伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること④ - 夕刻版

2015/09/26 (Sat) 19:01:22


<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46

(2)スレッド「人の上に立つ者に求められること①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974

(3)スレッド「人の上に立つ者に求められること②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6518568

(4)スレッド「人の上に立つ者に求められること③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6565311

・・・

指導者の条件38(小事を大切に)

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は小事をおろそかにしてはならない。

三菱の創業者である岩崎弥太郎が、ある時幹部の一人を自室に呼び、
机の上にある紙を示して、「君、これは何事だ」と声荒く叱りつけた。

その人が驚いて見ると、自分が前に出した欠勤届で、それは会社の用箋に書かれたものであった。

弥太郎はさらに語気を鋭く、「いやしくも本社の最高幹部たる君が、公私を分けず、
私用の欠勤届に会社の用箋を使うとはもってのほかだ。厳罰に処する」と1年間の減俸を命じた。

その幹部の人も、自分の非をさとって深く詫び、1年間の減俸を甘受するとともに、
以後ますます力を尽くして活躍したという。
今から見ると、これはいささか厳しすぎるような感じもしないではない。

まあ、この程度のことなら、というので見過ごしたり、
せいぜい「君、気をつけてくれたまえ」と注意するぐらいであろう。

それを、厳しく叱るだけでなく、1年もの減俸という重罰を課した方も課した方だが、
それを喜んで受け、以後大いに発憤奮起したその幹部の人も偉いと思う。

指導者としては何よりも見習うべきは両者の火の出るような真剣さだろう。

そうした真剣さがあって、大三菱というものが建設されたのだと思う。
同時に、弥太郎がこのような小事とも言えることを叱ったのは
それなりの理由があるのではないかと思う。

普通であれば、大きな失敗を厳しく叱り、小さな失敗は軽く注意するということになろう。
しかし、考えてみると、大きな失敗というものはたいがい本人も十分に考え、
一所懸命やった上でするものである。

だから、そういう場合には、むしろ「君、そんなことで心配したらいかん」と
一面に励ましつつ、失敗の原因がどこにあったのかをともどもに研究して、
それを今後に生かしていくことが大事ではないかと思う。

それに対して、小さな失敗や過ちは、おおむね本人の不注意なり、
気のゆるみから起こってくるし、本人もそれに気が付かない場合が多い。

そして、千丈の堤も蟻の穴からくずれるの例え通り、
そうした小さな失敗や過ちの中に、将来に対する大きな禍根がひそんでいる
こともないとは言えない。

だから、小事にとらわれて大事を忘れてはならないが、
小さな失敗は厳しく叱り、大きな失敗に対してはむしろこれを発展の資として
研究していくということも、一面には必要ではないかと思う。

            <感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>

「岩倉具視」 - 伝統

2015/10/01 (Thu) 20:34:16


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第8人目 「岩倉具視」

歴史の流れには、後世から見て分水嶺のように見えるところがある。
水が東に流れるか西に流れるかでその後の川の姿はすっかり変わってしまうのである。

たとえばアンデスの山の上で、東に流れた水はアマゾン川という大河になり、
西に流れた水は名の知られない小さい川になる。
わずかのところでその後の姿が大きく変わるのである。

 
徳川時代を開くもとになったのは誰でも知っているように関ヶ原の戦いである。
家康軍の主力は真田父子に上田城で足どめされて、この決戦には間に合わなかった。

小早川秀秋という愚かな青年大名が石田三成を土壇場で裏切ったから家康は勝てたのだ。
そうでなかったら、徳川時代でなく豊臣時代となり日本史の姿もうんと変わったことであろう。

 
徳川時代の関ヶ原の戦に相当するのは明治時代では何であっただろうか。
それは慶応3年(1867年)12月9日の夜から10日の未明にかけての会議、
いわゆる小御所会議である。

幕末の騒動の結果、将軍徳川慶喜は将軍職を辞退した。
いわゆる大政奉還・王政復古であるが、これは同じく慶応3年の10月24四日のことであった。
これから約1ヶ月半の後に、新しい明治政府の3つの職制を決めた。

 
今までの摂政、関白、征夷大将軍などの職制を全部やめにして、
「総裁」つまり首相に当る人を一人・・・・この場合、有栖川家熾仁親王・・・と、
10人の「議定」を置いた。

これは身分の高い公家五名と有力な大名5から成る10人である。
その下に「参与」を5名置いたが、これは「議定」よりは下であるが、有望な公家が主であった。
この16人と、大名の補佐役の家来数名・・・その中に大久保一蔵(利通)もいた・・・が
陪席を許されて小御所会議が開かれた。

この会議には当時15歳で、その年に即位された明治天皇が臨席しておられた。
この会議はその意味では近代日本における御前会議の第1号であった。
議論の中心は徳川慶喜をどうするかである。

議論は土佐藩主の山内豊信(容堂)からはじまった。

山内の主張は「そもそもこの会議に徳川慶喜を加えないのが陰険で公平でない」ということであった。
大名5人が加わっている「議定」には尾州侯徳川慶勝、越州侯松平慶永(春嶽)、藝州侯浅野茂勲、
薩州侯島津忠義、それに土州侯山内容堂が入っているが、超大名である徳川慶喜がはずされていた。

確かに山内容堂の言うように、陰謀によって徳川慶喜がはずされたという感じであった。

山内容堂の主張は堂々としており、正論とも言えるものであった。
それで会議の空気は山内の意見に動いたのである。

もしこの時に決を取って、多数決で決めるとしたら、圧倒的に山内賛成派が多く、
徳川慶喜は新政府に残ったはずであった。

つまり明治政府は公武合体の形になったわけで、
その後の日本の姿も大いに違っていたはずである。

しかし幕府の勢力をどうしても一掃しなければならないと思っていた人物が2人と、
それを支持する一人がいた。それは公家の岩倉具視であり、陪席者の大久保一蔵(利通)であり、
彼の意見を支持する島津忠義であった。

山内は自分の議論に酔ってしまったようなところがあり、思わぬ失言をしたのであった。
それは「年若い天皇を担いで、政権を盗み取ろうという陰謀ではないか」という趣旨のことを
言ってしまったのだ。そこに岩倉が噛みついた。

「天皇が年若いことをいいことに、それを担いで政権を盗み取ろうという陰謀とは
何たる言い草であるか。天皇は稀に見る英明な方で、王政復古の大号令を出され、
今ここに出席しておられる。何たる無礼な言い方だ。」

天皇の前でこう言われては山内容堂もひたすらあやまるより仕方がない。
本当は十分な言い分があったであろう。

「明治天皇の王政復古の大号令は、慶喜が進んで大政奉還したからではないか」と
言い返すこともできたであろうが、非常に失礼な言い方をしたため、
謝らざるをえなくなってしまった。

これで議論の流れは一変する。
大久保一蔵が見事なフォローをする。
島津忠義が大久保の意見を支持する。

これで公武合体路線は一変して討幕の方向に一挙に流れるのだ。
公家の中には席を立ってこそこそ相談するものも出たが、岩倉は一喝した。

「ここには天皇もご出席しておられる。意見があったら全身全霊をこめて
みんなに向かってのべるべきである。こそこそ席を立って私語すべきでない」。

自分よりも身分の高い公家をも押さえてしまった。
かくして公武合体論は討幕一本となり、約3週間後の鳥羽・伏見の戦い、
さらに江戸開城とまっすぐに連なるのである。

 
岩倉は歴史の切所ともいうべきところで、
名詮自性・・・名は本性を現わす・・・岩のように揺がなかった。

後に西郷隆盛の征韓論も頑として受け付けず、そのため西郷は野に下ることになった。

武士上りの維新の元勲たちも彼をリーダーとして仰いだのはそのためである。

  (http://www.jmca.jp/column/watanabe/8.html

            <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

「明治天皇」 - 伝統

2015/10/04 (Sun) 19:11:16


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第9人目 「明治天皇」

ナポレオンとか織田信長とかの場合は、リーダーとしての偉さがよくわかる。
ところが、エリザベス一世とか、明治天皇とかの場合、つまり世襲の君主で、
偉大な時代を開いた人物の場合は、リーダーとしての偉さを具体的に指摘することが甚だ難しい。

こういう場合の偉さを示す言葉としては、
漢の高祖劉邦の偉さを説明した韓信の言葉が一番説得力があるように思われる。

それは「将ニ将タル」人物ということである。
この話を『史記』によって簡単に紹介すれば次のようになる。

 
漢の高祖とその部下で武功第一の将軍である韓信が
いろいろな武将の能力について語り合ったことがあった。

その時、高祖が韓信に向って、
『私はどのぐらいの軍勢の将としてふさわしいだろうか」とたずねた。すると韓信は

「陛下は十万人ぐらいの軍勢の将としてふさわしいと思います」

と答えた。

すると高祖は韓信に向って「お前はどのぐらいの軍勢の将としてふさわしいか」と聞いた。
すると韓信は、いけしゃぁしゃぁとこう答えた。

「私の場合は、軍勢は多ければ多いほどよく使いこなせます」と。

すると高祖は、むっとして問い返した。

「それはおかしいではないか。それならなぜお前は私の捕虜になり、
そして今、私の家来として働いているのか」


その時の韓信の答えがすばらしい。

「陛下は兵士たちの将には向いておられません。陛下は将たちの将に向いている方であります。
これはいわゆる天授というものであって人間の努力でどうとなるわけのものではありません。」

これこそ千古の名返答である。

漢の高祖は智謀においては張良に及ばず、
ロジスティックスにおいては蕭何(しょうか)に及ばず、実戦においては韓信に及ばなかった。

しかしこういう人たちが高祖を一生懸命に助けて漢という大帝国を作ったのであった。

このようにすぐれた人物たちを上手に使いこなすリーダーのことを、
韓信は「将二将タル」人物と言ったのである。

ではこういうリーダーシップはどのようにしたら身につくのであるか。
韓信は「それは天が与えてくれるもので、人の力では何ともできないものです」と言っている。

天授にして人力でないリーダーシップとは、今の言葉で言えばカリスマである。
この単語は元来ギリシャ語で「神が与えてくれた恩寵」という意味であった。

この言葉をミュンヘン大学教授であったマックス・ウェーバーは遺著『経済と社会』(1922)
の中で、「リーダーシップや権威を持つ恩寵、あるいは力量」という意味で初めて使った。

ここから「忠誠心や熱狂的感激を起こさせる能力」という意味で広く用いられるようになった。
つまりカリスマとは有能な部下を感激させて使いこなす天授の能力である。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などの維新の大人物をはじめ、
大山巌、東郷平八郎、乃木希典などなどの軍人や、一般の兵士や国民全部を奮起させる
「ある何物か」を明治天皇は備えておられたと思う。

明治天皇の父帝である孝明天皇も極めて秀れたお方であったことが知られている。
しかし孝明維新ではなく、明治維新が起こったのである。

それは「時の運」というものもあるに違いない。
黒船来航の前にお生まれになっていたら、明治天皇にいかにカリスマがおありになっても、
明治維新は起こらなかったに違いない。

「時機が熟した時」に生まれ合わせるのもカリスマの一特徴であろう。

カリスマの原義はあくまでも「天授の恩寵」であって、
丁度よい時機というのも天授のものであって、人力ではどうすることもできないのである。

たとえば1867年(慶応3年)に孝明天皇が急になくなられて、
十五歳という年少の天皇として明治天皇が即位なさらなかったら、
徳川幕府をなくすことはできなかったであろう。

この年の12月9日の夜に小御所会議があって、山内容堂などの唱える
「徳川慶喜を加えての新政府」という意見にみんなが賛成しそうになった。

その時、山内が調子に乗りすぎで「この会議に徳川慶喜を加えていないのは
悪質な陰謀であり、天皇がお若いのをいいことにして権力を盗もうとしている」
という主旨のことを言ってしまったのだ。

この「天皇が若いのをいいことにして」という発言を岩倉にとがめられて、
山内はあやまってしまう。
ここから一挙に話は幕府を武力で討伐することに流れて明治維新になるのだ。

明治天皇が丁度そのときにまだ少年であったこと、また周囲のものに熱烈な忠誠心を
起こさせる性質をお持ちになっていたこと・・・これが明治維新の成功、つまり近代日本の誕生、
ひいては白人絶対優越の世界的アパルトヘイト崩壊への出発になるのである。

つまり明治天皇のリーダーとしての偉さは、マックス・ウェーバーのカリスマという概念、
あるいは韓信の言う「将二将タル天授の素質」という考え方以外では
説明のしようがないのである。

     (http://www.jmca.jp/column/watanabe/9.html


            <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

指導者の条件39(仁慈の心) - 伝統

2015/10/06 (Tue) 18:12:23


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者には人を慈しみ人々の幸せを願う心が必要である。

保科正之は、徳川三代将軍家光の異母弟にあたり、
会津藩の藩祖として、また後に幕府の大老として、名君の誉れ高かった人である。

彼は先の藩主が国政を乱し、改易になったあと会津に着任したのだが、
早々に未納年貢を免除するなど、色々な形で貢租の減免を行った。

また、いわば今日の福祉政策にあたる数々の善政を行い、領民は非常に喜び、
会津藩では代々正之の方策が受け継がれ、幕末まで東北の雄藩として栄えたのである。

正之に限らず、江戸時代に名君と言われた領主の多くは、こうした形で、
仁慈の心を持って領民を救済し、民を富ますことを心がけていたと言われる。

いわゆるお国替えがあって新しく入国した領主が、領民の疲弊しているのを見て、
一定期間年貢を減免し、その間は豪商などに借金して財政をまかない、
領民が立ち直って後はじめて年貢を取ったという話も聞く。

さかのぼれば、古代においてすでに、仁徳天皇は、国中に炊事の煙の乏しいのを見て
人民の困窮を知り、3年間課役を中止し、3年たって国中に煙が満ちてはじめて、
「民富めり」と再び租税を課しておられる。

その間は皇居も荒れ果て、雨が漏るほどであっても、修理されなかったという。

そして、「天が君主を立てるのは人民のためであり、君主は人民を本としなくてはならない。
人民が貧しいことは自分も貧しいことであり、人民が富んで初めて自分も富んだと言えるのだ」
と言われたと伝えられている。

仁徳天皇の場合は伝説かもしれないが、
しかし大事なことは、そのような人民を慈しむ仁慈の心を持つことが、
昔から指導者のあるべき姿だとされてきたことである。

そこにいわば日本の一つの良き伝統があり、そうした伝統が受け継がれ、
保科正之はじめ数々の名君を生んだのであろう。
しかも、そうした領民を慈しむ名君のもとで、領民も、また藩の財政も豊かに栄えたのである。
いわば物心一如の繁栄という姿が生まれたわけである。

封建時代においてさえも、人民を慈しむということが、自他共に栄えるもとだったのである。

民主主義の今日における指導者は、
まず人々の幸せを願う仁慈の心を持たなくてはならないと言えるだろう。

            <感謝合掌 平成27年10月6日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(12) 本能寺の変の勝算 - 夕刻版

2015/10/08 (Thu) 19:07:08


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

天正十年(1582)六月二日、明智光秀は兵を率いて京都・本能寺に主君・織田信長を襲撃する。
世にいう「本能寺の変」である。

天下統一へと着々と権力固めに動いていた信長は混乱の中で自決し、
戦国の世は再び混沌とした状況に戻る。

光秀は13日後、中国地方の対毛利戦線から強行軍でとって返した(中国大返し)
豊臣秀吉に山崎での合戦で敗れ、権力簒奪の野望はうたかたの夢に終わった。

このことから後世、光秀の行動は私憤にかられた無謀であって、
滅ぶべくして滅んだと評価された。
光秀は愚将の典型として貶(おとし)められている。

 
その動機について、信長との個人的な確執を挙げる説が有力だ。

2週間前に安土城で信長の叱責を受けて足蹴にされた。
近江、丹波からの国替えの動きに、たまらず先手を打った云々。

秀吉、徳川家康の時代に書かれた種々の書物にはそう書かれている。

直接の動機にはいまだ謎が多く横たわるが、少なくとも、その後の勝者の側の歴史が
敗者の光秀を貶める記述に終始するのにだまされるわけにはいかない。

足軽でもあるまいに、信長を補佐する立場の武将として光秀は、
後先も考えず成算もなく無計画に天下人を葬り去るほど愚かではない。
であればこそ信長に重用されたのだ。

平和の世ではない。
その後、秀吉そして家康が知略と謀略で天下を狙ったのと同様に、
光秀も本能寺襲撃で、天下が取れるとの設計図をもっていたはずである。

知略、謀略を非難するほど秀吉、家康も清廉ではない。

 
考えてみればわかるはずである。
投資案件であれ、競合社との厳しいシェア争いであれ、
勝算もなく動く指導者はいるはずもない。

 
問題は、綿密に組み立てたはずのクーデター計画が、信長殺害という第一段階に成功しながら、
その後なぜ短時日で挫折したのかにある。

秀吉、家康が変の後にとった行動との対比でみると、ことの成否のなぞが解ける。

前月、光秀は、中国・高松城の水攻めに難渋する秀吉の応援に中国へ下る命令を
信長から受け、丹波亀山の居城に戻り兵を整えた。

そして事変の1週間前の5月24日、
京都西郊の愛宕山にのぼり、戦勝祈願の連歌の会に臨んだ。


 口切りの発句を光秀はこう詠んだ。

 「時は今、あめの下なる五月かな」


さて、その発句に秘められた真意とは。
光秀はこのとき、明確に天下取りに動く決意を固めていた。
勝算をもって。

 (次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(13) 光秀の秘めたる野望 - 伝統

2015/10/09 (Fri) 19:28:20


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

信長から毛利攻めへの出陣を命じられた光秀が京都の愛宕山西之坊で参席した連歌は、
「天正十年愛宕百韻」として現在まで伝わっている。


  時は今あめの下なる五月かな


と光秀が詠んだ冒頭の発句が、秀吉の世となってのちに、
謀反(むほん)の動かぬ証拠とされたからである。

 
 「雨が降りしきって、まさに五月雨(さみだれ)の季節だなあ」

としか読めない風雅な句がなぜ謀反の証拠なのか。

 
事件後に秀吉が監修した『惟任(これとう=光秀)退治記』では、この句を、

 ときはいま天の下しる五月かな

と記載している。

 
光秀は美濃の大名、土岐(とき)氏の流れで、「とき」は時と土岐の掛け言葉で光秀のこと。
「天の下しる」とは「天下を統治する」という意味になる。

 「光秀が今こそ天下を取らんとする五月である」と読み替えられたのである。


クーデターをまさに起こそうとしている首謀者が、衆人環視の連歌の会で、
そんな軽卒な句を残すはずもないが、「あめの下なる」だとしても、
この句に強い光秀の意思が秘められていることは間違いない。

土岐氏は、戦国の波乱の中で斎藤道三に美濃を追われた。
その末裔として一族の再興を担う光秀の自負と決意である。

表面的には毛利との戦いでの戦勝にかける思いであるが、その後の事態の推移をみると、
この時、光秀は打倒信長を決意していたことは間違いない。

連歌会に先立って光秀は社頭で二度、三度おみくじを引いたとも伝えられている。

さらに、当代一の連歌師である紹巴(じょうは)も参加し句を詠み継いだこの日の百韻の終句は、
光秀の息子の光慶(みつよし)がこう結んでいる。


  国々は猶(なお)のどかなるころ

 (国々ものどかに治まる世を目指したい)


敵の多い信長では天下は治まらない。親の決意に子が応える。
あらかじめ光秀が結句を指示したであろうから、
親子ともども揺るがぬ決心がかい間見える。

決意したからには、決起後につく味方の算段と、朝廷を取り込む首尾がないわけはない。
周到に計画されたクーデターであったのだ。

亀山に戻った光秀は六月一日夕、一万三千の兵を率いて城を出発する。
奇妙にも摂津への近道は通らず西京へ向けて山を越えた。

兵には「京で信長殿の閲兵がある」と伝え、不審に思う者はいなかった。  
                                 
         (次に続く)


            <感謝合掌 平成27年10月9日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(14) 光秀の情況判断 - 伝統

2015/10/10 (Sat) 19:20:36


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

明智光秀が「愛宕百韻」で垣間見せた天下取りの野望を固めてから、
本能寺に向かうまでの心理を推測すると、
「この時をおいて機会はない」という切迫感であったろう。

主君を殺しての天下公布は正統性が得られまい、というのは後世の倫理観であって、
戦国の世においては、主君殺しはおろか、親殺しさえも権力奪取のためには異例なことではない。

武田信玄でさえ、権力闘争の過程で父・信虎を駿河に追放している。

さて土岐氏再興の野望に燃える光秀は、
諸国遍歴の末に信長に仕官し織田四天王と呼ばれるまでの重臣に出世した。

その信長の下で、比叡山焼き討ちに参戦し、また石山本願寺との確執と
各地の一向宗を力でねじ伏せようとする独裁者信長の強引さを目の当たりにして
不信感を募らせたとしても不思議ではない。

歌道、有職故実にも通じた一流の知識人でもあった光秀は、
信長の強烈な個性の中に「義」の不在を見て取った。
「いずれ自分が天下を」の思いは早い時期から芽生えていただろう。

機会さえあればという野心は、この当時、秀吉、家康とても同じであった。
ただ「時は今」と感じた光秀は「知」が先走るタイプの武将であった。
「謀」に欠けた。そこが秀吉、家康との差である。

のちに関ヶ原で家康に敗れる石田三成と似ている。
知に引きずられて現実の一手先を読めない。

さて、未明に本能寺の変が起きた天正十年六月二日、
信長は本能寺に家康を招いて茶会を催すことになっていた。

その家康は近従のもの数十人だけを引き連れて遊楽に訪れていた堺から京に向かう。
丸腰の家康を接待するために信長も小姓などわずかの側近を随伴して入京していた。

信長の主要軍団のうち、秀吉は中国戦線で毛利勢と対峙している。
柴田勝家は北陸で上杉景勝と向き合い、
丹羽長秀は四国の長宗我部元親攻め準備のため大坂にいる。
滝川一益も関東工作で前橋にいた。

護衛兵力もなく行動したのは、油断と言えば信長の油断だが、
結果として信長周辺には武力の空白が生じていた。

「敵の敵は味方」。
信長さえ討ち取れば、毛利、上杉、長宗我部も光秀方につく。
そうならなくても織田の諸将は、足止めを余儀なくされる。

その間に朝廷を味方につければ、天下公布は成功する――。

亀山を発ち、率兵して上洛しつつあった光秀、ついに訪れた僥倖に心うち震えたに違いない。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月10日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(15) 秀吉、中国大返しの決断 - 伝統

