伝統板・第二

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神は愛なり① - 伝統

2015/12/24 (Thu) 08:54:31

今日12月24日は、日没からクリスマス・イブ(聖夜)。
クリスマス・イブから25日の日没まではクリスマス(キリスト降誕祭)。

クリスマスは、キリストの降誕を祝うとともに、神の愛を確認し、行なう日です。


《イエス・キリストは愛の聖者》

         *Web:ありがとう仙人の幸せ玉手箱(2007年12月23日)より


イエスのように、全てを許し、全てを愛し、愛で
1日を生きようとする日がクリスマスなんです。


そこで、参考にイエスの愛の話を2つ紹介します。


【 その1 】

イエスが歩いていると、子供連れの母親が声をかけて来た。

「イエスさま! 私の子供は、ごらんの通り、足が不自由で歩くことが出来ません。
お願いです。 どうか、あなたの力で子供を歩けるようにしてください!」


すると、イエスは子供に向かって言った。

「さぁ、暗い顔をしていないで、私の顔を見なさい!」

そう言われて、子供はイエスの顔を見た。

イエスは、優しい表情で微笑んでいた。

「子供よ! さぁ、立ち上がるのです。そして、私の所まで歩くのです。」

「イエスさま、私の子供は歩けないのですよ!
 そんな無茶を言わないでください。
 今まで何度も歩こうとしましたがダメだったんです。
 だから、イエスさまにお願いしに来たのです!」

「お、お母さん! 僕、なんだか歩けるような気がする!」

「えっ!」


子供は、イエスの顔を見たまま、立ち上がりました。

「お、お母さん! 見て! 僕、た、立てたよ!」

「あぁ、な、なんてことでしょう! し、信じられないわ!」

さらに、子供は恐る恐る、ゆっくりと足を動かした。

一歩、そして、一歩…。な、なんと子供は歩いているではないか!

「お、お母さん! 僕、歩いてるよ! 歩けるよ!」

「き、奇跡が起きた! 息子が、あ、歩いている! あぁ、神よ!」

そして、子供はイエスのところまで歩いていった。


イエスはニコニコして言った。

「子供よ! 歩けるじゃないか! 」

「イエスさま、あなたの優しい笑顔を見ていたら、何だか力が湧いてきたんです。」


それを聞いた母親がイエスのところへ駆け寄ってきた。

母親は大泣きしていた。

「うぅっ…。イ、イエスさま。笑顔が癒しの力を持っていることを私は実感しました。
 これからは、イエスさまのように、どんな人にも笑顔で接したいと思います。

 それが、私に出来る、唯一のイエスさまへの恩返しです!
 
 笑顔は愛です。
 愛は奇跡を起こします! ありがとうございました! うぅっ…。」


すると、子供が言った。

子供の目にも涙があふれていた。

「うぅっ…。イエスさま! ぼ、僕も笑顔で生きるよ!
 イエスさまみたいに、みんなに愛を与えるんだ! 」

こうして2人の人間が愛に目覚めた。



【 その2 】

民衆に話をしていたイエスの前に、ある女性が連れて来られた。

女性を連れてきたのは、イエスを憎む宗教家たちである。
そして、宗教家の一人が言った。

「イエス! この女は姦淫の罪を犯した。
 この女をどうすればいいのか、あなたにお尋ねしたい!」

これは宗教家らの罠であった。

当時、律法(今でいう刑法のようなもの)で、姦淫は「石打の刑」と定められていた。

日頃、イエスは「許し」を説いていた。

もし、イエスが、この女を許せば、律法に反したとして訴えるつもりである。

また、仮に、律法に従って、この女を石打の刑にするべきだと言ったら、
偽善者として訴えるつもりである。


しかし、イエスの答えはこうだった。

「皆のもの! よく聞きなさい!
 もし、自分が今まで一度も罪や過ちを犯したことがないのなら、
 律法に従って、この女に石を投げつけなさい。

 石を投げる資格があるのは、一度も過ちや罪を犯したことがない人だけです。
 罪人が罪人を裁くことは出来ないのです。
 さぁ、罪を犯したことがない人は石を投げなさい!」

すると、宗教家たちはもちろん、群集も一人、また一人と去っていった。

そして、イエスと女だけが残った。

「さぁ、帰りなさい!
 誰も貴女に石を投げることは出来ないのだから!
 私も投げられない。

 人は、過ちを犯すものです。
 しかし、過ちを恐れてはいけません。
 人は、過ちを犯すことによって成長するのです。

 だから、反省をして、生活を改めれば、貴女の過ちは許されるのです。
 しかし、同じ過ちを繰り返してはいけません。

 新しい過ちは人を賢くさせますが、同じ過ちを繰り返すことは人を賢くはしません。」


それを聞いた女は、その場で大泣きをした。

「うぅっ…、うぅっ…。イ、イエスさま!
 私は、初めて他人の過ちを許すことが愛であることを実感しました。
 うぅっ…、うぅっ…。イ、イエスさま!
 イエスさまが私を許してくれたように、これからは私も他人を許します!」


「女よ!
 許すのは他人だけではダメだ。
 貴女は大切なことを見落としている。
 自分も許すのだ! まず、過ちを犯した自分を許しなさい!
 そうすれば、おのずと他人を許せるだろう!」

こうして、イエスの導きによって、この女は「愛」に目覚めたのだった。



今日の話はこれまです!

