伝統板・第二

2539263
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

聖徳太子憲法 - 夕刻版

2015/10/08 (Thu) 19:13:09

このスレッドでは、「和を以て貴しとなす」ではじまる聖徳太子による
「憲法十七条」に関連し、聖徳太子が制定したといわれる歴史から消された
多くの「聖徳太子憲法」を紹介してまいります。


(1)聖徳太子は、一般に知られている17条憲法(通蒙憲法17条)以外に、
   政治家が手本とする政家憲法17条、儒学者が手本とする儒士憲法17条、
   神官が手本とする神職憲法17条、そして仏教者が手本とする釈子憲法17条の
   5種類、計85条を書き記しました。

(2)聖徳太子が憲法を草案したのは推古天皇十二年(西暦604年)ですが、
   きっかけは、その6年前の冬のこと、越後の国の国司から「巨大な白鹿」を献上された時、
   角が十七支胯に分かれていたところから、十七条の憲法を思いついたと言う
   いわれがあります。


   しかし、他説では、天の九極星と地の八極星を合計して十七という数を
   絶対的なものとみた、という説があります。

   また、推古天皇と太子との間にかわされたお言葉が残っており、
   太子は次のように申されています。

  「琴」楽の音は人の情を和らげる。即ち和道。
  「斗」は北斗星。天の道に順ずるべしということから順道。
  「月」は進むことと辞すること、分節を明らかにしているので礼道。

  「台」は天皇を補け奉る三高官を意味することから政道。
  「鏡」明らかに照らすので智道。
  「竹」は節の間に空があり強さがある。官人の行いと心の有り様と知る。ゆえに官の道。

  「冠」は位階の器であるから位道。
  「契」は文字を意味する。文字は道理を盛る器。そして道理は信によって立つ。ゆえに信道。
  「龍」は大きくて霊体ながら小身になって身を隠す。大でありながら小となるは謙。ゆえに謙道。

  「花」は開いて落ちて私心がない。私心なく賞罰を明らかにする事道に通ず。
  「日」は天の主である。天子は国の主である。ゆえに主道。
  「車」は両輪があって誤りがない。司たちの足である。ゆえに司道。

  「地」は万物を育てながら決して嫉妬心がない。これを徳道とみる。
  「天」は四時百刻、私心がない。ゆえに公道。
  「水」は夏に解け冬に凍り、時々の事の処し方を知る、ゆえに時道。

  「籠」は目盛りのついた器。品定めをして、大小も分かつ、ゆえに品道。
  「鼎」は三本足で立つ。ゆえに三法に当たる神・仏・儒の尊きを説く、法道。

以上のことを基本にして〝十七条の憲法〟は制定されたともいわれております。

            <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

聖徳太子憲法は世界初の憲法 - 伝統

2015/10/12 (Mon) 19:05:42


          *Web「マーキュリー通信」(2011年10月 4日)より

聖徳太子憲法は17条であることはよく知られています。

実は、17条x5=85条あることは余り知られていません。

聖徳太子は、一般に知られている17条憲法(通蒙憲法17条)以外に、
政治家が手本とする政家憲法17条、儒学者が手本とする儒士憲法17条、
神官が手本とする神職憲法17条、そして仏教者が手本とする釈子憲法17条の5種類、
計85条を書き記しました。


これを歌手でありながら、古代史歴史学者でもある三波春夫が
事詳細にきちんと説明しています。

歌手三波春夫の別の一面、人間性を見ることができます。

これらの17条憲法は、現代社会にも十分通用します。

例えば、政家憲法の第一条では、聖徳太子は、

「政局の任に当たる者は高い志を持て、
天の理(ことわり)を体現する気持ちで毎日の政(まつりごと)をせよ」

と書いています。間違っても党利党略に走る政治をするな諫言しています。
これなど、まさに現代の政治家が真っ先に耳を傾けて欲しい条文ですね。

実は聖徳太子憲法は世界初の憲法だそうです。
この点我々日本人は自慢して良いと思います。

そして、驚くべき事に、聖徳太子憲法はまだ廃止されていないそうです。
ということは、まだ生きているということです!!

   (http://mercurytsushin.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/no1761-ff0e.html

            <感謝合掌 平成27年10月12日 頓首再拝>

「全85条の聖徳太子五憲法」 - 伝統

2015/10/14 (Wed) 19:14:52


           *Web:「八上 白兎神社Ⅱと全国神話伝承」(2013/4/17)より抜粋

矛盾を強く感じるのが十七条憲法のあの気になる言葉です。 
日本書紀記載の十七条憲法には、
「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧である」と記されています。

しかし、聖徳太子が神道をも重視していたことがわかっている。

「仏、法、僧」の「法」が何を指し示しているのか、
そして、仏、法に対等な位置としてはありえない「僧」を含めて三宝とする点には、
ずっと違和感がありました。

実は、これは改竄されたものだったのです。 
三宝とは、本当は三法であり、「仏法僧」ではないのです。
 
聖徳太子十七条憲法は実は五種類あり、そこに記されているのは三宝ではなく、三法です。
そして、三法とは、神・仏・儒つまり、日本古来の神道と、仏教、儒教のことだったのです。

<改竄された部分の前後>

(前)《十七に曰く。篤く三法を敬へ。三法は神儒仏なり。
    是れ百姓の總帰。万国の極宗。何れの世、何れの人、是の法を貴ばざらん。
    人、尤(もつと)も悪きは鮮(すくな)し。善く教ふれば之れに従ふ。
    三法を敬はずんば、何を以て枉(まがる)を直くせん。》


(後)《二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝は仏・法・僧なり。
    則ち四生(よつのうまれ)の終帰(をはりのよりどころ)、
    万(よろづ)国の極宗(きはめのむね)なり。
    何(いづれ)の世、何れの人か、是の法(みのり)を貴びずあらむ。
    人、尤(はなはだ)悪しきもの鮮し。能く教ふるをもて従ふ。
    其れ三宝に帰(よ)りまつらずは、何を以てか枉れるを直さむ。》

  (参照Web:http://www.geocities.jp/identaisi22000/kennpou.html )


日本書紀が、藤原不比等によって編纂された際、
不比等が、五憲法を抹殺したのは、間違いないでしょう。
そして、神道を抹殺しようとする姿勢がここにはっきりと表れています。

   (http://white.ap.teacup.com/hakuto/1820.html

            <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

生きている聖徳太子憲法 今なお新しい太子の憲法 - 伝統

2015/10/16 (Fri) 19:09:33


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P10~11)より

哲学の集大成とも言えるこの憲法は、
推古天皇十二年(西暦604年)5月に発布されました。

聖徳太子が草案した憲法に天皇が承認を与えたのですが、
爾来、太子憲法と人々は呼んでその価値の高さを評価したものです。

実は太子憲法が公布されてから600年後に「ヤサ(モンゴルの言葉で憲法の意)」
という憲法を作って国を治めた人物がおります。
モンゴル帝国を築いた英雄、チンギス・ハンです。

偉大なチンギス・ハンが「ヤサ」を作る600年も前に、日本には憲法があった。
この事実は、日本の先覚者の偉大な業績であり、
政治・文化の高さを世界的に示したものであると言えましょう。
 
また、この憲法は人間の処生訓としても完璧であり、
常に座右の書として読むべき貴重なものだと思います。
 
世界最初の憲法で、千四百年の歳月を経ても今なお新しいのです。
この憲法をわたしたち日本人は今一度辿ってみたらどうでしょうか。
 
ここでひとつ質問を差し上げたい。

「太子憲法は、"以和為貴”(和を以て貴しと為す)で始まる十七条だけですか? 」
 
昔から憲法十七条と言い伝えられていますから、
それだけど思っていらっしゃる方がほとんどでしょう。

一般的に知られている十七条の憲法は"国家公務員の服務の基本を訓された、通蒙憲法”
としての十七条です。
 
これが公布されたのが推古天皇十二年5月ですが、
同年6月には天皇を含む"政治家に対しての政家憲法”が、
次いで10月には"神職、僧侶、儒学を教える人に対して”
それぞれ十七条の憲法が発布され、全部で八十五条となりました。

この全八十五条こそが、本当の"太子憲法”というわけです。

            <感謝合掌 平成27年10月16日 頓首再拝>

白鹿伝説 - 伝統

2015/10/19 (Mon) 19:43:05


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P12~18)より


私が太子の憲法に思い入れを深くしたのには、もう一つ理由があります。

太子が憲法を草案したのは推古天皇十二年(西暦六〇四年)四月ですが、
そもそもその作成のきっかけとして伝えられている話があるのです。

それは、憲法発布より遡ること六年前の冬のこと(西暦五九八年)。
当時、国の中心が置かれていた大和からは遠く離れた東国、越後の国の国司が、

「世にも稀なる巨大な白鹿を捕獲致しました。御高覧を・・・」

と献上して来たことにありました。

その鹿は体高五尺八寸(約一七六センチ)、
全身の毛は白く輝き、まるで白雪に覆われたような美しさでした。
古来、白い鹿は麒麟などと同じように、神聖なものとして信じられていました。

そのうえ、この白鹿は、馬ほどもあろうかという大きさです。
 
大和の人々も、これほど見事な白鹿を見たことはありませんでした。
 何万年の間に一度現れるか否かというこの気高い白鹿の姿に、
さながら神の使いかと、天皇を始め群臣一同は声をあげて讃嘆したと言います。

しかし、この時代、国内の情勢は平穏無事というわけではなかったようです。
 
推古女帝の治政も六年を迎えていましたが、
それを補佐する太子は、国内の困難な状況を常に把握しておりました。
献上された白鹿は見事でしたが、それを喜んでばかりもいかなかったわけです。
 
そこで、推古女帝のお喜びのお顔を見ながら、太子は形を改めて言上しました。

『この白き鹿は世にも不思議でございます。
普通、鹿の角は枝が偶数に分かれまするがこれは奇数の十七支胯ございます。
得難き瑞兆であり、わが主上の徳政を神が讃仰されて賜ったものと存じます。
 
しかし乍ら、この吉瑞に対して天子の徳がまけてはなりませぬ。
怖れ多くも主上としては、更に広く人民(おおみたから)に仁政を施して戴きたく存じます』

その言葉に主上は心から悦ばれ、天下に勅命をお出しになりました。

『本年は、年貢を納めなくともよい』

この勅命に国中が沸き返るような歓びに包まれ、
人々はこのことを永く子孫に伝えなければならぬと語り合ったということです。


ところで、伝説によれば献上された白鹿の角には、十七の文字が書かれていたと言いますが、
もしかすると、文字とも読める模様があったのかもしれません。
いずれにせよ、太子はそれを見ておもしろいと思われたのでしょう。
その十七の文字に、十七条の心魂とも言うべき考え方の当てはめを試みられたようです。

例えば憲法第一条は、角に琴と読めるものがあったので、
"琴の音の和やかさを心として和を以て貴しと為す”と書き出されました。
 
他説では、十七という数の起源は白鹿の話ではなく中国の学問であるとし、
"天に九星の極があり地に八極星があり、合計して十七という数を絶対的なものとみた”
とも申します。

しかし古伝がいう不思議な白鹿献上の話はおもしろく、
そこに天地十七の極星説の裏付けが加わって
十七という数字が導き出されたと考えたくなります。


太子が白鹿の十七支胯の文字をどのようにお考えになったか調べてみると、
推古女帝と太子との間に交わされたお言葉が残されていました。

太子、推古女帝に奏上して曰く、

「琴」楽の音は人の情を和らげる。即ち和道。

「斗」は北斗星。天の道に順ずるべしということから順道。

「月」は進むことと辞すること、分節を明らかにしているので礼道。

「台」は天皇を補け奉る三高官を意味することから政道。

「鏡」明らかに照らすので智道。

「竹」は節の間に空があり強さがある。官人の行いと心の有り様と知る。ゆえに官の道。

「冠」は位階の器であるから位道。

「契」は文字を意味する。文字は道理を盛る器。そして道理は信によって立つ。ゆえに信道。


「龍」は大きくて霊体ながら小身になって身を隠す。大でありながら小となるは謙。ゆえに謙道。

「花」は開いて落ちて私心がない。私心なく賞罰を明らかにする事道に通ず。

「日」は天の主である。天子は国の主である。ゆえに主道。

「車」は両輪があって誤りがない。司たちの足である。ゆえに司道。

「地」は万物を育てながら決して嫉妬心がない。これを徳道とみる。

「天」は四時百刻、私心がない。ゆえに公道。

「水」は夏に解け冬に凍り、時々の事の処し方を知る、ゆえに時道。

「籠」は目盛りのついた器。品定めをして、大小も分かつ、ゆえに品道。

「鼎」は三本足で立つ。ゆえに三法に当たる神・仏・儒の尊きを説く、法道。


天皇もこれを納得されて、

『よい憲法を作ってくだされ。
あなたがこのように深く考えておられることを朕はまことに嬉しい。
皇太子が作られる法の掟こそ、天下の公道。万人を導きましょう』

と仰せられたということが記されています。

            <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

推古天皇の勅命 - 伝統

2015/10/21 (Wed) 19:04:28


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P18~21)より

ここで、憲法をお作りになられた聖徳太子の生涯について軽く触れておきたいと思います。


第三十三代推古天皇は「御容姿きらきらし」と記録に残るように、
大変美しい女性の天皇(当時は主上)でした。


聖徳太子は用明天皇の皇子で推古天皇の甥。
当時は、上宮の皇子と呼ばれておりました。


母君が厩戸(うまやど)の前で産気づかれ、部屋に入って出産をされたのですが、
後に、日本に伝わって来たキリスト教(景教という文字をはめている)の影響を受けたゆえか、
厩で生まれたキリスト誕生の故事に想いを懸けて"厩戸の皇子”とも呼ばれたようです。

 
そして、推古女帝が即位されたとき(西暦592年)、
摂政の宮として政治を補けて欲しいと勅命がありました。
太子が20歳の春です。

 
太子は当初、この要請を固くお断り申し上げておりました。
その理由は、推古女帝の皇子に竹田王がおられたからです。

しかも、竹田王は決して暗愚な方ではなく、むしろ賢明な皇子で、
群臣たちの信頼も得ていましたから、推古女帝の補佐役としては申し分なかったのです。

 
しかし主上はあきらめず、
「朕(わたし)は日本国中を統(す)べる大王にならなければいけない。
願わくばそなたの力を貸してもらいたい」と、仰せになられました。

 
一方、太子はなかなか首を縦に振られません。

 
あるとき、事の推移を見ていた高官の一人が、

「陛下の仰せ尤もでございますが、上宮皇子は無欲恬淡の御性質で摂政の大任に就かれることを
嫌っておられるので、この際は竹田王の御気性の賢良をお認め遊ばし、竹田王を皇太子と定むる
勅諚を賜りたい」と申し上げたところ、

