伝統板・第二

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楠本加美野先生の快癒をお祈り申し上げます - 夕刻版

2015/12/01 (Tue) 19:27:15

「愛国本流掲示板」と「谷口雅春先生に帰りましょう」に
”礼拝 さま”により、楠本加美野講師が入院中との情報の投稿があります。


”楠本加美野 先生”の症状は軽くはないようですが、神癒をお祈り申し上げます。


このスレッドでは、”楠本加美野 先生”の快癒を祈りながら、
先代の掲示板に残っている、「楠本加美野 先生」のご講話や著書から引用された
部分を、掘り起こして紹介してまいります。

・・・


本流宣言掲示板 より
2011年06月07日


聖経『甘露の法雨』の素晴らしさ
~生長の家宇治別格総本山総務 楠本加美野宮司講演 要約

(1)河口湖道場に勤務していた時の話

   その当時、その頃は周りに何もなくて、あるのは富士山だけ(笑)という状況でした。
   そこで毎日、拡声器を富士山の方に向けて、当番を決めて、「聖経の間」を設けて
   『甘露の法雨』を一日中、連続して誦げておりました。

   そうしたら、「焼津港報」という新聞が私の手許に送られて来て、
   「昭和40年8月31日、静岡県焼津市のある火葬場で奇跡がおこった。
   千二百度の高熱を出して燃える火葬炉の中から『甘露の法雨』が焼却されずに、
   原型を残して発見された」という記事が目にとまった。

   もう感激してねぇ、何と素晴らしいことだろうと、さらに熱心に『甘露の法雨』を
   誦げたわけですが、
   現在この『甘露の法雨』は、総本山の温故資料館に大切に保管されています。

(2)我々が生長の家の教えに触れることができたのは、先祖に非常に信仰篤い高級霊がおられて、
   それらの先祖の方の徳のお蔭で、生長の家に導かれているわけですよ。

   これは間違いないことですね。だから我々はご先祖に感謝しなければならないわけです。

(3)谷口雅春先生は、『生命の實相』頭注版第33巻の26頁に、
   『祖先の霊魂がわたしを絶体絶命の境地に導き、その絶体絶命が私を悟らせてくださった
   のであります。諸君も悟ろうと思い、またはこの世で成功しようと思うには祖先の礼拝を
   鄭重にしおのずから祖先の加護を受けるようにせねばなりません』

   とおっしゃっているわけですね。
   このように先祖供養というものが、信仰の面から見ても、子孫の繁栄という面から見ても、
   如何に大切であるかが解かりますね。

(4)さらに、人間の運命について『生命の實相』第4巻「はしがき」には、
   次のように書かれています。

   『人間の運命の半分は、生まれ変わりの過去の世代において行為し思想しきたった
   総決算の「次期世代」への引き継ぎであり、残りの半分のうち二分の一は、
   自己の努力によって思考し行為することによって新たなる成績がそれに追加される』

   そしてその残りは、本人の努力や信仰や思想に応じて感応してくる霊界の高級霊が、
   いまだ現象に現われていない運命のフィルムを霊界で修正されるのだ・・と。
   ここにね、私たちが先祖供養をする意義があるのです。

   先祖の礼拝を鄭重にしてその加護を受けること。
   それが運命の好転には是非必要なんですね。
   善業を積むことが即ち善果を刈り取ることになる。

(5)この聖経『甘露の法雨』は素晴らしいお経で、
   かつて谷口雅春先生は「小さくは個人の病いをいやし、大きくは国家の大病、
   世界の大病をも癒すことができるのである」と仰ったことがあった。

   大東亜戦争の終戦の時に、近衛師団の反乱があり、田中静壹大将が、紫の袱紗に包んだ
   『甘露の法雨』を打ち振りながら、諄々として天皇陛下のみ心を説かれた時に、
   反乱が収まったでしょう。

   田中静壹大将は観音様を信仰しておられた方で、
   ご自身が『甘露の法雨』で救われた経験から、「素晴らしいお経だ」と感嘆されて、
   肌身離さず『甘露の法雨』を持っておられた。

   そのお蔭で、天皇陛下の終戦のご詔勅を放送することができ、無事に終戦にできた。
   即ち日本が救われたわけです。

   このような素晴らしいお経でありますから、
   どうぞ、しっかり先祖供養をなさってください。

   ご清聴、有難うございました(拍手)。


          <感謝合掌 平成27年12月1日 頓首再拝>

心のやすらぎ~宇治 - 伝統

2015/12/02 (Wed) 19:53:42


本流宣言掲示板 より
2012年08月19日(by 宇治茶 さま)

心のやすらぎ ~歴史をひもとくにあたって~ 

宇治別格本山総務・宮司 楠本加美野


昭和60年3月末日、突然、飛田給より宇治に転勤になった。
重い責任を感じ、日々なれない仕事に追われていたが、河口湖や飛田給では得られぬ
「心のやすらぎ」を感ずることができた。

大きな力によって動かされているという安心感がわいてくる。

当時、たまたま何もわからないまま『魂のふるさと-宇治』の編纂委員長となり、
宇治別格本山の担当者より「あとがき」を依頼された。
私は早速、原稿を通読した。

一気に読了して宇治へ来て感じた「心のやすらぎ」がどこから来るかわかった。

この書には、宇治別格本山の誕生から今日に至るまでの歩みが書き尽くされていた。

それは谷口雅春先生、谷口輝子先生の御文章が主体となっており、
他の道場には見られない貴重な資料に基づいて書かれている。
谷口雅春先生、谷口輝子先生の宇治によせられるなみなみならぬ御愛念を感ずることができた。


谷口雅春先生は当時の「明窓浄机」に宇治を絶讃しお書き下さっている。
その一端を紹介すると、

「重労働の献労をしながら、それが治ってしまったと云うのは、ただ事ではない、
屹度、フランスの『ルールドの聖泉』のように聖霊の天降っている
聖地だからだと思えるのである」

「飛田給練成道場とはまた別な種類の体験がえられつつある。
それは一つには土地の雰囲気の影響あるのであり、面積が広く、風光が明媚で
古来宗教の道場として多くの高僧がこの地を選んで修行をして黄檗山等の多くの
名刹を建立した地」

である、と。

私は、47年前に飛田給から嘉村俊凞先生と共に宇治に赴任した。
献労を主とした練成をやり、山を崩し谷は埋められた。

その間『生命の實相』より“罪”の項を抜粋して『人類無罪宣言』を編纂、
信仰を確立することができた。

昭和39年、河口湖の責任者となり、宇治から離れた。


飛田給も河口湖も創立当時とはすっかり変り、民家が周囲に密集しているが、
宇治は47年前と同じ自然の環境にまもられていた。

私の部屋の目前には、御所山の原始林が屏風のようにそびえている。
真偽の程はわからないが天皇の御所があったと聞いたことがある。
この山は私達の山崩しの献労をいつも見まもっていてくれた。

献労中に連発していた“ありがとうございます”の声をこの山は静かに聞いていてくれた。
悠久に変わらない宇治川の流れ、山々のたたずまい、山王山の奥域には宝蔵神社、
下流に平等院、対岸には興聖寺、その下流には黄檗山万福寺があり、
宇治こそ歴史と宗教の町である。

めまぐるしく変化する現代社会に生きる人達にとって、
宇治はまさに「心のやすらぎ」の場である。

谷口清超先生は、宇治別格本山を生長の家の全体からみると仏間であるといわれている。
古来日本人は先祖を尊び、祖先を中心として一体になって生活をしてきた。
一家の大事があると祖先のお護りを願って仏前に坐り、喜び事があると先祖に報告し感謝した。

先祖が祀られている宇治別格本山を訪れると、表現し難いなつかしさを覚え、
ふるさとに帰ったような「心のやすらぎ」を感ずる。

「宝蔵神社神殿捧堂の祝詞」の中で谷口雅春先生は、
次のように宇宙本源の大神に祈っておられる。

「今より後は一層に人類光明化運動の道に栄光を弥や増し給ひ 
これらの諸霊が世界平和に貢献し得て人類悉く道に迷はず争ふことなく清く明き心にて 
愈々神仏及び祖先を敬い 顕幽相携へて大神の経綸を扶翼することを得るよう導き給へ」と。


宝蔵神社に祀られるという事は、大神の御導きの許に霊界から人類光明化運動に参画することで、
所謂お寺や霊廟にお祀りするのとは意味が違って、全国信徒の祖先、既に霊界に往かれた信徒が
霊界より人類光明化運動をしているのである。


谷口雅春先生は次のように御教示下さっている。

「生長の家の人類光明化運動には人間だけが参加しているのだと思うとまちがいでありまして、
霊界における高級のスピリットが参加していて、霊界からこの光明化運動を護念している
のであります」(『生命の實相』第二十一巻)


