伝統板・第二

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礼拝の教え - 伝統

2016/03/01 (Tue) 03:30:50

このスレッドでは、教えの神髄でもある
「生命礼拝」に関する言葉の数々を紹介してまいります。

            ・・・

《『生長の家』は礼拝主義で生きる。》

           *「生長の家」創刊号(P22~27)より

この礼拝主義は他人の悪を心に記憶せず、言葉にも表現しないで、
相手の本質の神を拝むのである。

キリストも言ったところの『汝の敵を愛せよ』という信条に一致する。

諸君よ、今日かぎり、
他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取り戻そう。

他人が悪を犯したからって、自分が何故不幸にも、
憎みの歯車で噛みくだかれねばならないであろう。

あなたの心は他人の悪の餌食となって食われて了わねばならないような
一片の肉塊ではないのである。
あなたの心は何物にもしばられないで、
それ自身で幸福になり得ると云うことを知らねばならぬ。

自分の心の高貴を取りもどせよ。
自由と独立とを奪回せよ。

相手が下劣なことをすると思うならば下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。
相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りて往って下劣と肩を並べねばならぬ
と云うことはないのである。

併し、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために
 ―― 言い換えればみづからのみを潔しとし、
他を傲然と見下ろすために許しの王座に上るものは、
なお本当には自己の生命を伸び伸びと生かすことが出来ないのである。

それは「生長の家」の生き方ではない。

かゝる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他が一層低く見える。
彼は自己の心のうちに他の醜くさを常にえがいて暮らさねばならぬ。
自己が高くあがればあがるほど自己の心のうちを他に対する軽蔑や非難の声で
みたさねばならぬ。

彼はいつの間にかほかしていたと思っていた人生の滓(かす)を
自分のうちに充満せしめることになる。


『生長の家』の礼拝主義はそんな単なる寛大主義ではない。
又自己のみが高くあがる独善主義でもない。

それは外(ほか)の見せかけの他人の悪にとらわれない。
其の人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。

その人の本質にある神を見るのである。
どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。

どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に値する内在価値をもっている。
諸君は百円札が汚れているからとてその内在価値を疑うか。

然らば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、
その内在価値 - 神の子としての価値を疑ってはならない。

かくのごとくして『生長の家』では萬人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。

ここに於て吾らの人生観は全然転回せざるを得ない。
暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。
吾らはおのづからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。

これは実に幸福生活の秘訣である。
キリストは『汝の敵を愛せよ』と云ったが、
もう此のとき諸君の世界では敵が存在しないのである。


さて、どうしたらそんな境地に達しうるか。それを自分は語らねばならぬ。

他(ひと)が現に眼の前で自分に対して面白くないことをしているのに、
どうしてその人の内にある神を吾等は拝みうる境地に達しうるか。
それはまず心的練習(メンタルトレーニング)を必要とするのである。

現に悲しい事件があるのに鏡の前で出来るだけ愉快な顔をし、
これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、
諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達し得るのである。

何故なら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相の存在であって、
どんな曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。

相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、
相手の好意を見るようにするのである。相手の愛を自分の心の中に想像する。
そして強く強く自分の心のうちに印象する。

若し現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静座して
自分の心に対して次のごとく、耳にきこえる程の声で云いきかすが好いのである。



   自分は神の子である。

   自分は心には愛が充ち満ちている。

   自分は彼を憎まない。

   自分は彼を愛している。

   愛は愛を招ぶ。

   だから、彼も亦自分を愛せざるを得なくなるのである。

   自分は彼に宿る神性を

   こうして毎日拝むのである。



かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、憎んでいる相手を
実際に愛していると真に強く想像し、実際愛し得るようになるまで
この行持を続けるのである。

諸君は第一実際自分が善くなって来るのを感ずるであろう。
これが言葉の創造力である。

諸君の心自体が変わってくるに従って、
影をむけていた相手が実際自分に日向を向けてくるのを覚えるであろう。

黒住教祖の教歌『立ち向かう人の心は我身なり。己が姿を映してや見ん』は
實に真理を穿っている。

実際相手が自分を憎んでいるように見えたのは、
自分が相手を咎める心を有っていたからであって、
相手は自分の心の映像であったことが判って来るであろう。

境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども
実際は自己の心の中の賊を征服することだったことがわかってくるであろう。


   君よ、奴隷になってはならぬ。

   悲しみに捉われる者、怒りに慮われる者、怒りに捕われる者、
   すべてこれらは奴隷である。

   自己の感情を自己で支配せよ。

   この時諸君ははじめて王者である。

・・・

<関連Web>

「光明掲示板・第一」内のスレッド「拝みきる (9938)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1893

             <感謝合掌 平成28年3月1日 頓首再拝>

合掌のこころ - 伝統

2016/03/09 (Wed) 04:03:32

        *『一流の母・妻・子を作るには』より

 
    拝む心になったら、自然に掌が合わされる。
    自然に両掌が合って頭が下がってくる。
    掌が合うのは互に一つに融け込む心が形になって現れたのです。

    互に一つに融け込んだ姿には、
    神がそこに顕れているから自然に頭が下がるのです。

    ミレーの『晩鐘の絵』を見ると、
    黄昏を拝んでいる農夫の姿がまたとなく尊い。

    あれは拝んでいるのであって、祈っているのではありません。

    あれは一つに融け込んでいるいるのです。
    萬物と一つに融け込んでいるのです。
    融け込まないものには深味がない。

    深味があるのは、そこに神が顕れているからです。

    拝まれるものにも神が顕れますが、
    拝む姿には一層神が顕れるものです。

    何のために何かのご利益のために拝むというのではありません。

    神とは火水(かみ)即ち陰陽一つに拝み合った姿なのです。
    神が顕れたら拝まないではいられなくなるのです。
    何かの為ではない、神が現れれば互いに拝むのです。

    皆さん、互に拝み合っておられますか。


   ( http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17668311.html より転写)

 
             <感謝合掌 平成28年3月9日 頓首再拝>

拝み合う - 伝統

2016/03/17 (Thu) 03:31:45


      *谷口雅春先生・著「拝み合う心」(はしがき)より

本書は、吾々夫婦で書き綴って来た魂のささやかな生長の記録である。

拝むと云うことは文字に書けば何ら雑作の無いことだが、
生活の上で行ずるのは、なかなか困難のことである。

吾々夫婦はこのなかなか困難のことを人生の修行として努め、励み、精進して来ったのである。
手近にいる自分の夫又は妻でさえもその實相を拝むことは容易なことではない。

トルストイは人類を礼拝しつつ、遂に手近にいる彼の妻を礼拝することが出来なかった。
彼の人生苦悩と人生悲劇とは其処から来るのである。

キリストも自己の母を聖母として本当に拝むことが出来なかった。
カナの婚宴にイエスを訪ねて来た母マリアに対して
彼は「我れ爾(なんじ)と何のかかわりあらんや」と激語している。

「人の子は枕するところなし」 ―― それは文字通りイエスの放浪伝道の生活を表現している
ばかりではなく、家庭に於いて拝み、拝まれ、拝み合うべき家族を持たないと云うことであった。

釈迦の出家も結局は家族が彼を理解し得ず、また彼が家族を礼拝し得ない結果であった。
―― 尤(もっと)も釈迦は成道と同時に、有情非情同時成道草木国土悉皆成仏と、その實相を
み仏として拝むことが出来、その結果、彼の家族も仏道に入り、彼の家族も釈迦をみ仏として
拝むに至ったのである。

真に家族を拝みえることは、実に釈迦の高さに精神が高昇することを要するのである。

私は生まれて50年、漸(ようや)くにしてわが父、わが母をみ仏として拝み得る境地に達した
のである。私は今までどんなに親不孝であったことか。父母は今年金婚式の記念すべき年に当たる
のだそうであるが、時局柄自粛して祝賀の宴も開かれないのだと承る。

私も父母の金婚式には是非とも何かお祝いを差上げたいと思っていたが、
『物』を以てしては差上げる何物もない。

私は爰(ここ)に私達夫婦が、父母の愛念に育てられて来て、ここまで育ったと云う魂の記録を
書冊に綴って、せめてもの贈り物にしたいと思う。

まだまだ私達は今後も生長するであろう。
こんなことで私は満足して好い気にはなっているのではないが、一先ず、
今のところの魂の記録を纂(あつ)めて父母に悦んでいただきたいと思う。

巻初の父母に捧ぐる歌は、昭和15年の秋、はじめて父母が揃って、東京の私の住居を
訪ねて下さったとき、嬉しさのあまり、自然に私の心持が歌になったものである。

第二篇は道場での私の講話を纂(あつ)めた。
第三篇は私のものした随筆であり、
第四篇は妻の随筆である。

この書を出版することが機会に、吾々家族は、尚一層、
親子拝み合うようになりたいものだと思っている。

またこの書を読んで下さったのが機縁になって、読者のうちの一人でもが、
父母を拝む心になり、妻を拝む心になり、家族全体が『《みほとけ》の家庭』『神の子の家庭』に
なって下されれば、望外の幸(さいわい)である。

