伝統板・第二

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- 夕刻版

2015/09/27 (Sun) 19:03:16

今日9月27日は、84年前、谷口雅春先生に「大調和の神示」が天降った記念日です。

このスレッドでは、「和」に関する情報を紹介してまいります。



【大調和の神示】

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
 
天地一切のものが汝の味方になるとき、天地の万物何者も汝を害することは出来ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
 
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。

天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。

本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。
怺えたリ我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、
争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。

 
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。

汝の夫又は妻に感謝せよ。
汝の子に感謝せよ。

汝の召使いに感謝せよ。
一切の人々に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。

その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処に見よと言うが如くにはいないのである。

だからわれは霊媒にはかからぬ。
神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。  

                     (昭和6年9月27日夜神示)

  (縦書き版「大調和の神示」:sninagano.web.fc2.com/image/inori/inori-daityouwa.pdf)
              (アドレスはコピーペーストで表示されます)

・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「「和」 (8455)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1588 >

            <感謝合掌 平成27年9月27日 頓首再拝>

「和を以て貴しとなす」~聖徳太子 - 伝統

2015/09/29 (Tue) 18:26:02


            *Web:豐葦原 より抜粋

(1)この言葉は「憲法十七条」の第1条の冒頭に出てくる。

  ①『書紀』の訓(よ)み方を記した最古の写本である岩崎本の『書紀』(平安時代中期の書写)
   ではこの個所を- 「和(やわら)ぐを以(も)て貴しとし…」と訓んでいる。
   そのあとは「忤(さか)ふることを無きを宗(むね)とせよ。…」と続く。

  ②人はえてして派閥や党派などを作りやすい。
   そうなると偏った、かたくなな見方にこだわって、他と対立を深める結果になる。

   そのことを戒めているのだ。 それを避けて、人々が互いに和らぎ睦まじく話し合いができれば、
   そこで得た合意は、おのづから道理にかない、何でも成しとげられる-というのだ。

  ③ただ「仲良く」ということではなく、
   道理を正しく見出すために党派、派閥的なこだわりを捨てよ、と教えているのだ。


(2)第1条は、は最後の条文、第17条と対応している。第17条の内容は次の通り。

  ①「重大なことがらはひとりで決定してはならない。必ず多くの人々とともに議論すべきである。
   …(重大なことがらは)多くの人々と共に論じ、是非を検討してゆくならば、
   その結論は道理にかなうものになろう」

  ②重大事の決定に独断を避け、人々と議論するにしても、
   各人が党派や派閥的な見方にこだわっていては、
   対立が深まるばかりで道理は到達できない。

   したがって重大事の決定にあたり、
   公正な議論で道理にかなった結論を導く前提として第1条があるのだ。


(2)ここで注意すべきは、第1条も第17条も、
   討論や議論の効用を最大限に高く評価しているということだ。

  ①これは逆に言えば、議論をウヤムヤにして表面上の一致のみを求めるいわゆる
   「空気の支配」や同調圧力に対しては、最も批判的な立場が示されているのだ。

  ②聖徳太子は、道理にかなった結論を得るためには、公正な議論が不可欠と考えていた。
   それは、どんな卓れた人物であっても、
   完全無欠ということはあり得ないと洞察していたからだ。


(3)そのことは第10条を見れば明らかだ。

  ①「人が自分の意見と違うからといって、怒ってはならない。人にはみな心があり、
   心があればそれぞれ正しいと思う考えがある。…自分は聖人ではなく、相手が愚人でもない。
   共に凡人なのである。それゆえ相手が怒ったら、省みて自分の過失を恐れよ。…」

   人は他人と意見がくい違うと、えてして自分は「聖人」で相手は「愚人」のように思いがちだ。
   だが、聖徳太子は「共に凡人にすぎない」と喝破されている。
   冷静に考えると確かにその通りのはずだ。

  ②この世に完全無欠な人間などどこにもいない。
   それなのに、自分だけが完全無欠であると思い込んでいるとしたら、
   それはよほどの思い上がった錯覚と言うべきだろう。

  ③このような透徹した人間観を基礎として、聖徳太子は公正な議論が不可欠であるとし、
   公正な議論のために党派、派閥的なこだわりやかたくなさを排すべしとされたのだった。


(4)派閥的なこだわりを捨てるにはどうすればよいのか。
   また公正な議論によって道理にかなう結論を得るためにはどうすればよいのか。
   これについては答えが第15条にある。

  ①「私(わたくし)の利益に背いて公(公共利益)のために尽くすのが臣下たる者の勤めだ。
   およそ人に私心があれば必ず自他に恨みの感情が生まれる。
   恨みがあれば心からの協調ができない。
   協調ができなければ結局、私的な事情で公務の遂行を妨げることになる。…」

  ②公共の利益を目的とし、
   そして派閥的なこだわりを捨てるためには、まず私心を去る必要があるというのだ。


  *十七条の憲法(原文・読み下し・現代語訳)
    → http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm

   ( http://takato112.blog80.fc2.com/blog-entry-243.html

            <感謝合掌 平成27年9月29日 頓首再拝>

【 和する心の大切さ(刎頚<ふんけい>の交わり) 】 - 伝統

2015/10/01 (Thu) 20:32:09


        *「思いやりのこころ」木村耕一(編著)からの抜粋要約。

≪ 中国の故事の知恵「刎頚(ふんけい)の交わり」が示す 和する心の大切さ ≫ 


 人間関係は難しい。
 同じ職場や仲間でも、誰かが評価されると、
 それをねたんだり、不平、不満をもらしたりする人が出てくる。

 これは、いつの時代でも、どこの国でも変わらないことらしい。
 どうすれば、うまくいくのだろうか。
 そのヒントが、中国の故事「刎頚の交わり」に示されている。


 今から約二千三百年前、中国は、秦、斉、燕、趙、楚、魏、韓の
 七カ国が鎬を削る戦国時代であった。

 中でも秦が最も強く、次第に他の六国を征服していくのである。

 趙は、たびたび秦の圧迫を受けていたが、
 二人の重臣、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)が健在なうちは、
 決して屈することはなかった。

 廉頗は大将軍として、強力な軍隊を率いていた。
 古参の幹部である。

 藺相如は、外交官として抜擢され、スピード出世した政治家である。


 ところが、この二人の間に波風が立つ事態が起きた。
 国王が、藺相如の働きを高く評価し、思いっ切り昇進させたである。

 しかも、一躍、廉頗を飛び越える地位へ。

 廉頗は、おもしろくない。
 「わしは将軍として、永年、命を懸けて戦い、今日の地位を築いたのだ。
 それなのに、あいつは、舌を動かすだけで、わしより上の地位に就いた。
 こんなバカなことがあっていいのか。今度、会ったら、必ず恥をかかせてやる」

 と、公言してはばからなかった。

 藺相如は、このウワサを聞くと、意外な行動に出た。
 廉頗を避け、顔を合わせないようにしたのである。

 廉頗と同席する会議は、「病気だから」と言って休む。
 道で、向こうから廉頗の車が来ると、急いで自分の車を脇道へ入れて隠れる。

 逃げ回る姿は徹底していた。


 本人は平気でも、家来たちは、もう辛抱しきれなくなっていた。

 「あなたが廉頗将軍を恐れ、逃げ隠れする姿は異常なくらいです。
 そんなことは、一般市民でも、恥ずかしくてできません。
 まして 国家の大臣ともあろう方なら、なおさらでしょう。
 私どもは愚か者ゆえ、理解できません。どうぞ、お暇を頂きとうございます」

 皆そろって、「ふがいない主人に仕えるのは嫌だから、辞めさせてくれ」と言ってきたのだ。



 藺相如は、強く引き留めた。
 「わしは廉頗将軍を恐れているのではない。
 わが国の滅亡を恐れるのだ。

 考えてみよ。なぜ、あの強大な秦が、この弱小の趙を攻撃してこないのか。

 それは、廉頗将軍とわしの二人の存在を恐れているからだ。

 今、我ら二人が争えば、どちらかが死なずば収まらないだろう。
 それは外敵が最も喜ぶことである。


 恥を忍んで逃げ隠れするのは、全体の利益を優先し、
 私個人の意地や我慢を後にしているからだ」


 この言葉を伝え聞いた廉頗は、愕然とした。

 「ああ、おれは目的を見失っていた。
 愚かな感情に振り回されて、国を滅ぼすところであった。
 何たるふがいない行為。
 彼に、どう詫びればよいか」



 さすがは廉頗も立派な人物である。
 すぐに藺相如の屋敷へ謝罪に向かった。
 しかも、まるで罪人のように、上半身裸になって荊のムチを背負っていたという。

 「このムチで、私を打ってください。
 あなたに与えた屈辱を思えば、これでも足りません……」

 形だけではない。
 廉頗の心は、藺相如にハッキリと伝わってきた。


 「許すも、許さないもありません。
 私たちの目的は一つなのです。
 ともに力を合わせていきましょう」


 こうして二人は、心の底から打ち解け合い、
 「お互いのためならば、頸(首)を刎ねられても後悔しない」
 と誓いを立てたのであった。


 ここから、「友のためなら、命を捨ててもかまわない」と言えるほど
 深い友情で結ばれることを「刎頚(ふんけい)の交わり」とか「刎頚の友」と
 呼ぶようになったのである。


 相手を殺しかねないほど中が悪かった二人を、
 刎頚の友に変身させたのは、何であったか。
 それは、「共通の目的」の確認であった。

 国なら国民の安心安全、会社なら事業の達成、家庭なら家族の幸せ……、
 それぞれに、構成メンバー共通の目的があるはずである。


 目的を忘れ、それぞれが自分の考えや都合のみを優先すると、必ず衝突が起きる。

 何が大切か、大局を見る心の広さが、相手への思いやりを育むのではないだろうか。

 【負けている人を弱しと思うなよ、忍ぶ心の強きゆえなり】

            <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

「生長の家」は大和精神の源泉~その1 - 夕刻版

2015/10/08 (Thu) 19:17:34

        *「生命の實相」第三巻光明篇第二章(P38~40)より

皆さんは聖典『生命の實相』や毎月の雑誌『生長の家』のことを
「読めば病気の治る本であって、達者な人には用はない」と
思っていられるかもしれませんが、それは大変なまちがいであります。