”魂のふるさと”に帰り、神の御心のままに運動を展開する事が大切と思う。
祖先を祀り霊界浄化の使命をもつ宇治別格本山の使命は益々重大であるといわねばならない。


昭和35年8月、宝蔵神社の落慶式で谷口雅春先生は、
宇治別格本山の“奥の院”に住吉神社と稲荷神社を建立する計画を発表なさった。
ところが住吉神社を建立する計画は変更になり、神癒の社入龍宮幽斎殿が建立された。

『生長の家五十年史』には、
「龍宮住吉本宮・出龍宮顕斎殿」と「入龍宮幽斎殿」について次のように書かれている。

「住吉大神が出御されるためには、吾々は一度“無”の門関を超えて、龍宮界に超入し、
真の意味で新生しなければならないのであり、その目的のために建立されたのが
入龍宮幽斎殿であったということが出来る。入龍宮幽斎殿の建立から住吉大神の顕斎への道が
具体的に開始されたと言うことができる」


昭和53年「龍宮住吉本宮・出龍宮顕斎殿」の建立、
顕幽両界の光明化の願いをこめて3年後には「龍宮住吉霊宮」が建立され、
また御心の天になる世界が地上に顕現する願いをこめて、
昭和57年「完成の燈台」が建立された。

大聖師谷口雅春先生の「顕幽相携えて大神の経綸を扶翼する」願いは、
このように実現されたと拝察される。 

平成15年9月

          <感謝合掌 平成27年12月2日 頓首再拝>

因果を超越する - 夕刻版

2015/12/03 (Thu) 19:26:49

光明掲示板・第一
2012年10月16日(by 縹 さま)

『因果を超越する』 楠本加美野先生ご講話メモ


・罪本来無し
・苦行は悟りの因にあらず
(悟るためには苦行というのは×。 苦しまなくていい。 人間は神の子だと思えばいい)

・犠牲不要 キリストが十字架にかかったのは人類の為× 犠牲尊い×
(神様はすべての人の幸福を願っている)

・神罰無し←自分に宣言すること  
      バチが当たると思わないこと
      (バチではなく、苦しまなければならないと自己処罰している)


 キリスト教は、罪、罪人を強調する。
 恐怖心を無くすことに宗教の使命があるのに逆のことをしている。

 神の子なんだと思うことが大事「あなたのような素晴らしい人は、これを読めばわかるよ」
 という勧め方をする

・因果の法則を生きるのは×  「私のどこが悪いんでしょうか?」という思考は×
 因果を超越するところに、本当の宗教の使命がある
(子孫が絶えるという因果があったが、因果を超越して子供が授かった
 『人類無罪宣言』←『生命の實相』の真髄)

 業は、潜在意識の中につかまれているだけ


36p 健不健は、心の法則によって出てくる
   因果の法則も心の法則も、現象の法則

37p 光そのものの中には影がない
  (影が映るのは、光があるから
   影のところは、光が無いから
   現象界がこの世に顕現しているのは、神があるから)



「現象顕現の法則」

光=神 輝く身

相―光明一元
理―影を映す

善業・悪業(念の集積)だんだん大きくなる

「因果の法則」
因―寒いと風邪をひくと思う
縁―寒い
果―風邪をひく

実相の完全さを映すように運命づけられている

前世で夫婦喧嘩ばっかりしていると、そんな親の元に生まれてくる
 ←感謝した時に消える。両親は、前世の業を消してくれる観世音菩薩

「業の浄化作用」
神の摂理によって、業の濾過作用が行われる 生まれ変わりごとに、魂が高まる

50p 物欲、肉欲をもって生まれて来る 利己的
52p 相手を神の子として拝む程、善業はない
53p 石炭―石なのに燃える―木だった業の流転

現象中進化の大原動力
人間も、業を恐れるに足らず―現象人間進化


悪念を積むと→心が神に向かう
それはなぜか・・・業の流転の奥には、神があるから
映像が次第次第に、実相の完全さを映し出すように運命づけられている
つまり、幸福になる運命
だんだん神様に近づいていく


「ゼンマイ」
56p悪いことをした、という事は、因が消えた、という事

 悪くなったという事は、悪い原因が消えた、良くなった、という事
   ←そこで、「悪い、悪い」と思うと、業が深くなる
 悪くなればなる程、良くなるのだから、良くなる、と、喜べ


青空が神―雨が降ると雲が消える。青空は消せない、神の子は消せない

聖書に―「あれは誰の罪で目くらになったのか?」「神の栄光があらわれようとしている」

あなたの魂が飛び越える為に、神から与えられた
今こそ神の栄光があらわれんが為なりと思えばいい

念の集積が因となって


129p 「因果を超越する為には」
愛念を起して、感謝すれば、因果を超越出来る

第一に、親に感謝 
子のことで心配なら→親に感謝=親ってのは、こんなに自分のことを心配してくれていたんだな

親に感謝するのが、一番やさしい
親に感謝出来なかったら、誰にも感謝出来ない
(しかし、父への憎しみをどうすることも出来なかった。
父と同じことをしようとしている自分を責め、自分を嫌悪していた。
父がああだったから、自分がこうなったと思ってしまう。
自分を責めると、父を責める。悪循環。
「ありがとうございます」と祈っていると、相手の気持ちがわかってくる)

・酒を飲まずにおれない父の気持ちを分かった時、愛せる―それが愛
 ←愛さないと感謝出来ない←感謝していると分かってくる
(父は、辛かったんだ。酒飲んでいるのが辛い、
 辛いから飲んでいる。神の子であるがゆえに辛い)

・親を愛するとは、親がどれだけ自分の事を愛していたか、分かることが、親を愛すること

・親から愛されていないと思っている人は、親を愛していない人

(こんな気持ちになれたのは、加害者のお蔭。父の辛さが分かった。加害者よ、ありがとう)


 このように、業の流転の為(この奥には神の愛がある、神の栄光の現れんが為なり)に、
 父に感謝出来た(父の苦しみを自分の苦しみとして感謝できた→因果を超越出来た)
 子にも感謝出来た。


 一番辛いのは、子供を残して死ぬこと。
 あの世から子供を見守っていた。それが分かった。
 供養―愛と感謝で通じる

 どんな気持ちでいるだろうか

 霊界で御教えにふれる→亡き母の導きで妻が帰ってくる

―愛の気持ちで、お互いの為に祈る。祈られるほうも素晴らしい―

          <感謝合掌 平成27年12月3日 頓首再拝>

流産児講話 - 伝統

2015/12/04 (Fri) 19:47:08

光明掲示板・第一
2012年11月07日

流産児講話 ~ 楠本加美野長老

中絶は殺人・・・・
  まずこれを認めないと懺悔にならない

で、この懺悔という事ですがね、
懺悔という事ですが、

中絶は・・・殺人なんだと。
中絶は殺人である。
中絶は殺人。

まず、これを認めないとね。
懺悔にならないね。

「中絶は殺人なんだー」と。


胎内の子供は明らかに人間の子・・・・
      堕胎罪があり勝手に堕胎すると罰せられる

『限りなく美しい』(谷口清超先生著)という本の104ページにですね
書いてありますけどね。

≪胎児はまだ生まれていないから、
殺人では無いと言う人もいるだろう。
しかし、胎内の子供は、
明らかに人間の子であり、
猿の子でも豚の子でも無い。

だから日本の刑法でも、
堕胎罪というのがあって、
勝手に堕胎すると罰せられる。


≪日本の「優生保護法」によって、
“ある条件の下で”中絶が認められている。≫

ある条件下に認めているだけで
      ・・・・中絶は殺人

ある条件の下に認めているだけであって、
これは殺人なんだーっていうわけね。

「中絶は殺人なんだー」っと。
これが分らないとね、
なんか堕した、堕して良い事してる
と思ってる人は居ないけどね。

あんまりそんなにね、
悪いことしてるとも思っていないでしょう?
殺人なんだーって事ね。

水は涙、洪水は涙・・・・
    出来た子みんな堕す・・・その涙

それからね、『行き詰まりは無い』っていう、173ページにあるけどね。

これは、中国にでね、
大洪水が起きたんです。

44年ぶりの大洪水が。

水は涙である、
って言うんです。

悲しみ、悲しいと
涙出るでしょ?

だから、寝小便なんては
子供がね、寝小便すると
親の涙だと言われてるね。

だから、水は涙である。
洪水って言うのは、涙なんだと。

それでは、何の涙であるか、と言うとね。

大体中国では、一人っ子政策っていうのをやってるでしょ?

一人っ子政策ってね。

もう、一人しか産まないって言うんです。

そうすると、出来た子みんな堕すって事になるでしょ?