何故なら、本当の国力の充実は、
国民家族の相互の拝み合いから完(まっと)うせられるからである。

序文を終るに臨んで、読者諸賢の神の子なる實相を礼拝させて頂く。


      皇紀2602年5月15日

                              谷口雅春 識

・・・

皇紀2602年=昭和18年

             <感謝合掌 平成28年3月17日 頓首再拝>

「拝む と云うこと」 - 伝統

2016/03/25 (Fri) 04:55:19


         *『行』誌(昭和15年2月号)の巻頭言 より

拝(おが)むとは『我(が)』が無くなることなり。
『自分』が虚(むな)しくなることなり。

『自分』があって拝んでも、それは真に拝んでいるのではない。
少しでも『自分』があったら拝み切ってはいぬなり。

『自分』が、これだけしている《のに》とか、
これだけ尽くしたらもう赦して貰っても好い筈だとか思うのは
まだ『自分』を捨てていぬなり、拝んでいぬなり、無条件ではなきなり。

自分の註文があるなり。
自分の註文がある間(あいだ)はまだ『我(が)』が壊(くだ)けていぬなり。
『我(が)』がくだけていぬ間(あいだ)は『自分』が零(ゼロ)に成っていぬなり。

『自分』が零(ゼロ)になっていず、『自分、自分』と把(つか)み乍(なが)ら、
相手を私は拝んでいますなどと考えるのは増上慢なり。

『拝む』と云うことは『自分が拝んでいます』と誇らしげに云うことには非(あらざ)るなり。
相手の前に無条件にひれ伏すことなり。

前号精神分析の第42話、本号精神分析43話に現れたる『これだけ私は尽くしている』
と云う婦人の尽くし方の効果が顕われぬ理由、よくよく読んで勘考せらるべし。

拝むとは『零(ゼロ)』になることなり。
『無条件』になり切ることなり、どんな仕打ちでも苦情を云わずに、
無条件に有り難く受けることなり。

『我(が)』がくだけて了(しま)えば、一切の業(ごう)なし。
業は『我(が)』が背負っているものであるからである。

業なければ、一切の禍(わざわい)なし。
『我(が)』がくだけたとき、天地変貌し、肉体も変(かわ)るのは当然なるなり。

             <感謝合掌 平成28年3月25日 頓首再拝>

すべての人々を礼拝合掌する - 伝統

2016/04/03 (Sun) 04:51:37


         *「幸福を招く365章」(P107)より


今日(こんにち)、あなたは神の愛に満たされているのである。
だからすべての人間と事件とを愛の眼光(まなざし)をもって観るのである。

だからあなたは人を決して悪しく見ることもなく、
人を憎むことも、そしることも、疑うことも不安に見ることもないのである。

あなたは、何が善、何が悪の標準をもっては人々を批判することをしないのである。

ただ全ての人々に神が宿っていることを観て常に合掌礼拝するのである。
 
凡(あら)ゆる人はそれぞれ自由であって完全であるから、
合掌礼拝するときその完全さがあらわれる。

             <感謝合掌 平成28年4月3日 頓首再拝>

合掌の姿・心 - 伝統

2016/04/13 (Wed) 04:53:57

     *メルマガ「勝ち神からの手紙」(2015.8.18)より

《真心を表す姿・・・合掌の姿》

合掌する姿は、人間の最も美しい姿だと思います。
よく、合掌しながらお辞儀をしている姿を見かけますが、
合掌の美しい姿とは、ただ一心に、腰を伸ばして顎を引いている姿です。

真心を素直に表している姿こそが合掌の姿なのでしょう。

私が初めてこのように感じたのは、聖徳太子の二歳像の前に立った時です。
「南無仏」と唱えられ、合掌の手の内側から、仏舎利が生まれたと言われます。
このような神通力を持っている姿こそが「合掌」の姿です。

合掌の「掌」は「たなごころ」と読みますが、
「手の心」という意味です。
左と右の手の心を合わせることで、合掌の形ができます。

手の形を見てみれば、「掌」は「手のひら」です。
つまり、手のうら、手の内、を表します。

日本人としての最上の姿こそが「合掌の姿」であり、
それは、「真心の姿」なのです。

お仏壇やお墓で、先祖の霊に手を合わせる姿は、
過去と現在、そして未来を結ぶ姿となります。

日本人として、「合掌の姿」を身につけることは、とても大切です。


・・・

           *「幸せは今ここに」北尾巳代次・著(P110~117)より

第8編  合掌ということ

《信仰の極致としての合掌》

合掌はかたちの上に示された最も美しい愛の表現であり、信仰の極致である。
合掌なくして生活の悦びなく、合掌なくして供給無限の生活もあり得ない。
或る人は合掌により不治の病より甦り、また或る人は暗澹たる絶望の思想から解放せられる。

 
しかし合掌は絶対に何ものをも求めず、ひたすら行ぜられる素直なものでなければならない。
為にする合掌はいたずらに相手の顰蹙を買って反抗をつのらせるばかりである。

ただ礼拝する、ただ合掌するのである。
俗に言う拝み倒しでなく、どこまでも相手を神とし、仏として拝ませて頂くのである。


真剣な合掌は必ず魂の限りなき喜びを伴い、自ずから眼底の熱くなるのを覚えるであろう。

                 ・・・

《ある合掌》

終戦後間もなく私は私用で大阪の上六(うえろく)に行ったことがある。

当時の車両は今と異なり、爆撃の後も生々しく、一枚のガラスも残さず破壊し尽くされ、
箱の中に、私達はただ荷物のように無茶苦茶に積み込まれて汗臭い体臭を嗅ぎながら、
息詰まりそうにゆられて行ったものである。

電車が上六に着くと、甦ったように先を争って、その狭い乗降口から飛び出そうとする乗客の中に、
見るからに危なそうな一人の盲人が、よろよろと私の腕の上に倒れかかって来たのだった。

「危ない!」
 
私は両手で抱き上げるようにして、その盲人を車輛の外に連れ出した。

「有難うございます」
 
嬉しそうな表情をたたえながら彼は軽く私に会釈すると、
持っていた杖を小脇に抱え直して、今乗って来た電車の方に、クルリと向き直ると、
多数の人の雑踏の中にも拘らず、実に敬虔な合掌をせられたのである。

私はその姿を見た瞬間、なんとも言えぬ深い感動に心の痺れるのを感じたものである。
 
ああ、何という美しい感謝の祈りであろう。
恐らく彼は盲人なるが故に、日常歩行に対する不自由な体験から迸り出た
崇高な愛の所作であるとしか考えられない。

                 ・・・

《まず感謝する》

今静かに自己の日常を振り返り見るに、幸い完全なる五体に恵まれ、
日々の生活またまことに恵み豊かなるに拘らず、

多くはその幸福に酔い痴れ、感激を忘れ、感謝の心を喪(うしな)い、
合掌を結ぶ手にいつしか人の欠点を指摘し、歓喜を讃える口先に皮肉を含み、
唇をつく言葉が人の肺腑(はいふ)をえぐるに至る時には、
如何なる幸福も泡沫のように儚く消え去るであろう。


いかに財宝に恵まれようとも、真実心に喜びを体得しなければ、永遠に倖せはあり得ない。
如何なる健康に恵まれようとも、その健康を神の恵みとする感謝がなければ、
やがてその健康はあえなく崩れ去ってしまう。

肉体も環境も吾が心の影と教えられている。
外界、外界にあらずして、内界の投影としての外界があるのであり、
全ては自心の展開でしかない。


たとえば、三角関係に苦しむ人は、自己の醜い嫉妬心を清算すべきである。
何が故にかくの如き不幸を招来せるかを深く反省することである。

夫が悪い、悪いと考えている妻は夫にとって決して幸福な妻ではない。
姑が悪い、悪いと考えている嫁は、その家庭にとって決して幸福な嫁ではない。

人はまず相手の需(もと)むる善き夫となり、妻となり、
嫁となる心掛けを真剣に行ずることである。

                ・・・

《走っているうちに……》

話は古いが、合掌によってよく重篤な病気から解放せられたばかりではなく、
その複雑な三角関係をも見事に解消した素晴らしい女性をここに紹介させて頂き、
同じ境遇に悩む女性達の指針とさせて頂こうと思う。

その人は現在奈良県の地方講師として光明化に挺身していられる
京都府相楽郡加茂町大畑の杉田萩野さんである。

当時腹膜の卵巣炎を患い、3ヵ年に亘る療養生活を送っていられた萩野さんは、
単に病気の苦しみだけでなく目の前で夫と女中が襖一つ隔てた隣室で公然と同衾する様を
悲しい諦めと怒りの表情で眺めつつ暮していられたのである。

