伝統板・第二

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日本の神さまと上手に暮らす法 - 夕刻版

2015/09/19 (Sat) 19:50:32

このスレッドでは、八百万の神々とのお付き合いについての情報を紹介してまいります。

           *「サンデー毎日(2015年8月30日号)」より

◇祀り上げてばかりじゃもったいない

今年4月、ホホホ座の姉妹店が広島県の尾道に開店した。
ここは、尾道空き家再生プロジェクトが手がけるアパートに、お菓子職人でもある店主が
「おやつと雑貨、本の店」をコンセプトに、新しい風を吹かせている。

その尾道にある、尾道自由大学校長・神社学教授の中村真さんが、本書の著者だ。

著者は10代の頃から世界中を旅し、さまざまなライフスタイルに触れていくうちに、
「人間が幸せに暮らすための価値観ってなんだろう?」と思うようになる。

たどり着いた答えは、「自然を大切にし、一日一日をいつくしんで暮らす」ということ。
その後、エコロジー雑誌の発行人となった著者は、次第に、日本の神さまの存在に気づいていく。

「一粒のお米にも、トイレにも、大きな木にも、神さまが宿っている」。
そういう昔ながらの日本人の考え方こそが、人が幸せに生きるための鍵となるのではないかと
考えた著者は、温泉と神社を巡る日本一周を3度実行。

1万回以上参拝してきた。
そこから得たエッセンスが、「神棚よりも大切なもの」「お賽銭(さいせん)はいらない」など、
46の方法で、本書に紹介されている。

京都にも神社は多いのでよく参拝しているが、行くといつも元気になる。
それは自然そのものである神社に触れることで、自然の一部である私たちも、
元の気を取り戻すからだろう。

日本の神さまと上手に暮らすことは、私たち自身と、
この社会と、仲良く暮らす法でもあると思った。

(京都 ホホホ座(元ガケ書房) うめのたかしさん)

             <感謝合掌 平成27年9月19日 頓首再拝>

あなたは「日本の神さま」と暮らしてますか? - 伝統

2015/09/20 (Sun) 19:53:38


            *Web:DIAMOND online( 2015年6月23日)より

あなたは「日本の神さま」と暮らしてますか?
~1万回神社に通った「神社学」教授が語る!


《日本の神さまを身近に感じ、満たされたあたらしい毎日を手に入れる》

しばらくの間、海外を旅して帰国したとき、
「あたりまえの日本」に感動したことはないでしょうか?

たとえば、食べものが、おいしい。
たとえば、トイレが清潔。
たとえば、治安がいい。スリやひったくりを心配しながら、
            貴重品をしっかりと握りしめていなくても大丈夫です。

また、「○○が必要!」となったとき、
必ずどこにでもあるコンビニエンスストアの存在も、安心感のひとつだと気がつきました。
どんな街にもあるし、いつでも開いている。困ったときに頼りになって、誰でも気軽に足を運べる。
ちょっと頼れる存在が必ず近くにあるというのは、まぎれもない安心感です。


実は、僕にとって、「神社」はその安心感そのもの。
まぎれもない、心のよりどころみたいな存在です。

「神社に行くのは初詣とか、厄除けとか、何かお願いごとがあるときくらいかな? 」

平均的な神社のイメージとは、こうしたものだと思います。

しかし神社というのは実はコンビニより数が多い。
どんな街にもあるのはもちろんのこと、「人も住まない山奥にもある」という点では、
コンビニ以上かもしれません。

この連載では、神社の住人である「日本の神さま」と仲良くし、
暮らしを整えるためのヒントを、ごく日常的かつ実用的にまとめようと思っています。

「日本の神さまって言われても、よくわからない」

「なんか畏れおおくて、近づきにくいんだよね……」

「神社って、縁結び以外は興味ないし」

「えっ、宗教? そういうの、苦手です」

など、ぴんと来ない人、拒絶反応を起こす人が多くいるであろうことも、よくわかります。

かくいう僕がそうでした。

10代から20代にかけては海外に魅せられ、世界中を旅していました。
日本のよさを改めて考えることなど、いっさいなかったのです。

放浪ののちに音楽やイベント関係の仕事に就き、
スピリチュアルとはほど遠い暮らしを続けていました。

「神さま」なんてものは、畏れおおいどころか、自分にはまったく関係ないと思っていたのです。
考えることすらなかったので、「よくわからない」とも思いませんでした。
まるで縁がなかったと言っていいでしょう。

宗教にも当時は関心がありませんでしたし、今でも特定の宗教を持ちません。


しかし、世界を見て、音楽を通してさまざまなライフスタイルにふれるうちに、
「人間がしあわせに暮らすための普遍的な価値観ってなんだろう?」と考えるようになりました。

そのすえに辿り着いたのが、自然を大切にし、一日一日をいつくしんで暮らすということでした。
やがて僕は環境問題に興味をもち、エコロジー雑誌の発行人になりました。

ライフワークとして自然と暮らしのかかわりを追究しているうちに、
日本の神さまの存在に気づきました。

「一粒のお米にも、トイレにも、空にも、大きな木にも、神さまが宿っている」

あたりまえのことに感謝し、あるものを大切にする。
昔ながらの日本人の「神さま」についての考え方こそ、
しあわせに暮らすための鍵なのではないかと。


僕は、山の神さまに会うために、山に通いました。
滝の神さまに会うために、滝を訪れました。
生まれ育った東京で、地元を守ってくれている神さまと再会しました。

そう、神社巡りにハマったのです。

少しずつ、少しずつ、僕は変わっていきました。

自分の力を試そうと新しい世界を探検するワクワクよりも、
もっと心ときめく冒険を見つけた。
今思うとそんな気がします。

冒険とは、乗り物に乗って出かけて行くものではなく、
心のありようでできるものだと発見したのかもしれません。

代わり映えのしない自宅のベッドで朝、目が覚めただけで、
「ああ、今日も一日が始まる!」という幸福に、心おどるようになりました。


今の僕は、自分なりの「神社学」を、
校長を務める尾道自由大学と東京の自由大学で教えています。

神社の神主でもなく、宗教家でもない、ごく普通の人間が、
日本人の暮らしのなかにずっと溶け込んでいる神さまとどうつきあうか。
その方法を、多くの人とシェアしています。

コンビニよりたくさんある神社ですから、神さまは僕たちが思うよりもずっと身近にいます。
活用しなければもったいない。僕はそんな感覚でいるのです。


「日本の神さま」と上手に暮らすと――、

☆ 心がすっきりと整理整頓されます。

☆ 食べもの、水、空気、太陽。あらゆることに感謝できます。

☆ 神社めぐりが、より深く楽しめます。

☆ 暮らしのなかで出会う人たちに、やさしさがもてます。

☆ 日本人としての美しい所作と精神を取り戻せます。

☆ なにもなく、シンプルでありながら、無限の豊かさを味わえます。


「日本の神さま」をちょっと意識することで、“心の背すじ”がピンと伸びます。

幸運を自在に引き寄せられるわけでもありません。
仕事が成功し、夢が叶い、なりたい自分に、あっという間になれるというわけでもありません。

しかし、「日本の神さまとのつきあい」を日々に取り入れれば、
あなたは「本来のあなた」を取り戻せます。

「あなたにしか味わえない、あなたらしい満たされた毎日」を、
存分に楽しめるようになるでしょう。

ぼんやりしたいときにふらりと行ける場所

「日本中の温泉を制覇しよう」
「日本で行われるすべてのマラソン大会にエントリーしよう」

このような“コンプリートの楽しみ”をもつ人はたくさんいますが、
神社をコンプリートしようと決めれば、一生かけて楽しめます。
そう簡単には制覇できない、ものすごい数があるのですから。

コンビニエンスストアは日本全国に7万店舗弱あるといわれています。

いっぽう神社といえば、全国の神社をまとめている〈神社本庁〉に登録されているだけでも
8万社以上。伏見稲荷大社、日光東照宮のように神社本庁に登録していない神社もありますし、
本当に小さなものまで含めると、「15万社以上、20万社弱くらい」というところでしょうか。

コンプリートしようと思わなくても、
この国に生きている限り、かなりの確率で遭遇する場所と言えるでしょう。

神社があったとき、ただの風景として、無関係に通り過ぎることもできます。
しかしほんの少し興味をもち、なにかしらの思いを持てるようになれば、
一生行く場所に困らなくなります。

神社とコンビニの類似点は「数が多い」ということだけではありません。

悩んでいるほどでもないけれど、気持ちが晴れないとき、ちょっと立ち寄れるところ。

「ひとりでぼんやりしたい」という気持ちのとき、ふらりと行ける場所。

それがコンビニであり、神社なのです。

一人でも誰かと一緒でも、アポなしでふと行ける場所が、日本中いたるところにある。
これは、とても心強いことだと僕は思います。

神社がコンビニともスターバックスとも違うのは、お金を払わなくてもいい点。

そして神社には、たとえ一人で訪れても、神さまという“話し相手”がつねにいます。

http://diamond.jp/articles/-/73678

             <感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>

「行きつけの神社」はありますか? - 伝統

2015/09/21 (Mon) 18:38:06


            *Web:DIAMOND online( 2015年6月25日)より

あなたに「行きつけの神社」はありますか?
神さまに会いに行くのに目的はいりません


《「行きつけの神社」はありますか?》

自宅から最寄りの駅やバス停までの道。会社までの道。よく行くお店や、
子どもの学校のそば、取引先の近く。

あなたの“最寄り神社”はどこでしょう?

「ああ、あそこにあるな」と思ったら、ためしに足を運んでみましょう。

「毎朝かかさずお参りしてから出勤すると、運気が上がって年収が倍増する」
「朝晩、お賽銭をあげれば、恋を引き寄せてすてきな出会いがある」

僕はこんな話をするつもりはありませんし、神さまもおそらく、
「運気倍増」なんていう約束は、してくれないだろうと思います。

それでも「行きつけの神社をもとう」とすすめるのには、理由があります。

たとえば、ある土曜日の朝、近所の神社に行くとします。
ようやく迎えた休日。おそらく「あと15分で到着だ!」
と大急ぎで行く人はおらず、のんびり歩くでしょう。

のんびり歩けば、「少し暖かくなって、天気がいいな。花粉がちょっと辛いけれど、
春はやっぱりいいなあ」などと感じるでしょう。風、空、木々、空気の匂い。商店街の人々。
いつもなら通り過ぎるものに目を向ける余裕が生まれます。


《この余裕こそ、“神社のご利益その一”です。》

そうやって歩いていると、道にぴかっと光るものがあります。
なんだろうと見ると、100円玉。日々の通勤途中で100円玉を拾っても
「100円見っけ。ラッキー」くらいしか思わない人も、「神社に行く途中に100円が落ちていた」
と受け止めれば、その意味や理由に思いを馳せるでしょう。

