伝統板・第二

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「常楽への道~吉田国太郎」 - 伝統

2015/10/02 (Fri) 04:52:21

このスレッドでは、徹底した実相直視をされた吉田国太郎講師の悟りの書
「常楽への道」を紹介してまいります。


《谷口雅春先生のお言葉より・・》

             *「維摩経解釈」(P74)より

吉田国太郎君の「常楽への道」は
「永遠の生命を語る宗教的天才の書として推薦すべきものだと思う」
人類救済の使命感だけで生きているような人だ。

吉田国太郎君は本当に「実相」を悟っていたのである。

あの生長の家入信前、一方の腎臓を摘出して、現象的には一方しか残っていない 
その腎臓がすでに結核におかされて、たびたび血尿で尿道が凝結閉鎖するような
苦しみの中で、しかも両肺ともにおかされて時々喀血やら血痰などに見舞われながら、

十数年を、

「病気なし」の心境で、現象悪を克服して数時間の講演をやったり、
常人と変らぬ生活を死の一日前まで続けてきた吉田君の生活態度のごときはまことに
「実相を直視した」人でないと、得られない生活態度であったとおもう。

何人も「あの吉田君が今まで生きてきたのは奇蹟だ。
もうとうに亡くなっているはずの人であったのに!」

とみんなが驚いているのである。

実相を自覚すれば現象が成就し、
悟りが成就すればこの世のことが成就するのである。

          <感謝合掌 平成27年10月2日 頓首再拝>

尊師と吉田国太郎講師 - 伝統

2015/10/03 (Sat) 04:46:57


真の生長の家、復活掲示板「尊師の高弟に学び、後に続こう!!」より抜粋

 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=snihonryuu&mode=res&log=1017

   吉田國太郎氏は谷口雅春先生が「弟子ながら先生と呼ぶ宗教的天才」と称された
   求道・篤信(とくしん)の直弟子で、最初の出会い、本部で開かれた
   「体験談=自身の悟り」を早速、翌日の東京・音羽の護国寺の『甘露の法雨』講義
   (第一回補い十年六月)で「からっぽの話」として紹介しておられる(頭注21巻30~32頁)。


   如何に雅春先生が感動されたか、想像に余る。(右の30頁の一行目にある「昨日」及び
   護国寺講演の日につき、浦和の太田栄氏に調べてもらったが、当時の「生長の家」誌に
   記載なき由。吉田氏の本部奉職はその直後の筈だが不明。明治45年生で時に25歳)

   難解、歯が立たないと言われながら不思議に版を重ね、新版・続巻まで出て
   ロングセラーの『常楽への道』の書き出しは昭和14年3月(29歳)で、
   谷口雅春先生が講習会で何回も長々と紹介朗読された。

   また『維摩経解釈』の講義に吉田氏の話を引用された。
   求道・執筆のみでなく、講話・指導でも
   「吉田君は20万人を救った」と雅春先生に称された。




真の生長の家、復活掲示板「尊師の高弟に学び、後に続こう!!」より抜粋

 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=snihonryuu&mode=res&log=1065

(1)“後嗣ぎに”と師は直感!?

   後嗣ぎとは、教団<法人>で言われる法燈とは別の意であり
   「捻華微傷」(ねんげみしょう)にみられる以心伝心(いしんでんしん)による、
   教えの神髄、霊妙な魂のひびきの伝達である。

(2)“空っぽの体験”を翌日講話

   吉田國太郎氏が体験を発表され(おそらく赤坂の道場でと思われる)、
   初めて接する若い信徒の「空っぽの話」に、尊師は新鮮な感銘を受けられた(と推測する)。

   翌日、東京音羽(おとわ)護国寺における『甘露の法雨』講義に、その話を引用された。
     (『生命の實相』頭注版21巻29頁~)


(3)生前中に出版を!?

   『常楽への道』の書き初めは、「そのままなる常楽」昭和14年3月(29歳)である。
   (氏は昭和10年に生長の家に奉職)終章「今此処天国光明三昧」は
   23年12月(38歳)である。

   当時として極めて稀(まれ)な上製本として日本教文社から敢行されたのが
   24年7月10日であった。尊師の聖典発行もまだ少ない頃である。


(4)同信(どうしん)の回顧(かいこ)=髄一(ずいいち)の弟子

   「ほんとうに純な詩情、吉田迦葉尊者(よしだかしょうそんじゃ)。
   反俗の精神、生活態度を一貫した。本当に谷口雅春先生のお弟子らしいお弟子。
   随一じゃないですか。

   深く入っていてとても到底及びがたい深さ。
   第二、第三の吉田國太郎氏が出て来てくれることが本当に大切なこと。
   素直に吉田さんが吉田さんを出している文章がいい」

(5)『常楽への道』の一節(163頁)を尊師は昭和49年、日本武道館で朗読された。

   「絶対感謝の中で血を吐(は)くならば血を吐くことも結構である。
   血を吐きつつも絶対感謝にかえれば、眼(まなこ)の鱗(うろこ)は落ちて
   其処(そこ)に其(そ)のまま仏を発見する」。

   ここで尊師は朗読を止められ「本当に悟るとこれが言えるんです」と念を押され、
   この節「新地に生きる」の最後まで読まれた。

   『『維摩経解釈』(ゆいまきょうかいしゃく)の中(73・74頁)
   「吉田君は本当に“實相”を悟っていた」と。横浜の講習会でも
   「往相精進(おうそうしょうじん)の境を超えて」を荘重なひびきを以て朗読された。


(6)“弟子の祈り”に心配りの師

   昭和20年5月の東京空襲で焼け出された吉田氏夫妻は、お山下の宮崎邸の一室から、
   尊師に誘われ、お山の離れに仮住まいすることになった。8月から約2年間である。

   炊事は別ながら、お風呂は尊師のあと頂いていた。
   (その後、赤坂の元家庭光明寮・花嫁学校で社会事業団・神の国寮の二階に移らる)

   当時(終戦後)今の本部新館のあたり、仮事務所の焼跡整理と畑仕事に、
   尊師ご夫妻をはじめ吉田夫妻、在京の講師四人で朝五時から七時まで働いていた。

   お山の庭も戦争中から全て開墾(かいこん)され、野菜など作られ、
   離れのぬれ縁にそっと置かれ、頂いたという。

   本部が休みの木曜日も、尊師は朝食後、庭の畑で精を出された。
   吉田氏は、家の中で神想観。庭からよく見えていた。

   そのとき、輝子先生が洗い張りなどで大きな声を出しておられると、
   「今、吉田君が神想観をしているから、静かにしなさい」と注意された。

   師は庭で畑仕事、弟子は室内で独り神想観。
   存分に集注できるようにと、師は夫人に心くばり。


   赤坂に移られたあと、体調不良のとき、毎日のようにお山に伺い、
   谷口雅春先生から思念して頂いていた。氏は先生の枕を借りて横になり、
   師の招神歌を聞きながら、その間にいびきをかいていた、という。

   これ以上なく先生に可愛がられ、氏もまた存分に、子供のように甘えていた。
   何の“へだて”もない間柄=水魚の交りと言えよう。


(7)實相直視(じきし)に100%徹した

   尊師が湯殿(ゆどの)で滑(すべ)って倒れられ、背骨と肘(ひじ)を打ちつけられた話を
   めぐる吉田講師の話は『維摩経解釈』にあり(73~74頁)、カセットテープにあるので
   有名だが、全身病におかされながら、

   十数年、病なしと奇蹟的な活動をつづけた氏について「實相を自覚すれば現象が成就し、
   真諦(さとり)が成就すれば世諦(このよのこと)が成就する」と尊師は書かれた。


          <感謝合掌 平成27年10月3日 頓首再拝>

「《からっぽ》の話」 - 伝統

2015/10/04 (Sun) 03:33:11

          *生命の實相第21巻経典篇(P29~33)より

実相一元、光明一元、迷いも闇も本来存在しないという極めて明るい人生観が
生長の家の特徴なのであります。

この迷いというものが無いということについて、昨日吉田国太郎さんといわれる方が
生長の家本部へ来られて、御自身の悟りについて大変良い話をされたのであります。

この方は腎臓結核と睾丸結核を患っておられて、そうして一方の腎臓を切り除って
しまって片方の腎臓も悪いとかいう話を聞きましたが、そういう状態では
もうわるいのを切り捨てるわけにもゆかないわけであります。


この吉田さんが「生長の家」の信徒になって「神想観」をしておられると、
その病気を治すような自働運動が起こって来ましたが、
少しよくなっても、なかなか完全によくならない。

それでその方が「これは自分の心の迷いがあって、それに引っかかっているからだろう」
と気がつかれて、その迷いを破摧するために、『久遠の實在』を繰り返し繰り返し
読んでおられた。

すると、忽然として「迷いというものは何もないんだ。それは《からっぽ》である」
とわかった。たちまち病気がズンズンよくなり、よくなるにしたがって、病気を
治すための自働運動もなくなったそうでありますが、昨日その報告をなさる時に、

「迷いというものは何もないのだ、《からっぽ》であるとわかった」と、
「《からっぽ》」という言葉をお使いになりまして、非常にその「《からっぽ》」
という言葉がわれわれの心の「迷いの無」をいかにハッキリと、言い表してくれた
のであります。

この方は今まで「迷い」というものがあると思って、この迷いをいかにして征服しようか。
――「ここに経済難というものがある。ここに病気というものがある」――

こう思っている限りにおいては、なかなか自分に対立している迷いなり、病気なり、
経済難なりが実在性をもって自分の前に立っているから、それを取り組み合うことに
なっていた。

それでどうしても、自分は神である、仏である。
経済難はない、迷いもない、病気もないとこう思っても、自分の自覚が相対を離れることが
できないで、「迷いは無い」と一応は思ってもあるような気がしてどうしても、そいつを
打ち破ることができなかった。


ところが聖典を繰り返し繰り返し読んでおられるうちに「迷いというものは《ない》もの
である、病気も経済難もないものである。この世界は神一元の世界である。
仏一元の世界である」ということがわかったとこう言われました。

神一元、仏一元の世界である。
だから、迷いも、病気も経済難もそれは「からっぽ」である。
「からっぽ」で《何もない》ものの別名が病気であり、経済難であり、迷いである。

《ない》ものであるから、《ない》ものの中にはなんでも自由に入れられる。
こんなやさしいことはない。迷いという実在のものがすでに這入って中へ悟りという水を
入れるのだったら、いくら入れても流れ出てしまうわけであるけれども、

「迷い」というものは《からっぽ》である、
「からっぽ」ということを言い換えたのが「迷い」である、
「からっぽ」ということを言い換えたのが病気である、
「からっぽ」ということを言い換えたのは「経済難」であるということがわかった。

そうしたら悟りを入れるのはなんでもなくなったのです。
今まで、病気が《ある》、《ある》と思っていたのが

「ああこれは《からっぽ》の別名であった」

と気がついたときに吉田さんの病気は治ったのであります。

経済難の方はどうなったかと言いますと、吉田さんはまだ就職をしておられないので
ありましたが、その人を非常に同情して生活の世話をしてくださっている方が、

吉田さんが悟りを開いて、「経済難はからっぽである」と気がついたら、世話をして
おられた方が、急に二十五円も月給が上がって、今まで主任であったが次長に上がった、
とこういう具合にその方の経済難が補われたというような話をされました。


つまりこの「迷い」というものを「ある、ある」と思うのがいけないのです。

「ある」と思うから「迷いはどこから来たか」という理屈がいつでもついて廻って
出てくるのであります。「迷い」は本来無いからどこからも来ないのであって、
「何もない」のである。

「ある」と思うから「どこから来た? 」という質問も出て来るが、「無い」と
知ったら「どこから来た? 」という問(とい)も出なくなる。

どこから来たという問(とい)が出ている間はその人は「迷いは《ある》」と信じている
のであるから、説明してもなかなか分からないのです。

迷いは闇のようなものである。
闇というものはどこからも来ないのであって、
そこにはまだ光が来ていないだけのことである。

それと同じく、病気というものも、病気があるんじゃないのです。
そこにはまだ生命(せいめい)が来ていないということですから、
生命(せいめい)を与えればいいのです。

生命(せいめい)は真理であるから、真理を与えればいいのです。

「汝は神の子である、仏の子である」と、この真理の言葉を徹底的に与えたら、
そうしたらもうそこに病気は消えてしまうということになるのであります。

だから、さっき中嶋先生が言われた、八王子の講演会で、周囲の人から嫌われておる
18年間も蓄膿症で人から鼻つまいになっていた臭い男が、その講演を聴いて

自分は神の子であると気がついたら、鼻つまみになっていた蓄膿症の臭いのがたちまち
治ってしまって、またその人が人に「お前は神の子じゃ」と話してあげると、
またその相手の人の病気が治るほとになった。