女帝は、

「貴官は何という勘違いをしているか。竹田皇子は故天皇の子で朕が産んだのである。
皆が言うように賢い人間かもしれないが普通の賢さであり、上宮とは比べられない。
上宮の皇子は、真の聖人で真理の人、絶世の人物。

朕は、吾子への愛に魅かされて大役を授け、天下の政り事をおろそかにすることはできない。
貴官らも上宮に朕の希望を伝えて、必ず摂政の大役を引き受けて戴くように」

というお考えを示されました。

 
このように推古女帝から再三の仰せがあったので、太子は20歳の夏、摂政を務めることとなり、
数々の文化・政治・宗教・学問に亘って素晴らしいお仕事を遺され、29年間御活躍の後、
49歳で薨(みまか)られました。

時に推古二十九年二月五日のことです。
(多くの学説では三十年二月二十二日となっていますが、
先代旧事本紀大成経には二月五日と明記されています。
先代旧事本紀大成経については、詳しく後述します)

            <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

聖徳太子の心意気~その1 - 伝統

2015/10/27 (Tue) 19:35:56


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P21~23)より


太子が摂政として日本のために大活躍したのは皆さん御存じの通りですが、
太子がどのような姿勢で政治に携わったのかがわかるエピソードがあります。

 
日本が中国の文化・文明を学ぶために、遣隋使を派遣したのは太子のお仕事でしたが、
当時の国家予算の3分の1を使って4隻の船を建造し、留学生となる人々には
10年間は余裕をもった生活ができ、書籍・文献を豊富に買い求めて勉強ができるように、
砂金を沢山持たせたと言います。

 
国家予算をこれだけ費やして、新しい知識を学ぼうというこの心意気は、
明治維新の政府にも受け継がれたというべきか、外国への留学生を派遣することは勿論、
当時の総理大臣より高い給料を払って米・英・独・仏の著名な学者を招き、
西洋文化を吸収する努力をしたのでした。

 
遣隋使は、推古天皇十六年(608年)から始まって、後に遣唐使となり、
菅原道真が「もはや唐の国から学ぶものはありません」と断言して、
遣唐使を廃止した寛平六年(894年)まで続きました。

 
中国への国書の中に、日本の天皇という名乗りを初めて使ったのは太子ですが、
太子が隋の煬帝に親書を出したことは有名ですね。

”日出る国の天皇より、日の没する国の帝皇へ書を呈上す”と書き出して、
小野妹子を大礼使として遣わしました。

”どうか引見ください。当国の留学生たちを派遣して貴国の文化文明を学ばせて戴きたい。
また、貴国と日本国との文物の交易を深めたいと願っております”というような内容だった
のですが、煬帝は「天皇」の文字をみて”無礼な奴だ!”と怒りました。

 
中国大陸の支配者である皇帝にしてみれば、絶対的存在である「天帝」の命をうけて
世界を司る王者「帝皇」に対し、他の国の者どもは平伏するのが当然であるのに、
天皇と名乗るは何たることか、というわけなのです。

中国大陸の覇者の感覚とすれば、周辺の文化の遅れた国々を東夷(とうい)、
西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)などと呼んで見下していた
わけですから、東夷である日本の王が「天皇」を名乗ったことは気に入らなかったのでしょう。


《本に記載されている欄外解説(抜粋)》


小野妹子

第一回の遣隋使として隋に渡り、煬帝に国書を献じた。
翌年、隋使の裴世清を伴い帰国。
同年、隋使の帰国に際して再び留学生らとともに隋へ渡った。
生没年不明。

http://www.ononoimoko.org/ononoimoko.html

・・

煬帝

隋の二代目皇帝。
中国統一を成し遂げ隋を建国した父、文帝を殺害して604年に即位した。
運河建設などの大規模な土木工事を強硬したり、
朝鮮半島への軍事行動を起こすなど外征を推し進めた。
その結果、隋は国力が衰え、李淵によって滅ぼされた。
569~618年

http://www.nobitown.com/dom030127.html

            <感謝合掌 平成27年10月27日 頓首再拝>

聖徳太子の心意気~その2 - 伝統

2015/11/01 (Sun) 20:03:17

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P23~25)より

そこで煬帝は日本の国主にあてて怒りを顕わにした手紙を書き、小野妹子に渡したのです。
さて困ったどうしようと、迷った末に、妹子は「国書を盗まれました」と天皇に報告したのです。

しかし、正式な外交文書を無くしたとあってはただで済むはずもありません。
当然、妹子の責任を追及する声が大きくなり、帝も処分を決しかねておりましたとき、
太子は”何かおかしい”と感じ、小野妹子に国書の内容を訊ねたのでしょう。

事の真相を知った太子は、日本国に向かって暴言を記した煬帝の国書を紛失したとして
自分が罪をかぶり、この国辱を表沙汰にすまいとした小野妹子の気概こそ立派なものだと認め、
女帝に取りなして今一度彼の国へ遣わすと奏上したのです。


妹子はそのとき、裴世清(はいせいせい)を代表とする十二名の隋使節団を連れて
帰国していたのですが、太子の計らいで推古女帝に謁を賜り、使節たちは歓待されました。

ここで太子は裴世清を朝廷に呼んできっぱりと申し渡しました。
その表情は穏やかながらも、内容は断固たるものでした。


『裴世清、よく聞かれよ。日本の天皇が修好の善意に溢れた書状を呈したにも拘わらず、
隋主の返書は何たる無礼であろう。しかし、国書の初めに「皇帝倭皇に問う」とあり、
皇の文字をわが天皇にあてたことをもって隋主の無礼は問わぬこととした。

思うがよい、天地の神が国境を定め国を造り、中心に国主を立てて国家を運営する型を決めたのだ。
聞くところによれば煬帝は、父の文帝を殺めて帝位を簒奪したのではなかったか。
隋主はわずか二代目でその先は帝ではないのだ。

それに比ぶれば、日本国天皇は天地開闢以来の天子であるぞ。
隋の国主がわが天皇をこの国に封じたものではなく、
また、我が国が隋に仕えたこともないのだ。

みだりに帝皇と名乗り、わが天皇をあたかも隋主の臣下、
諸侯の一人と決めつけるのは浅い考え方である。帰国したら煬帝に申し上げるがよい』


裴世清は隋においてかなり上級の官吏だったのですが、
太子のお言葉を受けて冷汗三斗の想いだったでしょう。

            <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

聖徳太子の心意気~その3 - 伝統

2015/11/20 (Fri) 19:34:21

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P25~27)より

太子が指摘した通り、隋の煬帝の経歴は、604年(日本では太子憲法が発布された年です)、
父の文帝を殺して即位しています。

やがて南北に亘る大運河を建設しますが、おもしろいことに、南(江南)の地方で作る
お米のおいしさを北京の方でも味わいたいという理由で、米を運ぶ運河を造ったのだそうです。
当時も食料問題が重要だったのですね。


米といえば、実はこんな話もありました。
この煬帝であったか他の帝であったかどうか忘れましたが、日本からの使節に対して
皇帝が『日本人は何を食べているか』と問われたので、日本の使者は『昔から米が主食です』
と申し上げたら、『そうか、それは立派なものだ』という表情でうなずかれたそうです。

これがもし縄文時代だったら「栗・粟が主食で、ドングリも粉にして食べます」
と答えるしかなかったでしょう。稲作を行い、米を主食としているということが、
日本の文化レベルを証明することになったわけですが、食は文化と言うのは真実ですね。

 
618年に「煬帝」は、「李淵」が起こした反乱によって殺されます。
そして国名も隋から唐へと変更されたのです。
唐の治世は二百八十九年間の長きにわたり、その間に白楽天などの名作が生まれました。

しかし、その唐も「昭宗」が38歳のときに「朱全忠」によって滅ぼされ、
国名も『梁』となりました。

 
やれやれ。…… 私が溜め息をつくことはありませんけど。

しかし太子のお言葉にあったように、中国大陸やヨーロッパ諸国では戦争つづきで
政権の主は何回も入れ替わりましたが、私たちの日本は、国の歴史が肇って以来、
連綿として天皇という伝統が続いてきました。

これは誇りにしてもいいことではないでしょうか。

            <感謝合掌 平成27年11月20日 頓首再拝>

偕老同穴の契り - 伝統

2015/11/22 (Sun) 19:22:10


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P27~29)より

政治家として活躍される一方、太子は家族愛に溢れたお方でもありました。
とくに、膳の妃(かしわでのきさき)とは同じ日に薨られるほどの仲むつまじさでした。

太子薨去(こうきょ)について3年程前に一つの学説を組み立てた人がおり、
太子と膳の妃が同じ日に薨ったのは、当時天然痘が流行していたからだ、としています。

それを裏付けることができるような2つの話があります。

その一つは太子が躰(からだ)の痒(かゆ)みがいつもあったので、
妃はその箇所を常に手当てされていたという話。

そして今一つ、太子は最後の晩餐とも言うべき宴(うたげ)を、
主上を始め諸卿群臣を招待して盛大に催しておられたことです。

 
夫婦が同じ日に逝くという話はたしかに聞いたことがありますが、
まことに珍しいことでしょう。
太子と膳の妃の相愛ぶりは人々の羨望の的ともなったようです。

 
実は、推古女帝が太子にすすめて四人目の妃とするようにとおっしゃった女性ですが、
頭脳明晰にして鋭敏でいらしたようです。


太子は御自分の死期を覚ってか、冬のある日、

『私はそなたを得たことは人生の大きな幸福であった。死んだ後は同穴に眠ろうぞ』

と感謝の言葉を述べたとき、膳の妃は、

『まことにありがたいお言葉でございますが、
皇太子の聖寿はまだまだ永く、終わりはございません』

『嬉しいが膳よ、人間の命は定まったものだ。
私もそなたも決して長くはない命だと思う。
だからこそ私は今日、改めてそなたに礼を申すのじゃ』

と交わした会話が、死の3ヶ月前に記録されています。


2月4日の夜、太子は沐浴されて衣服を改めて寝殿に入られ、
妃も同じようにして従われました。
そしてお二人は揃って黄泉国へ旅立ちをされたのです。

 
翌朝、側近の者がどうしてお二方が起きてこられぬのか、
お躰の具合が悪いのかとお部屋を拝したところ、すでに息絶えておられて、
部屋の中には覚悟を示すように薫香がただよっていたと言うのです。

死後、母君と太子夫妻は同じ二上山の麓の陵(科長陵)に眠られています。



《欄外解説》

<膳の妃>
聖徳太子の妻、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)。
太子との間に四男四女をもうけた。太子にはほかに3名の妃が伝えられている。

<科長陵>
聖徳太子の母君である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后と聖徳太子、
そして太子の妃である膳大郎女が合葬されている陸墓。
大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある。

            <感謝合掌 平成27年11月22日 頓首再拝>

天皇慟哭す - 伝統

2015/11/26 (Thu) 20:12:53


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P29~32)より

このように素晴らしいお方でしたから、
太子が薨(みまか)られたときの衝撃ははかりしれないほど大きいものでした。

太子薨去(、こうきょ、)の上奏を受けた推古主上は、気も動転せんばかりに驚き、
車駕を急がせて太子がお住まいになっていた斑鳩の宮殿に御幸されました。

そして、お二人の遺体を確認されると、声を上げて嘆き哀しまれたのです。
群臣・諸人も『日月を失った想い』と、悲しみが国中に広がりました。

時に聖徳皇太子49歳。御葬儀の日はすべての人々が
白い服を着て沿道に立ってお見送りして泣いたそうです。


中でも可哀想だったのは愛馬でした。

甲斐国(山梨県)から買われて、太子が自家用車のごとくお使いになったのでしたが、
体は漆黒、四脚のみが見事に白い毛で覆われた馬で、名を黒駒といいます。

もともと馬は人の心がよく分かる動物ですが、黒駒はとても賢かったようで、
太子が手綱を左右に引く必要もなく、声をかければ思うところに太子を運んだそうです。

 
その黒駒は、太子が薨去された日からは水も飲まず草も食べず、毎日泣いていたと言うのです。
そして御葬送の行列の一員として、太子が愛用された鞍を背にして御陵までお供をしたのですが、
儀式が終わり御墓所の扉が閉まるとき、大きな声で哭き叫び逆立ちしたかと思うと、
どっと大地に頭を打ちつけて絶命しました。

 
これを見た人々は『こんな畜生(動物)にも太子の偉大な御存在が分かっていたのか』と
共に泣いたと言いますが、思いやりに満ちた太子の心情の温かさを伝える話ですね。
その後、黒駒は手厚く葬られたということです。


さて、そんな聖徳太子が作られた憲法とはどんなものなのか。
それでは前置きはこれぐらいにしておいて、貴方にこの本を手にして頂いたことを感謝して
本題に入ることにいたしましょう。

            <感謝合掌 平成27年11月26日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第一条 - 伝統

2015/12/07 (Mon) 19:13:51


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P34~35)より

この憲法の正式名称は『日本国推古憲法』とまず記憶してください。

発布に当たり太子は、群臣百僚を前にして、勿論、主上も御臨席の場で
憲法の主旨を説明されました。その日は推古十二年(604年)五月の晴れた日でした。


『なぜ、今上陛下が万国に魁けてこの十七条の憲法を定めたかと申すに、
上代の人々は帝も臣も、正直な心で事に当たって来たので、人民も邪な心を持たなかった。

だが近年の乱れはいかなるものか、諸卿も御存じのように堪えられぬほど甚だしい。
今の世がこれならば、後の世には人の数も増えて邪悪な者が顕われ、
人道を踏みはずす者が多くなるであろう。

主上は深くそこに想いを垂れて、本日ここに憲法を公布することと遊ばしたのである。
政り事の乱れは国家の大乱。ゆえに天子の御心を載して、臣として職分に励んで頂きたい』


このようなことを述べられたと想像するのですが、
そのときの太子のお姿は、どんなだったでしょうか。

この日本第一の聖人は、人の倖せを願うゆえに、
心に深く愁いをこめておられたに違いありません。

 
人間の本質は変わらないものだと太子は言い切っています。
だからこそ、千四百年前の憲法が今でも新しいのです。

 
筑紫哲也さんの「ニュース23」に永六輔さんと出演したとき、
永さんがこう言われました。


『通蒙憲法は公務員に対するものだと最近知りましたが、すべての人に当てはまる訓えです。
しかし、この憲法が廃止されたことは聞いておりません。三波さんも聞いていないでしょう?』