そういう誤解を招くということは、この『生長の家』には真理が書いてある、
その真理を読めば自分の「生命(せいめい)」の実相(ほんとのすがた)がさとられ、
悟りに従って自分の「生命」の自由自在さを抑えていた「迷い」がなくなり、
「生命」がのびのびと解放されてきますので、
わたしの体験と同様、病気も自然に治ってくるからであります。

が、「生長の家」出現の使命を病気治しだと思ってはなりません。
真理をさとる功徳というものは、けっしてただ肉体の病気が治るというだけのような
チッぽけなものではないのであります。


われわれの「生命(いきるちから)」というものは
肉体の健康を単に維持するだけのハタラキしかないものではない。

われわれの「本質」は無限の知恵であり、無限の愛であり、無限の生命(せいめい)であって
いろいろ多方面のハタラキをするものであって、
その完全な発現を大和精神(やまとだましい)というのであります。

完全にわれわれが自己「生命」の実相(ほんとのすがた)を自覚し、
大和精神(だいわせいしん)が発揮されますと、
いろいろ多方面において自分の生活が自由自在になってくるのであります。

病気が治るのはむろんのこと、経済的にも不如意が如意になってきます。
子供がなくて子供の欲しい人には子供が授かります。
砲煙弾雨の下にいても妙に弾丸がそれて当たらなくなります。

相手に大調和するからであります。

人間の運命というものは、自分の放散する心的雰囲気となり、
受信装置となって、それと同様なものを引きつけるのですから、

自分が不幸の波長を受信するような受信機となれば
感受した不幸を形に眼に見える状態に再現するのでありますから、

自分から放散する心のリズムが、愛と光明に満ちたものであり、
弾丸を引き寄せるに不適当なものであれば、
弾丸はけっしてわれわれの方へ飛んでこないのであります。

弾丸は外部からやってきてわれわれにつき当たるように思われるもしれませんが、
どんな運命も、自分から引き寄せないのに、外から来てわれわれに
ブッ突(つ)かるものではないのであります。

暗(やみ)は光明にきてブツ突かれば、ブツ突かった刹那光明に化してしまっている。

いいかえると、暗はけっして光明にぶっ突かれるものではない、
光明の霊波には不幸はけっして近づけない。

だから不幸になりたくない人は光明の霊波を自分から出すようにするがよい。
そうすると、暗黒な運命は波長が合わないから自分の方へやってこない。

もしやってくるなれば、自分に近づいてきたときには
すでに光明の姿に化して近づいてくるのですから世話はないのであります。

で、この「生長の家」の精神主義運動というものは全世界の人類を光明化するために出現した
のでありますが、全世界の人類が「生長の家」の所説を読んで、みんな光明の雰囲気を出す
―― まあいわば自分の身体(からだ)から否(いな)、心から後光を出すようになれる。

そうすると、全世界の人間に内から光明が照り輝いてきて
外からどんな不幸も近づけなかったならば、
全世界はこのままで地上天国になってしまうのであります。

全世界の人間がそういうように皆「生長の家」を知って、
内から光明が照り輝いてくるようになれば、そんなけっこうなことはないが、
全世界の人類がそこまで達するのは、なかなかのことであります。

それまでの過渡(かと)時代には、周囲が暗であり混乱状態であるなかに、
自分だけがまず光明であるほかに仕方がない。


自分だけが光明であるときにはどうなるかといいますと、周囲が不幸であっても、
自分には不幸が近づかないという過渡時代を現出し、その次には自身が光明であるために
周囲がしだいに照らされて明るくなるよりほかに仕方がないのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

「生長の家」は大和精神の源泉~その2 - 伝統

2015/10/10 (Sat) 19:51:36


        *「生命の實相」第三巻光明篇第二章(P40~43)より


人間の不幸
―― いろいろの混乱状態のうちにも戦乱ほどの不幸 ―― 
混乱状態は他(ほか)にないのであります。

弾丸がヒューヒュー音をたて耳をかすめて飛ぶ。
爆弾が目の前で炸裂する。
諸方に火災が起こる。
着弾距離にあるすべての非戦闘員は右往左往し逃げまどう。

その混乱状態の中にいて心の平静をたもち、自分の心のうちに神の光明を輝かして、
自分ばかりが光明であるばかりでなく周囲までもその光明で輝かし、自已の放散する
平和の精神的リズムで周囲までも平和な無恐怖の状態にし、その無恐怖の状態において
生命の自由自在なハタラキを発揮する。

周囲を助け周囲を生かす働きをする。

こうなれば誠に「生長の家」で説く生命の実相を悟ったのでありまして、
もうしめたものでありますが、すべての人間がその境地に達するということは
とても一朝一夕にはできないでありましょう。

しかしそこにわたしは便法をつくったのであります。

すなわち真理を書いた書物を配布しそれを常に読みかつ携帯せしめることによって、
「声字(ことば)」にあらわれた真理の波動 ―― すなわち言葉の光明霊波を利用して、

それを携帯する人がまだ真理を本当に理解していなくとも、
書物から発する光明霊波が「類は類をよぶ」という法則によって、
その人自身に光明を招び寄せる、すなわち弾丸雨飛のなかにあっても
その人には光明だけが感受され、暗黒や不幸がやってこられないようにしたい。

これは仏教でいう「声字即実相」の秘義からいっても、日本古来の言霊の秘義からいっても、
「万物一切コトバにて造らる」というキリスト教の奥義からいっても
できうることなのであります。

こういう念願によって、わたしは毎月発行の『生長の家』のほかに、
昭和6年末にはどんな貧しい人にでも読め、また携帯できる
5銭の小冊子を発行したのでありました。

この小冊子をお読みになると病気で苦しんでいられる方が突然心の平和を得て、
なかなか治らなかった病気がずんずん快癒した実例があったことは毎月の誌上に
たびたび発表させていただいているのであります。

ところがこの5銭の小冊子の配布先というものが後で考えてみますと、
すべて神縁によって配布せられるべき所へ配布せられているのでありまして、
小冊子の発行も、その配布も、神が発行させて、
神が配布しているということがわかるのであります。


その実例をここに申し述べたいのでありますが、
この小冊子が昭和6年末どこへ一等多く発送されたかといいますと上海であります。

上海はどちらかというと、つい比較的おくれて、
『生長の家』が読まれることになったのであります。

それだのに一等多くこの小冊子がバラまかれた。

それは上海が一等多く「生長の家」の光明霊波を必要としたからに相違ありません。

上海に「生長の家」支部が設けられたのは、
第一次上海事変で日支衝突が起こる約1ヵ月ばかり前にすぎませんでした。

その間に「生長の家」支部を造ってくださった鈴木友二郎氏の活躍は
まことにめざましきものがありました。

上海日々新聞に十数回にわたって「生長の家」を紹介するところの
「心霊座談会」なる記事を掲載せられまして、その中間と最後とに
小冊子を無代進呈するとの広告をのせられました。

こうしてまず小冊子四種(各百五十部)小計六百部、なお後に三百部合計九百部が
この短時日中に上海じゅうにバラまかれることになったのでありました。

これだけの短時日に、一地域に九百冊の小冊子が普及したことは、
その頃では珍しいのでして、まことにもそれは神がこの混乱に先んじて、
神縁ある人々に特殊の守護(光明霊波)を授けておきたまうべくしくまれた
神策神謀(しんさくしんぼう)であると拝察するほかはないのであります。

それは生長の家発祥後、まもなくですから、内地において2年間たっても1ヵ所に
五百部の生長の家の発行書籍が弘がったところは当時では1ヵ所もなかった事を考え合わせば、
上海のような特殊の地にこれだけの普及を見たということは必ずやそこに何か
神秘な理由がなければならないのであります。

果然、まもなく上海は砲弾雨注の巷(ちまた)と化し、
信仰なき人にとっては一日も恐怖なくして住まえない
戦乱の渦中に巻きこまれたのでありました。

日支事変発生以来上海は、労役に、通訳に、その他ゼネラル・リリーフ・サービスに
多数の邦人若者を要求しているのに、この人手不足な最中に、上海東亜同文書院の生徒らは
掃女子と先を争ってこの戦禍に悩める在留民の災難をよそに日本に引揚げた、

生命(せいめい)を捨てよといわぬが今少し奉仕的精神があって欲しいと
昭和7年2月24日の大阪朝日新聞は信仰なき人たちの不甲斐なさを
慷慨的語調(こうがいてきごちょう)で書いていました。

            <感謝合掌 平成27年10月10日 頓首再拝>

憎むと云うこと - 伝統

2015/10/20 (Tue) 19:48:34


         *『白鳩』誌(昭和22年3月号)より

私も 『天地一切のものと和解せよ』 と云う生長の家の教を説き乍ら、
人間には「理性的個性」と「動物的個性」とがある。 

理性的個性は人間の実相であるが、動物的個性は、ニセ物の存在であるから、
私はこれを憎むのである  ――  と云う意味を書いたことがある。

これについて常に 『天地一切のものと和解せよ』 との教えを受けている
生長の家誌友達から、 「常に憎んではならないと教えられているのに、
憎んでも好いのであるか」 と反問の手紙を多数いただいたのである。


この場合、言葉のアヤに胡麻化されてはならないのである。 
この場合、私の云った「憎む」と云う語は、興奮することでも、憤激することでも、
立腹することでもない、それは 「否定する」 と云う意味である。

「動物的個性を憎む」 と云うのは 「利己的自我を否定し、厭離すること」 である。 
それは「自分は利己的自我を否定する」と云うのに等しい。 
或は自分は「肉体を憎む」と云っても、肉体を憎んでそれに残虐を加えると云う意味ではない。 
肉体的な欲望を否定しそれを厭離することを「肉体を憎む」と云うのである。

 
パウロの云った「肉は益なし」と云う意味が、「動物的個性」を憎むと云う意味である。 
そして私に云わせれば、「動物的個性」を否定し、「利己的自我」を否定することそのことが、
人間の 『實相』 に和解することであり、‘真の人間’を愛することなのである。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/880b3bc612c91f0d7cc4c48996c90b29 より転写)