素晴らしいクリスマスを過ごしてください!

メリー、クリスマス!

・・・

動画:クリスマスに込められた意味
   → https://www.youtube.com/watch?v=5Jag_X2bUOA

            <感謝合掌 平成27年12月24日 頓首再拝>

愛は生み育てる力、癒す力である - 伝統

2016/01/01 (Fri) 04:47:42


           *「光明道中記」(1月1日)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、
生き甲斐を失い、病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、
死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

《神は無限の愛であり給う》 - 伝統

2016/01/09 (Sat) 04:45:06


            *「光明法語」(P18~19)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。
神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

          <感謝合掌 平成28年1月9日 頓首再拝>

「愛は最高の贈物」 - 伝統

2016/01/19 (Tue) 04:05:22


             *「女性の幸福365章」(P43)より

真理を与えるのも尊い愛行であるが、愛そのものを与えるのは、それに劣らぬ愛行である。

多くの金持の父親や良人が、その子供や妻にただ欲しいものを買って与えてやるだけで、
愛を与えたと思い上がって、子供にも妻にも無関心にしている場合が応々ある。

そんな場合に、家庭の悲劇が起こるのである。
母親が子供に対する場合も同じである。

 
クリスマス・プレゼントに立派な腕時計を父親から貰ったお嬢さんが言った。
「こんな立派な腕時計を頂いたことは嬉しいけれども、もっと嬉しかったのは、
お父さんがやさしい顔をして、“Kちゃん”と言って抱いて下さったことだったわ。」

愛はどんな立派な贈物より価値ある贈り物である。
 
最大の贈物は「愛念」であって物質の大小ではない。

しかし、僅かな物質さえも愛情のしるしに出しおしみをしているようなことで
「愛念」をもっているということはできない。

どんな小さな贈物も愛念の象徴として立つとき、それは華麗な光彩を放つのである。

            <感謝合掌 平成28年1月19日 頓首再拝>

失敗した人に追い討ちをかけるな - 伝統

2016/01/26 (Tue) 03:45:11


           *「幸福招く365章」(P211~212)より

どんなに暗黒にみえるときにも其処には光があるのである。

暗黒は唯(ただ)の一時的現象に過ぎない。

暗幕を張った中に這入ってみると、一時は光が全くないようにみえるけれども、
じっとみつめていると、其処には光があってだんだん見えて来ることがわかるのである。

暗黒に包まれたように失意にくず折れてしまっている人に、
賞讃の言葉や激励の言葉をかけてあげることは深い愛の道である。

失敗したとみずから悔悟している人に、
追い討ちをかけるように罵しる言葉をかけることは愛なきしわざである。

折角、自己反省して更生しようとしていた人に反抗心を起させ、
その人が過ちを悔い改めて善に遷ろうとする働きを妨げることになる。

            <感謝合掌 平成28年1月26日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2016/02/04 (Thu) 04:59:48


            *「光明法語」(P32~33)より

愛は最も強力なる力である。
如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。
愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。
敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。


            <感謝合掌 平成28年2月4日 頓首再拝>

愛なき心がわれらを傷つける - 伝統

2016/02/12 (Fri) 04:40:12


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(P123~124)より

物質はわれわれを傷つけることはできぬ。
愛なき心がわれらを傷つけるのである 

―― そしてあたかも物質がわれわれを傷つけたるがごとく錯覚せしめるのである。
物質に傷つけられたるがごとく見えている時に、反省してみると、
物質によるよりも先ず自分の心が恐れていたか、憎んでいたか、怒っていたか ――

ともかく傷ついていたことを発見するであろう。

            <感謝合掌 平成28年2月12日 頓首再拝>

報い求めぬ愛 - 伝統

2016/02/21 (Sun) 06:09:21


           *「光明道中記」(P56)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。(『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、報い求める愛は途中で不平に変る愛である。
相手が感謝するだろうと思ってした行為は、相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。


            <感謝合掌 平成28年2月21日 頓首再拝>

《愛を実現するのが人間の使命である》 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 03:58:24


