伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること⑤ - 夕刻版

2016/02/02 (Tue) 20:51:50

指導者の条件46(すべてを生かす)

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はどんな人にも使い道があることを知らねばならない。

堀秀政の家臣に、顔つきがいかにも泣き顔のような男がいた。
いつも目をうるませ、眉間にしわをよせて、見るからにうっとうしい感じである。

それで他の家来が「あの男の顔つきはまことに不吉で、見るのも不愉快です。
世間も殿のことをあんな者を召し抱えたと物笑いにしています。
早くお暇をやってはいかがでしょう」と言った。

それに対して秀政は、「お前達の言うことはまことにもっともだ。
しかし、法事とか弔問の使いにやるのに、あれほど適任な者はいない。
どんな人でもそれぞれに使い道があるのであって、だから大名の家には
色々な人間を召し抱えておくことが大事なのだ」と言ったという。

人間というものは顔かたち一つをとってみても一人一人みな違っており、
全く同じという人はいない。
まして、性格、気質、才能、ものの考え方というものを考えれば、
いわゆる十人十色、万人万様に違ったものを持っている。

従ってまた、あらゆる面で優れているという人もいなければ、
反対に全ての面で他よりも劣るという人もいない。

それぞれに一長一短、何らかの長所、短所を合わせ持っているわけである。

だから、そうしたそれぞれの人の持ち味を良く見極めて、その長を取り短を捨てて、
全ての人を生かしていくことが、指導者にとって極めて大事である。

しかし実際にはなかなかそれが出来にくい。

ともすれば限られた面だけを見て、人の長短を判断し、あれは有能な人材、
これは無用の存在といった風に決めつけてしまいがちである。

秀政の家臣達は、戦国の世のこととて武勇といったことを中心にものを考え、
それで、その泣き顔の男に暇をやれと言ったのだろう。

しかしいかに戦国の時代でも、戦ばかりしているわけではないし、
また戦にしても、単に武勇に優れた人だけでなく、色々な役割が十分に果たされて、
初めて戦力となるのである。

秀政はさすがにその事を知って、大名の家には色々な人材が必要だと言ったのだろう。

まして今日の社会は戦国時代とは比較にならないほど複雑多岐にわたっている。
それだけ多種多様な人が求められていると言えよう。

従って、今日の指導者は秀政以上に、色々な人を求めることに意を用いなくてはならない。

無用の人は一人もいない。

そういう考えに立って全ての人を生かしていくことが極めて大事だと思う。

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46

(2)スレッド「人の上に立つ者に求められること①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974

(3)スレッド「人の上に立つ者に求められること②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6518568

(4)スレッド「人の上に立つ者に求められること③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6565311

(5)スレッド「人の上に立つ者に求められること④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6611149

            <感謝合掌 平成28年2月2日 頓首再拝>

レイモンド・エイムズ・スプルーアンス - 伝統

2016/02/04 (Thu) 18:42:32


第15人目 「スプルーアンス」


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

もしこの人がいなかったら、ひょっとしたら日本はこの前の戦争に勝っていたかも、
あるいは少なくともドロー・ゲームになったかもしれないと思われる人物がいる。

(この仮定は今から見ると荒唐無稽のようだが、昭和17年=1942年には十分現実性があったことは、
アメリカの作家ハーマン・ウォークもその理由をあげて書いていることだ。)

この人物の名はレイモンド・エイムズ・スプルーアンスである。

彼は劣勢なアメリカ機動部隊を率いてミッドウェイ海戦を行い、
その当時、史上最強、並ぶものなき南雲中将の率いる日本の機動部隊を
全滅させた男なのである。

その後、アメリカの第五艦隊を率いて
ギルバート諸島、マーシャル群島、マリアナ海戦、硫黄島、沖縄など
中部太平洋のすべての大作戦を指揮し、完勝した。

彼の最後の戦場である沖縄攻略の時は、指揮下にあった艦艇の数は
実に1500隻、航空母艦だけでも16隻というものであった。
史上空前の大艦隊であり、今後も二度と見ることはできないであろう。

数年前、台湾問題が緊急となり、北京政府が威嚇のミサイルを発射した時に、
アメリカが派遣した空母は二隻であったが、これで北京政府がおとなしくなったことを考えると、
日米の太平洋をはさんでの戦争が、いかに巨大なものであったか―――史上空前絶後の
巨大規模であった―――わかるであろう。

しかしスプルーアンスの名前は知る人ぞ知る、と言った程度である。

スプルーアンスは1886年(明治19年)に母の実家のあるボルティモアで生まれた。
両親ともこれという家系ではない。父の家はもとは農家で、中西部のインディアナ州に
住んでいたから、海とも関係がない。

しかもその後、祖父の家が破産し、父は世捨て人のようになり、
田舎の出版社に勤めていた母の収入だけが頼りという状態で育った。
大学に進学する学資がないので海軍兵学校に入ることになったのである。
(日本の秋山真之兄弟を思わせる。)

 
彼は内気な少年であった。このひかえめな性格は一生続く。
マスコミに出ることを嫌ったため、業績にふさわしい知名度はない。
そして1906年(明治39年)、つまり日露戦争の翌年に209人の同期生中、
21番で海軍兵学校を卒業した。上位1割の最後になるくらいの成績である。
決して悪くはないが、傑出した成績でもない。

マッカーサーが一番で通したのとはだいぶ違う。
日本との戦いが起らず、しかもそれが空母中心の機動部隊の戦いということでもなければ、
スプルーアンスは同級生ぐらいにしか名の知られない平凡な海軍大佐ぐらいの将校として
退役したであろう。

 
スプルーアンスの特色は、静かで、はにかみやで、手堅く、注意深いことであった。

彼は貧乏の苦労を体験しているから家計にも慎重で、若い時から注意深い金銭管理によって、
晩年は億単位の資産を有する老人として、庭と温室を趣味とする悠々たる隠居生活を
カリフォルニアで送り、83歳でなくなった。

内気とか、はにかみ屋と言われていたにもかかわらず、
しかも航空部隊の経験がなかったにもかかわらず、

機動部隊司令官のハルゼーが急病になったためにその機動部隊を率いて
ミッドウェイの海戦に出るや、最も必要な時に、断乎たる命令を下したのである。

日本の敵の機動部隊が発見されたという情報が入ると、
ただちに全力をあげて攻撃に向かわせている。

あとは「運」であるが、このときアメリカに勝ち運がついた。
その「勝ち運」のついた艦隊を率いてスプルーアンスは沖縄に至るまで一方的に勝ち続ける。

ミズリー号上の日本の降伏調印式に出席するようにとマッカーサー元帥から招待されたが辞退し、
艦隊にとどまって守りの手をゆるめなかった。

英雄として大歓迎を受けることもなく、
日本にとどまってアメリカ兵の引き揚げ業務などを指揮している。

アメリカ海軍で最も若くて四つ星の提督、つまり海軍大将になったこの人は、
それほど地味な人だったのだ。

 
アメリカ海兵隊はギルバート群島の中のタラワという小島を取るために
千人以上もの海兵隊員の死者を出した。

(この守備隊長の柴崎少佐の功績はたたえられるべきだ。)

これを徹底的に検討して、上隊作戦の方式を作り上げ、
次のマーシャル群島の作戦では、海兵隊の死者は200人であった。

 
スプルーアンスの注意深い性格は、
大艦隊を日本軍に気付かれないように使うことを成功させたのである。

トラック島の日本海軍の大基地が奇襲され、
日本軍の飛行機約200機、艦船約40隻が失われた時でも、
彼の艦隊は飛行機17機を失っただけであった。

沖縄の戦では、日本の神風特攻機によって彼の旗艦インディアナポリスは
退場しなければならなくなり、更に次の旗艦ニュー・メキシコも神風特攻機のために
使えなくなっている。

(日本の神風特攻機が、アメリカの大艦隊の旗艦を二度も使えなくしたことに対しては
改めて敬意と追悼の意を表したい。)

艦隊司令長官のスプルーアンス大将みずから、消火ホースを握って消火に務めた。
怪我や戦死しなかったのは彼に武運があったからであろう。

彼はまたこう言っている。

「戦争において個人が有名になるのはマイナスである……名声を得たことによって
頭が変になる危険があるからだ……人は自分自身のことや、自分に与えられるかもしれない
名声のことなど忘れ、正しい決定を下すために全力を集中しているときに初めて
最善の判断ができるのだ。」

この彼は生存中はマスコミなどで人気者になることはなかったが、

今では「知力にすぐれ、決して判断の誤りを犯すことのなかった人物」

という評価が定まっている。

彼は兵学校卒業後間もない頃の航海で日本に来た時、
パーティー席上で東郷元帥に会った感激を終生忘れなかった。

他の提督が日本人を侮辱する言葉を吐くのが当然の時代でも、
彼は日本軍に対する敬意を失わなかった。

それで極めて慎重な作戦を立て続けたのである。

その東郷元帥を知らない日本人が増え、東郷元帥に与えられたと同じ勲章が、
靖国神社の首相参拝をやめることにした中曽根氏にも与えられていることこそ、
日本の戦後の本質を示していると言えよう。

     (http://www.jmca.jp/column/watanabe/15.html

            <感謝合掌 平成28年2月4日 頓首再拝>

『状況判断能力と統率力』 - 伝統

2016/02/06 (Sat) 19:00:30


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

学生であれば、試験結果がいいとかモノ知りであるといったことを“頭がいい”と称するが、
ビジネス社会となるとそう単純ではない。

ビジネスでは、状況判断が的確で、問題解決能力が高い人に対して“あの人は頭がいい、
切れる人だ”というような形容詞をつけることが多く、知識が豊富なだけではこうは云われない。


ある山奥の川に「金の塊」があると聞いて、探しに出かけた男が二人いた。
一人は川の中から金の塊そのものを見つけ出し、
もう 一人は、金の塊がどこから流れてくるのかを調べて金の鉱山を見つけたとする。

ビジネス社会において“あの人は頭がいい、切れる人だ”と云われる人材は後者だ。

つまり、ビジネスで求められる“頭の良さ”とは、
「頭の回転が速いこと」「読みが深いこと」「勘が鋭いこと」と置き換えてもいいことになる。

頭の回転が速いということは、
“同じ結論に達するにしても、人より早く到達できる”ということだ。


このように、頭がよい、切れるとは、一般的に“正確で早い反応”を意味する。

そして、この正確で素早い反応とは、「知識」と いうよりは「知恵」の部類に入る。

知識に対して知恵―――。
では、知恵を高める要因は何かといえば、「謙虚さ」「素直さ」「向上心」である。


たとえば、同じ情報を得ても人によって反応や行動が異なる。これは判断力の差だ。
判断力は、自分のそれまでの知識とか体験を 一度ゼロにして、
素直な気持ちで謙虚にユーザーの声を聞いたり、データの数字を見ることによって培われるものだ。

それも一度だけでは身につかず、粘り強さや向上心を発揮して
何回も繰り返してこそ自分のものとなってくる。

社会に適応していく能力が「知恵」であり、それが最終的には
「謙虚さ」「素直さ」「向上心」といったものに依存しているならば、
今からでも十分に高めることができる。

知恵は知識に比例するものではなく、学歴とも原則的には無関係なのだ。


あるいは、知恵は学習能力を高めることによって身につけることができる。
的確な状況判断力、高い問題解決能力を備え、ビジネス社会で“頭がいい、切れる”
と形容される人は、この学習能力が高いともいえる。

ビジネス界の成功者に共通する強烈な個性、創造性、優れた状況判断能力、リーダーシップ力は、
決して学問的知識によって身につけたものではない。

「謙虚さ」「素直さ」「向上心」などをもって学習能力を高め、
知恵を磨いたからこそ自分のものとなったのだ。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito30.html

            <感謝合掌 平成28年2月6日 頓首再拝>

指導者の条件47(誠実である) - 伝統

2016/02/08 (Mon) 21:00:45


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に誠心誠意ということを心がけなくてはならない。

文禄4年、京都に大地震があり、秀吉の伏見城も壊れ、多数の死者も出た。
この時、加藤清正は秀吉の勘気を受け謹慎の身であったが、
「たとえ後で罪を得ても座視しているわけにはいかない」と言って、
直ちに家来を引き連れて駆けつけ、秀吉の警護にあたった。

その誠実な働きに秀吉も大いに喜び、怒りも解け、再び重用されるようになった。

清正はその晩年に、
「自分は一生の間、人物の判断に心を尽くし、人相まで勉強したが、結局良くは分からなかった。
ただ言えるのは、誠実な人間に真の勇者が多いということだ」
と言ったという。


これは彼自身が多くの部下を用いた体験から得た結論だろうが、
同時に自分自身がまた、誠実を通した人でもあったのだと思う。

秀吉が死に、天下の人心がみな家康になびく中で、秀頼を守り、
二条城での家康と秀頼の会見にも命がけで付き添っていくなど、終生秀吉の恩を忘れず、
豊臣家の安泰のために尽くしたことなども、その一つのあらわれであろう。

だから、さすがの家康もその誠忠ぶりには感嘆を惜しまなかったとも言われている。
結局、誠実な人はありのままの自分というものをいつもさらけだしているから、
心にやましいところがない。

心にやましいところがなければ、よけいな心配をしたり、恐れたりすることなく、
いつも正々堂々と生きることが出来る。

それを、自分をよく見られたい、よく見られようなどと考えて、
あれこれ作為をすれば、その作為のためにいらざる気を遣うということにもなろうし、
そのことが一種の後ろめたさともなって、力強い信念に満ちた活動もできにくいだろう。

これは事業でも政治でも同じ事だと思う。

商売というとなんとなく駆け引きのように考えるかもしれないし、
そういうものが全く必要ないというわけではない。

しかし根本はやはり誠実にありのままの姿を率直に示して、
それを誠意を持って相手に了解してもらうということでなくてはならない。

そうでなく、駆け引きや術策だけに頼っていたのでは、
長きにわたって信用を得、発展させていくことはできない。

政治にしても同じ事で、結局は真実を率直に訴えていくことが必要だと思う。
いたずらに迎合的に、耳に響きの良いことばかり言っていても、
一時の人気は得られても、真に国家国民のための政治はできない。

結局最後に人を動かすものは誠実さであることを指導者は知らなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成28年2月8日 頓首再拝>

「大石良雄」 - 伝統

2016/02/11 (Thu) 20:10:22

第17人目 「大石良雄」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

忠臣蔵の主人公である大石良雄のリーダーシップは、
泰平の世の徳川中期の頃には、比類なく目立っている。

武家のリーダーシップを考える場合、血統が物を言うことは
源頼朝や足利尊氏の例でも明らかであったが、大石良雄の場合もそうである。

赤穂の浅野家の中において、大石家は代々重臣である上に、殿様のお姫様をいただいた者もいる。
つまり大石良雄は、家老であると共に、殿様の親類筋でもあった。

他にそういう重味のある家系の者がいなかったのであるから、
彼がみんなにリーダーとして仰がれ易いのは当然であった。
大石以外の人では、浪人になった他の武士たちを多くまとめることは不可能であったろう。
これが封建時代というものである。

しかし名門というだけでは、お家断絶という非常時にはリーダーになれるわけはない。
ふだんは大石は昼行燈(ひるあんどん)と言われるくらい冴えない男だった。
それにいかにも元禄武士らしく遊び好きでもある。

殿様の浅野内匠頭も大石のような人物を好まず、
大石は年に何回も家で謹慎するよう命じられたとも言われている。
奥さんも子供を連れて実家に帰ったことが何度もあると言うから、今で言えば、
オーナー社長に出社停止を言い渡された同族の専務みたいなものである。

幕藩体制の下での本当に平和な日々においては、人の器量はなかなか分からない。
同じ家老でも大野九郎兵衛のような日常事務の得意な者が殿様に重用される。

 
ところが一旦緩急あると、突如として人間の本当の器量が現れる。
大野は早々に退散する。大石は泰然として万事を非のうちどころなく見事にこなす。
赤穂開城の際のリーダーシップの見事さは大名の間でも評判になり、
大石を召し抱えたいと申し出た大名が十人近くもいる。

 
これはどういうことか。佐々淳行氏の本でも、東京空襲の時に、
慌てふためいたのは防空班長などで平生は威張っていた人で、冷静だったのは、
いつも本ばかり読んでいた佐々さんのお父さんとか、近所の数学の女教師だったそうである。

 
大石は遊び人ではあっても、山鹿素行の学問を身につけ、東軍流で剣術を磨いていた。
特に、平生から組織的に思考する訓練をしていた。
だから殿様の切腹から、吉良邸討ち入りまで、今からみると整然として筋が通っているのである。

先ず、殿様の弟による浅野家再興を第一と考える。
しかしそれが駄目な場合も考えて仇討ちの路線も、表には出さないが捨てていない。
浅野家再興の望みが断たれた時点から「亡き殿の無念を晴らす」ことに全力をそそぐ。

大石が偉いのは「お金」を重視したことである。
まず藩札を実際のお金と引き替えることをやって領民を完全に静かにした。
お城にあったお金を上に薄く、下に厚くなる割合で配分して家中の者を沈静させた。

自分は分配金を辞退している。
浅野家再興費として残した一万両や殿様の未亡人の持参金などの用途も明快である。
そこからは浪人した同士の生活援助費も出ている。

討ち入り四十七人のうち、四十二人は直接、大石からお金を受け取っている。
面白いことには浪士たちから一々受領書を取っていることだ。
未亡人関係のお金は約六九〇両あったのだが清算すると七両ぐらい計算が合わない。

その分は大石が自分で出して、残金とその帳簿を未亡人のところに討ち入り前にとどけている。
当時の武士で「お家断絶」という大変事に当り、一両まで領収書つきで帳簿で明らかにするような人が
ほかにいたであろうか。

お金についてもこれほど正確にやっているのだから、他の手配が萬全だったのは当然と言えよう。
特に討入り直前にみんなに誓わせた文章は感激的である。

 
解り易く要点を記すと、その第二条には
「吉良家に討入りした場合の功績は、任務によって差はない。
上野介殿の首をとった者も、門の警戒に当たっていた者も、同じ手柄とする。」

その第三条には、
「お互に平生は仲のよい人も悪い人もあろうが、この際はお互に助け合い、
勝利の全きところを専らにして働くこと」としてある。

「勝利之全所を専に」というのは古今の名言である。
目的達成のためには、私情も捨てよというのだ。

この前の日本の高級軍人たちがこの精神であったならばと思わざるをえない。

何しろ責任者の出ることを怖れてミッドウェイ敗戦の検討もやってなかった。
勝利をうるよりも上官のメンツなどの方が重要だったような場合があまりにも多かったことを、
今更ながら残念に思う。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/17.html

            <感謝合掌 平成28年2月11日 頓首再拝>

『成功の方程式』 - 伝統

2016/02/13 (Sat) 20:18:28


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


“何、私が天才だって? 成功の99%は努力の結晶だ”
といった意味の言葉を残しているのがエジソンだとすれば、

ホンダの創始者である本田宗一郎氏は
“99%は失敗の連続だった。そして実を結んだ1%の成功が現在の私である”と言っている。

一所懸命に、人よりも「長い時間」努力すれば成功は得られる。
一般的にはそう信じられているが、それはウソである。

ウソという表現がオーバーであるとすれば、人よりも時間を「効果的」に使って、
それも「正しい方法」でコトにあたれば、成功する確率が高くなると言い換えてもいい。

  《成功 = 情熱×時間×方法》

私が考える『成功の方程式』だ。

「情熱・時間・方法」の3つのパイが大きければ大きいほど、結果として成功のパイも大きくなる。
つまり、「情熱」を持って一 所懸命に、時間を「効果的」に使って、「正しい方法」で取り組めば、
成功は大きくなるということだ。


ところで、この「情熱・時間・方法」の3つはそれぞれ重要だが、
あえて重要度の順位をつけるとするとどうだろうか。

一番はやはり「情熱」である。たとえ失敗の連続であっても、
1%の可能性が残っている限りチャレンジするといった情熱なくして成功はありえない。

次いで 「方法」、3番目が「時間」だろう。
冒頭で、長い時間努力をすれば成功が得られるというのはウソだ、といったのもここからきている。


さて、この「情熱・時間・方法」にスパイスをかけるとすれば、それは「運」という要素だろう。
ある面で、成功は運に左右されるところがあるからだ。

しかし「運」というのは、相当な部分、自分自身でコントロールすることが可能である。
どう逆立ちしても、自分の力ではどうすることもできないものを「宿命」という。
「運」とは「宿命」とは違うのである。


《「運」を呼ぶには2つの方法》がある。

《「肯定的に考える習慣を身につけること」》が、ひとつである。

ポジティブになると運が向いてくるはずで、これは時間が解決してくれる。


もうひとつの方法は、《「運の強い人と付き合うこと」》だ。

運の強い人・明るい人・物事がうまくいっている人と付き合い、
いわばその「氣」を分けてもらう、エネルギーを汲み取るということだ。

     (http://www.jmca.jp/column/hito/hito32.html

            <感謝合掌 平成28年2月13日 頓首再拝>

指導者の条件48(責任感を持つ) - 伝統

2016/02/16 (Tue) 18:43:19


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には一身を捨て他を生かす心意気が欲しい。

秀吉が毛利と戦った時に、彼は高松城を水攻めにした。
長大な堤を築き、近くの川の水を流し込んで城の周囲を湖と化したのである。

秀吉の大軍に囲まれ、水のため援軍の手も絶たれた高松城では、
食糧もつきはて、城兵はただ死を待つのみという状態に陥った。

その時、城の守将である清水宗治は、自分の首と引き換えに城兵の命を助けるという、
秀吉の講和条件に喜んで応じた。
そして、自ら船をこぎ出し、敵味方の見守る中で、従容として切腹したと伝えられている。

こうした話は、他にもたくさんあるようで、
そのように自分の命を捨てて、部下の命を救うということが、
戦国の武将としての一つの心構えだったのだと思う。

よく”一将功成りて万骨枯る”ということが言われる。

一人の大将が輝かしい功名をあげていくその陰には、
多くの兵卒が命を落とすといった大きな犠牲が払われているということだろうが、
これは一面真実をついていると思う。

しかし、ただ何もなくて万骨が一将のために命を捨てるものではないだろう。
その裏には、清水宗治のように、戦い利あらざる時は、責任を一身に担い、
自分の命を捨てて部下の命を助けるという大将の心意気というか責任感があって、
それが部下をして身命を賭してまで働かせる力になったわけである。

このことは今日の指導者にも基本的に通じることだと思う。

もちろん、戦国の世とは時代も違うから、腹を切るというような事態はあり得ない。
しかし、大将として一朝ことある時には、自分が命をかけて一身に責任を取るのだ
という心構えの大切さは昔も今も変わりはない。

一国の首相であれば国民のために、会社の社長であれば社員のために、
さらには一つの部や課の長であればその部下のために、大事に際しては
自分の命を捨てるのだというほどの責任者としての心意気を持たなければならない。

