伝統板・第二
眼の癒し - 伝統
2015/10/10 (Sat) 04:51:31
今日、10月10日は、「目の愛護デー」です。
1931年(昭和6年)に中央盲人福祉協会の提唱で「10」「10」を横にして
目と眉に見立てて「視力保護デー」として始まりました。
・・・
《神からあなたへ~目のお蔭・恵みに感謝しなさい》
*「この世で一番の奇跡」オグ・マンディーノ・著(P176)より
あなたの目をごらんなさい。
目があるゆえに、あなたは昇ったり、沈んだりする太陽を見ることができます
・・・わたしがあなたの目につけた何億という感覚の受容器が、
美しい緑の葉や純白の雪を見ることを可能にしているのです。
静かな池のたたずまい、悠々と空を飛ぶ鷲、はしゃぎまわる子供たち、
夜空を照らす星を見られるのも目のお蔭です。
その恵みに感謝しなさい。
・・・
《眼病治癒のための祈り》
*「私はこうして祈る」(P77)より
現代は、諸種の眼病が流行しており、特に近視眼にいたっては、
その罹患率の大なるに驚嘆せざるをえないほどである。
これらをいかにしたら、根本的に治癒せしめ得るか、
また根本的治癒法があるかといえば、まことに残念なことであるが、
その目的に適うものはないのである。
ところが、現代医学を超越して、「唯ひとつ」の治療法があるのである。
それは、吾々人間本来の実相、完全円満を観ずることなのである。
それには、次の如く、就寝時、自分の眼、あるいは他人の眼の上に、
手を置いて思念することである。
そして、平和な感謝に満ち満ちた気分で安眠すれば、それだけでよいのである。
その思念の言葉は次の如きものである。
「この眼は神の眼である。
善以外のもの、美以外のもの、完全以外のものはなにものも見ないのである。
この眼は神の眼である。
毎日毎日いっそうその実相の完全なる視力があらわれつつあるのである。
自分の眼は神の眼である。
人々の善さのほか、美しさのほか、完全さのほかは
なにものをも視ないのである」
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「【目の愛護デー】 (2366)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=485
(2)光明掲示板・第二「眼に関する神癒 (1710)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=390
(3)光明掲示板・第三「眼に関する神癒 (940)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=196
(4)光明掲示板・伝統・第一「眼に関する神癒 (196)」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=77
<感謝合掌 平成27年10月10日 頓首再拝>
他(ひと)のために『生命の實相』を読むと、自分の眼病癒ゆ - 伝統
2015/10/22 (Thu) 04:48:58
*『生命の實相』第8巻観行篇(P191~192)より
感謝行は同時に深切行である。
ひとのために尽したら自分の生命力が減ると思うのは迷信に過ぎない。
信徒某氏は眼病の中でも最も難症だと云われている網膜剥離症に罹っていられて、
聖典『生命の實相』の細かい活字を読むのに、自分の為に読むのだったら、
1ページ半も読めば、眼底と後頭部とに苦痛を感じて読むに堪えないのである。
それだのに驚く勿れ、他(ひと)の病気を癒してあげたいと思って『生命の實相』を
他(ひと)に読んで聞かせる段になると、一時的にその眼疾が癒(なお)ってしまって、
連続4、50ページを読んでも眼に痛みを感ぜず、
読後また眼の疲労を少しも覚えないのである。
『生命の實相』は自分の悟りのために読むのも結構であるが、
他(ひと)の悟りのために読んで聞かせてあげるのは一層結構である。
自分のためでない自他一体の無限生命力が発現し、
自分のためでない所に自他一体の無限の悟(さと)りに到達する。
まだ病気が顕れているのは働きに利己主義の心持が混るからである。
