生長の家』(昭和14年9月号) より
                ~吉 田  國 太 郎


谷口雅春先生によって私達は 『天皇獨在』 と云う真理にめざめさせて戴きました。

天皇陛下の大御生命一つのみ此処に坐して、
私達生命あるものは禽獣草木の果に到る迄大御生命によって生かされて
此処にあると云うことであります。

日本人として此の世に生をうけ、今現に大御生命に生かされて生きていながら、
其の有難さを身に沁みて感謝出来ないと云うことは、その人自身の大きな不幸であるばかりではなく、
此処が確立しません時、それは日本の不幸だと思うのであります。

一つになる処に強さが出てくるのだと思います。 
他からくずすことの出来ない強いものが生れてくるのだと思います。

思想の貧困などと云う言葉がありますが、吾等全てが 陛下の内に生かされて生きてある大自覚  
天皇獨在の真理 ― 此の真理に目覚め、此の有難さに感謝出来る人間になる事が、
此処へ皆が一つになれます事が大変大切な事だと思うのであります。

此処に冒す事の出来ない日本の強さが生れてくるのであります。 
此処につながります時、思想の貧困もなければ何も最早云うことはないのであります。 
唯光栄に感謝して其の時そのままを生き行けるばかりであります。

 
岐阜市外那加の河村尚賢さんは胃癌に苦しめられ、医学に絶望し
生長の家に救いを求められたのでありますが、此の方が  陛下の有難さ、今生命ぐるみ
救われている此の有難さを一度と雖も拝んだことの無い人であります。

ユダヤ問題の話を説ききかされ、やがて天皇獨在の真理に迄諄々と説ききかされた時、
河村さんの心を覆うていた迷いの埃がふきはらわれたのであります。


初めて拝む 陛下の有難さ、宇宙大に広がる 陛下の無限絶対さ、此の目覚めに立った時、
河村さんの胃癌はいつの間にか消えて影をひそめていたのであります。

これは事実であってうそではないのでありますが、それは副産物でどうでもよい
と云えばどうでもよいのでありますが、天皇獨在の真理の目覚め、大御生命を今此処に
割き与えられて生きる生活は、日本人一人一人の心の底に植えつけたいのでありまして、
植えつけなければならないと思うのであります。

 
日本書紀に御徳を讃え奉りて 『光華明彩六合に照徹』 とあるのはこ
のことだと畏れ多い極みであります。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/d1531815e6aa3fd5e3000db56ed8918b より転写)
       

          <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝> 

神と倶に生活するには - 伝統

2016/07/12 (Tue) 19:26:36


           *『白鳩』(昭和25年9月号 巻頭言)より

こんな話がフェンヰック・ホルムス博士の本に書いてある。

二人の女生徒が学校へ通学していた。 
学校のすぐ側まで来たときに始業のベルが鳴りはじめたのである。 
二人は信仰深い少女であった。 

「学校に遅刻しないように跪いて神様に祈りましょうよ」 と甲の少女は云った。 
「そんなことをしていては駄目よ。 一所懸命走りながら神様に祈りましょうよ」 
と乙の少女は云った。

読者はどちらが正しい祈りであると思われますか。 
それは筆者が回答するまでもなく、自明のことであるのである。

こんな簡単なことなら誰でもわかることだけれども、実際生活の難問題に直面すると、
その原理がわからなくなり、時々途方にくれる人が出て来るのである。

子供の病気の場合でもそうである。 
医者にもかけず、何らの手当も施さないで、ただ気が顛倒して祈ってばかりいるような両親は、
丁度甲の少女のやり方に属するのである。 

それでは遅刻する恐れがあるし、気が顛倒しているので、
その反映として神との波長が一致せず、処置を誤るのである。

 
神は全能である。 

しかし神の働きたまう出口はただ一箇所のみには限られていないのである。 

神は医者やその他の人を通して働きたまい、水を通しても、食物を通しても、薬剤を通しても、
また自分自身の努力を通しても働きたまうのである。 

吾々は神の働きの出口を自分の我の考えで
或る一ヶ所又は数ヶ所に制限してしまってはならないのである。


しかしこのような心の態度は、‘あれ’にも頼り、‘これ’にも頼り、心が動揺して、
確乎とした信念が持てないようになる恐れがあるのである。 

時として医者に頼って神に頼らず、薬に頼って神に頼らず、
自力の雑行雑修に頼って神に頼らず、自力の雑行雑修に頼って、
神に信頼しないようになる惧れがあるのである。 

そこにこのような心的感度の欠陥があるのである。 
その欠陥を是正するには、どうしたら好いだろうか。

 
それは走りながら祈ることである。 
祈りは神との一体感を深め、何時、何処に、如何になすべきかの啓示に対して
人間を敏感ならしめるのである。

祈りながら、神の催しによって 「何を為せ」 と内部から感じられて来ることは
それは形の上から見れば、医療であろうと、物理療法であろうと雑行雑修のように見えようとも、
それを通して神が働き給うのであるから、その働きにまかせることは
純一無雑に神に全托したことになるのである。

一つでも神の 「是を為せ」 と云う啓示を、自分の我で止めてはならないのである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/83e7a620c38ca33937cbffb21c6a6b5b より転写)
    
          <感謝合掌 平成28年7月12日 頓首再拝> 

霊智心 - 伝統

2016/07/14 (Thu) 21:32:49


           *『生長の家』(昭和25年7月号 10~11頁)より

「心」と云うものを一つだと考えるのと、「心」を「自分の本体」だと考えるところに、
そう云う間違いを生ずるのです。

「心」と云うものは大体、吾々の「道具」である。 
吾々は「肉体」と云う道具を使う。 
併し肉体は人間ではない。 

それと同じように吾々は「心」と云う道具を使う。 
所謂普通に云う「心」は吾々の道具であって人間の本体ではないのである。
吾々の持っている「心」は一つではなく、幾階段もの心を持っている。 

例えば、吾々の細胞には「細胞意識」と云う心があって、
どれが自分自身の栄養になるかを選り分けて吸収する力をもっている。 

そして黴菌とか何か外敵があらわれて来ると、それを認めて、捕えて殺す
  ―  こう云う相手を選択する心はたしかに心である。 

人体の細胞の一部は全体から切り離して人工培養益の中で培養すると、
心臓の細胞とか腎臓の細胞とか云う特殊の働きをしている細胞が、
その特殊を失って類形的な、全体が同じように働きかける。 

細胞単位としての「心」はあるが、
心臓単位、腎臓単位と云うような特殊的使命の働きは失われる。

即ち人間の肉体が全体として有機的な働きをし
各内蔵が各々異る内蔵として活動している肉体全体を統率する「心」の働きである。 
この「心」を「本能の心」と云っても好い。 
「細胞の心」の上に「本能の心」があるのである。


高級の心は下級の心を支配するのであって、下級の心ほど自由が少ないのである。 
しかしこの「本能の心」はまだ吾々の「意識的心」とは異る。

吾々は意識しないでも心臓は1分間に72回鼓動する。 
意識しないでも胃腸の働きは「本能の心」によって行われている。 

「本能の心」の上級に「意識の心」がある。 
「意識の心」が恥かしがったり恐怖すると、「本能の心」がその支配を受けて
心臓の鼓動や、胃腸の消化状態が異って来る。

「意識の心」は心臓も腎臓をも含めて全体の肉体を移動させるが、
「本能の心」はそれに反抗することは出来ない。 
本能の心はその段階での或る自由を持っているに過ぎない。 

しかしこの「意識の心」も「人間の本体」ではない。

これは人間の「道具」であって、
自分の声をラジオ・セットでとか蓄音機とかで聞くようなものである。 

そして発声器から再現された心の振動で
人に意志を通じたりするための「道具」が「意識の心」である。


「意識の心」の奥に「潜在意識」と呼ぶものがある。 
それは意識の心が起した想念感情の「貯蔵庫」みたいなものであり、
それは一面数的に貯蔵されているけれども、蓄電器のようにある力をもって
過去の想念感情を流し出す力をもっている。 

それが現在意識を左右する力をもっている。 

この点で現在意識の自由というものは限られたものであって、
現在意識が「幸福を得たい」と思っても、その一段上の段階の潜在意識が
「苦痛にやって汝の過去の業を浄めよ」と云って引ずって行くと、
その人の人生に苦痛が現れて来るのである。 

その潜在意識も尚、人間の最高の心ではない。 

その奥に 『霊智心』 とでも云うべき心がある。 

潜在意識は過去の「業」の貯水池として、水力発電のダムのように、
過去の惰力で盲目的な力で押し流して来る。 

ところが此の 『霊智心』 は「潜在意識」のように盲目的ではない。 
叡智を備えていて潜在意識の流動をその正しい方向に修正しようとしてくれる。

特に潜在意識が一向専心 『霊智心』 に対して呼びかけて自己の我見を捨てて
その教えに従がおうとする時には、その叡智は現在意識にあらわれて来る。 

現在意識そのものは直接潜在意識を支配することは出来ないが 
『霊智心』 を現在意識に呼び出してくることによって、
潜在意識を支配することが出来るのである。

 
私の 『叡智の断片』 と云う本や 『智慧の言葉』 などは、
『霊智心』 を現在意識に感受してそれに導かれて来たものである。 

あの本にはあまり病気治しのことが書かれていないが、
知性ある人にはよく理解し共鳴されるように書かれているのは、
『叡智の心』 が出ているからである。

この 『霊智心』 即ち 『叡智の心』 のその奥に
「本当の自分」 即ち 「実相の心」 がある。 

それは物質ではないと云う意味に於いて「心(しん)」的なものであるから
「心(こころ)」と云っても好いが、「心(こころ)」 と云う場合には、
今まで述べたような各種の「心(こころ)」と混同される惧れがあるから、
『霊』 と云った方が好いかも知れない。

 
『霊』 が本体であって、それが、霊智心、潜在意識、現在意識、本能の心、細胞の心などの
「道具」を使って表現活動をしているのであって、『実相の心』は自由自在無礙でありつつ、
その一面的表現には色々の表現が自己限定によって成されつつあり、
「人格」とか「個性」とか云うものはこれらの心の綜合的波動の雰囲気と云うもので成立っている。

その奥にある実相は「一つの生命」であり、神一元である。 

万人共通の生命であり、実相に於いてみんな一体でありながら、
霊智心以下の「心」の重複体によって、その「場」に於いて
別々の個性としてあらわれているのである。


  昭和25年3月12日(日曜日・夜)
  東京青年会幹部の谷口先生を囲む会

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ee0d6299e1e4356146b7d2d76382e388 より転写)

          <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝> 

行 = 徹底感謝 である - 伝統

2016/07/20 (Wed) 19:08:46


          *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-06-21)
                ~生長の家信濃練成部長  藤原 敏之


生長の家に限らず、宗教はすべて哲学でありますが、
生長の家の教えを 『生命の實相』哲学 と呼ばれ、また仏教を仏教哲学と申しまして、
いずれも最高の哲学なのであります。

一般にいう哲学とちがう所は、学問としての哲学はただ考えるだけの哲学であります。 
宗教としての哲学は実践哲学といいまして、“行” が伴い、
実行してみて結論を出すというところがちがうのであります。

いわゆる哲学者というのは大抵行きつまりますが、
正しい宗教哲学では一つ一つ一所懸命やってみて、
その結果をみて正しいか間違っているかを確めてゆく方法なのであります。 

生長の家の信徒でも、絶えず考えてばかりいて、
現象に現れた結果だけをみては苦にしたり、恐れたり、心配しているのでは
信仰生活者ではなく哲学者になっているだけで信者ではないことになります。 

知るだけで救われるのであれば、ことは簡単でありますが、
なかなかそうはいかないのであります。


私達の上に起ってくる出来事は、現実なのであります。 
たとえ現象にせよ、事実は事実なのでありますから、
考えただけで解決しようとすることには根本的な誤りがあるわけです。 

今現実に腹がへってどうにもならないとき、
どんなに上手に考えてみても空いたお腹は満たされないでしょう。 

空いたお腹を満たす方法は食べる以外に方法がないのと同じように、
宗教哲学ではこの実践が欠かすことの出来ない条件なのであります。

 
行ずる以外にないということをまず気づかなければなりません。 
ただし、この条件を救われるための条件であると思い違いしてはならないことであります。 

宗教の救いが形や条件でないことは、既に述べましたが、ここでいう “行” とは
救いの根本条件としての行ではなく、現象に執われ、現象の問題を何とかしようと焦り、
努力している人にとってだけ必要なのであり、現象界には現象界の法則がありますから、
その現象処理の方法として必要なのであります。

 
このことを仏教でも生長の家でも、方便とお教え頂いております。 
この真実 〈真理〉 と方便とを明らかに区別することが最も大切なことなのであります。 

 
この行としての努力は、例えば目をつぶって暗いといっている人には、
何とかして目を開いてもらわないことには明るくする方法がないでしょう。 

そのときにはどうしても順序として本当は暗くないことを納得してもらい、
次に暗いのはあなたが目を閉じて光を見ないからであると気づかせる 〈自覚〉 ことであります。 
次に目を開かせる方法を示して、その通りに実行して目を開いてもらうことによって、
本来の明るさに戻るのであります。

 
これと同じように宗教でいう“行”とは、
この最後のどうして目を開かせるかという方法でありまして、
もともと暗いものを明るくすることではないのであります。 

実相は常に明るいのでありますから、その間違いに気づき、
どうしなくても既に明るいのでありますから、本来の明るさを現せばよいわけであります。 
これを方便といいます。


“行”が救いの条件となると、実は根本がまた間違って来ますので、
充分注意しなければならないのであります。

 
方便をそのまま真理だと解釈することは大変な間違いであります。 
宗教において、また特に生長の家の御教で一番大切なことは、実相と現象の区別を
ハッキリすることであり、真理と方便とをわけて考えることであります。 

この二つが混同されますと、残念ながら混乱するばかりで、
本当の悟りにも救いにもならないのであります。

長い間、御教えを頂きながら、救われたような救われないような状態で
フラフラしているといわれる方々のお話をきいてみると、大抵この一番肝腎なところが、
今一つハッキリしていない方々であり、このことが極めて大事なところであります。

 
生長の家では “三行” として、
次の三つの行を根本的な行として、お示し頂いております。
すなわち、『神想観』 『聖経・聖典読誦』 次に 『愛行』 の3つであります。 

