伝統板・第二

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生長の家家族の祈願及び修養② - 伝統

2015/10/31 (Sat) 03:42:32


谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「生長の家家族の祈願及び修養①」
からの続きです。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=100


皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その1

        *「生長の家とは如何なるものか」(P90~91)より



  《われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、次いで
   一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇または仏壇の前に座してその冥福を祈願し、
   かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す。》


このわれわれの生命(せいめい)が永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊(こうれい)を遥拝(ようはい)し」
ということの意儀もわかりません。
皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。

いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は日本国の歴史を通して
「今の」一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆不沈はあったにしても、どんなときにも日本国が
動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました不倒翁(おきあがりこぼし)の
重心のごとくドッシリとして、その中心からどんな時にも日本国が立ち直ることが
できた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇のこの御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。

恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。
だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を捧げるのであります。


            <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その2 - 伝統

2015/11/10 (Tue) 04:42:21


        *「生長の家とは如何なるものか」(P91~92)より


仏教では霊魂という言葉を使わないのであります。
それで、「生長の家」で霊魂というような言葉を使うと、
それは仏教と衝突するといって反対なさる方も時にはあるのであります。

しかし仏教では「霊魂」という言葉を使わないけれども「神」という言葉を使う。
『無量寿経』にも釈迦が兜卒天宮(とそつてんぐう)より降(くだ)ってこの世に生まれることを
「兜卒天に処して正法を弘宣し、彼の天宮を捨てて神(たましい)を母胎に降し、右脇より生ぜり」
とあります。

この「たましい」という字は「神(じん)」という字を書いています。
このように仏教も有霊魂論なのですから撲滅しないでよろしいのであります。

一昨日でしたかラジオで、誰かが日蓮上人の遺文録の講義をしておられた時に、
ふとスイッチをひねったのであります。

めったにラジオのスイッチをひねったことはなかったのですけれども、
その時なんだかひねってみたくなって聞きましたら、
その中で、日蓮上人が竜の口で斬罪に遇うところの講義に

「自分はたといこうしてここで斬罪に遇って死んでも、
魂魄(こんぱく)この世に止(とど)まって云々」
ということを日蓮上人が言われたそうです。

それはなんでも『開目鈔(かいもくしょう)』にある言葉らしいのですが、
確かに「魂魄」というものを日蓮上人は認めておられた。
これはやはりわれわれのいう「霊魂」の異名なのであります。

            <感謝合掌 平成27年11月10日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その3 - 伝統

2015/11/18 (Wed) 04:52:01


        *「生長の家とは如何なるものか」(P92~94)より

また仏教では霊魂という言葉を使わないで、「有(う)」という字を使うこともあります。
すなわちわれわれの死んで行く世界を「有」と名づけてありまして、
六道を二十五有にわけるというふうなことをやっておる。

そうして仏教ではわれわれの肉体が滅して四十九日のあいだは中有に迷うという言葉を使って
おるのであって、まだその「二十五有」の中のどこへ行くか決まっていない間が四十九日ある、
その四十九日間を中有に迷って家の棟にふらふらとしている。それからその期間が過ぎると、
その期間が満ちたというので「満中院」と称し「満中院志」というのを配ったりします。

その時期が来るとお前は前世の業がこうだから
六道のうちのどの道を行けということは前世の業に従い、
自然の摂理に従って未来世の行くところが定(きま)ってくるのであります。

ところでこの「有」というのは何であるかというと『仮存在』である。

本来久遠生きとおし常恒の存在であるところの「生命」が因縁によって仮存在として、
アチラに現われたりする、コチラに現われたりする、これが輪廻転生というものであります。

「実相の生命(せいめい)」には来世ということはない、
生まれ変わるということはないのでありますが、
仮存在としての生命は生まれ更わるのであります。

そうしてこの肉体の世というものもこの仮存在の一つであります。

さて、その仮の世というものが何でできているかと申しますと、業でできているのです。
業というのは何であるかというと、「念波」であります。
「念波」の集積が業であります。

それで、われわれの肉体というものは、科学的にはこれは物質の体で、
物質の体とは何であるかというと、エーテルの波の中にできた渦巻の塊である。

そのエーテルも本来無いというような最近の説までありますが、
結局「何もないもの」無の一種の波であるということになっているのであります。

そんなわけで、この肉体というものも何もないものも一種の波であるのでありますが、
肉体として現われている波と、霊魂の体として現われている波とがあるのです。

眼に見える波動(すなわち肉体)だけ存在すると思ってなりません。眼に見えない、
われわれの五官に触れない無数の波動が存在するということを知らねばなりません。

            <感謝合掌 平成27年11月18日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その4 - 伝統

2015/11/28 (Sat) 04:41:13


        *「生長の家とは如何なるものか」(P94)より

赤外線でも紫外線でも眼に見えませんが、
眼に見える可視的光線よりもかえって強い働きを現わすのです。

われわれはこの地上の生活においては肉体という眼に見える波動的体を現わして、
この物質界という波に触れることによって、この波の世界ならでは体験することの
できない経験を得て、だんだん修行しつつ、この地上の生活によって「有(う)」の
第一段階を終えると、今度は肉体という粗雑な波動の体を脱いで、
そうしていっそう精妙な霊体の波だけになるのです。

これがいわゆる日蓮上人のいわれた「魂魄(こんぱく)」であり、
霊体の波だけになってそうしていろいろまた霊界において
活動することになるのであります。

われわれの祖先も肉体を滅しても霊体の波はやはり存在しておりますので、
その霊体の波たるや、その人の悟りの程度にしたがって千差万別の状態を
現わしているのであります。

それは現世においてもこの肉体という波動的存在がその人の悟りの程度にしたがって
いろいろの波を現わして、健康であったり病気であったりしているのと同じであります。

            <感謝合掌 平成27年11月28日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その5 - 伝統

2015/12/06 (Sun) 04:46:51


        *「生長の家とは如何なるものか」(P94~95)より

われわれはこの肉体を、たとえば画家の描く板の画布(カンパス)とでも考えれば
ちょっと感じが出るのであります。

最初われわれは板製のごつごつしたカンパスによってわれわれがいろいろ
絵を描(か)く稽古をする。それから少し上達してきたら、その絵は粗布(そふ)の
カンパスに絵をかいて稽古をする。

その稽古が済んだら今度はまた別の布、おのおの個性に合った布のカンパスで
描(か)くようにする。絵を描(か)く素地になるカンパスの肌理(きめ)に従い、
同じ画家が描(か)いても味わいがちがい、感じのちがう絵ができてくる。

つまり境(きょう)を異(こと)にすると表現(あらわれ)が変わって来るのであります。

それで、同じ生命(せいめい)でも物質世界に描(えが)く波動の体(たい)と、
霊界に描(えが)く波動の体とは手《ざわり》がちがう。
五官六感への触れ方がちがう。

物質世界というカンパスに描(えが)かれた波動の体が肉体であり、いっそうやわらかい
画布(カンパス)の上に描(えが)かれた波動の体が霊体であるということが
できるのであります。

ところで、この「波動の体」というものは生命(せいめい)が描(えが)いたところの
絵なんでありますから、やはり板(いた)のカンパスに描いても
布カンパスに描(えが)いても、下手な人は下手であり、上手な人は上手である。

あるいはその個性も現われているのであって、粗布(そふ)に描(か)いたから
個性が現われない、板(いた)に描(か)いたから個性が現われるということはない。

みな一様にその人の心の具象化が現われるのであります。

            <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その6 - 伝統

2015/12/14 (Mon) 03:47:32


        *「生長の家とは如何なるものか」(P95~96)より

ですから、われわれが霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも
生活が下手である。霊界で病気している霊魂もあれな、悩んでいる霊魂もある。

それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描(か)いても布カンパスに描いても
依然として下手であるというのと同じようなわけであります。

ですからわれわれが自身または他(ひと)の霊界における生活状態というものを
良くしようと思うと、やはりどんなカンパス ―― 現世とか来世とかいうカンパスが
どんなに変わっても ―― どんな画布(カンパス)の上に描いてもいい絵が
描(か)けるようにしておかなくてはならない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンパスに何でえを描)か)くかというと、
念波で絵を描くのであります。念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、
その念波を善くし、またよくしてあげることが必要なのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施(ほうせ)というもの
でありまして、最も尊い施しであります。

われわれは人に施すのは、物施(ぶっせ)といって物を施すのと、
それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、真理の念波を施すという
ことが本当に最も根本的な供養になるのであります。

            <感謝合掌 平成27年12月14日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その7 - 伝統

2015/12/22 (Tue) 04:28:38


        *「生長の家とは如何なるものか」(P96~98)より

むろん、われわれは霊界に行きましても、しばらくの間はこの地上における薫習(くんじゅう)が
抜けないのでありまして、地上において御飯を食べておったような霊魂たちは、霊界に行っても
「御飯を食べたいな」というふうな感じがするのであります。

そういう霊魂たちに対して食物をお供えしてあげるということは必要であります。

「食物をお供えしても、お下がりを見ると何も食っておらん、何も食っておらんから
あんなことはただ形式的である」とこういうお考えになる人もあります。

けれども本当はそうじゃない。
霊魂は何を食べるかというとわれわれがこれをお供え申したいという
「念波」を食べるのであります。

それでリンゴならリンゴをわれわれが持って行って
「リンゴをお供え致します」と、本当にその念を切実に念ずると、
われわれの心にリンゴというものが念によって描かれ、

そうして描かれたリンゴと、あの人にあげたいというすなわち念送の原動力となる念が結合する。
すなわちリンゴを祖先の霊(みたま)に送ろうという念波の放送により、供える人の念にて
造られたリンゴというものが霊魂の世界へ念波の放送に乗って行くということになるのであります。