         *『 生長の家 』(昭和26年2月2日)の法語

   脚下照顧と云う言葉がある。
   自分の生命が今何処(どこ)に立っているかと云うことを
   省みよと云うことである。

   自分の生命の立っているところが判らなければ、
   何(ど)の方向へ向って行くのが
   最も近道であるかと云うことがわからないのである。

   自分の生命が今立っている所が
    「 神の子 」 と云う 「 場 」 であると云うことがわかると、

   自分はただ 「 善 」 の方へ、
   「 愛 」 の方へ、
   人々を助ける方へ、
   人々を悦ばす方へ、

   人々にサービスする方へ向って行けば好いと云うことがわかるのである。


   何人(なんぴと)の生命の奥底にも
   「 愛したい 」 と云う念願が宿っているのである。

   これを満足しない限り、人間は落着くことは出来ない。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8a4e0f6aaa0891091b222bd3a1d40bd5


            <感謝合掌 平成28年2月28日 頓首再拝>

“至上階の愛”の実践者となろう - 伝統

2016/03/01 (Tue) 03:26:19

          *「生長の家」誌の創刊号(P28)より

《三種の愛》

愛せよ。少しも求めず愛せよ。これが愛の秘訣である。

こんなに愛してやっているのに相手は斯うだと批難するな。呟くな。

愛は、その結果がどうなるからとて愛するのであってはならない。

愛すること、そのことが神の道だから愛するのだ。
愛すること其のことが幸福だから愛するのだ。

結果を求めた愛は必ず不幸に終る。


愛の三つの段階・・・

第一階は愛した結果の利益を預想するところの愛である。
これは功利的な愛である。利益にならなければ腹が立つ。

第二階は、相手が喜んでくれるから愛するのである。
これは功利的ではないが相手が喜んでくれなかったり、
相手が自分の好意に気がついて呉れなかったら腹が立つ。

第三階は至上階に位する愛である。



第一階の愛も、第二階の愛共に「我」がある。
「自分がかうした」「自分があゝした」「然るに彼は」と云う風に、
「自分」と云うものを抜け切っていない。


至上階の愛は「自分」を全然脱却している。
それは飄々乎として捕へんと欲すれど捉へることが出来ない。

「先刻はこんな結構なことをして頂きましてどうも有り難う」と云われても、
「ヘエ、わたしが?  何時そんなことをしましたかねえ。」と
空とぼけるのではないが、心から自分の愛の行為を忘れて了ったような愛である。

それは自分がしたのではない、神と偕(とも)なる時、
おのづから出来た愛であるから、「自分がした」と云う
感じが少しも残っていない。

これが惟神(かんながら)の愛である。
神流れの愛である。
神催しの愛である。

神と偕なる愛である。
大菩薩の愛である。

生長せんとする家はこの大愛を目標にして進まねばならない。

家庭の葛藤は、舅姑と嫁との争ひは、夫婦親子の間の紛争はすべて
「自分が斯うしてやったのに、彼は斯うした」と云う不平から起こるのである。

こうした不平は自分が神から遠ざかったことの証拠である。

かゝる不平起れば他を叱する前に自己を一喝せよ!  渇!


<関連Web>

本流宣言掲示板「皇恩に感謝し、祖父母、両親に感謝し、兄弟と和解せよ (7304)」
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1728

            <感謝合掌 平成28年3月1日 頓首再拝>

愛が純粋に燃えあがるとき - 伝統

2016/03/09 (Wed) 04:07:14

          *「愛はかくして完成す」(P174~175)より

真の愛が純粋に燃えあがるとき、その人は愛の焔によって浄められ、強くせられ、鍛えられる。
そして、「自己の幸福」などという”狭い根性”は消えてしまい、聖(きよ)き、高き、
広き愛となって燃えあがり、力と勇気とが湧き出てくるのである。

愛の焔によって浄められた力と勇気の前には、如何なる障礙も
太陽の前の霜のように消えてしまうのである。 

もし、あなたの前にたちふさがった障礙が消えないのならば、
あなたの愛がまだ充分燃えあがっていないからである。

相手を愛せよ。 
愛するとは「実相」の完全さを見て、礼拝と感謝の念を起こすことなのである。

「実相」の完全さを礼拝感謝する”愛”こそ、
光明皇后さまが癩病者の実相を拝んで彼の背を洗い給うた時、癩病者が消えて、
東方阿閦如来の実相をあらわしたまうたところの「聖愛」である。