これが基本行であるわけでありますが、この三行がなぜ大切であるかと申しますと、
私たちが神につながり、神を顕わす上の根本行だからであります。 

神様は実相であり、私達は現象界に生活しております。 
そこで実相世界に神様の万ずの御徳は既に充ち満ちており、
無限に供給せられているわけであります。

ただし小切手のようなものでありまして、現金ではないわけであります。 
小切手のままでは現金ではありませんから、いったんその小切手を現金に換えないことには
通貨としての価値がないのであります。 

そこで現金と同じ価値のある小切手を、通貨としての現金に換える手続きが必要となります。 
そのお金に換える手続き方法が、先の “三行” であります。

 
生長の家でお教えを頂く“行”も、
悪いものを善くしたり、無いものを造り出すためのものではないのであります。 
既にあるところのもの 〈実相〉 を形に現すための方法なのであります。

 
ですから、“行”が大切であるときけば、すぐに“行”に執われ、引かかって、
“行”にしばられて、身動き出来ない程不自由になって苦しんでいる人は、この肝腎の
“行”の本質すなわち行の目的と内容を明らかにすることが、また大切なのであります。

 
この第一の神想観は“三行”の中で最も大切な“根本行”なのであります。 
この“観行”こそは、神を顕わす唯一の方法でありまして、この“行”抜きにして
神を把握することは絶対に出来ないことであります。 

神様は先にも述べた通り、姿も形も色も臭いもなく、
全く空の中に円満具足していらっしゃる存在でありまして、
捉え所が全然ないわけでありますから、
神につながり、神を観るのは、想う以外、他に方法がないのであります。 
仏教でも念仏といって、仏を想う以外にないと教えています。

 
この神想観とは書いて字の通り、神を想い観ると示されております。 
もっとハッキリいいますと、神様以外のものは絶対に思いません、みません、
ということなのであります。 

生長の家の 「唯神実相論」 をそのまま生活することであり、
実現することでありますから、本当の神想観は、自我滅却であり、無我であります。

 
“私”がやる神想観では形は神想観でありますが、
中身は神想観でなくて、神以外のものを想い観ていることになります。 

例えば病気のことを心配しながら、「神様どうかこの病気を治して頂きとうございます」 
と心に想いながら、神想観の格好をしているときは、神想観の格好をした
病想観になるのであります。

 
第二の聖経の読誦でも、何か目的をもって読んでおりますと、
残念ながら聖なる“行”ではなくなります。 

自分が満足を得るために、神様の御機嫌とりのつもりで聖経をどんなに上手によんでも
聖なる“行”とはなりません。

自分の都合という混じりものが入っておりますから、純粋ではなく、心の底にはやはり
神様を利用しようという浅ましい根性がまじっておりますから、一所懸命やりながら
すっきりするどころか逆に不安が伴うのであります。

目的があるとどうしても「これでよいのか」という心配があり、
効果や結果ばかり気になるのであります。 

このような神想観や聖経読誦は“楽行”ではなく“苦行”となります。 
生長の家では苦行があってはならないのであります。 

生長の家は光明思想であり、悪や不完全を徹底的に否定した教えでありますから、
苦行などあるはずはなく、あるのは“楽行”だけであります。

 
谷口雅春先生が私たちに常にお教え頂きますことは  
「生長の家の行は他力の行でありますよ」  とお示し頂くことであります。 
このことを肝に銘じて再出発することこそは救いの根本義でもあります。


“他力の行”とはどんなことであるかと申しますと、“徹底感謝”ということであり、
感謝以外のものは形がどんなに立派でも生長の家の“行”ではなくなるのであります。

“行”の目的が現象処理になり、現象否定どころか現象を認めて取りのぞくための
努力や方法となりますと、あるものをなくしようとすることになり、
正しい方便ではなくなるのであります。 

正しい方便とはあくまでもないものをなくするためのものであります。 

もともと夢はないのでありますが、見ている最中はあると思いこんで、
恐れたり苦しんだりしますけれども、夢はないのでありますから、
ない夢をなくするには目を覚ませばよいわけであります。 

夢の中で起っている苦しい事件を、夢の中でどうしてなくしようかと
もがいているのとは全然ちがうのであります。 

 
“他力行” とはすなわち “感謝行” ということなのであります。 

既に救われてあり、既に完全であることに感謝することこそ、
生長の家の“行”であります。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/7b2f5e8330a0c99af0932863766adf96 より転写)

          <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝> 

菩薩の道は無抵抗主義ではない - 伝統

2016/07/27 (Wed) 20:07:03


          *『維摩経講義』 ― 菩薩随意転身の巻 ― より  

『我心驕慢の者には、為めに大力士と現じ、諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』

菩薩は必ずしも柔和なだけではないのであります。 

「右の頬を打つ者あらば左の頬をもめぐらせて之に打たせよ」 と云う
無抵抗主義が効を奏することもありますけれども、必ずしもそうは行かない。

戦争放棄、無抵抗主義が好いこともありますけれども、それも時と場合、
相手の人や国に応じて施策をめぐらせて行くのが 
『實相』 把握の菩薩の勝方便なのであります。

観世音菩薩行法経には、「無量の勝方便は実相を観ずるより得らる」 と
示されているのでありまして、実相を把握したときには、人・時・処に三相応して
自由自在の働きが出来て来るのであります。

だから無抵抗ばかりが菩薩の勝れたる方便ではないのであります。 

時として、大力士の姿を現じて、
ガチンとその高慢の鼻をくじいてやる事も必要なのであります。 

これが 『心驕慢の者には、為に大力士と現じ、諸々の貢高を消伏して、無上道に住せしむ』 
であります。 無上道と云うのは此の上ないサトリの道であります。

 
嘗て、白色人種が有色人種を馬鹿にして、東亜の諸国は殆ど悉く
その植民地化か属領化していた頃、日本が蹶起してガチンと
白色人種の膨大な軍備の国に対して一撃をくらわしたのであります。 

その為に日本は軍国主義者だと言われ、戦場には附随し勝ちな暴虐事件などもあって、
日本は世界から色々の批難を受け、自国もまた一時占領されるなどの 
「剣をとるものは剣にて滅びる」 との心の法則を実演するに到ったのであります。

併しながら、かくの如き 『菩薩日本』 の十字架によって、
東亜の有色人種はどうなったかと云いますと、 

「人類は皮膚の色彩によって、その天賦の本質に高下があるのではない。 
みんな 『神の子』 又は 『仏の子』 として平等の権をもっているのだ」 

という無上のサトリ〈無上道〉を得るに近づいて来、
東亜の民族独立の機運を醸成されたのであります。 
東亜民族が殆どすべて独立して自主性を恢復しつつあるのは日本のおかげなのであります。


だから菩薩道は無抵抗主義ばかりでは可かんし、また軍国主義ばかりでも可かん。 
なぐる時にはなぐらなければならないし、
お辞儀する時には正直にお辞儀をしなければならない。 

そうかと言って、いつまでもお辞儀をつづけている必要もない。 
菩薩は自由自在に千変万化して衆生を救済するのであります。 

これを便乗だとかオポチュニズムだとか云って攻撃するのは間違いなのであります。 
どんな「善」と見える行いにでも、時と場所と人とをわきまえずに
「この形が善だ」と「善」の一定の「形」を捉えていては、善が善でなくなるのであります。 

それを 「善中の悪と云います」 と私は戯曲 『イエスは十字架にかからず』 
〈『生命の實相』 第16巻にも収録〉 に書いて置いたのであります。  

・・・・・ (中略) ・・・・

 
観世音菩薩を普現色身菩薩とも云いますが、
観世音菩薩のように「世音」即ち、相手の人の心の音(ひびき)を観じて、
どんな色身でも普く現すのでなければなりません。 

これが中々むずかしいのです。 

時とすると善人は「善」にとらわれますし、非戦論者は「非戦」にとらわれ、
戦争放棄論者は「戦争放棄」にとらわれます。 

現象界の事物は何でも時と場所と人との三相応を得なければなりませぬ。 
主義や形を握ってはならないのであります。 

心中に観世音菩薩の慈悲を持しながら、
形には不動明王の忿憤の形相を顕じなければならぬこともあります。 

善をば或る「形」だと思って、「形」に捉われたら生命が死んでしまいます。 
これは国家でも個人でも同じことであります。 
相手に従い、時に従い、随意転身しなければなりませぬ。 


http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ca46df6ae289d7cee4cc951a3b87e96d より転写)
      

          <感謝合掌 平成28年7月27日 頓首再拝> 

宣  言 - 伝統

2016/07/31 (Sun) 19:29:17


       *昭和7年8月号・月刊神誌「生長の家」より

昭和完成〔七つ〕の年八月一日即ち彌〔いよいよ〕の月の一〔はじめ〕の日、
『生長の家』の人類生活光明化運動に私は全生命をささげることになったのである。

これは神界から定められていた因縁の日であって、
何人も変えることは出来なかったのである。

約半年前、既に二月九日の神示(本誌第三輯四号発表)にも、

   実生活をあまり忙しがるな。皆の者が『道』をきき病を癒して貰いとうても
   遠慮して頼みに来にくい。そのうちに救はれる機縁を失うて取り返しが
   つかぬようになる人もあるのが可愛そうだ。・・・

   わが第一の神殿は皆の誠によって形の世界へ顕われたから、
   第二の神殿に取り掛かって貰はねばならぬ。

   第一の神殿は聖典『生命の實相』であって智慧の神殿である。
   第二の神殿は愛の神殿であって、神が愛であり、
   愛は癒す力であることを知らす『見真道場』(いのちのゆには)である。・・・

 
という顕示(おしめし)があって、私が今迄会社生活の片手間にも
分相応に隣人を救い得るものである、

人間は生活を縛られても人を救う余裕はある――生命は縛られていてさえも自由自在だ、
この真理の実証生活に、近き将来に一転機が来る事が知らされていたのである。

併し私は会社生活をやめなかった。
ただ居を従来の二倍以上の広い家に移し、約二十畳敷ける二階を、
修行者に開放して神示に副はんがために仮見真道場とし、
多数の『生長の家叢書』を発行して仮見真道場の宣道機関としたのであった。

そのために家賃はじめ色々の経費が倍加した。
私が依然として会社生活を持続することにしたのは、
修行者に経費を負担させる事を私自身が喜ばないためであった。

ところが六月中ごろになって突然私のつとめていた神戸の外人会社が
横浜の某外人会社に併合される事に定まり、私の勤めている会社は大整理を行って
百人程の社員中二十数人だけが残されて横浜の合併会社へ吸収されることになったのである。

私は其の残される社員として七月初旬横浜へ行くよう幹部から非公式に通知を受けていた。
この事はその時今井楳軒翁にだけ話した。

ところが、六月十九日の本部誌友会席上で
『仮道場開場記念に次の月には講演会を開く事にしましょう』と、畑中氏が提案せられた。

七月初旬には会社の都合で横浜へ転任するはずの此の私が、
住吉で講演会を開く事に同意したのも自分ながら妙な感じがした。

私は横浜へ行くべきか、自ら進んで会社を退いて『生長の家』の仕事にのみ専ら
わが生命を注ぐべきかに思いまどっていた。

それは私が会社を退けば色々の経費を自分だけで負担するようにし
修行者に出来るだけ負担をかけないようにしていた財源がないことになると
一方には思えたのであった。

ところがまた仮道場を開いて以来、会社を続けている事には時間的無理が出来かけていた、
と言うのは会社生活に殆ど十時間を奪はれ、会社から帰って来ると、
修行者が既に待っていられるので、殆ど夕飯をたべる暇もなく、それらの人々に面接し、
話がのびて十一時頃になることも度々あった。

多くの誌友から悩みの訴えの手紙が来、遠隔治療の希望が来ていても
その返事をかいている時間がない。返事を書いていると『生長の家』を書いている暇が
なかったり、遠隔治療をしてあげる暇がなかったりする。

十人の遠隔治療をするにも一人宛て三十分を費やすとすれば、五時間を要する、
この時間は会社生活に十時間を奪われているわたしにはないのである。

従って一人宛ての遠隔治療に費やされる時間は段々短くなって来るし、
時には一定の時間を定めて置いてひと纏めに名前を呼び上げて祈願してあげるより
仕方のない時もあったり、是非返事を書かねばならぬ手紙も其の儘になったりした。

多くの誌友にこれは済まないと思う。
これではならない。

自分は会社を止めて、『生長の家』ひとすじに自分の生命を捧げねばならないと切に思う。
切に思いつつ尚躊躇する、

それは修行や施療に費用を誌友にかけないで自分ひとりで負って行きたいためであった。

かくして私は神に祈る――みこころの如くならしめ給へと。ところがみこころが動いた

七月二十二日私のつとめている会社の幹部から、前の非公式の横浜転任の通知を取り消して
七月三十一日をもって解職するとの辞令を私は受けたのであった。

顧みれば、あるべきものが表われ、来るべきものが来たのであった。

私はみこころに従ってひたすらに生きて行こう。
私は今ほどすがすがしい気持ちを知らぬ。
私の全生活が誌友全部に捧げられたものとなったのである。

私は諸君のものである。

これからはどの時間でも面会できるからいつ訪ねて来てくれても執筆の時間を加減して会う。
質問の手紙にも丁寧に応ずる。
遠隔治療の依頼者は、あらためてもう一度現在の病状を詳しく書き、
自筆の署名叉は掌の型を紙に印して送って欲しい、こちらから遠隔治療を行う時間を知らせる。

二ヶ月ばかり前から印刷経費の幾分を補う意味から生長の家付属の印刷部を開いてあるから、
何か印刷物の注文があったら、その方に命じて頂くと感謝する。

こんな訳で八月の本部誌友会も休まずに八月二十八日午後一時より集まることにしましたから
お出で下さい。

 
昭和七年八月一日
                               
 谷 口 雅 春


(「明窓浄机」草創篇・昭和5年~12年  P.56-59)           

http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/80/

          <感謝合掌 平成28年7月31日 頓首再拝>

宗教と自動車 - 伝統

2016/08/06 (Sat) 18:12:36


         *『生長の家』(昭和24年7月号 26~27頁)
           ~  中 林  政 吉


宗教というものを何か堅苦しいもの、面倒くさい儀礼、窮屈なもの、
しかつめらしいものであるかの如く思っている人があるかも知れないけれども、
これは大変な間違いであるのである。 

