伝統板・第二

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光を灯す① - 伝統

2015/10/30 (Fri) 05:00:16

愛国本流掲示板に、”希望・匿名 さま”が、
「恵美子先生のお元気なお姿に安堵 (10204)」という記事を投稿されており

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=4054)、

リンク先のアドレス
http://blogs.yahoo.co.jp/tachiyan50/33036375.html)が表示されております。

リンク先の記事を読んで種々感じたことがあり、その思いを込め、
このスレッドでは「光を灯す」に関する情報を紹介してまいります。



            *「光明道中記」(P70)より

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】


倒れたその瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

・・・


<関連Web:光明掲示板・第一「”ひかり”のみ (5394)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1024 >


            <感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>

ふりそそぐ神のみ光 - 伝統

2015/11/09 (Mon) 04:46:23


         *「女性の幸福365章」(P25)より

光を見出せ。
光は到る処に充ちている。

ただ、心の眼を閉じているもののみが光を見出すことができないのである。
心の眼をひらいて、ふりそそぐ神の愛の光を、
自分から発している「神の子」の霊光を見よ。


今すぐだ。
今さとれ。
一分間も猶予することは要らないのである。

今すぐに自己が神の子であることを悟るがよい。
肉体を「自分」だと思ってはならない。
あなたは「神の子」であり、霊であり、いと高きものである。


智慧の光によって自己の実相を見よ。
あなたは既に浄(きよ)らかであり、完全である。
外から何ものもつけ加えなくとも完全である。

内の宝を見出しなさい。
智慧の灯明(ともしび)に火をともすには神想観を励みなさい。
神があなたを内から照らすでしょう。

そしてあなたを導きましょう。
その智慧の光の導きに従って恐れずに進みなさい。

            <感謝合掌 平成27年11月9日 頓首再拝>

《光のみの世界を観るには》 - 伝統

2015/11/16 (Mon) 04:56:23


         *『 生長の家 』(昭和26年5月31日)の法語より

   神の愛は吾等を取り巻いてい給うのである。
   何事が起って来ようとも、それは現象であり、
   心のスクリーン上に映った映画の一断面に過ぎないのである。

   映画の一断片にどんな不幸なことが顕れていようとも、
   そんな事に心とらわれてはならないのである。

   吾々は常に光源に振り向くことによって、
   光ばかりの世界を見ることが出来るのである。

   若(も)し吾々が光ばかりの世界を見ることが出来ないならば、
   それは途中の妄念のフィルムに下らないことが描かれていて、
   その光の照り渡ることを妨(さまた)げているのである。

   汝(なんじ)の妄念を取り去れ。
   憤りを去れ。
   憎みを去れ、
   不平を去れ、
   悲しみを去れ、

   唯、感謝せよ、唯、光のみの世界を見るであろう。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成27年11月16日 頓首再拝>

すべての人々に、光が輝いている - 伝統

2015/11/26 (Thu) 03:30:07


        *「幸福を招く365章」(P187)より

【すべての兄弟を礼賛しよう】

眼を挙げて光を見よ。
空高く輝ける神の光を。
それは君を導く真理の光だ。

君がその光を見たのは、君のうちにもその光が宿っているからだ。
そうだ、あなたの内にも神が宿っている。
私のうちにも神が宿っている。

すべての人々に神が宿っているのだ。

悪い人はひとりもいないのである。

神は野にも、山にも、丘にも、海にも、お空にも充ち満ちていて、
われらを照らしたもうのである。

光の世界に生きている光の子供があなたであり、私であり、
すべての人々であり、すべての存在である。

まばゆいばかりに光が燦爛とかがやいている。

 すべての人々を祝福しよう。
 
 すべての人々を礼賛しよう。
 
 すべての人々に感謝しよう。
  
            <感謝合掌 平成27年11月26日 頓首再拝>

《一切衆生のための祈り》 - 伝統

2015/12/01 (Tue) 04:37:00


        *「光明道中記」(12月はじめの祈り)より

わが毎朝念ずる衆生のための祈り――

私の生命は宇宙の生命と一体である。されば吾は宇宙の凡てのものを知っているのである。
わが生命は神と一体なるが故に、わが欲(おも)うところは、神必ずこれを成し給うのである。

光が昇れば隈なくすべての所を照らすが如く、暗(やみ)のあるところにわが光明思念は必ず
行き亘り、悩みのあるところにわが念ずる光明の言葉は満ち亘るのである。

われは光明思念をすべての悩みありと迷える人々に送る。
送るに随って人々の悩みは消えるのである。

与えれば与えるほど殖えるのが法則であるが故に、このことによって吾が光明は愈々輝き、
吾が健康は愈々増進するのである。

病める者、悩める者、重荷を負える者に、われは「光明思念」の導管より生命の水を送るのである。
「今より後、罪も病も死も貧も争いも一切の不調和もなし」

われは今「光明思念」を放送する。わが光明思念は、われを通して流れ出でたる神の生命である
から、その光明思念は宇宙全体に充ちひろがり、すべての悩める者を癒すのである。

神よ、わが祈りを聴き給いしことを感謝します。

       <感謝合掌 平成27年12月1日 頓首再拝>

唯ひかりのみ - 伝統

2015/12/09 (Wed) 04:21:55


       *「聖光録」《三月の手紙》より

不幸が実在するとお考えになるのが可けないのでございます。
不幸は決して神の創造ではございません。

不幸と見ゆるものは私達を苦しめるために
神の御手により創造られたるものではございません。
それは神からはなれた窒息の感じでございます。

吾々は空気によって生きているが如く、
否それよりも一層多く神によって生きているのでございます。

空気によって生きている吾々が空気と全く離れたり、空気が希薄となったら
苦しくなってまいりますように、神によって生かされている吾々が、神から遠ざかったり、
神から全く離れてしまったら苦しくなるのは人間の本性から来るのでございまして、
神罰から来るのではございません。