このように18年間の蓄膿症でも《ある》ように見えているけれどもそれは《からっぽ》
であるから、神の子であるという真理をつき込んだら一ぺんに消えてしまったのであります。

これが大切でありまして、迷いがある、病気がある、とこういうふうな考えがわれわれの
不幸を来たす因(もと)になるのであります。

          <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

「常楽への道」序文 - 伝統

2015/10/05 (Mon) 03:25:56


           *「常楽への道」吉田國太郎・著(P1~3)より




物質の束縛の無い世界、
其の儘自然に天地今開く世界、
宮をこぼつも三日にして立つ世界。

全ての人類が夢に描いた此の自由無礙の天地。
此の天地を今此処に発見し、現実の今に生きるのこそ、
本当の宗教生活である。

此の書は私が暗黒の世界から更正して光明に面してより
今日(こんにち)に到るまでの行歩の足跡を折々ペンにとどめた記録である。

唯物的な三界三世の観念に仮縛され、
身動きの出来ない宿命観の中に窒息していた過去の私が、
三界、三世を超えた物質のない広い世界の光明に取り上げられ、

無執無縛、そのまま常楽の安住の地を与えられ、
其の世界に生命の糧を恵まれて、生きる喜びをうたいつつ、
幼兒の歩みをすすめて来た消息の記録である。

此の書が皆様の生命(いのち)の同行となり、
皆様の生命(いのち)の光を開顕する機縁の光となれば、
幸(さいわい)これにすぎるものはなく、

此の祈りの中に私は此の書の誕生をむかえ、
そして、皆様への捧げものとしたのである。


此の書よ、汝身小(なんじみしょう)なりと云えども、
地に落ちて同行の群生(ぐんじょう)に光をひらく一粒の麦であれ。


私にとって、はじめて神のいのちが生きものとなり、
天地(てんち)に光をむかえ、わが生(せい)にいのちあらしめられた恩師に、
只管礼拝の合掌とともにこの書を拝呈して感謝の心を捧ぐ

                      昭和24年早春の一日

                              著 者 識


          <感謝合掌 平成27年10月5日 頓首再拝>

吉田國太郎先生の絶叫 - 伝統

2015/10/14 (Wed) 03:56:04


          *postingjoy(2011/11/01)より抜粋

吉田國太郎先生って言うのは服部仁郎先生と並ぶ生長の家草創期の谷口雅春先生の高弟です。
生長の家の迦葉尊者と言われ、あの雅春先生が師と仰ぎたくなる程の人だと言わしめた人です。

その吉田先生が生前、青年大会で絶叫しているテープを僕は持っています。曰く


「あなた方、そこに何が座っておりますか?
そこに肉が座っていると思っている人いませんか?
そういう人は早晩生長の家止める時、必ず来ますよ! 」

「神が神する神想観、神が神する愛行、神が神する聖典拝読」


っていうかなり強い口調で訴えておられます。

今、ここに肉体の自分が座っているのではない。
神なる自分が座っていると分からなければ生長の家を止める時が来るという厳しいお言葉です。

   (http://postingjoy.com/users/02100208153527/diary/show/76512

・・・

ここで言っている、吉田國太郎先生の青年大会での講演録は、
次のWebにて、”マリーゴールド さま”が掲載されている記事にあたるようです。

光明掲示板・第一「<青年基礎真理講座> 「常楽への道」 吉田國太郎先生著より 
【追録 青年よ偉大であれ】 ①~⑰  (1199)」

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=277

          <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

真の超物質治療 - 伝統

2015/10/25 (Sun) 04:33:23


          *『神癒への道』(P230~234)より

ある日、生長の家の吉田国太郎氏が、この人はかって腎臓結核を患(わず)らい、
一方の腎臓を摘出し、その後残っている腎臓も悪くなり、病状思わしくなくなり、
その時生長の家に入信し、その後十数年間伝道に従事している人でありますが、

時に自分の心境に従って、ただ一個残っている腎臓が病気を再発して、
血尿を出したりするのであります。

が、それでも一向平気に働いて、心境の変化と共にその病気を乗り越えて行く人であります。

終戦当時吉田氏は私の宅の一室に疎開(そかい)してきていたのでありますが、
終戦後になって我々の家では戦争中に土を掘って埋めておいた木炭を数俵掘り出すことになった。

 
私は吉田氏を助手として、二人力を合わせ、一間(いっけん)ばかりの深さの土を
ショベルで掘り上げて、その木炭の俵を発掘したのであります。

吉田氏は営々として、土を掘ったり、俵がくずれてばらばらになっている木炭を
木の箱に移し入れて運んだりして随分力仕事をしてくれたのでありますが、後で聞いてみると、
吉田氏は、その作業の前から、腎臓結核が再発したと見えて血尿を出していたのであります。

私はそれを後で聞いて、そういう重大な病状の中に、肉体の重労働をさせたことを
気の毒に思いましたが、それっきりその病状は消えてしまったのであります。 

 
その後約2年半の後、吉田氏は又激しい血尿を見たのであります。
いままでも血尿を排泄したのでありますが、今度の様にはげしい血尿は、
入信前に一方の腎臓を切除したその直前の病状と全然同じなのであります。

血液が濃厚なために、血液が尿道口で凝結して尿閉してしまう。
あの入信前の手術直前の時には、血液を溶かす注射などをして辛うじて排尿したのでありますが、

今度は、それと同じ症状でありながら、もうその翌日は小田原で
光明講座の講演をしなければならないことにプログラムがなっていたのであります。

もし自分が行かなければ、聴講料を払って、その日の仕事を休んで出席しようとしている人に
迷惑をかけることになる。しかし自分が講演に病をおして出席すると、主治医を携帯する
訳でないから、その濃厚なる出血が尿道を閉鎖してしまう恐れがある。

病気の苦痛はどんなに頑張って忍ぶことができるにしても、
尿の閉鎖ばかりはとても忍ぶことができない。
やはり医者を呼んで何とか処置して貰うより仕方がない。

神によって癒される真理の光明講座を講演する先生が、その聴衆の真直中(まっただなか)で、
どうにもならない病気にかかって、医者よ注射よと騒ぎ廻って、生長の家の“恥さらし”を
するようなことがあっては、ただの物笑いになる事だけでなく神の名をけがすことになる。

如何にしたらばよかろうか。
吉田氏はもう絶対絶命の境地に立ったのであります。

氏はその晩眠る時に神想観をし

「神の生命(いのち)吾に流れ入って、全身はすでに癒されたのである」という想念をつづけ、

最後に「神よ、み心のままにならしめ給へ」と萬事を神に全託して眠りに落ちたのであります。

すると眠っている間に、キリストの姿が現れた、
そのキリストは吉田氏の腎臓部に両掌をあてて、
静かに気持ちよく按擦(あんさつ)してくれるのであります。

夢の中では吉田氏は寝床の上にすわっていました。
背後(うしろ)から気持ちよくもみさすってもらっている中(うち)に目がさめたのであります。

普通夢というものは、目が覚めると、その瞬間は鮮やかに見えていた印象が、
速やかに消え去ってしまうものでありますが、その印象は目が覚めた後までも
尚はっきりと残っていた。

手のひらの温かい感触、腰を揉(も)みほぐされる時の何ともいえない好い快感、
それが目がさめた後、いつまでも何時までも具体的に腎臓部に残っているのであります。 

吉田氏は「癒された」とその時自覚しました。

感謝の神想観をして、小田原の光明講座へと出発したのであります。

血尿が赤くもの凄い色を呈しているものですから
吉田氏は小便所では排尿しないことにしていました。

大便所で人知れず排尿していたのでありますが、途中一回乗り換えの駅で排尿した時には、
癒されるまでに溜まっていた血液だと見えて依然として血尿が沢山排泄されましたが、
その次に排尿した時には、少しの血液もまじらない透明の尿が排泄されたのであります。

 
この実例によってみましても、宇宙は唯一つの神の生命(いのち)とつながっている。
それを受けいれるような心境になったとき、無限の力が流れ入って来て、
そしてどんな病気でも癒されない病気はないということがわかるのであります。

吾々は真理を知ってもただ知るだけでは何にもならないのであります。
法則を使わなければならない。法則を生活に実践しなければならないのであります。
 

(Web:生長の家「今昔物語」<2011年03月06日>より転写いたしました。
     → http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/633/ )

          <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首再拝>

そのまま常楽 - 伝統

2015/11/06 (Fri) 04:44:49

           *「常樂への道」(P3~5)より

或る日の記。 ―― 

今朝、熱海は雨。
まばらな松の並木越しに、海と山とのみえている旅館の二階。
部屋には暖かく陽がチンチンと沸つている。
おだやかなよい感じである。

未だ誰も来訪者もない早朝の一時、『生長の家』誌の二月号を一日から読みなほす。

自分は幸せだ。
こんな気分が、ふーっとこころの中へ湧いて来る。
穏やかな静けさである。

然し、その静けさの中に何もかもすべてが入っている様なこの静けさ。
ふーっと一点になつて湧き出し自分の中一杯にひろがったこの穏やかな静けさ。
何処から湧いてきたのだらう。

かう考へた時、何か合掌したい気分であつた。

既に自分は幸せである。

無限の神が、その渾(すべて)の力をそそいで、愛していてくれるのだもの、
生かしていてくれているのだもの、助けていてくれているのだもの。
救つていてくれるのだもの。

いつもいつも、そして、今も、たった今も、
繰り返しとなへながら、沁々(しみじみ)幸せだと思う。

あんな濁りきつていた自分が、そして、悲しむばかりで慰(なぐさ)まることの
なかった自分が、よくぞ此処迄やって来(こ)られた。
助けの力が有難かった。

自分に自分でお礼の云いたくなった朝である。

『神、その創りたる様をみたるに甚だよかりき。』

かう言葉しながら外をみる。
山の眺め、海の眺め、それらをこめて雨足の響き。
美しい、何か、目に見えないものに触れた感じである。

神がおられるのだなあと思う。
美しいと感じられた自分がうれしい。
自分も亦美しいのだ。

繰りかへしていると、ずーつと深い処から動き出してくるものがある。
粛然と襟を正し、居住いをあらためたくなる様なものである。


昨夜、十七八になる娘さんが集りにみえていた。
後で聞けば、冷たい境遇から冷たい境遇へ泣いて渡った人とのこと。

最近、誌友のお宅へ雇われて、此の世の温かさに、僅かに目覚めかけたところである。
無心に坐っている風貌が、暗い世界で光を呼んでいる様な感じである。
希望は無駄ではない。そんな心が動いている感じである。

両手は霜焼けでくずれ、白い包帯をまいていた。


昨夜は何も霜焼けのことは語らなかった。
今朝(けさ)起きると霜焼けは綺麗に消えて、手は元のままにすべすべしていたとのこと。
駅頭でこの話をきってうれしかった。

素直な、一つひとつうなづきつつ聴いたであろう。
その子の心根が尊かった。

かつてはそんな時、何か自分が少し高くなれ、力が加わり、情(じょう)が深まってきた
気持ちが、心の片隅で動かないでもなかった。
これは自分を高しとする『我(が)』の心であった。

今、そうした心の微塵も動かず、その有難さを神に帰し、只(ただ)の心になって、
その一つの現れを神の恵みと拝める気持ち。きく前ときいてからと自分に対する思いが
動かず、只々(ただただ)神の恵みを拝めた気持ち。

これが何か深い悦びであった。

当たり前の至極平凡なことである。
然し、何の力(りき)みもなしに、当たり前が当たり前に行ぜられた時の喜び、
其処に神の子の喜びがおかれてある。

小さくあり、平凡であり、当たり前ではあっても、其処に此の世のものならぬ喜び、
天地を流るる喜び、神の高さに高く、神の広さに広い喜びが宿されている。


何かしら、神と二人で一緒に喜べた様な安らかな感じであった。

          <感謝合掌 平成27年11月6日 頓首再拝>

そのまま常楽~その2 - 伝統

2015/11/20 (Fri) 04:42:55

           *「常樂への道」(P5~7)より

或る日の記 ―― 

昨夜の激しい雨をよそに、今朝(けさ)は又素晴らしい晴天、目に沁み入る様な青さである。

昨夜、十国峠あたりには雪が来たらしく、今朝は山肌が白い。
湯河原相愛会の神崎一郎さんのお住居(すまい)は、十国峠の望める広い蜜柑畑の中腹にある。
雑木の繁っている庭先に、湯河原八景の一つに数えられている樹齢八百年を数える老松が
そびえている。名の由来は知らないが見附の松と呼ばれている。