すると霊界には念によって仮作(けさ)せられたリンゴが出来上がる、そうすると「あれは
わたしに供えて下さったのだからいただこう」という気が起こると、すっと自分の口に入って
しまって、そうして「おいしい、ああ満腹した」という気持ちが起こるのであります。

その状態は「無量寿経」書かれている極楽浄土の状態のようなものであります。
霊界は念波で作られた世界であって、われわれは供養の念を供えて、
供養の念を食べていただくということになるのであります。


むろんもっと向上した霊魂 ―― 肉体は無い、何も食べなくてもわれわれは
神の生命(せいめい)によって生かされているのであるという自覚を得た霊魂たちは
決して何も食べたいとは思わないのでありますけれども、

しかし、自分に対する愛念をもって供えて下さったという愛の念(こころ)は
やはり喜びとなり、その人を生長させるということになるのであります。


霊界は念の世界であって霊魂たちというものは何を食物(しょくもつ)として
生きているかというと、念を食物(しょくもつ)して生きているのです。

善念は最も霊魂を生長せしめる滋養物となるし、
悪念は霊魂を低下せしむる害物となるわけであります。

ですから、われわれは近親者が旅行でもするという時に、
陰膳(かげぜん)というのを据(す)える人がある。
あれもまたはなはだよいことであって、迷信ではないのであります。

その人を目当てに陰膳(かげぜん)を据(す)えて、
「どうぞおあがり下さい。どうぞ健康でしらっしゃいますように・・・」
と念ずると、必ずその念波がその人に通じて、その人が食物(しょくもつ)に不自由しない、

あるいは不自由するようなことがあってもあまり腹が減らないで、念波の食物(しょくもつ)を
吸収しているから腹が減らないで、不思議に元気で働けるということになるのであります。

            <感謝合掌 平成27年12月22日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その8 - 伝統

2015/12/29 (Tue) 04:36:50


        *「生長の家とは如何なるものか」(P98~99)より

そういうふうに霊魂の食物(しょくもつ)というものは、
われわれから与えられる善念をもって最も滋養物とするのであります。

ことに、われわれが真理(さとり)の念波を放送して、真理(さとり)の念波を
相手方の霊魂に吸収させてあげるということは霊魂には絶大な供養になる。

それですから、『甘露の法雨』のようなお経でも、『生命の實相』でも、
また真理(しんり)が書いてあるものなら、キリスト教の聖書でも、
仏教のお経でもよろしいのです。

それを祖先の霊魂に、意味がわかって読んで誦げるということは大変よろしい。
ただ意味の分からぬ漢文の棒読みを、何が何やら分らないで誦(あ)げているのでは、
供養の愛念の放送としてはいくぶん効果があっても、それはサトリの念波ではないから
最高の救いにはならないのであります。

最高の救いは、やはり真理のお経を意味が本当に分かって読むに限るのです。
そうしますとそのお経を捧げられる相手方の霊魂は非常に心が富み、
心が満腹し、生命が生長するということになるのです。

ですからわれわれは暇があれば朝晩は必ず「祖先の霊魂の悟りのための供養として・・・」
といって生長の家の聖経『甘露の法雨』を読むなり、先祖から伝わっている宗教の経典を
読むということにされることが祖先に対する子孫の努めなのです。

よく病気の方で、あんたには祖先の障(さわ)りがあるからこれを読んであげなさいと
申しますと、治ったら読まなくてもよいかというようなことを考えておられる
利己主義の人がありますけれども、

これは自分が病気でなくても、病気が治っても、治らなくともわれわれは祖先というものが
あって今ここに生きる機縁を与えられているのでありますから、その祖先に対して
われわれが供養する、お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを供養する
ということは実に大切な子孫の努めであります。

           <感謝合掌 平成27年12月29日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その9 - 伝統

2016/01/07 (Thu) 04:45:53

        *「生長の家とは如何なるものか」(P99~101)より

この子孫の努めを行なうことそのことが善事であって、その結果自然とわれわれに幸福が
恵まれてくるということは、これは副作用とでもいいますか、随伴的な功徳であって、
その功徳そのものを目指すのではないのであります。

しかし実際上祖先に対してよく真理を施しておられる人々は、祖先の守護も多く、
また自分の善念の具象化として不幸というものがないのであります。

「生長の家」に毎日来ておられる人たちをよく観察しますと、往々精神病者の家族を
持っておられるとか、あるいは変な《えたい》の知れない病気 ―― 小児麻痺である
とか、癲癇であるとか、医者の方でちょっと原因不明な病気を持ってあられる方が、
その率にしてクリスチャンの方が多いのであります。

これは確かに率が多いのでありますが、必ずしも、これはキリスト教そのものが
わるいのではない、けれどもキリスト教が日本に移入されたのがきわめて近代である
ために、祖先の霊魂たちがキリスト教というものを知らない。

そしてまアお祖父(じい)さん、お祖母(ばあ)さん、その上の曾祖父(ひじい)さん
あたりになると、その霊魂が霊界においてそういう信仰を持っているかというと、

あるいは神道であるとか、仏教であるとかの信仰を持っていて、
そうして耶蘇(やそ)という名前を聞くだけでも嫌いだというふうな、
異教を毛嫌いする霊魂が先祖に多いのであります。

それもまたまちがっておるのでありますけれども、ともかく日本人の祖先の霊魂たちの
多数は、国粋的とでもいいますか、ちょっと偏狭な霊魂があるのでありまして、
耶蘇の耶の字を聞くだけでも嫌いだというような人の霊魂があります。

今も70歳、80歳ぐりあの人に聞いてみると、
そういう風潮がずいぶんその人たちの時代にはある。

自分の子が耶蘇になるといったら、実に穢れた異人種にでもなり、
四足(よつあし)にでもなるような気がする。

可愛い息子でも耶蘇教を信ずる以上はやむをえない、家に入れないで、勘当して
しまうというふうな気持ちをしている爺さん婆さんの霊魂もあるのであります。

そういう霊魂たちのいる霊界に行って、われわれの子孫が耶蘇教という名前を付けて
入っていったら「えらいこいつは汚(けが)れた奴になってきた」というような
偏見をもって毛嫌いして、容易に子孫を霊界の生活に慣れるまで導いてくれない
のであります。

「あいつはヤソになったから勘当する。」可愛い息子の霊魂でも先輩の霊魂から
勘当同様の取り扱いを受けて構いつけてくれないと、霊界でどうして生活したら
よいのだか、ちょっと事情がわからない。

自分だけ一人ぽっち置き去りにされて、自分だけで修行してコツコツやって行くより
しようがないというような状態になっているのも往々あるのであります。

そういう霊魂は霊界の生活に戸惑って早く悟れない。
その悟れない霊魂が、子孫に済(すく)われようと思って子孫に憑(かか)って来ると、
そういう物質的には原因不明な病気を現わすのであります。

それですから小児麻痺の人を歩かしてみるとこんな手をブラブラさせた幽霊のような
恰好をして歩いている。足もふらふらして歩けない。

その小児麻痺の歩く姿を観てごらんなさい。あれは幽霊の姿です。
幽霊というものは、絵で描(か)いても足がない。手も胸の前でブラブラさせている。

そういう恰好をしている亡者の霊魂がわれわれに感憑(かんびょう)すると、その念波
の影響を受けて、股関節の先天性脱臼とか、小児麻痺的現象を起こすのであります。

           <感謝合掌 平成28年1月7日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その10 - 伝統

2016/01/15 (Fri) 04:50:47

        *「生長の家とは如何なるものか」(P101~102)より

幽霊に足がないというのは、絵師(えかき)が勝手に描(か)いたように思うかも
しれませんけれども、実際はそうじゃないのであって、幽霊には足がない。
迷っている幽霊にはまだ足のはっきりした自覚ができていないのであります。

われわれが霊界で備えているこの「念波の体」(霊体)というものは、
自分の念の自覚の程度に従って現れているのでありますから、死の刹那に意識を
失い、霊界に移転してはじめて「我(われ)」という自覚ができると、
頭がまず形を現わすのであります。

それから、胴とか、手ができてきて、
それから最後に足の自覚ができて足を現わすというようなぐあいになる。

自覚のはっきりしたところは、はっきりした姿を現わして、
自覚のはっきりしないところは、はっきりした姿を現わさないのであります。

ですから、霊体は「頭部」が先にできて脚は一等後にできる、
それができないまでの霊魂が足の無い幽霊であります。

それからたいていの人は病気になると足が立たない、その記憶が霊界まで持ち越して
自分の足はふらふらしているとはじめから思うているのであります。

そういうふうに、はじめから足が立たない、ふらふらであると思うている霊魂は
我は自由自在なる神の子であるという悟りを開くまではフラフラで足の形が
完全に現れないのであります。

そういう霊魂の念波がひっかかってくるから、足が小児麻痺や脊髄病で動けない
というようになるのであります。

ところが、そんな霊魂たちに、「人間は本来仏であり、神の子であって、
自由自在の存在である。肉体は無い」ということを自覚させてあげますと、
足がしゃんと立って、足のついた幽霊が出来上がるわけである。

そういう霊魂になると、神通自在ということになるから、そういうその霊魂が
われわれに憑いておっても足手まといにはならない、かえってわれわれの
扶(たす)けをしてくれるということになるのであります。

           <感謝合掌 平成28年1月15日 頓首再拝>

皇室および一家の祖先を礼拝せよ~その11 - 伝統

2016/01/25 (Mon) 04:51:31


        *「生長の家とは如何なるものか」(P102~103)より

それですから「生長の家」では、今までの宗教を決して排斥するということをしない。
祖先の宗教によって祖先を祀りなさいということをいうのであります。

葬式の場合にも、祖先からの宗教の坊さんを招いて、祖先伝来の宗教の儀式にして、
祖先の宗教のお経を誦(ず)してお葬式(とむらい)をしてもらいなさい
というぐあいにお教えする。

