伝統板・第二

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人間は死なない - 夕刻版

2016/02/13 (Sat) 20:30:25

このスレッドでは、「生命の實相」第37巻幸福篇上における
今日(2月13日)の言葉をもとに、「人間は死なない」ものであるに関する情報を
集めてまいります。


《人間は死なない》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、その物質なる富が眼の前から
剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、
その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。
浄まり浄まったとき、本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死んではいないのであって、
彼が《生きた》程度に従って、より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

            <感謝合掌 平成28年2月13日 頓首再拝>

個人に宿る生命も不死なり - 伝統

2016/02/15 (Mon) 19:02:10


           *『生命の實相』第一巻・総説篇(P5~10)より


「生長の家七つの光明宣言」の第2番目

二、吾等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

に《個人に宿る生命も不死なりと信ず》とあります。


そして、この“個生命の不死”について、次の如く説かれております。


われわれの生命(たましい)が生きとおしであるという意味には2つあります。

(1)われわれの生命は宇宙の大生命(おやさま)の支流であって、宇宙の大生命に生かされている。
   さらにもっと適切にいいますれば、宇宙の大生命の流れと一緒になって流れているのであります。

   それだからその一つの支流(わかれ)であるところの自分の水(生命)が涸れようとも、
   その水は大生命の大きな流れに注がれて大生命と一緒にいつまでもとうとうと流れている
   という観方がその一つであります。

   (中略)

   「生長の家」におきましても死後ばかりでなく、現在肉体の生きているうちの
   われわれの生命も宇宙の大生命と一緒に流れているのであるから、この大事実を
   心の底からさとらせていただくことのよってわれわれ個々の生命(たましい)は

   いっそう深い生活ができ、安心と自信とをもってその日その日を明るく豊かに
   経済的にも肉体的にも生き切ることができると信じているのであります。


(2)しかしわれわれ個々(ひとりひとり)の生命(たましい)が、ただ流るる河の水の上に浮かべる
   波紋のようなものであって、肉体の死は個性として今までありしいっさいのすがたを
   消してしまって何一つ残らないようになるとしますならば、

   なんのためにわれわれは個性としてこの世に苦しんできたのか、われわれが切実に
   個性(ひとりひとり)として経験し、切実に個性(ひとりひとり)として生長を闘いとってきた
   ところの、その切実な個性感がただの幻影(まぼろし)であってウソであったということに
   なるのでありまして、

   どうもそれはおのおの個性(ひとりひとり)として特徴をもっているところの、
   われわれ生命(たましい)の必然の要求として不合理であることが直感されるのであります。

   ところがこのわれわれ生命(たましい)の必然の要求として認めねばならない肉体消滅後の
   個性生命の不滅ということが最近しだいに科学的に肯定されつつある「霊界通信」
   (スピリット・コミュニケーション)によって明らかになってきたのは喜ばしいことであります。

   (中略)

   「生長の家」では単に哲学的に肉体死後の生命(たましい)が大生命(おやさま)へ復帰しての
   不死を理屈づけして考えるだけではなく、霊界通信の事実によって
   「個人に宿る生命(たましい)の不死」をも信ずるのであります。

   われわれは生くるも死するも結局は生命(たましい)はほろびないで
   「無限生長の道」に乗せていただいていますので、

   各人ひとりひとりの「生命(たましい)」の生長に最もよいときに、それぞれふさわしい
   苦しみも、悲しみも、病気も、肉体の死も、生命創化の法則によってやって来るので
   ありますから、

   たとい苦しみが起こって来ましても、悲しみがやって来ましても病気になりましても、
   肉体が死んで腐ってしまいましても、この肉体に宿っている「生命(たましい)」は
   滅んではしまわないで、個々の人格の特性(個性)をそなえたまま、

   わたしはわたしとして、皆さんは皆さんとして、
   やはり「無限生長の道」をあゆんで行くことができるのであります。

   このことが信ぜられればもうどんな苦しみも悲しみも自己の無限生長の資料として
   いただいた皆ありがたい修行であると合掌して受け取らしていただき、感謝感謝
   で暮らすことができるようになるのであります。

            <感謝合掌 平成28年2月15日 頓首再拝>

永遠生命の死 - 伝統

2016/02/17 (Wed) 18:10:17


            *Web:「光の進軍」より
                 ~「永遠生命の死」仙頭 泰

「人間そのものの発見とその自覚」と題する谷口雅春先生の著書のなかに
「永遠生命の死」と題する御文章があります。

私たちは、人間は生き通しの生命と云いながらも、
どうもその把握の仕方がしっかりと分らないと云う人の為にこの御文章を中心に学習します。

  
『旧約聖書』の「創世記」にアダムとイヴの物語があります。
その中の第二章の十五節から十七節に次の様に書いてあります。

 
「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
『あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。
それを取って食べると、きっと死ぬであろう』」。

 
谷口雅春先生は、これが聖書にあらわれている最初の「死」の語であると云われます。

パウロは「罪の値は死なり」と言っていますが、ここに於ける「死」というのは、
決して肉体の死でもなく、霊魂が肉体から分離することでもないと述べておられます。

そして聖書における「死」というのは、
人間が、そのすべての幸福と、永遠の生命の源泉であるところの
神から、離れることの意味であると説明しておられます。

 
日本語の幸福という語は、「サキハエ」とも云って、
神なる本源から先に延長してきたものが、人間の本当の幸福である
ということを、意味しています。

つまり神と繋がっているときは、
永遠の幸福を得る事ができることを意味しているのであります。

さて、アダムとイヴですが、智慧の樹の果実を食べてしまいました。
ところが、この二人は肉体が死ななかったのです。
そして結果として、アダムとイヴは、エデンの園から追放されたのです。

 
このことで、神は方便に嘘をついたのであると説明する人もあります。
しかしこの場合の「死」とは「永遠の楽園」との隔絶、「永遠の生命」との隔絶、
そして「永遠の幸福」からの隔絶を意味していると、谷口雅春先生は教えておられます。

 
エデンの園を追放されたアダムとイヴはこの後、永遠の幸福から隔絶して、
「苦しみて子を産み、苦しみて食を得る」ことになるのであります。

パウロは「罪の値は死なり」と云いましたが、「罪」とは何かと言うことです。
生長の家では、人間の本来の神性をツツミ隠して、表現しないことを、
それを罪と云うのだと教えています。

ですから「罪」とは「神なる生命の本源からの隔絶」した状態と云うことになり、
これ即ち「死」ということになります。

 
谷口雅春先生は「死より生命に移る道」と題して、次のように述べておられます。
 
キリストは『わが言葉をきき、而してわれを遣わし給いし者を信ずる人は永遠の生命をもち、
かつ審判(サバキ)に至らず、死より生命に入れるなり』と言っています。

『われを遣わし給いし者』というのは神であります。
神との連関ができたならば、人は神の永遠の生命を得て、
死にいたることがなくなるのであります。

もっともこれは生命の永生(エイセイ)でありまして、肉体の永遠継続ではないのであります。

 
肉体は人間そのものではなく、地上におけるある期間の
使命を遂行するための道具に過ぎないのであります。

地上での使命遂行の期間を終わると、内部の生命が、その皮袋(肉体)を
補修しなくなりますから、肉体の摩滅消耗は補修せられず、病気のような状態をあらわして、
「人間」は「肉体」から分離し、肉体と云う皮袋は化学的分解をはじめるのであります。

「人間そのもの」は分解するのではないのであります。

「われを遣わしし者を信ずる人は永遠の生命をもち‥‥死より生命に入れるなり」
となるのであります。

霊魂は、肉体と分離した後、キリストの再臨まで霊界で眠っているという人もいますが、
最近では数多くの臨死体験者の記録が集められ研究されて、
その結果、霊界に移行した霊魂は、そこでの生活はしているのであります。
 
三次元の現世より、幽界にまづ移行することは聖経「天使の言葉」の中に、
「肉体を去りたる『念』は、その念の力にてなお一つの個性を持続し、
幽界に於いて生活をつづけん」とあります。

さらに次のように書いてあります。

「汝らの霊魂と称するもの是にして、『念』の浄まるに従って
それに相応わしき高き霊界に入り、『念』の浄まらざるものは、それに相応しき環境を
『念』の力にて仮作し、その環境にいて苦しまん」とあります。

私達は、生き通しの生命である限り、このように肉体を脱した後は、
霊の世界(広い意味での霊界です。霊の世界の区別は仏教や心霊研究者等により
区分の仕方があります)にて生活をするのであります。

霊の世界は、肉体人間の世界よりも一層ハッキリと念が具象化するのであります。
ですから、「正しい念」を正しく支配することを、今この三次元の世界に居るときに、
学ぶことは永遠の幸福の道を歩む前提になるのであります。

 
私達にとって大切なことは、今世において自己の本性を明確に自覚することです。
神の実在をハッキリと理解することです。

そして私達は、輪廻転生しながら
無限向上の道を歩み続けるものであることを知ることです。


エデンの園からの追放は、アダムとイヴが霊的自覚を喪失し、
唯物的な感覚の世界に落ち込んだ結果であります。

現代の多くの人々は、人間の五官の感覚のみを信じ、それに頼りきって生活をしています。
これではエデンの園から追放されたままの状態が連続した生活であります。

人間の霊性を覆い隠して、肉体の感覚のみでの生活は、「神性隠蔽」ということになります。

エデンの園即ち「永遠生命の国」に住むためには、「観の転換」がなされなくてはなりません。
360度の観の転換です。

大切なものは、物質的人間観を去って、霊的人間観への転換であります。

物質的人間観を持つ限り、その生活は「汝は一生のあいだ面に汗して食を得ん」
といった状態となり、疑心暗鬼の状態となり、この地上生活は「苦しみの場」
になるのであります。国際的には国家間の対立抗争につながるのであります。

 
霊的人間観に復帰して、人類全体が、自己の霊的実在に目覚めることは、
個人および人類全体の永遠の幸福につながる素晴らしい道であります。

                               (終わり)

http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/08eienseimei-no-shi.htm

            <感謝合掌 平成28年2月17日 頓首再拝>

人間は生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと」 - 伝統

2016/02/19 (Fri) 21:10:47


         *『光の泉』誌(昭和28年新年号)より

(1)昨年の十月、新潟県三條町の青年講師、小林昭三君が昇天したときのことです。
   実に此の青年は、霊魂の脱出をハッキリ自覚しながら、
   霊魂が肉体をはなれて天界に昇ったのです。

(2)岡山県の久山信也さんの昇天も、肉体が坐ったまま霊魂が昇天せられまして、
   肉体死後、「霊魂の存在を知らして下さい」とたのみますと、
   故障の起っていたラジオ・セットを、一夜のうちに修理して鳴るようにせられました。

(3)小林昭三君の霊も、霊の生き通しを知らして下さいと云いますと、
   サラサラと霊風が吹いて来て風もないのに小机の上の活花を下から上へと
   揺り動かして見せたと云うことであります。

(4)小林昭三君の荘厳なる霊の昇天

  ①昭三君は、肉体よりも霊魂に重点を措いて、肉体を道具として霊魂の進化をはかる
   と云うよりも、肉体をとび超えて霊魂だけ急速に向上しようと云うような烈しい性格の人
   でありましたから、肉体は徐々に霊魂から見棄てられて衰弱してまいりました。

   昭三君の母と春恵さんの心配は、若し昭三君に万一のことがあった場合には
   医者にかかっていないので死亡診断書が貰えないかも知れないと云うことでした。

  ②昭三君の肉体はますます衰弱してくるけれども仕事は一日も休まない。
   肉体は衰弱してくるに従って昭三君は霊魂が肉体から遊離し易い状態になっていたのであります。

   その昇天の四十日前頃から一種の霊媒的状態になり、指導を求めて来た人に対して、
   「神様が斯う被仰る」と云うような事を云って、それがピタリピタリと実現するのでありました。

   小林昭三君は時々、自分の霊が霊界に脱出して他の霊が入れかわって霊媒状態になり、
   霊のお告げをきかせるようになっていたのであります。

  ③昭三君の昇天の日、小林昭三夫妻の媒酌をした医学博士饒村祐一さんが来られました。
   時間の都合で帰る汽車がなくなり、饒村博士は昭三君宅へ一泊することになったのでした。

  ④(昇天前の昭三さんの言葉)

   「春恵、生長の家の霊人がこう被仰るよ。業が一瞬にして自壊する相(すがた)だよと。」

   「春恵、私の霊は肉体をぬけて終ったよ。肉体はただ惰性で生きているが、
   これも間もなく停止するよ。併し人間は死ぬのではない。」

   「春恵、心を取乱すな.人間は本来死はないぞ。
   不生不滅であって、生滅を超えた『本来生』なのだ。滅はないのだ。
   輪廻転生は素直に感謝して享けるのだ。
   現象に『人』はいないぞ。現象を相手にするな。」

  ⑤(昇天時)

   暫くして、三條から母が到着しました。
   「昭三君、大変楽しそうだね。」

   「はい、有りがとうございます」と昭三君は母の手をしっかり握って
   うれしそうな表情がその顔に浮ぶ。
   そして母に「お母さん私は疲れました。春恵も疲れている。ゆっくり眠もうのう。」

   「おお、その方が好いな。」と母はいたわるようにいいました。

   「お母、『甘露の法雨』を春恵から読んでもらう。」

   「昭三。春恵さんは疲れているから私が読んであげようなァ。」

   「そうねえ。春恵は疲れているな。そう、そんなら読まなくても大丈夫。眠まれるよ。
   もし眠めなかったらお願いしますよ」

   そう云うかと思うと、昭三君はそれっきりガクリと肉体の力が尽きる・・・・・・
   肉体の呼吸も脈拍も止ってしまったのでした。

   それは実に安らかな、しかし静寂にして厳かな生長の家信徒に往々にあるところの
   合掌して肉体が坐ったままの霊(たましい)の昇天でした。

(5)肉体死後も斯くの如く生きている

  ①春恵さんは、「人間、生通し」の真理を教えられていましても、
   肉体の死を見ると悲しくて涙が流れて来るのでした。
   そして寝棺の前に坐って合掌して昭三君の魂に呼びかけました。

   「お父さん。春恵は、お父さんを肉体だけだと思って、真理がよくわからないで、
   肉体の死をなげいて貴方のお棺の前で泣いているのです。

   どうか、これから『久遠いのちの歌』を読みますから、
   春恵に貴方が死んでいらっしゃらないことを、生きていらっしゃることを教えて下さい。」

   こう彼女は掻きくどくように云ってから『久遠いのちの歌』を読みました。

   『久遠いのちの歌』の終る頃になりますと、風もないのに、何と云おうか、
   春恵さんの頭の上にサラサラと輝く波のような軽く押すような波動が起こって
   しばらく彼女の頭を愛撫するように揺れるのでした。

   その瞬間、春恵さんの悲しみの感情はけし飛んでしまって黎明のように
   すがすがしい明るさが差し登りました。

   おそらく昭三君の魂の光明輝く歓喜の波が春恵さんの心を明るく
   照りかがやしたからでありましょう。

  ②霊柩の側には、加茂市からお伴して来た加茂山新田の小出タケさんが
   悲しげな表情をして坐って黙然していました。

   「タケにも、霊は生き通しだと云うことを知らして下さいと、
   小林先生の霊魂にお願いしてご覧なさい」と春恵さんは小出さんに云いますと、
   小出さんは、そのように黙然しました。

   またしても、美しいさらさらと気持のよい波動が小出さんの頭の辺に起ると、
   タケさんは急に霊前の小机の上に頭を押しつけられたような姿勢になって、
   気持よさそうに昏々と恍惚状態をつづけるのでした。

   あまりいつまでも昏々と恍惚状態を続けているので、春恵さんは小出さんの背中を叩くと、
   小出さんは、やっと恍惚した状態からさめて、
   「本当の霊魂の存在がわかりました」と云いました。

  ③そこへ三條会館の加藤マキさんがこられて、棺に向ってすすり泣いているのです。

   「マキさん、そんなに泣かないで、
   先生の霊に霊は生き通しだと云うことを知らせて頂きなさい」と春恵さんが云いますと、

   この時は、風もないのに小机の上に供養の花がヒラヒラヒラヒラと下から上に、
   下から上にと枝を昇って揺れつづけるのでした。

   「お父さん、よくわかりました。それでよいですよ、よくわかりました」
   と春恵さんが云いますと、供養の花は揺れるのをピタリと止めて、
   元のままの静さに復りました。


   このようにして、昭三君の霊は、みづから肉体から脱出することを自覚し、
   肉体から脱出た直後にも、ある働きを通じて、肉体は人間ではない、
   「生き通しの霊」こそ本当の人間だと云うことを知らせることが出来たのは、
   高級霊であった証拠であります。

(6)養嗣子の良一君の手遅れの盲腸炎が手術なしに治る

   (医者から手遅れ状態だとの診断があった頃)

   夕刻、高田から霊媒になれる人が春恵さんを訪れてまいりました。
   良一君の病床の側に坐ると、突然その人が、霊媒状態になりました。

   そして昭三君の声で、

   「春恵、良一が病んでいるな、私が治してやる。心配するな」と云いました。

   そして霊媒は眼を瞑っていて、良一君の身体が何処にどんな位置にあるか見えない筈だのに、
   良一君の盲腸の部分を軽く撫でて「病気はない。これでよい。起きて御覧」と云いました。