彼女の病状は彼女の心の通りいっこうにはかばかしくゆかなかった。

そんな或る時、彼女が姉から突然『生命の實相』と聖経『甘露の法雨』が
彼女の病床に送られてきたのである。

「荻野さん、あなたは神さまを信じられますか」

「いいえ、信じることは出来ません」

「私も初めはそうだったのです。しかしやがて神さまの愛を信ずることが出来るようになりました。
あなただってきっと解かりますよ。

読んでごらん、この御本の中にあなたが神様の子であることも、
病気は本来存在しないことも、夫も女中も本当は神の子で決して悪い人でないことも、
そのあなたの心の眼を開く程度に理解されて来るでしょう」

1週間、彼女は一心に『生命の實相』の御本を読みふけった。
少しずつ頑(かたく)なな彼女の心は解きほぐれていって、
小用も自分で済ませることが出来るようになり、
夫や女中に以前ほどの激しい憎悪を感じなくなった。

 
まもなく彼女は姉に手をひかれて、初めて奈良の平野先生の誌友会に寄せて頂いた。
幸福そのものの誌友の表情と雰囲気、ただ夫を釈(ゆる)せ、女中を釈せ、拝むもののみ拝まれるという、
諸々の体験を通しての講師の言葉、萩野さんは初めて聞く真理に全身がふるえるような反省に打たれて
顔を挙げることも出来なかった。

「あなた、私が悪うございました。私の愛情が足りなかったのです」

かくて正しい信仰に目覚めた萩野さんの人生観は明るい光明に転じ、生命は喜びにたぎり立ち、
帰途、国鉄奈良駅までの六町余りを夢中で走り続けている間に、
萩野さんの病気は忽燃(こつねん)と消滅してしまったのである。

萩野さんの病気はまことに萩野さんの心の中に描かれた妄想の所産に過ぎなかったのである。

                  ・・・

《二人の後姿》

かくて萩野さんの新しい勤労の生活が始まった。
文字通り朝に夕に星を仰ぎ繊細な萩野さんの肉体は
ただ不可思議な聖霊に満たされつつ働き続けるのである。

もうどんなに働いても疲れない。
勤労の喜びを胸に、夫とともに働く萩野さんの心は感激で一杯であった。

 
そうした反面、夫と女中の関係は相変わらず続けられていたのである。
どんなに実相の完全なることを信じ念ずる萩野さんも、夕方になればいつのまにか
女中の部屋に立って行く夫の姿を見ると新たな悲しみが湧きあがってくる。

<これは私がまだ拝み方が足りないのである。夫も女中もすべて観世音菩薩である。
常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)が一切衆生を拝ませて頂いたように、
私も真剣に拝ませて頂きましょう>

「夫よ、釈しておくれ、ねいやよ釈しておくれ、
あなたこそ私を済度して下さる観世音菩薩さまなんです」

萩野さんはただ一心にそう信じ、実行に励みきった。
そうした或る秋の夕べ、夫と車を押しての野辺の帰り、突然、

「萩野、車に乗れ」

いつにない夫の優しい言葉に、「ハイ」と素直に乗せてもらって、刈り取った稲束の上に坐らせて頂く。
黙々として車を曳いて行く夫、その逞しい後姿を見つめている間に萩野さんの目から、
ポロポロと大粒の涙が零れ落ちて来たのである。

「ああ、私はまだこの優しい夫を恨んでいたのである。この優しい夫を」

思わず両手を胸の上に合わせて心から懺悔の誠心(まごころ)を込めて夫を拝んだのである。

その時夫は車を止め、静かに振り返って、合掌しながらむせぶ泣く妻の姿を暫く見つめていたが
一言も発せず、また黙々と車を曳いて行ったのである。
しかしその瞼の中にはやはり温かく濡れているものが感じられたのである。

かくして彼女の三角関係は夫の手によって終末を告げることになった。

「奥さん、永らくお世話になりました。私の罪を赦して下さい。
どうぞいつまでもお幸福(しあわせ)に」

「ねえや、有難う。お前が悪いんじゃない。みんな私が悪かったのです。
私のためにあなたにも大変な迷惑を掛けたことを赦しておくれ。
どうぞお前もきっと幸福になっておくれね。これからも私を姉さんだと思って時々訪ねておくれね」

夫と萩野さんに見送られて女中さんは、
大きなトランクと風呂敷包みを振り分けて峠の山道を重い足を曳きずりつつ
次第に遠ざかって行った。

その姿が完全に見えなくなるまで、萩野さんは泣きながら合掌の手を解こうとしなかったのである。

かくして萩野さんの三角関係は萩野さん自身の合掌の中に消えていったのである。

合掌こそ一切の苦悩を解消する最も偉大な道である。 (43・2)

             <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2016/04/16 (Sat) 04:04:56


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 平成28年4月16日 頓首再拝>

《人間を拝むということ》 - 伝統

2016/04/25 (Mon) 03:24:11


            *『真理』第五巻女性篇(P79)より

人間を拝むということは、「合掌」というオマジナイをすることによって、
相手を自分の欲する状態にならしめるというような霊術ではないのであります。

相手の「神性」を信じ、礼し、敬することであります。

自分の良人のすることはどんなことをしても、間違いがないということを信ずるようにしたら、
良人が素直になり、良人のほうから妻を信じ妻の欲することを何でも、みずから進んで
して下さるようにあらわれてくるという事実は決してマジナイの効果ではなく、
神性を礼拝する効果なのであります。

            <感謝合掌 平成28年4月25日 頓首再拝>

萬有一切の神性を礼拝せよ - 伝統

2016/05/04 (Wed) 03:49:23


       *「生活と人間の再建」第4章(P58~59)より

自己神視の信念が、同時に「他(た)の人は迷っている」と云うような「他人蔑視」の
観念に伴われるとき、それは却って自己内在の「神性」を生育し生長せしめ、
結実せしめる妨げとなるのである。

諸君が神の子であるならば同時にすべての人間も神の子である。
人間のみならず、すべての生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものが神のある段階
に於ける自己表現であって、その内性に於いて、その本性に於いて、互いに兄弟である
との自覚もたなけならないのである。

即ち釈迦が悟りをひらかえらとき、「有情、非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」と
萬有を讃嘆せられたように、一切の情(こころ)あるものと、情(こころ)なきもの
とを礼拝する心境にならなければならないのである。

この心境に達したとき、諸君は萬有一切調和するのである。
萬有一切と調和したとき、萬有一切から祝福され、萬有一切が諸君に与え得る
一切の恵福を受けることが出来るのである。

よく受くることの出来るものは、心の広きものである。
心狭くして唯(ただ)、他(た)の欠点のみを暴き合い、非難、攻撃、揚足(あげあし)
とり、羨望嫉妬の悪情(あくじょう)に燃えさかって、血なまこになって闘争を事と
するとき、人間は自己《内在の叡智》をその争闘精神にくらまされ、その神性の種子は、
憤怒、嫉妬、憎悪の毒瓦斯(どくガス)にあてられて窒息してしまうのである。

            <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

《吾は一切の人を神の子として拝む》 - 伝統

2016/05/11 (Wed) 04:59:21


         *『 生長の家 』(昭和24年11月27日)の法語より

   自分は 今日より後、自分の周囲に近づいて来る
   すべての人々を神の子として観(み)る。

   すべての人々を 善意を有するもの、悪意なきもの、
   神から遣わされたもの、善き友として見、
   神がかくの如きよき人々を吾々の周囲に遣わされ給うたことに
   感謝するのである。

   如何なる不作法なことを周囲の人がしようともそれは唯
   影であって実相ではないと知るが故に
   自分は決してそれに煩わされないのである。

   吾は人の過ちに対して寛大であり
   人の善に対してほめることに寛大であるのである。


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            <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

《夫婦合掌》 - 伝統

2016/05/19 (Thu) 04:49:49


         *「幸せは今ここに」北尾巳代次:著(P186~188)より

滋賀県の大津田の山中さんという奥さんは、毎朝目が覚めると、合掌して夫を拝み、

「お父ちゃん、お早うございます。有難うございます。
今日も元気一杯に私達家族のために働いて下さいまして有難うございます」
 
とお礼を言われるそうです。

今度はご主人が奥さんに合掌して、

「お母ちゃんお早うございます。有難うございます。
今日もまた元気一杯、私達のために家庭にあって愛行を下さいまして感謝します」
 
と朝の挨拶をされるそうです。

その光景は想像するだけでも、美しく尊いものです。
このように両親が互いに尊敬と愛情と信頼を尽し合う雰囲気の中で育つ子供に、
どうして親不幸な子や、病人ができるでしょうか。