樹下に立って空を仰ぐと、八百年の年月を越しているとは思えない枝々の逞しさ。
虚空と呼ぶには余りにも清浄な深さを感ぜられる空の清さ。《りん》とした大気の冷たさ。
朝のしじまの中に静かに照りはえる朝日の光。時折きこえる小鳥の囀り。


一つ一つ値打のしらべられない感じである。
どれもこれも取り去りたくない感じである。
松も、虚空も、大気も、陽(ひ)の光も、小鳥の声も、みんな一つである様な感じである。

何かが強く感ぜられる。
清く、高く、明るく、未だ動き出さない力強さ、いつ迄もふれていたい感じである。
やはり、神の生命(せいめい)と云う以外適当な言葉の無い様な何かである。

自(おのずか)らに瞑目する。


静かに風が渡ると梢(こずえ)に荘厳な響(ひびき)が湧き起る。
天地が鳴っている。そんな感じである。

今まで幾度(いくたび)か実に幾度か、この響を耳にしながら、
何の思いも動かない自分であった。
うけたものに狂いがあるかも知れない。濁りがあるかも知れない。

然(しか)し、何か言葉の外のものがふれた感じである。


今、生命(せいめい)が目覚めつつある。
自分の中に天地が目覚めつつある。
そう思いつつ再び空(そら)を仰ぐ。

此の巨木の雄渾な逞しさ。
全てを放しきった様な虚空の清浄さ。

これが、この自分に通じているのだと考えた時、
自分の中(なか)に大きな力がうごめく様な感じがした。

天地の力が自分の中で、一際強く鳴り響いた感じだった。
それは、音の無い烈しい音であった。

          <感謝合掌 平成27年11月20日 頓首再拝>

そのまま常楽~その3 - 伝統

2015/11/30 (Mon) 04:04:47


           *「常樂への道」(P7~8)より

或る日の記 ―― 

洗面をすます。
手が冷たい、かじかみがくる。
部屋にもどると。火鉢が用意されて火がおこされている。

あゝ火鉢が待っていてくれた。
何でもない、唯(ただ)これだけのことが身に沁みてうれしい朝である。

寒ければ自然と炭火が用意されている有難さ。
これが此の世の自然の姿である。
神の御国(みくに)の象徴である。

いるものがいる時に与えられる。
平凡であるが有難い。当り前であるがうれしい。
これが神の助けの営みである。

素直に、当り前と、有難いと、この二つをイコールで結ぶこと。
此の世は神の恵みがあふれている。

寒ければ自然と炭火が用意されている。
唯これだけの小さな事実に、
此の世を流れるあたゝかいものを知り得た朝である。

          <感謝合掌 平成27年11月30日 頓首再拝>

そのまま常楽~その4 - 伝統

2015/12/07 (Mon) 04:24:51


           *「常樂への道」(P8~9)より

十字架は現象を抹消する×(クロス)の印(しるし)であると共に、
『今』『此処』にある御光(みひかり)の象徴でもある。
握れば一点となり、開けば天地四方に到る御光の象徴でもある。

新生と抹消との二つの鍵が一つに現れたのが十字架である。

生命(せいめい)あるものをいよいよ生かし、
生命(せいめい)無きものを無に帰する働きである。

有るものを有らしめ、無いものを無からしめる
この働きは神の御力(みちから)である。

神は宇宙そのものであり、宇宙の中心である。

大生命の開展(かいてん)である生長の家の進展は
十字架の進展と名附けることも出来る。

有るものをあらしめ、無いものをなからしめる天地浄(きよ)めの光明である。


光は光によっていよいよ輝き、暗(やみ)は光によって無に帰する。

生長の家が進む。
光が進む。
十字架が進む。

うった姿が生かした姿である。
虚偽の姿が追いやられて、真実の姿が現れたのである。

天地四方に到る御光(みひかり)が進んだから暗きが消えて明るくなったのである。
キリストも十字架に消えた後(のち)、聖なるキリストが復活してきた。
十字架は蘇生(よみがえり)である。


十字架にかかるとは死ぬことではない。
生きることである。

死ぬのは迷(まよい)だけである。
迷が本来無の姿を現しただけである。
誰も、何も死んでいない。

生きただけである。


十字架は明るいのである。
御光(みひかり)である。

十字架にかかるとは、苦しむことではない。楽になることである。
御光そのもの、宇宙の実体そのものと一つになることである。


生長の家の進展には明るさが満ちている。
鮮(あざや)かな十字架の姿が、今、現れたのである。
虚妄をはらって、実相を生かす姿である。


生長の家に帰命することは、宇宙の実体と一つになること、
真(まこと)の救いにあずかることである。


此の世は時間空間の姿をとって展開する。
これは十字の姿であり、この世はいつも、たった今も、
大きく十字架にかけられている。

十字架は、無を無に帰し、実を実たらしめる神の声である。
十字架にかけられている此の世は今このまま一切の迷(まよい)は無く、
御光(みひかり)のみが満ちているのである。

今此の儘、光明一元なのが此の世の実相である。

          <感謝合掌 平成27年12月7日 頓首再拝>

そのまま常楽~その5 - 伝統

2015/12/14 (Mon) 03:39:58


           *「常樂への道」(P10~11)より

或る日の記 ―― 

衆生とは、現象人間、心の影を指して云う。
本来無きものである。
本来無きが故に、断ち切ることもいらず遠離することもいらない。

衆生ある其の儘に衆生が無い。
衆生をはなれずして、此の儘衆生なし。

衆生は言葉にある。
否々、言葉にも無い。
それは無の言葉である、虚(うつ)ろなる響(ひびき)である。


其の儘無いのであるから、『其の儘無し』と、言葉で断ち切ればよい。
衆生を断ち切るのでは無い。

《ある》ものは神であり、金剛不壊であるから、断ち切ることは出来ないが、
《無い》ものも亦もともと無いのであるから断ち切れるものではない。
それ自(みずか)ら始めから断ち切られているのである。

相手を認めて、相手を断ち切る為の言葉ではない。
相手を認めれば相対であって迷(まよい)である。

仏は絶対であって相手が無い。
只、無いものを無いとする真実の響(ひびき)が鳴り出しただけである。

これが真行(しんぎょう)と呼ばれる行(ぎょう)である。
行にも色々の姿がある。
迷(まよい)の行もあれば、仏の行ずる行もある。

動き出す、その自分の内で相対に絶せられていなかったならば、迷の行に転落する。

生と死とを放ち、勝(かち)と負(まけ)をと放ち、善と悪とを放ち、
 ―― 只の言葉に値打(ねうち)がある所以(ゆえん)である。
 ―― 今迄の全てを無に帰して、只、仏の子が仏の生命(せいめい)を喜び行ずる。

これが真の行である。


『現象無し』これは相対を絶する一喝である。
『自分は神の子である』これは絶対自覚への目ざめである。

この自覚に立って『今を生かす』 これが仏の行ずる真行である。
吾々の指し示す『行(ぎょう)』もこれである。
行ずる姿が実相の生きている姿だと云う行も、その行である。

          <感謝合掌 平成27年12月14日 頓首再拝>

そのまま常楽~その6 - 伝統

2015/12/22 (Tue) 04:24:34


           *「常樂への道」(P11~12)より

或る日の記 ―― 

イエス途(みち)行くとき、生まれながらの盲人(めしい)を見給いたれば、
弟子たち問いて言う、

『ラビ、この人の盲目(めしい)にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』、

イエス答え給う

『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業(わざ)の顕れんが為なり』

これは、ヨハネ伝第九章にある一節であるが、
ここにはイエスの住んでいる世界と、
弟子達の住んでいる世界の相違がはっきりと現れていて面白いと思う。


三界は、見る人見る人自身の心の影である。

罪の観念の消えない弟子達には、此の盲目(めしい)が罪の現れとみえた。
そして、親の罪か、己の罪かとひっかかった。

神一元の絶対自覚に生まれかわったイエスには、神の栄えの顕れんが為とみえた。

即ち未だ神が顕れていない。
神の無い存在の無である。
全的否定。

即ち、そんなものは無いのだ、とみえたのである。
盲目(めしい)じゃない、今、ちゃんと目はあいているとみえたのである。

そして、それをちゃんと目はあいていたではないかと、盲目の目をあけている。
盲目なれば目のあきようがないが、盲目でないからこそ、目があいたのである。


此処には大切なことが諭(さと)されている。

罪があるのではない。
罪があると思うから罪がみえるのである。

不幸が、不完全が、あるのではない。
不幸、不完全が、あると思うからこそ不幸、不完全がみえるのである。
そして動かしえない存在となるのである。

光明一元、神一元の自覚でみれば、光のみがみえる、神のみがみえる、娑婆即寂光土とみえる。
盲目(めしい)の目もひらくのである。

己の自覚が廻転することである。
神一元に迄目覚めることである。
 

其の儘、盲目ではない、今、目はあいている。
悟れ悟れ、これをみて悟れと目をあけている。
悟れ悟れ、この世は、今、此の儘完全、此の儘救われきっている世界なのだ。

この事実を通してこの世の真意実相を悟れと、目をあけてみせたのである。
 
此処には、三世を鮮やかに踏断(とうだん)して、
神の子に迄なりきっているイエスの高さが現れている。

これが、救いの光である。
奇蹟を生みだす底力(そこじから)である。
 
現象無し、神のみ、仏のみ、今、此の儘完全と説く生長の家の真髄と一つに連なる自覚である。

(十四・三)


(以上で、「そのまま 常楽」の章をの謹写を終わります)

(次回は、「旅立の朝」へと移ります)

          <感謝合掌 平成27年12月22日 頓首再拝>

旅立の朝~その1 - 伝統

2015/12/30 (Wed) 03:59:53

           *「常樂への道」(P13~14)より抜粋

心を労さなくとも、苦しまなくとも
明るい方さえふりむけば、唯(ただ)これ一つで全ては解決するものである。

明るいのは神であり、実相である。

神を拝すること。
有難いところを一つひとつひろげてお礼を申すこと。

目をとじて、有難い有難い世界である。
此処が、今、有難いことばかり、明るいことばかり、
うれしいことばかりの世界であると観ずること。

此の言葉によって、自分の内に神が目覚めてくる。
言葉は神である。

そして唯これ一つ、神が目覚めると云う唯一つで全ては生まれ変わるのである。
神は光であり、神は渾(すべ)ての渾(すべ)てであるから。

暗(やみ)は無い、悪は無い。
無いものにどうして動機があり、責任があるであろうか。
無いのものには何もないのであった。

          <感謝合掌 平成27年12月30日 頓首再拝>

旅立の朝~その2、3 - 伝統

2016/01/07 (Thu) 04:38:22

旅立の朝~その2

           *「常樂への道」(P14~15)より抜粋

一つうれしいこと。

真理の前に従順になれつつある自分を此処に見出してうれしいのである。

             ・・・

旅立の朝~その3

           *「常樂への道」(P15~16)より

もっとはっきり死にきること。
もっと神の御前(みまえ)に素直になること。
信仰がもっと深い処から動いてくること。
神がもっとすっきりと自分の中に生きてくること。

此処を極める為に出る旅である。
講演しに行く旅ではない。
出発の朝、自分に云ってきかせる言葉である。

(中略)

神を讃(ほ)めたたえる事を忘れて、自分が顔を出して動く時、心はいつも落着ききれない。


神の御前(みまえ)に自分がすっかりかくれて了(しま)うこと。
喜びは此処からである。

話すのも、話してやるではなく、聞かせてやるではなく、
話せと云われて出されたのであるから、唯(ただ)わかっただけを
出来るだけを其の儘素直に話させて戴(いただ)く迄(まで)。

唯(ただ)、ここを喜んでやる。

          <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

旅立の朝~その4 - 伝統

2016/01/15 (Fri) 04:46:56


           *「常樂への道」(P16~17)より抜粋

真理は決して尺度にして他(た)をはかるまじきもの。
形があって形が無い。『ねばならぬ』は一つも無いのが神の心であった。

形を放し、《ねばならぬ》を放しきって、
只、淡々と行く雲の如く流るる水の如く語り出す恩師の御(お)言葉。
語る言葉は同じ言葉であろうとも、其処には無限が響き、神が語る。

静かに目を瞑(と)じて沁々(しみじみ)と、
御言葉の内に無限の響きを思いみる朝。

          <感謝合掌 平成28年1月15日 頓首再拝>

旅立の朝~その5 - 伝統

2016/01/24 (Sun) 03:15:39

           *「常樂への道」(P17~18)より抜粋

仏語に曰く、三界は唯心蔵、三界は唯心の所現、一切は心より生ず、と。

客観は畢竟主観の展開でしかない。
外は内の反映でしかない。

『傀儡師(かいらいし)首くび)にかけたる人形箱 仏(ほとけ)だそうと』

三界は我が手中(しゅちゅう)にあり。

生長の家は曰く、まず生まれ更(かわ)ること。
吾即神也と目覚めよと。


・・・

<参考>

『傀儡師首にかけたる人形箱仏だそうと』  ~ 一休 宗純

この詩は、一休さんの作。

傀儡師とは正月とかの祝祭日に家々を回って人形劇を見せる人です。
傀儡師は劇上で、場面に応じて様々な人形を首に掛けた人形箱から自由自在に取り出します。
傀儡師にしてみれば、仏も鬼も何の違いもなく取り出されるものです。