   良一君は起上がりました。

   やがて外科の医長が往診に来てよく診察した挙句、
   「とにかく現在では外科のものではありません。手術しないでよかったですね。
   しかし熱が熱だから、これは内科へ廻ってもらいたい」と云われました。


   春恵さんは、良一君をそのまま神様に全托して、安心し切って
   長岡市の生長の家講習会を受けに行かれました。

   帰って見ると、良一君は完全に平熱になり健康を回復していました。

   これも昭三君の霊魂が昇天せられてからの一つの奇蹟と云えば奇蹟であります。

(7)(谷口雅春先生の結語)

   新たに生れるとは、永遠に死なない「生命」が自分であって、
   自分と云うものは「肉体」でなかったと云う新しい自覚に新生することでなければ
   ならないのであります。

   ここに人間が新たに生れる鍵があるのであります。

   「われは復活なり、生命(いのち)なり、真理なり」とイエスは仰せられました。

   昭三君も死して、更に次の「生」へ復活して無限に向上しつつある生命(せいめい)
   であるのであります。

   (Web:光明掲示板・第一「小林昭三青年のこと (1767)」からの抜粋
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379 )

            <感謝合掌 平成28年2月19日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2016/02/21 (Sun) 19:01:34


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを友人鳥谷部君が
生活に困っているので、その紙型を差し上げて、原稿料も活字の組賃も不要で
鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから鳥谷部君は幾分か
これで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて『人間死んでも死なぬ』と題する本として出したのは、
戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、死の刹那に霊魂の幽体が
脱離する瞬間に撮った写真、その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の学長マッケンジー博士
(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって七圏に分かれている霊界を探検踏査して
そのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」霊界の第四圏にいたハーヴァード大学の
ウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)になったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、良人を、妻を、子を、親類縁者を
失える悲しめる遺族たちに贈ることは大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために戦死の報知を受け取ると同時に
カルモチンを致死量飲んだ令嬢が医者の手当で蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、
遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、
その3分の1は運命であり、3分の1は自己の決定により、その3分の1は霊界の高級の
霊魂人(スピリット)の運命の修正により避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、自殺は悪いとは思いません」と
主張するので、なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、自他を超越した神の目からは、自殺は
他殺と同じく殺人であると書いてあって、そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと
思って『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。
あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に自殺者の霊魂が
霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく
苦悶を継続しているのだというような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した
兵士の霊魂が、少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

               ・・・

<関連Web: 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか
        『生長の家』誌 13年5月号
        (2月27日 日曜日 本部道場に於ける講話) より

       (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
         → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 )


               <感謝合掌 平成28年2月21日 頓首再拝>

人間の最終的な運命 - 伝統

2016/02/23 (Tue) 19:23:29


     *「宇宙への体外離脱」ロザリンド・A. マクナイト(著)(P252~253)より

(1)人間の最終的な運命は、
   
   統合された自分、そして、最も高次である「神である自己」と
   同調できる状態に戻ることです。


(2)死後は、

  ①死とは肉体が魂が解放されることです。
   その時点で人間は自分の想念形態とエネルギーの波動に引きつけられます。

  ②あなたは、自分がこうであると思い込んでいる通りになり、
   自分が誰であるか気づくことができるまで、そのままでいます。


(3)天国は、

   天国は絶対の真実であり、実在しますが、
   マインドでつくられる概念とは違います。


(4)地獄は、

  ①煉獄や地獄は、人間が自分の非現実に閉じ込められていることを象徴しています。

  ②人間の内側の状況も外側の状況も自分が創造したものであり、
   一瞬で変えることができます。
   真実から自分を阻むのは自分自身しかいません。


(5)人間が究極の完全さ、完璧さを習得するには、

  ①人間はすでに究極の完璧さを会得しています。
   しかし、自分のまわりに幻想を生み出し、分裂と非現実の中で生きています。

   幻想により自分が究極の存在であることや、
   真の世界と一つであることが見えなくなっているのです。

  ②そこに完璧さはあります。
   人間によってつくり上げられた地球と時間の外に存在する解放された意識状態を
   選択するかどうかの問題なのです。
  

            <感謝合掌 平成28年2月23日 頓首再拝>   

死後の母(霊)との会話 - 伝統

2016/02/25 (Thu) 20:02:31


        *『人は死なない』矢作直樹・著より

(1)著者は、東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授にして、
   さらに東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長です。

   本書に書かれてあるような内容は、目新しいことではありません。
   これまで多くの宗教家やスピリチュアル研究家がすでに述べてきたことばかりです。

   されど、本書は、何と言っても、現役の東大医学部の教授で臨床医である著者が
   「霊」の存在を確信し、「人は死なない」と言い切ったところに最大の価値があります。


(2)(著者の体験)母の死

  ①著者の亡くなったお母さんは、3日間浴槽に水没していた。
   検視に立ち会ったときは著者のみであり、発見者の弟を含めて他の身内は誰も故人の
   顔を見ていませんでした。

   その故人の顔を、葬儀社のスタッフがさりげなく
   「白い布で覆って棺の小窓には出ないようにしましょう」と言って気遣ってくれました。

   これは、著者が「遺体の顔はどうするんだろう」と心配しかけたまさにそのとき、
   心中を読み取ったかのごとく絶妙のタイミングだった。

  ②「思えば、煩雑な諸手続きを代行し、傷んだ遺体をきれいに整えてくれた葬儀社という
   プロフェッショナル集団のおかげで、どれほど助かったことか。

   本当に、人は人に助けられている。
   我々医師は、患者やその家族にこれほどの心配りができているだろうかと、
   思わず考えさせられました」

  ③「遺体というのは不思議なものです。遺体は遺体でしかなく、単なる『モノ』でしかない
   わけであり、したがって執着するような対象ではないということを頭では理解していても、
   愛する者にとっては抜きがたい愛着を感じずにはいられないというのが、偽らざる本心
   です。

   おそらく、遺体への配慮は理屈ではなく、情として自然に出てくるものなのでしょう。
   『愛する人を亡くした人へ』という好著があり、自ら冠婚葬祭の会社を営んでいる
   一条真也氏は本の中で、

   葬儀とは『成仏』という儀式(物語)によって悲しみの時間を一時的に分断し、
   その物語の癒しによって、愛する人を亡くして欠けた世界を完全な状態にもどすこと、
   と願っています。私も、まったくその通りと思うのです」


(3)死後の母(霊)との会話

   私の友人に、Eさんという会社経営をしている60歳代の女性がいます。
   Eさんとは、電話でのやりとりは何回もしていたのですが、
   実際に会ったのは平成21年の3月でした。

   彼女は、非常に霊能力を持った人なのですが、
   自身の能力については長い間口外することがなかったそうです。

   しかし、私が本書を執筆することを話すと、自分のそれまでの体験や能力について
   話してくれました。その内容は非常に多岐にわたり、また実際に目撃しなければ到底
   信じられないようなことばかりなので、あえてここでは述べません。

   そのEさんから、平成21年3月のある日の朝電話がかかってきたのですが、いつもの
   率直な話し方と違って何かいいにくそうな気配なので私は訝しく思いました。そして、
   一呼吸置いてEさんが私に話した内容は、実に驚くべきものでした。

   Eさんは、言いました。
   「実は、あなたのお母様のことなんです」
   「はっ? 」
   「矢作さんとお会いした後からお母様が矢作さんのことを心配されて、息子と話したい、
    と私にしきりに訴えてこられるのです」

   それを聞いた私は、
   心中「ええっ、まさか」と驚き、俄には信じることができませんでした。 
   (交霊のことは知識としてはありましたが、いざ自分の身内となると驚きを禁じえません)

   「どうして母は私のことを心配しているのですか」と私が訊くと、Eさんは
   「矢作さんがお母様に、申し訳ない、という非常に強い思いを送っていらっしゃった
    からのようです」と言います。

   「どうしてそんなことが母にわかるのですか」
   「そういうふうにお母様がおっしゃっていますよ」

   私は、黙ってしまいました。確かに私は、生前の母に対して親孝行らしきこともせず、
   また晩年の母にも十分な対応をしてやれなかったことがひどく心残りで、
   毎晩寝る前にそうした悔恨の念を込めて手を合わせていました。

   そんな私の思いを知ってか知らずか、Eさんは「どうしますか?」と訊いてきました。

   (中略)

   結局、母との交霊はそれから2週間あまり後、3月の末にEさんの知人のFさんの
   お宅で行なうことになりました。
   (Fさんは審神者の役、Eさんを通して母の霊を降霊し、直接著者が話す)

   (以下は、交霊での、母の霊と著者とのやりとみのみに限定して紹介いたします)

   「直樹さん、ごめんなさいね、心配をかけてごめんなさいね、ごめんなさいね」
   「お母さん、私は元気でやっています。心配いりませんよ」

   「直樹さん心配させて本当にごめんなさいね」
   「私は元気で心配していないから大丈夫ですよ」
   「そう、それなら安心したわ」

   (著者が一息入れて、さらに話しかけました)

   「お母さん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど。
    お母さんは、どうして亡くなったの。すっと疑問だったんだけど」
   「心臓発作らしいの」

   「いつ亡くなったの? 薫(著者の弟)が電話をかけなかった日? それより前?」
   「薫さんが電話をくれなかった日には、もうこちらに来ていたわ。直樹さんが帰った
    日の夕方ね(注:5月6日、死体検案書に記載された日)」

   「亡くなる前に、同居をもっと強く勧めておけばよかったですかね?」
   「そんな必要はありません」
   「でも、最期はずいぶん不自由だったでしょう?」
   「それは、問題ではなかったわよ」

   (質問を続けました)

   「そちらでお父さんには会ったの?」
   「お父さんには会わないわ」
    
   そう言って、母は少し右下を向きます。
   それ以上の質問を拒むような雰囲気でしたので、それ以上は訊きませんでした。

   「お祖父さん、お祖母さんには?」
   「会ったわ」
   「伯母さんには?」
   「会ったわ」

   「ところで、どうして私がお母さんに申し訳ないと思っていることがわかったの?
    ずっと見ていたの?」
   「そうよ」

   「私が毎晩念じていたのも?」
   「そうよ」

   「そちらの居心地はいいのかな?」
   母は、嬉しそうに頷きました。

   「私(著者)がいつ頃そちらに行けるのか知らない?」
   「そんなことは訊いてはいけませんよ」


   「とにかく、こちらのことは本当に心配しないで」と、母は再び念を押しました。
   「わかりました。でも私が毎月行っている納骨堂へのお参りは続けていいでしょう?」
   「それは嬉しいわ」

   「お供え物をしなくてよろしいですか?」
   「ええ、要りません」

   「私(著者)は摂理を理解しているつもりなので宗教を必要としていないから、
    儀式らしいことを一切しませんがいいですね?」
   「それでかまいません」

   「じゃあそうするから、後のことは心配しないでね」
   「わかったわ、兄弟仲良くね」 
    母は安心したように、大きく頷きながらそう言いました。

   「大丈夫ですよ」
   「そう」
   「じゃあ、これでもうこちらには来ないんですね?」
   「ええ。お別れよ。元気でね」

   私は一瞬拍子抜けしましたが、万感の思いを込めて言いました。
   「お母さんも元気でいてくださいね。さようなら」

   ・・・

   交霊後、Eさんは
   「よかったですねえ。それにしてもすごくサッパリした方ですね」と、
   感動したように言いました。

   Fさんも呼応するように「本当に竹を割ったような人ですね」と言いました。

   ・・・
   
   通常、交霊を頼んでくる人(霊)は、現世の事柄に執着が強く、
   もっと感情的なやりとりになり、ときとして修羅場になるそうです。

   ・・・

   後日、Eさんから聞いた話では、交霊中は体の8割方が霊によって占められ、
   自分はかろうじて意識だけがあるような状態で、霊が勝手にしゃべるのを
   横で普通に聞いているといった感じだといいます。 


            <感謝合掌 平成28年2月25日 頓首再拝>  

アーネスト・ホルムス博士の霊界からの通信 - 伝統

2016/02/27 (Sat) 19:48:14


       *光明掲示板・第二「教祖の辿りついた霊界 (5945)」からの抜粋

(1)わたしは、ほとんど刹那に、私の肉体が霊魂から離れて、霊魂が自由になったことを悟った。 
   その自由の感じは現象界の言葉で言いあらわす事が不可能な種類のもので、
   以前にはこのような自由な感じを味わったことのない感じで自分は解き放たれのである。 

   そして私は自分が脱却した肉体を振り返ってみたとき、
   突然最早や自分が地上から絆が断たれており、地球に縛りつけられないでいることを知った。 

(2)私は、自分の想念が自分の周囲に引き寄せたのでもあるかのように多くの友達によって
   とりまかれている自分を見出したのであった。 
   これらの友達はみな本当に嬉しそうな表情をしているのであった。

(3)行くべきところへ到着して、私は、今のところ此のような世界に於いて
   生活しなければならないという存在の状態に自分を発見したのであった。 
   ・・・・・ それは思いもかけぬ世界であった。 

   これらの情景のすべては甚だ感動させるものがあるのである。

(4)あなた達が自分で考えてやったという決定が、実は、あなた達が気がつかないうちに、
   あなた達に差し延べられた多くの霊界の助けの手による優しい導きによること ・・・・・ 

   即ちそのすべては此処に住んでいる私たちの導きと処方とからでているのだ
   ということを恐らく悟ることはできないと信じている。

(5)私たち霊魂は幽的な存在ではなくて、きわめて現実的な存在である。 
   甚だリアルな触れることのできる世界に生きているのである。 

   あなた達は死すべきものであるが、私たちは死すべきものではない。 
   だから、あなた方が幽霊みたいな存在であって、吾々の方が生きているのだ

   ・・・・ あなた達は死者であり、私たちの方が生者であると言ってもよいかも知れない。

(6)私は、今人類が立つ時点がその終末期にあるのではなく、
   きわめて初期に立っているのだということを示唆して置きたいと思うのである。

   人間は今や、自分が誰であるか、何者であるか、
   何を為し得るかを発見しはじめているのである。   
   その回答は今や無限者の心の中から迸るように流れ出て来るのである。 

   人類はこの無限者の叡智の大なる饗宴から落ちこぼれる真理のパン屑を
   恰も飢えたる者の如く貪り食しているのである。

(7)私が今こうして最早や肉体的な存在でなく霊として生きていることが
   自分にとってどんなに悦ばしい事であるかを、
   私は言葉をもって伝えることはできない位である。 

   私が肉体の絆から解放されたことをどんなに感謝しているかを表現すべき言葉はない。

(8)死は地上の東雲めかけている “新しき日” についての真理を
   あなたたちにもたらす絶好の機会である。 

   またそれは人間が神の力にすべてをゆだねなければならない機会であり、
   真理がすべての人間を自由ならしめる時であり、そして長い世紀にわたって
   人類が住んでいた “愚かさ” に最早や縛られなくなる機会であるのである。

(9)あなたが将来得るであろう自由と真理を告げ知らすことを
   今から始めたとてあなたにとって余り早すぎるということはないと思う。 

   何故なら、この真理は至上最高の真理であるからである。


   (http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1205 より抜粋)

            <感謝合掌 平成28年2月27日 頓首再拝> 

大震災後の魂の行方~被災した魂たちとの会話 - 伝統

2016/03/10 (Thu) 20:29:28


今日は、3月10日。
明日は、3月11日。
5年前、東日本大震災が発生しました。

最近のテレビ等の報道を見ていると、風化が進んでいるようです。

いい意味での風化としては、受けた被害を過去へと流しつつあること。

悪しき意味での風化としては、教訓を忘れ、
現在の復興工事等へ批判の目を注ぎつつあること。


さて、このスレッド「人間は死なない」に関連し、
以前、あの東日本大震災後の魂の行方について、
本流宣言掲示板にて投稿したことがあります。

明日の3月11日を迎えるに当たり、
再度、その記事を紹介させていただき、
人間(魂)の不滅を確認していただければ感じております。



《大震災後の魂の行方~被災した魂たちとの会話 (7263)》 

  → 本流宣言掲示板「ヒア アフター(来世・あの世) 」
     http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1711

   
(1)東日本大震災での津波により落命したが昇天できない魂(7263)(日時:2012年03月03日)

(2)生き延びたご主人とのコンタクトを試みるが・・・ (7264)(2012年03月03日)

(3)生き延びた次女(乳児)の反応~トランスパーソナルなコミュニケーション (7265)
                        (日時:2012年03月03日)

(4)死んでも生きているって? (7266)(日時:2012年03月03日)

(5)家族への執着 (7267)(日時:2012年03月03日)

(6)次女(乳児)のスピリチュアルとしての存在 (7290)(日時:2012年03月04日)

(7)被災時の前後の状況~魂の肉体からの脱出 (7291)(日時:2012年03月04日)

(8)霊界からのお迎え (7292)(日時:2012年03月04日)

(9)お迎えを拒絶し、地上に魂のまま戻ってしまった (7293)(日時:2012年03月04日)

(10)地上に戻ることができたのは、 (7294)(日時:2012年03月04日)

(11)スピリチュアルな存在としての次女(乳児)の意思 (7314)(日時:2012年03月05日)

(12)父親の魂のお迎え (7315)(日時:2012年03月05日)

(13)先立った息子の魂との再会 (7316)(日時:2012年03月05日)

(14)昇天していた魂からの依頼 (7421)(2012年03月09日)

(15)光の指導霊との対話 (7422)(2012年03月09日)

(16)大震災はなぜ起ったのか (7423)(2012年03月09日)

(17)この世に生まれてくる目的とは? (7424)(2012年03月09日)

(18)大震災を受けて、日本の果たすべき役目 (7456)(2012年03月10日)

            <感謝合掌 平成28年3月10日 頓首再拝> 

子どもたちの自殺 - 伝統

2016/03/12 (Sat) 19:05:16

新聞やテレビの報道を見ると、中学生、高校生の自殺が目に付きます。

例として、
広島県府中町立緑ヶ丘中学校で、2015年12月に学校側のミスで
15歳男子生徒が自殺していたことが発覚。

とありました。

少し、自殺した霊に関する情報を紹介してまいります。

今回は、『天国の家族との対話』武本昌三・著からの紹介です。

        *『天国の家族との対話』武本昌三・著(P269~275)より


23-a 一人で逝ってしまった息子を案じて(来信)   (2011.06.10)

初めてメールを送らせていただきます。
こんな個人的な内容で大変失礼な事と承知しておりますが、ご無礼をお許し下さい。
 
今年になってまもなく息子を自殺で亡くしました。
前日までいつもと変わらず接していたのに・・・どうして?
なぜ私の息子が? 信じられませんでした。
 
自分を責める毎日・・・どうしたらいいのかわかりません。
あの日から息子に会いたくて、会いたくて、いろいろなサイトを探しているうち 
武本先生のホームページに辿り着きました。
 
ワイス博士の本 (まだ全部読んではいないのですが)や、
シルバー・バーチ (これもPC上だけなのですが)その他もいろいろ読みました。
でも何を見ても自殺者はあの世へ行っても何十年、何百年も苦しむとのことでした。

この世に生まれてくるときすべて計画を立てて生まれてくるという事は、
自殺であってもそうなんでしょうか?
この世に偶然は存在しない、すべて必然のことなのでしょうか?
 