            <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

時・処・人の和を得ること - 伝統

2015/10/31 (Sat) 19:28:47


           *「善き人生の創造」第4章平和への第一ヶ条(P75~76)より抜粋

(1)天地一切のものに和解するとは、みんなを礼拝することであると同時に、
   処の和、時の和、人の和と云う三つの和がなければならない。
   唯単に實相を拝んでおったら無茶苦茶してもいいと云うようなものじゃないのです。


(2)時の宜しきを得ると云うこと、処の宜しきを得ると云うこと、
   人の宜しきを得ると云うことです。
   天地人の三相応が成就しなければならないのであります。


(3)吾々が生活するする上にすべてのものを拝みさえしたら
   この三相応を破ってもいいのだと考えてはなりません。

   いくら万物のいのちの實相を拝んでも
   時の和、人の和、処の和と云うものを得なければならないのであります。
   これをよく考えて下さい。


(4)吾々はどんな時でも此の時、此の場、此の人でなければならないと云うような、
   ピッタリ当て嵌まった、そう云う生活をしなければならない。

   それは難しいと云えば難しいけれども、神の智慧を戴けばそう難しいこともないのです。
   それは自然とそうなるのであります。

   人間のいのちと云うものは天地万物のいのちと一つのいのちだから、
   天地万物と衝突するようには出来ていない。


(5)そのいのちの實相の本当の姿のまる出しが現象に其のまま出て来ました時に、
   自然とその人は時を得、処を得、人を得ると云うような
   そう云う生活が自然と出来るようになるのであります。


(6)その時にこそ「天地の一切のものは汝の味方である」と云う風になれるのでありまして、
   何物をも自分は害さないし、何物からも吾々は害されると云うことがなくなってしまう
   のであります。


   *全文については、次のWebにて確認できます。
    (by ”平賀玄米 さま”)
    → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15438445


            <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>

<あるべき処にあるべき物があるのが和> - 夕刻版

2015/11/05 (Thu) 19:14:49


           *「善き人生の創造」第4章平和への第一ヶ条(P77~79)より抜粋

(1)すべて害されると云う事は、時の和、人の和、或いは場所の和と云うものが
   ちゃんと整っていない結果であります。それらの和と云うものが得られていない時に
   吾らは他から害されることになるのです。

   いわば自分が「和を得ていない心」があるから、その反映として害されるのであります。


(2)生長の家の教えでは「人間は物質にあらず、肉体にあらず、金剛不壊である」と云うように
   云うものですから、「それなら溶鉱炉の中に入れて摂氏何千度の温度で燃やして見ても
   矢張り害されないか」こう云う様に反駁する人もあります。

   それは「処の和」と云うものが得られていないから害されるのです。

   あるべきものがあるべきところにあるのが「和」であります。
   あるべきものがあるべきところにないから、それで害されるのであります。

   人間は溶鉱炉の中に入る物ではない。
   生きた人間は燃えている溶鉱炉の中などへ自然に入れなくなるのが、
   それが処を得ると云うことであります。


(3)親鸞聖人が山伏の弁圓に待伏せられて、今日は親鸞を殺してやろうと思って
   附け狙っておったけれども、どうしても弁圓の待伏せている道をお通りにならなかった。
   別に逃げているのではないのですけれども、自然とそう云う所に行かなくなっておられた。

   それが「処の和を得る」と云うことなのです。


(4)天地一切のものが自分の味方になると云うことは、
   結局吾々のいのちと天地一切のいのちと「一枚のもの」でありますから、
   自分の動きに従って天地がそのまま動いて来るのです。


(5)吾々の心の波の方面を考えてみましたならば、これは微妙に宇宙に波及してまいりまして、
   人々の心に影響を与え、ある人には反撥の感を与え、ある人には共鳴の感じを与え、
   その人たちが、吾々自身の方へ或いは不幸を持って来たり、
   幸福をもって来たりするのであります。

   これは「類を以て集る」「類でないものは反撥する」の法則に従って生ずるのであります。



   *全文については、次のWebにて確認できます。
    (by ”平賀玄米 さま”)
    → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15438445

            <感謝合掌 平成27年11月5日 頓首再拝>

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統

2015/11/12 (Thu) 19:23:08


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 
(「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、
同時にいっさいの精神治療の原理が書かれているのである。
多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。

ヨブは「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、
驚いて馬に乗って逃げるということはないのである。
「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。

なんじ知れ「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。
「賢明に」というのはどういうふうにかはわからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら
治ったと導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。
この書をメニンジャー博士に捧げたい。

            <感謝合掌 平成27年11月12日 頓首再拝>

【争わない生き方】 - 伝統

2015/11/16 (Mon) 19:51:25


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年11月13日)」より

   (弁護士、西中務氏の心に響く言葉より…)

   あるガンの名医の方が、ガンを治しても再発するのは、
   その人の生活習慣や考え方に原因があるということをおっしゃっていました。

   人と人との争いも、私は同じことだと思っています。

   私は弁護士として45年間活動してきましたが、争いを法律で解決しても、
   同じ人がまた同じような争いを起こすのを、何回も目にしてきました。

   その人の根本的な問題を解決しない限り、
   その人はまた別の人との争いを始めてしまうのです。


   「法律では、人の争いはなくせない」

   このことを知ったとき、私は非常に衝撃を受けました。


   私が弁護士になったのは、社会的弱者を守り、世の中の争いをなくしていくことで、
   人々を幸せにしていくことができると考えていたからです。

   しかし、弁護士が行っている仕事とは、
   争いを解決するための対処療法でしかなかったのです。

   もちろん、目の前の争いを解決することで、幸せになる人々もたくさんいます。

   ただ、それだけではいけない、という思いを、私は強く感じたのです。


   では、何によって人の争いがなくなり、
   社会的弱者も含め、皆が幸せになれるのでしょうか。

   かつての私は、皆が法律を順守すれば、争いはなくなると思っていました。

   しかし、そうではなかったのです。


   「法律さえ守れば、何をやってもいい」

   そんな傲慢な考えを持っていると、争いが起きてしまうのです。

   法律は、人が守るべき最低限のルールでしかありません。

   幸せに生きるためには、法律よりもずっと大切なものがあると気づいたのです。


   それが七つの「心」です。

   感謝、報恩、利他、慈悲、謙虚、品性(徳を積む)、天命(運を天に任せる)
   の七つの心を基本に生きていれば、現在も未来も、
   幸せな状態に変えることができるのです。

   これは、人間の生き方の原則でもあると私は思っています。

      <『ベテラン弁護士の「争わない生き方」が道を拓く』ぱる出版>

              ・・・

争いは、自分が正しいと思っている人が起こす。

正義感をふりかざす人だ。

「自分が間違っていた」、「自分にも悪いところがある」、と思えば争いは起きない。


正しいか正しくないか、ではなく…

楽しいか、楽しくないか。

面白いか、面白くないか。

好きか、嫌いか。


という価値観の方が、楽に生きることができる。


「感謝、報恩、利他、慈悲、謙虚、品性(徳を積む)、天命(運を天に任せる)の七つの心」
という、人間の生き方の原則。

争わない生き方を目ざしたい。

            <感謝合掌 平成27年11月16日 頓首再拝>

相手の実相を観て和解するには - 伝統

2016/01/20 (Wed) 19:53:03


          *「真理」第9巻生活篇(P90)より

悪に抵抗するためにあなたの時間と精力をついやしてはならない。
あなたの時間と精力とを「善」を見るためにこそ費やすべきである。

敵と云うような者を神は決して造りたまわないのであるから、
敵と見える者も、その実相を観るならば、「神の子」であり
互いに兄弟であるから、本来仲の好いのが当然であるのである。

人間は誰でも、愛されたい、認められたい、理解されたい、尊敬されたいと云う
願いをもっているのであって、或る人があなたに敵対するならば、彼はあなたに
愛されたく、認められたく、理解されたく、尊敬されたく思っているのに、
あなたが愛せず認めず理解せず尊敬せねと思って、反抗心を掻き立てているからである。

あなたの愛と理解と尊敬とを相手にしっかりみとめられるように表現すれば相手は、
愛されている猫のように温和(おとな)しくなってしまうのである。

            <感謝合掌 平成28年1月20日 頓首再拝>

相手に和解するとは、相手の実相の完全さを観ることです。 - 伝統

2016/01/26 (Tue) 20:50:11


          *「真理」第9巻生活篇(P90~91)より

相手に和解すると云うことは、相手に宿る神性・仏性こそ「本当の彼」そのものであって、
「本当の彼」が完全なることを心で見詰めて、それを心で祝福するのである。

併し、「和解する」とは必ずしも相手のいだく考えや計画や要求に言いなり放題に
追従すると云うことではないのである。意見の相違は充分検討し戦わしたら宜しい。

そして相手にやどる完全なる実相(神の子)をこちらがジッと心で見詰めれば、
今まで相手が頑張っていた意見が突然又は徐々に消えて、
調和した意見に変わってくるのである。

マーフィー博士著、中嶋逸平氏訳「信仰の魔術」には、或る女にウルサク付きまとって
迷惑きわまる男を、”神の作りたる世界にはそんな人に迷惑をかける男は存在しない。
彼は神の子で善良な好い人だ”と其の男の実相を見詰めることによって、
その男は地球が彼を呑みほしたように来なくなった実例をあげている。

この本は心に強く描くことが如何に実現するかについて皆さんの参考になるであろう。

            <感謝合掌 平成28年1月26日 頓首再拝>

万事和する日 - 伝統

2016/02/08 (Mon) 21:05:00


           *「光明道中記」(P34)より

【生長の家とは建物の名ではない、「和」の名であり、「愛」の名である。
                   (『一流の人・妻・子を作るには』)】

生長の家は、「生長の人」と称さなかったところに深い意味が蔵されているのである。
生長の家は個人主義ではないのである。

「肉体本来無し」との宣言(よびかけ)は徹底的に個人主義を粉砕する。
肉体のないところに個人はあり得ないからである。
個人は無いが全体は有る! 

