伝統板・第二

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吉田松陰の留魂 - 夕刻版

2016/03/29 (Tue) 19:48:29

         *Web:「Japan On the Globe」(H28.03.27)より

《「吾、今、国の為に死す」》

安政6(1859)年、志士を弾圧していた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の要撃を計画した事で、
吉田松陰は10月27日に死罪を申し渡された。

その時に立ち会った長州藩士・小幡高政は次のような談話を残している。


   すぐに死罪を申し渡す文書の読み聞かせがあり、
   そのあと役人が松陰に、『立ちませい!』と告げます。

   すると、松陰は立ち上がり、私の方を向いて、ほほ笑みながら一礼し、
   ふたたび潜戸から出て行ったのです。

   すると……、その直後、朗々と漢詩を吟ずる声が聞こえました。

   それは、

   『吾、今、国の為に死す。死して君親に背かず。悠悠たり天地の事。鑑照は明神にあり』

   という漢詩です。

 
   その時、まだ幕府の役人たちは、席に座っていましたが、
   厳粛な顔つきで襟を正して聞いていました。

   私は、まるで胸をえぐられるような思いでした。
   護送の役人たちも、松陰が吟ずるのを止めることも忘れて、それに聞き入っていました。

   しかし、漢詩の吟詠が終わると、役人たちは、われに返り、あわてて松陰を駕籠に入らせ、
   急いで伝馬町の獄に向かったのです。

                  <松浦 光修『[新訳]留魂録』2881>


その後、処刑場でのふるまいに関しても、一人の幕府の役人は
「みな感動して、泣いていました」という談話を残している。

こうして吉田松陰は、数え年30歳で、生涯を閉じた。

・・・

<関連Web>

吉田松陰については、先代の掲示板において、次のWebがあります。

(1)“本流宣言”掲示板」

  ①吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994   

  ②松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998  

(2)「光明掲示板・第一」として、

   吉田松陰 (2876)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=581   

(3)「光明掲示板・第二」として

  ①吉田松陰~『留魂録』
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=507   

  ②千代(松陰の妹)から見た吉田松陰 (4255)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902  

  ③成人式(元服)での吉田松陰の言葉 (4558)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=956   

  ④花燃ゆ~吉田松陰の末妹「文」の生涯 (11226)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140   


(4)光明掲示板・第三「吉田松陰 (1324)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=267

(5)光明掲示板・伝統・第一「吉田松陰」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=62


            <感謝合掌 平成28年3月29日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その2 - 伝統

2016/04/09 (Sat) 19:09:20


《「私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます」》

この前日26日の夕刻に書き終えたのが、
自分の門人たちにあてた遺言書とも言うべき『留魂録(りゅうこんろく)』だった。

そこでは、幕府の役人の取り調べの状況を綴りながら、
「私は昨年(安政5年)から、心のありようが、さまざまに変化してきました」と、
心の揺れ動く様を正直に吐露している。

そして、その後、死を前にした心境を次のように語った。


   今、私は死を前にしても、とてもおだやかな安らかな気持ちでいます。
   それは、春・夏・秋・冬という四季の循環について考えて、こういうことを悟ったからです。

   ・・・稲は、春に種をまき、夏に稲を植え、秋に刈り取り、冬には収穫を蓄えます。・・・

   私は今、三十歳です。
   何一つ成功させることができないまま、三十歳で死んでいきます。

   人から見れば、それは、たとえば稲が、稲穂が出る前に死んだり、
   稲穂が実るまえに死んだりすることに、よく似ているかもしれません。
   そうであれば、それは、たしかに“惜しい”ことでしょう。

   しかし私自身、私の人生は、これはこれで一つの“収穫の時”を迎えたのではないか、
   と思っています。どうして、その“収穫の時”を、悲しむ必要があるでしょう。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]


《「収穫の時」》

「何一つ成功させることができないまま、三十歳で死んでいきます」とは、
松陰の外形的な業績に関しては事実である。

山鹿流兵学の家を継ぎ、11歳で毛利藩主に御前講義までして「神童」として将来を嘱望されたが、
九州や東北に遊学、その途中で友との約束の期日を守るために、藩の許可を得る前に出発してしまい、
結果的に脱藩となる。

その後、ペリーの黒船が浦賀に来航した際に、国防のために西洋文明を学ぼうと
乗船を求めたが拒否され、幕府に自首。しばらく長州萩の野山獄に幽囚となった後、
生家に蟄居となった、この時に松下村塾を開き、門人の教育に励んだ。