宗教というものは楽しむべきものであり、又楽しみ得るものなのである。 

宗教とは生命の歓喜を教えるものであるから、
宗教を生活に真に生きることができたならば、
生活がたのしくなり、宗教が楽しくなるのである。 

もし何か宗教を信じていてそこへ深い喜びが湧いて来ないとしたならば、
その宗教がまちがっているか、その宗教の信じ方がまちがっているかどちらかなのである。


宗教を自動車にたとえた人がある。 その人はいうのである。
 
「その自動車はのり心地がよろしいか。 もし、のり心地が悪ければ、
自動車の状態が悪いか、その操縦がへたであるかどちらかである。 
いい自動車ととりかえて、そのあつかいを適当にすれば、のり心地は満点である。 
宗教もその通りである。」  

というのである。

もしあなたの宗教が完全な喜びをあなたに与えないならば、
そんな宗教は、がたがたの自動車と同じようにのり捨ててしまって、
新しい宗教にのりかえればいいのである。 

宗教の価値も実用主義の立場から批判されねばならないのである。 
極楽へ行くというのも実用であれば現世に利益があるというのも実用である。 

しかし立派な教であるのに、それを完全に自分が操縦することができないからというので、
この宗教はまちがっているというのは、立派な自動車であるのに、
運転の仕方がわからないために、この自動車は故障があって動かないといって
捨ててしまうので同じである。


何故、自分の信じている宗教でお蔭がないのか。 
宗教そのものが悪いのであるか。 
自分がその宗教の教の組立てをしらず、それを如何に使用すべきかを知らないがために
お蔭がないのか。 その点をよく考えて見なければならないのである。

宗教も自動車と同じように、もっている人ともっていない人とがあるのである。 
又、もっていながら、ただ置いておく人と、それを自由に乗り廻す人とがあるのである。 
宗教も折角もっている限りは、それを運転して日常生活にのり廻すことが必要である。


吾々は富をもっている。 
どんな貧乏人でも多少の富をもっているのである。 
それを大きくする人としない人とがあるのである。 

富を増大する道は、今ある富を最大限に利用してそれを利殖することにあるのである。 
そのためには富の活用法を勉強しなければならないし、
実際に当って色々の場面に面して研究することが必要なのである。

宗教も同じことである。 
宗教をただもっているというだけでは、自動車のもちぐされと同じことである。 

「私の宗教は祖先から真宗でございます」 或は 「私の宗教は真言宗でございます」 
・・・ 等々というけれども、さて真宗とは何ですか、真言宗とはどういう生活をするのですか、
ときかれてみると何も知らぬ、ただ祖先がそういう名前の宗教を信じたというのでは、
祖先が、こんな古自動車を遺産に残しておいてくれたけれども使い道がわからない
というに等しいのである。

吾々は祖先の残してくれた宗教がどんな宗教であろうとも、
よくその構造を検べて見て、役に立つ部分を生かして、
それを実際に活用することができるようにすることが祖先に忠実なのである。


どんな自動車にも必ずエンジンがついているように、
どんな宗教にも必ず生きて働く部分があるのである。 

一ぺんも生きて働いたことのない宗教であるならば、
祖先がわざわざ残しておく筈がないのである。 

一度も運転したことのないエンジンのない自動車なら、
そんな自動車なら古金屋へとっくに払下げてしまって、現に残っている筈がないのである。 

それと同じく、今迄残っているような大宗教であるならば、
どこかで生きて働いている部分がある筈である。

宗教のエンジンともいうべき、生きて働く部分を 『真理』 というのである。 
吾々はどんな宗教にも真理が存在することを信じている。 
吾々は無暗に今までの宗教を破壊しようというのではないのである。 

どんなガタガタの古自動車のような宗教でもエンジンを動かすように修理し
部分品を近代的なものにとりかえると、かなり乗り心地よく運転さすことができるのである。

その真理というのは人間には、仏教的にいうならば 
「仏性」 即ち 「仏の生命」 が宿っているという事である。 

神道やキリスト教的にいうならば、
人間は神の子であり 「命(ミコト)」 であるということである。

それをただ自動車に貼り紙して 「この自動車にエンジンあり」 と
書いておくだけでは何にもならないのである。 

エンジンがあるとわかったならば、それを実地に運転する工夫をするということが必要である。 

それと同じように人間に 「仏の生命」 が宿っており、
「神の生命」 が宿っているということがわかったならば、
仏らしく、又神らしく実際に日常生活に生きることが必要なのである。 

そこから宗教のおかげというものが現われてくるのである。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a7f40b619d53a9cb0047daf909e755f2 より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>     

御先祖の加護は大きい - 伝統

2016/08/14 (Sun) 18:34:13


            *『生長の家』(昭和62年10月号)
             ~生長の家宇治別格本山総務  楠本 加美野

「大地は神様、根は先祖  幹は両親 子孫は枝葉
枝葉に花咲き、よき果を結ぶは 親に孝養 先祖に供養」 (『霊供養入門』)
と教えられています。

根は地中にあるので見えないが、根の大切さを知らない人はいない。 
先祖も見えないが根のように大切であるというわけです。

人間は「肉体が死んだら、後は灰になるだけ」という人生観からは、
霊界を肯定することもできないし、先祖をないがしろにして無視するようになります。

 
生長の家では、人間は 「肉体ではなく、霊的存在であり、生き通しである」 
という人生観であります。 

死ぬことは、この世からあの世に誕生することになります。 
そして現世の悪業の総決算が行われ、霊界で苦しんでいる霊もあります。
              (『生命の實相』 頭注版 9・10巻 霊界篇参照)


私は肺結核になり 『生命の實相』 を読んで死から救われたのです。 
この本こそ杖とも柱とも頼む御本であると爾来6年間、1日もかかさず 
『生命の實相』 を拝読しました。 

しかし 霊界篇 だけは興味がなく、そのため、先祖供養にも関心がなかったのです。

入信10年後、夢に描いた教員生活に生甲斐がなくなり、
学校を休み生長の家の練成会に参加しました。


「神に感謝しても、父母に感謝し得ない者は、神の心にかなわぬ」 (「大調和の神示」) 
との言葉により大切な父母に感謝していない誤りに気づきました。 

私の父は生まれてまもなく行方不明になり母が苦労して育ててくれました。 
13歳の時、継父ができました。 
私は実父を憎み、嫌いな継父と結婚した実母を責め、継父を憎んでいました。

 
御教えにふれて父母への感謝の祈りを捧げているうちに、
母に感謝でき、継父にも感謝できるようになりました。 

しかし実父には、生れてまもなく別れたままなので中々感謝できなかったのが、
御教えにふれた感謝の極みに達した時、私達母子を苦しめたと
永い間憎んでいた実父にも感謝ができたのです。 

私にとってこの体験こそは御教えにふれるために必要であったのです。 
父親が体験させてくれた御蔭で御教えにふれることができました。

父母に本当に感謝できた時 「大調和の神示」 にある通り 
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう」 
という聖句を信ずることができました。 

そしていつかは必ず行方不明の父にの会えるだろうという確信ができました。
 
それから2週間後でした。 私と友達の妹との婚約を解消するために友達の家を尋ねた時、
父親は既に亡くなっていたことが分り、その遺族の方に会うことができ、
実父の仏前で聖経 『甘露の法雨』 を誦げさせていただいたのでした。

こうした結婚問題がキッカケとなって亡父に会えたことから私は 
「親というものは、あの世に往ってからも、子供の結婚を心配し、
いつまでも子孫が繁栄することを願っているのである」 と染々と身をもって体験しました。 

その親である祖父、またその親も同じように子孫の繁栄を願って下さって、
今日の自分があるのだと心から御先祖に感謝することができました。 

それから早速仏壇を購入して、毎朝仏前で聖経 『甘露の法雨』 をあげ
先祖供養をするようになりました。


親は先祖のはじまりです。 
親に無条件に感謝できた時、先祖にも無条件に感謝できるようになるのであります。


その後に結婚の話が起った時のことです。 
先方の父がわざわざ祖父の出身地を尋ねたところ、
15代も続いた由緒あるお寺が私の実家であることがわかり、結婚することになりました。 

両親に感謝して先祖供養したら自分の先祖もわかり、
結婚もできて、子孫も繁栄するのであります。

 
祖先に対しても親に対するのと同様で 『霊供養入門』 には、

「祖霊に対しては聖経を読むときには、ただ尊敬と感謝の念をもって 
“今までもいろいろと子孫が受けて来た密れたる御恩、陽なる御恩に対して、
ただ感謝のためにこの真理のお経を霊界に対して放送しますから、どうぞお受取り下さいませ” 
と唱えて “ただ感謝” の念をもって読誦するのがよいのである」  

と教えられています。

先祖の霊が迷っているからお経を聴きなさいでは、霊魂は聴きに来ないかも知れません。

 
「人間の運命の半分は前世の業績、
4分の1は神又は高級霊の加護による運命の改善又は修正」
  (『霊供養入門』 参照) と言われていますが、

『生命の實相』 (第33巻) には、
谷口雅春先生御自身の体験を次のようにお書き下さっています。

「わたしにとって13日という日は実に不思議な日なのであります。 
この日、谷口家のお祖母さん、お祖父さんが亡くなった命日が13日なのであります。 
それからわたしの養父になる人のおっ母さんがやはり13日死んでいる。 

それからわたしの家内の両親がやはり13日に死んでいるのです。 ・・・

わたしが泥棒に入られて絶体絶命の立場に立たされたのが13日であります。 
ここに祖先の霊魂の導きというものが感じられます。 

祖先の霊魂がわたしを絶体絶命の境地に導き、
その絶体絶命がわたしを悟らせてくださったのであります。

諸君が悟ろうと思い、またこの世で成功しようと思うには祖先の礼拝を鄭重にし、
おのずから祖先の加護を受けるようにせねばなりません」

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e1231911d878bd55ce69bdd6676339a5 より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>    

愛深く - 伝統

2016/08/18 (Thu) 17:51:46


        *昭和40年5月7日~創立30周年記念白鳩会全国大会 における御講話
         ~生長の家白鳩会副総裁  谷口 恵美子 先生


谷口先生は、何時も各地をお廻りになっておりまして、
素晴しい講演をなさって沢山の方を救っていらっしゃいますけれども、
それは全てお金を貰うからではなくて、全部ただなのです。 

ただ与え切っていらっしゃいます。 
そうした天の倉に宝を積むことによって、
人も自分も本当の幸せになってゆくのでございます。

給料を上げてくれたら働くとか、何かくれたら、こうするとかいう風な
目先のことばかり捉われている人たちに、私たちは愛深い神の子の素晴しい生活を
弘めてゆきたいと思います。 

全て環境は心の影、みんな互に拝み合い、愛し合った時に、全ては良くなってくるのです。

谷口先生は 『女性の幸福365章』 の中に、こう書いていらっしゃいます。

  「愛は天上より天降って来た火である。  
   愛は神からの賜物のうち最高のものである。  
   何故なら神は愛そのものであるからである。

   誰かを自分が、自分の利益や幸福や快楽のためでなしに純粋に愛し得たとき、
   其処に神があらわれているのである。  

   臨終に当って、ただ一語 『わたしは愛した。 それがわたくしの生活であった』  
   と言い得るような人になりたいものである。  
   愛はまことにも天国の扉をひらく」


今眼をつぶってみて、自分はこの世を去る時に、本当に私は愛した! 
それが私の人生であった。 と言えるでしょうか。 
本当にそういう素晴しい愛を実行したいと思うのであります。

ただ一人の人を愛して、満足して死んでゆく人もあるでしょう。 
また誰ひとりも愛することができないで死んでゆく人もあります。 

先生のおっしゃる愛は一人の人を愛するというような小さな愛ではなく、
もっと広く大きな愛だと思います。

人類を光明化する運動などと言いますと、とても漠然として、
余りにも大きいことのように思いますけれども、皆さんの家庭にいらっしゃる
お父様やお母様御主人、お子様、また今お隣に坐っている方も、みんな人類なのです。 

ですから、身近な人を愛し、家庭を素晴しくしてゆくことが、
人類光明化運動の第一歩だと思います。

 
谷口先生は、朝5時から神想観をしていらっしゃいます。 
世界中の人が、本当に平和に幸福になるために祈っていて下さるのです。 

それは、あの人と和解したい、この病気を治したい、
子供を受験に成功させたいなどという風に祈られるような個人的な祈りではないのです。

 
私たちは、もっと大きな愛をもって、多くの人の幸せを考え、
身近なことから愛行を実践していった時に、素晴しい神の國が現われると思います。 

自分自身の家庭が調和し、どんなに幸福であっても、隣りの人が若し苦しんでいるとしたら、
やっぱりそれを見て自分は楽しいと言ってはいられない筈です。

 
先日、新聞に親を殺して刑務所に入っている青年が、

“俺が親を殺したのが、どうして悪い。 親は、お胎にいる子供を沢山殺しているではないか。 
親が子供を殺していながら、子供が親を殺してどうして悪いのか?” 

