伝統板・第二

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神武天皇(2) - 伝統

2016/02/18 (Thu) 04:55:31

当掲示板内「神武天皇(1)」からの継続です。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456469



神武・海道東征~その41

【神武・海道東征 第9部】立后と崩御(1)皇后候補 譜代の武臣が進言

 〈畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめき〉

大和を平定したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、古事記はこう書く。

現在は大和三山の一つに数えられる畝傍山(奈良県橿原市)の麓に宮殿を建て、
政治を行ったというのである。

畝傍山は標高199メートルの小山。
頂上から半径約1キロ以内に神武天皇陵のほか、2代綏靖(すいぜい)天皇陵、3代安寧天皇陵、
4代懿徳(いとく)天皇陵が散在し、草創期の朝廷の中心地だったことがわかる。

その一角に久米御縣(くめのみあがた)神社がある。
祭神は大来目命(おおくめのみこと)。

古事記では、大久米命として登場するイハレビコの臣下で、
オオクメがこの地に祭られた経緯を示唆する記述が日本書紀にある。
天皇が論功行賞を行うくだりでである。

 〈大来目を畝傍山より以西(にしのかた)の川辺の地に居(はべ)らしめたまふ。
  今し来目邑(むら)と号(なづ)くるは、此(これ)、其の縁なり〉

朝廷のまさにお膝元に領地を賜っていたわけで、天皇の信頼の大きさを物語っている。


 「腹心中の腹心。頭がよくて忠実、的確な補佐はするが、決して出過ぎない。
  そんな人柄を想像します。だから穏やかな神様としてお仕えしています」

同神社の大谷仁紀子宮司はそう話す。

社伝は、オオクメとその祖先についてこう記している。

 〈天津久米命、天孫降臨に随(したが)ひ、先駆して常に壮勇を輝かし、
  その後裔(こうえい)大久米(来目)命、東征に随ひて凶賊を払ひ勲績揚げ給ひたる〉

オオクメの祖は、天皇の曽祖父、ニニギノミコトが高天原から降臨した際、
武装して先頭に立った天津久米命だというのだ。
オオクメは、日向以来の譜代の武臣ということになる。


社伝が書く勲績は、この連載の第8部で紹介したものである。

宇陀(奈良県宇陀市)で押機の罠を仕掛けた兄宇迦斯(えうかし)を成敗し、
忍坂(同県桜井市)で八十建(やそたける)が率いる土雲を酒宴の計で討ち取ったことなどだ。


 〈大后(おほきさき)と為(せ)む美人を求(ま)ぎたまふ時に、大久米命白(まを)さく、
  「此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。是れ神の御子と謂(い)ふ」〉

古事記によると、大和平定直後に天皇は、皇后とすべき女性を求めた。
ふさわしい女性がいると申し出たのは、意外にも武臣のオオクメだった。

 「大国主命の神話以来、古代の国造りは、その地を治める女性と結ばれることでした。
  日向からやって来た神武もまず、それをやって政権の安定を図ろうとしたのでしょう」

そう語るのは同志社女子大の寺川眞知夫名誉教授である。

天皇自ら求婚せず、仲立ちを立てるのは、この神武の場合が先例になったという。

 「親衛隊の隊長格のオオクメが秘書官の役目も負っていたことがわかる。
  オオクメは、天皇に代わってその媛女に歌も贈っていますから、
  古代の武人は歌の道にも長(た)けていたのです」

文武に優れた譜代の臣があってこそ、東征が成功したことを、記紀や伝承は示している。

   =(2)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160211/wst1602110010-n1.html

           <感謝合掌 平成28年2月18日 頓首再拝>

神武・海道東征~その42 - 伝統

2016/02/20 (Sat) 05:02:26

【神武・海道東征 第9部】立后と崩御(2)出雲の血統で図った融和


 「此間(ここ)に媛女(をとめ)有り」

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の皇后候補を見つけてきた
大久米命(おおくめのみこと)は、その両親の物語から報告を始めた、と古事記は記す。

 「三嶋の湟咋(みぞくひ)が女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、
  其の容姿麗美(かたちうるは)し。故(ゆえに)美和の大物主神(おおものぬしのかみ)、
  見感(みめ)でて…」

三嶋は、現在の大阪府茨木市から高槻市にかけての三島地域、湟咋は三嶋の首長である。
その娘を大和・三輪山(現奈良県桜井市)の神で、出雲の大国主命の分神でもある
オオモノヌシが見初めた-とする報告は、現代文にすると、おおむね次のようになる。

 〈オオモノヌシは朱塗りの矢に化けて川を下り、用便をするセヤダタラヒメのほと(女陰)を
  突いた。驚いたヒメが、その矢を床のそばに置くと、矢は麗しき壮夫となってヒメと結ばれた。
  生まれた子が富登多多良伊須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)で、
  またの名は比売多多伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)。
  こういうわけでヒメは神の御子なのです〉

オオモノヌシが湟咋の娘を望んだ理由、
さらにその娘をオオクメが皇后に薦める理由を示唆するのが、
茨木市五十鈴町に鎮座する溝咋(みぞくい)神社である。

主祭神は玉櫛媛(たまくしひめ)(セヤダタラヒメ)と
媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)(イスケヨリヒメ)。

溝咋は湟咋と同義で、溝は水路、咋は水路を支える杭を意味し、
三嶋が農業先進地だったことが推測できる。

 「三嶋は、銅鐸を各地に供給した一大生産地でもありました」

そう話すのは同市立文化財資料館の清水邦彦学芸員である。

同神社の南西に広がる弥生時代の東奈良遺跡からは、36点もの銅鐸の鋳型片(国の重要文化財)
が見つかっている。ヒメたちの名に、金属精錬で使う足踏みフイゴや炉を意味する「タタラ」が
ついているのは、こうした土地柄を示しているのだ。


 「イススキやイスケという語には、振り動かすことで霊や命をよみがえらせ、
  招き寄せる呪能の意味がある。稲穂の豊かな結実を祈願し、銅鐸を鳴らして
  稲魂を招く姿が想像できる」

皇后候補となったイスケヨリヒメについて、古事記学会の三浦茂久氏はこう話す。
畿内の先進地を祭祀(さいし)によって治める女性。
このヒメこそイハレビコの皇后にふさわしい、と忠臣のオオクメは考えたのだ。

 〈事代主神(ことしろぬしのかみ)、三島溝●耳神(みぞくひみみのかみ)の女(みむすめ)、
  玉櫛媛に共(あ)ひて生める児(みこ)、号(なづ)けて媛蹈鞴五十鈴媛命と曰(まを)す〉

                     ●=木へんに蕨のくさかんむりを取る

日本書紀は、イスケヨリヒメの父を大国主命の子のコトシロヌシと記す。
書紀は古事記より明確に、初代皇后を出雲の血統と書いている。
立后は、国譲りした勢力との融和を図るものだったことがうかがえる。

コトシロヌシは、溝咋神社から約2キロしか離れていない三島鴨神社(高槻市三島江)に祭られ、
溝咋神社には往古、御輿(みこし)が行き来した。

松井位幾(なりふさ)宮司は「ご祭神が妻や娘に会いに行くお渡りだった」と話す。

初代皇后は、出雲の神に愛された娘でもあったのである。 

  =(3)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160212/wst1602120007-n1.html


           <感謝合掌 平成28年2月20日 頓首再拝>

神武・海道東征~その43 - 伝統

2016/02/24 (Wed) 04:35:42


【神武・海道東征 第9部】立后と崩御(3)恋物語のような一夜の契り

 〈伊須気余理比売(いすけよりひめ)の家、狭井(さゐ)河の上に在り。
  天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行(い)でまして、一宿御寝坐(ひとよみねま)しき〉

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)とイスケヨリヒメの結婚について古事記はそう記す。
天皇がヒメのもとを訪ね、一晩をともにして夫婦の契りを交わしたという文である。

狭井川は、イスケヨリヒメの父、大物主神を祭る
大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)のご神体、三輪山から流れる。

 〈山ゆり草多(さは)に在り。故(ゆえに)其の山ゆり草の名を取りて、佐韋河と号(なづ)く〉

古事記があえて挿入文で記す通り、川沿いにはかつて、ササユリの群生が見られたという。


 「現在でも6月、三輪山のササユリをイスケヨリヒメ様を祭る境外摂社の
  率川(いさがわ)神社に届け、『三枝祭』を行っています」

大神神社の山田浩之権禰宜(ねぎ)はそう話す。


イハレビコと結ばれる直前にはイスケヨリヒメは父の地、大和で暮らしていた。
そのことを物語るように、川の南側にはオオモノヌシとイスケヨリヒメ、
母のセヤダタラヒメを祭る狭井神社がある。

同神社には「薬井戸」と呼ばれる井戸があり、「ご神水」を求めて多くの参拝者が訪れる。
三輪山は水脈が幾筋もめぐる水の豊富な場所なのだ。
麓で水不足になると、周辺の人々の願いを受けて神職が三輪山に登り、雨ごいをしたという。

 「三輪の神様はいわゆる水源神でもあります。神武天皇にとって、
  三輪の神様の娘との結婚は、この土地で稲作をするために必要だったと言えるでしょう」

大神神社では現在も、狭井川の水を引いて神に捧(ささ)げる米を栽培している。


 〈葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し〉

イスケヨリヒメが参内した時、天皇はこんな歌を詠んだ、と古事記は記す。
2人の一夜の契りについて詠んだもので、葦原のむさくるしい小屋に菅の畳を敷いて
2人で寝たとは、天皇が皇后に迎える女性と初めて過ごす夜にしては、質素な描写である。

 「家ではなく葦原の小屋で契りを交わすというところが、古代の結婚習俗を表しています」

名古屋文理大の栗原弘・元教授はそう話す。

当時の習俗では、男女は自由に相手を選ぶことができ、
相思相愛になれば人目を忍んでひそかに逢瀬を重ねた。

その後、女性の親に認められて初めて、正式な夫婦になる、という経緯をたどった。
秘密の逢瀬ゆえに会うのは互いの家ではなく、女性の住まい近くにある山中など、
人目に付かないところだったのである。