それを不幸や病気や災難と申すのでございます。

   ただひかりの光の中に我れ澄めりすべてみひかり我れもみひかり

神想観中にこの歌を繰返し念じて精神統一にお入りになって御覧なさい。
そして光満つる世界を心に描いてそれを見詰める気持になるのです。

その時、貴方は唯ひかりのみである世界を体験なさいましょうと思います。

       <感謝合掌 平成27年12月9日 頓首再拝>

常に事物の光明面を見よ - 伝統

2015/12/16 (Wed) 04:40:49


           *「真理4巻」(P141~143)より

吾々は常に事物の光明面のみを見るようにしなければなりません。

暗黒面,不快な面、病的面に対して決定的に心を閉じる必要があるのです。
心というものはともすれば事物の暗黒面のみに引き付けられ勝ちなものであります。

そして不幸や病気や不調和を常に心に描きますから、
何時までたっても心のサブスタンス(実質)でそれを製造することになるのです。
この世の中に幸福な人より不幸な人の方が多いのはそのためであります。 

常に心の実質で良き事、幸福なる事のみを心に描くこと
そのこ事が、幸福の製造法なのであります。

オスカーワイルド(英国の大文豪)は、
「ロンドンの霧は、詩人がそれを認めて誌に歌うまでは存在に入らなかった」と言っています。
「心そこにあらざらば見れども見えず」という日本の諺があります。

あなたが如何にロンドンの霧の如く群がりたちのぼる
不幸の雰囲気に包まれていましょうとも、
心が、それを認めないで、光明面ばかりを見ていましたならば、
暗黒なものは何一つ存在に入ることは出来ないのです。

家庭の中にどんな不調和がありましても不調和を心の眼で見ないことです。
すべて本当にあるものは、善き事のみがあるのです。
不調和と見えるものは調和に到らんとする道程なのです。

丑三つどきにはもう曙の光が一層美しく射し始める準備をしているのです。
悲しみに泣きぬれた人よ、眼を挙げよ。
そして近ずいて来つつある曙の光を見よ。

キリストも「幸いなるかな、悲しむ者、その人は慰められん」と言っています。
悲しみと見えるものは実は、あなたがまだ気がつかない大いなる幸福の先触れとして
来ているのです。

       <感謝合掌 平成27年12月16日 頓首再拝>

光は影を見ない - 伝統

2015/12/24 (Thu) 04:31:18


        *『生活と人間の再建』第11章信仰生活の種々相(P144~147)より


吾々が真に幸福になろうと思うならば、「悔い改め」が必要なのである。
「悔い改めよ、天国は実現せん」とキリストは教えているのである。

吾々はすべての罪の穢れから脱却して幸福になろうと思うなら、
人の罪を赦さなければならないのである。

如何なる人が、いつどこで、如何なる罪を犯しておろうとも、
そんなことは問う必要はないのである。

如何なる罪も、罪を見給わない神の前にひきだされた時、
「それは雪よりも白く」浄められてしまうのである。

光は影を見ず、神は、罪を見給わないからである。

吾々は自分勝手に人の罪に引っかかって、自分の心を苦しめる必要はないのである。
吾々が人の罪を赦した時自分の心の重荷はとりさられてしまうのである。

吾々に「悔い改め」は必要であるが、常に罪の記憶で悩んでいてはならないのである。
罪は光に反して立った時の影のようなものであるから、
「悔い改め」即ち光に面して立った時にはすでに過去の罪はないのである。

吾々は他の人を赦すと共に、自分自身も赦さなくてはならない。
過去の一切を投げ出して光の方に直面すればいいのである。

その時たちまち諸々の罪は消えて「雪よりも白く」吾々は浄められるのである。


マグダラのマリアが過去の罪を悔いてただひたすらキリストの足の前に
全身を投げ出した時、その刹那、彼女は救われたのである。

多くの罪の為に「石にて打ち殺されんとする女」に対して
キリストは「吾も汝を罪せじ、行きて再び罪を犯すな」といっているのである。

しかし再び光の反対をふりむく時、暗(やみ)が現れるが如く罪も再び現れるのである。
だから「再び罪を犯すな」である。

この真理を知らなければならない。

人の罪に対して吾々が心を振り向けた時自分自身の心が罪でけがされてしまうのである。
だから吾々は、他の人の悪と不正に対して心をふりむけることをやめなければならない。

吾々が罪から解放される所の道は、吾も亦他(た)の罪を釈放するところにあるのである。

吾々がもし真に愛深きものであるならば、その人の善き所を探すのに忙しくて
「悪」を心に記憶して数えあげるような暇はない筈である。  

キリストは自分をとらえに来た者をも赦して、
ペテロがそれに対して剣を抜いて戦おうとしたのを押しとどめ、
ペテロに耳を斬られて倒れている兵隊を愛の心によって癒してさえいるのである。

キリストは形の世界で磔になったけれども、心の世界では世界を征服し給うのである。
愛と赦しとは最も大いなる力であって、それのみが全世界を救うのである。 


多くの人達は、人の罪に対して長くぐずぐず思い患(わずら)い、
赦さないために夜の目も眠れず、色々の肉体的故障を起こしている人も
随分沢山あるのである。

かかる原因で起こっている病気はただ赦すことによってのみ、
神の「癒す力」を自分の中(うち)に解放することができるのである。 

吾々はすべて、(特に病める人々は)眠りしなに神想観を行い、
昼の中(うち)に色々の問題に対して起こした所の怒り、憎み、争い嫉妬等の感情を
心から拭い去るようにしなければならないのである。

それは次のように心の中で思念するのがよいのである。

「吾は神の子である。神の霊が宿っているのである。
神の無限の愛が今すべての人の罪を赦し給うのである。
そして自分の罪をも赦し給うたのである。

自分は今神に赦されて全ての罪は消えたのである。
自分は自由である。ありがとうございます。」

かく念じて神の愛を深く自己の内に実感し他(た)をも赦すのである。
この習慣をつける時信仰の暗黒時代は速やかにすぎさって 
光明に面することができるのである。

・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「信仰生活の暗黒時代を通過する道」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=57

