伝統板・第二

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祈り - 伝統

2016/04/01 (Fri) 03:39:53

《われ祈れば天地応(こた)える》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。

自分の棲んでいる宇宙には、
自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。


われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。


・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示・第一「祈りとは」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1417 (ただし消滅)

(3)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

《祈りとは人格的交わりである》 - 伝統

2016/04/08 (Fri) 03:47:52


         *「光明法語」(4月8日の法語)より

祈りと云うものは必ずしも結果をもとめて祈るものではないのである。
祈りは「神」と「神の子」との人格的交わりである。

神から与えられた生命であるところの「神の子」なる人格は、
親なるところの神に心を転回して、神と人格的に交わる時間を持つことは
是非共必要なところの行事である。

それ自身が荘厳きわまりなき処の行事であって、
結果があるとか無いとかの問題ではなく、直接的にそれ自身が目的である。

神から生れた人間にとっては、神へ生命(いのち)を転回し振り向けることは、
唯嬉しい行事である。

            <感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>

《祈りは必ず成就する》 - 伝統

2016/04/12 (Tue) 03:17:29


            *「光明法語」(4月12日の法語)より

吾々の祈りは必ず成就する。それは間違いのなきことである。
併しながらその祈りとは、数分間、神社または祭壇でとなえることのみが
祈りではないである。

祈りと云うのは生命(いのち)の宣言(のりごと)である。
生命の奥深くで、念じていること、唱えていること、呟いていることは
悉く”いのり”である。

だから、不幸を呟いている者は不幸が来るように祈っているのである。
病気を呟いている者や、常に人に苦痛を訴えている者は病気や苦痛が来るように
訴えているのと同じことである。

            <感謝合掌 平成28年4月12日 頓首再拝>

《本性に合致する祈り》 - 伝統

2016/04/16 (Sat) 04:09:11


              *「光明法語」(4月16日)の法語より

祈りが成就しないのは、その祈りが其の人の本性に合致しない場合か、
その祈りがまだ実を結ぶ時期に達していない場合かである。

若し吾々が自分の本性に合致しない祈りを、
たとえば「大和の国」なる日本が「戦力によって勝たしめ給え」と云うような
祈りを行なうとも其の祈りは成就しないことになるのである。

朝顔は美しき朝顔の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきであり、
梅の樹は美しき梅の花を咲かしめ給えとこそ祈るべきである。
其の他の花を咲かしめたまえと祈っても成就するものではない。

            <感謝合掌 平成28年4月16日 頓首再拝>

《時期に適する祈り》 - 伝統

2016/04/17 (Sun) 03:56:53


              *「光明法語」(4月17日)の法語より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。

            <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

祈りが実現する要件について - 伝統

2016/04/26 (Tue) 04:40:26


          *「幸せは今ここに」北尾巳代次・著(P96~102)より

《(第1話)家が与えられた話》

学生時代、私は神の存在を信じなかった。
それでも大学進学に際にはひそかに合掌して、
“なにとぞ入学せしめ給え”と祈らざるを得なかった。

もちろん祈りは聞かれるはずもなく、私は1年浪人させられた。

今思えばまことに当然のことで、進学に対する努力が十分尽くされていなかったのである。
祈りは神に対する懇請や哀願ではないと知ってからの私は、
もう当時のような悲愴な祈りをやらない。

なぜなら正しい祈りは常に成就することを知らされたからである。

私は余り自分のために祈った経験は少ない。
いつも他の人にために祈らせて頂いているが、
ただ1度だけ自分の住宅のために祈ったことがある。

もう数十年も前であるが、誌友会会場や講師の宿泊などを一手に引き受けてくれていた
北中清吉氏が県外に転出され、後を引受けてくれる人がなかったので、
やむを得ず自宅を使って頂いた。

しかし店舗のこととて不便なので、家内と二人で“家が欲しい”と真剣に考えたものである。

そして毎夜神想観中、宿舎と講演会場を兼ねた住宅が与えられるよう祈った。

まず無限の智慧と愛と生命と供給に満ち満ちている状態を心に描き、
既にわが願いが神によって聞き届けられたことを信じ、感謝の祈りを捧げていたのである。

すると数ヵ月後に、妙なことが起って来た。
私の近所の人が土地の話を持ちこんできた。

話を伺うと、彼の仲介して売買の話がほとんど九分九厘進んでいたのが、
理由もなく流れてしまって、その夜彼の夢に私が交渉に行ったというのである。

まことに奇妙な話だが、場所も同じ町内であるし、閑静で
しかも値段がベラボウに廉(やす)いというので即座に購入した。

彼は今でも時々、

「先生は不思議な人だ。私の夢の中で交渉に来た」
 
と冗談を言うが、これは私の祈りが成就した典型的一例である。

この家は後に谷口雅春先生に泊って頂くという光栄な家となった。


                 ・・・

《(第2話)日展入選がきまっていた話》

つい先日、早朝神想観の後で郡山中学の先生をしていらっしゃる
小林末蔵氏がこんな体験を話された。

この方は画家で、毎年日展に入選され、すでに個展も数回開催したことがある
素晴らしい方なのであるが、5、6年前はなかなか入選出来なかったそうである。

その頃『白鳩』誌か何かで、ある画家が
“すでに入選させて下さいまして有難うございます”と書いて祈ったところ実現した
という文章を読み、早速実行して見事栄冠を獲得された体験をもっておられるのである。

 
これは重要なことで、“実現するかどうかはわからぬが、入選せしめ給え”と
哀願するのでは祈りの力が出て来ないのである。

キリストが“汝等神に祈る時既にそれを受けたりと信ぜよ”と教えているように、
我が願いは既に聞き届けられている、既に実現せるなりと信じ、念ずることが大切なのである。

小林氏はその教えられた通りを素直に実行し、その栄冠を納められた。
しかも毎年欠かさず実行し、今日の栄冠を築かれたのである。

祈りというものは宇宙に遍満している神の祝福に波長を合わせる大切な行事であって、
1回や2回の失敗にめげず、最後まで続けることが大切なのである。

 
さて小林氏は、春日奥山に昔からある石窟の彩色仏(大日如来)を筆写されることになり、
昨40年7月初旬より早朝神想観に一日も欠かさず出席され、清浄な心で製作に全力を
傾けられたのであるが、ちょうど8月のある日、神想観中に、ふとこの彩色仏の絵が
どの辺に展示されるであろうかと、想像したというのである。