この山中さんの子供達は、4年生になると皆言い合せた様に新聞配達をして、
それで貰ったお金を両親の手許に持って来るそうです。

「子供達はみな、お金のことで親に苦労をさせたくないと思っているのですね」

と言われる山中さんは、子供の貯金通帳をつくって、持って来るお金を貯金して上げられます。

また別に、《愛の貯金箱》というのを作って、

「あんた達はみんな神の子で、心が優しく愛情が豊かであって、いつも人を喜ばせたい、
人の役に立ちたいと思っているでしょう。
その美しい心を日々の生活に生かすのが人間の使命ですよ。

善いことをすればあなた達も嬉しいし、お父さんお母さんはもっと嬉しい。
それでね、あんた達が一つ善いことをすれば、
そのご褒美に、この貯金箱へ愛の貯金をしてあげるわ」

── そう言って、ずっと“愛の貯金”と続けておられるとのことです。

それ以来、子供達はそれこそ競争で善行にいそしみ、

「もう私が何も言わないのに、誰かが競争で靴を磨く、玄関の掃除はしてくれる、
風呂の水を汲んでくれる、学校では先生からいつも褒められるということばかりです」

と山中さんは顔をほころばせて言われました。
山中さん夫婦にとって子供は他に比類のない「子宝」なのですから。


            <感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>

どんな人に対しても実相を礼拝する人となれ - 伝統

2016/05/26 (Thu) 04:50:56


            *「真理」第4巻青年篇(P119~120)より

もうあの人の顔を見るのも嫌だ。
まるで虫唾(むしず)が走るような気がする ―― と形容出来るほどの人が
近寄って来ようとも、その人が実相に於いては神の子であることを知り、
その実相を拝み出そうと、相手の完全なる実相を凝視し、礼拝するものは偉大なるかな。

如何に自分に反感を持ち、如何に卑劣な行ないをなし、如何に利己的行動を
自分に仕向け、恩を仇で返し、自分に反旗を翻して来ようとも、それを憎まず
包容し得る寛容性を有(も)つ者は偉大なるかな。

その人の偉大さはその人の包容力によって量られるのである。

彼は、相手の悪意を知らないのではないのである。
彼は心の波長を慧敏(けいびん)に感じて相手の悪意も反感も、
その計画しつつ「自分を売ろうとする」反逆性をも知る。

併し、尚彼はイエスがユダにしたように相手を愛するのである。

かくの如き青年こそまことに吾が理想とする青年であるのです。

            <感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>

《周囲の人々を完全にするには、実相を礼拝》 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 04:42:51

         *『 生長の家 』(昭和26年5月20日の法語)より

   あなたの家族や周囲の者が
   不愉快な習慣や癖(くせ)をもっているからと言って、

   それを直せと云って忠告することが却って
   反抗心を唆(そそ)って直すのに邪魔になる場合がある。
   そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。

   神は全能であり、神の支配下に全然それが委(ゆだ)ねられる時、
   人間の我が偏りによってあらわれていた一切の悪習慣が消えるのである。

   相手を、審判(さば)く心や、批難(ひなん)する心で眺めることを止め、
   相手が如何(いか)に肉眼に見えようとも、
   悪しき姿は自分の妄想の描いた虚像であるとして否定し、

   「 既に彼は神の子で、神の支配下にあるのであるから、
   神の像(すがた)そのままに完全円満である 」

   として心の底深く礼拝するのである。


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            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

《人類互に拝み合え》 - 伝統

2016/06/13 (Mon) 03:49:38


           *『 生長の家 』(昭和26年5月23日の法語)より

   何故(なぜ)、人類が幸福と平和とを望みながら、
   不幸と擾乱とに巻き込まれて行くかと云うと、
   互いに人間が神の子であることを本当に信じないからである。

   互いが相手を悪意に満ちているのであり、
   こちらを害するに違いないと疑うがゆえに、

   その疑う想念の具象化として相手は益々悪しき状態にあらわれ、
   ついに重大なる結果を来すのである。

   現象を見て分析し、此処(ここ)に相手の悪があると
   みとめて対応策を考えているような事では駄目である。

   彼を悪であるとしてこちらが憎めば、
   相手もこちらを悪であるとして対抗して来るのである。

   人類全体が人間を神の子として互いに拝むようにならなければならぬ。


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            <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ - 伝統

2016/06/24 (Fri) 04:58:48


        *「生長の家とは如何なるものか」(P90~91)より
         『 生命の實相 』第28巻久遠仏性篇(P65~66)より


  《われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで
   一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に座してその冥福を祈願し、
   かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。》


このわれわれの生命(せいめい)が永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊(こうれい)を遥拝(ようはい)し」
ということの意儀もわかりません。
皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して
「今の」一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆不沈はあったにしても、どんなときにも日本国が
動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の
重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることが
できた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。

恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。
だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。

            <感謝合掌 平成28年6月24日 頓首再拝>

心に敬虔の念をもって礼拝する - 伝統

2016/07/06 (Wed) 04:22:06


            *『幸福をひらく鍵』(P115)より

人に逢ったときにはその人を拝むがよい。

合掌して拝むか、合掌しないで心で拝むかは、
その時、その場、その人に相応してきめるがよい。

常識の世界に於いては、
合掌して拝んだために何だか宗教に凝りかたまっていて
迷信家のように思われて誤解を受けることもあり得る。


合掌しても心に敬虔の念がなければ、
それは形式的で権威のないものとなるのである。

合掌するときには本当に礼拝する心を失ってはならないのである。
即ち、「わが内に宿る神、あなたの内に宿る神にたいして敬虔に礼拝する」
の念(こころ)を失ってはならない。

            <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2016/07/12 (Tue) 03:35:18


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月12日>(P17~18)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、割合にお蔭が少ないものである。
なぜなら現象に捉われて、生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに
若(し)かずである。
すべての利益が与えられているのに、あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 平成28年7月12日 頓首再拝>

絶対無条件で拝む - 伝統

2016/07/27 (Wed) 04:38:13


          *「生命の實相」第12巻万教帰一篇下(P203)より

礼拝する、拝むということは絶対無条件でなければ拝んだのではない。
条件があっては取り引きです。夫を拝むとか、子供を拝むとか、妻を拝むとか
いいますけれども、それは絶対無条件の零(ぜろ)の拝み方でなければならない。

拝んだら御利益が出て来るのだ。
主人は放蕩しているけれども拝んだらキッとよくなるであろう ―― などと
そんなことを思って拝んでおってはそれはよくならないのです。
かえって悪くなってくる。

つまり夫をこの拝むという手段によって、
まずそのまちがいをねじ直してやらなくてはならないと思って、
飴ん棒のように捻じ廻したりしましても、ギリギリと掌(てのひら)を揉んで
拝んでみましても、それでは、方便の礼拝でありますから、
どうしたって真っ直ぐにはならないのです。

真っ直ぐにするのは、歪んだものを把(つか)んで、
それを捻(ね)じ直してみても駄目なので、真っ直ぐにするのは、
歪んだものを放して、真っ直ぐに出して来なければならないのです

              ・・・

        *『生命の實相』第12巻万教帰一篇下(P209~210)より

ただ拝んでいる ―― その拝んでいる姿の中に本当に尊いものがある。
自己の内にある《いのち》が《いのち》を拝んでいるのです。

《いのち》が《いのち》を拝んでいる。
仏が仏を拝んでいる。
神が神を拝んでいる。

神のみの世界がその時、《そこ》にあるのです。
神のみの世界がその時に出て来る。

(中略)

ただ拝んでいる姿 ―― それでいいのです。
それが仏なのです。

拝んだら向こうから御利益が来るのでも、
この世界が光明化するのでもなんでもないのです。

拝んでいるこの合掌の中に、この中に、《ここ》に光明世界がここにあるのです。
と言って、この合掌の掌の中を覗いて見てもそんなものは見られはしないのです。

《いのち》で《いのち》の掌(てのひら)を本当に見た時に、
そこにもうすでに光明遍照の世界、極楽成就の世界が実現しているのであります。

《いのち》のその掌に、《いのち》の光をそのまま見るためには、
一度「無」の関門を通って来なければいけない。

肉体があると思い、外界があると思う思いを捨てなければならない。

外界が無いどころではない。
内界があるという思いも捨てなければならぬ。
自分の心があると思っているのではまだ本当ではないのです。

皆無くなってしまって、皆「無」にしてしまわなければならないのです。

皆「無」と知って、これまでわれわれがあるあると思っておったものが、
みんな本当はないのだ、と一遍黒板消しで黒板に書いてある字を皆消してしまうように、
われわれの心の世界に書かれているところのいっさいのものをことごとく拭き消してしまう
 ―― そして零(ゼロ)にしてしまわなければならない。

この零(ゼロ)にしてしまった時に、そこに《そのまま》が《あり》のです。
そのまま《まこと》があるのです。
少しでも把(つか)んだらもうそれは嘘のものになってしまいます。

      (昭和16年9月14日日比谷公会堂において)

