伝統板・第二

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生活標語「一日一言」解説(橋本徹馬) - 伝統

2016/01/01 (Fri) 04:34:40

このスレッドでは、”生活標語「一日一言」解説”を紹介していきます。




1日の生活標語

《人生を楽觀するものは人生の勝利者となり
人生を悲觀するものは人生の敗北者となる。》


天地の運行には行詰りがない。

人生を楽觀するのが宇宙の繁栄律にかなう所以である。

初めから気負けがしていたのでは、人生の勝利者になりようがあるまい。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

これは何人も世に立つうえの最初の大事な心がまえです。

世に処するうえに於いて、はじめから人生を悲観してかかる人は、
人生に気負けがしているのですから、人生の勝利者となりようがありません。
だから先ずニッコリと微笑を含んで人生に対することですね。

それに人生は楽観すべきものであるというのが、
昔からの聖者や偉人といわれる人達の到達した悟りです。

釈迦や耶蘇は勿論のこと、日本でも古来の教祖といわれるような人は、
皆その境を知って万人を導き、現世を極楽荘厳の浄土にしようと努めたものです。

だから人生は楽しいのが本当であり。
どんなに行詰まった時でも落ちついておれば、必ずどうにかなるのが人生です。


例話。

昔京都の南禅寺辺に、毎日泣いている老婆がありました。
なぜ毎日泣くかといえば、娘が二人あって一人の娘は雨傘屋に嫁入りし、
他の一人は天気の日にはく草履屋(ぞうりや)に嫁入りしている。

それで天気の好い日は「きょうは傘が売れぬであろう、
傘屋へ嫁入りしている娘が可哀そうだ」と思って泣き。

天気の悪い日には「きょうは草履が売れぬであろう、草履屋へ入りしている娘が可哀そうだ」
と思って泣くのですから、降っても照ってもこの老婆には、涙のかわく日がなかったわけです。


ところが或る高徳の人がそれを聞いて老婆にいいきかせました。

「お前さんはその毎日悲しんでいることを逆に考えればよい。
即ち天気の好い日には、きょうは草履が売れて、草履屋へ嫁入りしている娘が喜んでいる
であろうと思い・天気の悪い日は、きょうは傘が売れて、傘屋へ嫁入りしている娘が
喜んでいるであろうと思えば、お前さんも毎日喜んで暮らせるわけではないか」
老婆は成るほどと合点して、それからは降っても照っても、
毎日泣くかわりに喜んで暮らしたということであります。

これはたわいのない話のようでありますが、
世の中には人生の悲観すべき方面ばかり見て、毎日悲観している人が沢山あります。

勿論人生を悲観しようと思えば、悲観出来るいろいろの材料があります。
家族のする事でも親戚友人のする事でも、どうも面白くない不愉快だと思いだすと、
いくらでもその材料が出て来ます。

そうすると次第にその人の顔つきまでが如何にも不愉快らしい顔になります。
しかしそのような人は人生の暗い面ばかりを見て、毎日気をくさらせているのですから、
人を生かさずにはおかぬ造物主の意思など、分かりようがないです。


その反対に、人生は楽しもうと思えば、いくらでも楽しめます。
私達を毎日照らしつつ万物を育ててくれる太陽、また時々に降る雨。
それから毎日私たちの呼吸している空気。毎日飲んでいる水。

これらは皆私達が何んの努力もせず、また何んの頼みもしないのに、
無報酬で且つ無限に私達を生かす努力を続けてくれています。


これらの大きな作用から、人生万事につけてよく考えて見ると、私達は造物主の大きた愛の中
に抱かれていることが分かって、大安心、大楽観に徹します。

そこでああ有難い人生よ、楽しい人生よと思うてかかることが、
自分の心境が開けて造物主の生かす心と一体となり、万福を招く本となるのです。

かくて人生を楽観することが、人生の勝利者となる第一歩であります。

・・・

当掲示板内「橋本徹馬師 生活標語「一日一言」」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6618770


           <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

2日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/02 (Sat) 04:47:53

《本氣に修行をすれば必ず効果がありまごころを持って祈れば必ず反應がある。
人生は頼母しきかな。》

この事は宇宙の本性が善であり、人の本性も善なるゆえである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》


釈迦は29歳で太子の身分を捨て、山中に入って六年苦行の結果、
35歳の12月8日に正覚(さとり)を得た。

耶蘇は30歳の時四十日四十夜噴野で断食をしたのち、聖霊に満たされて起ち上ったが、
私達でも本気に修行すれば(例えば2週間或は3週間の断食などをして、道を求めるならば)
平生われわれが感覚で知っている現象世界の奥にある、宇宙の本性の如何なるものであるか、
またそれとわれわれの本性との関係が如何なるものであるかの一端がわかります。

天地はその大秘密を釈迦、耶蘇などに示して、
他の者にはかくし給うということは決してないのです。


ギリシャの古い諺にも一汝自分を知れ」(Know thyself)というのがあります。
これはソクラテスが他人に対してよく使った言葉でありますが、
汝自身を知れとは言い換えれば自己を知れということです。

自己を知るには宇宙の本性を究めねばならぬ。
但しそれは科学的に宇宙の成分を知ることをいうのではない。
悟道的に宇宙の本性はこうだということを体得するのです。

そうしてこそ初めて自己とは何んぞや、宇宙とは何んぞや、善とは何んぞや
というが如きことが分って正しく世に処することが出来るのであります。

諸芸、諸道の修行などでも、皆本気に修行すれば必ず効果があって、
ウカウカしている人の達し得ない境地に、達することが出来ます。

そのように本気に修行をすれば、必ず効果があるということは、
われわれと宇宙とが同根一体だからであり。
且つ宇宙の本性がどこまでもよく人を生かすように出来ているからです。

それでこそ人生も頼もしいのであります。

次に、まごころをもって祈れば必ず反応があるということも、
実際まどころをもって祈って見れば何人にもわかることです。


(例話)

長崎県の或る未亡人は、亡夫の生前に買って大切にしていた金蒔絵の器物を、近所の人
に借りられ、催促をすると「そんなものを借りた覚えがない」といって返さない。
「女だと思って馬鹿にすると思えば腹が立つが、どうしたら返して貰えるでしょう」
といって来ました。

私はその未亡人に、祈りによって先方の善心を引出す方法をお教えしました。
毎日一度神前または仏前に座して.その怪しからぬ相手の人を恨み憎む代りに、
その人の本性の善であることを祈念するのです。

「あの人は善人である。確かに善人である。
あの品を返さないのは、借りたことを忘れているからである。
今に思い出して必ず返して来る。あの人は善人だから・・・」と祈念するのです。

この未亡人は私のいった通りに僅か五。六日間祈念すると、
先方から「忘れていてすみませんでした」といって返して来ました。
その未亡人は勿論大変感謝した手紙を私のところへよこしました。

私はそのいきさつを紫雲誌上に発表しましたところが、
それを読んだ大阪の人、静岡の人もこの話から教えられ、その通りにして、
いくら催促しても返さなかった品を、返させることに成功しました。

これらの話は拙著観音経講話に委しく出ています。

さらにその観音経講話の記事を見た人々が、同じように祈念することによって、
奇蹟的に効果を挙げた知らせが数々ありました。

祈りによる奇蹟は次々に奇蹟を呼んだわけです。

総て祈りが聞かれるのは、先きにもいう通り、宇宙と人間とは同根一体であり。
人は皆造物主の胎内にあるわけですから、子が親に正しい要求をすれば、
親は出来るだけの事をしてくれると同じ意味において、正しい祈りは聞かれるのであります。

           <感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>

3日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/03 (Sun) 04:08:22

《何事によらず眼前に現れることに最善をつくせ。》

人間の猿智慧でより嫌いをせず、
自分の眼の前に現れるすべての事に最善を盡くすのである。

如何なる達人の生活態度もそれ以上ではない。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》


これは簡単な言葉のようですが、実は非常に大きな真理を言い現わしているものであります。

昔禅宗の三祖(達磨大師から数えて3人目)に僧燦(そうさん)という
エライ人がありましたが、その人の残した「信心銘」という文章の最初の句が
「至道無難唯嫌棟択(しどうひばんただけんじやくをきろう)」というのであります。

これは至極の道といっても、何もむつかしいことはない。
唯棟択即ちより嫌いをせねば、それでよいのだという意味です。


総て何事にかぎらず、自分の眼前に現われて来ることは、好ましいことであろうが、
好ましからぬことであろうが、必ず何かの理由があって現われて来るのであります。

だからそれを利巧に廻って、好ましからぬことをうまく避けて通ろうと思っても、
そうはいかない。

それはその好ましからぬことの最善の処理を厭うて、逃避するだけであるから、
いわば借金とりが来た時に、居留守を使ってごまかしたのと変りがない。

ついにはどこかでお天道さんにつかまって、償いをさせられるのです。

四国遍路の言葉にも「道づれを捨ててはならぬ。捨てると必ず禍を受ける」という
《通り言葉》があり、また実際その禍に遭うた人が多いのも、道づれになるだけの因縁が
あって道づれになった者を、自分の好き嫌いで勝手に捨ててはならぬという意味でありまして、
これも三祖大師のいわれる悟りにあてはまる話です。


例話。

明治以来の名士といわれる人達の回顧録というようなものを見ると、
その人達の中には若き頃、自分を先輩に認めさすために、
浅ましいと思われるようないろいろの努力をしている人があります。

然るにそれらと全然類を異にする名士がある。

先きの大日本麦酒会社の社長であり、曽て参議院議員であり、
また通産大臣でもあった高橋竜太郎翁がその人です。

大塚栄三という人の書いた「高橋竜太郎翁」という害を読んで、筆者の最も感じたことは、
この人の経歴には利巧に立ち廻ろうとしたあとが少しもないということです。
いつでも上役から命ぜられたことを、それがどんな出世街道の廻り道になろうがなるまいが、
ただ常にそれを忠実にやっています。

例えば麦酒会社の大阪支店勤務を、何んの不満もなく二十余年間もやっていたのである。

そのうち遂にビール王の馬越恭平氏に認められて重役となり。
その喪後に専務となり、更に同社の社長になった。


筆者は同県の先輩であるこの人に、つい近年知り合ったのですが、
初めて会って先ず驚いたのは、その悠揚せまらぬ風格です。

一体愛媛県人には細かく気のつく利巧な人が多く、
そのため愛媛県人は秘書官に適するなどといわれるのですが、
高橋翁の如き風格は愛媛県人に類がない。

これは利巧に廻った人の風格ではない、尊いなァと思ったものです。
今の実業家の中では王子製紙の中島社長から受ける感じが.やや似ている外に類を知らない。


常に利巧に廻らねば出世が出来ぬものだと思う青年諸君は、
この高橋翁の至道無難唯棟択を嫌うを、身をもって実行したゆかしいあとを見て、
反省すべきであります。


古人では豊臣秀吉などという人も、草履取りでも、炊事係でも、
その時々に最善を尽しています。
「天下を取ろうと思う者が、草履取りなど本気にやれるか」と考えたり、度々主君を
とりかえたりしていたならば、あの他日の太閤秀吉はなかったのですね。

・・・

<参考>

(1)第三祖僧燦(そうさん)については、
   谷口雅春先生の「光明道中記(7月)浄行ととのう」の中、
   7月8日(心の滞(とどこお)り消える日)~7月10日(迷い本来無しと知る日)
   にあります。

  (Web上では、光明掲示板・第一内のスレッド「浄行ととのう (9596)」で確認できます。
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821 )


(2)「信心銘」 については、光明掲示板・第一
   「至道無難 唯嫌揀択 ~「信心銘」(2013年07月12日)」にて確認できます。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1854


(3)「至道無難唯嫌棟択」については、
   谷口雅春先生の禅関連の著書の中でその解説があります。

   「光明道中記(7月)浄行ととのう」の中では、7月14日(平凡淡々有り難き日)、
   7月16日(道を歩む日)において確認できます。

  (Web上では、光明掲示板・第一内のスレッド「浄行ととのう (9596)」で確認できます。
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821 )

           <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

4日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/04 (Mon) 04:31:07



《善因善果、惡因惡果の法則を恐れよ。》

原因があれば必ず結果がある。
因果の法則は絶対にくらますことが出来ない。
この法則こそ道徳の根本である。

道徳とは宇宙の繁榮律を人間生活の規凖にしたものである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

この頃のインテリ(知識人)といわれる人達は、科学者の説く因果律は肯定しながら、
普通に使う因果という言葉を、頭から迷信めいたことのように考えて嫌いますが、
如何に嫌っても、原因のあるところ必ず結果があることは、否定のしようがないのであります。

私達が自分の懐中に持っている千円札を使えば、その使ったという原因によって、
千円札が無くなったという結果が現われます。

善い事をすれば善い報いが来、悪い事をすれば悪い報いが来ることもそれと同じで、
それはちょうど順子を買えば帽子が手に入り、ネクタイを買えばネクタイが手に入る
のと同様に間違いのないことです。


第一お互いの顔を御覧なさい。顔はそれぞれその人の性質や運勢を現わしていますが、
これはその人の過去に於いて為し来たった事が原因となって、その結果がその人の顔に
そっくり現われているということです。

だから人相見や偉人が他人の人相を見て、
その人の性質や運勢をいい当てるのに不思議はないです。

何人も自分の顔を否定するわけにいかぬ以上は、いくら否定したくとも、
善因善果悪因悪果の法則は生涯、―― いな自分の子孫にまでついて廻って、
離れぬものと考えねばならんです。


例話一

先年亡くなった某県の富豪は、村への払下げの山林を、自分の名儀に書き替えて
その木を売り払い、自分の持っている鉱山は、大会社の技師を買収して高く売りつける等々、
悪事のかぎりをつくして巨富を為し、誠に「悪運盛んにして人天に勝つ」かと思わしめたが、

晩年になるとその人の額に大きな癌が出来、見られぬ顔になった上に、
両足が腐り出し、そのうえ甚だしい恨みを買っている村民から追いかけられるので、
両足を根本から切った身で心の休まる時もなく、あちらこちらを逃げ廻りつつ
死んで行きました。