祖先宗教のお坊さんが新興宗教が勃興すると自分の宗教業を奪ってしまうと思って
生活権の擁護のためにむやみに反対なさる方があるかもしれませんが、
「生長の家」に限ってそんなことはしないのであります。

今まで物質科学者が、霊魂なんてないもので、肉体は滅んで灰になってしまったら、
それでしまいになるのだなんていうふうに説いておった科学者こそ坊さんの職業を
奪うというふうになっておったかもしれないけれども「生長の家」は決して
どの宗教からも職業を奪うということはしない、かえって他の宗教を生かす。

祖先の信奉しておったところの宗教を生かすということによって、
まず第一祖先と和解するのであります。

祖先と和解し、祖先の宗教と和解し、―― ただ和解するだけでなしに、
その祖先の信仰に光を与え、生命(せいめい)を与え、祖先を済(すく)い、
そうして一家を光明化し自分自身をも済(すく)うというのが生長の家であります。

           <感謝合掌 平成28年1月25日 頓首再拝>

ものの内在生命の尊さに目覚めよ~その1 - 伝統

2016/02/03 (Wed) 04:10:29


        *「生長の家とは如何なるものか」(P103~104)より

ものの内在生命の尊さに目覚めよ

   《われらは実在の実相のみを見、移り変わる仮(かり)の相(すがた)にとらわれず、
    常に光風霽月のごとき生活を営みて情(こころ)を動(どう)ぜらんことを期す》

この箇条は生長の家の教育法に関連して申し上げたいと思います。

教育の根本は内在生命より万能力(神の子)を引き出すことであります。

神により造られた神の表現である実の相(すがた)を引き出すことであります。
 ―― 神に《よって》造られたといいますと、「神」と「造られたもの」とが相分離した
ように感じられますけれども、そうではない。

神の表現がここにあるということです。
そのことを神によって造られたと、仮にわれわれは擬人的にいうのであります。

生きとし生けるもの、有りとし有らゆるもの、ことごとく単なる物質ではないのでありまして、
すべてのものは、実相を観る時には、神の生命(せいめい)が宿っている。

いわんや人間にはいうまでもなく本来仏性が宿っている、
その仏性がわたしという「神の生命(せいめい)」である。
その「神の生命(せいめい)」を引き出すことが教育であります。

こう思って見ますと、すべてのものの実相に、生命に合掌する  ―― 
合掌してそのものに宿る生命(せいめい)を、生命(せいめい)を本当に善い相(すがた)を
引き出すのが教育であります。

ここにおいて、宗教と教育とは一致するのであります。

           <感謝合掌 平成28年2月3日 頓首再拝>

ものの内在生命の尊さに目覚めよ~その2 - 伝統

2016/02/12 (Fri) 04:38:17


        *「生長の家とは如何なるものか」(P104~106)より


ありとしあらゆるものことごとく単なる物質ではない
 ―― これを知ること、知らすことが教育である。

生長の家でよく「肉体はない」「物質はない」などと申しますと、何もないかのように
お考えになり、何物も無いと思って、「物質なんて粗末にしてもいいんだ、
物質は無いのだからというような人があります。これは空思想に捉われた断見であります。

何もないのではないのであって、そこに実相があるのであります。
物質は無い。物質は無い代わりに実相があるのであります。

「物」を見て「物質」だと思うからいけないのです。
神の生命(せいめい)だと見るのであります。

「物質は無い」といえばどうしてお前は御飯を食べるかという質問をする人があるのであります。
われわれは「物質」を食べても決して肥えるということはできないのであります。

「生命(せいめい)」を食べたときはじめて栄養となる。
換言すれば神様の生かす生命(せいめい)、生かす恵み、生かす愛というものを食べる。
それによって肥えてくるのであります。

決して物質そのものがわれわれを生かすというわけではないのであります。
物質そのものにわれわれを生かす働き、生命(せいめい)の働きがあるとしますれば
試験管の中に物質を放り込んでもその中から何か生き物が出て来なければならない。

ところが、試験管の中にいくら滋養物を放り込んでみてもちょっとも生きてこないというのは、
これは物質を単なる物質として取り扱っておって、生き物として、生命(せいめい)として
取り扱っていないからであります。

われわれが食物を食べる場合に、試験管の中に滋養物を《ほうり》込むのと違う働きが起こるのは、
それを単なる物質として取り扱わない。生きる生命素として食べるからです。
食べられる方も神様の生命(いかすちから)であり、食べる方も神様の生命(せいめい)である。

食べるこちらが「生命(せいめい)」でありますから、
食物に宿っている「生命(せいめい)」を引き出して同化するのであります。

そんなわけで、外見物質と見える肉体を目して単なる物質である考えるのはまちがいである。
肉体はこれ生命(せいめい)の影である。
言い換えると生命(せいめい)がそこに生きている相(すがた)が現れているのが肉体である。

物質そのもは本来無いのであって、そこに「生命(せいめい)の生きている相(すがた)」が
あるということになるのであります。これが肉体であります。

           <感謝合掌 平成28年2月12日 頓首再拝>

ものの内在生命の尊さに目覚めよ~その3 - 伝統

2016/02/19 (Fri) 03:43:29

        *「生長の家とは如何なるものか」(P106~107)より

われわれが芸術を見ているというのでも、物質的形態の奥に生きている生命(せいめい)、
神の生命(せいめい)というものを見て、それをそこに現わしたものが芸術である
ということになる、

物質と見える《もの》の観方にも、
それを単に物質と見る見方と、生命の表現として見る観方と2つあります。

生長の家の教育は物質を物質と観ないで生きた生命(せいめい)の表現として観、
そこから生命(せいめい)を引き出すという芸術的観方であります。

たとえば、最近ある展覧会で彫刻を見ましたが、
じつに簡粗な、ぞんざいな鑿の使い方がしてあると思われるようなものでも、

たとえば服部さんの「兎(うさぎ)」の彫刻でも ―― 二匹の兎がこうくっついている、
ちょっと見ると材木の切れ端みたいなものが二つ寄り合っていて、ほとんど材木のままに
ちょっと筋が入ったようなものが並んでいるだけありますけれども、

あれを見ているとなんともいえない愛情のこもった兎の柔らかい生きた生命(せいめい)
というものが感じられてくるのでありました。

つまり、あれは芸術家が兎の中に動いている生命(せいめい)というものを把んで
それを再現したということになるのであります。

こういうふうに物質を物質として見ないで物質の中に生きている生命(せいめい)
というものを把み出す、これが芸術であります。

生命(せいめい)を観て生命(せいめい)を引き出し、それを再現する、
これが本当の芸術であります。

子供の生命(せいめい)を観て子供の生命(せいめい)を引き出す、
これが子供の教育であります。

すべてのものは物質を見ていると善さがわからない。
ジッと実相を見るとその《よさ》がわかってくるのであります。

芸術家は表現の上に生命の《善さ》を現わし、
教育家は生活の上に生命(せいめい)の《善さ》を引き出すのであります。

すべての人々が実相を見るという立場になった時に、
すべての人間がすなわち生命(せいめい)である ―― 
神の子であるということが感得されるのであります。

そういう立場において、はじめてすべてのものが、なるほど美しいものである、
善なるものである、調和したものであると感じられるのであります。

こう感じるように生命(せいめい)を引き出すのが
本当の教育であり、本当の宗教であり、本当の芸術であります。

生長の家の生き方はすべての事物に対して
その奥底にある善さを見出して、それを生かす生活であります。

           <感謝合掌 平成28年2月19日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その1 - 伝統

2016/02/27 (Sat) 03:26:31

        *「生長の家とは如何なるものか」(P107~109)より

   われらは今日(こんにち)一日をできるかぎり強く明るく正しく
   十分生き抜き生き尽して悔いなき生活を送らんことを期す。


この「今日(こんにち)一日をできるかぎり強く明るく正しく生きる」という ――
《生きる》というのは「生命(せいめい)を引き出すということであります。

《今日一日》ということが大切でありまして、
明日(あす)からやろうというようなことでは駄目なのであります。

われわれが今、ここに生命(せいめい)を享けて生きるということは、
今生きているのであって、この「今」を看過(みのが)したらわれわれは
永久に生命(せいめい)を引き出す機会というものを
失ってしまうのであります。

「《今》生きる、」 ―― 「今、生命(せいめい)を引き出す」 ――
この「今」が大切であります。

芸術家が芸術品を作る場合に生命(せいめい)を把(つか)むのも、
この「《今》」この「瞬間」に生命を掴(つか)むのであります。

それがつまり芸術製作の極意でありまして、流動せる生命(せいめい)を「《今》」の
瞬間に把(つか)めなかったら、その芸術家は本当は駄目になってしまうわけであります。

生命の永遠の流れを「今(いま)」の一点に把握して
それを平面または立体の上に描き表わすのであります。

兎なら兎の生命(せいめい)というものは、
生まれてからずっと生長して今も今後も生きている。

その、ずっとこれからも生きるというその生命(せいめい)の流れというものを
これだけならこれだけの木の塊 ―― 動かない一点に集めてある。

永遠が「今」の一点に凝縮してある。
それでこそ、その作品を見てそこに生命(せいめい)の
生きている相(すがた)が見えるのであります。

そういうふうにこの今を見るということが芸術の極意でありますが、
またわれわれの生活も、教育も、この「今」を把(つか)むということによって
最も生長してゆくということになるのであります。

この「今」を把(つか)む。
自分として「今」をできるだけ強く明るく正しく生きる。

教育者としては、「今」をできるだけ100%強く明るく生きさせる。
これが本当の教育であり、生命を引き出す教育であります。

強く生きるということは、何も豪傑みたいに暴力を振り回すということではない。
「今」この瞬間にその生命の100%を把(つか)んで生きるということであります。

生命(せいめい)の100%を把(つか)み、自分のうちに宿っている生命(せいめい)を
「今」の瞬間に焦点を燃焼してそこに十分生き抜き生き尽すというふうにする。
これが本当に芸術的生活であり、教育的生活であります。