深く深く祈念を集中されると、突然、氏の眼前に東京都美術館の部屋が映し出され、
その2階中央に自分の彩色仏の絵が展示せられているのを観たのである。

「妙なことがあるものだ」

と小林氏は思った。なぜなら今までの経験から、氏の作品はいつも3階に展示されていて、
2階に飾られたことは1度もなかったからである。

やがて作品はついに完成し、日展に見事入選され、都美術館に飾られた。
休暇を利用して、11月21日上京された氏は、作品は2階15号室だと友人から聞かされ、
もしやと期待しつつ行ってみると、何と氏がかって神想観中に観られたそのままの位置に
飾られてある。

それをみて、唖然としたと氏は語られたのである。

これは多くの示唆を私達に与える。

第1に神想観の絶えざる実修は如何に偉大な効果を与えるか教えるものであり、
第2に現象界に現われることは数カ月以前に心の世界に於いて実現したという事実である。

小林氏はまだ入選することすら未定の時に、既にその位置まで観じているのであった。
しかし入選間違いなしと自負して、その努力を惜しまれたならば、
その運命は修正せられていたに違いない。

この意味から私は、信仰とは絶えざる努力であると考えるのである。


                ・・・

《(第3話)潜在意識が結婚を拒んだ話》

おかげが無いという人があるが、本当に実行してお蔭の無いはずはない。
病気にもならず、不幸にも遇わずそのまま健康で幸せである
という体験があるのを知らない人が多い。

昔、高野山の講習会で、四国から来たお婆さんが、
“自動車に跳ねられたが怪我しなかった、ありがたい”と涙を流して
谷口先生にお礼を述べられたが、その後で谷口先生は、

“このお婆さんは車に跳ねられてケガをしなかったと感謝されましたが、
皆様はもっと有難いのですよ。なぜなら車にも跳ねられず、ここにいらっしゃったのですからね”

と諭された。ここが一番難しい処である。

先年私は、教化部の早朝神想観で、ある女性の結婚の祈願を依頼されたことがあった。
われわれはこの女性のために、約3ヶ月間集団的に祈らせて頂いたが、
いっこうに祈りは実現せずに終わった。

われわれがこの女性のために祈らせて頂いたのは3回目でである。
何故この祈りがきかれないのか、深く考えざるを得なかった。
ところがついにその原因が解明される時が来た。


彼女は自分の母を深く愛していた。
その母が嫂(あによめ)に虐げられるのがたまらなかったのである。
彼女は母を庇うことに懸命になる余り、自分の幸福を犠牲にしていたのであった。

彼女の現在意識がどれほど結婚を願い、祈り続けても、
潜在意識はこれを拒み続けていたのであった。

 
カール・メニンジャーはこの複雑な人間の心理を、“おのれに背くもの”と名付けているが、
表面の心だけを見ていても解決出来ない問題がある。

私達の周りには、しばしばこの異常心理に振りまわされて、
歪められた人生を歩んでいる人が案内多いのである。


                 ・・・

《(第4話)奈良の人との結婚が定まっていた話》

さて祈りは時にはその人の魂の進捗のために実現を延ばされることもあるのである。
従って一応失敗したかに見えることであっても、
決して悲観したり、腹を立てたりしてはならないのである。

神の眼から見て、最も適当な時期まで待たされることがあるから
根気よく祈り続けるべきである。

 
奈良県の光明実践委員をしている今橋雅文氏夫妻の結婚についてもその感が深い。
氏の奥さんの美智代さんは長崎県出身で、もと大和郡山の日紡に就職していた人である。
在職中から非常に熱心な生長の家の信徒で、社内で誌友会を開いてくれたこともあった。

私達家族とは親兄弟のような親しさで付き合っていた。
だが数年前に紡績界の不況から日紡郡山工場が閉鎖され、美智代さんは結婚のため退職、
長崎県へ帰郷されることとなり、ここの誌友会を大変懐かしまれた。

「私の郷里は奈良県という気持です。奈良県で生活したい」
 
と私達のもとにお別れに来られた折、答えられたが、偽らざる本当の願いだったのだろう。

ところが帰郷されて暫く婚前の交際をしている間に信仰のことから意志の齟齬(そご)を来し、
両親の切なる願いであったけれども、破談ということになった。

当時、美智代さんの幼い妹さんが夢を見た。
はるばる奈良県から3人連れで人が来て、
姉様をお嫁さんに頂きたいと交渉に来たというのである。

この娘には時々こんなことがあり、明日伯母が訪ねて来ると言うと
本当に的中することがしばしばあるので、そんなバカなと思いつつも否定できず、
両親もこの縁談を諦めてくれたそうである。

それ以来3年間、美智代さんは、働きつつ生長の家の青年運動に積極的に活躍、
谷口清超先生がその活動のありさまを『理想世界』誌に紹介されたこともあるのであった。

こうして昭和36年5月の青年会全国大会に長崎県代表の一人として上京。
たまたま奈良県の五十嵐講師に逢い、今橋氏を紹介され、氏と文通が始まった。

そしてその8月、仲人の五十嵐氏の母親とその友人の女性と今橋氏の3人が連れだって
美智代さんのご家庭を訪問、正式な結婚の申込みをされた。
ここに美智代さんの妹さんの夢は正確に実現することになったのである。

 
私は単なる偶然だとは決して考えない。
これはみな美智代さんの切実な祈りが成就したものにほかならない。
それはすでに奈良県を去る時、強く深く念じられた夢であった。

その夢が現実化したのは、彼女の絶えることのない信仰の歩みであったと考えざるを得ない。

もし彼女が生長の家から離れていたら、長崎県の代表として上京することもなかったであろうし、
その結果今橋氏と結ばれることもなかったであろう。

人間の運命はまず心に描かれ、それがたゆまない精進によって、
神の祝福を享け、実現するようになるのだということを、私は深く考えさせられるのである。

   (41・4)

            <感謝合掌 平成28年4月26日 頓首再拝>

《祈りの成就には時の要素が要る》 - 伝統

2016/05/04 (Wed) 03:37:08


         *「光明法語」(5月4日~6日の法語)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

・・・

《5月5日の法語 神の導きには時間の要素がある》

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には一段一段と階段を昇って行くが
如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

・・・

《5月6日の法語 電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

【祈りの人になりなさい】 - 伝統

2016/05/11 (Wed) 04:44:09


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2015年11月01日)より

   (ノートルダム清心女学園理事長、渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   マザー・テレサがおっしゃった言葉の一つに、
   「祈りを唱える人でなく、祈りの人になりなさい」というものがあります。