この意味するところは、

   傀儡師とは、人間の心のことを指しています。
   人間は、常に首に魔法の人形箱をかけて、手品を自分にかける。
   その魔法の人形箱から、鬼を出そうと思えば鬼は出てくる、仏を出そうと思えば仏が出てくる。

   要するに、人間が心で思ったことは、その通りに必ず実現する。
   それは、あなた自身が望んでいたものであっても、望んでいなかったものであっても、
   心で思ったこと、それを思い続けることで、その「想い」は必ず、本当のあなたでない、
   傀儡の心が首にかけている魔法の箱から、手品のように、鬼でも仏でも出してくるものなのです。


          <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

旅立の朝~その6 - 伝統

2016/02/01 (Mon) 03:40:52


           *「常樂への道」(P18~19)より抜粋

『生命(いのち)の其の儘を素直に現わせば、美しい世界が現われる。』

朝毎の法話の中の此の御(お)言葉を噛みしめつつ、
神、神、と自分の中(なか)に神を呼ぶ。


          <感謝合掌 平成28年2月1日 頓首再拝>

旅立の朝~その7 - 伝統

2016/02/09 (Tue) 03:55:49

           *「常樂への道」(P19~20)より


死によって滅する生をもう一つ超えたる生。

病気によってくずれたる健康をもう一つ超えたる健康。

悲しみによって空しくされる喜びをもう一つ超えたる喜び。

不安によってかきみだされる安穏をもう一つ超えたる安穏。


死なない生。
病まない健康。
くずれない喜び。
波立たない安穏。

現象無しの一転語によって把握する世界である。
狭き門を通り抜け出で後(のち)の広い世界。
無字によって洗礼された後(のち)の有(う)の世界である。

生長の家で云う神の子の自覚生活である。


吾れ永年(ながねん)生死(しょうじ)巌頭をさまよい、
今救われて生死(しょうじ)無き生の世界に生きる。

此の世界に立ちて己れを己れ自(みずか)ら、吾れ神の子と呼びうる喜び。

有難さ限り無し。

我が来し方をふりかえりみれば、遥かにも来つるものかなの思い無量なるものあれど、
これはこれ皆一場(じょう)の夢にすぎず。

吾が此の生命(いのち)、生命(いのち)なる我れ、
無始より此の方(かた)、『今(いま)』の一点にありて神と通い、仏と通じ、
宇宙と共に立ちてあり。

我れ知らざりき。

自覚という二文字、泌々(しみじみ)と感慨深きものあり。
唯(ただ)とじたる心の《自》ずから自己自(み)ずからに目《覚》めし迄(まで)。

我が魂を目覚めしめし先生の御言葉(おことば)のそのままのラッパとなりて、
よき言(こと)の葉(は)を我(われ)もかかげん。


人間は神の子のである。今此処が天国である。誰も彼も救われきっている世界であると。

          <感謝合掌 平成28年2月9日 頓首再拝>

旅立の朝~その8 - 伝統

2016/02/16 (Tue) 03:29:32


           *「常樂への道」(P21~22)より抜粋

善悪美醜を超えて、其の奥にある神なる生命(いのち)。
喜怒哀楽を超えて、其の奥にある神なる生命(いのち)。

1本の可憐な花が咲く其の処にも、
火は高くあがり水は低きに流れる処にも、
朝の粥をいただけばその鉢を洗う、其処にも、
法さながらの生命(いのち)が生きている。

神の手が神の生命(いのち)にすらすらと生かされて行く、これが法さながらである。

善悪美醜、喜怒哀楽にとらわれれば法さながらの生命(いのち)は枯渇する。
善悪美醜にとらわれず、喜怒哀楽にとらえわれず、此の法さながらの
生命(せいめい)を拝み生かすことが神想観である。

朝々を ―― 私の生命(いのち)は善悪二道を超えている。完全なるものである。
円満なるものである。浄(きよ)いものである。有難いものである。
今日(きょう)一日、自分の生命(いのち)から、自分をそしてふれあう全てを
高めあげ、幸せにすること以外出てこない ―― かく神想観して出発する。

この自覚を今日(きょう)一日失わない様に大切に生きて行くこと。
この一点から人生が神生(しんせい)にかわる。

『天国に到るには生まれ更(かわ)りを要すと知るべし』

とのイエス・キリストの諭(さと)しが成就される。

既に数多の人々によって身を以て実証された事実である。


          <感謝合掌 平成28年2月16日 頓首再拝>

旅立の朝~その9 - 伝統

2016/02/24 (Wed) 04:22:01


           *「常樂への道」(P22~23)より抜粋

(1)喜びを歌う日のために

   俗間に低調な流行歌が流行する。
   人々の心が低調なのである。
   流行歌は何処か物哀しげで宿命的な響きを持つ。

   形は心の影。
   世間の心が宿命の前に崩折(くずお)れて泣いているのである。
   神を失い、自己本来の面目を亡失した心の空虚が泣いているのである。


   生長の家は、自己本来の面目が仏をも空(くう)ずる
   能(あた)わざる絶対実在であると説く。

   全世界に生長の家が弘法される時、世間はもっと雄渾な響きの歌を合唱する様になる。
   大地の雄大を歌い、人が神である喜びを歌う日がやってくる。

   人々の語る言葉が其の儘妙法の花となって虚空を満たす日がやって来る。

   私達は今其の日の為に働いている。


(2)中庸

   かたよらず中庸でなければならないと云うことは果たしてどんなことか。

   真ん中に立つことであると云ったならば、
   中庸とは一点に停止して本来動であるべき生命を死に到らしめる。
   こんな中庸が世間には数多く登場しているかも知れない。


   物資は節約にも捉われず、消費にも捉われず、其の中庸を行くとは如何なることか。
   使うでもない使わぬでもないと説いたなれば、実行不可能の中庸が生まれる。
   世間にはこんな説法が氾濫している。


   右へ行くべき時には電光石火右へ行き、左へ行くべき時には電光石火左へ行き、
   打つべき時には打ち、ひくべき時にはひく。
   これが中庸の生活である。

   形は千変万化しながら神が生きて行くのが中庸である。

   一切の形あるものと、形に躓くその心と、両者を無と切って、
   無限智を蔵する仏子なる自己の誕生によってこそ初めて生きる生活である。
   中庸は仏子の自覚に蔵されている。

          <感謝合掌 平成28年2月24日 頓首再拝>

旅立の朝~その10 - 伝統

2016/03/02 (Wed) 04:00:25


           *「常樂への道」(P24~25)より抜粋


生長の家は家庭を捨てず、父母妻子を悲しませず、
今このまま全てと調和し、全てを生かしつつ行なえる出家の道を説く。

火宅本来無し、此の儘が火宅の外久遠常住の浄土である。
かく悟ることが出家である。
生長の家は言葉で出家する。

そして「汝等天地一切のものと和解せよ」
これが新しい時代の新しい成仏の姿となった。
出世間の道と世間の道とは一枚のものとなった。

          <感謝合掌 平成28年3月2日 頓首再拝>

縦に横に今を足場に~その1 - 伝統

2016/03/09 (Wed) 03:59:03

           *「常樂への道」(P26~27)より抜粋

悟るということは、難しいといえば難しいことです。

仏の言葉を沢山憶えて、それをうまい具合にふりまわせることと、
悟りが深まったことは、一寸見た目には同じ様に見えても、全く別の事です。

どれだけの相違があるかと云うと、我(が)の上へ仏の言葉をのせて走っているか、
我(が)が消えて仏の生命が生きているかの相違です。

動いている姿は同じ様でも、結局、我(が)が動いているか
仏が動いているかの相違ですから、天と地程の相違です。

此処のところを、自分がしっかり、しっかりみつめて行きませんと、大変なことになります。

               ・・・

(魂の)進歩向上は、本値(ほんね)が目覚め、自分自身が大きくなって行くので
ありますからうれしいものです。人間の持つ喜びのうちで一番大きく一番深い喜びです。

物質が増す喜びや仏の言葉を沢山心にたたきこんだ喜びは大したものではありません。
そうした喜びは、ものたりなくなり、いやになり、結局消えて了います。

しかし、自分のねむっていた値打ちが目覚めてくる喜びは、自分自身が拡大する喜びで
ありますから、言葉で云いきれない何とも云えない喜びですし、
生命(いのち)のつづく限り何時までも続く喜びです。

この喜びは、他から奪われる気遣いもなく、本当に安らかな喜びです。
永遠価値の感ぜられる喜びです。


          <感謝合掌 平成28年3月9日 頓首再拝>

縦に横に今を足場に~その2 - 伝統

2016/03/16 (Wed) 03:30:08


           *「常樂への道」(P28~29)より抜粋

『天地と一つの心は、すべてのものを擔(にな)う心である。
それは横に無限、縦に無限に擔(にな)う心である。』

という言葉が『生命の實相』にありますが、縦に無限に擔(にな)うとは、
自分を神の子として尊敬し、無限なるものとして拝む事です。

横に無限に擔(にな)うとは、其の儘素直に有難いと受け入れる自覚です。

縦に無限にうけて横に無限に行じてゆかねば本物ではないとの諭(さとし)です。
此の二つが十字に組みあわされた処が神の子が生きて働いている姿です。

神の子の無限さがわかれば、神の子としてうけなければならないことは、
其の儘素直にうけるわけですし、又、其の儘素直にうけきれば、
神の無限力が出てまいります。

常平常(つねへいぜい)の心持が、其の儘素直にうける心にさえなっておれば、
ことに当って全てがすらすら行くものなのです。

不思議と欲することと与えられることが一つになり、ぶち当りそうになると不思議と
誰かが道をひらいてくれることになったり、受ければ又、思わぬ助けがその中から
現われることとなったりするものです。

神が現われておられるのですから自然そうなる筈で不思議ではないのです。

この真理から考えますと、(真理から考えることが只ひとつ正しい考え方です)
自分の生活に色々混乱が深いのは、其の儘有難い心が少なく、
まだまだ自分本位の我(が)の心が消えていない証拠であります。

          <感謝合掌 平成28年3月16日 頓首再拝>

縦に横に今を足場に~その3 - 伝統

2016/03/24 (Thu) 04:27:16

           *「常樂への道」(P29~32)より抜粋

倉田百三さんは、七つの結核性疾患と強度の強迫観念に悩まされ、百方手を尽して
逃れよう逃れようとしても逃れる道が無く、今迄の心をクラリとかえて、
其の儘素直にうけることを行した時、

さしもの業病がすっかり癒えて了ったそうですが、
それは、横に無限を受けた時、縦に無限に宿されていた無限の癒力(なおすちから)が
発現して闇が消えたのであります。


此処で考えてみたいのは、実際に行なうことの難しさであります。

倉田さんの様な宗教上信仰上の玄人(くろうと)の方ですら、散々苦しまれて、
最後に土壇場に行かれてから、初めて横に無限に受け切っておられる。

此処が考えてみたい処でありまして、これは何故かと申しますと、
今迄は人間と云うものが非常に小さなものに思われて来た。

凡夫とか、因縁の固まりとか云ってつまらぬものに思われてきたのであります。
そして、業とか、罪とか、因縁とか、運命とか人間よりも数倍力の大きな、
人間をしばるものがあると思われてきたのであります。

これでは、行なう自分が小さな存在で、それを阻礙(そがい)する相手が大きいのですから、
なかなか実行できるわけがない、立会いの気合で負けている。
それで、みんな苦しまれたのであります。

生長の家は何をしたかと云いますと、
此処の処の考えをグルリと反対にしたのであります。

人間は神の子で無限であり完全であると説き、
今迄もて余していた一切の現象は無いものであると切っておとしたのであります。

小さかった自分が無限大にひろがり、大きかった相手が零(ゼロ)に迄抹消されてしまった
のですから、実行を阻礙(そがい)するものが、
とりのぞかれた訳で大変有難い世界に変わったのであります。

宗教的には全くの素人(しとうと)であっても、さては無心論者などであってもどんどん
助かって行っているのは、この為でありまして、苦しみを通さなくとも、
土壇場まで行かなくても助かる道がひらかれたのであります。


最早、私達が幸せになるのを外から邪魔するものが無くなったのでありますから、
自分で自分を晦まさず、神の子に真剣になることだけが大切であります。

(中略)