2015/10/11 (Sun) 19:02:16


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだのは、6月2日の早朝であった。

多勢に無勢。短い戦闘のあと、寺は猛火に包まれ織田信長は自刃して果てた。
49歳の生涯であった。

果てる前に「だれの仕業か」と小姓の森蘭丸に問うた信長は
「明智の軍勢と見受けます」と聞き、「やむを得ぬ」と一言発したという。
信長は謀反の可能性を承知していた。

可能性はあるが、今ではないだろう――。
ひと言で言うと信長の油断だが、敵の虚をつくのは兵法の基本。
ここまでは光秀の狙い通りだった。

織田の諸将は戦地にいる。
「これで天下は手に入る」と光秀は権力奪取の成功を確信した。


しかし、いま一人、光秀の不穏な動きを事前に察知していた男がいた。
中国路で毛利と対峙していた羽柴(豊臣)秀吉である。

備中・高松城の水攻めの長期戦を覚悟していた秀吉のもとに、
本能寺の事態が伝えられたのは、翌3日夜のことだという。

直ちに秀吉は毛利との間での和睦を進め、高松城主の切腹と引き換えに
毛利、秀吉双方の撤兵を取り付け、3日後の六日には強行軍で京を目指すのである。

 
講談調の物語では、明智が毛利を味方に付けようと放った「信長死去」を告げる伝令が
誤って秀吉のもとに到着したとか、あるいは、逡巡する秀吉を黒田官兵衛が
「天下を取るなら今だ」と尻を叩いたとか、面白おかしく伝えられている。

しかし、そうしたお伽話は、
“知恵者秀吉”“軍師官兵衛”を際立たせるための作り話に過ぎない。

信長の中国出兵を願ったのは秀吉自身であって、
その後、京都の軍事的空白のただ中に信長がいることも承知している。

信長が中国増援の先兵として光秀を指名したことを知り、
その来援を今日か明日かと待ち望む秀吉が、
光秀の動静を逐一把握していないわけがない。

連歌の会での光秀のきわどい作句も知り予め謀反必至と見ていたかもしれない。
そして事前に「その後」を算段思案したに違いない。

主君の仇を討つことで、自らは主君殺しの汚名を着ることなく、正義の将として天下が取れる。
官兵衛の入れ知恵がなかろうと見当はつく。

そして、各武将は戦地にいる。
情報収集には怠りがない。
秀吉の素早い行動からは、この機会を待っていたかにも見える。

であればこそ、誰よりも早く光秀を討たねばならぬ。

光秀より一枚上手の秀吉は、大雨の備中を発って、
姫路、尼崎と強行軍で駆け抜け決戦の地、山崎へと急ぐ。

これが「中国大返し」の真実である。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月11日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(16) 家康なぞの行動としたたかな戦略 - 伝統

2015/10/12 (Mon) 19:04:03


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

明智光秀の軍勢が本能寺を取り囲んだのは、6月2日の早朝であった。

本能寺の変の前後、徳川家康は奇妙な行動をとる。
そこから「明智光秀による信長殺しの黒幕は家康」との憶測も出てくる。

変が起きる直前の天正十年(1582)2月、家康は信長の招待で安土城を訪れる。

この年の2月、天下統一作業を進める信長軍団は甲斐に攻め入り、
3月、天目山に武田勝頼を追いつめて葬り去り、甲斐、駿河、信濃、上野の武田領を手中にする。

このうち駿河を安堵された家康が御礼のため安土城に信長と接見する形をとった。

甲斐と駿河の一部は、織田方に寝返り甲斐攻めの成功に貢献した
勝頼の重臣・穴山梅雪に安堵(あんど)され、同様に梅雪も安土に上った。

信長は2人を、変の起きた6月2日に本能寺で茶会接待することを告げ、
それまでの間、堺を見物するように命じる。

2人ともに領国を出てから側近だけを引き連れた“丸腰”の道中だった。

京と堺は近い。
変当日の早朝、京都へ向け堺を出発した一行は、午後に謀反の報を聞き、
急きょ道を伊賀越えに変え、それぞれ領国への脱出を目指す。

後世、家康寄りの書き物は、この時、家康は
「信長公の恩義に報いるために、たとえ殺されても京へ上る」と主張したが、
側近に説得されて脱出を決めたと書く。

これは作り話であろう。
ずるいほどに冷静な家康が変後に丸腰での上洛という軽卒な行動をとるわけもない。

京に向かおうとしたとすれば、上洛しても命の保証がある場合、
つまり光秀と通じていること以外は考えられない。

ともかく彼は軍勢を指揮するために三河の本領を目指し、脱出に成功したのである。
幕府成立後の諸本は「神君の伊賀越え」と危機一髪の脱出行を讃えている。

この伊賀越えで奇妙なことが起きる。
ともに東を目指した梅雪の一行だけが盗賊に襲われ梅雪が殺されている。

三河へ戻った家康。
信長の遺恨を晴らす建前なら光秀討伐の軍を起こすべきだが彼は動かない。
山崎で豊臣秀吉と光秀が全軍を挙げて決戦に挑む13日までまだ日があったにもかかわらずだ。

岡崎で評議が繰り返されたとされるが、結果的には先遣隊を尾張まで進めただけで、
家康は山崎の戦いには参戦せず、観望を決め込む。
そして、軍を東に向け、梅雪亡き後の甲斐、信濃を併呑してしまうのである。

「漁夫の利」どころか、明智の謀反を予め知り、信長後継の体制での地位確保に向け
計画的かつ無駄な軍事衝突を避ける省エネ戦略で動いている。

となると、梅雪の死も家康の仕業であったと考えるのが合理的なのだ。

魑魅魍魎(ちみもうりょう)うごめく乱世に生き残るのに必要なのは、
確かな情報の把握と非情の計画だ。

家康はそれを実践し、まるで光秀の動きを予期していたかのように、
天下の次の動きに備えている。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月12日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(17) 光秀の誤算 - 伝統

2015/10/13 (Tue) 19:49:59


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

この稿の初回に、本能寺に主君である織田信長を討った明智光秀には
「天下を取れるとの設計図があった」と書いた。

設計図とは以下のようなものであっただろう。

  (1)天下統一の最終作業に入りつつあった信長と敵対する毛利輝元、
     長宗我部元親、上杉景勝らの有力大名たちは、信長が消えれば
     攻勢に転じ、織田方の諸将は戦地に足止めにされる。

  (2)その間に畿内を平定し天皇・公家たちを味方につければ、謀反
     の悪評を乗り越え、正統性を得られる。

  (3)有力大名のうち、娘の嫁ぎ先である丹後の名門・細川藤孝と忠
     興の父子、妻の妹を正室に迎えた大和の筒井順慶らは、変後の
     明智政権に与するのは疑いがない。

  (4)気がかりなのは秀吉の動きだが、その台頭を嫌がる家康が兵を
     動かして牽制するだろう。

  (5)そして1の反信長の諸大名も巻き込んで連合政権をつくる。
    「敵の敵は味方」というわけである。

変の後、まず動いたのは天皇周辺であった。

誠仁(さねひと)親王は「京の治安を維持せよ」と光秀に勅使・吉田兼見を送る。
変の5日後に安土に入った兼見は、光秀と「今度の謀反の存分を雑談した」。
つまり変の経緯と善後策について話し込んでいる。

おそらく光秀は、先に挙げた政権設計図を説明し、兼見は京に戻り天皇に上奏している。
天皇と公家たちは光秀こそ信長の後の政権を担いうると確信した。

光秀は安土から四方に密使を送り、新政権に参画を促している。
ここまでは設計図通りに進む。
ところがである。

細川、筒井は光秀の催促にも立ち上がらない。
変後に関して何らかの気脈を通じていたであろう家康も動かない。

期待の摂津衆のうち、キリシタン大名の高山右近は、イエズス会の司令を受け秀吉方についた。
キリシタンを庇護した信長を討った光秀へのイエズス会の不安と反感である。

そして毛利方と電撃的和睦を結んだ秀吉の軍は、一日30、40キロの強行軍で京に近づいている。
迎え撃つため安土から山崎を目指した光秀はこの時、自らが犯した誤算に気づいたに違いない。

だれもが、秀吉と光秀の決戦の成り行きをまず見たのである。

「動くのはその後でも遅くはない」

光秀が机上で練り上げたクーデター設計図に致命的に欠けていたのは、
この当たり前の人間心理への洞察であった。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月13日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(18) 戦う前に勝負を決した秀吉 - 伝統

2015/10/14 (Wed) 19:11:53


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

本能寺に主君である織田信長を討った明智光秀は、
変から3日後の6月5日に信長の居城・安土城に入った。

朝廷からの使者を迎え、
政権確立への手順を踏もうとしていた矢先の8日、京都から急報が入る。

「秀吉の軍勢が京都に向かっている」

「何? まさか、何かの間違いではないか」

それほど秀吉の動きの速さは、光秀の想定を裏切るものだった。

光秀は上洛を急いだが、ここで大きな失策を犯す。
北陸で戦う信長の重臣、柴田勝家の反転に備えて安土周辺に多くの守備兵を残した。
まさに天下分け目の決戦を前に兵を二分してしまったのだ。

対する秀吉は、素早く対峙する毛利との和睦をまとめ、後顧の憂いなく全軍を京に連れてくる。

6月13日、淀川をはさんで天王山と男山が迫る狭隘(きょうあい)の地、
山崎に秀吉軍を迎え撃つ光秀軍は1万6000、対する秀吉軍は2万6500。

そして秀吉は前々日、昼夜兼行で到着した尼崎であるパフォーマンスをやってのける。
髷(まげ)の元結(もとゆい)を切り、「主君の弔い合戦」であることを明確にしたのだ。

決戦に臨む兵たちの士気は上がる。
さらに「正統性」の誇示によって、光秀から参集を呼びかけられていた
諸大名も動きを止めざるをえない。

光秀が頼みとした丹後の有力大名である細川藤孝(幽斎)、忠興の父子も。

いや、細川父子は傍観どころか積極的に秀吉に加担したと見られる証拠がある。

変後に秀吉が書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』には、

「藤孝は、光秀一味にくみせず、秀吉と心を合わせ、備中表に飛脚を遣わし」

と書かれているのだ。

光秀が頼りにした藤孝は謀反の計画を事前に聞いていた可能性がある。

高松城水攻めで苦心していた秀吉が、その藤孝からの注進を受けて
急ぎ毛利との和睦を固めに入り、謀反の実行を確認するや間髪を入れず取って返す。

「勝兵はまず勝ちて、しかる後に戦い、敗兵はまず戦いて、しかる後に勝ちを求む」
                             (『孫子』形篇)

戦いを前に、すでに勝負は決していた。

敗れた光秀は、落ちのびる途中で、落ち武者狩りの農民に討ち取られ無惨な最期を遂げた。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(19) 「鳴かぬなら鳴くまで待つ」家康 - 伝統

2015/10/15 (Thu) 19:16:33


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「本能寺の変の前後、徳川家康は奇妙な動きを見せる」と先に書いた。

結論からいうと、家康は明智光秀の謀反の動きを事前に察知し、
次の手を的確に打っているのである。

織田信長は、中国毛利攻めに続いて四国攻めに動き始めたこのころ、
天下統一をにらみ長男・信忠への世襲による長期政権を画策している。

“織田幕府”ができてしまえば、家康にすれば天下を狙う目はなくなる。

家康は信長と同盟を結んでいるとはいえ、主君・家臣の関係にはない。
織田政権が続いて徳川潰しに出るのは火を見るより明らかである。
危機感の中で光秀の秘かな野望を知ったとすれば、見て見ぬふりが得策である。

光秀が信長殺害に成功したとしても、
信長家臣の豊臣秀吉、柴田勝家らの家臣が黙ってはいまい。
やがて一戦を交えるだろう。

光秀が勝てば家康のライバルたちは消え、さらに「謀反人」の光秀を討つことは容易い。
秀吉あるいは勝家が勝ち残れば、信長後継政権と同盟を結び、「その次」の機会を待つ。

その後の歴史は、後者で進むのである。

変の当日朝、堺を発った家康は東の高野街道に道を取り、
生駒の麓の飯盛山で謀反を知ったとされるが、
あらかじめ謀反を予測し東への逃走路を確保した行動である。

そのまま木津川を渡り信楽から伊賀へ逃走しているが、
兵を連れず丸腰であることが逆に、光秀の仇討ちに向かわず逃げる理由ともなる。

そして伊賀越えに同行した穴山梅雪(あなやま ばいせつ)が賊に殺されたとされる
危険な山越えの道の安全は、その後、徳川の御庭番となる伊賀衆たちが合流して確保した。

この伊賀衆たちは、かつて信長がおこなった伊賀攻めで焼き討ち、
劫掠(ごうりゃく)の限りを尽くした際に、東に落ち延びたのを
家康が三河にかくまった因縁がある。

その恩がこの「神君伊賀越え」で生きる。

家康という男、常に一手先を憎らしいほど的確に打ち続けているのである。

こう考えてくると、三河へ舞い戻った家康が、
尾張まで兵を出しながら山崎の戦いには参加せず様子を見た謎も解ける。
逡巡(しゅんじゅん)ではない。積極的に観望戦略を取ったのだ。

その家康の狙いを秀吉は見抜いていた。
光秀を葬り去った秀吉は直ちに尾張に進出した家康軍に三河への撤兵を求める。

「もはや問題は解決した。援兵は必要なし」と。
政権の確立への家康の影響を嫌ったのだ。

織田家の故地で開かれた信長後継を決める「清洲会議」で秀吉は、
三歳の三法師を傀儡として立て、主導権を握ってしまう。

家臣でもない家康は会議に参加しないが、甲斐、信濃攻略を黙認される。
「静かにしておれ」という秀吉と、時機を待つ間の実利を狙う家康との心理戦である。

溺愛する秀頼への世襲を狙った秀吉の死、関ヶ原での決戦。
じりじりと家康は天下取りに迫る。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼし天下への号令を確実にするのは、変から33年後のことである。

 「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」。

信長の強引さ、秀吉の知略と比較される家康の性格のたとえだ。

しかし「待つ」とは、ただ、悠長なことではない。
手を尽くし、目標に近づく努力の継続なのである。
耐えるといってもよい。

同じく天下取りの設計図を持ち実現しようとした光秀には、
その耐える努力が欠けていただけなのだ。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年10月15日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(20) 人を制する者は天下を制す - 伝統

2015/10/16 (Fri) 19:07:33


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

大志を抱きながらも「三日天下」に終わった明智光秀。
一方で、光秀謀反による織田信長の死という事態に素早く対応した豊臣秀吉、
じっくりと大局から布石を打ち続けた徳川家康はともに天下をわがものとした。

敗者と勝者を分けたのは、人の取り込みの妙であった。

秀吉が天下取りに成功したのは、備中高松城攻めから
電光石火取って返した〈中国大返し〉にあったことは論を待たない。

蔭には、毛利家の外交僧、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の存在がある。

織田家の家臣として毛利との外交に秀吉が携わるようになったのは、
本能寺の変の十年以上前に遡る。
敵同士とはいえ、互いに腹の内が手に取るように分かるようになっていた。

急転直下の和睦を毛利方で主導した恵瓊は、主戦論を押し切り、
なかば独断で、高松城主の切腹と引き換えの和平をまとめあげた。

元をただせば恵瓊は、毛利に滅ぼされた安芸武田氏の遺児であった。
その微妙な立場を秀吉は熟知し、時間をかけ信を結んだ。

恵瓊は、早い時期に「信長は5年もすれば、高転びに、あおのけに転ぶであろう」と、
滅亡を予言していたという。

和睦をまとめた段階で彼が信長の死を知っていたかどうかは微妙だが、
大局の流れを読み、いずれ秀吉の天下が来ることを予測していたことは間違いない。

政権をとるや秀吉は恵瓊を取り立てて側近とした。

 
また、光秀が謀反後に援軍として期待した細川藤孝が秀吉と意を通じていたことは
先に書いたが、守護大名出身の名門・細川家を秀吉は早くから出世の要諦として
注目していた。

一朝一夕の関係ではない。秀吉は大幅な加増で細川家の功に報いている。

 
人を取り込み敵を作らないことにかけては家康の右に出るものはいない。

信長の伊賀攻めから逃れた伊賀衆を三河にかくまい、
本能寺の変後の伊賀越えに生かしたことにはすでに触れた。

さらに信長の甲斐攻めで滅んだ武田の遺臣たちも家康は取り込み、
その後の甲斐、信濃併呑の先兵としている。

敵を作らぬ究極の家康人事がある。
光秀謀反の共謀者として斬首された光秀側近・斎藤利三の後裔(こうえい)のことである。

家康は天下を取ったあと、利三の娘、福を、孫の竹千代の乳母に採用した。
福とは春日局であり、竹千代は長じて三代将軍家光となる。

 
家康と光秀から一字ずつ取って家光、というのはうがち過ぎかもしれないが、
謀反人をも抱え込む驚きの人事ではある。

光秀の決起なくしては徳川三百年の治世はなかったことは歴史が示す事実なのだ

            <感謝合掌 平成27年10月16日 頓首再拝>

指導者の条件40(信賞必罰) - 伝統

2015/10/19 (Mon) 19:36:21


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は私情を棄て、適切な賞罰を行わねばならない。

三国志で有名な蜀の丞相の諸葛孔明が宿敵魏と戦った時、
要害地である街亭の守りを馬謖という大将に命じた。

ところが、馬謖は孔明の注意をおろそかにし、また副将王平の忠告をも聞かず、
自分の才を頼んで作戦を誤り大敗し、そのため、蜀の軍勢は撤退を余儀なくされてしまった。

そこで戦いの後、軍法に照らして賞罰が行われたが、
全軍を危地に陥れた馬謖の罪は死刑に値した。

孔明は日頃から誰よりも馬謖を可愛がっており、
私情においては殺すに忍びないものがあったが、
軍法を曲げては全員に示しが付かないというところから、
涙をこらえて首をはねさせたのである。

”泣いて馬謖を斬る”ということわざのゆえんでもある。

この後孔明は、人の賢愚を見抜けず、大事な部署に
彼のような者を起用したのは総責任者としての自分の責任であるとして、
自ら蜀帝に乞うて、丞相から右将軍に降格になったのである。

こうした孔明の態度に、その心中を思って涙せぬ者はなく、
全軍粛然として捲土重来再び魏を討たんとの意気大いにあがったという。

古来、何事によらず信賞必罰ということがきわめて大切とされている。

功績あればこれを賞し、過ちあればこれを罰する、
その信賞必罰が適切に行われて初めて、集団の規律も保たれ、人々も励むようになる。

良いことをしても褒められず、良くないことをしても罰せられないとなったら、
人間は勝手気ままにしたい放題をして、規律も秩序もメチャクチャになってしまうだろう。

だから、信賞必罰ということは是非とも行われなくてはならないし、
またそれは適切、公平になされなくてはならない。

賞するにせよ罰するにせよ、軽すぎては効果が薄く、
重すぎてもかえって逆効果ということになり、まことに難しいものである。

信賞必罰が適切に出来れば、それだけで指導者たり得ると言ってもいいくらいである。
従って指導者は、常日頃から十分心して、
適切な信賞必罰というものを求めなくてはいけない。

そして、その際大事なのはやはり私情を差し挟まないということだろう。
私情が入っては、どうしても万人を納得させる賞罰はできない。

愛する馬謖を敢えて死罪に処し、自らをも厳しく罰した孔明の態度は、
そのことを身をもって教えているのだと思う。

            <感謝合掌 平成27年10月19日 頓首再拝>

サッチャー - 伝統

2015/10/21 (Wed) 18:58:28


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第10人目 「サッチャー」

1970年代のおわり頃、私の家族はエディンバラに住んでいた。
当時のイギリスはさながら敗戦国のようだった。

事実、経済敗戦国だったのである。
市街の大きな通りに面したところでも、板を打ち付けて閉店になっているところが
多く目につき、貸家、売家の看板が無暗に多かった。

居住街を歩くと、大きな家に住む人がなく、窓は破れているのも稀ではなかった。
道路では紙くずが風に舞っている。
ロンドンでも似たような風景が見られた。

木村治美さんが『黄昏のロンドン』を書いて評判になったが、
たそがれているのはロンドンだけでなく、イギリス全体であった。

ヨーロッパ大陸の貧しい国とされていたスペインなどよりも、
イギリス人の一人当たりの国民総生産高が低くなっていた。
世界一の金持ち国で、しかも戦勝国であったイギリスが、である。

この背景には戦後のイギリスの政治情勢がある。
対ドイツの戦争が終わったので・・・日本とはまだ交戦中・・・総選挙をやったところ、
保守党のチャーチルは敗れて労働党に政権が渡る。

労働党は当然、社会主義政策を押し進める。不
労所得に対する税率が90パーセントを超えるようにもなった。
鉄道や産業の国営化も進む。

その政策が行き詰ると保守党に政権が渡るが、
滔々たる社会主義化の流れを変えることはできず、せいぜい一寸と更なる左傾化を
押しとどめる、つまりストップをかけるぐらいである。

そして行き詰って内閣が変わり、また労働党政権の社会主義政策が進む。
すなわちゴーになる。それが行き詰ると再び保守党政権に…という繰返しであった。
いわゆるゴー・ストップの政治であった。

その間にもイギリスの経済はどんどん落ちてゆき、
敗戦国で、しかも分割された西ドイツよりはるかに貧しくなった。

このゴー・ストップを何度か繰り返して、1970年にエドワード・ヒースが保守党内閣を作った。
しかし彼の政策は炭鉱労働組合などのストライキを招き、寒い冬に石炭もないような丁合に
なったため、1974年の選挙には国民に見放され、再び労働党内閣が成立した。

このときの選挙の敗北は保守党の心ある人たちに深刻な危機感を与えた。
というのは、たとえ次の総選挙で勝って保守党政権を作っても、労働党系の労働組合に
反対されれば、何もできないのだ、ということが明瞭になったからである。

何か抜本的なことをやらなければならない。
それでキース・ヨゼフやイーノック・パウエルなどが「政策研究センター」を作り、
保守党の政策を徹底的に検討することになった。
そのメンバーの中に、マーガレット・サッチャーがいた。