   これは決して、口に出して唱える祈りを否定するものではなく、
   祈りに心がこもっているか、祈りの内容が自分の日々の生活に沁み通り、
   実行されているかどうかを問う厳しい言葉と、私は受けとめました。


   1984年のことでした。

   マザーは、朝早く新幹線で東京を発ち広島へ行かれ、原爆の地で講演をなさった後、
   岡山にお立ち寄りになりました。

   そして再び夜6時から9時頃まで、3つのグループに話されました。

   通訳をしていて感心したのは、馴(な)れない土地でも長旅、数々の講演にもかかわらず、
   74歳のマザーのお顔に、いつもほほえみがあったことでした。

   その秘密は、宿泊のため修道院にお連れしようと、
   二人で夜道を歩いていた時に明かされました。

   マザーは静かに、こう話されたのです。

   「シスター、私は神さまとお約束がしてあるの。
   フラッシュがたかれる度に、笑顔で応じますから、魂を一つお救いください」

   “祈りの人”であったマザーは、何一つ無駄にすることなく、
   祈ることを実行されていたのです。

   ご自分の疲れも、煩わしいフラッシュも、神との交流である祈りのチャンスにして、
   人々の魂の救いに使ってくださいと捧げていらしたのです。


   神は、私たちが痛みを感じる時、それを捧げるもの、
   神への「花束」とする時、その花束を、
   単なる祈りの言葉よりもお喜びになるのです。

   私たちは、とかく、自分中心の願いを“祈り”と考えがちですが、
   祈りには、痛みが伴うべきではないでしょうか。

   私も日々遭遇する小さな“フラッシュ”を嫌な顔をせず、笑顔で受けとめ、
   祈りの花束にして神にささげたいと思っています。

          <『置かれた場所で咲きなさい』幻冬舎>

               ・・・

渡辺和子氏はこう語ります。

「私からのほほえみを無視する人たちがいました。
そんな相手に“いきどおらず”美しいわたしであるために、私はこう考えることにしたのです。

『今の私のほほえみは“神さまのポケット”に入ったのだ』と。

そう考えて、心の中でニッコリ笑うことができるようになりました」(同書より)


どんなに、善きことであっても、無視されたり、冷たく返されることがある。

それは例えば…

「ほほえみかけること」「明るく挨拶すること」「ありがとうということ」
「気遣いの言葉をかけること」「愛あるやさしい言葉をかけること」等々をしたとき。

しかし、そのことにより、「魂が一つ救われる」とか「神さまのポケットに入った」、
「宇宙預金ができた」、「運がまた一つたまった」などと考えることができるなら、
相手を非難したり、嫌な気持ちになってしまうことはないかもしれない。



「何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい」

マザーテレサも感銘を受けたという『逆説の10カ条』の中の一節だ。

「祈りを唱える人でなく、祈りの人になりなさい」とは、
まさにこの「それでもなお、良いことをしなさい」という、実践の人であれ、ということ。


ほほえみ続ける、挨拶し続ける、ありがとうと言い続ける…

実践の人でありたい。

            <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

《不足を心に思うな》 - 伝統

2016/05/14 (Sat) 04:45:40


           *「光明法語」(5月14日の法語)より

祈りというものが
短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る「祈り」を捧げるものであると
思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

            <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>

《不断の祈り》 - 伝統

2016/05/15 (Sun) 04:26:09


           *「光明法語」(5月15日の法語)より

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

            <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>

《仕事をなす時の祈り》 - 伝統

2016/05/18 (Wed) 03:29:57


           *「光明法語」(5月18日の法語)より

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。

            <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

《飲食をなす時の祈り》 - 伝統

2016/05/19 (Thu) 04:51:24


           *「光明法語」(5月19日の法語)より 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>

【祈りの効果】 - 伝統

2016/05/26 (Thu) 04:45:46


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年05月14日)より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   最近のアメリカでは、医学・医療の分野、つまり西洋医学だけに基づく医療が
   すでに50%を切ろうとしています。

   簡単に言えば、「西洋医学の限界」を、医療従事者が実感している、ということです。

   薬には薬効はもちろんありますが、同時に、副作用がついてきます。

   そして、アメリカでは年間10万人以上の人が薬害で命を落としている、
   という統計もあるのです。

   投薬によっては医療費が膨らみ、さらに、それによって命を落とす人がいる
   という現実は、もはや、無視できない状況なのです。


   では、一体、西洋医学のほかにどんなアプローチがなされているのか。

   それは、東洋医学をはじめ、薬草(ハーブ)、漢方薬、鍼灸、瞑想、音楽、
   信仰などであり、実際に、これらが医療に及ぼす影響に2006年には1億2000万ドル、
   当時のレートで約150億円の予算があてられ、日夜研究が重ねられています。

   そして、「祈り」もこうした研究の対象となり、ハーバード大学、コロンビア大学などの
   権威ある大学が競って研究に乗り出しており、その研究例は1200を超え、
   「精神神経免疫学」という新しい分野も開かれました。

   古来より、人間が続けてきた「祈り」が最先端の研究分野になりつつあるのです。

   医療や医学の分野でこうした取り組みがなされている最近では、
   「祈り」に関する研究でもさまざまな実験結果が報告されています。

   アメリカの病院で、大変興味深い実験が行われました。

   心臓病患者393人に対する実験で、「他人に祈られた患者」は、そうでない患者に比べて
   人口呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少ない、ということが分かったのです。


   しかも驚くべきことに、西海岸にあるこの病院に近い場所にいたグループからの祈りは
   もちろんのこと、遠く離れた東海岸からの祈りでも、同様の効果があったのです。

   そして、何よりも興味深いのは、患者さんたち本人は自分が祈られていることは、
   全く知らなかったということです。

   この実験の効果については医学者の間でも賛否両論が、今なおあります。


   「どうして祈りの効果があるのか、科学的に解明できないじゃないか」

   と異議を唱える方もいることでしょう。


   けれど、私はひとりの科学者として、こう思うのです。

   「理由は分からない。しかし、実際に効果があるのは、それは、人知の及ばない力による
   作用なのではないか。何よりも効果があるのだから、理由を解明できなくとも、
   祈ることの大切さに変わりはないではないか」と。