此処を通り越し、進歩向上していく為には、神の子の実相を尺度として、
深い反省をするのも必要であることは勿論でありますが、

(中略~周りの反応から洞察を行ない)

今自分の立っている処を気づかせて頂くことも大切な事であります。

(中略~実相の尺度は、あくまでも自分の今の状況をはかるものであり、
他人の状況をはかるものではありません)

真理と云うものは無闇に他(ひと)をはかる尺度にすべきものではないのです。

真理の言葉にふれた時、自分を振り返って自分を高めて行くか、
その言葉を尺度として、他(ひと)をはかり批判し点数をつけるか、

自分が仏の世界に居るか、迷いの世界に居るかは、
そんな処からも知らして貰うことが出来ます。

          <感謝合掌 平成28年3月24日 頓首再拝>

縦に横に今を足場に~その4 - 伝統

2016/03/31 (Thu) 03:28:20


           *「常樂への道」(P32~33)より

仏は常住なものでありますから、
仏の子としての値打ちも、何時でもたえず続いて生きて居いると云う処にあります。

仏の顔をしていなければならない時にだけ仏の顔をしているのでじゃ、余り値打ちはありません。

仏の顔をしなくともすむ時にもやはり仏が生きているか、
我(が)を出せば出せる時にも我(が)を出さないか、
人前を去って、茶の間に下がっても仏心(ほとけごころ)が生きているか、
此処が又調べ処であります。

此処によい点数を貰いたいものであります。

仏の顔をしなければならない時にも、しなくともすむ時にも、
他(ひと)の前にある時にも、茶の間に下がって一人でいる時にも
仏心(ほとけごころ)を生かす様にしたいものであります。

周囲の人のつけてくれる点数。
仏の顔をしなければしないですむ際の点数。
我(が)を出せば出せる折(おり)の点数。
一番当り前の処での点数。

此処をよくして行くことに自分全体の進歩があります。

『小善を軽蔑するな。小善を積むことがかえってむずかしい 。
小善のできるようなものでないと、本当の大善はできない。』

と智慧の言葉に諭されているのも此処であります。

自由にどんなことでもやれる時にも仏心(ぶっしん)を行ぜられる人であってこそ、
覚者と云う言葉に値いするものだと知らされています。

この言葉を沁々(しみじみ)味わいたいものであります。


          <感謝合掌 平成28年3月31日 頓首再拝>

縦に横に今を足場に~その5 - 伝統

2016/04/12 (Tue) 03:12:10


           *「常樂への道」(P33)より

伸びない木は枯れます。
次々と進まない者は退歩します。

一本の草花も、刻一刻、素直に自己の生命(せいめい)を行ずればこそ、
生き生きとしてもおれば美しい花も咲いてまいります。

自分もうれしいでしょうし、周囲も有難いのです。
行(ぎょう)から、たえざる行(ぎょう)から、喜びが沸いてでるのです。
生命(いのち)の当たり前を素直に行ずる、これが値打ちです。

其処へ顕れる世界は自他共に喜べる世界です。


私達は今改めて、素直になりたいものです。
素直と云っても神に素直、神の子に素直であります。

素直が値打ち、素直が助け一定(いちじょう)であります。
そうかお互いにはげましあいつつ、
神の子としての自分を素直に行じだいものであります。

神の子を心に、形に行じながら、全てにふれること、全てに対すること。
先ず自分の中に神を生きること。

此処が欠けている時には、決して物事(ものごと)の
正しい見方は出来ないものであります。

神の子が消えている心で物事をみますと、狂った判断をして
自分をも周囲をも傷つけることになります。
危ないことであります。

知らして戴いた神の子の実相を理想ともし、尺度ともし、
周囲からつけられた点数を足場として、
素直に素直に神の子を行じたいものであります。   (十四・四)


          <感謝合掌 平成28年4月12日 頓首再拝>

形を超ゆる~その1 - 伝統

2016/04/20 (Wed) 04:22:50


           *「常樂への道」(P34~35)より

或る日の記 ――

理屈は地獄である。神をしりぞけ、人をあやめる

ともすれば、不足に思うことを当然のことの様に考え誤り、
こんな理由があるのだぞ、などと理屈を楯に相手を批判非難の心で
擲(う)とうとする。


自分の口元を見れば、対者(あいて)に向かって悪い悪いと、
醜い限りの言葉を飛ばしている醜さ。

自分が悪を握り、批判に落ちた。
此の姿は既に神の子ではない。
既に自分が地獄の塊(かたまり)である。

擲(う)つべきものは対者(あいて)ではなかった。
三界は唯心の所現である。外には居なかった。
自分自らの其の墜落した心であった。


『腹が立つ、不平が出る。其の心が地獄であります。
其の心に理屈をつける。地獄の上塗りであります。

腹が立つのが当然だなどと迷うから、そんなことをするのであります。
どんな時でも、腹が立ったり、不平が出たりするのは当然ではないのであります。
此処の処がはっきりすることが大切であります。

腹が立ったり、不平が出たりするのは、自分が落ちたのであります。
何も云わず、再び上(あが)ることだけを考えればよいのであります。

落ちない心は感謝と慈悲の心であります。
これが仏心であります。』


これは私の古い日記。
三界は唯心の所現。
此の言葉を何故万人のものと考えたのであろうか。

迂闊なことであった。実に迂闊なことであった。


何故(なにゆえ)これを自分一人のものと思えなかったのであろうか。

万人のものと思うからこそ、対者(あいて)を擲(う)ちたくなる、裁きたくもなる、
自分をそのまま宥(ゆる)したい心にもなる。

己れ一人のものと思えば、あやまりきる一道(ひとみち)である。

三界は唯心の所現。
これは自分のものであった。
自分一人だけのものであった。

繰りかえし、かみしめていると、
対者(あいて)を擲(う)つ心が、音を立てて崩れて行く。
爽やかな心である。

ある日の心であった。

          <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

形を超ゆる~その2 - 伝統

2016/04/29 (Fri) 04:41:44


           *「常樂への道」(P35~38)より

又或る時は、

内の、外の、ものたりなさを己の力でためなおそうとする。



(中略)(P35~38)

             ・・・

           *「常樂への道」(P38)より

『汝ら心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なる神を愛すべし』
とキリストは言った。

唯一つ、神が生きて来ることであった。

神! 神! 神のみが唯一つの光であり、救いであり、ためなおす力であった。

神に到る迄、完全円満なる、至美至妙なる、渾ての渾てなる神に到る迄、
右しても左しても、千変万化どう動かそうとも、人は苦しまねばならない。
世間は暗澹として救いの光は天降らない。

南泉和尚は猫を斬った。形を超えろ、其の奥だ、其の奥だと、猫を斬った。

恩師は宇宙を切った。現象無し、と宇宙を切った。
一切を超えろ、其の奥だ、其の奥だと宇宙を切った。

この心をそのままに、私達は三世切って一切を超え、何時(いつ)でも、そして常に、
神一つにかえり神一つに願い、神一つに委(まか)せ、神一つに生かされなければならない。

自我は無力であり、現象は零(ゼロ)であり、神のみが全(すべ)ての力の保持者であった。

祈ること。
祈りが物に立たず、自分一個の喜びに立たず、
神を祈り、神の生命(いのち)が生きて動くことを祈ること。

『祈ったことは、神が必ずききとどけて下さり、創り出して下さる。
此の信念が出る様にならなければ、祈りの深さも喜びも、わかって来るものではない。
それには、祈りも、かえりみて全世界が喜んでくれると思われる様な祈りを、
自分の祈りとして祈れる様になることが大切である。』

これもすぎし日の日記である。


          <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

形を超ゆる~その3 - 伝統

2016/05/07 (Sat) 03:10:03


           *「常樂への道」(P39~41)より

神を祈ること。
神の生命(せいめい)を祈ること。

此の祈りの気持ちが、何時でも常に、ずーっと生命(いのち)の中を溶けて流れていること。
其の場にのぞんで力んでつくる力は空しい。
常に、溶けていること、流れていること。

千変万化動く中心に、此の祈りの心が生きていない時、私達の生活は崩れ通しである。
立っている様な姿の其の儘が崩れた姿である。
善も善ならぬこともあり、喜びも喜びならぬことあり。
涙の乾くひまもない。

私は此の頃、こう云って祈る。
此の祈りの中から、自分の生活の全てを出発したい心である。

『神であります様に。御心であります様に。自分でありません様に。
此の自分が、神の、御心の、生きて動く姿であります様に。
それだけであります様に。それ以外無い私であります様に。

御霊幸(さきは)え給え。実相顕現させ給え。
無限向上させ給え。随処に主となる力を与え給え。
神のみであります様に。御心であります様に。それ以外無い私であります様に。』と。

この祈りが神に到り、神が御心によって私を動かしてくれます様にと、私の念願である。
時には御霊幸(さきは)え給いて、私にたよえる霊を成道させ給え、と祈りそえることもある。
何か、たよられていることの多い様な心が、しきりと動く自分である。

又時には、すきほうだいなことを甘えても祈る。
神が甘えてもよい、あたたかい存在であることに少しく目覚めて来た為である。

今迄に、歯に歯を、目には目をと云う、
厳とした理としての神より外に感ぜられない自分であった。
其の頃は、すきほうだいなことを祈ることを、我であり、落ちたことであると思っていた。

今私は、それを、子としての私が、親としての神への甘え心であると思える様になって来た。
神も喜んでおられるだろうと思える様になって来た。

神と私との関係が、あたたかなもの、懐かしいもの、血の通った、心臓の音のする、
人格的なもののなりつつある。
それが一つの大いなる喜びである。

          <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

形を超ゆる~その5 - 伝統

2016/05/14 (Sat) 04:43:11


           *「常樂への道」(P41~43)より

或る日の記 ――

色々な物音がする。
道行く人の足音。電車の響き。
材木をつみおろすとどろく様な響き。
水の流れ。風の音。

然し、それらが外からやって来て、自分の方へ響いてくる様には感ぜられない今朝(けさ)。
音がする。然し。空間的なへだたりが、近いとも遠いとも、其処だとも此処だとも、
そんなことの一毫も感ぜられず、唯(ただ)音がする。

此処でもなく其処でもなく、唯(ただ)音がする。
音(おと)に自分が居る感じ。自分に音(おと)が居る感じ。

目をひらく。
色々な風物が、空間的なへだたりの向こうに見えながらに、唯(ただ)見えるだけ、
空間的なへだたりの感じが何も感ぜられない不可思議さ。

探(たず)ぬればとらえられる何もない。だが見えてる不可思議さ。
雀(すずめ)の声が聞こえる。聞く自分も、雀も、感ぜられず、
唯(ただ)、雀の声が此処に鳴っている感じ。


 桜の花、桜の若葉、たんぽぽの花、土筆坊(つくしんぼう)、水巻、石籠。
 今朝(けさ)、朝茶にそえられてあった干菓子(ひがし)の名。
 庭のもの全て芽をふき、掘割(ほりわり)の水がゆるく流れ、
 風も静かに、空(そら)はかすみて陽(ひ)も暖か。
 天地自然に春かえり、わが心にも春来(きた)る。


みんな神に於いて一体である世界。
松も、小鳥も、鈴鹿の山も、神に於いて私と一体である世界。
呼べば応える感じがする。私が喜べば皆が一緒に喜んでくれる感じがする。
松に、小鳥に、鈴鹿の山に、神が光っている感じ。

完全円満なる此の世界にあっては、何処(どこ)へ立っても中心である。
萬物は全て中心に立ち、中心に生かされ、それ自(みずか)らが中心である。
中心は一つしかない。

それでいて、全てのものがみんな中心である不可思議な世界。
中心で無いものは一つも無い世界。

松よ。お前を中心にして、お前を愛し、お前を生かす為に、
大宇宙の息吹が繞(めぐ)っている。

渡り鳥よ。お前を中心にして、お前を愛し、お前を生かす為に、
大宇宙の息吹が繞(めぐ)っている。

そして、この私を中心にして、私を愛し、私を生かしてくれる為に、
大宇宙の息吹が繞(めぐ)っている。

よろずのもの全て、私を愛し、私を生かし、私を助ける為に生きていてくれる世界である。
これが、私が住む生命(いのち)の世界。有難さ天地に満(み)つ。
東海の旅を行きつつの吾がこころである。