私が思っていることは、今息子は苦しんでないだろうか?
自分でしてしまったことを悔いていつまでも死んだことを自覚できずに苦悶しているのではないか?
毎日毎日そのことばかりです。
 
もし私がこれから何年後、何十年後、時が来てあちらの世界に行った時、
息子に会う事が出来るのだろうか、とも思ったりします。
 
また私があの世へ行った時、息子は生まれ変わっていて会う事ができなかったりもするのでしょうか?
あの子に会いたくて、会いたくて・・・・今はただ辛い毎日を送っていますが、
あの子をまだ感じることはありません。
 
知りたいだけなのです!
今僕は苦しんでないよ!
大丈夫だよ!

という声が聞きたいだけなんです。

本当に私自身がそれを感じられたら、
この地上での生活に耐えていけるような気がするのです。
 
何か殺人よりも自殺した者たちの方が罪なような言い方をされるのは、
残された家族にとってとても耐えがたいものなのです。
 
でも息子は病気だったのです。うつ病という・・・・・私にとって明るくて優しいいい息子でした。
宝物です。その息子が苦しんでいるなんて思いたくないんです。
 
夢中で先生にこのような事をメールしてしまいました。
お忙しことと知りながら大変申し訳ありません。
武本先生,そしてご家族のご健康を心からお祈り申し上げます。(S. A.)



23-b 霊的真実を知ることで癒される悲しみ (返信)   (2011.06.11)

ご子息を亡くされてお苦しみのご様子、お察し申しあげます。
このメールでは、あなたがどのような返事を期待しておられるか、
分かるような気がしておりますだけに、お答えの仕方をいろいろと考えさせられています。


一般的には、自殺は、自分が選んで生まれてきた地上生活を勝手に終わらせるわけですから、
魂の成長にとっては決してプラスにはなりません。これは誰にもわかることです。

地上生活はよく学校に例えられますが、いわば、自分で選んで入学した学校を、
卒業を待たずに退学してしまうようなものです。
 
だから、この場合、これも一般的には、もう一度生まれ変わって、
前回の経験を活かし、今度は挫けずに卒業まで学び続けていくことになります。


ただ、自殺した者は、すべて、あなたが書いておられるように、
「あの世へ行っても何十年、何百年も苦しむ」ということはないでしょう。

シルバー・バーチも、
「自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではない」と言っています。

一番大切なことは、なぜ自殺したのかという動機です。
それから、自殺者の死後の生活も、その人のそれまでの生き方や、霊的進歩の程度によっても、
いろいろと変わってきますから、一概には言えません。
 
全米でベストセラーになった『もういちど会えたら』という本の中で、
著者で優れた霊能者であるジェームズ・ヴァン・プラグは、
自殺はたしかに不適当な行為ではあっても、例外があるといって、つぎの2つをあげています。

(1)精神異常や生化学的アンバランスのある個人によって自殺が行なわれた場合。
   このような状況では、本人が自分の決断を完全には理解していません。

   彼らが亡くなると、一種の〝施設″のようなところに入り、そこで精神状態が癒やされ、
   魂本来の適切な状態を取り戻します。

(2)第二の例外は、適切な時機が来る前に物質界に戻ってしまった魂で、
   本人がまだ未熟なためにレッスンを学びきれない場合です。

   自分ではそれなりの力があると思ってはいても、
   実際に地上に来てみるとどうも落ちつけません。

   こうした欠陥を持つ場合、死ぬ前にしばしば次のような言葉を言い残します。
   「ぼくは合わない」とか「わたしには今はふさわしくないと思う」といった言葉です。
                 (中井京子訳、光文社、1998、pp.157-159)

 
私は霊能者ではありませんから、この問題ではジェームズ・ヴァン・プラグのような人に
頼らざるを得ないのですが、その彼は、「自殺にはそれぞれに異なる事情がありますから、
この間題には単純な解決法などありえないことをまず理解してください」といっています。
 
そしてその後で、しかし、そうした「過ちを犯した人」でも、助ける手だてはあると、
次のように述べています。私たちは、霊界にいる家族とは決して無関係で生きているわけ
ではないので、これは貴重な助言ということになるのかもしれません。

 
・・・そうした死者たちには私たちの思いをこめて話しかけるしか方法はありません。
まず、相手に想念を送り、物質界に戻ろうとして無駄なエネルギーを使うのはやめなさい
と語りかけます。

彼らもすでに肉体から離れていることにきっと気づくでしょう。

次に、愛と平穏と許しの念を伝えます。
このような美しい思いを伝えることで、悩める霊たちも慰められ、
自分の置かれた状況に対する認識を深めるにちがいありません。(前掲書、pp.159-160)

このような、霊的な学びが大切であることはいうまでもありませんが、
悲しみや嘆きが、愛する家族との間に、大きな厚い壁を作ってしまうことも
知っておく必要があります。
 
私は、自分が長い間悲しんできて、
そのために、霊界の家族に余計な心配をかけてしまいました。

やはり、知らないということは怖いことで、熱心に学び続けているうちに、
必ず光に辿りつくことを、強く信じていきたいものと思います。
 
それから、自殺は、よく知られているように、そんなに稀なことではありません。
私たちも、永遠の生命のなかで、何十回、何百回と、輪廻転生を繰り返しているうちに、
どこかの人生で、誰もが、一度や二度は自殺や自殺未遂があったかもしれないのです。
 
確かに、自殺はよくないことですが、過ちを犯してもやがてそのことに気がつき、
その後の輪廻転生の中で、その経験を活かしてより充実した生活を築き上げることも
十分にありうるはずです。

一度失敗したら、もうそれだけで絶望しなければならないことは決してないでしょう。
 
私の長年の知人で、現在、映画制作のディレクターをしているTさんという方がいます。
優れた霊能者で、自分の過去生のうち、自殺したことも、殺されたことがあったことも、
思い出すことが出来るといいます。
 
もちろん、それ以外の過去生では、それぞれに生を全うして霊界へ還っているわけで、
今生では、おそらく誰からも、Tさんは霊性に目覚めて充実した生活を送っている、
と思われていることでしょう。
 
あなたはメールで、自殺も必然か、と聞いておられますが、
その前に、お子さんを亡くすことにも意味があることを知らなければならないでしょう。

霊界での再会もそうですが、私のホームページだけでも、「学びの栞」などに、
学ぶべき資料は、数多く用意してあります。
 
冷たいと思われるかもしれませんが、実は、そういう資料によって、
自分で答えを見つけ出していくことが、あなたには求められていることを、
何よりもまず、どうぞご理解ください。
 
あなたのお悲しみが、これからの学びによって、少しずつでも確実に癒されていくことを、
こころからお祈りしています。

・・・

<参考Web:『天国の家族との対話』武本昌三・著

(1)光明掲示板・第三「大韓航空機撃墜での犠牲者からの霊界通信 (740)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=168

(2)光明掲示板・伝統・第一「大韓航空機撃墜での犠牲者からの霊界通信」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=57  >

            <感謝合掌 平成28年3月12日 頓首再拝> 

《霊的な観点から見れば自殺は間違いである》 - 伝統

2016/03/17 (Thu) 18:11:32

 
      *「もういちど会えたら」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P154~156)より

この地上は、ほかで体験しえない人間のさまざまな要素や諸相を経験する場所です。
それは成長の場であり、その成長は決して容易ではありません。

現在生きている人びとの大半は、生存を危うくするような不安にたえずさらされています。
金融、雇用、あるいは、感情面、健康面での心配事に責めたてられているのです。

こうした悩みにはしばしば自己破壊の感情がつきまといます。
こんなことには耐えられない、死んだほうがましだ、と思うのです。
 
多くの人が生きているあいだに少なくとも一度は自殺の衝動に駆られたとしても
なんら不思議はないでしょう。
けれども、この感情は状況の変化によって生まれたり消えたりするのです。
 
自己破壊の概念に取りつかれ、みずから命を絶とうと試みるタイプの人間は
一般に次のカテゴリーに分かれます。

(1)抑制力の強い性格で、その抑制が効かない状況におちいったと感じる場合。

(2)非常に否定的な自己イメージを持つ人物。
   社会になんら貢献していないと感じ、自分が無価値な人間に見える。
   この地球には自分のような存在はないほうがいいと考える。

(3)致命的な病気にかかり、苦痛と死の不安に耐えきれない場合。

(4)精神的に病んでいるか、あるいは、生化学的アンバランスがある場合。

 
ある種の感情や状況、もしくは、信念によって、
みずから命を絶つことが最も正当な道だと考えてしまう場合は確かにあるでしょう。

しかし、霊的な観点から見れば、それは間違っています。

わたしたちにはそれぞれ生まれながらの運命があります。
わたしたちのカルマ的運命はわずか1カ月の命かもしれませんし、
35年、あるいは、80年の命かもしれません。

この地上に戻ってくる前のわたしたちは、新生と肉体的経験の強い願望で満ちあふれていました。
そして、心霊的ネットワークに組み込まれたタイミングでこの現世に入ってきているのです。

命を途中で絶つとわたしたちの肉体は存在しなくなりますが、
この世との磁気的な絆はまだ働いていることを忘れてはいけません。

あらかじめ運命として定められた物質界での時間を完了しないことには、
この絆は切れないのです。

聖書に書かれているとおり、「何事にも時がある」ということです。

            <感謝合掌 平成28年3月17日 頓首再拝>

《自殺しても魂は不滅で後悔と罪の意識に苦しむことになる》 - 伝統

2016/03/19 (Sat) 18:20:38


    *「もういちど会えたら」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P156~157)より

人が自殺してまず気づくのは、自分が死んでいないということです。
この世との絆をまだ引きずっているわけですから、
ひどく重いという著しい違和感を感じます。

人間としての存在は死んでも、不滅の魂は死なないのです。
この魂は物質界と霊界のあいだで行き場を失ってしまいます
―― 生きてはいても、愛する人どころか誰とも交信できないのです。

魂はみずから命を縮めてしまったことで罪の意識にさいなまれ、苦悩します。
自分の運命を知り、もし今も生きていたらどれほど有益で意義のある人生を送っていることか、
と思い知るのです。

自殺に駆り立てられるほどの特異な体験をなぜしなければならなかったのか、
霊となってみてその理由に気づきます。
あとに残された人びとの悲しみと怒りもわかるようになります。

そして、なによりも不幸なのは、宙ぶらりんの状態になっていることです。
天界に行くこともできなければ、物質界に帰ることもできません。
 
どっちつかずの“中間領域”で身動きが取れないまま、
自分の恐ろしい行為を繰り返し思いだすのです。

自分の死にざまを何度も何度も見ます。
まるで不快な映画のようです。
その映画館に閉じ込められていて、逃げ場はありません。

自殺で死んだ場合、自分の行為を覚えている霊もなかにはいますが、
多くは自分の死すら認識できないでしょう。
一般に、こうした魂は自分の最後の死にざまを機械的に何度も繰り返します。

自殺という行為は果てしなく循環する環となり、陰惨なものになりかねません。
しかし、やがては、こういった霊も物質界での死に気づくときが来ます。

            <感謝合掌 平成28年3月19日 頓首再拝>

《自殺をすると魂は現世での体験をやり直すことになる》 - 伝統

2016/03/21 (Mon) 18:31:42


      *「もういちど会えたら」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P157~159)より

どんな行為にもいわゆる動機という強い力が働いています。
単に自殺だけでなくあらゆる行動の決定的要因となるのがこの動機です。
動機によって行動が現われます。

わたしたちは動機に基づいて行動を起こします。
たびたび述べているように、因果という自然の法則があります。
言い換えれば、行動は動機の直接の結果です。
 
不治の病いにかかった病人や老齢者の場合、絶望し、
家族に時間や金銭的な負担、心労をかけないために自殺したいと考える人がいます。
こういう人びとは、自分の行為がもたらす霊的な側面に気づいていないのです。

おそらく、家族のメンバーたちは物質界に来る前から、
グループとしてのカルマを解消するために状況設定をしていたのでしょう。
あるいは、彼らには病人の介護という体験が必要だったのかもしれません。

なかには、介添えを受けた自殺は好ましいと主張する人もいます
―― それによって苦痛が終わり、尊厳のある死が迎えられるからです。

しかし、いったい誰に神を演じることなどできるのでしょうか?
カルマを消すために魂があえて不治の病いを体験していたかもしれないではありませんか? 

現世での本来の時間を勝手に縮めてしまうと、何か貴重なことを学べるはずだったのか、
そういった体験が新しい霊的段階に至るために必要だったのか、わからなくなってしまいます。
 
いずれにしても、自殺という現象が起きると、魂はあらためて体験をやりなおし、
別の転生に同じような病気を持ち越さねばなりません。
ただし、前世でその一部を経験しているので、今度の病気は前ほど過酷ではないでしょう。
普通、魂は二度とかからないために病気を完全に消化しなければならないのです。
 

自殺は不適当な行ないですが、例外がふたつあります。

(1)精神異常や生化学的アンバランスのある個人によって自殺が行なわれた場合。
   このような状況では、本人が自分の決断を完全には理解していません。

   彼らが亡くなると、一種の〝施設″のようなところに入り、
   そこで精神状態が癒やされ、魂本来の適切な状態を取り戻します。

(2)第二の例外は、適切な時機が来る前に物質界に戻ってしまった魂で、
   本人がまだ未熟なためにレッスンを学びきれない場合です。

   自分ではそれなりの力があると思ってはいても、
   実際に地上に来てみるとどうも落ちつけません。

   こうした欠陥を持つ場合、死ぬ前にしばしば次のような言葉を言い残します。
   「ぼくは合わない」とか「わたしには今はふさわしくないと思う」といった言葉です。

 
成長し、学習することが魂の本質ですので、克服や埋め合わせをするための
特殊な状況をわたしたちはつねに人生に持ち込みます。

現世にいるあいだは、肉体的、精神的、あるいは、感情的苦痛を体験するのがあたりまえで、
自殺したからといってそうした苦痛が消えはしないのだとわかれば、
間違いなく自殺は減るでしょう。

わたしたち自身、それを学ばねばなりません。
そして、特に若い人びとに自殺の“過ち”を教え、
人生を充分に生きる責任について知らせなければならないのです。

            <感謝合掌 平成28年3月21日 頓首再拝>

《自殺者の全員が同じ過ちを繰り返すなと警告する》 - 伝統

2016/03/23 (Wed) 18:05:53

      *「もういちど会えたら」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P159~159)より

大勢の人から質問を受けます。
自殺した人物の遺骸はどうすればいいのか、と。
遺骸はただの抜け殻です。

外へ抜け出たとたんに魂はもはや抜け殻にはなんの愛着も感じません。
着古した服のようなものです。

自殺や悲劇的な事故の場合、遺体を火葬にすることが大切です。
魂がまだこの世に未練を残していたとしても、火葬ならすばやく遺体が処分され、
霊も物質界とのつながりを感じなくなるでしょう。

そのほうが新しい状況を受け入れやすくなります。
 
自殺にはそれぞれに異なる事情がありますから、
この間題には単純な解決法などありえないことをまず理解してください。

しかし、恐ろしい過ちを犯した人びとを助ける手だてはあります。
そうした死者たちにはわたしたちの思いをこめて話しかけるしか方法はありません。

まず、相手に想念を送り、物質界に戻ろうとして
無駄なエネルギーを使うのはやめなさいと語りかけます。

彼らもすでに肉体から離れていることにきっと気づくでしょう。
次に、愛と平穏と許しの念を伝えます。このような美しい思いを伝えることで、
悩める霊たちも慰められ、自分の置かれた状況に対する認識を深めるにちがいありません。