   医療と祈りだけでなく、これからは、科学と祈りの相関関係も
   さらに求められることは間違いありません。

         <『奇跡を呼ぶ100万回の祈り』ソフトバンククリエイティブ>

               ・・・

丑の刻参り(うしのこくまいり)という、日本の呪術(じゅじゅつ)がある。

丑の刻(午前1時から午前3時頃)、神社のご神木(しんぼく)に
憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込む、というおどろおどろしいものだ。

この真逆の行為が、相手の幸せや病気平癒(へいゆ)を念ずる、「祈り」だ。

祈りの「念」は、病気を治す力もあるが、反対に病気にさせてしまうほどの力もある。


口から出た言葉は、自分が一番早く聞き、一番多く聞くという。

何故なら、自分の口の一番近くにあるのは、自分の耳だから。

そして脳は、人称を判別できないので、他人に言っているつもりでも、
自分に向けて言っていることと同じになる、という。


祈りも同じだ。

相手の幸せを願うのか、相手の不幸を願うのか。

誰かを呪(のろ)っているつもりでも、実は自分を呪っていることになる。


どんなときも、人の幸せを祈る人でありたい。


            <感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>

祈りの実現力を高める方法~神への手紙 - 伝統

2016/05/28 (Sat) 04:07:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということはグレン・クラーク教授の著書の中にも
書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、人間力ではどうしてよいかわからない時、
突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。あなたは無限の智慧をもって
わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます…」
それから具体的な問題をこまごまとその神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎがしだいに落ちついてきて、
神とともに、その事件について対処する道を考えているような安らかな気持にになってきた
のである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることはやや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も神に対して心を集中することができる。
そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、効果もそれに従って多いのである。

            <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

《相手の幸福を祈ること》 - 伝統

2016/05/29 (Sun) 03:33:41


          *「光明法語」(5月29日の法語)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>

《真の正しき祈りとは》 - 伝統

2016/06/07 (Tue) 03:18:34


           *『 生長の家 』(昭和26年5月6日の法語)より

   神想観は、実相観であり、実相において全てのものが
   既に与えられていることを確認し肯定するため強き祈りであり、
   不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。

   既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
   ほめ讃(たた)え、感謝する祈りである。

   現在、不完全な世界が与えられていることを認め、
   神に懇請することによって、神がこれを修正し給うなどと
   考えるのは神を侮辱するものである。

   現象の不完全さは、実相を受信する「人間、ラジオセット」の
   心の波の不完全さで、色々のものを混信しているからで、
   吾が心を調べれば不完全さは消えるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

祈りに始まり祈りに終る - 伝統

2016/06/08 (Wed) 03:47:09


           *「光明道中記」(6月8日)より

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますようにあなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

            <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>

正しく祈る - 伝統

2016/06/17 (Fri) 04:29:48


          *「光明道中記」(6月17日)より

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、却(かえ)って魂の平和を失う。
                           (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

            <感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝>

《短時間の祈りを度々繰り返すこと》 - 伝統

2016/06/28 (Tue) 04:26:03


         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P301~302)より

   神想観は普通1回30分間朝晩行なうのでありますが、30分間と、
   まとまった時間が得られない人にとってはもっと短い時間の祈りを
   1日10回乃至20回行なうがよいと思います。

   神想観は観法ですから一定時間の持続を必要としますけれども、
   祈りはもっと短い時間で事足りるのであります。

   祈りが純粋であるためには、
   「幼な児」の心、完全なる謙抑(へりくだり)の心、
   無我の心にならなければなりません。

   「神よ、み国を来たらしめ給え。み心の天に成るが如く地にも成らせたまえ。
   わが欲することを求むるに非ず。み心を・・・み心を・・・み心を・・・」

   こう念じて、自己を思わず、何事をも何物をも求めず、心をひたすら、
   「自己臍下丹田の神」にふり向け、御心のかすかなる響きをも、素直に
   聴き漏らすまじと熱心に傾聴する気持ちをもちつづけること1回3分間
   ――― これを毎日10回乃至20回繰り返すのです。

            <感謝合掌 平成28年6月28日 頓首再拝>

《何故祈りは成就せぬか》 - 伝統

2016/07/11 (Mon) 03:16:35


        *『幸福を招く365章』(P72) より

「今度の戦争には生きて帰れない」と信じ、涙を流して水盃をかわして別れながら、
「今度の戦争に勝てますように」と祈ったとて、その祈りが成就することは難しいのである。

 
祈りが成就するためには、イエスの云ったように

「汝ら祈りて何事にても求むる時、既にそれを受けたりと信ぜよ、すなわち汝はこれを得ん」

である。

祈りは「既に受けたり」と信じなければならないのである。

「とてもそれは得られない」と信じながら、「それが得られますように」と祈っても、
それは神の救いの波長に合わぬのである。

日本敗戦の現実はこの真理を明らかに証しているのである。

大抵の人は、祈りながら「その祈りはなかなか成就しない」と信じている。

だから祈って病気がたちどころに治ったら、奇蹟だと云って驚くのである。


            <感謝合掌 平成28年7月11日 頓首再拝>

祈りのちから - 伝統

2016/07/14 (Thu) 04:46:40


         *映画 『祈りのちから』 より


ある日、老婆クララは家を売却するため不動産屋のエリザベスを呼んだ。
彼女は働きながら夫トニーと小さな娘を育てている。

一見理想的なエリザベスの家族は、ある問題を抱えていた。

その問題に気が付いたクララは、
彼女を自室のウォークインクローゼットに案内し、祈ることを勧めた。

そこは、人々が人生を幸せにおくるための祈りの部屋でもあったのだ。

最初は渋々だったエリザベスだが、祈り続けることで不思議な変化が起こり始める―。


  → https://www.youtube.com/watch?v=TRhpLqB5nCw

              ・・・

この映画を観て感じた大切なこと。

(1)人をゆるすこと。

(2)神に祈ること。しかも具体的な祈りの言葉で。

(3)神を讃えること。

・・・

映画「祈りのちから」のネタバレを結末まで [祈りのちから]
 → http://movie-neta.blog.so-net.ne.jp/inori-chikara


            <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝>

《祈りは内在の神を展開する》 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 03:44:22


           *『 生長の家 』(昭和26年5月19日の法語)より

   祈りの効果と云うものは、神を説得によって感動せしめるのではなく、
   祈りの深まることによって、神われと共にあり、神われに来りたまいて、
   われを通して働き給うていると言う自覚が深まると云うことである。

   この自覚の深まるに従って、内在無限の神性が展開し出(い)で
   何事も順調に行われるようになり、身体に於いては内在無限の
   自然療能力が発現して、病気も速やかに癒(い)えるのである。