          <感謝合掌 平成28年7月27日 頓首再拝>

無我になって拝んでいる姿が仏 - 伝統

2016/08/09 (Tue) 03:29:48


        *「生命の實相」第12巻萬教帰一篇(第5章、P189~192)より

なんにも求めないで無執着で礼拝していらっしゃる。これが仏の姿であります。

昨日(きのう)禅宗の本を読んでいますと、こういう話が書いてありました。


唐という国の宣宗皇帝というのは大変幼い頃から仏教の修行をなさった人でありまして、
香厳和尚に随(つ)いて修行をした。
次には斎安国師の許(もと)で修行した。

その時一緒に修行していて、同じ弟子の中でも
首座になっている人に黄檗禅師という人があった。

これは黄檗宗の開祖であって有名な坊さんですが、
まだそれが開祖になっていない時ですが、首座をしていた。

その黄檗禅師がしきりに仏像を拝んでいるのです。

そこで宣宗皇帝が ―― まだ皇帝になっていない時でありますけれども ――

黄檗に対して『維摩経』にはこういうことが書いてある。

仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず

 ――  こう書いてあるが、それになぜあなたは礼仏 ―― 
仏をおがむのですか、ときいたのです。

仏に着いて求めずの「着く」というのは「執着」のことです。
つまり仏になろうとして執着してそして求めてはならない。

「法に着いて求めず」 ―― 真理を把みたいと思ってそして求めてはならない。

「衆に着いて求めず」 ―― あの衆生をたすけてやりたいそんなことも
ひとつの執着であって、それを求めてはいかぬ。

「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず」 ―― 
仏になりたいと拝んでもいかぬし、法すなわち真理を欲しいと拝んでもいかぬし、
また衆生を救(たす)けてやりたいと拝んでもいかぬのだ ―― 

そういうふうに「維摩経」に書いてあるのにあんたはしきりに仏様を拝んでいるが、
一体何を求めてそんなに仏様を拝んでいるのだ、何を ――
こういうふうにきいたのであります。

すると、黄檗禅師が言われるのに、

「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず、
かくのごとくしてわれ礼拝することを為す」 ――

こう言われたのであります。


仏を求めるのでもなければ、真理を求めるのでもない。
衆生を救(たす)けてやりたいからとて、拝んでいるのでもない。

ただかくのごとくして礼仏するをなす

 ―― ただこう言ってしらっしゃるのであります。

ただ拝んでいる。
理屈はない。執着はない。

ただ無我になって拝んでいる姿が仏なのであります。

自分が大学者になって真理が得られるように、真理だ、真理だといって
法を求めても、それも駄目だ、とこういうのであります。

自分が仏になりたいといって仏を求めても、それも駄目だというのです。

あの人を救(たす)けてやりたいと思って求めても駄目だといううのです。

(中略~功利主義、ご利益信仰、商売主義では駄目なのです)

それは本当の真心ではない、誠(まこと)ではないのであります。

本当の誠というものは、
なんにも求めないというものでなければならないのであります。

ですから、「仏に着いて求めず、法に着いて求めず、衆に着いて求めず、
かくのごとくしてわれ礼拝することをなす」 ―― 

こういうふうに黄檗禅師は言われたのであります。

         <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

われは万物を礼拝す - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:42:50


      *真理の吟唱「神の子。万徳円満の祈り」(P165)より抜粋

神は遍在であり給う。
神の富も偏在であり無限である。

一つの供給の出口が閉鎖されたといって、
私は驚くことも恐れることもないのである。
さらに一層大なる供給の導管から私たちへの供給は流れ入るのである。

あらゆる供給の奥に、神の無限の愛と、無限の智慧と、無限の力とがあり、
それが現実化の過程において、無数の人間の愛と智慧と生命力との協力があるのである。

私はすべての供給を見るのに、その形のよろしさや、味のよろしさや、美しさを見る前に
先ず、その背後にある神の愛と智慧と生命(せいめい)を見て礼拝し、さらに無数の人類の
愛と智慧と生命とが注がれている実相を見て礼拝し感謝するのである。
 
われは万物を礼拝し、万物はわれを豊かに育むのである。

ありがとうございます。

         <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

拝む者のみ拝まれる - 伝統

2016/08/31 (Wed) 04:07:08


           *「光明法語」(8月31日)より

文殊菩薩が維摩居士を訪ねたときに、 維摩は

『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』

と問うた。


文殊菩薩は答えて

「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」

と言った。

維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。

維摩の方丈(一丈四方)の室中に八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の
獅子座が入る事が出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。

         <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

われ常不軽菩薩たらん - 伝統

2016/09/13 (Tue) 04:58:34


    *『 生長の家 』(昭和44年12月10日の法語)より

実相礼拝の行事によって、
恰も「縁なし」と見える衆生の仏性を目醒(めざ)めしめようとせられた方が、
法華経の“常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)”なのである。


この菩薩は「 われ常に軽んぜず 」と唱えて、
いかなる浮浪者でもヤクザでも、
また彼を石をもって打擲(ちょうちゃく)しようとした者すらをも、


「あなたの実相は“如来”でいらっしゃいます。
当来 必ずその如来の実相のあらわれる方であります」と

いって、ひたすら相手の実相たる“ 内在の如来 ”を礼拝したのである。

生長の家人の生き方は、この常不軽菩薩の生き方をすべきである。


http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/abeba2be8eabd8f9b60ae0ebbb0883dd

         <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

物は拝んで使い、活かしきる - 伝統

2016/09/18 (Sun) 04:50:20


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月18日)より

物は大切にしなければならぬ。
「物質は無い」ということは、「何にもないのだからゾンザイにしてもよい」
ということではない。

それは「物質と見えているものも実は物質ではない、神の生命(せいめい)、
仏の慈悲があらわれているのであるから、大切にそれを拝んで使わねばならぬ」
という意味なのである。

いかなる物も「神物(しんぶつ)」であり、「仏物(ぶつもつ)」であるから、
廃(すた)らして捨ててはならないのである。それは冥加(みょうが)にあまる
ことであり神仏の加護の波長に合いかねるのである。

糞尿と見えるものも、落葉(おちば)と見えるものも、いったん用立ち終わった
と見えるものも、それを保存し利用厚生に役立たしめねばならぬ。

             <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

【 如来のいのちを拝む 】 - 伝統

2016/10/01 (Sat) 04:16:12


        *『 理想世界 』(昭和57年4月号) より

その常不軽菩薩は、相手がどんな罪人であろうと、どんなヤクザであろうと、
そんなヤクザとか不良であるとかというものは
影の、表面のちょいと垢(あか)が付いたような姿であって、

その奥には如来のいのちが宿っているのであるということを拝んだというんですね。


それでどんなヤクザでも拝んだらそのヤクザが怒って、

「 俺を拝みやがって何しやがる! 俺は仏じゃないぞ、

そんなにわしを拝んだって何のことになるか!

要(い)らんことしやがると叩(たた)き殺してしまうぞ!」


と言って石を持ちあげて、それで常不軽菩薩を叩き殺そうとしたら、
常不軽菩薩はその石の届かんところへ逃れて行ってまた拝みました。

そして、

「 あなた様は如来のいのちが宿っておられます。
当来必ず如来の実相が現われる素晴しい方でございます 」

と言って拝んだっていうんですね。


そのように全ての人間を拝んだ功徳によって、

その常不軽菩薩がいま釈迦牟尼如来として
今ここに生まれ変わって出てきているのでありますが、

そのようにお釈迦さんは説教されたということが
『法華経』に書いてあるんですが、

どうですか?

これが仏教の実践的神髄であります。


生長の家もこの仏教の実践的神髄を実行するんです。

例えば、東京では飛田給の練成道場で

毎月初旬、1日から10日まで、10日間の練成をやっていますが、

その練成道場に修行に来た人がはじめて門を潜(くぐ)ると
そこに練成道場員たちがズーッと並んで拝んでいる。

入って来る人をみんな拝んでいる。

するとはじめて来た人はびっくりして、

“何を拝みやがるんだ”
(「有難うございます、有難うございます」と言って拝んでいるから)

“何が有難いんだい!?