『はい』

『ということは、生きている憲法ってことですよ! 』


三人で大笑いしてしまいましたが、
この憲法からは程遠い現状を思うと、とても侘(わび)しくなりました。

・・・

琴の和道 通蒙憲法 第一条


『和を以て貴しと為し、忤(いさか)うことなきを宗とせよ。

人には皆黨(ともがら)有り。また、達(さとれ)る者は少なし。

是を以て、或は君父(きみおみおやこ)にも不順(したがわざること)あり。
また隣里(いえいえむらむら)にも違(なかたが)う。

然れども、上和(つかさたちやわら)ぎ
下(おおみたから)睦(むつ)み諧(うちとけ)て事を論(さだ)めよ。
則(しかつとき)は、事(ことごと)も理(ことわり)も、
自ら通わしめ何事か成らざらん。』

           ・・・

   《欄外解説 第一条》

   和を以って貴しとする。いさかわないことを旨とせよ。

   人にはそれぞれ朋党があり、しかも達者は少ないから、
   主君や父母に従順でなく、隣里とたがい違いになったりする。

   そこで、上下が親睦融和して話し合うようにすれば、
   事柄は自ら通じて、何事も成就するのである。

           ・・・
 
第一条で太子は、人間性に対して、厳しくも正確な見方をしていますね。
 
悟れる者は少なし、自分を磨け。人々が党を作るのは当然のことだが、
党の力を非道なことに使ってはいけない。
君主にも両親にも従わないということが起きる。

家風や村里の風習を大切に、上に立つ者が下の者たちに打ち解けて語り合えば、
いかなることもできるはずである、と諭してあります。
 
また、「忤う」ということについて、
従来"さからう”とふりがなをした文書が多く、私は疑問でした。
やはり"いさかう”と読むべきでしょう。

公務員が、上級者や同僚にいちいち逆らっていては、目茶苦茶になります。
最善の解決策を見出すための討議に入ったときには、人と争ったり、
諍うような気持ちではなく、平常心で務めよ、と言われたのだと私は思います。
 
この言葉で思い出すのですが、私が子供の頃に父親が、
『他所の村へ行ったら、諍いするんじゃないぞ』とよく言っていました。
悪童時代は物の限度を知りませんから、とんでもないことになったらいけないと、
父は心配していたようです。
まして、ふだんからのおつき合いのない場所で、問題が起きては大ごとになります。
 
「いさかい」をするなよ。太子の教えは、今日、身につまされる思いがしますね。

            <感謝合掌 平成27年12月7日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第二条 - 伝統

2015/12/14 (Mon) 19:35:25


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P38~43)より


『詔を承りては必ず謹め。
君(みかど)は之れ天に則り、臣(つかさたち)は之れ地に則る。

天は覆い地は載せて、四時(よっとき)順(めぐ)り行き、萬氣(よろずのき)、
通ずることを得せしむ、地もし天を覆わんと欲む則は、壊(やぶ)れ致すのみ。

是を以て、君言(みかどみことのれ)ば臣(おみ)承り、
上行(つかさたちしめ)さば下(おおみたから)これに效(なら)うは
是れ天地の則(さだめ)なり。

故に詔(みことのり)を承りては必ず愼め、謹まざれば自ら敗(ほろ)ばん。』




《訳》

天子のみことのりを受ければ、必ず謹んでこれを奉ずるがよい。
君は天、臣は地である。天は上にあり、地は下にあって、春夏秋冬に順行して、
ここに初めて万気が通ずるのである。

もしも地が上に行って天に代わろうとすれば、破壊があるばかりだ。
従って君の命令があれば、臣はこれを承り、上の行うところは下これに倣って、
みことのりは謹んでこれを奉ずるがよい。奉じなければ、自ら敗れる。



《解説》

第二条の条文について、「あれ? 自分が読んだものと違う」と仰有るお方が多いと思います。
「篤く三宝を敬え」という条文がよく知られていますが、実はこれが正しいのです。
皇太子が編纂を命じられた『先代旧事本紀大成経』の中にはこの文言があります。
 
一般的に伝えられている太子憲法の第二条は、
明らかに仏教者が時の勢いに乗じて改竄したものと考えられます。

なぜなら「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」としてあるからです。
国家公務員に対しての基本法である「通蒙憲法」の二条目に
天皇がこんなことを言われると思いますか?

まず第一に「三宝」ではなく「三法」なのです。
「三法」の意味については後述する第十七条に述べられており、
神と仏と儒の三つを指しています。

そして、太子は、

「三法とは万国の大宗である。
神は日本の神道。仏はインド(天竺)の神道。儒はもろこしの神道。
必ずこれを勉強し、人間修行を怠ってはいけない」

と訓えておられます。


ここで突然ですが、掛軸や置物になっている「七福神」を思い出してください。
七柱の神様が一つの船に乗ってニコニコと笑っていらっしゃるこの神々は、
仏教の守護神である大黒天と毘沙門天、インドの弁財天女、漢の国土の布袋和尚、
中国道教の福祿寿に寿老人、日本の恵比寿様。
 
これはという神々を七という数にまとめて「七福神」とした構図は、
日本独特のもので、太子の示す三法の大衆的表現であったと思います。
 
そして更に、宗旨にこだわらずに生きるためのバランスを教えたのかもしれませんね。


では、太子憲法の改竄はいつごろされたかと考えますと、仏教者、僧侶に真に勢いがついた、
これより約百二十年後の第四十五代・聖武天皇の奈良大仏建立の頃・・・・・・。
このあたりではないかと思われます。

 
渡部昇一氏は、その当時の大仏殿建立は、木造建築としてその壮大さにおいて世界一であった
と言っておられますが、落慶式典にはわざわざインドの名僧(菩提仙那)を呼んで導師とし、
音楽家たちも外国の著名な人々を招いたとも伝えられております。
まさしく、空前の大典だったようです。
 
幾千人の僧侶の大声明の中、大仏開眼のために導師が持つ筆に色美しい紐をつけて大勢が持ち、
仏の慈悲にすがろうとしたわけです。

かくて聖武天皇は式典のあまりの豪華さに酔われたのか、
次の有名な言葉を勅語されたと伝わります。

「われ三宝の奴(やっこ)とならむ」

この勅語を聞いて、当時の仏僧(釈氏)たちの喜びは、天にも昇るものだったでしょう。
まさに「我々は天下の権力を持ったぞ」、と。
 
そして、その機に乗じて遂に改竄の行動を起こしたのではないでしょうか。

その上、太子が法華経を最初に日本に広めたお方であることから、
「太子は仏教徒である」と一方的に決めつけてしまいました。

しかし、太子は仏教を宗教ではなくインドの釈迦の"学問”として考えておられたのですから、
まるで観点が違います。
 
世界の国々に今もなお、宗教戦争はありますが、悲しいことですね。
宗教者たちも我田引水の気持ちを反省する必要があるのではないでしょうか。
 
ともあれ、本当の第二条はここに記した通りで

『国家公務員(公僕)は天子の命令を守り各々職分に応じて行政サービスをしっかりとやってくれ。
もし仕事に対してひたむきな心を捨てたときは、その人自身の破滅だ』というものです。
 
太子は日本の官僚国家体制を造ったと指弾する人がいますが、
一国を運営するにはまず『中央集権』が立派にできていなければなりません。
要は人々の職務に対する心・・・。
 
太子と憲法という名において、国家経営の理想を掲げられたのです。

            <感謝合掌 平成27年12月14日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第三条 - 夕刻版

2015/12/17 (Thu) 19:29:49

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P43~44)より

『群卿(つかさたち)百僚(もものつかさびと)、禮を以て本(もと)とせよ。
其れ民(おおみたから)を治むるの本(もと)は要(かなら)ず禮にあり。
上(つかさたち)禮なくば下(おおみたから)齋(つつ)しまず、
下(おおみたから)禮なくば必ず罪(あやまち)あらむ。
是を以て、君(みかど)と臣(おみ)に禮あれば位次(くらい)亂れず、
百姓(おおみたから)に禮あれば國家、自ら治まらん。』



《訳》

公の仕事に就く者は、礼を本分とせよ。
民を治める肝要は礼にある。
上に礼がなければ、下は整わない。
下に礼がなければ、必ず犯罪がある。
従って君臣に礼があれば、位の次第は乱れず、
百姓(農民を指したのではなく一般人民)に礼があれば、国家は自ら治まるのである。


《解説》

第三条は"人間が生きてゆくためには礼節を忘れてはいけない。
上が乱れたら下は必ず乱れる。犯罪も起こる”と説かれています。

「礼に始まり礼に終わる」という教えはここに始まったといえるでしょう。


            <感謝合掌 平成27年12月17日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第四条 - 伝統

2015/12/28 (Mon) 19:09:21


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P44~46)より

『餐(あじわいのむさぼり)を絶ち欲((たからものほしみ))を棄て、
訴訟を明らかに辨(さだ)めよ。
其れ百姓の訟は一日に千事あり、一日にして尚爾り、況んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。

頃(このごろ)訟を治むる者、利を得(うる)を常となし、
賂(まいない)を見て罪を裁き、これを聴(ゆる)す。
便(すなわち)ち、財有(とめるもの)の訟は石を水に投ぐるが如く、
乏(まずしきもの)の訟は水を石に投ぐるに似たり。

是(これ)を以て、貧民(まずしきたみ)は則ち由(よ)る所を知らず、
臣(つかさたち)の道も亦ここに於いて闕(か)けむ。』




《訳》

餐(食をむさぼる)を絶ち、欲(金銀財宝をむさぼる)を捨てて、訴訟を明らかに識別せよ。
人民の訴えは一日に千もある、数年に及べば莫大である。

しかるに近来、訴訟を取り扱う者が私利を図ることを常習として、賄賂を見れば、
取り調べすべき者も放免し、財産のある者の訴えは直ちに聞き入れ、
貧しい者の訴えは聞き入れない。

このようでは貧しい者の頼るところがない。
臣道の失われるのは当然である。


《解説》

”餐を絶ち欲を捨てて”。この言葉が響いて来ますね。

第四条では賄賂を取ってはならぬぞ、とぴしゃりと言われているのです。


”『一日千人の訴訟』があるが、これは大変なことだ。
正しい裁判をしなければいけない。

財産のある者が司直の者に賄賂を贈り、有利な判決を望んだとしても、
貧しい者たちの現状をよくよくみて、貧乏人を泣かせるな。
 
人民は国の宝、こんなことをやっていては主上の尊厳にも傷をつける。
天皇の臣として恥ずかしいと思え。
このような愚行は国家の破滅を招くものである”

と書かれております。
 
千四百年昔のこの時代に、こんなにも多くの訴訟があることにも驚きますが、
行政機関も今と同じように混濁した状況だったと言えましょうか。

そんな状況の中でも、日本という国を正しい方向へ導こうと、
太子も悲壮なお気持ちで掲げられた条文だったことでしょう。
 
だからこそ次の第五条では・・・。

            <感謝合掌 平成27年12月28日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第五条 - 伝統

2016/01/02 (Sat) 20:32:44

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P46~47)より


『悪を懲(こら)し、善(よきこと)を勧むるは
之れ古(いにしえ)よりの良典(さだめ)なり。
是を以て、人の善は匿(かく)すことなく悪(あしき)を見ては必ず匡(ただ)せ。

其れ、諂(へつら)い詐(いつわ)りをなす者は則(すなわ)ち、
國家を覆(くつがえ)す利器(ごくあくにん)なり。
人民(おおみたから)を絶(たちき)る鋒剣(するどきつるぎ)とならん。

また佞(おも)ねり媚(こび)る者は、
上に對(むか)う則(とき)は、下の過ちを好説(このみとき)し、
下に逢(むか)う則(とき)は、上の失(あやま)ちを誹謗(ひぼう)す。

其(そ)れ此(か)くの如き人は
皆君(みなみかど)に忠(つくすこころ)なく
民(おおみたから)に仁(おもいやりのこころ)なし。
是(こ)れ大亂(だいらん)の本(もと)ならん。』

            ・・・

《訳》
 
勧善懲悪は、古来の良い教えである。
だから、人の善はこれを隠さないで顕彰し、人の悪を見れば必ずこれを匡正せよ。

へつらったり偽ったりする者は国家を転覆する利器となり、人民を絶滅させる矛先となり、

またへつらい、こびる者は、
上役に対しては好んで下役の過ちを説き、
下役に対しては上役の過失を糾弾するが、

このような人物は、君に対して忠義の心なく、
人民に対して思いやりのない者だ。
これは大乱の根源である。


《解説》
 
"勧善懲悪は古来の大切な教えである。
善いことをした人は顕彰し、悪いことをした者は必ず正せよ(罰せよ)。

上の者が下の役人に罪をなすりつけて責任逃れをしてはならぬ。
下役の者は上役の一部始終をすべて知っているものである。

よくよく心せよ”

ということです。
これは、公務員のみならず一般の会社の人間関係にも当てはまることでしょう。

            <感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第六条 - 伝統

2016/01/05 (Tue) 19:29:09


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P48~49)より

『人(つかさたち)には 各(おのおの)任(やくめ)あり。
掌(つかさど)るところは、宜しく濫(みだ)れざるべし。

其れ、賢哲(かしこきひと)に官(つかさ)を任(まか)す則(とき)は
頌音(ほむるこえ)起(お)こり。

姦者(やましき)官(つかさ)に在る則(とき)は
禍(わざわ)い亂(みだ)れ繁(さか)んなり。

世に生まれながらに知(さと)れる人は少なし。
克(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。

事の大小にかかわらず、人を得(う)れば必ず治まり、
時の緩急にかかわらず、賢(かしこきひと)に逢(あいまみえ)ば
自(おのずか)ら寛(ゆたか)なり。

此(これ)に因(よ)って、國家(くにいえ)と社禝(あまつひつぎ)
永久(とこしえ)に危(あやうき)ことなし。
故に古(いにしえ)の聖王(きみたち)は、
官(つかさ)の為に人を求(もと)め、人の為に官(つかさ)を求(つくら)ず。』