この研究センターで、対社会主義理論のバイブルになった本がある。
それはハイエクの『隷従への道』であった。
「社会主義の根幹に立ち向かわない限り保守党の未来はない」ということになった。

ヒースの次の党首を誰にするか。
キース・ヨゼフが最も適任であるが、彼はシナゴクに通うユダヤ人である。
ユダヤ人でも保守党の党首となり首相にもなったデズレリーのような例もあるけれども、
デズレリーは父の代にイギリス国教会に名目上入信していた。

シナゴクに通うユダヤ人ではイギリス首相の候補者としてはまずい。

ではパウエルはどうか。彼はあまりにも歯に衣を着せぬ発言が多く、問題ばかり起こしている。
というようなことで当時50歳のサッチャー女史が党首に選ばれたのである。

サッチャーはローワー・ミドル(中流下層階級つまり自営業者などの多い階級)の出身で、
奨学金でオックスフォードに進み化学を専攻した。

彼女の女学校にはラテン語の教科がなかったため、オックスフォードの奨学金の資格を
満たすために、1年間で必要なラテン語をマスターしたと言われる。

後に富裕なサッチャー氏と結婚した。
メイドのいる生活だったので、子育てのかたわら法律の勉強をして、
弁護士(税制専門)の資格をとる。

政治運動には大学時代からかかわっていて、すすめられて保守党から立候補し、
何度か落選しながらもロンドンを選挙区とする議員になった。
そして影の内閣の教育相や蔵相をやっていたのである。

私はエディンバラにいる間、彼女のテレビ演説を残らず聞くようにつとめた。
彼女の英語は、日本人の耳にもっとも理解しやすい種類のものである彼女は真正面から
労働党の政策、つまり社会主義政策、及び社会主義そのものを攻撃した。

有名な言葉に

「金持ちを貧乏にしても貧乏人は金持ちにはならない」

があるが、これは多くのイギリス人の胸にグサリときた。
また「労働党の言うようなことをやっていたら、われわれはまだ石器時代にいたであろう」とか、

「保守党は間違いを犯したかもしれないが、労働党のように国民に階級闘争をさせて、
イギリス人同士を争わせるようなことはしたことがない」とか、
みんなに解り易い言葉で国民に訴えた。

労働党との公開討論会では、労働党を指して「あなた方の旗は赤旗で、
私たちの旗はユニオン・ジャック(英国国旗)だ」と言って沈黙せしめたこともあった。

かくして労働党の中からサッチャーと討論しようという人がいなくなってしまった。
そして、さらにフォークランド島の紛争では、断乎アルゼンチンと戦って勝った。

かくして保守長期政権が実現し、その間にソ連も解体し、イギリスはよみがえったのである。

     (http://www.jmca.jp/column/watanabe/10.html

            <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

人間は"認められたい"生き物 - 伝統

2015/10/23 (Fri) 20:11:54


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


私の友人で、素晴らしく人を扱うことに長じている者がいる。

ある時「秘訣は? 」と尋ねたところ、

「特に…?、しいて言えば、“丁賞感微名”の法則を守っていることかなぁ…。」 

こんな答えが返ってきた。
 
この“丁賞感微銘”の法則について聞いてみると、
誰でもやれる、しかし誰もやっていない5つだった。


  「丁」…… どんな相手にも丁寧に接する

  「賞」…… 相手を心から賞める

  「感」…… 感謝する

  「微」…… 微笑を絶やさない

  「名」…… 相手の名前を呼ぶ


ナルホドと感心した。人間の欲求には、マズローによれば五段階がある。
第一は 「物質的欲求・衣食への欲求」 であり、
第二に 「安定への欲求」、
第三に「社会的欲求」、
第四に 「尊敬への欲求」、
そして、最後に 「自己実現への欲求」へと続く。


その友人は、人を動かす唯一の方法というべき
“相手に重要感を感じさせる”ことを、熟知していた。

つまり、“丁賞感微名”は、相手の重要感を増す公式だったのである。


かつて私が受講したD・カーネギーの『人間関係と話し方』のレクチャーでも、
同様のことを教えられた。

もし我々の祖先が、この燃えるような自己の重要感に対する欲求を持っていなかったとすれば、
人類の文明も生まれてはいなかったことだろう。

無教育で貧乏な一食料品店員を発奮させ、
前に彼が50セントで買い求めた数冊の法律書を荷物の底から
取り出して勉強させたのは、自己の重要感に対する欲求だった。
この店員とは ――― リンカーンである。


英国の小説家ディケンズに偉大な小説を書かせたのも、
18世紀の英国の建築家サー・クリストファー・レンに不朽の名作を残させたのも、
また、ロックフェ ラーに生涯かかっても使い切れない巨万の富を為さしめたのも、
すべて自己の重要感に対する欲求である。

金持ちが必要以上に大きな邸宅を建てるのも、やはり同じ欲求のためである。


「人間関係とは、まず相手を認めることと見つけたり―――」ということを、
この“丁賞感微名”は教えてくれる。

(参考:D・カーネギー『人を動かす』創元社)

http://www.jmca.jp/column/hito/hito11.html

            <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

あなた自身に問題は? - 伝統

2015/10/25 (Sun) 19:18:45


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


悲しい性で、人は何か失敗をすると、まわりへ責任転嫁をする傾向がある。

曰く、“ベンチがアホやから野球ができない”“会社(上役)(得意先)に理解がないもので…”。

学校出てから十余年、という昔の流行歌があったが、
40年以上もビジネスマンをしてきて次第に分かってきたことは、

人に批判や非難を向ける前に、自分がやるべきことをキチンとやったかという、
己に刃を向けた方が精神的な消化がいいということだ。


私の好きな言葉に《 I own the problem. (問題は自分のもの)》というのがある。

人間は誰でも、2つのカゴをぶらさげているのだという。
前にはとても大きなカゴ、後ろには小さくて見えにくいカゴを…。

前のカゴの中身はというと、他人の欠点と他人のアラが入っている。
後ろの小さなカゴには、自分の欠点が入っている。

どちらが目につ き易いかといえば、目の前の大きなカゴの方に決まっている。
だから、本当の自分が分かるためには、少なくとも1日の3回は後ろを振り返るべきなのだ。

日に三回省みる―――「三省堂」という書店の名前の由来である。 


物事が思ったとおりに進まなかったり、いろいろなトラブルが起きたりするのも、
もとはと云えば、自分のせいなのだ。

敷衍(ふえん。 詳しく説明)すれば、自分の器量とか運にも関連があることだが、
あくまで「自分の問題」なのだと考えた方が、生き方として潔い。

そもそも、責任感と信念を持つ業績追求者によって成り立つべき企業において必要なのは、
批評家(Critic)ではなく、実行者 (Go-getter)である。

議論があって行動が無く、意味が豊富で実行が伴わない人種は、
私の長い経験からみても大成した例は無い。

ましてや、焼き鳥屋で一杯飲んだ上で、部下に対して上役の批判をしたり、
外部の取引先に対して自分の会社の批判を言う手合いに至っては、
まったく見込みの無い、いわば企業のダニ・悲しいゾンビ的存在である。


己の失敗、非を認めることは辛いが、
しょせん、他人との関係で考えることができるのは自分であり、
他人ではないことに、早く気づくべきである。

トルーマン大統領は、“すべての責任はここで止まる( The buck stop here. )”
と言っていたものだ。

“悪いのはお前だ…”と人差し指で他人を非難しても、何のことは無い、
中指以下3本の指は己に向けられていることを忘れてはならない。


I own the rpoblem.(問題は自分のもの)という考え方は、
I own my own life.(自分の人生は自分のもの)という考え方につながる…と、私は思う。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito12.html

            <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首再拝>

”陰でほめる”効用 - 伝統

2015/10/27 (Tue) 19:20:52


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

ゴマすり、根回し、社内接待、社内派閥……。
こういった言葉に象徴されるように、日本企業は外資系に比べ、
ともすれば「なれあい的組織」の面が否定できない。

それがいま、経済状況の変化から社内システムの抜本的改革を迫られ、
人事考課についても、人物評価から達成度評価にシフトしつつある。


何よりも、実績を評価する――。
外資系でビジネスキャリアを積んだ私にとっては、
それは当然のことであり、むしろ遅きに失するとの感すらある。

しかしそれをして、

“これからは、業績に応じて給料や昇進が決まるのだから、
業績以外のところでは気を遣わなくてもよい”

とする一部の声には、やはり首を傾げなければならない。


ナポレオンは「ゴマすり」を嫌ったそうだが、
一方では、“閣下だけには、ゴマすりは通用しませんな”と
にじり寄ってきた部下を可愛がり、重用した

というエピソードがあるように、本来、人間というものは、
「ほめられる」ことに対して悪い気はしないからだ。

ミエミエのお世辞や追従、ゴマすりは論外としても、使うべき、とまでは言わないが、
他者に対して基本的に誠実さの裏づけのある (心からそう思う)
ほめ言葉はあってもいいと考えている。


 “六分は耳に響きよいこと、四分はトップに耳の痛いこと”

7世紀の中国を舞台とした帝王学の書『貞観政要』には、
上役をほめるための重臣の発言の仕方についてこう述べている。

組織の中でどれほどの地位にあっても、しょせんは人間。
したがって、上役に対しても、忠言(直言)と持ち上げのバランスが
うまく均衡していなくてはならない。

そのバランスは、持ち上げ6に対して忠言は4である、と示しているわけだ。

もっとも、持ち上げといっても、いわゆる追従ではない。
追従というのは、いかにも浅薄であり、
まともな感覚の持ち主なら、 すぐその性格を見抜くはずだ。


英語でも“Flattery(追従・お世辞・おべっか)”と
“Compliment(自分がそう思う、真実味のあるほめ言葉)” と、
同じほめるにしても2つをはっきり区別している。

上役の優れた点を発見し、ほめながら自分の意見(忠告)をも通していく
二枚腰の要素と気働きが、これからのビジネスマンには必要となろう。


繰り返すが、誠実さの裏づけさえあれば、
部下でも同僚でも、もちろん上司でも、面と向かってほめることがあってもいい。

ただし、 “うちの愚妻です”“粗品ですが”を基本マナーとしている日本人にとって、
相手を直接ほめることはなかなか難しいかもしれない。

ならば、陰でほめるということになるが、
かえって、陰でほめた方が効果は上がるものだ。

  “あの課長のこんな点がいいですね。尊敬してますし、安心してついていけます”

たとえば、こんなほめ言葉を第三者から聞かされたとしたら、
直接いわれるよりも感激するものだ。

「裏」で陰口をいうのはタブー。
本人の耳に入るのは時間の問題だ。

「陰」でほめること。
お「かげ」さまで、と感謝につながり、株があがることうけあいである。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito13.html

            <感謝合掌 平成27年10月27日 頓首再拝>

リーダーシップ”KKMHS” - 伝統

2015/10/28 (Wed) 18:57:18


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

世の中には、参考になる「リーダーシップ論」がたくさんある。

たとえば、ずいぶん以前に講演会でお聞きした新日本製鐵の武田豊(元)会長は、
重要な要素として次の六点を掲げておられた。

  (1) 活力 …… そのためには健康がなくてはならない
  (2) 強固な意志力
  (3) 責任感
  (4) 知識力
  (5) 包容力
  (6) 説得力

リーダーシップの「資質」を考える上で、素晴らしい意見だと思った。


もうひとつのアプローチとして、
私は、リーダーを資質ではなく“アクション”面から、
「KKMHS」と位置づけいている。

これは、リーダーシップを発揮するために必要な基本的行為である。

  「K」=人の意見を聞く
  「K」=決める
  「M」=任せる
  「H」=誉める
  「S」=功績を部下のせいにする

読者諸氏は、どう考えるだろうか。


リーダーシップを発揮するには、そのリーダーの資質が大切なことはもとよりだが、
発揮する“相手”によっても、そのやり方は変わってくる。

加えて、発揮する場面も、TPOによって違う。
相手はあくまで性格も育ち方も考え方も異なる人間なのであるから、
総論的にリーダーシップを考えるのではなく「各論」にする必要があるだろう。


海軍の山本五十六のリーダーシップについての有名な歌に

  やってみせ いってきかせて させてみてほめてやらねば 人は動かじ

というのがあるが、これはあるレベル中間管理職に対してまでのことだと思う。

いくつもの複数の機能をつかさどるミドル以上の管理職が、
すべての専門機能にわたって「やってみせる」ことは、
スーパーマンでもない限り無理な相談だろう。

リーダーシップ論であれ、その他の問題であれ、
ビジネスの世界では普遍性を伴った「総論」の効用には限度がある。

大切なのは、あなたにとっての「各論」であり、
これは試行錯誤を重ねながら自分で創造するほかはない。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito14.html


            <感謝合掌 平成27年10月28日 頓首再拝>

経営者の一番の趣味は仕事 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 19:28:17


    *Web:宗次 徳二のコラム「宗次流 独断と偏見の経営哲学」(2011年01月25日)より
         
今から20数年前、まだ100店舗にも満たない店舗数の頃、ある雑誌の取材を受けた。
その折、「趣味は何ですか」という質問をされたのだが、私は間髪を入れず
「仕事です! 経営をしていることが一番楽しいのです」と、至極当たり前のように答えた。

だがその時の記者さんに、そんなはずはないと言わんばかりに
「いくら社長であっても、経営以外の趣味が有るはずですから、教えてください」
と何度も尋ねられた。

私は答えに困ったあげく、冗談交じりに「
それならば...私の趣味は嫁さん(妻)にしておいてください」と答えたのだが、
以来、何度かその時の答えが活字となった。

私にとっては、経営という仕事以外に、
自らの物欲や他の欲求を満たすような楽しみや道楽は何一つ無かった。

正に経営に我が身を捧げ続け、脇目をふることなく一途であった。

経営における目標が年を追って大きくなっていくことが、何よりも楽しく、
また、家族・社員・お取引先様等、実に多くの人々の期待に応えることこそが、
経営者である私にとっての一番の喜びであった。

だからこそ休日が年10数日であっても、早朝から深夜に至るまでの仕事であっても、
楽しいと思えたのだ。

 
世の多くの経営者を見ていると、年間52日(週一日)以上の休みを取り、
実に多彩な趣味を持っている。まるで、自らの欲求を満たすために経営者をしている
のではないかと思える。

多くがこうした考え方で有るからこそ、記者さんのような質問となるのだろう。

私の目から見れば、そうした社長は実にのん気に経営をしており、
費やす時間もお金も、もったいないと思えてならないのだ。

確かに生き方や人生そのもの、経営における価値観を他人がとやかく言えるものではないが、
もし今、経営状態が厳しいのであれば、創業精神を呼び起こし、明確な目標を立て、
仕事・経営に一途だったあの頃に戻ったらどうだろう。

当時は自転車操業だったから、仕方なく頑張っていただけなのだろうか。
いや、決してそうでは無いはずだ。

経営者だけの欲求を満たしていることなど、増収増益の右肩上がり経営から見れば、
どうでも良いことばかりである。

もし経営者が趣味として持つことを許されるものがあるとしたら、
家族が喜んでくれること、社員が喜んでくれることだけにすべきだと思う。

(中略)

明日からでも将来に向かい経営を続けたいのなら、
少なくとも社長の二大趣味の一つが仕事、百歩譲って三大趣味の一つが仕事として欲しい。

出来ることならば、「私の唯一の趣味は仕事です。会社経営です」と言えるほど
経営一途であることが一番だと、私は確信している。

http://www.koushinococoro.com/magazine/business/munetsugu_keiei/110125_001939.html

・・・

宗次 徳二氏は、「カレーハウス CoCo壱番屋」の創業者。
フランチャイズシステムを確立させ、国内店舗だけで1,200店舗を超える。
海外へも出店し、現在も拡大中。

現在は、起業家支援や文化奨励をメインの活動とするNPO法人「イエローエンジェル」を設立。
さまざまな慈善活動に取り組んでいる。


宗次 徳二氏については、次のWebにてご確認ください。

 →「誰かに教えたくなる!CoCo壱創業者の5つのスゴさ」
   http://matome.naver.jp/odai/2133593936775138301

            <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

指導者の条件41(人事を尽くす) - 伝統

2015/11/04 (Wed) 19:16:11


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は、失敗は本来許されないという厳しい考えを持ちたい。

武田信玄がこういうことを言っている。

「負けるべきでない合戦に負けたり、亡ぶはずのない家が亡ぶのを見て、
人はみな天命だという。しかし自分は決して天命だとは考えない。
みなやり方が悪いからだと思う。やり方さえ良ければ、負けるようなことはないだろう」。

戦えば必ず勝ち、戦国時代最高の名将とうたわれた信玄の言葉だけに、非常な重みがある。

確かに、何事においても、
我々は失敗するとすぐに「運が悪かった」というような言い方をしがちである。

それは何も今日の人間だけでなく、”勝負は時の運”とか”勝負は兵家の常”といった
ことわざもあるくらいだから、昔からそういう考えは強かったのだろう。

しかし、そういう考えは間違っていると信玄は言っているわけである。
敗因はすべて我にありということだろう。
厳しいと言えば真に厳しい言葉である。

しかし考えてみれば、食うか食われるかというような戦国の世を
生き抜き勝ち抜いていくためには、それぐらいの厳しい自己反省、
自己検討が必要だったのであろう。

そして、その事は今日における指導者にとっても根本的に同じだと思う。

例えば事業経営についても、事業というものは儲かる時もあれば
損をする時もあるのだという考え方がある。

そういうことも一面考えられるけれども、しかし本当は、正しい事業観を持ち、
正しいやり方で経営を行い、正しい努力をしていれば、世の中の好不況などにかかわらず、
終始一貫適正な利益をあげつつ発展していくものだと思う。

それがうまくいかない、損をする、というのは
事業観に誤りがあるか、経営の手法が当を得ていないか、成すべき努力を怠っているか、
そのいずれかである場合がほとんどではないだろうか。

かつて、アメリカがアポロ宇宙船を月に向けて打ち上げた時、
あらゆる準備、点検をすべて終え、残るは発射の釦を押すのみという時に、
その責任者の人は「あとは祈るだけだ」とつぶやいたという。

いわゆる人事を尽くして天命を待つという心境だと思う。

こういう意味での天命を信玄は否定しているのでは無かろう。
彼のいわんとしているのは、天命を言うまえに、
どれだけ人事を尽くしているかということではないかと思う。

人事を尽くさずして安易に天命を云々することは指導者として許されないと言えよう。

            <感謝合掌 平成27年11月4日 頓首再拝>

創業守成 - 伝統

2015/11/12 (Thu) 19:15:27


    *Web:宗次 徳二のコラム「宗次流 独断と偏見の経営哲学」(2010年08月25日)より

まずは、社長自身が本気になり、率先してリーダーシップを発揮してください。
営業戦略、新商品開発、教育制度等々、経営改革的なこれらの手法はこの期に及んでは、
あえて二の次と思ってください。

何よりも社長自身が明らかに変わらなければ、打開策は無いと気付いていただきたい。

誰の目にも分かる程、行動を変えるのです。
社員の誰よりも一番早く出社して、一日の準備をするのです。
有志の社員を募り、周辺の清掃をしたり、社内社長塾を開くのも良いでしょう。

社長と共に会社を良くしたいと願う社員からは、貴重なヒントが出ますし、
何より社長の思いが伝えられます。

そして一日の内の多くの時間を"現場"と関わることに使い、
一人でも多くのお客様に会うことです。
明日からの経営上のヒント、問題点、改善点が面白いほど浮かび上がってきます。

 
会社のより良い健全経営を目指しても、改善は一朝一夕には行くものではありません。
社長を始めとした社員全員が、仕事や経営に対する姿勢を、少しずつでも変えていくことです。
それ以外に良い方法は無いと思ってください。歯を食いしばって取り組んでみてください。

一念発起して成功を夢見て起業・創業しても、始めてみて分かることはとても多いものです。
多くの経営者の実感は"創業守成"の言葉通りではないでしょうか。

"創業は易し。守成は難し。"です。
始める事よりも、長きに渡り守り発展し続けることの方が、本当に難しいのです。

多くの経営者を見ていると、創業当時は誰もが昼夜を問わず、ろくに休日も取らず、
小額の売上にも心からの感謝と喜びを感じていたはずです。

現場が大好きで、お客様には感謝してもしきれない思いの中、
確たる目標があったからこそ、たとえ自転車操業であっても、
経営への直向な情熱に目が輝いていたはずです。

創業当初はどんなに苦労をしようとも、
お客様が徐々に増え、経営は順調になって行くでしょう。

ただ、残念なことに、どんなに苦労に苦労を重ねた経営者であっても、
経営に余裕ができ始めた頃から、経営以外のことに心と体、
そしてお金を浪費するようになるのです。友人も増え、油断をしてしまうのです。

どんなに順調な時も、謙虚に直向に創業の気持ちを忘れず、目標を追い続けて欲しいものです。

貴方には家族や社員を始め、実に多くの人が期待をしているのです。
その期待に応えてあげてください。

      (https://www.kouenirai.com/kakeru/column/business/munetsugu_keiei/916

            <感謝合掌 平成27年11月12日 頓首再拝>

”コヒコク”の危険 - 伝統

2015/11/14 (Sat) 19:23:05


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


ある先輩から、
「管理職、それも上級管理職になると“コヒコクの危険”があるぞ」 と、
脅かされたことがある。

それは何かというと…(コ)交際費、(ヒ)秘書、(コ)個室、(ク)車 といった、

管理職だけに許される特権とでもいうべきいくつかの付加給付(コ・ヒ・コ・ク)が危険だ、
というのである。


おおかたのビジネスマンにとって、これらはある意味では目標であり夢でもあるだろう。
ビジネスマンである以上、出世の階段を昇っていくことは、
とりも直さず、これらの“特権”をわが手におさめることになるのであるから。

しかし、夢は一方で、“危険”ともなり得るというのである。


彼によれば、こうである、

(1)交際費…だんだん社費を遣うのに慣れ、感覚が麻痺し、しまいには私金と公金の
       区別がつかなくなる。身を誤る危険性をはらんでいる代物だ。

(2)秘書……自分自身で何もやらなくなるので、次第に、コピーの一枚もとれなくなる。
       航空券の予約など論外だ。
       もちろん、職務上はそれで構わないが、ひとたびその職から離れた時の淋しさは…。

(3)個室……本音の情報が入りにくくなる。
       現場から離れた世界であるため、どうしても自分の都合のよい
       (脚色された)情報だけが入ってきがちで、ナマの本音から遠ざかりやすくなる。