 「権力者なので、相手選びこそ自由ではありませんでしたが、
  天皇でもこの習俗に従ったことがわかります」

政治的な思惑や利益で選んだ皇后ではあっても、結ばれる過程や心情は恋物語そのものだった。
どこかほっとする歌である。   

=(4)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160213/wst1602130003-n1.html

           <感謝合掌 平成28年2月24日 頓首再拝>

神武・海道東征~その44 - 伝統

2016/02/29 (Mon) 05:09:10


【神武・海道東征 第9部】立后と崩御(4)父の偉業を継いだ3兄弟

 〈然(しか)してあれ坐(ま)せる御子の名は、日子八井命(ひこやゐのみこと)、
  次に神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)。
  三柱〉

イスケヨリヒメを皇后に迎えたカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は
3人の御子に恵まれた、と古事記は記す。

神武の跡を継ぎ、2代天皇となるのは末子のカムヌナカハミミである。
そのために、日本書紀にはその人となりが詳しく書かれている。

 〈風姿岐嶷(ふうしきぎよく)、少(わか)くして雄抜之気有(おおしきいきさしま)します。
  壮(おとこざかり)に及(いた)りて容貌魁偉、武芸人に過ぎて、志尚沈毅にまします〉

様子が人にぬきんでていて、幼少の頃から抜群に雄々しい気性で、
壮年に及んでは姿も大きく立派で、武芸も人より優れ、志は沈着剛毅(ごうき)であった-。
書紀はそう書く。

高評価の理由は、即位前に見せた知恵と勇気なのだが、
その詳細は第10部の「当芸志美々命(たぎしみみのみこと)の変」で紹介する。

 
宮殿は高岡宮(奈良県御所市)。
45歳の若さで崩御し、陵は畝傍(うねび)山(同県橿原市)の麓にある
神武天皇陵の北側にある。

 「僕は汝命(いましみこと)を扶(たす)け、忌人(いはひびと)と為(な)りて仕へ奉らむ」

 
次男のカムヤヰミミは、身を慎んで神聖なる人を守る役に就こう、
という言葉で弟に皇位を譲った、と古事記は記す。
そして、祖として仰ぐ氏族の名を列記する。

 〈意冨臣(おほのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部(さかひべの)連、
  火君(ひのきみ)、大分君、阿蘇君、筑紫の三家(みやけ)連…〉

その数は19もあって、最後に「等」と付けているので、その連枝の数は無数に近い。
子孫が日本全国に散らばって、朝廷を支えた人だということだ。


 「武力ではなく祈りで国を守ろうとした、心優しい人だったのでしょう」

カムヤヰミミを主祭神にする多坐弥志理都比古(おおにますやしりつひこ)神社
(奈良県田原本町)の多(おお)忠記宮司はそう話す。
同神社は通称「多神社」。この地の古代氏族、多氏の祖もカムヤヰミミである。


イハレビコゆかりの地、畝傍山の中腹に鎮座する八幡神社がカムヤヰミミの陵とされる。
かつては八井神社としてカムヤヰミミを祭っていたとみられるが、
現在は畝火山口神社の摂社になっている。

 
長男のヒコヤヰは最も存在感が薄い。
古事記では〈茨田連(うまらたのむらじ)、手島連が祖〉と記されるのみで、
日本書紀では名前すら載っていない。

ところが、大和から遠く離れた地に、ヒコヤヰを主祭神とする神社がある。
阿蘇神社の摂社、草部吉見神社(熊本県高森町)で、
ヒコヤヰは阿蘇地方の国造りに努めたと伝わる。

社伝では、神社の辺りはかつて大きな池で、ヒコヤヰは水を干し、
池の主の大蛇を倒して宮居を定めたという。

やがて、カムヤヰミミの皇子・タケイワタツノミコトが阿蘇に派遣されると、
ヒコヤヰは出迎え、娘を妻として与えた。
やがて伯父・甥(おい)は力をあわせ、九州鎮護と国土統一事業の一翼を担ったという。

 
兄たちがそれぞれの立場と能力で末弟をもり立て、
神武の偉業を引き継いだことを、記紀と伝承は伝えている。

神武天皇の跡を継いだのは3兄弟の末弟、カムヌナカハミミという歴史は、
現代人には違和感もあるが、神話では末子相続、末子の活躍がごく普通に書かれている。

神武自身が4人兄弟の末子だったし、神武の祖父、ヤマサチビコも3人兄弟の末っ子。
長兄のウミサチビコと争って降参させ、ウガヤフキアエズノミコト-イハレビコ(神武)
という血統を確立させた。

ウミサチビコは隼人の祖となって皇室を守護している、とする古事記の記述は、
神武の息子たちの関係と類似している。   =(5)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160214/wst1602140003-n1.html

           <感謝合掌 平成28年2月29日 頓首再拝>

神武・海道東征~その45 - 伝統

2016/03/08 (Tue) 03:33:15


【神武・海道東征 第9部】立后と崩御(5)豊穣の秋津洲 建国の夢実る

 〈神倭伊波礼毘古天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)、
  御年壱佰参拾漆歳(みとしももちあまりみそちあまりななつ)。
  御陵は畝火山(うねびやま)の北の方白檮(かし)の尾(を)の上に在り〉

 
古事記は、皇后イスケヨリヒメが産んだ3人の御子の記述を続けた後、
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)について、いきなりこう記す。
天皇に即位してからの治世には全く触れず、137歳で崩御したことを書くのである。

天皇の治世については、崩御の年齢を127歳とする日本書紀が詳しく書く。
天皇は、即位から2年目に道臣命(みちのおみのみこと)ら忠臣に土地を与える論功行賞を行い、
4年目には皇祖である「天神(あまつかみ)」を祭る神事を行った。
そして即位31年目には「国見」を行う。

 〈皇輿(すめらみこと)巡幸(めぐりいでま)す。因(よ)りて掖上(わきがみ)の
  ●間丘(ほほまのおか)に登りまして、国状(くにのさま)を廻(めぐらし)望(のぞ)みて…〉

   (●=口へんに兼)

書紀が書く●間丘は、奈良県御所市の本馬山とも国見山ともいわれる。
神武天皇はそこで、こう述べた。

 「妍哉(あなにや)、国獲(え)つること。内木綿(うつゆふ)の真★(まさき)国(くに)と
  雖(いふと)も、猶(なほ)し蜻蛉(あきづ)の臀▼(となめ)せるが如(ごと)もあるかも
  (ああ、なんと美しい国を得たことよ。
  本当に狭い国ではあるが、あたかも蜻蛉=トンボ=が交尾しているようでもあるよ)」

   ★=作のつくりににてんしんにゅう   ▼=口へんに占

唐突に発せられる蜻蛉という言葉について、国際トンボ学会の井上清会長はこう話す。

 「世界にはトンボを忌み嫌う民族もあるが、日本人ほど親しみを抱いてきた民族はいません」

トンボは害虫を食べる益虫で、稲穂が実る時期に水田を舞う。
弥生時代の銅鐸にも描かれ、日本人は古くから、穀霊として認識してきた。

 「トンボが輪状になって交尾する光景は、豊穣の象徴。稲穂が実った田で
  トンボが舞う風景の中で、国の繁栄を喜ぶ天皇の姿を描いているのでしょう」

 
現在、●間丘伝承地の眼下には秋津・中西遺跡がある。
同遺跡では平成23年、弥生時代前期の広大な水田跡が見つかり、
記述されている風景が広がっていたことを裏付けた。

 〈是(これ)に由(よ)りて、始めて秋津洲(あきづしま)の号(な)有り〉

日本の美称である秋津洲は、天皇が称賛して発した言葉に由来する、と書紀は記す。

 「東に美地(うましつち)有り。青山四周(よもにめぐ)れり」

海の神・塩土老翁(しおつちのおじ)に教えられ、イハレビコは日向をたって東征し、
大和に入って橿原宮で初代天皇に即位した。

書紀では6年、古事記では16年とされる旅の末の国造りをこんな言葉で語った、
と書紀は記す。

 「夫(そ)れ大人制(ひじりのり)を立てて、義(ことわり)必ず時に随(したが)ふ。
  荀(いやし)くも民(おほみたから)に利(かが)有らば、何ぞ聖の造(わざ)を妨げむ
  (聖人は制度を立てるものであり、その道理は必ず時勢に適合する。民にとって
  利益になることであれば、聖人の業にどんな妨げも起こらないであろう)」

 
天皇は現在、皇后とともに橿原神宮(奈良県橿原市)に祭られる。
久保田昌孝宮司はこう話す。

 「民の心に寄り添い、仁政をされてきた歴代天皇の原点を見る思いがします。
  建国の夢は今も生きています」

   =第9部おわり(第10部に続く)

    (http://www.sankei.com/west/news/160215/wst1602150001-n1.html


           <感謝合掌 平成28年3月8日 頓首再拝>

橿原神宮 神武大祭 - 伝統

2016/04/02 (Sat) 07:45:12

明日、4月3日は、【神武天皇祭】です。

4月3日は、神武天皇崩御の日で、戦前は神武天皇祭として国の祭日になっていました。

 *参考Web 平成28年春の神武祭(4月11日~17日)
    → http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_kankou/saijiki/4_jinmusai.html


4月3日は、神武天皇の崩御の日(太歳己卯=紀元前586年・3月11日)を
新暦に換算した日となっています。


特に、今年(平成28年)の【神武天皇祭】は、神武天皇二千六百年大祭にあたります。

橿原神宮では、2600年の節目を迎え、御祭神の偉業を讃え景仰する祭典が、
10時より盛大に斎行される予定です。

  【橿原神宮 神武大祭】(4月2日~3日)
    → http://www.kashiharajingu.or.jp/2600/

           <感謝合掌 平成28年4月2日 頓首再拝>

両陛下、神武天皇二千六百式年祭で奈良県ご訪問 - 伝統

2016/04/03 (Sun) 04:56:05

       *Web:産経ニュース(2016.4.2)より

天皇、皇后両陛下は2日、神武天皇二千六百年式年祭に臨むため、奈良県に向かわれた。
この日は橿原市の県立橿原考古学研究所で遺跡から出土した土器の破片の整理・修復作業を視察される。