このような人は晩年になり、両足が腐りかけてから「われ誤てり」と思っても、
なかなかその大凶に向っている運勢が吉には返らないです。

古人の所謂「罪を天にうれば祈る所なし」です。

そうして「分厘までも償わざれぱ」許されないのであります。

こんなヒドイ例ではなくとも、人々の恐れねばならぬことは、
運勢のよい時に果報をし尽くさぬことです。



例話二

私の知人で若い時代に非常に栄えた某氏。
東大を一番で卒業し、当時の権勢第一等の人物の婿になり、
31歳にして既に某省の局長にまでなった人。

この人はどこまで栄えるかと人々に羨まれたものですが、
40歳近くから次第に逆境に堕ちて、どうしても栄えない。

60歳近くなった頃に、随分逆境が永くつづいたから、もういくら何んでも幸運が
来そうなものだと思われた時分、その友人の某氏が、窃かにその人の運勢を
占者に見てもらったところが、占者のいうには

「この人の前途に幸運はありません。これは既に果報をしつくした人です」

つまり、この人は若い時代の賛沢のために、
持って生まれた福分を総てなくした人だという意味です。
その人は六十余歳で逆境のうちに死んで行きました。

これに反し、若い時に苦労し多くの善因を積んで晩年に栄える人は、
徳を天に積んだのであるから、誰もその人の幸福を妨げる者はありません。

このような因果の理法が本当に分ると、ヒドイ瞥沢や、
ズルク廻って得をしようなどという心得違いは全然なくなります。

           <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

5日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/05 (Tue) 04:05:20

《獅子は百獸の中にあって恐れを知らぬ。
  若き日の修行によって生涯恐れを知らない人となれ。》


若き日の修行によって、宇宙の本性と自己の本性とが一体であることをしり、
宇宙の理法によって動くものは恐れを知らない。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

これはなかなかむつかしい事です。
第一若き日の修行という言葉に躓(つまず)いてはなりません。

恐れを知らぬ人となるために、
若いうちに腕力を鍛えようなどと考えるならばお笑いぐさです。

勿論健康を鍛えることは必要ですが、如何なる横綱大関も、拳闘の選手も、
外敵と闘う場合にはピストル一挺にかなわないです。

一体人の恐怖心のもとは何んでしょうか。

釈迦は生きる事と、老いる事と、病む事と、死ぬる事との四つの苦しみに戦慄して王宮を出で、
六年苦行の結果転迷開悟し、獅子無畏の人(獅子の如く畏れを知らぬ人)となったのですが、

この釈迦の戦慄した四つの苦しみは、釈迦の死後二千四百余年後の今日になっても、
更に今後の千年二千年或は万年後までも、物どころつく人間には必ず附いて廻って離れぬ
苦しみでしょう。


そうしてそれらの苦しみに対する恐怖心が寸毫でもあるかぎりは、
無畏の人(おそれなき人)とはなれないのですから、
本当は悟りを開かねば、真に恐れを知らぬ人にはなれないわけです。


例話。

幕末の傑士勝海舟翁は、若い時に島田虎之助という武道の達人について、剣術を学びました。
剣道も島田氏くらいになると余程人間が出来ていたと見えて、海舟翁に対し

「本気に修行するつもりならば、真の剣術を修行せよ」

といい、
毎夜王子権現に行って、独りで稽古をするように命じました。

これは剣術といいながら、実は心の鍛錬が主であって、
仏教でいうところの禅の修行と一致します。

海舟翁は後に禅をも本気に修行しました。

深夜の神社の境内は随分淋しく、初めのうちは恐ろしくて、身の毛がよだつような感じで
あったが、後には次第に慣れて、淋しい中に一種の趣があるようになったとのことです。


私が先年滝行をやった甲州内船の滝山などは、背後は猪の出る深山をひかえており。
昼間でさえ人間を滅多に見ない所であって、そのうえ滝の音が深夜にはいろいろの声となって
聞えるのですから、このような滝山の深夜などは、さらに一層物凄い感じがするのですが、
それは何故でしょうか。


いまの世の競馬や競輪や、パチンコやキャバレーなどに夢中になっている人達は、
如何に若さと、体力と、腕力とに自信があっても、この闇の物凄さ一つにも勝てないです。

疑う者は滝山で二三夜を過ごして見るがよいです。


しかるに若し如何なる深山の闇も、われを包容する大自然の愛の一種であり、
そこらの草も木も、皆同じ天地に生を享けている友人であると思い得るならば、
深山の暗夜も何んの物凄いことがあるでしょうか。いわんや王子権現の境内をやです。


さて勝海舟翁は,その若き日の修行によって身心を鍛えた結果、幕末大変動の際に、
幾度も刺客に襲われながら難を逃れ、官軍側の西郷南洲翁を相手に、
江戸城明渡しの大役をも果したのであります。

海舟翁は

「危難に際会して逃れぬ場合と見たら、先ず命を捨ててかかった。
そうして一度も死ななかった」

といっています。

このような自在な気持になって、いつでも命を捨ててかかることが出来るのは、
天地と自分と一体の境地をつかんでいるからです。

常に恐れを知らぬ人となるがためには、
大自然とも人間界とも、一体になった境地をつかむ修行が肝要です。

           <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

6日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/06 (Wed) 03:39:21


《世の中に偶然の出来事、または僥倖(思いがけない幸)などあると思うな。》

偶然や僥倖があると思うのは考えが至らぬからである。

何んの善因をも積んでいない人が引きあてた寶くじの百万圓が、
如何にその人の不幸を招いているかと思え。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

これは前々回の因果の法則の話の続きのようなものです。
科学者の扱う現象界の法則には必ず因果律、即ち原因結果の法則が伴っていますが、
恰もその如く、人生に於けるどんな偶然の出来事のように思えることにも、
必ずそれには遠因または近因があります。

あの人は偶然あそこへ行き合わせて、怪我をしたなどとよくいうが、
その人がちょうどそこへ行き合わすのには、そこへ行くべき事情があったのであって、
決してその人がそれまでの行動と無関係に、その場へ行き合わせたのではないのです。

総ての善事も悪事もその如く、何んの原因もなくして偶然に来るものではなく、
また境倖(まぐれあたりの幸)という事もあるべきことではない。

宝くじなどが当ると、全く偶然に幸運を引き当てたと思うでしょうが、
これも当る原因(大抵は善くない原因)があってのことです。



例話。

昭和27年8月26日の大新聞紙上に、次のような記事が載っていました。

25日午前6時頃、大分県速見郡山香町野原、金物商小田猛さん(48)は、
物置小屋で首をつって死んだ。

小田さんは一昨年春から宝くじ2回で250万円当ったが、その金を競輪につぎ込み、
最近では7、80万円の借金をしたという。

家族への遺書には、家屋敷を売れば借金を返してもまだ残るであろうから、
それで生活してくれ・・・競馬やトバクには、決して手を出すなとあったそうです。

小田さんの一生がなぜこんな不幸に終ったかといいますと、
そもそも宝くじを買う小田さんの気持が、まぐれ当りの幸を希う良くない気持です。

そこには造物主の人を生かす道に従って働き、
その結果報酬を貰って栄えようという意味が全然ありません。

だからその引き当てた250万円は実は恐ろしい金であって、
それは幸運を引き当てたのではなく、本当は大きな禍を引き当てたのです。

そこに気付かなかった小田さんは、さらに競輪をやって一層大きく儲けようとした。
即ち働かずに儲けようという小田さんの不道徳心が、いよいよ高潮に達した。
その結果の小田さんの没落です。


英国の生んだ巨人ウィンストン・チャーチルの文章の中にも、
欧州で賭博の盛んな享楽的避暑地に行くと、

「夕やみの中をはうようにうろついている、影のうすい人物を見かける」

と書いてありますが、

これも賭博という人を生かす道にかなわぬ事のために、最後の小さな資金までもなく
して、一生を誤り尽くした人の姿です。


私の知る範囲で、宝くじが当って仕合せのよかった人は、
その金をそっくり病院と学校に寄附した人だけです。
その人はかねがね病院や学校に寄附したいと考えていたので、
当った金をそのまま寄附して、人々から感心せられました。

その他には徳川時代の御家人(小禄の武士)で、神田明神売出しの富くじを買い、
それが当時の千両のくじに当ったのを知りながら、僥倖を希ったことを恥じて、
その当りくじを焼き捨てた人がある。

その人はそれがもとで大いに出世をするのですが、
その話はいつか「紫雲」誌上に書きました。

造物主は人を生かす道にかなわぬ者に、本当の幸運を与えることはない。
また原因なくして結果があるということも、決してないのだということを知れば、
人生に誤りが少なくなります。

           <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

7日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/07 (Thu) 04:35:58


《窮境に落ちた時に無理非道をすれば、幸運が來た時にそれをつかめない。》


如何なる窮境に處しても、
誠實を持って一貫したものが救われなかったことは一度もない。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

人間の一生のうちには、大抵幾度か窮境に落ちるものですが、如何なる窮境に処しても、
誠実をもって一貫した者が救われなかったことは、太古以来一度もないのですから、
おちついて最善を尽くすことです。

ただその場合に無理非道をすると、次の幸運が来た時にそれを逃がすか、
或は幸運の来るのが遅れます。


例話。

曽て東京のある有名な書店が破産をした時、若しその書店の経営者が、
債権者の前に全財産を投げ出したならば、何んとかその書店が立ち行くように、
債権者で世話をしようという内相談が進んでいましたが、

その書店の経営者が三十万円ほど財産をかくしたことが知れたために、
債権者達がその書店に対する好意を捨てて、潰してしまいました。


それと反対の話があります。
先年私が某地方を遊説した時、某市の講演の世話をしてくれたN君が、
別れに臨んで自分の家が破産しかかっていることを告げ
「このつぎ先生にお目にかかる時には、私の家も多分つぶれていましよう」
といいました。

私は突然の話に驚きましたが、その時前記の書店の話をして

「いよいよ破産という時に、必ずズルィ事をしてはいけませんよ。
少しばかり財産を残そうとしてズルイ事をすると、お天道さんの救いの手の働きようがない
のですから、容易に立ち上れませんよ。

総てを投げ出して整理をすれば、その時は心細いようでも、
言わば病気の根が切れたようなものであるから、やがて必ず再起が出来ます
・・・あなたの今後の幸不幸の別れるところはそこですよ」

と、その人に注意しました。その人はかねがね信仰に入っている人であったからか、
よく私の話を納得し、どうせ潰れるのなら早く整理しようと考え、大阪に出かけて行って
各問屋を廻りました。そうして

「これが私の財産と借金との明細表です。御覧の通りいまのうちに整理をすれば、
財産の方が大分余りますけれども、私はそれも私が取ろうとはいいません。
不始末を仕出かしたお詫びに全部を投出しますから、しかるべく御処置を願います」

といい歩きました。

そうすると債権者達が、その誠実な態度に感服し「何んとかもう一度助けよう」と
いうことになり、これまでの借金は一応棚上げをし(待ってくれることにし)、
新たに商品を送ってくれることになりました。

予想外の結果に驚いた私の友人は、店員中の不心得な者を解雇して勉励しましたところが、
忽ち店運隆盛に向かい、1年あまりの間に月々の黒字で、棚上げして貰った借金も
幾分返せるという幸運に恵まれました。

その後私が同地方へ行った時には、N君はニコニコと停車場に迎えてくれ

「全く先生のお蔭で、私の店は立直りました」
といいました。


独り破産の場合にかぎらず、如何なる場合にも誠実をもって一貫していれば、
きょうのいま、いくら考えても方法がなくても、明日になり、或は明後日になれば、
方法が見つかるということになるのです。

それはこちらの条件が変らなくとも、天地の運行と共に周囲の条件が変って来るからです。
何か新しい事件が起るとか、思いがけなく友人が訪ねて来て、力になってくれるとか
いうが如くにです。

しかもそのような大窮境を乗り越えたあとには、大抵大幸運が待っているものなのですね。、

           <感謝合掌 平成28年1月7日 頓首再拝>

8日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/08 (Fri) 04:36:03


《世の中に私のような不幸なものはいないと思ってはならぬ。》

あなたくらいの不幸は、昔から幾千萬人或いは幾億人が經験して、
しかもそれを乗り切っているのです。

ただその不幸に處する態度によって、その後の運命がきまるのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

よく世間にあることですが、達人の眼から見れば何ほどでもないことで、
自分を非常に不幸な者だと思い込み「私のように不仕合せな者はありません」といっては、
他人の同情を求めて廻る人があります。

そうしてあの人もこの人も私の不幸を気の毒がった。
いよいよ私は不仕合せ者だときめてしまって、独りで泣き、人前で泣き、
さも憐れっぽく日を送るのですが、このような人が好運にめぐまれるということは、
先ずありません。


なぜなら、この人にとっては不幸の重なることが、他人の同情を求める大事な材料なので
あって、仕合せのよいことがあっては困るからです。このような人は知らず知らずのうちに、
いつも不仕合せへの途を選んで行くのです。

若し好運が望ましいなら、みだりに他人の同情を求めてはなりません。

如何に不幸な境遇にあっても、このくらいのことは何んでもないと思い、
或はそのような境遇の中にもなお感謝すべきことを見つけて、愉快に日を送り、
好運を招きよせねばなりません。


例話。

南フランスのルルドの洞窟は、そこの水風呂に入れば、難病治癒の奇蹟が現われる
ので知られている所でありまして、ノーベル賞の受賞者で、生物学者として有名であった
故アレキシス・カレル博士の如きも、自らこのルルド匡打き、目の前で瀕死の重病人が
癒された例を見て驚き、それを著書にも書いているほどであります。


しかしそのような素晴らしい難病治癒の奇蹟は、ルルドの奇蹟を求めて世界中から集まる
難病人中の、1%くらいにしか起らないに拘らず、不思議なことにはここに来た人は、
難病がいやされなくとも心が癒され、そこを支配しているカトリック教会の熱烈なる信者と
なって、神を讃美するに至るというのです。パリの郊外に住んでいるヒドィ中風患者の
ポール・ガラン氏の如きも.そのような人の一人です。

ガラン氏はルルドヘ行く汽車の中で、ルルドを目ざして行く多くのヒドイ難病人達に遭い、
その人達の病気が治るようにと祈る心で一杯になり.自分のことを祈るのを忘れ、
その侭に満足して帰宅したのですが、その後彼の病状は益々悪く、寝床にねたきりで、
来訪者があっても、自分の顔をその方へ向けることさえ出来ぬほどであるのに、
彼は意気軒昂なのです。