            <感謝合掌 平成28年3月9日 頓首再拝>

愛とは与えること、放つことである。 - 伝統

2016/03/17 (Thu) 03:25:00


           *「光明法語」(P62)より

《なろうと努力するより既によしと信ぜよ》

其の婦人は今まで「仲好くしよう」と努力したけれども仲好くなれなかった。
それは意志の努力であった。

彼女は「仲悪し」を心の中に思い浮かべて、
「仲好くなろう」と努力したから仲好くなれなかったのである。

また「愛されたい」と求める心でいるばかりで、
積極的に愛しようと努力しなかったから仲好くなれなかったのである。

愛せよ、与えよ、与えるのが愛である。
無条件に与えよ。無条件に与え切るとき、自分が愛されるようになるのである。
愛とは与えることである。放つことである。

            <感謝合掌 平成28年3月17日 頓首再拝>

《愛のみが天国である》 - 伝統

2016/03/24 (Thu) 04:40:48


         *『 生長の家 』(昭和26年2月20日)の法語より 

   憎みと愛とは一つの心の中で同居することは出来ないのである。
   憎みは地獄であり、愛は天国である。憎みは鬼であり、愛は神である。

   憎んでいる心の中に 「 神 」 を招(よ)び迎えようと思っても、
   それは地獄の中に 「 神 」 に住んで貰(もら)おうと思うのと
   同じような愚かさである。

   「 近くにいる隣人を愛することが出来ないで、
   どうして眼(め)に見えない神を愛することが出来よう 」 と

   イエスは云っているが、

   家族や、同僚や、知人などを愛することが出来ないで、
   神の愛の癒す力を、自分の内に流れ入らしめることは出来ないのである。

   先ず隣人に対する憎みと怨みとを解き、
   自分の心の塵埃(じんあい)を除き去って、
   神の愛を流入させるべきである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7b6e6bfab0feaff9c5bc4476ee8eb695

            <感謝合掌 平成28年3月24日 頓首再拝>

《神は慈悲の神、愛の神》 - 伝統

2016/04/01 (Fri) 03:33:45


           *光明法語<道の巻>(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。

次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。

われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、わが魂は悉く浄まったのである。
神がわれを赦し給うごとく、すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2016/04/02 (Sat) 03:33:07


           *光明法語<道の巻>(4月2日)

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」

            <感謝合掌 平成28年4月2日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2016/04/11 (Mon) 04:46:38


           *「光明法語」(P73~74)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

            <感謝合掌 平成28年4月11日 頓首再拝>

《愛は努力によって研(みが)き出される》 - 伝統

2016/04/21 (Thu) 04:30:26


            *『幸福を招く365章』(P76) より

算術でも習字でも練習したら上手になるのである。

憎んでいる人を赦す心も、怠らずそれを努めるならばだんだん上手になってくるのである。

周囲と調和しよう、素直にハイと無抵抗に従順になりましょう。
自分を憎んでいる人を愛しましょう ――

この種の努力は、それがすぐ成功しないようにみえても決して無駄に終ることはない。

斯(か)かる努力をつづけているうちに、自分の性格が淘(よな)げられ、
優しく美しい性格がみがき出され、神のみこころを容易に感受するを得る
「愛」の心が発達して来るのである。


            <感謝合掌 平成28年4月21日 頓首再拝>

<天国の愛を地上に実現するには> - 伝統

2016/05/02 (Mon) 04:24:02


          *「善き人生の創造」第二十四章(P347~348)より 

あなたが愛する所の相手が、翻(ひるがえ)って復あなたを愛するのであります。
これは永遠に渝(かわ)ることなき眞理であります。

愛は大いなる磁石的力であり、総(すべ)ての吸引力の中で最大のものであります。
若し諸君が人類を愛するならば、人類はあなたを愛するに決まっているのであります。

具体的に神に近づくとは、具体的に神を愛することなのであります。
具体的に神を愛するとは具体的に友を愛することであります。

あなたが昨日(さくじつ)これで充分天国の愛だと思っていたよりも十倍も
多く今日(きょう)からあなたの友達を愛するならば、あなたの友達も結局、
あなたを十倍も多く天国の愛をもって愛するでありましょう。

併し天国の愛とは決して、性的な愛ではないのであります。

天国の愛は魂の愛であります。
あなたはあなたの友の魂を愛しますか。
それとも彼の外面だけを愛しますか。

若しあなたが彼の颯爽たる容姿を、彼女の美しい顔形を、
或は彼のバリトンの声を彼女のアルトの声を、
或は彼の端正なギリシャ的な横顔を、彼女の中高な日本的な横顔を、
或は彼の堂々たる体躯を、彼女のなよなよとした蜂のような腰をのみ愛して、
そして唯それだけに終るならばそれは決して天国の愛ではないのであります。

あなたが眞に彼又は彼女から愛されようと欲せられるならば
あなたの愛は彼の肉体のみならず魂までに貫き透る愛でなければならないのであります。

若しあなたが彼又は彼女の内面に深く湛えられている静かなる魂の底にある神性を
拝むことが出来るならば、

若しあなたが彼又は彼女の尚冷酷に見え、不良に見え、貪欲に見え、だらしなく見えるその奥に
、尚目覚めていないその善さを「既にあり」として忍耐強く愛するならば、

それこそ、あなたは真にその友に於いて
神を具体的に愛していると云うことが出来るのであります。

何人も凡ての人は神から与えられた異なる性質と人格と異なる過去の業を荷った魂とを
持っており、それに依って無限相なる神の特殊の自己実現をなしているのであります。

若し諸君が相手の内部に宿る實相の善さに貫き入り、眞にそれを愛するならば、
今まで如何に敵と見えていた者も、あなたを愛する具体的な神となるのであります。

實に具体的に神に近づくと云うことは、
如実に「実際の人間に宿る神」を具体的に愛することなのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=235&submitlog=235