 
初代天皇である神武天皇の式年祭は大正5年以来100年ぶり。

両陛下は命日とされる3日に同市の神武天皇陵で行われる
山陵の儀に臨まれ、秋篠宮ご夫妻も同行される。

皇居での皇霊殿の儀には皇太子ご夫妻が臨まれる予定。

両陛下はその後、神武天皇をまつる橿原神宮にも参拝される。

 
4日は、両陛下で明日香村の高松塚古墳を初めてご訪問。
昭和47年に見つかった極彩色壁画のレプリカを隣接する高松塚壁画館で見学した後、帰京される。

http://www.sankei.com/life/news/160402/lif1604020026-n1.html

・・・

<参考>次のWebにて、神武天皇陵を確認できます。 

(1)神武天皇陵 畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのみささぎ)
   http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/

(2)神武天皇 畝傍山東北陵への道順
   http://goryou.fc2web.com/goryou01/001.html

(3)神武天皇 畝傍山東北陵 (写真)
   http://ryobo.fromnara.com/nara/459.html

           <感謝合掌 平成28年4月3日 頓首再拝>

天照御大神「天壌無窮の御神勅」と神武天皇「即位建都の大詔」 - 伝統

2016/04/04 (Mon) 05:10:27

理念は現実に先立ち、理念は現象化する
――天照御大神「天壌無窮の御神勅」と神武天皇「即位建都の大詔」

            *『国のいのち人のいのち』(P115~116)より

日本国家は天津神すなわち天照大御神が発想せられて、その旨を公宣せられた。

「豊葦原の千九百秋の瑞穂の国は、是れ我が子孫の王たるべき地なり。
宜しくいまし皇孫ゆきて治らせ。さきくませ。宝祚の隆えまさんこと
当に天壌とともに極まりなきものなり」

という神勅に日本国の存在構図が示されているのである。

 
このアイディアが具体的に実現したのが神武天皇様が日本建国の理想「即位建都の大詔」
として宣言せられた

「上は乾霊の国を授け給いし徳に答え、下は即ち皇孫正に養い給いし心を弘めむ。
しかし然して後に六合を兼ねて都を開き八紘をおおいて宇となさんこと亦可からずや」。

ここには日本国家が群居せる住民の恣意によって自己防衛や生活擁護の便宜方便のために
国家を形成したのではない事実が現れているのである。

<多くのものを一つにまとめる>という「中心帰一」という天照大御神の御発想を基にして、
日本の国土は発祥し、その国土の上に日本民族は発生し、
神武天皇の<六合兼都・八紘為宇>という「即位建都の大詔」となって顕われ、

その国の名が<やまと>すなわち<弥々多くまとまる>として顕われ、
東西すべての文化を<弥々多く一つにまとめる>日本文化となって顕われるに
至ったということである。

           <感謝合掌 平成28年4月4日 頓首再拝>

天皇・皇后両陛下、神武天皇陵に参拝 - 伝統

2016/04/05 (Tue) 04:43:20

両陛下、神武天皇陵に参拝

          *Web:時事通信 4月3日(日)15時49分配信 より


奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は3日午前、橿原市の神武天皇陵に参拝された。

この日は同天皇の没後2600年に当たるとされ、午後には同天皇を祭る橿原神宮にも参拝した。

神武天皇の2600年式年祭のうち、
同天皇陵で行われた「山陵の儀」では、モーニング姿の天皇陛下が午前10時半ごろ、
陵の前に進み拝礼し、御告文(おつげぶみ)を読んだ。

続いて皇后さまも拝礼。

秋篠宮ご夫妻が両陛下に同行した。

 
皇居・宮中三殿で行われた「皇霊殿の儀」では、
両陛下の名代として皇太子ご夫妻が参列し、古装束姿で拝礼した。

療養中の雅子さまが宮中祭祀(さいし)に臨んだのは
2009年1月の昭和天皇の20年式年祭以来7年ぶり。

秋篠宮ご夫妻の長女眞子さま、次女佳子さまら皇族方も参列した。 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160403-00000043-jij-soci


・・・


《神武天皇二千六百年式年祭 両陛下ご拝礼》

       *Web:産経ニュース(2016.4.4 )より


奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は、初代天皇である神武天皇の命日とされる3日、
橿原市の神武天皇陵で、二千六百年式年祭の山陵の儀に臨まれた。

神武天皇の御霊を慰める祭典は毎年行われるが、
節目ごとの式年祭は大正5年以来100年ぶり。

 
儀式には、天皇陛下がモーニング、皇后さまがグレーのロングドレスの参拝服で臨まれた。
陛下は墳丘前の祭壇に玉串をささげて拝礼した後、御霊への思いを表す
「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。続いて、皇后さまも拝礼された。

陛下には秋篠宮さま、皇后さまには秋篠宮妃紀子さまがそれぞれ同行し、
陛下、皇后さまのご拝礼に合わせて頭を下げられた。

両陛下はその後、神武天皇が即位した橿原宮跡に創建され、
神武天皇をまつる橿原神宮も参拝された。

 
一方、歴代天皇をまつる皇居内の皇霊殿で行われた二千六百年式年祭では、
両陛下の名代として、皇太子ご夫妻が拝礼された。

療養中の皇太子妃雅子さまが心身を清める潔斎をへて、
皇室の伝統的な装束を身につける宮中祭祀(さいし)に臨まれるのは、
平成21年1月7日の昭和天皇二十年式年祭以来7年ぶり。

http://www.sankei.com/life/news/160404/lif1604040002-n1.html


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《100年ぶり、神武天皇式年祭》

       *Web:産経ニュース(2016.4.4 )より

初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。
皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも
「大祭」に位置付けられる重要な儀式。

天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、
奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。

 
宮内庁によると、現在の宮中祭祀は明治憲法下の旧皇室祭祀令に基づいて行われる。
大祭は天皇自らが祭典を行い、拝礼した上で、御告文(おつげぶみ)を奏上する。
神武天皇と先代(現在は昭和天皇)のみは毎年の命日に大祭として祭典を営む。

先代より前の3代(現在は大正天皇、明治天皇、孝明天皇)は毎年、掌典長が執り行い、
天皇が拝礼する小祭となる。

また、歴代天皇の崩御から3年、5年、10年、20年、30年、40年、50年、100年、
それ以降は100年ごとに営まれる祭典は式年祭と呼ばれる。

天皇祭、式年祭は、歴代天皇をまつる皇居・皇霊殿と、それぞれの陵(天皇の墓)で行われる。

両陛下は先代である昭和天皇の三年、五年、十年、二十年の式年祭は
いずれも武蔵野陵(東京都八王子市)での儀式に臨まれている。

 
宮内庁によると、100年ぶりの神武天皇式年祭を迎えるにあたり、
大正5年の二千五百年式年祭で大正天皇、貞明皇后が神武天皇陵を参拝した前例にならい、
両陛下も陵での拝礼を望まれたという。

二千五百年式年祭では、大正天皇は陸軍式の正装だったが、
陛下は今回、モーニング姿で臨まれた。

また、ホテルからの御料車には、国会開会式などと同じく
トヨタ製の「センチュリーロイヤル」を使われた。

 
当時は伏見宮貞愛親王、東伏見宮依仁親王妃が務めた皇霊殿での名代は皇太子ご夫妻、

依仁親王だった陵への同行役は秋篠宮ご夫妻がそれぞれ果たされた。

 
皇太子妃雅子さまは体調への負担が大きい伝統的な装束「五衣」「小袿」「長袴」に、
髪を束ねて後ろに垂らす「おすべらかし」の髪形で臨まれた。

宮内庁関係者は「神武天皇の式年祭を重く受け止め、体調を整えられた」としている。

http://www.sankei.com/life/news/160404/lif1604040004-n1.html

           <感謝合掌 平成28年4月5日 頓首再拝>

神武・海道東征~その46 - 伝統

2016/04/27 (Wed) 04:19:05


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第10部】

当芸志美々命の変(1)悲劇生んだ大后と妃の格差


  〈故(かれ)日向に坐(いま)しし時に、阿多の小椅君(をばしのきみ)が妹、
   名は阿比良比売(あひらひめ)に娶(あ)ひて、生みたまへる子、
   当芸志美々命(たぎしみみのみこと)、次に岐●美々命(きすみみのみこと)〉
                         (●=さんずいに順のつくり)

 
古事記は、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が大和で建国したことを書いた後、
初めてその家族について触れる。

  〈然(しか)あれども更に、大后(おほきさき)と為(せ)む美人を求(ま)ぎたまふ〉。

しかし、古事記の記述はそう続き、3人の妻子について、ほとんど書かない。

 
長子であるタギシミミについて、「手研耳命」という表記で、
その活躍を書くのは日本書紀である。

 〈天皇独り、皇子手研耳命と軍を帥(ひき)ゐて進み、熊野の荒坂津に至ります〉

 〈其の庶兄(ままえ)手研耳命、行年(とし)已(すで)に長け、久しく朝機を歴(へ)たり〉

 
最初は、兄たちを失ったイハレビコが熊野まで進んだとき、
次はイハレビコの崩御の後の記述である。

東征中には軍勢の先頭に立ち、建国後は政治的手腕をふるったことがうかがえる。

 「イハレビコが東征のために日向をたったときは45歳ですから、長子のタギシミミは
  20代半ばの頼もしい青年、崩御のときも働き盛りだったのではないか」

古事記が書く阿多とされる地に立って、タギシミミを祭る
吾田(あがた)神社(宮崎県日南市)の日高輝久宮司はそう話す。

 
記紀ともにタギシミミを書く場合、崩御後は必ず冠する言葉がある。「庶兄」である。
異腹、妾腹の兄という意味で、イハレビコが建国後、大后を求めたとする
古事記の記述と符合する表現だ。

 「神話の世界でも、妃とされる妻と大后、皇后とされる妻には格差があった」

そう話すのは大阪市立大の毛利正守名誉教授。それを象徴的に示すのは、
娘のスセリビメと駆け落ちしようとする大国主命に、須佐之男命が悔し紛れに放つ言葉である。

 「其の我が女(むすめ)★田世理☆売(すせりびめ)を適妻(むかひめ)と為(し)て」        (★=さんずいに順のつくり。 ☆=田へんに比)

適妻とは正妻、嫡妻のことで、このスセリビメが来たために
大国主命の妃だったヤカミヒメは恐れ、生んだ子を置き、
稲羽(因幡)国に帰ったことが古事記に記されている。

 「大国主命が須佐之男命の言葉に従ったように、妃と大后の差は実家の力の差です。
  その差を埋めるためにタギシミミは父の死後、皇后を妻にし、
  悲劇的な最期を遂げたのでしょう」