或る夜彼に霊感が湧き、それがもとで、妻への口述ですばらしい書物を幾冊も書くことにより、
彼は名と利とを得るに至るのであります。
右(註:上)は「奇蹟なき処に奇蹟あり」というフルトン・アワスラー氏の文章中の一節ですが、
総て病気にかぎらず如何なる不幸の中にあっても、感謝することを忘れぬ人。
或は自分の不幸を忘れて他人のために愛の行いをする人。
このような人は奇蹟をさえ体験し得るのであります。

あの米国のヘレン・ケラー女史の如きも、聾で、唖で、盲目であるが、若しあの人が
親や世間を恨み、或は私のような不幸な者はないといって、世間の同情を求めて廻る
ような心がけであったならば、どうしてあれだけに宇宙の神秘を知り、
また生命の神秘を知り得るでしょうか。

如何に不幸な境遇にあっても、自分の不幸を憐む代りに、自分の本性の尊さを知り、
更に造物主の万人を生かす働きの素晴らしさを知るとき、その人の不幸な境遇は
そのまま好運となるのであります。

打明けていえば、あなたくらいの不幸は、昔から幾千万人或は幾億人が経験して、
しかもそれを乗り切っているのです。そのような不幸に処する態度が優れておれば、
それが直ちにその後のあなたの幸運につながるのです。

           <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

9日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/09 (Sat) 04:37:39


《すべての人の本性の善なることを疑うな。》

自分の良人や家族が如何に不良に見えても、
その本性の善を信じて疑わず接しておれば、
必ずその善なる本性が現われる。

教育の上手な人も、かくして人の本性の善を引出すのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

自分の良人や家族が如何に不良に見えても、
その本性の善を信じて疑わずに接していれば、
必ずその善なる本性が現われる。

教育の上手な人も、かくして人の本性の善を引出すのです。

この第九日目の標語は非常に大切なものですが、
世の中にはこれだけの事に気づかぬために、苦しんでいる人が少なくないのです。


例えばここに不良の子を持っている親があるとします。
親心で心配のあまり、うちの子は不良で困る困るといいつづけ、思いつづけたとします。
その子の不良は決して治らないのです。

親はこんなにも心配するのにと思っても、
それは心配のしかたが間違っているのですから、
子供の不良が治りようがないのです。

人の本性の善を疑うなとはここのことなのです。

たとえ自分の子が如何に不良であろうとも、この子の本性は善なのであるから、
きっと良い子になると、先ず親が信じきるのです。
そうして平生それを心に思うのみか、口に出し、さらに行いの上にも示すのです。

そうすると初めのうちは不良の子は、親のそのような心境がおかしくて、
世にいう親馬鹿とは自分の親のようなのをいうのであろうなどと思うのですが、

しかしその自分を絶対に信じてくれた親の有難さというものは、
いつしか必ずその不良児を、善良に向けずにはおかぬのです。

自分はあんなにも不良ぶりをつづけたのに、自分を信じ通してくれた親の有難さ、
その親を裏切って来た自分は何んという罪の深い者であろうかというふうに、
必ず反省して来るのです。


良人との間が不和で、良人が毎晩帰りが遅いなどという夫人の場合にも、
この事は大切な教訓を含んでいます。

良人の行動が怪しいと思った時に、腹を立てたり嫉妬をしたり、
不機嫌な顔などをしたりすると、良人の心はますます夫人を離れて行きます。

「私はあなたのためを思うから御注意するのです」などと、
如何に親切げにいっても、何んの効果もありません。

「うちへ帰っても家内からお説教を喰ったり、
家内のあの不機嫌な顔を見たりしてはいやになる」から、
少しでも長く花柳界の空気に、ひたっていたいというような気になるのです。

これに反して、良人の行動の怪しからぬことが分っていても、
常に良人の本性の善なることを疑わずにこれに対し、
喜んで迎え、まどころをもって仕え、喜んで送り出すのです。

それが久しきに及ぶと必ず良人に反省が起って来ます。

それは人の本性は善である上に、良人の迷っている花柳界の女などというものは、
大抵は金本位のものですから、夢中になっている時にこそわからぬが、
少し冷静になってくれば、相手の女の心境が見えすいていやになるのです。

たまには相手の女にまどころのある場合もありましょうが、そのような場合でも、
もともとそれは不自然な無理な関係なのですから、こちらさえ良人の善なる本性を見て
疑わずに、且つ自分も反省修養を怠らずにいるならば、
必ず良人は自分の処へ帰って来るのです。


学校の生徒を教える教師の場合も同様です。
一人一人の生徒の本性の善なることを疑わずに生徒に対すれば、
生徒は必ず能く先生のいうことを聞くのですが、

生徒を悪く思って対したならば、生徒は必ずねじけて行って、
先生のいうことを聞かぬようになるのです。
教育の上手下手はただこの一点にあるのです。

教室に入って来た先生が、先ずにこにこして

「皆元気そうだね。先生は君等を教えるのを実にうれしく思っている。
皆立派な人物になって、先生を喜ばせてくれよ」

というが如き心構えで教育をすれば、生徒は必ず先生になつくのですね。

           <感謝合掌 平成28年1月9日 頓首再拝>

10日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/10 (Sun) 04:36:54


《自分の本性が無限に偉大であることを知らずにいるのが無知(無明)の最大なるものである。》

踏み切りを通る時さえ、ウッカリしておれば汽車に轢かれて命を失うではないか、

自分の本性の偉大さに気づかずにウッカリしておることが
如何に大きな一生の損失であるかを想うべしである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

人間の肉体は身長も体重も限られており、
視野のとどく範囲も、聴覚のきく範囲も大したものではなく、
寿命も長くて百年を越えません。

しかるにそのような人間の本性が無限に偉大であるとは、何をもっていうのであるかと
思うでしょうが、実は人間は宇宙という大生命の胎内に生まれている小生命なのですから、
本当は総ての人は、皆宇宙即ち大生命、即ち自分達の母胎の一切の秘密を知り、
従ってまた大生命の自在力を、自由に活用し得るはずなのであります。

このことは猫のお産を見てもよく分るのですね。猫がお産をすると、
その子を育てる方法順序等を実によく知っています。

猫はその親から育児のことを教えられておらず、また産婆学校で学んだのでもありませんが、
全く先験的に(経験以前から)大生命の具有せる育児の神秘に通じているのです。

人間は万物の霊長であるから、なおさら宇宙即ち母胎の神秘を先験的に知っていて、
必要に応じその知識を、適当に使用することが出来るのであります。

例えばお互いの身長は2メートルを越えずとも、
飛行機に乗れば成層圏まででも達することが出来。

また眼のとどかぬ処も望遠鏡の力をかりれば、
幾万光年の先きにある星をでも観測することが出来。
顕微鏡の力をかりれば、肉眼で見えぬ微小物をも見ることが出来。

更に汽車や汽船に乗れば、自分の歩行力の幾十倍の速力を発揮し得るばかりか、
若し飛行機に乗るならば、一昼夜で米国までも行き得ることは、人の知るところです。


これらの科学的知識も、本来万人が先験的に通じている大生命の神秘の一端が、
或る優れた人達によって、私達の前に明白にされ、それが進んで日常生活上の便利に
供せられるに至ったものでありますが、精神的方面はどうでしょうか。


私達は釈迦、耶蘇、孔子などの精神力の偉大さを知っていますが、
これはなにもこの人達に限らぬことであって、誰しも悟道によるならば
(即ち私達の母胎である大生命の神秘に通じたならば)
先人の上に出ることが不可能ではありません。


拙著「人生を楽観すべし」や「四国遍路記」などを読まれた諸君は、
私が難治の病人を簡単に治した実例を見られたでしょうが、

私でさえそうでありますから、私などよりも遥かに優れた人物が出れば、
治病その他の上にでも、どんなにエライ精神力を発揮し得るか知れません。

実際若しわれわれが大生命の神秘を、全体的につかんだならば、
われわれは風格に於いても神に近づき得るのみならず、総ての出来事の原因よりも、
結果を先きに知ることが自由になるはずです。


或る事が起った後に、その結果を察するなどは迂遠な話です。
起る以前にその事の起るのを知り、さらにその結果をも知ってそれに対処するのです。

例えば諸葛孔明が赤壁の戦に臨んだ時大風の日を予知し、またその結果をも予知して、
思うままの戦勝をした如きは、ややその類です。

このような自在力を十分につかんだ者は、人生の一切に処して渋滞なく
、所謂天馬空を行くが如き力を発揮し得るのです。

かかる無限の偉大性、無限の可能性を持てる者が人間であることを
知らぬのが、無知の最大なるものであり。
また無明(迷い)即ち心の暗いことの最大なるものであります。

           <感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>

11日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/11 (Mon) 04:41:31

《學問が出来ぬことは、少しもその人の本性の善であり、
        偉大であることを抹殺するものではない。》


學問が出来ねば、學問の出来る人を使えばよいのである。

大局を見るの明。
独創的着想。
困難を乗り切る忍耐力。

他人を使う才能等は、學校教育では學べないのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より


            ・・・

《解説》


学問が出来ねば、学問の出来る人を使えばよいのである。

大局を見るの明。
独創的着想。
困難を乗り切る忍耐力。

他人を使う才能等は、学校教育では学べないのである。
よく各地の高等学校で講演を頼まれることがありますが、
そのような時に私はいつも前回に述べたように、人間の本性の無限に偉大なることを説明し
「この人間の偉大性は学問の有無や、学校の出来不出来などによって、増減するものでは
決してない」といい

「諸君は学問など出来なくとも差しつかえないぞ」
と叫びますと、一瞬学生はあっ気にとられた顔をしています。

次いで私が

「学問が出来ぬことに伴う悪いことがただ一つある。
それは学校の先生が、学問の出来ぬ生徒は
悪い生徒だと誤り信ずることであります」

というと、生徒は狂気の如くに爆笑して喚声をあげます。

私はさらに続けていう
「学校の先生が、学問の出来ぬ生徒は悪い生徒だと思い、
生徒の親も亦先生のその気持を受けて、自分の子はつまらぬ子だときめてしまったとします。
先生と親と双方から悪く思われるその生徒は、いつしか自分もつまらぬ人物だと思いこみます。
それでどうしてその生徒は、人間本来の偉大性を発揮し得るでしょうか」

と説きます。私のこの一見乱暴な放言に似たる言葉は、
実は私が青少年の前途を思う愛の涙の伴うものなのであります。

私はさらに論旨を進めて
「諸君はこの学校卒業の後に、大学の入学試験を受けて落第してもよいぞ」
といいます。

生徒は再びあっ気にとられていますが、私は説明をつづけて

「この頃の状態では、大学へ入学したいと志願する者の何分の一も入学出来ぬほどに、
大学の門はせまいのである。だから諸君は若し入学試験に落第したらば、
わしの肩幅が広いから大学への門につっかかったのだと思えばよい」

というと、生徒はまた喚声をあげて喜びます。私はさらにいう

「但し入学試験に通らなかった諸君は、入学試験に落第した者でも.このくらいにエライ人物
になれるのだぞということを、自ら証明する覚悟を持て」
といい。学問が出来ずとも偉大であった古人の幾多の例を挙げます。

次には
「若し諸君が大学へ入学しても、毎日学校に出て、先生の講義を克明にノートにとるような
不心得なことでは、ろくな人物にならぬぞ・・・もっとも大学の助教授にでも残りたい
ような者は、それでもよいが、

古人の学説の上に出ようとする者は、総ての学説の大体をつかんで、
それを批判する頭を養わねばならぬ」

と説き聞かせます。

特にこの頃の有様では「学力優等人物劣等」が非常に多いです。
過般の戦争で日本を亡(ほろぽ)した主なる責任者のうちに、
陸軍大学一番、海軍大学一番、東大一番等の卒業生があります(委しくは略する)。

人間の成功不成功は学問の有無や出来不出来によるのではなく、
人間その者に具わる偉大性をどれだけ発揮し得るかにある。

それを委しくいえば本文の初めにある通り、大局を見るの明、独創的着想、
困難に屈せぬ忍耐力、他人を使う才能等に依るところが多いのであります。


           <感謝合掌 平成28年1月11日 頓首再拝>

12日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/12 (Tue) 04:24:02


《他人と争ったり、他人を憎んだりすることによって、善い事が現われると思うな。》


人の本性の善を認め、それを引出す努力によってのみ、世の中は、善くなるのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。



            ・・・

《解説》

いつの世にも他人と争ったり、他人を憎んだりすることを、
大変な善事であるかのように考え、そのために随分自分の精根をつくす人がありますが、
殊にマルクス主義とい嵐ものが流行しだして以来、
世の中が一層憎悪心と闘争心とに満つるようになりました。

自分がこんなに不幸であったり、貧乏であったりするのは、資本主義が悪いのだ。
いや資本家の手先きを勤める政治家が悪いのだ。雇主が悪いのだ。社会が悪いのだ。
或は親が悪いのだ。家内が悪いのだ。子が悪いのだ

というが如くに、何か他に転嫁することを考え。それで自分の不幸や貧乏の責任が
自分にないことを立証して、他人と争い、或は他人を憎んでさえいれば、
それで自分には何んの欠げたるところもないように思うのです。

このような人は自分の重荷を他人に負わせて、大層得をしているようですが、
本当は自分の善なる本性を見失い、同時に自分の本性の善なる輝きも、
自分で消している人であって、いわゆる暗きより暗きに入る人です。

一家の主人が共産主義等にこり出すと、忽ちその家庭から笑いが消え、福の神が逃げ出して、
その家に貧乏と不幸が絶えなくなることは.かかる争いや憎しみからは、
何んの善い事も引出せない証拠です。

たとえ共産主義者の世を憤る動機が、如何に善意に出ているにしても、
その宇宙観、世界観、社会観、人生観が間違っているからです。
如何なる人も本当は善人なのである。お釈迦さんが説教する時には、
いつでも「善男子」或は「善女人」と呼びかけたように、誰にでも善い人だなァと思って
対すると、その人の本性の善が出て来ます。