《訳》

人には各々にその任務がある。
乱れないようにしなければならない。

賢く、さとい者が官にあると、その功績を誉め称える声が起こるが、
邪な者が官にあると禍いや混乱がさかんに起こるものだ。

世の中には、生まれながらにして賢哲の者は少ないが、
よく念ずれば聖となるものである。

事柄の大小にかかわらず、人を得れば必ず治まる
。治まるときは事に緩急なく、ゆったりとして余裕がある。

ここにおいて国家、社会は永久に危ないことがない。
それゆえに、古の聖王は官職のために人を求め、人のために官職を設けなかった。



《解説》

"邪まな人間が『官』(行政機関)に就いているときは、大きな禍ち、大乱が起こる。
それゆえに古代の聖王は官職を精励する人材は求めるが、
その人物のための官の機関の新設は無かったのである”。
 
この言葉は、官僚国家の現代にこそ余りにも当てはまるもので、
天下り役人の天国ともいえるものができ上がっていることを
働く人民としては哀しくみるしか方法はないものでしょうか。

聖徳太子さまに、もう一度この世に現れていただきたい思いです・・・。

            <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第七条 - 伝統

2016/01/11 (Mon) 19:37:15


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P49~50)より


『群卿(つかさたち)、百僚(もものつかさびと)
早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(かえ)れ。
王事(おおやけの つとめ)は靡監(やすむいとま)なし。
日終(ひねもす)盡(つく)くすも、盡くし難し。
是を以て、遅く朝(まいるとく)は急ぎごとに逮(おいつ)かず、
早く退(まか)れば必ず事(しごと)は盡くされず。』



《訳》

公の仕事に就く者は、朝早く出勤し、夕べは遅く退庁せよ。
政道は人民の過失を責めるものではないから、よく事柄を極めねばならない。
従って、終日仕事をしても事務の処理は尽きない。

それなのに、遅く出勤したのでは、急のことに間に合わず、
早く退庁したのでは、事務を処理することができない。


《解説》

"官僚たちよ、怠けるなよ。朝は早く登庁し、夜は遅くまで仕事をすることである。
自分の都合で早く帰ったりしたら、横の連絡もつかず仕事が片付かないものだ”。
 
この条文を読んで、東京都庁に2万人近い公務員がいる中に、
月に1回だけ判を押すために登庁する古参の元局・部長職がいるという噂を
聞いたことを思い出しましたが、税金の使い途について一般の人は何の権限もないのですから、
これは本当に単なる噂話であって欲しいものですね。
 
何だか太子の厳しいお顔が浮かんでくるのですが・・・。

            <感謝合掌 平成28年1月11日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第八条 - 伝統

2016/01/14 (Thu) 19:26:05

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P51)より

『信(まこと)は是れ義(けじめ)の本(もと)なり。
事毎に信(まこと)を有(もって)せよ、
其れ善悪(よしあし)も成敗(なるなさざる)も要(かなら)ず信(まこと)にあり。
群臣(つかさたち)、共に信(まこと)あらば何事か成らざらん。
群臣(つかさたち)、信(まこと)なくば、
萬事(よろずごと)は悉(ことご)く敗(そこな)われん。』



《訳》

信(まこと)は義の本であるから、
ひとつずつのことに信の心をもってあたれ。
事の善悪の成否の別は、要するに信のあるか、ないかにかかわるものだ。
群臣ともに信あれば、何事か成らぬことがあろうぞ。
群臣に信がなければ、万事ことごとく敗れるものである。


《解説》

”すべてに信をもって行わなければいけない。
官僚に信があればいかなることもできるはずである。
官僚に信がなければ、万事がうまく運ばなくなるぞ”
 
信とは嘘偽りのないこと。
官僚の役目に嘘偽りがあってはいけないということですね。
 
この条文も、今の日本を見透かしておられるかのようです。


            <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第九条 - 伝統

2016/01/22 (Fri) 19:54:44


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P52~53)より


聖徳太子憲法を読む 龍の謙道 通蒙憲法 第九条

『忿(こころのいかり)を絶ち瞋(そとのいかり)を棄て、
人との違(たが)うことを怒(いか)らざれ。

人には皆心あり、各心(おのおのそのこころ)に執(とらわれ)ることあり、
彼(か)れ是(よし)の則(とき)は我(わ)れ非(あし)となし、
我(わ)れ是(よし)の則(とき)は彼(か)れ非(あし)となす。

我れ必ずしも聖(ひじり)に非ず、彼れ必ずしも愚(おろか)に非ず。
共に是(こ)れ凡夫(ただびと)のみ。

是非(よしあし)の理(ことわり)誰か能(よ)く定(さだ)むべき、
相共(あいとも)に賢愚(けんぐ)なること環(みみわ)の端(はじ)めなきが如し。

是を以て彼(か)の人は瞋(いか)ると雖(いえど)も
還(かえ)って我(われ)の失(とが)を恐れよ。

我(わ)れ獨(ひと)り得た(え)り雖も、
衆(しゅう)に從いて同じく擧(おこな)え。』



《訳》

怒りを捨てて形に現さず、人の過失はとがめるな。

人はみな心があり、意見がある。
彼と自分とのなすところについて、彼が是とすれば、自分は非となり、
自分が是とすれば、彼は非であっても、

自分は必ずしも聖人ではなく、彼は必ずしも愚人ではない。
共に凡夫に過ぎないのだ。

是非の理を誰がよく定められるのか。
相共に賢愚であることは、ちょうど環に端がないようである。

だから、彼に非道なことがあっても、その非をとがめないで、
かえって自分の過失を恐れよ。

自分だけが道理にかなったと思っても、それを拘泥しないで、
衆人に従って同じく行動するがよい。


《解説》

太子は人間の心の持ち方を明確に示されています。

“人の失敗を責めてはいけない、自分だって失敗することがあるんだ。
完璧な人間なんていないのだから、人を許すという大きな心が必要である”

自己に厳しく他人に優しくしなさいということですね。

現代では、自己に甘く、人に厳しくするのが当然のようになっていませんか。
人間誰でも、自分が可愛いと思うことと、これは別問題ですね。

            <感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十条 - 伝統

2016/01/30 (Sat) 20:06:28

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P53~54)より

『功(よきこと)と過(あやまち)とを明(あき)らかに察(みわけ)て、
賞(たまもの)と罰(つみなえ)を必(たしか)に當(あ)てよ。

日(このごろ)、功(よきこと)あらざる者に賞(たまもの)し、
罪(つみ)あらざるに罰(しおき)す。

事(まつりごと)を執(と)る群卿(つかさたち)。
仰(あお)いで天(てんのかみ)に察(うかがい)い、
俯(ふ)して地(ちのかみ)に観(うかが)い、
宜(あやまちな)く賞罰(しょうばつ)を明(あきら)らかにすべし。』




《訳》
 
功労と過失とを明察して、賞罰を正しくせよ。

近頃は功労もないのに褒め、犯罪もないのに罰する。

事をあずかる多くの役人は、仰いで天を察し、伏して地を見、
公平無私になって賞罰を明らかにしなければならぬ。



《解説》

”功労もないのに褒美を出し、罪を犯していないのに罰するとは何事であるか。
その任務にある者は、天の心を仰ぎ、地の心をわが心として賞罰を行わなければならない”

太子は官僚たちの日常の動きを見てここに書かれたのでしょうが、
この条文は何だか太子の怒りが顕わになっているような気がして怖いですね。
どんな組織でも信賞必罰が正しく行われなければ、人間の意欲は無くなります。

            <感謝合掌 平成28年1月30日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十一条 - 伝統

2016/02/05 (Fri) 18:45:01


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P54~56)より

『國司(くにのつかさ)國造(くにのみやつこ)は
百姓(おおみたから)より貢(みつぎ)を斂(おさめとる)こと勿れ。

國(わがくに)に二君(ふたりのみかど)なく、
民(おおみたから)に兩主(ふたりのあるじ)なし。

率土(わがくに)の兆民(おおみたから)は
王(すめらみこと)を以て主(あるじ)となす。

任所(やくしょ)の官司(つかさたち)は是れ皆、
君(みかどの)の臣(おみ)なり。

何ぞ敢えて、公(おおやけの)擧(なをもっ)て
百姓(おおみたから)に賦(わりあて)て斂(とりたて)むや。』




《訳》

国司、国造は人民から多く税を取り立ててはいけない。

国に二君なく、民に両主はない。

率土の兆民も王を主とする。

任ぜられた官吏はみな王の臣ではないか。

公にことよせて、私利のために人民から租税を取り立ててはならぬ。



《解説》
 
現在、日本では税金のかからないのは吸っている空気だけ?
いや、これにもCO2が含まれてると思うとやっぱりいろいろと関係してきて・・・。
これは一体どうなっているのでしょうか。

「税」という字を、昔は"ちから”と読みましたが、それは日本の力、人民の力なのです。

現在の税金(ちから)は納めても納めても、あとからあとから追いかけて来て、
どうりで働く力が抜けるわけで・・・というのは冗談ですが。
 
太子はこの条文の終わりに、

“地方長官たる国司・国造は決して税を勝手にとって私服を肥やすな。
人民が貧しいということは、国家が貧しいのだ! ”

たしかにそうですね。

            <感謝合掌 平成28年2月5日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十二条 - 伝統

2016/02/24 (Wed) 19:29:56


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P56~57)より

車の司道 通蒙憲法 第十二条

『司(つかさたち)諸官(もろもろのしごと)を任(にな)う者、
同じく通じて職掌(しごとのなかみ)を知れ。

或は病み、或は使いして事(しごと)に闕(か)くることあらん。
然(しか)れば日(ひごろ)相和(あいむつ)み之(これ)らを知り得て、
曾(かつ)て識(し)れるが如くせよ。

其(そ)れ與(あず)かり聞(き)くところに非ずということを以て、
公務(おおやけのつとめ)を妨(さまた)げること勿(なか)れ。』




《訳》
 
同じ職場にある官吏は、よく連絡して互いの職掌を知れ。

病気や出張のために職場を離れた場合は、
他の者が代わって処理するように相和すべきである。

他人の受け持ちであるからといって、公務を疎かにしてはならない。


《解説》

”公務員は、お互いの仕事をよく知ること。
病気や外出で席を外すこともあるだろうが、互いに仕事の中身を知っていれば滞ることはない。
自分の仕事ではないから知らないなどといって、公務を滞らせてはならない”

官僚にとっては縦社会ほど居心地のよいものはありません。
そして、これほど国民に対して冷酷な体制もありません。
 
そしてまた、民間企業の中にもそうした体質がはっきり現れているようです。
大きな会社で何か問題が起きても「それは俺の責任じゃない。セクションが違うよ」と。
 
太子は互いに横の連絡を取り合って、公務に励んでくれよと示しています。

            <感謝合掌 平成28年2月24日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十三条 - 伝統

2016/03/04 (Fri) 18:57:35

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P57~59)より

『群臣(つかさたち)百僚(もものつかえびと)
嫉妬(ねたみそねみのこころ)有(いだ)くこと無れ。

我れ人を嫉(そね)まば既(かえ)りて人もまた我れを妬(ねた)まむ、
嫉妬(ねたみそねみ)の患(わずら)い其の極(きわみ)を知らず。

智己(ものしり)に勝(まさ)れるときは悦ばず。
徳己(ひとがらおのれ)に優(すぐ)れるときは嫉妬(そねみのこころもや)す。
是を以て、良哲(すぐれたるひと)出(い)ずることなし。

乃令(たとえ)五百歳の後(のち)にいたるも、
賢(かしこきひと)に遇(あ)わしむることなく
千歳(せんさい)にして以て一(ひとり)の聖(ひじり)も得(う)ること難し。
其れ賢聖(ひじりびと)を得ざれば、何を以てか國を治めん。』




《訳》

公の仕事に就く者は互いに嫉妬するな。

己が人をねためば、人もまた己をねたむ。
嫉妬の憂えは際限のないものだ。

ねたみをする者の心は、智が己より勝るものを喜ばず、
徳が己より優れるものをねたむ。
このような人物が上役にあっては、良哲の人を見いだすことはできない。

たとえ五百年たっても賢人に会うことなく、
千年を費やしても一人の聖人も得ることができないだろう。
賢人、聖者を得なければ、どうして国を治めることができようか。


《解説》
 
“人が人を作るものだ。傑出した指導者がいなければ国は発展しない”と書いておられますね。
 
江戸時代の女性の修養書「女庭訓」に『嫉妬は女の慎むところなり』とありましたが、
どう致しまして、実際には男の方が何倍もやきもち焼きです。
 
太子の憲法で諫められたのは、
公の仕事の中にこのやきもちが入りこんではいけないということです。
 
昭和の経営の神様・松下幸之助氏の言葉も有名ですね。

『人間は誰でも嫉妬心があるんや。しかし仕事の上では邪魔になる。
嫉妬するときは、狐色にこんがりと上手に妬かなあきまへんで』

本当にむずかしいことですが、小さなことにこだわっていては、
大局的な物の見方ができなくなります。
 
更に人間の品格を高めるについては、なおさらと感じます。

            <感謝合掌 平成28年3月4日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十四条 - 伝統

2016/07/11 (Mon) 19:42:53


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P59~61)より

『私(わたし)に背き(そむ)公(おおやけ)に向(した)がうは、
是(こ)れ臣(つかさたち)の道(みち)なり。

凡(およ)そ人、私(わたしのこころ)を有(いただく)は必ず恨(うらみごと)あり。
恨あれば必ず非(よからぬこと)を作(おこ)して、非(そのひ)は固(まことのこころ)を失う。

固(まこと)あらざる則(とき)は私(わたくし)を以て公(おおやけごと)を妨(さまた)げん
恨(うら)みを起こす則(とき)は、制(おきて)に違(そむ)き法(のり)を害(そこな)う。