自己破壊という行為の裏にはさまざまな理由があるわけですが、
しかし、その結果はすべて同じです。

わたしはいろいろな霊と交信していますが、今日までひとりとして、
自分の決断に満足しているとか、ふたたび同じ行為を繰り返すだろうと語った霊はいません。

むしろ、まったくその逆です。
自殺者は自分の魂に対して犯罪を犯したという後悔の念を一様に持っています。

全員が口をそろえて、同じ過ちを繰り返すなとほかの人びとに警告するのです。
自殺行為によって彼らの霊的進歩は遅れ、
そんな自分をなかなか許せなくて苦労しているのです。

            <感謝合掌 平成28年3月23日 頓首再拝>

《自殺は一生をかけて積みあげた多くの善を棒に振る》 - 伝統

2016/03/24 (Thu) 17:35:55


       *「輪廻を超えて」ジュディー・ラドン(著)(P45)より

つぎはもうひとつの暴力による死、自殺だ。
他人の命を奪うのと同じく、自殺にも心の迷いが関わっている。

自殺行為によって、一生をかけて積みあげた多くの善を棒に振ることになるので、
こちら側にいるわたしたちはいつも、そのような結論に達した者の人生を見ては心を痛めている。

自殺には情状酌量の余地はまったくない。
高次の魂はつねに当人の最大の利益を考えているから、意識的にみずからの命を
奪おうと決めることは、心のより深い部分から生まれる直観とは相容れない。

もしある人にとって死ぬことが最善であれば、
病気やはっきりとした事故というかたちで自然に○ねるよう、
魂が「取り計らう」のである。

     *○:死

これはみなさんの世界ではきわめて理解しがたいことかもしれないが、
すべてのできごとには目的がある。
不幸なできごとには、人間の意志を行使した結果生じるものもある。

あらゆる事件の背景には、人間を理解し学ぶという偉大な目的があるのだ。
多くの死はある意味で、地上に残った人びとに対して劇的な効果をもたらす教訓なのである。

            <感謝合掌 平成28年3月24日 頓首再拝>

自殺した霊の行方 - 伝統

2016/03/27 (Sun) 18:48:05


            「シルバーバーチの霊訓」より抜粋要約


(1)自殺行為について

  ①自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。
   もしもそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。
   それが自然の摂理なのです。

  ②目の前の障害物はその人の性格と霊の発達にとって必要だからこそ
   与えられているのですと申し上げたいのです。

   苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。
   それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。

  ③人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、
   誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。

   物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、
   それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。

  ④自殺者の大多数は私に言わせれば【臆病者の避難行為】であると言ってよいと思います。
   果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、
   つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと
   考えるわけです。

   しかし、背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。
   なぜなら、その荷はみずからの〝悪業〟がこしらえたものだからです。

   いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。
   その気になれば必ず光が見えてきます。
   魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。

   責任を全うしようとしたことが評価されて、
   その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。



(2)自殺者は死後どのような状態に置かれるのか

  ①それは一概には申し上げられません。
   それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。

   開発された霊的資質によって違ってきます。
   魂の発達程度によって違ってきます。

   そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。

  ②地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。
   が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に“永遠”に
   閉じ込められるわけではないと申し上げているのです。

  ③自殺者の大多数である【臆病者の避難行為】者は、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。
   そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。

   その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。
   その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。

  ④一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、
   つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、
   たとえそれが思い過ごしであったとしてもさきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。

   それでも、あなたの魂はあなた自身の行為によって懲罰を受けます。
   みんな自分で自分の人生を書き綴ってるのです。
   いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。

   ごまかしはきかないのです。
   自分で自分を処罰するのです。
   その法則は絶対であり不変です。

  ⑤人間には絶対的条件下での自由意志が認められております。
   定められた人生模様の枝葉末節なら変えることができますが、
   その基本のパターンそのものを変えることはできません。

   定められたコースを自分で切り抜けていかねばなりません。

   ただ、地上の人間は一人の例外もなく、
   絶対的支配力である霊力の恩恵にあずかる機会が与えられております。

   みずから求めるのでないかぎり、永遠に暗闇の中で苦しめられることはありません。
   何よりも動機が最優先されます。
   その行為が正しいか間違っているかは動機いかんに掛っているのです。

   その摂理は動かしようがありません。


(3)「ノイローゼによる自殺と原因」

  ①確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、
   そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において
   私がさきほどから言っている、【責任からの避難】の心理が働いていたのです。

  ②もしもその人が何かにつまずいた時点で“自分は間違っていた。やり直そう。
   そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう”と覚悟を決めていたら、
   不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。

  ③ところが人間というのは窮地に落ちるとつい姑息(こそく)な手段に出ようとするものです。
   それが事態を大きくしてしまうのです。
   そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。

   ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。
   問題はスタートの時点の心構えにあったのです。


(4)「仮りに真のよろこびと幸せを感じながら自殺したらどうなるでしょうか」

  ①その場合は動機が【自己中心的】ということになります。

  ②大自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。
   蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。

   動機がすべてを決定づけます。


(5)「最愛の伴侶に先立たれて生きる希望を失った人が
   自ら命を立つということは許されるものでしょうか」

  ①許されません。
   因果律という摂理の働きは完璧ですから、それに忠実に生きなければなりません。

  ②摂理というのは完全なる愛である大霊によって統制されており、
   すべての中に存在すると同時に全てのものを通して働いております。
   その働きに干渉する権利を有する者はいません。

  ③もしも干渉して自殺すれば“それなりの代償を支払わねば”なりません。
    例えば熟さないうちにもぎ取ったリンゴは美味しくないように、
    寿命をまっとうせずに無理やりに霊界へ行けば、
    長い調整期間の中でその代償を支払わねばならなくなります。

  ④その上、その伴侶はもとより、他の縁のある人々とも会えなくなります。
   (利己的な波動によって)周囲にミゾをこしらえてしまうからです。


   (http://sbspswhaf.net/sp-Jisatsu.html より抜粋要約)

            <感謝合掌 平成28年3月27日 頓首再拝>

自殺した男は、自分が死んだことに気づかず、死後も苦しみ続けている - 伝統

2016/03/29 (Tue) 19:53:21

        *:「天国と地獄」アラン・カルデック著(P162~168) より

(公衆浴場で自殺をした50代の男からのメッセージです。
死後の6日後に招霊されました。)


 ――  いま、あなたはどこにいますか?

「分かりません……。
ああ、私がいまどこにいるのか教えてください」


 ―― あなたは、いま、霊実在論を研究している人々、
    あなたを好意的に迎えようとしている人々のあいだにいます。


「私はまだ生きているのですか……。
棺桶の中で窒息しそうです」

               ・・・

   彼の魂は、肉体から離れたとはいえ、いまだに混乱したままである。
   地上で生きていたときの感覚が強くて、自分が死んだとは思えないのである。

               ・・・


 ―― どうして自殺などしたのですか?


「では、私は死んでいるのですか……。
いや、そんなことはない……。
まだ、体の中にいますから……。

私がどれほど苦しいか、あなたがたには分からないでしょう。

ああ、息が詰まる!
誰か、優しくとどめを刺してくれないだろうか?」


 ―― どうして身元を確認できるようなものを何も残さなかったのですか?


「私は、みなに見放されたからです。
苦しみから逃れようとしたのに、これでは、まるで拷問です」


 ―― いまでも身元を知られるのはいやですか?

「ええ、どうか、血が噴き出している傷口に、
赤く焼けた鉄を押しつけるようなまねはしないでください」


 ―― お名前、お年、職業、住所を教えていただけませんか?

「いやです! どれも教えたくない」


 ―― 家族はおありでしたか? 奥さんは? 子供は?

「私は、みなから見放されたのです。もう誰も愛してくれません」


 ―― どうして、そんなことになったのですか?

「ああ、どれくらい多くの人が私のようになっていることだろう・・・。
家族の誰からも愛されなくなってしまった・・・、もう誰にも愛されないんだ! 」


 ―― いよいよ自殺をしようとした時、ためらいはなかったのですか?

「とにかく死にたかったのです・・・。
疲れ果てていたので、休息が欲しかった」


 ―― 将来のことを考えて思いとどまる、という可能性はなかったのですか?

「私には、将来は、もはやありませんでした。
希望をすっかり失っていたのです。
希望がなければ、将来のことなど考えられません」


 ―― 生命が失われる瞬間は、どんな感じがしましたか?

「よく分かりません。私か感じたのは・・・。
だいたい、私の生命はまだ失われていません・・・。
私の魂は、まだ体につながっています。
ああ、蛆虫が私の体を食っているのが感じられる! 」


 ―― 死が完了したとき、どんな感じがしましたか?

「死は完了しているのですか? 」


 ―― 命が消えていくときは、苦しかったですか?

「その後ほどは苦しくなかった。
そのとき苦しんでいたのは体だけだったから」


 ―― (聖ルイの霊に対して)

    この霊は、「死の瞬間には、その後ほどは苦しくなかった」と言っていますが、
    これはどういうことですか?

「死の瞬間に、霊が、その生の重荷から解放されつつあったのです。
そういう場合には、解放の喜びが死の苦しみにまさることもあります」


 ―― 自殺した人の場合、常にそうなるのですか?

「必ずしもそうではありません。
自殺した人の霊は、肉体が完全に死ぬまでは、肉体に結びつけられたままです。
それに対して、自然死は生命からの解放です。

自殺は生命を破壊することなのです」


 ―― 意志とは無関係に、事故で亡くなった場合でも、同じなのですか?

「いいえ・・・。あなたは自殺をどう考えているのですか?
霊は、自分のやったことに対して責任を取らされるのですよ」


               ・・・

   この状態は、彼が、この新たな状態について、
   しっかり理解するまで続くだろう。

   この状態は、いずれにしても、つらいものである。
   なぜなら、それは不完全な状態であるために、
   霊をある種の不安定な状態に投げ込むからである。

   上の例では、蛆虫が体を食っている感覚があるだけに、
   苦痛はより激しいものとなっている。

   さらに、その状態は、彼が命を縮めた年数分だけ続くことになるので、
   いっそう、つらいものとなるだろう。

               ・・・


   こうした状態は、自殺者において、一般的に見られるものであるにせよ、
   常にそうであるとは限らない。

   特に、苦しみの強度と期間は、自殺者の犯した過ちの大きさに左右される

               ・・・

   また、蛆虫の感覚や、体が腐敗していく感覚も、
   自殺者特有のものであるとは言えない。
   
   それは、精神的に生きず、ひたすら物質的な享楽を求めて生きた人間が
   死んだときに、よく見られるものである。

   要するに、罰せられない過ちはないということである。
   しかし、罰の与え方に、画一的な普遍的な法則はない。

               ・・・

            <感謝合掌 平成28年3月29日 頓首再拝>

息子が徴兵されることを恐れて自殺した父親は、死後も苦しんでいる - 伝統

2016/04/01 (Fri) 19:40:30


        *:「天国と地獄」アラン・カルデック著(P168~174) より


戦争が始まり、息子が徴兵されるのを恐れて、
自分が亡くなれば、母子家庭で息子が戦争に行く必要がなくなると考えて、自殺した男。

1年後に招霊された。


「ああ、ありがとう! 私はとても苦しんでいます」


あなたは「苦しんでいる」とおっしゃいました。

おそらく、自殺したことは間違いだったのでしょう。
しかし、自殺の動機そのものは悪くはなかったのですから、
その点は斟酌されるのではないですか?


「確かに罰の期間は短くなると思います。
しかし、行為そのものがよくなかったことに変わりはありません」


どのような罰を受けているのか、教えていただけませんか?


「魂と肉体の両面で苦しんでいます。
肉体がもうないにもかかわらず、苦しんでいるわけですが、
これは、ちょうど、手術で手足を切断したにもかかわらず、
なくなった手足が痛むように感じられるのと同じです」


あなたは一人息子のことを思って自殺したわけですが、
ほかにはまったく動機はなかったのですか?


「父親としての愛が動機となって、私は自殺しました。
それが唯一の動機だったのは事実です。
ただし、いかなる理由があるにせよ、自殺することは間違いです。
もっとも、この動機が斟酌されて、罰の期間は短くなるでしょうが」


苦しみがいつ終わるのか、予測がつきますか?


「予測はつきません。
しかし、それが終わることは分かります。
そのために、気持ちが楽になるのは事実です」


聖ルイの霊に対して

この霊のなしたことについて、どのように評価しておられるのかをお聞かせ願えますか?


「この霊の苦しみは、正当なものです。
というのも、彼には神への信頼が欠けていたからです。
神に対する信頼の欠如は、常に処罰の対象となります。

もしも、『息子を死の危険にさらしたくない』という立派な理由がなかったとしたら、
罰はもっと長くて恐るべきものとなっていたでしょう。

神は、真の動機をご覧になります。

そして、その人の行ったことに応じて、
正当に評価し、どう扱うかをお決めになるのです」


一見しただけでは、この自殺は正当なものであるように思われるかもしれない。

自己犠牲の行為と考えられるからである。
確かに自己犠牲の行為ではあった。
しかし、完全なる自己犠牲ではなかった。

というのも、聖ルイの霊示にもあるように、
この男には、神に対する信頼が欠けていたからである。

みずからの行為によって、彼は、息子の運命をさまたげた。

まず、息子がこの戦争で必ず死ぬとは決まっておらず、
また、この戦争を通じて得たキャリアによって、
息子は次の進化の段階に進むかもしれなかったのである。

その意図は、確かによきものであった。

したがって、それは斟酌された。
だから、死後の苦しみは軽減された。

しかし、だからといって、それが悪であることに変わりはないのである。
もしそうでなければ、あらゆる悪事が許されることにもなりかねない。

われわれは、ある人を殺しておいて、
「その人のために殺してやったのだ」と思うこともできるからである。

ある母親が、子供を、まっすぐ天国に送るために殺したとして、
「動機がよいから、それは間違っていなかった」とは言えないのだ。

もしそんなことが通用するとすれば、
宗教戦争での蛮行すら、すべて許されることになってしまうだろう。


原則として、人間は自分の命を勝手に縮めることはできないのである。
なぜなら、その命は、彼が地上で義務を果たすために与えられたものだからである。
いかなる理由によっても、命を勝手に縮めることはできない。

人間には自由意志が与えられており、誰にも、その行使を止めることはできない。

しかし、いったん、それを行使した以上、
その責任はみずからが取らなければならないのである。

自殺のうちでも最も厳しく罰せられるのは、絶望からの自殺、すなわち、
「悲惨な状況から逃げ出したい」と思ってなされた自殺である。

その悲惨な状況は、当人にとっての試練でもあり、また、償いでもあるので、
そこから逃げるということは、「みずから引き受けた使命を前にして逃げ出す」ということであり、
「果たすべき使命を投げ出す」ということでもあるからである。

ただし、「同胞を救うために、危機的な差し迫った状況で、みずからの命を捧げる」
という行為と自殺を同一視すべきではない。

第一に、そうした行為は、人生から逃げ出すために、あらかじめ意図されたものではない。

第二に、地上を去る時期が、もし来ていないのなら、
神は必ずその人を危機から救い出してくださるからである。

したがって、そうした状況における死は、正当な犠牲的行為と見なされるのである。

「他者のために、みずからの命を縮めた、純粋な愛他的行為」として評価されるのだ。

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

飛び降り自殺をして、死後6年経っても、苦しみ続けている男 - 伝統

2016/04/03 (Sun) 19:34:42


        *:「天国と地獄」アラン・カルデック著 より

(67歳で飛び降り自殺をした男。
死後6年も経っているのに、以下のようなメッセージを送ってきました。)


「ああ、これほど長いあいだ、これほどひどく苦しんでいる悲惨な者に、どうか哀れみを!
ああ、空虚……。
空虚の中を落ちていく、限りなく落ちていく。

ああ、助けてくれ~!


神様、私はとても悲惨な人生を送りました。
哀れな人間でした。
特に、老いてからは、いつも飢えに苦しみました。

だから、酒に溺れ、すべてを恥じ、すべてに嫌悪を感じていたのです……。
もうこれ以上、生きていたくなくなり、身を投げました。


ああ、神様、何という恐ろしい瞬間!

いずれにしても、もうすぐ死ぬはずだったのに、どうして自分から死を選んだのだろうか?

どうか祈ってください。

もうこれ以上、空虚がのしかかることに耐えられません。
このままでは体が砕けてしまいます。
どうかお願いします。

あなたがたは、自殺によって地上を去った人間が、
どれほどの悲惨を経験するか、よくご存じです。

見ず知らずのあなたがたに、こうしてお願いするのは、
この苦しみに、これ以上、耐えられないからなのです。

私が誰かという証明は必要ないでしょう。

これだけ苦しんでいる、それで充分ではないですか!