それはまた同時に自分の善なる本性を輝かすことにもなります。
これは五六才か八九才くらいの児童に対して、試して見ればすぐわかる。

「坊ちゃん、良い子だね」という気持で接すると、その子はなつくが、
「この鼻たれが」というような気持で接すると、決してなつきません。

前の態度は児童の善心を引出すのですが、後の態度は児童の悪意を引出すからです。

いつか私のところへ、平生の生活ぶりの余り善くない男が来て、
きょうは是非とも○○円だけ金銭を貰いたいと切望しました。

あまり本気なのでどうしたのかと聞くと

「実は私は家賃を1年近く払わずにいたのですが、昨日家主が催促に来たのです」
「家主に家賃の催促をされたくらいで、驚く君ではない筈だが・・・」

「いやそれが今度は痛い所をやられたのです・・・来月は必ず払うと先月いわれた。
それでまたお払いにならぬようだと、御人格にかかわりはしませんかといわれたのです。
痛い所をやられたので、どうしてもきょうは払わねばならんのであるから、お願いします」
というのです。つまり私達から見て、あまり人格が立派でないと思われる男でも
「御人格にかかわりはせんか」といわれると、普通ではとても支払わぬ家賃を、
支払わねばならぬという気になるのです。

それだけ善心が引出されるのだから不思議なものです。

逢うほどの人からその本性の善をひき出す生活ぶりに徹すれば、
その人のいる所には感謝があり、笑いがあり、繁栄があって、到る処が楽園と化するのですね。

私の友人に町田辰次郎という国際電信電話株式会社(資本金三十三億円)の社長がありますが、
この人は逢うほどの人の長所を認めて、蔭で誉め眼前で誉めます。

それが利害の打算や利巧から来ているのではない証拠には、自分の信念に合わぬ時は、
曽ての後藤新平氏に対してでも、今の河野一郎氏に対してでも、断乎として、
苦言を呈して少しも屈しないのです。私などの及ばぬ人として畏敬しています。

           <感謝合掌 平成28年1月12日 頓首再拝>

13日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/13 (Wed) 04:41:26


《なに人かを憎みながらする善事は本當の善事ではない。》


眼さきにちりがぶら下つておれば、視野が妨げられる。

誰をも憎まぬ人でなければ、ものごとの正しい判断は出來ぬのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

自分が不正だと認める者、或は自分が嫌いだと思う者などを大いに憎むことが、
非常の善事であるように考える人があるが間違いです。

何人かを嫌い、何人かを憎んでいる人の人生観、社会観はそれだけ正しくないのですから、
世に処する心構えの間違っている人に、本当の善事が出来るはずはないのであります。

例えば林を見る場合に、その中の1本の木に特に目をとめたならば、
林全体の景色はわからぬでしょう。
どの木にも囚われずに自然な気持で全体に対した時、林全体の様相が分るのです。

昔から「木を数えて林を見ず」という言葉は、ここのことをいうのでありますが、
何人かを憎む人の人生観もこれと同様でへ正しい社会の様相が分らないのです。


別の例をいえば、何人かを憎んでいる人は、眼の中に塵が入っているようなものです。
決して世の中が正当に、且つ十分には見えぬのです。
古人のいわゆる「眼裏塵あれば一一一界くらし」であります。


世の中の改革などでも、一人も憎まず一人も仆さず、総ての人の間に大調和あらしめて、
等しく万人を栄えしめずんばやまぬという、大愛に燃えた人が改革の先登に立ってこそ、
本当に良い改革が出来るのですね。

人を憎みながらする改革は、本当の改革ではない。
必ず闘争は闘争を呼び、恨みは恨みを呼んで、止まるところがありません。


子が父母に対し、或は妻が良人に対し、或は使用人が雇主に対する場合、
若しくはそれらの逆の場合などでも、内心で憤慨しながら尽くしているのでは、
本当の善事ではありません。

そのような我まんしている心持は必ず相手へも映って、相手に心からの好感は与えないです。
それではいつか必ず破綻が来ます。本当の善事でない所以がわかりましよう。


かって私の知人にその良人の不行跡を、非常に憎んでいる夫人がありました。
その人は良人に不満足であればけあるほど、信仰によって救われようと思い、
キリスト教の教会へ熱心に通いました。そうして牧師から

「イエス様を信じて辛抱しなさい・・・辛抱しなさい」
と教えられていました。

その夫人も牧師のいう通りに、不愉快を我まんし忍苦の生活を続けるのが、
自分の如き境遇にいる妻の道であると考えていました。

私はその夫人にいいました。

「そんな態度は善事でもなんでもありません。我まんしているあなたの気持は御主人に
うつるから、あなたの御主人は正しい道に帰りにくいです・・・あなたの御主人が
他の女に迷うのは、あなたにない点、いわば《くつろぎ》、色気、気楽さというようなものを
求めているのです。だからあなたはその良人の要求を、満たし得る夫人にならねばなりません」

といいました。

或る新興宗教ではそんな場合に「《がまんする》なんて飛んでもない事です。
御主人がヘトヘトになるまで可愛がってあげなさい」と教えます。

そこに夫婦和合家庭円満の秘訣があり、
新興宗教に有閑婦人が熱心になる理由の一つがあります。

美人で教養ある夫人が、夫婦間の不和合に泣く理由の存するところを、深く察すべきです。


夫婦が真に和合していれば、良人のいうことを妻は快く聞き、
妻の言も亦快く良人の耳に入ります。
そうしてこそ子供達も親のいう事をよく聞くのです。

夫婦仲の悪いうちの子は、必ず親に従順でないです。
妻が親や良人に内心の不満をかくして仕えている家庭の子は、
非常に反抗心の強い者になります。

また良人が親や妻に対して不満を持つ家庭の子も同様です。
わが子の不良に泣く人で、そこに気づかぬ人が沢山あります。

           <感謝合掌 平成28年1月13日 頓首再拝>

14日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/14 (Thu) 04:51:24

《人は皆その顔の異なる如く、この世の中における役割を異にしている。》


このゆえに他人が自分の思うようにならぬからとて苦にするな。

それとは逆に、この人は自分に出来ぬ役割を果してくれる人と思うて尊重せよ。


橋本徹馬師 生活標語[一日一言」より。


            ・・・

《解説》

それぞれの人がこの世で与えられている役割が、その人の天命であり。
またそのために日常働く職業は皆天職である。

この頃の世界には二十四億七千万の人間がいますが、同じ顔形に造られているものは
一人もないという事実を思えば,造物主の創造力の偉大なのに驚かざるを得ませんね。

各人の顔形が違っているということは、
この世の中に於ける各人の役割が違っているということです。

人間以外に存在する山川草木の類まで、皆その様相を異にして、
それぞれの役割を受持ち、とりどりにこの現象世界を色どっています。


このゆえに他人が自分の思うようにならぬのを苦にすることなく、
他人は自分と違った役割をこの世の中で受持ってくれる人として、尊敬すべきであり。
同時に自分も他人にやれぬ役割を、この世で受持っている者として自重すべきです。

このような他人への尊敬と、自分の自重とが行きわたる時、そこに大調和の世の中が出来て、
どこにも排斥すべき人などはいないことがわかります


また私達の日常たずさわっている職業は、何れもそのような役割を果して、
宇宙の繁栄道に寄与するために、天より授けられている職業、即ち天職であることを
知らねばなりません。

もっとも学生のアルバイトや、一時の腰かけにやっている仕事などの如く、
いまのはほんの一時的のことで、本当の自分の天職は別にあるという場合もありますが、

そのような仮りの仕事から、本当の天職にたどりつく途は、いまのかりの仕事を
馬鹿にすることではなく、そのかりの仕事にも最善を尽くすことによって、
正しく天職に導かれます。

かりの仕事だからといって怠ける人は、天職を得ても本当に働かぬ人ですから、
その人はお天道さんによって、悪い方へ廻わされることになります。

なおそれが既に天職である以上は、それは各人の仕事であると同時に、
この世を造られた造物主の仕事でもあるわけですから、

誰でも誠実に天職のために働いている時は、当然偉大なる造物主の
十分の加護を受けているものと考えて、大安心の心境で働くべきです。

人皆天職のために誠実に働く、そうしてその仕事を通じて、世のため人のために
貢献している時には、その人の持って生れた本能が正しく働くから、その人もその家族も
病気になることなく、健康の間に衣食おのずから足りて、一家の団らん、友人との交り、
趣味への楽しみ等も与えられます。

そのような人々の揃った国家が、
本当の文化国家であり、平和国家であり、地上の天国であります。


科学者の中でも、原子や分子や細胞などの行動をよく見守っている人達は、これらの同じ言葉
で呼ばれる各原子や分子や細胞が集まって、より大なる生命体を組織する時、いずれも自分達
の役割をよく知っていて、それぞれの部署につくのに感心させられるということであります。

例えば原子が集まって分子となる時、その集合ぶりにまごつきが起るということなく。
また分子が集まって細胞となる時も同様、少しもまごつかずに、それぞれの部署につくのを
見ると、これらの微小物にも、それぞれの個性があるに相違なく、またそれらが、
悉く自分の役割をも知っているに相違ないと思うそうです。

お互いはこれらの微小物さえも、その役割天職に忠実なる点に、
学ぶところがなければなりません。

           <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

15日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/15 (Fri) 04:44:38


《人は皆本来無病健康に生まれている者である。》


現在病める者も悟りによって、自分が本来無病健康であることを知り得るのである。

その信念が全身に満ちわたる時病気も病菌も逃げ出さずにはいられないのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。



            ・・・

《解説》

このような文句を見ただけで、私達を迷信家だと笑いたくなるような知識人は、
九月十八日(昭和三十年)の朝日新聞紙上に載ったSカンドウ氏の「生命の神秘」と題する、
左の如き一文を読むがよいです。

「数ケ月前フランスで発表されて、革命的な学説だと騒がれているルリシュ博士の―― 
今後の外科医術の課題は、統計や数字の制圧から脱して、生命現象の雑多な個体性を
理解するにあろう ―― という主張は、やさしくいい直せば、病気というものはない、
あるのはそれぞれの病人だということになろう」

上のカンドウ氏の言葉をいま一度分りやすくいい直せば、
万人に共通するような病気や、治療法なんていうものはない。

それぞれの人のそれぞれの心の持ち方によって、本来ありもせぬ病気が、
そこにあるかの如くに現われるのであるから、総ての病気はその人独特のものであって、
統計や数字などにかかわるものではないというのです。

カンドウ氏の記事は、なお下の如くにつづきます。

「科学万能の株もいよいよ下る一方だなと考えているところへ、
思いがけない通知と訪問を受けた。通知の方はパリの従兄急死の報である。
医者で各種の新発明に興味を持ち、ポゴモロフの学説その他の長命法を研究していた。

かねて150才まで生きるのだと宣言していたが、本年74才でピンピンしていたのに、
もっと丈夫になるつもりで、長命術の注射を行ったらしい。初めの4回は好成績であったが、
5回目にこん睡状態に陥り、かけつけた名医も為すべきすべなく、息を引きとったという(下略)」

この一節も中々面白い教訓を含んでいます。

つまり注射などによって、神秘な生命に人為的な加減をしようとするのが間違いであって、
肉体生命の長寿法或は最善の治病法も、ただ持って生まれた本能を正しく、
最善に働かすことの外にはないことを教えるものであります。

いま一度言いかえれば長寿法などといっても、薬品で長寿などが出来るものではなく、
生命の法則を究めた者が、その法則に正しく順応すること以外に、
長寿法があるはずがないということです。


そこで医学者の研究しなければならぬものは、生命の法則であって、
如何なる法則によって人間(生命)は生き且つ繁栄するのであるか。

それを知った医者が万人にその道を説けば、それが無病健康法となり。
若しまたそれを知った医者が病人をみれば、その療法はその病人の正しい本能の働きを、
促進する方法となって現われるのであります。


このくらいのことが分らぬために、医者と称する悪業深き者が病者を苦しめ、
また世の病者と称する悪業深き者が、医者にかかって注射されたり、腹を切開されたり、
そのうえ大金をとられたり、エライ目に遭わされるのであります。

火葬場の隠亡は死体を焼いて見れば、この人は何病で死んだかが分るという。
その病んだ部分が最後まで焼け残るからです。

しかし一層心ある人は、その人が何病で死んだかということによって、
その人の平生の心がけが、どの点に於いて誤っていたかが分るはずです。
総ての病気はその人の心の持ち方の、誤り相応に現われるものだからであります。

特に申上げておきたいことは、親不孝先祖不孝と、極端な利己主義とは、
万病の原因であるということです。

家庭内が貧乏と病人で苦しんでいるのを見ると、
その人達の多年の誤れる生活態度が想像されるのです。

(無病健康問題の詳細は拙著「人生を楽観すべし」参照)

           <感謝合掌 平成28年1月15日 頓首再拝>

16日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/16 (Sat) 03:17:31

《現代の憂えは、醫者が病人の心を治さずしてして、病気を治すことである。》


上は二千数百年以前のギリシャの大哲学者プラトンの言葉であるが、
この憂えはプラトンの昔より現代にまで續いている。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

人間の持って生れた本能が正しく働いているならば、誰も病気にかかる者はないはずです。
生命そのものに病気がなく。また人間を組成している最初の要素である電子にも、
その集まりである原子にも、更に原子の集まりである分子にも、分子の集まりの細胞にも、
どこにも病気も病菌もないからであります。

それが病気にかかるのは、本能がそのまま正しく働いていないためです。
なかんずく親不孝、先祖不孝、短気、憂欝、争い、憎しみ、不平、不満、慾張り、
賛沢、美飲美食、取越苦労、持苦労等は、自己の本能の正しい働きを妨げて、
多くの病気の本になるものでありますから、注意すべきです。

明治の傑僧原坦山師は「惑病同根論」を主張しました。
惑は迷いであります。
即ち迷いのあるところに病いあり、迷いのなきところに病いなしというのです。

そうしてこの原坦山師の死ぬ時には、自分で死亡通知を書いて友人を呼びよせ、
自分の全身のどこにも病気がないことを医者に確かめたうえで、無病のまま死んで行きました。
これが本当の死に方です。


例えば鼻茸などの病気にかかる人は.我が強くて感謝の念の足らぬ人ですが、
医者は心の誤りを教えずに、病所だけの手当をします。

鼻茸は手術をすれば、その時は治ったように思われますが、
心が治っていないとやがて再発します。医者はそれを先きの手術が十分でなくて、
根が残っていたのだといいますが、残っていたのは我が強いという心の根です。