 〈神武天皇御東遷ニ先ダチ宮崎ノ宮ヨリ妃吾平津媛命(あひらつひめのみこと)乃
  皇子達ヲ随ヘ御出生地タル此ノ地ニ至リ暫ク御駐輩アラセシト伝フ〉

 
同神社の境内に昭和15(1940)年に建てられた石碑は、
東征前のイハレビコがここで最後の家族団欒(だんらん)を楽しんだことを伝えている。

伝承ではその後、イハレビコはタギシミミだけ伴って日向をたった。
妃のアヒラ(ツ)ヒメは阿多で夫の無事を祈り、次男のキスミミは民とともに耕作に従事した。

 「自ら身を引くような2人の生き方が、穏やかなこの土地らしいものです。
  ご祭神も東征に行かなかったら、違った人生だったかもしれません」

 日高宮司はそう話す。   =(2)に続く

     (http://www.sankei.com/west/news/160418/wst1604180001-n1.html


           <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

神武・海道東征~その47 - 伝統

2016/04/28 (Thu) 03:50:41


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第10部】

当芸志美々命の変(2)反逆の始まり 父の皇后を妻に


  〈故(かれ)天皇の崩(かむあが)りましし後に、
   其の庶兄当芸志美々命(ままえたぎしみみのみこと)、
   其の適后(おほきさき)伊須気余理比売(いすけよりひめ)に娶(あ)へる〉

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の長子、
タギシミミの反逆の始まりを古事記はこう記す。
天皇崩御の後、義母である皇后、イスケヨリヒメを妻にしたのである。

 
イスケヨリヒメは連載の第9部で紹介したように、大和・三輪山(現奈良県桜井市)の神で、
出雲の大国主命の分神でもある大物主神(おおものぬしのかみ)の娘である。

母方の実家は、当時の農業先進地で銅鐸の一大生産地でもあった三嶋(現大阪府北部)を治める。
その出自を見込んだ臣下の大久目命(おおくめのみこと)が大后(おほきさき)に
ふさわしいと考え、イハレビコに勧めた「媛女(をとめ)」でもある。
まさに大后を出す力のある実家を持った女性だった。

 
「オオモノヌシは大和を支配する神。大和を治めるためにタギシミミは、
父と同じことをする必要があると考えたのでしょう」

奈良県立万葉文化館の井上さやか主任研究員は、そう指摘する。

 
イスケヨリヒメは日本書紀では、「媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)」
と記される。たくさんの鈴が付いているヒメという意味だ。

 「古代の人々は鈴の音色に霊性を感じ、神を招く道具として鈴を用いてきました。
  神とつながる巫女(みこ)的な要素が、名前として表れていると考えられます」

古代の鈴の出土が多い福岡県宗像市の郷土文化課、石山勲氏はそう話す。

古事記が記す「イスケ」という語にも、振り動かすことで
霊や命を甦(よみがえ)らせる意味が含まれる。
記紀ともに、初代皇后は神の声を聞くことに長(た)けていた女性だったことを示唆している。


タギシミミは、皇后のこうした能力にも注目したと考えられる。
神託が政治を左右する古代、こうした妻を持つことは、
皇位継承の名乗りを上げたにも等しいことだった。

 「古くからの結婚習慣として、夫を亡くした妻を
  夫の兄弟や義理の息子が妻とすることはありました」

川村学園女子大の梅村惠子教授はそう話す。

家として血脈の維持を重視するからであり、女性にとっても婚家にとどまることで、
生存権や自分の財産を守る利点があったのだ。

 「しかし、この場合は、イスケヨリヒメの合意があったとは思えません。
  タギシミミが無理やり自分の妻にしたという印象です」

 
30代敏達(びだつ)天皇の死後、皇位を狙った弟の穴穂部皇子(あなほべのみこ)が
皇后の炊屋姫(かしきやひめ)(後の推古天皇)を強引に手に入れようとしたのと
同じ構図だとの指摘である。

タギシミミの強引さを想像させる記述が日本書紀にある。

 〈立操●懐(りつさうそくわい)、本より仁義に乖(そむ)き、
  遂に以ちて諒闇(りやうあん)の際に、威福自由なり〉   (●=圧の土が昔)

 
心を物欲に置き、心構えが元々、仁義の道に背き、
天皇の服喪の間にも権力と幸福をほしいままにした、というのだ。

 
やがて、タギシミミの野望は、次の標的に向く。
天皇と皇后の間に生まれた3人の御子である。 

  =(3)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160419/wst1604190001-n1.html )

           <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

神武・海道東征~その48 - 伝統

2016/04/29 (Fri) 04:52:40


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第10部】

当芸志美々命の変(3)息子の危機を救った母の歌


  〈其の三(みはしら)の弟を殺さむとして、謀る間に、
   其の御祖伊須気余理比売(みおやいすけよりひめ)、患(うれ)へ苦しびて〉

夫となった当芸志美々命(たぎしみみのみこと)が義弟、
自分にとっては実の子である3人の御子を殺そうとしていることを
知ったイスケヨリヒメの苦悩を古事記はこう書く。

3人の弟とは、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)とイスケヨリヒメの間に生まれた
日子八井命(ひこやゐのみこと)、神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、
神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)のことである。

 〈歌を以ち其の御子等に知らしむ〉

悩み苦しんだ末にイスケヨリヒメは、歌で危機を知らせた、と古事記は記す。その歌は2首。
現在、大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)の近く、狭井(さい)川のほとりに
1首の歌碑が置かれている。


 〈狭井河よ 雲立ちわたり 畝火(うねび)山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす〉

 (狭井川の方から雲が立ち広がってきて、畝傍(うねび)山では木の葉が鳴り騒いでいて、
  風が吹き出そうだ)

 〈畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる〉

 (畝傍山では昼間は雲が揺れ動き、夕方になると、
  大風が吹く前触れとして木の葉がざわめいている)

 
「2首はどちらも、これから吹く風、まだ揺れていない木の葉のざわめきを詠んでいる。
これから起ころうとする大きな自然現象を予知する歌で、何か不穏なことが起こる
不気味さを感じさせます」

大阪市立大の村田正博教授はそう話す。

この歌は御子たちの耳に直接届き、迫る危機に驚いたと古事記は記す。

村田教授は、文面ではなく声で伝えられた点に注目する。


「言霊といわれるように、古代には声には力があると信じられていました。
日常の話し言葉ではなく、歌の形を取っているのも、
心して聞くように促すためだと考えられます」

内容も巧みだった。
イスケヨリヒメは、イハレビコと結婚するまで住んでいたなじみ深い狭井川と、
皇后になってから、そのふもとで暮らす畝傍山を織り込み、
単に風景を詠んだような歌にした。

「この特別な言葉は、息子たちにしかわからなかったかもしれません」

御子たちは、先手を打とうとする。
古事記は、末子のカムヌナカハミミが次兄のカムヤヰミミにこう勧めたと書く。

 「なね汝命(いましみこと)(わが兄よ)、兵を持ち入りて、当芸志美々を殺したまへ」

奈良市本子守町の「子守明神」。
イスケヨリヒメを祭る率川(いさがわ)神社はそう呼ばれる。
創建は33代推古天皇の時代。
安産、育児、家庭円満などの神として信仰されている。

「綏靖(すいぜい)天皇(カムヌナカハミミ)をはじめ、3人の御子を
お産みになっただけではなく、歌で御子の危機を救った母ということが、
今も人々を引きつけているのではないでしょうか」

同神社を摂社にする大神神社の山田浩之・権禰宜はそう話す。

妻より母。その決断が信仰を生んでいる。   =(4)に続く

  (http://www.sankei.com/west/news/160420/wst1604200001-n1.html


           <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

神武・海道東征~その49 - 伝統

2016/04/30 (Sat) 04:35:44


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第10部】

当芸志美々命の変(4)弟の勇気たたえ 皇位を譲る


 〈故兵を持ち、入りて殺さむとする時に、手足わななきてえ殺さず〉

皇位をねらう義兄、当芸志美々命(たぎしみみのみこと)を討とうとした
神八井耳命(かむやゐみみのみこと)について、古事記はこう書く。

土壇場で手足が震え、おののいて、武器を使うことができなかったのである。


 〈故尓(しか)して其の弟神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、
  其の兄の持てる兵を乞い取り、入りて、当芸志美々を殺したまふ〉

兄の武器を譲り受けた弟は、踏み入ってタギシミミを殺した。
首尾を果たした弟に、兄は言う。

 「吾は兄にあれども、上と為(な)るべくあらず。
  是を以ち汝命(いましみこと)、上と為り、天の下治(し)らしめせ」

カムヤヰミミが弟に皇位を譲ろうとする理由は、日本書紀に書かれている。

 「汝、特挺(すぐ)れて神武(たけ)くして、自ら元悪(あた)を誅(つみな)ふ。
  宜(うべ)なるかも、汝の天位(たかみくら)に光臨(のぞ)みて皇祖の業を承(う)けむこと」

あなたは衆にぬきんでて武勇に優れ、自ら大悪人を誅伐したのだから、皇位に就いて当然だ、
と言うのである。


 「後継者の兄から勇気ある弟が皇位を譲られることで、より徳の高い人物であることが
  表現されている。兄も引き立て役のようだが、謙譲の美徳として両者が立てられている」

皇学館大の荊木(いばらき)美行教授はそう話す。
兄が、勇気ある弟に皇位を譲る話はその後も記紀に書かれる。
23代顕宗(けんぞう)天皇誕生の経緯がそれだ。

21代雄略天皇に殺された市辺之忍歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子、
オケとヲケの兄弟は、身の危険を察して牛飼いとなって身を隠した。