   自分を圧倒するような困難、迚(とて)も助からぬと云うような病気
    ― こんな時には、暫(しばら)く人間的思慮を止(や)め、
   神の前に跪(ひざまづ)いて神のはからいの前に
   全自己を投げ出すべきだ。

   其(そ)の時、「我(が)」の障礙(しょうげ)が消え、
   神の力が発現するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

《祈りによって「 神の力 」をわがものとせよ》 - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:26:02


          *「生長の家」(昭和25年6月4日の法語)より

   イエスの生活は
   間断なき祈りの生活であったのである。

   祈りとは
   神に心をふりむけることである。

   弟子の眠っている間にも、
   イエスは山にのぼって 一人静かに祈ったのである。

   そこから 彼の色々の奇跡の伴う愛の生活が
   実現して来たのである。

   彼は祈りによって 神にふりむき、
   神から無限の力を汲(く)み出して来る所の方法を
   知っていたのである。

   だから 彼は無数の奇跡をなし得たのであり
   「 吾と父とは一体なり 」 といっているのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

近年注目を集める『祈りの力』 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 04:01:55


        *Web:「宇宙への短冊」より

【祈りの力】ですが、一般的に『祈り』というと、近代社会では
どこか宗教的な意味合いが強いものになっています。

特に世界の人口67億人のうち、4分の3以上は特定の宗教信者
(キリスト教徒21億人、イスラム教徒13億人、ヒンズー教徒9億人、
仏教徒4億人、道教や 儒教の教徒が4億人)といわれているので、

無宗教・無神論者が多い日本においては、
『祈り』=宗教行為の一部としての印象が強いかもしれません。

しかし、『祈り』という行為は、文明が始まった古代より、
人間の根源的な欲求に基づいた活動様式として大変重宝されてきました。

特に日本人とは、もともとは『祈り』の民であり、
『祈り』は人々の生活の一部でもありました。

それは、古代より天皇が「祭司(さいし)王」と呼ばれ、
国を代表して専門に「祈る人」であった影響も強いのかもしれません。

ところが文明の発達に伴い、いつの日からか『祈り』は、
特定の宗教行為の一部として、人々の日常からはすっかり切り離されてしまいました。

今でも日本では、各地での祭り、そして七夕や初詣のように
『祈り』に関連する行事も限定的に残ってはいますが、
『祈り』本来の持つ力や意味は忘れ去られてしまっているように思えます。


ところが、ここ数年、アメリカを中心とした先進国の中では、
『祈り』というものが新しい視点で大変注目を浴びています。

それは、バーバード大学、コロンビア大学などの権威ある大学が、
こぞって『祈り』の研究を進めているからです。

ハーバード大学のハーバード・ベンソン教授は『祈り』が呼吸数、
心拍数、二酸化炭素排出量、酸素消費量の抑制を確かめ、
『祈り』がガンや糖尿病、不妊症などの病気に効果的に働くこともわかってきました。

他にも、1200例以上の『祈り』に関する研究データが
次々に確認されていますが、医学と科学、そして宗教を超えた
その驚きの研究結果に、世界中の人々が今、
『祈り』に関心を高めています。


《スピンドリフトによる実験による、効果的な「祈りの方法」》

10年以上にわたり『祈り』の効果を客観的に研究している機関に
「スピンドリフト」という組織があります。

そこでは麦の発芽と『祈り』の関係を実験して、祈り方や祈りの時間の長さ等々、
効果のある「祈りの方法」について調査をしました。

その結果、以下の7つの特徴がわかってきました。

(1)『祈り』は実現する

   麦の発芽の実験で、祈られたグループの種子のほうの発芽率がはるかに高かった。
   (何度実験しても同じであった)・・・・

   『祈り』は発芽の成長に効果があった。

(2)苦しい時ほど『祈り』の効果がある

   発芽しにくいように、麦の種を浸している水に
   塩分を加える実験で、塩分の濃度を増やすほど(つまりストレスを多く与えるほど)
   『祈り』の効果が大きかった。

   このことから、祈ってもらう人が重い病気であるほど、
   あるいは、つらい、不幸な境遇にあるときほど、
   『祈り』の効果が大きいと思われる。

(3)『祈り』の量は『祈り』の効果と比例する

   麦の発芽の実験で、祈る時間を2倍にした場合は、発芽率が2倍になった。

   このことは病人のために祈る場合、時々、祈る場合よりも、
   いつもその病人のことを思いながら、できるだけ多く、
   『祈り』の念を送ってあげるほうが、病人のためによいといえる。

(4)対象を明確にした祈りが効果的

   『祈り』が効果を持つためには、誰に対して祈るか、或いは何に対して祈るかと、
   はっきり『祈り』の対象を明確にして祈るほど、『祈り』の効果がある。

   このことから、ただ漠然と祈るよりも、
   「病気のAさん、Bさん、Cさん、Dさん」と
   一人一人を意識しながら祈るほうが効果が大きいといえる。

(5)祈りの対象の数が増えても効果は減らない

   種子を用いた実験では、種子の数が多くても少なくても、結果は同じだった。

   このことから、『祈り』の対象数がいくら増えて、
   例えば1人の人への『祈り』であろうと、5人、10人であろうとも、
   『祈り』の効果は変わらないといえる。

(6).祈りの経験の長い人ほど祈りの効果が大きい

   実験によって、『祈り』の経験の長い人のほうが、
   浅い人よりも大きな効果を生むということが分かった。

   よって「困った時の神頼み」で、急に思い立って祈る人よりも、
   ふだんから神棚や仏壇に向かって『祈り』をしている人の『祈り』のほうが、
   効果が高いといえる。

   その意味では、神主や僧侶、神父、牧師の『祈り』の効果は大きいと思われる。

(7)「無指示的な祈り」は、「指示的な祈り」より効果が大きい

   「指示的な祈り」とは、例えば、ガンが治癒すること、苦痛が消えることなど、
   祈る人が特定の目標やイメージを心に抱いて祈ること。
   いわば祈る人は宇宙に「こうしてくれ」と注文をつける祈り方である。

   無指示的な祈りは、なんらの結果も想像したり、注文したりせずに、ただ、
   「最良の結果になってください」とか「神の御心のままにしてください」と
   宇宙を信じてお任せする祈り方。