之(これ)に由り私(わたくし)を推(はら)う則(とき)は、
君(みかど)を君(きみ)とし臣(つかさ)を臣(おみ)とす。

故(ゆえ)に古典(もろこしのふみ)に云(いわ)く、
夫子(ふうし)の道(みち)は忠恕(ちゅうじょ)のみと。
其(こ)れもまた、是(こ)の情(こころ)ならむか。』


《訳》

私を滅し、公に奉ずるのは臣の道である。

およそ人に私心があれば必ず恨がある。
恨があれば必ず誠(まこと)を失する。

誠を失すれば、私心をもって公務を妨げる。
恨の起こるときは制に違い、そして法を害するものだ。

これによって、私を推すときは君を君とし、臣を臣とすべきである。

古典に夫子の道は忠恕のみとあるのは、この心をいったものであろう。


《解説》

"私に背き”とはなんとも文学的な表現ですね。

"自分のことは二の次にして懸命に公務に精励して欲しい、
それこそ国家公務員の仕事であり道である”と、
ここでは孔子の論を引用しています。

忠恕とは、誠心を尽くす思いやりの心を言うのですが、
私たちの日常生活にも当てはまりまることです。

『人の笑顔を見るのが嬉しい』
『人に倖せを贈れば倖せが訪れる』
『人の歓びを我が歓びとしたい』

人間社会では、いつでも「幸福」のキャッチボールをしたいはずです。
家族、夫婦、そして友人たちとの間でも・・・。

劇作家として有名な真山青果の作品に、浪曲界の大名人であった人物を取り上げた
『桃中軒雲右衛門』という名作があります。

その中で、真山青果は雲右衛門夫人のお浜にこう言わせていました。

『あなたは仕事のために他人のことばかり気にしてあれこれとおやりになるけど、
家族や身内の苦労をちっとも考えておられませんね』

この台詞、読んだときには私もたいへん耳が痛かったですが、お宅様では・・・?
いや、ここで聞いてはいけません。話が横へそれました。

            <感謝合掌 平成28年7月11日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十五条 - 伝統

2016/07/16 (Sat) 19:47:23


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P62~63)より


『民(おおみたから)を使うに時を以てするは
之れ古(いにしえ)よりの良典(よきならい)なり。

故に冬の月は間(いとま)あり、以て民(おおみたから)を使うも可(よ)けむ。
春より秋に至るまでは農桑(のうかのしごと)の節(とき)なり
民(おおみたから)を使うべからず。

其(そ)れ農(たがやさ)ざれば何を食らい、
桑(くわつま)ざれば何をか服(きもの)とせむ。』


《訳》

人民を使役するには時期を選べというのは、
古の良典の教えである。

冬期は農閑期であるから人民を使ってもよいが、
春から秋にかけては、農繁期であるから人民を賦役してはならない。

農業をなくしては食うことができず、
養蚕を無くしては衣服を着ることができない。



《解説》
 
昔は税として庸・調の項目がありました。
庸とは、体を使って夫役をすること、そして調は物を作って納めることです。

そのため、この条文では、

“人民を夫役として使うときは必ず農閑期にせよ。
主食の米を作る仕事、また、絹糸を生み出すお蚕さんの仕事は大変に重要な仕事で、
これがなければ我々人間は生きてはいけないのだ。よくよく心してやれ”

と、働く人々への思い遣りが示されています。

『お上の威光を笠に着て、私的なことで人民を使うなど、もってのほかぞ』と
太子の言葉が聞こえます。

『人民の豊かさこそ御国の富である』

これはいつの時代でも変わることのない真実です。

            <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十六条 - 伝統

2016/07/23 (Sat) 18:46:07


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P63~65)より

『大事(だいじ)は之(こ)れ獨(ひとり)にて斷(さだ)めざれ。
必ず衆(もろにと)と與(とも)に宜(よろ)しく論(ろんぎ)すべし、

小事(しょうじ)は是(こ)れ輕(かろ)し必ずしも衆(しゅうぎ)するに足(およ)ばず。

唯、大事を論(さだ)めるに逮(およ)びては、
或(あるい)は癡(おろ)かにして失(あやまり)あらむ。

故(ゆえ)に衆(もろびと)と與(とも)に相(あ)い辭(ゆず)り辨(かたり)あえ、
則(すなわ)ち理(ことわり)を得(う)べし。』


《訳》
第十六条

 大事は独断専行してはならない、必ず衆議して決せよ。

 しかし、小事は必ずしも衆議するにおよばぬ。

 大事は過失があってはならないから、多数と相談して行えば、
 事理を誤ることがない。


《解説》

 "大事な問題は皆で討議して決めなければいけない。
 徹底して論じ合え、それでも間違うことがあるのだ”

 衆と共に語り合うことが大切だと示しておられますが、
 明治政府が発足するにあたって、明治天皇が賢所で読み上げた
 五箇条の御誓文の中の一つに『広く会議を興し万機公論に決すべし』とあります。

 これは、太子の憲法を継承するものでした。

※注釈※

明治天皇
 江戸幕府を倒し、大政奉還を実現。東京に都を移した。
 天皇親政により近代日本の礎を築いた。
 一八五二~一九一二年(在位一八六七~一九一二年)。

五箇条の御誓文

 1868年に示された明治新政府の基本政策要項。
 国内的には会議による政治と身分を超えた国民の団結を示し、
 対外的には開国と和親の推進を示す。
 明治天皇が神に誓うという形で発表されたため御誓文と呼ばれる。

 → http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html

            <感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>

通蒙憲法十七条 第十七条 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 18:35:54


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P65~67)より

『篤く三法を敬え、三法とは儒釋神なり。
則ち、四姓の總の歸にして萬國の大宗なり。
何れの世、何れの人か、是のごとき法を貴ばざる。
人には、尤も悪は鮮し能く教かば之れに從う。
三法に歸せざれば何を以て枉を直さん。』


《訳》
 篤く三法を敬え。三法とは儒、釈、神である。
 これは四姓ともに帰依するところで、万国の大宗である。

 いずれの世代、いずれの人も、この法を貴ばないものはない。
 人間には極悪のものは少ない。
 よく教育指導すれば、これに従うものだ。

 その教育指導は三法の教えによれ。
 三法に帰依しなければ、枉(まが)ったものを直すことができない。


《解説》

 いよいよ通蒙憲法のラストになりましたが、
 太子は条文の結びとして、更に学べと励ましておられます。

 毎日、さまざまな問題が起きて来るが、
 それを正しい方向へ解決するためには公務員たちよ、広く深く学問をせよ。
 その精進の中から正しい答えが出る。

 神と仏と儒を学べという意味は、日本人としての自覚を持ちながら、
 世界の学問哲学を、処世訓を研究しなければならないということだと示しています。

 私たちは、ともすれば、あれもこれも分かったつもりでいるようですが、
 大きな事故が起きたりすると、実際には大事なツボが、まるで分かっていなかった
 のかと驚かされることがあります。

 生涯学習という言葉は、ここら辺りから出たものと考えても間違いないようです。

 太子は最後に『最も悪い人間というものは多くはないのだ。
 その人たちも導き方によっては善人になる』と示しておられました。
 ここが太子の優しい眼差しの光でしょうか。
 
 通蒙憲法のお勉強はひとまずここで終わりますが、
 更に四つの憲法の中から現代に響きつながる条文をあげて書いてまいりましょう。

            <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>

政家憲法十七条 - 伝統

2016/08/25 (Thu) 19:21:48

(ここからは、政家憲法十七条について、紹介してまいります)

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P70~71)より

太子が政治家に対して述べられた条文は、
さながら現代の政界の動きを見通しておられるように感じます。

 
当時の政家と言われる人々はどういう人たちだったのでしょう。
勿論、投票で選ばれたわけではありません。

古くからその地方や地域において、大勢の人の先頭に立って
指導的な立場で活躍した有力者、ということになりますね。

大和朝廷は、出雲族と日向族の融合一致ででき上がったのですから、
初代・饒速日尊大王の血統につながる人々は、
磯城の縣主(県知事にあたる)とか地方の首長として勢力を持っていました。

その最も大きな存在は、大和朝廷の軍事力を支配した大連、物部一族です。
 
しかし、仏教をはさんで蘇我と物部の決戦となり、物部守屋が戦死。
以後、朝廷内の実力者となったのは蘇我氏です。
 
太子が蘇我一族の出身であることは御存じの通りですね。
この時代に直接政治に携わる「政家」は、天皇を中心として、
大臣・大納言・中納言・参議、この人たちを公卿と呼びましたが、
更には国司・国造も含まれると考えて間違いないようです。

総人口がどのくらいであったかは分かりませんが、
日本はかなり昔から村組織がしっかりしていました。

太子の頃には八十戸が一村で、十ヶ村を一つの国としていたようです。
全国では百二十ヶ国という資料も見えます。

しかし、いつの時代でも、中央政界の実力者たちの政治意識は実に大切です。
 
太子の条文は厳しく見えますが、
人間の心の美しい部分に問いかけているように感じます。

政治とは大勢の人々を倖せにするための仕事なのですから。
 
それでは、じっくり読んでみてください。
いかに太子が人間の倖せを念頭に書かれたかが読みとれると思います。


<参照>

(1)出雲族
   出雲地方に王朝を築き、鉄の文化圏を作り上げた一族。
   詳細は後述、隠された古代日本史の章を参照。

(2)日向族
   九州の日向を拠点とし、米の文化を背景に勢力を伸ばした一族。
   詳細は後述、隠された古代日本史の章を参照。

(3)饒速日尊大王
   出雲族の出身で大和王朝を築いた人物。
   詳細は後述、隠された古代日本史の章を参照。

(4)蘇我氏
   大和王朝の有力氏族。
   皇室との姻戚関係が強く、一族の長は朝廷の財政などを司る大臣の位に就いた。
   馬子の代に対抗勢力の物部氏を滅ぼし、大きな権力を手に入れた。
   子の蝦夷、孫の入鹿が討たれたのち衰退。

(5)物部氏・物部守屋
   代々大和王朝に大連として仕えた氏族。
   特に朝廷の軍事面を支えた。
   大陸から仏教が伝来した際、日本古来の神を崇める立場から排仏を唱え、
   崇仏派の蘇我氏と対立。守屋の代に蘇我馬子らによって滅ぼされた。

            <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

琴の和道 政家憲法 第一条 - 伝統

2016/12/07 (Wed) 22:17:12

           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P72~73)より

政(まつりごと)を為す道は、獨()ひと)り天の理(ことわり)に止(と)どまるべし。
志(こころざし)を孤(たかく)なして好嫌(すききらい)を絶ち、
我(われ)を孤(ひろく)なして黨讐(みかたかたき)を離れよ。

好(この)む黨(ともがら)の非(よからぬこと)は、
耳(みみ)之(こ)れを理(ことわり)と化(ききな)し、
悪(にく)む讐(あだびと)の理(よきこと)は
口(くち)之(こ)れを非(よからず)と化(いいな)す。

故(ゆえ)に好(よしみ)と悪(にくしみ)を絶(た)って、
物(ひとびと)と融(とけあい)を致(いた)し
黨讐(みかたかたき)を離(はな)れて、
政(まつりごと)を和(かたりあい)に歸(もど)すべし。

物(ひとびと)と政(かみもどの)に融和(とけあい)すれば
兆民(おおみたから)理(おさ)まらむ、兆民(おおみたから)理(おさ)まりて、
天下(あまがした)平(おだやか)なり。


《訳》

政治の道は、天理に注意し、
私を空しくして好悪の観念を絶つべきである。
己を孤にして党讐(味方と敵)を離れよ。

己の味方の言い分は、正しくなくとも道理とし、
己の敵の言い分は、正しいことでも良しとしないものがある。
 
このゆえに、私の好みと憎しみを絶って融和せよ。
党讐を離れさえすれば、いずれにむかっても、その政道は和に帰するものだ。
 
物と政とが融和すれば、人民は治まり、天下は泰平である。


《解説》

政局の任に当たる物は高い志を持て。
天の理りを体現するという気持ちで、毎日の政をしなければいけない。
 
徒らに党を組むな。仲間だけが集って、
なあなあで事を運んでいると、とんでもないことが起きる。
党利党略を超えて行動しなければならない。

なるべく好き嫌いの感情を挟まないで、
今は何が大事かということを和やかに語り合わなければならない。
 
政家たちは謙虚に誠心こめて、事を運んで貰いたい。
そうすれば人民も納得して、天下は太平となるのである”

 
党利党略を超えて政に当たれ、という言葉が生々しい響きを持って迫って来ますね。
 
今の政治にお金が必要と言っても、
太子の言う“天の意志、天の真理に叶っているのかどうか”を
一日一回だけでも考えてくださると、人民としてはありがたいです…。

            <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

斗の順道 政家憲法 第ニ条 - 伝統

2016/12/09 (Fri) 18:12:50


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P74~78)より

辰宿星(ひつきぼし)は天の君なり、
公(おおぞら)に位(くらい)し公(おおぞら)の度(ものさし)となって
天(とこしなえ)に仁(うるわし)く轉(めぐ)る。

幹支禽(かんしきん)は地(ち)の臣(おみ)なり、
忠(ただ)しく列(るらな)り忠(ただ)しく行(めぐ)って
地(ち)の義(ぎ)と定(さだ)まる。

是れ人君(ひとのきみ)人臣(ひとのおみ)の理(ことわり)なり。

故(ゆえ)に王者(みかど)は公政(まつりごと)に仁(おのいやり)を化(ほどこ)す。

臣連(おみむらじ)は忠義(ちゅうぎ)に事(つか)え奉(まつ)れ
是(こ)れ天(てん)の道(みち)なり。

是(こ)を以(もつ)て下(おみたから)の事(つとめ)は
命(おおせ)を守るにありて私(わたくし)に過(すぎ)る則(とき)は
定(さだ)んで刑(けい)被(せら)れむ。


上(つかさ)の政(つとめ)は天(てん)に宛(なら)うしかれども
過(すぎた)る則(とき)は匹夫(ひっぷ)にすら負(そむ)かれむ。

故(ゆえ)に過(あやま)ちはすみやかに改(あらた)めよ、
改(あらた)めざれば逸(ほしいまま)の政(まつりごと)になり
驕(あざむきたる)の法(ほう)とならむ。


《訳》
 
辰宿(しんしゅく)は天の君である。
これらは公に位し、公に則るから、天下はうるわしく転移する。

幹支禽(干支の動物)は地の臣である。
まめに働き功多く、地の正しい筋道が定まるのである。

これが君と臣との道理である。

だから、王者は公正な政治を行って仁を施し、役人は忠義をもって仕える。
これは天の道である。

下の者の仕事は君命を守らねばならない。
もし過失があれば処罰される。

上の者の政治は天の道に則ってすべきである。
過失があれば匹夫にも負ける。

ゆえに過ぎたことは改めよ。
改めなければ、放逸の政治となり、驕慢の手本となるだろう。



《解説》
 
太子は憲法の中でたびたび、
「情のない政を行うと叛乱が起きる」と警告しておられますが、
これは御自分が体験された大事件によるものでした。
 
推古女帝の前に皇位に即かれていたのは崇峻天皇ですが、
皇位にあることわずか五年間。
大臣・蘇我馬子の家臣によって殺されたのでした。

日本の歴史上でも、天皇が殺害されたのはこの事件のみですが、
実は、崇峻帝在位中、太子が十六歳の頃に御下問がありました。

『そなたは非常なる博識と人が噂するが、朕を占ってくれぬか』

太子は崇峻帝のお言葉に従い、その相を占ったのですが、
なんとも不吉な兆しが窺えたのです。
そして、その旨を崇峻帝に申上されました。

『まことに恐れ多いことでございますが申し上げます。
主上の瞳の中に赤い艶が光っておりますのは傷害の兆しでございましょう。

主上は御気性が荒々しくおいで遊ばすので、思うことをそのまま、お言葉になされます。
これは主上としての見識に深く関わりまする。
どうぞ信仰心をお持ちください。

また、側近に侍る夫人たち、近臣にも充分御注意賜るように』

 
崇峻帝は鏡を取り寄せて御自分の瞳を御覧になり、しばし無言だったそうです。
 
太子は帝の側近に、

『宮廷内外、出入りについては充分に護りを固めなければなりません。
帝の御相はすでに厳しい運命を表しております』

と言われたそうですが、果たせるかな、
崇峻天皇五年(五九二年)の冬十月、
主上の怒りのお言葉が遂に大事件を引き起こしました。



※注釈※
崇峻天皇

用明天皇の崩御後に即位。蘇我馬子と対立し暗殺された。?~五九二年。


蘇我馬子

聖徳太子とともに推古天皇の治政を支えた大臣。
仏教への帰依が厚く、国内の仏教の興隆に果たした役割も大きい。?~六四五年。


怒りの原因は、新羅国への遠征軍二万六千人を天皇の名の許に
筑紫国まで宰相馬子が進めたことです。

この遠征軍については、太子の弟君が二人、後に総大将に任命されていますから、
国家の方針として決定されたものでした。
結果としては筑紫港から渡海する前に取り止めとなりましたが、
新羅に対する威圧の効果は大でした。