(4)車………車を頻繁に使うので足が弱まり、老化が早まる。
       街や市場の空気から遠ざかり、足元の景気を肌で感じることができなくなる。

そして全体を総合しての最大の危険は、

自分が本当に偉くなったような誤解と錯覚を持つようになる。

“コヒコク”に代表されるステータスというのは、すべて諸刃の剣である。

私は組織の中のポジションなどというものは、
しょせん“浮世の義理”であり、“仮の約束事”だと思う。

ポジションとか、それに伴う付加給付とかは、私自身の本質的価値とは無関係なものとして、
何時なくなってもよいように心の準備をしている。

ビジネスマンの夢を無残に打ち壊すつもりはないが、
何時もこれくらいに醒めていてちょうどよいくらいで、溺れてはいけないのである。


『人生の成功者』とは、ステイタス・シンボルの有無に関係なく、
会社を離れた自分とバッタリ会った昔の知り合いが、
「やあ、新さん久しぶりですね。どうで す、一杯飲りませんか」と
誘ってくれるような人のことだと私は思う。

ちなみに、「コヒコクの危険」を私に教えてくださったのは、
我国でただ一人の「加齢評論家」であった故・福田常雄先生だ。

84歳でお亡くなりになるまで、「永遠の青年」を貫き通した大先輩である。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito15.html

            <感謝合掌 平成27年11月14日 頓首再拝>

「ネルソン」 - 夕刻版

2015/11/17 (Tue) 18:28:02

第11人目 「ネルソン」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

まだ若い頃に、真珠湾攻撃の機動部隊の航空参謀であった
源田実氏(当時参議院議員)の御自宅をお訪ねして、
アメリカとの戦争について、いろいろ質問させてもらったことがあった。

当方の幼稚な質問や愚問にもちゃんと答えてくださったのであるが、
そうした問答の中で特に鮮明な記憶として残っているのは次の言葉であった。

「日本がアメリカに敗れた理由は、日本海軍がネルソン精神を忘れたことにある。」

しからばネルソン精神とは何ぞや。

「索敵必撃」あるいは「見敵必殺」である。

日本はこの言葉を拡大して「策敵必殺」などと言ったが、
こんな言葉遊びをしたのはよくない。

「敵を見たら、自分の損害とか、その場合の攻撃の適不適を考えずに、
とにかく徹底的に攻撃し続ける」というのが「見敵必殺」であり、
それで十分だったのだ――と源田さんは強調されたのである。

 
ネルソンの時代は砲煙が濃く、撃ち合っているうちに、
賢明な戦闘をしているのかどうか艦長にもわからなくなることがあったそうだ。

ネルソンは各艦長に言い渡した。

「とにかく敵を見たら攻撃し続けろ。そのほかのことは考えるな。
敵に砲撃し続けている限り、その判断は一番正しいのだと私は評価する」と。

それで各艦長は、一切の迷いなく、ただただ敵めがけて攻撃することを考えたという。
それによって地中海のフランス艦隊をエジプトのアブキール湾に全滅させ、
更にトラファルガーにおいてフランス全艦隊を撃滅した。

 
源田さんはこんな話もして下さった。

ネルソンの艦隊がコペンハーゲンを砲撃したときのことである。
敵は陸の砲台であり、味方は軍艦(当時はまだ帆船だ)である。
撃ち合っていると、敵は沈まないが味方は沈むおそれがある。
そこでネルソンは各艦に錨を下させ動けないようにしてから砲撃させた。

敵の砲台が沈黙するまで打ち続けるか、自分が沈められるかどっちかである。
イギリス海軍は必死になって撃ちまくり、敵の砲台を沈黙せしめた。
これがネルソン精神である、というのだった。

ネルソンの伝記として有名なのは桂冠詩人であったロバート・サジイのもので、
これは戦前の日本では海軍兵学校の教科書として使われていたと聞いたことがある。

 
誰よりもネルソン精神を体現したのは日本の東郷平八郎であった。
彼は日露戦争では常に見敵必殺でロシアの旅順艦隊やバルチック艦隊を全滅させた。

特にバルチック艦隊との決戦の時は、自分の艦隊は全滅してもよいから、
敵を全滅するという断固たる方針の下で、極めて危険だが効果のあるT字戦法を採用し、
戦艦八隻を含むロシアの大艦隊を文字通り撃滅したのである。

しかも日本の軍艦は一隻も沈まず(水雷艇のみ三隻沈没)
世界海戦史上に例のないパーフェクト・ゲームをやった。

しかしその後日本海軍はこの伝統を忘れたので敗けたのだと源田 実氏は言うのである。
たしかに太平洋の戦いで、日本海軍はいつも腰がひけていた感じがする。

ネルソン精神を引き継いだのはイギリス海軍であり、アメリカ海軍であった。

 
今年の七月に私は会議のため、ロンドンとケンブリッジに行った。
主催者側が接待の一つとして、テムズ川の舟遊びを計画してくれた。
船の上で昼食を摂りながらグリニッジに行くというのである。

テムズ川下流の両岸の住宅開発のすばらしさに驚いたが、
もっと驚いたのは川の真中に古い駆逐艦ベルファストが繋留されていることだった。

一緒にいたイギリス側の人たちは軍人ではなかったが、
この小さな軍艦のことをよく知っていて説明してくれた。
それは昭和18年(1943年)の冬、スカンジナビア半島の北、
北極海に連らなるバレンツ海での海戦のことである。ドイツと死闘を繰返している。

ソ連を助ける軍用物資を送るため、イギリスとアメリカは護送大船団(コンボイ)を組んで、
北大西洋からノルウェイを北廻りしてバレンツ海を渡っていたのである。

ドイツはこれを阻止するため巡洋戦艦シャルンホルストのひきいる五隻の駆逐艦を出す。
冬の北極に近い海は荒れ狂っている。
ドイツの駆逐艦は荒天を恐れてか、敵を見ないうちに港に帰ってしまう。

しかしイギリスの駆逐艦は自分が大波でひっくり返りそうになりながらも魚雷攻撃を行って、
ドイツの有名な巡洋戦艦を沈めてしまったのだ。

巡洋戦艦と駆逐戦艦が戦うことは、相撲で言えば三役と十両か幕下の対戦になる。
しかしイギリス海軍にはネルソン精神が生きていた。
それは今回でもなお、テムズ川の真中で記念されている。

第二次大戦のイギリスとドイツの海戦をみると、常にイギリスがネルソン精神で
とことん攻撃しているのに、ドイツ海軍は常に不徹底であった。
勝っている時でも不徹底であったから、結局イギリス海軍に圧倒されてしまっている。


ナポレオンからイギリスを救ったネルソンは、
その精神を二十世紀の半ばまでちゃんと伝えてイギリスを護ったのである。

それに反して日本の東郷元帥の精神は
昭和の日本海軍のリーダーたちには受け継がれなかったのである。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/11.html

            <感謝合掌 平成27年11月17日 頓首再拝>

指導者の条件42(辛抱する) - 伝統

2015/11/19 (Thu) 20:03:55


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はじっと時を待つ忍耐心を持たなくてはならない。

諸葛孔明が蜀の軍勢をひきいて魏を攻めた時、これを迎えた魏の大将は司馬仲達であった。
仲達も名将と言われた人だが、孔明の絶妙な軍略には太刀打ちしがたく、
戦っては何度か苦杯を喫してしまった。

そこで仲達は方針を変え、陣を固めて戦闘を避け、持久戦にすることにした。
孔明は盛んに兵を出して戦いを挑ませるが、魏の軍は一向に応じない。

ついに一計を案じ、女性の衣装を贈り、
「戦う気がなければこれを着よ。もし男として恥を知るなら堂々と合戦してはどうか」
と書を届け、辱めた。

これを見た魏の武将たちは、仲達を責め、
「こんなに辱められては黙っていられません。是非打って出ましょう」と迫った。

仲達自身も心中では非常な怒りを覚えていたが、
しかしここが大事なところと、じっと辛抱し、巧みな策を用いて武将達をも納得させて、
ついに孔明の挑発に乗らなかった。

そうした持久戦のうちに、やがて孔明は病を得て陣中に没し、蜀は軍を引いた。
そして孔明を失った蜀はその後ついに魏の軍門に降ったという。


人間というものは、とかく勇ましさを好むものである。
だから、退くよりも進みたがり、戦いを避けるよりも、華々しく戦うことを
勇気ある行為と考えがちである。

そして、退いたり、戦いを避けたりすると、
それを臆病だとか卑怯だとかそしったり非難したりする。

もちろん、進むべき時に進み、戦うべき時に戦う勇気を持たなくてはならないのは当然である。
それができなくては、臆病者、卑怯者と言われても仕方がない。


しかし、耐えがたきを忍びつつ、退くべき時に退き、避けるべき戦いを避けて、
忍耐強く時を待つということは、実際は非常な勇気が要ることである。
そういう態度は、その時はおおむね賞賛よりも、非難、軽蔑を招くからである。

そういうことを考えると、
指導者というものは非常な忍耐心を一面に要求されていると言えよう。

私の感情にとらわれず、いかなる非難や屈辱にも耐え、自分の正しいと信ずる方針を貫いて、
じっと時を待つということが出来なくては、真に優れた指導者とは言えない。

「堪忍は無事長久の基。怒りを敵と思え」というのは徳川家康の遺訓の一節だそうだが、
指導者として大いに味わいたい言葉だと思う。

            <感謝合掌 平成27年11月19日 頓首再拝>

経営は継栄 - 伝統

2015/11/21 (Sat) 19:02:50


    *Web:宗次 徳二のコラム「宗次流 独断と偏見の経営哲学」(2011年03月25日)より

先行き不透明な中においても、経営の舵取りをしなければならない社長や幹部がすべきことは、
一言で言えば真面目に経営に向き合うことに尽きるだろう。

良い経営とは至ってシンプルなのだ。

これまで述べてきたように、実に多くの人々の期待に応えるには、
我が身を経営に捧げ、打ち込む以外に現在のような混迷する世の中において、
良い経営を続ける事はほぼ不可能であろう。

超早起きをして、超率先垂範・超現場主義を貫き、
超お客様第一主義を社長、幹部自らが本気でやり続けるしかないであろう。

それにより何とか20%の社員が人材から人財に育ち、
誠実な信頼できる良い社風が生まれ、
ほんの僅かな率のお客様の支援を受けることが出来るようになるのだ。

勿論、取引先様や金融機関の信頼も得られるようになるはずだ。
こうしたことが積み重なり、業績は少しずつ右肩上がりになっていくのである。

どんなに厳しい経営環境の中にあっても、真面目に本気であり続けることにより、
僅かであるかもしれないが増収増益、右肩上がり経営を継続できるのだ。

 
栄枯盛衰は世の習い。
経営は優勝劣敗の過酷な世界である。

経営努力を惜しまず、社員やお客様をはじめ、
多くの人々の期待に応え続けることが重要なのだ。

状況が少し良いからといって、油断し手を抜いたり、
よそ見したりせず、更に努力をし続けることが重要なのだ。

そうし続ければ、ほんの僅かでも増収増益と言う経営者にとってこの上ない喜び、
そして年間を通して最高の喜びを得られるはずである。

正に1年の努力が報われるのだ。
社員を始め、多くの人々の期待に応えられるのだから、一番の喜びに決まっている。

経営とは、継続して栄え続けなければ意味が無い。

それが経営なのだ。

文字にしたら「継栄」となる。

経営者の誰もが起業、創業した時、自分や家族だけの欲求を満たしたいと、
上辺だけの幸せを思い描いて社長になったわけでは無いはずだ(もしそうで有るなら論外だが...)。

多くの人々の期待に応えながら、身を経営に捧げ、情熱を抱き小さくスタートした事業。
コツコツ、コツコツと少しずつ積み上げ、徐々に発展を遂げてきたはずだ。

要は油断せず、誠実で優しさあふれる経営であり続けることなのだ。
地域社会をはじめ、多くの人々から必要とされ続けること。
これこそが最も喜ばしいことだと思う。

経営とは「継栄」と私は確信している。

https://www.kouenirai.com/kakeru/column/business/munetsugu_keiei/1099

            <感謝合掌 平成27年11月21日 頓首再拝>

【先見性】 - 伝統

2015/11/23 (Mon) 19:04:34


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年11月22日)」より

   (松下幸之助氏の心に響く言葉より…)

   戦国時代、各地に群雄が割拠して覇を競ったが、
   その中でも特に精強を誇ったのが、甲斐の武田勢であった。

   名将信玄によってきたえられた、武田の騎馬隊の強さは
   周囲の国の恐れるところであり、戦って負けを知らないという姿であった。

   その強さは、信玄が没し、息子勝頼の代になっても変わらぬものがあったが、
   それが長篠(ながしの)の一戦で織田、徳川の連合軍に大敗を喫し、
   それがきっかけとなって滅亡への道をたどるようになってしまう。


   この長篠の合戦で、信長が用いた作戦は、五千丁もの大量の鉄砲を用意し、
   それを三手にわけて間断なく射ち続けるというものであった。

   しかも、信長は自軍の前に無数のクイを打ち、それに縄をはりめぐらした。

   そのため武田騎馬勢はそこで足をとられているところを一斉射撃に会い、
   ほとんど戦いもしないままに、多くの死傷者を出して惨敗してしまったのである。

   
   これは個々の武将や士卒の強さでなく、完全に武器の差であろう。
   いくら武田の騎馬隊が強くても、敵陣にいくまでに射たれてしまっては勝負にならない。

   結局、「これからは、鉄砲の時代だ」ということを察知し、
   早くから準備していた信長の先見性が、戦う前から勝利を決定づけていた
   といえるのではないだろうか。


   こうした先見性を持つということは、指導者にとってきわめて大切なことだと思う。
   先見性を持てない人は指導者としての資格がないといってもいいほどである。

   時代というものは刻々とうつり変わっていく。
   きのう是とされたことも、きょうは時代遅れだということも少なくない。

   だから、その時代のうつりゆく方向を見きわめ、変わっていく姿を予見しつつ、
   それに対応する手を打っていくということで、
   はじめて国家の安泰もあり、企業の発展もある。

   一つの事態に直面して、あわててそれに対する方策を考えるというようなことでは、
   ものごとは決してうまくいかない。

   過去の歴史を見ても、一国が栄えている時は、必ずといっていいほど、
   それに先んじてその国の指導者の先見性が発揮されているように思われる。

   また、今日発展している企業を見ると、
   やはり経営者が先見性を持って的確に手を打っているようである。

   時代はますますはげしくゆれ動き、千変万化してくるだろう。

   それだけに指導者は心して先見性を養わなくてならないと思う。

         <『指導者の条件』PHP>

               ・・・

坂本龍馬の有名なエピソードに次のようなものがある。

「皆が長い刀を使っているとき、実戦には短い刀がいい、と短い刀をさしていた。
次に会ったときは、これからは刀の時代ではないとピストルを持っていた。
さらに次に会ったときには、武力ではなく学問が必要と『万国公法』を持っていた」


創作だという説もあるが、龍馬の時代の見る目のするどさや先見性を表す話だ。


IT(情報技術:インフォメーション・テクノロジー)の出現とその進化により、
現代ほど変化の激しい時代はない。

企業の競争相手は、同業他社ではなく、時代の変化だ
と言ったのは、セブンイレブンの鈴木会長。

まさに、先見性がなければ、時代から取り残される。


時代の先を読む「先見性」を身につけたい。

            <感謝合掌 平成27年11月23日 頓首再拝>

問題解決能力 - 伝統

2015/11/26 (Thu) 20:10:52


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


新しい時代のリーダーには「右手にコンセプト、左手にハウツー」が求められるが、
問題解決にあたっても、コンセプトとハウツーがある。

《コンセプト=発想》

(1)問題は“あって当たり前”という発想を持て

   会社の根幹を揺るがすような問題は別として、
   「健全な問題」はあった方が刺激になっていいともいえる。

   一見、何の問題もな いという状況は、
   刺激が少なく、社内に淀(よどみ)が生じる原因ともなる。

   そもそもの問題は、その人が「問題だ」と認識していなければ存在しない。
   同じ現象や事実に接しても、物事の本質を見抜かなければ、
   問題の本質は見えないものである。


(2)肯定的な姿勢で問題に取り組むこと

   「問題」を、ひとつの「良い機会」であると肯定的にとらえることである。
   肯定的な発想でもののとらえ方を変えれば、
   アプ ローチする姿勢や結果も自然と変わってくる。


(3)問題を早い段階で発見、摘出できる仕組み作りを進めること

   何か問題が生じた時に、自分で解決しようとしない部下はいない。
   しかし、早い段階で上司に問題の存在がわかっていれば、
   自分の経験や知識、人脈などを使って、
   大きなトラブルになる前に解決できることも少なくない。

   また、部下の育成のためにあえて問題にチャレンジさせるなど、
   教育のチャンスとすることもできる。
   問題が発生した時に、その兆候が早く伝わるような
   組織の中の仕掛け作り、仕組み作りを心掛けたい。


(4)問題追求の焦点を人ではなくその事象にあてること

   部下が“会社のために”やったことで問題がおきた時には、
   部下を責めるのではなく、仕組みや仕掛け、やり方を改善する、と いうとらえ方をする


(5)問題解決そのものは部下に委ね、解決の喜び、自信を与えること

   会社の存亡に関わるような問題は別にして、問題の種類によっては
   部下に任せることが重要だと肝に銘じておくべきだろう。
   部下の問題解決能力は、こうした場面に直面することによって磨かれていく。



《ハウツー(実行)》

(1)はじめから問題が生じないような状況作りを行うこと

   ジョンソン・エンド・ジョンソンでは、「QIP」という品質向上運動を実施していた。
   製品の品質やサービス、日常業務など、
   すべての面に関する質を向上しようというものである。

   その品質向上のために、4つの原則をあげている。

  ①品質を「要求条件」と一致させる。
   要求条件には、たとえばユーザーが求める条件、
   それを満たすための資材調達先などに求める条件がある。

   その要求条件は常に明確になっていて、
   会社の進歩・成長のためにぜひ必要であるという正当性がなければならない。

  ②欠陥商品を未然に防止する。 

  ③欠陥ゼロを達成基準にして、現在の状況がそれからどの程度離れているかを
   自覚しながら、目標達成に努力する。

  ④品質コスト(品質の維持・向上にかかるコスト)を金額換算する。


   以上がジョンソン・エンド・ジョンソンの例だが、
   ともあれ、何らかの形“問題が発生しないような体制づくり”の努力を行うべきである。


(2)問題の仕分けをする

   具体的には、自分で解決できる問題かどうかを見分け、
   そのうえで、自力で解決可能な場合と不可能な場合
   それぞれの対応策を練ることである。


(3)問題の性質を見極める

   風邪を例にとれば、解熱剤が必要なのか、静養が必要なのかといった問題である。
   前者はとりあえずの応急処置、後者はじっくり根本的に治す是正措置である。

   応急処置で安心してしまうことが多いが、問題の性質を見極めて、
   それにふさわしい是正措置を採ることが大切である。


(4)問題を数字で把握する

   問題をあるべき姿からの乖離(かいり)と捉えて、それを数字で考えてみる。
   その際に忘れてならないのが、パーセントと絶対額のどちらで、
   あるいはその両方でチェックするのか、基準の採り方を事前に決めておくことである。


(5)「多長根」

   問題解決の決定版で、物事を判断するときに
   「多面的」「長期的」「根本的」の3つの側面から捉えろということである。

   人は、問題の起きた背景や原因の追究よりも、
   目の前に発生している問題の処理に追われがちである。

   しかし、当座の問題が処理できたからといって、
   根本的な問題解決になるとは限らない。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito16.html
http://www.jmca.jp/column/hito/hito17.html

            <感謝合掌 平成27年11月26日 頓首再拝>

【無私の人】 - 伝統

2015/11/30 (Mon) 19:35:41


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年11月25日)」より

   (土光敏夫氏の心に響く言葉より…)

   リーダーといっても、何も政界に必要なリーダーとは、特別なものではありません。
   会社にしても同じことです。

   社長がエゴをむき出したら、下の者はついてこない。

   総理総裁にしろ、社長にしろ、リーダーに要求されるのは、
   “無私(むし)の人”であることだと思う。

   まして総理大臣というのは、一億を越える国民の意見を聞いて、
   ひとつのものをまとめていかなくてはならない、役割を背負っているものです。

   なおのこと無私の人でないといけません。

   総理大臣にしろ、社長にしろ、自分のエゴをむき出していては出来ない仕事なんです。


   その意味では、最も損な役回りですよ。

   だから、本来なら誰も総理大臣にはなりたがらないはずのものなのです。
   ところが、現実はその逆で、誰も彼もが総理大臣になりたがっている。
   これはおかしい。

   ある意味では、総理大臣とか、社長など、トップに立つ人物は、
   自分からトップになるべきではなく、最もトップになりたくないと思っている人が、
   なるべきだといえるかも知れません。

     《無私の人・土光敏夫》

           <『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』文芸春秋>

                ・・・

「個人は質素に、社会は豊かに」

というのが、土光敏夫氏の母の教えだったそうだ。


土光敏夫氏は経団連の会長にまでなった人だが、
家庭生活では想像を絶するような質素な生活だったという。

隙間風が入るような古い家にはずっと冷暖房がなく、庭で野菜をつくり、メザシを食べ、
「いくら立派なかっこうをしても、人間はしょせん中身で評価される」と
背広やクツは破れるまで使った。


西郷隆盛は江戸無血開城の立役者、幕臣の山岡鉄舟を評してこう言ったという。

「徳川公は偉い宝をお持ちだ。山岡さんという人は、
どうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、なに分にも腑(ふ)の抜けた人でござる。

金もいらぬ名誉もいらぬ。命もいらぬといった始末に困る人ですが、
あんなに始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて
、共に日本の大事を誓い合うわけにはまいりません。

本当に無我無私、大我大欲の人物とは、山岡さんのごとき人でしょう」(感奮語録より)


無我無私の人は、始末に困る。

なぜなら、金銭や損得等の、目先の欲では動かすことができないからだ。


無私の人には限りない魅力がある。


            <感謝合掌 平成27年11月30日 頓首再拝>

指導者の条件43(信用を培う) - 伝統

2015/12/02 (Wed) 19:49:19


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に身を正し信用を高めなくてはならない。


漢の重臣に季布という人がいた。
この人ははじめ楚の項羽の大将として、おおいに高祖劉邦の軍を悩ませ、
そのため項羽が滅ぼされると、季布の首には千金の賞がかけられ、
彼をかくまう者は罪三族に及ぶとされた。