「神さまがくれたんだ。ありがたく思いなさい」などと、言いたいのではありません。

「100円拾った」という“現象”だけを見るのではなく、
その奥にある“意味”に思いを馳せることができる。
これだけでも、かなりすてきなことではないでしょうか。

考える時間、立ち止まる時間というのは、とても尊く大切だけれど、
僕たちの暮らしから確実に失われているもののひとつ。
それを取り戻せるだけでも、しあわせです。

これが僕の思う、“神社のご利益その二”です。

「拾ってラッキー!」と思う100円はただの100円で、
せいぜいコーヒーかガムになって終わります。

いっぽう、神社に行く途中で拾った100円は、お賽銭にするのか、
募金箱に入れるのか、警察に届けるのか考えると思います。

何が正解というわけではありません。
思いを馳せることが恵みです。

そして神社を介しての思いを「清か濁か」の秤にかければ、
きよらかなほうに傾いていると僕はとらえています。


《神社に行くのに理由はいらない》

「神社に行くときは、玄関を一歩出たら、そこはもう参道です」
東京と尾道の自由大学でおこなっている〈神社学〉の授業で、僕はしばしばこう話します。

「今日は神社に行こう」「神さまに会いに行こう」と思うとき、
人は無意識に、姿勢をただし、気持ちもそれに従います。

歩道を自転車が猛スピードで通り抜けても、「車道を通れよ。危ないじゃないか!」と
腹を立てるのではなく、「どうしてそれほど急ぐんだろう?」と、
相手の抱える理由や事情を考えることができたりします。

歩道橋で困っているベビーカーのお母さんがいたら、
「ちょっと手伝おうか」という気持ちが芽生えることもあります。

僕も「山の神さまに会いに行こう」と山奥の神社を訪れるとき、
どういうわけか山に捨てられているゴミを持ち帰ったりしている自分に気づきます。

とはいえ、すぐに行動に移せるかどうかは、人それぞれ。

猛スピードの自転車に、「自転車専用レーンが必要だな」と考えて
コミュニティのルールを調べる人がいるかもしれませんし、
反射的にムッとしてしまい、あとから反省する人もいるでしょう。

ベビーカーを持ち上げて、お母さんに「ありがとうございます」と感謝される人もいれば、
「大変そうだ」と思いながら、気恥ずかしくて通り過ぎてしまう人もいるでしょう。

どちらでもかまいません。まずは感じることがスタートです。
感じないかぎり、行動は生まれないのですから。


神社に行くのに理由はいりません。
大晦日やお正月でなくてもいい。
厄年でなくてもいい。
試験の前に合格祈願をしたいという「用件」も必要ないのです。

みんながもっと気軽に神社に立ち寄れるように、
「全神社Wi-Fi完備計画」なんて話を、僕はなかば本気で主張しています。

休みの日。
たまたまいつもより早く目が覚めて、出勤時間に余裕がある日。
移動の途中で時間が一五分ほどあいてしまったというタイミング。

「そうだ、神社に行こう」と、足を運んでみましょう。
それが習慣になり、「行きつけの神社」ができると、暮らしと心が少し変わります。

http://diamond.jp/articles/-/73793

             <感謝合掌 平成27年9月21日 頓首再拝>

神社に行くなら「早朝」がオススメ! - 伝統

2015/09/23 (Wed) 18:19:58


            *Web:DIAMOND online( 2015年6月27日)より

《神社は歴史と信仰を学ぶ「メディア」》


「この神社は何をお祀りしているのかな?」
行きつけの神社ができたら、その歴史を調べてみるといいでしょう。

僕は若い頃、なかば放浪のように海外を旅しており、
その後、アメリカ、イギリス、オーストラリアのミュージシャンをする
音楽イベントにかかわるようになりました。

その際に痛感したのは、「英語力の必要性」ではなく「地元を語る言葉の必要性」でした。
自分の地元。育った土地や国の歴史。心の拠りどころとなる信仰。
僕が出会った外国の人たちはみな、それらを語る言葉をたくさんもっていました。

なぜなら、その人のものの考え方、哲学、価値観は歴史と信仰に多大な影響を受けているので、
「自分を語る深い話をしよう」となると、自然と出てくるのです。

いっぽう僕はといえば、
「地元??普通に東京。日本の歴史??興味ない。信仰??関係ない」というありさま。

自分探しをしたくて海の向こうまで出かけたのに、
「自分を語る言葉は地元にあった!」と気がついたところがあります。

そして神社とは、特定の宗教をもたない人間が歴史と信仰について学ぶき
っかけであることにも気がつきました。

寺院は仏教の、教会はキリスト教の、神社は神道の宗教施設。

神道は古代日本にもともとあった自然崇拝をもとに、
諸外国の宗教や思想に影響を受けて成立したもの。

その起源は日本最古の記録『古事記』ともつながっています。
自然崇拝なら宗教や文化を超えて人の心に馴染むものですし、
どんな人にとっても歴史の一部です。

神社をきっかけに、
「この土地を守ってくれると昔の人が信じてきたシンボルはなんだろう?」と
興味をもてば、地元の歴史と信仰がするすると出てきます。


行きつけの神社のほかに〈産土〉や〈氏神〉について調べてみてもいいでしょう。
〈産土〉とは、生まれた土地の守り神。
あなたがたとえ外国に引っ越しても、ずっと守ってくれる神さまです。

〈氏神〉とは、その土地に住む人たちが共同体として祀った神さまで、
その土地の豪族が神格化されたものでもあります。

僕は神田の出身なので神田明神が産土であり、神田明神の氏子です。
必ず何月何日に行くというわけではありませんが、神主さんも存じ上げているので、
近くに行く用事があれば必ず立ち寄りますし、2年に1回はお祭りのときに
フンドシを締めて神輿をかつぎます。

氏神を中心に人が集まれば、地元への愛情もわいてきます。
神田明神の歴史は古く、七三〇年に出雲から移住してきた人々が、
自分たちの祖先であり、出雲大社の神さまを祀ったのが始まりといわれています。

「神田明神は平将門を祀った神社だ」と思う人もいるかもしれませんが、
それはずいぶんあとの話。

将門は九三五年に京都で戦に破れて没し、その首塚が神田明神の近くにできました。
ところが一三〇〇年代になって疫病が大流行。
これがなぜか「将門のたたりだ!」ということになり、神田明神に祀られたという経緯です。

大国主命は国護りの神さまで、将門は戦の神さま。
「異質なものを一緒に祀る大らかさが日本という国の特徴なのかな?」
と考えることもできます。

歴史を学ぶといっても、最初はこの程度で充分でしょう。
図書館に行くのもよし、スマホで検索もよし。
そこから「日本人の国民性」や「地元の特徴」「自分のありよう」に思いを巡らせる
プロセスのほうを僕は大切にしています。

〈産土〉にしても、〈氏神〉にしても、歴史と信仰を学び、
思いを馳せるためのスイッチのような気がします。
スイッチゆえに、有効に活用したほうがいい。

しかし、「絶対に、自分の産土を知らなくてはいけない」とか
「どこかの氏子になって、そこを行きつけの神社にしなければ!」
という話でもないのかな、と思います。

今はどこで生まれたかといっても、「母親が里帰り出産したから、出生地といっても
自分はあまり縁がない土地だ」という人もたくさんいます。
また、「通勤途中にある神社は素通りするが、電車で何時間もかけて氏神に通う」というのは、
なんとも不自然です。

形式にとらわれるより、自分の毎日の行動パターンに合う、
行きやすいロケーションの神社に行けばそれでいいのではないでしょうか。

まずはあまり考えずに、「いつも通る神社に桜が咲いているな」「あっ、お祭りだ」
というタイミングで足を運び、ついでにその神社の歴史を調べてみる。
こんな感覚でやってみましょう。



《神社で「自然という神さま」に出会う》

20代前半の音楽が大好きだった頃。
僕には、来日すれば必ずコンサートに足を運ぶ、お気に入りのバンドがいくつかありました。

その一つであるオーストラリアのバンドは今でいうオルタナティブ。
演奏しつつ前衛的な舞踊が入るなど、演出も巧みでした。
コンサートでは眩しい照明のもと、ステージ上に霧がたちこめたりして、
「うわっ、すげえなぁ。神秘的だな!」と、夢中になりました。

それから20年ちかくたち、そのバンドが来日したので再びコンサートに行きました。
やはり見事な演出で、ステージにたちこめる霧のなかでの、ミステリアスな演奏。

しかし、僕はもう感動しませんでした。
「ああ、特殊効果をやっているんだな」と、どこさめた目で眺めていました。

理由は、その後の僕が音楽イベントの仕事で経験を重ねたからでもなく、
年を食って感性が鈍くなったからでもありません。

「本当に神秘的なもの」を知ってしまったからです。


たとえば、山の上のとある神社。
けもの道みたいな参道を登り、ようやくたどり着いた祠で見た雨上がり。
そこには自然という神さまがいるのか、
この世のものと思えない幻想的な光景がひろがっていました。

あるいは早朝、たちこめる霧の中に浮かび上がった小さな神社。
そこで感じた、なんともすがすがしい魅力。
自然という神さまに心動かされた神秘の瞬間でした。

僕はまた、神社参りのなかでも〈登拝〉という登山を兼ねたお参りが好きで、
神さまに会いに行くためにしばしば山を訪れています。

山で出会うのは、自然が織りなす雄大な神秘。
山の険しさ、人間の小さな力では絶対にかなわない自然の大きさを体で感じ、
ようやく山頂の神社にたどり着くと、おのずと「本当に神秘的なもの」に
思いを馳せることになります。

自然という神さまに出会うために、“行きつけの神社”のほかに、
“お気に入りの神社”をもつことを、僕はおすすめしています。

日本の神社には、大きく分けて人が祀られている神社と、
自然が祀られている神社とがあり、僕の好みは後者です。

日本人はもともと、たった一人の神さまを信じるのではなく、多くの神を信じてきました。
太陽、海、山、一粒のお米やトイレにも神さまがいるという自然崇拝の考え方。
それを色濃く残しているのが自然を神さまとして祀った神社なのです。

「特定の宗教は信じないけれど、神さまとか、不思議なことってあるかもしれない
」という大多数の日本人にとって、フィットしやすいのは自然のなかにいる神さまだ
と思いますし、僕もその一人です。

古来その土地を護ってきた神さまや自然そのものを祀った神社は日本全国にみられますし、
そうした神社はたいてい山や海にあります。

あなたも自然の中にある“お気に入りの神社”を見つけてはどうでしょう。

あちこち行くのも楽しいと思いますが、同じ神社に1年を通して何回も足を運ぶと、
いろいろな発見があります。雪の季節、桜の季節、青葉の季節、紅葉の季節。同じ神社が
全然違う顔になり、その変化自体、神さまが見せてくれている神秘です。


また、朝のお参りをしてみましょう。
行きつけの神社でかまわないので、早朝、ひとりで行ってみる。
できれば日の出とともに行くと最高です。

ほとんどの神社は、早朝がすてきです。
たとえば、縁結びで有名な出雲の八重垣神社は、女性のグループで1年中大にぎわいです。

奥の院にある鏡池に半紙を浮かべ、お賽銭を載せるのですが、
「早く沈めば願いが叶う。恋がみのる」といわれ、
10円玉や500円玉を握りしめた人たちの観光名所になっています。

「大いなる神秘と出会う場所」というよりディズニーランドのような雰囲気で、
これはこれで神社との新しいつきあいかたでしょう。


しかし、いつもにぎやかな八重垣神社でさえ、早朝は静まり返っています。
鏡池は縁結びのアトラクションではなく、「御神体を宿す池」という本来の姿に戻り、
空を映し出す神秘のまいを見せてくれます。