そして今度は、老中・間部詮勝の要撃計画がもとで、死刑の判決を受けたのである。
この松陰の人生のどこが“収穫の時”なのか。松陰はこう続ける。


   私は、すでに三十歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。
   その身が、じつはカラばかりで中身のないものなのか・・・、あるいは、りっぱな中身が
   つまったものなのか・・・、それは本人である私にはわかりません。

   けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を“あわれ”と思う人がいて、
   その誠の心を“私が受け継ごう”と思ってくれたら、幸いです。
   それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。

   もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、
   春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、
   ということになります。

   同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えて下さい。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]

            <感謝合掌 平成28年4月9日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その3 - 伝統

2016/04/13 (Wed) 20:41:39


《「私の魂が七たび生まれ変わることができれば」》

「同志が私のささやかな誠の心を受け継ごうと思ってくれたら」という松陰の思いは
「七生説(しちしょうせつ)」に基づいている。

「七生説」とは、楠木正成が朝敵・足利高氏に勝ち目のない戦を挑み、最後には弟・正季と
差し違えて死ぬ直前に「七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばや(滅ぼしたい)」と言って、
からからと笑ったという史話に依る。


松陰はこの3年前、安政3(1856)年に『七生説』という一文を書いた。
そこでは、三度、湊川(兵庫県神戸市)の楠公正成の墓所を参拝して、
そのたびに涙が溢れて、止めることができなかったと述べている。

自分と正成は血縁でもなく、会った事すらないのに、なぜ涙が流れるのか。
それは自分と楠公の心が一つにつながっているからではないのか。


   私はつまらない人間ですが、聖人とか賢人と呼ばれる立派な人々を同じ心をもち、
   忠義と孝行を実践して生きたいと思っています。現実的には、わが国を盛大な国にして、
   海外から日本を侵略しようとやってくる欧米列強を撃退したい、という理想を持っています。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]
 

しかし、行動は失敗し、結果的には不忠、不幸の人になってしまった。
しかし、自分は楠公の心を自分の心としている。


   私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、
   そんな生き方をしてみせるつもりです。そして私の魂が、七たび生まれ変わることができれば、
   その時、はじめて私は、「それでよし」と思うでしょう。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]

            <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その4 - 伝統

2016/04/15 (Fri) 20:04:27


《「尊皇攘夷」》

松陰が志していた「尊皇攘夷」とは、よく誤解されているように
「鎖国を維持して天皇制を守ろう」などというイデオロギーではなかった。

「尊皇」とは皇室を中心に日本国が一つにまとまる事であり、
「攘夷」とは、それによって欧米諸国の侵略から国を守ろう、ということであった。

20年ほど前に、清帝国がアヘンを売りつける英国と戦端を開いたが、
国内の分裂で敗れ、半植民地状態に追い込まれた事は、わが国の朝野に衝撃を与えていた。

江戸幕藩体制のもとでは日本は各藩に分立しており、
国内の統一が急務であることは誰の目にも明らかであった。

「尊皇」とは、天皇を中心として日本を一つの国家にまとめようということで、
そのためには徳川幕府を倒して新政府を作ろうという「倒幕」の道と、
幕府と朝廷の力を合わせて国家をまとめようとする「佐幕」の二つの道があった。
ともに「尊皇」という点では同じである。

「攘夷」も、「鎖国」を続けたまま戦うという道もあれば、
「開国」して西洋の技術を導入しつつ防衛を強化するという道もあった。

どちらにしても「攘夷」という点では同じである。
結局、明治新政府は「倒幕」による「尊皇」と、
「開国」による「攘夷」という道をとったのである。

神道思想家の葦津珍彦(あいづ・うずひこ)氏は、
「攘夷」の意義について、こう指摘している。


   日本民族が国際交通を始める前に、まず攘夷の精神によって独立と抵抗の決意を
   鍛錬したことは、決して無意味だったのではない。

   この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、
   国の独立を守りぬくことができなかったであろうし、
   植民地化せざるをえなかっただろう。『大アジア主義と頭山満』


            <感謝合掌 平成28年4月15日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その5 - 伝統

2016/04/18 (Mon) 17:54:55


《「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも」》

「私は、私のあとにつづく人々が、私の生き方を見て、必ず奮い立つような、
そんな生き方をしてみせるつもりです」という松陰の遺志は、その通りに
松下村塾の門下生らに引き継がれた。

高杉晋作は、こう手紙に書いている。


   松陰先生の首が、とうとう幕府の役人の手にかかりました。
   そうさせてしまったということ自体、まことに長州藩の恥というほかありません。
   そのことを口にするだけで、私は顔から汗が出てきそうです。

