伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

ご生誕122年 - 伝統

2015/11/22 (Sun) 04:27:13

今日11月22日は、谷口雅春先生のご生誕日です。
”ご生誕122年”をお祝い申し上げます。

・・・

谷口雅春先生の御誕生の時を『生命の實相』第19巻には次のように書かれています。 


   『わたしは陽暦、明治二十六年十一月二十二日の暁の六時に生まれたのである。
   陰暦にすれば十月十五日の満月の暁でちょうど満月が西の山の端に沈みかかってはいたが、
   まだ耿耿として光を失わず、そして朝日が東の方に差し昇りつつあったとき、
   太陽と月と二つの光に照らされつつ護られつつ生まれたのである。』


・・・

「光明道中記」には次のように書かれています。


   「今日は私の誕生日である。
   旧暦にするならば10月の16日未明、十五夜の月がまだ地平線下に没せず
   而(しか)も朝の太陽がさし昇って空には日月両(ふた)つながら揃っている時に、
   私は呱々(ここ)の声をあげた。」


・・・

『生長の家五十年史』には次のように書かれています。


   『若し私がここに生まれなかったならば、生長の家も今、無かったと思うのであります。
   人間がどこに生まれるかということはその人の運命を決定する最初の要素になる
   のであります(「人間の運命・私の運命」)』


・・・

『伸びゆく日々の言葉(11月22日 不滅の大法)』谷口清超先生・著には
次のように書かれています。


   「生著の家」の創始者・谷口雅春大聖師は明治26年11月22日、
   兵庫県八部(やたべ)郡鳥原(からすはら)村に誕生遊ばされ、
   昭和60年6月17日に長崎市に於いて昇天された。

   満91歳7ヵ月の御長寿であったが、もし本年本日まで御在世されたならば、
   百何歳かの御誕生日をお祝い申し上げるべき日である。

   地上の肉体は必ずいつかは昇天日を迎えるが、それは魂の死ではない。
   本当の《いのち》は永遠不滅であり、神であり、仏である。
   そのことを大聖師は一生涯を通して説き明かされた。

   病気も不幸も災難も死も戦争もなく、罪も迷いもない実相の完全円満を、
   大聖師は常に説法された。

   この御教えは久遠不滅の大法である。

              ・・・

   解脱名(戒名)は「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」。


・・・


『神霊降誕譜』

 作詩:生長の家本部
 作曲:小澤 弘

 
(一)
   をしへおや  うまれたまひし
   よろこびの  此の日このとき
   かみの子と  生まれしわれら
   みなひとに  やどれるかみを
   ひたすらに  たゝへまつらん。

(ニ)
   さちおほき  よろこびのけふ
   よろこびの  此の日このとき
   かみの子と  をしへられにし
   このさちを  わかちつたへて
   みなひとに  つたへまつらん。

(三)
   をしへおや  うまれたまひて
   このせかい  すがたかはりぬ
   やみおほき  世かいは消えて
   ひかりみつる 此の世浄土と
   うちつどひ  かみをたゝへん。

(四)
   ひるも夜も  讃歌みちたり
   降る星は   み空をかぎり
   てんごくの  とりは囀り
   日と月は   ともにかゞやき
   みなうたふ  みおやたゝへて。


・・・・・

<関連Web>

先代の各掲示板に於ける谷口雅春先生の「ご生誕」に関する記事の多くは
消滅しておりますが、その中で次のものが残っております。

(1)光明掲示板・第一「ご生誕119年 (3851)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=740

(2)光明掲示板・第三「ご生誕121年 (1903)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=381

           <感謝合掌 平成27年11月22日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~ご生誕の地【烏原村】 - 伝統

2015/11/23 (Mon) 04:48:25

谷口雅春先生は、「生命の實相」第19巻自伝篇(P4)において、

「わたしはここで生まれたというが、幼児の記憶はほとんど無い」

幼児の頃の記憶としては、兄貴と湊川(旧)の土手で一緒に草笛を吹いて遊んで、
あやまって草の葉を咽喉に引っかけて、気持ちの悪かった印象を憶えているだけである。

とある。

  ・・・

ここでは、少し、烏原村情報を紹介いたします。


(1)谷口雅春先生のご生誕の地~烏原村
   → http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/waterworks/water/suidou/03_04b.html

   烏原貯水池の地図
   → http://www.mapion.co.jp/m2/34.69124885,135.15562541,16/poi=L0590435


(2)烏原村の名前の由来

   烏原にあった願成寺の伝承によると、天平年間(729~749)摂津国を行脚していた
   行基が、ここ上野村に聖徳太子の作という観音菩薩を祀り観音寺とした。

   安元年間(1175~1177)<鎌倉時代初期>、衰退していた観音寺を、
   東大寺の実遍の子で法然上人の弟子であった住蓮が中興して願成寺と称した。

   建永元年(1206年)、住蓮が同門の安楽と共に(洛東の鹿ケ谷で)念仏会を催した時、
   後鳥羽上皇の愛妾・松虫、鈴虫が住蓮に帰依し髪を落とし尼となってしまった。

   その事に激怒した上皇は、住蓮、安楽の二僧を近江国淵村で処刑してしまった。

   しかし、住蓮の首は蓮となり上野村へと帰ってきた。すると、その種を求めて
   多くの烏が群れ集まり鳴き続けたので、それに気付いた村人によって
   住蓮は手厚く葬られたという。

   また、住蓮の首を鳥が近江からここ上野村の願成寺まで咥えて運んできたのだともいう。

   以来、この地を上野村から烏原村というようになったと言う。

   (Web:地名にまつわる伝説
        http://www.geocities.jp/nachtmahr_3rd/F-tales/chimei.html より)


(3)烏原神社(からすわらじんじゃ)

   祭神は応神天皇、市杵嶋媛命、天児屋根命、稲荷大神。
   石井川上流の烏原村にあった社が1905年(明治38年)の貯水用ダム(烏原水源地)
   によって水没したため、氷室村へ遷座。

   1945年(昭和20年)の神戸大空襲で被災し、1995年(平成7年)の阪神大震災で
   石造の鳥居なども倒壊したため2006年(平成18年)に祇園神社境内に移された。

               ・・・

   烏原神社。烏原ダム(貯水池)は有名であるが、そこにあった神社のお話。
   以下、由緒書きより。

     古く、石井川の上流の山田村(現在の北区)に通じる道沿いにあった
     烏原村に創建されましたが、この村は明治38年5月、神戸市民の上水道建設のために
     新しく完成した貯水ダム(烏原水源地)の底に沈みました。

     この工事に伴い、明治31年末までに立ち退きを迫られた
     98戸、414人の住民たちは、主にその山麓の東は平野から西は氷室町にかけて移転し、
     烏原神社も氷室町に移りました。

     その後、昭和20年3月の神戸大空襲で本殿・社務所等建物はすべて焼失し、
     さらに平成7年1月の阪神淡路大震災で、鳥居・燈籠など石造物もすべて倒壊しました。

     震災後10年を機に関係者相談を重ね、平成18年6月7日、
     ご縁あるこの祇園神社の境内におうつしし、
     以後この神社でおまつりして行く事になりました。

     (http://hirukarasanpo.blog.fc2.com/blog-entry-1097.html



(3)烏原村について(現地の説明板より引用)

   「烏原村は、明治37年烏原貯水池築造のため水底に没した。

   この村の地勢は、 四面連山のなかに起伏があって、中央部のやや平坦なあたりに
   人家が点在し、水没時の戸数は98戸、人口414人であった。

   この村で生産される木皮細末 の線香原料粉は、品質優秀で
   全国から需要があったといわれている。
 
   貯水池周囲の護岸には線香の材料づくりに使っていた石うす160個が利用されている。
   これらの石うすは貯留池築造の際に烏原村の人々が水没によって離村するにあたり、
   その足跡を残し、また神戸市の繁栄を願って記念に残したものである。

   このように護岸に石うすを使った例は珍しくデザイン的にもユニークなものとなっている。」

   (http://seiyo39.exblog.jp/19675294


   *烏原貯水池については、以前、
    ”山ちゃん1952 さま”が、ご自分のブログにて詳しく紹介しておりましたが、
    今は消滅いたしております。


(4)久遠の昔から実在の世界にあった『生長の家』

           *Web:『生命の實相』哲學に学ぶ(2015/11/3)より
                ~生長の家基礎文化研究所 部長 阪田 成一


   吾々が「今」という一点に立っている時、「自分」という現実は、全く過去と
   切り離された存在であるように見えるが、そうではない。 
   「今」という一点に立ちながら、全ての歴史がこの一点に集積されているのである。

   それは必ずしも、自分が生れてから現在に至るまでの経験したことのみを言うのではない。 
   自分の親が経験したこと、さかのぼっては先祖が経験したこと、さらには
   日本民族の歴史の全てがわれわれの全身に籠っているいうことである。