そういうものがあれば、部下の方も、長を死なしてはならないということで、
長を盛り立て、一致団結して事に当たるようになるだろう。

”一将功成りて万骨枯る”というのも一面の現実だが、
”一将功成りて万骨生きる”というのも一つの真実である。

そういう強い責任感を持たない指導者であれば、
その人は所詮は人を使っていくことは出来ないと言えよう。


            <感謝合掌 平成28年2月16日 頓首再拝>

「チャーチル」 - 伝統

2016/02/18 (Thu) 19:32:03

第18人目 「チャーチル」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

最近のBBC(イギリスのNHKみたいなもの)の世論調査で、
チャーチルは「史上最も偉大な英国人」に選ばれている。

そのリーダーシップについてはよく知られているが、
注目すべき諸点をもう一度見ておく必要がある。

 
第一にチャーチルは源頼朝や足利尊氏と同じくイギリスきっての名門の出身であり、
血筋が重要な役割を占めていた。

イギリスは貴族制が厳存している国であり、それに対する国民的尊敬心が残っている。
チャーチルの先祖であるモールバラ侯爵はスペイン継承戦の英国総司令官、
連合国総司令官としてブレニムなどの戦場などで、何度も大勝利して
その軍事的天才はヨーロッパ中に鳴り響いていた。

軍事的才能は遺伝するというような素朴な考え方が一般にある。
国家の危機の時にチャーチルの背後には先祖の軍事的天才の後光が射す。

 
一方チャーチルは平和な時は失敗もする。
選挙に五回も落選していることはそれを物語る。
何度落選しても重要なポストに復帰するのは、彼の才能もさることながら、
名門中の名門だからだ。

 
第二に彼にはとび抜けた想像力がある。
この才能は彼がノーベル文学賞を受けるほど、
沢山のベストセラーを出していることからも分かる。

第一次欧州大戦の前に彼が首相に提出したフランスの戦場の展開予想は、
四十日の誤差でピタリと当たった。

イギリスの陸軍参謀長ウィルソンの大陸作戦計画は全く当たらなかった。
素人だけれども、想像力がすぐれているから専門家より秀れたアイデアを持ち、
かつ他人の突飛なアイデアも採用できる。

彼は元来は騎兵出身である。
しかし第一次大戦前に海軍大臣になると―――これは明治の頃、西郷従道陸軍中将が
海軍大臣になったのと一脈通ずる―――イギリスの軍艦の燃料を石炭から石油に変え、
主砲の口径を1インチ半(約4センチ半)大きくして15インチにするということをやった。

これが第一次大戦でイギリスがドイツ艦隊を押さえ込むことに成功した最大の理由である。 

また、大陸の塹壕(ざんごう)戦を実際に見ると、タンク(戦車)を考え出した。
もしこの案がすぐに採用されていたら、戦争は一年早く終わっていたと言われている。

 
第三は落選して野にある時の生活の仕方である。
彼は前に述べたように文章家であり、若い時からベストセラーを何点も出している。
その上、絵も上手で、ピカソもその才能をほめているくらいだ。

政治家は落選中は辛いものらしいが彼はその時間は悠々と読書し、著述し、
絵を画き、世界の大勢をじっくりと睨んでいたのである。

 
現代の社会で、一流の著述家が政治家になることの有利さは、
常に広い世間に向かって――イギリスの場合は英語だから世界に向かって――
自分の考え方を示すことができることだ。
この点、文学と言い、絵と言い、石原慎太郎氏の才能と一脈通ずる。

 
第四は彼のずば抜けた勇気である。
青年時代にアフリカの戦場に出て以来、第一次大戦でも戦場に出て、
恐怖を知らない者の如く振る舞っている。

向こう見ずともいえる冒険心は子供のときからのものであった。
いざという時に腰くだけになるようでは、非常時のリーダーにはなれない。
(加藤の乱の加藤紘一氏、靖国神社参拝の時の小泉首相と比較せざるをえない。)

 
第五には稀有の幸運である。
その伝記を読めば、何度も死んでおかしくない局面でも、全くの幸運で助かっている。

たとえば怪我は普通は不幸である。
しかし彼は手の骨折のため騎兵なのに剣が使えず、ピストルにしていたことがあった。
これで助かったのである。

強運の人こそ一国のリーダーであるべきだ。

 
最後に一つ、彼の最大の間違い、失敗は日本と戦争したことである。
これはイギリス人も認めたがらず、日本人も指摘する人があまりない。

しかしイギリスがオランダに石油を日本に売り続けるように説得し、
アメリカに汪精衛(おうせいえい)政権を認めるようにチャーチルが働いて
成功していたならば、大英帝国は今も健在であったであろう。

イギリスはヒトラーと戦うためにアメリカの援助を必要とし、
アメリカの言うことならば何でもきかねばならなかったのだから、
それは無理な話だったかもしれないが。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/18.html

            <感謝合掌 平成28年2月18日 頓首再拝>

『ツキに恵まれる人、見放される人』 - 伝統

2016/02/22 (Mon) 20:40:19


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

私は、本質的に運命論者ではないし、家相・手相など一切信じない人間だ。
(ただし、人間観察という意味で「人相学」については参考としている)


だが、たしかに運がいいタイプがいる一方でツキに見放されるタイプもいるように、
運やツキにも濃淡があるようだ。

そこで、運を招くタイプを考えてみた ところ、
次のような当たり前のポイントが浮かび上がってきた。

  (1)明るく肯定的なタイプ
  (2)思い切り・ふん切り・度胸タイプ
  (3)人に好かれるタイプ
  (4)やる気・努力タイプ

必然的に、こうした運を呼び込むタイプは、積極的で、やる気も人相に現れてくるもので、
反対に、ツイていない人はこれの逆のパターンであることが多い。


もっとも、運とかツキとかチャンスとかは、
長いビジネスライフの間には、誰にでも何回かは訪れてくるものである。

私の36 年を越すビジネスマンとしての経験を振り返っての確信だ。

  “あいつが部長に出世できたのは、運がよかったからだ”
  “俺が昇進できないのは、ツキが無いからだ”

ビジネスの社会では、しばしばこのような言葉を耳にする。

しかし、7年・8年・10年という中期、長期で追跡調査を行なってみると、
必ずといってイイくらい、その人本来の実力にふさわしいポジションに収まっているものだ。

ツキに恵まれ早く出世した人も、ツキに見放され遅いスタートを切った人も、
年月の経過とともに実力相応の地位に就いているのがビジネス社会だ。


では、“ツク、ツカナイ”の分かれ目は何かといえば、
それをキャッチする能力と勇気だけといっていいだろう。

運が無いとい う人も、ほんのちょっとの勇気とガッツで、
幸運の女神が微笑もうというものである。

「不運は天才の産婆である」とは、ナポレオンの言葉だが、
ツイていない時にこそ自分を見つめ直し、実力を磨くチャンスであ る。

心を許せる友人や先輩に
“何がマズイのか、欠けているのは何か”などアドバイスを求めたり、
強運の人と付き合うように心がけ、

相手の強運の影響を受け て自分の運を変化させたりと、
もがき努力するうちに道は拓けてくるものである。

一番いけないのは、ツキがないからといってヤケを起こし、仕事に積極性を失ったり、
サボタージュしたり、周囲に不満を漏ら したりすることである。

ますますツキに見放され、自分の墓穴を掘っていくことになる。

    (http://www.jmca.jp/column/hito/hito33.html

            <感謝合掌 平成28年2月22日 頓首再拝>

指導者の条件49(世間に従う) - 伝統

2016/02/25 (Thu) 20:00:26


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より


指導者は”世間は正しい”という考えに立たなくてはならない。

秀吉の軍師として、秀吉の天下統一に大きな力となった黒田如水がこういう事を言っている。

「神の罰より主君の罰の方が恐ろしい。主君の罰よりも、臣下領民の罰の方が恐ろしい。
なぜなら、神の罰は祈りによって免れることが出来る。主君の罰は詫びて許しを受けることが出来る。
しかし、臣下領民にうとんぜられては、祈っても詫びてもいかんともしがたく、
必ず国を失う事になるだろう。だからこれが一番恐ろしいのだ」

世間には色々な人がいる。
だからその考えもまちまち判断も様々である。
正しい判断をする人もいるし、そうでない人もいる。

しかし個々の人をとればそうではあっても、全体としてこれを見れば、
世間というか民衆というものは正しいものだと思う。

だから、こちらのやっていることが正しければ、世間はそれを受け入れてくれるが、
そこに誤りがあれば世間の入れるところとならない。

そして、非常に多数の人からなる世間だから、
いったん信用を失い、疎んじられたら、それを回復する事は非常に難しい。

これが一人の主君の怒りに触れたというのであれば、その怒りは非常に激しく、
時には首が飛ぶということにもなりかねないが、しかし相手は一人だから、
詫びるにしても、とりなすにしても全く方法がないというわけではない。

しかし、相手が多数の世間大衆であれば、詫びるすべもない。
だから最も恐れなくてはいけないというわけであろう。

西洋のことわざにも”民の声は神の声”というのがあるという。

また、アメリカの生んだ偉大な政治家であるリンカーンは、
「一部の人を長い間だます事は出来る。また、全部の人を一時的にだます事も出来る。
しかし全ての人をだまし続ける事は出来ない」と言っているそうである。

要は、神の如き世間の声を聞き、正直に誠実にそれに従っていくという事であろう。

そうする限りにおいては、世間は暖かく受け入れてくれるのであり、決して恐れる必要はない。

恐るべきは、それからはずれる事である。

黒田如水といえば、張良という名軍師にも比せられた智将であり、
いわゆる権謀術数に長けた人というイメージが強いが、
その人にして、根底にこういうものを持っていたのは味わうべき事だと思う。

            <感謝合掌 平成28年2月25日 頓首再拝>

伊藤博文 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 18:58:28

第19人目 「伊藤博文」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


子供の頃に読んだ『キング』に博文についての逸話があった。
戦前のこの講談社の国民的大雑誌には偉人についてのエピソードが
よく掲載されていたものである。

その話というのは次のようなものだった。

ある政治家が料亭に行ったら、藝者が「また大きな戦争でも起るのですか」と聞いた。
その政治家が「なぜそんなことを聞くのか」と問い返すと、その藝者はこう答えた。

「伊藤博文様はよく藝者のひざ枕でくつろがれ、すぐ眠られます。
しかし大きなことがある前は、目を閉じては開き、閉じては開き、眠りこむことはありません。
近頃はいつもそうです。何かお国の大事件でもあるに違いありませんわ。」

 
あの頃の政治家たちは料亭で藝者の踊りを見たり、自分も端唄を歌ったりしてくつろいだり、
また政治の密談などをした。

幕府を倒す相談も、維新の志士たちは料亭や遊里でそうしてきた。

その理由の一つは、各藩から京都や江戸に出てきた志士たちの集まれる場所が
料亭以外にはほとんどなかったからである。

その習慣は明治政府になっても続き、
それは江戸時代の各藩の江戸留守居役同士のつき合いの慣習とも合致し、
料亭は日本の政治と切り離せないものになっていた。

フランスのサロンとか、イギリスのクラブなどと一脈通ずるものがあった。
そこに働く藝者は、一流の料亭では一流の藝者で、藝も達者で頭もよかったが、
お客の政治・経済の話は聞いても耳に入れない訓練がされていた。

密談が料亭から洩れることはまずなかった。
洩れたらその料亭はつぶれるおそれがある。
(戦後でも、赤坂の某料亭の下足番が、お客の名前をマスコミに洩らしたため、
その料亭の女将はノイローゼになり、後になくなった。)

 
伊藤は維新の志士である。
今の基準で「藝者のひざ枕」を批判してはいけない。
重要なのは、伊藤は朝から晩まで日本のことを考えていたことである。

この時は日露戦争の前である。
ロシアが朝鮮半島全部を支配し、隠岐・対馬のすぐ目と鼻の先の鎮海湾に
軍港などを作ろうとする動きを見過ごすべきか、決戦すべきか。
藝者のひざを枕にしていても眠りに落ちることはできなかったのだ。

 
伊藤の一生を貫いた特徴は「お国が第一」ということでそれについては一点の疑問もない。
幕末の頃、伊藤ら5人は長州藩から金を出してもらってロンドンに渡った。
船では水夫の役をやらされひどい目に合ったりもしたのであるが、
ロンドンでは英語の勉強にうちこんだ。

伊藤は以前に長崎に洋式兵法を習いに行った時から英語の勉強に熱心だった。
そしてイギリスから世界を見て、攘夷などできるわけがないと悟った。
世界の大勢に開眼したのである。

ロンドンで1年ほど経った時、
長州や薩摩が外国船を砲撃し、戦争になりそうなことを知ったのである。

「こうしてはおられぬ。絶対に欧米と戦ってはならぬことを説こう」と
伊藤と井上馨の二人は帰国する。

他の3人は「自分たちは西洋のことを勉強するように命じられてきたのだから帰らない」
と言ってイギリスに残った。

自分の祖国が危いことをやろうとしていることを新聞記事を読んで、
すぐに帰国を決行するところが伊藤と井上の偉いところである。
攘夷勢力の強いところに帰れば暗殺される危険も高い。

しかしそんなことを言ってはおれない、という気持ちが強いのだ。
事実、井上は帰国後は暗殺団に襲われ瀕死の重傷を負っているし、伊藤も何度か危なかった。

伊藤は若い時は血気盛んな志士で、何度も暗殺に加わっているし、
また品川の御殿山の外国公使館の焼き討ちにも重要な役割を果たした。
そういう血の気の多い博文は、年を取るにつれて、着実に慎重になる。

大久保利通が暗殺された後は、伊藤を中心に明治時代が進行するが、
それは伊藤の考え方が慎重緻密であることがみんなに認められてきたこと、
特に明治天皇が「伊藤が一番安心できる」と信頼されたからである。

初代首相、初代枢密院議長、明治憲法の起草者として
伊藤は誰から見ても元勲中の元勲であった。

しかし彼は自分のメンツより国のことを重んずる人であった。
日露戦争は避けるべきだとし、日露協商論者であった。
ロシアを説得するためにヨーロッパに出かけた。

その間に、イギリスからの提案もあり、日英同盟が成立する方向になり、
伊藤は浮き上がった形になった。
彼は日本の国力を考えてロシアとの戦争はあくまでも避けたかった。

しかし最終的には開戦を決心する。
そしてアメリカ大統領ルーズベルトと同窓生であった金子堅太郎を
アメリカに派遣して平和條約の下準備をさせる。

開戦前から終結の工作を始めさせているのだ。
この前の戦争の指導者と比べてもみよ。

最も大きな政府側の権力者でありながら、自ら政党の党首となるのである。
コレが原敬に至るまでの日本の民主主義の本流となった。

朝鮮を植民地にすることにも反対であったが、
彼の意向を挫いたのは朝鮮人たち自身の動きである。

また子供を政治家にしなかった。
「政治家の世襲は幕府時代と同じではないか。われわれはその幕府を廃止したのだ。
また再び幕府みたいになっては維新で死んだ人たちに申し訳がない」という考えだったようである。

そう言えば維新の元勲に二世政治家はいない。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/19.html

            <感謝合掌 平成28年2月28日 頓首再拝>

人の振り見て 我が振り直せ - 伝統

2016/03/01 (Tue) 19:11:03


           *「心の眼」井出章彦・著(P106~107)より


  人を見るには 言葉より 行ないを見よ
  言うは易(やす)く 行なうは難(かた)し

  言葉ばかりの おえらいさんが
  世の中どれほど いることか

  人の振り見て 我が振り直せ

  言うことりっぱ やることおろそか
  言うことすごい やることおそまつ

  言うだけ言って 自分はどうなの?



人間は、機械ではありません。
感情を持っているのですから、言い方というものを考えなければ、人は動かないでしょう。

そして言う人の日頃の態度も、大いに関係してきましょう。

言う人は自らの生活態度、日常の態度をまず、振り返ることが大切です。

            <感謝合掌 平成28年3月1日 頓首再拝>

『机に座って現場は見えない』 - 伝統

2016/03/04 (Fri) 18:54:00


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

これだけ市場や技術の変化が激しい時代にあっては、過去10年うまくいっていたからといって、
この先どうなるか判るものではないし、成功と思ったときは没落の始まりであったという事態も
無きにしもあらずだ。

それを考えたとき、今日ほど、リーダーに“先を見通す眼”が求められている時代はない
のではなかろうかという気がしている。

もっとも、だからといって「時代の変化に“対応”していかなければならない」
といった言葉を耳にすると、「?」という気持ちがわいてくるのが素直なところだ。

多少、言葉尻をとらえた議論にナルガ、「対応していかなければならない」というのは、
既に起きてしまっていることに対するもので、後追いの発送から抜けきっていないからだ。
新幹線に遅れそうだからタクシーを使おうというのと同じ発想で、いかにも事後対策の感を免れない。


リーダーたるもの、変化を見越して先手先手で戦略を練り、
戦術を具体化していく先取り感覚が必要になる。

新幹線に乗り遅れないためにはどうすべきか、
何時には仕事を切り上げて駅に向かう必要があるのか、
つねに心に留めておくことが大切だ。

とはいえ、ただ先取りすれば良いという訳ではない。
早く駅に着きすぎて、予定より2本も3本も前の新幹線に飛び乗ったのはいいが、
肝心の同行者(部下)や乗客(消費者)が誰一人として不在ということでは、これまた問題である。


二歩三歩先ではなく、半歩先。
このさじ加減は非常に微妙だが、社長室を出て工場に出向いたり、
街を歩き顧客に声を聞いたりする中で感じ取る以外、
これを身につける方法はないと思っている。

個室にこもりがちな社長は「穴熊社長」と呼ばれ、
その反対に、フットワーク軽く街を歩き気軽に現場に出向く社長を「猟犬社長」と言っている。

かつて、詩人の寺山修司氏は『書を捨てよ 町へ出よう』と若者達に語りかけた。

また、世界有数の企業の会長室にはこんな言葉が掲げられている。

“A desk is a dangerous place from which to watch the world”
    (机に座っていて世界を見るのは危険なことである)

言うまでもなく、「穴熊」対「猟犬」。
「書斎派」と「現場派」とであれば、断然、「猟犬派・現場派」を支持したい。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito35.html


            <感謝合掌 平成28年3月4日 頓首再拝>

指導者の条件50(説得力) - 伝統

2016/03/07 (Mon) 19:50:11


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は正しい主張でもその訴え方に工夫する事が大事である。

明治の始めに、日本でも鉄道を敷く事が計画された時に、
当時の政府というか、首脳者の中にも、古い考えにとらわれて強く反対する人が
少なくなかったそうである。

その際に、岩倉具視公は、次のように説得したという。

「今度、東京に遷都になったけれども、皇室の千有余年来の山稜はみな京都方面にあるから、
天皇陛下は時々ご参拝にならなくてはならない。けれども行幸が度重なっては、
その都度沿道の人民を悩ます事になるだろう。しかし、汽車でご通過になればその心配もいらない。
だから、陛下のご孝道のためにも、鉄道は大切だ」

そうするとこれまで反対していた人たちも、「なるほど、それもそうだ」ということで、
意見の一致を見、鉄道の建設が実現の運びとなったというのである。

指導者として何か事をなしていくにあたっては、
やはり多くの人を使い、あるいは動かすという事が当然起こってくる。
そしてその場合自分の考えに共鳴、納得してもらうことがどうしても必要であろう。

そのためには、根本に正しい理念、正しい方針を持たなくてはならないのはいうまでもない。
そういうものなくして、真に人を動かすことは難しいと思う。

けれども、それでは、正しい考え、正しい主張であれば、
人は何でも受け入れ、共感してくれるかというと必ずしもそうではない。

正しい主張であっても、その正しさにとらわれて、それを強引に相手に押しつけようとすれば、
かえって反発を招くということもあるだろう。

やはり、同じ事を訴えるのでも、説き方、訴え方が大切で、
いわゆる説得力というものが必要になってくる。

だから、根底に何が正しいかということに基づく信念を持ちつつも、
同時に時を考え、場所を考え、相手を考え、情理を尽くした十分な配慮というものがあって、
初めてその主張なり、訴えが説得力を持ってくるのだと思う。

そのような説得力を持ち得ない人は、指導者として人の上に立ち、
人を動かしていくことは出来にくいと言えるだろう。

そういう意味において、この岩見公の説得法は、
まことに味わうべきものがあるのではないだろうか。


            <感謝合掌 平成28年3月7日 頓首再拝>

「ペリクレス」 - 伝統

2016/03/09 (Wed) 18:20:32


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


第20人目 「ペリクレス」

ギリシャ文明というのはつまりアテネ文明のことである。
ギリシャにはいくつもの都市国家があった。

アテネ以外にもスパルタとかコリントとかあったが、
アテネ以外にその後の世界にこれという影響を与えたものはない。
 
そのアテネにしても黄金時代といわれるものはペリクレス(紀元前491年頃―429)が
将軍(ストラテゴス)として毎年選ばれていた紀元前443年から彼の死んだ429年までの
前後約30年間だとされる。

つまりペリクレスはその後二千年以上も経った今日でも、
世界の人が範として仰ぐような時代を作った人物ということになる。

もちろんそんな偉大な時代が一人でできるわけはない。
いつの時代でも偉大な時代は大戦争の勝利の後に来る。
ペリクレスの生まれたのは、マラトンの戦いの前年であった。

今日のオリンピックのマラソン競争のもとになったマラトンは
アテネから三十数キロのところの地名である。
このマラトンにペルシャの大軍が上陸したのだ。

この頃のペルシャ帝国は強大で今のパレスチナあたりを征服して西に進み、
小アジアにあったギリシャの都市国家を片っ端から攻め落とし、その住民をすべて奴隷にし、
更にエーゲ海の島々の都市を征服・破壊して、いよいよギリシャ半島に攻め込むつもりで
マラトンに上陸したのであった。

これを迎え撃ったのは一万人足らずのアテネ軍であったが
大勝利して、ペルシャの大軍を撃退したのである。
アテネの市民たちが昂揚気分になったことは容易に想像がつく。

その頃にペリクレスは生まれた。
いわば日清戦争後の日本とちょっと似ていたかも知れない。

ところがその十年後、更に巨大なペルシャの大軍がギリシャに押し寄せてきた
(日露戦争も日清戦争の十年後でしたね)。
その後のギリシャの記録では五百万という大軍である(白髪三千丈はシナの話だけではなかった)。

その百分の一と考えても大軍である。
ヘレスポント(今のイスタンブールのところのダーダネルス海峡)に橋をかけ、
アトス山の半島に運河を掘り、空前の大軍をマケドニアに送り、
北からギリシャに攻めこんだのだ(橋と運河の話は後世では否定する人もいる)。

アテネの北部や西部のギリシャの都市の多くは抵抗をあきらめ、ペルシャ軍を自由に通行させた。
このとき小勢のスパルタ軍がレオニダス王の下でテルモピレーの峠で壮烈な玉砕をした話は、
私も少年の頃に『プリュターク英雄伝』か何かで読んだ記憶がある。

アテネの滅亡も眼前に迫ってきた。
しかしアテネには財政的幸運と軍事的幸運があった。

それはマラトンの戦いの後にアテネの近くに銀山が発見され、
その富を使って海軍を作ったテミストクレスというリーダーがいたのである。
彼は陸戦でペルシャの大軍と戦うのは無理と考え、アテネを抛棄(ほうき)し、
女と子供は近くのサラミス島に移し、男は船に乗って戦うことにした。