自分の病気が治ったら他(ひと)を救ってあげようと思っていては機会がなく
他(ひと)を救っている間は病気は治っているのである。
永久に他(ひと)を救っていれば、永久に病気はない。
(月刊『生長の家』の巻頭言より)
<感謝合掌 平成27年10月22日 頓首再拝>
瀧谷不動尊 霊験記 - 伝統
2015/11/01 (Sun) 04:45:58
瀧谷不動尊 霊験記 「深信一朝に利益を得たる人の事」~明治8年 富田林町 奥城良造 伝~
*Web:瀧谷不動尊(2015年 5月 3日)より
当瀧谷山の村長を勤めける奥城良造(おくしろりょうぞう)の父徳次郎なるは、
常に当本尊不動明王を信仰し曽(かつ)て利やくを得たることあれば、
その報恩の為にとて特に手づから献膳の野菜物を栽培して、
明王に捧ぐること多年にて、日々信心し且つ寺の世話をも心切にしてけるが、
明治8年の頃、家事に妨げられて怠るともなく暫しが程怠たりたる夫故(それゆえ)にも
あらざれども、其年の9月の一日俄に両眼痛み出し時の間に堪え難くなり、
遂に眼の光り空しくなりて物の文色をも見ること能(あた)わずなりぬ。
されば心も結ぼれ胸も塞りて、食事も捗々(はかばか)しからねば
妻子は驚き、医者よ薬よと狼狽え騒ぐをば、老人は少しも騒がず之れを制して云えるよう。
「我此眼病には医者も薬も決して無用なり。
我長らくの間不動尊を信心して供養一日も怠りなかりしが、
先頃より事に紛れて誓旨(ちかい)に脊(そむ)きたる其仏罰ならん、
今更悔ゆとも及ばざるべし。
さりながら我久しく不動明王を信じて其利剣の下に生命をも捧げ奉りしもの、
更に罪業を懺悔して信心を凝しなば何とて御利益のなからんや」
とて、直ちに当山へ参籠し本尊の宝前に跪づき誓て言えるよう。
「我眼病平癒の御利益を蒙ること能(あた)わずは、生きて再び家に帰るまじ、
又此堂内をも立出るまじ、何卒眼光を元に復させ給え、若し迚も治るまじき眼病なれば、
罪障消滅のため、速やかに我命を召し玉え」
と堂内に端坐して泰然動かず、食らず飲まず又寝もせず唯両便に起つのみにて、
誦呪懺悔するさま其深信堅固なる宛がら鉄石の如くに見えたりける。
かくて3日目の暁夢とも現とも分かず、本尊明王の現われ給い、
「汝宿業によりかゝる病苦を受けしが、今至心懺悔の功徳によりて、更に眼光を与うべきなり。
努め信心をな怠りそ。」
と告げ玉うと思う間に宝剣を以て眼精を衝き給うに驚きながら、
「あゝ有がたや勿体なや」と御袖に縋らんと頭を抬(もた)げたれば、
御姿は早や消えて失せ玉いて南柯(なんか)の夢は覚めたりけり。
起上り見れば眼中より血膿流れ出であり、之れを拭い去れば
宝前の灯明赫燿(かくやく)として眼光鮮かなるに、歓喜踊躍(ようやく)し、
我々凡夫が無明の煩悩消て極楽に往生せんも、
斯くばかりならんとて悦び勇みて家に帰りしは、参籠してより僅かに三日目の午前なりき。
其後は復前の如く献膳(けんぜん)の野菜を栽培し、
寺門の世話に心を傾け、最とかいがいしく在りしが、
明治21年1月6日天命を以て、大安楽に往生を遂げられき。
其家督者なる良造主も亦父の志を継ぎ信仰浅からず、
今尚信徒として寺門興隆の事に衆諸共補佐しつつあり。
―「瀧谷不動尊霊験記」より転載―
(http://www.takidanifudouson.or.jp/reigen/index.php?id=156&act=detail)
<感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>
遠視、近視、乱視 - 伝統
2015/11/11 (Wed) 04:31:41
*『精神分析の話』第54話(P176~180)より
私がよく近視は、この現象界のことばかり見て実相を見ないチカメだと申しますと、
それでは 遠視は何かとお問いになる方がありますが、
遠視というのは、取越苦労をして、先のものをと焦る心の現れなのであります。
年をとると遠視になるというのも、老後のことばかり考えて、
取越苦労をして「今」を完全に生き切らないということのために起るのでありますから、