もし、私が腹をすかせていたとしたら、あなたがたは、きっと私にパンをくださったことでしょう。
ですから、パンをくださる代わりに、どうか祈ってください……。

もうそろそろ帰らなければなりません。

近くにいる幸福な霊たちに聞いてみてください。
そうすれば、私が誰だか分かるでしょう」


霊媒の指導霊からのメッセージ

「わが子よ、いま、あなたにメッセージを送ってきたのは、
地上で悲惨な生活を送ったのち、すべてがいやになって、みずから命を絶った者の霊です。

この者には勇気が欠けていたのです。

そうしようと思えば高みを目指すこともできたはずなのに、
この男はアルコールに溺れていきました。

彼は、絶望のどん底まで落ち込み、1857年7月22日、
フランソワ一世塔から身を投げ、みずからの哀れな人生に終止符を打ったのです。

あまり進化していなかった、この哀れな男の魂に、同情してあげなさい。

神に祈り、この魂に恩寵を与えてくださるようにお願いしてください。

それは、あなたがたにとって、よき仕事となるでしょう」


その後、調査をした結果、1857年7月23日の新聞『ル・アーヴル』に、
次のような記事が掲載されているのを見つけた。

「昨日、四時ごろ、桟橋を散歩していた人々は、悲惨な事故を目撃して心を痛めた。
ある男性が、塔から身を投げて、岩の上に落ち、血まみれになっているのを発見したのである。
年老いた曳き船人夫で、アルコール中毒の果てに自殺したものと見られている。

名前は、ルーヴェ・フランソワ=シモンという。
遺体は、コルドリ街の娘の住まいに運ばれた。享年六十七歳」


この男が死んでから、やがて6年がたとうとしているのに、
この男は、相変わらず、「塔から落ち、体が岩に激突する」という体験を繰り返している。

目の前に広がる空虚を見ては、繰り返し恐れおののいているのである。

体が落下する恐怖に、絶えずさらされているのだ。

それも6年ものあいだである。

それは、あとどれくらい続くのであろうか?

彼には、それはまったく分からず、そして、そのことが、さらに苦悩を深くしている。

これは、地獄の業火の苦しみに匹敵すると言えるかもしれない。

            <感謝合掌 平成28年4月3日 頓首再拝>

自殺者の霊魂の行く末 - 伝統

2016/04/05 (Tue) 20:16:18

光明掲示板・第一に、”童子 さま”による記事「自殺者の霊魂について (1281)」があります。
( →  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=291 )


その内容については、上記の掲示板にて確認できます。

ここでは、その内容の要点を次にまとめておきます。



(1)高級霊 ヴェッテリニは言う

  ①『結果から云えば、自殺も「運命」が或る人の前に置いたところの「定め」である。
   併し彼は四分の一だけの自由意志をもってその運命を拒むことが出来る』

  ②『自分自身の・・・生命を奪うことには何ら弁解を挟む余地はないのである。

   自分の健康に不注意で自分の死期を早めたものさえも自殺者としての罪に入る。 
   肉体は霊魂が地上的使命を果すための機関であるから、
   その使命を果す間は完全なる状態に保つべきである』

(2)高級霊 インペレトルは云う

  ①『彼は、神が向上と発達との為に、霊魂をその中に入れておいた神殿に褻涜の手を
   挙げたのです。彼は向上と発達との機会を浪費し、自分で受持っている精霊の住家たる
   神殿を破壊したのです。

   彼は、孤独な、友達なき、見知らぬ世界に自分の霊魂を遂いやったのです』

  ②『彼は不敬虔にも許しをうけずに神の玉座を涜したのです。
   (自殺は利己的な行為です)
   その上突然死ぬと云う事はあとに残る地上の友達に苦痛や悲しみを与えると云う点から
   も利己的であります』

  ③『こうした霊魂は、悔恨の情が起って、それが彼を改心に導くまでは、
   悲惨な、愚昧な、向上出来ない状態にいて、平安を得ることは出来ないのです』

  ④『彼は許されずにやって来た他界へ来ても誰も歓迎してくれもしなければ、
   落付も得られませんした。暗黒が彼をとりまいていました。

   そして陰暗朦朧たる闇を通して、同種類のみづから破船した人々の霊魂が、
   平安なき孤独の状態で悄然と蠢動しているのです』

(3)『生長の家』誌 13年5月号 (2月27日 日曜日 本部道場に於ける講話) より

   この部分については、上記掲示板にてご確認ください。

   それ以降の「つづき」の部分については、次の掲示板にて確認できます。

   谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71

           <感謝合掌 平成28年4月5日 頓首再拝>

死なないで下さい - 伝統

2016/04/07 (Thu) 19:02:57

           *Web:龍青三 オフィシャルサイト(2013/08/26)より
                

死なないで下さい ~ 死にたいくらい生きるのが辛いあなたへ… 
【斎藤一人さん魂のメッセージ】より


今から、『天使の翼』っていう話をします。

人は誰でも、一人に一人づつ、エンジェル(エンゼル)がついてるんだよ、って話です。

日本でいうと守護霊さんっていうだけど、外国の人はエンジェルって言うんだけど、
誰でも人は幸せになるために、一人に一人づつ、つエンジェルがついているんだよ。

今、ものすごい苦労している人もいると思います。
つらい思いしている人もいると思います。

人間って自分の運命を天国にいるときに決めてきて、
こういう運勢で自分は生きますって神様にいうと
、神様は、それだとちょっと荷が重いんじゃないかい?って言うんだけど、

「大丈夫です、それでも私は幸せになります」って、神様に約束してきます。

それで出てくるんですけど、ほんとにつらい修行を背負ってる人もいるんです。
ところが、人間っていうのはトータルすると、絶対に元がとれるようになってるんです。

だから苦労した人って、死にたくなっちゃうことあるかわからんないけど、死なないでください。

あなたが苦労した分、絶対に人は幸せになれるようにできてるんです。

それで、早く幸せになれるコツってあります。
人間関係でつらいこともあります。
ほんとにそういう時は、あなたに嫌なことする人、悪いことする人、もう無視してください。

それより、あなたを守ってくれるお母さんとか、お父さんとか、近所の人とか。
で、もしそういう人が、私はひとりもいないんだっつったら、
自分を守ってくれてる、自分にはエンジェルがついててくれてるんだ、って。

翼があるエンジェルがついててくれてるんだって、信じてください。
そして、今を乗り切ってください。

今苦しくて死にたいことがあるかもわかんないけど、死なないでください。

私なんて死んだって、誰も悲しまないっていうけど、神様が悲しみます。

あなたについてるエンジェルが悲しみます。

そして、今話してる私が悲しみます。

あなたはかけがえのない人です。
そして、かけがえのない命です。

これから、あなたと出会う大勢の人がいます。
これからの出会いは、本当にすばらしい出会いです。

明日を信じてください。
そして、あなたを導いてくれる、エンジェルを信じて下さい。

あなたに羽根はないかもわからないけど、あなたに付き添ってるエンジェルには、翼があります。

そして、あなたを必ず導いてくれます。

どうもありがとうございます。

http://ryuseizan.tsuvasa.com/sinanaide-kudasai

           <感謝合掌 平成28年4月7日 頓首再拝>

人間は死なないものである - 伝統

2016/04/09 (Sat) 19:11:52


           *「光明道中記」(P113)より抜粋

眼は物を視(み)ない、耳は音を聴かない、脳髄は《もの》を考えない。
視るのは心であり、聴くのは心であり、考えるのは心である。
心は自分の便宜のために眼を創造し、耳を創造し、脳髄を創造したのである。

ここに言う「心」とは脳髄から出る作用ではない。
脳髄を設計したところの「心」である。
それは脳髄以前の「心」であるから「生命」と同意義に解しても可(よ)い。

「生命」は《常に》ある。
併し脳髄は破壊する。眼球も破壊する。聴官も破壊する。
併し、破壊するものは《常にある》ものではない。

途中から造られたもの、暫定的なもの、ただの機関に過ぎないもので、
「生命」そのものではない、「人間」そのものではない。

人間は死なないものである。

常に破壊しつつある機関の中にあってそれを操縦しながら、
永遠に死なないところの機関手が「人間」なのである。

その機関の材質は、「固定的な物質」で出来ているものならば、
それが摩滅し、摩損したときに取換に不便であるかも知れぬが、

それは「エーテル」と一時科学者が名付けたところの
「無」を材質として、それを心の波でどんな形にでも造構したものであるから、
どんな破損でも摩滅でも「心」でそれを修繕し得るのである。

           <感謝合掌 平成28年4月9日 頓首再拝>

死後の世界 - 伝統

2016/04/10 (Sun) 19:35:05


次の動画は、死後の世界(自殺者の死後を含む)のイメージを知るのに役立つかも知れません。


映画『奇蹟の輝き』 1.事故死。そして死後の混乱
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=BIcMgo-evEA

映画『奇蹟の輝き』 2.自分の葬儀に立ち会う
http://www.youtube.com/watch?v=bV-tv3u2agg&feature=relmfu

映画『奇蹟の輝き』 3.自動書記で自分の存在を伝える
http://www.youtube.com/watch?v=m7ZqUVHTN3g&feature=relmfu

映画『奇蹟の輝き』 4.天国への旅立ち&亡き愛犬との再会
http://www.youtube.com/watch?v=kRiwkdR-_Pk&feature=relmfu

映画『奇蹟の輝き』 5.天国のクリスと苦悩するアニー
http://www.youtube.com/watch?v=HEmw2Oyy_aU&feature=relmfu

映画『奇蹟の輝き』 6.アニーの自殺 自殺者の死後1
http://www.youtube.com/watch?v=a4097bKou0o&feature=relmfu

映画『奇蹟の輝き』 7.アニーの自殺 自殺者の死後2
http://www.youtube.com/watch?v=CGPfnayk0ho

           <感謝合掌 平成28年4月10日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2016/04/12 (Tue) 19:23:52


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。
これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、複雑に連絡しているので、
器官相互の連絡が断たれたとき、各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、その方が環境も位置も変化して
「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 平成28年4月12日 頓首再拝>

魂と肉体をつなぐもの - 伝統

2016/04/17 (Sun) 19:18:25

        *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P20~22)より

(1)物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。
   喜びや苦しみを感じることのできるのた、魂だけなのである。
   肉体は道具にすぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。

(2)死が訪れると、肉体と魂は切り離されるが、肉体には感じ取る力がないので、
   問題はまったく生じない。

   分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。
   そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。

(3)幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。
   一方なしに他方は考えられない。

(4)生きて地上にいるあいだは、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、
   魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。

   同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことができるのも、
   幽体のおかげである。

(5)肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。
   だが、この分離はただちに起こるわけではない。

   幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の征服の中に幽体の構成要素が
   まったく存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。

(6)死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだつながっているがゆえに
   感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、
   苦しみの程度も決まる。

   したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、
   諦めておかなければならない。

(7)死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係している。
   したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、
   死の苦痛もまた少なくなる。

   分離が速やかに行なわれれば行なわれるほど、
   魂は苦痛に感じずに旅立つことが可能となるのである。

(8)死に伴う苦しみの4つのタイプ

  ①死の瞬間に、幽体の分離が完全に行なわれれば、
   魂は、まったく苦しみを感じない。

  ②死の瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、
   それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じる。

  ③幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、
   分離は容易に行なわれ、苦痛は、さほど感じられない。

  ④有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、
   霊子線が切れるまでは、肉体が解体するときの影響を、魂も受けることになる。

            <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

魂と肉体をつなぐもの~その2 - 伝統

2016/04/19 (Tue) 19:23:46


意識の混濁、そして目覚め

        *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P22~24)より

(1)死の瞬間に、魂は麻痺状態となり、その能力が一時的に停止されるため、
   少なくとも部分的に感じる力が働かなくなる。
   つまり、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
   (→ 意識の混濁)

(2)意識の混濁が死の瞬間に起こるのは自然な事なのである。
   どのぐらいのあいだ混濁するかは、それぞれ異なる。(数時間~数年間)

(3)息を引き取る瞬間までのあいだは、魂は、肉体の苦しみを感じ取っている。
   そして、息を引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じる。

   しかし、すべの場合がそうなるというわけではない。
   苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって
   決まるからである。

(4)主として、そのときの魂の状態によって、
   分離が容易に行なわれるかどうかが決まる。

  ①関心が、地上生活の物質的な快楽に集中している場合、
   幽体と肉体の結びつき強さは最大になる。

  ②主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、すでの生活が非常に霊的に
   なっている場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。

  ③分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、
   分離が容易であるかつらいものになるか、快適か苦しいかは、
   各人の心境しだいということになるだろう。

            <感謝合掌 平成28年4月19日 頓首再拝>

この世からあの世への移行を楽にするには - 伝統

2016/04/20 (Wed) 19:09:26


        *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P25~27)より


(1)病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、
   幽体と肉体の分離も徐々に進行する。

(2)魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている場合、
   実際の死より前に分離が進行していることが多い。

   心臓が停止すれば、ただちに霊子線が切れる。

   こうした状況では、肉体生命が消えている様子をつぶさに観察することができ、
   なおかつ、肉体から離れることができることを喜ぶ。

   そうした人の場合、意識の混濁は、ほとんど生じない。
   えもいわれぬ幸福感を感じつつ、希望に満たされて霊界に還ってゆくのである。

(3)物質的で官能的な人間、つまり霊的生活に何の意味も見出さなかった人間、
   この場合、魂と肉体の結びつきは非常に強固なものとなっている。

   いまわの際に、痙攣が起こるが、これは、霊子線を切ろうとする霊に対する
   肉体の抵抗が大きいために起こるものである。

   また、ときには霊が肉体にしがみつくので、激しい力でで、それを
   引き離さなければならず、そのために痙攣が起こる場合もある。

   あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する、
   いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。

   そのため、分離のための闘いが、数日、数週間、さらに数ヶ月かかることもある。

   こういう状態では、霊の意識は混濁状態にあり、楽になるのでもなく、
   死後どうなるか見当もつかず、苦悩が増すのである。

   混濁状況から目覚めても、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか
   はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、
   まだ症状が続いているように感じられる。

(4)脱物質化が進んで充分に浄化されている霊の場合、
   肉体と霊を結ぶ霊子線は非常に弱くなっているので、
   何のショックもなしに切ることができる。

   また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、
   彼にとって、病気や痛みは試練であり、死は解放でしかない。
   したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。

   死の瞬間には、霊子線は一瞬で切れるので、苦痛はまったくない。
   彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。
   魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。

            <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

この世からあの世への移行を楽にするには~その2 - 伝統

2016/04/22 (Fri) 19:24:48

        *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P27~32)より

《突然の死》

(1)魂がすでに浄化されている場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、
   突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。

   また、浄化が充分でない魂の場合、分離するのに数年間もかかることがある。

(2)脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、
   死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。
   その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。

(3)死後の霊の行方を知ることは、魂の救済をはるかに容易にすることは事実である。
   目に見えない世界とかかわることで、魂は大きく飛躍する。

   霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには
   何の魅力もかんじられなくなる。

(4)死後の霊の行方を知ることによって、「自分以外の人が亡くなる際に、祈り等に
   通して、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能と
   なる」ということも知ることができる。

   その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。

(5)真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
   思いやりに満ちた励ましの言葉を、その人にかけることで、その人の霊が、
   混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう支援することができる。

   もし、その人が苦しんでいるようであれば、
   苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、
   その人を助けることも可能である。
   
            <感謝合掌 平成28年4月22日 頓首再拝>

死によって、わたしたちは単なる肉体を越えた存在であることに気づく - 伝統

2016/04/24 (Sun) 19:18:45


      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P56)より

現世を去った人びとは、肉体が自分という存在を構成するほんの些細な要素であり、
自分たいが全存在の一部であるということを、感知する時期がきます。

この段階で、霊たちは自分自身を、いわば宇宙という広大無辺のジグゾーパズルに
対する一片の入り組んだピースとして充分に理解します。

彼らはそのパズルの全体像に順応しはじめ、ほかの同胞たちとの
不和や分離の欲求がなくなります。
彼らはすべてに神を見いだしているのです。


わたしと交信した多くの霊たちによると、
死はたやすいが死に至る過程は楽ではないということです。

難病にかかった人びとは、肉体の各臓器を病魔に蝕まれ、大きな苦しみを味わうでしょう。
生命の気(プラーナ)が少しずつ肉体から失われていくのです。
これは非常に苦しいことかもしれません。

しかし、いったん死が訪れれば、もはや苦痛も不快感もありません。
苦痛とは”物理的”な状態であって、肉体のなかに含まれるものです。

その記憶は霊のメンタル体に残るかもしれませんが、
それは単なる記憶であり、痛みの感覚は消えています。

霊体の健康と幸福にはもはやなんの影響もおよばさないのです。

            <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2016/04/25 (Mon) 19:23:00


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄をスウェーデンボルグに
聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらってその事実を聞き訊(ただ)すと、
夫の霊魂は出て来て「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、その領収書が発見されたということは
有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 平成28年4月25日 頓首再拝>

自然死 - 伝統

2016/04/30 (Sat) 19:00:11

自然死(病気になって死が訪れる多くの方の死)

      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P58~59)より

(1)死の数日前、意識がゆっくり広がり、拡大しはじめます。
   感覚が”鋭敏”になり、特に聴覚と視覚が鋭敏になります。


(2)”フラッシュバック”を経験する人が多く、
   人生のあるゆる情景を鮮明に見たり感じたりします。

  ①フラッシュバックのあいだ、人びとはそれぞれの人生経験の理由を
   充分に理解することができます。

  ②こうして人生を回顧する時点で、
   その人の霊的な部分がなんらかの自己評価を求めます。

   この人生の回顧はほんの数秒のうちに行なわれ、
   霊的なファブリックに織りこまれた複雑な一部分として残ります。


(3)この時期、とっくに亡くなった親戚や親しい友人たちがベットのそばに
   立っていることに気づくでしょう。

   死にかけた人が突然、すでに故人となっている家族を大声で呼んだり、
   ある場面を物語ることもあります。

   【エジソンの場合】
    昏睡におちいり、瀕死の状態になったとき、ほんの一瞬だけ目覚め、
    上を見あげながら、「向こうはそれはそれは美しいところだ」
    と言ったのです。


(4)いよいよ死の直前になると、肉体の苦痛が激減したり、あるいは、
   完全に消えることもあるでしょう。

   ゆっくり昏睡に落ちていくかもしれませんし、
   ”最期”の瞬間まで意識があるかもしれません。


(5)意識がある場合、”神の力”のエネルギーが肉体から去っていくにつれて、
   四肢に”冷たさ”を感じるかもしれません。

   エネルギーが抜けていくと、”軽い震え”や”ピリピリする感じ”を
   経験することもあります。

   これはエーテル体の離脱に備えて
   エーテル体の糸が肉体からほどけはじめているためです。


(6)死の瞬間、呼吸が停止し、魂が肉体を離れます。
   このとき、肉体にいるあいだ霊に滋養を送っていたエーテルの繊維
   ”銀コード”が切断されます。

   ついに霊は解き放たれました!