このときサラミス島に「疎開」した子供の中に十歳ぐらいになった少年ペリクレスがいた。
アテネは占領・破壊するにまかされたが、サラミスの海戦でアテネ海軍はペルシャ海軍を
ほとんど全滅させた(日本海海戦のように)。

海軍を失ったペルシャの陸上の大軍は補給にも不自由し―――大軍であるほど補給は難しい―――、
翌年にはスパルタとその同盟軍によって陸上でも破れ、ペルシャのギリシャ侵攻はこれで終わった。

アテネはその後、海上の攻撃に出てペルシャ海軍の残敵を一掃し、
小アジア(今のトルコ南岸)のギリシャ人の諸都市やエーゲ海の島々を解放し、
ペルシャより護ることにした。

この背景でいわゆるデロス同盟ができたが、その中心は当然アテネである。

更に紀元前468年に今のトルコ南岸でペルシャ軍を陸上と海上でデロス同盟軍が大勝し、
ペルシャからの危険は完全に取り除かれた。
そしてアテネは地中海の海上帝国となった。

そのときのアテネの指導者はキモン。
ペリクレスは二十三歳ぐらいの青年だった。

ペリクレスの父はペルシヤ海軍の残敵を全滅させた艦隊の指揮者の一人であり、
母もまた名門の出であった。名門の出ということは源頼朝や足利尊氏の例でも見たように、
昔は出世の重要な條件である。

ペリクレスは名門出身であり、抜群のリーダーシップでアテネ海上帝国を繁栄させた。
重要なのはそのペリクレスがアテネ市民を指導した弁論である。

それは彼の死の1年前に、スパルタとの戦で戦死した人たちを祀る際に行った
演説に最もよく示されている。それはアテネの理想であると同時に、
近代ヨーロッパ、そして今の全世界の理想ともなったものであった。

 
「われわれの政体はどこの国の真似でもない。われわれは近隣諸国の手本なのである。
われわれの政体はデモクラシーと名付けられる。それは少数者の手に権力があるのではなく、
多くの人の手にあるからだ。(彼は貧しい人も執政官になれるようにした)われわれの法律は
個人同士の争いに対しては平等な正義を保証し、世論はすべての分野の業績を歓迎し讃える。

われわれは抑圧された者たちを守る権威者と法律に特によく従う。
われわれの国は働けばよいという国ではない。
どの国もわが国ほどよく精神のリクレーションの手段を与えるところはない。
わが公共的建物の美(彼はパルテノンも建てた)は心を晴れやかにし目を楽しませる。

われわれは美を愛するが奢侈には耽らない。
知恵を愛するが男らしさは失わない。
富はわれわれにとって虚栄の手段ではなく功業の機会を与えてくれるものである。

わが市民は公的、私的義務を持つが、私的な利益で公的利益を害することはない。

われわれは公的生活を無視して生活する人を「静かな人」と見ないで「無用な人」と見倣す
点において他の国とは違うのだ。一言で言えば、われわれの都市アテネは
全ギリシャに対して教育になっているのである。」

 
ギリシャは滅んだ。
しかしペリクレスの説いたことは西ヨーロッパの近代国家の理想となり、
特に現代のアメリカに重なるのである。

アメリカの大統領は自分をペリクレスだと思っていると考えるべきだろう。

            <感謝合掌 平成28年3月9日 頓首再拝>

創造性~使命感がアイデアを生む - 伝統

2016/03/11 (Fri) 19:34:46

          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

これからのリーダーには、創造性が求められるようになる。

時代は、過去のデータ予測を超えた動き方をしており、かつて日本経済発展の立役者として
世界に鳴り響いた“カイゼン(改善)”程度では、とても追いつける程度のものではない。

新製品の開発、新サービスの考案、新規市場の開拓などにしても、
新しい発想からのそれが求められているからだ。

その創造性を高める前提条件は何かといえば、
誰にでも創造性は備わっていることを認識し、
創造性を高める訓練をする以外に道はない。


アルキメデスは溢れるお湯を見て浮力の原理を発見した。
ニュートンも、リンゴの落下から万有引力の法則を生み出した。

空気タイヤの発明者であるダンロップは獣医であったが、公園を散歩中、
転がってきたサッカーボールを蹴り返した時に“自転車に使える”とひらめいたという。

これらの事例をもってして、ひらめきや創造性は、
偉人・天才のみに与えられた才能であると悲観的に考えることはない。
かのエジソンにしても、
“成功は1%の才能と、99%の努力の結果だ”といっている。

そもそも、彼ら偉人・天才にしても、
四六時中ずうっと浮力や引力について考えていたのではない。
意外にも日常の雑事に追われていたり、
頭の中を空にして散歩などに時間を使うことも多かった。

そんな中で、タイミングよく頭が働くように訓練をしていたからこそ、
ひらめいたり創造性を発揮することができたのだ。


「本番に強い人」というのはいる。
たとえば、普段はどうというところも無いのだが、会議の時に良いアイデアを出したり、
何か問題が起こったときに打開策をひねり出すタイプのビジネスマンも存在する。

だが彼らにしても、ビジネスマン生活をしていて、
睡眠時間を除いたすべての時間、考えに考え抜くなどということはありえない。

あらかじめ生活の時間帯、たとえば、会議なら会議に合わせて、
タイミングよく頭にタイムスイッチがかかる訓練をしているから、
アイデアが出るといっていいだろう。

タイミングよく頭を働かせるためのポイントは、
自己暗示の強化と、強い使命感を持つことにある。


こういった話にはソッポを向く向きもあるが、自己暗示の効果について、
多くの人が言及していることを素直に受け取りたい。

  “会議の時は、俺はいいアイデアが出るんだ”
  “ピンチになればなるほど、アイデアを生み出すことができる”

と、暗示をかけるだけで、案外新しいアイデアは出るようになるものだ。

「火事場の馬鹿力」という言葉もあるように、
人は追いつめられると普段できないことでも可能にしてしまう。

明日にも倒産という時に、起死回生の策を放つ経営者の例など、枚挙にいとまがない。
“家を守ろう。会社を守ろう”という強い使命感がそれを可能ならしめているのだ。


仕事への強い使命感、担当部署に対する強い使命感・責任感は、
アイデアを生み出す種子なのである。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito40.html

            <感謝合掌 平成28年3月11日 頓首再拝>

指導者の条件51(世論を超える) - 伝統

2016/03/14 (Mon) 18:10:25


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より


指導者は時に多数の意見を超える知恵を生み出さねばならない。

今川義元の率いる4万の大軍が押し寄せてきた時、
織田家の重臣達はみな籠城してこれを防ぐことを主張した。
何しろ味方はわずか3千、まともに戦っては到底勝ち目がないというわけである。

しかし信長は、そうした重臣達の意見にもかかわらず、城を出て戦うことを決断し、
ただ一騎馬を飛ばして打って出たのである。
それがあの奇跡とも言える桶狭間の勝利をもたらしたのであった。

なるほど、城に籠もって戦えば、ある程度は持ちこたえることは出来る。
しかし、10倍もの敵を迎え、しかもこれといった援軍のあてもない状態では、
それも一時のことで、所詮は敗戦を免れ得ない。

とすれば、坐して死を待つより、十に一つ、百に一つの可能性であっても
乾坤一滴の勝負を挑む他はない。
そういう道を選んで成功したわけである。

一般的に言って、指導者というものは世論というか
多数の意見を大切にしなくてはいけないのは当然である。

世論に耳を傾けず、自分1個の判断で事を進めていけば、
往々にして独断に陥り、過ちを犯すことになってしまう。

世論を聞き、世論に従うということが、
指導者として誤りなきを期していく一つの大切な行き方であろう。

しかし、それはあくまで平常の場合のことである。
平常時はそういうことで事を処してまず大きな間違いは無いとも考えられる。

けれども、非常の場合にはそれだけでは処し切れない面も出てくる。
というのは、世論というものは、おおむね過去の常識なり通念の範囲を出ないことが多い。

そうした常識とか通念といったものは、
いわば衆知の所産であり貴重なものではあるが、非常の場合には
そういうものを超えた新しい発想、考えが求められるわけである。

だから、そういう時には、指導者は世論を超えて、
より高い知恵を生み出さなくてはいけない。
言い換えれば、形の上では世論を無視し、
世論に反するようなことでもあえて行わなくてはならない。

信長はまさにそれをやったのである。
もし信長が世論にとらわれ、それに従っていたら、あの勝利はなかったわけで、
それを超えたところに彼の偉大な指導者たるゆえんがあるわけである。

常は世論を大切にし、世論を尊重しつつも、
非常の場合には、あえてそれに反しても、より正しいことを行う、
それが出来ない指導者ではいけないと思う。

            <感謝合掌 平成28年3月14日 頓首再拝>

「ワシントン」 - 伝統

2016/03/16 (Wed) 18:23:02


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第21人目 「ワシントン」
 
世界で最も偉大なリーダー(教祖は除く)は誰だろう、
というやや愚かな問いを与えられたらあなたはどう答えるだろうか。

その人その人の視点や人生観で違うと思うが、
政治的にはアメリカ初代の大統領ワシントンを私は第一に挙げたいと思う。

アメリカは十八世紀の末に突如として現れた大共和国であり、
それから約二百年後の現在では、地球上で唯一のスーパー・パワーに成長している。

共和制というのは古代ギリシャの都市国家にあったし、ローマもそれになった。
しかしギリシャはアレキサンドロス大王に征服されてしまった。
ローマは共和制で大国になったが、紀元前二十七年頃にオクタヴィアヌスが
皇帝アウグストゥスになり、その後ローマの滅亡まで帝政になった。

それ以後、イタリアの都市などで共和制のところはあったと言え、
国家規模で共和制になったところはない。

つまりアメリカという共和国は、ユリウス・カエサルの時代以後、
約千八百年後に地上に現れた最初の共和国と言えよう。

フランス革命はアメリカが独立して共和国になったのを見て起こり、
フランスは共和国になったのである。
ロシア革命はフランス革命の後継者だ。

 
アメリカが独立して共和国になったということは、
ざっと二千年に一度ぐらいに起こった特異な政治現象である。
その後、多くの共和国が地上に生じたが、みな多かれ少なかれアメリカの真似である。

そしてこの政治的大事件はワシントンという人がいなければ達成できなかったことは
確実といってよいのだ。

ではワシントンとはいかなる人物であったか。

ワシントンの伝記で有名なのは、子供の頃にりんごの木を切って、
父親に正直にあやまったという「正直な少年」という教訓としてであった。

ワシントンは正直な人であったことは一生を通じて確かであるが、
正直なだけの人ならいくらでもいる。

ワシントンを偉大にしたのは共和国の理想に徹底的に忠実であったことと、
その理念を実行する能力を持っていたことである。

ワシントンは大地主の家に生まれた。しかも十六才の時に
ファリファフクス卿の持つ広大な土地の測量をまかされている。
そして間もなく州の公認測量士にもなり、西部の土地投資などに関心を示した。

父が死ぬと土地を異母兄と相続し、更にその異母兄が死ぬと彼の遺産の執行人となった上に、
その他の土地も相続した。つまり三十歳になる前に大地主である。

その後、ヴァージニア軍の中佐となり、フランス・インデアン戦争に従軍し手柄を立て、
感謝状を受けた。その後大佐に昇進する。

イギリスでは大佐が連隊長になり、自分の軍隊を持って従軍するのが常であったが、
その習慣は当時のアメリカでも受け継がれ、軍人に適した大地主が大佐になるのである。
大佐は当時のアングロ・サクソンの世界では、軍隊でも社会でも中核的人物であった。

間もなくブラドック将軍の率いるヴァージニア軍が有名な大敗北を喫した。

このとき、いつもは平静沈着として知られたワシントンが火のような馬力を出して、
全戦線を馬に乗って駆けめぐり、辛うじて敗残のヴァージニア兵をまとめて
整然と引き上げることに成功した。

その時はずっと馬に乗った全身を敵の鉄砲の前に曝し続けたのであるが、
不思議に弾は当たらなかった。この働きがなければ、ヴァージニア軍は全滅するところであった。
しかもその後、約五百キロにわたるフロンティアを、七百人の兵隊だけで2年間守り切った。

この戦争の後、彼は富豪の未亡人と結婚する。
このおかげで十万ドルの資産が増えた。
八代将軍吉宗の頃の通貨価値の比較は難しいが、
日本のお金では五十万両ぐらいになるのではないか。

いずれにせよ、ワシントンはこの結婚によって自分の財産と合わせると
当時の北アメリカ大陸の植民地屈指の大富豪になった。27才の時である。

その後15年間、彼は自分の大農場経営に従事し、成功し、更に大富豪になる。
趣味は狩猟、少しばかりの読書、社交なのであった。奴隷も大勢いた。
大農場を経営し、多数の従業者などをきっちり管理することに若い時から彼は成功していたのだ。

こんな時にボストンあたりの関税問題に火がついて独立戦争になる。
ワシントンは最も早い時期から軍事的解決ならざるをえないことを洞察して、
ヴォランティアを集め、武器を準備し、訓練を始めていた。
いよいよ戦争になると、植民地会議は満場一致でワシントン大佐を総司令官にする。

その後実に足掛け8年間、ワシントンは広大な戦場で、
未訓練の植民地兵を指揮してイギリスの正規軍と戦い続けた。

特にはじめのうちは難戦に次ぐ難戦の上、謀反もあったりしたが、
最後まで兵士たちの信用をつないで勝利にみちびいた。

勝利の後、彼はまた自分の農場にもどった。
総司令官としての給料は辞退してもらわなかった。
一方、給料遅延に腹を立てた将校や兵士たちはワシントンを国王にしようとする。

ワシントンが「うん」と言えば軍が後ろにいるから国王になれた。
しかし彼はナポレオンと違い、自分を国王にしたがっている軍隊を叱りとばして、
王になることを拒絶した。

アメリカ憲法もワシントンがいたのでまとまった。
そして初代の大統領には満場一致でワシントンが推された。

しかし彼は2期つとめるとまた自分の郷里にもどって農場経営に従事し、67歳で平和に死んだ。
2期の大統領の期間に、アメリカ諸州を共和制のユニオンとして揺るぎなきものにした。
そして大統領は2期以上やらないという模範をも示した。

福沢諭吉が最初にアメリカに行った時、
日本ならば源頼朝や徳川家康の子孫に当たるワシントンの子孫はどうなっているのか
たずねたのだが、誰も知らないので驚いたと彼は書き残している。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/21.html


            <感謝合掌 平成28年3月16日 頓首再拝>

『アイデアキラーを葬れ』 - 伝統

2016/03/20 (Sun) 19:17:54


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


企業の中で、新しいプランやプログラムが出来上がるためには、
なるべく豊富なアイデアが必要である。

アイデアとプログラムという、2つの言葉。
前者は、何らかの目的を達成するために新しい実行手段や方法を考え出すことで、
後者は、目的を達成するために資源(人・モノ・カネ)を確保して必要な行為の順序を定めることをいう。

いずれにせよ、既成概念のワクからはみ出て一歩前進を続けるためには、
アイデア (思いつき・着想) の豊かさ (質と量) が決め手となる。

  “必ずいいアイデアが浮かんでくるはず…”

そうやって誰にでも創造性は備わっていると肯定的に捉え、
自己暗示をかけ、仕事への強い使命感を示すことによって創造性は高 まる。


しかし、せっかくのアイデアも、活かさなければ、
社内の不活性化を保障するだけになってしまう。

    “会社の方針に反する” “社長が認めないだろう”
    “それは僕の責任ではない” “既に他社でやっていると思うよ”
    “ウチの会社じゃ無理だよ” “前に似たようなことやったけど”
    “いいアイデアだけど、先走りすぎ” “前例がない”
    “書面にして出してくれ” “もっと大事な点を見落としていないかい”
    “昔ながらのやり方だ” “新しさを感じないね”
    “社長に言ってみれば”…

これらの例はすべて、アイデアや創造性の芽を摘み取ってしまう言葉である。
「アイデア・キラー」ってやつだ。

あなたの組織から、そして何より、あなた自身の心の辞書から、
これらの言葉はキチンと消し去られているだろうか。

消されていないとすれば、そこからは、斬新なアイデアなど生まれるはずはない。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito41.html

            <感謝合掌 平成28年3月20日 頓首再拝>

指導者の条件52(先見性) - 伝統

2016/03/23 (Wed) 18:02:38


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に将来を予見して手を打たねばならない。

戦国時代、各地に群雄が割拠して覇を競ったが、
その中でも特に精強を誇ったのが、甲斐の武田勢であった。

名将信玄によって鍛えられた、武田の騎馬隊の強さは周囲の国の恐れるところであり、
戦って負けを知らないという姿であった。

その強さは、信玄が没し、息子勝頼の代になっても変わらぬものがあったが、
それが長篠の一戦で織田、徳川の連合軍に大敗を喫し、それがきっかけとなって
滅亡への道をたどるようになってしまう。

この長篠の合戦で、信長が用いた作戦は、5千丁もの大量の鉄砲を用意し、
それを三手にわけて間断なく撃ち続けるというものであった。
しかも、信長は自軍の前に無数のクイを打ち、それに縄を張り巡らした。

そのため武田の騎馬勢はそこで足を取られているところを一斉射撃に会い、
ほとんど戦いらしい戦いもしないままに、多くの死傷者を出して惨敗してしまったのである。
これは個々の武将や士卒の強さでなく、完全に武器の差であろう。

いくら武田の騎馬隊が強くても、敵陣に行くまでに撃たれてしまっては勝負にならない。
結局、「これからは鉄砲の時代だ」ということを察知し、早くから準備していた信長の先見性が、
戦う前から勝利を決定づけていたと言えるのではないだろうか。

こうした先見性を持つということは、指導者にとって極めて大切な事だと思う。
先見性を持てない人は指導者としての資格がないと言っても良いほどである。

時代というものは刻々と移り変わっていく。
昨日是とされたことも、今日は時代遅れだということも少なくない。

だから、その時代の移りゆく方向を見極め、変わっていく姿を予見しつつ、
それに対応する手を打っていくということで、初めて国家の安泰もあり、企業の発展もある。

一つの事態に直面して、慌ててそれに対する方策を考えるというようなことでは、
物事は決してうまくいかない。

過去の歴史を見ても、一国が栄えている時は、必ずといっていいほど、
それに先んじてその国の指導者の先見性が発揮されているように思われる。
また、今日発展している企業を見ると、
やはり経営者が先見性を持って的確に手を打っているようである。

時代はますます激しく揺れ動き、千変万化してくるだろう。

それだけに指導者は心して先見性を養わなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成28年3月23日 頓首再拝>

大久保利通 - 伝統

2016/03/26 (Sat) 18:31:21


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


第23人目 「大久保利通」

われわれが小学校で習った頃、つまり昭和十年代の前半、
「明治維新の三傑」というのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允であった。
薩摩から二人、長州から一人である。

私は公家の側からも一人、岩倉具視をつけ加えるべきだと考えて、
すでにこのコラムでも取り上げた。
 
しかし後世から見て、この四人の中でも一番偉かったのは
大久保ではなかったかと思えて仕方がない。


東南アジアの新興国の人が
「どうして日本人の間では大久保より西郷の方が人気があるのか分からない」
と言っているという記事を読んだことがあった。

なるほど新しい国造りをする外国人から見れば西郷は折角作った新政府に叛乱した人だし、
木戸も途中で下野。つまり政府から離れたりしている。

これに反して大久保は明治11年(1878)に暗殺されるまで、公武合体論から討幕論に進み、
そのために薩長連合を成功させ、明治天皇より幕府討伐の密勅をいただき、
王政復古・明治政府の成立までその中心的な推進力であった。

明治政府ができてからも、新政府の中心にいて廃藩置県を実行し、
日本を近代的な国家にするための税制、産業振興、官僚制度など、
すべての種類のインフラ整備の采配を振るった。

外交的には台湾処分について清国と交渉して日本の主張を認めさせ、
内部的には、佐賀の乱、萩の乱、西南戦争をすべて制圧し、
新政府に対して武装蜂起する勢力を一掃して明治政府を磐石なものにしたのである。

この幕末から明治11年までの動乱の間に、
大久保が常にその歴史の動因の中心から離れたことがない、
というのは驚くべきことである。

西郷隆盛が途中で自殺未遂をやったり、何度も島流しになったり、
明治政府から離れたりしたのと対照的である。

大久保は西郷の3歳下で、木戸の3歳上である。
生まれた所は鹿児島県の甲突川の東の鍛冶屋町であった。
「甲突川の東」というので大久保は号を「甲東」と言った。

この近くから西郷隆盛と、日露戦争の陸の最高指揮官大山厳元帥、
海の最高司令官東郷平八郎元帥も生まれている。
ほんの猫の額のような狭い区域からこれだけ世界史的な偉人が出るということは稀であろう。

薩摩藩では英明な斉彬が病死すると西郷は僧月照と共に投身自殺を試みたが助けられ島流しになる。
大久保は西郷の忠告に従って暴発せずに藩論を動かす道をえらぶ。

そして今や藩公の父として実力者になった島津久光にとり入る為に、久光の好きな囲碁まで習った。
そのおかげで久光に用いられ、元来、有能な大久保は間もなく政務に関与する地位に上った。

そして久光の公武合体論の推進者として働くことになる。
西郷を島から呼び戻させたのも大久保である。

しかし西郷は「久光のような井の中の蛙が京都に出兵してもダメだ」と思っているから、
結局、また島流しになってしまう。

西郷は最善を進もうとし、大久保は最善が可能でない場合は次善の道で我慢するところがあった。
これは西郷と大久保の性格の差である。
この粘り強い性格のおかげで、大久保はその後、一度も政治の中心から離れたことはない。

あの傲岸不実な土佐の後藤象二郎でも
「大久保と話していると実に岩にでもぶつかったような心持ちがする」と言っていたそうである。

徳富蘇峰は大久保のことを大体次のように言っているが、正しい観察ではないだろうか。

「大久保は能弁でも達弁でもないが、言うことは條理を畫し、力があり、一度言い出したら、
それが徹底するまで金梃子でも動かない。その底力の強いこと、腰の強いこと、持ちこたえの強いこと、
押す力の強いこと、それは天下無敵であった。
さすがの西郷も大久保には最後の相撲で投げ出されてしまった。」

西郷が薩摩で兵を挙げたとき、政府内ではみんな震え上がってしまった。
大久保だけはその西郷を「困った癖のある男だ」と見て、
断固討伐の方針を出し、揺らぐことがなかったのである。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/23.html

            <感謝合掌 平成28年3月26日 頓首再拝>

ストレス・マネジメント - 伝統

2016/04/01 (Fri) 19:30:09


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

第47回 『ストレス・マネジメント』

リーダーとして新しい事業を組織で推進する場合、

  「目的や目標が明確か」
  「役割分担はしっかり決まっているか」
  「実行手順が正しいか」

といったことに眼を光らせ、部下を統率していくことになる。

こうした新しい取り組みにチャレンジする時はもとより、通常の業務に当たっても、
気力が充実 し、体力も伴ってこそはじめてリーダーとしての役割りを果たすことが可能となる。