しかし崇峻帝は、心の中ではおもしろくなかったようです。

あるとき、猪の肉を献上した近臣がおりました。

すると帝は召し上がりながら、語気も荒く、

『いつか、この猪と同じようにあの者の猪首をはねてくれようぞ』

と仰せになり、それが馬子宰相の耳に入りました。

もともと自分が推薦して御位に即かれた崇峻天皇ですから、
馬子は世に言うところの可愛さ余って憎さが百倍という気持ちだったのでしょうか。

遂に猛者をもって鳴る東漢直駒に暗殺の指示を与え、
天皇は御就寝中に殺害されました。
 
暗殺の翌日には、馬子が東漢を庭に引きずり出して樹にくくりつけ、
自ら矢を放って東漢を殺すという決着にしました。
そうしなければ自らがよって立つ皇道の大義を否定することになるからでした。
 
太子は、崇峻帝の危険を知りながら、
お救いすることができなかったと、余程悔やまれたのでしょう。

憲法に「情のない政りごとを行うと国に叛乱が起きる」と記されたのです。


※注釈※
東漢直駒

武勇に秀で、物部守屋との合戦のおり、蘇我馬子について活躍したといわれる。
東漢氏は百済系帰化人の豪族。

            <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

月の禮道 政家憲法 第三条 - 伝統

2016/12/16 (Fri) 18:55:23


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P78~79)より

天(てん)は尊(たか)しといえども旋(めぐ)りつつ地を包んで譲(ゆずり)なす。

若(もし)それ高きに亢(たか)ぶりて、
上(しきり)に昇(のぼ)る則(とき)は天(てん)の度(のり)に非(あら)ず。

地(ち)は元(もと)より卑(ひくく)して定(さだ)まり、
天(てん)を仰(あおい)いで節(せつ)となす。

然(しか)るに、定(さだ)めに反(そむ)きて下(した)、
反(こころひるが)す則(とき)は地(ち)の方(のり)を失(うしな)う。

人(ひと)は中(なか)に在(あ)りて、
天地(てんち)の倫(みち)に應(したが)を法(ほう)となす。

故(ゆえ)に、王者(みかど)は節(ふしめ)を丈(やわらげ)て
政(まつりごと)を底(ほどこ)す。
臣(つかさたち)庶(おおみたから)は敬(うやま)い格(ただ)し
命(おおせ)に降(したが)うべし。



《訳》

天は尊いけれども、謙譲であって地の底までも恵まれる。

もし高いところにあるからといって、たかぶって上へばかり昇れば、
それは度合いではない。

地は元々低いに決まっている、天を仰いで敬うのを志操とする。

もし、この志操をひるがえして反抗すれば方向を失う。

人倫は天地の中にあり、天地に応じて法となる。

従って王者は程よく政治をし、役人は敬をいたして、君命に従うべし。


《解説》

“天は高みにあって下をいつくしみ、地は天を仰いで敬うのが天地の法則である。
上にあることに驕り高ぶり、下を顧みることを忘れてはいかんぞ”

上の者は下の者を思いやり、
下の者は上の者への敬意を忘れてはいけないということですね。

            <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

臺の政道 政家憲法 第四条 - 伝統

2016/12/18 (Sun) 19:10:52


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P80~81)より


人情(ひとのこころ))は先(さき)に聞くに偏(かたむ)く、
故(ゆえ)に其の片(かたがた)を先(さき)とせざれ。

上(うえ)と下(した)の訴(あらそい)は、
其(そ)の罪(つみ)大底(おおむね)上(うえ)に有(あ)り、

下(した)をのみ囚(とらえ)る則(とき)は
上(うえ)は驕(おご)り罪(つみ)は
絶(たえ)ず亂(くにのみだ)れ茲(ここ)に發(おこ)る。


縁(てずる)を便(たのみ)の訴(あらそい)は、
非(そのひ)は必(かなら)ず政者(つかさたち)に有(あ)り、
頼(たのみ)に傾(かたむ)く則(とき)は
政(まつりごと)の正(ただしさ)を失(うしな)う。

貧(まずしきもの)と富(とめるもの)の訴(あらそい)は、
其(そ)の誠(まこと)の諸(おおく)は貧(まずしきもの)に有(あ)り、
規(ただ)さざる則(とき)は悲嘆(ひたん)は一(ひとり)に止(と)どまらず。

非政(よからぬまつりごと)發(おこ)らば、
天下(てんか)皆(みな)晦(くら)み何(なん)ぞ以(もっ)て
萬機(ばんき)を理(おさ)めん。




《訳》

人情の常として、前に聞いたことに偏るものである。
だから訴訟は同時に聴いて、一方を先にするな。

上と下との訴訟は、大体においてその罪は上にある。
しかるに、下の者だけをとりこにすれば、上の者は驕慢になって犯罪は絶えない。
乱れはここに発生するものだ。

縁故に頼ってする訴えは、よこしまなものである。
政治をする者が、縁故の依頼に偏っては、正しい政治を失ってしまう。

貧しい者と、富める者との訴訟は、貧しい者に誠がある。
よろしくこれを明らかにしないと、貧しい者の悲しみは止めようがない。
一度、この失敗をやると、天下は暗闇になる。

このようになっては、全ての政治を処理できるはずもない。


《解説》
 
江戸時代末期の大政治家・勝海舟は、「氷川清和」の中でこう言っていました。

『行政改革ってのはむずかしいもんだよ。下の者が真っ先に苦しい目に逢うのだから・・・。
上に立つ者は、身を殺してかかる覚悟を持っていなかったら出来るもんじゃねえ』

まさにその通りですね。

この第4条で太子は、人間社会の哲学を説いたのだと思います。
"
上と下の争いごとを見ると、罪はたいがい上の者にある。
それなのに、下の者を処罰しての責任逃れをするのは卑怯である。
それが通る社会だったら国の乱れは明らかだ。
上に立つ者は皆のために尽くして貰いたい”と。

現代でしたら、「借金を国民に負担させて責任逃れをするのは卑怯である」
と言いたいところです。

            <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

鏡の智道 政家憲法 第五条 - 伝統

2016/12/22 (Thu) 19:17:53


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P82~84)より

政(まつりごと)を為(な)すは寛大(ゆるやか)を善(よし)とせよ。
佳美(かざりもの)の法度(はっと)は尚(なお)これ無(な)きに如(し)かず、
況(いわ)んや苛荐(ゆきすぎ)の法度に於(お)いておや、

愚豪(おろか)なる主宰(つかさたち)泰平(たいへい)に為(な)さんと欲(のぞ)んで、
蒼思(おのがおも)いに任(まか)せて、
恣(ほしいまま)に数(かずかず)の條(おきて)を設(もう)く。

民(たみ)は其(そ)の法(はっと)に迫(せま)られて勞(くるしみつかれは)て、
事(さわぎ)は其(そ)の制廉(きびしきおきて)に自(よ)り出(い)ず、
遂(つい)には異積(つみかさな)りて風塵(むほんのさわぎ)を起こすにいたる。

唯(ただ)、箇(まかされしつかさ)の仁(いつくしみ)と恕(おもいやり)のみ
泰平(たいへい)に致(いた)さむ。



《訳》

政治は寛大なのがよい。
佳美な規則ですらない方がよい。
ましてや、厳しい規則はなおさらである。

愚かな官史は、泰平を望み、生半可な考えから、
ほしいままに多くの規則を設けるが、

人民はその規則に縛られて疲労してしまう。
それはきびしい法度(おきて)に原因する。
このようなことが異積すると、ついには騒動が勃発する。

唯一つ、仁恕(あわれみ、おもいやり)のまつりごとのみが、
泰平をもたらす。


《解説》

法律は穏やかなのが良いと示しておられます。
〝人民の手足を法律で縛るなよ、不満が爆発して大変なことになるぞ”
と警告しておられます。

今日の日本は、あれも規制もこれも規制で、
なんと五十万件以上と言われる条例で縛り、国民への監視に厳しい官の姿。

これでは日本人の意欲がどんどん無くなってゆくばかりですから、
現在行われ始めた規制緩和がなお一層すすむことを期待したいものです。
 

実は、太子の時代よりもっと昔、紀元前二○二年の中国では
『法は三章でよい』と布告して、人心を掴んだ「劉邦」という英雄がおります。

泰の始皇帝は万里の長城を築いたことで有名ですが、始皇帝の死後、
次の皇帝はわずか十五年で、反旗を翻した項羽と劉邦の連合軍のために倒されました。

このとき、劉邦が泰の都・咸陽に一番乗りして攻め落とし、
その後すぐ、その国の人民に新しい法を発布したのです。
 
劉邦は、主だった人たちを集めて、こう宣言しました。

「皆さんは苛酷な泰王朝の法によって、今まで、さぞ辛い苦しい思いをしたのであろう。
 本日から旧法はすべて廃して、法は次の三章とする。

 一、人を殺せば死罪

 二、人を傷つけた者は罰せられる

 三、他人の物を盗んだ者は罰せられる」

この劉邦こそ、漢という国を興した歴史的な英雄です。
 
人心を掴む劉邦の政治は、人々の自由な発想と生産力につながってゆきました。
漢の始祖・高祖と仰がれた劉邦の時代から、この王朝は前漢・後漢を合わせて
四百二十年間続いて、いよいよ三国志時代に入ってゆくわけです。

            <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>

竹の官道 政家憲法 第六条 - 伝統

2016/12/25 (Sun) 18:22:38


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P85~86)より

法度(はっと)を立(た)つるの道(みち)は、
先ず上(つかさたち)の罪(つみ)を断(た)つにあり。

上(つかさたち)、仁(ひとのこころ) を盗(ぬす)むときは、
下(おおみたから) 財(たのたから)を盗(ぬす)まん。

上(つかさたち)、公(おおやけ)を枉(まぐ)るときは、
下(おおみたから)、訴(うったえ)を枉(ま)げん。

上(つかさたち)、盗(よこしま)に居(お)りて、
下(おおみたから)の盗(あやまち)を刑(しおき)すれば、
日(ひび)、千頭(ちこうべ)を刑(はね)ると雖(いえど)も
賊(ぞく)の竭(つき)ること無(な)し。

上(つかさたち)、枉(わたくし)に居(お)りて、
下(おおみたから)の枉(ゆが)みを制(おさ)えれば、
月(つきづき)、萬口(ばんにん)を獄(つな)ぐと雖(いえど)も
罪(つみ)は絶(たえ)えること無(な)し。




《訳》

法度を立てる道は、まず上位の者の罪を処断することである。

上の者が仁恕なき下に臨めば、下の者は財貨を盗む。

上の者が公共のためにしなければ、下の者は訴訟をゆがめる。

上の者が盗人でありながら、下の盗人を罰すれば、
毎日千人を処罰しても、賊人の尽きることはない。

上の者がゆがんでいて、下の者がゆがみを正そうとすれば、
月々万人を投獄したとしても、犯罪が絶えることはない。



《解説》

この条文では処罰の仕方に触れておられます。

”法度を立てる道は、まず上の者の罪を処断することである。
上に立つものがゆがんでいるのに、下の者のゆがみを抑えようと
すれば、月に万の罪を投獄しても犯罪が絶えることはない”

役人の罪をちゃんと処罰しなければ、
世の中から罪はなくならないということですね。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

冠の位道 政家憲法 第七条 - 伝統

2016/12/28 (Wed) 17:44:46


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P86~87)より

正政(かたよらぬせいじ)の要(かなめ)は
良哲(かしこきひと)を尋(たず)ね索(いだ)して用(もち)い得(う)ることにあり。

仁徳(いつくしみのこころ)無(な)き者(もの)は、
諸(もろもろ)の好(このみ)に偏(とらわ)れん。

勇徳(いきおしのこころ)無き者は、諸(もろもろ)の威(おどし)に怖(おそ)れん。

義徳(けじめのこころ)無き者は、諸(もろもろ)の賂(まいない)に迷(まよ)わん。

智徳(ちえのひかり)無き者は、諸(もろもろ)の巧(たくらみ)に幻(く)らまされむ。

是(こ)れ四徳(よつのとく)、有(あ)るは賢(けん)なり。
賢(けんじん)は得(う)ること難(かた)し。

故(ゆえ)に一徳(いっとく)に合(あ)う者(もの)を賢(けん)に代(か)えよ。
主上(みかど)、賢(けんじん)を好(この)みて
一徳の者(ひと)を得(もちい)うるは賢(たのけん)もまた来(かならずやき)たらむ。



《訳》

正しい政治をする要は、良哲を訪ね求めて、これを採用することにある。

政治をする者に仁徳がなければ、己の好むものに贔屓し、
勇徳がなければ、威ある者をおそれ、義徳がなければ、賄賂に迷い、
智徳がなければ、巧者にくらまされる。

この四徳をすべて持つ者は賢者であるが、賢者を得ることは難しい。
そのときは、一徳ずつ持つ者を、供せ用いて賢者に代えるがよい。

主上が賢者を好んで、一徳ある者を用いれば、やがて四徳ある賢者も出て来るだろう。



《解説》

この条文は、人材の登用に関するものです。

〝正しい政治に肝要なのは、良哲を尋ね求めて、これを採用することだ”とされています。
そして、政治に携わる者に必要なのは、仁(おもいやり)、勇(勇気)義(正義感)、
智(知恵)だとおっしゃっています。