(2)光明掲示板・伝統・第一「信仰生活の浮き沈み (145)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=66

       <感謝合掌 平成27年12月24日 頓首再拝>

「光」に到達せんとする過程 - 伝統

2016/01/02 (Sat) 04:52:24


     *『生活と人間の再建』第17章浄化過程に於ける人生体験(P223~224)より

「光」は燃ゆる焔(ほのお)の結果であると言うことが出来るかも知れない。
併し乍(なが)ら実際には、燃ゆる焔は不完全不十分に燃焼しつつある「光」である。
「光」の中に住む所の人は焔については感ずることがないであろう。

燃ゆる焔を感じ、焔の中に通過する体験を経なければならないのは
「光」からなお多少彼が離れているからである。

併し、光は燃ゆる焔の結果であると言うのは単なる譬喩(たとえ)であって、
焔の中を通過する苦しみとは、謂わば人が自分自身の不調和の心の状態、
及び神と離れた心的状態が因(もと)になって自ら作った
不調和の一形式に過ぎないのである。

「光」は常に而(しか)して永遠に「光」であるのである。
道を求むる人にとって焔の苦しさが見えるのは「光」の罪ではないのである。

それは人が、まだ白熱的信仰に達しないために、
半(なか)ば燃ゆる信仰の燻(いぶ)っている心境のために
斯(か)くの如く見えるのである。

       <感謝合掌 平成27年1月2日 頓首再拝>

光明面のみを見る  - 伝統

2016/01/09 (Sat) 04:43:04


        *『生活の智慧365章』(P168~169)より

事物の暗黒面を見てはならない。
また他(ひと)の暗黒面を見てはならない。
更にまた自分の暗黒面をも見てはならない。

暗黒面を見るとき、必ず自己の“心”の中に暗黒な事を描くことになるのである。
そして自己の“心”の中に描かれたものは必ず、いつかはその描かれたる姿が現実化して
自己の運命となったり、自己の境遇となったり、不測の災いとなったりして
あらわれて来るのである。


暗黒面を見るかわりに事物の光明面を見よ。
他(た)の光明面を見よ、更にまた自己の光明面のみを見よ。

光明面を見るとき、光明面のみが“心”に描かれ、
“心”に描かれたものが増大し、具体化し、自分が一層明るい気持ちになり、
運命が一層好転し、身辺に気持ちよきもののみがあらわれ、
ついに自己の住む世界が地上の天国浄土となるに至るのである。

暗黒面を見るよりも、光明面を見る方が余程楽であり、容易であり、気持ちがよいのに、
何故(なぜ)多くの人々は光明面よりも暗黒面を見たがるのであろうか。

彼らは心の法則を知らないからである。

       <感謝合掌 平成28年1月9日 頓首再拝>

心を明るく持てよ - 伝統

2016/01/17 (Sun) 04:16:09


          *「幸福を招く365章」(P231~232)より

心の明るさということが、第一に必要である。

神に祈って効果がない場合は、
概ねその人に心の明るさが欠乏している場合が多いのである。

神は光であるから、神の波長に合うためにはまず明るい心が必要である。

すべての恐怖や心配や、取越苦労などをかなぐり捨てて、
神に全的にまかせ切ることが必要である。

「私は朗かである。私は神の子であるから、親様なる神が私のすべてのことを
見まもりたもうから、私は神にすべてをまかせて、心平和である。
すべての事は必ずよく成就するのである」 

と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。

       <感謝合掌 平成28年1月17日 頓首再拝>

光への道 - 伝統

2016/01/26 (Tue) 03:47:29


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P17~18)より

世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 平成28年1月26日 頓首再拝>

【自己内在の光】 - 伝統

2016/02/01 (Mon) 03:51:53


         *「光明道中記」(P42~二月「天地そろう」はじめの言葉)より

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

            <感謝合掌 平成28年2月1日 頓首再拝>

常に「光」を見よ - 伝統

2016/02/09 (Tue) 04:04:42


          *「真理」第1巻入門篇(P128)より

常に「光」を見よ!

「暗(やみ)」を見ること勿れ。

常に登り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
エレベーターや空中索道ですら、昇り行くときは気持ちが好いが、
降り行く姿を想像すれば気持ちが悪いのである。

だから、あなたが常に自分の運命が騰(のぼ)って行く姿を想像せよ。

「自分の運命が昇る、昇る! 」と想像せよ!

そうすれば貴方は運命が昇るよりほかに仕方がないのです。

            <感謝合掌 平成28年2月9日 頓首再拝>

《神の栄光は斯く受けよ》 - 伝統

2016/02/16 (Tue) 03:36:24


          *『 生長の家 』(昭和26年2月9日)の法語より

   神より来る栄光を受けようとのみ
   受動的に待ちかまえるだけでは足りないのである。

   「 待つ 」 と云うことは必ずしも静(じっ)としていること
   ではないのである。

   神の子らしく愛を行ずること、
   神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、
   その行と努力そのものが神の栄光に波長を合わすことになるのである。

   そして一方には、
   喜ぶこと、心を明るくすること、
   その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、

   現在受けている凡ゆる恵福を、
   どんな小さな事でも思い出して感謝すること、
  
   これらはいずれも神の栄光を受信するための受入態勢であるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/21ff78f4d8370a32324d492ad3ecd16e