   それ故に、人間がいつ‘どこに’生まれるかということは、その人の運命を決定する
   最初のそして大きな要素となるということは本当である。

 
   谷口雅春先生は  「人間の運命は、半分は過去の生まれ変りの世代に行為して来たことの
   集積決算で決まるが、残りの半分のうち、その約半分は今世の努力による自分の
   “心の持ち方”と“行為”の如何によって定まり、

   その残りの運命は産土神その他の高級霊の導きによって定まり、又は修正されたり、
   指導せられたりする」  と言われている。 〈因みに“運命の半分”などという表現には、
   数学的な精確な割合ではなく、それはだいたいの目安として使われていることは無論である〉


   そうであれば、谷口雅春先生が、明治26年11月22日に、父音吉、母つまの次男として
   兵庫県八部郡烏原村字東所 〈現在の神戸市兵庫区烏原町東所〉 に誕生されたことが、

   久遠の昔から実在の世界にあったといわれる『生長の家』の地上降誕を促すことになった
   のであり、もし谷口先生の誕生の地が神戸の烏原以外の地であったならば、
   『生長の家』は、恐らく地上に顕現されることはなかったかもしれないのである。

 
   さて、生誕の地・烏原村は、神戸のほぼ中央を流れる湊川の上流茅渟海(ちぬののうみ)
   〈大阪湾〉を臨む位置にあって「四面山にして耕地渓流に沿いて村となす。 

   渓流多く水車を設け舂碓(しょうたい)〈つきうすのこと〉を以て業となす者数十戸、
   因て道路を修し、兵庫に通じ牛車運搬を資(たす)く」  〈『兵庫八部郡地誌』〉 
   と記されているように、昔から水車業を中心とした山あいの小さな農村であった。


   谷口先生が誕生されて7年のちの明治33年12月に水道貯水用地として神戸市に
   買収されるまでの烏原村は、神戸という西洋文明の流入する街に隣接し、日に日に
   文明開化の波が押し寄せつつあった時代にもかかわらず、

   そこはまるで別天地の如く、昔からの美しい自然のたたずまいの中で、
   水車業を中心とした生活が営まれていたのである。 

   そうした中で谷口雅春先生は誕生されたのであった。

 
   谷口先生にとって烏原村は、わずか4年足らずの歳月を過した所ではあったが、
   先生の魂のその風土は、何らかの影響を与えずにはおかないほどの景観をそなえていた。 

   ひとつの魂におよぼす風土の影響は、決して少なくはなく、
   とくに幼児期に与えるその影響は、天性の資質と見分け難いものを
   その人に与えるとさえ言われる。

   かつて徳富蘇峰が山紫水明の自然が天才児を生むといったが、昨年の夏、水源地となった
   烏原の地を訪れて、周囲のたたずまいが、いまも侵されることなく昔のままの姿で
   残されているのを眼にした時、烏原村と谷口先生の場合にも、まさにそれがぴったり
   とあてはまるのを感ぜずにはおれなかった。


   ところで烏原村には、谷口姓を名乗る家が幾軒にも及んだとわれる。 
   明治44年に出された郷土史『西攝大観』は、谷口家の祖先についてつぎのように記している。

   《延元元年(1336)谷口泰重なるもの新田義貞の手に属して兵庫和田岬に陣せしが
   戦利なくして湊山の深谷に隠れ後帰農して空谷を開墾し、住民安居の地としたと
   いひ伝へてをる》


   また谷口家の祖先について谷口先生自身つぎのように言われている。

   《私の祖先は、どんな人か詳しいことは知らない。 併し、神戸の烏原村の谷口家は
   新田義貞の一門であったか、部下であったとか、そこは充分ハッキリ分らないけれども、
   湊川の戦争の時、足利尊氏の軍と戦って破れて、湊川の上流地なる烏原村へ落ちのび、
   そこに名を隠して谷口氏を名乗ってをったと云ふ》  (『民族と歴史的現実』)


   谷口家の祖先が南朝すなわち後醍醐天皇に仕えていたところの武家であったことは、
   その子孫にも代々語りつがれていたようである。 

   そして、泰重の子孫は大いに繁栄して、幾軒にも分家をし、その中には大地主になった人も
   いて、自分の地面のみを踏んで海岸まで歩いて行くことが出来たというほどであったというが、
   谷口家には信心深い人達が実に多かったようである。


   《 ・・・ 私の‘をぢ’さんに谷口福松と云ふのがあって、この人は変ってゐた。 
   是の人は黒住教の少講義とか云ふ低い階級の布教師をしてゐたが、中々いい人であって、
   誰にでも、自分より貧しき人を見ると、自分は裸になって、その人に物を供養した。 

   誰れ彼れの区別なしに自分のものをやってしまふ。 
   そして何時も‘すっかんぴん’で施与が好きだった。 さう云ふ人が吾々の祖先にあった。  

   (中略)  

   尤も谷口家の前時代の人達は、生活が皆が皆まで道徳的であったかどうかは知らないが、
   信心深いと云ふ点では、非常に信心深い人達が多かった。 

   私は子供の時代から始終西国三十三ヶ所の観世音に伴れて行かれた。 

   (中略)  

   兎もかく、時代がちがひ、儀式がちがふが、
   神信心と云ふこと仏信心と云ふことは非常に好きだ。 
   さう云ふ性格の人が谷口家には無数にゐる》  〈同上〉


   人間の生命は「個」だけで忽然と地上に生まれたのではなくて、祖先を通じ、父母を通じ、
   その生命の一連続の地上顕現としてここに生きているのであるから、信心深かった祖先の
   ‘いのち’が、歴史的現実として当然谷口先生の‘いのち’の中に生きていることは
   言うまでもないことである。

   そして後に、万教を包容帰一するところの 『生長の家』 が、
   谷口先生によって創始されるようになったことも、こうした信心深い谷口家に流れる
   “祖先のいのちの印象”と無縁ではないであろう。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19682827.html

           <感謝合掌 平成27年11月23日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~産土神 - 伝統

2015/11/24 (Tue) 04:54:53

谷口雅春先生は、「生命の實相」第19巻自伝篇((P6~7)において、

わたしはいつ、実父母のところから養父母のところへ行ったか知らない。
記憶は消されてしまっている。

(実母のお話によると、4歳のときとのこと)

と述べられています。


そして、記憶は、
生田神社の前の神木を玩具(おもちゃ)の軍刀で斬っているところから
始まっています。


そこで、ここでは、谷口雅春先生と生田神社についての情報を紹介いたします。

・・・

(1)産土神~生田神社
   → http://www.genbu.net/data/settu/ikuta_title.htm


   ご祭神

   稚日女尊(わかひるめのみこと)
   → http://www.ikutajinja.or.jp/about/


(2)谷口雅春先生の産土神社は生田神社

        *『神の真義とその理解』
         《第三篇 龍宮住吉本宮建立の意義 
          第二章 龍宮住吉本宮建立に至る神々の系譜》より

  ①産土神社は生田神社

   さて私は兵庫県神戸に生まれました。
   わたしの産土神(うぶすなのかみ)は生田神社で、
   その祭神は天照大御神の御妹君の稚日女神(わかひるめのかみ)、
   別名、稚日女君命(わかひるめぎみのみこと)だということであります。

   私の子供の頃の生田神社は、森にかこまれていました。
   生田の森といわれていて、梶原景季(かじわらかげすえ)の箙(えびら)の
   梅の故事(こじ)で有名な森です。

   その頃、幼年時の私たちはその森の中にある家に住んでいました。
   森の樹木は深く、そのころ私の養父、石津又一郎が天然痘(てんねんとう)に
   かかって熱にうかされていました。

   回復期になると天然痘は、顔面の皮膚(ひふ)にカサブタが出来て、
   カサブタがとれた痕(あと)が凹(くぼ)んでアバタが出来るのです。
   そのころは種痘(しゅとう)が普及していなかったので、天然痘にかかる人が相当ありました。

   そこは今は神戸市の中心街になっていますが、深い森の中で狐(きつね)の鳴き声が
   聞こえて気味がわるかったと、私は稍々(やや)成長してから、
   養母から教えられたのを覚えている。


   なんでも狐が、天然痘のカサブタが好きで、それを食べたがって泣くのだと
   きかされたものであります。


  ②生田神社の祭神の御使命について

   私が産土神である生田神社に祭祀されている稚日女君命さまに導かれて、 
   住吉大神の人類光明化運動(宇宙浄化)に参加するに至ったのは、

   後になって稚日女君命さまが、生田神社に祭祀されるに至った由来を調べてみた結果、
   一層明らかになったのである。

   それは神功皇后さまが新羅(しらぎ)の侵攻を迎え討(う)たれたとき、
   住吉大神と共に稚日女君命さまが、神功皇后さまの戦いを守護せられたことが
   凱旋(がいせん)のとき、神示によって明らかになり、