天皇の死後、弟のヲケが勇気を奮って名乗りを上げる。
兄のオケは、弟の功をたたえて皇位を譲るのである。

 「当時の天皇には機知や力強さが求められていて、そうした祖先の努力によって
  政権の基礎が築かれたことが、宮中で語り継がれていたのでしょう」



 〈葛城の高岡宮に坐して天の下治(し)らしめき〉

2代綏靖(すいぜい)天皇として即位したカムヌナカハミミが宮に定めた場所を、
古事記はそう書く。

日本書紀も「高丘宮」と表記し、その場所とされる地には
「綏靖天皇葛城高丘宮趾」の碑(奈良県御所(ごせ)市)が立つ。

葛城山東麓の奈良盆地を一望する高台で、
弥生時代の広大な水田跡が見つかった秋津・中西遺跡が眼下に広がる。

 「当時、葛城の山は鴨族が支配していた」

と鴨(加茂)社の総本宮、高鴨神社(同市)の鈴鹿義胤(よしたね)宮司は話す。

鴨族は阿治須岐高日子根(あじすきたかひこね)命や事代主(ことしろぬし)命ら、
国譲りした大国主命の子らを祖とする。

鈴鹿宮司は、神武、綏靖、安寧、懿徳(いとく)の4代の天皇が
鴨族系の女性を皇后としたと指摘し、その理由をこう話す。

 「鴨族は、農具の性能を飛躍させる製鉄技術や農作業と祭祀(さいし)の時期を決める
  天体観測の知識を持っていたと考えられます」

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の跡を継いだ2代目の、
政略結婚の必要性をも理解する政治力が読み取れる。   =(5)に続く

  (http://www.sankei.com/west/news/160421/wst1604210001-n1.html )


           <感謝合掌 平成28年4月30日 頓首再拝>

神武・海道東征~その50 - 伝統

2016/05/02 (Mon) 04:29:44


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第10部】

当芸志美々命の変(5)領土拡大 豊作の祈りで支え


義兄の当芸志美々命(たぎしみみのみこと)を討った弟の神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)
に、兄の神八井耳命(かむやゐみみのみこと)はこう言ったと古事記は記す。


 「僕は汝命(いましみこと)を扶(たす)け、忌人(いはひびと)と為(な)りて仕え奉らむ」


忌人とは、心身を慎んで神聖なものを護(まも)り、仕える人のことだが、
日本書紀はさらに明確に、カムヤヰミミは告げたと書く。


 〈「吾(われ)は汝の輔(たすけ)と為りて、
  神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を奉典(つかさどりまつ)らむ」とまをす。
  是則ち多臣(おほの)(おみ)が始祖(はじめのおや)なり〉

 
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)が皇后イスケヨリヒメとの間に設けた3人の御子は、
末子のカムヌナカハミミが2代綏靖(すいぜい)天皇となり、次兄のカムヤヰミミは自ら望んで、
天地の神々を祭る司祭者となったのである。

 
その祭祀を行ったと考えられるのは、カムヤヰミミを主祭神とする
奈良県田原本町の多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社(多神社)。
ここは古事記を編纂(へんさん)した太安万侶(おおのやすまろ)の出身地でもある。

 「太陽は、春の植え付け時期には三輪山から出て、刈り入れの秋には二上山に沈みます」

 
安万侶から数えて51代目の多忠記宮司は、
大和政権が神聖な山としてあがめた三輪山や二上山との位置関係から、
カムヤヰミミの祭祀を想像する。

 「盆地の人々が集まり、五穀豊穣を太陽に祈る祭りや、感謝する祭りを
  大々的に行ったに違いありません」


 〈神八井耳命は、意富臣(おほのおみ)、小子部連(ちひさこべのむらじ)、
  坂合部連(さかひべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おほきたのきみ)、
  阿蘇君、筑紫の三家連(みやけのむらじ)…が祖なり〉

 
古事記は、カムヤヰミミを祖とする氏族が19もあることを、列記して強調する。
国造(くにのみやつこ)や君、臣(おみ)、連といった、天皇から付与された
姓(かばね)(尊称)を持つ氏族ばかりで、大和政権が全国各地に置いた地方官でもある。

火君(熊本)や科野(しなの)の国造(長野)、
常道(ひたち)の仲(なかの)国造(茨城)などは、

大和政権が畿内から領土を拡張していく古墳時代、戦略的要所を押さえた有力豪族だ。

 「カムヤヰミミが農耕祭祀を行い、その子孫が全国に広める先遣隊となることで、
  大和政権が領土を拡大したことを示しているのでないか」

意富臣の子孫である多宮司は、そう推察する。


 「カムヤヰミミと子孫にまつわる記録には、軍事的なものがほとんどない。
  古事記が書く『言向(ことむ)け和(やわ)し』の精神で領土を広げたのでしょう」

そう話すのは国学院大の茂木(もてぎ)貞純教授である。

 〈荒ぶる神等を言向け平げ和し、伏(したが)はぬ人等を退け撥(はら)ひて〉。

古事記は、イハレビコの建国をそう表現する。

言向けは、相手が能動的に服属するように仕向けるためにかける言葉。
つまりは説得で、それでも従わぬ者にだけ武力で対峙(たいじ)したのだ。

 「神武天皇が民の利を重視したように、彼らも万人が納得する理想を掲げたのでしょう。
  豊作を神に祈る祭りは、豊かな生活につながるものですから」


武力で政敵を倒す勇気がなかったカムヤヰミミは、父から受け継いだ精神と祭祀で、
建国の偉業を支えたのである。   =第10部おわり(第11部に続く)

・・・

【用語解説】言向け和し

相手の自発的な服従を促して平和裏に国土を広げたという意味で古事記が使っている言葉。

高天原(たかまがはら)の天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、
大国主命に葦原中国(あしはらのなかつくに)に国譲りを迫る際や、
イハレビコの大和平定の過程などで使われている。

 
さらに7代孝霊天皇の時代に「吉備国を言向け和しき」と記され、
奈良盆地外への国土の拡張が初めて示唆されている。

12代景行天皇の皇子・ヤマトタケルノミコトが蝦夷(えみし)などを
平定する遠征では頻出する。南九州から北関東に至る広範な遠征で、
ヤマトタケルが和戦両様で実績を積んだことを古事記は書いている。

http://www.sankei.com/west/news/160421/wst1604210002-n1.html


           <感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>

神武・海道東征~その51 - 伝統

2016/07/16 (Sat) 03:44:00

          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第11部】

歌の力・託される思い(1)勝利を祝う兵士の宴会歌

カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の東征の最終盤、畿内での戦いの日々を彩るもの。

それは歌謡である。

古事記では、当芸志美々命(たぎしみみのみこと)の変を知らせた
皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)の歌謡まで含めると、
13首が記されている。

最初に登場するのが冒頭の歌謡。

イハレビコを謀殺しようとした宇陀の首長、兄宇迦斯(えうかし)を討った後、
恭順した弟(おと)宇迦斯が献上した大饗(おほあへ)(食事)を賜った兵たちが
歌ったとされるもので、いわば宴会歌である。


 〈宇陀の高く構えた砦(とりで)に鴫(しぎ)を捕るわなを仕掛けたら、
  私が待っている鴫はかからず、なんと鯨がかかったではないか〉

 
歌謡は前半で、そんな荒唐無稽な内容を歌い、
後半で本妻と庶妻を分け隔てする男の身勝手な心情を歌っている。

 〈古妻が総菜を欲しがったら、立っているソバの実の少ないところを取ってやれ。
  新妻が欲しがったら、イチサカキの実の多いところを取ってやれ〉

     ◇

「鳥を捕獲するわなに海の鯨がかかるという突拍子もない意外性で哄笑(こうしょう)を誘う
宴会らしい歌、と解すのが定説だが、戦の禍々(まがまが)しさを祓(はら)う働きをしています」

 
元立命館大教授の真下厚氏はそう話す。

古代人は、現実には存在し得ないことや不可能なことを歌うことで
強い呪力が生まれると信じていた、という指摘である。


祓いの後は、生命力を求める願いを歌詞に込めている。

共立女子大の遠藤耕太郎教授は
「本妻と妾(めかけ)の対立という主題は沖縄・八重山の古謡や、朝鮮の祭りに現代も見られる」
と話す。

たとえば韓国・済州(チェジュ)島の祭り「立春クッ」の仮面劇では、
うら若い妾が老いた本妻を死ぬまで攻撃し、葬式を出す場面が演じられる。

「生産力のない本妻を冬の象徴として退け、春である生産力旺盛な妾を迎えて
豊穣(ほうじょう)多産を祈願する祭りと考えられる。古事記の歌も主題は同じで、
冬と春の対立、春の勝利という普遍的な豊穣予祝の原理を見いだすことができます」

     ◇

 〈ええ、しやごしや。これはざまあみろの意だ。ああ、しやごしや。これはあざ笑う意だ〉

歌の最後は、こんな囃子詞(はやしことば)である。

遠藤教授は、「嘲咲(あざわら)ふぞ」という語の「咲」に着目する。

天の岩屋にこもった太陽神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)を誘い出す
アメノウズメの歌舞を見た八百万(やおよろず)の神々の笑いも「咲う」と、
古事記は表記しているからだ。

 
「『咲』は、弱った太陽を再生させるための冬をやっつける笑いです。
現代人が想像するとしたら、試合の流れを変えるスタジアムのどよめきのようなものでしょうね」

 
イハレビコの東征は畿内に入って軍旅に変わり、兄宇迦斯を討って以後は連勝街道になる。
その勝報とともに、必ずと言っていいほど記されているのが歌謡である。

勝利を寿(ことほ)ぎ、合図に使われ、戦意を高揚するためにも、
歌謡が有用だったことを古事記は示している。   =(2)に続く



【用語解説】久米歌

東征で登場する歌謡の大半を、古事記は「久米歌」として紹介している。

イハレビコに付き従った古代氏族・久米氏の風俗歌舞という意味合いだ。

久米舞として今も残り、天皇即位後に最初に挙行される新嘗祭(にいなめさい)
「大嘗祭(だいじょうさい)」で奏される。

日本書紀は、楽府(うたまいのつかさ)(宮廷の音楽・歌謡をつかさどる役所)で奏す時には
舞の手の広げ方や、声の太さ、細さの別が決まっている、と書き、
「古式が今に残っている」と説明する。

大嘗祭の神祭りなどに続く宴会「豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)」で披露され、
無文字時代の歌謡文化を伝えるといわれる。


http://www.sankei.com/west/news/160628/wst1606280009-n1.html

           <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

神武・海道東征~その52 - 伝統

2016/07/17 (Sun) 04:06:40

          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第11部】

歌の力・託される思い(2)大刀を手に、いざ敵を討て

(冒頭の歌 http://www.sankei.com/west/photos/160629/wst1606290009-p1.html )