みんな(癲狂てんきょう病院で)気違いが集まっているのとちがうか”と、こう思うんです。


ところが練成を受けて、4日、5日目位になると、

自分もすべての人間を拝み出して、
そうして、その拝みが徹底した人は病気が治り出すんです。


人を赦すっていうのは、
罪あるのを我慢するんじゃなくて、

罪はナイという実相を知って、
その実相の如来のいのちが宿っている、その実相を拝み出すんだ。

そうしたら、相手の実相も顕れるし、自分の実相も顕れるんですね。・・・

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=137 より転写)

             <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2016/10/21 (Fri) 04:42:29


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P105)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

協力者を拝む - 伝統

2016/10/26 (Wed) 04:32:51


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月26日>(P108)より抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「君は能力もあるし、学問もある。
それでいて協力者がないというのは、君は君の能力に高慢になって
人を見下すというところがある。

君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、霊魂や心の波や、
近代の新興物理学などのことは君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。

『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。

君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」


(A氏は、部長は何を言っても信じない。こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
人間に内在する神性を礼拝する。

どんな人間にも、そのバックには尊いものがある。
それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」


「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。
これは否定できない真理なんだ。

君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、
ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。

人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。

あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2016/11/02 (Wed) 03:37:30


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

         <感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>

《天地一切のものを礼拝する日》 - 伝統

2016/11/15 (Tue) 04:12:47


          *「生長の家」(昭和16年10月5日の法語)より

   『平法は天地神明の発動にして無敵なる者也。
   空々として清霊幽微を感じ明々として不通(つうぜず)と云う所なし。
   其の性を全うして是を行ふに難無し』と山内蓮心翁は云う。

   平法と云いて、兵法と云わざるところに翁の深き慮りがあるのである。
   敵と我と本来一体なることを見極めて、敵なく我なく、
   従って天下無敵なる道を平法と云うのである。

   生長の家の神示に『汝ら天地一切のものと和解せよ。
   天地一切のものと和解が成立するとき、
   天地一切のものは汝の味方である。

   天地一切のものが汝の味方となるとき、
   天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ』
   とあるのと全く同一である。

   全く無我となり、全く我がなくなったとき自然に敵もない、
   敵なく我なき境地が、『空々』の境地である。

   『清霊』は宇宙の清まりたる澄み切りの霊である。

   『空々』の境地に入れば、宇宙の清霊の幽微なる囁きをも感じ、
   天人合一の境地あらわれ、天人互に一体となりて、
   吾が念ずること、そのまま神明の念ずるところと一つである
   から必ず成就するのである。

   何物にも傷けられることがなきゆえに
   『其の性を全うして是を行ふに難なし』である。

   無敵流平法の剣法をただ手先の技と思っている人が多いので、
   『吾が平法の剣術心法の深奥を玩味する人稀にして
   疎かに所作行動を学び得るを本意と思へり。
   其術の奥妙を見る事を待たずして半途にして捨つる人多し。
   宝の山に入りて空しく帰るが如し』と嘆かれている。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

         <感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2016/11/20 (Sun) 03:12:12


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。

拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

         <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

《周囲の人々を完全にするには、心の底深く礼拝する》 - 伝統

2016/12/06 (Tue) 04:26:50


         *『幸福を招く365章』第11項(P233~234) より

あなたの家族や周囲の者が不愉快な習慣や、癖(くせ)をもっているからと言って、
それを直せと云って忠告することが却って反抗心を唆(そそ)って直すのに
邪魔になる場合がある。

そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。

神は全能であり、神の支配下に全然それが委(ゆだ)ねられる時、
人間の我(が)が偏りによってあらわれていた一切の悪習慣が消えるのである。

相手を、審判(さば)く心や、批難(ひなん)する心で眺めることを止(や)め、
相手が如何(いか)に肉眼に見えようとも、
悪しき姿は自分の妄想の描いた虚像であるとして否定し、


「 既に彼は神の子で、神の支配下にあるのであるから、
神の像(すがた)そのままに完全円満である 」

として心の底深く礼拝するのである。

(初出~「生長の家(昭和26年5月20日)」)

           <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

人々互いに拝みあう日 - 伝統

2016/12/07 (Wed) 03:58:11


           *「光明道中記」(12月7日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

           <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

お蚕さんを拝む - 伝統

2016/12/21 (Wed) 04:40:24


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、いろいろ奇跡のお蔭を受けております。
昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、昨日(きのう)お礼申し上げようと思いました
が、他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、それから中耳炎と喘息はこれは
親伝来の遺伝だというやつで、いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、もうそのことは
全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、そこへ行く時はどんな寒中でも
いつも自転車を飛ばします。そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかも
しれんけれども、もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を困らせはしない
か。そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、誌友会の日は自動車で来たらどうか』
という忠告を受けたくらいでありますが、それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、宅(たく)のつい近くまで
来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、避けようとした
瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。
普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、その考えが『ああ神の子だ』という
ようなありがたい気がしまして、ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたようにズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと『ああ神の子だ! 』という気が
して別に何とも慌てないで落ちついていましたが、子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』
と言うので、見ますと、なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく
上がって来ましたが、どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、どこも洋服屋さんの世話にならなければならないような所もなく
帰ってきました。実に尊い。私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、ただふわふわと
『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによってこういう気持になること
ができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、私を最初に導いてくださいました福島博先生に
お会いしまして、こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、ありがたくてしかたが
ないと言って私はお話をしたのであります。

すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。早くから蚕をしても、
人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、誰も豊作したという人はない今年に、
いつもより1割以上も成績をあげていながら、それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生に
お礼に行くように神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』と言うので、
実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、今日(こんにち)まで50年間蚕に従事して
おりますが、お導きをいただきましてから4、5年この方、蚕は必ずうまくゆくものであるという
確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、いったい蚕(かいこ)と
いうものは字で書いてみると、天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。
それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を渡り歩く心持の中には
つまり確信が無い、確信を持っておらないからあちらの神様を拝みながらそれを信じきれず
こちらの仏様を拝む、そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、本当に『お蚕さん』として
『あなたは立派なお蚕さん』としてその仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまい
というくらいの信念をもって働かせていただくようになりました。
お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 平成28年12月21日 頓首再拝>

全てを拝み『殺す勿れ』  - 伝統

2017/01/11 (Wed) 03:50:22

 
        *生長の家総本山 団体参拝練成会
         谷口雅春先生・最終講話における御遺訓 (昭和60年5月26日)より


「袖振り合うも他生の縁」という諺がございます。

今ここ日本の各所で生れた人が集っておられるが、
吾々はある時には、ギリシャの王子として生れたり、あるいはお姫様として生れたり、
そしてそこで互に会いおうて、恋愛をして、その王子になり王子の奥さんになったような方々も
ここにいらっしゃるわけなんであります。

そして今、日本の國に生れて、北海道のような北の遠い所やら、
あるいは台湾のような南の方の端のところ生れた人も中にはありますけれども、
それは他生の縁、他の、何回も生れ変っている他の国で、他の民族で生れ変っている他の国で、
他の民族で生れ変っている時から、すでに知り合いであった。 

たとえば私が釈迦無尼如来として生まれて、インドで講演しておった時に、
その時に、皆さんもその釈迦無尼如来の説法を聞いて、そして悟りを開いて菩薩となったような、
そういう人もこうたくさん集ってきておられる。

これが他生の縁である。 
袖振り合うだけじゃない、‘同じ真理の話’を聴いて尚一層悟りを深める、
こういうね、有難い因縁を一緒にこう持つということは、これは滅多に得られない深い因縁
であるわけでありますね。  

 (中略)

拝む世界に悪は出てこない。

『合掌すれば妙楽の世界いま開く父をおがまむ母を拝まむ』

という僕の歌があります。

父と母だけじゃないすべての人間は、無量壽如来の、同じ‘いのち’の兄弟であるから、
父を拝まん、母を拝まん。

それだけじゃない、すべての衆生、すべての人類を拝まして頂きます、とね。
その心が以心伝心に伝わって、それが世界中に広がるようになれば、戦争はなくなる。

すべての善のもとは、何かというと、不殺生。
殺生をしないということがね、すべての道徳の根本にあるんだ。

誰かを殺さなければ、何かの利益や或は権益が得られないというのは、これはみな戦争のもとだ。

皆さん、生長の家は『殺す勿れ』だから、戦争はない。

すべての人間を生長の家に導いて
『殺す勿れ』の最高道徳を政治家に実践させるように導いてあげてください。

皆さんもどうぞ、皆さんの息子を、娘を、兄弟を、導いてあげて頂きたいのであります。

これを皆さんにお願いして、
今日の私のお話を終ることに致します。

有難うございます。
静聴を感謝致します。
有難うございます。

          (http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/9998625.html)より
  
         <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

常不軽菩薩の行 - 伝統

2017/01/13 (Fri) 03:24:37


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月13日)より抜粋

すべて宗教は生活を離れた時に概念の遊戯となる。
宗教が生活を離れるのは時代を離れるからである。
時代を離れるとき禅行も天魔の行となり、念仏も無間地獄の門となる。

禅行そのもの念仏そのものが、天魔地獄の行門(ぎょうもん)ではない。
時代を離れたところに禅行も念仏も死の行となる。
生かさぬものは宗教ではない。

隻手の拍手よく三千大千世界に響くといえども、実生活を救いえない座禅もあり、
死骸に念仏することのみを知って、生きた人間には念仏どころか同業を嫉妬し、
瞋恚(しんい)の炎を燃やす僧侶もあったが、今はそれがだんだんなくなったのは喜ばしい。