今までの医学は個人医学であったゆえに此の世界から病人を少くすることが
出来なかったのである。

過去(これまで)の政治は個人を目標とする政治、又は対立国家を目標とする政治であったが故に
全世界を永久平和に置くことが出来なかったのである。

今迄の経済は個人経済又は一国の経済を基礎としていたが故に
循環流通無限供給と云うことが不可能だったのである。


肉体無の真理を知り、ただ全体のみの存在する真理を知り、
その全体とは神に在(ま)しますことを知り、

その神の全徳の御表現が天皇(すめらみこと)に在らせられ
吾らがその股肱(ここう)にして赤子(せきし)であると知る。

一君万民、全世界の人類がただ上御一人(かみごいちにん)を大御親(おおみおや)として
仰ぎまつるには、肉体を見、肉体の差別を見、皮膚の色、眼の色などを見ていないで、
生命の《ひとつ》流れを把握すべきである。

            <感謝合掌 平成28年2月8日 頓首再拝>

貧しさの理由 - 伝統

2016/04/16 (Sat) 19:04:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P82~83)」より

すでにあるのに、多くの人が貧しいのは、第一家庭の調和を欠いていること。
祖先の祭祀(さいし)が足りないので祖先の守護の足りないこと。

家族の不調和と祖先の祭祀の不足とで、その人が外に出ても自分の身辺に漂うている
雰囲気が刺々(とげとげ)しくて、他から好意を持たれないことなどである。

            <感謝合掌 平成28年4月16日 頓首再拝>

「威張る、怒鳴る、怒る」の3つを捨てる - 伝統

2016/04/21 (Thu) 19:25:24

争いごとがなくならないのは、「い・ど・お」の心を捨てられないから

           *「ありがとうの神様」小林正観・著(P44~47)より

   「自分は間違っていない」とか、「自分は正義である」とか、「相手が間違っている」
   と思ったとき、人は、威張ったり、怒鳴ったり、怒ったりします。

   (「威張る、怒鳴る、怒る」の3つを、私は「い・ど・お」と呼んでいます)。

   多くの人は、「人間は、正義感や使命感を持つべきである」と考えていますが、
   私はそうは思いません。むしろ、その逆。人間の心のの中から、正義感や使命感が
   なくなったとしたら、どれほど平和な日々が待ち受けているかわかりません。

   ある人が言いました。


   『この世のすべての人が「自分は間違っている」と思ったら、戦争は起きないだろう。
   この世のすべての人が「自分は正しい」と思ったら、争い事ばかりだ。
   戦争はなくならないだろう」


 
   私も、そう思います。「自分は正しい」と思っていれば、
   必ずそこに、怒りや憎しみや、攻撃の心が湧いてきます。

   一方で、「自分は間違っているかもしれない」と思っていれば、
   怒りや憎しみや攻撃的な心は湧いてきません。

   そう考えると、怒りや憎しみの源泉は、正義感や使命感に立脚している可能性が高い。

   もし、人間の心の中から正義感がなくなれば、
   「なぜ、そういうことをするのだ」と、
   他人を指さして糾弾することはなくなるでしょう。

   そして、人間の心の中から使命感がなくなれば、
   「なぜ、そういうふうにしないのか」と、
   「しないこと」をなじることもなくなるでしょう。


   自分が自分を律するために、正義感や使命感を持つのはかまわないと思います。

   しかし、自分に対する律し方を他人にも押しつける必要はない。
   それをするから、相手の心の中に、憎しみや怒りが湧いてくるのです。

 
   そもそも、「正義」や「使命」は「神の領域」にあると思います。

   《しかし、「感」という漢字が付いて「正義感」「使命感」になったとき、
   相手を憎しみ、恨み、怒り、軽蔑するような「人間の心の動き」に
   つながっていくのです。》

 
   正義や使命を持つのも、正義や使命を感じるのもよい。

   ですが、それを他人に対して振り回してしまうと、
   周りはとてもつらい状態になり、心地の悪い思いをします。

   「感」を振り回すと、まわりの人を傷つけます。
   「感(カン)は、振り回さずにゴミ箱へ」。
   これは、私がいつも笑いながら言っている言葉です。

 
   私たちは、自分の怒りや憎しみは、「正当である」と思い、
   相手の怒りや憎しみは「間違っている」と思いがちです。

   しかし、自分が間違っていると思いながら争いを起こす人は、
   世の中にはいません。

   「私は全部正しい」と思う心が争いを引き起こしているのです。

   どんなときでも、怒らないこと。
   どんなときでも、相手を憎まないこと。

   「もしかしたら、私が間違っているのではないだろうか」と思い続けることが、
   「謙虚」ということではないでしょうか。

   謙虚さとは、自分がどう生きるかを、自分に課して生きていくことです。

   自分の価値観を他人に押しつけたときに、
   まわりのものが見えなくなる気がします。

            <感謝合掌 平成28年4月21日 頓首再拝>

「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である - 伝統

2016/05/17 (Tue) 17:35:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。

神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと
「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

            <感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>

「和」のあるところに害はない - 伝統

2016/05/22 (Sun) 18:52:44

《害心を持つものは本来無い》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

                ・・・

《「和」のあるところに害はない》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月23日)」より

一物(もつ)といえども、われに害を与える物はない。
神はわれに害を与える物を未だかつて創造ったことがないのである。

火も、水も、石も、瓦も、土もいっさいはわれを生かすために存在する。
もしそれがわれに害を与えるならば、それは我がそれに逆らったためである。

「和」のあるところに害はない。

いわんや「食物」がわれわれに害するなどということはない。

胃腸病の人にかぎって、食物が人間を害するように思っているが、
そういう逆らう心で、「食物に対する和」を失っているから、胃腸病になるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>

日本精神 - 伝統

2016/05/27 (Fri) 18:03:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月27日)」より

偏狭をもって日本精神だと思ってはならない。
一切包容のスッポリ一枚の衣で全身を覆うのが日本精神である。

太陽光線は無色だといっても、赤外線や紫外線の無色とはちがう。
赤外線や紫外線の無色光線の中には有色光線は含まれていないが、
太陽の無色光線の中にはいっさいの有色光線も無色光線も含まれているのである。

日本は太陽の国である。
太陽がいっさいの光線を包容して無色であるように、いっさいの宗教を包容しつつ、
無色に同化しうるのが日本神ながらの道でなければならない。

仏教やキリスト教を包容して太陽の道を伝える生長の家が
日本に生まれたのも由緒あることである。

            <感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>

大和の心 - 伝統

2016/06/02 (Thu) 18:38:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月2日)」より

視野の狭いこころは、自分ではよいことをしているつもりで、
かえって悪いことをしていることがあるものである。

それは全体との調和を見ることができないからである。
またあらゆる視角から事物を見ることができないからである。

日本精神 ―― 大和(やまと)の心 ―― というのは
最も視野の広いこころでなければならない。

一つの事物を見て、一人はこれを「三十」であると測定し、
他の一人はこれを「十二」であると測定する。
それは尺度がちがうからである。

先の人はセンチで測っているのであるし、後の人はインチで測っているのである。
世間には往々こういうたあいもない愚かなる争いがある。

            <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

柔かくなること。調和ある心を為すこと。調和ある動作をすること。 - 伝統

2016/06/06 (Mon) 18:58:03


         *「光明道中記」(6月6日)より

【調和した念を蓄積すれば健康寿福が現れる。(『生命の實相』第十二巻)】
 
柔かい心で一切を受け容れること。

上等のバネ附き褥(クッション)のように、羽根布団のように、
柳の枝が風を受けるように一切を調和して受容れる心になりたいものである。
弾力性のある心こそ必要である。

一時は強いようでも相手と衝突して
脆(もろ)くも折れて了うような心にはなりたくないものである。

弾力ある心はすべてが調和して相手と自分とが調和して共同動作をなすのである。
柔かくなること。 調和ある心を為すこと。 調和ある動作をすること。

先ず他に譲ること、譲り得ないならば、次に弾ね返す力を失って了うであろう。
譲るときは人は自分に好意を感ずるだろう。
その好意を感じているときに、自分の方は相手を弾ね返すのである。

而(しか)もその弾ね返し方が非常にやわらかであるので、
相手はこちらが弾ね返したかどうかに気がつかない位である。
相手は弾ね返されながら、そのことに就いて快感を感ずるであろう。

柔かく弾ね返す褥(クッション)のように。
調和から万事が生れ、調和から万物育つ。

調和とは譲り切りに、崩れて了うことではない。弾ね返す力がなければならない。

            <感謝合掌 平成28年6月6日 頓首再拝

《相手が自分を苦しめるのは自分の心の不調和が因(もと)》 - 伝統

2016/06/10 (Fri) 19:39:14


         *『 生長の家 』(昭和25年4月18日の法語)より

   自分が誰かと不調和な状態になったり、
   誰かが自分を苦しめると思えるようになった時には
   それは自分の心の影であるから自分の想念感情を振りかえって見て反省せよ。

   自分自身の心がおだやかとなり、
   自分自身の態度が相手に調和する様になった時、
   相手は自分にとって味方となってくれるのである。

   相手がたとい利己主義であっても それに対して腹を立て、
   攻撃しては 相手の利己主義は治らないのである。

   自分が彼を愛してやり、自分が彼に感謝してやることによってのみ
   彼の利己主義は治るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825912.html

            <感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝>

《心の波長を「実相」に合わせましょう》 - 伝統

2016/06/15 (Wed) 19:47:12


         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P313)より

   私達が色々の災禍から自然に避けるには、
   災禍と波長が合わない心の波を常に維持しなければなりません。

   そのためには私達は毎朝の生活を正しき「祈り」又は
   「神想観」によって始めるようにするが宜しい。

   その根本原理は、神に波長を合わすことなのです。
   又、従ってそれは各人の「内なる神」に波長を合わすことです。

   各人の実相は「神」であり、それに波長を合わせる事によって、
   各人の実相の「善さ」があらわれて来て、互いにその
   「善さ」と「善さ」とで調和した世界がひらかれて来るのです。

   各人の仮(か)りの姿に過ぎないところの「悪」に
   波長を合わしている限り、悪は尽きることなく、
   明るい世界、善なる世界はあらわれて来ません。

            <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

《相手と調和するには》 - 伝統

2016/06/25 (Sat) 18:25:12


         *『 生長の家 』(昭和26年5月24日の法語)より

   人間は根本的に「愛されたい」「認められたい」
   「理解されたい」のである。

   愛されたいのに愛して貰(もら)えず、
   認められたいのに認めて貰えず、
   理解されたいのに理解されない。

   そのもどかしさから、その反動から憎みが生ずるのである。

   相手と調和したいと思うならば、相手をみとめてあげ、
   理解してあげ、而(しか)して愛してあげることによって
   相手と調和することが出来るのである。

   愛されたい、認められたいのは、人間は決して「個人」ではなく、
   全体一つの生命であるからである。

   理解されたいのはすべての人には「善」なる神性が宿っておることを
   自覚しているのでそれを理解してほしいのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>