「今」を把むことが出来たら ―― 今の瞬間を完全に把握して生きる事が出来たら、
それはやがて消えてしまうでありましょう。
もっとも「今」と申すのは、現象の目の先の今のことではないので、
この「今」の中には一切のものが含まれている
―― 永遠の生き通しの実相の「今」であります。
もう一つは遠視が老衰から起って来ることがありますが、人間が老衰するというのは、
永遠の生き通しの今に吾々は生きていて、永遠の若さを持つものであるということの
分からないためであって、老衰して血管が硬化するのは、即ち心が頑なになる
―― 人の云うことを聴き容れないとか、心の融通がきかないということから
起って来るのであります。
即ち吾々の目の調節機能があるためにうまく調節されて、ちょうどよく見えているのですが、
老衰して心が頑なになってしまうと、調節機能も固定されてしまって、
その働きを失ってしまうのです。
また斜視、乱視というのは、これはものを見るのにまともに正しく見ないで、
斜めの方からひねくれて見る心の現れであり、
乱視もやはりまん丸いものを丸く見ないで楕円形に見るというような心が現れている
のでありますから、円いものは円い、と正しく、真正面から見得る心に調節して
行かれることが必要であります。
(中略~遠視性潜伏乱視で8年間も眼鏡(めがね)を掛けていられたが、『生命の實相』を
読み、谷口雅春先生の話を聴くことによって、眼鏡が不要になった方の体験談)
遠視とは反対に近視は、最初に申しましたように、この現象界のことばかり見て
実相を見ないチカメから起る事もあります。
フロイド一派の精神分析では、近眼は性欲の錯綜から起っていると申しますが、
近眼は実にチカメなのであります。
近眼はチカメだというのは決して単なる音読と訓読との連想でも、
単なる軽薄なる地口でもないのでありまして、
近眼は近くにあるものだけしか《見ない》(見えないのではない)心の象徴として、
「心の反影(かげ)」なる肉体に近眼としてあらわれるのであります。
即ち近眼は《近いところ》〈現象〉ばかりを見て、
実相を見ない心の象徴としてあらわれるのであります。
実相を見るとは前述しましたように「今」そのままの自己の生命に
過去、現在、未来を抱合した神の生命を見出すことであります。
とにかく、近視にしても乱視にしても、また遠視にしても心の眼が開いて、
そして、この「今」の一点を把握することによって消えるなどの例も少なくないのであります。
<感謝合掌 平成27年11月11日 頓首再拝>
サンタルチア【聖ルチアの日】 - 伝統
2015/12/13 (Sun) 04:53:14
今日13日はキリスト教の聖人であるシラクサのルチアの日。
眼を守護すると考えられている聖ルチア(サンタルチア)の日。
<参考:先代の掲示板>
(1)本流宣言掲示板「サンタルチア【聖ルチアの日】 (5672)」
→ http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1254
(2)光明掲示板・第一「聖ルチア(サンタルチア)<天の光を運ぶ聖女> (4558)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=864
《上林照太郎さんの体験談》
『自分の孫の〃もとえ〃は生れ出たときに驚いたことに両眼がないのであります。
荒木眼科へ行って相談すると、今は分娩後間もないからメスで切ることは出来ない
けれども、百日もしたら眼のところをメスで切って見ましょうと院長は云われました。
しかし私は、随分長い間の生長の家の誌友でありますから、
『甘露の法雨』を読誦すると共に、
『人間は神の子であるから、神が両眼のないような不完全な人間を造り給う筈がない』と、
その嬰児を抱いて神想観をし、両眼のそろっている完全な孫の姿を一心に、毎日毎日念ずる
ようにしました。
すると眼が自然に出来て来て、百日目にはその目があいたのであります。
今はもう完全に両眼が見えて、瞳の黒が少し小さいように見えるが、
他所の子供たちと愉快そうに遊んでゐるのであります。』
《大前文子さんの体験》