   神功皇后が稚日女君命さまを生田神社の本尊として、
   宮造りをしてお鎮め申すことになったのであった。

   富山房発行の『国民百科大事典』第一巻四五八頁には、次のごとく記載されている。

     生田神社――もと官幣中社(かんぺいちゅうしゃ)。兵庫県神戸市山手通一丁目。
     祭神。稚日女神(ワカヒルメノカミ)。(一説、天照大御神ノ御妹ニ当ルト云フ)。

     神功皇后新羅征伐ニ神助アリ。凱旋ノ途次、神誨(しんかい)ニヨツテ祭ル。
     延喜式、名神、官幣ノ大社。又相嘗祭(あいなめさい)ニ預(あずか)ル。
     例祭四月十五日。


   こうして生地の産土神を、神功皇后の国家防衛に守護された生田神社の稚日女君命と戴く私が、
   こうして八十歳を超えながら、国家防衛に奔走(ほんそう)せずにいられないのは今尚、
   この大神の守護の下に導かれていると考えられるのであります。

   しかもこの神が、住吉大神と共に神功皇后の新羅侵攻に対する防衛軍に神助(しんじょ)を
   与えられたということは、尚、一層生長の家の使命が、国家防衛にあたるべき因縁深きことが
   拝察されるのであります。


  ③私と生田神社の祭神とのつながり

   わたしが大本教を脱退すると、浅野和三郎氏も脱退して、宗教宗派に関係のない
   心霊科学の研究をするための会を”心霊科学研究会”という名で創設したので、
   私もそれに参加し、そして私はその機関誌の編集に当っていました。

   ところが大正12年9月1日の関東大震火災のため、心霊科学研究会も関西に移転して、
   一時、神戸市中山手通に、その事務所を移したのでした。

   毎日出勤ではなかったが、編集事務の打合せや何かで、たびたび私はその事務所を
   訪問することになったが、その事務所は同じ山手通にある私の出生地の産土神を
   祀ってある生田神社が、ごく近い距離にあり、しかも帰りの電車の停留所に行くための
   道順であるので、私は心霊科学研究会へ出勤するたびごとに、
   生田神社に参詣したものでありました。


  ④生田神社の神霊のお導き

   ある日生田神社の参拝を終って、神社の正門を出て鳥居をくぐって十数メートルほど行くと、
   左手に「永田文進堂」という古本屋がありました。

   私は読書が好きで、古書を漁(あさ)るのも好きであったが、突然、
 
   「その書店に入れ」
 
   という霊感のようなものを感じて、引きつけられるようにその書店に入って
   書棚の前に立つと、私の目の前に”The Law of Mind in Action〟という本が
   目についたのであった。

   その本を引き出して立ち読みしてみると、私が大本教を脱退して、神罰の存在を否定し、
   この世界に病気や不幸や災難が出て来るのは、神罰ではなく自分の”心の影”なんだ
   という世界観、神観、人生観に移っていた

   (関東大震災の約1年前に書いた『聖道へ』という私の論文集参照。
   これは私の選集の中に収められていて、日本教文社から発行されている)

   その唯心所現的なものの観方を裏付けるような、唯心哲学がそれには書かれているので、
   その本を求めて帰って読んだのであった。

   そして愈々(いよいよ)私の転心した人生観に自信が出来、この本は日本にも弘めるなら、
   多くの人々を啓発すると信じて、和訳し始めたのでありました。

   この和訳は、私の大本教時代に書いた「皇道霊学講話」などに共鳴してくれていた、
   実業之日本社重役の栗原白嶺氏に見せると、同社から出版しようということになり、
   『如何にすれば運命を支配し得るか』という書名で出版されたのでした。

   こうしてアメリカの光明思想ニューソートとつながりが出来、
   今もリリジァス・サイエンスやディヴァイン・サイエンス等のニューソート諸派と、
   生長の家との関係が親密であるのもそのためである。

   もし私が生田神社に参拝していなかったら、
   生長の家はニューソートとつながりが出来ていたかどうかは判らない。
   ここにも産土神の導きが見られるのである。


  ⑤生田神社祭神の祖国防衛の因縁について

   生まれ故郷の産土神である生田神社の祭神、稚日女神は稚日女君命(わかひるめぎみのみこと
   )とも称せられて、天照大御神の御妹神として、天照大御神が忌織屋(いみはたや)にて
   天地経綸(けいりん)のはたを織っておられたとき、
   倶(とも)に機織姫(はたおりひめ)として天地経綸に参加していられた神であります。

   経綸は共に糸扁(いとへん)の漢字であるが、政治で国の経緯(たてよこ)を治め整えることを、
   織物にたとえて言う文字であります。

   天地経綸の機織(はたおり)をせられる生田神社の祭神、稚日女君命が、
   神功皇后さまの、新羅からの侵攻への防衛軍に神助を与えられたのは当然であり、

   今また祖国を革命から衛(まも)るために、住吉大神と共に
   生長の家に神助を与え給うていることは、当然のことであるのであります。
 

  ⑥吾ら総立ち"護国の神剣"として立つべし

   生長の家の教の発祥は、私が住吉村に移住して元住吉(もとすみよし)神社に毎朝、
   朝風呂で身を浄めて、礼拝を始めた時に霊感を得て始まるのでありますが、

   更に遡(さかのぼ)れば、私の産土神である生田神社の稚日女神(わかひるめのかみ)が、
   それとなく私を守護して、私を導き給うた時点から始まるのであります。

   即ち五人兄弟姉妹のうちの次男に生まれて、他の兄弟は小学教育だけであったのに、
   私だけが選ばれて養子に行き、別の生活経路を歩ませ給い、
   ひとりだけ高等教育を受ける機会が与えられました。

   やがてその大学をとび出して、紡績(ぼうせき)工員となって工場労働者として、
   苦痛を身をもって体験せしめ給い、この世界の革命の必要を痛感して
   工場生活から飛び出した時に、

   神がこの世界を立替(たてか)える(即ち天変地変で革命を行う)という大本教の宣伝に
   心ひかれて、大本教に入り、そこにて色々の霊媒(れいばい)現象や霊界通信に直接触れ、
   神界霊界の種々相を体験し、

   神罰の宗教の厳しい戒律の中で、心身を浄化する修行を積ましめ、
   その浄化が終ると、愛の神には神罰はないという霊感を与えられ、

   家内が医界不治の心臓弁膜症(べんまくしょう)に罹(かか)って、
   それを癒すために現代医学を始め、凡ゆる民間の治療法や霊術を訪ねて歩かしめ、

   ついに病気”そのもの”の正体を知り、病気は”心の影”なることを身をもって体験し、
   神罰無、病気無、悪業および悪因縁の無、一切の”悪の無”の哲学――

   善のみ実在の「生命の実相」哲学を打ち建てるまで一貫して導いて来られたのが、
   私の産土神であり、その産土神が日本国家守護のため、神功皇后の新羅侵略撃退の時に、
   住吉大神と共に神助を与えられたる神であったのであり、

   現代日本の危機に、祖国防衛のために住吉大神の御旨(みむね)を受けて、
   吾ら信徒総立ちとなって、八岐(やまた)の大蛇(おろち)から、
   奇稲田(くしいなだ)姫(日本国の象徴)を守るために、

   素佐之男命(すさのおのみこと)の「護国の神剣」となって挺身(ていしん)せよというので、
   ついに政界にまで光明化運動が進出することになったのであります。


  ⑦世界平和の大使命は諸教の一致点を明らかにしてのみ得られる

   かくの如くわたしはこの地上にうまれて、神功皇后の新羅征伐に神助を与えられた、
   生田神社の稚日女神(わかひるめのかみ)を産土の神として導かれ、
   住吉大神の稜威(みいつ)の中につちかわれ、真理を教えられてついに
   八十二歳(本稿執筆当時)の今日に至るのであります。

   (http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1882 より転写)

           <感謝合掌 平成27年11月24日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~少年期から青年初期まで - 伝統

2015/11/25 (Wed) 03:34:23

        *「生命の實相」第19巻自伝篇(P5~37)より要点を抜粋

(1)運命の導き

   わたしは中学時代にどこかの八卦見(はっけみ)で、
   人相をおおまかに見てもらったことがあったが、

   「あなたは次男でありながら跡継ぎの人相をしている。
   生まれた家を出る相をしているから、
   おそらく生まれた家を出て他家であとつぎをする人であろう」

   とその人相見は言った。

   わたしの血縁の兄弟は、すぐ兄が一人妹が四人あるが、
   どの兄弟もわたしにほとんど容貌(かおかたち)が似ていない。

   わたしだけが特別な容貌をしていて、わたしだけが叔母の家に貰われ、
   わたしだけが最も多く教育され、
   わたしだけが一等精神的方面に興味をもつようになったのである。