          <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>

形を超ゆる~その6 - 伝統

2016/05/22 (Sun) 03:25:03

           *「常樂への道」(P43~44)より

或る日の記 ――

ものを云った時、言葉に托して云っている内の意味をうけとって貰えず、
表面の文字の意味より聞いて貰えないのは悲しいことである。

相手の心をきくのではなくて、人は、己の心をきくのである。
一つの言葉も、自分のもっている観念相応にきりうけとれないものである。

深切とは何時(いつ)でも、他(た)に優しく優しくすることだと思っている人は、
あの人は深切な人だと云う言葉をきけば、その人は、優しい優しい人だと考える。

金の無いことがドン底の生活であると考えている人は、私は今ドン底です、
と語る人の言葉をきけば、この人も赤貧洗うが如き生活へ落ちたのであろうと
うけとる。

処が、云った人の意味は、心のドン底、心の行き詰まりであったかも知れない。

人は自分の心だけの生活である。
相手の心をよんだ積りで、自分の心を相手にうつしているのである。
下手にたたくと又自分がおちる。

天地間如何に広しと雖も、人は、己の心の内に住んでいるのである。
個我に執(とら)われ、人間智慧にとじこめられれば、広い世界を狭く住む。


無我に徹し、吾が内に天地が生きていることに目覚めねば、
天地に住み、天地の広さに生きることは出来ない。

自分は神の子である、と云うことである。

此処に目が覚める時、今の、此処の一点に立ちながらに、その生命(せいめい)が、
天地のものとなり、天地にとけこむ。
平凡な、日常の生活の中にも神の光が生まれてくる。

          <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>

形を超ゆる~その7 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 03:33:11


           *「常樂への道」(P44~45)より

去る日或る処で、其処に天地が光る有難い生命(いのち)であること、
ある人の胸を指(ゆびさ)して語っていた処が
私の胸も指(ゆびさ)して貰わねばたよりないと云う人が出て来た。

天国は遥か彼方に天空遠くあると云う様な表情をした人であった。
一人の人の胸ばかり指(ゆびさ)して、他の人の胸を指(ゆびさ)すことを
しないのは差別見ではありませんかとたずねた人もあった。

一々指(ゆびさ)していたら一生かかっても指(ゆびさ)しきれません。
一つでも残したら差別見だと云われるかも知れませんし、
これはこまったことですなあ、と笑いあったことであった。

語る言葉をうけきって貰えなかったことが情(なさけ)なかった。
うけて貰える様に鳴りひびけなかった自分の浅さが情(なさけ)なかった。

その人は、他の差別見を指摘した積りでいて、私は差別見に落ちています、
と自己証明をしていることに気がつかない。

他の頭を叩いた積りでいて自分の頭を叩き、しかも、その叩いていることに
気がつかず、やっぱり相手を叩いていると思っている。

その人は、私が指(ゆびさ)したその人と、其の他の人とを対立させて相対に落ち、
その人ばかりを云うのは差別見であると、自分が差別見に落ちている。

彼が云う様な意味なれば、その人も居なければ、この人も居ない。
語る私も居なければ、誰も居ない。

天地間本来無一物である。

その人を指(ゆびさ)しても迷い、この人を指(ゆびさ)しても迷い、
その他の人を指(ゆびさ)しても迷いである。

俺が、があり、彼が、がある。
こんな人は自分の力を自分のものだと思い、手柄をたてると鼻を高くし、
人間神の子と知らされると増上慢に落ちて、仏にふれて地獄へ落ちる人である。

無と、大喝一声、一喝をくらわされる底(てい)の人である。

一度死ぬこと、生まれかわって出ることである。
現象無し、と生長の家は切っている。
神一元であると説いている。

個我は無いと云っているのである。

天理教祖も、みんな神様にあげてしまえと説いている。


          <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

形を超ゆる~その8 - 伝統

2016/06/09 (Thu) 03:45:59


           *「常樂への道」(P45~47)より

現象無い、肉体は無いと説く生長の家は、出発の第一歩に於いて個我が消え、
時空を超えて超時の今に立つ絶対生活に生まれ更っている。

私達が、此処に神の生命(せいめい)が生きていると自分の胸に指(ゆびさ)す
ことがある。その神の生命(せいめい)は、自分一人のみにある神の生命(せいめい)
ではなく、生命(せいめい)あるもの全てに通ずる神の生命(せいめい)である。

絶対の生命(せいめい)である。
一つの胸を指(ゆびさ)す指頭(しとう)が、そのまま無量百千万の胸を
指(ゆびさ)し、宇宙の果ての果て迄も指(ゆびさ)している指である。

此処に今、罪も氣枯(けが)れも何も無い神の生命(せいめい)が、
病まない生命(せいめい)が、と御講義の折り先生が御自分の胸を
指(ゆびさ)されることがある。

その指が、実は、そのまま聴者自身の方にむけられているのだと
目覚める者は、其処に生まれ更(かわ)りが行なわれる。


此処に、と一ヶ所を指(ゆびさ)す。
それだけでよいのである。

其処にも又其処にもと云うことは、云っても云わなくても、どちらでもよいことである。
いちいち指(ゆびさ)されねば承知出来ない心は、我と彼、これとあれ、
と対立させている心である。相対に住する心である。

一もって全てである実相を把握していない心である。
一語よく天地を覆う、これが仏の言葉である。

三界は観る人、観る人自身の心の影。

相対に住すれば、絶対の言葉も相対の響きをたてる。
絶対を指(ゆびさ)した指頭(しとう)も、相対を指(ゆびさ)したと見間違える。

己の自覚が廻転していなければ、
仏の世界にありながら、地獄をつくり、仏にまみえて鬼をつかむ。
夜叉の心で対すれば夜叉の姿にみえるのが観世音菩薩の御光(みひかり)である。

絶対は絶対とのみ相見(あいまみ)え、
仏にあい対して坐し得るものは仏のみ、
仏は仏と仏のみよく単伝(たんでん)する。

まことに『おかげは和賀心(わがこころ)にあり。』
三界は唯心の所現、一切は心より生ず、である。

                         (十四・五)

(以上で、「形を超ゆる」の章を終えます)


          <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>

絶対にゆだねる心~その1 - 伝統

2016/06/19 (Sun) 04:41:11


           *「常樂への道」(P48~49)より抜粋

名古屋の天守閣にて。

(中略)

肉体の齢(よわい)は50年。100年とは保ち難い。
若しもこの肉体が人間なれば、人間は余りにも儚(はかな)い存在しかない。

天地悠久なる中にあって朝(あした)に生まれ夕(ゆうべ)に死する
蜉蝣(かげろう)のそれに似たり50年と云う一瞬の年月。
蟻のそれにもひとしい一点の如き微々たる存在。

蜉蝣の、蟻の、それの如き微(かす)かなる存在の中に、
起きては消える喜怒哀楽の感情などは、
なんととるにも足らない微中(びちゅう)の微(び)ではなかろうか。

人間はもっと大(おお)いなるものであるのに、
そんなものにかかわっている間、人間も亦とるに足りない微々たるものになり下がる。

人間は人間の当り前でありたい。
私は此の頃切に思う。
もっともっと深く徹しきりたい私の念願である。

頭をあげて果てしない虚空の広さ、遠く連なる山々のたたずまいに目をうつす時、
大(おお)いなるものがある。
それらを思い、それらを通して大いなるものが流れている。

この大いなるものこそ人間の生命(せいめい)の大いさであった。
肉体は虚空に映じた一点の影にしかすぎなかった。

肉体の小ささの驚きと虚空にひろがる人間の生命(せいめい)の大いさと、
こんなことを噛みしめつつ、天守閣の頂(いただき)より、
晴れきった空に浮遊する白雲(はくうん)を拝んだ日である。


          <感謝合掌 平成28年6月19日 頓首再拝>

絶対にゆだねる心~その2 - 伝統

2016/07/05 (Tue) 03:26:50


           *「常樂への道」(P49~52)より

病気の人は病気の中へ、経済苦の人は経済苦の中へ、
何かをとらえようとして手を入れる。

然し虚空に握る手の如く、捉えられる何も無く、
苦しみ喘(あえ)ぎながら枯れて凋(しぼ)んで行く。

この世の大方の姿である。


手が違う、手が違う、手が違うのである。

神のみが唯一人、手がとどくのである。


人間の手 ―― 自力の前には巌(いわお)のような堅さをもち、絶対の力
 ―― 神の子の前には虚空のそれにようにゆるやかなのが此の世の姿である。

助かる為には、此処が身に沁みること。
そして手をあげること。
すっかり手をあげてしまうこと。

自分と云う自分に愛想がつき果てること。
河へ流して捨ててしまうこと。
自力が跡を絶つことである。
一度死ぬことである。

今迄の自分が徹頭徹尾動かなくなることである。

『汝等のうち誰か思い煩いによりて身の丈一尺を加え得し者ありや。
されど目をあけて空の鳥を見よ。播かず、刈らず、倉に収めず。
然るに汝等の天の父はこれを養い給う』

かく真理は吾等に語り給わずや。

何事にも、人間の手はとどかないと云うこと。これを噛みしめること。
神だけがただ一人、手がとどくのであると云うこと。これを噛みしめること。

そして、常平生に、もっと深く、もっと切に、神の子であること。
此処が、過去現在未来を照らす唯一つの救いの光であること。
これを噛みしめること。

他(ひと)に対する時、仕事に触れる時、問題が下りた時、己れの心で向かわぬこと。
貧しい心で対さないこと。

神に全托すること ―― かかえているものを祈って神に托すること。
此の身が祈って神の子であること。神の生命(せいめい)に催さるること。
神が顕るれば残るものが残り、消えるべきものが消える。

生活が神想観であること。

神にゆだねつつ、神の生命(せいめい)に催されつつとどかせようとして
手のとどかない苦しい生活の中から、私に知らされた此の世の過ぎ行き方であった。

然し、私は神と名のつく神でないものにゆだね、神でないものに催されていた。

今、私は正しい神を知らされた。神と称えるに値する神を知らされた。
それは完全円満、至美至妙なる、しかも吾等の血と肉に迄通っている神である。

この一事が私にとっては天地の大いさ大きい歓喜である。

ゆだね方にも深さと安らかさとが感じられてきた。
然し、これは過ぎし日のそれと比較しての話である。

唯(ただ)じっと、自分の姿をみつめる時、時折、
無い手が顔を出して髪がかくれていることがある。

未(ま)だ浅い、底がみえて情け無いのである。
自分の動きに底がみえると云うことは、何にもまして悲しいことである。

神の子は無限に通じ、無限なるが故に底がみえないのが
神の子の当り前である筈であるのに。

朝毎(あさごと)に実相にかえる生活を私は今歩んでいる。

もっと切に、もっと深くと祈りながら。

          <感謝合掌 平成28年7月5日 頓首再拝>

絶対にゆだねる心~その3 - 伝統

2016/07/22 (Fri) 03:08:04


           *「常樂への道」(P52~53)より

今日(きょう)切に思うこと。

人生に於いて役立つ人間でありたい。
日々が神に宿される人間でありたい。
日々血の巡りを無駄に殺さない人間でありたい。

神の御前(みまえ)に、すぐなる心と誠実なる心で生きる人間でありたい。
巧みに世を渡って行く人間とならずに、誠実に世を渡って行く人間でありたい。

神の御前(みまえ)に誠実であった人々の生涯。
神の御前(みまえ)に誠実に生きつつある人々の生活。

こうした生命(せいめい)にふれた時、この世の光で此の一点にあわせて拝むような心が湧く。
自分の響き方の小ささがわけも無く、すまないものに、情(なさけ)無いものに思えて来る。

私はただ巧(たく)みに世を渡って行く人が毛虫のようにきらいである。
私は、そうした人為(ひととな)りに落ちたくない。
毎日こう思っている。

それには、神の国の喜びと五官の喜びとを混同しないことである。
映世(うつしよ)の栄(さかえ)に眼(まなこ)眩(くら)まされないことである。

利害得失に心を転ぜられて、ともすれば人々は神の御前(みまえ)に誠実であることを
崩(くず)して、神の無い宙(ちゅう)に浮いた巧みさによって世を渡ろうとする。

最早其処が地獄である。
最早其処がエデンの楽園の外である。

野の百合には野の百合の美しさ。
1本の雑草には雑草の美しさ。
人それぞれには人それぞれの美しさ。

野の百合も雑草も、巧(たく)みさと云うものを知らない。
それだのにあんなに美しい。
非の打ち処無く美しい。

野の百合は、雑草は、唯々(ただただ)神の御前(みまえ)に誠実なまでである。
其処に巧(たく)みをこえた巧(たく)みが生きる。
美をこえた美が宿る。
天国が実現する。

吾等も亦、野の百合の如く、1本の雑草の如く、
唯一筋に誠実であること、神の御前(みまえ)に誠実であること。
只(ただ)これ一つであること。

          <感謝合掌 平成28年7月22日 頓首再拝>

絶対にゆだねる心~その4 - 伝統

2016/08/06 (Sat) 03:21:06


           *「常樂への道」(P53~56)より

(前半略)