けれども人々は、彼を保護したのみか、高祖にとりなしまでしたのである。

というのは、彼は非常に約束を重んじ、必ずそれを守ったので、
”季布の一諾”つまり季布が一度承知したことは黄金百斤よりも値打ちがあると言われるほど、
その人柄が信用、尊敬されていたのである。

そして許されて漢につかえてからも、そうした態度に終始し、
また権勢にこびず、常に是を是とし、非を非として曲げなかったので、
ますます信用を得、しだいに重きをなすに至ったという。


我々が何か事をなしていく場合に、信用というものは極めて大事である。
「あの人なら大丈夫だ」、「あの会社の品物なら間違いない」といった信用が
人々の間にあれば、容易に事が運んでいくだろう。

いわば、信用というものは無形の力、無形の富だということができよう。

だから、指導者たる者はまず人々の信用を得なければならない。

自分が信用しない人には誰もついていかない。
信用している人に対しては、黙ってあの人に付いていこうということにもなるわけである。

けれども、その信用は一朝一夕で得られるものではない。
長年にわたる誤りのない、誠実な行いの積み重ねがあってはじめて、
次第次第に養われていくものであろう。

しかし、それでいて失われる時は早いものである。
長年にわたって正直だという信用を得たとしても、
一度嘘をつけばせっかくのその信用もたちまちにして雲散霧消してしまいかねない。

昔であれば、名門であるとか老舗であるといった場合は、
過去に培われた信用の力がものをいって、少々の失敗や過ちがあっても、
直ちにそれが信用の失墜とはならなかったかもしれない。

しかし今日は変化も激しく、
情報も一瞬にして世界の隅々にまで届くというほどの時代である。
ちょっとした失敗、過ちでも致命的になりかねない。

だから、指導者は信用を維持し、高めていくために、
過ちなきが上にも過ちなきを期していくことが大切だと思う。


            <感謝合掌 平成27年12月2日 頓首再拝>

趣味は経営と言える幸せ - 伝統

2015/12/04 (Fri) 19:41:57


    *Web:宗次 徳二のコラム「宗次流 独断と偏見の経営哲学」(2011年06月24日)より

私は、全国各地に講演で訪れ、各地で実に多くの経営者さんと様々な話をする。
その中で最も多い話題は、経営の現状における厳しさと、そこからの脱却法に関することだ。

講演会に出席する経営者は、まだ前向きだ。
たとえ今が厳しくとも、やる気と希望を失うことなく、
何かしら経営のヒントを探し求め、事業を発展させたいと強く願っているからだ。

 
経営を蘇らせ、黒字経営、更には増収増益経営を続ける為の私からのアドバイスは、
一言で言えば「真面目に経営する」ことだ。
この姿勢なくしてよい経営はできない。

例え数字の上で良い経営が出来たとしても、恐らく長続きはしないだろう。
経営は"継栄"、つまりは継続して栄え続けることが重要なのである。

 
「真面目な経営」で一番の鍵となるものは、社長自身だ。
社長がよそ見をせず、朝から晩まで仕事、経営に打ち込むことだ。

超早起きをして、超率先垂範し、超現場主義に徹して、超お客様第一主義を社長自らが、
心と体で実践する。そうすれば、たとえ今が厳しくとも、やがては必ず会社は蘇り、
増収増益、右肩上がり経営となるだろう。

勿論、そうなってからも油断することなく我が身を経営に捧げ続けることだ。

社長は誰もが、創業時は不眠不休、時間をいとわず、時には寝食を忘れ、
「経営を早く軌道に乗せよう」と頑張っていたはずだ。
確かに自転車操業でそうせざるを得なかったからだろう。

やがて経営に余裕が出てくると、経営のこと以外に体力とお金と時間を費やすことが増えてくる。
端から見ていると、まるでそうすることが社長になった最大の目的だったのか?と思うほど、
超自分第一主義となってしまっている社長も多く居る。

こうしたことが、自分自身後悔しない経営者人生と思えるならば、
たとえ経営は多少苦しくとも、趣味を楽しみ、欲求を満たし続ければよいだろう。

28年に渡り増収増益経営を続けた、自称三流経営者の私は、
経営者にとって何よりも価値有る楽しみ、趣味と言えるもの...それは、
情熱を注いだ結果「経営が上手くいくこと」。これ以上のことは無いと確信している。

そして、経営がうまくいくことにより、
実に多くの人々の期待に応えることができ、地域貢献も出来る。

必要とする人に手を差し伸べることが出来るというこのゆとりこそが、
人として何よりこの上ない歓びであり、究極の趣味と言えるのだ。

https://www.kouenirai.com/kakeru/column/business/munetsugu_keiei/1154

            <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

リーダーの『三識』 - 伝統

2015/12/06 (Sun) 19:10:28


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


「リーダーシップとは何か」 「ビジネス界における理想のリーダー像は」…
そうした質問を思い巡らすとき、真っ先に思い浮かべるのは、
バンク・オブ・アメリカの創始者であるアマディオ・ピーター・ジアニーニの生き様である。


20世紀初頭の1906年、サンフランシスコは大地震に見舞われた。
市の3分の1は火につつまれ、家を失った者は25万人、
死者は5000人にのぼり、各地で暴動が発生。
厳戒令がしかれる事態にまで至った。

銀行の建物も大きな被害を受け、閉鎖命令が下された。
そのため、大銀行は「向こう6ヵ月は銀行を閉鎖する」と決定。

だが、サンフランシスコ再建のために財界や銀行の代表が集まって開かれた会議の席上、
一人の人間が発言した。

“こんなときの金庫を開けないなんて、銀行は何のためにあるのでしょうか。
6ヵ月の閉鎖は誤りです。
大銀行が、どうしてもオープンしないというなら、 私一人でも開きます”

誰あろう、ジアニーニである。

そして、ジアニーニは翌日の新聞に銀行オープンの広告を出し、事務所も焼け出されたことから、
屋外に机を並べただけの野外銀行ともいうべき形で営業を開始、
通帳を失った人にも信用だけで払い戻しをしたのである。



私は、リーダたるもの「知識」「見識」「胆識」の「三識」を身につけるべきと常に主張している。

「知識」とは、いわゆるデータ情報の類。

「見識」とは、「知識」に自分なりの見解(point of view)を付け加えたもの。

そして「胆識」とは、「見識」に“判断力、決断力、実行力”を加えた陽明学の言葉であり、
これが最もリーダーに求められる。

ビジネスリーダーは、評論家や批評家、学者とは違って、常に結果を出すことが求められる。
そのためには、モノを知っている、つまり、知識の持ち主とい うだけでは不十分、
知識に自分の考え方をプラスできる見識の持ち主でも物足りない。

「胆識」こそが不可欠なのである。

モノゴトを判断し、決めて、それを実行に移すことのできる人間、
そこにトラブルや問題が生じたらすぐさまそれを乗り越えるだけの臨機応変さを持つ人間、
企業はそうしたジアニーニのような「胆識」を持ったリーダーを必要としているのである。

企業の中でリーダーの役割を果たし、
大きな仕事を成し遂げるのは「胆識」の持ち主なのである。

       (http://www.jmca.jp/column/hito/hito18.html

            <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

山口多聞 - 伝統

2015/12/08 (Tue) 19:45:52


(今日、12月8日は、大東亜戦争が開戦した日です。)


第12人目 「山口多聞」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


歴史にイフ(もしも…だったならば)は禁物だという人もある。
しかし歴史にイフがなければ歴史の本当の意味も解らない、という見方もある。

私は適切に使うならば、歴史のイフは大きな意味があると思う。

例えば日露戦争の時、ロシア軍の総司令官のクロパトキン将軍が、
もしも少しだけ猛将であったならば日本軍は惨敗したであろう。

これは日露戦争が終わって検討してみたら、あまりにも明々白々のことであったので、
日本陸軍の指導者たちは「最後の最後まで猛烈な攻撃をすること」を
最高の教訓とするようになった。

これが大東亜戦争で日本軍が大きな損害を蒙るもととなった。
歴史のイフは、反省とも痛恨とも洞察ともなる。

今の日本人はアメリカと戦争して勝つ確率はゼロだと考えているし、事実そうであろう。

しかし昭和16年から17年にかけては(1941年―42年)、
日本がアメリカに勝つか、ドローン・ゲームにする確率は50パーセント以上あったのである。
たった一つのイフを考えるだけで。

 
そのイフとは何であるか、と言えば、昭和16年12月8日、
ハワイを急襲した時の機動部隊の司令官が南雲忠一でなく、
山口多聞であったら、ということである。

いわゆる真珠湾攻撃は、第一次攻撃、第二次攻撃ともに海戦史上空前の大成功であった。
アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦群を実質上全滅させていたからだ。

第三次攻撃の目標は燃料タンクと修理施設である。
山口の率いる航空母艦「飛龍」の航空参謀は第三次攻撃隊の準備完了を報告し、
攻撃隊は飛行機をエンジンをかけ爆音を轟かせながら待機した。

山口は旗艦「赤城」にそのことを信号旗で伝えたが、
司令長官の南雲中将からは応答なく、全機動部隊は反転して帰国の途についた。

日本側の損害は29機、戦死者は55人であり、軍艦の被害はゼロであった。
見方によっては見事な引き上げ方であった。

第三次攻撃を行い、燃料タンクや修理施設を破壊するか否かは、
その約二ヵ月前に連合艦隊の旗艦「長門」での図上会議でも問題になり、
山口は第三次攻撃を主張した。

南雲機動部隊司令官は黙ったままだったという。

今では南雲中将は、真珠湾攻撃作戦に乗り気でなかったことが知られている。
はじめから腰が引けている感じの人を司令官にした人事に問題があったというべきであろう。

それに航空専門の山口と、水雷出身の南雲はどこか合わないところがあったようだ。
航空には瞬間的判断が必要だが、そういう人を海軍兵学校の卒業年次にこだわって
司令官にしなかったのが海軍人事の失敗である。

しかし第三次攻撃はしなかったけれども、
機動部隊を無傷で引き上げさせたのは作戦の妙と評価する見方もあった。

機動部隊の草鹿龍之介参謀長――この人は剣道では免許皆伝の腕前だったという――は、
「サッと斬りつけ、サッと引くのが剣の極意だ」と言って第三次攻撃をしないで
引き上げたことを自慢あるいは弁解していた。


それが完全に間違っていたことは、アメリカのチェスター・W・ニミッツ提督が
『太平洋海戦史』の中で次のようなことを書いていることから明らかになった。

「燃料タンクに貯蔵されていた四五〇万バレルが爆撃されていたら、
アメリカの航空母艦も数ヶ月にわたって、真珠湾を基地とした作戦は不可能であったろう」

アメリカ海軍が太平洋に持っていた主な軍艦はサラトガ、レキシントン、
エンタープライズ、ホーネットなどの航空母艦だけである。

もし真珠湾に石油がなくなっていたら、
これらの航空母艦も数ヶ月は動けなかったということになる。

そうすると昭和17年4月18日の航空母艦ホーネットから飛び立った
ドーリットル中佐の率いる16機の陸軍爆撃機B25による
東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸の空襲はなかったはずだ。

その時の被害は大したものでなかったが、日本国民に与えたショックや、
日本海軍のプライドに与えた影響は大きかった。

四月の上旬、日本の第一航空艦隊はインド洋から
イギリス艦隊を一掃するという大手柄を立てていた。

イギリスの空母1隻、重巡洋艦2隻、そのほか20隻近い敵艦船を沈め、
わが方の艦船の損害ゼロという記録的な勝利を収めていたのである。
その留守に日本の首府東京が空襲されるとは。

そのためにあわてて行われたのがミッドウェー攻撃であった。
この戦いで日本は主力空母4隻と、飛行機322機とベテラン操縦士数百名を失った。

この時も、山口は南雲司令官に「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」の信号を出したが、
南雲はその提言を容れず、艦上攻撃機の爆装を雷装に切り替えさせることを命じたのである。
その間に敵の急行下爆撃機が襲ってきたのである。空母の甲板は火薬庫同然だった。

このことがなければ日本海軍は太平洋を完全に支配しえた。
(アメリカの潜水艦の魚雷はその頃はたいてい爆発しない不良品ばかり。)
するとアメリカの陸軍はカリフォルニアの西海岸に集中せざるをえなくなり、
イギリスを応援するためにヨーロッパやアフリカに軍隊を送る余裕がなくなり、
イギリスはドイツに敗れ…というシナリオが出てくるのである。

このシナリオはアメリカのハーマン・ウォークの考えたイフでもある。

            (http://www.jmca.jp/column/watanabe/12.html

            <感謝合掌 平成27年12月8日 頓首再拝>

指導者とは何か~その1 - 夕刻版

2015/12/11 (Fri) 19:24:14

          *WEB Voice
           ~李登輝(元台湾総統)

《危急時に必要な心の平静さ》

勇気と同時に求められるのが、心の平静さである。
予想外の危機のなかで、いかに心を落ち着けた状態を保てるか。
これが適切な判断を下す基になる。

もっとも、若い指導者の場合、この境地に達するのはなかなか難しい。
何事も経験であり、場数を踏むしかない。

さまざまな困難にぶつかっているうちに、「こうなったあとには、こうなる」と、
次第に先の状況が読めるようになっていく。そうなれば、心の平静も得られる。

心の平静を得るには、相手のペースに巻き込まれないようにすることも大事である。

かつて私が、台湾に総統の直接選挙制を導入しようとしたときのことである。
当時、政権党だった国民党内では「党こそが国家である」という
挙国体制の考え方がまかり通っていた。

「総統は党内の人間だけで選んでいればよい」と考える党員が多かったので、
「なぜ、わざわざ他の党に権力が移りかねない制度を導入しなければならないのだ」
と彼らは不満をもち、私に批判を浴びせた。

結局、台湾における総統の直接選挙制は、九四年七月に開催された全国代表大会で
多数決により決定したが、このときも新制度に反対する100人もの党員が
昼食を食べる間も惜しんで、私を罵倒しつづけた。

だが私は、相手の罵倒にまったく怯まなかった。
彼らを眺めながら、
「なんとバカらしい。矮小な党内権力のことしか頭にない。
結局は民が欲するところに従うしかない」と思いながら、黙って聞いていた。

平静の心を物語るものとして、次のような故事がある。

室町時代の武将で、歌人でもあった太田道灌が殺されるときの話である。

刺客が「かかる時さこそ命の惜しからめ」、

つまり「このようなときだから、おまえは命が惜しいのだろう」と上の句を読んだところ、
道灌が息も絶え絶えに「かねてなき身と思ひ知らずば」と下の句を返したという。

すなわち、「自分はいつでも死ぬ覚悟ができているから、命など惜しくはない」というのである。

瀕死の重傷を負いながら、これだけの余裕を保てるのは、
まさに平静の心があるからであろう。

また、衣川の合戦における安倍貞任も、見事であった。
天下無双の弓の名手だった源義家は、敗軍の将、安倍貞任を追い詰め、
「衣のたてはほころびにけり」と呼びかける。

ところがその声も終わらないうちに、
安倍貞任は「年を経し糸のみだれの苦しさに」という上の句を返歌する。

源義家はただちに引き絞った弓を緩め、貞任の逃げるに任せたという。

合戦の場にありながら、よくその場で名句が出てくるものだと感心する。
本当に昔の武士は、精神が鍛えられていたのだろう。
和歌までさっと出てくるのは並みの精神ではない。

平生からさまざまなシチュエーションを考え、自分である程度の訓練をしていたのであろう。

危急存亡のときは、いつやって来るかわからない。
だからこそ指導者は、そのときに備え、つねに心の平静さを保つように鍛えておく必要がある。

『指導者とは何か』(PHP文庫)より

       (http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2291

            <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

指導者とは何か~その2 - 伝統

2015/12/13 (Sun) 19:33:08


【公私を混同せず】

          *WEB Voice
           ~李登輝(元台湾総統)

権力をもつ指導者が必ず心に銘じておくべきことは、公私の別をはっきりすることだ。
部下の処遇については、私情に流されず、明快に評価しなければならない。

私にはこんな経験がある。
総統になるまで台北市長、台湾省主席、副総統を務めたが、
その間ずっと補佐してくれた秘書がいた。

彼はあらゆる面に優れており、筆も立ち、たいへん役に立つ人物だった。
しかし、総統になったのち、私は彼を辞めさせた。
国家に関わる問題を起こしたからである。

彼に対する情はもちろんあったが、それに流されるわけにはいかなかった。

民主国家の政治家にとって、選挙はきわめて重要なものである。
当選した際には、支持者に報いたいと思うのは無理からぬことだろう。

次の選挙を考えれば、支持をつなぎとめるために何かしらやっておきたいと
考えるのも、自然の情といえるかもしれない。
だが、謝意はあらわすにしても、選挙は選挙、国政は国政である。

両者はまったくの別物と考えなくてはならない。
選挙が終わったら、支援者との私的な関係はきっぱりと断つことが求められる。

台湾のみならず、アジア世界でしばしば見られるものに身内への利益供与がある。
偉くなった人物が親戚縁者に職を与え、引き立てる。
これを私は「アジアン・バリュー(アジア的価値観)」と呼んでいる。

政治権力を握った者が独裁的になり、あたかも皇帝のように振る舞って、
自分の家族や自分を中心とした考え方で公の権力を使い、国家全体のことを忘れてしまう。
そのような振る舞いが国民の目にどう映るかは、いうまでもないだろう。

総統在任中、私は家族、親族はもとより、父の友人にさえ、むやみに会わないようにした。
父は県会議員を務めたことがあり、地元の人々と親密な関係をもっていた。
私が総統になると、多くの人が父を通じて人事や公共投資などのとりなしを頼んできた。

ある晩、私は父に

「父ちゃんが議員であったあいだ、たくさんの人に助けられたことはわかっています。
しかし、彼らの頼みごとを聞くつもりはありません。
ですから、人を紹介したりしないでください」

と伝えた。以来、こうした事態は一度も起こらなかった。

父が亡くなる前、私は父に対して

「あの晩から一度も人を紹介されることがなく、本当にありがとうございます。
おかげで私は職務に邁進することができました」

と心から感謝を述べた。

多くの人たちは、政治家になったら多少は汚い手を使わなければならないと考えている。
自らの政策を実践するには権力や後ろ盾、そして資金が必要であり、
これらを手にするためにさまざまな利権争いに巻き込まれかねず、
最初は国家に忠誠を尽くすつもりでも、いずれ変わらざるをえないというのである。

実際、政治家の仕事とは、周囲の冷笑を浴びながら、
一方で泥水を飲み、もう一方でそれを吐き出すようなものである。

いつまでも潔白でいるのは、天に昇るより難しい。


『指導者とは何か』(PHP文庫)より

        (http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2367

            <感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>

指導者とは何か~その3 - 伝統

2015/12/16 (Wed) 19:24:47

【情報の重要性】

          *WEB Voice
           ~李登輝(元台湾総統)

危機の際は情報の有無も、指導者の判断において重要である。

1995年、私がアメリカを訪問して母校のコーネル大学で講演したとき、
中国は軍事演習と称して台湾近海にミサイルを撃ち込んできた。
翌96年の総統選挙の際にも、ミサイルを発射して軍事的脅威を台湾に及ぼしたことがあった。

総統選挙に際して、私は国民に2つのことを呼び掛けた。
1つは「ミサイルの弾頭は爆弾ではなく、計測器である。だから、それほど恐れなくてよい」
ということである。

もう一つは「われわれは大陸中国の脅威への対応について、18通りのシナリオをもっている」
というアピールである。

この「シナリオ」とは1995年から96年にかけて、
行政院(内閣)での8回にわたる結束会議で検討されたものである。
問題別に30以上のシナリオを作成した。

「18通りのシナリオをもっている」と述べたのは、
すべてを明らかにすればこちらの手の内を中国に見せることになるからだ。

ただし、国民にはある程度報告しなければならないので、
数を減らして「18通りのシナリオ」といい、
「心配しなくてもよい。投票をしてほしい」と呼び掛けたのである。

 
われわれが用意したシナリオのいくつかを簡単に紹介しておく。
まず、中国から軍事的脅威を受けた際に最も困るのは、
国民があわてて銀行からお金を引き出すことだと考えた。

その場合にどう対処するかが第一のシナリオである。
このケースでは、預金の準備金を各銀行に与えておくことが最善の対処法という結論に達した。
それによって銀行は落ち着いていられるし、国民も困ることがない。
そこで500億元の預金準備金を中央銀行に用意した。

第2は株式市場の混乱を回避することだ。
そのために、2000億元の安定資金を組んだ。

第3は航空機の安全飛行区域を各国に伝えることだ。
ミサイルが飛ぶ空域を各国に知らせ、民間航空会社が気をつけるように通告した。

軍に対しては、いつでも対応できる態勢を取るように命じておいたが、
大規模には動かさなかった。

有事に備えて台湾海峡の防衛に軍を展開させてもおかしくなかったが、
われわれが懸念したのは大規模な軍の行動がなされることで国民に不安を与え、
ひいては「戦争か!」とパニックが発生し、社会を大混乱させることだった。

1990年から96年の期間、われわれは中国とのあいだに貴重な情報ルートを数多く有していた。
台湾侵攻を想定したミサイル発射や軍事演習は心理的な作戦であり、実際の武力侵攻はない、
という中国側の意思をつかんでいたのである。そ

のため、あわてて軍を動かさないという選択肢を取れた。
 
この一事でも、情報の重要性がわかってもらえるだろう。

われわれが用意したシナリオの多くは、
中国の軍事演習が心理的作戦であることを見抜きつつ、備えるべきものは備え、
何があっても困らないようにしておくという方針で検討したものである。

      <『指導者とは何か』(PHP文庫)より>

    (http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/2411 )

            <感謝合掌 平成27年12月16日 頓首再拝>

【メンター中浜万次郎】 - 伝統

2015/12/20 (Sun) 19:38:47


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2015年12月12日)より

   (田中真澄氏の心に響く言葉より…)

   明治維新で、多くの武士たちは時代に取り残されていきました。
   その中にあって、福沢諭吉らの先覚者は時代の先を読み、
   自らの力で人生を大きく変えていきました。