   実験結果では、「指示的な祈り」と「無指示的な祈り」の
   どちらも効果は上がったが、

   「無指示的な祈り」のほうが「指示的な祈り」の2倍以上の効果を
   もたらすことも多かった。


《ランドルフ・ビルド博士による実験》

続いて「祈りの研究」は、医療現場でも注目を浴びてきています。

元カリフォルニア大学心臓学教授ランドルフ・ビルド博士は、
心臓病の入院患者393人に対して厳密な実験を行い、
『祈り』には大変な治癒効果があることを証明しています。

実験では、まず患者を、祈られるグループと祈られないグループとに
コンピュータで無作為に振り分けました。

次に、患者のために祈る人たちを全国の教会から募集し、
祈られるグループの患者の名前・病状を教えて、
毎日その人のために祈るように依頼したのです。

その結果、他人に祈られた患者は、祈られなかった患者より
人工呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少ないことがわかりました。

それも、西海岸にあるこの病院に近いグループからの『祈り』も、
遠く離れた東海岸側からの『祈り』も、同様に効果がありました。
もちろん、これらの患者は祈られていることすら知らなかったのです。


これらの実験結果は、大変興味深いデータであり、
より研究が進めば、近い将来に『祈り』の持つ効果は、
多くの人々に一般的に知られるようになるかと思います。

そうすると、古代の人々のように、
『祈り』という行為が宗教や科学を超えて、
再び人々の生活の一部になってくるものと思われます。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=5515369

            <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>

祈りと健康の関係 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:33:36


           *「光明法語」(8月29日)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は

「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」

と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは

「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

            <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

吾の祈りは神に通ず - 伝統

2016/08/30 (Tue) 04:20:26


           *「光明法語」(8月30日)より

カレル博士は言う、

「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
祈る人は他の人々の為に祈る。

この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、
富める人々や、知識ある人々よりも、その可能性が一層ある。
祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」

と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は
病いを心の描くから却って癒えないのである。

            <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

わが生活に天国浄土を創造する祈り - 伝統

2016/09/10 (Sat) 04:31:02


         *「光の泉」(昭和54年4月号・日々読誦毎月真理経)より

わたし達は、皆、その実相に於いて“神の子”であるのである。
神は霊であり給うから、“神の子”たるわたし達人間も
その本質に於いては霊であるのである。

しかし吾々は、日常生活に於いて“物質界”と見える世界に住み、
肉体と見える人間を物質界に於いて生活し、霊なる“実相”を観ることを忘れ、
本当の自我が、“如来蔵”であり、無限の如来の霊的実力を、実際は自己の内に宿していながら、
その無限の実力を埋没せしめて発揮していないのである。

われらに宿る霊的無限の実力を発揮しようと望むならば、
わたし達は先ず、心の観点を方向転換しなければならないのである。

今まで、日常生活に於いて常に事物の物質的面ばかりに注がれていた自分の心を、
われらの生命の本源である神の方に振り向けることを始めなければならないのである。

われらの“心”を神の方に振り向ける方法に先ず“祈り”があり、神想観があるのである。
“祈り”をなす時、その人は祈りの対象として“神”を心に描くのである。

仏教の人は、仏陀又は如来を心に描いて、それに心を集注するのである。

仏典には、「衆生仏を憶念すれば仏衆生を憶念し給う」と訓(さと)されているのである。

仏又は如来は常に吾々衆生を心に描いて護念し給うているのであるが、
われわれ衆生がその心を仏(又は神)に振り向けていない時には、

喩えば、恰もテレビの放送に天国の番組はあれども、自己はテレビセットのアンテナを
放送局の方向へ向けず、また受像の意志なくしてスィッチを入れていない時には、

放送局の天国番組が、どれほど美しき厳かなる天国的状態を放送していようとも、
その天国的状態は、われわれの心を素通りして、神の放送し給える天国を吾らの身辺に
受像することが出来ないようなものである。

それゆえに私たちは何よりも先ず心を、“祈り”又は“神想観”によって、
天国の本源創造者たる神さまの方向に振り向けることが必要なのである。

この時、われわれの生活に、「衆生仏を憶念する」という状態がつくられて、
仏又は如来さまの美しき且つ荘厳なる浄土的又は天国的世界がわれわれの身辺に
あらわれて来ることになるのである。

“祈り”は、放送番組を受像するには放送の周波数に合う波長を
私たち自身の心の内に作らなければならないのであるから、
単に一回、神又は如来を念ずるだけでは足りないのである。

われわれが祈るとき、神想観を行ずるとき、
神又は如来に、われわれ人間の呼吸が合うことが必要なのである。

つまり人間自身のリズムと、神さまの生命のリズムとが波長を合わす
心境に達することが必要なのである。

われわれは生理的に肺臓で呼吸する時でも、唯一回大きく呼吸すれば、
それで全身を養う酸素量を吸収することができるかといえば、そうではないのである。

私たちが生理的にも間断なき呼吸が必要なのと同じように
祈りにも、「間断なき祈り」が日常生活になくてはならないのである。


  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

《祈っても 「 結果 」 をつかんではならぬ》 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 04:31:33


       *「生長の家」(昭和25年6月8日の法語)より

   静かに坐して実相を観ぜよ。

   「 吾は汝の父なる神である 」 と
   神は宣給(のたま)うているのである。

   困難の時、不幸の時、病気の時 まず第一に必要なのは
   内部の心が神の方へ振り向いて落ち着くということである。

   吾々が何か現象的な御利益を求めて
   それに対して祈る時には

   その 「 求める結果 」 を 「 結果、結果 」 と心につよくつかむが故に
   本当に心をゆるめて 神に全托することができないのである。

   吾々はまず求めなければならない、
   「 求めよ、さらば与えられん 」 である。

   然(しか)し求めた後には
   心を放って神に全托することが必要である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

          <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということ - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:15:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より

働いても働いても成功しないのは、その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。
かく誤った方向にその動きが向けられるのは、それは神の智慧に導かれないからである。

神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。
神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。

神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。

祈ってもきかれないのは、心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。

             <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

《祈りは斯く行え》 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 03:56:20


          *『 生長の家 』(昭和23年9月12日の法語)より

   祈りの法則。

   まず神の智慧と愛と生命と供給と調和とが
   宇宙全体に満ち渡っていることを心に深く思念することである。

   かくて完全円満なる神へ心を集中したのち、
   自分の求むるものを心に念じて
   「 何々を斯くならしめ給え 」 と祈るのである。

   それを繰返し祈るのである。

   その祈りの果に、「 既にそれは与えられている 」 と云う様な
   深い信念の境地に到達する。

   そして 「既に与えられまして有り難うございます。」 と念じて、
   あと数分間は ただ黙して神の啓示を聴く気持になって、
   もう一度感謝してその祈りを終わるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