《賢者は不調和な面を見ない》 - 伝統

2016/07/06 (Wed) 19:29:59


          *『 生長の家 』(昭和26年6月16日の法語)

   自己の人生に調和と健康と繁栄とを
   持来(もちきた)そうと思うならば、

   この世界には、どんな混乱にも撹乱(かくらん)にも、
   それに秩序と平和と健全さとを回復しようと云う
   大いなる力が働いているのだと云う
   宇宙的な摂理(神)が存在すると云うことを知らなければならない。

   一寸(ちょっと)皮膚に傷をしても 内からそれを再生する力が
   内部から催して来つつあるのである。

   どんな埃(ほこり)が立ってもいつのまにか空気は澄み切るのである。
   地上の塵芥(じんかい)が風雨によっていくら流し込まれても
   暫(しばら)くのうちに大海原(おおうなばら)は澄み切って
   しまうのである。

   愚かなる者は、濁る方の現象を見て憂え、
   賢者は一切を浄化する宇宙的な力に信頼して心は平和であるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127


            <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

争闘の世界観を捨てよ - 伝統

2016/07/21 (Thu) 20:54:43


          *「光明法語」(7月21日)より

かくて黴菌は何らかの益を動物に与えるために造られたものであるが、
それが人間に害を与えるかの如くあらわれるのは、人間の自覚が「一」を失って
自己分裂し「争闘」の世界観をもっているために、争闘の精神が、低い階級の生命
(黴菌)に反映して、人間と黴菌との戦いになってあらわれるのである。

人間が万物の霊長であることが判れば、人間が闘争の世界観を捨てたとき、
そして一切調和の世界観をもったとき、
黴菌の性質は一変して、本来の有益な黴菌となる。

            <感謝合掌 平成28年7月21日 頓首再拝>

調和の念と黴菌 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 18:33:53


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月21日>(P59)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は
言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として取り扱われた菌とは
形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、支那軍が細菌戦術をとって
飲料水に細菌を投じたために、味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者が
できた中に、悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、
心に病を思わず、全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、
無恐怖の念と、心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

          <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>

和解の真理 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 19:26:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月28日>(P65)より

若い娘さんがお嫁に行って、その家庭がおもしろからぬ場合に、なんとかしてその婚家先から
逃げ出そうという思いを起こすと、病気になったりすることがある。病気になったら実家に
帰れると思うと潜在意識がその目的を達成させるために肉体を病気にならせるのである。

嫁が、そういうふうに逃げ出そうと思っているかぎりは本当の真心を尽すことができないから、
舅、姑から見ても百パーセントその嫁が真心を尽しているというように見えないから、
舅姑の方でも不満足である。そこでどうしても嫁に対して冷たく当たるということになる。

そして嫁と岳父母(しゅうとたち)との間に仕切りができたようになる。
けれども逃げ出すことができない。逃げ出すことができないのを逃げ出すために病気にでも
なるほかしかたがない。そこで潜在意識が病気をつくるのである。

夫婦間の仲がわるいために病気になれば、胸の病気か、泌尿器生殖器の病気となって現われる。
岳父母(しゅうとたち)を憎んだり、自分をこんな家へ嫁がせたのは父母が悪いと、父母を
恨んだりすると脊椎カリエスになったり、頭の病気になったりする。

こうしてその人を精神分析しただけでは病気は治らない。
本人を説得して、本人の不平や憎みを捨てさせねばならぬ。

「ここがわたしの家である。どんな苦しみであろうがどんな悪いところであろうがわたしの家である。
わたしが受けてそれを改善してゆくしか道がないのである」そう思って、受くべきものを
受けてしまう心境にならせたときに、そしてそれを感謝の念に変えしめた時に苦しみというものが
消えてしまうのである。

これが和解の真理の応用である。和解の真理というものは、都合のいいことだけに和解している
のじゃ足りないのであって、悪く見えるものをそのまま素直に受けて拝む。

痛み来たれば痛みに礼(らい)し、熱来たれば熱に礼し、下痢来たれば下痢に礼し、
いかなる症状をも敵と思わず、自然療能の催しなりとして感謝して受けるのである。
―― この心境に導くとき、病が消える。カリエスが消え、癌が消える。

精神分析は、分析の仕荒(しあ)らしだけではいかぬのである。
最後は「天地一切のものに和解し、感謝せよ」という宗教的心境にまで
誘導することが必要なのである。

神経性心悸亢進症などは心臓の動悸を恐怖していたのを、一転して「心臓が動悸しているので
血が循(めぐ)っているのである。ありがとうございます」と感謝の言葉を唱えさせるだけで、
治ってしまった実例がある。

以前樺太の敷香(しすか)町の巡査をしていた星平治という人のごときは札幌医大で両腎臓が結核
に冒されているから治療の道なしと宣言せられたのを、

腎臓の疼痛ごとに「自然療能博士が治してくださる信号だ。ありがとうございます」とその疼痛に
感謝し妻に和解するように指導しただけで治ってしまい、戦争中召集されて満州へ3年も従軍して
いてなんら病気が再発しなかったと報告せられた実例もある。

腎臓の病気も夫婦の心的葛藤から来るのであるから、それを調和させたとき治った実例は多い。

          <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>

「大調和の神示」が天降った記念日 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 18:46:36

今日9月27日は、85年前、谷口雅春先生に「大調和の神示」が天降った記念日です。


【大調和の神示】

汝ら天地一切のものと和解せよ。
天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
 
天地一切のものが汝の味方になるとき、天地の万物何者も汝を害することは出来ぬ。

汝が何物かに傷つけられたり黴菌や悪霊に冒されたりするのは
汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。

われ嘗て神の祭壇の前に供物を献ぐるとき、
先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。
 
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。

天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。

本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢しあったりするのでは得られぬ。
怺えたリ我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、
争いの念波は神の救いの念波を能う受けぬ。

 
皇恩に感謝せよ。
汝の父母に感謝せよ。

汝の夫又は妻に感謝せよ。
汝の子に感謝せよ。

汝の召使いに感謝せよ。
一切の人々に感謝せよ。
天地の万物に感謝せよ。

その感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。

われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。
われは此処に見よ、彼処に見よと言うが如くにはいないのである。

だからわれは霊媒にはかからぬ。
神を霊媒に招んでみて神が来ると思ってはならぬ。

われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。
われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。  

                     (昭和6年9月27日夜神示)


<関連Web>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「大調和の神示と講義」
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=141


谷口雅春先生のご講義の要点を以下に、整理しておきます。
なお、詳細については、上記のWebアドレスにてご確認ください。


(1)合掌礼拝の権威

(2)飛田給道場と徳久先生

(3)合掌感謝行

  ①本当に感謝する心になって合掌して「ありがとうございます 」と唱えるとき、
   そこに無限の功徳があらわれるのであります。

  ②生長の家は「生命の礼拝」即ち生命を拝むということから出発したのであります。

(4)「祈りの間」

   「祈りの間」という密室で祈る事は、集団で祈る事とはまた別な、
   神と二人きりの対座が体験されるのであります。

(5)現象なし、実相直視

   病気を見ず、死を見ず、もう一直線に、ひたむきに病気なしの健康の姿を、
   実相を直視する眼でシューッと観る。

   そうすると健康の姿がシューッと出てくるのです。

(6)和解の神想観

   「私はあなたを赦(ゆる)しました。貴方も私を赦しました。
   貴方と私とは神に於いて一体でございます。私は貴方を愛しております。
   貴方も私を愛しております。私と貴方は神に於いて一体であります。
   私は貴方に感謝しております。貴方も私に感謝しております。
   貴方と私は神に於いて一体であります。

   有難うございます。有難うございます。」

   こう一通り念じましたら、また始めに返って、
   「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。‐‐‐‐」こう繰り返して、
   1回20分ばかり念じます。

(7)小牧實秀君の『生命の尊重』のこと

(8)「因果昧(くら)まさず」

   本当に、すべての業は、その循環が眼に見えないでも、実際は全部循環して
   やがて結果が眼に見える世界にあらわれて来るものなんであります。

(9)色情

  ①心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

  ②色情を起し、妄想を起してはいけない、とキリストは述べております。

(10)放つ

   病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。
   「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。
   放てば生きる!

(11)新たに生まれる

  ①悪い相に目をつむって、そして、新たなる眼を開くんです。
   これが新たに生まれ更るであります。

  ②目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
   親天新地となって現れて見えるのです。

   病気は消え、貧しさは消え、ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

  ③「現象の抹殺」、「無」を知ることが大切なんです。

   心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、
   そんなものは実は「幻」であって、本当は無いんだ。
   「無」だと悟るんですね。

   「無」の関所を一遍超えなくては、実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

  ④「人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」とキリストは
   ニコデモに教えているのであります。

   肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
   神の国を見出すことはできないのであります。

            <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

猫と雛鳥とはかくのごとく調和している - 伝統

2016/09/29 (Thu) 18:30:29


       *『生命の實相』14巻(P31~33)より

昭和九年五月六日、わたしは上京しまして、浅草富士小学校で講演しました際に、
千葉の松崎武雄という人が来ておられまして、こういう話をされたのであります。

数年前、松崎君は百姓愛道場の江渡狄嶺さんの著書
『ある百姓の家』というのをお読みになった。
その中にこういうことが書いてある。

江渡さんが鶏の雛を飼っておられた。
それを泥棒猫がねらって、ともすれば捉えて食べてしかたがない。

そこで江渡さんはある方法を考えつかれた。
それは「兄弟なる猫よ、兄弟なる鶏の雛を食うなかれ」と
紙に書いて鶏舎に貼り付けて置かれた。

するとその日から猫が鶏をねらわなくなった。
そこまではよいのですけれども、数日後に付近の線路で
轢き殺されている猫を見いだしたというのであります。

これはまさか泥棒猫がその貼り紙を見て、
もう今後鶏の雛を食べるわけにはゆかないと思って
悲観の極自殺したわけではありますまいが、

雛鶏との間は江渡さんの愛の念波で調和してしまったけれども、
猫自身に不調和な心が残っていて、その不調和な念の具象化として、
その猫は轢殺されてしまったのであります。