その涙なんだって言うんです。


流産児供養塔建立の祝詞・・・
    人工流産にて流し棄つるもの
        毎年二百万以上に及ぶ

で、ここに、
≪宇治別格本山には、流産児供養塔が建立され、
毎年八月中旬には、招霊供養大祭が行われている。≫
その祝詞にね、これは谷口雅春先生のお言葉ですね。

祝詞にあります。

『行き詰まりは無い』173ページより
≪近頃わが國に於いて経済的困難な事を理由に、
折角大神より神聖受胎を受けし婦人たち、
その受胎する胎児を人工流産にて流し棄つるもの、
その数毎年二百万以上に及ぶといふ、
流されし胎児のうちには、
既に高級霊にして迷いなき霊もあれども≫


救はれんと諸霊の無念の想ひは災厄を引き起こし
           ・・・救って貰いたい、祟りじゃない

≪そのうちの数多き霊は、
折角地上に降誕して現世(うつしよ)に
定められたる己が使命を完うして、
いっそう高き進化をとぐべき
目的にて受胎したるに拘らず、

不慮の堕胎の厄に遭ひ、
つひに此世を去るに至る、
此等諸霊は、或は無念の想ひに、
世を咒ひ、人を咒ひ、或いは悲しみ歎きて、
涙も絶えるひまもなく、

或いは親族縁族にたよりて救はれんとするにより、
彼等諸霊の無念の想ひは、
此世に色々の災厄を引き起こし≫

ね、「救われんとするにより」ですよ、
救って貰いたいからですよ、

祟りじゃないんだね。


悲しみ歎きの念は、水に具象化して、
     洪水、高潮、津波などの水渦となり

≪救はれんとするにより 
彼等諸霊の無念の想ひは、
此世に色々の災厄を引き起こし、

その悲しみ歎きの念は、

水に具象化して、
洪水、高潮、津波などの水渦となり≫

書いてあるね。
洪水、洪水ね・・・
洪水ね、高潮ね、津波・・・
洪水、高潮、津波、ね?



頭据わらず、手脚不自由、
       知能未発達の患者を生ず
               ・・・・・小児麻痺

≪津波などの水渦となり、
尚胎児として頭据わらず、手脚不自由、
知能未発達の患者を生ず≫

小児麻痺ね、そういう症状、
だから谷口先生の祝詞ですよ。

≪この現幽両界の惨事を見るに忍びず、
 有縁の人々の淨志により、
   この淨域に一大供養塔を建立し≫



36年全国無縁流産児供養塔建立、
       37年日本の小児麻痺が半減

これが、これね、供養塔、これね。
だから、昭和三十五年にね、この宝蔵神社できたんですよ。

で、三十六年にね、
全国無縁の流産児の供養が出来た。
そしたら三十七年にはね日本のね、
小児麻痺が半分に減ってるね。

だから、あそこへね、
この全国無縁の流産児の供養塔が
出来たってことはね、
日本の国に非常に
大きな影響を与えてるんだ、
ということが言えますね。

          <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その1) - 伝統

2015/12/05 (Sat) 19:41:44


光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生

河口湖道場では昭和四十四年から伝道練成というものを始め、
近頃は 大分人が集ってくれるようになりました。

伝道練成だから、伝道の方法、つまりどんなふうに相手の家を訪問し、 
向うがこう言ったらこう答えて、ああ言えばこう言い、そして最後に 
受講券やテキストを買わそう、そんな何か手段や方法を勉強しようと思って来ている人も多い。


しかしそうじゃない。伝道精神を体得して貰うことが 眼目なのです。
では、その伝道精神とは何か、それをお話したいと思います。

伝道に行きますと、大概は断わられる。
最初やる気充分の人も断わられるたびに元気がなくなり、
10軒も断わられると零になってしまう。

そうではなく、断わられれば断わられるほど、益々やる気が出てくる、
これこそが 伝道精神なんです。朝から晩まで廻っても全部断わられた。
それでも益々やる気が 燃えてくる、こういう人が伝道の名人なのです。


そうなれば、誰でも気楽に伝道できるでしょう。
あの人は素晴らしい、こんなに 本を売ったよ、ということばかりもてはやされると、
本を売る名人だけが伝道をするようになる。

それでは不完全で、今は全ての人を
いかに伝道者にするかということが大切なことなのです。


如何に伝道する人を増やすかということが、
伝道を上手にさせることよりもなお大切なのです。


方法は、やっているうちにひとりでに会得でき、上手になって行くものですから。


伝道精神の養成でまず重要な事は“真の伝道者は伝道者をつくる”と いうことです。

“真理は伝道するとき、はじめて生きて来て自他を利益する”と
谷口雅春先生は教えて下さっていますね。

ここが大事なところで、なぜ伝道が大事なのかがよく解ります。


そこで、伝道者として、また伝道者を育てる上に欠かせない自覚、
それは 次の2点だと思います。


一つは、“神吾を選び給いしなり”という使命感、

つまり、自分がこの生長の家に入ったんじゃなく、神様が自分を必要となさったから 
こうして生長の家に触れたんだという、選ばれた使命感というものを如何に 
徹底するかということです。


もう一つは、『法華経解釋』に書かれている
“利己的信仰者は人生問題に遭い、 利他行に還る”ということです。

個人指導のとき、皆さん色々な悩みを訴えられる。
その時、“あなた、こういう利己的なことがあったでしょう、だから問題が起きた。

これを懺悔して利他行にかえれば問題は解決しますよ”と指導する。

これで、病気であろうが、家庭不調和だろうが、事業の失敗であろうが、何でも解決します。
つまり個人指導のときに伝道者にしてしまうわけです。

そうして、神様があなたを必要としたからこそ、問題が生じ、生長の家の真理に 
触れさせられたという、選ばれた使命をよく自覚してもらうよう指導することが大切で、
この2点が伝道精神を育む基本です。

          <感謝合掌 平成27年12月5日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その2) - 伝統

2015/12/06 (Sun) 19:14:32


光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生



  「行ありて願なきは仏の魔事なり」
 
これは昭和44年の青年会全国大会での谷口雅春先生の結語の中の お言葉です。

行というのは、神想観とか、聖典読誦とか愛行ということで、これはもちろん大切ですが、
これをどんなに一所懸命しても、願が正しくなければ、仏の魔事になるということです。

 
大牟田の村上さんという方は、
息子さんがノイローゼのため河口湖道場に 練成を受けによく来られた。

後日その村上さんに九州でお会いした時、
「息子さん、どうしましたか? 」と訊いてみました。

「お陰ですっかり快くなり、今では元気に働いています」というわけです。

息子さんが悪くなって入院したときにハッと気がついたことがあったというのです。

それは、この悪い息子を治そう治そうという願いが間違っていた。

息子は神の子だったんだ。
私がこうして生長の家の修行ができたのは、 息子のお蔭ではなかったのか。
悪い息子と考えて、息子はどんなに辛かったことだろう。

申訳なかった。そう気づいて、飛んで行って息子の前に両手をついて詫びた。

「長い間あんたを悪い悪いと思って済まなかった。あんたは神の子だった。
お母さんを導くために、そんな姿になって現れて下さったのか、本当にごめんなさい」とね。

すると息子が「お母さん、やっと分ったか」と言ったそうなんです(笑声)

それっきり息子さんのノイローゼは治ってしまったというわけです。

これは「願」が間違っていたのですね。
この悪い息子をどうしたら治すことができる だろうか。
百部一括したら、いやニ百部一括したら治せるだろうか・・・・

それで20年間やって来た。
ところが、信仰の世界では、願が間違っていたら 
どんなに形の上で一所懸命やっても効果が上らないわけです。

人の子の願いではなく神の子の願いを持たなければならない。

どのような現象が現れていようとも、それに引っかからず、実相に立脚して、
光の展開を願う「願」を正しくもつことが大切になるのであります。

大概の人は最初生長の家に入って来るときは、病気を治したい、金を儲けたい、
子供を良くしたいとか、そういう願いを持って入って来る。

ところが、その願いを、いつまでも続けているとそれが魔事になってしまう。

その願いをいつ正しい願いに変えるかが 重要なので、そこで初めて神の子が顕れて来る。
この、正しい願への切換が、伝道者になるための必須条件であると思うわけです。


          <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その3) - 伝統

2015/12/07 (Mon) 19:09:33

光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生


 
生長の家の「七つの光明宣言」の第一条に“生命の礼拝”ということが挙げられています。
これが御教えの中心だと思います。

個人指導をしておりますと、問題は人生百般に亙る。親不孝などの問題だと、
私は得意中の得意ですが、例えば事業に失敗したとか、どう指導すればよいのか
難しい問題もあるわけです。