            <感謝合掌 平成28年4月30日 頓首再拝>

自殺(自死) - 伝統

2016/05/04 (Wed) 18:35:15


      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P59~60)より

(1)その時期が来ていないのに無理やり肉体を離れた人は誰でもわかることですが、
   肉体を滅ぼしても魂を滅ぼすことはできないのです。
   霊自身はなおしっかりと生きて居るのです。

(2)しかも、生きているだけでなく、自殺行為を引き起した”問題”は
   心的感情的傾向の一部として残されています。

   霊は自分のやったことを理解したとたん、
   深い自責の念に襲われ、落ち込んでしまいます。

(3)現世で心が病んでいた人には、霊界での温かい思いやりと充分な理解が必要です。
   中毒(アイコール、麻薬)患者も同様です。

   中毒というのは死後生にまで持ちこまれますので、
   こうした中毒者の魂にはしばしば働きかけが行なわれます。

(4)幸いなことに、そうした魂たちに地上の家族や友人から祈りや愛情あふれる
   想念が届けられると、憂鬱と苦悩だらけのオーラが癒しと愛で満たされます。
   だからこそ、亡くなった人のために祈るのは非常に大切なのです。

(5)やがて、これらの魂はみずからの高い霊性に気づくようになり、
   現状から脱却する道を捜しはじめます。

(6)窮地に追い込まれた犠牲者を助け、苦悩に対して適切な慰めを得られる場所まで
   優しく案内することを唯一の努めとしている霊たちが、向こう側の世界には
   大勢いるのです。

(7)悩める霊はとりわけ自分を許す方法について学ばねばなりません。

            <感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>

突然死もしくは予期せぬ死 - 伝統

2016/05/05 (Thu) 18:23:27


      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P61~62)より

(1)事故や暴力や自然災害が原因で亡くなった場合、霊はいきなり肉体から放りだされ、
   何が起きたのかほとんど理解もできません。
   この種の死では肉体的な苦痛をまったく感じないのです。

   霊は文字どおり”たたきだされる”ので、不快感や苦痛を心にとどめているひまが
   ないのです。
   霊が自分の状況を理解するころには、すでに肉体から離れてしまっている。 

(2)死に方によっては意識を失うこともあるでしょうし、あるいは、ふと気づくと、
   自分の肉体の外に立って命なき人体を呆然と見おろしていることもあります。

   周囲の人びとに話しかけようとしても、誰も答えてくれなく当惑してします。

   わたしたちは亡くなった人びとの声が聞こえませんが、
   彼らにはわたしたちの言っていること考えていることが完璧にわかるのです。

(3)通常の場合、すでに亡くなっている家族や霊的ガイドが死の直後に出迎えに訪れ、
   霊界という不慣れな環境に順応できるように援助してくれます。

   けれども、突然死や暴力的な死の場合は、
   その状況を受け入れるまでにしばらく時間がかかるかもしれません。  

            <感謝合掌 平成28年5月5日 頓首再拝>

集団死 - 伝統

2016/05/07 (Sat) 17:13:29

      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P62~63)より

(1)爆破や飛行機事故や自然災害といった悲劇で大勢の人びとが一緒に亡くなると、
   彼らは魂のグループとして去っていきます。
   グループ・カルマと呼ばれるものを全うしているのです。

   言い換えれば、人びとがカルマの負債を解消するために
   一緒に死ぬことを霊的レベルで決断したのです。


(2)死が思いがけず突然に訪れた場合、一般に人びとは意識を失い、
   衝撃と同時に霊は肉体から無理やり追いだされます。

   このような事が起こると、苦痛はいっさい感じません。
   肉体が何も感じないうちに霊が離れてしまうのです。


(3)この種の死はショックで、人びとは急激な移行の準備ができていないため、
   彼らの霊は現場にとどまり、周辺をうろついて自分の身に何が起きたのか
   探ろうとします。

   なかには病院のような場所で目覚める霊がいるかもしれません。
   災害を逃れてまだピンピンしているのだと思い込む霊もいるでしょう。

   このような悲劇を体験した魂に対しては、死後生への調整ができるように
   援助と慰めが必要です。


(4)こうした魂たちがみずからの環境に気づき、どういう状況なのか質問しはじめると、
   霊的ガイドや家族の一員がさっそく現われ、彼ら全員を集めて、受付会場の
   ようなところまで案内します。

   この場所には悲劇的なトラウマを専門とするガイドたちがいて、
   新しく到着した悩める魂たちを援助し、その状況を説明します。


(5)自分が死んだという事実を完全に理解してあっさりと移行する魂もいますし、
   なかにはもっと援助を必要とする魂もいます。

   後者の霊に対しては、心理学的な問題を扱う霊的存在が手を差しのべ、
   現状を受け入れられるように指導します。


(6)先に亡くなっている家族や友人たちと再会すれば、たいていの問題は解決します。
   数々の愛の記憶によって悲劇的な状況から霊の心が解放されるのです。

            <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

「急激の死」 - 伝統

2016/05/14 (Sat) 17:13:28


           *「生命の實相」第9巻霊界篇上(P96~97)より

自分はまず尋ねる ―― 

  突如と見舞う急激の死は霊魂の進化になんの意義があるか。

答 ―― 

  急激の死といえども予定されたるものである。
  それは決して偶然ではない。

  それは正常の進化の道程を進んでいないで、永久に此の世への輪廻を
  繰返さねばならないようなある人々の霊魂の進化を早めるために
  『摂理』によって決定されたのである。

  急激の死によって起こされたるショックはその人の霊魂に強き反動を惹き起こして
  すぐに進化の正道を進ませはじめる。

  その人の霊魂は反逆せんし、理解せんと試みる。

  「《理解せんと試みることは進化することである。》」

  この急激の死が自己犠牲の行為(たとえば他を救助せんがための死)に原因する
  というごとき場合には、彼のヒロイズムまたは自己犠牲の功徳は、
  機械的なショックの上に追加され、その霊魂は進化の階梯をたしかに
  大踏歩でのぼるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>

現世に執着する存在 - 伝統

2016/05/17 (Tue) 17:26:01


      *「天国との会話」ジェームズ・ヴァン・プラグ(著)(P63~67)より

(1)通常の霊の移行

  ①物理的な媒体から離脱した霊はエーテル質の媒体へ移ります。
   この状態で霊はたちまち平和と自由の気分に満たされます。

   と同時に、軽さと浮力を強く感じます。

  ②この灰色の薄もやのようなエーテル体のなかにほんのしばらくとどまってから、
   やがてエーテル体も脱ぎ捨て、アストラルの形態に移ります。

   エーテルの鞘は肉体とアストラル体をつなぐ架け橋のようなものと
   言ってもいいでしょう。
   ほとんどの場合、この移行は迅速に行なわれます。


(2)地上への執着による罠

  ①家族との絆が非常に緊密で、なおかつ、自分が死んだという事実を受け入れるだけの
   準備ができていない霊の場合、現世との結びつきが一種の罠のようなもになります。
   こうした状況におちった霊は遺体のそばから離れようとしません。

   往々にして、家族たちと交信しようと虚しい努力を続けます。
   一般に、この種の霊は自分の葬儀に参列します。
   そうすることで自分がもはや肉体的な存在ではないのだと気づく場合が多いのです。

   そして、ようやく霊の故郷へ移る心構えができます。

  ②ところが、たまにこの地上で”立ち往生”し、
   いわゆる”現世に執着”した存在になる霊がいます。

   死後も現世に固執するという現象は、しばしば故人の信条によって
   引き起されます。

   しまも、狭量で頑なな信条は、向こう側に世界にまで持ち越されるのです。

  ③(例として)
   昔々、ビルという名前の男が生きていました。
   彼は懐疑的な人間で、信仰と霊的信念も持っていませんでした。
   自分が体験したことしか信じないのです。

   生きているあいだ、ビルにとって感心のあるものはたったふたつだけ。
   自分自身と財産です。


   ある日、彼は死に、向こう側の世界で目覚めました。
   自分は”死んだ”のではなく、別の軽い形に姿を変えているだけだと
   彼はすぐに気づきました。

   しかし、現世の物質主義的な考え方は少しも変わっていなかったのです。
   自分が包み込まれている灰色によどんんだエーテル状のもやは、
   かつての物質界の影にすぎないということが理解できないのです。

   彼は幽霊として地上をさまよいつづけ、自分の家を訪れては家族に接近し、
   コミュニケーションをとろうとしました。この”宙ぶらりん”の状態は
   何時間、何ヶ月、あるいは、何年も続くかもしれません。

   しかし、高い霊的な意識を保ってさえいれば、彼のように
   エーテルの罠にはまりこんだりはしません。

  ④哀しいかな、この世には現世に執着する存在があふれています。

   死後、自分が”立ち往生”していることにすぐに気づき、
   さっさと霊界に移っていく霊もいます。
   しかし、それほど幸運ではない霊もいるのです。

   こうした存在たちは物質界をさまよい、
   心弱気人間に影響をおよぼし生者を悩ませます。
   彼らは肉の世界と霊の世界のはざまで”虜”になっているのです。

  ⑤暴力的に肉体と切り離された場合にも現世に執着する状況が生まれます。
   準備ができていないうえに、何が起こったのか把握できないため、
   ここでもやはり霊は戸惑うのです。

   このような場合、肉体が滅び、すでに住む世界が変わっていることに
   気づくまで、現世でやっていたことをそのまま続けます。

   理不尽な死に対して怒りをあらわにする霊もよくいます。
   なかには、復讐を求める者すらいるのです。

   幸い、こうした迷えるたちを高次な生の世界へ導く霊的存在がいます。

  ⑥物質界から霊界への移行はごく自然で苦痛とは無縁です。
   しかし、多くの人々は適切な準備ができていないのです。
   そのために霊たちは現世に執着します。

   スムーズな霊界への移行には、死という現象をきちんと理解することが
   なにより重要なのです。

   死とは永遠の命に向かって開かれた門戸であり、
   その先に豊かな世界が広がっているということを把握するだけでいいのです。

            <感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>

生から死への移行~その1 - 伝統

2016/05/21 (Sat) 19:54:54


         *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P37~41)より

喪中の家にて、あの世へ移行せし魂を招霊した際のメッセージ(1862年4月23日)


Q:亡くなる際苦しんでいましたが、現在の状況は?

A:地上の生活から霊界への生活の移行は、当初は何なんだかよくわかりませんでした。
  現在(死から2日後)はたいへん幸せです。
  もう苦しみはまったく感じられません。私は、再生し回復しました。

              ・・・

Q:意識がはっきりするのに要した時間は?

A:8時間ほどです。

  これは、神が私の願いを特別に聞いてくださったのです。
  私をそれなりに評価してくださったのでしょう。
  感謝の言葉もありません。


  私はいま、たいへん力強い感じを受けています。
  ひとことで言えば変身したのです。
  いま私を見ても、きっと私が誰だなのか分らないでしょう。
  (物忘れのひどい、あの惨めな老人ではありません)

  私は霊になってそれほど変わったのです。
  私の目指す未来は神であり、その神は、無限の空間の中に輝きわたっています。

              ・・・

Q:あなたは自分の遺体を見て、どのような感じがしますか?

A:哀れでちっぽけな抜け殻にすぎません。あとは塵になるだけです。
  そこに宿って、私は長年の試練に耐えたのです。
  ありがとう、私の哀れな体よ。
  あまえのおかげで私の霊は浄化されました。

              ・・・

Q:あなたの肉体が最後の息を引き取ったときの感じは?

A:地上生活が粉々になり、視覚が失われました。
  空虚、未知・・・。

  そして、いきなりものすごい力に運ばれて、
  歓喜と偉大さに満ち満ちた世界にいることに気がついたのです。

  もはや、感じることも、理解することもできませんでした。
  ただ、筆舌に尽しがたい幸福に満たされていたのです。

              ・・・

《葬儀参列者たちへのメッセージ》

「わが友人たちよ、死を恐れる必要はありません。
もし、よき生き方をしているのであれば、死とは休憩にほかなりません。

もし、やるべきことをやり、試練に打ち勝っているとすれば、
死とは幸福にほかなりません。

繰り返しいいましょう。
勇気を持って、そして熱意を持って生きてください。

地上の財物に執着しないことです。
そうすれば、必ず報われます。

他者のために生きてください。
心の中で悪を犯さないように。
そうすれば、地球は軽やかな場所になります」

            <感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>

生から死への移行~その2 - 伝統

2016/05/26 (Thu) 18:18:22

         *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P42~44)より

パリ霊実在主義協会にて(1862年4月25日)
~「生から死への移行~その1」と同じ霊を招霊。

Q:もっと苦痛に満ちた死の瞬間を迎える霊もいると聞きます。
  たとえば唯物主義者。「○ねば何もかも終わる」と思っている人間にとって、
  死の瞬間は大変なことになるのではないでしょうか。

   *○:死

A:そのとおりです。

  死の準備のできている霊の場合、苦しみは存在しないと言っていいでしょう。
  あるいは、安らかに死を迎えることができるので、苦しまずに済むのです。
  死後、自分がどうなるか分かっているからです。

  死の瞬間には、精神的な苦しみがいちばん大きなものであり、
  それがないということは、とてもありがたいものです。


  死後の世界を信じない者は、ちょうど死刑を宣告された罪人に似ています。
  ギロチンの刀が見えますが、それが落ちたあと自分がどうなるか分らないのです。
  こうした死と、無神論者の死はよく似ています。


                ・・・


Q:頑迷な唯物論者で、「死後は虚無だ」と信じている人もいるようですが。

A:最後の瞬間まで「死後は虚無だ」と信じている人もいます。
  しかし、霊と肉体が分離する瞬間に、霊の自覚が戻ってきます。
  そして、事態が理解できないために苦しむのです。

  どうなったのかを把握しようとするのですが、それができません。
  分離のときには必ずそうしたことが起こります。

* 別のある霊は、次のように語っています。

  「頑迷な唯物論者が死の瞬間にどうなるかということですか、
  悪夢の中で、崖っぷちに立ち、もう少しで落ちそうになてちることがありますね。
  あれにそっくりなのです。

  逃げようとしても逃げられず、歩くことさえできない。
  何かにつかまろうとするのだが、何も見つからず、だんだん滑り落ちていく。

  誰かを呼ぼうとしても、声を出すことができない。
  身をよじって、こぶしを握り締め、声にならない叫び声を上げる。
  ちょうどそんな感じです。

  それが普通の悪夢なら、やがて目が覚め、恐怖から解放されます。
  夢を見ていただけだということが分かり、再び幸せを感じることができるのです。

  ところが、死の瞬間の悪夢は、もっともっと長引き、死を越えて、ときには
  数年間も続くことがあるのです。そういう場合、霊にとっては本当につらい体験
  となります。暗闇に閉じ込められたのと同じなのですから」

            <感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>

生から死への移行~その3 - 伝統

2016/05/29 (Sun) 19:33:21

         *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P44~50)より

Q:死の瞬間の状況は?