“人生にとって健康は目的ではない。しかし最初の条件である”

作家の武者小路実篤は「人生論」の中でこう述べているが、
リーダーには心と身体の健康が求められるのだ。

心と身体の健康が蝕まれるケースにおいて、ストレスが原因となることが多い。
リーダーとしての技術論や精神論が語られることは多いが、
ストレスなどの問題はいまだ触れられることが少ないようだ。

しかしストレス・マネジメントも、 欠かすべからざるルーチンワークなのである。


かくいう私のストレス解消法は、書店巡りである。
街で書店を見つけると、ついつい引き寄せら れるように入ってしまうクセが私にはある。

大学卒業以来、ビジネスマン生活は半世紀にも近づこうとしているが、
その間毎年、300冊から400冊ずつ書籍を買い求めてきた。

計算すると一日に1冊は買っていることになるが、買い求めた本をすべて読むわけではない。
平日の読書は通勤や移動のわずかな時間に限られ、
まとまった読書の時間がとれるのは週末だけである。

一度もページをめくることなく、本棚や物置にしまっている本がかなりの数にのぼる。
読書家ならぬ買書家をもって任じているゆえんでもある。

とはいえ、この書店巡りと読書が、ストレス解消には大いに役立っているといっていいだろう。


ただし、すべてのストレスが悪役かといえば、それは間違いである。
すべての事象には裏表があり、コレステロールにしても悪玉と善玉があるように、
ストレスにも良し悪しがある。


“ストレスが人間の頭を良くした、人間の歴史はすべてストレスが作り上げた”
と言う人もいるほどだ。

たとえば、過去に経験したことのない仕事に取り組もうという場合、
当然のことながら緊張感が 高まり、ストレスもたまるものだ。

しかし、この普段と違った緊張感がよい仕事をさせてくれるのである。

普段とは違った緊張感の中で仕事をしたところ、自分が思っていた以上の能力が
発揮できた、といった経験を誰しも持っているはずだ。

かえって、緊張感もなくストレスを感じない仕事ばかりをしていては、
能力のレベルアップもなく進歩も望めないのである。

緊張感を高め、そして開放する。うまいストレスとの付き合いの極意は、ここにあるようだ。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito47.html

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

「LEADER」の5文字に示された理想的なリーダーの心得 - 伝統

2016/04/06 (Wed) 19:30:21


          *「ファーストクラスの心配り」黒木 安馬・著(P102~103)より

組織やチームを引っ張るリーダーの存在が注目されてきています。

リーダーとボスの違いは何でしょうか。
ボスは部下に「あれをやって」と命令して終わりですが、
リーダーはチームのメンバーとともに、「一緒にやろう」という存在です。

そして今の時代、メンバーと一緒に働くリーダーが広く求められています。

リーダーの役割は英語の「LEADER」という綴りの6つのアフファベットで説明できます。

(1)最初のLは「Listen」。
   部下たちの話を「なるほど」、とじっくり聴くこと。
   これはリーダーにまず求められる大切な役割です。

   「聞く」と「聴く」は違います。
   通りすがりに「門で耳に入った」話を聞くのが「聞」く。

   「耳+思考・目・心」を組み合わせて、さらに「十四」回と書くのが、「聴」くです。


(2)次のEは「Educate」。
   教えて育てるということです。
   相手のいいところを引き出して伸ばしていかなくてはなりません。

   語源は、助産婦さんが産道から赤ん坊を引き出す意味のラテン語、EDUCOです。
   よいところを見つけて引き出し、それを教えて育てあげる”教育・Education ”。


(3)Aは「Assist」
   しっかり支援すること。

   これによって部下は安心して、そして思い切り業務を遂行できます。


(4)Dは「Discuss」
   目標や目的のために話し合うことです。

   「なぜできないか! 」の解説ではなく、「どうすればできるか! 」の解決策を
   リーダーと部下が熱く議論できてこそ、よいチームといえるでしょう。

   気をつけなくてはいけないのが、日本人はが苦手な点です。

   CHAT(くつろいだ談笑)
   → TALK(打ち解けた会話) 
   → DISCUSS(あらゆる角度から論じる)
   → DEBATE(反対賛成を議論討論する)
   → ARGUE(お互い自己主張で口論する)
   → QUARREL(腹を立てての口喧嘩)
   → CONEFLICT(ののしり合いの衝突)

   と変化しますが、

   日本人はTALKまでは何でもないが、DISCUSSあたりで感情を交えがちです。
   相手が食い下がると感情的になって、いきなりQUARRELで立腹してしまう
   こともあります。

   よりよい結果へ向かっての相談なのですよ、というスタンスを常に崩さないことです。


(5)次のEが「Evalute」。

   評価するという意味です。
   社員たちの働きをしっかり評価し、褒めることです。

   正当に評価されることで社員のやる気はぐんぐんと上がり、
   自信をつけ、さらに能力を伸ばしていきます。

   惜しみなく誉めて評価してあげること、誰でも、よかれと思って
   日々行動をしているわけですからね。

   認められようと努力しているのですから、
   口に出して評価してあげることが最高のプレゼントです。

   プチ成功体験、勝ち癖の積み重ねはさらなる自信を植え付けて
   仕事が面白くて仕方がないようになる。

   自信とは、自分を信じること。
   誉められ続け、評価されることで一流への道を一直線に走るのです。


(6)最期のRは「Review」。

   復習・反省し、誉めて力を倍加させる ―― 。
   孔子は、「過ちて改めざる、これを過ちという」と言っています。

   失敗した過ちの部分を指摘して非難するのは誰でもできる。
   どんな些細なことでも必ず誉める箇所はあるはず、それを探して
   まずよいところを誉める。

   よいところを認められ、誉められて怒る人はいません。
   気分をよくして心を開いたところで、あの部分でもう少しこうすれば結果ははるかに
   よかったのじゃないかな、だから次回はもっとうまくいくはずだよ、
   あなたはきっとできる! と優しい母親みたいに自信をもたせるアドバイスをすることです。

   失敗者は1回の失敗で諦め、成功者は10回の成功でも次の成功を夢見る。


 ―― ”LEADER”の頭文字をもじって考えてみつだけでも、以上のようになります。

肝心なことは、常に自らが無知であることを謙虚に知り、切磋琢磨の日々であることを
忘れないで、「健全なる不満・Healthy Discontent」をもち続けることです。

            <感謝合掌 平成28年4月6日 頓首再拝>

指導者の条件53(先憂後楽) - 伝統

2016/04/08 (Fri) 20:38:51


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に人に先んじて発想しなくてはならない

”堯舜の世”という言葉がある。
堯と舜の治世で、理想的な社会の代名詞である。

その堯がある時町に出てみると、一人の老百姓がこんなふうに歌っていた。
日出でて作り 日入りて憩う
井を掘りて飲み 田を耕して食う
帝力我に何かあらんや

つまり、自分は朝になれば働き、夜になれば休む、
水は井戸を掘って飲み、自分で田畑を耕して食べ物を得ている。
帝王に何をお世話になっているだろうか、というわけである。

それを聞いて、堯は自分の政治がうまくいっていることを喜んだというのである。

この老人は、他に何の不安もなく自分の仕事に専念し、自分の生活を楽しんでいる。
それは実は政治がそれほどうまくいっているからであるが、そのことすらも意識していない。
そういう人民の姿を生み出すことが、帝王としての堯の理想であったのだと思う。

実際、人民が政治に関心を持ち、君主なり政治家の存在を意識するのは、
政治に問題があり、安心して暮らせない時であろう。
政治が悪ければ悪いほど政治に対する関心は高まらざるを得ない。

もちろん、君主が政治を行う場合と、今日の主権在民の時代の政治とを
そのまま同日には論じられないが、やはり、人々が安心して自分の仕事、
自分の生活に打ち込めるようにすることが大事なのは昔も今も変わらないと思う。

そして、これは政治だけでなく、すべての指導者が心がけねばならないことである。


こうした姿を生み出すには、指導者にいわゆる先憂後楽の心がなくてはならない。

先憂とは本来、人々に先立って憂うということであろうが、
これを広く取れば、常に人々に先んじてものを考え、色々発想し、
それに基づいて適切な手を打っていくということであろう。

難局に直面してこれを打開していくというところに指導者の手腕が求められる場合がある。
そういうことはもちろん極めて大切であるが、より大事なことはできるだけ
そうした難局に直面せずにすむように、あらかじめ色々と手を打っておくことであろう。

例えば今日の企業の経営者でも、そのように人々に先んじて発想し、
手を打っていくことが求められている。
そういうことの責任自覚のない人は指導者として不適格だと言えよう。

            <感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>

【危機感のあるなし】 - 伝統

2016/04/10 (Sun) 19:37:01


      *メルマガ「人の心に火を灯す」(2016年04月08日)より

   (致知出版社社長、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   すぐれたリーダーと常人の差は何か。

   それは危機感のあるなし、である。
   安きにて危うきを忘れるか、忘れないか、その差である。

   それは国、社会、組織だけのことではない。

   個人の人生においても、常に危機感を持った人のみが、驕(おご)り、慢心という
   呪縛(じゅばく)から逃れて、人生を創造していくのである。


   どんな組織も放っておいたら潰(つぶ)れる。

   国も会社も、である。

   組織の長たる者は常に危機感を忘れてはならない。

   その危機を救うため、さらには理想実現のために、一歩も退かぬ人間的迫力。

   これのない者に将の資格はない。

            <『ポケット修養訓』致知出版社>

               ・・・

「治に居て乱を忘れず」

という“易経”の言葉がある。

すぐれたリーダーは、平和で世の中が治まっている時であっても、
乱世になったときのことを考え、常に用心し、準備を怠ってはいけない。


これは、「一葉落ちて天下の秋を知る」(淮南子)のことでもある。

わずか一枚の葉が落ちても(ほんのわずかな前兆を見て)、
後に起こる大きな変化を予見するということ。


「蟻(あり)の一穴(いっけつ)天下の破れ」のことわざの通り、
蟻のあけた小さな穴から、千里の堤防も崩れることがある。

ほんのわずかな油断や不注意でも、それを放置しておくと、
そこから国を揺るがすような大事件につながることになる。


常に楽天的であることは大事だが、同時に危機感も忘れない人でありたい。


            <感謝合掌 平成28年4月10日 頓首再拝>

『マジックナンバー80』 - 伝統

2016/04/16 (Sat) 19:02:02

第51回 『マジックナンバー80』

        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

経験的に「80」という数字は、面白い数字である。

(1)一番目。

   組織の中では、社員・部下のヤリガイや幸せの「80%」程度は、上役次第で決まる。


(2)二番目。

  ①仕事というのは、完璧さを目標としているのであるが、
   同時に“時間”との対決という宿命を背負っているので、
   場合によっては「80点主義」を採 るべきであろう。

  ②理屈っぽい言い方になるが、“今日の80点が、明日の100点に優る”ことは
   往々にしてあり得るのである。

  ③その際に大事なのは、目標としては完璧な100点の仕事を目標とすることと、
   あえて“今日の80点”を選んだ場合の“不足分の20点”がいったい何であるのかを
   はっきり知っておく必要があるということ。

   判ってさえいれば、足りない分は後で補うことが可能だからだ。


(3)三番目。

  ①部下からの提案・稟議があった場合、それが目標に沿い戦略的に妥当である限り、
   戦術面では絶対「誤りであるという80%以上の確信」がない限り、
   ともかく部下の案をのんでやらせてみることが、上としては大切である。

  ②しかも肝要なのは、部下が失敗をしたら、その責任は自分が負う覚悟でやらせることだ。

   なぜ、80%以上の確信度が承認否認の基準なのか。
   理由はごく簡単で、上といえども神様ではないから
   誤った判断をすることがあり得ることと、

   幾分首をかしげる細かい部分あったとしても、
   部下にやらせることで訓練・動機づけになるからである。


(4)四番目。

  ①部下に注意を与えて矯正するポイントは、
   「80%を誉め、20%叱り・注意を与える」くらいの配分が望ましいのではないか。

   この場合、同じ注意でもなるべく激励するような結果に終わらせるのが、
   プロの叱り方であろう。

  ②「北風と太陽」の逸話ではないが、ひとは誰でも“認められたがっている”のである。
   頭ごなしの注意は、かえって相手に反発をよんでしまう。
   80%の認めと誉めがあって初めて、20%の叱りが激励として利いてくるのだ。


(5)五番目。

  ①ご存じの方も多いだろう。
   イタリアの経済学者・パレートの法則である「80対20の法則」。

  ②この法則は、入力の20%が出力の80%をもたらしているというものであり、
   例えば、自社の売上を分析してみると、その80%は、上位20%の商品や顧客で
   構成されている、ということを示している。

   したがって、資源配分からいけば、均等にというのではなく、
   効果をもたらす可能性が高い20%に対して注力すべきなのだ。
     (実際は、とかく効果のないところに時間と金をかけがちでしょう…)

  ③そしてもし、事柄が複雑にからんで重点のかけ方が判らなくなった時は、
   必要度・重要度の面から、

   たて軸に、“なくてはならない → 望ましい → なくてもよい”を、
   よこ軸に、“影響が強い → 影響が中位 → それほど影響がない”
   を置いて分解してみるといい。

   本当に重要なものは、
   アイテム数としてはごくわずかしかないということが判るだろう。


(6)六番目。

  ①20%は過去を、「80%は現在と未来」を視るようにしよう。

   “老人は過去を語り、青年は未来を語る”というが、
   いつまでも過去を振り返っても仕方がない。
   過去は、現在と未来を展望するために視るものなのだから…。

  ②注意を向ける配分は、20%が過去を、80%が現在・未来というのがよろしいようだ。


多少のこじつけはあったが、以上の例からもイメージいただけるように「80」という数字は、
日常の仕事や生活の中でカギ となる数字である。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito51.html

            <感謝合掌 平成28年4月16日 頓首再拝>

機会活用戦略を知る - 伝統

2016/04/20 (Wed) 19:06:52


成功は「機会の活用」で決まる~連戦連勝だったカエサルの戦略思考

       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年3月28日)より


【法則2】戦闘で負けないことより機会に焦点を合わせる

   なぜカエサルだけが、どんな敵にも勝てたのか?
   ハンニバルのカルタゴ軍が敗北して、ローマは領土をさらに拡大。
   三頭政治で彗星のように出現したカエサルは、現在のフランスに位置するガリア地方で
   多くの民族と戦い、全土を征服する。

   なぜカエサルは、どんな敵にも勝つことができたのか。


《英雄カエサル、ローマで内乱を起こす》

連戦連勝したハンニバルですが、ポエニ戦争はカルタゴの敗北で終わります。
ハンニバルの強さに気づいたローマは戦略転換を図り、ハンニバルがいない敵軍とだけ戦い、
ハンニバル軍を避けてイタリア外のカルタゴ勢力を壊滅させたからです。

直接戦闘では無敵のハンニバルも、ローマの仕掛けた総力戦に次第に勢力を削られ、
最後はカルタゴ本国へ侵入したローマ軍を追い、ザマの戦いで敗北を喫します。

ザマの戦いから約100年後、ユリウス・カエサルがローマで生まれます。
40歳で三頭政治家の一人となり、2年後にガリア地方(現在のフランス周辺)総督となり
ガリア戦争を開始。ローマ支配に反旗を翻した地方部族に勝利を重ねます。

共和政ローマでは三頭政治と元老院がバランスを取っていましたが、
三頭政治家の一人クラッススの戦死で、もう一人のポンペイウスと元老院が結託。
ガリア戦争で英雄となったカエサルを排除しようと目論みます。

元老院がカエサル軍の解散を命じるも、カエサルは拒否。
彼を「国家の敵」と宣言した元老院に対抗して、
カエサルは祖国ローマに向けて軍事侵攻を開始します。

紀元前49年、イタリア本土に進攻するためカエサルはルビコン川を渡りました。
ポンペイウスと元老院は、カエサルの支持者が多いローマでは不利と判断して南方へ移動。

カエサルは彼らを追撃してスペインで元老院側を撃破するも、
北アフリカでは配下のクリオ軍が全滅します。

紀元前48年にはファルサルス(現在のギリシャ)でポンペイウス軍と激突。
敵の行軍形態を見てカエサルは素早く対策を講じて、右翼からの攻撃で敗走させます。

カエサルはポンペイウスを追ってエジプトに入り、美しい女王クレオパトラと出会い、
女王の敵プトレマイオス13世を倒します。

紀元前45年にポンペイウス派の残存勢力も一掃しますが、
翌紀元前44年3月に元老院の議場内でブルータスに暗殺されます。


《成功は戦闘そのものにではなく、機会を上手くつかむことにある》

カエサルは幅広い種類の敵に、異なる戦場で勝利し続けた稀有な人物です。
彼の戦略眼を示す言葉を、カエサル自身の著作『ガリア戦記』から紹介します。

「成功は戦闘そのものにではなく、機会を上手くつかむことにある」
                (『ガリア戦記』講談社学術文庫版より)

カエサルにとって「機会」という言葉は何を意味したのでしょうか。
「機会」とは、勝利を待ち構えて先回りできるチャンスをつかむことです。

ある情報に接したとき、彼は「その動き(情報)の行き着くところ」を読み、
優位な場所を自軍が先回りして手に入れることで度々勝利しました。

ゲルマニア人との戦闘では、敵将アリオウィストゥスの動きから、
別の部族(スエビ族)との合流を防ぎ、戦争に必要な食糧の他、物資が豊富な
ウェソンティオ城市を奪取するため、カエサルは昼夜兼行で進軍して占領し
守備隊を先に置いてしまいます。

ベルガエ人との戦争では、他の部族から情報を収集し、ベルガエ人の軍隊が集結しつつある
と知ると、食糧補給の段取りをつけた瞬間に出発。あまりにカエサルの到着が早いので、
ベルガエ人の一部部族は戦闘を諦めてすぐに降伏したほどでした。


彼の勝利を支えたもう一つの秘密は、適切な場所への砦(城塞)の構築でした。

ガリア戦争のクライマックスで、敵のリーダーのウェルキンゲトリクスを
アレシア城市に追い詰めたときのこと。

丘の上にある城市の中に立てこもる敵は8万人、包囲するローマ軍は5万人、
またリーダーの危機を知ったガリア部族は総力25万人で救援に駆けつけました。

ローマ軍は長さ20キロを超える包囲城塞を築き、内側と外側からの敵を受け止め、
最後はローマ軍の勝利に終わります。この勝利は、極めて強固な城塞をカエサル軍が
1ヵ月をかけて完成させていたことによってもたらされました。


《徹底して機会に焦点を合わせよ》

カエサルの姿勢を「機会活用戦略」と呼ぶならば、どんな特徴があるのでしょうか。

☆カエサルに学ぶ機会活用の実践

・(これから)戦場となる場所に最速で到着し優位を占める。
・(これから)必ず必要になる物資を押さえる。
・(これから)必ず通過する場所に強固な自軍の砦を先に築く。


ビジネスでも先行者優位という言葉があるように、最初に新カテゴリーの製品を発売したり
、一番にサービスを展開する企業は広く消費者に認知されるチャンスを得ます。
必ず必要になる物資を押さえるとは、戦争でいえば資材や食糧、兵員のことになりますが、
ビジネスでは特許などの知財、小売では利便性の高い立地などを意味します。

「スマホのインテル」の異名を持つ米クアルコム社は、
通信用のベースバンドプロセッサで2014年には世界シェア六割を超える企業です。
同社の躍進はCDMAという通信技術の開発で成し遂げられました。
携帯端末が高速通信(3G)に移行する際に、同社のCDMA方式が広く採用されたからです。

Wi‐Fi技術を持つ企業の買収などでスマホに関連する知財をがっちりと押さえて、
スマホの利用者が世界的に広がることが同社の収益向上に直結するように
ビジネスが組み立てられています。

クアルコムは旧世代の携帯端末ビジネスでは、競合他社に苦戦した経験を持ち、
3Gへの移行を機会として照準を合わせていました。

これは次の会戦に必要な物資(技術)を押さえ、
通行する消費者が大量に増える道に強固な砦を築くことに似ています。


《起業家ビル・ゲイツ氏に見る機会活用戦略》

世界長者番付で13年連続の一位だったビル・ゲイツ氏は、高校時代から当時普及し始めた
コンピューターにのめり込み、ハーバード在学中に友人のアレンと大手企業に
プログラムを売り込むも、最初は上手くいきませんでした。

しかし1974年に新発売のコンピューター「アルテア」が雑誌に掲載されているのを見て、
二人は衝撃を受けます。

「それに気づいた瞬間、二人はパニックに襲われた。『ああ!?オレたち抜きで始まっている!?
皆がこのチップのために本物のソフトフェアを書き始めるぞ』(中略)。

PC革命の第一ステージに参加するチャンスは一生に一度しかない――私はそう考え、
そしてそのチャンスをこの手でつかんだ」(ウィリアム・ダガン『戦略は直観に従う』より)

二人はアルテアの販売元MITSに電話をかけ、
このPC上で作動するBASICプログラムを開発中だと話しました。
この電話で相手の興味を引き、6週間後に契約に成功します。

この体験から、ゲイツは次の洞察を得て大富豪になるための機会に先回りをします。

「ハードウェアが安価になり、高性能なソフトウェアがハードウェアより重視されるように
なれば、至るところにコンピューターが普及するだろう。われわれは他社が安価なハードウェア
を販売することに賭け、他社に先行してソフトウェア開発の会社を設立した」(前出書より)


ゲイツは自ら体験したことから、コンピューターが世界的に普及してハードが低価格になる
と予想しました。彼はこの機会に先回りしてソフトウェア会社を設立し、
勝利を待ち構えることができる優位点を誰より早く占領したのです。

機会活用戦略を知る者は、ある情報やトレンドから事態の「行き着く先」を予測して
勝利を待ち構えることができる場所を独占します。

これはまさにカエサルの得意技でした。
先行者利益を確実に得るためには、特許を含めた知財戦略、また立地や人材が最優先となる
ビジネスではそれらをしっかり押さえなければなりません。

これはカエサルが戦う前に優位な地を選び、食糧を押さえ、
必ず強固な砦をつくったことに似ています。


今の情報による流れはどこに行き着くのか。
最終的にどんな展開と結末になるのか。
事態を傍観するだけでは、勝利は目の前を素通りしてしまいます。

機会を上手くつかむためには、カエサルのように、
流れに先回りして勝利を待ち構えることが不可欠なのです。


          <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

指導者の条件54(即決する) - 伝統

2016/04/22 (Fri) 19:17:41


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は即断即行を心がけなくてはならない

秀吉が柴田勝家と戦った、いわゆる賤ヶ岳の合戦の折、
柴田側の大将佐久間盛政は、秀吉が大垣に出兵している留守をついて、
秀吉側の砦を奇襲してこれを堕とし、非常な戦果をあげた。

ところが、その報に接した秀吉は、直ちに決断し、全軍を急がせ、
50キロあまりの道をわずか半日ほどで取って返した。

そして、秀吉の帰陣のあまりの速さに慌てる佐久間勢を追撃し、
勢いに乗って一気に勝家の本陣をも攻め落として決定的な勝利を博したのである。

こうした秀吉の機敏さは、
例えば明智光秀を倒し主君信長の仇を討った山崎の合戦にも見られる。

本能寺の変が6月2日で、山崎の合戦は6月13日、
その間わずか11日しか経っていない。
しかも秀吉はその時岡山で強敵毛利の大軍と四つに組んで対峙していたのである。

新幹線が出来、電信電話のある今日ならともかく、
すべて徒歩であった時代に、これは大変な速さだったと言える。

事実、相手の光秀はもちろん、信長の家臣や盟友の徳川家康に至るまで、
誰一人こうした秀吉の素早い行動を予測できなかったと言われている。

こうした他人の予測を超えるような機敏さ、言い換えれば決断と行動の速さというものが、
秀吉をして数々の大事な合戦に勝利を収め、天下をとらしめた一つの大きな原因では
ないかと思う。

昔から”兵は神速を貴ぶ”という言葉もある。
また”先んずれば人を制す”とも言われる。

一瞬の勝機を的確につかむかどうかに勝敗の帰趨がかかっている場合もある。
そういう時にいたずらに躊躇逡巡していたのでは機会は永遠に去ってしまう。

だから、大将たる者は、即断、即行ということが極めて大事である。
これは何も戦に限らず、一国の運営、会社の経営でも同じ事である。

情勢は刻々に移り変わっていく。
だから、一日の遅れが一年の遅れを生むというような場合も少なくない。
決断もせず、実行もせずといった姿で日を過ごすことは許されない。

もちろん、熟慮に熟慮を重ね、他人の意見も聞いた上で決断し、
しかも極めて慎重に時間をかけて事を運ぶことが必要だという場合もあるだろう。

だからそういうことは一面に十分に考慮に入れておくことは大切であるが、
しかし大事に当たって即断、即行できる見識と機敏な実行力は
指導者に不可欠の要件だと言えよう。

          <感謝合掌 平成28年4月22日 頓首再拝>

リーダーが知っておくべき「弱くても勝てる戦略」 - 伝統

2016/04/23 (Sat) 19:50:41


最後に勝ったのは項羽ではなく劉邦
~リーダーが知っておくべき「弱くても勝てる戦略」

       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年3月30日)より

【法則3】「弱さ」を認めることが逆に大きな武器となる

   鬼神の強さを誇る項羽ではなく、なぜ弱者の劉邦が天下を獲れたのか?
   カリスマ始皇帝の死後、宦官の謀略で暗愚な人物が後継者となって混乱した秦は、
   各地で農民反乱が発生。

   混乱の中で現れた項羽と劉邦の二人の英雄は、秦を滅ぼしたのち、
   新たな中華帝国の覇権を賭けて激突する。

   弱者だった劉邦がなぜ、勇猛な項羽を倒せたのか?