明日死んでも、かえりみて悔ゆるところのない生活、これが信仰生活である。

死に面して悔ゆるところの無い此の生活を、
今の一転に生きるのが生長の家の生活である。

逃げないこと。
糊塗しないこと。
五官に眩まされないこと。

うたるべきものにはうたれきり、
詫びるべきものは詫びきり、
流さねばならない涙は流しきり、

なすべきことは全てなしきり、
心中常に空であること。
今、いつでも死んで死んで死に切って、真空の中に徹し切っていることである。

(中略)

死に切った心とは、なすべきことはなしきって心(こころ)空(くう)であり、
目覚めて、今此処に、三世を踏み超えて道にかえった心である。

死に切れば零(ぜろ)になる。
零であるから何も無い。

寂しさも無い。
苦しさも無い。
気懸りも無い。

不平も無い。
思い残す何も無い。

死に切れば楽である。

放てば手に満てり無一物中自ずから無尽蔵を宿す。

空(くう)中(ちゅう)自ずから神が生きる。
『生命(いのち)を得んとする者は生命(いのち)を失い、
生命(いのち)を捨つる者はかえって生命(いのち)を得る。』

神想観にはげむこと。
三世を超えること。
心中常に零(ぜろ)であること。
神の子であること。

此処に徹すれば、言葉を超えて、此の世のものならぬやすらかさ。
心満たされて『朝(あした)に道を聴かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり』の
古聖の言葉が、沁々(しみじみ)と、身に沁みわたる明(あ)け暮(く)れである。

最早此処には生死(しょうじ)があって生死が無い。
目に見えたままに何も無い。

天地を流るる永遠なるものが、静かに音たてつつ、
光を発しているばかりである。

吾等これを法楽と呼ぶ。
人間神の子の自覚の生活である。

          <感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>

絶対にゆだねる心~その5 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 03:11:28


           *「常樂への道」(P56~58)より

天地間に唯一つの生命(せいめい)、大生命の大調和の御霊(みたま)唯一つ。
自分が無限者と一つである喜び。

沁々(しみじみ)と、厳かにも沁々(しみじみ)と、自分が神の子として
生かされている喜びを合掌し、礼拝し得る者は幸いである。

私の生長は遅かった。
御教えにふれて足掛け5年、今日(きょう)此の頃、私はやっと有難さを、
身に沁みて噛みしめうる一人(ひとり)になれた。

私はやっと当り前の人間になり、やっと立つべき処へ立てたような気がする。

神のみ唯一の実在、神様以外無いと云うこと。
神様の内に生かされて生きていると云うこと。

此の光栄に感激し、此の崇高さに襟を正し、
此の有難さに合掌し、私達の生活は出発する。


『汝等天地一切のものと和解せよ。・・・すべてのものに感謝せよ・・・』。
この御光(みひかり)に生かされて生きる生長の家の生活である。

此の世の中には誇るべき何も無い。
おろがみまつるべき絶対(ただひとつ)の御光(みひかり)があるばかりである。
御光様ばかりなのが此の世に真の姿である。

人を助けた時、人に助けられた時、恵んだ時、恵まれた時、
何時(いつ)も天を拝して感謝したい。

恵み得たのも御光様であり、恵まれたのも御光様である。
二人が互いに光を感じ、天を拝して感謝しあったなれば、其の姿は、
ミレーの晩鐘の絵のそれよりも高く美しい風景ではなかろうか。

全てのもの底(そこ)をついて創造主(そうぞうしゅ)なる神の御光が流れている。
目覚め拝する者は幸いなるかな。

『一』を知ることは全てを知ることである。
『はじめ』を生きることは、終りをも生きることである。

始めであり終りであり絶対(せったい)の一である神の生命(いのち)を
生きることは、今の此処の一点に全宇宙を生きることである。

神に感謝し、神に生かされて生きる神の子の自覚生活は、
言葉を超えて、悠久無限、雄大無限である。

創造主(そうぞうしゅ)なる神に立てば一点にして一切の処に至る。
その神に感謝しその神に生かされて生きてこそ、
日常茶飯事の中(なか)にも感謝合掌の生活が生きてくるのである。

お互いに励ましあいつつ、より深く徹しきろうと吾等信徒の集まりである。

『此の山にもエルサレムにもあらで、汝ら父を拝する時きたるなり。
真の礼拝者の、霊と真(まこと)をもて父を拝する時きたらん。
今すでに来(きた)れり。父は斯くのごとく拝するものを求めたまう。
神は霊なれば、拝する者も霊と真(まこと)とをもて拝すべきなり』


霊と真(まこと)とをもて── 神の子の自覚に立ちて、
天地一切の中(なか)に御光(みひかり)を拝しつつ、
《今此処》に創造主なる神の生命(せいめい)に、生かされて生きる。

吾等今此処に真理(キリスト)に導かれて此の事実に目覚める。
生長の家の生活である。
                        (十四・六)

          <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

こころの窓~その1 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:31:22


           *「常樂への道」(P59~61)より抜粋

自然にかえると云うことは人生にとって一番大切なことでありますが、
今迄は此処(*)を見失って自然でないないものを自然であると思い違いしていました。

(*此処=自然にかえるとは、神に帰ること)

自然と云ったなれば全然ゆがめられない相(すがた)ですから、
一番元(もと)の相(すがた)でなければなりません。

全てのものの始め、現れ以前の元の相(すがた)、絶対の一へ迄戻らねば
本当の自然を知ることが出来なかった訳でした。
自然とは絶対のこと、神のことに他(ほか)なりませんでした。

生長の家では、現象を否定して其の奥にある実相に到ることを説かれますが、
此処まで来て初めて、自然にかえったと云うことが出来るわけです。

現象を否定されない間は、自然と云ったり神と云ったりしても。
きっと偽物(にせもの)を掴むものです。
此処の晦ましかかって正しい自然を見失ったものに嘗ての自然主義運動がありました。

生長の家は誤れる自然に捉えられず、
真(まこと)の自然に復(かえ)る道を教えてくださいました。

現象を否定し、真実の神を発見し、自分と神とが一つになり、
御心(みこころ)が自ずから自分を生かしてくれるようになる道、
此処に本当の自然が生きるのでした。

此処に私達生長の家の生活の根底があります。

神想観の修行を深く励むのも一に本当の自然な生活を生きる為に他(ほか)なりません。

          <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

こころの窓~その2 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:03:39


           *「常樂への道」(P61~62)より

内に全てがある。

天国は此処に見よ彼処(かしこ)に見よと云うようには無い。
汝らの内にある。

これが私達に示された救いの光である。

此の真理に盲目(もうもく)である日、心 空虚(くうきょ)である日、
人はその淋しさに駆り立てられて餓鬼の如く外に求めて走り出す。
喜怒哀楽に転ぜられた様々な迷える心も動き出す。

此の世的な混乱が様々な相(すがた)をもって現れてくる。


外界は求めて行く処ではなく、
内(うち)にあるよろしさを顕して行く処であったのである。
吾々の生活は内に求めて外へ顕して行く生活でなければならなかったのである。

栄えは内より天降って外へ花咲き顕れるのである、とも諭されていた。

外に求める心の走る時、私達は内の宝を見失ってふためいていることが多い。
私の今の生活の全てがこれであった。

そして、うろたえて集めたものが、ますます己れの生命(せいめい)を枯らし、
本然(ほんねん)の願いを空しいものにし、
悲しみの世界を深めていたことに気がつかなかった。

それはみんな無花果(いちじく)の葉でしかなった。

かき集めたものには生命(せいめい)は無い。
内より生まれ出ずるものの中(なか)にのみ神の光は宿っているのであった。

同じ形をしていても、外からかき集め、付け足したものと、
自(おの)ずから内より生まれ出でたものとの間には天と地の隔たりがある。
花咲き顕れた神の言葉と無花果の葉との相違である。

外から見れば一塊(いっかい)の肉の固まりにすぎない人間にも、
内をみれば神の生命(せいめい)が通っている。

いつも外に心晦(くら)まされず、内の相(すがた)を直視(じきし)し、
そのよろしさを此の世に生かしつつ生きてゆける人間でありたい。
今日(きょう)切に願うことの一つ。

          <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

こころの窓~その3 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 03:19:11


           *「常樂への道」(P62~64)より

或る日の記 ―― 

段々と出来ている処もあろう。

然し、他(ほか)に欠陥はないか。
欠陥を晦まさないこと。

足らざるは足らざるとはっきり直視(じきし)すること。
足りない処は足りないとはっきり判る人間であること。

そして、神を招(よ)び、実相を願いつつ励んで行くこと。

自分の到らなさに気が着けないと云うことは地獄である。
悪さが悪さに視えないことが一番深い地獄である。

足らない儘で足れりと思って平然としている心が一番恐ろしい心である。
天狗の鼻は自分では視ることができないと云う。
此の心こそ、偽我慢心の最たるものの一つである。

真っ暗な夜中が来れば明け方が近い。
自分の到らない処にはっきりと気が着くことが
救われる為の真夜中である。

気が着かねば捨てようがない。
盲目が一番恐ろしい。


出来ている処にのみ心奪われて、未だ喜ぶべからざる処を見失い、
既に自分は出来ていると思い違いしている心はなかろうか。

一つのよろしさに心奪われ、一つのよろしきの前に立ち尽くしてことは、
何にもまして危険なことである。

吾れと吾が身を眺めまわし、完全円満でなければならないのにと思いつつ、
未(ま)だ未(ま)だの心深い、大きな危険を辛うじて翻(かわ)せたような
安らかな心の沸く今日(きょう)である。


伸びるのも知らぬ間(ま)、落ちるのも知らぬ間。
神の御前(みまえ)に心謙虚である日、史実である日、
知らぬ間に伸びて進んでいる。

喜びに躍(おど)って浮きあがり、浅く走っている日。
足らざるを足れりと盲目(もうもく)になっている日、
知らぬ間に天狗となり、知らぬ間に落ちている。


やっと悪いことに気が着けたと云いつつも、
唯素直にそれだけを云える人でありたい。

懺悔するのも懺悔誇りになっていたならば何の懺悔であろうか。
儂(わし)はこうだぞ、儂はこうなったぞと誇る心を内に蔵して語る時、
又そんな言葉に触れる時、冷風(ひやかぜ)の心の内を通る様な
うそ寒いものを蔵する。

悪いと気が着く。其処には尊いものが生きている。
然し、悪いと気が着いたと誇る心が動いていては、
やはり救われ得ない自分である。


判っただけに晦まされて、未(いま)だ足らざるを見失うことは一番恐ろしいことである。
只、観念的に、そんなものは無いのだと切って澄ましていることはない恐ろしいことである。

示されても自分の欠点がいたく身に沁みないような心は恐ろしい。
知らずして犯した罪は知って犯した罪よりもなお重いと云うことは、
強(あなが)ち犯す分量の多寡のみではない。

これらのことは救われることの遅速、救われる浅深(せんしん)にも深い関係をもつ。

          <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

こころの窓~その4 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 04:00:58


           *「常樂への道」(P64~65)より抜粋

或る日の記 ―― 

力(りき)まなくなること。
力みがあるのは、自己の偉大さを、天地に通ずる偉大さを
発見していないことに起因する。

此の世に神の慈悲が充満していることに目がさめていないこと。
己(おのれ)を冒(おか)す冷たいものが潜(ひそ)んでいると
思い誤る処に起因する。

かてて加えて、偽我慢心の心があるからである。

小さなままで大きく見せようとし、
出来ている以上に売りつけようとし、
小さな儘(まま)で相手に打ち勝とうと思うから力みが出る。

神には力みというものが無い。
天地自然の巡(めぐ)りをみても、其処に雄渾(ゆうこん)な迄の
力強さは動いてはいるが、一点の力みをも見出すことは出来ない。


力まなくなること。
然し力まなくなると云うことは力を出さずに無気力になることではない。

神に目覚め、天地に通ずる偉大さを発見出来ない間(あいだ)、
人は、力みか無気力か孰(いず)れへか顛落(てんらく)する。


力まないと云うことは小さなことではあるが、内に大いなるものが
生れて来なければ出来ないことである。

此処が究(きわ)められ、偽我慢心を遠く超えてあること。
今日(きょう)切に想うことの一つ。

          <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

こころの窓~その5 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:45:43


           *「常樂への道」(P65~66)より

或る日の記 ―― 

何時(いつ)でも縺(もつ)れの起こる時、自分の到らなさが判って、
さっと引き下がり、詫び切って出直して行ける人に触れる時、
有難い気高さを感ずる。

下(さが)った姿に高さがみえる。

此の世の有難さを噛みしめ得た人の持つ一つの神心(かみごころ)である。

縺(もつ)れが起こる時、何時(いつ)まで経(た)っても、相手が悪いのだ
と相手に罪をみて、その空しい心を擔(かつ)ぎあげた儘でいる人をみると、
心侘(わ)びしいものがある。