われわれは「今」という「今」を看過(みのが)してしまったならば、
もう永遠に生活する時がない。

明日(あす)になったらしようと思うても明日になった時はすでにそれは「今」であり、
その「今」を看過(みのが)したらいつも生活することができないのであります。

「今」生きているという感じ、この今が大切である。
たいてい病気の人たちが、その病気が治らないのは、
「今」を生きないということによって病気が治らないのであります。

病気を治すために手段の生活をしているというふうなことでは
生命(いのち)というものが発現しないのであります。

手段の生活とというものは「今」の瞬間に永遠を生かす生活ではない。
治ったら何事かをしようというふうな気持ちでは本当に生きることができないのであります。

           <感謝合掌 平成28年2月27日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その2 - 伝統

2016/03/06 (Sun) 04:51:44


        *「生長の家とは如何なるものか」(P109~110)より

正岡子規が、十何年という長い間肺結核で病床にありながら、
あれだけの文学的功績を為し遂げられた。

あの人は不幸にして生長の家に入っておられなかったために、《病気は本来無い》と
いうことをお知りにならなかったために、《人間は神の子》だということを知られなかった
ために、とうとう治らなかったけれども、結局治らないとあきらめながらも、
あの人は「《今》」を生かす生活をやっておられた。

つまり、病床にありながらでも、「今(いま)」そのままで生命(せいめい)を100%
生かして、あれだけの文学的功績を成し遂げた。

この「今(いま)」をすべて生かすというところに、あれだけの重症結核でありながら、
あんなに長く生きとおすことができたのであります。


手段のために生きているというふうなことでは本当の生命(せいめい)は生きてこない。
教育は「生命(せいめい)を引き出すのでありますから、手段のために教育していたのでは
決して生命(せいめい)を生かし、天分を生かす本当の教育ができてこないのであります。

現在のたいての小中学校の教育というものは、「今(いま)」を生かすことをしないで、
これから高等学校へ入学する、これから大学へ入学する、その入学するというふうに
手段のために勉強している、これでは本当に生命(せいめい)を引き出す教育ができない
のであります。

この、準備教育必ずしも悪いというわけではありませぬけれども、
それがあまりに手段になってしまって、「今(いま)」を生かさないということに
なると、その人の生命(せいめい)が生きてこないのであります。


          <感謝合掌 平成28年3月6日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その3 - 伝統

2016/03/18 (Fri) 04:35:59

        *「生長の家とは如何なるものか」(P110~112)より

わたしは学校時代は試験勉強の名人でありまして、試験の前に一日ばかり教科書をずっと
読んでおきますとたいていもうみな覚えている。

それまでは少しも勉強しないで、一夜漬けをやる、それから試験場へ行くと、前日に1回さえ
読んでおけば、出された問題に従ってそれが何ページにあるかということや、活字の配列の
具合まで一字一字ズウッと眼の前に並んできて見えるのです。

だからまちがいなしに書けて、たいてい満点であったのですけれども、
その《くせ》もう試験が済んだらすっかり忘れてしまった。
それは試験のために勉強したからであります。

試験のために勉強した学科は試験が終わって目的を達するとみな忘れてしまうのです。
そんな勉強の仕方では試験の点数はいいかもいれませんけれども
実力がつかないことになってしまうのであります。


現代は不幸にして、学校の入学志願者ばかり多くて学校の数が少ないために、
そんな本当の生命(せいめい)を生かすような教育をやっていると、上級学校へ入学できない
というので、生命(せいめい)を生かすというよりもむやみに詰め込むということを
やっていますけれども、これは本当の教育の仕方じゃありませんから、
早晩改めねばならない問題でしょう。

大学卒業生がすぐ使って間に合わないのを、試験のためや証書のために勉強をしているからで、
「今」《これが生活である》というような勉強に仕方をしていないからでありましょう。

本当の教育の仕方、生長の家式の教育の仕方といいますと、
この《今を生かす》ということなんです。

入学するために覚えるのではないのであって、「今、これが生活である」というような
学習の仕方をすることが肝腎です。

今自分のうちに生命(せいめい)が動いている、生きているところのその生命(せいめい)を
こう外に出す ―― これが本当の教育なんです。

神というものは「創世記」に書いてあるように、いっさいのものを創り給うた。
本来無のところからいっさいのものをコトバの力によって創造(つく)り給うた。

言葉の力 ―― 言い換えると《生命の動き》―― ヒビキによって
これを形に現わされたのであります。

つまり、生命(せいめい)の動きヒビキによって生命(せいめい)を可視的世界にまで
現わさしめるというのがこれが本当の「生命(せいめい)の教育」であり
「生長の家の教育」であります。

生命(せいめい)は生命(せいめい)を一等よく知っているわけであって、
他(ほか)のものは生命(せいめい)を知らないのです。

生命(せいめい)のみ生命(せいめい)を発掘する。
「今」この瞬間、刻々瞬々、生命(せいめい)を発掘するのが
生命(せいめい)を引き出す教育であります。

          <感謝合掌 平成28年3月18日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その4 - 伝統

2016/03/26 (Sat) 04:03:48


        *「生長の家とは如何なるものか」(P112~113)より

刻々瞬々の生命(せいめい)を生かすことが教育であるということが解りますと、
幼児の教育、幼い時の教育というものが、いかに尊いことであるかが解るのであります。

たいてい幼いものの導き方ということを誤るために、将来子供が大きく伸びようとしても、
伸びることができないようになる場合が多いのであります。

赤ん坊が最初はまず漠然とした、無意識というか、半意識のような状態で生まれて、
そうしてそこに生活している。

最初は眼も見えないのですけれども、やがて眼が見えるようになり、
眼が見えるようになると、そこに「自分」と「他(た)」との存在が少々
引き離して認識され始めるのであります。

そこにお母さんがいる、そこにお父さんがいる、これが乳房である。
乳房を含むと甘い、その乳房をくれる人がちょいと指で自分の頬っぺたを突っ衝(つ)いてくれる。
その好意を感じて赤ちゃんがにこやかに笑う ―― というようにして、
はじめて生命(せいめい)がその周囲にあるものを認識し始めるのであります。

その時にその認識をできるだけ導き出すようにしてやる。
これが引き出す教育であります。

この赤ん坊の最初の生命(せいめい)の芽生えが心の働きを見せてきた時に
できるだけ導いてそうして完全に発達するよう導いてゆくということが
最も肝腎であります。

          <感謝合掌 平成28年3月26日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その5 - 伝統

2016/04/04 (Mon) 04:48:17


        *「生長の家とは如何なるものか」(P113~114)より

たいていの場合において、そんな小さな赤ん坊なんかに物を教えても何も覚えないであろうと
考えられるのでありますけれども、いわゆる大人が覚えるというふうな式に、
決して詰め込み式には教え込むのでありませんけれども、

生命(せいめい)が生命(せいめい)自身の中から、
心の働きを、植物が芽を吹くように中(なか)から出て来る、
その出て来るのを、出て来させることが教育なんです。

押し込んで、押し入れるのじゃないのであって、出て来させるように導くのが教育であります。
生命(せいめい)の能力の出て来る足場、手がかりをこしらえてやるというようにすることが
教育であります。


たとえば枕許(まくらもと)へ何かをぶら下げておいてやるとか、
あるいはおもしろい玩具をおいて見せるとか、単に見せるだけではない。

話しかけて、そうしてその玩具の持っている内容を表現(いいあら)わす言葉で
畔しかけてやる ―― これが大切であります。

赤ん坊に話したって意味が通じないと思うと、それはまちがいである。
赤ん坊のデリケートな心は、心のヒビキ(すなわちコトバ)を
そのヒビキによって直接的に把握するのです。

赤ん坊の頬っぺたを突っ衝(つ)いて「可愛い! 」と発音する、すると、その頬っぺたに
当たったショックが害物ではなく、愛撫の感触であると直観するように、枕頭(まくらもと)の
玩具を指さし示してその内容の言葉で表現して聞かせると赤ん坊はよく解るのであります。

          <感謝合掌 平成28年4月4日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その6 - 伝統

2016/04/15 (Fri) 03:37:56


        *「生長の家とは如何なるものか」(P114~115)より

幼児に何も与えないで、じっと寝床の中へ寝かせておくというふうなことをしますと、
幼児は最初最もよく触れる感覚というものが発達しまして、乳房に食いつくとか、
手で何かを押してみたり、物に触ってみたりして触角を練習するのであります。

この触覚の練習時代に触覚の対象となる、いろいろな異なる物体にふれさせずに、いつも同じもの、
柔らかい褥(しとね)の上で同じ触覚ばかり与えて、少しも変わった感触を与えないでおきますと、
その感触になれてしまって、さまざまな他(た)の感触を求めてくる。

しかし何もその触覚に触れる対象がないとしますと、むやみに乳を飲みたがってみたり、
自分自身の指を吸うとか、自分の身体(からだ)の一部を弄ぶとか、顔をヒョットコのように
歪めてみたりします。

自分の顔はどんな顔をしているか自分にはわからないのであって、触覚さえ変わっていれば
おもしろいのですから、いろいろな変な恰好に顔を歪めたりする癖がついたりして、
顔というものが、美しさとか喜びを表現する機関にならないで、単に肉体的触覚を弄(もてあそ)び
喜ぶための道具のように変わってくるのであります。

