伝統板・第二

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「大晦日、尊師の言葉」 - 伝統

2015/12/31 (Thu) 04:46:16

【 1年中の迷信の垢を落として 】

 直截簡単に表現するならば、神と人間と云う二つのものがあるのではない。
 唯、神のみがあるのだ。その神の最高表現が人間なのである。

 「生きている」と云うこと其の事が「生かされている」と云う事であり、
 「今此処にあなたの内に神がある」と云うことである。

 だから希望は既に成就しているのである。
 それを現実にあなたが受取るか受取らないかはあなたの心ひとつにある。

 人間を、「衆生」だ、「凡夫」だ、「馬鹿野郎」だと暗示をかけ、
 「お前たちは俺が仲介(なかだち)にならないと天国浄土へ行けないぞ」
 と脅しつけるような悪辣な偽預言者にまどはされてはならない。

 今日は1年の終わりである。
 心の垢を落として新しい年を迎えましょう。

    <谷口雅春先生・著「希望を叶える365章」最終ページより>


・・・

【 過ぎし日を淨めて・信仰問答19 】

 人間の良心の中には「あがないの法則」といふのがある。

 自分の良心にとがめることをしていると、一方においてその良心のとがめる行為によって
 何らかの利益を得ていても、他方においてその「氣がとがめる行為」をつぐなうために
 何等かの不幸や災難や怪我や損失を蒙る事情の中に自分自身をもって行くのである。

 「天網恢々疎にして漏らさず」と古人が説いたのはそれである。
 天網は後天的なものではなく、先天的に自己の内に宿っている道徳的法則である。
 道徳的法則が私たちを指導しつゝ、人間の魂は向上を遂げるのである。

 年末には、1年を振返って、魂の進歩のために反省しよう。
 そして来たるべき年に、心が再び過ちを繰返さないための準備をしよう。

 楽しいバランスのとれた生活、外に対して冷淡でない内心の平和、
 環境に対して恐怖や憎悪や不平なく完全に順應する生活、すべてのものを愛し、
 すべてのものに感謝し、調和する生活、そのような理想に向かって歩むべく、

 来たるべき新年を迎えるための準備をしよう。

    <谷口雅春先生・著「女性の幸福365章」最終ページより>


・・・

【 新年を迎える心の準備 】

 あなたの心のうちに新年を迎える準備が出來ていますか。

 今年もよく365日を無事に過ごすことが出来ましたのは
 神様、あなたのお蔭でございます。

 神に感謝致しましょう。
 御先祖様に感謝致しましょう。
 父母に感謝致しましょう。

 夫又は妻に感謝致しましょう。
 家庭の、又勤め先の、協力者すべてに感謝致しましょう。

 みんなを心の中に思い浮かべて、しみじみと心の中で御礼を申しましょう。

 今年1年の間に過って何か不快な思いをさせたことがあったかも知れませんが、
 どうぞそれをお赦し下さいと念じましょう。

 この感謝と懺悔とによって、
 今年1年ぢゅうにあったすべてのあなたの思いと行いとが清められるのです。
 そして来年になすべき善き事のプログラムを定めましょう。

 では皆さん、御機嫌よう。

    <谷口雅春先生・著「幸福を招く365章」最終ページより>


・・・

【 新生のため準備整う日 】


【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。(『生命の實相』(第一巻)】

愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。

振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。

併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。

要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。

振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。

まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。

         <谷口雅春先生・著「光明道中記」(12月31日)より>

・・・

【 再び新生をする 】


愈々今年もこれで終わる。

吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。

何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、

物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、

撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

          <谷口雅春先生・著「光明法語」(12月31日)より>

・・・

【 決意の日 】

 本年最後の決意の日である。
 新しき天と地とを迎えるために潔(きよ)むべき日である。
 
 家を潔め、心を潔め、新しき花嫁の装いをした「真理(キリスト)」が釈迦が、
 その人の中に天降って来ても、その「真理(しんり)」の坐り場所がないような
 不潔なことをしておいてはならない。

 毎日の眠る前の神想観に、新しき次の日を迎えるべく、すべての人とその罪とを赦した
 と念じ、さらにその人に愛を送り祝福を送ったと同じように、今夜は眠るまえに
 いっさいの人々を赦し、