三界は唯心の所現と諭(さと)されているのに、真理の御前(みまえ)に
謙虚な心もない。自分の到らなさを詫びる心もない。

其処にあるのは裁きと高慢の盲目(もうもく)の心のみ、
自分の足りなさを其の儘にして相手に下がって貰ったのでは救われない。

自分の内(うち)に斯うした迷いがないだろうか。
自分の足りなさを捨離(しゃり)し、自分の足りなさが
埋(うず)められてこそ自分は救われるのである。

どうか此処が及第出来た人間であるようにと祈らされた今日(きょう)である。

          <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

こころの窓~その6 - 伝統

2016/11/05 (Sat) 03:22:50


           *「常樂への道」(P66~67)より

或る日の記 ―― 

落ちるのは高い処にいる時。

喜びに踊らされて、ふわついて、浅く滑っている姿は浅猿(あさま)しい。

安らかさに慣れ、喜びに溺れ、小成に安んじ、惰眠を貧(むさぼ)らないこと。
亡(ほろ)びは全て此処からである。

一つの安穏の境(きょう)を得られた時、吻(ぼつ)とした時、
起居(ききょう)振る舞いが楽になった時、
兎(と)もすれば此処に亡びの芽が出勝ちである。

今在る儘に満足して立ち止まれば何時(いつ)でも枯れる。
今此処に渾(すべ)てを踏まえて立って居りながらに、
無限に先があるのが此の世である。

これは何時も諭される言葉であって、
一日(いちにち)たりとも忘れてはならない言葉である。

もっと深いのが此の世である。
もっと安楽なのが此の世である。
もっと厳粛さのが此の世である。
もっと有難いのが此の世である。

全てに於いて縦にも横にも、もっともっとなのが此の世である。
神は無限である。

此の瞬間より以外に会えない人であると思うこと。
此の食物以外に無い食物であると思うこと。
今日一日(きょういちにち)より無い生命(せいめい)であると思うこと。

こう思うことは、其の儘素直に有難い心を生かし、
そのものの内に籠(こも)る深い尊きに触れるのに大変役立つ思いである。

少なくとも此の私にとっては大変役立つ思いである。
躓こうとしては、此の言葉に助け起こされることの数多くあった私であった。
そして今だに此の言葉に助け起こされることの多い私である。

こうした言葉の助けを籍(か)りずに、其の儘素直に有難い心、
総じて其の儘すらすらと神である心が生まれ出ずる私であるようにと
今日(きょう)の念願である。


          <感謝合掌 平成28年11月5日 頓首再拝>

こころの窓~その7 - 伝統

2016/11/18 (Fri) 03:36:12


           *「常樂への道」(P68)より

或る日の記 ―― 

辛い時にのみ祈り、嬉しい時には祈らない。
そんな祈りに何の値打があろうか。

私はそうした祈りを軽蔑したい。
その祈りはきまって物乞いの祈りである。

私たちの生活は、神に己(おのれ)が没することでなければならないのに、
其の祈りは自我の前に神を手段に引き下げようとする。
主客が顛倒された迷いである。


祈りは息で宣(の)べるのである、と諭(さと)されている。
祈りは神の生きて行く姿である。
天地万物は神の祈りの荘厳さを示しつつ此処に転回している。

自分も亦神の祈りに祈られて生かされているのである。
其の御心を其の儘に、自分は嬉しい時にも、悲しい時にも、
何時(いつ)如何なる時にも神を祈らなければならないのである。

自分の日々が、自(おの)ずからに、此の祈りに乗った明け暮れでありたい。
自分の遣う言葉が、みんな、神の祈りの言葉でありたい。

今日(きょう)、神想観の折(おり)に、再び強く思わされたこと。(十四・七)

          <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>

仏心を語る1~その1 - 伝統

2016/12/06 (Tue) 04:15:28


           *「常樂への道」(P69~70)より

仏心と言うものは不思議なもので御座いまして
赤貧洗うが如き家庭に顔を出せば其処に、無限供給が出てくるのであります。

瀕死の病人の其処へ顔を出せば、健康が生み出されてくるのであります。

夫婦喧嘩の中へ顔を出せば、和解が生まれて大調和が出てくるのであります。

劣等性の中へ顔を出せば、優等生にかわるのであります。

これは空想ではなく沢山の体験をもって証明されている実際の話であります。


仏心と云うものは八方正面で何処へ行っても通れない処は一つとしてないのであります。
通れると云っても、苦しみあえぎながら通るのではなく、
自他を生かしつつ、調和の姿、喜びの姿を示しながら通って行くのであります。

昔から一切衆生仏性有りと云われておりますように、
今自分が此の八方正面の仏心をさきはえられて生かされているということ。
此のことの中に拝んでも拝んでも拝みきれない有難さが籠っているのであります。

これはとりもなおさず今自分が天国極楽を内にもって生きている訳でありまして、
キリストが、天国は此処に見よ彼処に見よと云うようには無い、
お前達の心のうちにあると云われたのは此処であります。

天国が内にあると致しますと、自分の動きようによっては、天国が此処に出て
まいりましたり、また動きようによっては出てまいらなかったりするのでありまして、
自分の動き具合一つが大切なことになってくるわけであります。


昔から天(あま)の岩戸の物語がありまして、天の岩戸一枚がとじたとき
此の世界は暗黒の世界とアンリ、その一枚がひらかれるだけで
全世界が光明遍照の世界になったと語り伝えられております。

私達は御教えによりまして三界は唯心の所現の真理を知らされ肉体も環境も
吾が心の影だと云うことをわからさせてまいりました。

私達は自分の心が自分の人生の天の岩戸だと云うことを知らなければならない
のであります。と申しますことは、自分が悟れば全世界が成仏し、
自分が迷えば全世界が迷いに覆われると云うことでもあります。

          <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

仏心を語る1~その2 - 伝統

2016/12/21 (Wed) 04:33:06


           *「常樂への道」(P70~71)より抜粋

(1)今此処に仏心が起きます時、不平の思うものは一つもなくなります。

  ①過去のことはそれでよかったのだ一番よかったのだと思います。
   現在の事もこれで結構と思えます。
   未来も安心であります。

  ②とらわれなくなり、どんなものの中からも明るい光がみえてきます。

(2)今、成仏しているのです。

  ①今悟り、今心の天の岩戸の戸が開かれて、仏心が現れます時、
   空間的には全宇宙の広さに、時間的には過去現在未来をこめて
   渾ての時間が成仏していますのです。

  ②これは『今』が渾てであるからであります。
   『今』が渾てであればこそ
   『今』悟れば渾てが成仏してしまうのであります。

  ③釈迦成道の時、「有情非情一切同時成道、国土山川草木悉皆成仏」
   と申されたのでありますが、その時釈迦は『今』を把握したのであります。

  ④今自分が成仏すれば、時間的のも空間的にも渾てが有難いものに
   変わるのです。

   不平、腹立ち、喜べない・・・
   これらは、他に原因があるのではなく、
   自分が未だ成仏していないところに原因があるだけなのです。


          <感謝合掌 平成28年12月21日 頓首再拝>

仏心を語る2~その1 - 伝統

2017/01/06 (Fri) 03:28:11

           *「常樂への道」(P72~76)より

或る日一人の老人が一つの悩みを持って村瀬さんを訪ねて来たのであります。
それは生れおちるなりの聾(つんぼ)で唖(おし)の6つになる孫さんが、
医者と云う医者の門は叩いたけれども現代医学では手のつけようがないと
云っててを放されてしまって、生長の家で何とかならぬものかと云って
来たのであります。

(村瀬さんによる、この6つの孫さんの母親への指導した体験録が
ありますが、ここでは省略し、以下に、吉田国太郎講師による言葉を
紹介いたします)

(P75より)

世の中には和解すべきもの以外無かったのであります。
拝むべきものばかり、味方ばかりで、不足に思わねばならないもの、
敵に思わねばならないものは何一つ無かったのであります。

これが此の世の本当の相(すがた)だったのであります。

此のご婦人もその時、何年かの永い永い夢がさめて今やっと本当の姿を、
何の歪みもつけずに、そのまま正しく直視出来る心がもどって来たので
あります。

子供は自分で生むのではないと云うことは多くの人の云う処でありますし、
誰もが直ぐと頷ける事であります。

自分で生んだのでなければ自分ならざる大いなる力大宇宙の力からめぐまれて
此処に生み出されたものに違いないのであります。独りの子供を授けられた
と云うことは仏から仏の子を信じられて拝まれて託されたのであります。

親が一人の子を育てて行くと云うことはそれは身をもって仏の栄えを
生きる尊い姿なのであります。

此処の処を深く考えめぐらしてまいります時、己の心の無自覚故に、
其の子を聾にし唖にし不良にし劣等生にしていることがあったならば、子をうつ前に
親がまず仏の御前(みまえ)に己の至らなさを詫びる心にならなければならない
と思うのであります。

此のことは何も親と嬰児のことばかりには限りません。

仮にも親子となり夫婦となり友となり一つ仕事を互いに担いあって暮らすように
立たされたのも、拝み合い愛し合い尊敬しあい扶けあって行けとの大きな御心に
よってそうさせられたのでありまして、

此の心を生かし合うことによって私達は神の子となり、己のうちに神が生きてくる
のであります。此のご婦人の心は今はっきりと此処の真理に目覚めたに
違いないのであります。

(次に続く)


          <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>

仏心を語る2~その2  - 伝統

2017/01/22 (Sun) 04:49:08


           *「常樂への道」(P76~79)より

(P76~78 略 ~ 村瀬さんによる老人への個人指導記録あり)

三界はみる人みる人自身の心の影と知らされております。
赤い眼鏡をかければ世界は赤く見える、
青い眼鏡をかければ世界は青くみえるとも知らされております。

自分の心に随って一つのものでも色々にみえると云うことであります。

その老人や婦人の憎みの種であった医者の言葉や妹さん達の態度が、
村瀬さんの心からみた時一番有難いものに拝めたと云うことは
意味深いことなのであります。

医者の言葉にも、妹さん達の態度にも、もともと怨むべきものなどは
入っていなかったのであります。

入っていないものを入っていると錯覚を起こしていたのであります。
迷っていたのであります。
夢をみていたのであります。

『暗(やみ)の無い事は光を点(とも)せば直ぐ知れることである』、
とは恩師の御言葉でありますが、悪いことの無いことは仏の心をもって
すれば、直ぐにわかることであります。

仏子の自覚に立ってみた時に、医者の言葉にも妹さん達の態度にも憎みの種は
探(たず)ねても見出すことが出来なかったのであります。

かえって其処には感謝し合掌し礼拝しなければならない有難いものこそ
こめられていたのであります。

私達はお互いに『生命の実相』の中へ飛び込みます。
神想観をはげんで行(ゆ)きます。
このことによって心のゆがみが消えてまいります。

神一元仏一元の自覚が目覚めてまいります。
この時全てのものの中に光を発見しつつ生きて行ける人間となることが
出来るのであります。

そして形は心の影でありますから、心に有難さをみることが多くなる時、
その人の生活にはそれだけ喜べる事柄が増してくるのであります。


          <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

仏心を語る2~その3 - 伝統

2017/02/08 (Wed) 03:30:20


           *「常樂への道」(P79~80)より

村瀬さんの生活は此の真理を雄弁に物語っているのであります。

家族一同の調和は益々深まるばかり、13年ぶりに赤ちゃん迄授けられ、
春に会って一時(いちじ)に花が開いた様な賑やかさですし、
お勤めの方も万事がすらすら行くし、生長の家に触れられる前と比較すると、
住む世界がまるで変っているのであります。

こんな大きな喜びが出てくる為に生長の家は何をしたか、
特にこれと云って何もしなかった。

何一つ強制する処も無かった。
難しい事も云わなかった。
鞭打ちもしなかった。

唯々魂が目覚めて貰う様に、
此の世の本当の相(すがた)に気がついて貰う様に、
自分の本当の相(すがた)に気がついて貰う様に、

唯(ただ)これだけをやったのであります。
唯(ただ)これだけを言葉に託して説いただけであります。

村瀬さんも御教えにづれられ、成程(なるほど)々々(なるほど)とうなづきつつ
心の目が開(ひら)けただけであります。

唯(ただ)それだけで世界がすっかり変わってしまったのであります。

此処に形は心の影であると云う一つの証拠があるわけであります。
心が全てで、形は心の影にすぎないからこそ、心が支配され、
心が変わる時形も亦支配され、その姿をかえてしまうのであります。

          <感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>

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