しかし、この“生命の礼拝”という一点が把握できますと、
どんな問題でも解決の道はこれ一つで充分だということが解りました。

つまり、生命礼拝ということは、天地一切のものと和解せよということです。
天地一切のものに感謝しなさいということです。

これは教えの中心であると同時に伝道の中心でもある。

だから、伝道というのは、生命を礼拝することなのです。
生長の家の人どうしでは、“有難うございます”と拝みあうが、
伝道というのは生長の家でない人をも拝もうということで、それは形ではない。

伝道に行くと、色々な人が出て来る。
“また来やがった”と凄い顔して出て来る人もいる。

たとえどんな人が出て来ようと、
“ああ、いい人だなあ”と思えるかどうかが肝腎なところです。

変なのが出て来たから拝んで良くしてやろうなどと思うようでは、
益々反発されるだけです。


祝福というのは相手の幸福を祈ることですから、
根本に相手を神の子として拝む気持、すなわちこの生命の礼拝がなければ、
本当の祝福にはならない道理で、ここが伝道を実践するときの基本となるわけです。


          <感謝合掌 平成27年12月7日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その4) - 伝統

2015/12/08 (Tue) 19:50:05


光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生

 
さて、その宣言の第一条の続きに、
「生命の法則に随順して生活せんことを期す」とあります。
この生命の法則に従った生活をするとき、無限生長への道に叶う。

全ての人には必ず、もっと良くなりたいという向上心というものがあり、
無限生長を願っていると言えます。そのためには生命の法則に順って生活すればよい。

その“生命の法則”が説かれているのが、
『生命の實相』であり、神誌であり聖典であるわけですから
「この本に書いてあるんですよ」と進めることが、次に為すべきことになるわけです。

“文章伝道”が生長の家の伝道方法ですからね。

生長の家の素晴らしさは、全人類の光明化を目ざすところにあります。

皆さんが伝道に出かけますと、キリスト教会もあるし、創価学会の家もある、
それこそ色々な家がある。しかし、創価学会の人であろうが共産党であろうが
皆全人類の一人です。省略しちゃいけない。

伝道していると、留守の家もあるし、役場に行き当たることもある。

「おい、これちょっと入りづらいな、やめとこうや、まだ他に家は一杯あるじゃないか」
・・・これはいけない。みんな素晴らしいんです。役場なら役場が素晴らしい。

そういう人間智で、いいとか悪いとか言うことは迷いです。
進めないうちに、“あの人は進めても無駄だ、やめとこう”
なんて言っていると進める人がなくなってしまう(笑声)

だから、人間智でもって最初から無駄だなどと決めて省くのは、
全人類の光明化という生長の家の根本精神に反するわけです。

伝道練成に来た人でこんな人がいました。
子供の頃噛まれたのがもとで犬嫌いになりこ猫のように小さな犬でも怖ろしいという人でした。
その人が伝道に歩いていて、目の前に“猛犬”と書いてある家にぶつかった。

さあ困った。
省略してはならないし、猛犬なんて字を見るだけでも震えが来る。
考えたあげく、“そうだ、犬と和解しよう”と思いついた。

「私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました・・」と、
その人は一心に和解の祈りをしたそうです。
伝道というのは時間がかかりますよ。(笑声)

そうして、「門番御苦労さま、有難うございます」と犬に感謝しながら庭先に入った。

するとやはり凄い犬がいた。
ところがその犬がニコニコして迎えてくれたというのです。(爆笑)

これが皆さん、無限生長の道なんですよ。ここが大切なんです。

その人は御主人と仲が悪くて、練成を受けに来ていたんです。
犬と仲が悪いのは幼い時から、御主人とは、結婚してしばらくしてからでしょう。

“犬と仲良くなれたんだから、主人と仲良くすることなど
大したことじゃないわ”とふっ切れて、その人は素晴らしくなったんです。

本当にどこに救いがあるかわかりませんね。
犬を避けてその家をとばしていたら、こうは行かない。

          <感謝合掌 平成27年12月8日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その5) - 伝統

2015/12/09 (Wed) 19:22:28


光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生


  神 吾を選びしなり

谷口先生御自身が『生命の實相』の中に次のように書かれています。

「これは、神が起された運動であるということがわかったのであります」と。

「わかったのである」ということは、それまではわからなかったということですね。
谷口先生はそれを四十何年か前にわかったのでしょうが、私たちにも愈々
“これは神様が起された運動である”ということが解る時が来た。

そしてそれを解って運動をしなければならないギリギリの時が来ているのです。

これが本当に解ったときに、冒頭で述べた最も大切な自覚である
「吾 神を選びしにあらず、神 吾を選び給いしなり」ということが信じられる。

伝道の根本はここで、これが本当に解ったときの喜びが信仰の神髄でもあると思うわけです。


 「諸君よ、選ばれた使命をゆるがせになしたまうな。時は過ぎ行く。
“後なる者先とならん”

わたしはあの信仰深きキリスト教徒が戸別訪問しながら聖書を売り、
入信を勧めて歩く熱心さに心を打たれ襟を正す。
諸君も、光明思想をひろめるのに、この熱心なキリスト教徒をならって
下さることを希望する。

希望は実現の母である、わが希望は必ず実現する。
信じて望めば能わざることは一つもないのである」



『生命の實相』第一巻にはこうお示し下さっています。

「選ばれた使命をゆるがせになしたまうな」という御文章は
『生命の實相』のここにしか出おりません。

最も具体的に、選ばれたる者の行くべき道をさし示して下さっているわけで、
河口湖の伝道練成も、ここに拠って始められたのです。

ところでこの生長の家の練成ほど人生の縮図はありません。色んな人が来る。
時には道場破りのような人も来ます。
あっちの道場こっちの道場と巡って品定めをしている。

(笑声)そういう人がこの間も河口湖へ来た。

「私は練成を受けている時はいいんですが、帰ると段々冷めちゃうんです。
冷めると練成へ来るんです。
なるべく冷めにくいところへ来たいと
思うんですが、河口湖はどのぐらい保つでしょうか」と言う。

練成道場を温泉みたいに思っている(笑声)

「君は入信の動機は何だ」
「それを言われるとお恥ずかしいんですが、刑務所の中で触れました」
そこで私は、「何と素晴らしいじゃないか」と言ったんです。

「生長の家の信者は沢山いるけれど、刑務所の中で触れたなんていうのは十万人に一人ぐらいしか
いないだろう。君は神様から選ばれて刑務所に入ったんだぞ」

「そう刑務所刑務所と言われると、身が縮む思いがします。しかしこれは初耳です。
どういうことでしょうか?」

「この生長の家の運動は全人類を救わなければいけない。
全人類の中には刑務所から出た者も沢山いる。その人たちを救う使命が君にはある。
そのために神様は君を刑務所に入れてまで生長の家に触れさせたんだ。

その自覚をしなさい。その自覚とともに君の使命に
邁進した時に、君はもう冷めることはない。温まりっぱなしだ」(拍手)


皆さん、この、人類から劣等感をなくするのが光明化運動なのです。

その劣等感はどこから来るかというと、過去の失敗から来る。
『あなたは無限能力者』の本に次のような谷口雅春先生の御文章が引かれています。

「失敗を自分の無能力に直結させるところから劣等感が生れる」と。

劣等感をもっていると、いくら生長の家をやっていても幸福にはなれないんです。

過去の失敗は、それを利用して同じ失敗をして苦しんでいる人々を救うために、
神が為さしめ給うたのだと自覚を新たにして、伝道に邁進して素晴らしくなった人は
河口湖に来た人の中には一杯います。

女道楽の限りを尽し、奥さんに連れられて伝道練成に
来られた大友さんなど、今では三角関係解消の名人です。

このように、生長の家に触れたことによって、
過去のぬぐい難き劣等感をなくすることができる。

その人の人生の暗い影が、みんな世のため人のために使うことができるところに、
生長の家に入った喜びがあるのです。

“神 吾を選びしなり”の自覚がどんなに大切であるかがお分かりになると思います。


          <感謝合掌 平成27年12月9日 頓首再拝>

「伝道こそ信仰の生命」(その6) - 伝統

2015/12/10 (Thu) 19:10:17


光明掲示板・第一
2012年12月01日(by わたしも生政連復活希望です。 さま)

新春伝道講話  
 
  「伝道こそ信仰の生命」~ 楠本加美野 先生


《神は献身を要求し給う》  

中には、「私はまだ病気がよくならないから、治ったら伝えます」とか、
「“生命の實相”をもっとよく読んでから伝道します」とか言う人がいる。

また、「自分は教養がないし、地位も何もないから伝道に自信がない」と
言って尻込みする人もいる。

ところが、そういう、信仰が浅いとか深いとか、病気が治っているとかまだだとか、
あるいは、学問や地位があるとかないとか、話がうまいとかへただとか、
そんなことは、神様は、選ばれた人に要求し給わない。