   「忍坂(おさか)の 大室屋(おおむろや)に 
    人多(ひとさは)に 来入(きい)り居(を)り 
    人多に 入り居(を)りとも みつみつし 久米(くめ)の子が 

    頭椎(くぶつつい) 石椎(いしつつい)もち 
    撃ちてしやまむ 
    みつみつし 久米の子らが 
    頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)いもち 
    今(いま)撃(う)たば善(よ)らし」


宇陀の兄宇迦斯(えうかし)を討った後、
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の軍勢は忍坂の大室に至る。

そこには「尾生(お)ふる土雲の八十建(やそたける)」、
つまりは多数の凶悪な者たちが待ち構えていた、と古事記は書く。

イハレビコはその者たちに馳走をふるまい、一人一人に給仕夫をつけた。

そして密(ひそ)かに命じた。

 「歌ふを聞かば、一時(もろ)共に斬れ」

その歌が冒頭のものである。現代風に訳すと次のようになる。

 〈忍坂の大きな室屋に大勢、集まり入っている。
  大勢入っていても雄々しい久米の兵が、2種類の大刀で撃ち殺してしまうぞ。
  雄々しい久米の兵が大刀を手に今だ、撃つべき時は〉

給仕夫になっていた兵たちは歌を聞くや、大刀を抜き、一挙に土雲を討ち滅ぼした、
と古事記は記す。

     ◇

「強敵に料理を振る舞ったのは油断させるためでしょう」と話す国学院大の谷口雅博准教授は、
攻撃の合図に歌が使われた理由をこう推測する。

「相手に悟られないで攻撃を伝えるためでしょう。
この歌を神武天皇が歌ったとすることで、天皇が『久米の子ら』を統率しつつ、
自らも戦う姿を示しているという説もあります」

 
久米の兵たちが使った大刀のうち頭椎いは、先端が塊状の大刀。
石椎いは先端が石でできた大刀で、石剣ともいわれる。

和歌山市の博物館・和歌山県立紀伊風土記の丘の萩野谷正宏・学芸員はこう話す。

「弥生時代の石剣は主に儀礼に用いるものですが、サヌカイトという石で
金属製の武器を模造したものは実用的だったようです」


歌詞は、イハレビコらがすでに石製の優れた武器を所持していたこともうかがわせている。

     ◇

 
北海道大の金沢英之准教授は、土雲が「尾生ふる」と書かれていることに注目する。
イハレビコが宇陀や忍坂で戦う前、吉野で恭順させた井氷鹿(ゐひか)や
石押分之子(いはおしわくのこ)といった国つ神も「尾生ふる人」と表現されているからである。

 
「天つ神の御子であるイハレビコにとって、国つ神は秩序化されていない荒ぶる神。
地上界を完成に導く神として、別世界に住む者と見ていたのでしょう」

 
土雲は日本書紀では土蜘蛛と書かれ、その伝承地は奈良県内に散在する。
御所市高天の高天彦(たかまひこ)神社前の私有林はその一つ。
土蜘蛛が住んでいたとされる蜘蛛窟があり、林の所有者の森村宗光氏はこう話す。


「昔、天皇の一軍が化粧を施して猿に扮(ふん)し、攻め入ったと伝わります。
この伝承に基づく『猿打(さるち)』や『化粧坂』といった地名も周辺に残っています」

同神社から約3キロ離れた葛城一言主(ひとことぬし)神社(同市森脇)には蜘蛛塚がある。
同市史によると、イハレビコに倒された土蜘蛛は頭、胴、足に切り分けられたという。

土雲にまつわる神話、伝承は、統治する者とされる者の優劣を、ことさら強調するものになっている。

   =(3)に続く


http://www.sankei.com/west/news/160629/wst1606290009-n1.html


・・・

<参考Web>

(1)道臣(みちのおみ)
    → http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mitino2.html 

(2)道臣命の密命と歌
    → http://nihonsinwa.com/page/921.html

           <感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>

神武・海道東征~その53 - 伝統

2016/07/19 (Tue) 03:56:33

          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第11部】

歌の力・託される思い(3)集団を一つにまとめる高揚感

忍坂(おしさか)の土雲たちを討った後、カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の兵らは
次のように歌った、と古事記は記す。

次の敵は「登美毘古」。大阪湾から生駒越えして大和を目指した際、
手痛い敗北を喫した登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)である。


 〈雄々しい久米の兵たちの粟の畑に強い韮が1本。
  その根と芽をひとくくりにするように撃ち取ってしまおう〉

 〈雄々しい久米の兵たちが垣根に植えた山椒。
  口がひりひり、あの痛みを我らは忘れない。今度こそ撃ち殺してやるぞ〉

連勝で自信を深めた軍事氏族・久米氏が先頭に立つ軍勢と、
激しい復讐(ふくしゅう)の念がうかがえる歌謡だが、
同志社大の駒木敏名誉教授は、3番の歌詞に注目する。

 〈神風の吹く伊勢国の海の大きな石に這い回っている細螺のように、
  我らも這いずり回って撃ち殺してやるぞ〉

 「陸の戦いを前にして、海のことをことさら歌う。久米氏の拠点は熊野や伊勢にあり、
  イハレビコが畿内に入ってから味方になったことを示しているのではないでしょうか」

 
イハレビコは、ナガスネビコとの戦いで長兄の五瀬命を失った。
2人の兄も熊野灘で離脱した。大切な味方を失う一方で、新たな味方を補充すれば、
どう統率するかが重要になる。

 「歌の機能の一つは集団をまとめること、団結心を養うことですが、
 この戦闘歌謡は高揚感もあって紐帯(ちゅうたい)としての役割をよく果たしています」


歌謡は、集団統御のために欠かせない手段だったのである。
一方で、歌詞に盛り込まれた食物の数々、粟に韮、山椒や細螺は、
久米氏のもう一つの役割を示している。

歴代天皇の軍旅を料理で支えたことだ。

 〈倭建命(やまとたけるのみこと)、国平(ことむ)けに廻り行(い)でましし時、
  久米直(くめのあたひ)が祖、名は七拳脛(ななつかはぎ)、
  恒(つね)に膳夫(かしはて)と為(し)て従ひ仕え奉りき〉

古事記は、12代景行天皇の御子、ヤマトタケルノミコトの
西征、東征には必ず久米氏の者が付き従っていたと書く。
歌詞はその役割を、初代神武天皇の東征時から担っていたことをうかがわせる。

 「この歌謡は、東征を支えた久米氏が自らの働き、
  功績を伝えるために伝承していたものでしょう」。

立命館大の藤原享和教授はそう話す。

 
歌詞に込められた激しい闘志には天照大御神の意思が読み取れる、
と指摘するのは北海道大の金沢英之准教授である。

 「此の国に道速振(ちはやぶ)る荒振る国つ神等の多(さは)に在りと以為(おも)ほす」

天照大御神はそう言って高天原から、国譲りの使者を地上界に派遣した、と古事記は記す。
強暴にして荒れすさぶ神どもが数多くいる、と認識していたのである。
東征は、譲られた国を治めるために行われた。


「だから言趣(ことむ)け、説得だけで国つ神が従えばよし。
従わないときは徹底征伐すると考えて東征は行われたはずで、
その一面をこの歌謡は伝えていると思います」

     =(4)に続く


http://www.sankei.com/west/news/160701/wst1607010007-n1.html

           <感謝合掌 平成28年7月19日 頓首再拝>

神武・海道東征~その54 - 伝統

2016/07/21 (Thu) 03:28:11


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第11部】

歌の力・託される思い(5)天皇の求婚 和やかに伝える

戦闘の合図歌や闘志をかきたてる戦闘歌謡。
古事記の神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)の章では武張った歌が多いが、
大和を平定して皇后となるべき媛女を探す「伊須気余理比売(いすけよりひめ)の立后」
の条では一転して、和やかな雰囲気が漂う歌が並ぶ。

 〈是に七たりの媛女、高佐士野に遊行(あそ)ぶ。伊須気余理比売其の中に在り〉

高佐士野とは大和・大神(おおみわ)神社の北の台地。
同神社の祭神、大物主神の娘であるイスケヨリヒメと天皇の出会いを、
古事記はこう記した後、歌謡を2首並べる。

 家臣である大久米命(おおくめのみこと)とイハレビコが交わしたものである。

 〈大和の国の高佐士野を、7人連れだって歩く乙女たち。そのなかの誰を妻となさいましょう〉

 〈どの娘とも決めがたいが、一番先に立つ、年長の乙女を妻としよう〉

     ◇

天皇の意向を確かめた大久米命は、イスケヨリヒメに天皇の言葉を伝えた。
イスケヨリヒメは即答せず、3番目に掲載した歌で問いかけた。


 〈雨つばめやせきれい、千鳥や鵐(しとと)でもないのに、
  どうしてそんなに裂けた鋭い目をしているの〉

 「この歌には、イスケヨリヒメに歌を詠む優れた能力があることを示すこと、
  そして相手の力量を試したという二重の意味があります」


甲南女子大の神野富一教授はそう話す。

天皇の代理で求婚する大久米命に歌で挑む姿を記すことで、
イスケヨリヒメの聡明(そうめい)さを表現し、皇后にふさわしい女性であることを
示しているという指摘である。大久米命も歌で返した。


 〈お嬢さんに、じかにお目にかかりたくて、私の裂けた鋭い目は〉


返歌を聞いたイスケヨリヒメは即座に承諾した、と古事記は書く。

 「イスケヨリヒメは見事に返した大久米命を代理とした天皇ならばと考え、
  『ではお仕え致しましょう』と答えたのです」

 
古代以来、身分の高い天皇が直接、求婚することはなく、伝えに行くのは家臣だった。
古事記のこの場面は、その習慣の始まりを示すものでもある。

 「歌垣が下敷きになっているのでしょう」と
万葉文化館(奈良県明日香村)の井上さやか主任研究員は話す。

男女が野山に集まり、お互いに歌を詠み合って求婚する習俗が歌垣。
古事記は、当時の習俗を彷彿(ほうふつ)とさせる情景で、天皇の求愛を描いているのだ。

     ◇

後半の2首にある「黥ける鋭目」は、久米歌を伝承する久米氏の立場を示すものでもある。

今城塚古代歴史館(大阪府高槻市)の森田克行館長はこう語る。

 「『黥』とは入れ墨のこと。鳥に例えられているから、大久米命の目の周りには
  鳥の足のように入れ墨が入っていたのでしょう」

入れ墨は古代、職業を示したり部族の証しだったが、支配者階級は入れない。
この歌だけで、大久米命が支配される側の存在とわかるのである。

   =第11部おわり(第12部に続く)