            <感謝合掌 平成28年2月16日 頓首再拝>

《光に対して眼をひらけ》 - 伝統

2016/02/25 (Thu) 03:57:14


     *『生活と人間の再建』第11章信仰生活の種々相(P142~144)より


人は罪を犯したが故にとて、
神に跪(ひざまず)いてその赦しを求めるのであるが、
罪とは果たして何であるか。

罪とは実相に対して目をつぶっていることであって、
それは眼をつぶった目に光が存在しないということにすぎないのである。

それは罪と云う実物が存在するのではなくして、
光りに対して目をとじていることだけの消極的状態にすぎないのである。

吾々は唯目を開ければ好いのである。

余りに赦す心なく、心のレンズを絞るから光が入らないのである。
自分自身の心を小さく絞ることをやめよ。 

祈りは、結局心の思いであって、
心の中に想い浮かべた相(すがた)の通りが形に現れてくるのである。

人に対して憎みながら、「幸福が来ますように」と祈ることは
雑草を蒔きながら「米を刈り取らせてください」と祈ると同じことである。

我々が人を憎めばその憎みが自分に戻って来て刈り取られるのである。

吾々が肉体を大切にしないならば、肉体は吾々を大切にしないであろう。
吾々が金銭を大切にしないならば、金銭は吾々を大切にしないであろう。
吾々が人間を大切にしないならば、人間は吾々を大切にしないであろう。

吾々は、与えた所のものが与え返されるのであるということを知らねばならない。
吾々がある人を傷つけるならば、その報いはその人から返ってこないことがあるかも
知れないが、他(た)の人から同じような害を自分に与えるように返ってくるのである。

吾々が甲に対して出し惜しみをするならば、乙は私に対して出し惜しみをするであろう。

            <感謝合掌 平成28年2月25日 頓首再拝>

陰を見るな。光を見よ - 伝統

2016/02/29 (Mon) 05:07:34


           *「光明道中記」(P51)より

【陰を見るな。光明方面を見よ。見た方面が強くあらわれる。(『生命の實相』十一巻)】


現象界はすべて明暗の交錯で出来ている。
光明一元は実相世界のことである。

現象界で暗い方面ばかり探していたら、どんな輝かしい美人でも
足の裏から覗いて見たら暗い半面はあるのである。

人生を暗いと思って嘆く人よ、人生は暗いのではない。
貴方の人生を覗くところの角度が暗い角度から覗いているのである。

太陽が落ちた後の暗澹たる世界を嘆くよりも、
太陽のさし昇る光明燦爛たる曙を想望して喜ぶがよい。
太陽を想望する人の心の中には、既に太陽があるのである。

心に太陽が無くてどうして太陽の射す明るい世界を見ることができよう。
心に太陽を持つ者は、やがて現実の世界に太陽の差し昇るのを見るであろう。

子供を育てる時にも、子供の美点のみを見て誉めるようにするならば、
その子供の美点は伸びる。常に夫は妻を誉め、妻は夫を誉めよ。
そこからこそ幸福な家庭が来る。

            <感謝合掌 平成28年2月29日 頓首再拝>

《暗(やみ)が現われて来るのは 光を拒絶したから》 - 伝統

2016/03/08 (Tue) 03:25:25


            *『 生長の家 』(昭和25年2月21日)の法語より

   「 光のある中(うち)に 光の中(なか)を歩め 」
   と聖書には 書かれている。

   神は光である。
   光を拒絶する時 暗が現われて来るのである。

   何か不完全が自分の周囲に現われて来た時には、
   何か自分の心の中に、光を拒絶し、神にそむくような
   何ものかがあったのだとして反省せよ。

   神に はなれて生活した時に
   一ばん害を受けるのは 自分自身なのである。

   人を憎んで生活した時、一番害を受けるのは 自分自身である。

   病める人は かくれたる憎みが
   自分の中に燻(くすぶ)っていることを省みて
   相手を赦し 相手に感謝しなければならない。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成28年3月8日 頓首再拝>

われみずからを「光」であると観ぜよ。 - 伝統

2016/03/17 (Thu) 03:29:29


           *「光明道中記」(P68)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。

此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

            <感謝合掌 平成28年3月17日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2016/03/24 (Thu) 04:38:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 平成28年3月24日 頓首再拝>

悪を消す光 - 伝統

2016/03/31 (Thu) 03:31:56


          *『智慧と愛のメッセージ』谷口清超先生・著より

この世の中には「善」と「悪」とがあって、それがお互いに
争い合っていると考える人があるが、本当はそうではない。

何故なら神様は「善」のみをつくり給い、
「悪」はおこしらえにならなかったからである。

そして神様のおこしらえにならなかった「悪」はナイからである。


ところが、実際には、「善」も「悪」もあるように見えるが、
これは「光」と「闇」との関係と同じである。

光のみがこしらえられたのであって、闇はこしらえられたわけではない。
ただ、光のとどかぬところが、闇のごとく見えるのである。

けれども、神様は、「善」をこしらえることに不足されたわけではなく、
凡ゆるところをことごとく完全におつくりになった。
そこで、実は「闇」のごとき「悪」はナイのである。

ナイけれどもアルように見える。
それは吾々の見方がすみずみまでゆきとどかないからである。

あたかも、「光」がみちあふれていても、
目を閉じておれば、暗く見えるようなものである。


光を見るためには、パッチリと目をあけて見なければならない。
そのように我々が「心の眼」を開いてみると、
「善」ばかりが見えて、「悪」は消えるのである。

「そんなバカなことが・・・」
と反対する人がいるかも知れないが、それは、
目を開いたら光が見えると言われても、
「そんなバカなことが・・・」
と言ってシッカリ目を閉じている人のようである。

論より証拠、「心の眼」を開けばよい。
たちまちにして「悪」はきえて、「善」のみがあらわれてくるであろう。


では、「心の眼」を開くにはどうすればよいか。
先ず、相手の立場に立って考えてあげることである。

そうすればきっと、悪と見えた人の心にも、
善がやどっていることが判るであろう。

だましたり、うそを言ったり、乱暴したりする人も、
心の底からそれがよいと思ってやっているのではない。
「そうするほかなかったのだ・・・」と、心では泣いている。


その奥底の心をみる立場に立てば、
相手は本当はいい人であったのだということが判る。
ただ、「どうすればよいかを知らなかった」かわいそうな人たちである。

だから、我々は、相手をにくむ必要はない。
教えてあげ、なぐさめてあげ、導いてあげればよい。

「悪」を消すには「悪口」や「罵り」ではだめだ。
「絶対善」をもってのみ、「悪」をけすことができる。

それはちょうど、「闇」を消すには
「光」をもってくればよいようなものである。

            <感謝合掌 平成28年3月31日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ! - 伝統

2016/04/10 (Sun) 04:54:01


           *「光明道中記」(P70)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
                                    (『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 平成28年4月10日 頓首再拝>