             <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2016/10/10 (Mon) 04:07:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月10日>(P97)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。破壊的なことは正しい願いではない。
(2)だれかを豊かにすることであるか。(だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)
(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。
(4)この世に混乱を起こしたり、だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。
そしてその祈りの言葉は、宇宙的な創造力によってバックされ実現の途上にあると
信じてよいのである。

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2016/10/12 (Wed) 04:39:30


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする
自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって仏陀(さとり)の境地に達しようとした。
併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

・・・

相対的祈りと絶対的祈り

          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

祈りを効果ならしめる精神状態とは - 伝統

2016/10/13 (Thu) 04:34:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月13日>(P99)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、必ずしも完全に
効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある - 伝統

2016/10/14 (Fri) 03:55:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月14日>(P100)より

ラジオが鳴り出すのは、ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つることあたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、本当の祈りによって
その心境になったとき現実世界に、その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:44:10


          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、祈りに志向性はつきものである。

自分の願いがないならば「祈る」必要はない ―― と考えるのは間違いである。

「祈り」と云うものは、「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

祈りは、神と人との魂の一体感を得るためのもの - 伝統

2016/11/04 (Fri) 04:09:08


       *『私はこうして祈る』はしがき(P1~2)より

    神は「宇宙を貫く法則」であるから、法則にむかって拝んでみても
    泣きついてみても法則が変わるということはない。

    だから「祈る」ことを懇請によって神の感情を動かすことだと
    考えてはならないのである。

    それでは祈りというものは不要ではないかと考える人があるかも知れぬが、
    祈りは神との「人格的交わり」として、神と人との魂の一体感を得る
    ために必要なのある。

    神は「宇宙を貫く法則」であると同時に
    「生ける大生命としての人格」の面もある。


    生けるいのちある者が、人格と人格との交わりによって、
    「自」と「他」との一体感を得ることが愛である。

    私たちは祈りによって神と人との人格的接触を得(え)、
   「愛」を自覚することができるのである。

   すなわち神に祈ることによって、「外なる普遍的な神」と
   自己の「内なる神性」との一体感が喚び覚され、
   自己から無限の力がでてくるのである。

   祈りは懇請によって神の感情や意志を動かす目的に行なうべきではなく、
   自分の「内在の神」を喚(よ)び出しその喚び出されたる自己の霊の波長が
   宇宙普遍の愛の祝福の霊波に波長を合わし得て、
   その祝福を受けることになるのである。

            <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

祈りの成就 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 03:18:42


その人に適する願い

       *「光明法語」(11月12日の法語)より

グレンクラーク教授が、まだ『魂の切なる願い』の著書を発表せず
生活が楽でなかった頃、8ドル70セントの鉱石式ラジオを、
家庭の和楽や知識の増進の為に欲しいと思った。

それは「それがなければ死ぬ」と云う程切実なものではないが、
それでなくとも此の程度の
願いは「その人に適する願い」として与えられるものなのである。

否、既に与えられているのである。

それが現実に現れて来るには、祈りによって心の波長を
「既に与えられている実相」の波長に合わす事である。

・・・

最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ
        
       *「光明法語」(11月13日の法語)より

グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。

合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。

ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。

その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。

            <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

【 祈った後は 事柄を心から放って全托せよ 】 - 伝統

2016/11/29 (Tue) 03:40:49


       *「生長の家」(昭和25年6月9日の法語)より

自分の周囲を如何に暗黒が とりまこうとも、

心を平和にし、静かに神に祈りて後 完全に全托すれば、

よき結果が得られないということはないのである。


恐怖と焦燥の観念を心よりとり去れ。

吾々は唯(ただ)神に全托すればいいのであるが


南無阿弥陀仏の一念によって救われるというのも、

一念で好いのであって、繰り返されなければ頼りなく思うのは、

阿弥陀仏の 「 救う力 」 が絶対無限であるということを知らないからである。


口の動く回数で救われると思うものは、

自分の口に頼るのであるから自力の行であって

本当の信心に到達することはできないのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 04:44:03

        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。
されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。

わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、
神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、
暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず行き亘り、
悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、
このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、
われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、
われを通して流れ出でたる神の生命であるから、
その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

            <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

神と《とも》に祈る - 伝統

2016/12/08 (Thu) 03:21:35

         *「光明法語」(12月8日)より

神よ、生きとし生ける者を生かし給える吾等の《みおや》なる神よ。
わたし自身の本来のものでない願いを、わが胸より去らしめ給え、わが心を浄め給え。
わが魂の切なる願いのみを願うことが出来る様になりますように    <今日の祈り>


自分が真に何をもとめているかを知らない人が随分多いのである。
そして自分のものでないものを憧れ求め、それが成就しないからとて嘆き悲しみ、
それが成就したからとて図に乗って悪く働く。ああ迷える人々よ。


            <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

《われ祈れば天地応う》 - 伝統

2016/12/23 (Fri) 04:48:26


        *『幸福を招く365章』(P74) より

イエスが

「我れみずからにては何事も成し得ず、天の父われに在(いま)して
御業をなさしめ給うのである」と云ったのは、

自己の内に普遍の神が宿っていて、自己内在の神を「支点」として
宇宙普遍の神の力を動かすことが出来るのだと云う真理を説いたものである。

自己の内に宿りたまう神を自覚するとき、
はじめて吾等は一切の不幸不安から解放されるのである。

四面暗黒に見ゆる時にも、自己の内に無限の力が宿ると自覚するがゆえに
何らの不安も恐怖もないのである。

我れ祈れば天地応(こた)うである。

            <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>

《祈りが成就するには》 - 伝統

2017/01/09 (Mon) 04:40:14


         *『幸福を招く365章』第9項(P186~187) より

祈りの成就する契機となる一点がある。
それは、神われとともにあるとの確信を得たる瞬間である。

しかし祈ってばかりいるのでは役に立たぬのである。
「主よ、主よという者必ずしも天国に入るに非ず」とイエスも教えている。

神の御心を行ずる者のみが天国に入るのである。

どんなに小さな事であっても
今与えられている幸福(一杯の水でも、空気でも、食物でも)に感謝せよ。

そして今あなたのいる立場においてできるだけの力をつくして隣人に奉仕するのである。
その奉仕する仕事が自分の求める仕事に何の関係がなくとも、そんなことは問題ないのである。