《最初の統一王朝が崩壊した理由》

紀元前210年、六国を滅ぼした始皇帝も四九歳で死去します。
丞相の李斯は、宦官の趙高という人物にそそのかされて、始皇帝の遺書を偽造。

長男で本来後継者だった優秀な扶蘇を殺害し、
暗愚だった胡亥(末子)を次の皇帝に指名します。

やがて趙高は二世皇帝を操る影の実力者となり、優れた政治家だった李斯は
趙高の陰謀によって処刑されます。
これにより、秦帝国の崩壊は加速していきました。

厳格な法で管理されていた秦では、あまりの重税で農民反乱が各地で頻発。
滅ぼされた旧六国の遺臣たちも各地で反乱軍を組織しますが、
その中で二人の英雄が台頭します。

一人は項羽、楚の将軍の家柄で戦争にめっぽう強い将でした。

もう一人は劉邦、彼は地方の小役人をしたこともある人物ですが、
農村で侠客のような前半生を送っていました。?

項羽と劉邦は秦を打倒する戦争で、次第にライバルとして戦果を争うようになります。
紀元前206年、項羽軍が秦の都だった咸陽に火をつけ廃墟とし、
中国最初の統一王朝は、わずか15年で滅亡します。


《弱くても勝てる!?項羽と劉邦の戦いの違い》

項羽と劉邦の戦闘の経過と結果を振り返るとき、多くの人は驚きを感じるでしょう。

なぜなら、戦闘では圧倒的に項羽が強く、
劉邦は名門でもなく武勇に抜きん出た人物でもなかったからです。
彼はむしろ、自らの弱さを大きな武器としました。

(1)知恵のある部下の助言や提案に素直に従った。
(2)秦への進軍では、強敵をひたすら避けて蛇行しながら進軍した。
(3)褒美や名声は、活躍をした部下に気前よく分け与えた。
(4)限界まで戦わず、必要があれば何度でも逃げた。


項羽軍には、范増という老軍師がいました。
しかし項羽は自軍が優勢のとき、劉邦を殺すべしという范増の助言を無視し、
千載一遇の機会にライバルを逃します。

秦の都を攻略する競争では、項羽が秦を目指して直進し、
すべての敵を倒して進軍したのに対し、劉邦は手ごわい敵をすべて迂回、
なんと劉邦のほうが先に咸陽に到着しています。

劉邦は軍師の張良の助言を素直に実行し、
韓信や彭越などの戦争に勝つ武将に褒賞を与えて取り立て、時間と共に項羽を圧倒します。

項羽は名軍師の范増がいるあいだは劉邦に勝ち続けましたが、
敵の離間策で范増を手離し、自分ですべてを取り仕切ることで自滅していき、
紀元前202年の「垓下の戦い」で殲滅されて自刃します。


《松下幸之助が実践した「弱さのマネジメント」の威力》

ビジネスでも、自己を強者と認識するか、弱者と認識するかで戦い方は異なります。

劉邦の姿と重なるのは、なんといっても松下電器産業(現パナソニック)を
一代で築いた松下幸之助氏の生涯でしょう。

父親が米相場で破産したため、九歳で丁稚奉公に出た幸之助は、
人間関係の中で成功するには「独り勝ち」を避けるべきことを学びます。

また、病弱のため人に任せる経営ができる組織体制を重視し、
細かく部門化して責任者に指揮をさせました。

「マネシタ電器」と呼ばれたのは、代理店販売網による売る力で、
他社が開発した新製品に一工夫をした商品を開発、後追いでも販売力で競り勝ってしまう
松下独自の販売戦略からつけられた呼び名でした。


昭和初期の世界大恐慌で、幸之助は危機に社員をリストラせず、
工場を半日操業にして生産調整し、工員を営業に回して一人もクビにせずに
不況を乗り切ります。

このような「人心を掌握した経営」が
松下電器社員を団結させ、猛烈な努力を引き出したのです。

他社の優れたアイデアをすぐ取り入れたのは、無駄な自己のプライドを持たず、
自らを弱者と考えて人を徹底活用する姿勢の賜物です。

弱者の自己認識を武器とするマネジメントの威力で松下電器は勝ち、
世界的な電機メーカーとなったのです。

劉邦が項羽に勝ったのは、自分一人ですべてを行えないという優れた見切りです。
自己を弱者と見極め、参謀の張良や韓信などの優れた武将を引き立て活躍させることで、
山を抜くほどの力を持つと自ら豪語した項羽を倒すことに成功したのです。

          <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝>

象を食べる方法~エレファント・テクニック - 伝統

2016/04/25 (Mon) 19:15:51


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


第52回 『象を食べる方法』

目の前の象を指されて、
“あれを、食べてみろ!”と、あなたが言われたとしたら……?
“あんな大きなもの、とても食べられないよ”と、二の足を踏むであろう。

だが、大きな象でも、食べやすい小さな大きさに分けてあるとしたら、
その気さえあれば食べられるはずだ。

あんな象の逸話にこと寄せてはいるが、一見むずかしそうに見えることであっても、
分解して行ってみると、処理しやすくなるのは不思議である。


たとえば、“英単語を4000語憶えよ”といわれたら、とんでもないことと思うだろうが、
1日10語憶えれば1年で3650語、ほぼ4000に近い数となる。

見かけ上の数字の膨大さに惑わされず、処理しやすい大きさに区切ってみれば、
なんのことはない事柄が身近には溢れている。


もう一つの例を挙げる。

中国古代の戦国時代と云うから、秦の始皇帝が登場する前の話である。

当時の中国には西に大国の秦があり、残りは斉、燕、趙、魏、楚、韓の6つに分かれていた。

この6カ国を連合させ、そのまとまった力で大国秦と対抗させていたのが蘇秦という男。
この6カ国連合を分解させ、ひとつひとつを秦に結びつけて、
ついには秦による全国統一を成し遂げたのが張儀という人物。

6カ国を統合して秦に対抗した蘇秦に対して張儀は、遠くの国とは交わり、
近隣の国から攻めていくという非常に現実的な戦略を採った。

遠い国には手が届きにくいから、なるべく仲良くする。
近い国からひとつひとつ潰していけば、
遠かった国も自然に自国へ近づいてくるわけである。

つまり張儀は、6カ国ひとつひとつを処理しやすい大きさにすることにより、
天下統一を達成したのである。


また、例を西洋に求めるならば、
シーザーが“Divide And Conquer(分解して征服する)”と述べているのも、
同様のことを考えてのことだろう。

このエレファント・テクニック、応用範囲はかなり広いが、マスターするのは難しいだろうか?

いや、エレファントだけにゾウさ(造作)もない。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito52.html

          <感謝合掌 平成28年4月25日 頓首再拝>

指導者の条件55(率先垂範) - 伝統

2016/04/27 (Wed) 20:37:49


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は身をもって範を示す気概を持たなくてはならない

真理の探究とそれを人々に説くことに生涯をささげた哲人ソクラテスは、
彼の考えを危険視する時の政府によって、死刑の宣告を受けた。

その死刑の執行を前にして牢獄に日を送るソクラテスに、
友人は逃亡を勧め、実際にその手だてを計画した。
ところがソクラテスは頑としてそれを拒否したのである。

そしてこう言ったという。

「私はこれまでの半生を通じて、人々に国法を守るように説いてきた。
国法が誤っていたり不当なものである場合、それを言論によって改めることは大切だが、
国法である間はそれに従わなくてはならない。

そう説いてきた私が、今不正な目に遭っているからと言って、
死を恐れ、自分の言を破ることは出来ない。
人間にとって大事なのは、ただ生きることでなく、良く生きる、正しく生きることなのだ」

そして従容として死刑の毒杯をあおいだというのである。

立派な教えを説くことは大事である。
それによって人々に正しい道を歩ませ、世の中をよりよいものにしていくのだから、
うまずたゆまず説かなくてはならない。

しかし、同時に大切なのは、
それを身をもって実践し、範を示すように努めていくことである。

”百日の説法屁一つ”というようなことわざもある通り、
どんなに良いことを説いても、その成すところがそれと反していたのでは、
十分な説得力を持ち得ない。

ソクラテスは、釈迦、キリスト、孔子とともに”世界の四聖”と言われている。
それはもちろんその教えが極めて高い哲理であるからでもあろう。

それとともに、ソクラテスが自らの教えを自分の命を捨て、
身をもって範を示したことが、
それを万古不易のものとしているのではないかと思う。

自らの教えに命をかけて殉じたその態度が粛然として人々の胸をうち、
限りない尊敬の念を沸き立たせるのである。

指導者というものは、色々な形で自ら信ずるところ、
思うところを人々にたえず訴えなくてはならない。
と同時にそのことを自分自身が率先実践することが大事であろう。

もちろん、力及ばずして100%実行は出来ないということもあると思う。
というよりそれが人間としての常かもしれない。

しかし、身をもって範を示すという気概のない指導者には、
人々は決して心からは従わないことを銘記しなくてはならないと思う。

          <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

諸葛孔明は弱小組織を変えるためにこう考えた - 伝統

2016/05/03 (Tue) 18:43:23


       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年4月1日)より


【法則4】弱みは見方を変えれば一瞬で強みへと変わる

     諸葛孔明は劉備を皇帝にするために何をしたのか?

     後漢の滅亡で再び混乱の時代を迎え、中国大陸は新しい英雄たちを待望する。
     新たな武将たちが現れては消える中、魏の曹操、呉の孫権が大勢力となる。
     鳴かず飛ばずの劉備玄徳を、天才軍師と名高い諸葛孔明は、
     どのような秘策で皇帝にしたのか?


《400年間におよぶ漢帝国の治世から群雄割拠へ》

始皇帝崩御で、わずか15年で消滅した統一国家の秦。
乱世をまとめ上げた劉邦は、秦を打倒し漢帝国の創始者となりますが、
秦の過酷な法治・中央集権の反動から、中央集権と地方権力が併存する、
中間的な支配で体制維持に成功します。

途中、王莽という王族の一人が政権を簒奪することがありましたが、
その後は劉氏が再び天下を収め(後漢)、紀元220年まで約400年間の長期帝国となりました。

後漢は北方・西方の異民族との戦争で疲弊し、
中央政権が宦官による腐敗と悪政を重ねたことで、
184年には民衆の全国的な反乱が起こります。

中央政権が、軍閥・地方勢力を反乱の鎮圧に利用したことから、
軍事勢力を持つ軍団の権力が拡大。
群雄割拠の状態を招いてしまいます。

その中で勢力を拡大したのが魏の曹操です。
その他、三国志で有名なのは、劉備と孫権の二人です。

劉備は関羽・張飛などと反乱鎮圧で戦い、次第に傭兵的な軍団として拡大するも
拠点を持てず流浪、孫権は大陸の南方である呉で世襲的に権力の座につきました。
曹操は、名門出身の袁紹と「官渡との戦い」(200年)で激突、自軍の数倍の袁紹軍に勝ち、
北方と中央の支配者となります。

208年に曹操は南方進出を開始しますが、その年の冬に「赤壁の戦い」で呉の周瑜の策に敗れ、
魏呉蜀の三国鼎立の状態が生まれます。
劉備は三顧の礼で迎えた軍師、諸葛孔明の策で呉と結び、赤壁で曹操を破ります。


《流浪の軍団トップだった劉備が孔明から授けられた戦略》

三国志は『正史』と呼ばれる歴史書と、歴史小説の『演義』が有名です。
正史は蜀の遺臣であり、蜀滅亡後は魏の後継国家である西晋に仕えた陳寿が書き上げました。
ここでは陳寿の正史(『正史 三国志〈5〉蜀書』)を参照しています。

曹操が袁紹を破って以降、劉備は現在の河南省である荊州に逃れており、
そこで諸葛孔明と出会います。
孔明は流浪を続けてきた劉備に「天下三分の計」を授けます。

■諸葛孔明の天下三分の計
・曹操は百万の軍勢を擁し、正面から対等に戦える相手ではない。
・孫権は三代を経た江南の支配者で、味方として滅ぼしてはいけない相手。
・荊州と益州は支配者が脆弱で、占領すれば劉備の地盤にできる。


孔明の結論は手薄な荊州と益州を領有し、孫権と結びまず曹操を倒す。
曹操を倒したのちは、二強時代を経て孫権を打倒すれば
劉備が天下を統一できるというものでした。

この計略の驚くべきところは、逃げ続けてきた弱小軍団に過ぎない劉備の一味が、
天下統一を成し遂げる可能性が説かれていることです。

事実、赤壁の戦いで勝利したのち、劉備は荊州を領有して勢力を拡大、
張飛・趙雲などの武力で益州も手に入れます。

魏の樊城を攻めた関羽を、孫権が裏切って破らなかったら、
魏は首都に危機を感じて遷都したと言われており、
天下三分の計は実現性が高い計画だったことがわかります。


《再定義の力――大ヒット商品「ポストイット」は接着力の弱さに着目した》

孔明は劉備が天下を獲るために、各国の情勢を再定義してみせたのです。
弱小の劉備の前で、二強が激突して魏が勝てば劉備はさらに追い込まれます。
しかし苦境の呉と協力して一強の曹操を打倒すれば、
恩を売って拠点まで手に入れるチャンスに変わります。


本来はデメリットだったものを、再定義することで千載一遇の機会に変えてしまうことは、
ビジネスの世界でも頻繁に起こり、再定義の機転は大きな利益につながります。


   ■再定義によりヒットしたもの
    ・失敗作の接着力の「弱さ」を活用した製品のポストイット
    ・「在庫の少なさ」を逆にメリットと考えたトヨタ生産方式
    ・「古民家」を京都風にリフォームした滞在型人気ホテル
    ・携帯が通じない田舎で「喧噪のない静かさ」をウリにする民宿


劉備の軍団は各地で傭兵をしながらも拠点を持ちませんでしたが、
拠点がないことはどの地域でも新たに選ぶことができ、
移動できる利点があることも意味します。

孔明が劉備に示したのは、強力な支配者がおらず、しかも豊かな巴蜀の地域でした。
さらに、傭兵軍団のトップの戦略を、帝王となる戦略に変えたことも孔明の功績です。

各地で特定の勢力に劉備は加担して戦いましたが、その地の盟主からすれば、
戦闘に劉備を利用することだけが目的で、劉備軍団を膨張させる動機も理由もありません。

ところが曹操の南下で、呉が国家存亡の危機に直面した上で、
その後に曹操への防波堤として劉備が利用できるなら、
呉には劉備を後押しする構造的な動機が生まれます。


「『荊州を劉備に貸し与えられて、彼にその地の人々を手なずけさせられるのが
よろしゅうございます。曹操の敵を多くし、味方の勢力を強力にするのが、
最上の計略でございます』。孫権は、即座にこの意見に従った」
                     (『正史三国志〈7〉』呉書2 魯粛伝より)


ビジネスでも小さな必要性に応えるだけなら「単なる便利屋」で終わります。
帝国をつくるには、劉備の勢力が大きくなったように、
社会的な追い風を受けなければなりません。

呉の謀臣の魯粛は、劉備に荊州を貸し与えて曹操に対抗させ、
曹操を退ける策を孫権に提案して許可を受けますが、
劉備が本格的に台頭するきっかけとなりました。

これは孔明が、傭兵軍団の戦略を、皇帝にのし上がる戦略に切り替えた効果なのです。

          <感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝>

『問題意識が機会を生む』 - 伝統

2016/05/07 (Sat) 17:08:44


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

ご存じの方も多いだろう、こんな逸話がある。


アメリカのセールスマン二人が、アフリカの未開地に靴の市場調査に出かけた。

一人は、着いてすぐ本社にテレックスを打った。文面は

  “アス カエル。
    クツガウレルミコミナシ。ウレルミコミナシ。
      ココデハ ミナ ハダシ”


もう一人も、テレックスを打った。

  “スグ クツ 5000ゾク オクレ。
     シジョウカイタクノヨチ ムジンゾウ。
       ココデハ ミナ ハダシ”


何か問題があったとき、“これは問題だ”と捉えるだけではだめで、
それを機会としてみなす態度が必要だ。


先の逸話で、何がここまで違う行動を導き出したのか考えてみると、
“誰も靴を履いていないこと”が問題だったのである。

その問題を機会として捉えるか、全く無に帰すかは、
ひとえにその個人の「問題意識」の持ち方によると思うが、
いかがなものであろうか?

企業人として一番いけないのは、安易な現状肯定である。
光文社を設立した神吉晴夫氏の著書に「現場に不満の火を燃やせ」というのがあったが、
常に前向きな問題意識を持ち、何がよくて何が悪いのかの見極めをすることが、
ずいぶん違う結果を生むもののようである。


“空気にツメをたてる”という言葉もある。
これは何もないところに爪をたててみて、問題がどこにあるのかをみろ、
ということらしい。

問題があることが問題なのではなく、
問題があるのに、それが見えないことが問題なのである。

そして問題が見つかったら、これを裏から見て機会とみなし、
この機会を最高のものにしようとする努力が、今度は必要になってくる。


企業の中には評論家は必要ない。
必要なのは、常に不満の火を燃やし続け、
問題をチャンスに転換することのできる「爪たて人間」なのである。

      (http://www.jmca.jp/column/hito/hito53.html

          <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

指導者の条件56(大義名分) - 伝統

2016/05/10 (Tue) 18:34:30


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はまず大義名分を明らかにしなくてはならない。

近江の小谷城主浅井長政は、織田信長の妹婿で、大いにその信頼を得ていた。

しかし、信長が浅井家と旧交のある越前の朝倉氏を攻めた時、
突如兵を起こしてその背後をつこうとし、そのため信長は非常な窮地に陥り、
木下藤吉郎の決死の働きなどで、辛くも京都へ戻ったのである。

この時に、浅井家の重臣の中には、

「信長との姻戚関係は別としても、彼は常に朝廷をいただき、天下万民のためという
大義名分を唱えて戦っています。それに対して、ご当家のしようとしているのは、
いわば小義の戦いです。

もし朝倉家との旧交を捨てるに忍びないならば、むしろ朝倉家を説いて共々に
信長の公道に従うべきではないでしょうか」と諫める者もいたが、

長政はそれを聞き入れなかったという。

そして最後まで信長に敵対し、ついに滅亡してしまったということである。

浅井長政は、武将としては勇敢な人であり、
終始堂々と戦って立派な最期を遂げたと言われる。

しかし、結局は周囲の諸国から孤立し、滅亡を招いたのは、
その家臣が指摘したように、十分な大義名分というものを持たなかったところに
大きな原因があるのではないだろうか。

一方の信長は早くから、麻のように乱れた天下を統一し、
朝廷を奉じ、万民を安んずることを目指しており、またそれを唱えていた。

そうした大義名分が、戦国の世に疲れた人心の共感を呼び、
家臣達もそこに使命感というか働き甲斐を持って全力を尽くしたのだと思う。

信長に限らず、また日本だけでなく、古来名将と言われるような人は、
合戦に当たっては必ず大義名分を明らかにしたと言われる。

「この戦いは決して我々の私的な意欲のためにやるのではない。
世のため人のため、こういう大きな目的のためにやるのだ」ということをはっきりと示し、
人々の支持を求め、部下を励ましたわけである。

いかに大軍を擁しても、大義なき戦いは人々の支持を得られず、
長きにわたる成果は得られないからであろう。
そしてこれは決して戦の場合だけではないと思う。

大義名分というといささか古めかしいけれど、
事業の経営にしても、政治における諸々の施策にしても、何を目指し、
何のためにやるということを自らはっきり持って、
それを人々に明らかにしていかなくてはならない。

それが指導者としての大切な務めだと思う。

          <感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>

史上最強といわれるチンギス・ハンは 何が圧倒的に強かったのか - 伝統

2016/05/12 (Thu) 18:15:07

史上最強といわれるチンギス・ハンは
ビジネスで考えると何が圧倒的に強かったのか

       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年4月1日)より

【法則5】戦う前に勝負を決める

   なぜチンギス・ハンは史上最大の帝国をつくれたのか?
   戦闘というと、敵と刃を交えて奮闘することをイメージする。

   だが、アジアの大平原から出現した無敵のモンゴル軍は、
   相手が混乱に陥るまで敵と接触しない戦いを常に追求して、
   短期間に中国からヨーロッパにいたる一大帝国を築き上げた。

   そこにはどんな戦略があったのか?