『生れた時には『白眼』のみあって黒瞳がなく、盲唖学校で点字を習い、
点字によって『甘露の法雨』を毎日読んでいると
或る日、白眼の中央部から黒瞳が発生して来て突然見えだした』
<感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>
近眼は、自分の心の影 - 伝統
2015/12/20 (Sun) 04:54:02
*『善き人生の創造』第十三章「人間は肉体ではない」(P183~185)より
近眼の治った人には色々の人があります。
人間は本来神の子でありますから、神様は近眼などにお造りにならないのであります。
それがどうして近眼になるかと云うと、自分の心の影であります。
物を実相其の儘に見ないで度をつけて見る心であります。
或は何か見たくないものがある。
或は「目を覆う」心がある。
見られたくない、見せたくない、隠していたい心など皆この種の心です。
神や親の恩は「光」をもって象徴されますから、その光を素直に受け容れない、
つまり神や親に感謝の足らぬ心は近眼その他の眼の病気を惹き起こします。
即ち或る意味で云うと、「天地一切のものに和解していない」心の波が、
実相円満なる満月のような姿を歪に曇らせてみせているのであります。
「近眼はチカメだ。チカクの現象の不完全をとがめる心を捨てて、
あらゆる物の完全な実相を見、美点のみを見るようにせよ」と云うと
忽ちその近眼が治ってしまった人もあります。
大町嘉久馬さんが佐世保にいられた時に指導せられた近眼の子供は
「両親に感謝して、朝起きれば自分の布団を上げて、両親の顔を洗う水を汲んであげなさい」
と云われて治ったと云う事であります。
宇佐美さんと云う香蘭女学校の同窓の奥様は知人の矢尾板医学博士のお嬢さんを訪問されて
『生命の實相』の第一巻を持って往ってあげられ、巻頭にある「七つの灯台の点灯者の神示」
と云うのを読ませて、
「これ、聖書の山上の垂訓と全く同じでしょう。神の祭壇に供えものをささぐる時、
兄弟と和せない者があることを思い出したら、先ず供え物を途に置いといて、
兄弟と和してからでないと、神への祈りはきかれないとあるでしょう。
何しろ天地一切のものに感謝し、和解することが必要なんですわ」
と教えられますと、その時クリスチャンであったお嬢さんはハッと悟った、
と同時に近眼が治ってしまったと云うことを宇佐美さんから承った事があります。
兎も角、天地一切のものと和解し、天地一切のものに感謝することが必要であります。
(http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15512588 より転写)
<感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>
近眼五度が、一夜にして癒される - 伝統
2016/01/10 (Sun) 04:41:07
*「生命の實相」第23巻経典篇二(P120~123)より
近眼の治った、実に素晴らしい体験をもっていられる方があります。
それは川村よし子さんという双葉女学校の2年生の方なのですが、
数日前道場へ来られて、御自分の目の治ったおもしろい体験談を
されたのでありました。
川村よし子さんのおばさんというのが、生長の家の熱心な信徒でしたが、
よし子さんが某日(あるひ)、そのおばさんの家に遊びに行かれた。
その時におばさんが、生長の家の話を、
いろいろとよし子さんに話されたそうであります。
よし子さんは、五度というひどい近眼だった。
それで、目などは心に従ってどうにでも変わるものだという話を、
おばさんが諄々(じゅんじゅん)と説かれて、それから
「よし子さん、この『甘露の法雨』を読んでごらん」と言って
よし子さんに『甘露の法雨』を読ませられたのでありました。
ところが、その時夜は大分ふけているので、
『甘露の法雨』を半分ほど読んでゆくうちに、
よし子さんはとてもねむたくなってきた。
一緒に読んでいられたおばさんが、よし子さんがあまり眠そうにするので
かわいそうになってきて、「あなたはもうお休みなさい。わたしが代わって
続きを読んであげますから」と言ってよし子さんを臥(ふ)せさせ、