それもまた神社とのつきあいかたです。
名もない神社であっても、早朝はおすすめです。
雨の神社もまた、味わいがあります。

神社を通して自然という神さまに出会うと、自分の小ささ、
すべてのかけがえのなさ、命あるものの美しさに目を向けられるようになります。

http://diamond.jp/articles/-/73949

・・・

<産土神~参考Web>

(1)光明掲示板・第一「産土神 (3823)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=729

(2)光明掲示板・第二「『神の真義とその理解』龍宮住吉本宮建立に至る神々の系譜」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1882

(3)光明掲示板・伝統・第一「産土神 (133)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=65

             <感謝合掌 平成27年9月23日 頓首再拝>

部屋に「神さまの居場所」を - 伝統

2015/09/24 (Thu) 20:05:42


            *Web:DIAMOND online( 2015年6月30日)より


あなたの部屋に
「神さまの居場所」をつくろう


《日本の生活に根付く「神棚」よりも大切なものとは》


神社や神さまを考えると、さまざまなアイテムが登場しませんか。例えば、お守りや神棚。
宗教家や学者であれば、それぞれについて語る言葉をもっているでしょうし、
スマホで検索しても、それらが何を意味するものか、たちまちちゃんと答えが出てきます。

そして僕はといえば、「すべてのアイテムはきっかけだ」ととらえています。

なぜなら、交通安全のお守りが、事故から守ってくれるわけではないから。
お守りは、そこに込められた昔ながらの祈りの心と、お守りをきっかけに芽生える
「事故を起こさないようにしよう」というその人の心があって、初めて効果を発揮します。

破魔矢を正しい方角に祀れば、どんな悪運も撃退できるわけでもありません。
破魔矢に込められた昔からの願いと、破魔矢をきっかけとして生まれる
「今年一年、つつがなく過ごそう」というその人の小さな決意が、すこやかな一年につながります。


神棚があるから大丈夫だということもありません。
お店でも家庭でも、「神棚を置く」という気持ちがまず大事だと、僕は思うのです。

神棚とは、街中にたくさんある、小さなお社の室内バージョン。

小さなお社とは街中で神さまが立ち寄る場所であり、
神棚は自分の家の中にある、神さまに宿っていただく場所。
神棚を置くとは、“神さまと交信する場所”を家に設置することだと考えていいでしょう。

僕がおすすめしているのは、家のなかに自分なりの“神さまの居場所”をつくること。
神さまが心地よく過ごせそうな場所であり、
「神さまと仲良くして、きよらかにしあわせに暮らします」という自分にとっての誓いの場所。

家のなかで、ふとそこに目をやれば、気持ちがぴんとする場所です。

よく見かける、白木でつくった“ザ・神棚”でなくてもよい。
自分の好みと部屋のインテリアに合う、手作りコーナーでかまわないのではないでしょうか。



   【神さまの居場所づくりのポイント】

   (1)南向きのいちばんいい場所

      まずは自分の中で「この家のいちばんいい場所」と感じる場所を決めます。
      僕の場合は部屋全体を見渡せるような、すこし高い場所の棚にしています。

      方位の先生もたくさんいますし、
      あなた自身に方位の知識があれば、それに従えばいいでしょう。
      一般に東か南がよいとされますが、好きな方位でかまいません。

      「そう言われても心配だ」という大多数の方は、南向きに。
      なぜなら神社の多くは南を向いています。
      おそらく太陽を向くということで、僕もそれにならっています。

   (2)お札を中央にお祀りする

      神社でいただくお札は、神さまそのもの。
      行きつけの神社、お気に入りの神社でお札をもらってきてお祀りしましょう。
      僕は、思いを寄せている神社でいただいたお札を真ん中にお祀りしています。


   (3)榊、米粒、水をお供えする

      コップ一杯の水と、米粒を入れた小さな器、榊の枝。
      この三つが、僕が神さまへお供えしているものです。

      一般にお供えは水、米、酒、塩とされていますが、
      「決まりごとは人がつくったもので、神さまじゃないよな」と感じるので、
      自分にできる範囲ですませています。

      大切なのは、神さまと仲良くしようという心だと思っているのです。



僕なりの“神さまの居場所”づくりの基本はこの三つですが、
アレンジとして、お札のかたわらに横笛を置いています。
笛は僕の趣味でもあり、神社にお参りしたときにはいつでも“献笛”をします。

つまり、神さまに献上する音楽〈神楽〉を奏でる笛ですから、自分にとっては神聖なもの。
毎日必ず練習するので、ちょっと神さまにご挨拶する習慣ができて一石二鳥といえるでしょう。

お札のかたわらに財布を置く人、アクセサリーを置く人、いろいろでいいと思います。

僕は毎朝、目覚めて身づくろいをととのえたら、“神さまの居場所”のお水を替えて、をあげます。
「神さまにご挨拶」という感覚なので、別に祝詞じゃなくていい。
「お早うございます。今日も一日よろしくお願いします」でもいいでしょう。


《お店でよく見かける「盛り塩」はエネルギーチャージ》

和食屋さんの入口など、三角にとがった〈盛り塩〉を目にすることがよくあります。
魔除け、身を清める、縁起もの、風習。
いわれはいろいろありますが、神棚にも塩をお供えする人がたくさんいます。
スピリチュアルなことに関心が高い人たちも、「部屋に塩を」ということは多いようです。

この盛り塩には、どんな意味があるのでしょう?

塩は「身を清める」というより、「穢れを祓う」役割を果たすものだと僕は認識しています。
「穢れ」という言葉は「気が枯れる」から来ているそうで、
元気がなくなった、生命力が衰えている、というのが本来の意味。

そして塩とは、多くの生物にとって生命を維持するために必須のもの。

つまり〈盛り塩〉とは、「生命力が衰えた『穢れ』という状態に、塩でエネルギーチャージする」
ということだったのではないでしょうか。
それが時代を経るうちに、さまざまな解釈、違う理解になっていった気がします。

みなさんも、お通夜やお葬式から帰ったあとに塩で身を清めたことがあるでしょう。
「穢れを清める」とは神道の考え方で、その起源は『古事記』にあります。
ちなみに仏教では死は忌み嫌うものではなく、したがって穢れとも考えないようです。

『古事記』によれば、この世に天と地が生まれた時、〈高天原〉に何人かの神さまが誕生します。
最後に生まれたのが〈伊邪那岐〉と〈伊邪那美〉の夫婦。

二人はどろどろしたおぼろ豆腐のような国を固めて日本の国土をつくり、
男女のまじわりをしてたくさんの神さまを生みます。ところが伊邪那美は、
火の神の出産の際に大やけどを負って命を落とし、の国へ行ってしまうのです。

黄泉の国は穢れの国で、体はやがて腐っていく。
醜い姿を愛する人に見られたくないというのは、
古代の神さまも現代の人間も変わらない女心でしょう。

しかし「絶対に会いに来ないで!」と言われても、伊邪那岐は黄泉の国まで会いに行きます。
女性に「見ちゃダメ」と言われると、ますます見たくなるという男心もまた、変わらないようです。

伊邪那岐は黄泉の国で変わり果てた妻の姿を見ると、ショックを受けて逃げ出します。

イザナミを「いざなう身」と考えた場合、
身は腐るものなので、「黄泉の国で腐敗した」と考えることもできます。

イザナギを「いざなう気」と考えた場合、
「愛する人を失って気が枯れ、穢れという状態になってしまった」と考えることもできます。


いずれにしろ『古事記』によれば、黄泉の国から戻った伊邪那岐は、
穢れた身を清めるために、〈筑紫日向橘小戸阿波岐原〉で〈禊〉をします。

現在お葬式のあと塩を撒くのは、これと同じく死という穢れから身を清めるためですし、
神社での正式参拝やご祈祷の際、最初におこなうのは、俗界の穢れを祓って
神さまに会うための〈禊祓いの儀〉です。

この時に奏上される〈禊祓いの儀〉という祝詞は、
伊邪那岐の「禊祓い神話」がもとになっています。

祓詞は祝詞の一種ですが、祝詞という言葉にも由来があります。
もともと祝詞とは、「伝える」という意味。

昔は神さまの祀りごとの際、神さまの言葉を聞いてみんなに伝える役割の人がいました。
その人が「神がこうおっしゃっている」という意味で、「神がのりおる」と言ったらしく、
それが「祝詞(伝える)」になったそう。

今では逆に、神主さんや僕たちが神さまに対してお祝いや感謝の言葉を捧げることを
祝詞と言っていますが、こちらは〈寿詞〉という別の言葉だったようです。
祝詞と寿詞の使い分けは時代を経てなくなり、祝詞の意味も変わっていきました。

言葉は生き物であり、時代によって、それを使う人によって、変わっていきます。
何が正しく、何が本当かは、実は曖昧です。同じように神さまにまつわるルールも、
時代によって、人によって、変わってきました。

それならば、神さまと仲良く暮らす“やり方”は、
あまりカチカチに考えなくてもいいのではないでしょうか。

「絶対に正しいものはない」くらいの感覚で、敬う心さえあれば、
ある程度、自由さがあるほうが自然だと僕は思うのです。

そんなこともあってわが家の“神さまの居場所”に塩は置いていませんし、
意味はあまり追究しなくてもいいのかな、と思っています。

http://diamond.jp/articles/-/74094

             <感謝合掌 平成27年9月24日 頓首再拝>

神さまと暮らしやすいようにそうじをする - 伝統

2015/09/25 (Fri) 18:22:57


            *Web:DIAMOND online(2015年7月2日)より

きちんとそうじをすれば
あなたの部屋に「神さま」が宿る


神さまと仲良く暮らしたいのなら、自身の住まいを整えておくといいでしょう。
きちんと片付け、ていねいにそうじをする。

「散らかったから、汚れたから、来客があるから」という理由はなくても、
できれば毎日毎日、きれいにする。

たったこれだけのことで、家のなかにきよらかな場所をつくり出すことができます。

2013年が特別な年であったことを、ご存知の方も多いでしょう。
20年に一度行われる三重県の伊勢神宮の式年と、
60年に一度行われる島根県の出雲大社の大遷宮が重なった年。

伊勢と出雲で同じ年に遷宮が行われるのは、有史以来初めてでした。

伊勢神宮といえば、二つの〈正宮〉がよく知られています。
一つは太陽の神さまとして知られる〈天照大神〉を祀った〈内宮〉。
もう一つは農業、衣食住など、食と暮らしの神さまである〈豊受大御神〉を祀った〈外宮〉です。
しかし、実際は周辺にある一二五社を全部まとめて伊勢神宮といいます。

ちなみに伊勢神宮というのは通称で、正式名称は〈神宮〉。
明治神宮、熱田神宮、宇佐八幡神宮など、全国各地にあまたある神宮のトップゆえに、
伊勢神宮の本当の名前はただの神宮なのです。

伊勢神宮は690年からほぼずっと、20年ごとにすべての社殿を建て替えています。
そうやって神さまに、いつも新しいお社に鎮座していただく歴史をつむいできました。

伊勢地方のあちこちに移動するのではなく、社殿の隣には空き地があり、
右から左へ、左から右へとかわるがわる遷宮しています。


いっぽう出雲大社に祀られている神さまは〈大国主命〉。

およそ1300年前の『古事記』によると、
世界は天上の〈高天原〉、地上の〈葦原中国〉、死者が住む〈黄泉の国〉の
3つでなりたっていました。

高天原に住む〈天津神〉である天照大御神の悩みは、
〈国津神〉である大国主命が治める葦原中国が乱れていること。

「やはり自分たち天津神が統治したほうがうまくいく」と考えた天照大御神は、使者を派遣します。
交渉の結果、大国主命は葦原中国の統治権を譲り、出雲に隠居するのです。
このことから彼は“国譲りの神”とも言われています。