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》 - 伝統

2016/05/02 (Mon) 04:21:47


        *『 生長の家 』(昭和25年4月21日の法語)より 

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html

             <感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>

神の光を受ける祈り - 伝統

2016/05/14 (Sat) 04:57:51


           *「真理の吟唱」より

私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。
それは神から来たれる光である。
如何なる暗黒なる時にも、その光に照されて進んで行けば、
私たちは決して道に迷うことはないのである。

その光は愛の光である。
智慧の光である。生命の光である。
愛が輝き出す時すべての憎しみは消えるのである。
智慧が輝き出すとき迷いが消えるのである。
生命が輝き出すとき疲労が消え、老衰が消え、
病気が消え、死が消えるのである。

神の愛の光が、私の内に輝き出すとき「自」と「他」との障壁が消える。
利益の奪い合いがなくなり、怒り憎しみは赦しと変じ、
さらに相手を祝福することが可能となるのである。
私は常に心の窓をひらいて、神の愛の光を今受けるのである。
だから私の全存在には、神の愛の光が照り渡っているのである。

神の智慧の光が 私の内に輝き出すとき、
人間が物質的存在だと見えなくなり、
霊的存在だということが悟られて来、物質的欲望が少なくなり
霊的愛他的な行いに導かれて行き生活が浄められるのである。

すでに神の生命の光が 私の内に輝き出したのである。
わが全身は生命力にみちあふれ、老いなく、病なく、疲労なく、
溌剌として人類の共通的歓喜のために尽くすことができるように
なっているのである。

神の愛の光も、智慧の光も、生命の光も、無限であるから、
それは輝かせば輝かすほど、与えれば与えるほど
光輝燦然としてその光と力とを増すのであるから、
私は愛を人に与えることを惜しまないのである。
智慧を与えることを惜しまないのである。
生命を与えることを惜しまないのである。

人は神の子であり霊である。
霊であるということがわかると、自と他とが一体であり、
彼と我とが一体であり、超えんとして自他を超え、彼我を超え、
私の愛憎を超えて、全体の栄えのために尽くすようになるのである。
全体の栄えのために自己を挺身するとき、一粒の麦が姿を没して
大地に身をまかすとき、多くの新しき芽を分けつして、
多くの実を結ぶことができると同様になるのである。

私はもはや、肉体的存在でないことをさとったのである。
私は「個」にして「全」、「全にして個」である。
個性を完全に発揮する悦びを味わいつつ、しかも全体の栄えのために
身を挺してそこに何等の矛盾もないのである。

             <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>

光は進む、暗は消える。 - 伝統

2016/06/02 (Thu) 04:14:50


           *「光明道中記」(6月2日)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

             <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

《暗黒から光明に転向すること》 - 伝統

2016/06/12 (Sun) 04:07:16


       *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P299~300)より

   神から来る智慧と能力と生命力と、あるゆえう善きものとの
   供給を、少しも絞らずに豊かにそれらを受けよと思うならば、

   自己中心・利己主義の心を止(や)め、愛他的の心を起こし、
   心を寛大にして他(た)を赦すと共に、
   すべての人々に調和と善意の心を持ち、
   自己をも”罪”の観念に依って縛らないようにしなければなりません。

  「罪」は「包み」であり「隠覆(いんぷく)」であり、
  「光」に向かわず、「光」に背を向けている状態に過ぎません。

  「悔い改め」と云うのは「ああ、今まで私は光に背を向けていた、
   間違っていた、済まなかった」と気がついて、
   クルリと向きをかえて光に面することを言うのです。

   暗黒から転向して光に向かうことが完了しなければ、
   本当に「悔い改め」が完了したのではありません。

   いつまでも暗い方を向いて「自分は悪かった、悪かった」と
   自己責罰の感情に捉われているのは「悔い改め」ではありません。


             <感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝>

心に炬火(たいまつ)を点ずる日 - 伝統

2016/06/18 (Sat) 04:18:01


           *「光明道中記」(6月18日)より

【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。

「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。

「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。

「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。

如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。

この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。

周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。

高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。

神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
 ―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。

             <感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝>

業を飛び超える道 ~光ばかりの世界への没入 - 伝統

2016/06/20 (Mon) 04:39:38


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月20日)より

自分が他(ひと)に対して冷酷であれば、他(ひと)からも冷酷にせらえるものである。
類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ。

冷たい心は、冷たいメスを招び、刺す心の者は注射の針をもって刺され、
人を解剖してその悪を暴き出す心の者は、解剖せられる病にかかる。

生長の家は必ずしも医療に反対するのではない。
解剖せられる業を積んだものが、解剖せられるのは業を果たして業を消す一つの方法であるから、
それはそれでよいのである。

ただ生長の家が教えたいのは、業を飛び超える道である。

業のない世界、暗(やみ)のない世界、光ばかりの世界 ―― そいう世界に入(い)るには
神想観をして神の 「全き《いのち》にて創造(つく)られてあり」 と念じて、
神の 「完(まった)き《いのち》」 の中に没入してしまうことである。

神の 「《完きいのち》」 の中には業もなければ、暗(やみ)もない。

           <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>

《「罪」より転向するとは?》 - 伝統

2016/06/29 (Wed) 03:26:23


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P300~301)より

   「光」に向きかわるには
   「神」の方へ完全に向き変わらなければなりません。
   「過去の悪」や「過去の罪」の方へ向いて、
   グジグジ思いわずらってはなりません。