こんな、単に肉体的触覚を弄ぶという習慣は、幼児の自涜的傾向ともいうべきもので、
それが長じては本当の自涜に変じてくるのであります。

五官は外界にあらゆる美しさというものを受け容れる機関でありまして、
自己の肉体の触覚を弄ぶためのものではありません。

外界に在るすべての美しさを受け容れると申しますが、受け容れてそれを感ずることができるのは、
自分の中にその美しさと同じものが、すでにあるからであります。


自分の中にあるあらゆる美しきものを外へ引き出す、これが教育であります。


もちろん、最も低い肉体的触覚も自分の内にあるのですが、その「引き出すこと」をそんな低い
程度のものではなく、高い高尚な種類のものを引き出すには、いつまでも低い程度のものばかりに
幼児の五官を低迷させておいてはいけないのです。

引き出すのはやはり外界の生命(せいめい)のヒビキが引き出してくれるのでありますから、
外からわれわれが様々に生命(せいめい)の高いヒビキに誘導する「迎い水」を注ぐことが
必要であります。

ポンプに「迎い水」を注ぐと井戸の水が上がって来る。
それと同じようにして夜氏の内部に宿っているすべての生命(せいめい)の動き、
知恵、愛というふうなものを引き出してゆくのであります。

もっともお母さんたち、皆さんのやっておられることはだいたい自然と
そういうふうになっているのであります。

          <感謝合掌 平成28年4月15日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その7 - 伝統

2016/04/28 (Thu) 03:40:21


        *「生長の家とは如何なるものか」(P115~117)より

園田清秀さんの『音楽教育法』を見ますと、あの方は今は亡くなられました、
胃袋の裏に茶碗ぐらいの肉腫ができていたのだそうでありまして、その肉腫が心臓や、大動脈を
圧迫するのでとうてい長く坐するに堪えられないので、ずっと寝て生活しておられる間に、

幼児を母親がいかに教育するかというようなことをじっと見つめて観察する修行を
なさったというのであります。

そうすると、母親というものは子供に対し深い愛があるために、深い愛があれば
どうすればよいというような知恵もまた生まれてくるものでありまして、
そこに自然の知恵の導きというものが出てきて、自然と天才養成法に適っていることを
発見せられたのであります。

たとえば、幼児がいろいろと外界の事物に触れてそうして「これは何? 」とか
「あれは何? 」とか尋ねるにしても、また尋ねないにしても、
母親は幼児に対していろいろ教える。

園田さんの挙げた例には「キューピー・マヨネーズ」という言葉が書いてありましたが、
(あの方は音楽家でありますから、発音のことが主に書いてありましたが)たとえば
幼児が「キューピー・マヨネーズ」とはっきり言えないと、「キューピー」「マヨネーズ」
とハッキリ深切に教える。

幼児は「クーピー・・・マヨニーズ」とか何とか言うと、またそれを
「キューピー・マヨネーズだよ。」「キューピー・マヨネーズですよ。さあいってごらん。」
「キューピー・マヨネーズ」「そうそう」と、こういうぐあいに、幾度でも飽くことなしに
それを導いてゆく。

その飽くことなしに導いてゆくというところが、これは詰め込みではないのであって、
子供の方は自分で言いたいのです。言いたくて堪らない。何か言いたくて堪らない。
引き出してほしくて堪らない、それを導いてくる。

これが生命を引き出す教育です。

「マヨネーズ、覚えなさいよ! 」というような言いっ放しで詰め込むんじゃないのです。

幼児の内部にあるものと同じ響きを与えて、その内部にあるものを引き出してゆくと、
幼児に隠れている弁別能力というものが引き出されていって、この場合には音楽教育ですから、
響きの高低に対する弁別力というものがだんだん引き出されてそこに音楽の天才が養成し
出される。

音楽にかぎらず内部に包蔵して外に発現しようとしている生命(せいめい)の閃きという
ものを外へ引き出すことによってはじめて偉大な天才が生まれてくるのであります。

園田清秀さんに言わせると、現在「天才」といわれている程度ならば、
どんな普通の子供でもなりうるものであります。

それ以上の大天才になるのは、これはまた本当に天分というふうなものが必要だと、
あの人は言っておられ、また実際に小さな子供を教育してみて好成績を挙げていられる
のであります。

          <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その8 - 伝統

2016/05/06 (Fri) 04:31:16


        *「生長の家とは如何なるものか」(P117~119)より

そういうふうに、子供には大人よりも、素直に導き出せば出るところの生命(せいめい)が
宿っている。その生命(せいめい)を殺していまったら何にもならないのです。

これは、中等学校の語学の教育というものと、それから普通の母親が赤ん坊に対する
語学の教育というものを比較してみますと、いかにこの「詰め込む教育」が
「引き出す教育」に及ばないものであるかがわかるであろうと思うのであります。

つまり、中等学校の英語の教育というようなものでは3年ぐらい英語を習っても容易に
しゃべれるようになれない。ところが母親が何も知らぬ赤ん坊に対して日本語を教えると
(あるいは外国人の母親なら英語を教えると)、3歳ぐらいになると、
もうちゃんと日本語でも外国語でも喋れるようになる。

これはどういうわけであるかというと、一方は、中等学校の教育というものは
いわゆる詰め込む教育をして、詰め込もう詰め込もうとやっている。
「これを憶えなさい、これを憶えなさい」です。

ところが3歳の幼児に対する母親の教育というものは「引き出そう、引き出そう」と
している。別にそう意識をしていあにけれども「引き出そう、引き出そう」としているのです。

たとえば、コップを見せて「これはコップですよ。」「コップね、そらコップ。」
それを引っ繰り返して見せつつ、「そらコップがひっくりかえます。」坐って見せて
「おすわり。」立たせて見せて「立っちですよ。」そんあ塩梅式にそれを引き出すわけなんです。

語学の本を読んで実物を見せずに「覚えなさい、覚えなさい」と、そんなことは言わない。
坐ることに興味を感じている最中に「お坐り」と言い、立つことに興味を感じている最中に
「立っち」と言う。

《生命が動いている瞬間に捉えられている。》だから早く覚えるのです。

ととえば、「コップを覆(くつがえ)して子どもに示す。
すると、その時、幼児にとって驚くべき変わった現象が起こるわけであって、
彼にとっては「どうしたことであろう? 」と興味を湧かしている。

その最中に「これはひっくりかえったのです。ひっくりかえったのですよ。」
「そら、じっくりかえったら割れます。」まァそういう塩梅に、生命(せいめい)が興味を
感じた刹那にそれを表現する言葉が出る。

これが語学教育の極意なのです。

「さあ、これは割れたでしょう、割れたでしょう。割れたコップに水を注ぐと零れる、
零(こぼ)れる、これが零れる」というような塩梅式に導く。

それはみな、幼児が自分の力で内から出ようとしているものを《すっ》と引き出す教育に
なっているわけであります。これが「今」を生かす教育でありまして、その子供の「今」
まさに動き出そうとしている生命(せいめい)を引っ張り出すということになっているのです。

子供が、女の子供なんかだとよく台所の仕事など手伝いたく仕方のないような時代があって、
怪我でもすそうな危なっかしい手つきで《ままごと》みたいなことをしたがって
しようのない時がある。

そういう時は子供の生命(せいめい)が出よう出ようとしている時である。
その出ようとしている生命(せいめい)を出るよう出るように導いてくれる母親が
あれば、そういう母親に育てられる子供はどんなにか幸福だろうかと思います。

          <感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その9 - 伝統

2016/05/13 (Fri) 04:29:15


        *「生長の家とは如何なるものか」(P119~122)より

ところが子供の幼児期が過ぎて少年少女期になろうとすると幼児期には知らず識らず
「引き出す教育」をやっていた母親も、幼児期時代ほどに子供と自他一体の観念が
起こらなくなってくる。 これが教育の堕落であります。

生まれ出たままの続きのように感じられる幼児期では、本当に吾と幼児と一体のような
自覚があったために本当の教育ができたのでありますが、相当子供の身体(からだ)が
大きくなって来ますと、なんとなしに別個の存在であるような分離の感じを持って来て、

自然にこのコップの転覆(くつがえ)るのを見せて「そら、コップ。コップが
転覆(くつがえ)ったでしょう。そら、水が零(こぼ)れた。零(こぼ)れた水を
拭きましょう。そら拭いた」というような塩梅式の、一つひとつ子供が自分の内部から
知ろうとし、出そうとしているものを引き出すような教育ができなくなる。

そして今度は、「そんなことをしていたら台所がうるさいからあっちへ行きなさい」と、
せっかく内部にもっていて引き出してもらいたいものを、「うるさい、うるさい」と
撥ねつけるようになる。

この撥ねつけるようになるのは、親の方が児童と一体感を失って功利的になってくる
からです。

役に立つとか、役に立たぬとか、経済的とか、実用向きとか、そういう標準で子供を
排斥して、子供のまさに芽吹かんとしている生命(せいめい)を引き出すことを怠る
ことになるのであります。

このせっかく引き出されたいと子供の生命(せいめい)が内部から溢れ出て、これを
手伝いたい、菜っ葉を截(き)りたいというふううな、内部から溢れ出てくるものを
抑えて脇へ除(の)けてしまうというふうなことになる。

これは教育が《手段》に征服されたのであります。
教育が《生活そのもの》にならないで、あることの《手段》になる ―― ここに
教育の堕落があるのであります。それで、《手段》でなしに「今」を生きます ―― 

「今」生命(せいめい)が溢れ出して「こうしよう、こうしよう」「こうしたい、
こうしたい」と、樹木の新芽のようにまさに内部から溢れ出ようとしている時に
児童の生命(せいめい)を生かそうというふうにしたならば、人間の内部に流れている
能力が充分に発達するのです。

このなんとなく母親の台所仕事の手伝いなんかしたい時には、単に能力が発達している
だけでなしに。愛の心が働いている、自分からして、母親を喜ばしてあげたい、という
愛の心が起こっているのだけれども、

親の方では実用一点張りで、そんな愛を受けたって時間がかかるばかりである、
邪魔になってかえって仕事が運ばないと、愛の心を功利的価値で計算して、
実用一点張り、経済向き一点張りで片づけてしまおうとする。