   こうした大きな変革の時代を見事に乗り切っていった人たちをよく観察してみると、
   必ず先見性の豊かな人物に師事し、新しい行動と考え方の習慣を身につけています。


   自己変革に努力している人が師事する人物をメンターと称しますが、
   明治維新前後の時期、心ある人たちがメンターとして選んだのが中浜万次郎でした。

   誰もが知っているように、中浜万次郎が幕末期にアメリカから帰国してくれたことで、
   日本はどれだけ助かったか計り知れません。

   当時の日本で、アメリカで正式な教育を受け、まともに英語を話せ、読み書きもでき、
   しかも捕鯨船という大型船の乗組員として一人前の操舵の技量を身に付けていた人物は、
   彼ぐらいしかいなかったのです。


   したがって、ペリーが来日した時、アメリカ側と円滑な交渉を行うことができたのも、
   また勝海舟が船長として咸臨丸(かんりんまる)でアメリカまで無事に航行できたのも、
   そのすべての背後に彼の支えがあったのです。

   14歳の時、漁船で遭難し、アメリカの捕鯨船に救われて、
   船長ホイットフィールドに可愛がられた万次郎は、

   その頭の良さと機敏さと人柄が買われ、船長の養子となってアメリカ東海岸の
   マサチューセッツ州フェアヘーブンで、小学校に通い、飛び級で進学し、
   最終的には専門学校で学ぶ機会に恵まれたのです。

   万次郎が学んだのは、英語・数学・測量・航海術・造船技術などの学問で、
   首席で卒業しました。

   修学後の19歳の時、捕鯨船に乗る道を選びました。


   それからわずか2年後の21歳の時、
   万次郎は船員たちの投票で一等航海士・副船長となりました。

   この一事だけを見ても、彼がいかに優秀な人物で、
   リーダーとしても人々に慕われたかわかります。

   都合3年間、捕鯨船で世界の海を航海し、多くの国々に立ち寄り、
   当時の日本人としては初めてと思われる貴重な体験を次々と積み重ねていきました。

   23歳の時、日本に帰ることを決意してからは、
   帰国の資金を得るためにゴールドラッシュで沸くカリフォルニアの金鉱で
   3ヶ月働き、600ドルを稼ぎ、1851(嘉永4)年、帰国の途に就きました。


   当時の日本はまだ鎖国状態にあったため本土に入国できず、琉球に上陸しました。

   その後、薩摩藩に引き取られました。

   開明派の藩主・島津斉彬は万次郎を厚遇し、自らも西洋事情を聴き出し、
   その航海術や造船術を藩士や船大工に教えさせました。


   その後、坂本龍馬も万次郎の情報をいち早く知る機会に恵まれました。
   龍馬の民主主義的な発想は、この万次郎の情報からヒントを得たに違いありません。

   その後、土佐藩の武士となり、藩校の教授に任命されました。
   その時の教え子の中に、後藤象二郎や岩崎弥太郎がいました。

   幕末から明治へと大きく変革していく中で、
   勝海舟や福沢諭吉のように大活躍した人物の大半が、

   直接的にも間接的にも、万次郎の影響を受けて自己変革を遂げ、
   時代のリーダーとしての足跡を残し得たのです。

   これからもわかるように、ひとりのメンターの存在に早く気付き、
   その人の持つ情報を伝授してもらえるかどうかで、
   その後の人生は大きく変わっていくのです。


   今日の日本は、明治維新と同じくらいの変革期です。
   人生100年の時代が目の前にある時、従来の人生観にこだわっていては、
   一歩も先に進むことはできません。

   人生100歳時代の到来の変革期の現在、
   幕末期の万次郎のように新しい時代を乗り切っていく先見性に富んだ人物が、
   私たちの周りに必ずいるはずです。

   その人が見つかり、気に入った人ならば、思い切って教えを乞う行動に出るのです。

   そういう人は自分を慕ってくれる人を拒まず、むしろその積極性を歓迎してくれます。

        <『100歳まで働く時代がやってきた』ぱるす出版>

                 ・・・

脳科学者の茂木健一郎氏は、こう語った。

「インターネットの登場は、人類が言語を獲得して以来の大発明」

つまり、何十年万年以来の大変化ということ。


今、我々は、ある意味でいうと、明治維新よりも激しい変化の時代に遭遇している。

それくらい、インターネットは、ありとあらゆるものを変えていく。

そして、その変化のスピードは想像絶する速さだ。


おそらく、ここ何年かの間に、インターネットに対応できなくなった
多くの企業が存続できなくなり、また多くの職業や仕事もなくなっていくだろう。

そして逆に、名も知れぬ多くの会社が突如として大舞台に躍(おど)り出て、
革新的な技術や製品を世に出てくるはずだ。


「ひとりのメンターの存在に早く気付き、
その人の持つ情報を伝授してもらえるかどうかで、その後の人生は大きく変わっていく」

メンターの存在に早く気付き、謙虚にその教えを乞う人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>

指導者の条件44(信頼する) - 伝統

2015/12/23 (Wed) 19:17:02


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は人を信頼し思い切って使うことが大事である。

漢の高祖が項羽と天下を争っていた時、
最初は項羽の勢いが強くて、漢側は押され気味であった。

その時、漢の知謀の士陳平は、謀を用い、項羽の軍師のハンゾウや主な将軍達が
漢に気脈を通じているかのように見せかけた。
項羽はまんまとそれにかかって、軍師や将軍達を疑い始め、
そのためハンゾウは憤慨し、項羽を見限って去ってしまった。

こうしたことから、一時は優勢を誇っていた項羽も次第に退勢に陥り、敗れ去るのである。
後に高祖は項羽の敗因を、
「自分は部下の力をうまく使ったが、彼はハンゾウ一人すら使いこなせなかった」
ことにあると言っている。

人を使うコツというものは色々あるだろうが、
まず大事なことは、人を信頼し、思い切って仕事を任せることだと思う。

信頼され、任されれば、人間は嬉しいし、それだけ責任も感じるものである。
だから自分なりに色々工夫もし、努力もしてその責任を全うしていこうとする。
言ってみれば、信頼されることによって、その人の力がフルに発揮されてくるわけである。

ところが実際には、人を全面的に信頼するということはなかなか難しい。

「これだけのことを任せても大丈夫だろうか」
「これは最高の機密だが、それを知らせたら他へ漏らしはしないだろうか」といったように、
色々な疑念が湧き起こってくる。

また事実、人間というものは、
すべて100%信頼できるものでないということも言えるだろう。

しかし、そこが大事というか妙味のあるところで、
人間は、疑いの気持ちを持って接すれば、そのように反応し、
信頼の気持ちで接すればこれまたそのように反応する面があると思う。

多少とも疑いの念を抱いて、信ずるがごとく信ぜざるがごとく、
従って任すがごとく任せざるがごとくといった姿では、
人は到底喜んで動くというわけにはいかない。

やはりまず、強い信頼感を持って臨まなくてはいけない。

たとえその信頼を裏切られても本望だというぐらいの気持ちがあれば、
案外に人は信頼にそむかないものである。

特に今日はあらゆる面で不信感が強く、それが精神的葛藤や争いを生み、
甚だしい場合には物の破壊にも結びついている。

それだけに、各方面の指導者がまず信頼の念を持って人に接する
ということが極めて大事だと思う。

            <感謝合掌 平成27年12月23日 頓首再拝>

クラウディオ・アクアヴィヴァ - 伝統

2015/12/26 (Sat) 19:35:06

第13人目 「クラウディオ・アクアヴィヴァ」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

キリシタンの宣教師フランシスコ・ザビエルが最初に日本に上陸したのは
天文18年(1549年)、少年徳川家康こと、松平竹千代が今川義元の人質として
さし出された年である。

それから信長の時代を中心として、徳川幕府が厳禁するまで、
相当の数の宣教師が戦国時代末期の日本に入ってきた。
 
彼らは九州あたりに体一つで上陸し、ろくな衣服もなく、食料も日本人と同じにしながら、
京都まで上って布教しようとした。

後世になると、宣教師が殺されたりすると、彼らを送り出した国、
いわゆる白人先進国が猛烈に干渉し、武力さえ使うようになるのだが、
当時はそんなことはない。殺されたり事故に遭えばそれっきりである。

驚くべき勇気と犠牲心と宗教心である。

こうしたキリシタン宣教師はすべてカトリック教会の中の、
イエズス会(耶蘇会)という修道会の神父や修道会士であった。

カトリック教会内の修道会というのは、時々誤解されるように宗派ではない。
わかりやすい例で言えば、上智大学や南山大学や聖心女子大や、白百合女子大や
暁星学園や雙葉学園などはみなカトリック系の学校であるが、経営する修道会は違う。

上智大学はイエズス会経営であるが、そこの神父たちはそこの女子修道会の経営する
聖心女子大学などにミサをたてに行っている。

そのイエズス会であるが、世界に六億人ぐらいの信者をもっているカトリック教会の中でも、
最も有力な修道会と見なされている。
その総長はローマにいるが、「黒衣の教皇」とも呼ばれている。
本物の教皇は白衣である。

イエズス会はマルテン・ルターの宗教改革が、とどまるところを知らず全ヨーロッパに
燎原の火の如く拡大してゆくのをとどめるためにイグナチウス・ロヨラが中心となって
イエズス会を結成し、あっという間に宗教改革の火が広まるのをとめてしまった。

カトリックの修道会の数は実に多いが、それらの会には隆盛期とか、
あまり流行しなくなった時期とかがあり、消えてしまったのもある。

しかしイエズス会は1534年(天文3年)に結成して以来、
最も有力な修道会として今日に至っている。

その理由はいろいろあるが、五代目の総長クラウディオ・アクアヴィヴァ(1542~1615)の
リーダーシップによるところが大きい。

アクアヴィヴァはダルトリ侯爵の末子としてナポリに生まれ25歳の時にイエズス会に入った。
生まれつきリーダーになる素質があったと見えて、間もなくナポリやローマのイエズス会管区長
に選ばれ、さらに37歳の若さでイエズス会総長、つまり黒衣の教皇になった。

何しろ当時のヨーロッパは、マキアヴェリが描くような
教権と政権のからみ合う百鬼夜行の様相を呈している。

修道会の中にも叛乱が起こるし、ローマ教皇との軋轢もあるし、
皇帝や国王たちとの関係も一筋縄ではいかない。

修道会がばらばらになったり、取り潰されたりする機会は常にあった。

スペインのイエズス会はフィリップ二世の支持を受けて叛乱するが、
アクアヴィヴァはこれを巧みに抑えこみ、このフィリップ二世と、イエズス会に
敵意を持つ教皇シクマトス五世を対立させて漁夫の利を占める。

フランスのごたごたでも巧みにフランスのイエズス会を統制して、
アンリ四世の下で不動の立場を獲得する。

教皇クレメンス八世と教皇パウル五世の頃に、「イエズス会は異端だ」という
ドミニコ会からの批判からイエズス会を防ぎ切った。

またイエズス会内の教育方針にも恒久的な方針を示した。

かくしてアクアヴィヴァがなくなった時、イエズス会士の数は一万三千人、
修道院550、管区15(たとえばイギリスを一管区)を数えるに至り、イエズス会の
黄金時代を迎えるのである。

こういう一修道会の話は、それがいかに強力で世界の歴史にかかわっているにしても、
普通の日本人には関心がないであろう。

しかし誰にでも関係のあるモットーを彼は残した。
それは、“suaviter in modo,fortiter in re”というラテン語の一句である。
その意味は「態度においては物柔らかに、事においては毅然と」ということであった。

この言葉はたとえば18世紀のイギリスの政治家・外交官として有名な
チェスターフィールド伯爵を通じて広く知られるようになった。イギリスの外交官、
いな外交官のみならずイギリス紳士一般が、物柔らかな感じを接する人に与える。

しかし外交の中味はしたたかであり、また戦場の指揮官や戦闘者としては
ドイツ人に劣るどころか、まして勝っていたのである。

チェスターフィールド伯爵は彼の古典的作品となった『息子への手紙』の中でも、
何度も何度も「態度においては物柔らかに、事においては毅然と」を
人生の指針とするようにと教えた。それはイギリスの伝統にもなった。

ところが戦前の日本の軍人のリーダーたちには、
「態度においては傲慢であり、事においては臆病」という例が少なからず見受けられたし、

今日の日本の政治家・外交官は「態度において卑屈で、事において腰抜け」という
印象を国民に与えることが少なくないのは残念である。

日本の教育もアクアヴィヴァの教えを採用すべきであろう。

            <感謝合掌 平成27年12月26日 頓首再拝>

『積極思考と習慣』 - 伝統

2015/12/28 (Mon) 19:02:55


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

ネアカに変身するためには、どうしたらいいだろうか?

その基本的かつ重要なポイントは肯定的人間・ネアカタイプになろうという
心がまえ、決意を持つことである。

“人生は、否定的に考えれば否定的な現実が訪れる。
肯定的な考え方をすれば、肯定的な現実が訪れる”

こうした言葉にはかなりの真実が含まれており、肯定的思考を持ち続けると、
言動や態度が明るく積極的になってくることは間違いない。


ウイリアム・ジェームスという心理学者が面白いことを言っている。

  “腹が立つから拳を振り上げるのではない。拳を振り上げるから腹が立つのだ”
  “悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ”

“起きて欲しくないことほど、よく起きる”とは、
「マーフィーの法則」で有名なエドワード・マーフィーの言葉だが、

同じマーフィーでも、ジョセフ・マーフィーは、

  “心の奥底で良いことを思えば、良いことが起こる。
   悪いことを考えれば悪いことが起こる”と言っている。


まさに、「内面が外面を律する」という法則、効果を指摘したものである。


いつも微笑みを浮かべる習慣を身につけていると、いつの間にか明るい人間になってくる。
私自身もスマイルカードを使って、微笑みづくりの習慣をつけよ うとした時期があった。

スマイルカードとは、銀色に加工した紙のカードで、鏡のように顔を映すことが出来る。
とくに二日酔いの日や家庭でトラブルがあったときなどには、
どうしても精気の無いさえない顔をしている。

そこで、このスマイルカードを相手に笑い顔をつくってから人に会うようにする。
最初は無理でも、だんだんと笑みが自然に浮かぶようになってきて、
その頃には、気持ちも明るくなってくる。


つねにネアカに見えるように振舞っていれば、
少なくとも他人に与える印象をネアカに見せることができる。
そうなると、ますますネアカに振る舞うことが自然になってくる。

そこまでいけば、しめたもの。
いつの間にか、自他共にネアカ人間と認めるようになって くる。


かの兼好法師は、

“聖人の真似をすれば、それはもう聖人になったようなものである”

と喝破している。

ネアカ人間たらんと決意したならば、ネアカの真似をすることである。

心理学者の調査によると、通常の人の場合、21日間同じことを続けていると習慣になるそうだ。
ネアカな態度や笑顔づくりも、たった3週間続ければ、ほぼ身につくというわけである。

まず、3週間の努力。

そうして問題は問題としてとらえながらも、
どうしたら解決できるのかと前向きになって取り組む。

どんな難関が目の前に立ちふさ がっていても、周りを明るくして問題解決に取り組む。

そういう意味での『肯定的人間、ネアカタイプ』になりたいものである。

      (http://www.jmca.jp/column/hito/hito27.html

            <感謝合掌 平成27年12月28日 頓首再拝>

大将たる者、臣下の言葉をよく聞くべし - 伝統

2015/12/31 (Thu) 19:17:09


      *「光に向かって 100の花束より」高森顕徹・著(第5話)より

「大将たる者の第1のつとめは、臣下の諫言を聞くことである。
諫めを受けねば、己があやまちを知ることができない。
それゆえに人の上に立つ者は、家来が諫めのしよいように、
よくなつかせておかねばならぬ。

武田勝頼は諫言を嫌って身を滅ぼし、
信長も森蘭丸の諫めをもちいず明智の恨みをかい失脚した。
唐の太宗は広く諫言の道を開いたから、子孫長久の基を築いたのである」
 
徳川義直は口癖のように、こう教訓していた。
 
しかし、諫言に耳を傾け、進んで諫めをいれることは、難中の難事である。
 
あるとき、匿名封書を奉った者があった。義直が開封すると、

「お家には、十悪人がおります」

という書き出しで、9人の名前が列挙してあったが、あとの1人が記されていない。

「もう1人は、だれであろうか」
 
義直は、近習を見まわしてたずねた。
 
そのとき、持田主計という23歳の秘書が、

「それは、殿さまでございましょう」

と答えた。

「なんと申す。余が悪人とな」
 義直は、声をふるわせる。

「他の9人は臣下でございますから、はばかるにおよびませんが、
残る1人は、はばかるべきお方ゆえ、わざとお名をあげなかったものと思います。
お名をあげずとも、殿さまには、おわかりになると思ったのでございましょう」

ちょうど、自分が書いたもののように、ヌケヌケと言いはなった。

「余は格別、思い当たるところはないが、なにか欠点があれば言うてみよ」

「ございます。殿さまが、ご改心あそばして然るべしと思うことがおおよそ、
10カ条ほどございます。よろしくば申し上げましょう」

と、列座の近習らの前で持田主計は、立板に水を流すごとく、義直の欠点を並べたてた。
 
臣下の前で、さんざんにコキおろされた義直は、一時は憤懣やるかたなく、
肩で荒い息をしていたが、よくよく反省してみれば、
持田主計の指摘には、思い当たる節が多かった。

数日後、義直は持田主計を大忠臣として加増し、
旧に倍して重用し国政に参与させたという。

名君と、いわれた所以である。

            <感謝合掌 平成27年12月31日 頓首再拝>

指導者の条件45(好きになる) - 伝統

2016/01/02 (Sat) 20:10:15


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はその仕事が好きでなくては務まらない。

漢も200年近くたって、政治が乱れ、
ついには一旦滅亡して、再び群雄割拠の様相を呈した。

この時立って、混乱を急速に鎮定し、漢の王室を再興したのが光武帝である。

その光武帝は、軍事にももちろん優れていたが、
いわゆる柔よく剛を制するといった行き方で内政において
非常に見るべき物があったという。

実に熱心で朝早くから日暮れまで政務に没頭し、
さらに夜半まで家臣達と勉強や討論などに時を過ごすということもしばしばあった。

それで健康を気遣った皇太子が、ほどほどにするよう諫めたところ
光武帝は「私は楽しんでやっているのだから、いくらやっても疲れることがない」
と答えたという。

ことわざにも”好きこそものの上手なれ”ということがあるが、
この”好き”ということは、何をやるにしても一番大切だと思う。

好きでないことをいくらやっても、
その道で成功するのは難しいと言っても良いのではないだろうか。

芸術家でも運動選手でも、好きであればこそ、
激しい練習、厳しい訓練をも苦とせず精進努力するわけである。
それでも一流となり、成功することはなかなか難しい。

まして、好きでもない人がやって、それでうまくいくわけがない。
指導者でも結局同じ事である。

指導者としての仕事が好きであるということが一番大切だと思う。
政治家であれば政治が、経営者であれば経営が好きかどうかということである。

だいたい、指導者として人の上に立つということは決して楽なことではない。
昔から”人を使うは苦を使う”という言葉もある。

全部の人が自分の言うことを素直に聞いて、
こちらの思い通りに動いてくれるなら良いが、そんな人ばかりではない。
文句を言う人もあれば、こちらの言うことと反対に動く人もある。

そういう姿で仕事をしていくのだから、それだけでも随分気の疲れることである。
まして、色々な困難が次々と生じ、それに的確に対処していく
といったことは大変なことである。

だから、それを大変だな、苦労だなと思うような人は、指導者にはなれない。

そういう、他人から見れば大変な苦労でも、
本人は楽しくて仕方がない、疲れを知らない、言い換えれば
そのことが好きであるということが必要なのである。

指導者はまず自分が指導者としての仕事が好きかどうか、
例えば経営者であれば、経営が好きかどうかというところから
自問自答することが大事だと思う。

            <感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>

『逆境に負ける人、のし上る人』 - 伝統

2016/01/04 (Mon) 19:48:23


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


ビジネスの世界では、左遷や降格などの逆境を避けられないことがある。

私自身、リストラならぬ降格を二度ばかり経験した。
どちらも上司との人間関係が原因だったが、一度は本社の課長から支店の課長へ、
次には部長から営業所の次長へと左遷させられた。

考えてみるに、逆境はビジネスの世界に限ったことではない。
そして、逆境にあっていかに対応するか
―― 逆境をバネとして再び飛躍するかそれとも甘んじるのか、
ある意味ではそこが人生の分かれ目と云っていいだろう。

極論を云えば、逆境にあっての身の処し方が人間の価値を決めるとも云えるのだ。


現在、若手経営者の後見人として何社かの面倒をみているTさんもまた、
逆境を経験した人である。
彼は一部上場企業のR社において40歳という若さで取締役に大抜擢されながら、
それから数年後には職を解かれるという憂き目にあった。

営業の統率者として業績を上げていたTさんが取締役を解任されたのは、
ひとえに、経営トップとの確執にあった。

“組織とは、ビジネスマンの世界とはこんなものか……”
解任宣言に対する怒り、憤り、そして敗北感などが心に渦巻き、
“自分が築いてきた営業ルートをライバル企業に提供して見返してやるか”
との考えがTさんの脳裏をかすめたとしても不思議ではない。

事実、一時期はそれを行動に移すべく、準備にも着手した。

だが結局、Tさんは心を落ち着かせるにともない、
“せっかくのチャンスだ。もう一度自分を見つめ直そう”との結論を出すに至る。

Tさんの心の奥底には、
“仕事ができさえすればと、どこかに傲慢なところがあったのかも知れない”
との思いも芽生えていたからである。

“手当たり次第、本を買い求めたし、座禅も組んだ。
でも、人間はそんなにすぐに変われるものではない。

『誰々の言葉や教えに感銘を受けて生まれ変わった』 とよく聞くが、
生まれ変わるというのはそんなことではない。
そもそも、二、三日も過ぎるとその感銘もすぐに忘れてしまう。

でも、何回かそれを繰り返してい るうちに自分を客観的に見られるようになるものだ”


“『仕事の鬼』などと呼ばれていい気になっていた部分を反省するに至った。
他人を思いやる気持ちに欠けていたことを悟った”


浪人生活4年。ついに、営業に抜群のリーダーシップを発揮したTさんに、
ある会社が白羽の矢を立てた。

そして15年。
会社再建という目的を達したTさんは後進に道を譲り、
現在では数社の顧問や相談役として若手経営者の指導にあたっている。


Tさんの例を見ても、逆境にあっては
いかに自分を「客観視」できるかがポイントとなることがわかる。

判断が客観的になればゆとりが生まれる。
ゆとりが生まれれば正しい判断も可能になってくる。

逆境にあって心すべきは、「焦らない」ということである。
勝機 は必ずまた訪れる。
その機を逃さぬように、自分という玉を磨いて、
じっくり機をうかがっているのがよいのである。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito28.html