            <感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2016/05/12 (Thu) 04:54:23


           *「光明法語」(P74)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

            <感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>

愛をのせた霊的微小体 - 伝統

2016/05/19 (Thu) 04:59:29


          *「真理」第九巻(P223~225)より

《霊的微小体は想念で動くヨットの如く》

この世界は霊的微小体の充満している世界である。

そして、それに「想念」によって動力と方向を与えるならば、
ヨットが風の力と操舵による方向付けによって一定の方向に航行するのと同じように、
この霊的微小体は一定の方向に航行したり多くの微小体が一定の姿に配列したり、
吾々の想念のメッセージを無電の発信を伝えるように伝えたりするのである。

心に互いに憎みを持っていて、会議や折衝を行ってみても、それが旨く調和した結果に到達しないのは、
言葉巧みに自分の本当の想念感情をかくして、敢えて他(た)に言おうとするけれども、
霊的微小体が本人の想念感情を乗せて互いに感情を通話しているのであるから、
結局その交渉が調和してまとまらないことになるのであるとしている。


《愛をのせた霊的微小体》

昔、筑紫の太守、加藤左右衛門尉重氏が、其の本妻と妾が仲良く碁を囲んでいるときに、
二人の障子に映った影を見ると、互いの女の髪の毛が蛇となって噛み合った姿に映っていたので
発心して高野山に登り得度したと伝えられている。

これは、互いの想念感情を乗せた霊的微小体の相互葛藤の状態が
具象化したものだと考えられるのである。

肉体は互いに仲好くしているように見えても、憎みを乗せた霊的微小体は、
互いに衝突して鎬(しのぎ)を削り合っているのである。
 
私達は、宇宙に充ち満ち私達を取り巻いているこれらの霊的微小体に「憎み」の想念を乗せないで、
「愛」の想念を乗せて歓ばせるようにしたいものである。

「愛」の想念を乗せた霊的微小体が類をもって具象化するとき、
肉体に於いては健康体となり、事業に於いては繁栄が持ち来されるのである。



《愛を何処(いずこ)に注ぐべきか》

あなたが霊的微小体に「愛」の想念をのせて欲する事物(又は人)のところに搬ばせるとき、
あなたの欲する事物は必ず適当に引寄せられて来るのである。

何故なら「愛」はすべての善きものを引寄せる磁石的な力であるからである。
あなたが「自己愛」によって、愛を「自己」にのみ集注するならば、あなたの周囲には、
広い範囲からよきものは集まって来ないのであって、そこに集まって来るものはただ
「自分」に関しての狭い範囲の喜びばかりとなって来るのである。

若しその人が金銭ばかりに「自己愛」を集注すると、その人は金銭の奴隷となる。
若しその人が自分の肉体の快楽ばかり「愛」を注ぐならばその人は、肉体の快楽の奴隷となる。

その他、如何なるものに「愛」を注ぐにしても、それは「神」への愛以下のもので、
それがあるとき、何らかの形で於いて自己を狭く縛って奴隷とするのである。

            <感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2016/05/21 (Sat) 03:22:18


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんな会も愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

            <感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2016/05/26 (Thu) 04:47:16


          *「光明法語」(5月26日の法語)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

            <感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>

《“ 神は愛なり ” の祈り》 - 伝統

2016/06/02 (Thu) 03:48:46


          *『 生長の家 』(昭和49年4月8日の法語)より

   【 祈り 】

   【 私は“ 神の子 ”である。神は愛である。
   私の内に神さまの愛を実現するセンターがあるのである。

   それ故に私はすべての人間に対して、常に愛行を怠らず、
   愛行を実践するたびに生き甲斐を感ずるのである。

   ありがとうございます。 】

   生き甲斐というものは、自分自身が本来の生命の姿そのままに、
   それを歪(ゆが)めることなく、曲げることなく、抑える事なく
   発顕(はつけん)せしめ得たときに感じられるところの
   内部的“ 自覚感情 ”である。

   『 生命の實相 』の“ 生活篇 ”の中に一国の王子に生まれて、
   物質的には何不自由なく、求めて得られざるものとてもない
   裕(ゆた)かなる環境条件の中で育ちながら幸福感が得られないで、
   いつも悒鬱(ゆううつ)な顔をしているので