自己が奉仕するとき、奉仕は愛であるから、神の道が開かれるのである。

            <感謝合掌 平成29年1月9日 頓首再拝>

《神の如く生きるには》 - 伝統

2017/01/24 (Tue) 04:59:56


          *『幸福を招く365章』第10項(P206~207) より

或る日のわが祈り。

「わが内に宿りたもう神よ。あなたの御心もて私の一挙手一投足を導き給いて、
あなたの完全なるみ姿をわれに於てあらわしめ給え。

神の子として相応(ふさ)わしくない
あらゆる行為と習慣とを我(われ)より剥落せしめたまえ。

今、神の御心われに流れ入りたまい、わが神らしからざる想念感情を浄め給う。

全身一万四千兆の細胞ことごとく神の御心にみたされ、神の御心の如く生き、
神の御心の如く動き、神の御心の如く生理作用を営んでいるのである。

われは神の如く善と愛のみ想念し、善と愛のみを感情するのである。

神の生命(せいめい)がわが肉、わが骨、わが内臓、わが全身である。

神に深く感謝致します」。

            <感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>

祈りは父子相互の霊交である - 伝統

2017/02/08 (Wed) 03:48:19


          *「幸福を招く365章」(P222~223)より

祈りは、わが内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。
即ち神の子が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。

祈りによって、神の感情をやわらげ、
神から御利益を懇請し得るなどと思ってはならないのである。

祈りによってわれわれの魂が神に振り向けられ、自分の魂の波長に志向することによって
神の波長に同化されて来、神を変化するのでなく自分の心境が変化せしめられ、
それによって心の法則にしたがって、現象的御利益もあらわれて来るのである。

神を説きふせ、甘言によって誘惑し得ようと思ってはならない。

いくら祈ったとて、自分の心境だけのおかげをいただくのである。
神を拝みたおしても駄目である。
と云っても神に祈るなということではないのである。

神に祈ればその間だけでも、神の方へ心が振り向けられ、自分の心が感化せられる。
それこそが真の御利益である。

心境さえ変われば、心の法則によって物質的御利益は自然にあらわれるのであるから、
寧ろ、物質的なものを心に描いてそれに心を集中するよりは、

「神よ、み心の如くならしめたまえ」

と神の方へ心を振り向けることを専らにする方が、
心境の変化のためにはいっそうよいのである。

神想観を実修し、実相の無限知、無限愛、無限生命の世界を心に描く祈りは
この意味で最もよいのである。

            <感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>

《互に侵さざる生活を祈れ》 - 伝統

2017/02/21 (Tue) 03:46:14


         *『 生長の家 』(昭和23年9月30日の法語)より

   互に侵さずして幸福なる生活を営むためには、
   常に神想観する毎に、

   「 吾等は一つの神の智慧によって支配されている世界に住んでいるのである。
   神の智慧は調和であり、秩序であり、平和であり、美であって、
   一切のものが一つの叡智によって適当に配列されているのであるから、
   不調和なことは存在し得ないのである 」 と思念することが必要である。

   若し現象界に何らか互に相おかすような出来事が起るならば、
   かかる出来事に心を捉えられることなしに、それを無視して

   「 唯、神の調和の智慧のみがこの事件を支配している 」

   と念ずれば、その事件が調和に解決するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>

《真の正しき祈りとは》 - 伝統

2017/03/09 (Thu) 04:00:00


           *『幸福を招く365章』第11項(P225) より

神想観は、実相観であり、実相に於いて全(すべ)てのものが
既にに与えられていることを確認し肯定するための強き観法であり、
不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。

既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
ほめ讃え、感謝する祈りである。

現在、不完全な世界が与えられていることを認め、神に懇請することによって、
神がこれを修正した給うなどと考えるのは神を侮辱するものである。

現象の不完全さは、実相を受信する「人間、ラジオ・セット」の心の波の不完全さで、
色々のものを混同しているからで、吾が心を調べれば不完全さは消えるのである。

            <感謝合掌 平成29年3月9日 頓首再拝>

《祈りは自分の心を変化する》 - 伝統

2017/03/24 (Fri) 03:22:53


          *『 生長の家 』(昭和25年11月15日の法語)より

   祈りに効果があるのは、祈りによって
   自分の我慾(がよく)の通りに神の心を
   変化せしめ得るからではないのである。

   かくの如(ごと)き変化常なき多情多恨の神様では
   信頼する甲斐(かい)もないのである。

   祈りに効果あるのは、祈りの精神統一的神への振り向きによって
   自分の心が変化することである。

   自分の心の平和が確立され、
   自己にやどる内在無限力の発現を妨げていたところの
   障礙(しょうがい)を取除いてしまったとき、
   その内在無限の力(即ち神)が働くのである。

   電気の流れを妨げていた絶縁体が取除かれたとき
   電気が作用するのと同じである。

   自分の心の中の恐怖や憤りを取除かないでいて
   祈りがきかれないと呟(つぶや)くのは、

   絶縁体を取除かないでいて
   「 電気は存在しない 」 と呟くようなものである。

            <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

徒らに祈りを反復するな - 伝統

2017/03/25 (Sat) 04:55:04


           *「光明法語」(3月25日)より

イエスは『祈るとき、徒(いたず)らに言(ことば)を反覆すな。
彼らは言多きによりて聴かれんと思うなり』と教えている。

これは言を反覆してはいけないと云う意味ではない。
『徒らに反覆』しては役には立たぬのである。
言葉多く執濃(しつこ)くからみつくように懇請するから神がききたもうと思うのは
間違いである。

念佛三萬遍でも好いし、臨終の一念佛でも好い。

ただ言葉多きがゆえにきかれると思うのは、
言葉少なければきかれぬと云う恐怖心が内在する現れとも言える。

思念の言葉を反覆するのは、自分の心の波長を調整する為である。

            <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝>

神と波長を合わすには - 伝統

2017/03/26 (Sun) 03:29:47


           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

            <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

われ祈れば天地応(こた)える - 伝統

2017/04/01 (Sat) 03:57:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月1日)」より

なんという歓びであろう。
自分の棲んでいる宇宙には、自分の意志に反対する意志は一つとして存在しないのである。
 
なぜなら、自分は神の子であり、宇宙生命は神御自身であり、
宇宙は神の支配下にあるからである。

われ祈れば天地応(こた)える。

神は常に我が祈りに応えたまい、
我がために処を備え給い、宝を備え給い、時を得せしめたまい、
すべての必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうからである。

            <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

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