ざっくり言うと伊勢神宮は天津神の総本山、出雲大社は国津神の総本山です。

出雲大社の大遷宮は、伊勢神宮とは異なり、移動も建て替えもしません。
言ってみれば改修工事で、「そろそろメンテナンスが必要だな」となったら着手するため、
必ずしも60年に1回ではないのです。60年はあくまで目安。
ときには50数年、ときには60数年で大遷宮が行われています。

こう考えてみると、「遷宮=神さまのお引っ越し」という解釈は、
伊勢神宮の遷宮を表面的にとらえたものに過ぎない気もします。

僕なりの解釈では、伊勢神宮の“引っ越し”も、出雲大社の“改修”も手段。

遷宮の本来の目的は、「きよらかなところで生まれ変わる」ということだと理解しています。

本来、神社というのは、神さまの魂が宿る気持ちのいい場所。

遷宮は“魂が甦る、リフレッシュする、生まれ変わって新しい命が宿る”
という意味合いが込められているのだと思います。

丹念にととのえ、すみずみまで磨き抜くことは、移動と同じくリフレッシュの手段です。
見慣れた自分の家であっても、きよめればすっきりと気持ちよい場所に変わります。
単にきれいにするだけで、自分までととのう感覚です。

神さまは、遷宮という大きなことをしていますが、
もっと身近でささやかなことでも、疑似体験ができる気が僕はしており、
それこそがそうじではないかと思うのです。

トイレ、部屋、水回り。忙しければ玄関と神さまコーナーだけでもいい。
きれいにそうじすることは、家を“神さまの魂が宿る気持ちのいい場所”に変える第一歩です。
「神さまコーナーなんかいらない」という人でも、そうじだけで暮らしが変わってきます。

伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じ年になる不思議なタイミングはなかなか巡ってきませんが、
“暮らしの中の遷宮=そうじ”であれば、毎日でもできるでしょう。


ひとつ付け加えると、神社にお参りする前には、禊をします。
持っている杖を捨て、まとっている衣服を脱ぎ、かぶっているものを取り、裸の気持ちになる。
これは「依存しているものや固定観念、肩書きを捨てる」という意味があると僕はとらえています。


神道の祝詞に「明き心」という言葉がありますが、
「捨てて、捨てて、捨てて、最後にはくい心が残る」ということ。

余計なものを捨て、本当の自分自身になったときに明き心が残るわけですが、
誰でも生まれたてのときは衣服も肩書きもありません。
そこで生後間もない人間を「赤ん坊」「赤ちゃん」と呼ぶようになったという説もあります。

赤ちゃんのもつ「明き心」を忘れかけている僕たちだから、
そうじや捨てることが必要なのかもしれません。


《朝、食事、就寝前、一日のなかに感謝のタイミングをつくる》

朝、目が覚めて「ありがとう」と思い、神さまコーナーに手を合わせる。
こうした行為は神さまと仲良くすることであり、
一日のなかに“感謝の習慣”をとりいれるということです。

人によって、感謝のタイミングはいろいろでいい。
僕の場合は、朝目覚めたとき、神さまコーナーで祝詞を上げるとき、3食のごはんをいただくとき、
夜眠る前、感謝のタイミングをつくっています。
特別な理由はないのですが、それぞれのタイミングで「しあわせだな」と感じることは確かです。

朝は一日の始まりで、始まったことそのものがしあわせ。
おまじないのように毎朝そう意識すると、一日がポジティブになりやすいのです。

夜は一日の終わりまで、すこやかに過ごせたことがしあわせ。
結構キツい日であっても、夜眠ることができるというのは、明日をまた始められるということ。
これも実は小さな奇跡です。
僕は眠るのが大好きなので、「うれしい、くつろげる、しあわせ!」という面もあります。

食事の前は、ごはんをいただけるしあわせ。おいしいし、楽しいし、
「食べられることで生きていける」というしあわせでもあります。

パン! と一拍、を打って「いただきます」と感謝するのは、
誰かとごちそうを食べるときでも、忙しいときの立ち食い蕎麦でも同じ。
たった一人のときにも、「いただきます」と感謝してから口にするようにしています。

なぜなら、僕の「いただきます」は、つくってくれた人に捧げる言葉ではないから。
もちろん、心を込めてつくってくれたことへの感謝はありますが、それはまた別のもの。

お店なら会計したあと「ごちそうさまでした」と挨拶しますし、
家族や友人なら「おいしかった、ありがとう」と伝えます。

僕が言う「いただきます」の意味は、「命をいただきます」。
動物であれ、植物であれ、自分の命を育んでいくためには、誰かの命をいただかねばならず、
それこそが食事です。

そう思うと、「誰にも迷惑をかけているわけじゃない」などと決して思えなくなります。
「全部、自分の力でやっている」と突っ張った肩の力も、ふっとほどけていきます。

こんなふうに、一日のなかに感謝のタイミングをつくれば、知らず知らずのうちに、
意識をととのえていくことができるのです。

http://diamond.jp/articles/-/74268

             <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

たくさんのご先祖さまのおかげで、いまの自分があることに気づこう - 伝統

2015/09/26 (Sat) 18:58:41


            *Web:DIAMOND online(2015年7月4日)より


《感謝への気付き~無数の命のおかげで自分がいる》

神社に足を運ぶようになってから、僕は命の起源に思いを馳せるようになりました。

神社をきっかけに歴史に興味をもち、日本人の歴史を遡っていくと、『古事記』にたどり着きます。

しかし、『古事記』は日本のはじまりではありません。
記録されるずっと前から僕たちの先祖は生きており、神道や神社ができる前から、
働き、食べ、眠り、誰かを愛し、子を育み、太陽や月や雷を神さまとして崇めて生きていました。

たった一人の数十年の命は儚いものかもしれませんが、
一人ひとりの命が古代から脈々と続いてきたからこそ、僕たちは今ここに生きています。

父と母という2人の人間がいなければ僕は存在せず、
父と母が存在するには父方と母方の祖父と祖母、4人の人間がいなければなりません。


4人の祖父母が存在するには8人の人間が存在しなければならず、
8人の曽祖父母が存在するには16人の人間が存在しなければならず、
16人の高祖父母が存在するには32人の人間が存在しなければならなかったのです。

こうして、僕の命にかかわる人間は倍々ゲームで増えていきます。

日本という国は古代国家の頃から災害に見舞われ、戦国時代も長く、疫病が流行ったり、
近代に入って何度も戦争をしたりしました。
それにもかかわらず、先祖たちの命の連鎖が途切れなかったというのは、ものすごいことです。

何万人もの人たちが命をつないでくれなければ、自分の命はない。

自分の後ろには、壮大な命の連鎖が広がっている。

こう気づいたとき、

「自分の命は自分のものというより、たくさんの人たちから与えられたものだな」

と感謝できるようになりました。
直近の先祖である親が、かけがえのない、大好きな存在になりました。

「人類、みな兄弟」という言葉がありますが、あれはあながち間違いではないとも感じます。

僕が何万人もの先祖の末端にいるとしたら、この本を読んでくれている人の何人かと
僕の先祖がつながっていることも大いにあり得ます。

先住民だった縄文人と、大陸からやってきた弥生人が家族になって「日本人」という
民族ができていったというDNAの研究もありますし、僕は日本人であることに、
特別な優越感をもっているわけではありません。

はるか遠い僕の先祖が、日本ではなく別の地域に根を下ろして家族をつくっていれば、
僕は日本人ではなかったでしょう。僕は偶然に日本人として生まれたわけです。

別の方向から考えると、2015年時点で日本の人口はおよそ1億数千万人で、
世界の人口はおよそ70億人。この時間、オンタイムで日本人として生きられる確率は、
ざっくり70分の1ぐらいです。

もっと神さま的な方向に考えを飛躍させれば、
猫でもなくゴキブリでもなく杉でもなくゾウリムシでもなく、
人間として命を与えられたことは、何億分の一の偶然かもしれません。

何が言いたいかといえば、僕が日本人の中村真として生まれたのは、偶然に過ぎないということ。
しかし偶然とはまた、すばらしい奇跡でもあると感じるのです。

自分はやはり日本人だと思うし、生まれ育った場所であり、
八百万の神を信じる精神性をもつ日本という国を愛しています。

愛する人のことをもっと知りたいと思うように、僕はもっとこの国を知りたい。
国を知るやり方はいろいろありますし、人それぞれ好みのものを選べばいいでしょう。

僕は今のところ、神社をきっかけに神さまと仲良くなることは、
日本を知る最良の手段だと考えており、「面白そうだな」と思ってくださった方には、
やり方をシェアしたいと願っています。


《365日「みんなのしあわせ」を祈る国》

2020年の東京オリンピック招致のために、滝川クリステルさんがプレゼンテーションで述べた
「おもてなし」という言葉が話題になりました。彼女はその際、「東京で現金をなくしたとしても、
ほぼ確実に戻ってくる」といったことも述べています。

東日本大震災のとき、電気が消えた商店でも強奪は起こらず、
辛抱強く列をつくる日本人の姿を見た外国の人たちは、
「自分の国ではあり得ない!」と驚いたようです。

日本人の道徳心や、正しさと思いやりを大切にする意識は、どこから生まれたのか??

たくさんの理由が考えられますが、神社もそのひとつだと僕は思っています。

神社は祈りを捧げるための場所です。

今は人手不足の神社も多く、1社の神主さんが近隣20社の神社の神主さんを兼務する
という状況も多くありますが、かつてはどの神社にも神主さんがいました。

寺の住職さんがお祀りしていた神社もあったことを考えると、
たくさんの人が神さまとかかわっていたのです。

そして天皇陛下の仕事のひとつは毎日毎日、1年365五日、
すべての国民と世界のために祈ることです。

国の象徴である人が、365日、祈る。

全国にくまなく神社仏閣があり、そこでも365日、
誰かが誰かのために、もしくは何かのために祈っている。

200年ほど前まで、日本はそんなシャーマニックな国でした。

いまの日本に生きる僕たちは、そうしたことを忘れています。

そのため、同じ日本でも沖縄を見て、「穏やかな時間が流れていていいな。
ユタとかノロとか斎場とか、伝統的でスピリチュアルで特別な場所だな」とうらやみます。

しあわせの国ブータンや、セドナやチベット、バリ島やインドなど、
他の国の聖なるものに目を向けて憧れる人もいます。

しかし、神さまはこの国を捨て、どこかに立ち去ったわけではありません。
僕たちが忘れているだけ。あまりにも知らないだけです。

もともとシャーマニックで、祈りと思いで守られてきた国だということを思い出すだけで、
日本がもっと好きになります。「日本人で良かったな」とつくづく思えるのです。

そのためにも、国中に張り巡らされた神さまのネットワーク、神社をもっと知りましょう。
そして、神さまと、もっと仲良く暮らそうではありませんか。

http://diamond.jp/articles/-/74365

             <感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>

神社では「お願い」するのではなく、「誓い」を立てるといい - 伝統

2015/09/27 (Sun) 18:36:54


            *Web:DIAMOND online(2015年7月7日)より

《お参りとは、空を見上げること》


尾道自由大学での〈神社学〉の講義の際、
「さあ、神社へ出かけてください。自由にどんどん、神社に行けばいいんですよ」と?
生活に神社を取り入れよう、と言うと、
「え~っ、でも」という反応が返ってくることがあります。