他人を恨む人は神経痛にかかる。
人の道にかげたその人の誤れる心の持ち方が、自分の神経の正しい働きに反逆するからです。
他人に恨まれている場合も神経痛にかかります。
他人に恨まれるようなことをしていることが、自分の神経に逆うからです。

神経痛は医者ではなかなか治らぬが、心の持ち方を変えれば即座に治ること、
拙著「人生を楽観すべし」の中にある通りです。


世に処する心の照尺の近い者は近眼になる。
つまり眼先きの事に囚われて、うろうろする人ですね。

世に処する心の照尺の遠すぎる人は遠眼になる。
これは現在の事に対する興味が減って、死ぬる時のことなどを思って遠くを見過ぎるのです。

他人のいうことを聞いて、わが言行を改める心のなくなった人は、聾(つんぼ)になる。
他人の意見を聞く耳を持たぬ人には、耳が不要だからであります。


このような心の法則を知って、その誤れる心境を改めるならば、総ての病気は全治するのが当
然でありますが、人間を肉体的存在だとのみ見る人は、悟道の浅い人ですから、
よく病気して医者に金銭をとられるのであります。

ここまで書いて来た時、神戸の誌友○○○○さんから来書があり。
「紫雲にいつも感謝していますが、ただいつも先生が総ての病気はその人の心の持ち方の
誤り相応に現われるとのお立場から、あまり病人をお叱りになるように感ぜられるのが、
実につらいです」

とありました。

○○さんは病弱な人ですからかく感ぜられるのだと思いますが、
しかし、総ての病人は深く深くその心の原因をたずねて、無病の岩盤につき当り、
そこから絶対健康の自信をもって立ち上らねばなりません。

           <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首再拝>

17日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/17 (Sun) 04:03:00

《晴天の旭日の如きさわやかな心を持續するならば、幸運は必ずきたる。》




橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

下戸(げこ=酒が飲めない人)の建てた倉はないという言葉がある。
若し一杯のんで早寝をし、それで早起をして、気持よく働くならば、
飲酒さえ一家繁昌の本となろう。

すべて陰気な家へは幸運がよりつかぬのである。

『善い事も悪い事もおかげであると思え」という言葉があります。

善い事がおかげであるのはわかっているが、悪い事もおかげであるとは、
妙なことをいって善男善女をごまかすものだと思うでしょうが、そうではありません。

一体善い事とか悪い事とかは誰がきめるかといえば、人間の猿智慧できめるのですから、
善いと思ったことが本当によい事やら、悪いと思ったことが本当に悪い事やら、
どうしてそれがわかるか。

後段附録にある油谷鉱業社長油谷展介氏の如きは、乗りたいと思った飛行機に5分違いで
乗れなかった。止むなく軍用機に便乗したお蔭で死を免れているのです。

だから善いにつけ悪いにつけ、自分の心さえ正しく持っているならば、
何事も宇宙内の出来事であり、従って神さんの摂理の中の出来事ですから、
善い方にきまっているので、悪い事などあるはずがないという気持に徹底すれば、
いつでも晴天の如きさわやかな気持を持続することが出来るはずです。

その家に極端な陰気がただようと、糠味噌さえ一夜で腐るのです。
幸運のよりつきようがありません。

真面目な正直な人だが滅多に笑わぬというような人のうちには、
陽気がないから幸運の止まりようがありません。

陰気な人は如何に正直でも、幸運を招きよせるようなよい智慧が出ないのです。
下戸の建てた倉はないというのはそこですね。


酒をのむのがよいわけではないけれども、
一杯飲んで陽気になり、早寝早起きをして、一家和合しつつ気持よく働く。
それは陰気な家にくらべて、少々の酒代くらいにはかえられぬ尊いことです。

お天道さんは総ての人が陽気に楽しく暮らすことを喜ばれます。

家庭の主婦たる人も、この辺のことをよくわきまえて、或る場合には
こちらから酒をすすめるくらいな気持が必要です。

あまり主婦が堅苦しくて酒がまずいようだと、良人が外出先で飲んで来るようになります。

病人などでも機嫌がわるく、小言や不平ばかりいっている間はなかなか治らないです。
何かにつけて心を陽気に持ち「有難いな」「有難いな」と思うようになれば、
その人の本能が正しく働き出すから、もうその病気の根は切れているのです、
定命のあるかぎり治らずにいないのです。

或る所に肺をやんで寝ている人がいました。
毎日機嫌がわるくて、家族に小言ばかりいっているということでしたから、
私はその人に伝言(ことづ)けしました。

これから毎日朝書晩に三度ずつ、出来るだけ大きな声を出して
「ハハハハ」と笑うのを日課にしなさい。初めのうちは「おかしくもないのに」と
馬鹿々々しく思うであろうが、そのうちに笑うことが楽しみになる。
そうすれば肺病が必ず良くなる。小言をいっていたのでは肺病が治らぬ…と伝言したのです。

その人は早速それをはじめたところが、数日ではや余程快くなり、
十日ほどで起きて店番が出来るようになったということです。

陽気の功徳大なるかなですね。

笑う門に福来たるというのは本当のことです。

           <感謝合掌 平成28年1月17日 頓首再拝>

18日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/18 (Mon) 04:19:13

《感謝しながら食事をする者に、胃腸病はない。》


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》


心から感謝して食事をする以上の胃腸薬は、
如何なる大医学者も、大薬学者も、決して発明し得ないのである。

世間に病人が多い中にも、胃腸を病む人は最も多いようですが、
しかしそれらの人々は、大抵なぜ自分が胃腸病をやむかの理由を知らないようです。
勿論知らぬからこそ、馬鹿げた苦しみをつづける人が多いのです。

胃腸病の一番大きな原因は、感謝が足らぬことです。

食膳を前にした時心から感謝し

「ああ有難いことだ、この与えられたる食事をすることによって、わが身を養い。
小にしては一家のため、大にしては世の中のために尽くすことが出来るのである。
有難いことだ、神さん有難うございます」

と思い、満腔の感謝と共に食事をするならば、
自分の持って生まれた消化の本能が正しく働くのみならず、
食事の選択、分量などもちょうど適当になるから、胃腸病などになるはずがないのであります。

感謝が足らぬということの反面は、わがままや不平です。
与えられた食事を有難く戴く代りに、わがまま瞥沢をいい、食事の材料に不平をいいなどすれば、
その瞬間に消化の本能の正しい働きが、それだけ阻害されるから、胃の消化がわるくなり、
またよく腸が栄養を吸収しなくなるから、胃腸をこわすのです。


平生の短気ということも、非常に胃腸を悪くします。
短気な人はそのために、全身の生命本能の正しい働きが阻害されますから、
無論胃腸の正しい働きも、そのために阻害されるのです。

それから心に悩みのある人。例えば家庭が面白くないとか、妻や良人に不満であるとか、
仕事が不快であるとかいう人も、胃腸を病みます。

そのような人は大抵その悩みをまぎらすために大酒をのむか、煙草を沢山のむかします。
そうしてそれがまた胃腸を害します。

大体人間の本能が正しく働く時には、身体に害になるような物は、
受けつけなくなるのが本当ですから、悟った人は殊さらに養生摂生などの必要もないのです。
従ってその人にとっては医者の存在も.沢山の胃腸薬も全く無価値であり無関係であるのです。

最後に感謝が足らなかったために、胃腸を害した私の体験を申上げます。

私は元来あまり肉食は好まぬ方ですが、以前にはトンカツだけは大好きでした。
そこで外出先きの昼食に、ひさぴさでトンカツを喰べて帰ると、
あいにく宅でもトンカツを造っていることがあります。

そんな時に「ああこれは困った…さりとて折角家庭で作った物だから」と考え、
気まずい思いで喰べると、その夜の12時頃からどうも腹工合が変になります。

しかしその後私の心境が一転してからは、そのような時には改めて感謝します。

「これは有難い。神さんは私の身体に何が入用であるかを、私以上に能く御承知である。
その神さんが昼にトンカツを喰った私に、夕食にもトンカツを喰べよといわれるのだ、
有難く頂戴致します。これで私はわが身を養って、明日から一層よく働きます。
・・・有難うございます」

と、心から感謝してたべるとその夜も翌日も、腹工合が少しも悪くならぬことを知りました。

私はこの話をよくしますが、私のこの話を聞いてから食事の小言をいわなくなり、
それまで毎月胃を痛め、医者を迎えて薬代を払っていた人が、それきり腹をこわさず、
薬代もいらなくなったのが幾人もいます。

           <感謝合掌 平成28年1月18日 頓首再拝>

19日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/19 (Tue) 03:41:14

《暴飲暴食する者は、運勢定まらず、晩年必ず劣う。》

暴飲暴食する者は短命にあらずんば、必ず晩年が振わない。

暴飲暴食をした昔の豪傑の末路の憐れさを見よ。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

文化文政時代の相法(人相見)の大家に水野南北という人がありました。

この人は若い時から相法を学んだうえに、なお3年間髪床屋の弟子になって骨相をしらべ、
次に3年間風呂屋の三助になって骨相をしらべ、さらに3年間火葬場の隠亡になって
骨相をしらべたほどの熱心家でありまして、弟子が千人以上もあった人ですが、
それほどにしても、他人の人相を見立てて当らぬことがありました。


しかるにふと食物がその人の運勢に、大影響があることに気付いてからは、
その後は「人を相するに万に一失なし」というほどよく当るようになったというのです。

その南北の食物に関する意見は「修身録」の中に沢山書いてありますが、
その中から主なるものを列挙して見ます。

(1)食分限より少なきものは、たとえ相貌悪しくとも吉なり。
   相応の福分ありて短命ならず、老年吉なり。

(2)食分限より多きものは、相よくとも調いがたし。
   手にもつれること多し。
   生涯心労絶えず、老年凶と知るべし。

(3)常に大食暴食をなすものは、相良くとも身分しかと定まり難し。
   また貧者は次第に窮す。

(4)初物を好み喰うものは、福裕の相ありとも散財を司る、家を損ず。
   貧者は徳尽きて終に行方知れず。

(6)大食にして妄りに喰うものは気静かならず、諸事乱れ調わざることを司る。
   この類はたとえ相貌よろしくとも、己よりなすところ凶悪なり。
   慎まざれば生涯身分全たからず。
   浪々として終に定まらず。

(7)富豪の主、常に大食にしてなお暴食すれば、家督長久することなし。

(8)婦人大食なれば夫を弧し(弧は勝つこと ―― 良人を尻に敷く)縁変ると知るべし。
   夫れ女は大食なれば、男子の食に代る故、気烈しくして夫を弧す。
   また夫強ければ弧すること能わざるが故に、縁変る。

(9)酒肉を多く食して肥満したる者は、生涯発達なし。
   慎まざれば老年凶なり。

(10)生涯無病の相ありとも、若年より美味を好み、大いに食する者は
   老いて腹をやみ、食をとり難き病を生ず。

(11)常に食定めある者、若し病みつきより食をなさざれぱ、
   脈血よろしくとも必ず死するなり。

   この類は食つきて天年と共に亡ぶ。
   故に罪なし。病みて苦しみなし。

(12)宿食(食物が腹にとどこうること)なき時は病なし。
   これをもって見るべし、多病という事なし、
   皆汝がなす処の宿食より発する病なり。
   慎むべし。


以上は修身録中のごく一部分であるが、要するに身分不相応の美飲美食をする者、
また大飲大食暴飲暴食をなす者は、皆運勢が凶である。

後藤又兵衛。塙団右ェ門など、粉の隅から酒何升呑んだとか、
飯を井に何杯喰ったとかいえば、大層豪快に聞えるが、皆晩年が悪いです。

三度の食事をするたびに、腹がよく減っていて、
腹に食物のとどこうりがないようならば、
病気をしない「腹八合に医者いらず」です。

「病気になったら、現代科学の発達による医術のお世話になるのが当然だ」

などと、知識人ぶっている人は、
よく病気をして苦い薬や、痛い注射のお世話になるのであります。

・・・

<関連Web>

光明掲示板・第一「食と運勢 (7124)」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1331

・・・

<参考>

相法極意修身録 巻之一

 相法極意抜粋自序

1 運命の吉凶は食で決まる
2 粗食の者は貧相でも幸運をつかむ
3 粗食でもときに大食すれば大凶
4 食事時間が不規則な者は吉相でも凶
5 食事量が一定していれば心身健全
6 美食をつづけると消化器系の病気になる
7 子なき相でも食を慎しめば跡つぎを得る
8 小食の者には死苦や長病がない
9 肉体労働者は大食をしてもよい
10 人格は飲食の慎しみによって決まる
11 厄年に難を避ける法
12 高齢者の肉食は害が少ない
13 子供の貧相・悪相は親の責任
14 家運が尽きていても減食で再興できる
15 吉相でも碁・将棋を好む者は出世しない
16 築山・泉水のある家は衰運に向う


相法極意修身録 巻之二

1 陰の男は大陰の妻をもとめる
2 万善万悪みな食を本(もと)とする
3 神官が貧しく僧侶が裕福なのはなぜ?
4 遊興放蕩も食を慎しめば許される
5 神への祈りをかなえる法
6 自分の食べる分を施すのが真の陰徳
7 身分の低い者が身分の高い者と親しくすると…
8 人相だけを論じてもあてにならなし
9 一粒を惜しむ者は一飯を余分に食す
10 食物を粗末にする者は成仏しない
11 相法の秘密は法華経にある


相法極意修身録 巻之三

1 毎朝昇る太陽を拝む長寿法
2 食欲がなければ食べるな
3 現世に食を慎しめば来世に果報を得る
4 食器の大小は身のほどに応じてきめる
5 精神を治めるために食を慎しむ仏法
6 貧乏人は金持ちの趣味をまねるな
7 夜なべは大凶、朝寝坊は貧窮短命
8 女性が吉相を自覚すれば凶相と変る
9 慎しみを守っていても天からためされることがある
10 衣・住も過ぎたるは凶
11 太陽の運行と不可分の運勢
12 朝早く起きればなぜ運がよくなるか
13 倹約は吉だが吝薔(けち)は凶
14 食を慎しめば気が開け、気が開けば運が開く
15 学ばなくて知る者、学んで知らぬ者
16 善人短命・悪人長命の理由
17 才気煥発の子を育てる心得
18 生命は不生不滅、無始無終である
19 人体を堅める塩の徳