            <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

リンカーン - 伝統

2016/01/06 (Wed) 20:13:56


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第14人目 「エイブラハム・リンカーン」
 
アメリカの大統領の中で、最も高い尊敬を受けているのは、
初代のワシントンと、第16代のリンカーンである。

アメリカの主都ワシントンを訪ねれば、
リンカーンは特別の殿堂に祀られているのを見出すであろう。

なぜリンカーンは偉い大統領として尊敬されているのか。
だいたいの日本人は、あるいはヨーロッパ人も
「奴隷を解放した大統領だから」と言うと思う。

私も30数年前にアメリカに客員教授として渡り、ノースカロライナの大学で教え、
そこの人たちと交際するまではそう思っていた。

ところがそこの人たち――南北戦争では南部軍側である――はすべて、
リンカーンを話題にすれば「統一国家を護った人だから偉い」というのである。

なるほど南部の人には「奴隷を解放したから」という理由で
リンカーンを尊敬するのは少し難しいのではないかと思った。

ところがアメリカ史を少し調べて見ると、まさにリンカーンの偉さは、
合衆国の統一を護ったことであり、奴隷解放ということをリンカーンは
大統領選挙のための演説でも、大統領になってからの演説でも言っていない。

それどころか
「南部諸州が奴隷制を持つ権利は、連邦政府によって干渉を受けることはない」
ということをはっきりと言明しているのだ。

ではなぜリンカーンが大統領になったら南部諸州は分離しようとしたのか。

それには奴隷に関するアメリカ建国以来の歴史がある。
アメリカが独立した時、すでに奴隷制はあったのだが、
それについては憲法も明示的に禁止はしていなかった。

しかし奴隷に頼る綿花農業のない北部諸州では「奴隷制は悪」という考えが次第に強くなり、
奴隷を認めないようになって行った。
しかし奴隷制をすでに持っている州に干渉する権利があるとは思っていなかった。

ところがアメリカはナポレオンから広大な西部を買収して
(1803年の「ルイジアナ購入」と呼ばれる)どんどん西部に進出し、
新しい州が出来ることになった。

新しい州が出来たらその州が奴隷を認める州にするか、認めない州にするかが問題となった。

そして到達したのがいわゆる1820年の「ミズリー協定」であり、
これは新しく出来たミズリー州は奴隷州とするが、それより北西部には
新しい州が出来ても奴隷州としないということだった。

ところが、それから34年経ってから、カンザス州やネブラスカ州が出来たとき、
カンザス・ネブラスカ法(1854年)が成立した。

これは新しい諸州は、住民の投票で自分の州で奴隷を認めるか認めないかを
決めてよいとするもので、実質的には「ミズリー協定」を破るものであった。

それまでは移民は自然に流れ込んでおり、しかもヨーロッパからの者たちが多く、
奴隷を持つ気のない人たちが大部分だった。
そこで南部の奴隷州は政策的に奴隷制賛成者を送り込みはじめた。

北部諸州も奴隷制反対者を政策的に送り込みはじめた。
(選挙のときに信者や党員をそのためだけに住民票を変更させる日本の政党と似ている)
その時までにはアメリカでも人権思想がひろまって、奴隷制に反対する人も増え、
これが共和党となった。

リンカーンは共和党から出て大統領に選ばれた。
それを見てサウスカロライナ州が合衆国から離脱を宣言した。

リンカーンは本当に偉大な政治家であった。
彼は「基本的なことには毅然と、妥協できることには妥協を」という方針を
守り切った人物であった。

彼は合衆国憲法は基本的なことであると考えていた。
また奴隷制を基本的に悪だと考えていた。

しかし奴隷制は自然消滅するものと考え、奴隷州の存在は許容するつもりであり、
事実、そう宣言していたのである。

憲法ができた時にすでに存在していたものは、それなりの存在の根拠があり
合憲的と見なさざるをえず、連邦政府の命令で廃止させることはできないと考えていた。

しかし奴隷制が悪であることは確かであるから、その制度がミズリー協定を破って
合衆国の中に増加することは止めるべきだと考えた。

リンカーンの立場はアメリカ憲法の上からも、実際的処置としても、
今から見てさえ最も穏当で筋が通ったものである。

リンカーンの穏和な政策は奴隷州にもよく解っており、サウスカロライナが連邦離脱してからも、
ヴァージニア、テネシー、ノースカロライナなどは分離反対であり、
ケンタッキー、ミズリー、メリーランドもテキサスもまだ分離に動かなかった。

しかし些細なことが導火線となり南北戦争という大爆発になった。
南部諸州会議の行われたサウスカロライナのチャールストン港の中に
サムター要塞という連邦政府の所有する兵器庫があった。

それは独立戦争の頃からのものである。
その守備の司令官はアンダソン少佐であったが、
補給を連邦政府から受けることになっていた。

サウスカロライナはアンダソン少佐に降伏を求めたが、
少佐はこれを拒絶したため戦闘が始まった。

それ自体は大したことはないものだったが、星条旗が攻撃されたということで、
国旗の象徴する政府の大統領であるリンカーンは7万5千の国民軍に動員令を出した。

南部諸州はサウスカロライナという仲間のために立ち上がった。
4年続いた悪戦苦闘中にも、合衆国を守るという基本的なことについての
リンカーンの信念は不動であった。

またケンタッキーが中立を宣言すると、戦略的に重要なのに手を出さずに、
南部軍が侵入すると、直ちにケンタッキーの中立侵害を利用して
この重要な州を味方にしてしまうなど、見事なリーダーシップであった。

そして更に重要なことは、敗戦後は南部諸州も
リンカーンは正しかったとみんな納得したことである。

       (http://www.jmca.jp/column/watanabe/14.html

            <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

人を動かすのは「人徳」 - 伝統

2016/01/08 (Fri) 19:45:40

「徳がないと、部下はついてこないな」
経営者は努めて徳性を高める努力を


          *Web:東洋経済オンライン(2015年02月27日)より

《理論や知力以上に必要なもの》

指導者、経営者が、考えなければならないのは、
正しいことを示したら、人は動く、社員は、部下は、自分についてくる、
と思わないことだ。

知力も、理論も、力も必要だが、それ以上に「徳」が必要だということである。

人間の心は、理と情の組み合わせでできている。
だから、理ばかり、力づくでも、うまくいかない、
人がついてこないのは当たり前である。

いや、むしろ、多くの人間は、情のある、徳のある人に魅かれて、
命がけで働こうとするのではないだろうか。

産業心理学の講義で、賃金は高いが、人間的魅力、徳のない親方と、
賃金は安いが、人間的に魅力のある、徳のある親方と、
そのどちらを自由労務者が選択するかというと
、圧倒的に、日当が安いが、魅力のある、人徳のある親方を選んだ、
ということを学んだ記憶がある。


指導者みずから、経営者自らが、徳のある人間、人間的魅力のある人間、
理屈はさておき、この人についていこうという気を起こさせる、
時には、この人のためには、命を捨ててもいい、と思わしめるほどのもの、
徳を身につける努力をする、心掛ける指導者、経営者でなければならない
ということである。


《人を動かすのは「人徳」》

松下幸之助を見てきたが、もちろん、力、指示、命令もあったが、
それ以上に、徳を磨く、徳を養う、そういうことを心掛けていたし、
常に人間的魅力、徳で、部下を、社員を動かしていた、

いや、松下の徳に感動して部下が、社員がみずから、率先して、
実力以上の力を発揮して動いていた。
だから、松下電器は世界企業にまで成長することが出来たと思う。

まさに、松下幸之助の経営は、
「徳」に重きを置いた経営であったと言っても過言ではない。
松下の人間的魅力、人徳で、経営を進めていたのだと思う。

時折、話していたが、「経営は、社員が働いてくれるおかげ」と言っていたが、
私から見れば、まさに、松下幸之助の経営は、「人徳経営」と言える。

「人間が人間を動かすということはな、これは、なかなか難儀なことや。
力で、あるいは、命令で、あるいは、正しい理論で動かすということも、
それはそれでできないことはないけどね。

これをやらなければ、命をとる、奪う、まあ、殺すと、そう言われれば、
たいていの人は命が惜しいからな、不承不承でも、言われた通りに
やるということにはなる。

けどな、いやいややるのでは、なにをやっても大きな成果は出んわけや。
やはりね、武力とか金力とか権力とか、うん、知力もそやな、
そういうものだけに頼っておったのでは、本当に人を動かすことはできん。

むろんやな、それらの力は、それなりに有効に活用せんといかんとは思うけど、
なんと言っても根本的に大事なのは、徳、人徳やな、
それをもって、いわゆる心服させるというか、ついていこうと思わせることやな。

お釈迦さんは、偉大な徳の持ち主やったと思う。
お釈迦さんの言ってることが、大衆の心を打ったということもあるけれど、
きみ、お釈迦さんの徳の前では、狂暴な巨象でさえ、跪(ひざまづ)いたと
言われてるそうや。

まあ、そこまでいかんでも、指導者、経営者には、部下から、社員から、
人々から慕われるような、徳というか、人間的魅力があってはじめて、
指導者、経営者たる資格があるということやね。

だからな、指導者、経営者はな、努めて自らの徳性を高める努力を、
日頃から、しておかんといかんな。

指導者、経営者に反対する者、敵対する者もおるやろう。
それに対して、正しいからと言って、対応する、あるいはある種の力を行使することも
いいが、それだけに終わるとな、それがまた、新たな反抗を生むことになってしまうわけや。

力を行使しつつも、いや、それ以上に、そうした者をみずからに同化せしめるような
徳性を養うために、自分の心を磨き、高めることを怠ったら、あかんな。部
下は、徳がないとついてこんわ。わしもまだまだやけどな」

ぽつりと、話してくれた季節は、冬。
森閑と静まり返った真々庵の座敷で、庭を眺めながら、話してくれた。

    (http://toyokeizai.net/articles/-/60352 )

            <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

組織は頭から腐る - 伝統

2016/01/10 (Sun) 19:44:53


          *『会社は頭から腐る』冨山和彦・著からの要点の紹介です

(1)産業再生機構での4年間、私は経営の難しさ、怖さを嫌というほど思い知らされた。
   だからこそ経営力の大切さ、経営人材の重要さを痛感させられた。

(2)企業経営は何よりも人の営為である。

(3)擬似サラリーマン生活とドブ板営業で学んだ企業組織内の人間学とは。
   大阪の携帯電話会社の立ち上げでは多くを学んだ。

  ①出向者だけではなく、プロパー、派遣社員、契約社員には、
   それぞれのインセンティブがあり、それらは時として相互に矛盾してぶつかり合う。

  ②毎日毎晩、一緒にサラリーマンモードで仕事をし、
   タバコ部屋で彼ら彼女らの会話を聞き、飲み屋で愚痴を言い合い、
   ミナミのカラオケで騒いでいる中から、次第にそのことに気づいた。

  ③そして緻密な論理で華麗な戦略論を説くことよりも、
   彼らの腹に落ちるようなコミュニケーションを取ることの重要性に気がついた。

   その最良の方法は、何よりも彼ら彼女らに好かれることである。

   そしてそのためには、少しでも多くの時間と体験を共有して
   お互いを知ることが重要だという、ある意味、当たり前のことを理解していったのだ。

  ④相手の話をよく聞き、相手の気持ちを想像しながら、
   相手の腹に落ちる言葉で思いを伝える。
   そして、それを繰り返す。

  ⑤施策の正しさと我々自身の決心や覚悟を示すために、
   自分たちもドブ板を踏むような顧客回りをやり、泥にまみれた。

   そのとき、人間が生み出す力、集団として同じ方向を向いた組織の力は、
   個々人の頭の良し悪しや能力の上下などを、
   吹き飛ばしてしまうくらいのパワーを生み出すことを知った。

  ⑥経営が教科書どおり進まないのは、人間が介在するからである。

(4)トヨタはずっと再生している。
   だから強いのだ。

   トヨタの強さは、生産、販売、物流などそれぞれの機能で、
   日々PDCAを徹底的にまわしていることにある。

   (PDCA → http://www.hivelocity.co.jp/blog/31257 で確認できます)

(5)時々「私は経営がわかった」「経営を極めた」という言葉を耳にしたり、
   「この会社の再建にメドが立った」などと書かれたメディアを目にしたりする。

   しかし、メドが立ったと思った瞬間から、その会社の衰退は始まっているのだ。

   そして経営者は、飲み屋での話題が昔の自慢話になったら、もう引き時かもしれない、
   と私は思う。

   まだ自慢話が少ない人に、そろそろバトンタッチしたほうがいい。

(6)ゴールのない経営に、自慢や答えはあるはずがないのだから。

   やはり経営とはその難しさにこそ、本質がある。

(7)産業再生機構の三役になったとき、
   私たち三役はバッドニュースが迅速に報告されることを歓迎すると言い回った。

   いい話は何も問題はないので、放っておいてもいい。

   だが、バッドニュースには、再生の本質が詰まっている。

(8)私は、プロフェッショナルたちに、専門分野以外の仕事をすることも求めた。
   平時ならともかく、企業再生は戦時である。
   猛烈な勉強をしなければならない。

   違う分野の専門家を尊重しなければならない。
   異なるやり方にも、理解を示さなければならない。

(9)企業再生は、多くの人の人生を左右する。
   日々の微調整が必要なのである。
   すべての組織が、すべての案件が、正しい方向に進むように、
   日々が微調整の連続であった。

(10)産業再生機構の役割について。

   我々は、会社そのものを救ってきたつもりは、実はまったくない。

   重要なのは、その中にある事業、とりわけそれを支える人材、だったのである。

(11)大事なのは人材である。
   そして、人材が持つ技術であり、ノウハウであり、
   その人材のやる気や意欲が大切なのだ。

   そういったものを社会でどう生かしていくかということが、
   社会経済の発展にとても大事。
   その人たちの幸福、自己実現にも直接つながる。

(12)実際、ヒトやモノやノウハウは、
   それを欲しい、できれば事業体という有機的な集団として、
   手に入れたいという会社が、必ずあるのである。

   大事なことは、それをわかりやすく、きちんとマーケットに提示することなのだ。

(13)再生は言い訳との戦い。
   そして当たり前のことを当たり前にやること。

  ①現実の事業再生、現実の経営改革の90%が、
   「当たり前のことを当たり前にやる」ことに尽きる。

   難しい戦略論をごちゃごちゃいう前に、
   そもそも当たり前のことが当たり前にできなかったから、
   再生会社になっていることを忘れてはならない。

  ②再生とは、組織と人材の習慣を変えることだ。
   これには、地道に根気よく、会社を組織を人間を変えていく努力を積み重ねるしかない。

   儲からないことはやらない、
   無駄なコストは使わない、
   無駄なものは持たない、

   お客様の気持ちになって行動する、
   今日よりも明日は必ず何かよくなっていようと努力する、

   こうした当たり前のことが、
   本当にできている会社は、どれだけあるか。

(14)経営者や再生を担う人間には、3つの能力が必要になる。

  ①事業を知っていること、

  ②経営を知っていること、

  ③そして人間に対する洞察力である。

(15)今こそガチンコで本物のリーダーを鍛え上げろ。
   会社を腐らせない最強の予防薬は、強い経営者と経営人材の育成と選抜だ。

  ①そもそもマネジメントは、厳しい真剣勝負の世界で戦っていく体力、精神力の問題、
   そして人間に対する影響力の問題である。

  ②学歴はさておき、若い世代のエリート予備軍が
   マネジメントで鍛えられていないのは、ガチンコ勝負をしていないからだ。
   ガチンコでなければ、本当の意味でのリーダーは育ちようがない。

  ③ガチンコ勝負をしないということは、負け戦を経験していないということでもある。
   勝ちも経験しないが、負けも経験しない。
   実はこの負けを経験するのが、ものすごく大事なことなのである。

   日本の勝ち残ったエリートには、実は何よりこの負け体験がなかったのだ。
   本当の辛酸をなめてこなかった。

  ④そもそも人間というのは、それほど強くなく、
   勝ったときには何も学べない生き物なのである。

   負けてこそ、真剣に物事を考えるようになる。

  ⑤そもそも失敗の体験がないと、ストレス耐性や胆力も身につかない。

   現代はストレス社会で、昔はよかったという人がいる。
   しかし、硫黄島決戦に投入された士官や、
   兵士たちを超えるストレスが存在するだろうか。

   あの時代の若者も、その親たちも、
   いつああいう戦場に駆り出されるかわからないという
   命がけのストレスにさらされていた。

   それに比べたら「お受験」や「出世競争」のストレスなどおママごとに等しい。

  ⑥リーダーを目指すなら比較的若いときから、
   負け戦、失敗をどんどん体験したほうがいい。

   そして挫折したときに、自分をどうマネージするか、
   立ち直るか、それを身をもって学ぶ。
   その実体験を持つからこそ、人の挫折を救えるのである。

(16)行うべきは、失敗を責めることではなく、
   敗因を徹底的に分析することである。

   これこそが、本来のPDCAだ。

(17)トップの要件。

  ①100万円を稼ぐ大変さを肉体化して理解させよ。
   これからのマネジメントエリートが持たなければいけないのは、
   肉体化された知識であり、経験である。

  ②自らの意思決定のために、いくら頭だけでイマジネーションを働かせたとしても、
   それは所詮、バーチャルな夢想に過ぎない。
   体験に裏打ちされた本物の想像力ではないのだ。

  ③100万円でもいい。
   その100万円の仕事を取るために、どれだけ人が苦労しているかということを、
   自分の肌の実体験として知らないのである。

  ④体験していない知識は、肉体化していないために、ほとんど無意味な知識である。

   もちろん世の中には勉強家はいる。
   たくさん本を読んでいるが、本で読んだ知識は、所詮そこまでだ。

  ⑤となれば、リーダーは徹底的に現場に入っていかないといけない。
   自ら現場に行ってそこでガチンコ勝負に挑むべきである。

   望んで飛び込んでみる。
   そして、たくさんの修羅場を、失敗を、冷や汗を経験する。

  ⑥どこかで一度脱藩して、肩書を失い、
   世の中の風の冷たさを本当に思い知っておくべきだ。

   そして地べたを這いつくばって、たとえ10万円でも、
   稼ぐことの大変さを味わってみるべきなのだ。

   5年間、脱藩浪人として武者修行に出る。
   地を這い、泥水を飲んでくる。

  ⑦若いエリートは、あえて負け戦に飛び込め。

(18)事業と財務は一体

  ①ファイナンスを知らない経営者が多い。
   平時においても、事業と財務は一体なのだ。

  ②多くの企業で、財務と事業が切り離されていて、
   経理の問題、財務の問題は、経理担当役員にお任せ、という会社が今でも少なくない。

  ③社長は営業畑一筋で、
   営業のことしかわからないという人が、いまだに上場企業には少なくない。
   バランスシートが全然わかっていないのだ。

   たとえば、自分の会社の自己資本が300億円だと、
   どこかに現金で300億円あると思っている経営者が意外にいる。

  ④わたしも中小企業の経営者だった。
   そんな知識レベルでは、とても会社の経営など普通ではできない。
   お金は企業にとって血液なのである。

   おカネが回って会社の生産設備が動き、人間も動く。
   ところが、その知識がなくても、日本ではやってこられたのだ。

  ⑤平時であっても事業経営と財務経営は表裏一体のはずである。
   「経営者も金融や財務の言葉で語る能力を持つべし」
   私自身も含めて、経営者も銀行マンも、皆ひたすら修練である。


(19)真の人材を育てること

  ①マネジメントを正すというのは、
   本当の意味でのエリートを鍛えることを意味する。

   エリートになろうと思っている者を鍛えるということである。

   そこでは最後の最後、つまるところ、人格要件が重要になる。

  ②そして経営者の決断は、最後はその人の世界観や哲学観による。
   強い経営者や強い会社は、迷ったときにその背骨が揺れない会社である。

   歴史観、哲学観、志という人格要件が、
   今の日本のマネジメント教育、エリート教育にいちばん欠けている。

  ③人間的要素と算数的要素とに、のたうち回ることから、経営は始まる。
   産業再生機構における再生の仕事は、まさに経営の修羅場だった。

  ④渋沢栄一は、「片手にソロバン、片手に論語」という言葉を残している。
   論語とは人間学で、ソロバンは経済合理である。

  ⑤リーダー層の脆弱化が国の宝である現場人材を食いつぶす前に、
   私たちはしっかりリーダー、真の経営人材を真剣勝負の修羅場で鍛え、
   つくり直さなければならない。

            <感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>

ナポレオン(1) - 伝統

2016/01/12 (Tue) 19:30:43


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

《万物流転する世を生き抜く(21) 英雄ナポレオンの運命の分岐点》

歴史をひもとけば、英雄と呼ばれた男は数知れない。
だが英雄のままで生を全うした例を聞かない。

稀代の革命児、国民を鼓舞し危機から救済した時代の寵児、傑物たちは
みな、陰惨な最期を迎える。
「英雄」という単語は「悲劇の」という哀愁を帯びた形容句で修飾されるのが常なのだ。

何故か?