神さまや神社に関心はある。
しかし「自由に“行きつけの神社”をつくればいいといっても、
どうお参りしたらいいか知っておきたい」というのが大多数の意見。

観光で神社やパワースポットを訪れ、より深く知りたくなった人もいます。


そこでこちらでは、僕なりに整理したお参りのマナーを紹介します。

失礼がないよう配慮してはいますが、正式な神道の作法よりもカジュアルな解釈です。
「こんなふうにも考えられるね」という提案であり、
「これが正しいから、こうしなさい」と言うつもりはありません。

「興味があるところだけ、いいとこ取り」くらいの感覚でこの本を受け止めて、
自分らしいお参りをしてほしいと思います。

「お参りとは、神さまに会いに行くことであり、自然とつながることだ」

僕はそう考えており、神社とは小さな自然そのものであるとも感じています。

たいていの神社にはしめ縄があり、その周辺には〈紙垂〉という、
ギザギザした和紙が垂れています。
中央に鈴があり、その奥に拝殿があります。

これはすべて自然の象徴。
〈しめ縄〉は雲、〈鈴〉は雷鳴、〈紙垂〉は稲妻を表しています。


昔むかし、日本人は自然を神さまに見立てていました。
神さまは天にいて、ときどき怒ると雲がわっと上がってきて、激しい雷が落ちます。
それをコンパクトに表現したのが、神社なのです。

「雷」という文字は最近のもので、昔は「この光と激しい音は神さまからのメッセージだ」
という意味で「神鳴り」と書いていました。
ロマンにあふれた昔の人のイマジネーションが伝わってきます。

しめ縄という雲が自分たちと天を隔てており、それを見上げて鈴をゴロゴロと鳴らす。
紙垂という稲妻を眺めながら、「神さまおいでください」と手を合わせる
――お参りは、そんな行為。

?大いなる空を見上げるようにお参りしましょう。


《お参りとは、神さまと約束すること》

これまで神社に行ったことがあるという人は、どんなきっかけで足を運んだのでしょう?

お宮参り、七五三、結婚式やお葬式といった節目に。
お祭りや初詣といったイベントで。
観光をかねて、その土地で有名な神社へ。
合格祈願、縁結び、「このプロジェクトを成功させたい」といった
“お願いごと”で足を運んだ人もたくさんいると思います。


いずれのきっかけにしろ、神社に行ってお参りするとなると、
お賽銭を入れて、鈴を鳴らして、柏手を打ち、
何かしら祈願するという人がほとんどだと思います。


しかし、僕は神頼みをしないということの大切さをお伝えしたいと思います。

神さまにお願いするのではなく、神さまの前で誓いを立てるために神社に行く。
僕は自分でそう決めており、人におすすめもしています。

資格でも就活でも受験でも、どうしても合格したい試験があって、
神社にお参りに行くとします。

「神さまお願いです、受からせてください」というのが神頼み。

「僕は絶対に受かりたいので、一生懸命やります。神さま、どうぞ見守ってください」
というのが誓い。


この二つが求める結果は同じです。
しかし、神頼みなのか誓いなのかによって、
その人がどう行動するか、プロセスはまったく変わってくる。
僕はそんな気がするのです。

「神さまに頼んできたから、もう大丈夫」なのか、
「神さまに誓ったからには、本気で頑張らなきゃ」と思えるかで、
行動が変わり、結果が変わると思っています。

「神頼み」はいわば他力本願で、神さまにすべて丸投げ、お任せしっぱなしです。
いっぽう「誓い」であれば、自分も努力しなければなりません。


まずは自力で精一杯やると誓い、「見守ってください」と神さまにお願いする。
神さまと約束できるくらい、自分は本気だということです。誓いはまた、
「くじけたり、なまけたり、手を抜いたりは決してしない」という約束にもなるでしょう。

とはいえ、いくら努力しても人生にはアクシデントがつきものですし、
自分ではどうにもならないこともたくさんあります。

だから約束をしたうえで、「本番で地力を発揮できるように助けてください、
努力のその先にある成功まで道案内をしてください」と、神さまにお願いする。

この一連の心のいとなみこそ“誓いのお参り”であり、
お参りすることによって神さまの前で自分を見つめ直し、
大きな約束をし、願いを叶えることができる。そんなふうに思うのです。


日本人の道徳心やマナーの良さは、心のどこかに「神さまが見ている」という
意識があるためだと僕は考えています。

「お天道さまが見ている」と昔から言いますが、
もし間違ったことをしたら、たとえ誰にも見つからなくても、
空や木々や一粒のお米の中にまでいる神さまには全部見られてしまう
――僕たちには、そんな気持ちがどこかにあるのではないでしょうか。

神さまに対して、嘘やごまかしは通用しないのです。

そして、僕たちが嘘をつけない相手は、神さま以外にもう一人います。
それは他ならぬ、自分自身。自分の心だけは、ごまかすことはできません。

きれいな言葉を並べ、笑顔をつくれば、他の人はあざむけます。
しかし、それが真実でないことは、自分が知っています。

偽り、とりつくろい、大人の言い訳。
それがときとして盾となり、外部の攻撃から身を守ってくれることはあるかもしれませんが、
鎧の中のなまみの自分は、自分自身の毒で傷ついてしまいます。

たとえば、「煙草をやめる」と心に決めたのに吸ってしまったとき、
人に対しては、「最初から禁煙なんかするつもりはなかったよ」とごまかせます。
罪のない小さな嘘ですし、喫煙のマナーさえ守れば、人から責められることもないでしょう。

しかし、自分の心は痛み、ちょっとがっかりするはずです。
「ああ、吸っちゃったな」と。

さらに神さまの前で禁煙を誓うとなると、
嘘をつけない相手が自分と神さまの二人に増えることになります。

家にいて自分の心に決めたときより、
神社でお参りして神さまに誓ったときのほうが、真剣さも変わってきます。

禁煙という目標が達成できるかどうかという結果も、変わってくるのではないでしょうか。

   お参りとは、自分の心と神さまに約束をすること。

   神さまを意識すると行動が変わるということ。

   神頼みをやめて、“誓いのお参り”をしてみましょう。

   (http://diamond.jp/articles/-/74488

             <感謝合掌 平成27年9月27日 頓首再拝>

「厄年」は「役割の年」だから恐れなくてもいいですよ - 伝統

2015/09/28 (Mon) 20:02:48


            *Web:DIAMOND online(2015年7月9日)より

《厄年は役割の年》

今あるネガティブな何かをなくすために、神社に足を運ぶ人もいます。
厄除け、厄払いのお参りは、その代表例と言っていいでしょう。

発祥は不明ながら平安時代からあったとされるのが〈厄年〉。
今では男性は二五歳、四二歳、六一歳、女性は一九歳、三三歳、三七歳が
厄年にあたるとされています。

これは数え年で、〈本厄〉である厄年の前後に〈前厄〉と〈後厄〉もあるのは、
みなさんもよくご存知でしょう。

数えきれないほど神社に足を運んでおり、自他ともに認める“神社マニア”の僕は、
「厄払いはどこに行きましたか??厄除けのおすすめ神社は?」などと聞かれることも
あるのですが、「特にないんですよ。どちらでも、好きな神社に行ったらどうでしょう?」
と答えています。

もちろん、厄除けで有名な神社がどこかは知っていますし、ネットで検索すれば
誰にでもたちどころにわかるのですが、僕は厄払い自体をしたことがありません。

二五歳の頃は神社自体に興味がありませんでしたが、神社にハマって迎えた
四二歳(実際の年齢としては四一歳)の厄年も、スルーしてしまいました。

なぜなら、“やく年”のやくは、“厄”でなく“役”だと思っているから。

厄は苦しみや災害を表す言葉で、厄介、災厄と、ネガティブな言葉。
〈厄年〉と聞けば、よくない年に思えます。

「身体の変わり目を迎える歳、衰えを感じる歳だから、注意しなければいけない」
といった説があるのもそのためでしょう。
諸説あってこれまた真相は不明ですが、僕が好きな説は「役目を与えられる年」というもの。

女性は一九歳、男性は二五歳で、一人前の大人としての「お役を担う」。
女性は三〇代、男性は四〇代で、世の中の中堅としての「お役を担う」。
女性は出産、子育てという大役も担いますから、三〇代は重責です。
そして男性は六〇代で、年長者としての「お役を担う」。

これが正しいというわけではないのですが、僕にとっては一番フィットする考え方です。

今でも、古いしきたりを大切にしている企業や老舗商店のなかには、
お正月にその年に厄年を迎える人たちを前に出し、「この人たちが重い役目を担って
がんばってくれるから、ほかの世代が災難に見舞われない。感謝します」として、
表彰するところもあるそうです。

「役を担うぞ」という気持ちで、厄年を迎えるのか、
「厄払いをしないとこわい」という気持ちで、厄年を迎えるのか。
ちょっとしたことですが、いずれの気持ちで受け止めるかで、
1年の過ごし方が変わってくる気がします。

僕がおすすめしたいのは、厄年になったら神社に厄払いに行くのではなく、挨拶に行くこと。

「お役目が来たな。ちゃんとやりますって、神さまにご挨拶に行こう」

この姿勢であれば、ポジティブなお参りとなります。

「責任が生じる年頃だ」と気を引き締めれば、健康にも留意するでしょうし、
無茶をして事故に遭わないように気をつけるでしょう。

責任があるとは、「自分以外の誰かのためにも生きる」ということなのですから。

単に「厄が降り掛かってくる年だ」とおびえて、
「神さまお願いします、守ってください」とお祓いをするより、
いい1年を過ごせるのではないでしょうか。

厄年は節目の年であると解釈して、感謝を伝えるために神社に行ってもいいでしょう。

「○歳になり、こうしてお参りすること、ご挨拶することができました。
おかげさまで健康です。お導きありがとうございます」と。


その神社に御神体である何千年もの巨木があれば、いつもと違う思いがわいてきます。
「人間よりはるかに長く生きるものを、100年足らずしか生きない自分が、
今日ここで目の当たりにすることができる。大きな命に出会えて、本当にありがたいな」

感謝の心が自然と生まれることもあるでしょう。
少なくとも、感謝をするとき、人はネガティブな気持ちにはなりません。

僕は「ポジティブ思考が大好き!?いつもいいことを考えたい!」というタイプでは
ありませんが、ネガティブよりは断然、ポジティブがいい。

そして神社とは、とてもポジティブな場だと思っているのです。


《恩師の家を訪ねる感覚で》

「神社に行くといっても、しきたりがいろいろありそう」、
そんなふうにちょっと心配だし、身構えてしまうという人に、僕はこうお伝えしています。

「ルールはあってないものです」

信仰というのは人の心から生まれる“思い”だけれど、宗教というのは人を組織し、
“思い”を共有するためにつくられた“ルール”だというのが僕の解釈。

従って、お参りの作法とは時代ごとに都合のいいように解釈されてできあがってきたもの
に過ぎないし、絶対に正しいルールは存在しないと考えています。

もちろん、神道の勉強をして神官になるための学校では、「正しい神道のルール」を教えています。
それに倣ったお参りをしたい人は、そうすればいいと思いますし、否定するつもりもありません。