その枕元で『甘露の法雨』の後半を声高に読まれたのでありました。
しかしよし子さんは眠ってしまわず、
まだ「伯母さん、実相って何に? 」などと言って分からぬところを聞いていたそうです。
そして翌日目をさまして、眼鏡をかけない眼で、
ふとあたりを見廻すと不思議なことにいろんなものがはっきりと見える。
川村よし子さんの近眼は五度ですから、とても部の厚い眼鏡(めがね)を
かけておられたのです。
なんでも川村さんはお母さんが近眼三度、お父さんが近眼二十度というので、
その遺伝というわけか幼い時から眼鏡(めがね)をかけて
8年間だんだん度が進んで五度になったのです。
そころが、その朝目をさましてみると、昨日まで眼鏡なしでは全然見えなかったものが、
一夜のうちに、はっきりとみえるようになっているんですね。
額の絵の菊の花やら、障子の桟から、柱にかかっている時計の針まではっきり見える、
世界中が急に明るくなってきた。
よし子さんは嬉しくて嬉しくてたまらない。
さっそくと眼鏡を捨ててしまわれたのでありました。
それでその日、7月29日の晩、
初めて本部に来られて喜んでその話を皆の前でされたのでした。
その日はちょうど、明治大帝の御崩御の日に当たるので、
代々木練兵場でたくさんの花火が打ち上げられた。
ぽーッと空に上がる花火が眼鏡をはずしても、見えるようになっているのです。
ところがこれまで眼鏡をかけて花火を見ているころには、
花火は直径1尺ぐらいに小さくしか見えなかった。
それで花火なんて小っぽけなもんだと思っていられたそうですが、
肉眼でみると、どうしてどうして、とても大きくて立派な花火なのです。
で、「伯母さん、花火はなんて大きくて美しいものなのでしょう」と
よし子さんは感嘆されたと言います。
その翌日のこと、その日はからッと晴れた実に気持ちのよい日でありました。
空は紺碧に澄み渡って一点の雲も漂っていないというような日だった。
川村さんはこれまで厚い眼鏡(めがね)をかけて、そのレンズでものを凝縮して
見ていられたのでしたから、空の碧色(みどりいろ)もなんだかはっきり分からない
白っぽい色ばかり見えていた。
ところがその朝、肉眼で紺碧の美しく晴れ渡った空を見て、
はじめて「空はなんて美しい碧色だろう」と思われたのです。
「碧色(みどりいろ)の美しい空を、わたしは今まで知らなかった。
空はこんなに美しいものだったのか」と思われたということです。
そういうあんばいにして、川村さんの見る限り世界中の姿が
すっかり変わってしまったのであります。
川村さんは、素直な幼児(おさなご)の心で真理を受け入れられたから、
たった一度『甘露の法雨』を読んだだけで、
かくも偉大な功徳を得られたのであります。
『甘露の法雨』の功徳というのは、要するに『甘露の法雨』に書いてある
真理の功徳にほかならないのであります。
そこで、この真理を読んで実相を見る目が開けた時に
世界中の姿が変わってくるということにもなるのです。
<感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>
《心が正しくして、人をも自然をも美しく見る者の眼は、健康である。》 - 伝統
2016/01/22 (Fri) 03:44:15
*健康標語「一日一言」(橋本徹馬・著)より
人をも自然をも正しく美しく見る者は、
人間に眼を与えられた、大生命の理法にかなう眼の使い方をする者であるから、
近眼、老眼、斜視、乱視、夜目、盲目等になることがないのである。
・・・
<参考Web:「健康標語」(橋本徹馬)
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6584562 >
<感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>
Re: 眼の癒し
- jyccnibcr URL
2020/08/29 (Sat) 22:00:39
伝統板・第二
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