   父王(ふおう)が心配して、

   この王子の心を幸福感に充たされ生き甲斐を感じるようになるように
   善き智慧をかしてくれたる者があったら、褒美(ほうび)の金は望み次第だと
   いう布令を出したら、色々の案をもって来る者があったが、いずれも落第で、

   最後に最高の案をもって来たのは一人の魔法使であったが、
   彼は一枚の「あぶり出し」の白紙を置いて去った。

   それを火の上にかざして炙(あぶ)ると、その白紙にあざやかに、
   「 毎日必ず誰かに深切を施せ 」 という文字(もんじ)があらわれて来た。

   王子はそのように実行すると、生き甲斐の悦びが感じられ、
   顔は幸福感に充たされて悦びに輝いて来たという
   例話(れいわ)が書かれている。

   「 深切を施す 」ということは“ 愛 ”を実践することであり、
   神は“ 愛 ”であり、“ 神の子 ”たる人間の本質も“ 愛 ”であるから、

   愛を生活に生きるようにしたとき、
   自己の生命の本質を完全に生きることになるから
   生き甲斐が感じられて来るのである。


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            <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2016/06/06 (Mon) 04:11:59


           *『光明法語』(6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、
凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 平成28年6月6日 頓首再拝>

一人必ず救う日 - 伝統

2016/06/15 (Wed) 04:17:11


             *「光明道中記」(6月15日)より

【至上の愛は神と偕(とも)なる時、おのづから出来る愛である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


「われ」と云うものは今日こそもう滅(な)くなったのである。
我(が)は無い、我欲も無い、我見も無い、我に属する一切のものもない。
「われ」が滅くなったとき其処にあらわれるものはただ神である。

神ばかりである。
われは無い、神ばかりである。
吾が面する世界は神の世界である。

わが坐する位置は神が我を按(お)きたまうた位置である。
わが擁する財は神が我にあずけたまいし財である。

わが位置をわが事のために使ってはならない。
わが財をわが事のために使ってはならない。
光明思想を弘(ひろ)めること。

人を救(たす)けるために、神の愛を顕すためには、
光明思想を弘めるにも優(まさ)りて良き方法は無いが故に、
私は光明思想を弘めるための私の能力と位置と財とを全部ささげているのである。

形ある財は費やされて消えて行くものである。
百円硬貨一枚は一人にそれを与えて一日の食料にも足りないのである。

併し、一枚の百円硬貨に当たる一冊の『生長の家』誌によって
起上(たちあが)った人がどんなに数多きことであろう。

職業を与え、財を与え、医療費を与えるのも慈善であるが、
職業の源泉、財福の源泉、自然良能の源泉である光明思想を与えることは
一層の善事である。

        <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

《如何なる時にも相手の内に 「 愛 」 の心を見よ》 - 伝統

2016/06/27 (Mon) 04:09:09


         *『 生長の家 』(昭和26年5月13日の法語)より

   真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
   周囲の人々に対して絶対調和した心持で
   いなければならないのである。

   周囲の人々に怒りや憎みや恐怖の感情をもっている限りは、
   物質的に幾ら豊かな生活を送っていても
   其人(そのひと)は幸福だと云うことは出来ないのである。

   誰でも愛されたいのに、その相手がこちらを憎んでいるのは、
   こちらが相手を愛してあげようが足りないからである。

   憎みの言葉を相手がこちらに投げかけても、実はその人は
   「 私はあなたに愛されたいのに、愛してくれないから、
   私は止むを得ず、やけくそに貴方に意地悪をするのよ 」
   と心の中では言っているのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

        <感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>

自分と云う手垢のついた愛は、真の愛ではない - 伝統

2016/06/30 (Thu) 04:47:13


         *「光明法語」(6月30日)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。

如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2016/07/07 (Thu) 04:30:17


           *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と書かれている
ように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

            <感謝合掌 平成28年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2016/07/15 (Fri) 03:18:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月15日>(P20)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。
時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように物理的精密さでできているが、
それでさえわれわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、講演旅行などで携帯する
時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から
帰ってくると、本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。
知的に真理を理解したといっても、それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、真理も知的に理解しただけでは
生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに素直に信じて竜頭を回せば
時計は動く。それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 平成28年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2016/07/16 (Sat) 03:30:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月16日>(P20)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2016/07/21 (Thu) 03:14:29


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月21日>(P25)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、わたしはまだどこかの点において
「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 平成28年7月21日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2016/07/25 (Mon) 04:17:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月25日>(P28)より

今日はさらに、「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」
と念じよう。そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、その反映として
自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成28年7月25日 頓首再拝>