しかし、ちゃんとした学校でも、西日本と東日本で違う点が多いのは事実です。
たとえば西日本で修行した人たちは、袴を穿いたあとに結んだ紐を、前にぴろんと出します。
「これが正しい作法だ」と教えられたからです。

ところが東日本では、結んだ紐を巻いた帯に潜り込ませてしまいます。
やはり「これが正しい作法だ」と教えられたからです。


もしも神さまが決めているのなら、すべての作法は統一されていそうなものですが、
地域によって違うということは、人の都合で決められたからでしょう。

絶対的な正しさはどこにもなく、逆にいえばすべては正しい。
大切なのは“思い”であり、どうやってお辞儀をするか、どうやって手を叩くかは二の次。

こう考えてみると、気持ちさえしっかりしていれば、
“お参りのマナー”は必要ないのかもしれません。

しかし、僕のような素人は、マナーによって気持ちを高めていけるので、
最低限のことは守るようにしています。

僕が考える“お参りのマナー”は、次のひと言に集約されます。

「尊敬する恩師の家を訪ねる感覚でお参りしよう」です。

心から尊敬している恩師の家に行くなら、汚い服は避けるでしょう。
特別にかしこまる必要はありませんが、頭も下げるし、乱暴なことはしないし、
きちんとふるまおうと心掛けるはずです。

「自分がリスペクトしている相手に対して、どうふるまうか?」

それを考え、実行していきましょう。

http://diamond.jp/articles/-/74642

             <感謝合掌 平成27年9月28日 頓首再拝>

神社参拝のキホン、あなたは知っていますか? - 伝統

2015/09/29 (Tue) 18:17:21


            *Web:DIAMOND online(2015年7月11日)より


《頭を下げて鳥居をくぐる》

神社の入口にあるものといえば鳥居です。
鳥居とは、僕たちが住む俗界と、神さまが住む神社とを区別する結界です。

僕は鳥居に入るときも、出るときも、頭を下げることにしています。
頭を下げるというのは、日本人の基本的マナーと言っていいでしょう。

一礼して鳥居をくぐって神社に入り、お参りをする。
終了して帰るときには、鳥居の手前でもう一回、くるっとお社のほうを向いて、
一礼してから鳥居をくぐって失礼します。

〈千本鳥居〉で世界的な名所にもなっている京都の伏見稲荷大社の鳥居は、およそ一万本。
江戸時代から主に商人が奉納してきたといわれています。

ここの鳥居の大きさは五号から一〇号まであり、必ずしも氏子でなくても奉納できるうえに、
号ごとに値段もちゃんと明記されています。鳥居をよく見てみると、
奉納した年月日と会社名などが刻まれており、知っている名前が見つかることもあります。

「鳥居をくぐるたびに一礼」といっても、
伏見稲荷のように一万本もある鳥居で一万回お辞儀をするというのは無理があります。

〈一の鳥居〉〈二の鳥居〉〈三の鳥居〉というしっかり名前もついているものをくぐるときに、
頭を下げるといいでしょう。


鳥居の“順番”も大切で、僕は一の鳥居から入ることにこだわっています。


たとえば島根県の出雲大社は、三の鳥居から入る人が非常に多くなっているのですが、
僕はあえて遠回りして一の鳥居から入ります。

駐車場に直結している出雲大社の三の鳥居は、たしかに行きやすい。
まわりのお土産屋さんを見て、有名な巨大しめ縄を見て、すぐにお参りに行けます。
ただし俗世からくっきり隔てられた気持ちになれるかといえば、便利なぶん、そうでもありません。

その点、少し離れた一の鳥居は静かです。
一礼して一の鳥居をくぐり、しばらくゆるやかな坂を上っていくと二の鳥居。
そこも一礼してくぐると、松の木が何本も立ち並ぶ大社までの参道は、
逆にゆるやかな下り坂になっています。

この、「上って下る」というプロセスに、僕は意味を感じます。

なぜなら、前述のとおり、出雲大社に祀られている〈大国主命〉は
もともとの日本を指す葦原中国を治めていた国津神という神さまですが、
その息子の代で天照大御神のような高天原に住む天津神に統治権を譲ります。

国譲りをしたあとは〈黄泉の国〉をつかさどることになるため、
出雲大社へのお参りは、生から死を疑似体験することでもあります。

一の鳥居から二の鳥居までの上り坂でこの世を生き、
二の鳥居から大社までの下り坂で、黄泉の国に向かう。
生と死が一つに交わる神秘的な感覚を味わえる参道。

考え抜かれた先人の智慧が込められたつくりだと感動します。

逆に帰り道は、黄泉の国から坂を上って二の鳥居にたどり着き、そこから広がる美しい
“この世の風景”に向かって一の鳥居までの坂道をゆっくりと下っていきます。
こうして“黄泉がえり”を体感できるのが、僕にとっての出雲大社です。

出雲大社に“二つの参道”ができたのは、明治時代以降のこと。

出雲大社の両脇には川が流れており、片方が千家家、片方が北島家。
両家とももともとは神さまをお迎えして儀式を行う〈国造〉という役割の家柄で、
「今年は千家家、来年は北島家」と、順番に出雲大社の儀式を執り行っていました。

それぞれにある〈神楽殿〉は、神さまをお迎えする施設です。

ところが明治時代に神道と仏教を分けるという〈神仏分離令〉が出たとき、
なぜか「一神社一国造にする。出雲大社については、千家家が宮司になってお祀りしなさい」
と決まりました。

そこで北島家は「出雲教」という神道教団を別途立ち上げ、
出雲の土地、人、家屋を守る神さまを祀ることになりました。

いまでは「出雲大社にお参りしたい」という全国から来る人たちは出雲大社へ、
出雲の地元の人たちは出雲教のお社に行くという住み分けができています。

「出雲大社=千家家」となったとき、注目が集まったのは千家家の神楽殿。
四トンのしめ縄があるためです。
そこで、訪れる人が便利なように、
千家家は参道から離れた神楽殿近くに大きな駐車場をつくりました。

こうして本来の参道と便利な参道、二つの参道ができたというわけです。

一の鳥居付近にはお土産屋さんも甘味処もなく、ひっそりしています。
一の鳥居をくぐってから本殿までは30分。遠いといえば遠いでしょう。
しかしこの30分は、自分を高め、生と死を味わう時間として使えます。

観光バスが到着する三の鳥居付近は対照的ににぎやかで、買い物も飲食もできます。
本殿までわずか5分。しめ縄も見られますし、時間がない人には便利です。

どちらがいい、悪いではなく、好みで選ぶといいでしょう。

伏見稲荷大社や出雲大社を例にとりましたが、
近所にある“行きつけの神社”には、おそらく鳥居は一つか二つ。

一礼して神社を訪ね、一礼して神社を辞する。

これだけ覚えておけば大丈夫です。


《手水舎で身を清める》

禊という言葉を、あなたも聞いたことがあるでしょう。
身を削ぐ、穢れを祓う、身をきれいにするといった意味です。

神社にお参りに行くときに禊をするとは、
本来、滝に打たれたり、または海に入ったりして穢れを祓うこと。

しかし日常生活で神社に気軽に行くためには、
滝に打たれたり海に入ったりするというのはあまりにもハードルが高い!?

そこで簡単に禊ができる施設として、神社には手水舎があります。
水と柄杓が置いてある場所を、きっと見たことがあるはずです。


右手で柄杓を取って水をすくい、まず左手を、次に持ちかえて右手を清めます。
さらに持ちかえ、もう一度左手に水を注いで口をゆすぎ、
最後にもう一杯水をくんで柄杓を縦に立て、自分の両手も含めて柄杓ごと水を流します。

元通りの位置に柄杓を戻して、お清めは終了です。

http://diamond.jp/articles/-/74781


             <感謝合掌 平成27年9月29日 頓首再拝>

神社に行くときの最低限のマナーを知っておこう! - 伝統

2015/09/30 (Wed) 18:54:14


            *Web:DIAMOND online(2015年7月14日)より

《参道は端を歩く》

前回まで、どんな心構えで神社に参拝するかをご紹介してきました。
そして、神社に足を踏み入れる際には、鳥居をくぐり、身を清め、
いよいよ参道を歩くときは、真ん中は避けましょう。

参道の真ん中は正中といって、神さまの通り道です。
神社は神さまがいる場所で、僕たちはそこにお邪魔する立場。
“いい道”は遠慮しましょう。

左でも右でも、僕はどちらかの端を歩くようにしており、
さらに歩きはじめの第一歩は、真ん中を歩くであろう神さまから、遠いほうの足を出します。
たとえば、左端を歩くなら、左足から。右端を歩くなら、右足から出します。

ほんの少しの心がけですが、意識することで気持ちも高まります。


《礼との作法》

参道を通って拝殿に進んだら、礼をして柏手を打ちます。
神道の定めている作法では、〈二礼二拍一礼〉。

順に説明していきましょう。


(1)鈴

   最初に軽くお辞儀をし、鈴を鳴らしたい人は鳴らします。
  鈴は雷鳴、つまり神さまが出現した象徴なのですが、神社によってあったりなかったり。
   神社とお寺は神仏習合でまじりあい、神仏分離で別々になったという歴史があるためです。

   つまり鈴は、神さまではなく人間のための道具なのです。
  そんなこともあって僕は鈴を鳴らさないのですが、
   これはあくまで僕の流儀で、鳴らしても大いに結構!?

   鳴らし方の作法はありませんし、気持ちがこもっていればいいと思います。

(2)参拝前のご挨拶

   拝殿を前にしたら軽く一五度くらいのお辞儀をして挨拶をしましょう。
   そして左足から三歩前に進み、四五度のお辞儀をもう一度。
   ここまでが参拝前のご挨拶。

(3)参拝(二礼二拍一礼)

   いよいよ参拝となります。まず二回九〇度で深く頭を下げ、
   頭を戻したら次にパンパンと二回柏手を打って、もう一回九〇度くらい頭を下げて一礼。
   ここまでが二礼二拍一礼です。

(4)参拝後のご挨拶

   参拝前と同じように四五度くらい頭を下げてお辞儀をし、
   右足から後ろに三歩下がって一五度の軽いお辞儀をします。

   頭を上げたら参道の真ん中、正中に向けて身体を開いていくように後ろに下がっていく。
   これは神さまにお尻を向けないようにするため。
   「ちょっと後ずさりしながら帰っていく」というイメージです。


「ややこしいな~」と思われるかもしれませんが、難易度はラジオ体操以下です。

僕は礼については基本どおりにやっており、お参りのあと献笛をしたり、
庭を見せていただいたりして、再び本殿の前を通りすぎるときには
軽く頭を下げて通るようにしています。

といいましても実は、柏手についてもかなりの自己流で、
神社に対しては四拍、岩や巨木という自然物そのものがしめ縄などで
祀られているときには九拍打っています。

「一二三四、一二三四」のリズムで八回打ち、最後の一拍は音を出さない。
これは〈九拍打ち〉という、僕が修行をした〈修験〉のやり方です。

古来の自然崇拝と仏教がまじりあい、神道の影響も受けて成立した山岳信仰で、
自然そのものが神さまという考え方。知識より実践が大切だとされ、
僕はかなり気に入っています。