絶頂期に、「余の辞書に“不可能”の文字はない」と吐いたとされる
ナポレオン・ボナパルト(1769年?1821年)も例外ではない。

イタリア沖のフランス領コルシカ島の地方貴族の家に生まれ、
絶対王政を打倒したフランス革命(1789年)後の混乱期に軍人として世に出た男は、
その軍事的天才を遺憾なく発揮して国内の政治的混乱を収め、
1804年には世襲を前提とした皇帝に上り詰めた。

当初は王党派志向の強かったナポレオンだが、
この頃には「自由、博愛、平等」というフランス革命の理想の守護神として
フランス国民の圧倒的支持を集めていた。

皇帝となったナポレオンは、軍事力を背景に
フランス革命の理想による欧州の統一を目指すようになる。

しかし、こうしたフランスの革命的動きは、
王制を維持するオーストリア、プロイセン、ロシアなどヨーロッパ諸国に
大いなる危機感をもたらした。

英国は、不安感をテコに各国を組織して
フランス包囲網を執拗に構築し、ナポレオンに対抗した。

英国も王制をとるとはいえ、すでに市民の力で
王権を制限する立憲君主制への市民革命を成功させている。

英国の真の思惑は、体制問題にはなかった。
産業革命によって工業国家として製品輸出先の欧州大陸に築いた
自国の経済支配の優位をナポレオンに奪われたくないことにあった。

英国の執拗な抵抗にも関わらず軍事侵攻で欧州の中央部をほぼ手中にしたナポレオンは
1806年、支配下の各国に英国との貿易を禁じる「大陸封鎖令」を発動する。

しかし4年後、ロシアは封鎖令を破って英国との貿易を再開する。

「ロシアはわれわれに不名誉か戦争かを選べという。
結論は決まっている。進軍しようではないか」。

1812年、ナポレオンはフランス軍に同盟軍を加えた60万の大軍で
ロシアに侵攻することを決断する。

これが英雄ナポレオンの悲劇への分岐点となった。

(この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月12日 頓首再拝>

ナポレオン(2) - 伝統

2016/01/14 (Thu) 19:20:33


万物流転する世を生き抜く(22) 容れられなかったナポレオン側近の諌言
 
「諫争(かんそう)の臣」と中国史ではいう。
命を賭しても王の非をいさめる家臣のことである。

軍事であれ経営であれ、何ごとも意のままにできるワンマンは、
とかく現実を無視した夢想を抱くようになる。
だからこそ、諫争の臣がまわりに必要だ。

 
ナポレオンがそうだった。

オーストリア、プロイセンを打ち破り、ナポレオン軍は、
ロシアと国境を接するポーランドの地まで押し寄せていた。

「全欧州に同一の法典と統一通貨とひとつの度量衡を導入して、諸国民を同一国民にする」。
ナポレオンは欧州合衆国構想を公言するようになる。

その夢想が現在の欧州共同体に結実した先見性に驚くが、時代はまだ成熟していない。

敵対する英国への上陸も強大な海軍力の前に断念し、
経済封鎖も、かえって英国製品に頼る大陸諸国の物価を高騰させ、
各国に加えフランス国内でも反発を招いていた。

対英貿易再開に踏み切ったロシアを討つといっても、
相手は欧州からアジアにまたがる大帝国である。だれの眼にも無謀と映った。
気づかぬはナポレオンひとり。

そのナポレオンにも諫争の臣がいた。
彼の特命大使としてペテルブルグに派遣されロシア皇帝・アレクサンドル一世との
外交を4年担当して帰国したコレンクールだ。

1811年6月、コレンクールは職をかけてナポレオンに、
戦争を避けて対ロシア和平を決断するように説いた。

「ロシア皇帝は、わが軍がロシアの占有するポーランドを独立させることを怖れています。
彼らから戦端を開くことはありません。彼らは和平を望んでいます」

「わが軍に引けということか。何でもロシアの言うなりになれと」と怒るナポレオンは、
諫言するコレンクールの耳を引っ張り、「お前はロシアの味方か」となじる。

「アレクサンドルは余を怖れておるのだ」

コレンクールはロシア皇帝の言葉を伝えた。

「『ロシアは広い。ナポレオンをフランスから引き離し補給路を断つ。
戦争は一日では済まぬぞ』と」

「なあに勝ち戦一つでアレクサンドルの決意などひっくり返してみせる」

まもなく、ナポレオンは軍務大臣に「ロシア大遠征」の決意を伝えた。

諫争を無視した孤独な英雄は、ロシア皇帝の予言通り、
広大なロシア領土に引きずり込まれていく。

(この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

ナポレオン(3) - 伝統

2016/01/16 (Sat) 19:10:07

万物流転する世を生き抜く(23) 前線を離脱するロシア皇帝


ナポレオン軍のロシアへの電撃侵攻は、1812年6月24日、
ポーランドとロシア国境を流れるニエーメン河の渡河で始まった。

ナポレオンが欧州各地から動員した兵力は67万5000と記録されている。
対するにロシアが動員できたのは21万8000。兵力差は3倍だった。

さらに、守る側は敵がどこから攻め入るかわからない。
三軍に分けて400キロの前線に配置せざるを得ず、ナポレオン軍は抵抗もなく攻め入る。
宣戦布告もなかったから、ロシア軍は大混乱に陥った。

皇帝アレクサンドルがナポレオン軍の電撃的な侵攻を知ったのは、モスクワではなく、
前線近くの町、ヴィルナに置かれた本営そばで行われていた舞踏会の最中だった。
慌てて本営に戻るが手の打ちようがない。

総司令官でもある35歳の若き皇帝はナポレオンへの対抗心から前線で指揮を執ろうとする。
しかし皇帝がいたのでは、作戦会議もおべっかが飛び交うだけの自由な意見の出ない
接見の場となってしまう。しかも万が一、皇帝が敵に捕捉されれば、その場で敗戦だ。

危機管理の正念場で、最前線に突っ込みたくなる、
ワンマン経営者が陥りがちな、“誤った陣頭指揮”の典型だ。

将軍たちは、皇帝に首都へ下がってもらいたいが、言い出すものはいない。

「私が言おう」。警視総監のバラショフが、意を決して、引き受け手のない役回りを志願した。
「陛下、軍は将軍たちにお任せ下さい。陛下は首都で国家全体を指揮する義務があるのでは
ありませんか」

聡明な皇帝は、バラショフの丁重な言葉遣いの真意を汲み取った。

「わかった、モスクワに戻ろう」
皇帝はモスクワを経て当時の首都ペテルブルグに引き揚げた。


諌言は聞く耳があってこそ生きる。

 
皇帝は、前線の厩舎に第1軍のバルクライ将軍を訪ね、指揮権を委譲し、抱きしめて言った。

「わが軍をよろしく頼む」。そして付け加えた。

「これは余のかけがえのない軍隊であることを忘れないでくれ」

将軍もまた、皇帝の言葉にこめられた真意を把握した。

「退却は恥ではない。私に託されたのは、軍を無傷で保つことだ」

ナポレオン連合軍が進む。ロシア軍は会戦を避け、じりじりと後退する。

戦闘らしい戦闘もないままに進撃するナポレオン軍であったが、
敵より恐ろしい苦難に直面していた。

兵站という敵であった。

(この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首再拝>

ナポレオン(4) - 伝統

2016/01/18 (Mon) 19:32:12


万物流転する世を生き抜く(24) 長征と兵站の誤算

ロシアに侵攻したナポレオンは、国境のニエーメン河を越えた時点で、
「戦いは60日で終わらせる」と計算していた。

ナポレオンはこれまでの欧州征服戦で20万の兵卒を率いたことはあるが、
今回は同盟軍を含めてその3倍を越える未経験の大遠征である。

パリからロシア国境まで2000キロをやってきたが、
モスクワまではさらに800キロもある。
兵站補給線も延びる。可能か?

「ロシアの精神面の支えであるモスクワ、首都のペテルブルグを落とすまでもない。
大軍で敵を叩けば早晩、ロシアは瓦解する。遠征は半ばでアレクサンドルも
講和を求めてくるに違いない」。楽観していた。

実際にロシア軍の右翼と左翼に割って入った形で電撃的に国境を越えたから、
敵を分断できた。
あとは敵を追い、容易に左右両軍を個別撃破できるとナポレオンは考えていた。

大軍遠征の成否は、兵站・補給の確保にかかっている。
軍事プロのナポレオンだけに抜かりはない。

各部隊に20日分の食糧を携行させ、
残りはプロイセン、ポーランドの拠点から補給させる計画を立てていた、
ポーランドのダンチヒだけで50日分の食糧・物資は備蓄させていた。

しかしロシアに踏み入れるや否や、遠征軍を襲った大音響は敵の砲声ではなく、
とめどない雷鳴だった。豪雨に見舞われ、道はぬかるむ。
雨が上がると道路は干上がり砂塵が舞って兵を疲弊させる。

そして地勢を知り尽くしたロシア軍は東へ東へと兵を引き、容易に捕捉できない。
悪路に加えて各部隊が食糧用に同行させた家畜の群が道を塞ぎ、
後続の輸送部隊の前進を妨げた。

輸送を担う牛馬の飼料も不足する。
行軍速度が落ちれば、積んだ食糧はあっというまに消費されていく悪循環に陥った。

まず役牛を食糧に回した。
馬は温存したが現地の放牧で消化に悪い生麦を食べて次々と倒れていった。

逃亡兵も増えた。
敵を追う歴史的大軍は、規律を失ない、飢餓線上をさまよう流浪の集団と化していく。

「それ、兵を鈍らし鋭をくじき、力を尽くし貨をつくすときは、
すなわち諸侯その弊に乗じて起こる。

〈(遠征が長引けば)軍も疲弊し鋭気もくじかれて、力も財貨も無くなれば、
ライバル諸侯たちは困窮につけこんで襲いかかる〉」(『孫子』作戦篇)

 
ナポレオンの脳裏を、日ごろ愛読していた中国兵法書の警句がよぎり、
迫りくる運命におののいたに違いない。

 (この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月18日 頓首再拝>

ナポレオン(5) - 伝統

2016/01/20 (Wed) 19:47:24


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


万物流転する世を生き抜く(25) ボロジノ大会戦でのナポレオンの逡巡


ナポレオン軍に攻め込まれたロシア軍は、退却しながら、徹底した焦土作戦をとった。

ナポレオン軍が拙い地図を頼りに進んだが、
どの町も村も家々は食糧もろとも焼き尽くされている。
兵士たちが一夜の宿りをとる屋根ひとつ残されていなかった。

兵士も軍馬も消耗を続ける。

かたやロシア軍も、一方的な退却戦は士気を削ぎ、不満が高まった。
「それでもロシアの男か」。

将軍たちの間に拡がる不協和音を見て取った皇帝アレクサンドルは、
総司令官のバルクライを更迭し立て直しを図る。

総司令官についたクツーゾフは、退却しながらも、
騎馬に長けたコサック兵によるゲリラ戦で侵攻軍の疲労を誘った。
そして敵が疲労の極に達したと見て決戦を決意する。

クツーゾフは、モスクワの西120キロにあるボロジノの町の郊外の平原に
堅固な堡塁を築き10万6千の兵を展開して待ち受ける。
9月7日、ロシア国境を越えて2か月半が経過していた。

国境のニエーメン河を越えたときに7500頭いた荷馬は1000頭にまで激減していた。

ナポレオンは、こちらも12万を越える兵に向けて、
「ついに待ち望んだ合戦だ。勝利は諸君の双肩にかかっている。
勝利の暁には、潤沢な補給品、早期の祖国帰還が待っている」と宣言した。

希望のみが疲労した兵士を奮い立たせる。

軍勢は両軍合わせて23万、未曾有の大会戦である。
堡塁の争奪をめぐって突撃を繰り返す両軍は、耳をつんざく砲声の中で累々と屍をさらした。

戦い半ば、前線の将軍たちから後方のナポレオンに伝令が駆けつける。

「陛下、いまこそ近衛軍を動かして下さい」。
本陣周辺には、精鋭2万の予備軍が無傷で待機していた。
互角の戦況で、敵にはもはや予備の兵力はない。

ここで近衛軍を投入していれば。
この戦役を通じてロシア軍を壊滅する唯一のチャンスであった。

「ノン!」とナポレオンは要請をはねつけた。
「モスクワでの最終決戦を前に虎の子の予備兵をむざむざ犠牲にするわけにはいかない。
予備兵がなくてもこの戦いは勝てる」

前線のネイ元帥は、回答を聞いて叫んだ。

「そんな馬鹿な。皇帝は後ろにいて何をしているんだ。
戦局も読めない彼はもう将軍じゃない。皇帝だ。
パリの宮廷へお帰り願おう」

「勝機に全軍投入」の原則は、軍に限らず、組織経営の要諦である。
この一瞬の誤判が悲劇の始まりとなった。

 (この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月20日 頓首再拝>

ナポレオン(5) - 伝統

2016/01/22 (Fri) 19:50:42


万物流転する世を生き抜く(27) 炎上する聖都モスクワ


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


苦しい進軍を続けるナポレオンはモスクワ攻略に全てを賭けた。
飢えに直面する兵士たちも「モスクワさえ落とせば、諸君には安らかな休息と
帰国が待っている」という皇帝の言葉に期待をつなぐしかなかった。

「ロシア軍に戦意はない。聖都を失えば、
首都ペテルブルグを攻めるまでもなくロシアは瓦解する」。

ナポレオンはそう読んで、モスクワの城壁をめぐる戦いが、
大遠征の締めくくりになると信じていた。ところが…。

モスクワの西郊に布陣していたロシア軍は、フランス軍に使者を送って、撤退の意を伝え、
その到着を前に姿を消した。モスクワを通過してさらに東南方向へ撤退したのだ。

モスクワ放棄を決めたロシア軍の参謀会議は、当然のことながら、
軍の面目と名誉を巡って紛糾した。
総司令官のクツーゾフは、激論を引き取って言った。

 「なあに、モスクワがスポンジになって奴の水分を吸い取り干上がらせてくれるさ」

クツーゾフには勝算があった。
時間をかければ、遠征軍の兵力は減るばかりだが、
電撃侵攻に虚を突かれたロシア軍は新兵が続々と補充されつつある。

さらに、10月ともなれば寒風が吹きやがて雪。
11月から先はフランス軍が経験したこともない氷の大地に閉じ込められる。

9月15日、ナポレオンは無血でモスクワに入城し、クレムリンの宮殿に入った。

宮廷の贅を尽くした調度に囲まれて眠りについた彼は、翌未明、側近に起こされる。

「街の数か所から火の手が上がっております」。
久しぶりの酒盛りで騒ぐ兵士たちの失火だろうと取り合わなかったナポレオンも
やがて青ざめて猛火のモスクワを離れた。

モスクワ総督のラストプチンが撤退に際して配下に命じていた計画的放火だった。
消防車、消火設備はすべて破壊されていた。
火は折からの強風にあおられて街をなめ尽くす。

翌日、市街の三分の二が灰燼に帰したモスクワに戻ったナポレオンは、
「なんという国民だ。野蛮人め!」と吐き捨てると同時に、
「ロシア皇帝が泣いて講和を求めてくるまで、モスクワに居続けるぞ」と命じた。

ペテルブルグにナポレオンが放った講和の使者が向かったが、なしのつぶてだ。

 「ナポレオンはロシアでの敗北を運命づけられている」。

強気のロシア皇帝アレクサンドルに妥協の道はなかった。

刻々と冬の足音が近づいていた。

                      (この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>

ナポレオン(6) - 伝統

2016/01/24 (Sun) 19:30:17


万物流転する世を生き抜く(28) ナポレオン、優柔不断な撤退の選択

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

奇妙な休戦状態でモスクワの滞在が長引くにつれ、
ナポレオンの脳裏には言い知れぬ不安がもたげてきた。

60日で作戦は終わると当初考えた期限はすでに過ぎている。
モスクワでの越冬を決意したとはいえ、さらに半年も
全欧州を支配する皇帝がパリを留守にすれば、政治情況もどう動くかわからない。

将軍たちを集め、膠着状態を打破するため首都ペテルブルグへの進軍を提案したが、
こぞって反対される。

560キロ北にある首都に向けて軍を動かせば、
モスクワ南郊に陣取るロシア軍に背後をつかれるのは自明の理だ。

ロシア軍総司令官のクツーゾフの布陣はその意味で理にかなっていた。

考えられる選択肢は、冬の来る前に国境近くまで軍をひき、次の春の再攻撃を期すしかない。
将軍としてならその決断も可能だが、不敗の皇帝・ナポレオンにはできぬ相談であった。

モスクワ放棄、つまり撤退は、欧州各国から「ロシアでフランス敗北」とみなされ、
政治生命に関わる。

そう考えると躊躇せざるを得ない。

「どうすべきか」。ある日、ナポレオンは側近の馬事総監コレンクールの意見を求めた。

かつて、「ロシア侵攻は無謀」と諫言したことのある冷静なこの男、
「陛下は重大な危機に瀕しています」と、またもや英雄を諌めた。

「これはモスクワで陛下をあやしておこうというロシア軍の策略です。
しかも越冬装備もない。どう冬を越せますか」。

口にしないまでもだれもが考えていた「撤退」の勧告でもあった。

「お前はロシアの気候のことを大げさに言い過ぎる」と一笑に付したものの、
皇帝の意思は撤退に傾いてゆく。

だが面子もあった。
直ちに西に向かわず、南にいるロシア軍を叩いて、勝利を手土産に西に転じることにした。

「勝てる」と自信を持って立ち上げた事業も、必ず成功するとは限らない。

勝算なしと見極めれば、面子にこだわらず失敗を認め、
最短距離で速やかに撤収、撤退するのがリーダーに求められる行動原理だ。

勝利にこだわるナポレオンは原理を踏み外した。

10月19日、そぞろ寒くなってきたモスクワを、南のカルーガに向けて発つことになった。
ナポレオンは全軍を前に叫んだ。

 「(敵の待つ)カルーガに向けて進軍!わが行く手を阻むものに災いあれ! 」

 「進軍」と偽った優柔不断の「撤退行」は、やがて自らに災いをもたらすことになる。

(この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

ナポレオン(7) - 伝統

2016/01/27 (Wed) 19:07:50


万物流転する世を生き抜く(29) ナポレオン軍、冬に飲み込まれ自壊

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

冬の到来を目前に、敵を求めて意気揚々とモスクワを出発したナポレオン軍だが、
その隊列は異様なものだった。

軍勢は歩兵、騎兵を合わせて約10万。500門を越える砲を曳き、馬車、荷車4万台が続いた。
荷車には武器弾薬のほかにモスクワ滞在35日間に兵士たちがモスクワで略奪した品々が
積み込まれていた。

ナポレオンは無駄な荷は捨てるようにと命令したが、
当の本人がクレムリンから大量の略奪美術品を持ち去ろうというのだから、
命令の効果などない。

士気は弛緩し、もはや戦う軍団ではなかった。

モスクワ出発から5日、両軍はモスクワの南の要衝、マロヤロスラヴェツの街を巡って激突する。

攻防は一日続き、最終的には新参のイタリア軍の奮戦でフランス連合軍がこの街を陥落させたが、
奇妙にもナポレオンは、近衛軍を投入することもなく、逃げるカルーガ方面に逃走するロシア軍を
追いとどめを刺すこともなく進路を北へ戻した。

「やつらはいくらやっつけてもキリがない」と呟いた彼は、
もはや自軍に戦う気力が失せていることに気づいていた。

後世の歴史家は、クツーゾフを追い込むことのできたこの時点での撤退決断が、
ナポレオン遠征軍の敗北を決定づけた、と見ている。

この攻防戦での連合軍の戦死者4000は全くの無駄に終わったのだ。

戦いにおいて、局面に応じての戦術変更はあり得る。
しかし、「敵を叩いてから国境まで引く」という出陣に際して指揮官が示した
大戦略の理由のない撤回によって、目標を失った軍は軍でなくなった。

きびすを返したナポレオン軍を見て、ロシア軍総司令官のクツーゾフは、
「落ち武者心理と飢えで、彼の周囲は騒然としている」と
ナポレオン追い落としに向けて兵を鼓舞した。

11月5日には雪が降った。やがて吹雪が舞い、凍りついた道がフランス軍の退却の足をとめた。
国境への街道沿いには落伍兵たちの屍と放棄した砲が点々と連なり、その上を雪が覆っていった。

12月5日、ドニエープル河の支流を越えた時点で、
ナポレオンは、残ったわずか1万3000の兵をミュラー元帥に託し、
コレンクールら側近三人と馬車に乗り、パリへと逃亡した。

誤判の連続の英雄のロシア大遠征は、負けるべくして負け、ここに終わった。 

(この項、次回に続く)

            <感謝合掌 平成28年1月27日 頓首再拝>

ナポレオン(8) - 伝統

2016/01/29 (Fri) 19:07:59


万物流転する世を生き抜く(30) 英雄の嘆き

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

遠征軍を置き去りにして、出発から6か月後の1812年暮れ、
真冬のパリに命からがら逃げ戻ったナポレオン。

彼は帰国2日後に元老院で、「わが軍が多少の損害をこうむった」と強がって見せた。
しかし、現地では“大将”を失った兵士たちは、極寒の大地で後を託した
ミュラー元帥の指揮から離れフランス軍は1週間で瓦解した。

かろうじて帰国を果たした兵士たちは、地獄絵図とナポレオンへの不信を語っている。
神話は崩壊した。

案の定、ヨーロッパ各国は、「ナポレオン敗北」の報に一斉に、
「諸国民解放戦争」に立ち上がり、パリに攻め込む。

皇帝退位、放逐されたエルバ島からの脱出、ワーテルローの戦いで再度の敗北、
南大西洋のセント・ヘレナ島での監禁、そして死 ―― という不屈の英雄の逸話ばかりが
語り継がれているが、

フランス国民の“英雄時代”への郷愁を引きはがせば、
ロシア遠征の各局面で見たように、ナポレオンは単なる一凡将でしかない。

そしてナポレオンの退場後、フランスは、彼が思い描いた同一通貨、統一法、
同じ制度に基づく「ヨーロッパ合衆国」の理想とは裏腹に、王政復古、
無能なナポレオン三世の登場による混乱に放り込まれるのである。

 
彼の挫折はロシア遠征に始まった。
ある歴史家は、その失敗の原因について、
「当時、最高の将軍なら、これを予知し避けることができたはずのものである」
と手厳しく指摘する。

あと1か月早く攻撃を開始していれば、冬の到来までに作戦を終えることは可能だった。
ロシア軍をいま一歩まで追いつめたボロジノの戦いで近衛軍を投入していれば…。
いずれの局面でも、逡巡と一貫性のなさが、勝利の女神を遠ざけた。

だれもが助言を躊躇するワンマンの指導者であればこそ、
その一瞬の迷いと誤判は組織の死を招く。

ワンマンにこそ、忠言者の存在と、その忠告を聞く耳が不可欠なのだ。

死を免れて絶海の孤島、セント・ヘレナ島で6年を過ごした英雄は廃人同然に、
過去の栄光をただ振り返るばかりであった。

 
ある時、彼は自伝の口述筆記者に呟いた。

 「自分はモスクワで生涯を終えるべきだった。君はそう思わないのかね?」

英雄が英雄として生を閉じるには、
ロシア大遠征の失敗は、毎夜夢に見るほど心残りだったに違いない。

http://www.jmca.jp/column/leader/leade%EF%BD%9280.html

            <感謝合掌 平成28年1月29日 頓首再拝>

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