と叫んだということが書いてありました。

大人は胎児を沢山殺すことをしております。 
白鳩会の皆様は以前から、人命尊重運動を続け人々に呼びかけていらっしゃいますが、
もっと積極的にそういうことがなくなるように努力して頂きたいものです。

夫婦互いに愛し合い、親と子は拝み合って、
人間同志が感謝し合った生活をしたいと思いながら、
どうしたらばそういう生活ができるのか解らない方たちが沢山いるのです。 

人々の本当の善き姿を拝み、善き言葉で讃め合い感謝し合う生活が第一です。 
ことに言葉の力というものは大切だと思います。


谷口先生は毎朝神想観をなさり、夜も神想観をなさって絶えず祈りながら、
もう70を越されましたのに、まだ各地を廻って一所懸命に御教を伝えていて下さるのです。 

もうこれ位のお年になれば、大抵の方は家庭の心配もないし、
のんびりと家にいて、好きな本を読んだり、お芝居を見たり、詩を書いたり、
絵を描いたりなさいます。 

先生もいくらでもなさりたいことは沢山あるのです。 
けれども、自分には人類光明化運動をする使命があると感じ、
思うだけでなく、実行していらっしゃるのです。

皆様も、思うだけではなく、先生の後について絶えず祈り、
神誌を拝読し、信念を強めながら、政界浄化のために、人命尊重運動のために、
マスコミ浄化のために。 愛深く生甲斐ある生活をして頂きたいと思います。

 
もう一度、谷口先生の言葉を読ませて頂きます。


  「愛は天上より天降って来た火である。  
   愛は神からの賜物のうち最高のものである。  
   何故なら神は愛そのものであるからである。

   誰かを自分が、自分の利益や幸福や快楽のためでなしに純粋に愛し得たとき、
   其処に神があらわれているのである。  

   臨終に当って、ただ一語 『わたしは愛した。 それがわたくしの生活であった』  
   と言い得るような人になりたいものである。  
   愛はまことにも天国の扉をひらく」

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/387c432bc56ca40b15d1ff794b850cdd より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝> 

料理の中に神さんが見えるようになりました。 - 伝統

2016/08/23 (Tue) 18:37:25


        *『光の泉』  昭和57年6月号 より

TBSドラマ『天皇の料理番』  久々に良質な番組を拝見いたしました

さて、『生命の實相』 第6巻(頭注版) に紹介されている
森川政輝さんも大臣表彰に輝く料理人です。

                     『光の泉』誌  編集部

《 ・・・ 小豆島を郷里とする青年に森川政輝という方があります。 
結核で寝ていられたのでありますが、生長の家の聖典 『生命の實相』 を
読んでいられるうちに、一日忽然として肉体はありながら、
今現に病気でないところの「本当の自分」を悟られたのであります。 

・・・ この森川政輝さんは病気の最中にいて、
この「病気でない自分 ― 健康な自分 ― 本当の自分 ― 神の子なる自分」を
悟られたのでありますから偉いのであります。 
つまり自覚に更生ができたのであります》 

(『生命の實相』 第6巻 56~60頁 参照)


これは森川さんが20歳頃の話である。 
あれから50年、生長の家の御教えをひたすら生きつづけた森川さんは、
地元香川県知事から“県民の誇り”と賞讃されるほどの料理人となっている。

一昨年〈※昭和55年〉には「多年、調理師として調理技術の向上に尽した」として
厚生大臣表彰に輝いた。 
料理の技術はもちろんであるが、永年にわたる地域社会への貢献が認められての
厚生大臣表彰であっただけに、森川さんも、感慨ひとしおといった面持ちだ。

「仕事柄、料理人の世界というのは、とかく生活が乱れやすくてね、
ぐれた人間の集まりみたいに見られたりしたこともありました。 

でも私は生長の家の生き方を生きて来ました。 
そのお蔭で現在でも“あの人についていたら間違いない”と言っていただくほどの
料理人にならせていただいた。 

大臣表彰をいただいたのも、県の料理界で私の人格というか、
これまでの歩みを認めてもらったからだと思います。 

谷口先生に、ひと言そのお礼が言いたくて ・・・ 」

 
日本料理ひと筋に歩んで来た森川さん。 
この道に入るきっかけになったのは、谷口雅春先生がおっしゃった
‘あの’ひと言があったからだ、という。 

あのひと言とは? 話は森川さんが結核で寝ていた昭和初期にさかのぼる ―― 。


結核といえば“死病”とも恐れられていた当時のこと。 特効薬とてない。 
“結核”と診断されたとき、森川さんは「深い谷底に突き落された」ような気持だった。 
3年、4年と家庭療養していても、一向に快くならない。 

そうしたときに、「生長の家」の“病気無し” “物質無し”の真理にふれた森川さん。 
「この真理がわからなければ死んでもよい」とさえ思った。 
それくらいの覚悟で 『生命の實相』 ととり組んだ。 いのち懸けであった。

 
そんなある日、ある時のこと ―― 
「本当の自分は病気しとる自分じゃない、現象の奥にある本当の自分が、
一遍にパッとわかったんです。 あのときの感激は一生忘れませんね。 
ああ、このまま自分は無限じゃないか! 

“闇の夜に鳴かぬ烏の声聴けば生まれぬ前の元ぞ恋しき”という道歌がありますが、
ああ、これだなと思ったね。 生命の本体が、一遍につかめたような感じでした」

 
自分が変わるとともに、日に日に健康を回復して行った森川さんは、
自分が救われたよろこびを同病に悩む人々に伝えようと、郷里小豆島を離れ、
明石の結核療養所に勤務することになる。

 
「どんな病気をしとっても、本体は皆んな立派な神の子の‘いのち’じゃ、
生長の家にそう書いてあるからな、これを読んだらよくわかるから ・・・ 」

 
療養所で働くかたわら、森川さんは患者さんに生長の家の真理を伝えて廻った。 
医療の手当とてなく、ただ病いの床に臥しているといった当時の状態の患者さんにとって、
生長の家の教えは“希望の福音”となった。 

真理の力は偉大であった。 このことを 『生命の實相』 にはこう記されている ――

《 ・・・ 療養している患者の自覚が誘導されて
「神の子」の自覚に更生し始めたのであります。 

森川政輝さんが 『生命の實相』 を2,3冊貸してあげて生命の真理を説明をなさると、
絶対安静で少なくとも半年も入院加療しているはずの患者が、3,4日にして起き上がり
健康を回復して、その療養宿舎を出るなどということが頻繁に起こったのであります》 
(同書 58頁)

しかしながら、療養所としても患者がそんなに早く治ってしまったのでは経営が成り立たない。 
やむなく、森川さんは療養所を解雇させられるはめになった。 

ところが、それは森川さんにとって新しい人生への転機となった。


 
◇谷口先生のひと言で料理人に

「療養所を首になって、住吉の谷口先生のところへ参りました折、
先生は、“森川さん、あなたは料理ができますか” とおっしゃったんです。 
なぜそうおっしゃったのか、あのとき、その意味がよくわからなかったもので、
私はただ、“何もできません”とお答えしただけでしたが ・・・ 」

 
生長の家が立教した昭和5年から、2,3年ほど経った頃の話である。 
誌友も増え来訪者も日毎に多くなってきたため、谷口先生御一家は
藤棚の家 〈生長の家発祥の家〉 から近くの2階家に居を移され、
その2階を仮見真道場とされていた。 

道場は毎日のように誌友会が開かれ、神想観の実修も、
誌友一人ひとりが谷口先生直々の指導を受けることができた。 
森川さんもその一人であった。 

病人を救うために生長の家の真理を説いた森川さんが、
勤務先を解雇され生活に困るというのでは申し訳ない。 

そう思われた谷口先生は森川さんの新しい就職先を考えておられたのであった。

「20歳過ぎの私が、これから何で身を立てて行ったらよいか、
まだわからなかったのですが、あのとき先生が、“料理できますか” とおっしゃった、
そのひと言でヒントをいただいたような気がしました。 印象深いお言葉でした。 
料理人になろうと、本腰を入れたのはそれからでした」

料理人の道を志した森川さんは、淡輪ホームという療養所で2,3年料理の仕事をしたあと、
大阪の名のある料理屋に入り、日本料理を10年間みっちり研究、腕を磨いた。 

戦争が激しくなった昭和19年、生まれ故郷の小豆島に戻った森川さんは、
翌20年からは 「観海楼」 という小豆島でも最も格式が高い旅館で
働く光栄に恵まれた。

小豆島における谷口雅春先生の最初の講習会〈昭和23年〉も会場は観海楼であった。 
ここのご主人〈先代〉は昭和9年頃からの熱心な生長の家の信徒で、
香川県の初代講師会長も努められた。

 
「先代のご主人は島全体の生長の家のいろんな役職をなさってましたから、
私はその代理として動かしてもらいました。 
谷口先生の講習会のときは、自転車に乗って島中宣伝して廻ったものです。 

私がこのように大臣表彰をいただくまでには、
やはり観海楼のご主人が生長の家をご熱心にやっておられたからだと思います。 

料理人というのは勤め先によっては生活が乱れやすいんです。 
気の忙しい仕事でしてね。 
料理一つに打ち込めたのも、ここで働けたからだと思います」


 ◇仕事の中に信仰を生きる

温厚、誠実な人柄である森川さんは、料理の研究にかけては人一倍のご熱心、
唯一の趣味だとおっしゃる“カメラ”にしても、「できあがった料理を記録しておく」のが
目的ではじめたものとか。 

今でも森川さんは、夜寝るときには枕許にノートと鉛筆を忘れずに置いておく。 
夜中にフッと目が覚め頭に浮んだアイディアを書きとめておくと
料理作りに大変役立つのだという。
 
 
観光地となれば、その土地独特の料理を作りたいというのが、
ホテル業者のみならず土地の人の願いである。 

森川さんはオリーブの島・小豆島の味を生かして“オリーブ焼”を発案。 
他所では味わえない風味とあって、旅人をよろこばしている。 
地元の一般家庭でも郷土料理として広まっているとか。

 
「仕事の中に御教えを生きよう、常にこの気持で歩んで来ました。 
“お客様は神様だ”とよく言いますが、事実この言葉をかみしめてみたら、
本当にその通りだと思います。 

神様にお供えを作っているんだという気持があれば、自然と料理に心がこもります。 
細かいところまで心がとどく、包丁の入れよう一つで、お客さんの食べよい料理ができあがる。 
料理は深切が第一です。 

谷口先生にもお手紙に書いて申し上げたことなんですが、
“料理の中に神さんが見えるようになりました”」

 
道を極めた人の言葉には、聞く人の心を打つものがある。 
森川さんは、戦後30年間お世話になった観海楼を昭和49年に退職、
その後7年間は国民宿舎小豆島の調理主任として腕を揮った。 

観海楼の奥様は、森川さんのことをこう話される。

「森川さんは、お味付がとっても上手なんです。 
お客様からいつもお賞めいただいていました。 
誠心込めて一所懸命働いてくれましたから、お料理のお味も本当に天下一品で。 

自慢ではございませんが“観海楼へ行ったら美味しい料理が食べられる”と
皆さんよろこんで来て下さいます。 
それだけに料理人さんの技術面が優れていると思いますね」

 
森川さんは昨年3月に現役を退いたものの、
地元の婦人会や各種の団体を対象にした料理講習会を開いたり、
婚礼料理を頼まれたりで、忙しい毎日がつづいている。 

地元、小豆島の生長の家相愛会長としても活躍。

「生長の家の生き方で今日までやって来ましたので、老後が非常に安定したように思います。 
今までの経験があるもので料理のことでいろいろ頼まれますが、生き甲斐ある毎日を
送らしていただいています。 幾つになっても料理を離れるのは淋しいものでしてね」

 
生長の家立教当初から73歳になる今日まで、御教えと共に歩んで来た森川さん。 
その森川さんにとって、“生長の家” とは?

「人間として生きて行くうえに、どうしても把握しなければならない教えです。 
どんな仕事でも、生長の家の生き方で行けば間違いありません」
 
     ― ‐ ― ‐ ―

◆森川さんが結核のときに生長の家を知り、「誌友になりたい」と
 谷口雅春先生にお手紙を差出すと、谷口先生は早速次のようなお便りを下さった。 

 〈日付は 昭和6年11月3日 住所は 兵庫縣住吉村八甲田690 生長の家 谷口雅春〉

 『御葉書拝見致しました。 永らく御病気でゐられたのでは却々大変な御苦労なことでせう。 
  誌友におなり下さる由別便にて、生長の家と小冊子2冊とを送りました。 
  誌代は出来たときに送って下さったら宜しい。 

  貴方のやうな方が助かって喜んで下さったら結構です。 
  同じやうに病の人があれば勧めてあげて下さい』


◆生長の家の聖典 『生命の實相』 の初版本は 昭和7年1月1日 に発行されたが、
 森川さんはその購入予約申込みすると、まさに昭和7年の元旦に自宅に郵送されて来たという。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/01802a24b260231152a1814db4a69372 より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝> 

不動明王の自由自在の働きこそ坐禅の姿 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 20:05:04


           *『維摩経』を現代に生かす 第9回 より

維摩はすばらしいですね。

例えば“国家を救おう!”という気持は、それはある意味から言うと煩悩である。 
しかしそれは“私”の願いではない。 それは“自分”が動いているのではない。 

宇宙に満ちているところの真理が動き出す。 
また一人一人の内に在るところの仏性が動き出す。

仏性が動き出して、そして “人類を救わずにおれない” “国家を救わずにおれない” 
という動きがそこに現われて来て、自らそこに 生長の家学生会全国総連合 〈生学連〉 
というのが現われ、全国学生自治体連絡協議会というのが現われ、

そして今、全学連が暴れているようなこの険しい世界の中においてですね、
それらの暴れる有様を自ら静かなる真理を導いていくというようにするのが、
これが維摩の説いているところの本当の 「煩悩を断ぜずして煩悩自ら浄まる」 
ということになるわけなんです。

 
それで、維摩は次のように言っている。 
テキストの 『維摩経解釋』 の108頁の終りから4行目です。

 
『寂然のみなるが座禅ではない』

寂然 ・・・ 寂というのは静寂の寂です。 
茶道の極意の 「和敬静寂」 の寂。 

それで 「寂然のみなるが坐禅ではない」 というのは、
静寂に、すなわち寂としてこう坐っているだけが坐禅ではないのである、
と言われたのであります。

『 ・・・ 坐禅というと静かに坐して、林の中か山の中に籠って実相を観じている。 
それだけが坐禅かと思ったらそれだけではないのである。 
・・・ 「或は縄をもって相手を縛し」 ・・・ 』 とテキストには書かれていますが、 
このような不動明王の姿、働きも出てこなければならないと言うのであります。

本当の坐禅のところからは、 「或は縄をもって相手を縛し」 という
不動明王の姿も出てこなければならないが、 
「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」 
といった姿も出て来なければならない。

 ――  素晴しいじゃないですか、
今こそこういう坐禅が日本を救うために必要であると思うわけなんであります。

「或は剣を出して相手に擬し、而も尚不動寂然なるが坐禅である」
 ・・・ 不動明王というから、名前が不動だからちっとも動けないかと思ったら
そうじゃないのであって、一方の手には剣をもち、一方には三ぞう半の縄をもって
自由自在である。 

縛るべきものは縛り、殺すべきものは必ず殺し、断ち切るべきものは断じて断ち切る。 
これが不動明王の自由自在の姿である。 

是が本当の坐禅の姿である、というのであります。

これを、ときどき間違う人がある。 丁度、舎利弗が “ただ坐っておるのが坐禅か” 
と思っておったら、そうしたら維摩に遣り込められたように、生長の家の信者の中にも、