われわれは生きた人間にお念仏申す心にならねばならぬ。

念仏とは、相手に合掌して仏をその相手から拝み顕(だ<あらわ>)すことである。
常不軽菩薩の行である。

            <感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>

実相を観ずれば完全があらわれる - 伝統

2017/01/29 (Sun) 03:24:59


          *『女の浄土』(P32)より

”神”があなたの”実相”であり、あなたの夫の実相であり、
あなたの子供の実相であることを信ずるがよい。

神は善であるから、神のみがあなたの良人の実相であり子供の実相である。

今まであなたの良人または子供が幾度失敗したことがあったと見えたにせよ、
すべての人間の実相は”神の生命(せいめい)”が宿っているのであるから
根本的に”間違い”をいうことはないのである。

その実相のみが本当の実在であるから、現象の不完全さや、間違いには
”肉体の眼”を閉じて(無論、対症療法的な臨機応変の処置は行き届いてすべきであるが)
じっと相手の実相の完全さを”心の眼”で見詰める事にすれば屹度
完全な相手の実相を「拝み顕(だ)す」ことができるのである。

            <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

生命の実相を礼拝せよ~その1 - 伝統

2017/02/16 (Thu) 04:57:45


          *「生命の實相」第7巻生活篇(P30~31)より

諸君よ、今日かぎり、他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取戻そう。 
他人が悪を犯したからって、自分がなぜ不幸にも、憎しみの歯輪で噛みくだかれなければ
ならないのであろう。 

あなたの心は他人の悪の餌食となって食われてしまわねばならないような
一片の肉塊ではないのである。 

あなたの心は何物にもしばられないで、
それ自身で幸福になりうるということを知らねばならぬ。

自分の心の高貴をとりもどせよ。 
自由と独立とを奪回せよ。 

相手が下劣なことをすると思うならば、
下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。 

相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りていって
愚劣と肩を並べねばならぬということはないのである。


しかし、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために ―― 
言い換えればみずからのみを潔しとし、他を傲然と見下ろすために
許しの王座に上るものは、なお本当には自己の生命を伸び伸びと生かすことができないのである。 それは 『生長の家』 の生き方ではない。 

かかる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他がいっそう低く見える。 
彼は自己の心のうちに他の醜さを常にえがいて暮さねばならぬ。 
自己が高くあがればあがるほど、自己の心のうちを他に対する
軽蔑や非難の声でみたさねばならぬ。 

彼はいつの間にか放下していたと思っていた人生のカスを
自分のうちに充満せしめることになる。


『生長の家』 の礼拝主義はそんなたんなる寛大主義ではない。 
また自己のみが高くあがる独善主義でもない。 

それはほかの見せかけの他人の悪にとらわれない。 
その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。 
その人の本質にある神を見るのである。

どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。 
どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に価する内在価値をもっている。 
諸君は百円札が汚れているからとて、その内在価値を疑うか。
 
しからば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、その内在価値 ―― 
神の子としての価値を疑ってはならない。

かくのごとくして「生長の家」では万人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。

ここにおいてわれらの人生観は全然転回せざるをえない。
暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。
われらはおのずからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。

これは幸福生活の秘訣である。
キリストは「なんじの敵を愛せよ」と言ったが、
もうこのとき諸君の世界では敵が存在しないのである。

            <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

生命の実相を礼拝せよ~その2 - 伝統

2017/03/05 (Sun) 04:07:30


          *「生命の實相」第7巻生活篇(P31~33)より


他(ひと)が現に目の前で自分に対しておもしろくないことをしているのに、
どうしてその人の内にある神をわれらは拝みうる境地に達しうるか。
それにはまず心的練習を必要とするのである。

げんに悲しい事件があるのに鏡の前でできるだけ愉快な顔をし、
これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、

諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達しうるのである。

なぜなら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相(かりのすがた)の存在であって、
どんなに曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。

相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、
相手の好意を見るようにするのである。
相手の愛を自分の心の中に想像する。
そして強く自分の心に印象する。


もし現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静坐して
「神想観」を行ない、精神が「神とわれが一体である」との感じに統一してきたとき
自分の心に対して次のごとく黙念するか、耳にかすかにきこえるほどの声で
自己暗示するがよいのである。


  自分は神の子である。
  自分の心には愛が充ち満ちている。

  自分は彼を憎まない。
  自分は彼を愛している。

  愛は愛を招ぶ。
  だから、彼もまた自分を愛せざるをえなくなるのである。

  自分は彼に宿る神性を
  こうして毎日拝むのである。


かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、
憎んでいる相手を実際に愛していると真に強く想像し、
実際愛しうるようになるまでこの行持を続けよ。

諸君は第一実際自分が善くなってくるのを感ずるであろう。
これが言葉の創造カである。

諸君の心自体が変わってくるに従って、陰をむけていた相手が
実際自分に日向(ひなた)を向けてくるのを覚えるであろう。

黒住教祖の教歌「立ち対かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」というのは
実に真理を穿(うが)っている。

実際相手が自分を僧んでいるように見えたのは、
自分が相手を咎(とが)める心をもっていたからであって、
相手は自分の心の映像(かげ)であったことがわかってくるであろう。

境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども、
実際は自已の心の賊を征服することだったことが解ってくるであろう。

            <感謝合掌 平成29年3月5日 頓首再拝>

内在の神を拝むコツ - 伝統

2017/03/22 (Wed) 04:51:44


         *「子育て免許証」鹿沼景揚・著(P101~103)より

京仏師一代、松下朋琳先生の『仏の声を彫る』を読み、先生に直接会って、
さりげない先生の一言で深い感銘を受けました。

私は彫刻のことで不思議に思っていたことをききました。
これは全く愚問と思われたかも知れません。

「材木を刻んで行って、仏様をつくりだすのに、一寸彫刻刀がすべって、
小鼻のあるところを切り去ってしまったり、あとで小指になる部分を
切りとってしまったりすることはないんですか。

油絵ならあとで塗りつぶしてしまうことができますが、
彫刻では、あとで補うことがむずかしいのじゃないですか」

この質問について、先生の澄みきったお答えが忘れられません。

「材木に向って拝むんです。いつまでもいつまでも拝んでいるんです。
観音様を彫ろうというときは、観音様観音様と心に描き、コトバで呼びながら
合掌して材木を拝んでいるんです。

いつまでも拝んでいると、木の中から答えがあって、観音様があらわれてきます。
観音様は必ず答えてくれます。そして、観音様が、『おいで、おいで』と招きます。

『それでは参ります』と言って、観音様の本体と材木との間に一発ノミを打ちこみます。

そして次々と木の屑をはねのけて行きさえすれば、
本体がますますけざやかにあらわれてきます。

ところが弟子たちには、お迎えがないんです。
手探りで掘っていくから、時間もかかるし、それに観音様のいのちが宿らないのです」

このお話で、魂をゆすぶられました。
これこそ、実相直視の真骨頂を示すお話ではないか。

「懺悔せんと欲すれば、《端座して実相を観よ》、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」
                        (『観普賢菩薩行法経』)

端坐なるかな、ただただ端坐なるかな。
そしてただただ合掌して内在の神を拝むことだ。

端座、打坐、正坐、黙坐。
そして、合掌して、ただ実相を拝む。

「私は神の子です。あなたも神の子です。
使命をもって生まれてきました。
日本と世界のお役にたちます」

            <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

《相手を善くするには斯うせよ》 - 伝統

2017/04/09 (Sun) 06:20:37


          *『幸福を招く365章』第2項(P38) より

「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずることは、その思念の力によって、
相手の人を益々悪くならせることになるのである。

念ずれば念ずれば念ずる通りに現れるのが心の法則であるからである。

正義によって憤るとゆうことは、「彼は間違っているから、善くしてやりたい」
とゆう希望から成されるのであるから、

「彼は本来あんな悪いことをする人間でない。
善い人間である、善い人間である。だから今後は善い事ばかりする」

と念じてやるべきである。

彼をよくしてやるのは、説教でなく愛である。
愛とは彼の弱点を憐れんで、舐めるように可愛がることではない。

どんなに不完全に見えようとも、
その奥にある「善」なるものを見出してそれを尊び拝んでやることである。

・・・

(蛇足で、申し訳ないのですが)

先日、映画「しゃぼん玉」を観てきました。
(→ http://www.shabondama.jp/
   http://eiga.com/movie/84584/ )

市原悦子さんが演じる農村の老女をはじめ、地域の愛溢れる人々によって、
都会で罪を犯した尖がった青年が、罪を悔い改め、立ち直っていく姿を
描いております。


市原悦子さんが演じる農村の老女(スマ)により
幾度も繰り返される「坊は、善い子(人)じゃ」という言葉と、

綿引勝彦さんが演じるシゲ爺の厳しいながら慈愛に溢れる叱咤激励、

藤井美菜さんが演じる美知が抱えるトラウマを通し、
被害者の苦悩を魂深く感じることによって、

尖がった青年が、善性を顕していく過程が印象深く感じました。


*この映画「しゃぼん玉」は、いい映画なのですが、
 上映されている映画館が非常に少ないのが残念です。

・・・

           <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2017/04/16 (Sun) 03:28:35


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝>

萬物を神であるとして拝する - 伝統

2017/05/03 (Wed) 03:50:17


           *「生長の家」(昭和16年10月2日の法語)より

日本民族は何事にも神々しき心持を持っていたのである。

無明(まよい)や執着が國を生んだのではなく、神が國を生んだと信じていたのである。
いたるところに神を観たのであって、八百萬神々の思想は、
その到る処に神を観たところの日本民族の聖なる心の反映である。