   同じ家に生まれながら、わたしは兄弟のうちで別の容貌をもち、
   別の運命に導かれ、別の生活を送るように割り当てられていたのである。

   わたしは叔母の家へ貰われていったのではないと、
   生みの母がわたしが成年になってからわたしに話して聞かせたことがある
   ――それは4歳の時、わたしがあまりにかわいらしいからどこかへ遊びに連れて行くのに
   一日だけ貸してくれと叔母さんに言われて、
   それきり、わたしを生みの家へは返してくれなかったのだ。

   迎いにいってもわたしを隠してしまって、
   その代わりに姑さんが出てきて「マサハルはここへ置いといたらいいじゃないか」
   と言うのだから、姑さんに敵対するわけにもゆかないので、そのまま、叔母の家に置いたら、
   ついにその家の子になってしまったのだそうである。

   運命が、わたしを選んでそう導いていたのであろう。 (P5~6)


(2)実父音吉

   実父音吉は、大変遠慮深い性質の人だったらいしい。
   親類を訪問するにも自分で弁当をさげていって相手に世話をかけたくない
   というふうな思いやりを常にしていた。

   それを窮屈な人だと言って酷評する人と、
   思い遣りのある人だと言って深切な批評を下す人とがある。

   どちらも本当らしい。

   わたしの遠慮ふかい引っ込み思案な性質はこの実父から受け継いだものであって、
   わたしは今まで常にこの自分の引っ込み思案な性質と戦ってきた。

   そして今ではともすれば「自分」という殻の中にのみ立て籠ろうとする
   遺伝的な遠慮深さを大分征服して、
   「世話になろう、世話をしてやろう」の大きな境地に這入りかけているのである。

   それでもわたしは時々、他人の世話になることをあたりまえに思っている
   《虫のよい人》を見るごとに、親類の家を訪問するにも手弁当を忘れなかった
   「この世話になることをみずから慎んだ」わたしの実父の人のよさを時々思い出して
   敬愛の念を感ずるのである。            (P6~7)


(3)中学時代

  ①中学は市岡中学である。死んだ直木三十五の植村宗一君はわたしの一年上級生であった。
   そのころから無帽主義で丸刈りの長い頭をふり立てていた植村君を、皆が「海坊主」と
   綽名をつけていたことを聞いていたが、わたしは「そうかなァ」と思ったきりで
   人を綽名で呼びたいと思ったことはなかった。(P19)

  ②わたしは、そういう弱い先生をいじめる気にならなかった。
   わたしはむしろ、強い先生に楯突くのが好きであった。

   といっても別に暴力を用いたことはなかった。思索や議論で長上を征服するのであった。

   運動は嫌いでしたがって下手であったし、膂力(りょりょく)も衆に劣っていた。
   勝負事はきらいであったのは、負けると不快であるので、勝てるようになるほどに
   技倆(ぎりょう)があがるまで、練習する気乗りがしなかったからである。

   しかしいつか体操の時間に雨が降ったので畳敷きの柔道の道場で、同級生全部と
   腕相撲したことがあったが、その時は、どういうものか、もっと力の強い武術の選手や
   運動部の選手も混じっているのに、わたしがその全員を一人残らず
   腕相撲で負かしたことがあった。

   ひとりが「谷口君は腕相撲が強い」と言い出すと、
   皆がその言葉の力で自己催眠にかかって負けてしまったらしい。

   もっとも、わたしは運動では、鉄棒が勝負がなくて、ひとり楽しめて好きであったから
   毎日楽しみにやっていて級中、三、四番ぐらい上手になっていたから、
   手掌(てのひら)の把握力というものが強かったのかもしれない。

   それにわたしは人一倍大きな手掌をもっていたので有利だったのだろう。

   わたしはこの大きな手が一時恥ずかしいような気がしていたが、
   「この手は天下を握る手だ」となんとなくそう思って嬉しかったこともあった。
                                  (P21~22)

  ③ニセ物の自由、わがままな自由を本物の人格の自由だと考えていた自分であったからこそ、
   教師を議論でいじめたり、長上に反抗したりすることが自由の発露だと思っていたわたしは、
   自然の勢いとして、周囲と衝突し、周囲によってしばられている窮屈な自分を
   見出さずにはいられなかった。

   人間を肉体であると考える限り、完全なる自由は環境にありえない。
   完全なる自由なき環境おかれた「自由を欲する人間」は苦しむほかはない。

   わたしは別に常識で言えば苦しい環境には置かれていないのに、
   なんとなく人生がくるしくなり、生きていることが味気なくなり、
   さりとて自殺する気持ちにもならず、
   なぜ、「人間は生まれて来たのであるか」などということを思索するようになっていた。
                               (P24~25)

  ④「我(が)」の強い、敗けず嫌いの子供であった

   大本教の筆先に

   「我(が)のあるみたまが、我がなくなりて初めて神の本当の御用ができるものである。
   始めから我のないようなみたまは弱くて役に立たぬ」

   というような意味のことが書いてある箇所があるが、その真偽はさておき、
   わたしはずいぶん「我(が)」の強い、敗けず嫌いの子供であった。 (P27~28)

  ⑤中学で先生から「お前は虚無党だ」と叱られたころのこと、
   同級生たちが集まって編集していた回覧雑誌に『鶴声(かくせい)』というのがあった。

   わたしはその回覧雑誌に「なぜ人間は親孝行せねばならぬか」というような題で
   親不孝論を書いた。

   すると、盛んに同級生から駁論が送られて来たから誌上でさかんに論戦したものである。

   わたしはそのころ、人生を楽しいと思っていなかった。

   わたしの立論は、すべて唯物的であった。

   《生命そのものの無限向上》ということを認めないで、
   ただ《生命を現世だけ在するものと観》、その現世を苦しいものと感じているので、
   なんのために生まれたのか、生まれることに動機を与えた父母というものこそ
   呪うべきだというような見地から、親不孝論をとうとうと述べているのであった。


   わたしは現在の心境に到達する前には、誰にも教えられずに、虚無思想も左翼思想も
   自己のうちに発生せしめて、それを卒業して来たのであった。(P29~30)


(4)早稲田の文科

  ①わたしはそのころ(早稲田の文科入学前)、
   人生というものは苦しいものだと独りぎめして
   《苦しむことが人生を知ることだ》と思っていたのである。(P33)

  ②早稲田の文科に這入ったころ、わたしは19歳であった。
   姉崎正治博士のショーペンハウエルの『意志と現象としての世界』を読んで
   大いに心を動かされた。

   この世界最大の厭世哲学は苦しみが人生の正味で楽しみは虚仮不実の存在である
   ということを、豊富な例証をあげて説明していた。

   その哲学はまことに当時の自然派文学論を証明しているようにみえた。

   人生は苦しいのが本体だ!

   ますます私の人生観はこういうふうに傾いていったのであった。(p34)

  ③早稲田の英語のセッションの講義を片上伸氏から聞いたが、
   そのセッションの中にウィリアム・ジェイムズ教授の
   「人生観は人の肝臓のいかんにある」という論文があった。

   〝Liver〝 という字を「肝臓」と「生活者それ自身」という意味の両方の意味に
   かけてあるのであって、

   結局、厭世的人生観を抱くようになるのと、楽天的人生観を抱くようになるのとは、
   生活者それ自身の肝臓(血液、健康、元気)いかんにあるので、

   光明方面を見る人には楽天的人生観が抱かれるし、
   暗黒方面を見る人には厭世的人生観が起ってくるようなことが書いてあった。

   そのころ別の方面から、ショーペンハウエルが厭世哲学を組み立てたのは
   彼は常に胃病にくるしめられていたからだったと聞いた。

   厭世的人生観を抱いている者が胃病にくるしめられるのは当然である。

   心が常に暗黒方面を見ているときは、その心の影として血液の循環は不活発になり、
   胃の腑の活動が鈍って胃病になるのは当然である。


   もし今の私がショーペンハウエルに遇ったなら、
   彼の慢性胃病を治しておのずから彼の哲学的天才をして曠世(こうせい)の
   大楽哲学を組立させてやっただろうに、惜しいことをしたと思う。 (P34~35)

  ④新浪漫派(ネオロマンチシズム)の作品を読むようになり、
   人生は暗い暗いと思っていたが、人生は暗くないのではないか。
   人生はかくのごとくいみじくも美しいのではないか。

   わたしもその美しい人生を歩みたいという気になったのはそこころである。

   空想美と感覚美の世界へと転向しはじめたのであった。

   オスカー・ワイルドの論文を読み、善悪は人間の社会的便宜のために造った
   レールであるが、美の感覚はそれ以上の世界のもののように思われ出した。
                                  (P36~37)

・・・

<参考Web:ブログ”山ちゃん1952”(2014年07月27日)

       谷口雅春先生年譜一覧表-1(明治26年11月22日~大正6年)

       → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10382344.html >

           <感謝合掌 平成27年11月25日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡【生誕~立教】の概略年譜 - 伝統

2015/11/26 (Thu) 03:34:59


年号 西暦 御歳        出来事

明治26 1893 1   11月22日兵庫県矢部郡鳥原村字東所
            (現在の神戸市兵庫区鳥原町)に生まれる。

                              (明治27)日清戦争
明治31 1898 6   大阪市立蘆分尋常小学校に入学

                              (明治34)昭和天皇ご降誕
明治35 1902 10  大阪市立蘆分尋常小学校卒業
            大阪市立春日出尋常高等小学校に入学。

                              (明治37)日露戦争

明治39 1906 14  大阪市立春日出尋常高等小学校卒業。
          大阪市立市岡中学校に入学。

明治44 1911 19  大阪市立市岡中学校に卒業。
          早稲田大学高等予科(文科)に入学。

                              (明治45)明治天皇崩御
大正 1 1912 20
大正 2 1913 21  早稲田大学高等予科(文科)卒業。
           特待生として早稲田大学入学。
大正 3 1914 22  早稲田大学を中退。
            摂津紡績入社。 
                             (大正3)第一次世界大戦開始

大正 6 1917 25  摂津紡績を退社。
                             (大正7)第一次世界大戦終結
大正 8 1919 27  大本教に入信し綾部に移住。
大正 9 1920 28  処女出版『皇道霊学講和』。
            輝子先生との御結婚。
           (大正9年11月22日<今井梅軒氏の媒酌>)
大正10 1921 29  一燈園を訪問。
                             (大正10)第一次大本教事件
大正11 1922 30  大本教を脱退             
大正12 1923 31  論文集『聖道へ』を出版。
           小説『神を審判く』出版。
                             (大正12)関東大震災

大正13 1924 32  ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-入社。

                             (大正14)治安維持法公布

大正14 1925 33  ホルムス著「如何にせば運命を支配し得るか」の訳書を出版。
大正15 1926 34  『信仰革命-霊魂の不滅と人の死んだ後の話』
            『錬心健康術』(訳書)        
            『神と偕に生くる道』(訳書)を出版。

                             (大正15)大正天皇崩御

                             (昭和 3)昭和天皇即位の大礼

昭和 4 1929 37  2回目の盗難後「今起て!」の神啓を受け、
            会社退出後の夜間に『生長の家』誌の執筆を始める。

昭和 5 1930 38  『生長の家』創刊号発行
                             (昭和 5)浜口首相、東京駅で狙撃


     *”山ちゃん1952 さま”のブログより抜粋しました。

       ブログ”山ちゃん1952”(2014年07月27日)

      ①谷口雅春先生年譜一覧表-1(明治26年11月22日~大正6年)
       → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10382344.html 

      ②谷口雅春先生年譜一覧表-2(大正7年~大正11年)大本教時代
       → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10383148.html

      ③谷口雅春先生年譜一覧表-3(大正11年~昭和3年)
       → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10383894.html

      ④谷口雅春先生年譜一覧表-4(昭和4年~昭和20年)
       → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/10386052.html

           <感謝合掌 平成27年11月26日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~大本時代(その1) - 伝統

2015/11/27 (Fri) 07:37:28


          *Web:ブログ”山ちゃん1952”(2014年10月11日)より

(1)大本時報の御文章(大正8年~大正9年)
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/14684831.html


   (抜粋)
   大正8年:皇道霊学講話(一)

   大正9年:皇道霊学講話(二)~(十四)

   大正9年:ヨハ子默示録の研究(一)~(十二)

   

(2)神霊界の御文章(大正7年~大正10年)
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/14684783.html

   (抜粋)
   大正七年十一月一日(第七十三號)~『神霊界』初めての寄稿(神戸より)
   大正八年二月十五日(第八十號)~大本の入信の動機を語る
   大正八年四月十五日(第八十四號)から編集後記を担当

   (歌)

   谷の戸を 明けて出口の 御教は 正しく直ゝ 國を治めむ (谷口正治)

   日の本を 神のみ國と 知らずして 見るもたふとし 秋津しま山 (江守輝子)

   谷派なる 神の出口の 正言に 丸く治まる 四方の國々 (谷口正治)

   谷派なる 出口の教子等(こら)が 襟正し 心治めて 参る桃山 (谷口正治)

           <感謝合掌 平成27年11月27日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~大本時代(その2) - 伝統

2015/11/28 (Sat) 04:51:46


          *Web:ブログ”山ちゃん1952”(2015年01月27日)より

(1)皇道大本と谷口先生-1~言霊と神通力
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485215.html

   (抜粋)

   言霊と神通力(大正十年二月一日  発行)~谷口正治講述

   (1)宇宙の一大神劇

   (2)三種の寶(たふと)き鍵

   (3)言霊學の概念

   (4)~(8)言霊


(2)皇道大本と谷口先生-2~亀岡叢書
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485385.html

   (抜粋)

   亀岡叢書というのは全14巻になる小冊子です。その中で

   第三編 御筆先の解説せる 大本霊学  谷口正治(大本新聞での参照)

   第四編  神示の比較宗教論     谷口白龍(ペンネ-ム)

   第五編  ヨハ子黙示録(子はママ) 谷口正治

   第六編  鎭魂歸神の要諦      谷口正治講述

   第七編  基督再臨の眞相      谷口正治
                今井楳軒翁の序

   第九編  社会主義と皇道大本    谷口正治

   第十編  行ふべき道        谷口正治
     
   第十二編 言霊と神通力       谷口正治
        言霊を詳しく書き表わしています。

   第十四編 非醫治療法批判(上)   谷口正治
   (下)は出版されていませんが、書かれた時に大本事件等あり
   そのままになったのではないでしょうか?


(3)皇道大本と谷口先生-3~言霊学
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485484.html

   (抜粋)

   大本教 王仁三郎の『言霊の大要』(『神霊界』誌上に連載された言霊学の記事)
   と、谷口先生の『言霊と神通力』の違い


(4)皇道大本と谷口先生-4
   ~谷口雅春先生の御文章 大本時代~『神靈界』(B五判)掲載のご文章
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486121.html

   (大正7年十一月一日(第七十三號)~大正八年五月十五日(第八十五號))


(5)皇道大本と谷口先生-5
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486167.html

   (大正八年六月一日(第八十七号)~大正十年六月一日(第百三十八號 終刊号))


(6)皇道大本と谷口先生-6『光』誌御寄稿文章
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486383.html

   (大正11年10月号~大正十年十一月號)

(7)皇道大本と谷口先生-7『光』誌御寄稿文章
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486384.html

   *(6)と(7)は同じ内容か?


(8)皇道大本と谷口先生-8『皇道霊学講話』(大正9年6月初版)
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486461.html

   (目次の抜粋)

   序にかへて

   第一章 総説

   第二章 最近の世界思潮と其矛盾

   第三章 宇宙の本質と言霊元子

   第四章 言霊元子活動の天則

   第五章 神力の発現と自然現象

   第六章 基督再臨問題と其意義

   第七章 世界の立替立直と其時期
 
   第八章 人類の起源と其進化

   第九章 日本対世界の大葛藤

   第十章 日本人の使命と世界統一

   第十一章 霊魂と宇宙意思

   第十二章 霊魂の人格的存在

   第十三章 憑霊現象と心理学者の誤解

   第十四章 守護神とは何ぞ

   第十五章 鎮魂帰神の価値


(9)皇道大本と谷口先生-9(大正3・2~大正12.2)
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21486680.html

  ①大本時代の年譜①

  ②谷口雅春先生の処女作である『皇道霊学講話』の序(浅野和三郎氏)


(10)皇道大本と谷口先生-10(大正8年10月12日~大正8年12月7日)
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21487033.html

  ①大本時代の年譜②

  ②「谷口先生と武者小路実篤」


(11)皇道大本と谷口先生-11(大本の入信の動機)
   → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21487094.html

   (抜粋)大本の入信の動機

   『私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥ぢない生活を見出しました。
   それは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。
   過去を振返って見ますと凡てが大本へ入る前の予備試験のやうに考へられます。』


           <感謝合掌 平成27年11月28日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~大本時代(その3) - 伝統

2015/11/29 (Sun) 04:20:06


          *谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
           行ふべき道(山ちゃん1952 さまの投稿)より



行ふべき道       龜岡叢書第十編 大正9年11月20日発行
                             谷口 正治

はしがき

「心だに誠の道にかなひなば祈らずとても神やまもらん」云ふ古歌がありますが、
まったくその通りであります。

しかしながら「誠」とは何ぞや、「誠」を養成するにはどうすれば好いか、
「改心」とは何ぞや改心するにはどうすれば好いか、と一歩突込んで考へて見ますと、
吾々は世界の終末、最後の審判の日が刻々と近づきつつあると云ふ現在に於て、
なほ日暮れて道とほしの感なき能はずであります。