《父を殺され、血族を超える戦闘集団を目指す》

1167年頃に生まれた男児は、モンゴル帝国を創始し、歴史の流れを変える巨大な足跡を残します。
テムジンと呼ばれた彼の幼少期は、覇業とは逆に苦難の連続でした。

小部族の族長だった父を対立するタタール族に毒殺され、
父の死で部族はテムジン一家を見捨てます。

母と六人の子らで狩りをして生き残り、獲物を巡ってテムジンが異母兄弟を殺したり、
他部族に誘拐され、間一髪で脱出したこともありました。

部族同士の確執も大きく、テムジンは幼い頃の親友で別部族の長ジャムカと闘争を続け、
亡き父の盟友で叔父とも呼ぶ信頼した人物にさえ裏切られます。

家族、部族、親友さえ決して安易に信頼すべきではないと学んだテムジンは、
血族を超える忠誠心を持つ強力な戦士の集団を目指し、
偉大な統率者の才能を発揮します。

西方に逃れたジャムカはナイマン族と結び、1204年に決戦を挑みますが、
数で劣るテムジンは夜のかがり火を必要な数の100倍たかせて、兵数を偽装します。

ナイマン連合軍は偽計に騙されて浮き足立ち、ジャムカが恐怖に駆られ逃亡したことで
全軍が戦意を喪失、モンゴル軍に散々に打ち破られてナイマン王は戦死します。

この勝利でテムジンは全部族の支配者、チンギス・ハンと称しました。


《ナポレオン1世以外、勝てないほどの強さを誇る》

「チンギス・ハンの遠征は世界史上、類をみないほど遠大なものだった。
これほど広大な領土が一人の男によって征服されたことは、かつてなかった。

チンギス・ハンが死んだとき、その版図はアレクサンドロス大王の帝国の4倍、
ローマ帝国の2倍になっていた」(ロバート・マーシャル『図説モンゴル帝国の戦い』より)

20世紀のイギリスの軍事史専門家、リデル・ハートは、
チンギス・ハンと彼の忠実な部下スブタイの軍事能力に関し、軍事史上、
彼らに太刀打ちできるのはナポレオン1世以外にはないとまで評価しています。

チンギス・ハンは1211年に中国の金王朝を侵略。
当初、守りの固い城塞都市に苦戦しますが、この経験が攻城戦の技術を高め、
中央アジアと東欧でモンゴル軍の勝利を生み出します。

1219年には、イスラム圏のホラムズ・シャー王朝と開戦。
軍勢を三手に分けて進軍し、一年ほどでシャー王朝の各都市を陥落させて
事実上の滅亡に追い込みます。

さらに進軍を続けたモンゴル軍は、1223年にはカルカ河畔でロシア諸侯連合軍と
戦闘を行うなどしたのち、1225年にようやく帰国します。

1226年にチンギス・ハンは、金と反モンゴルの同盟を進めていた西夏討伐の戦争を開始。
翌年西夏は降伏しますが、金攻略の戦陣でチンギス・ハンは病死します。
金王朝はチンギス・ハンの三男のオゴタイ・ハンにより1234年に滅亡。

オゴタイ・ハンは1236年以降、現在のロシア、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア地方に
侵入し、各地で戦闘と虐殺を繰り広げます。

1241年には有名なワールシュタットの戦いが行われ、ポーランド・ドイツを中心とした
欧州騎士団の連合軍をモンゴル軍が殲滅、欧州は恐怖のあまり大混乱となります。

この勝利でモンゴルは中央ヨーロッパに進出する機会を窺いますが、
同年12月にオゴタイ・ハンが急死したことで遠征軍は帰国。
欧州は蹂躙の悲劇を奇跡的に免れました。


《「戦いの概念」を大きく変えたモンゴル軍の攻撃法》

ワールシュタットでは城に立てこもる欧州軍の前で、
モンゴル側は弱い軍を戦わせ、負けたと見せて退却します。

騙された欧州軍は、騎士団を追撃戦に投入しますが、
モンゴル射手が待ち構える地点におびき出されて、雨のような矢を浴びせられます。

煙幕がたかれ、後続と分断された騎士団は混乱のなか矢の雨で重傷を負い、
そのあとにやって来るモンゴル重装歩兵の徹底殺戮を受けることになりました。

ヤクの角と竹を合わせたモンゴル弓は恐ろしく強力で、兵士一人で60本もの矢を持っており、
狩猟民族のモンゴル兵は騎馬で連射ができる弓矢の達人ぞろいでした。
イタリアの修道士は、モンゴル軍の戦闘について次の指摘を残しています。

「モンゴル軍は矢を注いで敵の人馬を殺傷し、敵の人馬が減少し切った後初めて肉迫戦闘に入った」
(リデル・ハート『世界史の名将たち』より)


   ■モンゴル軍の戦略
   ・敵軍と距離がある場所から、驚くほどの矢を射込み続ける(攻撃準備砲撃)
   ・わざと退却するなど、相手が城から出てくるように誘導する
   ・追いかけてきた敵軍を矢の雨で囲み、傷ついたところを重装歩兵がとどめを刺す


敵兵と斬り合う前に、モンゴル軍は集団で遠方から敵を十分痛めつけていたのです。
また、モンゴルは10の家族の集団(十戸)、100の家族の集団(百戸)、1000の家族(千戸)
ごとにリーダーを決め、民族全体を軍事制度に組み込んでいたことも大きな違いでした。

この制度は行政と軍事を兼ねており、九五の千戸集団であるモンゴル全体が、
いつでも遠征軍に出動し、一糸乱れぬ統率で、素早く戦争を始めることを可能にしました。



《購買部ではなく、生産現場に試作機を持ち込み圧勝するキーエンス》

現代ビジネスで「飛び道具」(弓矢)といえば、インターネットの普及が第一にあげられます。
若い世代は最初に手元のスマホで商品検索をすることで、検索結果の上位表示される企業と
そうでない企業は、戦う前から大差がつくことになっています。

しかし「攻撃準備砲撃」はなにも、インターネットの影響力に限りません。

大阪に本社を置くキーエンスは、自動制御機器、計測センサーなどの優良企業ですが、
同社の直販営業部隊は、取引先の購買部ではなく、生産現場に足を運んでいます。

キーエンスの製品は工場で使うセンサー類なので、
生産現場の困りごとを営業部隊は直接聞き取り、一定の拡販が見込める課題を発見すると、
最速で試作機を作成。

顧客の生産現場に置いて使ってもらうことで販売を成功させているのです。

「デモ機を置いてきたら、90パーセント以上受注が決まる。しかも、無競争です」
(名和高司『100社の成功法則』より)

試作機をつくるには、その課題解決が複数他社に売り込める需要を確認することが条件です。
キーエンスはクレポという製造子会社で試作機を素早くつくる体制を整え、
生産コストを最小化する方法もクレポで探索して、下請け企業に製造依頼しています。

結果、粗利80%という驚異的な数字を誇り、
社員の生涯給与は日本国内でも常にトップクラスに位置しています。

本当の必要性を理解している生産現場に矢を射込み続けることで、
キーエンスは他社が太刀打ちできない優位性を、売り込みの前段階で確立しています。

この差は営業マンの個人スキルでは対抗できず、集団の戦い方から生まれる優位性であり、
中国王朝や西欧の騎士団に圧勝したモンゴル軍の戦闘スタイルと重なります。


チンギス・ハンの軍団は騎馬民族特有の「疾風のような行軍速度」にも強みがあり、
顧客への試作機を最短でつくるキーエンスの即応力とも共通点があるといえるでしょう。

http://diamond.jp/articles/-/88478

          <感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>

『異見も意見』 - 伝統

2016/05/15 (Sun) 18:54:01


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


今から45年も前、時の総理大臣である佐藤栄作氏が、ニクソン大統領と繊維交渉を行った。
後になって、ニクソン大統領は「ウソをつかれた(騙された)」と、
佐藤首相に対して不満を漏らした。


これは、どうして起こったのだろう。私なりに考えてみた。

一般的に、日本人は「ノー」と言うのが不得意である。
「考えておきます」「前向きに 善処します」という日本語を正直に翻訳 すれば何のことはない、
「そのことには興味がない」ということなのだ。

外国人のStraight Talk に対して、日本人は婉曲話法(Euphemism)を好む。
それを酌まずに、「ノー」を意味する日本的表現を直訳してしまい

 “I will think about it positively”とか、
 “I will deal with the matter in a positive way”
となると、相手は「イエス」の希望を持ちやすいのである。
そして後になって「あの日本人はウソを言った」ということになる。

あくまで憶測だが、佐藤首相とニクソン大統領の場合も、
これに似たことがあったのではないかと想像するのである。


日本では、とかく相手の立場が上だとか、社歴が長いとか、年齢が上だとか言うと、
意見の相違をそこはかとなく解決しようとする傾向が強い。
少なくとも、表面上の現れとしては『和の文化』を持つからだろう。


ところが、私がサンフランシスコで働いていた間、良かれ悪しかれ小気味よかったのは、
私の投げかけた質問に対して、たいてい の場合は、「イエス」か「ノー」かの返事が
その場で返ってきた点だ。


もちろん、「ノー」の場合には、それなりに表現には気を遣って…。


複雑なビジネスを遂行するうえで、白か黒かでは片づけられない
灰色の部分が多くあるのではないか、と考えられる向きもあろう。

その通り、灰色の方がビジネスの世界では多いかもしれない。
その時、「灰色なら灰色なりに、灰色である」ことを、ハッキリ相手に伝える必要がある、
ということなのだ。

古来「ものいわざるは、はらふくるるわざなり」という。
相手が外国人のときはもちろん、日本での会議の時でも
「異見は異見と して言いたいし、聴きたい」ものである。

それには、異見を受け止めるための土壌が培われなくてはならない。
日本人はウエットであるから、反対意見など堂々と弁じ立てようものなら、逆恨みされかねない。


上に立つ者が、この点を充分考慮し、「自分もオールマイティーなのではない」
あるいは「間違っているかもしれない」という謙虚さを持ち、もし自分が誤っていれば
すぐに直すといったフェアーで柔軟な態度をとらないと、下の者は
身の危険を感じたり、すっかりシラケたりして、意見を 言わなくなってしまう。


職場の活性化もモラール・アップもあったものではない。

逆に、組織の中で違う意見を言う時に、気をつけなければいけないことがある。
先ず、ひとつの事柄に対して「反対」は3回まで。
3回反対して自分とは異なる決定になっても、その決定には潔く従うこと。

第二に、自分と100%反対の決定であっても、
従う時には、あたかも自分の決定であるがごとく積極的に従うことが肝要であ る。

実際のところ、これができるのは100人中で1人か2人しかいないのが現実だろうが、
これが人間としての価値が一流か、二・三流なのかの分かれ目ともいえる。


この2つの原則は、なぜ大切か。

これが守れないと、組織と秩序の混乱・崩壊を招き、
せっかくの「異見を大切にする」土壌の本当の意味さえ消えてしまうからであ る。

日本人にはなかなか実行しにくいことだろうが、
「異見を大切」にし、「異見を奨励」する雰囲気を、ビジネスの世界で横行させたいものである。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito56.html

          <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>

指導者の条件57(大事と小事) - 伝統

2016/05/18 (Wed) 18:06:36


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は基本を押さえ、あとは自由に任せるようにしたい

名君として名高い岡山の藩主池田光政が若い頃、
京都の名所司代とうたわれた板倉勝重を訪ねて、政治の要諦を尋ねた。

すると勝重は、
「例えば、四角い器に味噌を入れ、それを丸い杓子で取るようにすることが大事でしょう」
と答えた。

光政が重ねて、「それでは、隅々まで取れないではないですか」と尋ねたところ、
「そこが肝心です。あなたは聡明で、しかも熱意を持って政治に当たっておられ、
国の隅々まで立派にしたいとお考えでしょうが、あまり細かいことまで気にしては
かえって国は治まらないと聞いています」と言ったという。

理想に燃える青年大名に対して、経験を積み、人情の機微を知り尽くした
老練政治家の真実をついた忠言というところであろう。


千丈の堤も蟻の穴から崩れるということわざもあるから、
指導者たる者は決して小事をおろそかにしていいというものではない。

例えば会社の社長が、紙一枚無駄にした部下を叱りつけるといったことも
時には必要な場合もあろう。しかし、何から何までいちいち社長が、ああせい、こうせい
と口出ししていたら、みんな煩わしくて仕方がないし、やる気をなくしてしまうだろう。

第一小さな所ならともかく、
大きな会社ではそんなことをやっていたら体がいくつあっても足りない。

一国の政治でも同じ事である。
あれも、これもと考えて、法律をどんどん作り、
いわば網の目のようにびっしり張り巡らして国民生活を規制したら、
それでうまくいくかというと決してそうではない。

それでは、国民は息が詰まって、窒息同様になってしまい
盛んな活動というものは生まれてこない。

だから、小事をおろそかにしていいという訳ではないが、
小事にとらわれて、いわゆる重箱の隅をつつくようなことになると、
かえって肝心の大事の方が見失われてしまう。

従ってやはり、大切なポイントだけをしっかりと押さえ、
あとは自由にのびのびとやらせるということが必要だと思う。
結局はその方が秩序も収まり、生き生きとした活動も起こり発展も生まれてくると言えよう。

もっとも最近は、細かいところはもちろん、肝心の押さえるべき所も押さえず、
放任放縦に堕しているような風潮も見られるようで、これではいけないのは当然のことである。

          <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

ランチェスター戦略を駆使し、全国制覇 - 伝統

2016/05/23 (Mon) 20:06:04


       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年4月6日)より

ナンバーワンになるには、まず弱者を攻撃しろ
平家打倒を成し遂げた源氏のランチェスター戦略


【法則6】ナンバーワンになるには、まず弱者を攻撃する

   栄華を誇った平家を、源頼朝が打倒できた理由とは?

   朝廷に近づいた平家は、平清盛を筆頭に都で華々しい地位を得るが、
   やがて来襲した源氏の軍勢に太刀打ちできず、総崩れとなる。
   そして、ついに壇ノ浦で平家は滅亡することに――。
   「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われた平家は、なぜ源氏に負けたのか?


《1100年代に、日本を二分した平家と源氏の戦い》

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」(河合敦『平清盛と平家四代』より)


多くの日本人が知る、平家物語の冒頭の一節です。
世間で勢いがあり盛んな者も、必ず衰える無常のことわりを伝えています。
現代から900年前、わが世の春を謳歌していた平家一族は、
一度は都から追いやった源氏に敗れて滅亡します。

平清盛の父、忠盛は白河上皇に近づき武士としてはじめての殿上人となった人物です。
殿上人とは、天皇の日常生活の場「清涼殿」に上がることを許された者を指します。

もともと平家と源氏は敵対していたわけではなく、白河上皇が院政を敷いたときに、
自らの権力の土台として武士を利用したことから因縁が始まります。

頼朝の曽祖父である義親は、
白河上皇の命令を受けた正盛(清盛の祖父)に討たれているからです。

1156年の保元の乱でも、配下の平家と源氏は激しく衝突することになります。


《平清盛を頂点に、朝廷で栄華を極めた平家》


年後の平治の乱で、源義親と藤原信頼は二条天皇を幽閉して
院政を敷くクーデターを起こしますが、
天皇は脱出して清盛のいる六波羅に辿り着きます。

朝敵となった義親と信頼は討たれ、父と従軍したわずか13歳の頼朝も
平家に捕らわれ死罪となるところ、幼少であったことで伊豆へ流刑となりました。

伊豆で頼朝は20年近くの歳月を過ごしますが、地方豪族の北条時政の娘(政子)と恋におち、
やがて夫婦となることで、北条氏の後ろ盾を得て台頭します。

1180年に、平家の栄華の陰で不遇だった以仁王が、
平家討伐の指令を全国の源氏に伝えました。
同年に頼朝、木曽義仲が挙兵。
1181年には、平家の繁栄を支えた清盛が病死します。

しかし、京に入った義仲が暴政をふるったため、頼朝は弟である源義経に義仲を討たせます。
義経は一ノ谷の戦いで敵陣の背後の谷から攻める「鵯越」を成功させて平家は海に逃れ、
香川県の屋島、下関の壇ノ浦の戦いでも義経は連勝して平家を滅亡させます。

義経は奇襲の達人であり、屋島の戦いでも暴風雨を衝いて上陸し、
各所に火を放って大軍だと思わせた上で、敵陣の後ろから突入して
平家を大混乱に陥れました。


《頼朝の運命を分けた二つの選択肢》

頼朝の挙兵は、実は敗北から始まります。
伊豆で平家配下の山木兼隆を奇襲して殺しますが、事件を知った平家は
関東の武士3000人を集めて頼朝を包囲。

300人の頼朝側は、あっという間に敗北、頼朝と敗残兵は房総半島まで逃れます。

房総半島には、味方だった三浦一族の縁者があり、関東平野には亡父の義朝とつながる
源氏ゆかりの者も多く、千葉、次は関東平野へと段階的に支配力を拡大。
先の敗戦から1ヵ月ほどで、関東の豪族を束ねて数万の兵力となり、鎌倉入りを果たします。

のちに、富士川の戦い(1180年)で平維盛を破った頼朝側は、二択を迫られます。

・敗走する平家の軍を追撃して京都に向かうか
・関東に再び戻り、帰順していない勢力を討伐するか

頼朝は京都に進まず地固めをします。
佐竹氏など、頼朝に帰順せず未だ平家の影響下にあった関東の豪族を滅ぼして、
地域の絶対的地位を確立します。

頼朝は、小さくとも自らが一番となれるエリアに向かい、
段階的に勢力範囲を拡大していったのです。

一方の京都では、貴族の公家や朝廷(天皇・上皇)、僧兵を持つ寺院勢力など、
さまざまな勢力が拮抗する中で、平家は権力の均衡を維持できない状態になっていました。

1180年には6月に福原遷都が失敗。
年末に興福寺の反乱を鎮圧した平重衡が火を放って東大寺などを焼き払い、
清盛が注意深く友好関係を築いてきた寺院勢力を激怒させ、支配力を低下させます。

翌年には清盛が病死(享年64歳)。
優れた判断力で平家を繁栄させた清盛の死後、
残された平家一族は権力維持の方法がわかりませんでした。

清盛が死去した1181年は飢饉でしたが、頼朝は後白河法皇と比叡山に密書を送り、
比叡山には関東からの年貢(食糧)を約束し、後白河法皇には源氏は謀反の心はなく、
法皇のため平家を排除し、再び朝廷の傘下に入りたいのだと伝えます。

頼朝は巧みに、京都の三勢力が一致団結して源氏に当たることを防いだのです。

老獪な後白河法皇は、のちに平家なきあと源氏の二人(頼朝と義経)を争わせ、
自らの権勢維持を狙いますが、頼朝は毅然として義経を討伐して
分裂の隙を与えませんでした。

               ・・・

《15年間で売上高七倍の霧島酒造は、なぜ中規模都市から攻略したか》

麦焼酎「いいちこ」で有名な三和酒類を抜いて、2012年に焼酎業界で売上高第1位となった
霧島酒造は、市場として博多を攻略したあと、同規模の広島と仙台をターゲットにし、
首都圏や関西などの大消費地を後回しにして全国展開しました。

大都市は強力なライバルが多い上に、販売管理費がかかるというリスクがあったからです
(1998年の売上高は約82億円、2014年には約566億円と7倍へ拡大)。


「最初にたたくべき攻撃目標というのは、俗に言う『足下の敵』である。
射程距離圏内にくっついている足下の敵というのがまず攻撃目標としては優先する。
つまり、2位は3位をたたかなければだめだということになろう」
            (田岡信夫『ランチェスター販売戦略1?戦略入門』より)


強力なライバルがいる場所から戦いを始めると、永久に一位になれません。
初期の頼朝が、10倍の平家勢力が支配する伊豆で戦うことに固執したら滅亡していたでしょう。

妻の政子を置いて房総半島に渡った頼朝は、
自らが一位の影響力を発揮できる場所にあえて向かい、
源氏勢力を巻き込み優位を確保してから反攻したのです。

富士川の戦いに勝ったあと、頼朝が京都を目指した場合、
平家に勝っても後白河法皇など朝廷の傘下に留まる地位となったはずです。
京都で彼は突出した一強ではないからです。

頼朝は平家打倒の戦争でも一貫して鎌倉を離れず、
勝利後は全国に武士の管理者(守護・地頭)を置いて影響力を高めて、
武家による鎌倉幕府を開きます。


先の『ランチェスター販売戦略1~戦略入門』は、「競争目標」と「攻撃目標」を
分けるべきだと述べていますが、要は一位の会社を目指しながらも、
攻撃するのは自社よりも下位の弱者であるべきということです。


平家亡き後、京都の朝廷権力だった後白河法皇は、源氏勢力を分断するため
義経らと結びますが、法皇は結局、頼朝の勢力には対抗できないと判断して、
頼朝側に近づき義経を裏切ります。

京都では、すでに頼朝側を支持する勢力が多数で、
義経は兵略に優れながらも人望がなかったからです。

後白河法皇と義経が本気で頼朝に対抗するならば、
頼朝の支持者が少ない瀬戸内海か九州に共に移動してから挙兵、膨張すべきでした。

彼らが京都で反旗を翻したことは、強力なナンバーワン企業がいるエリアに、
弱小企業がいきなり挑むことに似ていたのです。

     (http://diamond.jp/articles/-/88480

          <感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>

『心配事があるのが会社』 - 伝統

2016/05/26 (Thu) 18:11:40


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

ある中年運転手の弁

「世の中、うまくいかなくて当たり前。うまくいったらめっけものと思って、
あたしはハシャグ、っていう処世術をいつの頃からか身につけちゃいまして ねぇ、、。」

タクシーの客といっても、これまでの自分の苦労を、彼はしみじみ語ってくれた。
出張先でたまたま乗った車の、行きずりの運転手さんであったけれど……。


こじつけるわけではないが、と云いながらこじつけを2つ。

英語で会社のことを言ういい方に「Going Concern」がある。

一方、「Going」には「進行中」の意味があり、
加えて「Concern」には「心配」という意味もある。

したがって、ゴーイング・コンサーンは、“いつまでも続く心配事”という意味にもなる。
つまり、会社の経営とか仕事の達成過程には、心配や苦労はつきもの。

問題は常にあって当たり前と思えば、先ほどの運転手君で はないが、
うまくいった時はラッキーだったと喜べる。

要は、心配事や問題があっても当然のものとして受け止めて、
その上で、どう機会として転換させるか……
その辺の気の持ちようといった『原点としての割り切り』を持つべきではないだろうか。


「Going Concern」を、「いつもクヨクヨ心配ばかり」から、
「積極的関心」に転換した時に初めて
「継続性のある会社」が成立するのだといってもよい。

言葉には時折、恐ろしいまでの心理が含まれていることがある。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito57.html

          <感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>

指導者の条件58(大将は内にいる) - 伝統

2016/05/28 (Sat) 18:42:48


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自分はできるだけ中央にいて部下を使うことが大切である。

富士川において、いわば戦わずして平家を破った源頼朝は、
そのまま自ら兵を進めて京都に進撃しようとした。
しかし、部下の中に、まず関東の基盤を固めることが先決だとする意見があり、
頼朝もそれに従って兵を戻した。

そして、その後は自分はおおむね鎌倉にあって幕府の体制を整備し、
木曾義仲や平家の追討には、弟の範頼や義経はじめ部下の武将を派遣して
それに当たらせたという。

最高指導者が内にいた方がいいのか、
それとも、外に出て行って自ら陣頭指揮を執った方が良いのか、
実際のところはなかなか難しい問題で、一概にその是非は論じられないと思う。

ある場合にはやはり大将が率先第一線に出て行くことが必要であろう。
桶狭間の織田信長の如きはその典型的な例である。

しかし、概して言えば、やはり大将は内にいて、部下を外に派遣して
事にあたらしめるということの方が、よりスムーズに運ぶのではないかと思う。

特に今日は色々と文明の利器も発達してきている。
だから、例えば会社の社長でも、居ながらにして、
全国どころか全世界の支店なり出張所にでも電話などで、
指示も出来るし、情報を集めることも出来る。

だから、何か事ある時には、自ら陣頭に立つ心構えは持っていなくてはならないが、
原則としては指導者は内にあって、外の仕事は部下にさせるということも
一面に考える必要があると思う。

          <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

組織が成長するために今も昔も必要なこと - 伝統

2016/05/31 (Tue) 18:00:43


       *Web:ダイヤモンド・オンライン( 2016年4月8日)より

信長はなぜ根拠地を何度も変えたのか
組織が成長するために今も昔も必要なこと


【法則7】組織の飛躍は計画的な変化から生まれる

   なぜ織田信長は、何度も根拠地の城を移動させたのか?
   尾張の地で若くして台頭した織田信長は、足利義昭の依頼をチャンスとみて京都に上洛。
   中央権力とつながり天下を狙った。

   京都では新興勢力だった信長は大名の反発を受け、3次もの大包囲網が敷かれる――。
   絶体絶命の危機に、信長はどう戦ったのか?