            <感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>

契の信道 政家憲法 第八条 - 伝統

2016/12/30 (Fri) 17:21:46


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P88~89)より

刑(いおき)を行(おこな)うは、
政(まつりごとのなか)で重(もっともおも)きことなり。
以(もっ)て、之(こ)を輙(たやす)くおこなう則(とき)は、
先皇(さきつみかど)の道(みち)を失(うしな)う。

天(てん)の瞠(みは)る所(ところ)は専(もっぱ)ら、
此(こ)れ政者(まつりごとをなすもの)にあらむか。

刑(しおきをおこなう)は、不孝(ふこう)を一(いち)と為(な)し、
不梯(ふてい)を二(に)と為(な)し、
不忠(ふちゅう)を三(さん)と為(な)し、不義(ふぎ)を四(し)と為(な)せ。

孝悌(こうてい)すたれ、忠義(ちゅうぎ)亡(ほろ)ぶ、
忠義亡んで亂賊(らんぞく)満(み)つ。

無道(むどう)の君者(つかさら)は、亂賊(らんぞく)を悪(にく)んで
乃(こ)れを刑(しおき)するも、
之(こ)れ不孝(ふこうのともがら)を赦(ゆる)し置(お)くは、
刃(やいば)を折(おるほどにしおきす)と雖(いえど)も治(おさむること)を得(え)ず。

あに本(もと)亂(みだ)れて其(そ)の末(まつ)治(おさ)まらむや。



《訳》

行刑は政治の重大事である。
たやすく行えば先皇(昔のよい皇帝)の道を失ってしまうからだ。

天が政治をする者を注意して見るところはここにある。

刑罰の重いか、軽いかを判断するには、
不孝を第一の罪とし、不悌を第二、不忠を第三、不義を第四とせよ。

考悌の道がすたれ、忠義が滅びれば、盗賊が乱舞して国中に萬延するだろう。

無道の役人は賊乱を憎んでこれを罰するが、不孝者を赦してそのままにしておく。
このようにしては、いつになっても賊はなくならぬ。

その本が乱れていては、未端は治まるものではない。



《解説》

“処罰することは、政治の中でも最も重大なことである”と、
ここでも太子は、処罰のことに触れています。

そして、

“処罰するときは、第一に不孝、第二に不悌、第三に不忠、第四に不義とせよ”

とされ、不孝者の罪が一番重いことを示しておられます。

            <感謝合掌 平成28年12月30日 頓首再拝>

龍の謙道 政家憲法 第九条 - 伝統

2017/01/04 (Wed) 19:09:50


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P89~90)より

國(くに)を安(やす)んずるの本(もと)は、
五圖(いつつのてだて)の多(おおきこと)にあり。

其(そ)れ、厥(けつ)の多(おおき)きことは
米粟(よねあわ)の多(おお)きにあるなり。

人(ひと)の世(よ)は、衣食(いしょく)木器財(もくきざい)の
圖(はかりごと)に立(よってた)つ、

然(しか)るに食(く)らうに粟(よねあわ)少(すく)なくば
何(なに)を以(もっ)て、田(た)を耕(たがや)し、蠶(かいこ)を養(やしな)い、
木(き)を伐(き)り、金(かね)を堀(ほ)り、器(うつわ)を造(つく)らしむるや。

悪(いずくん)ぞ、之(こ)れを豊(ゆた)かに作(つく)らしめ
戸(いえごと)に足(た)らしむることをえんや。

米(よねあわ)の直(あたい)銭多(たかすぎる)ときは、
五(いつつ)の直(あたい)も之(こ)れに随(つれ)て多(たか)からむ。

鮮(すくな)きを以(もっ)て多(たかきもの)を買(か)うときは
世(よ)の立(た)つ所(ところ)を失(うしな)い、
民(おおみたから)はここに困(くる)しみ、國(くに)もここに危(あや)うし。


《訳》

国を安泰にする根本は、五つの図(増産計画)の多いことに存する。

それは、米粟の多いことによってなる。

人の世は、衣と食と木と財と器との五つの計画によって立つのである。
 
しかるに、少ない粟を食って(腹が減って)田を耕し、蚕を養い、木を伐り、
金を堀り、財器を作っても、どうして豊富に生産できようか。

また、どうして各戸に不足しないようになろうか。
米価が高ければ、衣、食、木、財、器の価格もそれに従って高くなる。

少ない金銭で、入り用の高価なものを購おうとすると、世の中はうまく行かない。
ここにおいて人民は困窮し、国家は危険になる。



《解説》
 
ここでは、政治家たちに物の生産を高めて豊かな国にしようではないか、と言っておられます。

“国の安泰には衣食木器財の五つを豊かにすることだ。
そのためにはまずお米や粟をたくさん作るのがよい”
 
読んでもほのぼのとする条文です。
 
しかし、これに続くふたつの条文は厳しい内容です。

            <感謝合掌 平成29年1月4日 頓首再拝>

花の事道 政家憲法 第十条 - 伝統

2017/01/07 (Sat) 18:11:04


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P91~92)より

米粟(よねあわ)を多(おお)くする本(もと)は、
之(こ)れ五事(ごじ)の非(ひ)無(ん)きにあり。

これ、君(みかど)に畜臣(ちくしん)無(な)く、
民(たみ)に遊族(ゆうぞく)無(な)く、
國(くに)に荒圃(あれはた)無(な)く、政(せい)に苛性(かせい)無(な)く、
祭(まつり)に悋修(ものほし)無(な)きことをいうなり。

畜臣(はらぐろのおみ)を要(もらう)るときは
廻寶(おのがくらにわいろ)を促(せま)り。
遊族(すねかじり)を置(やしないお)くときは
殻功(あそびのためにただめし)を費(ついや)す。

荒圃(あれはた)を捨(みすて)るときは田畠(むしくさふえて たはた)を徴(すくなく)す。
苛制(からきおきて)を下(くだ)すときは逋(のうふは よそにのが)れて耕(たがやさ)ず。
悋修(そまつなまつりごと)を行(おこな)うときは
風雨(かみまもらずして ふうう)に変(おかされ)む。
焉(いずくん)んぞ米粟(よねあわ)多(おお)からんや。



《訳》

米や粟の生産を多くする根本は、五事に間違いがないことだ。

五事というのは、主君に蓄臣なく、人民に遊び暮らす者なく、
国に荒れ田なく、政治に厳しい法度なく、神を祭るにやぶさかのないことである。

腹黒い臣を用いると、国に通用する財宝を自分の倉にばかり集め、
遊び暮らす人民があると穀物を徒食し、荒地を放っておけば田畑少なく、
厳しい法度を出せば人民は逃げて耕さず、
やぶさかな祭りをすれば神は守護してくれないから、風雨の異変が起こる。

これでは、米粟の多くなるはずがない。



《解説》

“米粟を多くする基本は、誤りのない政治にある”
米粟は主食であり、当時の税金。
それを増やすには政治が大切であるということをおっしゃっています。

太子は悪い例として五つをあげておられます。

            <感謝合掌 平成29年1月7日 頓首再拝>

日の主道 政家憲法 第十一条 - 伝統

2017/01/11 (Wed) 18:33:46


           *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P92~94)より

叛乱(はんらん)の本(もと)は國(くに)の乏(とぼ)しさと、
民(おおみたから)の貧(まず)しさあり。

國を乏しくし、民(おおみたから)を貧しうするはこれ財(ざい)を官庫(かんこ)に
秘(かく)し米(こめ)を官蔵(かんぞう)に蝕(むしば)しむるにあり。

夫(そ)れ、蓄欲(ちくよく)の國(くに)に住(す)まんよりは
寧(むし)ろ驕誇(きょうこ)の國(くに)に住(す)まわむ。

蓄欲(ちくよく)の世(よ)には貸(ざいか)上(のぼ)って都宮(みやこ)に隠(かく)れ、
驕誇(きょうこ)の世には貨(ざいか)下(くだ)って郷扉(むらさと)に流(なが)る。

富(と)める民(たみ)は、己(おのれ)の躬(み)、
子孫(おのがしそん)の樂(ゆたか)さを惜(おし)む。

故(ゆえ)に、愼(つつし)みて制命(おきて)を畏(おそ)れるも、
貧(まず)しき民(たみ)は恨(おのれをうら)みて
我(わ)れ尚(なお)、惜(お)しむに足(た)らずとなす。
なんぞ制命(おきて)を畏(おそ)れむや。




《訳》

叛乱の原因は、国の財政が乏しく、人民の貧しいためである。

国庫が乏しく、民が貧しいのは、財宝を役所の倉庫に集め、
米穀を役所の倉に積み重ね、無私に食わせるからだ。

財宝、米殻を蓄えるだけで、与えない欲の深い国に済むよりも、
驕り誇る国であっても、むしろその方へ住むだろう。

蓄欲の世代には、財貨は都会に集まりがくれるが、
驕り多き世代には、財貨は地方へ流れるものだ。

富裕な人は安楽ができるから、己自身や子孫のためにおきてを恐れて従うけれども、
貧民は己自身を恨んで、その一身を惜しまないから、上の法度なぞ恐れることはない。



《解説》

 太子は、十条と十一条で再び警告しておられます。

“国が貧しくて人民が苦しいとなれば叛乱が起きる。
よくよく考えて、苛酷な税や人民に対しての夫役を命令してはいけない。

官の蔵に金がたくさんあっても喜ぶな。
政治家はここを間違えるな。

官の金は人民が納めたものだ、人民のためにどしどし使え。
そうすれば皆が喜ぶ”
 
この段りは、ケインズ経済学でいう公共事業推進の効果というものを思い浮かべますが、
太子の言われたことは公共事業だけでなく、政家たちは誇りに生きてくれと念を押しています。
 
これが問題ですね。
 
現在の公共事業費や補助金は、年々留まるところを知らず増え続けていますが、
既得権という名の構造的な官僚汚職の怪しい金の流れは、太子の憲法に照らし
合わせてみるとどんなものでしょうか。

『人の誇りに生きよ。特に上に立つ政治家は……』

そんな太子のお言葉が聞こえてきます。

            <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

車の司道 政家憲法 第十二条 - 伝統

2017/01/19 (Thu) 20:14:09

         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P94~100)より

主上(みかど)政(まつりごと)を為(な)すは、
仁(こころをおもいやり)に止(とど)めて我(おの)れを無(む)となせ。

學(まな)ぶに、天(てん)の度(のり)、地(ち)の行(のり)、
人(ひと)の法(のり)を以(もっ)てし
之(これ)に理(のっとり)て、吾(わ)が先皇(さきつみかど)の蹟(あと)を践(ふ)み、

臣(つかさたち)を先賢(さきのひじり)の蹟(あと)に導(みちび)き、
天(あまつみおやより たまわりたる)の天下(おおやしまぐに)を安(やす)んじ、
天(あまつみおやより あずかりたる)の兆民(おおみたから)を樂(こころやす)くす。

天(てん)は自(みずか)ら御(ぎょ)し無為(むい)に歸(もど)らん。

かく虚莫(あまつみそら)を御(ぎょ)すれば
王道(すめらぎのみち)隆(とわにさか)えん。



《訳》
 
主上が政治を執られるには、仁に注意されて、私心をなくさねばならない。

学ぶところは、天度、地行、人宝の理をもってし、先皇の事跡を踏襲し、

臣下を先賢の事跡に導き、天下を安泰にして人民を楽しましめ、

天自らを御(使う、統べ治める)して無為に帰せしめ、
虚莫を御して王道を隆んにすべきである。




《解説》

私は憲法の中でここが一番好きです。
天皇その人について書きながら、すべての人に当てはまるものだと思えるのです。

国の元首の心構えを憲法で厳然と規定したものは、
世界のどこを探しても無いでしょう。

太子は、この条文を盛り込むことで、日本を上下の差無く、万民が共に栄える
理想的な国にしようと考えられたのではないでしょうか。

国家体制の表徴である憲法を改悪しても、大統領の再選を強行するという例が
外国にはありますが、それは自ら国を馬鹿にしているとしか思われません。

この条文を定めた太子の覚悟、これは凄い迫力です。

もっとも、帝が叔母君にあたるお方であったから書けたという点もありましょうが、
人間は皆、同じようなものですと言われているように感じます。

「主上は、仁慈の御心を常に忘れずに、人民の倖せが天皇の幸福と
思って戴きたい。国を治め国を守る元首の務めであります」と、


推古女帝にこの条文をお見せしたときの
太子のお顔の表情は、どんなだったでしょうか。

女帝は二度、三度とお読みになって、やがて太子に、

「上宮皇太子よ、よくぞここまで書いてくだされた。
日本国の天皇は仁の心を持ちつづけなければなりませぬ。
国民の幸福こそ朕(わたし)の幸福ですね」

と、このようなお話があったのではないかと夢が広がります。

これが政家憲法の中にあることを、今一度考えてみましょう。

 
天皇陛下に関して、ここでエピソードを少々……。

私の友人である永六輔さんは、車に乗らず、とにかく歩き、取材をする。
人に逢う、語り合う、考えると健康にもいい。

放送人として、実社会を常に知るためにもいいこと全部を実行している人ですが、
平成9年7月半ばのこと、永さんが上野の不忍池の近くの交差点を渡ろうとしていた。
すると、お巡りさんが、

「一寸待ってください。渡らないでください! 」

「えっ、どうして? 信号は青でしょう」

という永さんの前にまず白バイが2台。
続いて黒塗りの大きな車が……、なぜか止まった。

窓がツーと開いて、なんとそこには今上陛下のお顔。
あっ、と思う永さんに陛下がお手を振ってほほえまれた。

「咄嗟にどうしたらいいのか分からなくなって、
頭を下げることも手を動かすこもとできなかったんですよ」

と、その出来事を語る永さん。

「あまりに突然のことでしたらからねえ、三波さん」

「私がこんなことを申し上げると変ですけど、永さんの前でお車が止まったのは、
『おや、あそこに立っているのは永六輔君だ。今日も取材で街を歩いているのだね。
努力の人だ』と思われて、車を止めなさい、とおっしゃったんじゃないですか」