A:死の瞬間には、霊が覚醒します。
  肉体の目には何も見えませんが、霊的な深い目が開けて、
  瞬間的に未知の世界を発見するのです。

  真理がただちに現われ、そのときの心境、そして過去の記憶に応じて、
  ある者には深い喜びがが、ある者には得体の知れない苦しみが与えられます。

                 ・・・

Q:霊的に目が開けたときのことを描写してください。

A:われに返って自分の目の前にあるものを見たときに、目がくらんだように感じられました。
  すぐに意識が覚醒しなかったらしく、事態がよくのみ込めなかったのです。

  しかし、神の善意のおかげで、私はさまざまな能力を取り戻しました。
  多くの友人たちがまわりにいるのが見えました。
  また、指導霊たちが来て、私を取り囲み、ほほえみかけてくれました。

  比類のない幸福感に包まれて、彼らは生き生きしており、
  私自身も、強いエネルギーに満たされて元気はつらつとしており、
  空間を超えて自由に移動できるのです。

  地上であなたがたが幸福だと思っていることなど、まるで錯覚にすぎません。

  どうか、智慧に従って、聖なる生き方をしてください。
  慈悲に満ちた、愛にあふれた生き方をしてください。

  そうすれば、どのような大詩人であっても描写できないような、
  素晴らしい霊界生活が待っています。

                 ・・・

Q:霊人たちは、どのような様子、姿をしているのですか。

A:地上でのみずぼらしい肉体と、霊界での素晴らしい霊体の違いは、
  もう本当に比べようがありません。
  天上界には醜さというものがまったく存在しないのです。

  これらの霊体には、粗雑さというものがいっさい感じられず、
  神の祝福を受けており、形態の持つあらゆる優美さを帯びています。

  また、その言語の美しさは、とても伝えることができませんし、
  星のようなまなざしの持つ深さも、地上の言語ではとうてい表現できません。

                 ・・・

Q:輪郭のある、境界を持った形態をもっているように見えるのでしょうか?

A:霊は、地上での形態を保持していますが、それは、神聖化され、理想化されています。
  もちろん、手足もあり、脚も指もしっかり感じることができます。
  そして、思いによって、あなたがたの前に出現し、腕に触れることもできます。

  私の体はいかなる場所も占めず、物質界の光は私の体を通過していきます。
  あなたがたにとっては奇跡にほかならないことが、
  われわれ霊人たちにとっては日常茶飯事なのです。

  霊には神聖な洞察力が備わっており、すべてにそれが及びます。
  ですから、あなたがたが考えていることが手に取るように分かるのです。

  しかし、試練をすべて通り抜けた高級霊は、
  神のそばにいるのにふさわしい姿をしています。


  《メッセージ》
  
  忍耐強くあってください。
  よき生き方をするのです。
  本当に人生を満足して○ねれば、多くのことを得ることができます。(○:死)

  考えることを本性とする人間にとって、好奇心は大事なものです。
  その好奇心を満たしつつ、死ぬまで穏やかに生きてください。
  そうすれば、過去・現在・未来のあらゆる疑問をやがて解くことができるでしょう。

  「あなたがたの思いは、あなたがたのまわりに出没している霊人たちによって、
  絶えずよまれているのだ」ということを、どうぞ忘れないでください。
  神の使者たちに対しては、何も隠すことができないのです。  
  
            <感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>

生から死への移行~その4 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 18:53:05


       *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P90~94)より

パリ霊実在主義協会にて(1865年3月31日)
~「生から死への移行~その1、2、3」とは別の霊(ヴィニャル博士)を招霊。
  (ヴィニャル博士は、1865年3月27日死亡)


Q:肉体と霊との分離は、どのように行なわれたのか?
  そのとき、どんな感じがしたのか?
  意識を取り戻すにに、どれくらい時間がかかったのか?

A:肉体と霊との分離は、かなり速やかに行なわれました。
  想像していた以上に速かったと申し上げましょう。
  あなたがたのご協力も、たいへんありがたかった。

  死ぬときには、断続的な振動が感じられ、2つの対立する感覚
   ―― 肉の感覚と霊の感覚 ―― に引き裂かれそうになりました。
  そして、やがて霊の感覚が勝利しました。

  遺体が埋葬されたのちに、ようやく分離が完了しました。

              ・・・

Q:葬式での、ひそかなお祈りは、あなたのところまで届いたでしょうか?

A:すでに述べたとおり、祈りは確かに力を発揮します。
  葬式の物質的な面については、関心はほとんどありません。

              ・・・

Q:1860年2月に、幽体離脱を経験していただきましたが、
  肉体と完全に分離している現在の経験の違いを教えてください。

A:(幽体離脱をした)あのときは、私は強情な物質に拘束されていました。
  「完全に物質から解放されたい」と思ったのですが、それは不可能でした。

  いま、私は完全に自由です。
  広大な領域、満ちの領域が、私の目の前に広がっています。
  なんと荘厳で、なんと偉大な世界でしょう。

  私たちのように未熟な者が、至高の光を見ようとすると、
  ほとんど畏怖にも似た感情が起こります。

            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

先立っていた魂との再会 - 伝統

2016/06/11 (Sat) 19:20:27


        *「生きがいの創造 “生まれ変わりの科学”が人生を変える」
           飯田史彦・著(P95~96)より

京都大学助教授のカール・ベッカー博士によると、臨死体験をした患者たちの中にも、
他界していた近親者と出会ったものが数多いという。代表的事例を引用してみよう。

 
   「主治医が、私のことをあきらめて、『もう死亡している』と親類に告げました。
   私の身体は反応しませんでしたが、私はその話を全て聞いていました。
   医者がもうダメだと言った瞬間に、私は意識が鮮明になった気がします。

   今度は自分が亡くなった人々に囲まれていることに気づきました。
   今は亡き多くの親類たちの中でも、私のすぐ前に立っていた祖母と、
   学生時代の同級生であった女性が特に目立っていました。

   みんなの背格好のすべてはよく見えませんでしたが、
   彼らの顔ははっきりと認識できました。

   そして、みなと一緒にいるのだと言う気持ちを強く感じました。
   みんなは喜んでくれ、私は大変幸せな一時を過ごしました。」

 
ベッカー博士によると、瀕死の状態から回復した患者が、臨死体験中に
「まだ生存しているはずの親類や友人に出会った」と発言することがしばしばあるそうです。

まわりの者はその話を信じないが、患者が瀕死の状態に陥る前に、
その人物がちょうど死亡していたことを、後から知って驚くのだそうです。

つまり、瀕死の患者が臨死体験を通じて、知ることができない遠方の人の死を、
だれよりも早く知ったのです。

ベッカー博士は、このような現象を根拠として、
臨死体験が単なる夢ではないことを明言しています。

               ・・・

《だれもひとりぼっちで死ぬことはない》

        *「生きがいの創造 “生まれ変わりの科学”が人生を変える」
           飯田史彦・著(P100~102)より

エリザベス・キューブラー=ロス博士は、2万件にものぼる臨死体験の研究をもとに、
「だれもひとりぼっちで死ぬことはない」と述べ、次のように説明します。


   「肉体から離れると、時間のない所での存在となる。
   同じように、ふつうの意味で空間や距離を語ることもできなくなる。
   なぜなら、それらはすべて、この世における現象だからである。

   たとえば、アメリカの青年がアジアで亡くなり、
   ワシントンにいる母親のことを思ったとしよう。

   彼はその思念の力によって、ほんの一瞬のうちに何千マイルもの距離を渡り、
   母親のもとへ行くことができるのである。」

 
キューブラー=ロス博士によると、この現象を、実に多くの人々が経験しているといいいます。
何千マイルも遠くに住んでいたはずの人が、突然、目の前に姿をあらわします。
すると翌日になって、前日に姿を現した人が亡くなったという知らせが、電話や電報で届くのです。


   「この段階にくれば、誰もひとりぼっちで死ぬことはないと言うことが、よくわかる。
   なぜなら、亡くなった人は、自分の好きな人の所へ行くことができるからである。

   また、先立って亡くなり、自分のことを愛し、大切にしてくれた人たちも待ってくれている。
   しかも、この段階では時間が存在しないため、20歳の時に子供を亡くした人が
   99歳で亡くなっても、亡くしたときと同じ年のままの子供の姿に会うことができるのである。」


もちろん、ロス博士がいう「亡くした時と同じ年のままの子供も姿」とは、実際にあらわれた
「前世での子供だった魂」が、亡くなったばかりの親に。「自分はあなたの子供だった魂ですよ」
ということをわかってもらうために、当時の自分の姿をビジョン(幻像)として見せてくれているに
すぎません。

物質的な肉体としてあらわれるわけではなく、だからこそ自由自在に、
亡くなったばかりの相手が最も喜ぶ姿であらわれてくれるのです。


さらに、ロスはかせによると、末期の病を患っている子供たちに
「誰に一番会いたいか」「誰に一緒にいて欲しいか」と尋ねてみたところ、当然ながら、
99%の子供が「両親に会いたい」と答えました。

ところが、その後に生死の境をさまよって臨死体験をした子供たちに聞いてみたところ、
実際に親のビジョンを見たのは、親がすでに亡くなっている子供のみだったそうです。

もしも、否定論者が言うように、臨死体験が単に本人の願望の投影である(子供たちには
臨死体験の知識はないため実際には願望も生じないだろうが)とすれば、99%の子供たちは、
死にかけた時に親のビジョンを見るはずです。

この結果を受けて、キューブラー=ロス博士は、自信を持って断言しています。


   「何年も研究してきたが、(親が先立っている子供を除いて、臨死体験の時に)
   誰一人として親を見た子供はいない。なぜなら、両親はまだこの世に存在するからだ。

   臨死体験の時に、だれに会えるかというのは、たとえ1分でも先に亡くなっている人で、
   死にゆく人が心から愛していた相手だと言うことなのである」

            <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>

霊界からの伝言 - 伝統

2016/06/15 (Wed) 19:41:35


       *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P95~101)より要約

モーリス・コントラン(18歳で胸の病で死亡)から両親への伝言
(死後数ヶ月しての友人を通しての霊示)

(1)僕(モーリス・コントラン)の死は、両親が神様を信じて幸福になるためには、
   どうしても、この試練が必要だったのです。
   信仰を得れば、神意を否定することはできなくなるのですから。

(2)僕がまず先にやってきた世界、苦悩のいっさいない世界で、
   僕たちは、また会うことができるのです。
   しかし、神様の善意信じなかった場合には、会うことはできなくなります。

(3)絶望とは神様の意志に対する反抗であり、
   常に、「その絶望を引き起した原因が長引く」というかたちで
   罰せられるものなのです。

   それは、神様の意志に従うまで続きます。

(4)絶望は体を蝕(むしば)んで力を奪うので、一種の自殺であると言ってよいのです。
   そして、苦悩から逃れたいあまり、「早く死にたい」と願う者は、
   最も厳しい失望を味わう嵌めになります。

   試練の重みに耐えるためには、常に、体に力を蓄えて、
   積極的に働く必要があるのです。

(5)私は、肉体を脱ぎ捨てて以来、ずっと、あなたがた(お父さん、お母さん)の
   そばにいます。私は死んでいないのですから、どうか安心してください。
   死んだのは私の体、私の霊は永遠に生きているのです。

(6)霊は、病気になることもなく、肢体の不自由からも、苦悩からも解放されて、
   のびのびと、幸福に暮らしているのです。

   ですから、悲しむのではなく、
   僕の死をむしろ喜んでいただきたいと申し上げましょう。

(7)今回、僕の人生は、あれ以上長くなってはいけなかったのです。

   後の重要な使命を果たすために、僕は、地上で、あることを
   まなばなければならなかったのですが、それが終了したために、
   こちらへ還ってきたのです。

   あれ以上長く地上にとどまったとしたら、
   僕はその後に出てくるであろう誘惑に負けてしまい、
   魂の進化が何世紀も遅れたはずだったのですよ。

   ですから、僕が死んだのは、むしろ喜ぶべきことだったのですよ。

(8)虚無を信じている人々は、まことに気の毒な人々なのです。
   彼らを慰めるすべはないからです。
   墓が彼らの最後の希望を奪うのです。

(9)死の瞬間は苦しみませんでした。
   ある見えない力によって、空間の中を運ばれました。
   燦然たる強烈な光が僕のまわりで輝いていました。

   そこで、おじいさんに会いました。
   おじいさんは、死んだときのやせ細った姿ではなく、
   若さの息吹にあふれていました。

   ほほえみを浮かべたたくさんの人々が、まわりにひしめいていました。
   彼らを知っているように思われ、彼らに会えたことが、
   とてもうれしく感じられました。
   そして、みんなと、友情の証に満ちた言葉を交わしたのです。

(10)僕が地上で生きられる時間は、はっきり限られていたのです。
   あれ以上、僕を地上に引きとめておくことはできなかったのです。

   しかし、僕が地上で過した時間は決して無駄なものではなく、
   その時間を精いっぱい生きたことに、本当に喜びを感じています。

   真剣に勉強したことで、僕の魂はさらに強化されましたし、
   知識も増えました。それだけでも充分だと言えるでしょう。

   そして、生前、その知識を使うことができなかったにしても、
   将来の転生で、より多くの実りのために使うことができるのです。

            <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>   

地上生命の引き延ばし - 伝統

2016/06/18 (Sat) 18:34:28


      *「天国と地獄」アラン・カルデック著(P117~119)より

Q:当人の意志いかんによって、魂と肉体の分離を遅らせることは可能か?

A:(聖 ルイ)

(1)肉体に宿っている霊が、ある種の状況下において、
   自分の意志によって肉体の生存を長引かせることは可能です。

(2)ただ、地上の生命を引き延ばすということは、仮にそれが許されたとしても、
   限定された短いあいだのことにすぎません。

   というのも、自然の法則に介入することは、
   人間には許されていないからです。
   それは、あくまでも一時的な例外にすぎません。

(3)霊に対する試練として、あるいは、霊にまだ果すべき使命が残っているために、
   使い古された肉体器官に生体エネルギーが注ぎ込まれ、その結果、
   まだしばらく地上に存在しつづけることが可能になるということがあります。

   とはいえ、そうしたことは、あくまでも例外であって、
   一般的な法則ではないのです。

(4)また、そうしたことは、神と自身がその法の不変性を侵したということでは
   ありません。それは、人間に与えられた自由意志の問題であると考えるべきでしょう。

   最期を迎えつつある人間が、みずからに与えられた使命を自覚し、それを、
   死ぬ前にどうしても果したいと考えた場合、そうしたことも起こり得るという
   ことなのです。

(5)また、一方では、死後の世界を信じない者にたいする課題として死期が遅れる
   ということも、ときには起こります。

   死期が遅れることによって、それだけ苦しみ時間が長引くことが
   必要になる者もいるのです。 

            <感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝>  

あの世はこの世を映し出す「鏡」 - 伝統

2016/06/20 (Mon) 19:41:04


   *「「あの世」のしくみがわかる37の真実」トレイシー・J.ヒッグズ/著(P24~25)より

この世を去った人は、まず自分が生前に与えた苦しみや喜びや愛を一つひとつ目の当たりにします。
自分の人生のDVDを見せられるようなものです。

魂はその痛みや悦びを逐一味わうことになります。
愛に満ちた寛容な魂であれば、心地よい思いをするでしょう。

ちなみに完璧な人間でなくても大丈夫。
誰でも人生で一度や二度は他人を傷つけたり、自慢できそうもないことをしたりするものです。
それでも善良な人間であれば、死後の自分の人生を見ることは楽しい体験になるでしょう。

ところが、そうでない人間にとってはあまり楽しいひとときとは言えないはずです。
そのうえ、自分が犯した悪事の報いを迫られることにもなります。

自分がこれまでにしでかしたことが何だったのかを自ら知るために、
この世に戻らなければなりません。
それを魂で感じとり、そして感じることを学ぶのです。

つまり、この世で誰かに痛みを与えた人は、その反動を経験するということ。
みずから身をもって体験するために、この世に戻ることになるわけです。

ただし、人を殺した人は生まれ変わって殺される側になるとか、
誰かに殺されるような人は前世で殺人者だったなどという単純な話ではありません。

苦しみを与えた魂は、どんなかたちにせよ、この世に舞い戻って
何らかの苦しみを目の当たりにするのです。

だから、この世は魂を鍛えるための場であり、その魂を癒すのが霊界なのです。

            <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝> 

非業な死(殺人事件の被害者) - 伝統

2016/06/23 (Thu) 19:57:59


   *「「あの世」のしくみがわかる37の真実」
      トレイシー・J.ヒッグズ/著(P175~176)より


(1)「非業は死は多くの点で誕生のイメージに似ている」

   赤ん坊が生まれるとき、母親は非常に痛い思いをします。
   ところが赤ん坊が生まれたとたん、その痛みはどこかへ行ってしまいます。
   極限の苦痛は消え去って、赤ん坊が生まれたという記憶だけが残るのです。


(2)指導霊のルークは、

   「悲惨なかたちで死んだ人やとてつもない苦しみを味わいながら死んだ人にも
   同じことが起きる」と言います。

   死によって、その人は霊界に「生まれ落ちる」、
   あるいは「生まれ直す」ので、心に傷など負わない。


(3)非業の死を遂げた人々の霊はとても穏やかで、ほとんど憂いを感じさせません。

   もちろん彼らは死んだことを喜んではいませんが、多くの人の想像とは違って、
   殺害されたという記憶にはとらわれているわけでもありません。

            <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝> 

人間とかかわりを持った動物たちの霊の行く先 - 伝統

2016/06/26 (Sun) 19:31:16


   *「「あの世」のしくみがわかる37の真実」トレイシー・J.ヒッグズ/著(P188~189)より

(1)死後の動物の世界はありますが、それはあくまでも、
   生前、人間とかかわりのなかった動物たちのためのものです。

   そこへは、たとえばアフリカのジャングルや草原に住んでいた野生動物が向かいます。

(2)一方、人間と暮らしていた動物たちは人間と同じ死後の世界へ向かうのです。

   野生動物はペットと違って私たち人間とのあいだに魂のレベルでの交流がありませんが、
   犬、猫、馬、ハムスター、インコなどのペットたちは、
   人間にとって家族同様の存在です。