   神は貴方を常に赦していられるのに、
   貴方自身が貴方をゆるさないような事では、
   貴方自身が神に背いていることになります。

   光に面したとき、すでに暗黒(やみ)は存在し得ないように、
   あなたが神の方へ完全に向き返ったとき、
   最早「罪」も「悪」も存在しないのです。

   しかし本当に「光」の方へ振向くのにはそうずればよいのでしょうか。

   一方に於いて破壊的な暗黒的な想念感情を起こさないようにする
   と同時に、他方に於いて神に祈ることです。神想観を行ずることです。

   神以外の何かをもとめる祈りは、本当の祈りではありません。
   神以外の何かを目的とする神想観は本当の神想観ではありません。

   「神よ、み国を来(きた)らしめ給え、み心の天に成るが如く、
   地にも成らしめ給え。」

   これこそ純粋なる祈りであります。


            <感謝合掌 平成28年6月29日 頓首再拝>

《心を明るく持てよ》 - 伝統

2016/07/12 (Tue) 03:45:49


         *『生長の家』(昭和26年5月17日の法語)より

   心の明るさと云うことが第一に必要である。
   神に祈って効果がない場合、概(おおむ)ねその人に
   心の明るさが欠乏している場合が多いのである。

   神は光であるから、
   神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

   すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
   神に全的にまか切ることが必要である。

   「 私は朗らかである。私は神の子であるから、
   親様なる神が 私のすべての事を見戍(みまも)り給うから、
   私は神にすべてをまかせて、心平和である。
   すべての事は必ずよく成就するのである。」

   と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
   心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年7月12日 頓首再拝>

《光のみの世界を観るには》 - 伝統

2016/07/27 (Wed) 04:31:28

          *『 生長の家 』(昭和26年5月31日の法語)より

   神の愛は吾等を取り巻いてい給うのである。

   何事が起って来ようとも、それは現象であり、
   心のスクリーン上に映った映画の一断面に
   過ぎないのである。

   映画の一断片にどんな不幸なことが顕れていようとも、
   そんな事に心とらわれてはならないのである。

   吾々は常に光源に振り向くことによって、
   光ばかりの世界を見ることが出来るのである。

   若(も)し吾々が光ばかりの世界を見ることが出来ないならば、
   それは途中の妄念のフィルムに下らないことが描かれていて、
   その光の照り渡ることを妨(さまた)げているのである。

   汝(なんじ)の妄念を取り去れ。
   憤りを去れ。
   憎みを去れ、

   不平を去れ、
   悲しみを去れ、

   唯、感謝せよ、唯、光のみの世界を見るであろう。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

  (「幸福を招く365章」P240に収載)

            <感謝合掌 平成28年7月27日 頓首再拝>

眼をひらいて天地の真相を見よ、そこに光を見出すであろう - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:13:58


           *「光明法語」(8月1日)より

健康と祥福とは万人具有

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。

眼をひらいて天地の真相を見よ。

そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。

病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

            <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《吾は太陽の日を生きる》 - 伝統

2016/08/13 (Sat) 03:35:34


       *「生長の家」(昭和25年6月11日の法語)より

   吾は今日太陽の日を歩むのである。
   それは輝く喜びの日である。

   吾は神の子であるから吾が生活は完全であり
   凡ゆる点に於いてととのうているのである。

   何故(なぜ)なら神に守られ、
   神の智慧に導かれているからである。

   輝く太陽の日に生まれたる吾は幸いなるかな。
   吾は輝く太陽の子である。
   吾は神とともに心あかるく平和である。

   常に今、吾は完全であり、
   幸福に満たされているのである。

   吾何をか憂れえんや、
   暗(やみ)よ消えよ、
   吾は光である。

   吾は太陽の子である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

《”心”を光明面に向くよう切り換えよ》 - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:23:38


         *「生長の家」(昭和51年6月7日の法語)より

   自分の”心”が暗黒の方向へ向いているか、
   光明の方向へ向いているか、自分の心を顧みなさい。

   そして暗黒の方向へ向いておれば光明の方向へ心を切り換えなさい。
   ”心”という電車が、あなたの”心”の向くところへ
   回転して行ってあなたを運ぶのです。

   それを”運命”と人はいうのである。

   『愛と光 との生活』(新選谷口雅春法話集第八巻)の77貢には
   次のように書かれている。

   暗黒な気分 になった時には必ずこの本をひらいて、
   その一 節をお読みなさい。
   必ず心が明るくなり、運命 が明るい方向に回転してまいります。

   「諸君よ、必ず諸君の心の中に”光明”のみを 描け、
   必ず諸君の心の中に成功のみを描け。
   心 に描くことは、心の世界に種子を蒔いたことになるのです。

   そうして、心に”光明”の種子を 蒔いて置いてから、
   その手入れをし、施肥(こ やし)を一所懸命にやるように、

   形の世界でで も、出来るだけ勉強し、出来るだけ働き、
   前進 前進、ただ前進、ただ伸びることのみを知って 、
   一寸の暇もなく間断なく進むのです・・・・ ・・」


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝>

光をわが心の中に招く祈り - 伝統

2016/09/07 (Wed) 04:50:20


         *「光の泉」(昭和55年2月号日々読誦毎月真理経)より

新しき年を迎えて、わが心に神の光指し入り過去の一切の暗黒は、
わが心の中から消え去ってしまったのである。

心の中の暗黒が消えると共に吾々の住む世界の暗黒も消えてしまったのである。

神の光明輝く愛がわが心の中に照り輝くが故に、環境はわが心の影として、
神の輝く愛がわが家にも充満し、一切の暗黒は消え、平和と喜悦と調和と安心感とが
わが家庭の隅々にまで行き亙っているのである。

わが心、神の愛に充たされているが故に、
恐怖や心配や取り越し苦労の消極的感情は住み着くことはできないのである。

天国浄土の安定感と平和の感覚とがわが家には満ち溢れていて、
わが家の内に住む人々には、言うまでもなく至福の天国状態がわれ等の心に
充満していることを如実に、実感することが出来るのである。