 
ところが松崎武雄君のお宅でも雛を飼っておられた。
その雛を猫がねらってしかたがない。

そこで松崎君は江渡さんのように貼り紙はせられなかったが神想観して、
「猫と雛鶏とはその実相において完全に調和している。
決して噛み合い殺し合いなどは存在しない」ということを念じられたのであります。

すると不思議や、それ以来猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。
しかしその場合は、江渡さんの場合のように猫が殺されてそこにいなくなったのではない。

猫はちゃんとそこにいる。そして猫と雛鶏との間が調和して
猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。

            <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

《調和した世界を見よ》 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 19:15:45


      *『 生長の家 』(昭和23年9月18日の法語)より

   どんな見せかけの不調和の奥にも
   実際は 調和した善なる世界が存在するのである。

   それを如実に知ることを 「 悟る 」 と云うのである。

   不調和をいつまでも見つめておれば不調和は消えぬ。
   不調和を見つめるという云うことは
   不調和に波長を合わせていることであるからだ。

   不調和の中にいても、不調和を見ず、調和ある実相を見よ。
   不調和は消えてしまい調和ある実相が
   現象世界にあらわれてくるのである。

   すべて現象世界は心の波の世界であって、
   心の波がかわれば、現象世界も姿はかわるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

《人から誤解された場合》 - 伝統

2016/10/12 (Wed) 18:50:32


          *『幸福を招く365章』第10項(P203) より

他(ひと)から誤解されたからと云って失望してはならない。

自分も多くの人々の美点の総てを見ることに失敗し、
時々誤解によって人々を悪しざまに思ったことがあるからである。

肉体人間は視野が狭いから時々観察を誤るものであると云うことを知って、
誤解した人を宥(ゆる)さねばならない。

又どんなに偉い人でも、釈迦でも、キリストでも、
親鸞でも、日蓮でも、誤解されてその時代に容れられなかった
時があるのだと云うことを知って、

自分が受けた誤れる批難くらいは何でもないことだ、
と心から捨ててしまうことが必要である。

そして

「すべての人は神の子であるから、
互いに愛し合い理解し合っていて誤解し合っている人は一人もない」

と実相調和の有様を心に描くことが必要である。

            <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解がある - 伝統

2016/10/22 (Sat) 19:10:02


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月22日>(P106)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは天地一切のものが、すべて覚体であるという
前提があってのことである。覚体でなければ、和解のしようがない。ただその機械的暴力に
従うか、それを利用するか、征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

自然との和解は、「小我」の征服から - 伝統

2016/10/29 (Sat) 19:23:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月30日>(P115)より

人間は自然を征服しえない。自然と協力しうるのみである。
征服しうるのは「小我(しょうが)」のみであって、
「小我」を征服したとき、自然とわれらは和解しているのである。

自然を征服したと思っているのは、「小我」の力みであって、
必ずその迷妄は自壊する時がくる。

自然を征服した結果の自然の反逆を天罰だと言う人もあるが、
実は迷妄の自壊にすぎない。

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずる - 伝統

2016/11/11 (Fri) 18:47:02


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月11日)より

なんじら立ちかえりて静かにせば救いを得、穏やかにして依り頼まば力を得べしと。
なんじらこのことを好まざりき、なんじら反(かえ)りて言えり。
いな、われら馬に乗りて逃げ走らんと。このゆえになんじら逃げ走らん。

また言えりわれら疾(はや)きものに乗らんと。
このゆえになんじらを追う者疾(はや)かるべし。 (「イザヤ書」第三十章十五~十六節)

これこそがあらゆる病人の心理状態であり、同時にいっさいの精神治療の原理が書かれている
のである。多くの肉体および経済界の病人はなんらかの自力の馬に乗って逃げ走れば、
病気は追っかけて来ないものだと考えて逃げ走っているのである。

薬剤に頼る病者、手術に頼る病者、金を儲けよう、借金をのがれようと奔走する者
皆然りである。病気や貧乏が近づいて来ないように思いちがいしているのであるが、
そのゆえに、それを追う者もまた疾(はや)くちかづいて来るのである。


ヨブは 「請(こ)う、汝、神と和(やわ)らぎて平安(やすき)を得よ。
然らば福禄(さいわい)なんじにきたらん」(「ヨブ記」第二十二章二十一)
と言っているのである。

多くの人たちは神と和解してしないのである。
落ちつかないのは第一根本に神と和解していないからである。

何か神の創造(つく)りたまえる世界にも「悪」が存在すると思い、
神の「目こぼし」があると思い、神を疑っているのである。

真に神を信ずる者はいかなる事態があらわれても、驚いて馬に乗って逃げるということは
ないのである。「静かに」そして穏やかにして、神の力が善にして無限であることを自覚し
それに依りたのまば、勇然と力が湧いてくるのである。


なんじ知れ 「神の霊われを造り、全能者の気息(いき)われを活かしむ」
(「ヨブ記」第二十二章四)ということを。

すべての悪と病気は神と和解していないところから生ずるのである。
神罰を信ずる者は神が無限絶対の愛であるということを知らないからである。

誰か人と和解していない者は、実は神と和解していないのである。
なぜなら神のつくり給える世界に悪人があるということを信じて恐怖しているからである。

カール・メニンジャー著『人間の心』には無数の病気が精神治療によって治ったことが
書いてある。(ただしいかに治療したかが書いていないのは遺憾である)

「彼女は《賢明》に医者と協力し、初めて精神医に接してから快方に向かった」
(前書下巻三三三ページ)というふうにである。「賢明に」というのはどういうふうにかは
わからないのである。

わたしは『精神分析の話』の中でいかに器質的疾患がかく分析してかく導いたら治ったと
導き方を多数の実例をあげて書いておいたのである。この書をメニンジャー博士に捧げたい。

         <感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>

《相手と調和するには》 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 20:12:19


         *『幸福を招く365章』第11項(P236) より

人間は根本的に「愛されたい」「認められたい」「理解されたい」のである。
愛されたいのに愛して貰(もら)えず、認められたいのに認めて貰えず、
理解されたいのに理解されない。

そのもどかしさから、その反動から憎みが生ずるのである。

相手と調和したいと思うならば、相手を認めてあげ、理解してあげ、而(しか)して
愛してあげることによって相手と調和することが出来るのである。

愛されたい、認められたいのは、
人間は決して「個人」ではなく、全体一つの生命であるからである。

理解されたいのはすべての人には「善」なる神性が宿っておることを
自覚しているのでそれを理解してほしいのである。

(初出~「生長の家(昭和26年5月24日)」)

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

《敵を向うに廻さぬ日》 - 伝統

2016/12/09 (Fri) 17:46:53


         *「生長の家」(昭和16年10月6日の法語)より

   此の『吾が平法の深奥を玩味する人稀にして疎かに
   所作行動を学び得るを本意と思へり』と云う嘆きはひとり、
   山内蓮心翁の嘆きのみではないのである。

   生長の家をただ『病気』とか『不幸』とか云う敵を
   向うに廻して立合うところの心術だと誤まって、
   ただ小手先の悟りと思って中途にて易々加減に『わかった』
   と思って捨て去る人があるのは、
   まことに宝の山に入りて、空しく帰る人々に等しいのである。

   生長の家の教は、敵を向うに廻して戦う
   闘病者でも災難消除の加持でもない。

   空々として心の技巧なくなりて、天地一切のものと調和せよ
   と云うのが住吉大神のみ教である。

   そのとき、天地一切がスミヨシの世界になるなり。
   天地一切が洗い清められて、我がなく敵がなくなるなり。
   これが禊ぎ祓である。

   形式儀礼にあらず、所作行動にあらず、
   伊邪那岐大神の大身祓と一つとなるのである。

   その時龍宮海ひらかれ、
   綿津見神、塩筒之男神・住吉大神現れたまう。

   鱗の如く作れる龍宮海の甍眼の前に聳え〈古事記〉、
   宝の山眼の前にあらわれるのである。

   それは利己主義的現世利益にあらず、
   あたらしき天と地とを見出すのである。
   悔い改めなり。三百六十度回転なり。

   新しき神都が花婿のために飾りたる花嫁の如き姿にて
   天降り来る〈黙示録〉のである。

   先ず身を剥ぐことが必要なり。身ソギ祓なり。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

         <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

《自己を顧みる日》 - 伝統

2016/12/19 (Mon) 17:35:47


           *「生長の家」(昭和16年10月7日の法語)より

   生長の家は敵を立てて戦うに非ず、敵なき世界に入り、
   邪心を抱くものに、おのづから鏡に影がうつるが如く
   自壊が起ること、山内翁の無敵の平法に同じである。

   「それ平法の真妙剣と云うは天地の妙を体認して剣術を行うゆえに、
   我此の真妙の心理を考えて、先ず天地の本性を見るに蓋し
   天地の本性は陰陽和合して大極建つ。

   其の中に万物包括せる故に乾坤の中にあらゆる物皆是れ
   天地の一性にして随順せずと云うことなし。
   天道に背き戦う者は自ら其身を害兇す。

   故に天地の外に亦天地なし。
   何を敵として戦うべきことあらんや」と。


   天地の外に亦天地なしとは、天地に対立のないことを云ったのである。
   天地は『一』である。『神の創造った世界』と『悪魔の創造った世界』
   対立するような二元的世界観ではない。

   我なく敵なく、天地ただ『一』なることを悟るとき天下無敵となる。


   『愚(それがし)おもへらく、天何ぞ天、我何ぞ我、
   同根一体にして其の性を一にす。天地無敵なれば、即ち我も亦無敵。
   是を以ての故に、我「一」の道を名づけて平常無敵と号す。
   平は平にして中也。常(じょう)は庸にして中庸の理なり』


   中庸に『喜怒哀楽の未だ発せざる、之れを中(ちゅう)と云う。
   発して節に当る、之れを和と云う。
   中とは天下の大本、和とは天下の達道。
   中和を発して天地位し、万物育つ。』