自分で「誠」でゐるつもりでも「誠」でなかったり、
改心したつもりでその實改心が出來てゐなかったりすれば、
祈ったからって神は充分の御守護を下さらないと思ひます。

世界の終末に際して神示の改心に從ふと從はないとは我等の生死の分岐する所であります。

されば余はここに大本神諭の中(うち)より、それ等に關する神訓若干箇條を選んで
それに余一流の註釋は偉大なる国祖神の神智のまにまに録されたる至幽至言なる御筆先に
比べますと、瓦と玉とを比較する程の遜色がありますのでどうも神諭を冒涜するような気がして
思ふやうに筆が伸びないのです。

その中(うち)に余は疲れて了(しま)って机に凭(よ)り掛ったまま眠って了ひましたが、
眼が覺めてふと机上に置かれた聖書を披(ひら)いて見てゐると余の纂(あつ)めてゐた
大本神諭とぴったり符節を合する章句が、悉く披くに從って余の前にフヰルム(※フイルム)
のやうに展開して來るのであります。

余は聖書研究者としては四福音書のうちの一書すら讀過したことのない全然の素人であるのに、
神啓の來る時には、繙くに從って欲する章句が自ら披かれて來る習慣があるのであります。

この編纂も要するに神啓のまにまに纂められたものであって肉體的自分の努力でもないことを
申添へて置きます流石に耶蘇聖書は耶蘇及びその信徒たちの靈感を基礎として書かれたものだけに、
吾々大本神諭を註釋に優ること萬々だと思はれます。

耶蘇聖書は最後の審判のやがて來るべきを説き
その時の用意のために如何に實行すべきかを示してゐるのであります。

以て相互の教訓が全く符節を合するのは當然のことだと思ひます。
                         編者識
                ※は山ちゃん記載

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=17

           <感謝合掌 平成27年11月29日 頓首再拝>

谷口雅春先生の足跡~大本時代(その4) - 伝統

2015/11/30 (Mon) 04:14:06

          *Web:ブログ”山ちゃん1952”(2015年01月27日)より
               (http://tecnopla1011.blog.jp/archives/21485215.html

(谷口雅春先生の貴重な講述なので、ここに転写させていただきます。
 ”山ちゃん1952 さま”のお許しをお願いいたします)

・・

『言霊と神通力』

『言霊と神通力』は霊学を因として「やまとことば」を理解しながら
“ア”の言霊から“ワ”の言霊までを分析しているのです。
日本語と言霊とその神通というのを考えると、言霊は大切な要因である。

下記文章は生長の家の基礎を築いた重要な本である。


『言霊と神通力』(皇道大本研究資料亀岡叢書第12編)

言霊と神通力
谷口正治講述

(1)宇宙の一大神劇
何と云ふ皇典「古事記」は驚くべき大預言書であるだらう。
私は此頃つくづくこの書物が条上中下三巻日本の国に逸散せずにに残されてゐる
と云ふことは吾等にとってどんなに力強い事であるだろうかと考えます。

この僅かな書冊のうちには過去現在未来を通じて宇宙に起って来るべきあらゆる悲劇、喜劇の
プロットがをさめられてゐますそれは全く驚くべき秘密の玉手匣(はこ)であります。

この玉手匣は世界の週末の日が来る時まで開かれずに封せられてゐた観がありました。
この神秘の玉手匣の扉を開くべき秘鍵(ひけん)今迄唯皇道大本にのみ握られてゐました。
しかし時期が吾々には来たやうに思はれます。

吾々は幸福なるこの草稿の読者に、この驚くべき秘密のビックリ箱を開くべき寶鍵を
或る程度まで授けて置きたいと思ひます。

この寶(とふと)き鍵によって「古事記」三巻に預告されたる来るべき世界の一大神劇について
そのプロットを預め御承知になって置かれたならば、諸君が宇宙の一大神劇の立廻り役者の
一人としてすべての點に於て好都合であると考えます。

しかも皇典古事記だけが吾々に既に起った、そして現に起りつつあり、
やがて未来に起るべき事件のプロットについて知らしてゐるのではありません。

佛典も耶蘇聖書もやはり「古事記」が千二百年以前に記録したと
同じ事の預告をしてゐるのであります。

唯是等の経典も今迄はその秘(かく)されたる奥義を開くべき鍵?(かぎ)がないために
空しき人間的頭脳の煩瑣(はんさ)な学究に捕はれてゐて、
その真意を暁(さと)ることが出来なかったのであります。


(2)三種の寶(たふと)き鍵

此等の聖典を開くべく皇道大本が握ってゐる武器には、
「珠(たま)」に擬(まが)ふべき言霊學と、「剣」に譬ふべき鎮魂帰神と、
「鏡」に較ぶべき大本神諭とがあるのであります。

若し吾々が世界の前途について預言するならば、それはそれらの聖典の言霊學による解釈と、
大本神諭の平易親切なる説明と、そして自己みづからが鎮魂帰神の神法によって
神霊の世界を交通した結果神みづからより親しく教えられたる事件とそれらがぴったりと
一致する場合にのみこれを萬間違ひなき確実の預言であるとし公表すべきであります。

大本信者の中にも軽率なる人達が混ってゐて、或は古典の言霊解のみによって、
或は自己の神懸による神啓のみによって、或は間違った先入観念に依って
大本神諭を曲解したもののみをもって、此後(こんご)の預言なりなどと称し
浮虚な妄弁を弄して世人を惑はし、延いては大本神の威信を傷つけつつあるは、
甚だ残念なことであります。

それ故大本研究者は大本神諭の熟読と皇典の言霊解と鎮魂帰神の修法とそれらのどの一つをも
忽諸にしてはならないのであります。

この、簡単なる草稿が言霊及言霊學の概念と、言霊の活用法につき諸君に何等かの
貢献をすることが出来れば筆者にとってこれに過ぎたる歓喜はありませぬ。

本稿を読了せられた諸君は皇道大本の機関雑誌、「神霊界」に出口教主補が言霊學によって
古事記を解説せられつつある実際についてその眞味を会得せられ尚自ら活用し得る能力を
養成せられんことを希望します。


(3)言霊學の概念

耶蘇聖書ヨハネ伝第一章に斯う云ふ事が書いてあります。

「太初に道あり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり。・・・・・萬のもの是に由って造らる。
造られたるものに一として是に由らで造るられしはなし、是に生命(いのち)あり。」

実に空海も「聲字即實相」又「聲物一如」と云ったやうに
一切の物は言葉によって作られたものであります。
否、言葉即ち事物なのであります。

もう一層判りやすく申せば「言」即ち「神」なのであります。

前掲ヨハネ伝にある通り又「言」即ち「神」でありますから、
日本では「言」は美称ミを附して「詔(みこと)」といひ「尊(みこと)」と
書いて神の尊称と致して居ります。

西洋では少し発音が訛ってゴド(GOD)などと云ってゐるのであります。
一切の「事」は「言」によって成るのでありますから、物の出来ることを言ひ現はして
「成る」(即ち鳴る)と云ふのであります。

「古事記」の冒頭に、
「高天原に成る神の名は天之御中主神」
とあるのなども「高天原にお生まれになった神様のお名前を天之御中主神と申す。」などと
解釈しては薩張(さっぱっ)りだめであります。

又、第一高天原を「タカマガハラ」と訓んだのが在来の国学者の驚くべき軽率な間違ひ
なのでありまして古事記は明らかに(高の下の天を訓じてアマと云ふ)と割注がして
あるのであります。

高天原を「言霊學」に仍って簡単に解説しますと、陽(タ)陰(カ)生れ出でて(ア)、
至大天球成就し(マ)進化発展して種々相を呈し(ハ)循環運行して尽くる事なし(ラ)
と云ふ意味であって、これは宇宙の実相をその聲音に仍って表現したのであって、
高天原とは実に全大宇宙のことだと云ふことが判るのであります。

そこで「高天原に成る神の名は天之御中主神」と古事記にあるのは、
全大宇宙に鳴り渡る言葉が天之御中主神と云ふ意味であってことがわかるのでありまして
耶蘇聖書に「太初に道あり」と書かれてゐるのとぴったり一致するのであります。

かう云ふ風に言霊學に仍って古事記を解釈して行きますと、
驚くべく発達した日本の太古の哲学が、如何に高等なものであって、
泰西近代の哲学科学の綜合よりも尚一層高い飛躍をしてゐたといふことが判るのでありますが、
それはあまり岐路に亘りますからその問題について研究なさりたい方は拙著。
「皇道霊学講和」を御一読下さるやうに希望いたします。