神の智慧が光の姿にて、わが家の隅々までも満たしているが故に、
愚かなることを為す者はひとりも無く、すべての家族は自然に正しき行ないを
悦びをもって実践することができるのである。

それ故に各人の行動に矛盾や不調和や食いちがいが起るおそれはなく、
何事を為すにも周囲と調和して行なわれ、甲は乙を祝福し、乙は甲を賞讃し、
祝福は祝福を招(よ)び、賞讃は賞讃を呼び迎え、愛語と賛嘆の声は、
あらゆる方角からわれらに天上の音楽の如く、花吹雪の如くわれらに注がる。

われ等に栄光は満ち、わが行くところ、すべての汚れは消え、醜悪は滅し、
歎きと悲しみとは既に久しき過去のものとなり、怒りや、憎しみや、憂えは、
われら神の子の生命(いのち)の中には浄まりおわりて姿を消し、
再び思い起すこともあり得ないのである。

神の愛はこのようにして我が家の隅々までにも行き亙り、
神の愛の光に照らされるとき、わが心は寛大となり、譴(とが)める気持ちは、
賞め讃える声と変り、行くところ、見渡す限り、天国浄土の状態を現出するのである。

罪悪の意識は最早、何人の心の中にも存在しない。
何故なら神は罪悪を造ったことはないから罪は存在しないと知るからである。

唯、善のみ存在するこの世界、唯、美のみ存在する世界、唯光のみの世界、
唯よろこびばかりの世界、この人生の真実を斯くの如く美しき清き、妙なるものと
知らしめ給いし神に感謝し奉る。

ありがとうございます。

  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

            <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

《神は暗黒を照す光》 - 伝統

2016/09/19 (Mon) 04:34:03


          *『幸福を招く365章』第9項(P186) より

神は人間が暗黒なる状態を通過する時に、是非なくてはならない光である。

悲しみに泣き濡れた人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。
暗黒に道を見失った人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。

汝は必ず悦びを見出して慰められん。
汝は必ず道を見出して再び進み行く勇気を見出すであろう。

神は遠いところにましますのでなく、極めて近く自己の内にましますのである。

次の如く念ぜよ。

「我は神の子である。神の光が自分の内に宿っていて自分を導き給うのである。
神の光は智慧の光である。智慧の光の射すところ決して暗きことはないのである。
神の智慧の導きに感謝します。」  


           <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝> 

光を受けよ - 伝統

2016/10/09 (Sun) 03:36:44


        *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P70)より

神は光である。
世を照らす光である。

光は暗黒に反照する。
暗黒は光を照らすことができない。
暗黒が光に近づけば 暗黒は光に化してしまう。

暗黒は積極的力ではない。
積極的存在ではない。
光を知らないのである。

暗黒は束になってきても光を消すことはできない。
光を知れば光になってしまうのが暗黒である。

光を受けよ。
受けた者だけが光となるのである。

光を受けるとは、なんじの生命の実相を知ることである。
なんじらの生命の本質が、久遠の実在たる《神そのもの》
であることを悟ることである。

悟ればなんじの全存在が光に照らされて光に変貌するのである。

            <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

本当の自分は無限の輝きを放っている - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:48:25


        *『生命の實相』第35巻下化衆生篇第3章(P71)より

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。
その光は太陽の光よりもなお明るい光である。

自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそ
わが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ ―― 今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、
迷いの雲間を洩れて、地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。
迷いの雲間は裂ける。

本当の自分は輝き出でる。
地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

            <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2016/10/27 (Thu) 03:56:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月27日>(P108)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

【闇夜ではローソクの光だって、価値がある】 - 伝統

2016/11/09 (Wed) 03:19:58


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月01日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   景気のいいときに、「景気のいい話」をするのは当たり前。
   そうじゃなくて、景気の悪いときに、「景気のいい話」をするのが大事なの。

   みんながやる気のないときに、やる気を出すから光り輝くんですよね。
   みんながやる気のあるときに、やる気を出すと、ただの人になっちゃって、
   出世も何もできないんだよね。


   そういうことだから、国が疲れている、社会が疲れている、時代が疲れている、
   会社が疲れている、っていうところで、明るい顔してるとか、
   「社長、がんばりましょうよ!」って言ってる社員が伸びるんだよね。

   だから、まわりが疲れているときは、チャンスなんだよ。


   世の中が明るかったとすると、明るい光でも目立たなかったんだけど、
   世の中が暗闇になっちゃえば、あなたがロウソク程度の光でも、目立っちゃうんです。

   灯していれば、チャンスなんだよね。


   闇夜だったら、どんなちっちゃいローソクの光だって、価値があるんだよ。

   だから、明るい顔してるとか、「社長、がんばりましょうよ!」って言ってる社員が、
   これからは出てくるんです。

   闇夜だからこそ、あなたの光が必要なんだ、って。


   終戦後、焼け野原になって、全員が「日本は駄目だ」と思ったときに、
   松下幸之助さんだとかそういう人たちが、違うこと思ってたの。

   「俺たちの時代が来た。焼け野原だから、全部に家が建つんだ」とか思って、
   一部のそういう人たちが世の中を引っぱってきたんだよね。

   だから、今こそ、どんな小さい光でも評価されるときなんだよ。


   今は笑顔が評価されるんだよ。

   だから、今がんばらなきゃいけないんだ。
   今やる気を出さなきゃいけないんだ。

   そしたら、すごい報われるんですよ。

       <『斎藤一人 人生が全部うまくいく話』知的生きかた文庫>

               ・・・

「一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜(あんや)を行く。
暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼め」(言志四録)