こうなると、せっかく愛の心で「親たちの手助けをして上げたい」という生命(せいめい)
の働きが動き出そうとしている時に、その生命(せいめい)を押し込めてしまうという
ことになる。

そして、青年期になってからその子供に「ちょっとわたしの手伝いをしておくれ」と
いっても、もうその子供は手伝いをする喜びを、その最初の芽生えにおいて摘まれて
しまっているのです。

せっかく「出よう、出よう」「手伝いたい、手伝いたい」と生命(せいめい)が芽吹いて
いる時に「邪魔になる。うるさい! あっちへ行っておれ。」こうやられるものだから、
今更実際に手伝ってほしい時、大分(だいぶん)子供を成長して能力ができたとき

手伝ってほしいと思っても、「何だ、母さんったら利己主義だわ」ということになって
手伝わない不親切な子供ができる、子供の心は、親の心の影だったのであります。


こういうふうに児童の成長の経過中に、
その時その時に「今」でないと発達しないというふうなことがあるのです。

それで、すべてのわれわれが児童から天才を引き出そうとするにはその時機その時機を
見失わないようにして、内から出て来るものに、みな出口を与えて引き出そうとする、
これが生命(せいめい)を引き出す、天才を引き出す、「生長の家の教育法」で
あります。

          <感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その10 - 伝統

2016/05/21 (Sat) 03:26:43

        *「生長の家とは如何なるものか」(P122~123)より

このように子供の天才を引き出すには子供の生命(せいめい)を見る、
これも、結局子供の生命(せいめい)の実相を見るのでありますが、

その生命(せいめい)がどういうことに出口を求めて生きようとしているか
ということを見て、その出口に「向かい水」を与えなければ
本当の教育というものは成り立たないのであります。


たとえば、子供が卓上に何かを落とすとする、物が落下する、音がする ―― 
これは子供にとって実に不思議な現象である。

手を離すと床の上に落ちる、落ちると反動で飛び上がったり、
転覆(くつがえ)ったりする、なかなかおもしろいから幾度もやってみる。

まだまだいっそう高い所から落としてみると、どういうふうになるだろう、
反動が強くて、跳び上がる分がおもしろい。

またこう、また落とす、ますますおもしろいからやっている、
あまり上から落とすとボーンと割れる 

―― 子供にとっては、先には割れなかったのに、今度は割れた、
実に脅威である。もう一度割ってみる ―― 

ところが、大人にとっては、この子供はことさらにコップを床に投げて割った、
実に乱暴なる子供であるということになるわけです。

それで、「なんという貴様(きさま)はいたずら小僧の悪い奴だ! 」
と言って怒鳴りつける。

すると、ここに子供の世界にはじめて、言葉の力で「悪」というものが出現するのです。
「悪」だと言わなければ、それは「悪」ではない、悪童だといわなければ悪童ではない。

それが「お前は悪童だ」という言葉によって「俺は悪童かな。悪童だから、こういう
悪いことをする性質だな」と子供の心に印象されて、せっかく「今」この子供の
伸びようとしているものが伸びないことになり、変な方向に曲がってしまうのです。

そういう場合にも、これは悪童である、これは乱暴な子供であると思ってしまうのは、
「仮の相(すがた)」に捉われているのであって、「実相」を見ないものである。

子供の実相を見る教育をするためには、何のために子供がこういうようにこんなものを
落っことして転覆(ひっくりかえ)してみたりするのであるかという、その奥にある
生命(せいめい)の流れを知らなければならないのであります。


          <感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その11 - 伝統

2016/05/29 (Sun) 03:39:39

        *「生長の家とは如何なるものか」(P123~126)より

子供が灰を掴んで投げるために座敷中灰まみれになったということはよくあることです
けれども、そこに子供が伸びようとする力が出ているのである。

その時に、「お前はいたずら小僧である。わるい子供である」と、
こう「汝は悪人なり」という言葉を教え込むということになり、

ここにはじめて子供の世界に「悪」を教え込むということになり、
ここにはじめて子供の世界に「悪」というものが出現してくるのです。

それまではこの子供には、コップを破(わ)ってもそれは悪じゃなかった。
悪(あく)じゃなかったけれどもその時に大人が「お前はわるい子だ、
こういう『悪(あく)』をして悪い子だ」というと、

子供は「わたしは悪い子だな、わるい子はコップを破(わ)る、悪い子だから
コップを破(わ)るのはあたりまえだ」と、そういうぐあいにして
わるい子供というものが、言葉の力でこの世に現象化してくるのです。

ところが「これは落としから破(わ)れたでしょう。破(わ)れたら二度と水が
入らないでしょう。これじゃつまらないでしょう。だからこれから破(わ)れない
ようにしょましょうね」とだんだん教えていって、

破(わ)ったことに対して、破(わ)ったらこういう結果になる、
こういうぐあいになるから二度としてはつまらないと知らせる。

叱るのではない。

最初の《それ》は子供にとっては実験みたいなものなんですから、その破(わ)れた
ことに対して破(わ)れたら、「ここに水を入れてごらんなさい。入らないでしょう。
そら水が入らぬ、水が流れる、水が流れたら、あなたが水を飲みたくても飲めない
でしょう」というような塩梅式に、

子供がコップを破(わ)ったことに対してもそこにいろいろと生命(せいめい)を
引き出す教育ができるわけであって、それを「お前はコップを破(わ)ったから
悪童である」といって、

頭ごなしに断言してしまうと
「わたしは本来悪童というもので、善いことはできない者だ」と、
子供の生命(せいめい)の善さが押し込まれてしまうのであります。

すべての子供はみな善人であってわるい子供なんて本来ひとりもないのです。

だから、われわれは、大人の気持ちでもって子供を推し量って自分の幼児の
記憶を忘れてしまい、幼児の行為の形だけを見て「汝は悪人である」というような
断言や怒鳴りをすることは慎まなければならない。

子供というものは何でもいろいろと実験しながら、その生命(せいめい)が伸びてゆく。

だから、茶碗を破(わ)る実験も時にはいいのでありますから、
その実験にはいくらか金がかかりますが、中等学校の理科の実験室にも相当
金がかけてありますから、家庭ばかりを窮屈にするには及ばないでしょう。

さて、そういう物を破壊した場合には、それに伴うて不結果が起こるということを
理解させたら、茶碗を破(わ)った実験も無駄にはならない。

「茶碗が破(わ)れたら、そらこんな御飯を入れても入らない、水を入れても
入らない、そうすると食べたくても食べられない、つまらないでしょう。これから
大切にしましょうねえ。こうして大切に静かに取り扱ったらいつまでも使っても
破(わ)れないでしょう」

という塩梅式に教えてゆけば、
そこに本当に引き出す教育ができるのであります。

これは単に一例でありますが、そういうふうにして、あらゆる場合を通じて
「悪(あく)」というものは一つもない、ただ子供にはその生命(せいめい)が
溢れ出よう、出ようとしている。

その方向をリードしてゆくのがわれわれの指導であります。

生命力を押し込まずに導いて、その次には、こういう具合にしましょうね、
ああいう具合にしましょうねと言って破壊に転じて建設的方面に子供の生命力を
導いてゆくのであります。

そしてそこに建設的な何ものかが子供の力でできた場合には、大いに言葉の力で
賞(ほ)める。すると、悪いことをした時に「あんたは悪人だ」といってそこに
悪というものがはじめて出て来たのと同じように、

今度は言葉の力によって、善なる子供がただの理念だけではなく、現実の世界に
確実性をもって出来上がるのであります。

          <感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その12 - 伝統

2016/06/07 (Tue) 03:26:59


        *「生長の家とは如何なるものか」(P126~128)より

それから、子供の生命(せいめい)を引き出す教育をするのには、今までの普通の
衛生的思想に捉われてはならぬのであります。

生理学的の立場から、「人間は8時間眠らなければ疲れるものである。
子供は10時間必ず寝なければ体にわるい」というような観念を
植えつけたりしてはなりません。

また「勉強」という言葉を「苦しいことだ」と考えさせる言葉遣いを
親がしてはなりません。勉強というものは苦しいものではない。
本当は生命(せいめい)を伸ばす楽しいことなのです。

ところがたいていの父兄の方は「勉強は辛いことだ」と自身もそう思っておられ、
遊んでいる方が楽であると思っていられるので、勉強を子供に勧めるのは、
楽しいからやれ」というのではなくて、

勉強は辛いけれども競争試験があるためにやむをえないから
勉強せよというような気持ちでいられるのであります。

だから、時々、子供が烈(はげ)しく勉強しているのを見ると、
「幼いのにかわいそうだ」というような気持ちが起こってくるのであります。
この親の気持ちが子供を「勉強はつらいものだ」という観念に導いてゆくのであります。

たいていの親は決して「勉強は辛いことだからかわいそうだから、勉強なさるな」とは
言わない。「勉強なさい、勉強なさい」と口癖に言うのが普通ですけれども、

その言葉の裏になんとなしに「あんなに烈しく勉強するのはかわいそうだ。
体が悪くなりはしないか」というような不安があるから、それが言葉の端なり、
態度の端なりに出て子供を感化してしまうのであります。


何んとなしに家庭の親の心持、学校の先生の空気の中からそういう暗示を受けて、
「勉強とは辛いことである。苦しいことである」と子供の心の中で観念が固まって
しまうことになるのです。

そうすると「勉強しなさい」と親から言われても、「勉強というものは辛いこと、
嫌なことである、何か強制されることである」というような反発観念が加わるから
勉強に興味を感じない、したがってまた努力に反比例するほど成績が上がらなくなる
のであります。

だいたい、勉強などという文字が「勉めて強いる」と書いてあるのですから、
どうも感心しませんけれども、それでも、親や先生が「勉強ということは生命(せいめい)
を伸ばす遊戯で実に楽しいことである」と、こう思わせるように導いてゆきますと、
勉強の効果が上がるばかりか、勉強によって子供の健康が改善することもできるのです。