神は献身だけを要求し給うのです。

実際、伝道に出てみるとわかるのですが、伝道には地位も肩書きも通用しません。

そういう意味では、大変厳しいものです。
伝道に必要なのは心から相手の幸せを祈る愛と、
神への無条件の献身、これあるのみです。

これが唯一無二の、選ばれた使命を果たすための条件です。
神様、こうして下さい、ああしてくださいという祈りをなくすることですね。

神様どうぞ私を自由にお使い下さいと願う祈りこそ、最高の祈りなのです。

この願いこそ本当の願であり、他のものは何も要らない。
純粋に“神様のお役に立たせて下さい”と祈るとき、
あなたの願いは神様の願いと一致する。

それを神の子と言うのですよ。他のものは何もいらない。
これさえあれば伝道者として既に充分であり、また、信仰者として充分であり、
そして、人生の目的というものも結局ここにあると私は思うのであります。

皆さん、私たち高級霊は一日を終るに当って、生長の家のお陰で金がもうかった、
うまいものが食べれたぐらいじゃ喜べないですよ。

高級霊の喜びは、今日一日神様のお役に立つことができたんだという喜びですよ。
この時に、神の子の純粋な喜びを神より幸えていただけるのです。

私も六十年間、ひたすら練成で行きぬいて来ていますが、
一番うれしい練成会は、本当に神意を実現できた練成です。


          <感謝合掌 平成27年12月10日 頓首再拝>

土を通して祖先の心が - 夕刻版

2015/12/11 (Fri) 19:36:56

光明掲示板・第一
2012年12月10日(by 童子 さま)


「土を通して祖先の心が」 楠本加美野 本部講師

 
建国以来三千年、百二十四代の天皇の中でお一人でもいらっしゃらなかったら、
今日の日本はなかったのだと、これほど、一人一人の心に深く刻み込まれたことはなかった。

各御陵前でただ感涙にむせんだ。
その天皇の御徳をたたえる言葉、天皇の御製は心に深く焼きつけられた。

 
御陵前にひざまづいた時、今、坐っている同じ場所で、
同じ様にぬかづいたであろう祖先と一つになることができた。
その土を通して祖先の心がつたわって来るようであった。

祖先の心そのまま、どの御陵も少しもそこなわれることなく、現在まで護られているのだ。
そこに祖国の偉大な姿、中心帰一の真理を地上に顕現した真理国家日本の姿を見出すことができた。

四日間の御陵巡拝はさながら三千年の歴史を生きたような感に打たれた。
どの御陵も、その時代を反映した所に、ふさわしい形式で築かれているが、
いづれの時代でも萬世一系の天皇に誇りをもって、
天皇を中心とした一大家族国家として日本は築かれて来た。


しかし終戦後の日本の姿は、どうであろうか。

占領軍の弱体化政策によって、天皇の歴史的存在を知らない青年が多くなり、
御陵の存在はすべての国民から忘れられた。

しかし御陵巡拝に参加していただき、
歴代天皇に感謝することによって日本の真の姿を見出すことができる。

如何に私達の使命が重大であるか、生長の家出現の歴史的必然性が魂の底から自覚された。

          <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

先祖は、子孫の「生命の根」 - 夕刻版

2015/12/12 (Sat) 19:19:53

光明掲示板・第一
2013年07月17日

【先祖は、子孫の「生命の根」】

     *楠本加美野・長老インタビュー記事(白鳩誌No.40)より抜粋

谷口雅春先生は先祖供養の意義を「木」にたとえて、

「大地は神様、根は先祖/  幹(みき)は両親、子孫は枝葉(えだは)/
       枝葉に花咲き、よき果を結ぶは/  親に孝養、先祖に供養」

と表現されてました。

先祖は私たちの生命の根であり、根が枯れると枝葉は枯れてしまいますが、
根がしっかりしていれば枝葉は繁茂します。

子孫の繁栄は先祖のおかげであり、根に肥料を与えるということが、供養にあたるわけなんです。

・・・・

【供養は、生きている家族に接する気持ちで】

     *楠本加美野・長老インタビュー記事(白鳩誌No.40)より抜粋

供養とは問題解決のためではなく、
あたかも生きている家族に接するように先祖に接し、
感謝することなんです。

自分がこの世に生を享けたということは、父母がいる、その父母にも父母がいる。
二十代遡れば、百万人以上もいることになる。
その内の一人でもいなかったら自分は存在しないわけです。

こんなたくさんの先祖から生命を受け継いで、自分がここに存在している。
このことに思いを馳せれば、どれだけありがたいことかを実感できるのではないでしょうか。

仏前や神前で聖経を誦(あ)げることは、先祖に感謝の念を伝えるだけでなく、
実は自分自身の魂にもそれを伝えていることになるんです。

自分と先祖がともに「神の子」を自覚して力を携え合うことで、
私たちの運命はますます明るく開けてきます。

          <感謝合掌 平成27年12月12日 頓首再拝>

すべてが有難い - 伝統

2015/12/13 (Sun) 19:39:16


光明掲示板・第三
2014年09月17日

           *楠本加美野先生の講話より

(1)「ありがとうございます」を潜在意識に入れる

   だからね、「ありがとうございます」 なんてのもそうですよ。
   「ありがとうございます」 なんで、ありがたいなんて言うんだろうか、
   なんでありがたいなんて言うんだ。

   解らないな。
   それじゃあ、ありがたくなるまで、やらないでいようかって人が昔いたね。
   皆“ありがとうございます”やってるのに、ひとりで「こんにちは」ってやってるんです。

   解らなくてもいんですよ、
   何回も何回も、何回も何回も。

   まあその点はここは、
   朝から晩まで一番言う言葉は「ありがとうございます」でしょ、ねぇ。

   そうするとね、
   知らず知らずの間に潜在意識に入っちゃう。
   「ありがとうございます」


(2)なんでありがたくもないのに有り難くなったか

   この間もね、手紙きましたね。
   うちに帰る途中、電車に乗ったんだって。
   そしたら電車の中で足踏まれちゃったらしいね。

   帰ったばっかりに、
   そうしたらね、出てきた言葉に
   「ありがとうございます」って出てきちゃったんだって。
   自分でびっくりしちゃったんだって。

   今まで足踏まれたらね
   「痛い!気をつけろ」
   って言ってたんだって。

   ところがね、練成帰って足踏まれたらね、
   「ありがとうございます」
   自分でびっくりしちゃったんだって。

   何でありがたくもないのに、有り難くなっちゃったのかって。
   それはね、潜在意識に入っちゃう。

   これね、10日間ね
   “ありがとうございます、ありがとうございます”
   やってるでしょ。

   そうするとね、潜在意識に
   “ありがとうございます”
   入るとね、何でも有り難くなっちゃうね。


(3)何でも有り難くなったら、その人は神の子

   そうなると、もう良いです。
   何でも有り難くなったらね、 もうその人は神の子になっちゃう。
   何でも有り難くなるとね。

   「痛いなあ、ありがとうございます、痛いな、ありがとうございます」
   “ああ、これで治るんだ”
   痛いなんてのはね、熱が出るとか、それは治す働きなんですよ、皆さん。

   生長の家ではそういうのは、治す働きなんですよ。
   だからそれで良くなるんです。

   「ああ痛い、ありがとうございます、これで良くなるんだ」
   「ああイタタタ、ああ、ありがとうございます、これで良くなるんだ」


(4)何が起きても有り難いと思えばいい

   みんなそうですね。
   それがね、生長の家ですよ。

   だから、ここではね
   何が起きても有り難いと思えばいいんです。
   何が起きても。

   熱が出ても。
   「ありがとうございます、これで良くなる、ありがとうございます」

   何が起きても
   「ああこれで良くなる、ありがとうございます」
   それだけ。

   そうするとね、
   もうそれもねやってる内にそんな気持ちになってきます。

   何が起きても、
   「あっ、これで良くなる、ありがとうございます。これで良くなる、ありがとうございます」
   とやれるようになってきますね。

          <感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>

先祖供養、および個別霊の供養 - 伝統

2015/12/14 (Mon) 19:32:38

光明掲示板・第三
2015年02月01日(by うしろの桃太郎 さま)


先祖供養、および個別霊の供養

<第七回>

特に、中絶児供養について(『流産児よ、やすらかに』・楠本加美野偏著

<<谷口雅春先生の御言葉にありますように、「業(ごう)というものは何処に実在しているか
といえば、潜在意識の中につかまれているのであって・・・潜在意識を浄化すれば、
個人及び家系に伝わるすべての罪業は消えてしまうものだということが証明された」のです。