《信長を悩ます三度の大包囲網》

源頼朝の鎌倉幕府は、義父の北条時政が権力を狙い、3代目の源実朝以後は北条氏が実権を掌握。
1274年、1281年の元寇は北条時宗がトップとして対処。
1333年、後醍醐天皇と足利尊氏、新田義貞らにより攻められ鎌倉幕府は滅亡します。

1338年に足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府が始まりますが、
13代目の足利義輝の時代に将軍は有力者の傀儡となっており、義輝は暗殺され、弟の義昭は流浪。
義昭は各地の有力武将に手紙で自らを将軍として上洛(京都入り)してほしいと依頼します。


この依頼を活用して義昭と上洛したのが戦国の風雲児、織田信長です。
尾張(愛知県)に生まれた信長は、1551年に父が死去し、18歳で家督を相続。

世間では「大うつけ」と評判で、これで織田家も終わりと思う家臣が多いなか、
同年の赤塚の戦い、萱津の戦いなどで見事な采配指揮を見せ、その後尾張の統一を進めます。

1560年には桶狭間の戦いで、強大な勢力を誇った今川義元に勝利。そのとき、信長は27歳。
2年後には三河の徳川家康と同盟を結び、現在の岐阜県、三重県にまで勢力を拡大。
1568年に足利義昭と京都入りし、義昭は15代の室町幕府将軍となります。


新興勢力として将軍を囲い込んだ信長は、京都で周辺勢力と激しく衝突していきます。

(1)第1次包囲網(1570年)越前の朝倉氏、大坂の本願寺、四国・紀伊半島勢力

(2)第2次包囲網(1571~73年)武田信玄、朝倉、浅井、三好、足利義昭など

(3)第3次包囲網(1576~83年)武田氏、毛利、上杉謙信、本願寺、紀伊半島勢力

信長は室町将軍(義昭)の権威を使って大名たちに京都に来るように命じ、
それを拒否した朝倉などを討伐。
しかし大坂の本願寺の反抗などで苦戦を強いられます。

第2次、第3次では武田信玄、上杉謙信など東国のいくさ上手が京都を目指すも、両者は病死。
第3次包囲網では毛利、武田、上杉などを信長軍が押し返すも、
1582年に本能寺で明智光秀の謀反により信長が自害して、第3次包囲網は消滅します。


《弟が討死した第1次、武田信玄が京都を目指した第2次包囲網》

信長は三度の包囲網の打破に生涯を賭けましたが、順調には勝ち進めませんでした。
弟の信治が琵琶湖近くの戦闘で戦死、伊勢の一向一揆の攻撃で別の弟、信興も戦死。

第2次包囲網では、過去安定した関係だった武田信玄が、突如裏切り京都を目指し、
三方が原で徳川家康を破ります(直後に信玄は病死)。
極めて苦しい戦いを続けた信長は、いくつかの対抗策を編み出していきます。

(1)自身の根拠地を那古野城→清洲城→小牧山上→岐阜城→安土城と変える

(2)同時並行で集中戦闘できる「方面軍」を組織して各地の戦闘を担当させる

(3)進撃速度の速さ、撤退の速さ(岐阜城から京都まで一日で一騎駆けなど)

(4)兵農分離を目指し戦闘集団をつくり、根拠地移動で家臣の土着性を失わせる

当時の武将は、不変の根拠地を持っており、戦闘が終わると必ずその地に戻りました。
そのため京都から遠い武田氏、上杉氏などは勢力があっても上洛が難しかったのです。

信長は領地拡大に合わせて根拠地を西に移動させ続けて、家臣団も城下町に住んだので、
自身の根拠地がそのまま西へ移動するような形となりました。


「方面軍」は、北陸・関東・大坂・畿北・四国・中国・東海道などに分かれ、
中国方面は羽柴秀吉が、東海道は同盟していた徳川家康が担当していました。

これはビジネスで多角化を成功させる事業部制に大変よく似ています。

当時はいくさのない時期、武士も農業に関わりましたが、
信長は直臣の兵農分離を進め、根拠地を移動させたことで
家臣団は領地にこだわらず戦闘に集中できました。



《富士フイルム、GE、IBMは時代に合わせて事業ドメインを切り替える》

織田信長が根拠地を四回も変えたことは、どのような効果があったのでしょうか。

一つには天下統一への重要エリアへのアクセスや支配力の強化が可能になったこと、
二つ目は部下が物事を考える視点を転換できたことがあげられます。

那古野城にもし信長の根拠地があり続ければ、
京都や関西、四国中国地方の騒乱に対して即時介入はできず、
家臣も天下を狙う集団だと自己認識しなかったかもしれません。


根拠地の移動は、本社所在地だけでなく、事業領域の軸足の変化にも例えられます。
ビジネスでは「事業ドメイン」(=事業の展開領域)という言葉がよく使われますが、
ビジネスを行う領域を計画的に変化させて、新たな成長市場へアクセスするため
ドメイン移行が行われます。


次の3社は特に有名な事業ドメインの移行例でしょう。


富士フイルム

  傘下の富山化学工業がエボラ出血熱に効果のある未承認薬を持つなど、
  近年医薬品での話題で注目を集めている。化学フィルム中心から脱却し、
  情報ソリューション事業などの新たな事業分野で高い収益性を誇る。


ゼネラル・エレクトリック

  1970年代に「利益なき競争」を食い止めるため、収益性のない事業売却を促進。
  80年代には、CEOのジャック・ウェルチが業界で1位か2位の事業への集中を宣言。
  現在は風力による電力発電事業、超音波医療診断機器など、新たな事業領域を拡大している。


IBM

  1990年代まで大型コンピューターの世界的企業だったが、
  PCの小型化の波でITソリューション事業へ転換。
  現在ではITシステムの運用管理を含めたインテグレーター、
  企業向け情報分析コンサルティングの分野でも成長を続けている。


飛躍を続ける3社は、時代の転換点で「過去の事業ドメインと決別」しています。
信長が天下を狙うため、慣れ親しんだ故郷の那古野城を家臣と共に離れたようにです。


さらに信長は、豊臣秀吉など百姓出身でも功績で抜擢し、
代々の織田家臣団に比肩する地位を与えました。

肩書ではなく実力と戦果で人事が決まることを集団に徹底させて、
ベテランの家臣も健全な競争意識の中に巻き込む効果を狙ったのです。

信長は、天下を獲るため過去と離れ続け、時代の中心地に拠点を移動し、
競争意識の高い優れた戦闘集団をつくり上げたのです。

http://diamond.jp/articles/-/89151

          <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

『人を見抜く眼』 - 伝統

2016/06/04 (Sat) 18:17:52


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

機械を動かすにせよ、お金を生み出すにせよ、ビジネスが人間の為すことである以上、
ビジネスシーンのいたるところで、人を見る眼、
いわゆる対人判断能力を高めることが求められる。

商談の場面を、思い出してほしい。

商談が成立するときというのは、「なるほど」「そうですね」と、
相手がこちらの説明にテンポよく相づちを打ってくれる場合が多いのではないだろうか。

それも注意して観察してみると、「間が良い」というか、
こちらの説明にせいぜい2回か3回、適度に相づちを打っていることに気がつく。

そもそも、制約まで行くケースにおいては、会話はスムーズに運ぶものだ。
というのも、相手の適切な相づちに気持ちよくさせられると、
説明にも自然に熱が入るからである。


反対に、こちらの説明に頻繁に相づちを打つケースでは、
「それでは」と結論を迫ろうものなら、「もう少し考えさせてくれ」と、
商談が成立することは少ない。

会話の潤滑油である相づちも、
ひとつの説明につきせいぜい二度、三度までがOKサインだ。
四度、五度と頻繁な相づちは拒否のシグナル、
早く商談を終わらせたいと云う合図であることが多い。


これが握手ともなると、もっと判りやすい。
私の場合、外資系が永いということもあって外国人との交渉の経験が多く、
日本人同士に比べて握手する機会が多かった。

握手の場合、差し出す手を相手が強く握り返し、かつ握手時間も長いときは商談が成立し、
反対に、商談が不調に終わり「またの機会に」などというときは、
相手の握手は弱々しいものである。


このように、少しばかり注意力を発揮すれば、人の心は案外簡単に見抜くことができる。

私の知っているケースだが、
見込みあるとして可愛がっていた部下を後任に抜擢したところ、
間もなくして追い出し運動を開始された取引先の部長がいた。

「寝首をかかれる」とか、「飼い犬に手を噛まれる」といった言葉があるが、人
を見抜く眼が欠落している場合が多い。

「敵を知り己を知れば百戦危うからず」という格言もあるではないか。

そもそも、対人判断能力があればこそ、人間関係もスムーズにいくものだ。

対人判断能力を養うことによって、統率力も生まれ、
部下へのよい働きかけもできるようになってくるのである。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito58.html

          <感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>

トップが肝に銘じたい公私混同の境界線 - 伝統

2016/06/05 (Sun) 19:16:22


          *Web:ダイヤモンドオンライン(2016.6.4) より要約

《舛添氏はなぜ区別がつかなくなったのか》

(1)舛添氏は参議院議員、厚生労働大臣、党(新党改革)の代表、知事という
   権力の座にいるうちに、元々の性癖もあり、「国民や都民が支払った税金」と
   「自分で稼いだお金」の区別がつかなくなり公私混同が当たり前になったのでしょう。

(2)自分のお金は極力使わず、税金や政治資金などの「他人のお金」はふんだんに使うという、
   できの悪い企業経営者やサラリーマンのような、辟易するようなタチの悪さを感じます。

(3)頭は良いかもしれませんが、生き方や人生の勉強をしていない人は、
   やはり何が根本的に正しいかが分かっておらず、
   自分の欲望を正しいと勘違いしたり、安易に流れがちです。

   人の上に立つ人は、人間のレベルが重要なのです。


《「公私混同」の判断基準は》

(1)人生の勉強をしていない人が「社長」と呼ばれてちやほやされるようになると、
   物事を自分の都合のいいように解釈するようになってしまいます。

(2)大企業の経営者や高級官僚のように激しい競争をくぐり抜けてきた人であっても
   落とし穴にはまるのですから、中小企業の創業者や世襲で経営者になった人は、
   より自分を律する必要があります。

(3)何度も書いていることですが、公私混同を判断するのは簡単で、
   「部下が同じ事をしたら許せるか」です。

(4)京セラの稲盛和夫さんは、人生成功の方程式を「考え方×能力×熱意」で表しました。
   「能力」と「熱意」には0点から100点まであるが、
   考え方にはマイナス100からプラス100点まであります。

   いくら能力や熱意が素晴らしい経営者(あるいは経営者を目指す人)でも、
   人生の勉強をせずに考え方ができていない人は、結果が大きなマイナスになって
   自滅していきかねません。


《「公私混同」をしない習慣を》

(1)経営者、とくに中小企業の経営者はよほどの事件を起こさない限り
   批判されることは滅多にありません。

   しかし行動の結果は必ず業績に表れ、従業員が離れていきます。

(2)公私混同を続けていれば、業績も低迷します。
   その悪循環を断ち切るのは、経営者自らが公私混同をやめることです。
   再度言いますが、基準は「部下が同じことをやっても許せるか」です。

(3)残念なのは、この至極当たり前のことが分からずに、
   業績が低迷している経営者が多いことです。
   生き方を勉強していないからです。

   経営者の場合、生き方を学び、自分を律することができるかが、事業成功の根本です。

        (http://diamond.jp/articles/-/92444

          <感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>

「学習力」が最強の戦略 - 伝統

2016/06/08 (Wed) 18:19:54


家康が結局、最後に勝った理由~「学習力」が最強の戦略である

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月11日)より


【法則8】最速で学び反映できる者が最後は生き残る

   最後に登場した徳川家康が、なぜ天下を獲れたのか?
   家康の古くからの同盟者の織田信長が死去し、
   日本で一番出世した男と言われる豊臣秀吉の天下となる。

   小牧・長久手の戦いのあと、長い雌伏の期間を得て、家康は天下人として開花。
   1600年の関ヶ原で勝利した英雄は、どんな戦略で逆転したのか?


《反抗した勢力を徹底的につぶした秀吉》

信長の次男、信雄と家康が秀吉と対峙した「小牧・長久手の戦い」は、
家康が人質を差し出す形で停戦しましたが、翌1585年に秀吉は伊勢に出兵。
前年に家康に呼応して反秀吉側で戦った雑賀衆を壊滅させます。

3ヵ月後には四国の長宗我部を制圧、
5ヵ月後には北陸に大軍を派遣、反秀吉側の佐々成政を攻め、領地の大半を奪います。

同年11月には、家康の腹心だった石川数正が突如、秀吉側の家臣となる事件が起きるなど、
停戦後に電光石火で反勢力を各個撃破、秀吉は自らの基盤をさらに強固にします。

・九州の島津を討伐(1586年7月~翌年4月)

・家康が秀吉に臣従を誓う(1586年10月)

・小田原、北条氏討伐と秀吉の天下統一(1590年)


北条氏討伐の同年、家康は秀吉の命令で関東に所領が移されます。
代々縁の深い三河地方ではなく、家康と家臣団の拠点は関東平野に移動。
入り江や沼地が多かった関東平野を開墾し、利水・埋立事業を起こしたことで、
今日の東京への基礎がつくられます。


《関ヶ原の戦いで、豊臣家臣団を二つに分裂させた家康の手腕》

秀吉は、家康を箱根の向こう側に閉じ込めたと思ったのでしょうが、
家康は豊臣側の厳しい監視から離れて開拓を進めて、
300万石の収穫を持つ強国に成長させていました。

1598年8月、秀吉が死去。その前に二度行われた朝鮮出兵で、出陣した豊臣宿将たちと
石田三成などの文官との関係が険悪となり、西日本にいた豊臣大名の勢力も疲弊します。

一方、家康は朝鮮出兵では名古屋まで兵を進めて、海を渡りませんでした。


徳川家康が天下を獲れたのには、大きく分けると三つの要素が想定できます。

(1)未開の関東平野に移動して、秀吉の監視から遠く離れて国力を増強できた。

(2)朝鮮出兵の無謀さから、渡海を控えて戦力を温存した。

(3)1600年、関ヶ原の戦いで徳川VS豊臣ではなく、東軍VS石田三成としたこと。


関ヶ原の戦いで、東軍(家康)側には、もと豊臣武将が多数おり、
西軍(三成)側は西日本で豊臣が征伐した勢力が主力でした。

秀吉の子飼いの武将だった加藤清正、福島正則、加藤嘉明までが家康側に参加し、
石田三成を打倒するため戦ったのです。

これは、家康が巧みに掲げた戦闘の目標が、三成のものより
「多くの人を巻き込む魅力」にあふれていたことを意味します。


《学習優位を持つ企業こそが、不確実な時代に勝ち残る道》

東軍勝利のきっかけの一つは、秀吉の甥である小早川秀秋の裏切りです。
石田三成が自軍の結束を固めることができなかった一方で、
家康は豊臣家打倒の狙いを、巧妙に三成打倒にすり替えて味方を増やして、勝負したのです。

戦国時代は不確実の連続です。
本能寺の変で信長が死に、百姓の出身である秀吉への臣従も、
家康からすれば「完全に想定外」だったはずです。

したがって、家康が生き残り天下を手にできたのは、特定の強みよりもむしろ
「現実から学習する能力が突出していた」と判断できるのです。


「自分が天下を収めることができたのは、武田信玄と石田三成両人のおかげである
(我天下を治むる事は、武田信玄と石田治部少両人の御影にて、かようになりし)」
(桑田忠親『徳川家康名言集』より)


家康は、戦や軍事の手立ては信玄を師として学び、石田三成が謀反を起こしてくれたおかげで、
三成を討って天下を手にすることができたと述懐しています。


『学習優位の経営』の著者、名和高司氏は不確実で安定しない時代には
「競争優位」ではなく「学習優位」こそが武器となると述べています。

実践からフィードバックを得て、その結果から次の手を打つ。
これを繰り返しながら、他者よりもどれだけ優れた学びを得るかが勝負となるのです。

徳川家康の「学習の力」は、次のような史実からもわかります。

・腹心だった石川数正の裏切りで、徳川の軍事制度を捨て、武田流を新たに採用した。
・石田三成を殺さず、豊臣側の分裂の道具としたこと。
・関ヶ原では家康も「秀頼のため」と大義名分を掲げた。
・天下を手にしても、質実剛健を徳川家臣団の方針として徹底した。


秀吉の手引きで家臣が裏切り、徳川の軍事機密が漏れたことを機会にして、
家康は自身が負けた武田信玄の軍制度を新たに導入しています。

また、織田信雄を説得されて戦闘の大義名分を失った過去の経験から、
関ヶ原では「豊臣家(秀頼)のために戦う」という旗印を掲げて、
豊臣恩顧の武将を味方につけています。


《300年続いた徳川政権と、勝ち続ける企業の学習優位》

天下を手にしたのちも、豪奢な生活を戒める言葉を、
徳川家臣や跡継ぎの秀忠に何度も伝えますが、

天下人となった秀吉が権威を誇示するため、
高価な茶器を集めて派手な姿を見せたことを反面教師としたのでしょう。



POSデータを日々の販売予測に活用することで有名なコンビニのセブン-イレブンは、
毎日の現場がまさに「学習の場」です。

売れ筋を把握するだけでなく、新しい企画商品が実際に棚に並んで
“売れるか売れないか”を最速で学び反映する仕組みこそ、
セブン-イレブンの強さと魅力を際立たせ続ける要因といえるのではないでしょうか。


現在、全世界で約1000万台超の生産数を誇るトヨタ自動車ですが、
同社の強みと言われる「トヨタ生産方式」は、80年代から90年代に研究されて、
海外メーカーの多くも同種の知識を採り入れています。

にもかかわらず、トヨタは低燃費のハイブリッド・カーで世界を席巻し、
最近では燃料電池の新たな技術で車の未来を開拓しています。


不確実な現代ビジネスでも、目の前の変化から常に学ぶ、
飛び抜けた学習優位を誇る経営者と企業こそが最後に天下を獲るのです。

http://diamond.jp/articles/-/89180

          <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>

指導者の条件59(大将は大将) - 伝統

2016/06/10 (Fri) 19:33:56


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は指導者としての主座を保っていなくてはならない。

前田利家の所領にある末森城を佐々成政が大軍を持って囲んだという知らせが入った時、
利家はすぐさま救援のため出陣しようとした。

その時一人の家臣が、「占いの上手な山伏が居るので、出陣の吉凶を占わせましょう」と勧めた。

利家も一応それに従ったが、山伏がやってきて書物を取り出し、ぜい竹で占おうとすると、
「自分は卦がどうあろうと出陣する決意をしているから、そのつもりで心して占え」と申しつけた。

するとその山伏は、即座に書物を懐にしまい、
「今日は吉日で、しかも今が吉時でございます」と答えたので、
利家も「お前はまことに占いの上手だ」と喜び、勇んで打ち立って、勝利を得たという。

これが大将というか指導者のあり方だと思う。

指導者にとって、部下なり他の人の言葉に耳を傾けることは極めて大切である。
また、ある場合には、この利家の占いのように、一つの神秘性を持った権威を活用して、
士気を鼓舞するということも大いにあって良いと思う。

しかし、どんな時でも、自分自ら、
”このようにしよう””こうしたい”というものは持っていなくてはならない。

そういうものを持った上で、他人の意見を参考として取り入れたり、
占いのようなものを活用することが大事なのであって、自分の考えを何も持たずして、
ただ他人の意見なり、ただ他人の意見なり、占いの結果に従うというだけなら、
指導者としての意味はなくなってしまう。

昔から、大将にはおおむね軍師というものがついている。
そういう軍師を持つことによって、成功を収めた大将は少なくない。
しかしその場合も大事なのは、最後の決定は大将がするということである。

軍師の意見を聞くことは大いにあっていい。
しかし、その意見を用いるか用いないかは大将が決めるべきであって、
何もかも軍師の言う通りになっていたのではいけないのである。

意見を用いないのなら軍師の必要はないではないかという見方もあろうが、そうではない。
結果的にそれを用いないとしても、その意見を聞くことによって、より周到な配慮も出来、
それだけ万全の準備が出来やすいわけである。

要は指導者としての主体性というか主座というものを
しっかり持たなくてはいけないということである。
そういう指導者としての主座をしっかりと保ちつつ、
他人の意見を聞き、ある種の権威を活用していく。

そういう指導者であって初めて、それらを真に生かすことが出来るのだと思う。

          <感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝>

危機のリーダーとしての資質 - 伝統

2016/06/14 (Tue) 18:57:52


今こそリーダーはリンカーンの采配を学べ
南北戦争の逆転劇に見る危機のリーダーシップ


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月13日)より


南北戦争では当初、南軍が有利だった。
有能な指揮官が揃う南軍に対して、北軍は劣悪な指揮と命令の無視により危機的な状況。
リンカーンはどのようにリーダーシップを発揮し、窮地を打開することができたのか?


   【法則9】トップは、トップにしかできない決断を素早く行う

   なぜ北軍のリンカーンは、将軍たちをクビにして勝てたのか?
   1775年に始まるアメリカ独立戦争を経て、合衆国は領土をさらに西部と南部に広げていく。
   そして1861年、自由貿易をめぐって北部・南部が対立し、南北戦争が勃発。
   当初は南軍に有利だった戦局は、なぜリンカーンの指揮によって変わったのか?