また親自身が勉強によって人間は疲れるものである、あるいは健康がわるくなるもので
あるという年を持っている場合には、子供にそれを言って聞かせると否とにかかわらず、
何んとなしに子供に伝わるのであって、勉強嫌いというものはそこから起こってくる、
また、勉強によって健康を害するということも、そこから起こってくるのであります。

これに反して、「勉強するということは、健康を増す薬である」あるいは
「勉強ほど楽しいことはないのだ、ああ勉強は楽しい! 」というような心持に
ならせると子供は興味を覚えながら楽しい、楽しい心で勉強するから、

血液循環もよくなり、勉強することがスラスラと心に呑み込めて、
成績も上がり、健康もよくなるのであります。

          <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その13 - 伝統

2016/06/16 (Thu) 04:11:17


        *「生長の家とは如何なるものか」(P128~129)より

わたしのところに来られた小学児童で病中または病後の虚弱を激しく勉強しながら
体力を回復し、スッカリ健康になられた人がたくさんあります。

一例を挙げれば、肋膜炎を患って半ば治ってふらふらの痩せ細った尋常六年生の
子供がわたしのところに来られたのである。

わたしはその母と子に「勉強は薬ですよ」と強く言って上げたら、母子とも
わたしを信じて本当にその気持ちになって、その後、その子が勉強する時には
「お母さんこれから薬服(の)みますよ」「これから薬服んでよろしいか」などと言う。

母親の方でも「ああ薬服みなさいよ、勉強したら達者になりますよ、勉強するほど
人間は丈夫になるものですよ」と言う。

それ以来、この痩せ細った衰弱した子供が、午前2時、3時頃まで勉強しても
ちょっとも疲れなくなり、体重も3貫目ほども増加してとうとう中等学校へも
入(はい)れたという実話があります。


こういう事実があるのは、勉強そのものが人間を疲れさすのでも、病気にするのでも
ないのであって、「勉強は人間を疲労さすものである」という考えが今まで子供を
疲れさせていたのです。

「8時間睡眠しなけれ、健康に悪い」という考えが子供を不健康にしておったのです。

ところが、「勉強は薬である」という考えを持ち、言葉に依って勉強は薬だと
表現することになると、この子供の場合のように本当に勉強が薬になるのであります。

思いの力、言葉の力が、勉強を毒薬に変え、あるいは良剤に変えてしまうのであります。

というのは、本来、《勉強》とは何も《勉めて強いる》ことではない。
生命というものは、「静」が本体ではない、「動」が本体である、動くのが本体である。
聖書にも、「神は今に至るも働き給う」とある。

そのように、生命(せいめい)は動くように創造(つく)られているのですから、
勉強すること、働くことが生命(せいめい)を発達さすことになるのです。
だから生命(せいめい)を顕わさんとするものは勉強せよ、働けということになるのです。

「生命(せいめい)を顕わす」とは能力も進歩し、健康も増進することです。

在来考えられていたように、同一生命(せいめい)の発現である「能力」と「健康」とが
重盛(しげもり)の「忠ならんと欲すれば孝ならず」の道徳のように相反しているのは、
本当ではありません。本当は能力を出すことすなわち健康となることなのです。

とにかく能力を発現さすことによって、
われわれの生命(せいめい)は生き生きとして来るのです。

樹木はじっとしている、じっとしているようだけれどもやはりどこかが働いている、
それだから生きている、もし働きが止まってしまったら養分を吸収しないので
すぐ枯れてしまうことになる。

やはり植物も働いておるから、水分が循環し、栄養が循環して、
美しい花をも咲かせ、美味しい果(み)も生ずるということになるのであります。

          <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その14 - 伝統

2016/07/12 (Tue) 03:48:22


        *「生長の家とは如何なるものか」(P129~131)より

「生長の家」では、生活でも、教育でも、できるかぎり強く明るく100%に
やり抜きやり尽して悔いなき生活を送るのであります。

今までの教え方では、何でも「八分目」ということが尊ばれた。
御飯を食べても八分目、何でも控え目に八分目にやらないと毀(こわ)れるというふうに
考えられておったけれども、生長の家では「八分目」なんてそんな中途半端なことは
言わないのであります。

「今」ある生命力を100%生き切れば、そしたらその時には、ちょっと疲労したように
見えても、次にはかえってその疲労が回復して、100%の力が出るのであります。

だから、子供を導く場合にも、「早く眠るようにしなければ、明日(あした)は疲れますよ」
なんて言わないのです。

「いい加減に勉強しておきなさい。明日(あした)疲れるといけません」などと
いう人があるけれども、「いい加減」とは、実は「今」の生命力を100%使う
ことなのです。

100%「今」の生命(せいめい)を使い尽くして、そして睡(ねむ)くなってくれば
寝たらよい、これが「いい加減」である。その子供の生命(せいめい)にとって、
どれだけがいい加減であるかは、子供の生命(せいめい)それ自身が知っているのです。

それと親たちが横合いから要らぬ干渉をして、「疲れますよ」などと言うから
言葉の力で疲れてしまうのです。

勉強するには疲れるとか、失敗するとか、イヤイヤするとか、
暗い考えはいっさい禁物であります。明るく勉強することが必要なのです。
生命(せいめい)というのは明るいのが本当の相(すがた)なんです。

今までの多くの宗教においては、たいてい いやしくも宗教にたずさわる者は厳粛で、
いかめしく、堅苦しく、窮屈で、虔(つつま)しやかであることが美徳であると
考えられていたらしく、仏教の坊さんにしても、なんとなしに抹香臭くて暗い。

キリスト教の教会に行って見ると、窮屈な、暗いような、悲哀なような、涙をながして
神に懺悔するような、いやしくも笑ってはならないというような空気が往々あるのであります。

がそういう暗い陰気な空気のようなところでは本当の生命(せいめい)というものは
伸びないのであります。

あるいは準備時代には暗い湿地にいることも必要ですが、本当に生命(せいめい)の
伸びる段になると《明るい》ということが必須条件である。

太陽の光線の下(もと)に強く照らされてこそ、はじめて樹木がよりよく生長しうる、
それと同じように、われわれの生命(せいめい)も明るい心持の中に照らされて、
はじめて本当に伸びてゆくのであります。

だから勉強は愉快に明るくするということが必要であります。

          <感謝合掌 平成28年7月12日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その15 - 伝統

2016/07/28 (Thu) 04:25:37


        *「生長の家とは如何なるものか」(P131~132)より


やがて生長の家でも、学校ができることになっておりますが、なにしろ現代の教育法を
見ておりますと、実にまだるっこい緩慢な勉強の仕方をやっているのであります。

第一、1学期間にどれだけほどの本を読むかというと、四号活字か三号活字の大きな
活字で印刷した教科書の2、3ページを、1時間かかって読ませたり、いろいろと
それを引き延ばして講義しているのでありまして、

皆さんでも、そんな2,3ページのビラぐらいの文章を1時間かかって何遍も読めと
強いましたら、勉強というものは実に退屈なものになってくるでありましょう。


ある小学校では、中等学校へ進む生徒に、小学教育で終わる生徒とを区分して
中等学校へ行く希望の人だけを別に集めて、そうして先に予習させている。

そして普通の生徒はまだ教科書の3分の1ぐらいを習っている時に、中等学校へ
行くせいとだけずっと教科書の終わりごろまで行っておるのです。

そうして普通の授業時間には普通の生徒と同じように、
すでに一遍ならったところを習わせている。

1時間かかって2、3ペ-ジの分量を1回やらされるだけならまだしも、
2回も勉強させられたりすると、大人でも勉強というものは退屈なものだと
思うに違いない。

子供の勉強嫌いそこからも起こってくるのです。

ドストエフシキーの『死の家の記録』という小説の中に、シベリアの徒刑囚に
2個のバケツを与えて、一方の水を他方に空(あ)け換え、また一方の水を他方に
空け換えして、その退屈な仕事ばかりを繰り返さす一つの刑罰の話が書いてあります。

そうするとたいていその死刑囚が狂人になってしまうのです。

その事実によってみても、同じこと、単純なことをあまり反復させるということは
かえって生命(せいめい)を生かす所以(ゆえん)でないことがわかる。

2、3ページぐらいの分量を、そう何度も何度も繰り返されたら、小学生も退屈になり、
嫌気がさして、隣の生徒といたずらでもしたくなる。それで、勉強は馬鹿らしい、
退屈なことだと思って勉強を回避するという悪い習慣がつくことになってしまうのです。

これからのわれわれの教育は、もっと時間を尊んで、そうして十分に生命(せいめい)
を生かすようにしなければならないと思います。

          <感謝合掌 平成28年7月28日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その16 - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:27:58


        *「生長の家とは如何なるものか」(P132~134)より

子供の能力を低いものだと見ることがまちがいなのであります。

子供は1時間に2、3ページぐらいしか本を読んで覚えることができないと
思っているとまちがいです。

先日も5号活字300ページぐらいのお伽噺(とぎばなし)を、尋常6年生の
わたしの子供が人から貰ったのです。日曜日に終日それを読んでいる。

「お前どこまで読んだ?」ときくと、「もうみんな読みました」といっている。
300ページぐらいのお伽噺を、5号活字で書いてある長さが
1日で読めるといっている。

それで「どんな話が書いてあったか?」と訊くと、よく覚えている。

ところが、3号活字か4号活字の大きな活字で書いた薄っぺらな教科書を、
半年もかかって繰り返されて「覚えなさい、覚えなさい」と言われたのでは、
シベリアの死刑囚ならずともウンザリする、
かえって覚えないで生命(せいめい)を浪費するのであります。