「生長の家は一切大調和であるから、大調和であるなら、殴られても
何もしないでお辞儀をしているのがそれが生長の家ではないか」 と、
とり違える人がある。

生長の家が生政連 〈生長の家政治連合〉 という政治結社を拵えたのも、
宗教はただ道場で道を説いたり坐禅をしたりしているだけが宗教ではない
と考えるからであります。 人

間を救うためには、政治が動かなければならない。 
法律が一つ変わると、三百万人の胎児が毎年殺されて 〈堕胎されて〉 いるのが、
その中の3分の2位 〈2百万人位〉 は助かる。 

それが分っていながら、「宗教は汚ない汚ない政治界に進出すべきものではないのである」 
と言ってじっと坐禅だけをしているようなのでは、これは本当の宗教ではないのであります。

吾々の代表を議会に送って、優生保護法で 「いつでも堕胎してもいいのである」 
などというような現行の法律を無くしてしまって、多くの幼い生命を助けてやろう! 
と動き出すのも、坐禅であるというわけであります。


『 ・・・ 相手を自由に不動明王の縄をもって捕縛する。 
斬るべきものは斬り、捨つべきものは捨てて、取るべきものは取る、
相手に従って自由自在である。 

これが本当の大調和である。 大
調和といったら何でもお辞儀をして、
無抵抗でいるのが大調和かと思ったら必ずしもそうではない。 

大調和というのは、その時その場の主人公になることである。 ・・・ 』

 
禅宗の言葉に 「随所作主」 という言葉がありますね。 
大調和こそ 「随所作主」 即ち所に随って、どこへ往っても自由自在に
自分が主人公となるのであります。 

自分が主人公にならなければ駄目なのです。 

奴隷となってはいかん。 
環境の奴隷になったり、制度の奴隷になたり、あるいは、正しいようだけれども、
道徳の奴隷になってもいかん。

どんなものにも縛られないで、自分の内から出てくる仏性 〈仏の本性〉 の動きのままに
自由自在に動き出すのが、これが本当の坐禅であり、大調和である。

環境に支配されたり、相手に打ち負かされたりして
お辞儀しているのが大調和ではないのである。 

相手の隙を見てその隙が分って、相手を叩き伏せることによって、
相手を正しく導くのが坐禅であるというわけなのであります。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ff1718590d85e33ffe14851a195d921d より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝> 

神の生命が咲いている - 伝統

2016/08/30 (Tue) 20:04:07


          *『光の国から』渋谷晴雄・著(P221~222)より

谷口雅春先生は、『新日本の心』で、ある婦人が、水仙の花を見て、
それが神の生命が咲いていると感じた体験談を紹介して次のように言っておられる。

< 先日、白鳩の集まりの席で或る奥さんが、これは体験談じゃありませんけれども、
と被仰って話し出されましたが、それは実に素晴らしい体験談だと私は思うのであります。

体験談と云いますと病気が治ったことだと思っていられる方もあるかもしれませんけれども、
病気が治るだけが体験談じゃないのでありまして、
もっと深い体験談があってもいい訳であります。>(一0八頁、原文は正漢字・旧かな遣い)

 
たしかに、この『聖使命』紙に載っている体験談はそういった“深い”体験談である。
それは“聖なる自己の発見”といっていいと思う。

“聖なる”という形容詞のもつその内実は、
この体験によってはじめて体験者にはわかったはずである。
ということは、それを理解する私たちにも、
同じような体験がなければ感情移入をすることが出来ないことになる。

 
宗教体験を理解するということのむずかしさは、
同じような深みや高みを既に体験している人でなければ本来わからない世界がある
ということである。

しかし、そうした至難のことを、谷口雅春先生は文章の力によって
『生命の實相』に流露された。

そのご文章に吸い込まれているうちに、心が浄化され回心が起る。

今回の末松さんの体験も『生命の實相』を読んでいて突然訪れた体験である。

これらの体験は、見る者と見られるものとの対立が見せかけのものであり、
心の目を開くと、自他一体のかがやかしい世界が今此処にあるのだということを教える。

見るものは、すべていのちに、輝いている。
そしてその輝きを見ている自分自身も光かがやいているのであった。

こうした体験は、深い心境の産物であると同時に、私たちの住んでいる世界の、
より深い層が顕われたということであり、
あるいはそうした層が認識されたということである。

それはこの世界が「相即相入」であることの認識でもある。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/1522 より転写)

          <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝> 

弱いあなたは本当のあなたではありません - 伝統

2016/09/20 (Tue) 18:47:25


          *生長の家本部祈願指導課課長  磯村 得彌


人間は神の子であって、本来は完全円満無限力である、と教えられています。 
完全円満無限力のままでありながら、「現象は心の影」であるといわれている通り、
「私はこの程度のものだ」と信じている姿を現わしています。

すでに完全、すでに救われずみで、
そのうえ自分の心の相を現実に映しているのだと判ると、
こんなに愉快なことはありません。

「私はこのようになりたい」という意志の力よりも、
「私はこのようなものだ」という観念の力の方が、はるかに大きいのですから、
「強い人間になりたい」と思っても、「私は気が弱い」と信じている限り、
強い人間にはなりがたいのです。

 
人間は神の子ですから、本質的には弱くなることができないものであることに、
目覚めればよいのです。 

そして後は、再び勘違いしないように、
神想観をして、実相を観る習慣をつければよいのです。

谷口雅春先生は、御講話の中で、しばしばガスの炎の話をして下さいました。 
即ち、ガスコンロのガスの炎が、一分前の炎と同じ色、型状、カロリーで燃えていても、
1分前の炎は、既に炭酸ガスとなって、空中に飛散してしまっている。

今燃えている炎は、今この瞬間、ホースから出てきた新鮮なガスである、
という意味のお話でした。

 
あなたは、毎日新鮮な神の国から、神の生命を頂いて生きていらっしゃるのです。 
意気地なしの弱いあなたなど、どこを探してみても、存在しないのです。 
ただ過去の記憶を後生大事に、心の中でつかんで、離さずにいるだけです。

それはちょうど、夢を見ているのと同じであります。

無いものを在ると信じているのですから、さかさまの想い、即ち顛倒夢想であります。 
般若心経に 「遠離顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏」 というのは、まさにこのことです。


私は毎朝、生長の家本部の祈りの塔の中で、多数の方の神癒祈願をさせていただいています。 
神癒祈願というのは、神が言葉の力によってお造りになったままの、
完全円満な実相身を直視して、讃嘆礼拝することが中心になっています。

すべての人が、一度も病気になったことがない、罪を犯したことがないのが実相であります。

私は祈りの塔から降りてくる時、しばしば、

 「ここにいる者は何者ぞ!」
 「神の生命の一部がここにいる」

 「磯村はどこにいるか?」
 「神のいのちの一部に父親が符号をつけただけだ。 
  従って、取り越し苦労をしたり、悩んだり、腹を立てたりする磯村なるものは、
  地上の何処を探してもいない。 神と一体となって、すべての人に愛念を送る主体が、
  ここにあるだけだ」

こんなことを、自問自答しながら階段を降りるのが常であります。


あなたも、気の弱い自分を修正したい、などと考える必要は少しもないのです。 
私達は、自由が与えられています。 
過去の経験によって、「私は弱い女性、意気地なしの女性」と
暗示をかけているに過ぎないのです。

ときどき、「生長の家の教えは、よい暗示をかける教えですか?」
と問われる人がおりますが、

私はその人に、 

「生長の家は、真実〈真理〉を教えて、悪夢から目覚めさせ、
神と一体となって、神の本質である愛の生活をすることを教えるのです。 
そこには一切の劣等感、罪、病、死もなくなってしまうのです。 
キリストが教えた 『汝、真理を知らざるべからず。 真理は汝を自由ならしめん』 
の言葉通り、全く自由の境涯に導く教えです」 

と、申し上げるのです。

人の性格は変わらない、という人がありますが、真理を知ったら変わります。 
罪の子から神の子に、生まれ変わるからです。

私は気が小さくて、多数の人の前で話ができませんでしたが、
今ではできるだけ多数の人の前で、神様のお話をすることが一番好きになりました。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/b17b44ffd8eefc79900ca0b0d0c5d90a より転写)

          <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝> 

私が少年の時から称えていた言葉は? ― 『正信偈』 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 19:21:58


         *昭和59年2月16日 生長の家総本山 
          「第51回 龍宮住吉本宮団体参拝練成会」 御講話

仏典には 「一切衆生仏性あり」 と書かれています。 
これを漢字ばかりで書いたら 「一切衆生悉有仏性」 と漢字を列べて書いてある。 

一切衆生 〈すべての衆生〉 は  ―  衆生とは多くの人間はだ、
悉く仏性あり 〈悉有仏性〉 と書かれている。 

仏性ありとは仏の本性があるということである。 

仏性が人間だ、人間を仏性と自覚せよ。 
自覚によってこの仏性が開いたら如来だ。 

如来とは真如という宇宙の本体から来り生れた真如の如という字と、
“来り生れる” の “来” という字を取って、それで人間は如来だ
  ―  とこういうように名付けられているわけなんです。

 
皆さんは悉くみな如来なんですよ。 
何某如来なんです。 
東方阿しゅく如来、西方阿弥陀如来と肩並べて、
皆さんは阿弥陀如来と同列の同じ生命を有っていられるんだ。 

「帰命無量寿如来、南無不可思議光」 と云って
 『正信偈』 と浄土真宗のお経には書いてある。

「帰命無量寿如来」 の帰命とは、帰(き)は帰する、命(みょう)は命(いのち)、
帰命無量寿如来の無量寿とは無限の分量の寿命だ。 
その真如から来生(らいしょう)したから、無量寿如来だ、
阿弥陀如来の生命と同じに帰一することです。 

吾々の命は、阿弥陀如来の生命と同じ生命なんだ。 
無量寿の自分の生命をその本元に帰一せしめる。 
これが帰命、帰は帰るという字です。

 「帰命無量寿如来」 とは自分の生命を無量寿の本源に帰一せしめることである。 
無量寿如来と云うのは阿弥陀如来のことを言う。 
無限の生命で死することが無いのである。 

吾々は皆、無量寿如来だ。 
堅固法身の無量寿如来だ。 

「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 と云って、
私は少年の時から称えていた。


私は少年の時、大阪で育った。 
それで天満にある大きな真宗のお寺の本堂へ毎朝行って、
法要の時の裃を着て威儀を正して、
あの 「帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時」 とある、
あのお経を唱えたもんだ。 

私の義父は安藝門徒と云って、門徒というのは特に真宗の信者に限って名づけられていた。 
そんな幼い時にはその意味も何もよく分らなかったが、分らないでも功徳がある。 
それは “言葉の力” というものだ。

それで幼い時から 「帰命無量寿如来」 と毎日称えさせられていたので
今でも潜在意識に深く印象されている。 

帰命の命(みょう)という字は命(いのち)で、
帰は帰する  ―  元に返ることであります。 

自分の生命は仮にここに肉体として生れているけれども、
肉体から出たんじゃないんだ、神様 〈如来〉 の生命が‘ここ’に生れて来たのである。 

その如来の生命がその生命の本性を自覚して
本来の如来さまに自分の生命を返し奉る  ―  これが帰命であります。

命(みょう)とは命(いのち)で、帰は帰する。 
帰一することで、「帰命無量寿如来不可思議光」 と云って、
僕は少年時代に大阪の天満で育って、そこの大きなお寺に行って、
いつもそのお経を唱えておった。 

意味は分らんけれども、しかし言葉の力で、
意味も分らないでも唱えておったら潜在意識で分る。 

生命の本質、潜在意識の奥底には神の生命が宿っているんだから、
現象の脳髄は生れてまだ幼いから分らんけれども、
ここに宿っているところの本性は、無量寿如来の生命であるんだから、
それを唱えたら分るんだ。

 
「帰命無量寿如来不可思議光」
  ―  “南無” と云うのは “帰命” と言うことの梵語です。 

つまり、不可思議な光の如来様に帰し奉る  ―  ということであって、
私の命は如来から生れて来たから、それを自覚して、
「ここに来ている命は私の生命ではございません。 如来の命です。 

今まで “俺の命” “儂の命” “私の命” と思っておったのは間違いでございます。 
私の生命は無量寿如来様の命でございます」 と唱える。 

無量寿とは無限の生命と書いてある。 
仏教では無量寿如来とも、阿弥陀如来とも言う。 

「南無阿弥陀仏」 と唱えると極楽浄土へ行くと云う、あれは嘘ではないんですよ。 
死際に唱えるだけじゃいかん。 
「南無不可思議光」 と、この不可思議な如来の光に南無し奉る。 

南無とは帰命であって、「ここに来ている命は如来様あなたの命でございます」 
と毎日唱えるんです。 それが所謂、「南無阿弥陀仏」 と云う梵語で唱えるんだ。

ここに生きている命は女の子宮から生れた肉体の塊りの命じゃないんだ。 
無量寿如来の命が‘ここ’に来ているんだ  ―  と自覚するんです。 

帰命の命(みょう)という字は命(いのち)であり、
帰(き)という字は帰(かえ)るという字。 
つまり 「元へ帰る」 帰一することです。 

この命を無量寿如来  ―  言い替えると阿弥陀如来  ―  に返すと云うことです。 
返すと言っても持って行って返すんじゃない。 

自覚が新たになって、今まで肉体の命だと思っておったがそうじゃないんだ、
無量寿如来 〈無量とは量り知れない無限の生命(いのち)〉 の如来様の生命、
阿弥陀如来様の生命がここに生きているんだと、それを自覚するんだ。 

これが本当の信仰だ。

「神様、私は貧乏ですからちっと金持にして下さい」 
なんてケチなことを言って頼むのは信仰じゃないんだ。 

ここに無量寿如来が生きていらっしゃるんだと、自覚によってそれを拝むんだ。 
「帰命無量寿如来南無不可思議光 ・・・ 」 肉眼ではその光は見えないから
不可思議光だけれども、あの光は霊光であって、十方世界を照らしている。 