 ここが大切なところです。先祖が迷っているから聖経をあげて聖経の功徳によって先祖に
悟って貰わないと罪業が消えないという考え方は迷いであって、自分の心を浄化すれば
先祖からの罪業も消えるわけなのです。

これは流産児についても言えることであって流産児があの世で迷っているから供養せねばならない
というのは間違いなのです。胎児を殺したという罪の自己処罰として自分が苦しむのです。

ですから水子地蔵をつくって流産児をなぐさめてみても、高価な供養料を捧げて供養して貰っても
自分の心の中に罪の自覚がある限り問題は解決できないわけなのです。・・・


 私は富士河口湖道場へ転勤になりました。
霊峰富士のふもとにある道場は恵まれた環境にありました。
それにふさわしく道場を浄めるため、
『甘露の法雨』を当番制によって一日中読誦する行事をはじめました。


すると観世音菩薩の像を寄付する人が次々とでてきました。
『甘露の法雨』は観世音菩薩が谷口先生を通して書かれたものですから
波長があって引き寄せられたと思われます。

あるとき千葉県白鳩会の有志が慈母観音を寄付して下さいました。
中絶児供養の願をこめてつくられたものでした。


それは昭和五十二年八月十八日のことでした。
そこで私は、九月より今まで先祖供養と一緒にしていた流産児供養を別にして、
流産児のためだけに私が祭主となってやるようにしました。
それは戦後堕(お)ろされた六千万の中絶児の供養のためでありました。

 このようにして、流産児供養を別にしてするようになりましてから、
救われる錬成参加者が続出しましたので、私自身びっくりしてしまいました。
何故そういうことになったのか、私自身不思議でなりませんでした。そ
れは、後になり谷口雅春先生より次のような御教示を頂くことにより氷解しました。


 一、諸家に関わる先祖の御魂と流産児の御霊とはおのずから位が異なるので、
   それぞれにふさわしき供養をする。

 一、練成会で先祖の御霊と流産児の御霊とを合同で供養する場合には、
   “降霊の儀”において、まず諸家に関わる先祖の御霊達に降りて戴きたる後、
   「ただ今より、実相妙楽宮地蔵菩薩傘下にある流産児の御霊達に降霊して戴きます」
   とことわりて、流産児の御霊達を次に降霊し供養する、と。

先祖供養と流産児供養を一緒にしていた為、先祖供養の気持で流産児供養をしていたり、
その逆であったりして成果があがらなかったわけです。
先祖供養は感謝・報恩の心でやり、流産児供養は愛と懺悔の心でやることが大切なのです。



同じテレビ放送でもチャンネルが違えば、何も映らなかったり、
検討外れの番組が映ったりするようなもので、一所懸命していても、
なかなかその思いが届かず効果も上がらないということを、教えて頂いたのでした。>>
(P.220-222)

          <感謝合掌 平成27年12月14日 頓首再拝>

堕胎は戦争の原因となる - 伝統

2015/12/15 (Tue) 19:24:37

光明掲示板・第三
2015年02月01日(by うしろの桃太郎 さま)


堕胎は戦争の原因となる

<<殺した者が殺されるという原因結果の法則“動・反動の法則”は結局、循り循って、
戦争となり、多くの人が殺されることになるのであります。


何故、「殺したものが殺される」という因果の法則が、戦争の形をとって来るかと言いますと、
そのような胎児虐殺の行為を敢えてする人の人生観の奥にあるのは、
「この世界はどうせ弱肉強食の世界であって、相手を殺さねば自分が殺される」という
哲学又は世界観があるからであります。


世界の軍備拡大競争も、この弱肉強食の世界観・人生観が背後にあって
それを動かしているのであります。

「或る個人又は団体が栄えるためには、誰かが犠牲にならなければならない」――
この様な世界観・人生観をもっている限り、自国の繁栄を画策するためには
他国を侵略する事を辞せないと云うことになるのであります。

世界に平和を持ち来たそうとおもったならば、このような弱肉強食の人生観、
誰かの繁栄のためには犠牲を必要とする如き人生観を排除して、

調和のある人生観――
この世界は神の創った世界であるから、
完全に調和していて、犠牲などを決して必要としない共存共栄の状態が実相である――

という生長の家式の人生観・世界観を全世界に弘め、
胎児暗殺の如き「殺害の業」を重ねる行為は即時停止するようにしなければ
ならないのであります。>>(P.209-210)

          <感謝合掌 平成27年12月15日 頓首再拝>

戦争も人類の自己処罰である - 夕刻版

2015/12/17 (Thu) 19:27:23

光明掲示板・第三
2015年02月01日(by うしろの桃太郎 さま)


<< 唯物論の人生観は、物質は有限であるから自分が裕かになるためには
他から奪わねばならない。かくて弱者は強者の犠牲にならねばならない。

弱肉強食の闘争的人生観は唯物論から来るのである。
唯物論を根本的に破摧(はさい)しなければ世界に平和などは来るものではない。
また戦争は人類の罪悪観念から来る自己処罰の結果からも来るのである。


胎児暗殺などを平気でやっていると、現在意識は平気かも知れないけれども
潜在意識は、それが殺人行為であり、罪悪だということをよく知っている。
そして「罪ある者は苦しみによって贖(あがな)わねばならない」
という贖いの観念は全人類の潜在意識に横たわる。

人工流産した者が度々それを繰り返すのも、自己をを罰するために堕胎手術を繰り返し、
ついに自分の欲する頃に、子宝を得ようと思っても得られなくなる。


米国の精神身体医学の泰斗(たいとう)カール・A・メニンジャー博士は、
罪悪観念による自己処罰のために、幾度でも自分の肉体を毀傷(きしょう)する手術を繰り返す
患者の実例を無数に、その著『おのれに背くもの』に掲げている。


多くの妻は人口流産のあと、或る程度のノイローゼに罹る。
子供に対する愛が満足できなかったことと、胎児を兎も角、自分の合意によって殺した
という罪悪の念による自己処罰である。


それらの罪悪観念が、自己処罰として、手術による「自己毀損」を行い、
「臓器の自殺」として内蔵の病気を起し、精神的煩悶によるノイローゼを起すことは
個人の不幸についての社会問題であるが、

カール・メニンジャー博士は、その著『おのれに背くもの』の中には次のように書いて、
戦争もまた人間の罪悪観念から来る自己処罰であることを「劇的に証明するものだ」
と言っているのであります。――



『----------いやしくも、物を考える人にとっては「戦勝」なるものは存在せず、
勝てる者も敗れし者と同様に、償いのつかぬ損失を蒙るという点について疑念の余地がない。

この意味において、まさしく戦争は実質的な自己破壊である---------時として、
その反対現象であるかのように見えるにしても----------。
国民がこのような自殺的傾向を示すとき、世界の如何なる国の内部にもこの傾向を
冷酷に指示しようとする分子が存在する。彼等の国際組織は、恐るべき奇態な癌である。

この癌は、それによって破滅の淵に追いこまれる人々から大っぴらに培養されて繁殖する。
第一次世界大戦当時、ドイツ人は自国ドイツ製の信管を装置された手榴弾によって殺され、
英国の戦闘艦は、トルコに売られた英国製の機雷によって撃沈されたのである。

ジェットランド沖海戦では、ドイツ海軍は、その艦砲を製作したと同じ会社で作られた、
つまり自国製の防御装甲板に向かって砲弾を叩きつけたのである。

開戦から終戦に至るまで、交戦諸国の人民は、味方によって発明、製造され、
そして敵方に配給された武器によって虐殺されたのである--------

現に私がこれを書いている今、世界戦争の暗影はわれわれの眼前に大きく立ちはだかり個人的、
ならびに国民的自己破壊をひっくるめて、1914年-18年の大戦よりも、
さらに烈しい世界的自殺と置き変えようとして、ひきつるような努力をしているのだ。

かかる集団自殺が、嬉々として準備されている光景を眼のあたりに見れば、
自省的な観察者は深刻な恐怖の念に襲われ、超大型の心臓の持ち主といえども、
不安に戦(おのの)かざるを得ぬであろう。---------』


こう言って、メニンジャー博士は第二次世界大戦を予言したが、
それは不幸にしてその予言通り実現したのである。

しかもそのときよりも一層おおいなる
「世界戦争の暗影は吾々の眼前に一層大きく立ちはだかっている」のであります。


誰が、アメリカで発明され、そしてソ連のスパイによってその製造方法を盗用されて造られた原爆
――それから出発した水爆弾頭をつけた大陸間弾道弾がアメリカを「死の灰」と化せないと
断言し得るであろう。