真理は愛の実践を要求する - 伝統

2016/07/30 (Sat) 03:22:18


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月30日>(P33~34)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、やがてそれに自分が救われなくなり
落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に「最善の悔い改めは神の道を
一心不乱に前進して、今までありし罪と自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」
と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、神の道に一心不乱に突き進むことを忘れて
いるのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、そして
それゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。
ある人が真理に対する理解を得たとする。そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除
することができたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、やがてその真理は自殺状態に陥って
自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。
真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされたのだということを
知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、個々人として孤立した存在ではないという
ことである。われわれは自他一体の存在であるから、この世の中に一人でも不幸な人が存在する
かぎり、真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、その1本の歯にも
比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、自分を磔けにした人々の
幸福のために神に祈り、そして従容として十字架につくことである。
かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

            <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝>

神の愛を疑うことは・・・ - 伝統

2016/08/02 (Tue) 03:42:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月2日>(P40)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2016/08/04 (Thu) 04:13:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月4日>(P41)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

              <感謝合掌 平成28年8月4日 頓首再拝>

倶(とも)に泣く日 - 伝統

2016/08/08 (Mon) 03:50:43


           *「光明道中記」(8月8日)より


【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。(『生命の實相』第ニ巻)】

 
「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、しみじみと有難く感じられる。
「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

          <感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝>

《冷淡すぎるものは執着よりも尚悪い》 - 伝統

2016/08/18 (Thu) 04:17:33


         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P297)より

   「執着がないその儘の心」と云うのは、
   「なげやりの無関心の心」とはちがいます。

   人が碁を打っている時、傍から非常な興味をもって
   それに注視しているのが「傍目八目の心」です。

   それは欠点も見、長所も見、すべての細目を見のがさない心です。
   しかし「自分が勝ちたい」と云うような執着はないのです。


   ところが「なげやりの無関心の心」と云うのは、
   碁の場合に喩えて見れば、別に囲碁の盤面に興味をもたず、
   煙草でもふかしながらヨソ見をしているような心です。

   執着はないが、同時に愛情も興味も誠実もないのです。
   そんな執着のない心では駄目であります。

   愛は一歩あやまれば執着となり、
   正しくそれが行なわれれば誠実となります。

   「愛が全然ない」位ならば「執着の愛」でも、
   無いよりもある方がよろしい。
   其処から愛が発展し浄化されれば、執着が浄まって誠実となります。

   煩悩そのままに菩提(さとり)となるのです。

          <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>

《愛は真に征服する力である》 - 伝統

2016/08/30 (Tue) 04:40:55


          *『 生長の家 』(昭和26年6月13日の法語)より

   愛は全世界を真に征服するのである。

   憎みはそれが如何に暴力的に強くとも、
   一時征服したように見えようとも、
   相継ぐ反撃によってついに世界を混乱に導くに過ぎないのである。

   愛が報いを得なかったことは一度もない。
   愛することの快さ ー それ自身が既に報いでもある。

   愛は愛する人を呼び、繁栄を招び、健康を来すのである。

   若し貴方を愛する人がないので淋(さび)しければ、
   自分が他(た)を愛していないで
   愛せ“られる”ことを欲しているからである。

   若し貴方の店が繁昌しないならば、あなたがその店でお客に対して
   愛の注ぎようが足りないからである。

   健康が得られないのも愛より憎みが多いからである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

          <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

愛は自他一体の認識 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 03:58:37


       *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜)より

九月六日の法語 そのままが完全円満

本来の自然になった時、生命は最も完全に発現する。

愛が若し自由意志による発現でなく、強制的に機械的に行わしめられるものであるならば、
それは妓楼(ぎろう)の主人に強制されて愛を売る売笑婦のそれになってしまう。
愛は自発的であるのが尊いのだ。

愛は自他一体の認識だ。
個別者同士互いに「愛」の感情が起こるのは個別者は、
互いに別物ではなく本来一体であるからである。

また個別者が神に対して「愛」の感情が起こるのは、
個別者は本来、全体者(神)から発した者だからだ。

           <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

常に愛念を送る - 伝統

2016/09/10 (Sat) 04:15:52


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月10日)より

「神の無限の愛われに流れ入り給いて、愛の霊光燦然として輝き給い、
すべての不安、恐怖、憂鬱を雲のごとく散らしめたまうのである。」

常に暇あればかく念じて自分自身の心の中に神の愛をもって満たせ、
もしあなたがたれかに貸し金があったり、店子が家賃を払ってくれなかったり、
商品の決済をしてくれなかったりしたとて、その債務者が不正直で悪意があるとか、
払わぬつもりでいるとか考えてはならないのである。

もしそんな想念を起こしたならば相手はますます不正直になり、誠意がなくなり、
払わぬつもりになるばかりである。

自分に債務のある者を常に善意をもって扱い、善念を送り、愛念を送り、
無限供給の念を送ればその債務は速やかに払われる。

             <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

悪を語らず、愛念を循環させる - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:12:19


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

あらゆる方面に神の愛を与えるのだ - 伝統

2016/09/14 (Wed) 04:22:48


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを十分与えるように心懸けなければならない。
値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、しかも自分もできるだけ力を尽くして
奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて怠惰や放漫になってはならないのである。
与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、自分が知恵を出さず、愛を出さず、
生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