それは如来様だけのことじゃない、吾々も皆さんも如来だ。 
如来というのは宇宙の本体を仏教では真如と云うのです。 
真は真理の真という字です。 

真理がここに姿を現わし、無量寿如来、
真如 〈真如の真(まこと)、如と言うのは、いっぱいに、
普遍的に充ち満ちているものを“如”と云うのです〉 

その真如から生れたから吾々は “如来”  ―  とこう云うわけなんです。

それだから吾々は如来である、皆さんも如来である。 
如来が如来を拝むのである。 こんな有難いことはない。 

皆さんは手を拍(たた)いて拝むと、私の云うことが分るんだ、
分るから有難くなって皆な一緒に手を拍くんだ。 

皆さんは如来である。 
この自覚をだ、それをねぇ、与えるのが本当の教育と云うものである。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/01d01b2d3f937500d483e0c096e95807 より転写)
 
          <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝> 

リューマチを治す - 伝統

2016/10/13 (Thu) 13:59:45


        *生長の家本部 祈願指導課  長谷川 三千代


先ず、貴女のご質問の 「主人のことを考えずに自分の病気だけ治す方法を教えて下さい」 
にはお答え出来ません。 何故ならばご主人に対する貴女のお心持が変わらない限り、
リューマチは消えないのです。

若し貴女の心が変われば、リューマチが消えるばかりでなく、
夫婦円満の姿が現われてまいります。

『生命の實相』 25巻〈※頭注版〉 34頁にリューマチが即座に治った例として、
膝関節のリューマチでいろいろ治療しても治らず歩行困難で、玄関から座敷まで這って来た
大工さんが、

谷口雅春先生から 

「仲の悪い人と心の中で‘仲直り’をしなさい。 そうしたらリューマチは即座に治る」 

と教えられ神想観を実修をしたところ、
即座に治って勝手に立ち上がって歩き出したということです、 とあります。

 
又 『美と健康の創造』 17頁には全身リューマチで全身が1枚の板のように硬くなり、
医者からもう全然治らない、とうていこの患者は長く生きのびることはできない
と言われた人が、

谷口雅春先生に手紙でこの難病はどうしたら治るかとお尋ねしたところ、 

「一切の物に、事に、人に‘感謝’して
1日に1万遍 “ありがとうございます” と唱えなさい」 

と教えられました。 

早速実行すると感謝の思いが湧き出るようになり、
しだいに指が動き、手が動き、やがて全身が動き出したのです、 と書かれています。

 
ご主人への感謝こそ病が治る秘訣なのです。 

妻が20年もリューマチをしていても離婚もせず、貴女を養い治病させて下さる夫は、
本当は非常に愛深い方なのです。 三世に渡ってお前と一緒になるというのは
心の奥底で貴女を愛しておられるのです。 

又仕事先から帰るといつも貴女を探す夫は、貴女が家庭にいることを
心から喜び安心をされるからなのです。

こんなに愛情の厚い夫に、貴女は心から感謝をなさるべきです。 

それを貴女は有難く受けないで不満ばかり言うので、
ご主人は言葉の上で荒々しくなってしまうのです。 

夫と‘調和’するためには、妻が “我” を捨て
夫の言われることに素直に従ってゆこうと一大決意をなされば調和が出来るのです。


貴女は 『生命の實相』 を5巻読み、『甘露の法雨』 も毎日誦げておられるようですが、
病気が治りたい気持で読むのは不満の心ですから、神様と波長が合わず癒され難いのです。 

 
本当の信仰とは 「人間の生命の実相は神の生命である」 ということで、

貴女の生命(いのち)は神の生命で、貴女の内に神様が在すということです。 

自分の内の神様に感謝出来た時、夫の内にいます神様にも感謝出来るようになります。 

『生命の實相』 34巻〈※頭注版〉 163頁には自分の内に神がいられることを
「ハッ」と悟って、30年来のリューマチが消えた鮮かな体験が出ております。 

貴女は生長の家の教の焦点がわからないと言われますが、
人の、物の奥にある‘神の生命’を拝むということで、焦点は、はっきりしております。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/1b07e8596c45701fc9ed8b79b4a0a7e9 より転写)

          <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝> 

明治の日本人の愛國心が日本を護った - 伝統

2016/10/17 (Mon) 18:40:46


           *放送人生読本 『光の泉』(昭和37年5月号)より

日教組の或る学校の先生は、日本は侵略国であるなどと言って、
日本の学童に対して、日本国民自身が、日本国に対する尊敬の念、信頼の念を失わしめて、
自己劣等感を起こさしめるような教育を施しているという話を時々私は耳にするのであります。

満州国に日本が進出した事でも、あれは日本が満州を侵略したんだ、
とこういう風に説くのでありますけれども、
これは決して私は侵略したんじゃないと思う。

大体、ヴァスコ・ダ・ガマがアジア方面にやって来て、
アジアに天然資源の多い肥沃の土地を発見し、
あまり科学的文明の発達していない原住民を見出した。 

それ以来、白色人種は此処へ科学文明をもって、武器を持っておどし、
それを降伏さして、殖民し、アジアを分割して占領したら非常に儲かると考えまして、
アジアの各地を或は属領とし、或は植民地としたのでありますが、

北方からは黒龍江を越えてロシアが南下して来て、更にシベリアへ入って来、
満州へ入って来て、そして朝鮮へ入って来て、朝鮮を足場にして日本を窺う形勢になった。 

それを防ぐために戦ったのが 日露戦争 であります。

あの時代に、若し明治の日本人が、吾々の祖先の日本人が、
愛国心が若し無くて、誰が日本の国を治めたっていいんだ、
ロシア人が治めてくれたって、人民さえ幸福ならいいじゃないか、
と云う様な気持でロシアの南下に対して抵抗しなかったら、
今時分、日本はロシアの属国又は植民地になってしまっている。

そしてどうも今、アルジェリアがフランスから独立しようと思っても、
フランスの旧軍人たちが、いろいろと工作して圧迫しているように、
日本も今時分にソ連から独立しようと思ったって
中々独立出来ないようになっていると思うですよ。

大体植民地政策というものはその地の文化を低い程度におさえておいて
科学文明を発達させずに、原料、資源を植民地から安い値段で購入し、
それを加工して高値で植民地に売りつけて搾取するので、
いつまでも植民地の科学文明も工業も発達せず、乏しい未開の状態におかれるのです。

 
ところがですね。 

あの時代の日本の祖先がロシアに対して敢然として愛国心を以て戦ってくれたお蔭で、
満州でロシアの南下を防ぎとめて、日本がロシアの侵略していた満州を利権を得る
という事になった。

併しそれは侵略したんじゃなくて、ロシアが侵略して来ておったその利権を、
日本がロシアに勝ったから、その正式な講和条約によってロシアが譲ったのです。

あれはポーツマス条約によって、当時の国際慣例に従って敗戦国のロシアが
日本に譲ったので、日本が横取りしたんじゃないのであります。

お蔭で日本はロシアの属国や植民地となることが防げた結果、
植民地政策による文化水準の抑圧を蒙ることなく、このように、
世界的水準の科学文明の発達する国となり得たので、

1回位長い歴史の中で敗れても、依然としてアジア第一の工業国として
アジア民族のホープとして彼らを指導し誘掖する位置を保つことが出来ている訳です。

これ全く、明治時代の吾々日本人の祖先が生命(いのち)を棄てて、
愛国心をふるい起こして、ロシアの侵略を防いでくれた結果なのであります。

「愛国心は戦争につながる、愛国心はいらない」 などという日教組の考え方は
全く間違いだというほかはありません。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/8307d9ebc8aef570131f39e79a9ad722 より転写)

          <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>   

心の焦点 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 18:15:26


          *『生活改善の鍵』 より

我々は外見に捉られると中味の立派さがわからないことが随分あるものである。 

倉田百三が生きていた時、こんなことを話していたのをきいた事がある。 
彼がゴッホの油絵をもっていたが、最初これを、誰からか譲ってもらった時、
非常に立派な豪華な額縁の中に収められていたのであるが、
絵そのものはその豪華な額縁の金色燦然たる光にけおされて充分そのよさが判らないのである。 

いつもその絵を眺める時、何か不調和なあるものを感ずるのである。 
もっとゴッホの絵は感じのいい筈であると思うのであるけれども
それがそのよさが充分感じられないのである。 

何故だろうと数日間不思議に思っていたが、
ある日それが絵と額縁との不調和から来るものだということに気がついたのである。 

余りにその額縁が絢爛すぎて、目が額縁にとらわれて
絵のよさがわからないのだと気がついたのである。 

そこでその額縁をやめて、今度は余り目立たない淡色の額縁にはめ変えて
書斎にかけることにしてみると、その単純な額縁の中に中味がもり上がって
いかにも生命溌剌と迫ってくるような感じに見えたということをいっていた。

 
これは何を意味するかというならば、中味のよさは、
外見にとらわれていたならば決して本当にわかるものではないということを
教える所の適例であると思うのである。

 
人の欠点を見るものは、額縁にのみ目をとめるものであって、
真にその人の中味である所の値打を見るものではないのである。 

我々は人間の額縁のみを見て、人そのものを見る目を失ってはならないのである。 
然も我々は自分の心に従って人の周囲に額縁をつけて見て、
自分の心の影だとしらずしてその額縁を批判してみようとするのである。 

ここにイエスが 「汝らさばく勿れ、汝らもさばかれん」 といった真理があるのである。 
他が悪いとさばいている場合、実は自分自身をさばいているのである。

 
これに反して神の目は余りに純粋であるがために決して人の悪を見給わないのである。 
「光」は「暗」を見ることができないと同じように神は悪を見ることができないのである。 
神は罪を見ることができないのである。 

神は決して人間の額縁を見給わないのであって、人間そのものを見給うのである。 
だから神の前には罪はないのである。 
神が罪の故に人間を罰し給うというが如きはあり得ないのである。 

神の前には罪がないのであるから、神は人を罰し給うのではなく、
光が暗を消すように罪を消し給うのである。

だから我々が神に向う時、過去の罪を恐れることはいらないのである。 
誰でも神に直々対面する権利があるのである。 
人間は神の子であるからである。 

神に対面する時、すべての過去の罪は消え、人間は新たに生れるのである。 
だから人間は毎日新生であり、毎日が新しき祝福の曙である。 
だから吾々は過去のことをくよくよ思ってはならないのである。 

太陽のさしのぼる前にはどんな昨夜来の暗黒も消え失せ再び存在しないのである。 
我々にとっては毎日が祝福であり、毎日が新生である。


一見神罰と見えるようなことは決して神から来るのではないのである。 
それは人自身の罪の観念から生じた所の自己処罰の相(すがた)にすぎないのである。 

総ての罪と悪とは中味の絵そのものにあるのではなくして、
ただ額縁にあるのみなのである。 

我々はすべての額縁をはずしてしまって、神の子なる人間そのものに
対面しなければならないのである。

もし我々の前に不深切な人や自分のためにならない事をする人などが現われたならば、
それはその人そのものではなく、その人の額縁であると思わなければならないのである。 

そして次の如く念ずるがいいのである。

『あなたは神の子である。 正真正銘の神の子である。 
凡ゆる者の本源である所の神の子である。 
善なる本源から善なる結果のみが現れるのである。 
あなたは神の子であり、善であり深切であるのである』

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/aee902cffd10b2c54a6f9c14e1fe3689 より転写)

          <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>        

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている『生命の實相』 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 19:50:38

あらゆる真理の奥伝秘伝が示されている『生命の實相』 ― 現代を癒す

       *Web:VANNON32のブログ 『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-10-09)  
            ~生長の家本部神癒指導課課長補佐  藤原 安子


“現代”という時代は、やはり敗戦を抜きにしては考えられないと思います。 

万世一系の天皇陛下に中心帰一する美しい大和(だいわ)の国日本、
その大和(やまと)民族にふさわない民主主義が入って40数年、
唯物思想の中で経済のみに重きをおき、精神面がおろそかにされたことは、
外的な大きな原因と思います。

内的には、真理  ―  つまり、“生命の実相(ほんとうのすがた)”を識らないこと、
そこに真の人間観・人生観が判らず、事に当って、いかに生くべきかの選択を
誤ることになるのだと思います。

女性の場合は、愛的で感情豊かな故に、信仰にも素直に入れるのですが、
それはまた、占いなどにおどされたり、やさしい愛の言葉をささやかれたりすると、
頭では解っていながら迷わされ、取り返しのつかない事になり易い、
女性の不幸は、女性自身の本質・愛の本質を知らない為に、
自他を粗末に取扱っていることだと思われます。

私は女性の立場から申上げますと、
生長の家の “唯神実相論” の真理ほど完璧に御心の天に成る如く、
現象にも完全に成り、今此処に天国浄土を実現せしめる教えは、本当に他には無い、
と指導させて頂くたびに感動いたします。

事実、お礼状が、よく参るのです。 
そして女性の幸福のための真理の書が、
これほど愛豊かにととのっている所も他にはありません。

言論の自由の現代でありますから、女性問題を取扱った著書は実におびたたしい数です。 
しかし皆それは女性を肉体面からだけ捉えたもので魂的に得るものはありませんでした。

生長の家の 『生命の實相』 を始めとする著書は、
女性を、人間を、霊的観点から取扱われているので、
拝読するうちに、高い自覚と、生甲斐が感じられるのです。

そこで、生長の家では問題解決に当って、第一番にお伝えしますのは、
人間とは何か ・・・  ということです。 

いつか灰になってしまう肉体が自分ではなく、神様の御生命(みいのち)が、
御先祖様を通じ、御両親様を通じ、愛深いお母様の体内の只一つしかない素晴しい、
子のお宮に天降られ、無の中に、目や鼻やその他一切が整った尊い “神の子” 様と成って、

神様のみいのちに育てられ、使命をうけて、神様のお力によって、
この世に誕生させていただいたのが、貴女であり、
貴女は素晴しい実相円満完全な“神の子”であるのですよ、とお伝えし、
そのことをしっかり自覚して、御両親をはじめ一切の人に事に物に感謝をすることを
お話しします。

 
また、現象と実相の区別について話し、いかなる姿が現われていても、
“すべての人は神の子であり、完全円満である”と、
心の眼で観つめることを指導させて頂きます。

人間関係の問題では、この点が特に大切で、
すべてを完全なりと観る修行をさせていただき、
即ち、観世音菩薩様だと相手を礼拝出来ましたら、
今、現われている問題は卒業することになりましょう。