   心『中』ならば、発して必ず節に当り、万物育ちて天下無敵となる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346



         <感謝合掌 平成28年12月19日 頓首再拝>

神と調和すること - 伝統

2016/12/23 (Fri) 17:31:13


           *「光明道中記」(12月23日)より

【 朗らかに笑って生きよ。陽気の充ちた家は必ず生長する。(『生命の實相』第四巻)】

人間の貧しき原因は、彼の心の不調和より来るのである。
彼の心の弱さより来るのである。

心不調和なれば、事業に於いても仕事に於いても精確なる判断をすることが出来ない。
また適当に物事を推し進めることが出来ない。
すること為すこと不適当となるのである。

心弱ければ最後の踏ん張りがきかないで肝腎のところで崩折(くずお)れて了うのである。
また心弱ければ思い切るべき時、思い切ることが出来ず、
果断である時に果断であることが出来ない。

失敗すべきことに何時(いつ)までも恋々としていて新生面を開くことが出来ない。
成功の要素として欠くべからざるものは、調和の心と、強さの心とである。

では調和の心は如何にして養い得るか。
すべての隣人と調和することである。
先ず自分の家族、親類等と仲よくなることである。
これらの人々と調和することによってのみ、吾々は神と調和することが出来るのである。

神と調和することによって、神からの叡智が流れ入る。
神からの叡智が流れいることによって、押し進むべき時には勇敢に押し進み得、
退(しりぞ)くべきときには調和して退き、
思い切るべきときには果断に断念し得るのである。

         <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>

調和と平安の精神波動を持参する - 伝統

2017/01/02 (Mon) 20:40:26


           *「光明道中記」(1月2日)より

【愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。(『生命の實相』第十一巻)】

人を訪ねる時は、その人に幸福を手土産(てみやげ)として行くべきである。
このことを知ったとき、私はひとを訪問することが楽しみとなったのである。

誰でも人を訪問する時には物質的手土産を持って行くことを忘れないのであるが、
手土産と云うものをただ物質的にのみ考えていた時代には手土産なしに人を訪問することが、
何か不自然な忘れ物をしたような感じがして気が咎めたが、
手土産は必ずしも物質に限るべきものではない。

「心の手土産」と云うようなものもあると云うことが解るようになってから、
私は必ずしも人を訪問するのに以前のような窮屈な感じがしなくなったのである。

心の手土産と云うのは何か、調和と平安の精神波動を持参することである。
人を訪問するに当って、相手の家が、神の愛に満たされて調和と平安に満たされている
ことを念じてその家に入るのである。

そんなことが何の価値があるかと言うのは唯物論者のことである。

人が人を訪問するのに、その家の平安を祈りながら戸口をくぐる事は荘厳な行事である。

            <感謝合掌 平成29年1月2日 頓首再拝>

団欒と仕事との調和 - 伝統

2017/01/08 (Sun) 19:48:09


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月7日~8日)より

常に仕事をすると言っても、緩急がなければならぬ。
緩急のない生活は、張り切ってばかりいる弓の弦(つる)のように、
次の矢をつがえることができぬ。

一張(ちょう)一弛(し)の交代によって弓の矢は的(まと)を射抜(いぬ)く。
張り切ってばかりいる弦(げん)はついに切れる。

さればといって、仕事をする時に懶(なま)けよと言うのではない。
弓を射るときには一心(しん)でなければならぬ。
仕事をするときにも一心でなければならぬ。

本当に張り切ったとき仕事は前に命中する。

仕事が終わるか、定められた休息の時間が来るか、家に帰って家族と
うち寛(くつろ)ぐ時が来た等のときには本当に打ち寛(くつろ)がねばならぬ。

仕事は渋面(じゅうめん)をつくるためにあるのではない。
仕事は喜びを感ずるためにあるのである。
仕事を渋面をつくるためにあるように思ったり、
渋面をつくらねば真面目でないと思ったりするのはまちがいである。

団欒のときには楽しくすることが一つの仕事である。
家庭の団欒が忘れられているがために、妻が不平を言ったり、家族が病気になったり、
良人が危険の淵に近づいてゆくことも考えねばならぬ。

人間は金を積んで走る馬車馬のために造られているのではない。

             ・・・

あまりに四角四面な余裕のない押しつめられた生活からは幸福な生活は生まれぬ。
曲線と直線とが巧みに調和していなければ美術でも生活でも美しくないのである。

団欒と仕事との調和を考えること、
あたかも美術家が曲線と直線との調和を考えるがごとくでなければならぬ。

         <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

争わないこと - 伝統

2017/01/12 (Thu) 18:37:11


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月12日)より抜粋

わたしはこれをこう考える ―― と言うときわたしは一つの立場に立つ。
一つの立場に立つかぎり、「彼はこう考える」という立場をも許してやらねばならぬ。

球体の眼球(がんきゅう)を有するわれわれは、穹窿(あおぞら<きゅうきゅう>)は
球状であって宇宙も球状であると考える。しかしその考えをわれわれがもし三角ガラスの眼を
もった人種に強(し)いるならばまちがいである。

宗派を立ててはならぬ。偏狭がいっさいの争いの因(もと)である。
神のうちには争いはない。神はいっさの争いを、いっさいの背反を包容している。
釈迦が未(いま)だかつて何々宗という仏教を説いたことはなかったのである。

何々宗という多数の宗派は釈迦滅後に生じたのであって、いっさいの背反を包容する
超越的立場が失われたときに生じたのである。だから釈迦は宗派争いをしたことはない。
ただ後世の仏徒 ―― いな反仏徒が宗派争いをするのである。

宗派ばかりではない。
個人の生活でも争いができるのは、
おおむね超越的立場から墜落した者の挑戦から来るのである。

            <感謝合掌 平成29年1月12日 頓首再拝>

すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる - 伝統

2017/01/14 (Sat) 17:38:52


           *「光明道中記」(1月14日)より

【顔が膨れ上がるのは心に不平不満を持つ膨れた心の現(あらわれ)である。
                              (『生命の實相』第一巻)】

優しい眼を見ていると心が静かになって来る。
険しい眼を見ていると心が険しくなって来る。
微笑を含んでいる顔は世の中で最も貴いものの一つである。

赤ん坊の眼は美しい。
価値の創造は手先(たなすえ)の技(わざ)ではない。
先ず心が澄むことである。眼の光が澄むようにならなければ、その人はまだ本物ではないのである。

澄んだ中にも色々の光がある。その光が色々の内容を語っている。
智慧で輝いている眼、威相で輝いている眼、慈愛に輝いている眼、みんな尊き眼である。
すべての人間の眼の光が澄んで来たら、世の中に争いがなくなる。

争いの愚かさに人間が懲りて来たからとて永久平和が来るようにでも思うのは愚かなことである。

世界大戦で、全世界の人類は戦争の悲惨には飽きて来ている筈だけれども
戦争を止めようとは思っていない。また戦争時代に生きていたすべての人間は、
5、60年もすれば死んで地上にいなくなる。

やがて戦争を知らぬ人間が地上に蔓(はびこ)り戦いを始めるだろう。

人間の眼が澄んで来ない限り駄目である。

            <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

《大調和の日》 - 伝統

2017/01/20 (Fri) 18:58:39


            *「生長の家」(昭和16年10月31日の法語)より

   食物が“調和”していたら、食物そのままが薬剤(くすり)となる。
   随って他に心労とか心配とは精神的な悩みのない限り
   病気にはならぬのである。

    ―― 薬剤(くすり)と云うのは不適当な言葉ではあるけれども、
   奇しきはたらきをし、吾々を生かすと云う意味である。

   「何を食べても好い」と云うのは「食物の分量や配合や性質」に
   心を捉えられて、その方面からの心労の絶えぬ人に対する
   「心労放棄の一喝」であって、

   わざと不調和の食物を選んで食べよと云うのではないのである。

   そう云えば、やはり「食物には気をつけねばならぬ」と云って、
   またまた食物について気苦労するようになる人には、

   もう一度「何を食(くら)い何を飲まんと思い煩う勿れ」と
   大喝しなければならぬ。

   凡てありとあらゆる物は外形は「物質」であっても、
   内容(なかみ)は「理念」であるから、

   「理念」は目的理想があって、あるべきところへ、あるべきように、
   あらしめられることを要求しているのであるから

    ―― 簡単に云えば「処を得る」と云うことを要求している
   のであるから ―― 処を得ない時には不調和があらわれるのである。

   だから人間の食用すべき食物と食用すべからざる物質とがある。
   また同じ物でも時と人と場合とによって調和したりしなかったりする。

   科学は色々の実験を通してその処を得る法則を発見し、
   宗教は直覚又は霊感によって其の処を得る道を知らさんとする。
   だから科学は宗教とは一致して相補わなければならぬものである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>

《和解するとは感謝することである》 - 伝統

2017/01/24 (Tue) 18:39:38


           *『 生長の家 』(昭和46年10月31日の法語)より

   西澤彦兵衛さんは、天地一切のものに和解せよ、
   和解するとは感謝することである。

   この感謝の教えが金光教と一致するというので、
   それを実践するようにせられて、
   当時 戦争中であったので、軍需省の許可がなければ
   大きな仕事は何も出来ない頃であった。

   西澤さんは 上京すると、必ず、軍需省へ出頭して
   感謝することにせられたのである。

   すると局長が 「 西澤、今日は何の用事で来た? 」
   と声をかけてくれる。

   西澤さんは 「 別に用事というて ございませんが、
   いつも ごひいきにあずかりますので 感謝のために
   挨拶にまいりました 」 というと、

   局長が その部下の役人に

   「 君、西澤君の先日 出した書類、早く見て判を押してやってくれ 」
   などといってくれて 仕事が順調に運ぶのだったという。

   その頃、日本の産業は 満州奉天に、新しい満州国の産業育成に
   工場を移築したりしたので 西澤さんは自分の硝子会社の工場も
   奉天に移築したいと思って、

   本当に芥子種のような新鮮な信仰をもって

   「 この工場が、日本海を越えて満州へ移築するようにして下さい 」

   と祈ったのであった。

   すると その祈りはきかれた。

   それは軍需省から 「 奉天に硝子工場を建設することが必要だから、
   お前の工場を移築する 」 という命令が来たのである。

   そして その移築も作業も運賃も、軍の費用でそれが行われて、
   
   まことに 「 芥子種ほどの信だにあらば、工場に日本海を越えて、
   満州に移れというといえども必ず成らん 」 という真理が
   実現したのであった。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