             <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2016/09/19 (Mon) 04:31:43


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、神の栄えはあらわれないのである。
神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、神の愛をあらわれの世界に
持ち来たらしさえするならば人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、「物を大切にすること」とはちがうのである。
「貪欲」は自己の貧しさを恐怖して、むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>

真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:41:01


          *「光明法語」(9月21日)より

愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2016/09/22 (Thu) 03:28:35


           *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。

愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)
そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、
朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。

”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

           <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

愛と執着とは異なる - 伝統

2016/09/23 (Fri) 04:29:11


         *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。
それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

《愛と理解とを求める人に》 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 04:46:57


        *『幸福を招く365章』第9項(P192~193) より

すべての人間は神の子であり、
神は愛であるからすべての人間は愛を求めているのである。

すべての人間は神の子であり、互いに兄弟であるから、
互いに理解されることを望んでいるのである。

愛されることと理解されることと、
この二つを失った人は真に孤独であり、
寂廖感におそわれずにはいないのである。

しからば愛と理解とを失って、
この世に生きる希望を失った人々は、いかにすべきであろうか。

愛と理解とを与えられることを求めるな。
まず愛と理解とを与えてあげることを試みる。

人々を愛せよ。
憎い人でも愛せよ。

愛すると云うことは必ずしも感情ではない。
その人のためになることを隠れて熱心にしてあげよ。
本当に愛が湧いて来るに違いない。

           <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

『愛のあるところ幸福と健康をもたらす』 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 04:59:03


        *『生命の實相』第7巻生活篇(P131~132)より

愛は威張るためでもなければ謙遜のためでもない。
それはもっと魂の深いところから自然に発露して来る神性である。

われらが神の子として大生命の祖(おや)さまより受けついでいる遺産である。
この遺産を出来るだけ完全に生かすことが本当に神をあがめることである。

日常生活が愛に支配されるとき、彼は自分を生かすと同時に周囲を生かすことにもなる。
それは「愛」は「生命(せいめい)」であるからである。

「神」が「生命(せいめい)」であり、
「神」が「愛」であることを知るものはおのずから
「愛」が生命(せいめい)であり、「生かす力である」ことが理解できるであろう。

愛のあるところには、家庭にも社会にも調和と平和とがきたり、
そこに住む人々は生長し、幸福になり、健康になるのである。

からいばりで、こう言ったら相手に自分が偉くみえるであろうとか、
自分の一言一行をいかに見せびらかすべきかと思い煩っているがごときところに、
平和も幸福も健康も来るはずがないうのである。

「愛」は「神」であり、「神」は「生命(せいめい)」であるから、
「愛」がそこからなくなるとき「生命(せいめい)」がそこからなくなり、
「生命(せいめい)」がそこからなくなるとき
それが自滅し自壊するのは当然である。

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

《愛念は愛念を招(よ)ぶ》 - 伝統

2016/11/02 (Wed) 03:45:21


        *『幸福を招く365章』第10項(P201~202) より

今日(きょう)一日、愛と善意と平和の
想念のみをもつように心掛けて御覧なさい。

それは貴方を素晴らしく若返らせ、健康にする力があります。

地獄のような環境が忽ち極楽になったような感じがするでしょう。


あなたの内に宿っている神性 ―― 愛と善意と平和 ―― の導きのままに
あなたの生活をなすよう心掛けて御覧なさい。

『神の国は汝の内にあり』と云った
イエスの意味が本当にお判りになると思います。


何人(なんびと)に対しても愛念と同情とを起こすことは、
あなたの生活に異常な温か味を添えることになります。

愛は愛を招いて、あなた自身が周囲から愛されることになります。

人間が幸福感を得るのは愛されることによってであります。

           <感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>

永遠価値のものを愛し、考え、求めよ! - 伝統

2016/11/06 (Sun) 03:28:26


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月6日)より

万事物質的なものは遷りかわるものであり、その遷りかわるものに心惹かれているかぎりは、
波にさらわれた小舟のようなものであって不安は去らない。

われわれは遷り変わらないものを愛しなければならぬ。
永遠価値のものを愛しなければならぬ。
絶対的なものを愛しなければならぬ。

すべて心を労してもとめても、やがて価値の変わるものに心を労してはならぬ。

神より出ずるもの、神の属性であるもののみ無限価値がある。
愛は無限の価値あるものである。
赦しは無限価値あるものである。

忠、孝はむろんのこと、すべて肉体を超えて永存する価値のことを考え、求めねばならぬ。

           <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

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