     ◇

【用語解説】天皇の呼称の登場

古事記では、「伊須気余理比売の立后」の条で初めて、
「天皇(すめらみこと)」という呼称がイハレビコに使われる。

この条の直前、「久米歌」の条の最後には〈畝火(うねひ)の白檮原宮(かしはらのみや)に
坐(いま)して、天の下治(し)らしめしき〉と書かれ、イハレビコが即位し、
天皇と呼ばれるようになったことがわかる。



「天皇」の初出はイハレビコの曽祖父、ニニギノミコトがイワナガヒメを親元に帰し、
コノハナノサクヤヒメと結婚した時。〈天皇命等の御命長くあらざるなり〉と、
寿命が有限になったことを記す場面で用いられている。


http://www.sankei.com/west/news/160702/wst1607020003-n1.html

           <感謝合掌 平成28年7月21日 頓首再拝>

神武・海道東征~その55 - 伝統

2016/10/03 (Mon) 04:12:48


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第12部】

偉業を支えた脇役たち(1)槁根津日子(さをねつひこ) 大和への海路 水先案内の大役


日向から大和に至る16年(日本書紀では6年)。
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の東征は、多くの脇役に支えられた。

東征の大半は海路だった。そこで水先案内の大役を果たしたのが
槁根津日子(さをねつひこ)(書紀では椎(しい)根津彦)である。


 〈亀の甲に乗り、釣り為(し)つつ打ち羽挙(はふ)き来る人、
  速吸門(はやすひのと)に遇(あ)ふ〉(古事記)

 〈速吸之門(はやすひなと)に至ります。
  時に、一(ひとり)の漁人(あま)有り、艇(をぶね)に乗りて至る〉(日本書紀)

 
イハレビコとの出会いを記紀はこう書く。

古事記での場所は、淡路島と神戸市垂水区にはさまれた明石海峡。
書紀の場所は大分・佐賀関と愛媛・佐田岬が向かい合う豊予(ほうよ)海峡。

ともに潮の速い難所だが、古事記に従えば、槁根津日子は大阪湾からの臣下、
書紀によれば、瀬戸内海全体を案内した功臣になる。

果たして、どちらが正しいか。

『古事記伝』を書いた江戸時代の国学者、本居宣長は、
豊後国に早吸日女(はやすひめ)神社が古くから鎮座する一方、
明石海峡の周辺に「速吸」の地名がないとして、こう推断した。

 〈書紀の傳(つたへ)ぞ正しかるべき〉


     ◇

 〈椎根津彦の根拠地は西宮付近であり、
  淡路島以東の大阪湾を支配する海部の首長にほかならない〉

昭和31年の論文でこう書き、宣長説と対立したのは
皇学館大の田中卓(たかし)名誉教授である。

根拠は、祭祀氏族の祖を椎根津彦とする大倭(おおやまと)神社
(現・大和(おおやまと)神社=奈良県天理市)の
「大倭神社註進状」裏書きで、こう書かれていることだ。

 〈伝聞、我祖椎根津彦命、遊行在難波、以釣魚為楽〉

槁根津日子の子孫たちは、家祖が難波の海(大阪湾)を遊行し、
釣りを楽しんでいたと伝承しているのである。


裏書きはさらに、家祖が海に浮かんでいた蛭児(ひるこ)神(えびす神)を
廣田西宮三良殿(現・西宮神社)に祭り、家祖自身が奥夷(おくえびす)社に
祭られていることも伝えている。

     ◇

奥夷社の鎮座地と推測されるのは、西宮神社から西へ5キロ、
金鳥山(きんちょうざん)中腹の保久良(ほくら)神社(神戸市東灘区)。
標高180メートルの境内からは大阪湾が一望できる。

境内に近接する金鳥山遺跡は弥生時代中期後半の高地性集落。
この時代の高地性集落は瀬戸内海一円で、海を見下ろす場所に点々と見つかっている。

 「海路で結ばれた地域共同体の情報伝達システムと考えられます。
  弥生時代の航行者にとってはランドマークでもあった」

愛媛大の柴田昌児准教授はそう話す。

金鳥山遺跡から高地性集落をたどって海路を西へ向かうと、
芸予諸島で北九州に向かう北ルートと、愛媛県への南ルートに分かれる。
南ルートの先に豊予海峡がある。

高地性集落の研究を踏まえ、田中名誉教授は
「豊予海峡で出会ったのは椎根津彦の分派だった可能性が出てきた」と話す。

東征後、槁根津日子は倭(やまと)の国造(くにのみやつこ)という
重い地位を与えられた、と記紀は書く。

瀬戸内海全域で功績を挙げたことが、ここからもうかがえる。

http://www.sankei.com/west/news/160920/wst1609200003-n1.html


           <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

神武・海道東征~その56 - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:37:13


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第12部】

偉業を支えた脇役たち(2)御毛沼命(みけぬのみこと) 故郷に帰り 地方を守った兄

 〈御毛沼命(みけぬのみこと)は、浪の穂を跳(ふ)み、
  常世国(とこよのくに)に渡り坐(ま)し〉

 
カムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)の3人の兄のうち、
すぐ上の御毛沼命について、古事記はこう書く。
海の彼方にある異界に行ったというのである。

日本書紀は、それはイハレビコ一行が熊野灘で暴風に襲われた時だとして、
御毛沼命(書紀では三毛入野命(みけいりのみこと))の言葉を書いている。

 「我が母と姨(をば)とは、並びに是海神(これわたつみ)なり。
  何為(いかに)ぞ波瀾(なみ)を起てて灌溺(おぼほ)れしむる」

自分の母と伯母は海神なのに、どうして海は荒れて溺れさせるのか、という嘆きの言葉である。

長兄の五瀬命(いつせのみこと)をはじめとする3人の兄は熊野上陸前、落命するか異界に去り、
その後の大和平定はイハレビコだけで行われたとする点で、記紀の記述は共通している。

     ◇

宮崎県高千穂町の高千穂神社。
宮崎県最北部で、天孫降臨の地ともいわれる二上山と●触峯(くしふるのみね)に近い
同神社は、常世国に渡った御毛沼命(社伝では三毛入野命)が日向に帰り、
曽祖父から父までの日向三代を祭ったことを起源とする神社である。

御毛沼命も妻と8人の御子と共に、十社大明神として祭神になっている。(●=木へんに患)

 「東征に就いた4人の兄弟には、意志に濃淡があったのではないでしょうか。
  海神の子なのに暴風に苦しみ、船も壊れた。
  これは死んだも同然だと考えて故郷に帰った。
  人間的な弱さも感じさせるのがご祭神だと思います」


後藤俊彦宮司はそう話すが、御毛沼命には英雄譚(たん)も残る。
地元に残る鬼八伝承である。


〈三毛入野命たちの留守中、二上山の千々ケ窟(いわや)に住む鬼八という鬼が
 悪行の限りを尽くし、祖母岳明神の娘、鵜目姫(うのめひめ)をさらって鬼ケ窟に隠した。
 三毛入野命は、姫を助けるために肥後や阿蘇まで鬼八を追い、斬り殺した。
 死骸を埋め、8尺の石で押さえたが、魔力で蘇生したため、身体を3つに切り離して埋めた〉

同神社の本殿には蘇生しようとする鬼八を踏みつけて退治する神像が刻まれている。
そばには鎮石もあって、伝承をしのばせる。

 「東征という大事業は果たせなかったが、ご祭神は地元を守ることで役目を果たそうとした。
  中央の大仕事も重要だが、地方をしっかり守る者も必要。
  現代にも通じる教えを含んだ伝承だと思います」

     ◇

記紀が、イハレビコの兄たちに触れない理由について、
宮崎県立看護大の大館真晴教授は、皇位の正統性を書く目的を挙げる。

 「記紀は、天皇の兄弟について、皇位にからまない場合はほとんど触れない。
  いかに皇位についたかだけが焦点で、兄弟が詳しく書かれるのは、
  皇位継承を阻むようなことをした時だけです」


兄たちが、稲作を中心とした家族的国家の建設のために尽くしたことはその名でわかる、
と後藤宮司は指摘する。

御毛沼命の「毛」は古語で食(け)の意。
穀物に関する文字だ。

次兄の稲冰命(いなひのみこと)は稲飯命の表記さえある。
稲作文化を広める東征で、兄たちも重責を果たしたことは間違いないのだ。

   =(3)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160921/wst1609210001-n1.html

           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

神武・海道東征~その57 - 伝統

2016/11/30 (Wed) 03:56:47


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第12部】

偉業を支えた脇役たち(3)布都御魂(ふつのみたま) 危機救った刀 生命を預かる神


 〈此の刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)と云ふ。
  またの名は甕布都神(みかふつのかみ)と云ふ。
  またの名は布都御魂(ふつのみたま)。
  此の刀は石上神宮(いそのかみのかむみや)に坐(いま)す〉

 
古事記がこれだけ別名を列記し、その所在まで明記していることで、東征での貢献度がわかる。
刀は、大国主命に国譲りさせたタケミカヅチノカミが高天原から下したものだ。

この刀の霊威によって、熊野灘から上陸したカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)は
眠りから覚め、荒ぶる神をことごとく斬り倒したのである。

 
布都御魂大神を主祭神とする石上神宮(奈良県天理市)は、日本最古の神社の一つとされる。
参拝者がいただくお守りは、同神宮の神宝、七支刀をあしらった御神劔守(ごしんけんまもり)。

 「起死回生のご利益があります。神武天皇の危機を救った功績から、
  ご祭神にはその力があるとされています」

市村建太・権禰宜(ねぎ)はそう話す。


布都御魂は同神宮創建以前、物部氏につながる一族が祭ってきた。
物部氏は、大和朝廷での武門の棟梁(とうりょう)。
大和平定の最終段階で降ったニギハヤヒノミコトと、生駒越えで
イハレビコに苦杯をなめさせたナガスネビコの妹トミヤビメとの子、
ウマシマヂノミコトを祖とする、と古事記は書く。