            <感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>

すべての人と仲よく - 伝統

2017/01/26 (Thu) 18:42:45


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月27日)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

            <感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>

《最初にして最大の誡めを実践せよ》 - 伝統

2017/02/04 (Sat) 19:01:41


        *『 生長の家 』(昭和25年11月2日の法語)より

   病人で 「 生命の實相 」 を読んで、人間は薬剤に頼らずとも、
   自己の内に 「 神の子 」 の無限生命力がある ー 
   と云う点だけを読んで、
   薬剤を廃したり 医療をやめたりする、

   経済的に都合が好いことであるからと、早速に医薬と医療を廃し、

   それでいて、 「 生命の實相 」 の巻頭にある

   「 汝ら天地一切のものと和解せよ・・・
   和解するとは怺え合っていることではない。
   感謝し合ったとき本当の和解は成立する 」

   と云う 最初にして最大の誡めを実践しないで、
   病気が増悪したから 「 生命の實相 」 の悟りも駄目だ、
   と云う人があるが、病気は、心が変らないで
   医療を止めるだけでは決して治らぬのである。

            <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>

人・時・処の三相応~大調和 - 伝統

2017/02/07 (Tue) 20:51:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月7日)」より

才能ということは一つの資格であるがすべてではない。
智恵と力とがいくら多くあっても人望を集めえない者は《天の時》を得ることができない。

天の時は人望から来るのである。
人望は人の和すなわち調和から来る。

なんの働きもないのに出世しているような人を見ると、
才能があって出世しえない者は嫉妬羨望して不平に思いがちであるが、
働きというものは眼に見える才能的な、また技術的な働きばかりではない。

何をしなくとも大いに働いている人がある。
「無為にして化す」という言葉にあてはまる人はそんな人である。
あの人がいてくれるので、ただいてくれるだけでこの団体に重みがある
というような人はそういう人である。

才能ある人はこの種の「無為にして化す」る人を羨(うらや)んで不平に思ってはならない。
唯物論の人は物質的働きしか見えないから無為人(むいじん)に対して反抗しがちである。

無為人とは何もしない人ではない。そのままで大いに為している人である。
一家の心柱(しんばしら)であり礎石(そせき)である。

諸々の機械が滑らかに実に複雑な働きをなしうるのは、
工場の礎(いしずえ)と柱とがしっかりしているからである。
礎(いしずえ)と柱(はしら)とは無為人である。

礎と柱とは平均がとれ重心がとれていなければならない。
言い換えれば全体と調和していなければならない。
調和が生活の重心である。

才能がありあまるほどありながら、出世しない人は、周囲と調和しない人か、不平の人か、
長上のものに親しく近づいて行くことをおべっかつかいとまちがえられることを惧(おそ)れて、
長上に近づくことを潔(いさぎよ)しとしない人か、下の人には深切であるが
上の人には恭(うやうや)しくない人かである。

栄えるためには人(ひと)・時(とき)・処(ところ)の三相応が備わらなければならない。
人・時・処の三相応といっても大調和のほかに何もない。
人に相応し、時に相応し、位置に相応して調和してゆかなければならない。

下剋上は花々しいように、あるいは潔(いさぎよ)いように思いちがえられて
若い青年たちに歓迎せられやすいが、それは人時処(じんじしょ)の三相応を破るものであり、
大調和を毀すものである。

一時効果を収めるように見えても永遠の栄えは下剋上からは来ないのである。
ドイツやイタリヤの共産革命が中途で破れたのは下剋上の革命であるからである。
ヒットラーもムッソリーニも下剋上の反動に乗ったために一時栄えたのだ。

下剋上は必ず反動が来るものである。
ソビエトにおいてすら下剋上には反動が来ている。
ロシア革命当初の元勲はすべて放逐か、国外逃亡か、銃殺されてしまっている。

ものは落ちつくところへ落ちつかせるしか仕方がない。
無理に上へあがっても結局は落ちるばかりであり、落ちるまでは不安なばかりである。

雲雀(ひばり)は空にあって楽しく囀(さえず)り、すずむしは草場の下にあって楽しく啼く。
すずむしを蒼空で囀(さえず)らせようと思っても無駄である。

            <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>

《先ず神に和解せよ》 - 伝統

2017/02/12 (Sun) 17:45:50


          *『 生長の家 』(昭和25年11月4日の法語)より

   「天地一切のものに和解する」 には、
   第一、神に和解しなければならないのである。

   神に和解するには、神の創造した世界には、
   一切の悪は決して存在しないと云うことを
   先ず信ずることである。

   「 お前のこしらえたものに碌(ろく)なものはない 」
   などと考えているのでは
   相手に和解していることにはならないのである。

   神に対してそんな考えをもっていながら
   神に和解していると考えてはならない。

   肉眼に如何に不完全な相(すがた)が見えようとも、
   神の創造(つく)ったこの世界には不完全な存在はない。

   それは 自分のあやまれる心の反映だと
   自分の心を反省しなければならない。

            <感謝合掌 平成29年2月12日 頓首再拝>

家族の調和 - 伝統

2017/02/17 (Fri) 18:34:48


       *「生長の家」(昭和25年11月6日~7日の法語)より

《夫婦の調和を完全にせよ》

   神に和解し感謝した次には、
   夫又は妻に和解し感謝しなければならぬ。

   どんなに多くの夫婦が互に憎み合っていることであろう。

   夫婦は互に相愛しているがゆえに、その愛の執着性のゆえに
   最も多く憎み合っているものである。

   愛は自他一体の自覚であるが故に、
   自己の好むところの其(その)通りに、
   夫又は妻をあらしめようとする。

   此処(ここ)に自己の好む通りにしてくれない
   夫又は妻に対して憎み又は憤りを感ずる。

   不平とか単なる不満足は、
   その憎み又は憤りの軽度のものに過ぎないのである。

   此の隠れたる不平不満が
   重大なる病気の原因になっていることがあるから
   省みて赦し合い、和解し合い感謝し合え。


・・・

《家族全部が調和し合え》

   一人の家族のイライラした感情、激しい言葉、叱咤(しった)が
   家族全体の精神的雰囲気をくもらせ、それが恰(あたか)も
   稲妻が風雨を呼び出すように 精神の空中放電を起して、
   家族中の誰かに致命的な落雷を生じて病気たらしめることがある。

   家族のうちの一人でも面白からぬ感情をもっている者があるときは、
   すみやかに打ち溶け合って和解し、感謝し合うようにしなければならない。

   一人の嫁が姑(しゅうとめ)の行為を不満足に思っていただけで、
   その嫁の子供がトラホームに罹っていて
   医療をつくしても治らなかった実例がある。

   かかる場合、医療を止(や)めるか止めないかが問題ではない。
  
   嫁が姑に和解してしまった時 忽然(こつねん)治ったのである。

            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

平等にして 差別があるのが 大調和 - 伝統

2017/02/26 (Sun) 19:39:51


       *『人生読本』(P67)より 抜粋

生きとし生けるものが 平等だということは、
生きる命はみんな神様の力が宿っているのであるから、
どれも皆同じように尊いということである。

しかし形の世界では、その神様の力のあらわれ方がみんな違う。

平等にして差別ありの真理を知らねばならぬ。

人間はみんな尊いが、
人と時と処との三つの相応(ちょうどよい)ということを知らねばならぬ。

この相応を得たときにすべてのものが大調和するのである。


             ・・・


*上記の、《平等にして 差別があるのが 大調和》の前後を含めた全文は
 次の通りになっております。(P65~67)


  或る時、一人の行者が仏様の教えをきいて悟りました。
  本当は悟ったと思ったのです。

  どう悟ったかといいますと、生きとし生けるものは、ことごとく仏の子であるから、
  どんなものでも兄弟だと思い、深切にしなければならぬと思ったのでした。

  そう思って、或る朝 庭に立って見ておりますと、

  一匹の毒蛇がにょろにょろとその行者のところへやって来ました。
  行者は、生きとし生けるものはみんな兄弟であるから、深切にしてやらねばならぬ
  と思って、座敷の上へ上げてやり、食物を与えて大切に飼っておきました。


  すると一人の友人が来て、「君は毒蛇を飼っているそうだが、
  人間は人間、畜生は畜生であるからいっしょの待遇をしてはならぬ。
  ことに毒蛇などと一緒の生活をしたら、しまいには噛み殺されてしまう」と、
  深切に忠告してくれました。

  しかし行者は答えました。

  「生きとし生けるものは、みな兄弟であるから、
  深切に平等の扱いをしなければならない。
  君のように差別的なことを言うものは迷っているのだ。」

  友人は自分の忠告がきかれないのを、悲しく思いながら帰って行きました。

  その後しばらく、行者は毒蛇と仲よく暮らしておりましたが、
  或る日食物を集めるために、やや遠いところへ旅をしました。

  1週間も家を明けて帰って来ますと、毒蛇は餌(え)を与える人がないので、
  行者を待ちかねていましたので、

  行者が「そら蝮(まむし)さん、さぞひもじかっただろうね」と言って、
  餌を口のところへ持って行ってやりますと、

  毒蛇はあまりにもお腹が空(す)いていましたので、
  あわてて餌と間違えて行者の指先に咬みつきました。

  見る見る行者の指先から毒が廻り、腕が腫れ、
  身体ぜんたいが赤紫に腫れてしまって死んでしまいました。


  《・・・・・生きとし生けるものが 平等だということは、
   生きる命はみんな神様の力が宿っているのであるから、
   どれも皆同じように尊いということである。

   しかし形の世界では、その神様の力のあらわれ方がみんな違う。

   平等にして差別ありの真理を知らねばならぬ。

   人間はみんな尊いが、
   人と時と処との三つの相応(ちょうどよい)ということを知らねばならぬ。

   この相応を得たときにすべてのものが大調和するのである。》


  蛇を座敷へあげるというようなやり方では、
  この行者のように、遂に毒蛇に咬み滅ぼされてしまうものです。

            <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

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