(4)ウの言霊

斯くの如く宇宙の実相は聲音(ことば)でありますから、
聲音が変われば実相も変わって来るのであります。

従って聲によって雨を降らし風を呼び雷霆(らいてい)を叱咤し得ることは
当然の言だと云はなければなりませぬ。

例へばウの聲であります。
この聲には上へ「押し上げる霊力」をもっています。
(言葉が単に響であるだけでなく、物を変動さす霊力をそなへてゐる場合に言霊と申します)
それ故重い物を上へ持ち上げる場合にウの聲を出すと軽く持ち上がるのであります。

動くの「ウ」、海(動水(うみ)の「ウ」、鵜の「ウ」、などは皆その諸相に含まれてゐる
「浮き上がる」はたらきの言霊を人間の言葉に写しとったものであります。

霊力ある人がウ-の言霊を力強くとなへますと雨などを自在に止めることが出来ます。

しかし普通の人の聲音は単なる響であるものが多いので如何にウ-ウ-呻って見たところで
何の効能もないのであります。

霊力を得るには身魂の修練と云ふことが必要でありますが、
その方法について如何にすべきかを研究なされたい方は皇道大本の唯一修行場亀岡大道場へ
お越しなさい、一週間位にてどうにか見当がつきあとは自修の道の得られるやうに努力します。

皇道大本は自己のために存在するのではなく天下国家のために存在する機関でありますから
束修や修業費は一文半銭たりとも申受けません。修業者には御希望により滞在中の宿泊費一泊三食
にて実費一円と云ふ極めて廉価にて清潔なる宿舎に御案内申します。


(5)エの言霊

悪霊を祓ふ言霊にエ-ッの聲があります。
エの聲は古来から気合術などによく用ゐられてゐる掛聲でありますが、
この聲には「岐(わか)れ出でしめる」霊力があるのであります。

吾々は不用意の間にこの聲を用ゐて小さな効力を現はす場合があります。
子供などが身の辺りに纏わりついて来て五月蝿い時には「エ-ッ」といふ聲を
「五月蝿」さうな語調で云へば、エの聲がどう云ふ意味か知ってゐない子供も、
倚り付いてゐたのが「岐(わか)れ出て」逃げて行きます。

これはエの言霊に「岐(わか)れ出でしめる霊力」があるからであります。

身魂の研けてゐない吾々でもそれ位ゐの言霊の力は持ってゐますが、
修養の如何によっては襲ひ来る密雲や濃霧をエの一聲(せい)にて
払ひ除くことも出来るのであります。

澄まし込んでゐる顔が岐(わか)れて破顔一笑するのを「エム」と云ふのも、
多くの物から選びわかれ出す意味を遊ぶと云ふのも皆「この岐(わか)れ出でしめる」
霊力あるエの言葉が附いてゐるのであります。


(6)ハ及びスの言霊

タカアマハラの言霊を解釈した前項に於てハは「進化発展して種々相を呈し」と云ふ意味だ
と申して置きましたが、ハの聲には「開き伸びしめる」霊力があるのであります。

吾々は知らない意(つも)りでゐながら、その実この言霊の力を利用することが度々あります。

寒い風に吹かれて、手が凍り縮かんでゐる時に
吾々はハ-ッと云って掌に息を吹きかけるのであります。

子供の動作などを見てゐると、花の萎んだを開かせようとする時には
ハ-と云って矢張り息を吹きかけてゐます。
どうしても「開き伸びしめる」にはハ-の聲でないと駄目であります。

ス-などと云って息を吹きかければ却ってスボんで了ふに相違はありませぬ。
といふのはスの聲は中心に締め括る霊力をもってゐるからであります。

スボム、統べる、主(す)、皇国(すめらみくに)。
天皇(すめらぎ)などの言葉にスの聲が附いてをるのはこの為であります。

統一され混乱してゐないと云ふ意味から、澄む、住む、透くなどと云ふ
スの聲をもった言葉が出来てゐるのであります。

これに反してハの聲は「張り伸びる」霊力を持って居りますから、
生物が張り伸びて進化発展する季節を「春」と云ふ風にハの聲を附けて云ひます。

又、身体の部分で一番「張り伸びてゐる」場所を「腹」と云ひ、
地球上で一番張り伸びて平たい處を「原」とか、「畑」とか云って、
矢張りハの聲がついてゐるのであります。

その他、葉と云ふのも羽と云ふのも走るとと云ふのも放つと云ふのも悉く
「張り伸びる」と云ふ相(すがた)を捉へて言葉にしてゐるのであります。

実相をとらへて言葉にしたのが日本語であり、諸物に種々相あるは宇宙に鳴り亘ってゐる
聲に色々の変化があるためでありますから、日本人の言葉は宇宙の聲をそのまま捉へて
発音した言葉であって外国語に優れて霊力があるのであります。

外国語も日本語も本来世界共通語あったのだが外国人は霊分が低いために
訛り訛って今では外国語は全然符牒化して、言葉に霊力がなくなったのであります。

あまり訛り方が度重なって、殆どその訛音(なまり)の痕跡をたづねるに苦しむ程でありますが、
まだ明らかに太古に於ては世界共通語であった痕跡のある言葉を沢山見出すことが出来ます。


(邦語)            (漢音)        (英語)
キミ(極身(きみ)の意    君(くん)      キング(King)
タケ(高く細き意)      竹(ちく)      スチック(Stick)
すべる(統べる)       紫微(しび)     ス-パ-(Super)

先ず此麼(こんな)ものであります。


(7)シの言霊

寒い朝に冷水浴でもしてゐる人を観察すれば必ず、シ-シ-と云って息をしてをります。
これはシの言霊は引き緊め縮める力をもってゐるからであります。

即ち寒いから毛孔を縮めて体温を放散せぬやうに知らず知らずシの言霊を使ってゐる訳であります。
緊める、しばる、などと云ふ言葉にシの聲がついてゐるのは拡がってゐるものを引きしめる
ためであります。

緊褌(きんこん)一番、筋肉を引締めてかかる時にはシッカリと云ってシの聲をやはり使ひます。
人が浮はついて騒いでゐる時に、気を引き締めて黙らせるためにシ-ッと吾々は云ひます。

そうすると「静」かとか「沈黙(しずまる)」とか云って気が引締まった状態になるのであります。

子供を放尿させる時には母親がシ-と云ふ言霊を使ひます。
すると子供は全身を引締め縮めるので、中に這入ってゐる液体が一箇所に活路をもとめて
滴り出るのであります。

「沈む」とか「下」とか云ふ言葉にシがついているのも、
浮き立ってゐるものが引き締められた象(かたち)であります。


(8)其他の言霊

以上は思い出す儘に吾々日本人の言葉は決して符牒ではないこと、
それは実相を形成するものであり従って言葉の霊力によって物の状態を変化し得るものである
と云ふことを証明するために一二の例証を引いたに過ぎませぬ。

が大体言霊の威力についてはお解りになったらうと思ひます。

五十音の中、以上の説明に洩れたものを次に複雑な説明なしに表記する事にしましょう。

上述の説明に従って類推して下さることを希望します。

但しヤ行のイ及びエ、及びワ行の井ウエオは、
厳密に云へばア行のイウエヲとその霊がちがひますが、大体同一と見て差支えありませぬから、
重ねて説明しない事に致します。

片仮名の下に書き録(しる)したる漢字は
その聲音(こえ)の霊力の性質又は意義の代表的総括であります。

然し言霊は決して一音一義に限るものではなく使ひ方によって千変万化するものでありますから、
これ以上に意義はないなどと考へられれば大変な間違に陥ります。


ア「顯、在」
○發く(あばく)(現はれ開く)
○葦(あし)(繁り顯れる)
○頭(あたま)(顯靈(あたま))
○生(あ)れる(顯はる)
○汗(気の迫りたる時顯はる)
○畦(田の迫りたる處に顯る)


イ、井「到、息、集」
○息む(息こもりて出でぬ)
○怒る(呼吸(いき)凝る)
○愈々(息寄る)
○いぶせき(呼吸(いき)ふさがる)
○射る(一筋に到る)
○猪(同上)
○参る、率る、居る(集る)


オ、ヲ「被厭出物」
○男(押出されたる局部を持つ)
○尾(胴體より押出されたるもの)
○緒(押出されて細長き物)
○玉の緒(靈のいとすぢ)
○峰(を)(地面(ぢめん)より押出されたる物)
○劣る(玉の緒を奪(き)られて、不完全になれるもの、ミタマノフユの反對也。)
○弟(劣れる人)
※ミタマフユ神の徳及び、神の恵み、恩恵の意。恩頼(書写記入)


カ「限、幽、輝、相對ふ」
○刈る(限る)
○株蕪(かぶかぶ)(限られたる低きもの)
○母(かか)(相對(あひむか)ふ者の低き方)
○屈む(低くなる)
○神(輝身(かがやくみ)又は幽身(かくりみ))
○風(幽かに迫る)
○霞(全然は澄み切らず幽かに澄めるもの)
○隠る(かすか也)
○必ず(幽かにあらず)
○彼(限れる場所を指す)
○峽(かひ)、貝、方、河、交す、替る、貸す、借る(相對する意)