「二礼二拍」と書いてある神社もありますし、たくさん手を打っていると、
年配の親切な方が「ここは二礼二拍よ」と教えてくださることもあります。

しかし、二礼二拍と決まったのは明治時代以降の話です。
何人かが一緒にお参りする〈列拝〉の際、代表者が前に出て柏手を打ちます。
それに後ろの人たちが合わせやすいように、〈二礼二拍一礼〉という
スタイルができていきました。それまではもっと自由だったのです。

〈柏手〉という言葉も最近のもので、もともとは〈八平手〉と言い、
「『八=たくさん』の手」という意味でした。

気持ちがこもっていればいるほど、
何回も手を打って、神さまへのメッセージとしていたようです。

そんなわけでかつての僕は、教えてくださった方に「いや、柏手というのはもともと~」と
嫌味ったらしく答えていたのですが、考えが変わりました。

「自分の正しさにこだわるちっぽけな“我”を、神さまの前で主張するなんて、何か違う」
そんなふうに思ったのです。

だから今は、「二拍ですよ」と注意されたら、
「ありがとうございます」と答えるようにしています。

マナーはマナーとして覚えておけば安心ですが、絶対のものではありません。

神さまと仲良くするのに、正解などないのですから。

http://diamond.jp/articles/-/74891

             <感謝合掌 平成27年9月30日 頓首再拝>

参拝のときは◯◯を声に出す!? お賽銭はいらない!? - 伝統

2015/10/01 (Thu) 20:29:38


            *Web:DIAMOND online(2015年7月16日)より

《名乗り、「自分」を確かめる》

「東京都港区から来た中村真です」
神田明神でも出雲大社でも、小さなお稲荷さんでも、神社にお参りする際に、
僕はまず、名乗ることにしています。

正確には二礼四拍をしたあと、「はらえたまえ、きよめたまえ」という言葉を唱えます。
これは〈祓詞〉というお祓いの祝詞。その後に名乗ります。

「自分がどこから来た誰なのか」を神さまに伝えたうえで、
感謝をしたり誓いを立てたりするということです。


なぜなら、神社に行くとは、いくら“行きつけ”であっても非日常の世界に飛び込むということ。
そして僕の日常は、たくさんのノイズに囲まれ、人並みにあれやこれやの雑念がたくさんあります。

せっかく神社という非日常の世界に来たのなら、雑念にとらわれたままでお参りはしたくない。
一瞬でいいからいつもの毎日から距離を置いて、改めて自分の立ち位置や、自分という人間について
見つめたい。その確認の方法が、名乗ることです。

たかが名前と住まいですが、声を出して言う機会はなかなかありません。
何かの会で初対面の人に会ったり、仕事で名刺交換をしたりするときは名乗りますが、
「A社の○○」「○○ちゃんママ」が自分そのものかと言われたら、
やはり少し違うのではないでしょうか。

相手は神さまという“見えないもの”ですが、見えないところがいい。
僕たちは誰かと会うと、目の前の相手がどんなタイプか、
目から入る情報をもとにデータ分析を始めてしまいます。

どんな服か、どんな顔か、仲良くなれそうか、自分と似たタイプか、虫が好かないタイプか。
そんなことをやっていたら、自分のあり方について思いを馳せる余裕はないものです。

自然崇拝の神社に行って名乗ると、ことさら自分を確認できる気がします。

たとえば、1日2本しかないバスを乗り継ぎ、
何時間もかけて登山したところにある山奥の神社に行く。

「港区から来ました中村真です」と名乗ると、

「なんでここまで来たのかな??わざわざ時間をやりくりして来たのは、
ここの神さまに挨拶したかったし、この巨木の圧倒される大きさを感じたかったんだな」

と自分でよくわかります。

僕は人がいてもいなくてもできるだけ声を出して名乗ります。
声を出すほうが、自分の気持ちが高まるような気がするので、一種の自己暗示でしょう。

いささか恥ずかしいという人は、ひと気のないときに試す、
小声で名乗るというのでもかまわないと思います。


《お賽銭はいらない》

これまで紹介してきましたお参りのプロセスをまとめると、以下のようになります。


(1)お辞儀をし、鳥居をくぐる
(2)手水で手を清める
(3)正中を避けて参道を進む
(4)拝殿に向かってお辞儀をし、鈴を鳴らす
(5)二礼。二拍か四拍か九拍(柏手は好みの数で)
(6)祓詞を知っていれば唱え、名乗る
(7)感謝を捧げる、もしくは誓う
(8)一礼。そのあとお辞儀をし、神さまにお尻を向けないように参道に戻る


この説明に対して「何か抜けている」と感じる人もいるでしょう。
そう、お賽銭です。
(3)と(4)のあいだにお賽銭というのが通常のマナーとされています。

「お賽銭は多ければ多いほどご利益がある」
「ご縁があるように五円玉が良い」

お賽銭については、諸説あります。
初詣の際、たくさんの人の頭の上を飛び越えてコインを投げ入れる、
何ともアクロバティックな光景をテレビなどで目にしたことがあるでしょう。

僕はどうかといえば、お賽銭は省略しています。

夢のないことを言うようですが、お賽銭とは近代にできあがった集金システムのひとつ。
否定はしませんが、どうせなら別のお金の出し方をしたいので、
正式参拝かご祈祷をお願いするようにしているのです。


正式参拝とは、拝殿の中に入れていただいて、お参りをすること。
その際は時間に余裕をもって神社に行きましょう。

巫女さんや神主さんがいる〈社務所〉を訪ね、「ご祈祷したい」とお願いすれば、
問題なく受けてもらえます。観光地の有名神社やお正月などはこの限りではなく、
予約が必要な場合もありますが、普通の神社であれば大丈夫です。

  拝殿の中に入れていただき、神主さんにご祈祷してもらいます。

ご祈祷のあとは、神主さんとお話ができます。
神社の由来や歴史、お祀りしている神さまについて教えてもらうこともできます。
お神酒などをすすめられたら、神さまからのいただきものなので頂戴します。
お酒が苦手な人は口を付けるくらいでいいでしょう。

ちなみに拝殿に上がるにあたって靴を脱ぐときは、脱いだままにしておくこと。
「くるりとひっくり返すように、靴のつま先を出口に向けて揃える」というのが
人の家を訪問するときのマナーですが、

神さまの家ではお尻を決して神さまに向けないように、
後ろ向きに靴を履いて失礼するのがマナーです。
神主さんたちはみなさん、このようにしているのでそれにならいましょう。


ご祈祷のお礼は〈玉串料〉として5000円から1万円ほど納めることになりますが、
しっかりと神さまにお会いした気持ちになれます。
大きな神社だと、ご祈祷の料金が明示されているところもあります。

のし袋などに入れる人もいますが、僕の経験では、裸のままでも大丈夫なところが多いようです。
神社の維持費として考えても、ちょこちょこコインをお賽銭にするより、
年に一度か二度、まとまったお金を払ったほうが役に立つのではないでしょうか。

自宅の“神さまの居場所”にお供えするお札も、ご祈祷の際にいただけるもの。
大切に持ち帰ることにしましょう。

「わざわざご祈祷をお願いしなくても〈お守り〉を巫女さんが売っている」と
思うかもしれませんが、お守りとはお札の簡易版。
“携帯できるお札”と僕は解釈しています。

巫女さんが窓口で扱っているものとして、〈おみくじ〉もありますが、
これは神さまのご神託の簡易版。もともとご神託とは、
「ご祈祷のあとで神主さんから神さまの言葉をいただく」というものでした。

昔の権力者は、政(まつりごと)の相談などもしていたようです。
〈おみくじ〉は、庶民も手軽に神さまの言葉をいただけるようにということで、
明治時代以降に生まれました。


つまり、正式参拝をすれば、
おみくじ、お守り、お賽銭といった近代に生まれた簡易版でない正式バージョンで、
神さまと対面できるということです。

忙しい日常を送っている僕たちが常に正式参拝をするというのは難しいので、
「お札をいただくために年に1回だけ正式参拝する。普段は通常のお参り」
というのでもいいでしょう。

だからこそ、ふらりと神社に立ち寄るときは、
おみくじやお守りはいただかなくてもいいと言えますし、
お賽銭も必ずしも必要はないと僕は考えています。

  (http://diamond.jp/articles/-/75048

             <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

御朱印帳とお礼参りのルール、ちゃんと知っていますか? - 伝統

2015/10/02 (Fri) 19:21:41


            *Web:DIAMOND online(2015年7月16日)より

《御朱印帳はスタンプ帳ではない》

神社にお参りする習慣ができてきたら、
お参り道具として、〈御朱印帳〉を持参するといいでしょう。
神社名やお祀りしてある神さまの名前が記された〈御朱印〉をいただくためのノートです。

御朱印は印章だけのところもありますし、神主さんが参拝日時や神社名の墨書きを、
赤い印章に添えてくださるところもあります。
社務所か御朱印の窓口でお願いしましょう。

御朱印は神さまの名前も記された、お札と同じようなもの。
お参りのしるしであり、神さまとの出会いを心に刻むための大切な記録です。
神社でもお寺でももらえるもので、由来は諸説あります。

「神社オリジナルのスタンプを集めるって、スタンプラリーみたいなもんですよね?」
こんなことを言う人もいますし、カジュアルに神さまと仲良くするのも悪くない
とは思いますが、本質的には違うものだと僕は思います。

スタンプラリーの楽しみは、全部のスタンプを集めること。
子ども向けのイベントで、「山手線の駅ごとに人気キャラクターのスタンプが用意されている」
といったものがありますが、子どもたちはコンプリートを目指します。

商店街のスタンプラリーもまた、
スタンプを全部集めて景品をもらうことが目的であり、楽しみです。


いっぽう御朱印の楽しみは、全部集めることではなく、一つ一つの神社との出会いにあります。
だいたい日本全国の御朱印を全部揃えるというのは、ほぼ不可能でしょう。

人生のなかで出会った神さまの記録。

そんな思いのこもった御朱印帳を持参する。
それが僕のやり方です。

スタンプラリーの起源は宗教的な巡礼にあるとか、御朱印帳が広まったのは
四国八八ヵ所の霊場を巡るお遍路さんからといった説があるほどですから、
“巡礼のしるし”くらいの気持ちがあってもいいのではないでしょうか。

参拝者が自分で捺せるように御朱印が置いてある神社もありますが、
適当なノートや手帳にポンと捺したり、拝観料を納めたときにくださるパンフレットに
御朱印をいただいたりというのはやめましょう。

趣向を凝らしたすばらしい御朱印帳を用意している神社もたくさんありますし、
文具店でも手に入ります。

無地の御朱印帳を購入して自分で好きなデザインを施し、
世界で一つだけの御朱印帳をつくっても思いがこもります。


《お礼参りにルールはない》

「お参りに行って、誓いを立てた。そのあと、お礼参りは必要だろうか?」
「神社でお札、お守り、破魔矢、商売繁盛の熊手をいただいてきた。
毎年お返しして新しいものにするほうがいいのか?」