《明治維新の3年前まで繰り広げられたアメリカの内戦》

日本の江戸幕府と武士の時代が終わる契機となった明治維新は、
薩長の新政府軍がイギリスから、江戸幕府がフランスから支援を受けていたことは
よく知られています。

アメリカのペリー提督が東インド艦隊を引き連れて日本の開国を実現したにもかかわらず、
明治維新にあまりアメリカの影響が見られないのは、ある大戦争がその理由でした。

1861年から65年まで繰り広げられ、死者62万人を出した南北戦争です。
これは現在まで、一つの戦争で米国が経験した最多の死者数です。

南北戦争の時期は、インディアン諸部族がかろうじて勢力を維持していた時代でもありました。
南北戦争の最大の原因は、アメリカの国家分裂の危機です。

南部諸州は綿花栽培と輸出による経済圏であり、北部は工業化が進展していました。
南部は毛織物工業が進んだ英仏への輸出で潤っていたことで、関税のない自由貿易を好んだのです。

一方で北部は工業製品の産業化を進展させるため、欧州の進んだ製品に関税をかけて、
自国の産業を保護して育成する必要がありました。
安価な労働力として黒人奴隷を使う農園が広がる南部とは対照的です。
1860年10月の大統領選挙で、奴隷制の廃止を唱える共和党のリンカーン当選が伝わると、
サウスカロライナを筆頭に南部の諸州が連邦から離脱を始めます。


《北軍の劣悪な指揮に悩まされたリンカーン》

1861年2月に、南部州がアメリカ連合国を結成。デイビスが大統領に選出されます。
リンカーンは、南部に残されたサムター要塞を放棄するか支援するかの判断に迫られます。?
彼は支援を選びサムター要塞への補給を宣言。

これに触発された南軍は、4月12日にサムター要塞を攻撃して南北戦争の幕が上がってしまいます
(山岸義夫『南北戦争』では、補給宣言は南軍を戦争に誘うリンカーンの策略だった可能性を
指摘しています)。

南北は、当初から戦力差がありました。
北部二三州の人口は2200万人、南部11州は人口900万人(400万人が奴隷)。
戦争中、北部は200万人の兵士を召集、南部は90万人に留まり、
工業生産力にも大きな差がありました。

「合衆国の5分の4が北部に集中していたのである。
北部はまた合衆国農地の67%をしめていた。
加えて北部の農業は多角化されていたのに対して南部の農業は綿花・タバコ・砂糖など
単一商品作物の生産に集中していたため、食糧の自給すら不可能であった」(前出『南北戦争』より)

大差にもかかわらず、4年間も内戦が長引いたのは分離時に将校の4分の1が南軍に入ったからです。
有名なロバート・リー将軍、勇猛果敢な「石の壁」ジャクソン指揮官など、
内戦初期に指揮・機動力を活かした戦闘で兵力に勝る北軍を何度も打ち負かします。

逆に、リンカーンは北軍の指揮の劣悪さと命令の無視に何度も悩まされます。
兵器の発達と工業力を背景に、第一次世界大戦よりはるか以前に自らの大陸で、
死者を激増させる悲惨な「総力戦」をアメリカは始めてしまいます。


《リンカーンの海上封鎖と、初期の南部の優勢》

南北戦争は西部戦線、東部戦線、海戦の3つの戦場で戦われました。

開戦の年の7月、最初の激戦地ブル・ランでは南軍の指揮官がよく北軍の作戦を見抜き、
ジャクソンの増援もあり南軍が勝利します。兵力の多い北軍は、短期間で勝つ甘い算段が粉砕され、
敗戦に衝撃を受けたリンカーンは50万人の義勇兵を募集します。

1861年の秋までは南軍が優勢でしたが、西部戦線では翌春から北軍の戦勝が続き、
北軍の名将グラントが要所のヘンリー城、ドネルソン城を相次いで陥落させます。

海上では開戦直後から北軍が南部の海上封鎖を行い、
英仏との貿易が商業の中心だった南部経済は大打撃を受けます。
翌六月にメンフィスで南部艦隊が北軍により全滅。

この窮地は東部戦線での「石の壁」ジャクソンと、南軍司令官ジョンストンの死去で
抜擢されたロバート・リー将軍の活躍で打破されます。

ジャクソンは東部戦線で複数方向から分進する北軍をすばやい行軍で各個撃破、
敵の包囲網から逃れながら大打撃を与えます。

6月末には有名な7日間の戦いで、リーとジャクソンの南軍は
アメリカ連合国の首都リッチモンドに迫る北軍を撃退することに成功。

北軍の指揮官たちは実績のない大統領リンカーンの指令を軽視し、奮戦しませんでした。


《危機のリーダーシップ、窮地を打開したリンカーンの手法》

最新の電信技術で、北軍のリンカーンは最前線の将軍や士官と連絡を取ることが可能でしたが、
大統領からの電信命令に従わない将軍が何人も発生して混乱します。

開戦の年には命令を拒否したパターソン将軍を罷免、
翌62年の秋には民衆に人気のあったマクレラン将軍を罷免。
63年にはさらに多くの将軍を矢継ぎ早にクビにして、
それまでの戦闘で実績を示した若手将校たちを抜擢、要職につけていきます。

「将軍罷免の理由はつねに明快であった。結果を出さなかったことに対して、
責任をとらせるのである。こうして、リンカーンが下す(将軍罷免)に、
まわりの人達は納得せざるを得なかった」(内田義雄『戦争指揮官リンカーン』より)


1863年から急速に北軍が戦勝を重ねるのは、指揮官がこの時期までにほとんど入れ替わり、
リンカーンが勇猛で優秀な士官を将軍に抜擢したからです。

同年春には南軍の名指揮官ジャクソンが戦死。南軍は窮地に追い込まれていきます。

リンカーンのもう一つの特徴は、トップしかできないことを広く手がけたことです。

・海上封鎖を開戦直後に命令した
・英仏の干渉を食い止めた(奴隷解放宣言)
・電信網と鉄道を使い、前線との連絡と補給を確保した
・勇猛果敢で優れた将軍を探し続けたこと(無能な人物も見つけて罷免)
・ゲティスバーグ演説を含め、国民を鼓舞し大衆の支持を得たこと


海上封鎖、英仏の干渉阻止、連絡網と補給整備、国民の支持を広く得ることなどは、
戦場で戦う兵士や将軍ができることではありません。

リンカーンは、無能な将軍たちに激怒しながらもトップだけが果たせる役割を見出し、
確実に遂行する視野の広さがありました。

一方、南部の大統領デイビスは、軍人の経歴が長く、リー将軍など軍人の優秀さを見抜けても、
トップが果たすべき職務を見つけて遂行する視野の広さと戦略眼が欠けていました。
南軍は常に補給に苦しみ、デイビスは民心を支える演説もしなかったのです。

                  ・・・

ビジネスでも、例えば職人上がりの人物は、現場への口出しや指示ばかりとなり、
トップが整備すべき大きな課題を見つけることができないことがあります。

逆に優秀なトップは、現場へ指導できる詳細な知識を持ちながら、外堀も抜かりなく埋めていきます。
日本航空で再建の手腕を振るった稲盛和夫氏は、5000億円もの債務放棄と公的資金の注入を
実現しながら、社員の経費の使い方まで細かく指導しました。

稲盛氏は航空業界の人ではなかったのですが、約3年で同社を見事に再上場させます。
稲盛氏とリンカーンの共通点をあげてみましょう。

・トップでなければできない課題を見つけて達成する
・現場を詳細かつ正確に知り、細部にまで必要な指導を徹底する
・組織内の隠れたリーダーを抜擢し、無能な指揮官を見極めて降格させた


“危機のリーダーとしての資質”と呼べる才能がリンカーンには備わっており、
トップだけが可能な決断を矢継ぎ早に行いました。

資源や国力が豊富ながらも劣悪な指揮系統に悩まされ、
一時は苦境に立った北軍を最後は見事に勝利に導いたのです。


          <感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>

『プレゼン能力』 - 伝統

2016/06/16 (Thu) 19:40:40


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

“他人が求めているものを知る技能と、自分の考えを他の人々に伝える技能とは、
経営者にとって欠くことのできないものである”(P.F.ドラッカー)

このドラッカー博士の言葉を待つまでもなく、とくに後段の「他の人々に伝える技能」、
すなわちプレゼンテーション(プレゼ ン)能力は、
リーダーに欠かすことのできない資質である。


世の中には、話の中身さえよければ問題ないとばかりに、
プレゼンへの関心を持ち合わせていないリーダーも存在する。

第一、プレゼン能力については、口がうまい、ヘタといったように、
生まれ持った才能によると思っている人も多い。

しかし、いうまでもなく、心掛けと訓練次第でプレゼン能力を高めていくことは可能である。

まず、自分の考えを伝えるべき相手の分析をしたい。

“人を見て法を説く”ということである。

次には、目的を明確にすることがポイントで、
そこまでいったら、今度は話の内容の組み立てに入る。
資料が必要であれば、チャートの字や表の大きさにも気を配る。
どんな反論、質問があるかを想定し、対策を練ることも忘れてはいけない。


以上のようなポイントに加えて、姿勢は正しく、
声の大きさは適当か、口調はハッキリしていて、目は相手の目を
とらえているか (アメリカ人は、そらす人を信用しない)なども、
機会があることにチェックしたり、アドバイスを受けたりしながら、
今さらと思わずに、一歩一歩勉強してい きたい。

必ずや、効果が期待できるはずである。


ところで、プレゼンの本来の意味は、「発表する」「説明する」である。
この説明と似たような言葉に「説得」があるが、両者の間には微妙な隔たりがある。

相手に理解してもらうのが説明であるのに対して、
理解したうえで何らかの行動に移ってもらって、
はじめて説得できたということになる。

商品について理解を深めてもらうのが説明とするならば、
購入してもらうことが、説得できたということになろう。


ここで云うプレゼン能力とは、その説得力を含めてのことであることは論を待たない。
そして、説得力あるプレゼンをするためには、何といっても情熱が必要である。

情熱や熱意があるからプレゼンにも熱が入る。
熱が入るから準備も万全にしようとするし、話し方や表現にも細心の注意を払う。

万全な準備、ポイントが明確な説明、好感の持てる話し方がなされるから説得力も増す、
と云うようにすべてがうまく循環する。

“説明しても納得させることは難しい”と嘆く前に、プレゼンへの関心を高めることが必要だ。

          <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>

指導者の条件60(大所高所に立つ) - 伝統

2016/06/20 (Mon) 19:37:41


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には大局に立ち小異を捨て大同につく心構えが大切である。

明治維新は近代日本誕生の一大ドラマだとも言えるが、
何と言ってもその最大の山場は江戸の無血開城であろう。

もし、この時に両軍が一戦を交えていたら、その犠牲ははかりしれないばかりでなく、
その後の日本の歩みというものもありえたかどうかわからない。

この時の立役者は言うまでも無く、勝海舟と西郷隆盛である。
互いに尊敬し、信頼しあうこの二人の大人物を国家の一大事に際して得たことは、
日本と日本人にとってまことに幸せだったと言わねばならない。

当時、官軍にも幕府側にも、戦いを主張する人は少なからずあった。
また、それぞれに勝算を持っており、実際に戦えば勝敗の行方はなお
予断を許さないものがあったようである。

しかも、官軍にはイギリスが、幕府側にはフランスがそれぞれ力を貸そうとしていた。
まことに複雑な情勢であった。

だから、もしこの時期に、両者が、官軍としての権威とか、
一徳川家の将来ということだけにとらわれていたら、その交渉は決裂し、
それぞれが巨大な外国の武力を背景に徹底的に争うことになったかもしれない。

しかし、勝海舟も西郷隆盛も、そういうことを決して軽視はしなかったけれども、
それ以上に、日本の将来ということを深く考えたわけである。

当時アジアの諸国は続々と欧米列強の植民地と化しつつあった。

だから、もし日本人同士が国内において争えば、
どちらが勝っても国は乱れ、疲弊し、外国の乗ずるところとなって、
ついには滅びてしまうかもしれない、それは何としても避けねばならぬ、
今はお互いに小異を捨て大同につくべき時だ、そう考えたわけである。

そういう両者の一致した思いが、江戸無血開城を可能にしたのだと思う。
もちろん、そういった思いは、この二人だけでなく、
当時の心ある人々の多くが等しく抱いていたものであろう。

そういう思いが、多少の曲折や争いはあっても、
あの維新の大業を比較的スムーズに遂行せしめ、近代日本を誕生せしめたのだと思う。

結局、指導者が目先のこと、枝葉末節にとらわれず、
大所高所からものを見、大局的に判断することが、いかに大切かということである。

何が一番大事であり、何が真に正しいか、そういうことをたえず自問自答し、
見極めつつ、大局的な見地に立って、小異を捨て大同につく、
それが指導者として極めて大切な心構えだと思う。

          <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>

プロトタイプ思考が古い組織を打ち破る - 伝統

2016/06/23 (Thu) 19:54:41



ナポレオンの戦い方が組織において最強な理由
プロトタイプ思考が古い組織を打ち破る

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月15日)より

戦いの天才と言われる革命児ナポレオン。
従来の常識を超える戦い方は、敵が動き始めた状態に勝機を見出すプロトタイプ思考が肝だった。

現代のビジネスでも、考えるばかりでなかなか始められない旧式企業に、
まず始めてから改善をスピーディーに行う新式企業が打ち勝つ逆転劇が生まれている。

古い組織を打ち破るナポレオンの戦略思考


   【法則10】より速く始めて動きながら機会を見つけた者が勝つ

   列強に包囲されたナポレオンが、なぜ快進撃を続けられたのか?
   貴族支配と財政破綻による重税で、フランスでは市民が一斉蜂起。
   1789年に人類史上初の、平民によるフランス革命が成立する。

   革命の波及を恐れる周辺君主国は大挙してフランスに干渉。
   多数国と戦う戦場で、革命の申し子ナポレオンは、なぜ快進撃を続けられたのか?



《4回にわたる大包囲網と戦ったナポレオン》

西ヨーロッパを統一したカール大帝の死後、息子たちに帝国は分割され
現在のフランスの前身である西フランク王国が生まれます(843年)。
1337年から約100年間、フランスの王位継承問題でイギリスと争った100年戦争が起きますが、
王家が入れ替わりながら次第にフランスは国家としての枠組みを確立していきます。

1500年代末からブルボン家がフランスを支配し、「太陽王」と呼ばれたルイ14世の時代に
領土拡大に成功するも、膨大な戦費で財政が破綻。
ルイ15世、16世の時代には重税に市民が苦しみ、1789年ついにフランス革命が勃発。
ルイ16世は翌1793年にパリで処刑され王政が途絶えます。

フランス革命で立ち上がった共和政府は、革命の余波を恐れる周辺君主国の干渉で戦争を開始。
フランスは大きく4回の大包囲網(細分化して六度とすることも)に遭遇し、
度重なる戦争に突入します。

(1)1793~97年(イギリス・スペイン・オーストリア他)
(2)1799~1802年(イギリス・オーストリア・ロシア他)
(3)1805年(イギリス・オーストリア・ロシア他)
(4)1813年(ロシア・イギリス・オーストリア他多数)

大同盟の多くはイギリスが提唱し、フランスを多数の国家で包囲しますが、
第1回は若きナポレオンの活躍などで瓦解します。

第2回はナポレオンがイギリスとその植民地であるインドとの連絡を絶つための
エジプト遠征後に結成されましたが、これもフランス軍が勝利します。

ナポレオンの皇帝即位で第3回が始まりましたが、
アウステルリッツのフランス軍勝利により、またも対仏大同盟は消滅します。

第4回はナポレオンがロシア遠征に失敗した直後に結成され、
ライプチヒの戦いでついにフランス軍が敗北。対仏同盟軍はパリを占拠し、
ナポレオンはエルバ島へ流刑となります。

ナポレオンの生涯は、対仏大同盟との激突の歴史と言っていいほどです。


《戦場の変化に即応して三帝会戦に勝利》

1805年にアウステルリッツでロシア・オーストリア連合軍と、ナポレオンのフランス軍が対峙。
三人の皇帝により争われたこの戦いは「三帝会戦」とも呼ばれます。

敵の連合軍約九万に対して、フランス軍は6万5000人の劣勢でしたが、
ナポレオンは巧みに自陣の右翼が弱いように見せかけて敵を誘い、罠にはまった敵が
フランス軍の右翼に殺到した段階で、隊形が崩れた敵中央へ味方の主力を突撃させます。

敵の中央を分断し、ナポレオン主力は右翼に殺到していた敵を後方から包囲します。
同時に、弱かったはずのフランス軍右翼は、後方に控えていたフランスのダヴォー軍が
加勢したため、敵連合軍は突破できずに包囲されて壊滅しました。

「右手で敵の攻撃を受け流して、左手でパンチを浴びせるナポレオンの得意技」
   (松村劭『ナポレオン戦争全史』より)

ナポレオンは両軍が遠く対峙する「静的」な状態ではなく、
敵がチャンスを見つけたと思い込み、動き始めた「動的」状態に勝機を見出していました。
事前の準備で見えず、実際に物事を進行させた状態ではじめて出現する機会を捉えて
劇的な勝利を得たのです。

戦場の「動的」状態に好機を見つける戦法は、若きイタリア戦役からナポレオンが
一貫して発揮し続けた才能であり、敵の古い貴族指揮官を震撼させた戦い方でした。



《机上で議論を続けず、プロトタイプ運用から「動的」に始めるリーン戦略》

現在、月間アクティブユーザーが12億人を超えるソーシャル・ネットワークの
フェイスブックは、もともとは2004年に創業者のマーク・ザッカーバーグが
数週間で立ち上げたサービスでした。

コンパクトに試作品を立ち上げて運用を開始して、ユーザーの反応を確かめながら
改良を加える事業開始方法をリーン・スタートアップと呼びます。

会議室の中で延々と議論するよりも、現実にユーザーに使ってもらうところからスタートして、
机上の空論を続けるのではなく、動的な状態から好機を見出す発想です。

この方式でスタートするベンチャー企業の中には、
手軽な試作アプリケーションを次々に立ち上げ、
実際に機能した場合にはじめて会社を設立するケースも多くあります。


ナポレオン出現以前は、欧州での戦争は貴族同士の争いでした。
彼らは自軍の兵士を消耗させないため、対峙したときの陣形で
勝敗を判定したことさえあったのです。

ところがナポレオンは、対峙したときの静的な陣形ではなく
戦闘が開始されて両軍が入り乱れる状態に好機を見出していました。
この変革により、ナポレオン以前の貴族将軍たちは、彼の戦い方に巻き込まれて大混乱を迎えます。


リーン・スタートアップの概念自体は、2008年にアメリカの起業家エリック・リースが
提唱していますが、ビジネスの開発・マネジメント手法として多くの新規プロジェクトの
立ち上げに参考となるものです。

何も実際に動かず、仮説のプランニングと検討に時間を長く費やす旧発想の企業は、
リーン・スタートアップの企業が小さく動いてユーザーの反応を確かめる段階でも
まだ腕組みしています。様子を見てばかりなので、先に始めた側が大成功を収めるのです。

2010年にスタンフォードの大学生二人が立ち上げた写真加工・共有サービスのインスタグラムは、
数年後には時価総額で400億円を超える巨大なネットワークとなりました。

彼らは5年も10年も計画に時間を費やさず、ふとした思いつきでプロトタイプを立ち上げて
ユーザーを獲得し、その反響を事業拡大の推進力にしたのです。

「静的」な議論やプランニングを好むビジネスマンは、
「動的」な状態から始まることが得意な側に常にスピードで圧倒的な差をつけられます。


全軍の機動力を高め、戦場での陣形変化に迅速な判断を次々下すナポレオンは、
欧州で周辺国の大軍を何度も打ち負かしました。

「考えるばかりで始めない」姿勢は、
試験運用をすぐ開始して試行錯誤から始める側からすれば、
好機をつかめない“のろまな亀”となってしまうのです。

http://diamond.jp/articles/-/89296?page=2


          <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>

『気働きで差がつく』 - 伝統

2016/06/25 (Sat) 18:20:26


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

あるオーストラリア人の経営者が、日本の企業を訪ねた際、
1万円札を両替しようと思い、受付の女の子(と呼びたいほど若かった)に頼んだ。

「かしこまりました」といって席を立った彼女が5分後に戻ってきた時、
手に持っていたのは・・・・・・・・・

  5000円札1枚、1000冊4枚、500円玉1枚、100円玉5枚であった。

くだんのオーストラリア人、ヒザを打って曰く、
「我、ここに、日本の“生産性”の真髄をみたり」と。


私も外国暮らしの経験があるので分かるのだが、
アメリカ人に同じことを頼んだら、おそらく1000円札を10枚持ってくるだろう。

訪問者は、こうした日本人の“気働き”に感心したと同時に、
これを契機に大の日本びいきになってしまった。


だが、“気働き”というものは、何も日本人だけの専売特許ではない。

英語にも“Single Bagger”“Double Bagger”という言い方があるのだ。


アメリカのスーパーマーケットでは、

客が買った品物をキャッシュレジスターのそばで袋に詰めることを
仕事にしている人 (=Bagger、バガー)がいる。
仕事は非常に単調で、朝から晩まで“袋詰め”作業ばかり。


ところが、同じバガーでありながら、買い物客の立場を考えて、
袋を二重にして破けないようにする人もいる。

それが “Double Bagger”である。

さらに、かさばる重たいものは袋の下へ、崩れやすい、
あるいは壊れやすい品は上に入れる工夫。
客が年寄りならば、車まで品物を運ぶ思いやり。“


思いや り”とは、心を相手に遣(や)ることである。


気働きは、何も日本人だけが秀でている気質なのではない。
仕事に対する取り組み方・ヤル気から、自然に発生するものだ。

自分に与えられた仕事を最小限片付けるのもひとつの生き方であるが、
もし違う生き方を望むなら、自分が今の仕事でどの程度ダ ブル・バガーたらん
としているのか、振り返ってみるのもよい。

人生はしょせん、ちょっとした「エクストラ・タッチ」の積み重ねとも云えよう。

一見、息の詰まるような単純作業に見えるスーパーの袋詰め作業にさえ、
差が出てしまうのである。

ちょっとした、つまらない (ように見える)積み重ねが、
その人の価値を高めていくのではないだろうか。


こんな簡単なコンセプトも分からない、分かろうともしない人に捧げるコトバ、

「バガー(Bagger)は死ななきゃ 直らない」

http://www.jmca.jp/column/hito/hito60.html


          <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>

Re: 人の上に立つ者に求められること⑤ - fsskfyqcssMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:01:05

伝統板・第二
[url=http://www.g76f0862n3sj9e6tn5c3kpcb397x2w2ws.org/]ufsskfyqcss[/url]
<a href="http://www.g76f0862n3sj9e6tn5c3kpcb397x2w2ws.org/">afsskfyqcss</a>
fsskfyqcss http://www.g76f0862n3sj9e6tn5c3kpcb397x2w2ws.org/

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