アメリカで発明された原水爆がアメリカを焦土と化するのは
当(まさ)にこれ自己処罰にほかならないのです。

戦争は人類の罪悪観念による自己処罰より起こる、それは巧みに唯物論の世界観にからみ合い、
弱肉強食の人生観から自然に生ずる奪い合い、殺し合い――その罪悪を潜在意識が知るがゆえに、
その罪悪観念から来る自己処罰――それが次第に重積拡大して大量の自己虐殺となる
原水爆戦争となろうとしつつあるのであります。


この際、迫り来る第三次世界大戦を避けるためには、

(1)唯物論的世界観を唯心論に変え――更にそれを一歩進めて唯神実相論の哲学にまで進展せしめ、

(2)人間は神の子の地上的顕現として、その生命を尊重すべきものである根拠を明らかにし、

(3)誰か犠牲が無ければ繁栄幸福が得られないというような闘争的弱肉強食の人生観を払拭せしめ、

(4)胎児等、苟(いや)しくも生き物を殺すような行為を恐懼(きょうく)して慎ましめ、
   「殺すものは殺される」の因果関係を断ち切り、

(5)人間は“罪の子”なりという、在来のあやまれる宗教観念を払拭して、
   罪悪観念の結果として来る自己処罰による、個人的自己毀損及び集団的自殺行為(戦争)の
   必要なきに至らしめるほかはないのであります。
 
 
これを為すためには、どうしても生長の家式の唯神実相論による人間神の子本来無罪の宗教を
広く宣布して人類全体をして自己処罰の必要なく、横の人間関係に於いて奪い合い殺し合う必要なし
に縦から神と人間との関係によって、神意を行ずることによって繁栄と幸福とをかち得るもの
であることを自覚せしめるほかはないのであります。


>以上、谷口雅春先生は、唯物的人間観が最も極端な形であらわれた堕胎(だたい)という
大量の殺人行為が、いかに大きな禍根を国家、人類の上にもたらすものであるかを
お説き下さいました。<


このほか、谷口雅春先生は別項に於いて、その後頻々として起こる風水害による多数の死者や、
年々増加する一方の交通事故死についても言及され、これらも霊的見地からするならば、
六千万胎児の悲しみの姿のあらわれであり、また民族の自己処罰の姿であると警告して
おられるのであります。

因(ちな)みに、昨年から今年(昭和五十九年)にかけての異常な寒さ、明治以来の降雪も
再び日の目を見ることのなかった優生保護法改正運動への霊界からの悲しみの顕われのように
私には思えてならないのです。

いずれにしましても、幼い生命を救い、流産児の魂を救う運動は、
日本民族の為にも世界の平和の為にも、個人の幸せの為にも、
今ほど大切な時はないのではないかと思うのです。>>(P.210-214)


          <感謝合掌 平成27年12月17日 頓首再拝>

体験例・形式と愛 - 伝統

2015/12/19 (Sat) 19:30:52

光明掲示板・第三
2015年02月01日(by うしろの桃太郎 さま)


体験例・形式と愛

<<ある女性が練成をうけに来ました。彼女は巳むを得ない事情で中絶したのです。
浄心行の時に、彼女は心から懺悔しました。

「子供はどんなに親の愛を求めているか知れない。それなのに、私は顔を見てあげることも、
抱いてあげることも全部、自分の手で断ち切ってしまった。

今、暗闇の中で私の赤ちゃんがどんな思いをして、私を求めて泣き叫んでいるかと思うと
堪らなくなって、声をあげて泣きました。
合掌しながら心の中では懸命に、見えない赤ちゃんに向かって、両手を広げているのでした。

“早くお母さんの懐に帰っておいで、思いきり抱きしめてあげるから、
早くお母さんの懐に帰っておいで”と命の叫びをあげているのです。
いつか私は赤ちゃんを懐に抱いたまま合掌しているように思えました。

身をもって、私に生命の尊さを教えてくれた赤ちゃん、
私は心から赤ちゃんに感謝しました」

 
この言葉の一言一句の中には母性愛が一杯に満たされています。
わが子に対する深い愛からほとばしる懺悔の言葉で綴られています。
この愛と懺悔こそ、供養するにあたって最も大切なことなのです。

愛することによって自分が救われるのです。
懺悔することによって罪は消えるのです。

決して形ではないのです。
よくどのようにしてお祀りすればよいでしょうかという問い合わせをしてこられますが、
形式ではありません。

この方のような、愛と懺悔の心こそ第一なのです。

彼女は新生の喜びに満たされ、一般練成に引き続き、伝道練成にも参加しました。
最後の伝道行の日、彼女は“神様、私を本当に必要としている人に合わしめ給え、導き給え”
と真剣に祈りました。そして引き付けられるようにして、とある家に入ったのです。 

その家には、三歳の時に小児麻痺になり、
そのままの状態で九年間を過ごした女の子が一人いることを知りました。
彼女は言うつもりのなかった自分の妊娠中絶の体験を話してしまいました。

それを聞いた母親は「実は、私も赤ちゃんを堕ろしたことがある。でも貴女のように
一度も可哀相だなんて思ってみたこともなく、供養もしていない。ところが堕胎してから
一週間目に、この子は小児麻痺になって、それからずっと九年間も苦しんでいる」というのでした。

「何よりもまず第一に、堕ろした赤ちゃんにお経やお線香をあげて、供養してあげて下さい。
どんなに子供は親の愛を求めているか、わからないのですよ。堕ろされた胎児(赤ちゃん)が、
その女の子供さんを通じて、お母さんの愛を求めているのですよ。
一日に一回でもいいから、その子供さんを堕ろした赤ちゃんだと思って、
思いっきり抱きしめてあげて下さい」と彼女は母親に話しました。


ふと、その女の子を見ると、上目づかいに一所懸命に彼女をみつめている。
彼女には、迷っている霊が話を聞いていたかのように思えたといいます。
時間が来たので、子供さんに『甘露の法雨』を誦げて帰りましたが、
そのお母さんは駅まで見送って下さいました。

帰りの電車の中で、彼女はしみじみと思いました。
今までの自分だったら、あのような話を聞いても“まあそれはお気の毒ですね”と
通り一遍の言葉しかかけられなかっただろう。

同じ苦しみを経験した者でなければ、その人の本当の苦しみを知ることが出来ない。
私はあのようは人を救うために、ああいう体験をしたのだ――

 
自分が救われるだけでなく、更にその体験を生かして同じように悩んでいる人を
救うことによって、過去の暗い思い出は消え、罪の意識は洗われ、
世の為、人の為に役立ち光り輝く思い出となるわけです。

彼女は、新たな使命感に燃えました。
彼女は、日本全国の婦人の約半数をしめる妊娠中絶経験者に訴えている。

「もし私と同じように胎児を堕ろされた方がいましたら、私はその方に呼びかけたいのです
“貴女の赤ちゃんは、今どんなに貴女の愛を求めているかわからないのです。
貴女の胸に抱かれたいと、どんなに思っているかわからないのです。

赤ちゃんの生命の叫びを聞いてあげて下さい。
そして、心で思いきり、抱きしめてあげて欲しいのです。
声をかけてあげて欲しいのです。

その時こそ、貴女は赤ちゃんと一体だと感じることが出来るでしょう。
共に立ち上がりましょう。

再び不幸が繰り返されないように、優生保護法が一刻も早く改正されるように、
貴女が勇気を出して立ち上がったとき、貴女の赤ちゃんは永遠に生き続け、
霊界に於いてその使命を果たす事が出来るのです”と」

 
彼女の訴えは、女性が本質的にもっている母性としての愛の叫びである。
このような母性本能にうったえる愛の運動こそ優生保護法を改正する原動力であって、
人工中絶の弊害を強調して恐怖心をあたえるだけでは、神の御心は実現しないのです。

 
親が自分の罪に泣きくれていても中絶児は救われません、
このように他の救いの為に立ち上がったとき中絶児も霊界に於いて
親と共に使命を果たすことが出来るのです――

 
以上のような講話をして流産児の供養をしたところ、錬成参加者一同が懺悔の涙を流しました。
病が癒されるもの、非行少年少女が更生するもの等、顕著な体験が続出するようになったのです。

一方河口湖道場での過去数年間の体験談から問題別に体験集の小冊子をつくりました。
親子、病気、恋愛、結婚、夫婦、繁栄-------十冊の小冊子をつくり頒布しましたところ
「中絶児は問題児を通して訴える」の小冊子が圧倒的に売れ出しました。

又伝道訪問先でも最もそれが求められていることがわかりました。
それではということで、その冊子の河口湖町、吉田市の全戸頒布運動が展開されました。

そうしましたら、同じような悩みをもった、地元の人々が錬成に参加するようになり、
長い間願っていた地元の光明化にも大きな力となりました。

 
昭和五十六年に入ると流産児供養による体験は更に大きく、続出するようになりました。
この年、十一月には龍宮住吉霊宮が建立されました。
祭神は伊邪那美大神で霊界を浄化するためでした。