 いっさいの人々に感謝し、いっさいの事物に感謝し、感謝の念で心の中の汚れを洗い浄め、
 愛と祝福の念で、心の中を美しく装飾して、

 いつでも新しき「生命(せいめい)」の、新しき「真理(しんり)」
 の花嫁が天降って来ても招じえられるように魂の準備をして眠ろう。

 人々よ、安らかであれ。われはすべての人々に感謝する。
 よく戦ってくれた。よく働いてくれた。
 あなたたちがいてくれたのでわたしの生活が光栄あるものとなったのである。

 雷霆(らいてい)も、暴風も、山雨も、地震も、海しょう(津波)
 も、それはわたしを高めるためのものでしかなかったのである。

 われ、一切人(いっさいじん)、万事万物に感謝する。
 人々よ、平安なれ。

        <「生命の實相第28巻幸福篇十二月三十一日」>


            <感謝合掌 平成27年12月31日 頓首再拝>

「大晦日、尊師の言葉」~その2 - 伝統

2016/12/31 (Sat) 03:31:58


【 全ての把住を放ち去る日 】

       *「神と偕に生きる真理365章」(P344~345)より

 愈々「汝の持てる全ての物を売りてこれを貧しき者に施せ、而して汝の十字架を負いて
 我に随え」というイエスの教えを今日こそは実行すべき、今年最後の日であるのである。

 「汝の持てる全てのものを売れ」というのは、
 単なる物質の所有財産を売れということではないのである。

 唯物論的な人間観、「物質は実在する」という人類一般の常識、少しばかりの学的知識を
 もっていることを鼻にかけた高慢な心、金銭さえ貯めて置けば何でも此世の事は自由になる
 などという拝金宗、

 このような「心の中に持っている全ての塵埃(ごもく)」
 を悉く心の中から棄て去って「無」にまで施すということである。
 (注・「貧しき者」とは「無」の象徴である)

 こうして一切の迷い、迷いの根源たる唯物論的”存在観”を「無」にまで還元して、
 十字架にかかって”肉体”を無にまで抹殺したときに、Cross(クロス)は
 十字架であり、×は抹殺であり、同時に+(プラス)であり、復活であり、

 「真の自己」なる霊的”神の子”が復活するのである。

 この事をイエスは自己の生涯に事実をもって証明されたのである。

 さらば読者諸賢よ、この一年の最後の日に、一切の過去を棄て、心の中につかんでいた
 唯物論的な一切を悉く棄て去り、霊的に生まれ変わって、
 新たなる”神の子”としての生涯を、來るべき年を迎える心の準備をせられよ。

 來るべき新年はこの自覚により新生せる輝かしき年であることを
 諸賢と共に信ずるのである。

 今年一年中多くの愛語・愛念を送られた読者諸賢に深甚の感謝の意を表します。 

・・・

【 過去を除夜の鐘と共に放つ日 】

         *『 生長の家 』(昭和24年12月31日の法語)より

今年も愈々(いよいよ)今日で終りである。除夜の鐘は百八つ鳴る。
百八の煩悩を梵鐘(ぼんしょう)の清浄なるひびきによって消し去るのである。

罪はないのである。
過去はないのである。過去は過ぎ去る。

来るべき世界は唯(ただ)光明のみである。

然(しか)し罪をつかみ、過去をつかんでいる限りは
過去は消えず、罪も消えないのである。

人の罪を悉(ことごと)くゆるすこと。ゆるすとは放つことである。
掴(つか)んでいる限りは過去も消えず、罪も消えないのである。

今夜私は神想観をして今まで人々に対していだいていたすべての
悪しき咎(とが)める念を放ち去るのである。

「 自分はもう何人(なんびと)をも憎(うら)んでいないのである。
すべての人々よ、過去はないのである。
今まで若(も)し私が皆さんに対して悪念をいだいていたならば お赦し下さい。

私もすべての人々の罪を赦したのである。
その如(ごと)く神も亦 私の罪をゆるし給うたのである。

私は全く新しき浄(きよ)らかな心をもって新しき年を迎える。
さらば過去よ。色々とわが魂の向上のために教えたまいし過去の年と、
その中にあらわれたまいしすべての人々とすべての事件とに感謝致します。

さらば。

            <感謝合掌 平成28年12月31日 頓首再拝>

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