お伽噺の本なら5号活字300ページを1日に読破してだいたい覚えられる。

これは子供の生命(せいめい)が興味をもって内部から覚えたい、知りたいと
思って芽吹こうとしている。
その「迎え水」としてそれらの本が与えられているからであります。

この自然の生命(せいめい)を喚(よ)び出すために適合した本を与える
ということにしなければ、本当に子供の生命(せいめい)を生かす
ということができないのです。

それなのに、現代の小中学教育の弊害は「今」その生命(せいめい)を伸ばす
教育をやっていないのであって、上級学校へ行くのにはどういうふうにして
覚えたらいいかということばかりに山をかけておって、

「今」の生命(せいめい)の伸ばし方はどうでもよいのである、
「今」は窮屈でも、生命(せいめい)を殺してもどうでもいいのである。

こんなことだから、大学を出ても、
さっそく仕事のできるような人間は少ないのであります。

          <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

「久遠の今」の生命(せいめい)を発掘せよ~その17 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 04:11:39


        *「生長の家とは如何なるものか」(P134~135)より

お伽噺が1日に300ページ覚えられるとすれば、歴史にしてもどんな学科にしても
本当に興味が湧くように教えられれば、たちまちにして中等学校で教えるくらいの
日本の歴史ぐらいは半月もすれば完全に覚えられてしまうはずです。

今の教科書はあまり骨ばかり抽象して書いてあるから、興味がなくて覚えられないのです。
もっと生きて生命(せいめい)のある表現ある教科書を使うことが必要です。

そういうふうにして明るく、愉快に、生命(せいめい)を「今」100%伸び伸びと
伸ばしてゆくということにすれば、人類全体の知能のレベルが《ぐん》と上がる、
今よりも人間は楽しく勉強しながら能力が倍加し、健康が倍加するのであります。

生命(せいめい)正しく伸ばすには生命(せいめい)にも美味しい料理が必要です。

澱粉何グラム、蛋白質が何グラム、脂肪何グラム・・・とそれを粉末にしてオブラートに
して服(の)むような式の無味乾燥な料理では肉体が肥えてこないのと同じく、
骨子ばかりを書いた教科書では心は教育されないのであります。

興味というものが勉強についての調味料であります。
良い教科書とは子供の興味をそそる教科書なのです。
良き教師とは生徒に興味を与えながら教える先生なのです。

興味を感じなければ、2、3ページを読むのも苦労であるし、
興味を感ずれば300ページでも1日に読めるのです。

ところが興味を湧かせるには処を得させるということが必要であって、
処を得なければ興味を感じなくなるのです。

たとえばどんな御馳走でもお腹がいっぱいの時に突き出されたらそれを食べられない。
それは本当に御馳走ではない、正しくないということになるのです。

ところが梅干弁当でも腹の減った時突き出されると正しいものであるということになる。

勉強も、それと同じことで処を得させることが必要です。
教科の配列の上手下手にも生徒の興味の感じ方が変わってくる。

同じ算術の教え方でも材料を按配し、あるいは説明の仕方を実際の生きた問題などに
連関させておもしろく話すこともできれば、骨だけ抽き出して無味乾燥に教えることも
できるのであります。

これは主として教師たるものの技倆であります。

          <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>

善と愛と智慧と光明とを生かせ~その1 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 04:02:43


        *「生長の家とは如何なるものか」(P135~137)より

 《われらは常に善と愛と智慧と光明とが人の実相なることを信じ、
  常につとめて善に還り、愛を行い、真理の書を読み、
  全人格の雰囲気と心の習慣とを神のごとく完全なるものたらしめんことを期す》


これを要するに、人間は本来善であって悪人というものはない。
物を破壊するというようなことでも、それが自然に出てきたときには
決してそれは悪でないのであって、それが大人の立場、経済的の立場から
考えたら、悪は見えるために、

「お前こんないたずらをして悪人である」

こういう言葉で宣言するために悪というものが出現して悪童、悪い子供というものが
出来上がるのであって、それまでは「わるい子供」というものはないのである。

こう申しましたが、赤ん坊がだんだん生長して、乳児期から少年期に移るという
ふうな時代になりますと、だんだん《もの》を愛撫するというふうな心境が
起こってくるのであります。

《もの》を愛撫する心持が起こってきて、たとえばここに百合の花があるとしますと、
その百合の花を見るとそれがなんとなしに掴んでみたいというような心持が起こってくる。

ところがこの百合の花を掴んでみるということはことは子供にとって百合の花を
愛撫するということなのです。しかし大人にとっては美しい花を引っ掴まれて
たまるものか、掴んだら毀してしまうというようなことを考える、

「そんなことをしてはいかぬ、お前はまたわるい子である」とこういうふうに
ともすれば言おうとするのです。

これは子供の内に働いている愛というものを押し消している教育になっているのです。

最初は愛撫するつもりでも、そのくらいに掴んだら毀れるものであるかということが
わからないのであって。ただかわいいから掴みたいというふうな気持ちが起こってくる。

掴んでみて毀れたら、その時はじめて、

「ああ、この花は毀れてかわいそうだ」

という感じが子供にも起こる。

その時「ああ、かわいそうに! 百合さん」と言って、
お母さんが残った百合の花を毀さないように軽く撫でる格好をする。

するとその程度の愛撫では花は傷つかないことが子供にもわかる。
そこで子供は真似をして、「かわいそうに、百合さん」と言って愛撫の真似をする。

こうすると愛撫の心は押し消されないで、かえって愛撫の心が養われながら、
物の大切な取り扱い方というものが解かってくる。

          <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

善と愛と智慧と光明とを生かせ~その2 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 03:36:47


        *「生長の家とは如何なるものか」(P137~138)より

ところが、「この子は百合の花でもなんでも毀す悪い子供だ、子供というものは
そうも乱暴なもので、美しいものでも何でも毀すもので、悪い者」だという言葉を
持ってゆくと、そこにせっかく愛撫の気持ちをもって行動した、

そのことが悪いことだったと、子供にとっては実に変な矛盾した感じになって、
子供の内部生命の愛が芽を吹こうとしているのが迷ってしまうことになるので
あります。

だから人間に本来悪人はない、いわんや子供に本来悪人はないと知って、
実相を見るようにして子供が花を愛撫するために花を摘んでもこれは
愛撫する心でしたのであるから決してわるい心でない、
どの程度に掴んだらいいかわからないために失敗したのだ。

傷ついたり、傷ついたのを機会に本当の愛撫の仕方へ誘導する。

子供の頬っぺたを軽くつつきながら「可愛い坊ちゃんだね、可愛い可愛い」と
言葉で言うと、「お母さんは可愛いね」と言って子供もお母さんの頬っぺたを
つついて撫でる。

そこに愛というものが本当にどんな気持ちのものであるかということがわかってくる。

お母さんにそうしてあげると、お母さんがまた嬉しそうな顔をする。

こうして、その子供は、自分の喜びは母親の喜びである、あるいは自分の喜びは
百合の花の喜びである ―― 百合の花に触れれば百合の花も喜んでいるものである
ということがわかってくることになるのであります。

          <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

善と愛と智慧と光明とを生かせ~その3 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 03:39:00


        *「生長の家とは如何なるものか」(P138~140)より

こういうようにして、この自と他と、自分と外界とのすべてが一つの生命(せいめい)に
支配され、愛の世界に溶け込んでおって、自分の喜びはすべてのものの喜びである
ということが幼児の時から自然と感ぜられるように仕向けるということによって
子供の愛の本能を本当に大きく生長さしてゆくということができるのであります。

大きな大人になってから「本来自他は一体である」なんて言っても、理屈みたいで、
かえって素直に這入らないのだけれども、赤ン坊の小さな芽生えの時には、
自他一体ということが実によく理屈でなしにわかっているのであります。

「ああ、可愛い」と言って自然と花でもなんでも撫でる、そうするとまた、母親から
撫で返してもらって「ああ、可愛い」いう愛撫の善さがわかる。この乳児の体験が
成長してからのすべての愛の基(もとい)となってくるのであります。

そういうふうにして子供を教育して行きますと、自然と内部に宿っている神なるもの、
神性、仏性というものが現れてきて、悪とか、冷酷とか、憎悪とかいうようなことを
自然考えなくなってしまい、この世からすべての悪というものが形を消してしまう
のであります。


こうして言葉の力というものが実に偉大な感化を及ぼすものだということが
わかってきましたならば、善き言葉を書籍をまとめたものを読ませるということの
大切さも、類推されるのであります。

子ふぉもが10歳か12、3歳にもなると聖賢の書物を読ませる、偉人の書を
読ませるということは尊い感化をその子供に及ぼすことになるのであります。

お伽噺の選択を誤ってはなりません。
悲惨なもの、憂鬱なもの、恐怖を感ぜしめるものはいけません。

聖賢の話を読ませると、自分のうちにもやはりこういう偉い人と同じ素質がある
ものである、自分もこうなれるという心持が内部から勃然(ぼつぜん)と
湧き起こってくる。

どんな聖賢も偉人も皆自分と同じものである。みんな神の子である。
自分にもできないことはないのである、という自覚が子供を高め上げて、ついに
それらの子供が聖賢偉人の足跡を辿(たど)るようになるのであります。

この生長の家式の新しい教育法については、『生命の實相』第7巻、第13巻および
第15巻(頭注版・携帯版では、第14・15・25・26・29・30巻)に
詳しく書いてありますから、御併読下さるよう希望します。



       あとがき

   これは『生命の實相』の一部(第27・28巻の抜粋合本)でありますから、
   感銘なさった人や、もっと詳しく知りたい人は、『生命の實相』(頭注版・
   携帯版は全40巻、愛蔵版は全20巻)をお読みください。

   尚、本文および頭注にある「本書」「本全集」とは『生命の實相』全40巻
   のことであります。

・・・

以上で、「生長の家とは如何なるものか」~生長の家家族の祈願祈願及び修養
の謹写を終了いたします。

          <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

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