「三波さん、そんなにドラマを作ってはいけませんよ。
でもね、ああ、挨拶しそびれたーと、昨日からずっと気にかかっちゃってるんですよ」

というわけです。この後、永さんとの会話は昭和天皇のお話に発展。

「これは聞いた話ですけど、昭和天皇が、敗戦後の復興の国民激励のために
各地に巡幸されたときのことです。
ある町を左翼の闘士二人が激論を闘わせながら歩いていたそうです。

そのとき、道を曲がられたお車が目の前に来た。
彼らが『お!』と思った瞬間、昭和天皇が車中から彼らに対して会釈をされた。
 
2人はびっくりして棒を呑んだように躰が固まってしまって頭の中は真っ白・・・・・・。
我に返ってお車を見送りつつ、

『おいおい・・・・・・天皇が俺たち2人だけに挨拶をするとはどういうことだろう。
天皇は国の復興にあんなに真剣に取り組んでいるということか』

『天皇制打倒なんて俺たちはアジっているけど、こりゃ考えもんだね』
と語り合ったそうですよ」

「そうですか。そういえば、三波さんは紫綬褒章を受けて、
赤坂の園遊会に招待されてましたね」

「はい、昭和天皇が最後のお元気な姿をみんなにお見せになられた
昭和62年5月20日でした。
あのとき、私ども夫婦に御下問を戴ましたが、一生忘れませんね。

遠くから大勢の人々に『あっそう。あっそう』と、明るいお声が段々近づいてきて、
私どもの前にお立ちになれた。陛下がニコニコと
『今まで随分、歌手として国民のためにいろいろやってくれましたね』
とおっしゃったときのお言葉の涼やかさ。

しかも凛として、五体に響くような力強さ、
そして大きな温かさに、私は背筋が震えました」

「うむ、なるほど・・・・・・」

この園遊会は、私ども夫婦にとって、大きな思い出です。

            <感謝合掌 平成29年1月19日 頓首再拝>

地の徳道 政家憲法 第十三条 - 伝統

2017/02/25 (Sat) 18:50:37


         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P100~101)より


宰職(つかさたち)政(まつりごと)を奉(うけたたまわ)るときは、
義(こころをぎ)に止(すえ)て己(おのれ)を無(から)になせ。

學ぶに禮樂(れいがく)を以てし、勤(つと)めるに奉行(ぶぎょう)を以てせよ。
 
天皇(みかど)の治御(みことのり)にあらざれば原(もとづ)く所(ところ)なく、
國家(くにいえ)の安全(やうsきこと)にあらざれば議(はか)る所(ところ)なし。
 
道心(みちをもとむるこころ)あらざれば腹(はら)に實(みた)すこと無(な)く、
忠心(みかどにまことのこころ)あらざれば體(われ)に實(みの)ること無(な)し。
 
慮(おも)う所(ところ)は宗廟(みたまや)の危(あや)うきにありて、
我(わ)が家(や)のことにあらず。
 
顧(かえりみ)る所(ところ)は黎民(おおみたから)の苦しみにありて、
我(わ)が身(み)のことにあらず。
 
公(おおやけ)を實(おもん)じ、私(わたくし)を虚(むなしう)して、
其(そ)の果(むくい)を案(おもわ)ざれ。



《訳》

宰職が政治を奉ずるに当たっては、
義に注意して私をなくし、
学ぶには礼楽をもってし、勤めるには君命を奉じて、

天皇の天下を治めること以外に心を用いず、
国家の安全に関することでなければ、取り計らうことなく、

道心でなければ腹に入れず、忠のことでなければ、体に実ることなく、

思慮するところは、宗廟の安全であって、わが家のことではない。

顧るところは人民の苦しみであって、己の身の上ではない。

公を重んじ、私を空にし、わが身の果報を思案すべきでない。



《解説》

”政治家は、我が家のことより国のこと、
我が身のことより国民のことを考えなければいけない。
私事よりも公事を重んじ、決して報酬などを期待してはいけない”ということですね。
 
太子はここで、政治家としての考え方の基本を説いておられます。

            <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

天の公道 政家憲法 第十四条 - 伝統

2017/03/28 (Tue) 19:08:46


         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P101~103)より

王者(みかど)、政(まつりごと)を為(な)すは
吾(おの)れの政(まつりごと)にあらず是れ天(あまつかみ)の政(まつりごと)なり。
 
宰職(つかさたち)、政(まつりごと)を奉(うけたまわる)るは
吾(おの)れの政(まつりごと)にあらず是れ帝(みかど)の政(まつりごと)なり。

吾(おの)れに非(あら)ざるを以て吾(わ)れに非(あら)ずと為(な)し、
敬(つつし)みを致(いた)し誠(まこと)を致(つく)すときは
己(おのれ)なく罪(とが)はなし。
 
吾(わ)れに非(あら)ざるを以て吾(わ)れに有(あ)りと為(な)し、
恣(ほしいまま)に作(ふるま)い卒(あつま)り作(な)すときは、
 
上(つかさたち)の一(ひとつ)の恣(あらびごと)降(くだ)って
下(おおみたから)の千(ちぢ)の痛(いた)みと成(な)り、
上(つかさたち)の一(ひとつ)の卒(たわけごと)降って
下(おおみたから)の萬(よろず)の困(くるし)みと成(な)る。
災(わざわいのすべて)は是(こ)れ自(おのずか)ら起(おこ)る。



《訳》

王者の政治を行う心は、わがためのまつりごとでなく、
天政でなければなければならない。

帝職のものの政治を行う心は、わがためのものでなく、
帝政でなければならない。

元来、わがものではないのだから、敬い、讀んで、
誠実につくすならば、私なく罪もない。

もし、わがものでないのに、私するならば、
事をほしいままにし、思い違いをする。

上の者の一つのわがままは、下の者には千の痛みとなる。
上の者に一つの思い違いがあれば、下の者には万の苦しみとなる。

国の災いはここから起こるのである。



《解説》
 
主上の永遠の大御心を憲法に書かれた太子は、政治家に対しても

「常に人民の幸福を願う心を忘れるな、
国の精神的基礎である天皇を補け、
国民の安泰を仕事とせよ」

とおっしゃっています。
 
特に十四条の三行目には
「己れの政治ではない、帝の政治であるぞ、私欲をはさむな」
と釘をさしておられますね。

            <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

水の時道 政家憲法 第十五条 - 伝統

2017/03/30 (Thu) 19:02:11


         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P103~104)より


造士(つかさたち)は政(まつりごと)を蒙(うけたまわ)らば
敬(つつしみ)を止(むね)として、以て高(たかぶる)こと無(な)かれ。

學(がく)を為(な)すに、之(こ)の理(り)に止(と)どまりて
忠征(ちゅうせい)を以てせよ。

忠(ちゅう)はこれ、仁(じん)にして己(おのれ)なく、
征(せい)はこれ、義(けじめ)にして貧(むさぼり)なし。

以て、叛逆(はんぎゃくのともがら)と好(よしみ)を同(むす)ばざれ。
己(おのれ)の恨(うら)みを以て、敵(てき)と戦(たたか)わざれ。

勅命(みことのり)の於(ままにし)て進(すす)み退(しりぞ)き、
忠義(おおしきまこと)に生死(いのちをまか)せよ。



《訳》

官吏たちがのまつりごとを承るためには、うやうやしくして、
自己の功労を高慢にしないことことが根本に置かれなければならない。

学ぶには忠征をもってする。

忠とは仁にして己なく、 征とは義にしてむさぼらないことである。

叛逆するものと同好することなく、私の恨をもって敵視して戦わない。

すべては勅命によって道退し、忠義のためには生死を問わない。



《解説》

“忠というものは人から言われてやるものではなく、
自分を捨てて他人に尽くす心の美しさを言うのである。

「ふん。主上の言 うことは無理だ。なあ、そうだろう」

などと言うような者とつるんではいけない。あくまでも大義を見失うな”

とあります。

            <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

龍の品道 政家憲法 第十六条 - 伝統

2017/04/01 (Sat) 18:27:00

         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P104~106)より

兆民(おおみたから)は政(まつりごと)を畏(かしこ)み、
誠(まこと)を止(むね)として欺’あざむ)くこと無きなり。

農者(たべものをつくるもの)は、耕(たがや)し培(つちか)い
やしなって稼(かせ)ぎ休(やすむこと)を知)し)らず。

工者(きぐとつくりだすもの)は、法(のちのまま)に存(とど)め
美(よき)ものを作(つ)り厭(あくこと)を知(し)らず。

商者(あきないをいとなむもの)は、
駄(うま)に荷(に)をのせて 渡(よをわた)り歩(ある)き
倦(うむこと)を知らず。

藝者(わざをきそいみせるもの)は、
問(と)い習(ならいくりか)えし練(ね)り案(かんが)えて
投(なげだすこと)を知(し)らず。

於(これによっ)て愼(つつし)みて御令(みことのり)に盡(つ)くし、
命用(おおせのまま)に於(おい)て勤(つとめ)め盡(つ)くさせるべし。



《訳》

人民はまつりことに心服し、誠を尽くして欺いてはならない。

農輩者は耕し培って、体むことなく
工業者は法のままにつくり、美しくしてあ<ことなく、
商業者は荷駄(うまお)い、舟で渡しまた歩み倦むことなく、
伎芸者は問い習い、案じ錬って投げ出すことなく、

謹んでおおせに従い、命ぜられた用務に勤め尽くすべきである。



《解説》
 
なんという細やかな御指小でしょうか。
技芸者は、“芸の道に謙虚な心で臨み、素直に先輩に習い、
わが芸を完成させなければいけない”。

太子は、歌舞音曲は人間社会に絶対に必要なものであると考え、
奈良県三輪桜井に「土舞台」という名の屋外劇場を作り、
上演のための大道具・小道具の工房も設けました。

そして、百済の帰化人で大名人と称された、味摩之・己中芳・加多意を教師にすえて、
全国から美男子を集め、歌や踊り、芝居、音楽を習わせたのです。

いわば日本での歌謡ショーやミュージカルの元祖ですね。
全国各地からどんな美男子が集まったのでしょうか。
客席もさぞ 盛況だったことでしょう。

この後、1603年頃の京都における出雲の阿国の歌舞伎踊りを経て
「野郎歌舞伎」と称された演劇の集団ができ上がり、 現在まで続いているわけですが、
まさに聖徳太子は勧進元の一番手だったのです。

歌手としてこの教えを読むとき、『よく習い』という条文は、
歌と音楽と演劇の基本を正確に習得しなければ新しい自己の芸は創れない、
と言われたものと信じます。

            <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

鼎の法道 政家憲法 第十七条 - 伝統

2017/04/04 (Tue) 18:45:20


         *「聖徳太子憲法は生きている」三波春夫・著(P106~109)より

政(まつりごと)は學(まなび)非(あ)らざれば立(た)たず、
學(まなび)の本(もと)は儒釋神(じゅしゃくしん)なり。
 
然(しか)るに、其(そ)のー(ひとつ)を好(この)む者(もの)は、
各(おのおの)其(そ)の二(た)を悪(きら)い、
 
而(しか)も其(そ)れ在(あ)ることを妬(ねた)み
其(そ)の亡(ほろ)ぶことを欲(ねが)う、
 
これ我(わ)が知(し)るを理(り)となし
知(し)らざるを非(ひ)となす所以(ゆえん)なり。
 
故(ゆえ)に、政者(つかさたち)は宜(よろ)しく
三(じゅしゃくしんのみつ)に通(つう)じて、
一(ひとつのみ)を好(この)むべからず。
 
其(そ)の、一(ひとつ)を好(この)むことを成(な)す者(もの)は、
恐(おそ)らく、政(まつごと)を枉(ま)げん。
 
政(まつりごと)を枉(ま)げる則(とき)は、
王道(すめらぎのみち)廢(すた)れ騒動(さわぎみだれ)發(おこ)らむ。



《訳》
 
政治は学間によらなければ立たない。
そして学間の本は儒、釈、神である。

しかしこの三学の一つを好ものは、他の二つをにくみ、
その世に存在することをねたんで亡びることを願う。

これは自分の知ることだけを理とし、知らないものを非とするからである。

だから、政治に携わるものは、よく三学に通じてーつに偏ってはならぬ。

そのーつだけを好むものは、恐らく、政治を枉(まげ)るであろう。

そうなると王適はすたれて騒動が起こる。


《解説》
 
“政治家は、学ばなければ新しい発想は出て来ぬものである、
その基本とは三法であるが、謙虚に学び、そして活かせ。
間違った学び方というのもある。

一つに片寄った学問はよくないことも心せよ。
もろこしの教え、釈迦の教え、日本の神の教えを深く読むことだ。
「生涯学習」は人の上に立つ者の務めである"。


ここで私は江戸時代の終わりに大活躍をされた二宮金次郎尊徳のお言葉を思い出します。
校庭の銅像でおなじみの金次郎少年が、成人してどんな働きをされたのか。

ほとんどの日本人がこの偉人の業績を知らないのは、
教えることを忘れた教育界の責任ですが、

あの銅像は薪を背負って売りにゆく姿と、
肩の荷を下ろしてこんどは本を読みながら帰る姿を一個の芸術品としたわけですが、
この方は物凄い勉強家でした。

『国庫に入るを計りて出ずるを制す』と有名な格言が残っていますが、
歳入・歳出、そして金融に関しては大経済学者、行政・財政の再建王でした。

幕末の頃、どうにもならないほど困っていた村々が、
「報徳仕法」という再建のノウハウを学んで、次々に立派な村おこしをやったのです。
その数、なんと全国で六百ケ村にも及びました。

農家に生まれた尊徳は、身長六尺、一八ニセンチ。体重九〇キロにも及ぶ、
昔としては侍大将のような体躯の持ち主で、七十歳まで長命されました。

尊徳の本の中に“神と仏と儒教に学ぶ”とありますが、
さながら聖徳太子の憲法を熟読されたのではないかと、私は思うのです。

次は同じ年の十月に公布された儒士、神職、釈氏憲法に移りますが、
儒学を教える側にある人々に対する憲法を三番目に書かれたのは、
人間の教育問題がいかに大切であるかを強調している気がします。

            <感謝合掌 平成29年4月4日 頓首再拝>

Re: 聖徳太子憲法 - vomxxfplnMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:34

伝統板・第二
[url=http://www.gio2748amhu7062b4uh431q9lq7w2be4s.org/]uvomxxfpln[/url]
vomxxfpln http://www.gio2748amhu7062b4uh431q9lq7w2be4s.org/
<a href="http://www.gio2748amhu7062b4uh431q9lq7w2be4s.org/">avomxxfpln</a>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.