 
現代社会に足りないのは、真理の燈台です。

その無明から多くの人は生命(いのち)の一体感〈愛〉を正覚せず、
性欲と愛とが錯覚せられたり、又与えられている恵みへの感謝と、
実相直視の祈りが足りないと思います。 求めているのは、魂の安らぎと健康でしょうか。

『生命の實相』 を心読し“神の子・人間”の確信をもちその実相を観ずることによります。 
『生命の實相』 全40巻 の中には、あらゆる真理の奥伝秘伝が示されています。 

ですから、すべての問題解決の鍵があるのです。

自分が燈台となって、私自身、様々な相談を受けます時、
生長の家の“唯神実相哲学”の真理によって解決されない問題は、絶対にないのだ
との確信から、どんな問題にでも、“サア、いらっしゃいませ ・・・ ”と、
神様からの試験問題のように向わせていただいております。


      『光の泉』  昭和62n

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/509a629e8a8f09e46781b18b984dfb25 より転写)

          <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>  

ケチを附ける心は卑怯な心 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 18:47:27


           * 『人生読本』 より

この自他一体の観念の少ない人は利己主義になるのでありますが、
利己主義になって参りますと、自分が偉くなる為には人を貶さなければ偉くなれない
と云う気持がしてくるのであります。

自分が80点ならば人を70点にし、60点にしなければ
自分が偉く感じられない事になって人を嫉妬するようになります。 

金持を見れば癪に触るし、自分より点数の多い学生は憎らしいし、
自分より収入の多い社員には腹が立つ。 
そう云う嫉妬を起す心になると、自分の心が苦しい上に自分が立身出世出来ないのです。

他が80点なら自分は90点になろうと努力する人なら偉くなるけれども、
そんな気持でなしに相手の点数にケチをつけてやろうと思って悪口を言うようになったら、
人間はもう駄目であります。

自分を偉く見せる為には人を貶さなければ偉く見えないと云うようなことでは
実に浅間しいことであって、争いは其処から起って来るのであります。

生長の家の生き方では決して何ものをも貶さない、
何方の悪口も言わないと云う事が生長の家の生き方になっているのであります。 

それどころか誰に対しても其の美点を見つけ出して賞めるのであります。


人の魂の傷口にナイフを刺込むような、そう云う風な皮肉を浴びせる
わるい習慣のある人が往々ありますが、斯う云う心の人は出世できないのであります。 
こんな人は織田信長のように明智光秀のようにどちらも滅びて了わなければならないのです。

何か良い噂をすると、『併しあの人はこうですよ』と何かケチを附ける人がありますが、
まことに浅間しいことであります。

そう云う人は自分では自分の性質に気がつかないかも知れませんけれども、
そう云う人は往々にして切開手術を要するような病気にかかる事があります。 

それは『類は類を招ぶ』と云う心の法則によりまして、
人の奥底を切り開いてそうして汚いものを掘り出したいと云う気持がある。 

その心は類は類を招んで自分の身体に具象化(かたちにあらわ)るのです。 
これを生長の家では 『肉体は心の影』 と申しております。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/5285f37f2f483c1380410846234199db より転写)
              
          <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>  

運命の転換 - 伝統

2016/12/04 (Sun) 17:58:52


          *昭和63年2月 「第14回 繁栄特別ゼミナール に寄せて」 より
           ~ 生長の家鳥取教区教化部長  原 田  昭


今日に至る迄如何に多くの人々が、生長の家の説く真理によって救われ、
繁栄を実現し、運命を好転させていることであろうか。 
それは数々の体験が物語っている事実である。 

運命を好転し、無限の繁栄を得るには、神意を展開することである。 
神意に叶った繁栄でなければ、一時は栄えても、結局は長続きするものではない。 
神意ですべてを行ずるとき、無限の繁栄が得られるのである。

 聖経 『甘露の法雨』 に、

「神があらわれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、
乏しきものなし」

と示されている。

乏しきものがないのが、神の創造された世界である。 
それは、繁栄のみの世界である。 

即ち “神は愛なり” であり、愛を実践するところ必ず、
無限の繁栄が展開されるのである。 

今や世界には数知れず宗教があるが、
ほとんどが、現象論であり、“人間は罪の子”と言っている。 

我が国では宗教団体が18万4千あるそうであるが、
わが生長の家の教えは唯神実相哲学である。 

実にすべての繁栄も人間の運命の転換も、ここから始まるところの大真理である。 
神と神のみ実在であり、神ならざるものは無いという哲学である。


さて、富とは人のお役に立つ働きを最大限に行ずることである。 
人の為になる働きが、愛であって、愛を行ずるところ富に変るのである。 
即ちとの貢献度の高いものほど繁栄しているのは事実であり、栄えている企業皆然りである。

生長の家の説かれている繁栄の原理の

第1に父性原理  ― 奉仕し与えること、 
第2に母性原理  ― 受けて感謝する、

との2大原理が説かれている。 
この原理は古今天地の法則であり、永遠に変らざる大真理である。

“蒔かぬ種は生えぬ” という言葉とおり、
真に繁栄を享受しようと願うならば、繁栄の種を蒔かなければならない。 

真に幸福を願うならば、幸福の種を蒔かなければならないのである。 
人の幸に貢献する。 

如何にすれば人が喜んでくれるだろうか、
如何にすれば人類が幸福になってくれるだろうか、と。 

即ち、愛を実践するところに、神の力、神の智慧が天降り、
凡てい於て好転し、協力者があらわれ、
“不思議”という妙智力が、展開するのであり、
たちまち此の世は光明浄土となる。 

経済の原則は 「自然、労働、資本」 であるが、
自然即ち神は、ただ与えているのみである。

さらに、清貧礼讃の心は人間を貧乏にする、と 
『生命の實相』 第8巻〈※頭注版〉 に示されてある。 

貧乏でいることが高徳であると思い、富んでいることを恰も罪悪の如く考える。 
そして宗教家が富んだりすると悪評が渦巻く。 
しかし、宗教家が富まなければ、一体誰が富むのか。 

宗教家こそ常に神の国の無限の愛と、無限の智慧と、無限の創造力に
直接触れているのであり、宗教家こそ富んで当り前の筈である。 

にも関わらず、宗教家が自ら富んでみせることが出来ないようでは、
その教えは空理空論であり、その信仰は実を結ばない信仰と言わなければならない、

と説かれているのである。

運命の好転も結局、「人間・神の子、円満完全」 であり、既に富んでいる、
という自覚から展開するものである。 

吾々は大いに無限の繁栄の実を上げ、天下に生長の家の説く真理を素晴しさを、
展開し実践して参りたいと思う次第である。

 
国と共に栄え、教えと共に栄え、中心帰一の真理をしっかりと行ぎ、
無限力を発揮して繁栄の実を上げて参りたいと熱願する次第である。

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/644f2a938f87263347f34bee8114c692 より転写)

          <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>  

自分の心にあるものだけが見える - 伝統

2016/12/26 (Mon) 18:35:01


          *『維摩経』 を現代に生かす 第4回 より


お釈迦さんが舎利弗から、

「お釈迦さん、あなた様が住んでおられる世界が
このようにきたない状態(すがた)であると致しますと、
矢張りあなたの心がきたないんじゃないんですか?」

と一本やられた。 ところがお釈迦さんは、

『日月豈不浄ならんや、而も盲者は見ず』  と応じられた。

「なにも日月が汚れているんじゃない、日月が暗いんじゃない。 
いくら明るく照っておっても、盲者すなわち盲人は見ることが能(で)きないのである」 

とおっしゃたわけであります。

その時に、螺髻梵王がですね、言葉を挟んで舎利弗に言ったというのであります。

「舎利弗さん、あんたそんな馬鹿な考えを起してはいけませんよ。 
この仏の国土を不浄だなどというなんて真にけしからん。 
私が釈迦牟尼仏のこの国土を拝見しますと、その浄らかなることは、
譬ば他化自在天の宮殿のように清浄に見えまするぞ」 と、こう言ったのであります。


すると舎利弗が、

「わたしが此の国土を見ますと、突兀とつき出た丘があり、窪んだ坑があり、
荊棘が生い茂る、石ころが道に散乱していて歩行に不便であり、
平野少なく、山岳重畳して、色々の悪が充満しているように見えるのでございます」 

と、こう言って現象の色々の悪い状態を話したのであります。

その時に螺髻梵王がこう言った。

「人間の心に高い低いがあって、仏の智慧即ち実相を観る智慧によって見ないで、
五官の感覚の眼で見るから、この世界を不浄であると観るのであるぞ。 

舎利弗さん、菩薩は一切衆生に対して悉く平等の偏頗のない心をもって見るのであるから、
平等に見えるのである。 

突兀として凸凹の山岳重畳した、荊棘が生いしげり、窪んだ坑があり、つき出た石がある、
そんな世界を見るのは、お前の心が平等でない突兀した心を持っているからであるぞよ。 

深く実相に徹する心、清浄の心をもって、仏の智慧を得て、
この国土が実に平かな世界であるということが見えるように、
まあ、精進努力しなさいよ」

こういうように言われたというのであります。 

すべて自分の心の世界を見るのであります。


例えば色盲というのがありますね。 この世界に爛漫と美しく桜の花が咲いておっても、
その桜色の美しさを見ることができないのである。 
あるいは若葉の緑が美しく薫るように輝いておっても、その緑が薄黒く見えるのである。 
つまり紅緑色盲というのがありますね。

それは、自分の心の中に色々の美しさを素直に受け入れる心がなかったから、
その色々の美しさを見ることが能きないのである。 

この世界に美しい色が無いというのではないのである。 
見る心に‘それ’が無いのである。 

自分の心に在るものだけが見えるのである。


ここは非常にむずかしい真理なんでありますがねえ。 
それがわからないと、生長の家で説いていることも、
『維摩経』 で説いていることもよくわからないということになるのであります。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/ed6e4df17b1654c5f13239591b582937 より転写)


          <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>  

久遠の尊師と歩いた人類光明化の道  ―  中林政吉 - 伝統

2016/12/27 (Tue) 19:38:46


           *『精神科学』(昭和63年1月号) より
             ~ 柴 田  達 成
            

忠犬ハチ公でおなじみの渋谷から吉祥寺までを結ぶ “井の頭線” の途中に、
「池ノ上」 という小さな駅がある。 
歩いて5分もすると閑静な住宅街に入るが、この一角に中林政吉先生の家があった。 

筆者は、言葉を交したことはないが、中林先生と会うのは初めてではない。 
東京へ出てきて、渋谷青年会を結成(つく)り、原宿の本部へ足繁く通っていた頃、
中林先生をよく見かけたものである。 

端正な顔立ちと、もの静かな威厳にただ遠くから合掌していたのは、
もう、ふた昔も前の話であったが ・・・ 。

「エエ。 あなたの名前は存じていましたよ。 しかしお会いするのは初めてですね」

開口一番、中林先生はそうおっしゃってニッコリされた。

晩秋のやさいい日差しが部屋の中を包んでいた。 

先生はその日差しに心地良く身をゆだねながら、
過ぎ去った人生をたぐり寄せてくれるのだった。 
それは色彩も鮮やかな一幅の名画であった。

「僕は明治36年7月に越後川口で生まれました。 
1年の半分は豪雪に埋まる山間部でした。 
耕地が少ないので貧しい農家が多くて、出稼ぎで生計を建てるような生活でした」

中林先生の家は22代も続いた古い家柄であったが、
不運にも家運は傾斜していて、大学進学も断念せざるを得ないような状態であった。 
普通こういう場合、青雲の志をいだいて東京へ出てくるものだが、
中林先生は北海道へ渡り、札幌のデパートの店員になった。

弱冠18歳の青年であったが、この地で文学と絵画に関心を深めていった。 
文学をかじると、思想的な模索が始まった。 
左翼思想にひかれて行くのはごく自然であった。 
郷里(くに)の貧しい農民たちを見てきた精神的背景もあったのかもしれない。

「当時、“種蒔く人” という社会主義文芸誌のグループがあって、
そこへ傾斜していったわけです。 
金子洋文、佐木孝丸、小牧近江といった人たちがいました。」 

社会的矛盾に立ち向かおうという正義感もあったのだろう。

「まず、僕の働いているデパートの職場で婦人解放運動を始めたのです。 
いわゆる実践活動です。 しかし途中から左翼の事件にかかわって、
札幌から東京出てきたわけです」

東京へ出てきた中林先生は、上野の下谷に 「リリオム」 という喫茶店を開店した。 
昭和8年のことであった。 
知人の紹介で結婚もしていたから、店は奥さんとふたりできりもりした。 

近くに現在の芸大や、太平洋美術学校があったから、客は若い芸術家のサロンであった。 
中林先生もその雰囲気に酔っていた。

その当時は、画家とか芸術家は、世間一般からは理解させなかった。 
貧乏という名前がついてまわったのだ。 
これは日本だけの偏見ではない。 
西洋の、後年、名を残した画家たちも生前は押しなべて不遇であった。

奥さんと中林さんは、若い芸術家たちの最もよき理解者であり、
精一杯の支援をしてはばからなかった。 
それが彼等を歓喜させたのだ。

「小さい頃、画家になりたかったこともあって、店の中は美術書や、演劇関係の本、
文学書、クラシックレコードも集めて環境を演出しました」

客の中に鶴岡政男、麻生三郎、難波田龍起といった後年、洋画壇で大成した人がいた。 
そして忘れることの出来ないのが 佐藤俊介氏 であった。

「ある日、彼が 『生命の藝術』 という雑誌を寄贈(くれ)たのです。 
僕はまだ唯物論者でしたから、たんなる観念論の雑誌だと思って気にも止めなかったのです。 
ところが彼はその後も 『生命の藝術』 を寄贈(おい)ていくわけです。 

ある日その裏表紙に 『生命の實相』 の広告が出ていたのです。 
目次を読んで行く内に 『生命の實相』 が読みたくなったのです」

これが神縁であったのだ。 初版黒革表紙三方金の 
『生命の實相』 を佐藤氏が快く貸してくれた。 
それまで進歩的で新しいと思っていた共産主義思想が、
音をたてて自分の中で崩壊して行くのがわかるようであった。 

「『生命の實相』 を読んで、社会を改造する本当の道を教えられたのです。 
谷口先生が生長の家の真理を宣布する出版会社 〈光明思想普及会、現・日本教文社〉 
を発足するというので、社員募集があったのです。 
僕は真先に駆けつけて第1号に採用されたのです。 
そう、あれは昭和10年2月のことでした」