相法極意修身録 巻之四

1 儒者(学者)かならずしも徳者ではない
2 万物即天地創造の神である
3 日本・中国・インドはともに神国である
4 神・儒・仏の三教の役
5 ただの大酒飲みではなかった李白
6 難病は粥(かゆ)で治せ
7 味バカは減食で治せ
8 一念・一業を貫ぬかない者は世に無益
9 神・儒・仏の三教に垣根はない
10 一年以上の余命があれば延寿できる
11 吉凶の根源を知らない観相家は「盗賊」

           <感謝合掌 平成28年1月19日 頓首再拝>

20日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/20 (Wed) 05:00:50


《「言い出したらきかぬ」のをあっぱれ男と思うな。
このような人がよく中風にかかるのである。》


人間は一生の修行である。

如何なる場合にも謙遜に他人の言を聞き、非を知れば改める心がけが肝要である。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》


言い出したらきかぬ男は、それが自分の信念が強い所以であり、
また自分が正しい所以でもあると考えており、そんな良人を持つ妻女も、
たいていはその良人の頑固に困りながら、反面それを男らしいとか、
剛気な人とか考えて、感心をしているのですが、
どちらもとんでもない心得違いです。

一体そのような男は、自分の智慧才覚をどれほど大したものと、
うぬぼれているのでしょうか。


若し、人間の智慧才覚などというものは、大宇宙を主宰されている神智にくらべたならば、
採るにも足らぬ憐れなものであることに気づくならば、
どうしてそんなに頑迷であり得ましよう。

主張に忠実なのはよいが、それは謙遜に神智をたずね、仏智を質したうえでのことです。

「私はこれが善いと思うのですが、万一間違っていたならば、
どうかそのことを気づかせてください」

と神に祈り仏に頼んだうえでの信念であるべきです。

そこに思い及ぶならば、妻子は勿論友人後輩の言にも耳を傾けて、
いつでも自己の非を改める謙遜があるべきはずです。

かって紫雲荘によく出入していたおとなしい某氏が、
突然中風で朴れたという知らせを受けて、筆者がその家へ初めて行って見ると、

その男は紫雲荘での態度とは全く反対に、家庭の妻子に対し病床に横たわりながら、
言い出したらきかぬ暴君ぷりを発揮していました。

「やかましい、おれのいう通りにするんだ、だまつとれ…」

といった調子です。その時私はいいました。

「ここへ来て見て、君が中風で朴れる原因が明瞭にわかった。
君は家庭では恐ろしい暴君である。その頑迷ぶりの罰が君の今度の中風だ。

そのような態度で如何に今日まで妻子を苦しめたかをよく反省して、
衷心すまなかったと思い、自分の頑迷を改めたならば、君の身体は数日で自由になる。
そうでなければ君は病床から起てないままで死ぬる…どちらでも君の好きな方を選べ…」

といいました。

それで大分反省したらしく見えたので、適当な書物なども送ってやりましたら、
暫らくの後に起きて歩けるようになり、紫雲荘へも来ました。
幾年かまえに死にましたが、死ぬまで自由に歩いていたようです。

なぜ「言い出したらきかぬ」者が中風にかかるかといえば、
その頑固な柔軟性のない心境が、自分の血管を硬化せしめるからです。
そうして血管硬化は血圧を高くして、脳溢血即ち中風の原因になります。

或る大会社の重役は次の如くにいいました。

「紫雲荘の一日一言という書物は、先輩に忠告するのに良い書物です。
自分の所の社長は、言い出したらきかぬ頑固者ですが、
さて社長に向かっての忠告はなかなか出来ぬものです。

ところがあの一日一言の二十日のところを社長に見せて、
社長、ここにこういうことが出ているといいますと、社長が頭をかいて、こりやいかん、
わしも諸君のいうことをこれからよく聞くようにしような、中風になってはたまらんからね
…といいましたよ。あれは先輩に忠告するのには良い書物です」といっていました。

中風は必ずしも言い出したらきかぬ頑固ばかりではなく、
先祖の祀りを怠る者もかかるのであるが、先ず「言い出したらきかぬ」人は、
その罰当りの性根を早く改めるべきですね。

半身不随になってからではおそいです。

           <感謝合掌 平成28年1月20日 頓首再拝>

21日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/21 (Thu) 04:17:23

《わが心が感謝と歡喜に満つるに至ったならば、その人は天下無敵となる。》


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

全心が輝き渡って寸毫の暗い影もない人は、天地の栄えと一体になった人である。

人間ここに至れば修養の極致に達したのであって、
病氣と不幸と貧窮と恐怖心とからは、完全に絶縁したことになる。


運勢盛んなりし頃の釈迦、耶蘇、その他の偉人は、このような境地に達していたでしょう。
近代の日本では黒住宗忠翁、晩年の中山みき(天理教祖)などこれに近かったかと思う。
このような人には刃も当らず、貧乏も病気も寄りつけないのですね。

「無敵流剣術印可の書」にも

     天地の外まで玉のかがやきて
            光にもれる一物もなし

というのがあることは、拙著「般若心経講話」にも載せて置きましたが、
かかる玉の如き心境になれば、戦わずして既に勝ち抜いているのですから、
勝敗を試みるまでもないです。


とはいえ、このような心境に徹するのは容易なことではなく、
また一朝一夕のことでもありません。
それはむつかしいには違いないが、そこに到達する途は悟道にある。

盤珪禅師の所謂「仏心は不生にして霊明なるものである」こと。
「皆親の生みつけてたもったものは、霊明なる不生の仏心一つである」ことが
体得出来れば、それでよいわけです。


筆者が30代の終りに、毎朝日の出を見に行ったことがある。
それは晴天の日にかぎらず、雨の日も曇りの日も、風の日も嵐の日も、一日も欠がさず。

さらに一度も日の出の時刻に遅れぬように、品川神社の高台に登って、
海から昇る朝日を拝する行(ぎょう)をつづけたのですが、そうすると千日目くらいから、
臍のあたりに太陽が宿った感じがして、実に壮快になって来ました。

そうしてその頃から筆者の運勢が開けたのを覚えています。
その頃の筆者の心境は、感謝と歓喜に満ちていました。



世の中には日常人の良心を曇らす幾多の機会がある。
しかしそれらの総ての場合に、思い直し、言い直し、聞き直して、
総てを善意に解釈し、総てを明るく考え、不平不満に思う代りに感謝することの
習慣をつければ、次第にこのような心境に達することが出来ます。


さし当っての試錬は、お互いに先ずこの世の中で、
一番嫌いだと思う人を、愛し得るようにならねばなりません。

そのように大嫌いな人は、よく考えて見れば、必ずや自分の過去の悪業を解消してくれる
人であるから、本当は自分にとって尊いお観音さんなのですね。それを知らずに
その人を嫌いつづけると、過去の悪業はそれだけ解消せぬままに残るのであります。


次には如何なる大不幸に遭った時にも、
それは結局先きの世の借りを返すか今貸すか、神様のなされることに、
感謝の出来ぬことは絶対にないと、ハッキリ割切ってかかることです。

金光教祖は「生きるのがおかげなら、死ぬるのもおかげ、この世からおかげの
もれることはない・・・わずらうのも、またおかげ・・・そのおかげが有難う戴けると、
病気もようなる」といっていられる。

ここまで徹底すると人生の如何なる大不幸も、
その人の感謝と歓喜の心境をくもらすことが出来なくなります。

人間は誰しも宇宙の外に出ることは出来ぬのですから、
この宇宙に満ちている造化の理法(神の摂理)の外にあり得ることはないわけです。

その意味から、すべてはおかげと割切った金光教祖の心境は尊い。
神の声を聞き得る人になったのも当然でしょう。


かくて如何なる場合にも、わが心か感謝と歓喜に輝いているならば、
神様はいつでもこちらの味方です。

天下無敵になるのは当然であります。

           <感謝合掌 平成28年1月21日 頓首再拝>

22日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/22 (Fri) 03:51:35


《失敗を知らない發明王エヂソンを見習え。》


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

電球の中にあるフィラメントを發見するために、
エヂソンは六千回に及ぶ実験をしたという。

そうして最後の1回だけが成功したのであるが、
エヂソンはその途中のすべての實験を、
成功への階段であると思うて楽しんだのである。


フィラメントというのは、電球の中にある針金のようなのがそれです。
エヂソンはこのフィラメントを何にしようかと迷い、
さまざまのものを試験して見ました。

一時は日本の竹を細かくして炭化し、それに電気を通わせる方法を採ろうとしたのですが、
その後も無数に実験を重ねた結果、遂に現在の如きものを発明したのです。

エヂソンの実験が二千回くらいに及んだ頃、ある新聞記者がエヂソンにいいました。

「あなたは随分多くの実験に失敗したそうですが、それでもまだ実験をつづけるのですか」

その時エヂソンは憤然として答えました。

「私がいつ実験に失敗したか・・・これまでの実験は全部成功である。
もうこれは実験がすんだ、これも実験がすんだ、もっと他を探すべきだ
ということになる意味に於いて、これまでの実験は全部成功であり、
一つも失敗などはしていない」

さすがの新聞記者も、このエヂソンの意気込みには驚いたということです。
他人から見た如何なる失敗も、それを本人が今後の自分の飛躍の土台にするならば、
それは少しも失敗ではありません。


例えば試験に落第をした時、若しそのために勇気と自信を失うならば、
その人は完全に落第したのです。

けれども若しその人がその落第によって奮発し、他日何かの方面に於いて大成功を
するならば、その人にとってはその落第は、成功の母であったのです。


大隈重信侯の如きは、外務大臣中にダイナマイトを投げられて、片足が飛んだ。
それさえも大隈侯にとっては奮発の材料であり、自信を増す材料でもありました。

さすがに今度は大隈さんも弱ったであろうと思いながら、駆けつけた尾崎行雄氏に対し、
病院に臥ていながら非常な元気で次の如くに語ったということです。

「わが輩は今度片足を失ったので、この足に行く血がそれだけ多く頭へ廻るから、
わが輩は一層智者になるんである。若し残りの片足も失ったら、
その方へ廻る血も頭へ廻るから、わが輩はなお一層智者になるんである」

この大隈侯の如きも、失敗を知らぬ人として珍重するに足るでしょう。

白瀬中尉が明治43年に南極探険を企てた時の如きも、
その後援会長であった大隈侯は、寄附金が集まらぬのに困り抜いていましたが、
それでも

「わが輩はまだ弱ったとはいわんのである・・・手傷は確かに負うたが、
わが輩の負うた手傷は向う傷なんである」

などと減らぬ口ぶりで、人々を煙に巻いていたものです


エヂソンの如きは、食事は常人の3分の1くらいしか喰わず。
睡眠は殆ど毎日のように3時間か4時間、机や椅子にもたれて眠る
というようなことを繰返しつつ、

84才の高齢を重ねている間に電燈、蓄音器、電車、映画などをはじめとして、
2千有余の大発明を成し遂げたのであります。

今後の世に立つ者は九転十起、このエヂソンの如き、不屈の勇気を持つことが必要です。

           <感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>

23日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/23 (Sat) 04:43:56


《なまけて得をすると思うな。なまける者は毎日大損をしているのである。》


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

誠実に働く者は日一日と自己の能力を磨き、他人の信用を増すが、
なまける者は生涯自分の能力を知らずに終る人である。

いま思い出しても苦笑を禁じ得ないのは、中学時代に、或る先生が気に入らぬと
「あんな先生の受持つ学科を勉強してやるものか」などといって、
私ばかりでなく同級のたれもかれもが、怠けたことです。

勉強をしなければ損をするのは、第一に自分であることを考えずに、
愚かなものであったと苦笑させられるのです。


どこの社会の人にも、このような心得違いがあるようです。
殊に左翼カブレの人達の中には、なるべく怠けること、何んとか口実を見つけて
働かぬことを、一種の誇りとしている人があります。

そのような人達は、閤魔の帖にはつけ落ちがあっても、
因果の理法にはつけおちがないことを知らぬのです。

怠けた者が栄えないのは理の当然であって、
たまたま或る期間その例外があっても、最後は知れています。

何より恐ろしいことは、そのような人ば家族をはじめ、
自分の身近い人の間の信用を失っていくことです。

例えばそのような人が失業などした場合に「あんな人は失業するのが当然だ」
「あんな人の世話は御免だ」と周囲の人が皆思うようだと、
なかなか就職口が見つからぬでしょう。

誠実に働いて来た人なら、誰かが保証して仕事を世話します。
だから永く失業している人は、大体に於いて過去に怠けた人である
ということになります。


そのうえ誠実に働く者は、グングン自分の能力が発揮されていって、
いつしか仕事のコツを覚え、その仕事に興味がわいて来ます。
それからは怠けよといわれても、怠ける気にはならない。

つまり自分の仕事と興味とが一体になるのですね。

そうなった人には、怠けながら働く人などの生涯気づかぬ、無限の楽しみがあります。

他人から見て、「あんなに働いては大変であろう」と思われるような時でも、
本人にとってはそこに創造の楽しみや、完成の楽しみがあるのですから、
その割合に疲れもしないのですね。

ヘンリー・フォード一世が、自動車業であれだけの大成功をしたのも、
トーマス・エヂソンが発明家として大成功したのも、皆自分の仕事に精魂を打込み、
その一歩一歩の前進を楽しんだからであって、若し怠けながら、或はしぶしぶ働いて
などいたならば、とてもあんな大成功はなかったでしょう。


人間は本来働くように出来ています。
人間の一呼吸一呼吸は皆宇宙の理法、造化の作用の人間に伝わるものであります。

だから造化の働きが一瞬一刻も休むことなく働いているのと同様に、
各人もまたそれぞれ、その才能特色に従って、造化の作用のお手伝いをするのが、
毎日の人間の務めであって、その理法に背く者は、造化の反逆者であり、
この世に生まれた意義を果さぬ人であって、誠に生きて甲斐なき人であります。


登山家が汗を流して登山して見てこそ、従来以上に体力が鍛えられ、
いままで知らなかった山の景色に、出くわす喜びをも味おうが如く、

何人も自分のすることに精魂を打込み、最善をつくして見てこそ、
この仕事にこんなコツがあったか。また自分にはここまでやれる能力があったか。
更に世の中にはかかる楽しみがあったかと、いうようなことがわかるのであります。