 
社伝によれば、イハレビコは橿原の宮での即位後、
神代に行われた国譲りや東征での布都御魂の功績をたたえ、
ウマシマヂに命じて宮中で祭らせた。

その後、10代崇神天皇のころ、物部氏の祖、イカガシコオノミコトが
現在の地に遷(うつ)したという。

 「東征で重要な役割を果たした刀を託したのですから、
  神武天皇はウマシマヂノミコトをそれだけ信頼していたのでしょう」

市村氏はそう話す。社伝は、物部氏が重用された理由も示唆している。


大和盆地の中央部からやや東寄り。布留山(標高266メートル)の麓の高台に
鎮座する同神宮の眼下には、物部氏が拠点とした布留遺跡がある。
遺跡からは武器類にまじって、円筒形のハニワやつぼ形の土器が多数見つかっている。

 「物部氏は武器をつかさどる部族ですが、同時に祭祀集団でもあったことが推測されます」

天理参考館の日野宏学芸員はそう話す。

ハニワなどは、治水を祈る祭祀に使われたと考えられるが、
注目されるのは剣形の石製品である。

 「五穀豊穣(ほうじょう)を祈る際、剣の力が用いられていたことになる。
  刀は武器だけではなく、権力の象徴。三種の神器の一つでもあり、
  特殊な力が備わっていると考えられていたのでしょう」

 
物部氏の総氏神だった同神宮は現在、健康長寿や病気平癒、除災招福、百事成就の守護神
として信仰される。市村氏はこう話す。

 「ご祭神は、刀の神であっても武の神ではありません。
  生命の根幹を預かる神としてお祭りしています」

日本人が古来、刀に惹(ひ)かれるのはこのためだろう。

     =(4)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160922/wst1609220001-n1.html


           <感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>

神武・海道東征~その58 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 04:57:25


          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第12部】

偉業を支えた脇役たち(4)道臣命(みちのおみのみこと) 先陣を切り武功 忠臣の象徴


〈汝、忠(まめ)にして且勇(またいさみ)あり。加能(またよ)く導の功有り。
 是を以ちて、汝が名を改め道臣(みちのおみ)と為(せ)む〉

熊野上陸後、日臣命(ひのおみのみこと)はカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)
一行の先頭に立って道を切り開いた。
その功績をイハレビコはたたえ、道臣命(みちのおみのみこと)の名を与えた、
と日本書紀は記す。

 〈大伴連等が祖(おや)道臣命〉

古事記はそう書く。
古事記で初めて、その名が出るのは大和・宇陀で兄宇迦斯(えうかし)の罠(わな)を見破り、
イハレビコの危機を救ったときである。

その後も八十梟帥(やそたける)を討つなど武功を重ね、
軍旅の途中で神を祭る斎主の役割も命じられ、
「厳媛(いつひめ)」という名を与えられた、と書紀は記す。

 「祭祀(さいし)での役割も与えられていますから、単なる将軍ではなく、
  呪術的な力を持った導き手だったのでしょう」

道臣命を祭る刺田比古(さすたひこ)神社(和歌山市片岡町)の禰宜(ねぎ)、岡本和宜氏は
そう話す。同神社は、大和朝廷の有力豪族だった大伴氏が拠点とした地に建つ。
周辺は古代、島だったとみられるほか、ご神体は船の形をしている。

岡本氏は、道臣命は紀の川沿いを勢力下に置き、イハレビコが来たときに下った、と考えている。

 「海上交通にも詳しく、案内役としても適任だったのでしょう」

     ◇

社伝などでは、道臣命の父は刺田比古命(さすたひこのみこと)。
さらにさかのぼると、天孫降臨の際にニニギノミコトの先導役を果たした
天忍日命(あめのおしひのみこと)に至る。

大刀を帯びて弓を持ち、真鹿児矢(まかごや)を脇腹に挟んだ武装姿で、
天津久米命(あまつくめのみこと)とともに先頭に立った、と古事記が記す神である。

 〈其の天忍日命、此は大伴連等が祖〉

古事記は、天孫降臨の場面でもそう書いている。
度々登場する大伴連という名前。
そして、天孫降臨と重なる道臣命の活躍は何を示すのか。

 「天上界と地上界の間を埋めるのが天孫降臨。
  その場面で重責を果たした神の子孫が、東征でも同じような構図で登場する。
  大和朝廷を守る軍事的な集団を統率していた大伴氏らの功績を
  強調する必要があったのでしょう」

 大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう推測する。

     ◇

 〈天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひ、
  築坂邑(つきさかのむら)に居(はべ)らしめ、以ちて寵異(ことにめぐ)みたまふ〉

日本書紀は、即位後の天皇が真っ先に道臣命の功に報い、
そして寵愛(ちょうあい)した、と書く。
「名前の順が功績の順と考えて良いでしょう」と毛利名誉教授は言う。

 「東征は道臣命抜きには考えられず、天皇は大和平定後もそばに置いた。
  書紀は、そうした事情をうかがわせます」

江戸時代後期から刊行され、皇族や忠臣などを紹介した『前賢故実』という伝記集がある。
そこでは東征に功績があった存在として、五瀬命(いつせのみこと)の次に
道臣命が登場する。

五瀬命は畿内まで弟イハレビコを支え、敵の矢に当たって落命した長兄である。

 「道臣命は忠臣の象徴だったと言っていいのでは」。岡本氏はそう話す。

 =(5)に続く

http://www.sankei.com/west/news/160923/wst1609230001-n1.html

           <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

神武・海道東征~その59 - 伝統

2016/12/31 (Sat) 03:37:37

          *「Web:産経WEST~神武・海道東征」より

【神武・海道東征 第12部】

偉業を支えた脇役たち(5)日子八井命(ひこやゐのみこと) 九州鎮護 父の偉業守った子

〈あれ坐(ま)せる御子の名は日子八井命(ひこやゐのみこと)、
 次に神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、次に神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)〉

神武天皇となったカムヤマトイハレビコノミコトが
皇后との間にもうけた子を、古事記はそう書く。

次兄と末子は、義兄の当芸志美々命(たぎしみみのみこと)が
皇位をねらった際の活躍が描かれ、
末子は2代綏靖(すいぜい)天皇になったことも記されている。

しかし、長兄はわずかにこう書かれているにすぎない。

 〈故其の日子八井命は、茨田連(うまらたのむらじ)、手島連が祖〉

子孫が朝廷の臣下となったことがわかるだけの長兄の消息を伝えるのは、
草部吉見神社(熊本県高森町)である。

日子八井命を主祭神として祭る同神社は、
阿蘇と高千穂の中間、奥阿蘇と呼ばれる地にある。
杉の木立を下ったところに社殿があり、「日本三大下り宮」と呼ばれる。

     ◇

 〈日子八井命は、神武天皇の六十九年、日向高千穂より草部に入られ(中略)
  今の草部吉見神社の所にあった池を干し、宮居を定められた〉

社伝にはこう書かれる。
この時、池に住んで住民を脅かしていた大蛇を退治したという。
この伝承は地名としても残る。

 「大蛇が血を流しながら逃げていったところを血引原(現・地引原)、
  最後に焼かれたところを灰原と呼んでいます」

芹口恭介宮司はそう話す。

伝承はさらに続く。

宮居を定めた翌年、甥の健磐龍命(たけいわたつのみこと)が
九州統制のためにやって来ると、日子八井命は娘の阿蘇津姫を嫁がせた。
そして健磐龍命と力を合わせ、九州鎮護と国土統一事業の一翼を担った-。

健磐龍命は現在、阿蘇神社(熊本県阿蘇市)に祭られている。
同神社の宮司を代々務める阿蘇家は、健磐龍命と阿蘇津姫の子孫とされる。

 「つまり、阿蘇家は日子八井命の子孫でもあり、
  日子八井命は九州鎮護で父、神武天皇の命を果たしたのです」

芹口宮司はそう語る。

     ◇

草部吉見神社のすぐ近くに、日子八井命の墓所とされる場所がある。
敷地内では3つの禁忌がある。
馬に乗ること▽汚物を焼くこと▽婚姻で他の村へ出る女人や、死人を通すこと-である。

 「馬や汚物、死人という禁忌は、神社で一般的に見られるもの。
  身分が高い人の墓で、神社に類する扱いをされたとも考えられる」

福岡大の白川琢磨教授はそう指摘する。

 「婚出する女人を通してはいけないというのは、
  氏子、住民の減少を防ぐねらいがあったのでしょう」

 
同神社から700メートルほど離れた地には日子八井命の第1御子、
天彦命(あまつひこのみこと)を祭る三郎神社がある。

日子八井命は息子がいるにもかかわらず、
娘婿の健磐龍命と九州鎮護の大事に当たったのである。
その理由を芹口宮司はこう推測する。

 「健磐龍命が神武天皇の勅命で下ってきたからでしょう」

実直に地方を守ることで父の造った国を次代に継ごうとした長兄の姿が、伝承からうかがえる。   

=シリーズ完

     ◇

 この連載は川西健士郎、佐々木詩、地主明世、兵頭茜、安本寿久が担当しました。

     ◇

【用語解説】弟たちの活躍

 日子八井命の末弟、神沼河耳命は、次兄の神八井耳命に代わって武器を取り、
 当芸志美々命を討ったことで2代綏靖天皇になり、葛城に都を造って高岡の宮とした。

 皇后としたのは神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の妹、
 五十鈴依媛(いすずよりひめ)。つまり叔母を皇后とした。

 綏靖天皇は日本書紀では84歳(古事記では45歳)で崩御した。
 神八井耳命はその29年前に薨去(こうきょ)したと書かれている。

 一方、日子八井命は日本書紀では、その名も見えない。
 古事記には名はあるものの、当芸志美々命の変では全く登場しない。

     ◇


http://www.sankei.com/west/news/160924/wst1609240002-n1.html

           <感謝合掌 平成28年12月31日 頓首再拝>

Re: 神武天皇(2) - fsfotmnxnMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:09:26

伝統板・第二
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