ここで佐藤俊介氏こと 松本俊介氏 を少し紹介したいと思う。
 実兄の彬氏は谷口雅春先生に共鳴して 「生命の藝術社」 を設立して 
『生命の藝術』 を創刊した人であった。 

父親の勝身氏は岩手の盛岡で生長の家の支部長の要職にあったが、
後に一家をあげて上京して、光明思想普及会の編集部に入社している。 

松本家に入籍した俊介氏であったが、妻・子さんの父親・松本肇氏 〈慶応大学英文学教授〉 
も熱心な生長の家の幹部であった。

こうして光明思想の感化に恵まれる環境にあったが、
13歳の時、流行性脳髄膜炎にかかり聴覚を失っていた。

「僕との会話はすべて筆談でした。 
お金を貸してくれといえば、その日の仕入れ分だけ残して貸してやりました。 
勝れた評論と絵画に才筆をふるいながら36歳の若さで夭逝したのです」

しかし、中林先生にとっては生涯、忘れることの出来ない友人だった。 
何よりも生長の家との出会いの橋渡しをしてくれた恩人であったのだから。 
そして、生涯もうひとり忘れることの出来ない恩師がいる。


「谷口雅春先生です。 先生とは10年違いますが、思い出もずい分あります。 
僕が満州から引き揚げてきた時、先生はお祝だといって3千円くださったのです」

いきなり満州といっても困惑される読者諸兄もいらっしゃるだろう。 
谷口先生は、「真の民族協和生長の家の信仰と、その精神をもって初めて達成される」  
と教示されて、次々と講師を大陸に派遣された。

中林先生も昭和15年6月、満州国駐在講師として赴任する。 
奥さんと子供には、あとから来るようにといって、とりあえず単身赴任であった。 

鞍山昭和製鋼を中心とする工場、会社、奉天の工業地帯、さらに新京の中央官庁、
満鉄社員会の光明化に努められて、昭和17年には、「満州国建国10周年慶祝講習会」 
が開かれた。 谷口雅春先生が初めて国外出張された記念すべき講習会であった。

「奉天、新京、ハルビン、大連等から集った聴衆は2500名を数えたのです」

しかし20年8月8日、ソ連軍の参戦を知らされて、
1週間後に天皇陛下の玉音放送を聞いて茫然自失の状態になったという。

それから地獄絵図が展開された。 
ソ連軍がソ満国境より雪崩のごとく侵攻してきて正視できない暴威を振ったのだ。 
混乱は続いた。 今度は新京に進撃してきた、八路軍の市街戦が展開された。 
この時、中林先生は左下顎部に銃撃を受けている。

「しかし民族協和の実証がまもなく示されたのです。 
新編中国軍の下士官たちから、同居がゆるされたのです。 
彼等5人と家族同様の生活が引き揚げまで続いたのですから ・・・ 」

昭和20年10月に佐世保に上陸すると、不思議なことに、
手もとにあった新聞に生長の家の広告が出ていたのである。

「もう、取るものもとりあえず、引き揚げのままの姿で
一家で谷口先生の所へ駆けつけたのです。 今でも思い出します。 

先生はモンペをはいて畠仕事をされていました。 
そうして、お祝いだといって3千円と、着物一揃いを下さったのです。 
その時の3千円といえば大変なお金です。 
裸一貫で帰って来て、国から支給(いただ)いたお金は一人に付き1千円でしたから」


中林先生のお宅には、故林武氏の赤富士の絵が飾ってある。 
林武氏も生長の家の信徒として、あまりにも有名であったが、
中林先生は、この絵を林さんから贈られたという。 

小さい頃、絵描きになりたいと思ったという中林先生の夢は実現しなかったが、
こうして高名な洋画家と出会えたのも、生長の家の奇しき縁であったと思うと、
不思議な気がする。 

筆者は、林さんの絵の中に、中林さんの魂も
共存して生きているような気がしてならなかった。

今、中林先生は静かに航海の余韻をかみしめている。 
思えば長くて、短い航海であった。

「谷口雅春先生とご一緒させて頂いた僕の50年は、
神さまと、雅春先生に生かされてきたのだと、しみじみと感じています。 
僕の心の中に生きている雅春先生に、今はただ合掌する日々です ・・・ 」

思えば、かつて一緒に人類光明化運動に魂をうち込んだ生命の友だちも
今は鬼籍の人となってしまった。

「吉田國太郎、服部仁郎、辻村彦次郎、高橋直治くんたちのことも思い出すなあ ・・・ 」

頭髪はめっきり白くなったが、
血色のいい顔は明日をみつめて青年の覇気があった。

ふた昔前に初めて筆者がお会いした時の威厳も健在であった。 
そして高貴な風貌に、仏像にも似た気品が輝いていた。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e0adcf0049910ddc55386a84ee2f0f03

          <感謝合掌 平成28年12月27日 頓首再拝> 

「大晦日、谷口雅春先生の言葉」の抜粋版 - 伝統

2016/12/31 (Sat) 20:13:02


(1)【 1年中の迷信の垢を落として 】

   今日は1年の終わりである。
   心の垢を落として新しい年を迎えましょう。

       <「希望を叶える365章」最終ページより>


(2)【 過ぎし日を淨めて 】

   年末には、1年を振返って、魂の進歩のために反省しよう。
   そして来たるべき年に、心が再び過ちを繰返さないための準備をしよう。

        <「女性の幸福365章」最終ページより>


(3)【 新年を迎える心の準備 】

   感謝と懺悔とによって、
   今年1年ぢゅうにあったすべてのあなたの思いと行いとが清められるのです。
 
   そして来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。

         <「幸福を招く365章」最終ページより>


(4)【 新生のため準備整う日 】

   愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
   
   まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

   愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
   私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
   誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

   この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
   ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

   私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。

         <「光明道中記」(12月31日)より>


(5)【 再び新生をする 】

   吾等は今日限り一切の悪しき習慣を止めることを誓うのである。

   撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

          <「光明法語」(12月31日)より>


(6)【 決意の日 】

   本年最後の決意の日である。
   新しき天と地とを迎えるために潔(きよ)むべき日である。

   今夜は眠るまえに、いっさいの人々を赦し、 いっさいの人々に感謝し、
   いっさいの事物に感謝し、感謝の念で心の中の汚れを洗い浄め、
   愛と祝福の念で、心の中を美しく装飾して、

   いつでも新しき「生命(せいめい)」の、新しき「真理(しんり)」
   の花嫁が天降って来ても招じえられるように魂の準備をして眠ろう。

        <「生命の實相第28巻幸福篇十二月三十一日」>


(7)【 全ての把住を放ち去る日 】

   読者諸賢よ、この一年の最後の日に、一切の過去を棄て、心の中につかんでいた
   唯物論的な一切を悉く棄て去り、霊的に生まれ変わって、
   新たなる”神の子”としての生涯を、來るべき年を迎える心の準備をせられよ。

   來るべき新年はこの自覚により新生せる輝かしき年であることを
   諸賢と共に信ずるのである。

        <「神と偕に生きる真理365章」(P344~345)>


(8)【 過去を除夜の鐘と共に放つ日 】

   今年も愈々(いよいよ)今日で終りである。除夜の鐘は百八つ鳴る。
   百八の煩悩を梵鐘(ぼんしょう)の清浄なるひびきによって消し去るのである。

   今夜私は神想観をして今まで人々に対していだいていたすべての
   悪しき咎(とが)める念を放ち去るのである。

   私は全く新しき浄(きよ)らかな心をもって新しき年を迎える。

        <『 生長の家 』(昭和24年12月31日の法語)>


   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6710485 からの抜粋)

          <感謝合掌 平成28年12月31日 頓首再拝> 

”破邪顕正 さま”引用の、谷口雅春先生の言葉より - 伝統

2017/01/03 (Tue) 18:01:57


           *谷口雅春先生に帰りましょう・第二 より


1.邪説を排撃するの可否

    『生長の家』誌・昭和11年6月号(20~21頁)にある、ご文章 より

《邪説を排撃するの可否

これは別に人と争うために争うのではないのです。

真理を述べる為に、他の間違った邪説と衝突すると云うことは
是また止むを得ぬことであります。…

充分真理の悟れない人や、所謂宗教業者で商売敵だと思って揚げ足取りして
非難される人がありますが、そう云う場合、生長の家では黙殺することもありますが、
他の人に誤解せしめて真理を伝える邪魔になると思われるような場合には
敢然として其の人達の妄論を反駁することがあります。

すると

『何じゃ、生長の家は総てのものと大調和をせよと教えておるのに、
駁論なんかを発表するのは怪しからん。
あんなことでは、生長の家本部そのものが生長の家の教えに逆いている。』

と云う具合に考える人もあるようです。

併し、非真理に対しては、駁論を発表することが必要であることもある。

非真理が滔々乎として弘まっている時代に真理を説くには、
非真理の説を是正しなければならない。

『虚妄を壊するものは真理のほかに非ざるなり。』と
聖経『甘露の法雨』の中に書いてありますが、
邪説を打ち破るためには正説の法鼓を鼕鼕と打ち鳴らす必要があるのであります。

正説の法鼓を打ち鳴らすことは大調和を破っているのではない、
大調和を破っている邪説の領域を狭めて、大調和の領域を広めることなのであります。》

    (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=568 スレッド削除済み)

・・・

2.情熱と行動の必要

   『白鳩』誌・昭和40年8月号所収の「十日の箴言 情熱と行動の必要」より

《どんな立派な邸宅に、その人が住んでいようとも
毎日その美しい邸(やしき)の床の間に坐らされていたならば、飽きて来て、
その邸宅から出て何処かへ行きたくなるに違いないのである。…

生長の家がどんな立派な宗教であっても、ただ坐って聖典聖経を読誦し、
神想観を修して瞑想しておれというだけだったら、飽きて来て生長の家を出て、
もっと低級な宗教であっても行動的な団体運動をしている宗教に参加したくなる
かも知れないのである。…

その宗教が行動化して伝道や、救済事業や、政界の浄化などの問題などに
具体的に動き出して来たとき、宗教の静的修養が動的救済運動に変って、
そこに休眠火山が活火山になるように、活気と情熱とが湧いて来るのである。

情熱のない宗教は活きた宗教ではないのである。
多くの既成宗教が眠ったようになっているのは伝道と救済の情熱と行動とを
失っているからなのである。》

   (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=563 )

・・・

3.「天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない」

     『白鳩』誌・昭和四十八年三月号の「十四日の箴言」より

《超越的絶対者は、それは〝絶対者〟であるが故に、
われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。

それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に顕現する人格神、
又は天使、又は菩薩、又は教祖があらわれなければ
絶対者はその救済を具体化することが出来ない。

救済を具体化することが出来ないような神は、
〝神〟と称されるにしてもハタラキに於ては神ではない。

〝神〟が救済を完(まっと)うし得る本当の神となり得るためには、
絶対者が相体的人格神としてあらわれて救済の御業(みわざ)を現実になさなければならない。

即ち法身(ほっしん)の阿彌陀佛(あみだぶつ)が、
報身又は応身(おうしん)の佛如来(ぶつにょらい)として顕現しなければならないし、

「天にまします父」なる神が、地に降誕したイエス・キリストとして
顕現しなければならないし、

天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないし、

宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。

神の神たる慈悲の本来をあらわし、神たる使命を完了するためには
色々の宗教に於て〝教祖神〟として〝神〟はあらわれなければならないのである。

神の具体的人格的慈悲の完成は応身の教祖となって顕われることによって完成する。》

   (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=1028 )

          <感謝合掌 平成29年1月3日 頓首再拝>  

謙って神に向う  ―  聖経 『甘露の法雨』 読誦行願 - 伝統

2017/01/06 (Fri) 19:52:54


         *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-08-02)より
               ~日本教文社  別 府  正 大

私達の自我の心がなくなるほどに、私達の心には神の光りがさして参ります。 
謙れば謙るほど、それだけ神に近づいてまいります。

或る熱心な誌友さんが、こんなことを告白していらっしゃいました。

「自分は長い間、生長の家にふれていながらも、まだまだ愛が足りないのです。 
素晴しい御教をききながらも、まだまだ愛の積極性が足りないのです。 
無我献身ができないのです。 

天地一切に感謝する気持がまだまだ心の奥底から湧いてこないのです。 
そして何時もそんな私が情けなくなり、みじめで悲しくなってしまいます。 
人間は自分の我の力で良くなろうと思っても、なかなか良くなれないものでございますね」

 
自分で良くなろうと思っても、良くなれないもどかしさ。 
この私を、神様どうかして下さいませ。 
その人は真剣に祈りました。 
その人の眼には一粒の真珠さえ宿っていました。

おお、何と謙虚な謙った祈りでしょう。 
自分の力では自分の煩悩の炎を消し去ることが出来ないと知ったとき、
私達の心は謙って神に向うのです。
 
祈りを続けているうちにあの法華経の中の聖句を思い出しました。 
「観世音菩薩、甘露の法雨をそそぎ給いて煩悩の炎を滅除したまう」 と。 
この観世音菩薩の慈悲のひびきが、聖経 『甘露の法雨』 の御言葉なのでした。

それから聖経読誦行願を思い出しました。 

そして誦げる前にこう祈るのでした。

「神よ、あなたの愛によって、私の心にあなたの愛を目覚まして下さい。 
あなたの御力によって、愛を行動に移し、凡てのものに感謝、
神の御栄えをたたえることができますように。 
神さま、私に、すべてのものの実相を見る目を開かせて下さいませ」

そして毎日千回読誦行願に励みました。 

しばらくたってから私はその人に会う機会をえました。 
するとその人の顔は輝いていました。 
その眼は愛にうるんでいました。 
その人の雰囲気にはパッと人を明るくする魅力にあふれていました。

そのとき私は、そこに霊の輝きを見ました。 
そこには聖経読誦行願に励んでいらっしゃる人の魂の輝きがありました。 

しっかり神想観に坐って神と対坐し、『生命の實相』 を全読している人から
立ちのぼる霊の光りがありました。

そのとき私は感じました。 

聖経 『甘露の法雨』 によって、
みなさん自分自身の魂を供養することが大切であると。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/693613979c21c44e55c1d08a02511220

          <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>  

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