           <感謝合掌 平成28年1月23日 頓首再拝>

24日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/24 (Sun) 03:13:46


《狡猾な世渡りをする人の運勢は、晩年必ず凶である。》


コスカライ人は、その時々にいつも利得をしているようであるが、
次第に他人の信用を失い、自己の善根を費消して、晩年不幸に墮るのである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。



            ・・・

《解説》

校滑な人(コスカラク、ズルイ人)が、あちらで少し誤魔化し、こちらで少し利得した
というようなのを、一生涯に積もって見れば随分大したものでしょうが、
そのような人が生涯幸福であった例がないのは、なぜであるかというに、
それは宇宙の繁栄道に背くからであります。

宇宙の道 ―― 大生命の道 ―― 即ち繁栄道は、公明正大なものであって、
そこには誤魔化しがない。そこにはズルサがない。

「明日も太陽が東天に昇る」「夕方が来れば太陽は西山に入る」

「春が来れば草木の芽が出る」「夏は暑い」「秋は涼しい」「冬は寒い」等々。
少しもかくすところがなく、誤魔化すところがないのです。
それで万物はその間に生じ、その間に育ち、その間に栄える。

この宇宙の繁栄道のままに生活する者が、
何んでズルク廻り、誤魔化しをする必要がありましようか。

ズルク廻らねば損をするように思う者は、かかる繁栄の大道を知らぬからです。
なるほど日々の計算に於いては、ズルク廻って誤魔化しただけ確かに利得しているはず
なのですが、月々の計算に於いては損をし。或は月々の計算では利得していても、
年々の計算では損をするというようなことになるのが、欺き難い繁栄道の作用なのであります。


第一、あの人はズルイと人々から見られたならば、
その人はそれだけ他人の信用を失うから、自分の働きの幅が狭くなって来ます。

第二には、そのような人の家には、誠実が満ちていないから、
家族の間に於いてさえ争い事が多い。

第三には、そのような家の人は、繁栄道のままに生きていないから、家庭に病人が多い。
そうして折角誤魔化して利得したものを、苦しみながら医者にとられるということにも
なります。

かくして、あちらこちらで常に利得しながら、家運栄えずということになるのです。
よく注意してズルイ人の家庭を見れば、誰にもすぐわかります。


もっとも世の中には、大きくズルクて、往々大成功をしているかの如くに見える人もありす。

例えば戦時中に軍の統制品を扱っていた者が、
終戦の時にその倉庫の物をそっくり自分のものにして、巨富をなした者などが
それですが、そのような人が果して一生幸福であるかどうか。

米国の石油王ジョン。D・ロックフエラーの如き人も大きくズルィ者の一人です。

ロックフエラーは、石油トラストで巨富をなした人ですが、
或る日荷物を汽船に積んで出港せしめた後、俄かに天候が悪くなって、
暴風雨の懸念が出て来ると、荷物にかける保険料を惜しんでいた人が、
急に支配人に命じて保険会社と交渉し、どんなにしてでも保険をつけよと言いつけました。

そうして支配人がやっと保険をつけることに成功して帰って来た時、
悪くなりそうであった天気が少し持ち直すと、今度は支配人を怒鳴りつけて
「なぜ保険などをつけたか」といいました。


そのようにしてロックフェラーの一代に作った富は、どれほど大きいか自分にも
分らぬほどであったが、その彼は生涯ヒドィ胃病に悩まされて苦しみ抜きました。

そうして「若しもおいしく食事をすることが出来るならば、
自分の財産を全部差出してもよい」といいつつ、
そのひもじい思いの生涯を終ったのです。

彼についていた医者は、勿論生理学上の医者ですから、
宇宙の繁栄道に背きつつ造り上げた彼の悪富が、どのように肉体上にも影響するかなどは、
彼に教えてはやれなかったようです。(拙著「人生を楽観すべし」参照)

           <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

25日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/25 (Mon) 04:41:00


《親孝行をする者は、いつしか宇宙の繁榮律をつかむのであることを知る人は少ない。》

親不孝をする人の生活は、日々宇宙の繁榮律に遠ざかっているのである。

何人も思案すべき大事である。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

戦後派の学者のなかには「親孝行無用論」を書いて手柄顔している者があり、
またそのような学者の説をわが意を得たりとして、親孝行などいらぬことだと、
考えている青年も沢山あるようです。

そのような青年にいわせると、親が勝手に生んだのだから、
親には育児の義務があるが、子は孝行をしなければならぬ理由はない。

それよりも、こちらにはあれもして貰いたい、これもしてもらいたいと思うことが沢山ある。
それをしてくれぬ親こそ親の義務をつくさぬものだ。わが子のために十分につくすことも
出来ぬような親なら、はじめから子供を作らねばよいのだなどといいます。

こういう考え方は、わが身のために甚だ好都合のようですが、
昔から親不孝な人が一生栄えためしがなく、晩年にその随ちて行く所は、
孤独と貧窮と病院生活であるから不思議でしょう。

試みに落ちぶれて貧民窟にいる人などによく聞いて御覧なさい。
その大部分は「私も親には随分可愛がって育てられたものですが、不孝ばかりして来ました
・・・こんなに落ちぶれたのも、その罰かも知れません」という人達です。

そのような家の墓所は、これまた大抵無縁墓になっているか、或は一見してこの家は
おちぶれていますということを、物語っているような憐れな感じのするものです。
一家の盛衰が墓の感じに(墓の大小ではない)現われるなど、不思議なようだが事実です。

また長い間肺病などで病院生活をしている者も、たいていは親孝行など全然知らぬ者です。
そうしてそのような身勝手な利己主義が、肺病の治らぬ原因であることも知らぬ、
憐れむべき人々です。

独り立ちの出来ている者にとっては、親は根であり、自分は幹です。
独立していない者にとっては、親は幹であり、自分は枝です。
根を大切にせず,或は幹を大切にしないで、樹木の栄える道理はないのですね。

それでも「子を持って知る親の恩」という昔からの諺の身にしみる者は、まだよい方です。
子を愛することは知っているが、親孝行は一生涯知らぬ人も沢山あります。

そのような人の中には
「これだけ子を可愛がってやれば、大きくなって親の恩を知るであろう」
などと勘定している人がありますが、

親孝行を全然しなかった者が、如何にその子を可愛がっても、
その子は決して孝行者にはならないです。

それこそ天理教に所謂「通り返し」で、親が不孝をしたと同様に、
その子も不孝を繰返すのです。

「お前達は親が勝手に子を生むと思うか。それなら子の欲しい者は、男の子でも女の子でも、
幾人でも自由に生めるはずであるが、そうはいくまい。

またお前達は自分独りの力で、大きくなったと思うか。
お前達が生まれた時.親の愛がなかったらどうなっていたか。
親は身の皮はいでも子のために尽くし、子供の病気の時など夜の目も寝ずに看病し、
わが命にかえても子を助けようとするのである。

かく親の愛が山よりも高く海よりも深いのは、これ造化の心を受けているからであって、
これあるがゆえに、天地も栄え、人間も栄えるのであることを知らぬか」

これが親不孝者に対する、造化の主の憤りの言葉です。

かくて親不孝をする者は、次第に宇宙の繁栄道から遠ざかる反面に於いて、
親孝行をする者は、その行いを通じて造化の理法、即ち宇宙の繁栄道を、
理解し得るに至るのであります。


           <感謝合掌 平成28年1月25日 頓首再拝>

26日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/26 (Tue) 03:37:23


《人の一生は長い。おちついて人生を楽しみながら大いに働くべし。》


いつも追いかけられているような生活をしている人は、
長命するつもりになって気を楽にせよ。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

日本人の平均寿命が十年以上も延びて、
人生僅かに五十年が、人生六十余年ということになって来ました。
それでも経って見れば早いが、落ちついた気持で、
人生を楽しみながら暮らせば、相当長く暮らせます。

あくせくと身を摺り減らすように働いて暮らせば、
何一つ楽しむ暇もなくて一生を終ったということになる。


大体人の世の暮らしは、あまり楽なものではないということになっています。
徳川家康の遺訓にも「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し」とあるなどがそれですが、
しかし一生涯重荷を負うて遠い道を行くのではやりきれないですね。

本当は人の一生は宇宙の繁栄道の中を行くのですから
「人の一生は極楽の中を行くようなものである。日々是れ好日と考え、
楽しみながら日を送るべし」ということにならねばならんです。


何人もここに一思案、一工夫なかるべからずであります。
昔流行した俗謡に「泣いて暮らすも五十年、笑うて暮らすも五十年、泣いて暮らすも笑うのも、
心一つのおきどころ」というのがあるが、この俗謡が要点をつくしているといえましょう。

つまり人生を楽しいものにするのも、人生を悲しいものにするのも、
各人の心次第というわけですね。

そういっても楽しくないのに、楽しいと思えぬではないかというでしょうが、
そこを楽しく思う習慣をつけるのです。

それには先ず一日のうちに何回か
「ああ有難いな」とか「ああ愉快だな」とかいうようにします。
そうするとその瞬間に何んとなく人生が有難くなり愉快になります。

ふと気がついて、いま「ああ有難いな」といったが、一体何が有難いんだろうと
思う時もあるが、その時は有難いことを心の中で尋ね出して、
「こういう事があるから有難いんだ」と思えばよいのです。

若しその反対に毎日毎日何回か「ああ不愉快だな」「ああ《しゃく》に障るな」という
習慣をつけて見れば、その言葉を出した瞬間に、何んとなく不愉快になり、
何んとなくしゃくに障って来ます。

そうして一体何が本当にしやくに障るのであろうかと考えて見ると
「思い出した、こういうことがある。
しやくにさわるはずではないか。不愉快なはずではないか」と思う。

そうしてそれからそれと、不愉快な月日を送ることになって行くのですね。

かくて愉快も不愉快も、有難いのもしゃくに障るのも、
自分の心で造り出すのだということか分りましよう。

毎日働くのでも「人間は毎日こんなに働かねば喰えぬ、しゃくに障る」と思うかわりに

「こうして楽しくお天道さんの御心に従って働いていれば、
自分の生活はひとりでに立って行く、有難いことだ」

と思いながら働くようにすれば、楽でもあり能率もあがるでしょう。

そうして日常どんな幸不幸に遭っても、それを素直に受けて、
感謝の心を失わないようになったならば、その人は造化の働きと一体になったのであり、
世渡りの達人になったのです。


黒住宗忠翁は

「・・・あしきことあるときは、またよきことのこやし(肥料)と思召され候えば、
これもまた楽しみに相成可申候」

といわれましたが、その黒住翁の歌に次の如きものがあります。


   うれしきもかなしきもまた心なり
        みなうれしきと思わざるかな

   向うこと皆楽しみとおもいなぱ
        これぞうき世の大徳という

   あらうれしかかる嬉しき世に出でて
        くるしむ人のあわれなるかな

          <感謝合掌 平成28年1月26日 頓首再拝>

27日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/27 (Wed) 04:26:59

《善事をして他人に認められぬのを憂えるな。
 善事をなし得る自分であることを喜べ。》


誰に譽められなくとも、善事をした時の氣持ちよさ。

誰にきづかれなくとも、悪事をした時の氣持ちのわるさ。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。



            ・・・

《解説》

善事をした時には誰にほめられなくとも、気持のよいものです。
その反対に悪事をした時には、誰に気づかれなくとも気持の悪いものです。

どんな《やくざ》とか悪党とかいわれる者にも、この気持は必ずあります。
これは人の本性が善であることの証拠です。

ところが世には些細な善事をしても、吹聴せずにはいられぬ人があります。
「あの男が困っているというから、世話をしてやった」というようなことを、あちらこちら、
なるべく多くの人に知らさねば、損であるかの如くに考える人がいるのです
(こんな人は決して平生多くの善事をしていない人ですが)。

或は善事をしてほめられぬと腹を立て、世の中をすねてわたる人などもよくありますが、
とんでもない心得違いです。


善事をすることが出来たということは、それだけでも十分嬉しいことではないですか。

「私もこれだけ善事の出来る者になった。
定めし神仏も喜んでいてくださるであろう。
御先祖の霊も喜んでくださるであろう」

と考えただけで、どんなに嬉しいことでしょうか。

いま一歩進んでいえば、善事をしてそれが他人に分り、或は世人にほめられなどしたらば、
それで善事は帳消しになるのです。
その人はほめられたことによって、報酬を受けたからです。

それを思うと自分のした善事を知られたり、
或はほめられたりすることこそ恐ろしいことですね。

だから聖書の中にも、右の手でする善事を、
左の手にも知らさぬほどに、善事をかくしてせよと教えてあります。


善事をして認められず、或はほめられないままだと、その善事は神仏の帳面にいつまでも
残っていて、つまりその人の ―― 天に於ける倉がそれだけ満たされていて ―― 
いつかそれが善果となって現われます。

善事をして多くの善根(善因)を積んでおくということは、
絶対絶命の場合にのぞんだ時、非常に心強いことです。

何事もない平時には、その人の持つ智慧や才覚がものをいい、それらが大いに役立ちます。
世には自分の才智を鼻にかけて、世間なんてどんなにも誤魔化せるものだと思い、
世の中をあまく見ている人がありますが、そんな人も不慮の災難や、突然の異変に遭った時
などには、自分の智慧や才覚に自信を失います。

そうして、こんな時には神仏を祈る外はないのだが、さて平生信仰なく、
また平生世の中を誤魔化して渡っている自分であることを思うと、こんな自分に
神仏の加護があるはずがないと考えた時、その人の心細さはどうでしょうか。

そこへ行くと平生かくれた善事を沢山している人は心強いです。
神仏の加護を信じ得るからです。


昔の偉人が絶対絶命の場合に、神仏の加護を信じてたじろがなかったこと、
或は神仏の発動を乞うて、多くの奇蹟を現わしたなどは、
皆平生積んでいる多くの善事に対する、当然の報酬であり、当然の権威です。