神を観るものは、神の心が宿っているからである。
他を神として礼拝し得る者は、自分自身の中(うち)に神性が目覚めているからである。

自分の中に『光』の感覚の起らない者は、外界に『光』があっても見ることが出来ない。
自分の中に『赤い色』の感覚が起らない者には、外界に『赤い花』が咲いていても、
赤い花だとは感じ得ない。

到るところに八百萬神々を見ることが出来た日本民族は、
自分の中に神性は目覚めていたからである。
即ち自分自身が『神』であるからである。

だから古代日本人はみづからミコトと謂い、彦〈日子〉と云い、姫〈日女〉と称した。
自己神性の自覚である。自分が神性を自覚したから、萬物にそのまま神性を観ることが出来、
萬物に八百萬神々を見たのである。


神性の自覚は、理論では説くことは出来ない。
釈迦無尼佛も四十余年間説法したけれども、
一字不説で、一字も説いたことはないと云われている。

本当のことは言説を超えている。
説くことが出来ない。
ただ行ずるだけである。

萬物を神であるとして拝した。

その四方拝の精神こそ日本精神である。

            <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝>

すべての人間を礼拝する - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:48:09

《真に 「 神の子 」 の実相を自覚したならば》すべての人間を礼拝する

        *『 生長の家 』(昭和25年11月24日の法語)より

   誰かに若し自分が不快や憎みの念を抱いていたならば
   直ぐ吾らは其の不快と憎みを捨てて
   好意と愛情の念にかえなければならぬ。

   「生命の實相」を読んで
   「神の子」であると云うことを自覚したのに
   病気が治らぬから「生命の實相」もインチキだと云う人よ。

   「神の子」であると云う事を 真に自覚したならば、
   何故(なぜ)あなたは、人に対して不快な感情を抱いているのか。
   何故人を憎んでいるか。君の悟りは 野狐禅(やこぜん)ではないか。

   人間神の子の真理がわかったら、
   先ず すべての人間を礼拝する実践を徹底的にやらなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

《実相の完全さを礼拝せよ》 - 伝統

2017/05/31 (Wed) 04:57:36


         *『 生長の家 』(昭和44年12月3日の法語)より

   万物に内在する絶対価値を見出すには、
   浮雲(ふうん)のように去来する現象の不調和な姿に、
   心を引っかからせてはならないのである。

   浮動変化して常なき有様が ー 時には現象の表面に
   不完全な様相をあらわすような事があっても、それは唯、
   外見であって、内には完全円満な“ 如来 ”を蔵するものである。


   その内に埋没せる“ 如来 ”は、
   外面の不完全さのみを見ていては 現れて来ないのである。

   どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
   実相の完全さを見るとき、

   それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、
   “ 内在の如来 ”の完全さがあらわれて来るのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f575134098da0c0f7b97d38f01fab3f

            <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>

《相手の姿を神愛の表現として拝め》 - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:53:08


          *『幸福を招く365章』第2項(P38~39) より

自分の周囲にあらわれる状態は、
すべて自分の想念(こころ)の影なのであるから、
周囲の状態をよくしようと思うならば
自分自身の想念をよくするほかに道はないのである。

若しあなたが誰かが不快なことをしたら、それは貴方の性格を強くし、
どんな現象に接しても其の奥にある善を見る力を養い、
愛を深くするために神が与え給うた絶好の機会であるとして、
相手の人の美点を見るように練習するがよいのである。

神の愛が、相手の姿とあらわれて私を訓練し、高め上げ、磨いて下さるのであると信じ、
相手を「酷い」とか「意地悪」であるとか考えないで、
相手を慈悲の権化、神愛の化身として「ありがとうございます」と拝むとき、
相手が真に神愛の表現として優しき姿にあらわれて来るのである。

           <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

《吾は一切の人を神の子として拝む》 - 伝統

2017/07/04 (Tue) 04:12:55


            *『生長の家』(昭和24年11月27日の法語)より

   自分は 今日より後、自分の周囲に近づいて来る
   すべての人々を神の子として観(み)る。

   すべての人々を 善意を有するもの、悪意なきもの、
   神から遣わされたもの、善き友として見、
   神がかくの如きよき人々を吾々の周囲に遣わされ給うたことに
   感謝するのである。

   如何なる不作法なことを周囲の人がしようともそれは唯
   影であって実相ではないと知るが故に
   自分は決してそれに煩わされないのである。

   吾は人の過ちに対して寛大であり
   人の善に対してほめることに寛大であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

           <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2017/07/12 (Wed) 03:13:41


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月12日>(P17~18)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。


神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

山川草木皆これ仏であると拝む - 伝統

2017/07/19 (Wed) 04:17:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月19日>(P23~25)より

ひとの優劣を自分の尺度で推し測ってはならない。
自分が愚劣な心を持つから、ひともまた愚劣であろうと思ってはならない。

自分が動物的な欲望の支配下にあるから、
ひともまたかくのごとくであろうと思ってはならない。
自分のうちに悩みがあるから、世界中の人はすべて悩んでいるのだと思ってはならない。

本当に他人の偉大さがわかる者は、自己がそれだけ偉大であるのである。
自分の魂の高揚しただけのものを、われわれは他において見るのである。

釈尊のすぐれた人格を知る者は、自己のうちに存在する釈尊がそれを知るのである。
釈迦やキリストといえども、時には悩み、苦しんだであろうと考える者は、
聖者を引きずり下ろして自己と同等のレベルに置こうとする卑怯者である。

彼は一種のエディプス・コンプレックスの虜囚(とりこ)なのである。
自分よりすぐれた者の存在を知ることが、
自己の驕慢心にとってたえがたい屈辱感になるのである。

われわれは、かくのごとく、ひとを引きずり下ろす醜(みにぐ)き心を去り、
自己があくまでも向上して、美しき人類の理想を成就することによって
聖者と等しきレベルにまで到達しなければならないのである。

大海に溺れつつあるある者どもが、お互いに他を引き下ろして、それによって、
自己が浮き上がろうとするのは醜悪である。

他を賤しめ軽んずることによって、ひそかに自己を偉大ならしめよう
と努力するくらいみじめな動物的行為はないのである。

他を軽んずることは、自己を軽んずることである。
他を醜くすることによって、まっさきに自己が醜くなるのである。

『従容録』には自分の口を血に染めて他人に吹きかけると書かれている。

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。
わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。

しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>

相手に宿る神性を拝む - 伝統

2017/08/03 (Thu) 04:49:32


        *「生命の實相」第7巻生活篇(P32~33)より

もし現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静坐して
「神想観」を行ない、精神が「神とわれが一体である」との感じに統一してきたとき
自分の心に対して次のごとく黙念するか、耳にかすかにきこえるほどの声で
自己暗示するがよいのである。


  自分は神の子である。
  自分の心には愛が充ち満ちている。

  自分は彼を憎まない。
  自分は彼を愛している。

  愛は愛を招ぶ。
  だから、彼もまた自分を愛せざるをえなくなるのである。

  自分は彼に宿る神性を
  こうして毎日拝むのである。


かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、
憎んでいる相手を実際に愛していると真に強く想像し、
実際愛しうるようになるまでこの行持を続けよ。

            <感謝合掌 平成29年8月3日 頓首再拝>

相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。 - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:46:05


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、八月七日 善のみを視(み)る日)より抜粋
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相は、現在又は過去に於て自分のどこかに潜(ひそ)んでいた
不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

            <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

《矛盾の奥にある本当の調和を見て礼拝せよ》 - 伝統

2017/08/23 (Wed) 04:54:44


        *『白鳩』(昭和49年1月9日の法語)より

   そのように唯一の全智なる神により設計構図せられて
   創造せられたるすべての自然現象も、又すべての生命現象も、
   互に調和していて、

   たとい如何に相反する矛盾を孕むがように見えていても、
   陰電気と陽電気とが互に相反する作用をいとなむように見えようとも、

   それは相反しながら却って調和しているのであって、
   この相反する如く見える矛盾の奥に、相反しない神の唯一の
   総合的智慧が存在してそれを総覧しているのである。

   陰電気ばかりでは、電流は流れないし、
   陽電気ばかりでも何の効果的なはたらきも発揮することは
   できないのである。

   わたしたちは矛盾の奥にある〃本当の調和〃を見て、
   そこに実相があり、神があるということを見て、
   万物を礼拝すべきである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

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