   先生と私は、師弟としての交わりを結びました。
   ですから私は、先生の仇を討たないままでは、
   心安らかに暮らしていくことなど、とてもできません。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]

 
この後、高杉晋作は元治元(1865)年の「功山寺挙兵」で勝利し、
「禁門の変」のあと幕府への恭順を主張する「俗論派」を排斥して、長州藩の実権を握った。

その上で、薩摩との盟約を結び、慶応2(1866)年の第二次長州征伐(四境戦争)では、
ほぼ10倍の兵力を持つ幕府軍を破り、明治維新への道を開く。

 
明治新政府が発足すると、松下村塾で学んだ伊藤博文が初代の内閣総理大臣となり、
大日本帝国憲法の発布、日清・日露戦争の勝利と、日本国の独立維持の主柱となった。

同じく塾で学んだ山県有朋も日本陸軍の基礎を築いて、「国軍の父」と称された。

 
松陰は生前、門人たちに「たとえ松陰の肉体は死んで仕舞うとも、
魂魄(こんぱく)は此の世に留って、お前たちの身に添うて、必ず私の此の精神を貫く」
と断言していた。[松浦 光修『[新訳]留魂録』]


この言葉通り、松陰の魂は高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らの身に沿って、
日本が天皇の下に一つにまとまり、欧米諸国の侵略から独立を維持するという
「尊皇攘夷」の志を実現させたのである。

            <感謝合掌 平成28年4月18日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その6 - 伝統

2016/04/20 (Wed) 19:11:18


《「けふの音(おと)ずれ 何ときくらん」》

しかし、その松陰も人の子、自分が死罪となった事を親が聞けば、
どれほど悲しむだろうか、と思わざるを得なかった。
処刑の7日ほど前には家族あての手紙に、次のような歌を贈っている。


    親思う心にまさる親ごころけふの音(おと)ずれ何ときくらん
    (子が親を思う心以上に、子を思う親は、今日の報せをどのように聞くのだろう)

 
この頃、萩の実家では、長男の梅太郎と三男の敏三郎が病床にあり、
看病に疲れ切って仮眠をとっていた両親は、同時に目が覚めた。

母親はこう父親にこう言った。


    私は今、とても妙な夢を見ました。
    寅次郎が、とてもよい血色で、そう……昔、九州の遊学から帰ってきた時よりも、
    もっと元気な姿で帰ってきたのです。

    『あら、うれしいこと、珍しいこと……』と声をかけようとしましたら、
    突然、寅次郎の姿は消えてしまい、目が覚めて、それで夢だったとわかったのです。

                         [松浦 光修『[新訳]留魂録』]


「もしかしたら寅次郎(松陰)の身に何かあったのではないか」と心配していたら、
それから20日あまりも経って、江戸から松陰が「刑場の露と消えた」という報せが来た。
指折り数えてみると、まさに夢を見たその時に松陰が処刑されていた。

 
松陰が野山獄から江戸に送られる際に、一晩だけ家に帰る許しを得て、
家族と最後の面会をした際に、母親が

「もう一度、江戸から帰ってきて、機嫌のよい顔を見せておくれよ』と言うと、松陰は

「お母さん、そんなことは、何でもありませんよ。私は、きっと元気な姿で帰ってきて、
お母さんの、そのやさしいお顔をまた見にきますから……』と言った。

 
母親はその言葉を思い出して、後にこう語っていた。

「たぶん寅次郎は、その時の約束を果たそうとして、私の夢のなかに入ってきて、
血色のよい顔を見せてくれたのだろうね。親孝行な寅次郎のことだから、たぶん、
ほんとうにそうなのだろうと、私は思っているよ」  [松浦 光修『[新訳]留魂録』]

            <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

吉田松陰の「留魂」~その7 - 伝統

2016/04/24 (Sun) 19:17:01



《「愛(かな)しき命積み重ね」》

昭和の歌人・三井甲之(こうし)は次の絶唱を遺した。

 ますらをの愛(かな)しき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を
(男たちが悲しい命を幾重にも積み重ねつつ守り続けてきた、この大和の国を)

 
松陰や高杉晋作らをはじめとする幕末に殉じた志士たちを
お祀りするために創建されたのが「招魂社」、のちの「靖国神社」である。

そこには「国を靖んずる」ために積み重ねられてきた
「愛(かな)しき命」が250万柱近くも祀られている。

正成や松陰の志は幾世代もの世代に継承されて、我が国を護ってきた。

これからも日本を護っていけるかどうかは、今後の我々の生き方にかかっている。

http://blog.jog-net.jp/201603/article_7.html

(以上で、「Japan On the Globe」(H28.03.27)からの紹介を終えます)

            <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

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