過般の戦争で満州の奥地にいた人などで、奇蹟的に助かって帰った人、
あるいは無慚の死を遂げた人なども、仔細に検討すれば、
何か思い当ることがあるはずです。

その人の平生なし来たった善事と悪事が、あのような場合には容赦なくものをいって、
清算書をつきつけられるのです。

お互いにいくら善事をしても、それを片っぱしから忘れるほどの偉大さを持ちたい。
或は一々覚えてなどいられぬほどの沢山の善事を、毎日なし得る人でありたいですね。

           <感謝合掌 平成28年1月27日 頓首再拝>

28日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/28 (Thu) 04:39:10

《良人やわが子を毎日笑顔で送り出せ。》


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。


            ・・・

《解説》

朝家庭で爭いをした人は、大抵その日の仕事の成績が悪い。

或る工場で調べたところによると、
工場で怪我をする者の八割は、出勤前に爭いをした者であったという。


人間は感情の動物であるから、朝出る時に不愉快な思いをすると、
それが仕事を終えて帰るまで、頭に残っています。

出かけの不愉快な思いを心の中でむし返しながら、仕事をしていれば、
良い成績があがるはずがないのです。

「ああいわれたのが腹が立つ」「こうもいい返してやるところであった』などと
相手がいないのに考えつづけて、それに気をとられている間に、怪我などするのですね。

そこで良き主婦は勿論、良き家人は、出かける人に不愉快を与えぬよう、
注意を怠ってはならぬのです。
喧嘩などしたあとであっても、必ず出かける人の気を休まるようにして出すのです。

その気持が治らぬままに出かけると、幸いに怪我はしなくとも、
帰る時に何んとなく足が重くなり、一杯のんで帰ろうか」などということになります。

世には自分の良人や子を、平生不機嫌で送り迎えしながら、
それがわが子や良人の茶屋酒にしたしみ、或は他の誘惑に負けるようになった
原因であることを、知らぬ者が多いです。


いつでも帰れば喜んで迎えてくれる。
家庭ほど楽しい、まごころに満ちた処がないという感じの身にしみている者は、
たとえ誘惑におちいっても、決して永続きはしない、必ず家庭に帰って来ます。

たとえこの頃少しわが子が ―― わが良人が ―― 変だと思っても、
必ず笑顔をもって送迎することです。
つまり本性の善を認めて、一時的に現われている良人やわが子の悪と取組まないことです。

拙著観音経講話第三十一識にある税所敦子さんのように、
鬼婆のような人をでも「仏にもまさる心」の人と見るのです。
そうすると鬼のような人にも、仏心が湧いて来るのです。


先般京都の女子大学で「大和の清九郎」という劇を学生達で演じたそうです。
委しいことは忘れましたが、清九郎というのは、手におえぬ無頼漢ですが、
その妻女はよくこれに仕えていました。

或る日ただ一人の娘に苦心して造ってやった祭礼の晴着を、酒代に持ち出そうとする良人に、
「そればっかりは・・・」といってすがりついたが、その良人に蹴飛ばされて重態に陥ります。

一方清九郎はその晴着を酒にかえて、酒はのんだが、どういうものか一向に酔わない。
止むなく帰って来ると妻女が虫の息。

さすがに「これは」と驚くのですが、その時妻女は

「よく帰ってくれました。平生は意見がましいことをいってすまなかったが、許して下さい。
どうやら仏さんのお迎えが来たようですから、私は行きます。さようなら…」

といって死んでしまう。

そこで清九郎が翻然として善心にかえり、有名な念仏行者となって、
人に尊ばれるに至るというのですが、
この妻女のあくまで良人の善心を見た態度が尊いのですね。

それが無頼漢清九郎から「仏にもまさる心」を引出した所以です。

外出する者は出先きで上役や、他人からつらく当られるのを堪える辛抱や、
仕事の上での他との折衝にも、楽でないこともある。

それらを思えば家庭に残る者が、出かける者を毎日笑顔で送り出せぬことはないはず。
しかもこれが結局一家和合、一家繁栄の途なのであります。

           <感謝合掌 平成28年1月28日 頓首再拝>

29日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/29 (Fri) 04:30:13

《不幸の原因を内に求めて反省する者は既にその不幸を越えた人である。》



橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。



            ・・・

《解説》

これに反し、不幸の原因を常に他に嫁して不平をいう者は、
いつまでも救われぬ人である。


この一文は世に処するうえに於いて、非常に大切なことです。
何か自分に不幸が起ると、巧みに理屈をつけて、
その不幸の原因を他に転嫁することの名人がいます。

その人は常に得をしているようですが、実は生涯栄えることのない人です。

施療病院から出て来た者の話によると、共産主義者の多くは、
肺病になって施療病院に入院しても、都や国の世話になることを、
少しも有難いと思わぬのみか、不足ばかりいっているそうです。

ここの設備がわるい。
あの待遇が悪いというが如くに。

共産主義者のこのような性質は、よくその人を肺病にかからせるのですが、
一旦かかった後も反省や感謝を知らぬから、容易に治らないのです。
共産主義者はそこが分らぬから不足を思いつづけます。

お蔭で病院も苦しみ、家族も苦しみ、むろん本人も苦しみつづけるのです。

病気にかぎらず、どんな不幸でも同様です。

あの人がわるいから自分がこんなに不幸に遭うのだ。
或は政府が悪いから、雇主が悪いから、自分がこんな不幸な目に遭うのだと一途に考え、
そうしてその理屈がうまくつくと、それで、自分は不幸の製造人ではなくて、
不幸の被害者であるということになりますし、他人から同情され、
救済される資格があるかの如くに錯覚します。

これではその不幸な境遇改善の途が、分りようがないのです。

それを逆に、自分がこんな病気になるのは・・・或はこんな不幸な目に遭うのは、何か自分に間違
ったところがあるに違いないと考える者は、やがて不幸の由来するところを探り知って、それを
改めるから、不幸は消えて行く外はないのです。

勿論自分でいくら考えても、不幸の原因に思い当らぬことがあります。
その時は良師を尋ねて問うのです。むろん良師という者も容易にありませんが、
しかしまごころをもって求めれば、今の世にも少なくはあるが良師がいます。

その人達は掌を指すが如く、不幸の由来を教えてくれます。
その教えに従って自分の行動を改めれば、不幸な境遇を脱し得るわけですね。

元来人間という者は、何人も「天上天下唯我独尊」であり、
大宇宙に鳴りわたるほどの偉大な可能性を持てる者であるから、
わが身にかかる不幸を改める力は、本来自分に備わっています。

そこを掘り下げて、その自分の本性に備わる無限の可能性を発揮することをせずして、
他人の救済を待つのは、あたかも健全な両足を持ちながら、義足にたよろうとするほどに
愚かなことであります。


それを知って、如何に多くの不幸が来ても、それを乗り越え、乗り越え、
自己の運勢を開拓して行く人は、将来大いに栄える人であり、そこに気づかずして、
不平ばかりいっている者は、生涯自分の偉大さに気づかずに終る人です。

ついでながら言って置きますが、昔山中鹿之助は「われに七難八苦を与え給え」といったとか、
或は「うき事のなおその上につもれかし、限りある身の力ためさん」という歌があるからとて、
わざわざ多くの銀難に遭うことを祈り希うのは誤りです。

それとは反対に人生を明かるく見、艱難を艱難としない心がまえをこそ養うべきです。
自分の心がまえさえそこに達すれば、いまここが極楽であり、高天ケ原であり、楽園であります

           <感謝合掌 平成28年1月29日 頓首再拝>

30日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/30 (Sat) 04:36:49


《取越苦労や持越苦労をするな。一日の重荷はその日だけでおろしてしまえ。》

日々の苦労の上に、取越苦労や持越し苦労まで背負うては荷が重くて堪えられない。

寝床に入る前に重荷をおろし、感謝して眠るがよい。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

人間は取越苦労をしはじめると、いくらでも心配なことがあります

貧乏人が明日の食事をどうするかを憂えるのをはじめとして、月末の支払、年末の始末、
その間の臨時の入用等について「どうしたものか」と心配するのは金銭上の取越苦労ですが、
その他にも子供の入学試験、娘の嫁入り問題、病気の問題、老いてからの身の処置、
更にそれよりも以前に自分の職業上の苦労、友人や他人との交際等、
それからそれと心配しはじめると、際限なく心配ごとがあります。

「心配したってどうなるものでもない」と思いながら心配せずにはいられぬのが、
人間の弱さであります。

昔中国には地球の天井である大空が、落ちはせんかと心配した人もあるそうですが、
そのような心配までして行けば、朝から寝るまで心配つづきであり、寝てからも
夢に見るほどの心配つづきです。

しかし私達はどこにいようが、どこに行こうが、決して宇宙の外にはいない、
必ず宇宙内にいるのです。

それを思うと私達は寝ても起きても、立っても転んでも、宇宙即ち大生命 ―― 
換言すれば神の胎内で保護せられているのです。
お互いにこの神の大愛を信ずることに致しましょう。

赤ん坊は何んの取越苦労もせずに、一切を親まかせで安心をしています。
無心に眠り無心に笑う赤ん坊の、何んと取越苦労のないことよ。

お互いに毎日真面目に働き、最善を尽くしている以上は、
神の正しき摂理を信ずること、赤ん坊の親を信ずるが如くでありたい。

「神さん、お願いします。私は毎日神さんの御心に背かぬ心がけで、一生懸命に働きます。
それで先きざきが悪いはずがないと思って安心していますよ
・・・若し間違いそうなら注意してください・・・お願いします」

私達はこのような気持でありたい。キリスト教の聖書の中には
「明日のことを思い煩うな。明日は明日自ら思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」

とあります。更に金光教祖の言葉には
「悪いことをいうて待つなよ、先きを楽しめ」とある。悪いことを想像し、取越苦労をして待つ
と、その想像した悪いことが「心配した通りに」やって来ます。先きを楽しんで気持よく働く人
は、その陽気な気持が幸運を招いて、苦労知らずに世の中が通れるのです。


取越苦労をする人間の弱さを、先きを楽しむ人間の強さに変えるものは、
神の大愛に対する信仰であります。

ついでながら持越苦労ということも、取越苦労と同様に、私達の身心を疲れさせます。
持越苦労とは、既に過ぎ去った不快な事をいつまでも心頭において、自ら苦しむことです。

「あの時にあそこへ行かなかったら・・・とか、
「あの時にあんなにおかねを使わなかったら・・・」とか、

「あのおかねが今あったら・・・」とか、
「あそこで惜しいことをした・・・」とか、
「あの時にこういってやればよかった・・・」とかいうが如くに、

取返しのつかぬことを繰返して、悔んだり悲しんだりするのは、愚痴だと思いながら、
なかなかやめられぬものですが、そんな時には「あれが厄落しであったのだ」と考え、
それで悪業が切れたことを喜ぶようにして、愉快に明日へ進むべきです。

           <感謝合掌 平成28年1月30日 頓首再拝>

31日の生活標語 (解説) - 伝統

2016/01/31 (Sun) 04:50:53


《大晦日のつぎに元日がこなかったことは、大昔から今までに一度もない。》


このことは如何なる不幸に遭える者にしても、
必ず幸福な日が来ることを約束するものである。


橋本徹馬師 生活標語「一日一言」より。

            ・・・

《解説》

人の一生には甚だ楽でないことが多いものです。
或る人は常に貧乏につきまとわれて苦しみます。

この人達にとっては、それこそ「金銭さえあれぱなァ:.」であります。
実際金銭さえあれば片づくことが多いのですが、その金銭がないのです。

また他の人は金銭には苦しまぬが、家庭の不和に悩まされぬきます。
或は病弱に悩まされぬく人もあります。

この人達にとっては金銭などはなくともよい「家庭さえ円満なら…」。
或は「身体さえ健康であれば」「何もいうことはないあですが、
それがなかなかそうは行かぬのです。

その他良人の不仕鱈(ふしだら)に苦しむ者。
妻の不心得に苦しむ者。
失業に苦しむ者。
わが子の不良に苦しむ者等々。

人の世の苦しみはつきません。

本当に幸福に暮らしている家庭というものは、そ辺に幾軒あるかと疑われますが、
それでも心から早く死にたいと希う人は少なくて、皆長命をしたいのだから不思議ですね。

それは勿論この世にせっかく生を享けたのですから、定命(じょうみよう)のあるかぎり
長命を希うのは当然ですが、それならば何かこの世を楽に暮らす工夫をせねばならぬのですね。

そこで私の考えついたことの一つは、この章にかかげた標語です。

大晦日の苦しみといえば、大抵遣り繰りの困難ですが、
如何なる借財のある者にも、その苦しい大晦日は過ぎて必ず元旦は来ます。
一夜明ければ昨日(きのう)に変る元旦のおめでとうとなるのであります。

勿論元旦は大晦日の夜のつづきですから、大晦日が苦しかった者の境遇が、
急に元旦に楽になるはずもないが、それでもともかく大晦日という関所は過ぎて、
新年となったことは否定のしょうがないのであります。


されば苦しいながらにも、新年には新年の風が吹く。
周囲の条件も変って来るのです。
それを思えば如何に苦しい大晦日の辛抱も出来ぬことはないはずです。

幾年か以前に、或る人の家で大晦日にあてにしていた収入が、次々に狂って来る。
それでも最後にあてにしている一番大きな収入さえあれば、
どうにか大晦日が越せると思って期待していると、

それさえ予定が狂ったので「これでは年が越せぬ。近所へ顔向けも出来ぬ」と悲観し、
御主人は首をつって死んでしまった。

暮に迫って主人の変死に大騒ぎをしていると、その一番大きな当にしていた先きから、
金策が出来たから持参する意味の電話が来たが、死んだ者はもう生き返らぬ
「早まった」という話があります。

こんなのはあまりに気が狭いというものです。

「支払いが出来ぬ、他人に迷惑をかけた」ということは、大きな不始末に相違ない。
従って十分に責任を感ずるのが当然です。

しかし誠意をつくしても力およばぬ場合には、必ず人は極端には咎めぬものです。
そうしてその人にはまた必ず遠からぬうちに、救いの手が現われるものであります。

以上は大晦日と金銭上の遣り繰りの話ですが、
この「大晦日のつぎに元日が来なかったことは大昔から今までに一度もない」ということは、
如何に苦しむ者にも、必ず幸福な日が来ることをも約束するものであります。

悩みぬいた日がいつかは尽きて、目出たい日が必ず・来ることを保証するものであります。
そう思って苦しい時には、自分を客観し(外から眺めて)悪夢を見ているようだなアと、
余裕をもって暮らすようにしたいものです。


           <感謝合掌 平成28年1月31日 頓首再拝>

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