キ「突別ける」
○木(地を突別けて出る)
○杵(突別ける物)
○刻む、切る(突別ける)
○劍(突き切る物)
○気、霧(空気を突別けて騰(のぼ)るもの)


ク「屈、組」
○暗し(屈んだ内部)
○黒し(同)
○薬(同)
○括る(曲げ曲げくくる)
○食ふ(歯と歯と組み合ふ)


ケ「細く顕る」
○毛「細く顕る」
○煙(かすかに顕はる)
○怪(け)(同)
○気(け)(同)


コ「凝」
○小(凝る)
○子(親より凝り出でし者)
○心(言靈元子(こゑのこ)の凝)
○是(最も近く自己に凝り着けるもの)
○氷(こほり)(凝)


サ「爽」
○さはやか(爽(さはやか))
○悟る(さはやかに知る)
○醒める(さはやかになる)
○さやか(鮮)
○指す(さやかに示す)
○幸(さはやかに続く)


セ「迫」
○急(せ)く(時間的に迫る)
○狭(せ)し(空間的に迫る)
○責(せ)む(精神的に迫る)
○攻(せ)む(攻撃的に迫る)
○瀬(せ)(水に迫れるもの)
○堰(せき)(水に迫る物)


ソ「反」
○此(これ)の外なる意味。
○外(そ)れる(同)
○それ(同)
○そびら(腹の反對)
○外(内の反對)
○逆(そむ)く(同)


た「對照力、高、足」
○父(た)(相對する) (父が「た」という語源がわかりません)一部字が消えている
○種(父の根、靈の根)
○高し。
○足る。
○田(長方形の對辺が相對(あいむか)ふ)
○垂る(足りさがる)
○瀧(高きより切り落つる)
○竹(高く細くあらはる)


チ「續」
○地(ち)(つづくもの)
○路(ち)(同)
○血(親から續く)
○乳(同)
○靈(ち)(同)
○千(数の續き)


ツ「積」
○あるが上に重なる象(かたち)。
○續く(同)
○積む(同)
○包む(同)
○罪(必要以外に蓄積する。包んで發(あば)かぬ)
○憑く(本来の靈魂の上に他の靈魂が重なる)
○接ぐ(本来の幹の上に更に木を重ねる)
○夫(つま)、妻(つま)(連って全ったし)
○強し(重なりたる物は強し)
○束ぬる(重ねまとめる)
まるつつみ(つちのつみたるもの)
○跟(つ)ける(あるものにつづきく)


テ「手」
○出て拡がる擴がる象(かたち)。
○手(同)
○照る(光が出て擴がる)
○テカテカ(同上)
○テクテク(家を出て歩み擴がる)
○梃(支點を中心として力が擴大(ひろ)がる)


ト「止」
○止(とど)まり集まる
○所(止(とど)まる處)
○めをと(男女(めを)ひとつに止まる)
○淀(よど)む(寄り止む)
○利し(剣の如き兩面が止り集る)
○棘(とげ)(同)
○砥(利(と)くする處)


ナ「馴」
○平行して動く象(かたち)
○馴れる(人の心に沿て動く)
○並ぶ(沿ひて動く)
○波(同)
○均す(目的に平行して動く)
○縄(なは)(目的に沿ひて動く)


ニ「和」
○和して争はぬ象(かたち)。
○和(に)ぶ(同)
○逃げる(同)
○似る(同)
○煮る(柔らかくす)
○新(にひ)(新しきものは柔か也)


ヌ「滑」
○塗る(同)
○抜ける(ぬらぬらと辷(すべ)り出(で)る)
○野(ぬ)(凸凹(でこぼこ)なくぬめりとした處
○縫ふ(針が滑りぬける)
○濡らす(ぬらぬらさせる)


ネ「粘」
○練る(ねばらす)
○根(土に粘りつく)
○欲(ねが)ふ(心が目的に粘りつく)
○寝る(床に粘りつく)


ノ「乗」
○乗る(上にひろがる)
○飲む(飲料が咽喉にの上にひろがる)
○咽喉(飲む所)
○延びる(上にひろがる)
○野(上にひろがる處)


ヒ「擴、靈」
○放射線を有(も)つもの。
○日(同)
○靈(同)
○火(同)
○擴がる(放射線の擴がる象
○屁(ひ)る(放射線を出す)


フ「吹、膨」
○緊(し)め縮める反對、フワフワ。
○膨れる(同)
○吹く(同)
○振る(同)
○臥す(同)
○麩(膨れたるもの)
○笛(吹く枝)


へ「平」
○擴がる象(かたち)、平たくする象(かたち)。
○屁(同)
○減る(積まれたる物の平たくなる事)
○ヘマ(平凡なこと)


ホ「秀」
○外にあらはれる意、擢んでたる意、極めて重要なる意。)
○穂(擢んでたるもの)
○帆(同)
○鉾(同)
○火焔(ほのお)(同)
○秀處(ほこ)(女の要所)
○ホンノリ、ホノメク(外にあらわれる)


マ「全、眞」
○圓滿具足すること。氣枯れぬこと。
○眼(圓く全し)
○巻く(圓くする)
○夫(つま)、妻(つま)(連って全くたし)
○誠(圓滿事(まこと)、圓滿言(まこと)、圓滿心(まこと))
○舞ふ(圓く動く)
○松(氣枯れずに續く木)


ミ「滿、美」
○形象(かたち)の滿ち滿ち備はること。
○滿つ(同上)
○身(同上)
○美(同上及びその美稱)
○靈力體三元の滿ち備はること三つの靈(みたま)、水の靈(みたま)


ム「群」
○群がって散ぜざる象(かたち)。
○睦まじ(同上)
○蒸す(蒸氣の群がって散ぜざること)
○村、群(むら)、叢(むら)(家、動物、植物等の群がれるもの)
○結ぶ(二つ以上が群がる、左右又は陰陽が結び合ふ)
○息子(結び合って一つの凝(こり)を生じたるもの)
○虫(群がって散ぜざる水火(いき)の締(しま)りて生まれたるもの)


メ「芽」
○内に陽氣を含む。變性男子(へんしょうなんし)也育て養ふ役也、
 擴がる性質の縮まれる局所を有(も)つ。
○芽(内に陽氣を含む、割れ目より僅かに覗く形體を有(ゆう)す)
○眼(同上)
○女(め)(同上擴がる性質の縮まれる局所を有(も)つ。
○惠む(育て養ふ)


モ「茂」
○すぼまりて、一つに寄る象(かたち)。
○もやもや、もこもこ。
○本(すぼまりて一つに寄る所)
○森(もこもこと茂る)
○友(とも)(止まり集りて盛んになる)
○盛る(集めかさねる)


ヤ「彌、遣」
○彌(度重なる)
○焼(やく)(彌彌黒くする)
○休む。(彌彌落着かず、彌澄(やす)む。)
○安し(彌澄し)
○柔らか(安らかな状態)
○遣る(相手に突き遣る)
○矢(同上)
○鑓(同上)
○ヤ-(打ち込む聲)


ユ「緩」
○ゆるめる意。
○湯(同)
○行く(ゆるめて行かしむ)
○許す(同)
○弓(緩むなり滿つるなり)


ヨ「倚」
○淀(水が寄り止まる。)
○世(人々相寄る。)
○善し(善きものに寄りつく)
○嫁(善女(よめ)、凭女(よめ))


ラ(ラ行独立の靈なし、他の語につきて働をなす)
○働き始まる象
○ハラハラ(雨が降り始める)
○フラフラ(軽く動き始める)


リ ○同上○
○はげしく働きつつある象。
○ガリガリ(物を?みつつある音)
○コリコリ(同上)
○メリメリ(めり込みつつある音)


ル ○同上○
○落付いて活動しつつある象。
○スルスル、クルクル、マルマル


レ ○同上○
○一定の箇所にとどまる象。
○彼、是れと一定の場所を指し示す語。
○來れ、當れ等一定の内容を示して命令を傅へる語。


ロ ○同上○
○働き終りたる後の空しき象。
○空洞(うつろ)(移り動きし後の空しさ)
○室(息の群がりて散ぜざる空洞(うつろ))


ワ「分、割」
わかるる意。われる意。
○吾(神より分れたる者、神の分靈(わけみたま))
○笑ふ(顔の形が分れること。破顔)
○輪(分ち分ちたる極限の微分子は丸きもの也。まるきもの)
○沫(あわ)(生れ出でし形まるき也。


言靈と神通力 終


大正十年一月廿五日 印刷
            定價十銭
大正十年二月一日  発行
著作者              谷口 正治


           <感謝合掌 平成27年11月30日 頓首再拝>

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