霊界の浄化には戦後堕ろされた六千万流産児を救うことが何よりも急がれます。
奇蹟が続出したのは、伊邪那美大神の浄化の御力によって中絶児が救われたのであると
拝察されます。

 
私はその十一月に飛田給へ転勤が突如として決定、十二月一日から赴任しました。
飛田給の設立動機を考えますと終戦直後、進駐軍の黒人の兵隊と情交し妊娠し、
半黒の混血児を妊娠したのを恥じて自殺する婦人などが続出し、それらを救うために、
飛田給の病院跡を無痛分娩産院にして母体も胎児も共に救うようにしたいと
谷口雅春先生が切願されたのが直接の契機でした。

 
こうした谷口先生の胎児救済の切願によって設立された道場に神の摂理によって
私も導かれ毎月八日には流産児の供養をするようになり、

飛田給に於いてもこの本に掲げられたように如何なる方法によっても解決しなかった
青少年問題や様々な問題が、きれいに解決してしまうというような奇蹟が毎月続出し、
全国的な関心と注目を集めるようになってきました。

――これが、私が流産児供養と幼い生命を救う伝道活動とに挺身するに至った経緯です。>>
(P.222-227)

          <感謝合掌 平成27年12月19日 頓首再拝>

「聖経が火に燃えず。」 - 伝統

2015/12/20 (Sun) 19:40:52

光明掲示板・伝統・第一
2015年03月11日

「聖経が火に燃えず。」

(1)火葬炉の中に残る教典一冊

  ①生長の家宇治別格総本山 ~ 楠本加美野氏講演

   私はその後、河口湖道場に勤務しましたが、その頃は周りに何もなくて、
   あるのは富士山だけ(笑)という状況でした。

   そこで毎日、拡声器を富士山の方に向けて、当番を決めて、
   「聖経の間」を設けて『甘露の法雨』を一日中、連続して誦げておりました。

   そうしたら、「焼津港報」という新聞が私の手許に送られて来て、
   「昭和40年8月31日、静岡県焼津市のある火葬場で奇跡がおこった。

   千二百度の高熱を出して燃える火葬炉の中から『甘露の法雨』が焼却されずに、
   原型を残して発見された」という記事が目にとまった。

   千二百度で2時間も焼いたのに、
   表面が焦げただけで、殆ど無傷であったというのですね。

   もう感激してねぇ、何と素晴らしいことだろうと、
   さらに熱心に『甘露の法雨』を誦げたわけですが、
   現在この『甘露の法雨』は、総本山の温故資料館に大切に保管されています。

       (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=415415&mode=res&log=282


  ②生長の家宇治別格総本山 ~ 楠本加美野氏講演

   1200度で燃える火葬炉から甘露の法雨』が焼えずに発見された

   どういう奇跡が起きたかと言うと、
   163ページ(『よろこびの先祖供養』)にあるけども、

   ≪昭和四十年八月三十一日、
   焼津市のある火葬場で、奇跡が起こった。

   1200度の高熱を出して燃える火葬炉の中から、
   『甘露の法雨』が焼却されずに、原型を残して発見された。≫


   1200度ですよー?
   御祖母さんが亡くなったんで、
   御祖母さんが愛用していた、『甘露の法雨』を入れて、骨を拾いに行ったら、
   骨と一緒に『甘露の法雨』が出てきたって。

   これはもう、
   人類始まって以来の奇跡だねぇ。

   そうでしょう?
   紙が燃えて・・・1200度で、
   他の物、皆燃えて・・・眼鏡だって、皆融けちゃってるのにね。

   紙が燃えてない!
   大変な奇跡が起きたねぇ。

   その『甘露の法雨』はあそこに、保管されているでしょう?
   温故資料館にね。
   長く長く、保管されているでしょう?
   そういう奇跡が起きたんですねー。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/ningenhakaminokodearu/212612.html


  ③火葬炉の中に残る教典一冊~『生長の家』四十年史(P44~45)

   『日刊・焼津港報』という業界新聞の昭和四十年九月一日号のトップ記事で、
   「火葬炉の中に残る教典一冊」という大活字の標題で、先ず次の如く、

   「炉内千二百度の高熱を有している焼津火葬炉の中で、生長の家で発行している
   『甘露の法雨』という教典が、焼却されずに、原形を残して三十一日午後発見され、
    現代では考えられない事実とあって話題をよんでいる」と事件の要点を書いて、

   更に、中見出しには、「二度の火葬後に発見、焼津火葬場で奇跡的と話題」と
   書いて記事本文は次の如く続くのである。

   「市営焼津火葬場勤務の増田鉄次さんが三十一日午後0時三十分ごろ、
   三機ある火葬機の中央炉内を清掃すると紙製の長さ十五センチ幅五センチの教典らしい
   未焼却な一冊のケース入りの本が出て来て、主任の松島正臣さんに報らせた。

   松島さんと一緒に確かめると厚紙製のケースは、こんがり焼けているが、
   形は崩れておらずケースから中の本を出すと、完全に原型はとどまっている。

   本は生長の家で発行している『甘露の法雨』という同教の信者間では、
   キリスト教のバイブルと同様に、最も大切にする教典。

   松島さんは紙製であり、不燃焼物でなく不審をいだいて、
   三十一日の午前中に火葬へふした人の経緯(けいい)を追ってみた。

   当日は午前九時三十分に着火して市内関方384-1農業杉本さくさん
   (明治三十八年九月生まれ)を火葬した。

   そして中央の炉は同十一時三十分市内小川1272の五渡仲昌さんを続いて火葬にした。

   火葬炉の中は耐火レンガで覆われ、鉄板上に寝棺をのせ重油バーナーで火葬する時は
   千二百度の高温とする装置で炉内の物は完全に焼却できる事になっている。

   教典は、杉本さんが生長の家の信者で(市立病院で死亡している)同家の人は、
   同教典をさくさんの手に握らせ胸の上に組ませて寝棺に入れたという。

   炉の中でどうして焼けずにいたかはナゾだが松島さんに聞くと・・。

   『私も長い間、火葬場をお守りしているが、紙製の本が未焼却で完全残置されたのは
   始めてだ。杉本さんの信仰が通って家族の人にこの教典を残したという事でしょうか。
   奇蹟という言葉が当てはまるでしょう』

   と一日午前十時に同教典を手にしてつくづくもらした。

   またこれを発見した増田鉄次さんはこういう。

   『昨日は午前九時と十一時に二体を火葬し、午後一時から三回目の火葬者があって
   その前清掃時に発見したのですから、二度も炉の中で焼け残った事になります。
   (骨拾い時は炉内にあった)杉本さんの家の方にも知らせたと思います。』

   この教典は、生長の家谷口雅春氏が著したもので昭和二十六年版。
   THE HOLY SUTRAとされ英訳によって世界に出版されているもの。  

   (http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/258/


          <感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>

楠本加美野先生の講話から - 伝統

2015/12/21 (Mon) 19:38:50


           *Web:チャーリーのブログ(2009-09-30 )より

『大生命の愛が生きた肉体を備えて眼に見え、
手で触ることが出来るように現れたきましたのが両親の愛であります』
と谷口雅春先生はお説き下さっています。

神の愛が両親に宿り、
両親は神の愛そのままの愛をもって子供を愛し育てて下さっています。

ですから、あなたが誕生してから今日迄
あなたの幸福を切実に願って下さったのがあなたの両親です。

あなたを世界中で一番愛して下さったのが両親です。

ところが不良少女更生施設の責任者が訴えるように話していました。
『ここの少女は皆な、お母さんの愛を求めているのですよ』と。

子供を愛していない親はいないけれども、愛の表現の仕方が下手なために、
子供は親から愛されていないと思うようになるのです。

そして反抗児になり、親を困らせようとするのです。

だから彼らには説教はいらないのです。
ただ親がどんなに自分を愛しているか、自覚させればよいのです。

親の愛の目覚めたとき、すべての人の中にも愛を見出すことが出来るようになります。

反抗は子供ばかりでなく、大人にもあります。

夫の愛を見失った妻は夫の愛を求めて反抗妻となり、
夫を困らせようと病気になる人もいます。

愛を求めている人は不幸になります。

そして愛を見出したとき、すべての人が幸福になります。

親の中に愛を見出すことが出来ない人は、誰からも愛を見出すことができません。

親こそ最も身近な神の愛をもっている人だからです。

  (http://ameblo.jp/yhiro1223/entry-10353933891.html

          <感謝合掌 平成27年12月21日 頓首再拝>

Re: 楠本加美野先生の快癒をお祈り申し上げます - rhfqqoekqMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:11

伝統板・第二
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