幕末の儒学者、佐藤一斎の言葉だ。

一つの灯(あか)りを提げて暗い夜道を行くとき、その暗い夜道を憂えても仕方がない。

我々ができることは、今、手にしているそのたった一つの灯りを信じて、
ただひたすら前に進むしかない。


人の気持ちを「明るくする人」と、反対に「暗くする人」がいる。

「明るくする人」は、どんな困難な状態(暗夜)にあってもその中から、
希望や、未来、元気になることなど、よくなりそうなことを探し出す。

反対に、「暗くする人」は、困難な状態の中から、
絶望や、落胆、憂鬱(ゆううつ)など、ダメになりそうなことを探し出す。


明るくする人には、笑顔がある。

闇夜に一燈を灯す人でありたい。

           <感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》 - 伝統

2016/11/22 (Tue) 03:14:33


       *『 生長の家 』(昭和25年4月21日の法語)より 

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て生活せんことを期するのである。
   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は 「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。
   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
 
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html

           <感謝合掌 平成28年11月22日 頓首再拝>

本質は光り輝いている - 伝統

2016/12/02 (Fri) 04:33:15

      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、
甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。
乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」と言った。
丙は、「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と
言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 平成28年12月2日 頓首再拝>

《心を明るく持てよ》 - 伝統

2016/12/14 (Wed) 04:46:20


          *「幸福を招く365章」(P231~232)より

   心の明るさと云うことが第一に必要である。
   神に祈って効果がない場合、概(おおむ)ねその人に
   心の明るさが欠乏している場合が多いのである。

   神は光であるから、神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

   すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
   神に全的にまか切ることが必要である。

   「 私は朗らかである。私は神の子であるから、親様なる神が 私のすべての事を
   見戍(みまも)り給うから、私は神にすべてをまかせて、心平和である。
   すべての事は必ずよく成就するのである。」

   と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
   心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。

   (初出~『生長の家』(昭和26年5月17日の法語))

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年12月14日 頓首再拝>

家庭を明るく - 伝統

2016/12/20 (Tue) 04:07:59


           *「光明道中記」(12月20日)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 

            <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

心の岩戸開きの日 - 伝統

2016/12/21 (Wed) 04:43:22


           *「光明道中記」(12月21日)より

【どうでも好いことに何時(いつ)までもかかわるな。生命は貴(とうと)い。
                            (『生命の實相』第十一巻)】

心を支配すること。
何をおいても心を支配すること。
明るい気持に常になるように心掛けること。

ただそれだけを常に心掛けるだけでも、あなたの運命は輝かしいものに転じて来るであろう。
あなたの健康は従来よりも前進して来るであろう。

神は光明遍照であると云うことを知らなければならない。
光明のないところ、明るさのない処には神は在(い)まさないのである。
心に光明を満たす時、万物が生き生きと蘇生(よみがえ)って来るのである。

神は一切所に充ちていられるのであるが、
心の天岩戸の開かないところにはその光は射し込まないのである。

『古事記』に書かれているのは虚(うそ)ではない。
天之宇受女命(あめのうずめのみこと)の明るい舞踊に触発され八百万神々の
明るい笑いが暗黒の世界に、日の光を射し込ましたのである。

吾々は明るいと共に、積極的でなければならないし、建設的でなければならない。
積極的な者は一時は失敗するかも知れないが、
その失敗は必ずや経験の上に何物かを獲得せしめるので、結局は失敗ではないのである。

明るいばかりでは此の世を笑いで吹き飛ばすだけでも完全だと言えない。

明るい上に積極性があり、更に建設的であることを要するのである。

            <感謝合掌 平成28年12月21日 頓首再拝>

光を見る心 - 伝統

2016/12/29 (Thu) 04:17:47


        *「光明法語」(12月29日の法語)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな霊験を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、その星が次第に大きくなり失明した状態になっていた。
6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。第一目の講習を受けた翌日は
眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)ぎ出席したが、何かの拍子に手が眼の包帯にふれて
包帯の位置がズレると、星に瞳孔が閉ざされ見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

            <感謝合掌 平成28年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2016/12/30 (Fri) 04:43:17


        *「光明法語」(12月30日の法語)より

光は天地間に充ち満ちておれども、其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

            <感謝合掌 平成28年12月30日 頓首再拝>

生命には光が必要なのである - 伝統

2017/01/01 (Sun) 04:54:13


     <「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より>

 われわれを生かすのは明るい思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。

 生命は暗黒の中にも光を見る。
 暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
 光の方へ光の方へと向いていく。

 そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
 ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
 生命には光が必要なのである。

 光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。

 再び言う。生命には光が必要なのである。

 
 新しい年には新しい心が生まれる。
 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。

 他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
 われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。

 元旦からまず始めよう。
 それは明るい心を持つということである。

 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
 新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。

 ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
 ただそれだけ一つのことである。
 これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
 何事が起こっても悲しまぬということである。
 何事が起こっても失望せぬということである。

 何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
 起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。

 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
 すんだからこそ新しい年が来たのである。
 木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。


 天地一新。
 悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
 それはすべて一新していく姿である。

           <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統

2017/01/09 (Mon) 04:34:23


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、われわれはただ正しい真理を説き、
所信を実行すればよい。ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

         <感謝合掌 平成29年1月9日 頓首再拝>

「光」のみの世界に躍進しなければならぬ - 伝統

2017/01/12 (Thu) 04:08:13


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より抜粋

苦しみ、悲しみ、腹立ち起こるもとは一つの立場に執することである。
一つの立場に執するかぎり、八面玲瓏珠のごとく、
すべて明るく円成(えんじょう)するというわけにはゆかぬ。

われわれは立場を超えて「無」の中に跳入し、「無」を超えて、
さらに「光」のみの世界に躍進しなければならぬ。

われわれの棲む地球は一つの象徴(シンボル)である。
地上の一点に執していてはこの世界は陰もあり光もある。
真空圏に跳入したとき、そこは絶対無の真空に達する。

真空を超えてさらに高くこう翔(しょう)するとき
われわれは光明一元の世界に入(はい)るのである。

         <感謝合掌 平成29年1月12日 頓首再拝>

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