   飼い主はその大切な存在に愛情を注ぎ、世話をし、心を傾けます。
   ですから、ペットたちは亡くなったあと、人間の霊的エネルギーを身近に
   感じられる世界へ向かうのです。

            <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝> 

人間は死なぬ - 伝統

2017/01/14 (Sat) 17:41:24


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月14日)より

人間は死なぬというのが生長の家の教えである。
それは生死を超越した「実相の本来生」なのである。
生滅は仮の相(すがた)である。

「肉体は本来無い」と説いているのが生長の家の教えである。
「無い」ものには死にようがないのである。
「肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》」と説くのである。

われら「久遠生命(せいめい)」と説くといえども、「《死ぬな》」ではない。
「《死なぬ》」である。死にようがない自覚である。
ここに無限の勇気が湧く。

「《死ぬな》」には死の予想がある。
「死ぬかもしれぬ」と思う予想があればこそ「死ぬな」と世人は言おう。
だから予想することは現れるという法則で、「《死ぬな》」と言えば勇気がくだける。

「《死なぬ》」と言えば勇気が湧き出る。
「死ぬな」「死なぬ」 ―― よく似ている言葉だけれども、全然違う。
この言葉の使いようを誤ってはならぬ。

            <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

春の彼岸に寄せて - 伝統

2017/01/17 (Tue) 19:28:02


       *愛国本流掲示板<『顕浄土成仏経』読誦のススメ (安東巌先生) (16123)>
        日時:2017年01月14日 (土) 22時00分 (by 名前:真理を生きる)


かつて尊師が80才になられた頃、草創期の弟子達が次々に霊界に旅立った。

その報に、谷口先生は遺族に対して愛深い次の一文を草されました。

「―生命は〝生〟であって死を知らない。
人間の霊魂は蚕が繭を食い破って翅(はね)を生じて一層自由の境涯になるように、
肉体の繭を必要としないときが来るのである。

誰でも肉体が要らなくなると脱ぐのである。

悟りによって人生を達観している人であっても、
肉眼に見えない世界に移行されるということは
遺族にとって悲しいことであり寂しいことである。

霊界に旅立った自分の良人や妻を思うにつけても、
やるせない悲しみと寂しさに涙する人も、
私は人情が深くて美しいと思うのである。

愛する妻に先立たれたある人は、四十九日の満中陰に際して私の家内に電話して来られて、
妻の遺愛の品々を見ていると、思わず涙ぐましくなると、妻想いの美しい愛情を
電話で愬(うった)えて来られてこんな歌が出来たといわれた。


見るにつけ思ふにつけて胸せまる
      妻が愛でたる品の数かず

 
しかし人間は死ぬのではないのである。
無くなるのでもないのである。
人間はその肉体という物質的繭から脱出することによって一層聖なる境涯に入るのである。

―親しき愛する家族又は友人にわかれて悲しみに打ちひしがれている遺族の人たちは
『生命の實相』(頭注版第十巻)〝霊界篇〟に収録されているデンマルクの
青年劇作家マグナッセンにあらわれた彼の父の霊魂からの通信を読んで頂きたい」


―谷口先生はそうお書きになった後マグナッセンの父が自動書記で送ってきた
霊界の歓喜の様子を同書から転載され、次のように結ばれました。

「此の霊界通信の文章は非常に力強く、愛する人を現象界で失った
遺族たちには慰めになるものだから、そのような方々は『生命の實相』の原典について
是非全文を読んで頂きたいのである(昭和48・8明窓浄机)」


―〝人間は本当に死なない〟永遠なる存在なのですね。

既にお読みになった方もあると思いますが東大医学部教授で
臨床医の矢作直樹先生の著『人は死なない』の中に矢作先生自身の霊体験が綴られています。
こんな内容です。

矢作先生の母親は夫なきあと一人で住んでいた
相模原のアパートで風呂に入ったまま孤独死される。

医師である自分が、もっと強く同居を勧めておけばと深い後悔が心に残った。

それで矢作先生は毎晩眠る前に手を合わせて母に詫びていたというのです。

そんなある日、会社経営をしている友人で、霊能力にたけた女性から電話がかかってきた。
〝実はあなたのお母さんが、矢作さんのことを心配されて息子と話したい
と訴えて来られるのです〟と。

かくてその女性を霊媒として母の霊との交霊会が開かれた。
以下その時の母の霊との対話。

「直樹さん心配かけて本当にごめんなさいね」

「お母さん、私は大丈夫ですよ。ちょっと訊きたいことがあるんだけど、
お母さんはどうやって亡くなったの」

「心臓発作らしいの」

「亡くなる前にもっと強く同居を勧めておけば良かったですかね」

「そんな必要はありません」

「でも最期は不自由だったでしょう」

「それは問題では無かったわよ」
(淡々とした、ありし日の母の口調に先生は許された気がしたと言います)

「どうして私がお母さんに申しわけないと思っている事がわかったの。ずっと見てたの」


「そうよ」

「私が毎晩手を合わせていたのも」

「そうよ。とにかく心配しないで」

「わかりました。でも毎月の納骨堂へのお参りは続けていいんでしょう」

「それは、うれしいわ」


このやりとりから、先逝きし親や伴侶は霊界から私達を見守っている事、
悔の心は霊界の人の憂いとなる事、でも供養の心は喜びになる事がわかりますね。

谷口先生は、その供養に関して『如意自在の生活365章』で次のようにおさとし下さっています。

「霊界も現象界と同じく唯心所現の世界でありますから、
その人の心境に従って、その心境相応の世界に住んでいることは現世と一向異なりません。

それゆえ霊界の祖先霊の心境の向上のために
〝真理の言葉〟『聖経』を読んであげることは
―霊界の諸霊を救済するところの非常な功徳ある法施(真理の供養)となるのであります。」

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=6313 )

            <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

『人は死なない』~矢作直樹 - 伝統

2017/01/27 (Fri) 18:13:08


上の記事に関連し、『人は死なない』矢作直樹・著より、その要点を紹介いたします。


(1)著者は、東京大学大学院医学系研究科・医学部救急医学分野教授にして、
   さらに東京大学医学部附属病院救急部・集中治療部部長です。

   本書に書かれてあるような内容は、目新しいことではありません。
   これまで多くの宗教家やスピリチュアル研究家がすでに述べてきたことばかりです。

   されど、本書は、何と言っても、現役の東大医学部の教授で臨床医である著者が
   「霊」の存在を確信し、「人は死なない」と言い切ったところに最大の価値があります。


(2)(著者の体験)母の死

  ①著者の亡くなったお母さんは、3日間浴槽に水没していた。
   検視に立ち会ったときは著者のみであり、発見者の弟を含めて他の身内は誰も故人の
   顔を見ていませんでした。

   その故人の顔を、葬儀社のスタッフがさりげなく
   「白い布で覆って棺の小窓には出ないようにしましょう」と言って気遣ってくれました。

   これは、著者が「遺体の顔はどうするんだろう」と心配しかけたまさにそのとき、
   心中を読み取ったかのごとく絶妙のタイミングだった。

  ②「思えば、煩雑な諸手続きを代行し、傷んだ遺体をきれいに整えてくれた葬儀社という
   プロフェッショナル集団のおかげで、どれほど助かったことか。

   本当に、人は人に助けられている。
   我々医師は、患者やその家族にこれほどの心配りができているだろうかと、
   思わず考えさせられました」

  ③「遺体というのは不思議なものです。遺体は遺体でしかなく、単なる『モノ』でしかない
   わけであり、したがって執着するような対象ではないということを頭では理解していても、
   愛する者にとっては抜きがたい愛着を感じずにはいられないというのが、偽らざる本心
   です。

   おそらく、遺体への配慮は理屈ではなく、情として自然に出てくるものなのでしょう。
   『愛する人を亡くした人へ』という好著があり、自ら冠婚葬祭の会社を営んでいる
   一条真也氏は本の中で、

   葬儀とは『成仏』という儀式(物語)によって悲しみの時間を一時的に分断し、
   その物語の癒しによって、愛する人を亡くして欠けた世界を完全な状態にもどすこと、
   と願っています。私も、まったくその通りと思うのです」


(3)死後の母(霊)との会話

   私の友人に、Eさんという会社経営をしている60歳代の女性がいます。
   Eさんとは、電話でのやりとりは何回もしていたのですが、
   実際に会ったのは平成21年の3月でした。

   彼女は、非常に霊能力を持った人なのですが、
   自身の能力については長い間口外することがなかったそうです。

   しかし、私が本書を執筆することを話すと、自分のそれまでの体験や能力について
   話してくれました。その内容は非常に多岐にわたり、また実際に目撃しなければ到底
   信じられないようなことばかりなので、あえてここでは述べません。

   そのEさんから、平成21年3月のある日の朝電話がかかってきたのですが、いつもの
   率直な話し方と違って何かいいにくそうな気配なので私は訝しく思いました。そして、
   一呼吸置いてEさんが私に話した内容は、実に驚くべきものでした。

   Eさんは、言いました。
   「実は、あなたのお母様のことなんです」
   「はっ? 」
   「矢作さんとお会いした後からお母様が矢作さんのことを心配されて、息子と話したい、
    と私にしきりに訴えてこられるのです」

   それを聞いた私は、
   心中「ええっ、まさか」と驚き、俄には信じることができませんでした。 
   (交霊のことは知識としてはありましたが、いざ自分の身内となると驚きを禁じえません)

   「どうして母は私のことを心配しているのですか」と私が訊くと、Eさんは
   「矢作さんがお母様に、申し訳ない、という非常に強い思いを送っていらっしゃった
    からのようです」と言います。

   「どうしてそんなことが母にわかるのですか」
   「そういうふうにお母様がおっしゃっていますよ」

   私は、黙ってしまいました。確かに私は、生前の母に対して親孝行らしきこともせず、
   また晩年の母にも十分な対応をしてやれなかったことがひどく心残りで、
   毎晩寝る前にそうした悔恨の念を込めて手を合わせていました。

   そんな私の思いを知ってか知らずか、Eさんは「どうしますか?」と訊いてきました。

   (中略)

   結局、母との交霊はそれから2週間あまり後、3月の末にEさんの知人のFさんの
   お宅で行なうことになりました。
   (Fさんは審神者の役、Eさんを通して母の霊を降霊し、直接著者が話す)

   (以下は、交霊での、母の霊と著者とのやりとみのみに限定して紹介いたします)

   「直樹さん、ごめんなさいね、心配をかけてごめんなさいね、ごめんなさいね」
   「お母さん、私は元気でやっています。心配いりませんよ」

   「直樹さん心配させて本当にごめんなさいね」
   「私は元気で心配していないから大丈夫ですよ」
   「そう、それなら安心したわ」

   (著者が一息入れて、さらに話しかけました)

   「お母さん、ちょっと訊きたいことがあるんだけど。
    お母さんは、どうして亡くなったの。すっと疑問だったんだけど」
   「心臓発作らしいの」

   「いつ亡くなったの? 薫(著者の弟)が電話をかけなかった日? それより前?」
   「薫さんが電話をくれなかった日には、もうこちらに来ていたわ。直樹さんが帰った
    日の夕方ね(注:5月6日、死体検案書に記載された日)」

   「亡くなる前に、同居をもっと強く勧めておけばよかったですかね?」
   「そんな必要はありません」
   「でも、最期はずいぶん不自由だったでしょう?」
   「それは、問題ではなかったわよ」

   (質問を続けました)

   「そちらでお父さんには会ったの?」
   「お父さんには会わないわ」
    
   そう言って、母は少し右下を向きます。
   それ以上の質問を拒むような雰囲気でしたので、それ以上は訊きませんでした。

   「お祖父さん、お祖母さんには?」
   「会ったわ」
   「伯母さんには?」
   「会ったわ」

   「ところで、どうして私がお母さんに申し訳ないと思っていることがわかったの?
    ずっと見ていたの?」
   「そうよ」

   「私が毎晩念じていたのも?」
   「そうよ」

   「そちらの居心地はいいのかな?」
   母は、嬉しそうに頷きました。

   「私(著者)がいつ頃そちらに行けるのか知らない?」
   「そんなことは訊いてはいけませんよ」


   「とにかく、こちらのことは本当に心配しないで」と、母は再び念を押しました。
   「わかりました。でも私が毎月行っている納骨堂へのお参りは続けていいでしょう?」
   「それは嬉しいわ」

   「お供え物をしなくてよろしいですか?」
   「ええ、要りません」

   「私(著者)は摂理を理解しているつもりなので宗教を必要としていないから、
    儀式らしいことを一切しませんがいいですね?」
   「それでかまいません」

   「じゃあそうするから、後のことは心配しないでね」
   「わかったわ、兄弟仲良くね」 
    母は安心したように、大きく頷きながらそう言いました。

   「大丈夫ですよ」
   「そう」
   「じゃあ、これでもうこちらには来ないんですね?」
   「ええ。お別れよ。元気でね」

   私は一瞬拍子抜けしましたが、万感の思いを込めて言いました。
   「お母さんも元気でいてくださいね。さようなら」

   ・・・

   交霊後、Eさんは
   「よかったですねえ。それにしてもすごくサッパリした方ですね」と、
   感動したように言いました。

   Fさんも呼応するように「本当に竹を割ったような人ですね」と言いました。

   ・・・
   
   通常、交霊を頼んでくる人(霊)は、現世の事柄に執着が強く、
   もっと感情的なやりとりになり、ときとして修羅場になるそうです。

   ・・・

   後日、Eさんから聞いた話では、交霊中は体の8割方が霊によって占められ、
   自分はかろうじて意識だけがあるような状態で、霊が勝手にしゃべるのを
   横で普通に聞いているといった感じだといいます。 


(4)日本人の死生観

   「古代から日本人は、人は死ぬとその霊は肉体から離れてあの世にいくと考えて
   いました。そして、亡くなった人の冥福を祈る追善や供養を営々と続けてきました。

   盆には仏壇に精進料理を供え、お寺の迎え鐘を突いて精霊を迎え、
   精霊流しをして帰すといった先祖供養を行ってきました。
   昔の日本人はみな、直観的に『人の死後の存続』を信じていたのだと思います」


(5)人は死なない

   ①「人の一生は一瞬の夢にも似た儚く短いものです。だからこそ、
    人は現世に執着するのかもしれません。
    愛する人の死を悼み、自分の死を怖れる、その気持はよくわかります。

    併し摂理、霊魂の永遠に思いを重ねつつ、今に没頭すれば、肉体の死を恐れる
    ことなく勇気を持って生きることができるのではないかと思います」

   ②「人は、今生を生きているうちは、生きることを懸命に考えなければなりません。
    なぜなら、我々は摂理によって創られた自然の一部であり、摂理によって生かされて
    いるからです。したがって、自分の体はまず自分自身で労り、よりよい状態を維持する
    ように努力しなければなりません」

   ③「人はみな理性と直観のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、
    良心に耳を傾け、足るを知り、心身を労り、利他行をし、今を一所懸命に生きられたら
    と私は思っています。

    そして、『死』を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、
    『生』を全うしたいものです」

   ④「寿命が来れば肉体は朽ちる、という意味で『人は死ぬ』が、霊魂は生き続ける、
    という意味で『人は死なない』。私は、そのように考えています」


(6)別れ

    「死別の悲しみは、現世が現世限りだと思うと底知れぬ深いものとなってしまいます。
    特に自分の子どもを亡くした親の悲しみは喪失感だけにとどまらず、ともすれば
    子どもの夭折の原因を自分に帰し、自らをひどく責め生きる意欲さえなくしてしまい
    ます。はては家族の間にひびが入り、ときに離散に至ることもあります。

    けれども、人の魂は肉体が消滅した後も存続すると考えれば、
    ずいぶんと心が安らかになるのではないでしょうか。

    現世で二度と会うことはできないという喪失感は、残されて現世を生きる者にとって
    確かに大きなものですが、大切な人と幽明の境を異にするのは一時のこと、
    他界した人はどこかで自分を見守ってくれている、いつの日か再会できると考えれば、
    死別の悲しみの本質が変わってくるのではないでしょうか」


(7)あとがき

   人間の知識は微々たるものであること、摂理と霊魂は存在するのではないかということ、
   人間は摂理によって生かされ霊魂は永遠である、そのように考えれば日々の生活思想
   や社会の捉え方も変わるのではないかということ、それだけです


           <感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>

人間死後の秘密のトビラは開かれる - 伝統

2017/01/28 (Sat) 18:31:24


         *『生命の實相』第9巻・霊界篇上巻のカバー見開き

死とは何か、死んでから人間はどうなるのか、

唯物論者のいうように、ただ単なる「灰」になってしまうのだろうか。

もしそうであるならば、そこからは何の創造も生まれず、
希望も生き甲斐も無い無軌道な生活があるだけです。
 
「心霊科学」と聞くと、すぐインチキと決め付ける人が多いが、
中には生命の永遠の不死を説いた秀(すぐ)れた学説と例証もあるのです。

本書は、欧米の権威ある実績を持つ心霊科学を紹介、
霊媒との密接な関係を現実生活にそくして詳解した画期的なものです。

           <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

Re: 人間は死なない - gcgjndhwMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:01:44

伝統板・第二
[url=http://www.g94pp1it1obex647v5t8364l8d72i0tns.org/]ugcgjndhw[/url]
gcgjndhw http://www.g94pp1it1obex647v5t8364l8d72i0tns.org/
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