こうした質問をいただくことがよくあります。
何かしらの法則やマナーがあって、そのとおりにしなければ祟りがある
と心配している人もいるようです。

「〇〇しなきゃいけません」は不思議な言葉で、
人に義務感を与えることもあれば、安心感を与えることもあります。

特に神さまが絡むと、「昔からこのように決まっているから、こうしなさい」と言うだけで、
絶大な説得力があるでしょう。

安心できるのはいいことですが、義務感というのはきゅうくつです。
神さまという目に見えない存在と素の自分でつきあいたいのに、誰かに決められたルールに
従って安心や義務を“与えてもらう”というのは、何か違う気がします。

さらに、「昔から決まっている」と言っても、「昔」の範囲は恐ろしく広い。

古代日本の昔と奈良時代の昔とではルールが違います。
平安、戦国、江戸、明治、近代社会になってもルールは変わり続けているのですから、
さほど神経質にならなくてもいいと思うのです。

そんな僕も、「お礼参りなんていらない」とは思いません。
人に言われたスケジュールに従うのではなく、
自分で「ああ、そろそろお礼参りに行こう」と思って行く。

「今のお札をお炊き上げし、新しいものをいただいてこよう」と感じたときに神社に行く。
このくらいの自由さを、神さまは許してくれると思っています。

「こうしてみたいな」「あれができなかったら次はこうしてみよう」と感じ、
思い、決めて、素直に行動をするほうが、本質的な神さまとのつきあい方ではないかと、
僕はとらえているのです。

「伊勢神宮にお参りに行ったら、お礼参りも伊勢神宮」と言う人もいますが、
別の神社でもかまわないというのが僕の解釈です。

考えてみれば、昔の人にとって“お伊勢参り”というのは
一生に一度、行けるか行けないかの大イベント。

近所の神社以外のところにお参りした場合、
同じ神社にお礼参りをするというのは難しかったのではないでしょうか。

「出雲大社のお礼参りであれば、同じ大国主命が祀られている神田明神を選ぶ」
というくらいの気遣いはしますが、あまりこだわらなくていい気がしています。

「お守りもお札も、一度いただいたものは、一生大事にしていけばいいのでは?」

こんな質問を神道の専門家に投げかけると、
「神さまにいただいたものだから、そのとおりです」という意見もあれば、
「1年に1回、買い替えなきゃいけません」という意見もあります。

これまた、絶対の答えはありません。

ほとんどの人が農業に従事していた時代は、春の祭りに手にしたものを、
次の年の春の祭りの前には処分をして、新しい種まきを始めるという意味が
あったのかもしれませんが、それも神さまではなく人が決めたこと。

僕はいろいろな神社に行っているので、お守りやお札はどんどんたまっていきます。
あまりに増えすぎると、その時期にご縁のあった神社に持参して、すべて奉納してしまいます。

それで新しいお札をいただいてくるので、買い替えということになるのでしょうか。
いずれにしろ、1年1回といったスケジュールはつくらずにやっています。

http://diamond.jp/articles/-/75216

             <感謝合掌 平成27年10月2日 頓首再拝>

ストレスだらけの毎日を抜け出し、心を整える「旅」に出よう - 伝統

2015/10/03 (Sat) 18:37:23


            *Web:DIAMOND online(2015年7月21日)より

《観光のルーツは神さまにある》

神さまと出会う旅について考えたことはあるでしょうか。
近所にある“行きつけの神社”のほかに、日本中いたるところにある神社から
“お気に入りの神社”を見つけるとそんな旅ができるようになります。

日帰りでもかまいませんが、一泊か二泊して、非日常を味わえたら最高です。
「旅に出るなら、神社よりもおいしいものを食べて観光するほうがいい」
そう思うかもしれませんが、神さまと出会う旅も観光旅行も、やることはほとんど同じです。

そもそも「観光」のルーツはお伊勢参り。
平安時代は皇室専用、室町時代から庶民も参拝可能となった伊勢神宮に行くことが、
日本人の観光のはじまりなのです。

神社に祀られている神さまは「一人、二人」とか「一神、二神」ではなく、
〈柱〉と数えます。「柱」とは、光を意味します。
「光(=神さま)をしっかりと観に行く」、これが観光のルーツというわけです。

神道に限らずキリスト教でも「光=神」という考え方があり、
もっと概念的にいうと、光は希望や祈りの象徴だったりします。

せっせとお金を貯めて、一生に一度の大イベントとして光を観に行き、
おいしいものを食べたりお土産を買ったりするお伊勢参りこそ、観光の原点―こう考えれば、
神社ブームに乗り、楽しい気分で参拝を組み込んだ旅をするというのは、
邪道でもなんでもありません。

神さまと出会う旅に出るとき、僕は神社ばかりかその土地の歴史を調べ、
温泉や食べものまでチェックして出かけます。


   楽しい旅で、光をしっかりと観る。

   雲の切れ間から、光が差す一瞬に、ふと「神聖なもの」を感じる。

   どちらも同じ、日本人にとっての神さまとのふれあいです。


《やるべきことをすませて身軽に出かける》

本気で楽しめば、ほんとうに自由になれる。
夢中で楽しめば、まるっきり素直になれる。

神さまに出会う旅は、仕事や家事や義務から解き放たれて、思い切り楽しむ旅でもあります。
心も体も身軽になって出かけること。
これこそ、神さまと出会う旅の、大切な準備といっていいでしょう。

体を身軽にするには、荷物はできるだけ少なめに。
神さまグッズとしては、御朱印をいただきたい人は御朱印帳を持参する。
せいぜいそれくらいです。

心を身軽にするには、やるべきことをすませること。仕事のあれこれ、家事のあれこれ、
コミュニティのあれこれを、きちんと片付けてから出かけましょう。

僕自身、遊ぶことや楽しむことが大好きですが、
やるべきことをやらずに出かけたとき、本気で楽しむことができません。
仕事の電話がかかってくることもありますし、たとえ何もなくても自分が気になってしまう。

旅の途中の美しい景色を眺めながら、東京の仕事について考えていたら、
心がほどけるような体験はできません。

「神さまに会うというのは、まじめな良いことだ。家のなかのあれこれより尊い」と、
日常の雑務を放り出すのは、ちょっと違う気がします。

自分の責任を放り出し、自分の都合を優先することは、素直さではなくわがまま。
わがままと素直さの区別をつけられないようでは、逆説的ではありますが、
本気で楽しむ素直な心をなくしてしまうのではないでしょうか。

私は、「神社に行くときは、玄関を一歩出たら、そこはもう参道です」
と皆さんに伝えています。
近所の神社でも、遠くの神さまに会いに行く旅も同じです。

どう行くかで、こもる気持ちも向き合う態度も変わります。
僕はその意味で、旅の準備をとても大切にしています。

仕事を片付け、やるべきことは全部すませ、できれば家をきれいにそうじしてから出かける。
これらの準備もまた、“自分の気持ちを高める儀式”のうち。

儀式によって、旅の途中で起こるあらゆることに敏感になれますし、
すべてを前向きに受け止められるようになります。

http://diamond.jp/articles/-/75252

             <感謝合掌 平成27年10月3日 頓首再拝>

神社に行ったら、近くの温泉で土地のパワーをもらおう - 伝統

2015/10/04 (Sun) 19:07:58


            *Web:DIAMOND online(2015年7月23日)より


《食と温泉で「土地そのもの」を感じる》

前回、「観光」の由来は、神さまを訪れる旅であるとお伝えしました。

ここでお伝えしたいのは、神さまに出会う旅をするなら、
目当ての神社の歴史について、簡単でもいいから調べて行きましょうということ。

「出雲大社は縁結び」とか「伊勢神宮はパワースポット」といったシンプルな興味でも
いいのですが、もっと神さまと仲良くしたいなら、どんな歴史をもつ神社で、
どんな神さまが祀られていて、なぜそのようなご利益をもつといわれるようになったのか
だけでも、知っておくとずいぶん違います。


神さまと出会う旅は、一人旅でもよし、気の合う友だちや仲間と行くのもよし。
一人であれば神さまと一対一で向き合い、素の自分と出会えます。
友だち同士やグループであっても、神さまと会うときは究極的には一人だと思いますが、
食事をしたり、道中語らったり、旅のプロセスの楽しみはひろがります。

どちらでもかまいません。そのときの気持ちに従って計画しましょう。

神さまと出会う旅で、僕が必ず旅程に組み込むのが温泉。
日本の素晴らしいところは、たいていの土地に温泉があること。

お湯を楽しむ文化は、ヤマザキマリさんの『テルマエ・ロマエ』で一躍有名になった
古代ローマ帝国、今でも中央ヨーロッパの湯治の名所として知られるハンガリー、
庶民のいこいの場として根づいている台湾など世界各国にありますが、
日本人だからか、日本の温泉は格別だと感じます。

僕のおすすめは、まず温泉で身を清めてからお参りをすること。
大きな神社では、儀式に入る前の神主さんたちは、しっかりと禊をします。
滝があれば打たれて〈滝行〉をする、冷水を浴びるという〈水垢離〉をする。
〈潔斎〉といって、飲食を断ち、沐浴して身を清めてから神事にとりかかる神社も
たくさんあります。

これのカジュアルバージョンとして、僕は温泉につかるのです。

「温泉につかるなんて、滝行や水垢離と比べれば、ずいぶんお気楽」
こんなふうに感じるかもしれませんが、温泉は地球から出ている土地のエネルギーそのもの。

その土地のエネルギーにふんだんに包み込まれ、清い体になってから、
その土地の神さまに会いに行くのは、むしろ自然なことのように感じています。

神さまは神社だけにいるわけではない。
その土地を守る大きな存在の代表格のような神さまが神社にいますが、
木々にも空にも、その土地そのものにも、神さまはいるように思うのです。

なぜなら、日本の信仰はすべて、自然崇拝のなかで育まれてきたのですから。
そうであれば温泉もまた、神さまの恵みであり、神さまが宿る場所ではないでしょうか。

たとえば出雲大社なら、バスで参道まで直行するより、
前泊して玉造温泉につかってから行きたい。
伊勢神宮も少し離れれば温泉地があります。


温泉と並んで僕が食事も大切にしているのは、その土地のエネルギーをいただきたいからです。
できればどこにでもあるチェーン店で食べるのではなく、その土地のものを。

出雲大社であれば名物の出雲そばを食べながら、
このそばを生み出した出雲の土地の恵みに感謝します。

伊勢神宮の名物、伊勢うどんの由来は諸説ありますが、
お伊勢参りをした江戸時代の人たちも食べていたうどんです。

こうした名物でなくても、地のものを味わうと、恵みを文字通り体感できます。
また、地元の人と話すことも、その土地を知るきっかけとなるでしょう。


私は秋に、高知県の四万十川の支流から出ている川に行きました。
黒尊渓谷の奥の奥にある、黒尊神社にお参りするための旅。
熊野神社の流れを汲むこの神社には黒尊大明神という神さまが祀られています。

四万十川は「日本最後の清流」といわれていますが、黒尊川などの支流はそれ以上。
ふれるだけできれいになれそうな、とびきりのきよらかさでした。

細く清冽な流れが集まり、大いなる四万十川として大地を潤す。
その四方を山が囲んでいて、聖なる場所だというのがそこに立っているだけで感じられます。

水が豊かで栄養分がいいために、魚はもちろんのこと、
天然の鰻や天然のツガニが生を営んでいます。

旅のあいだ、僕は川のものばかりいただいていたのですが、
どれもこれもおいしいものばかりでした。

美しい清流でさっきまで生きていた命を、自分の命をつなぐために、
獲り、料理をし、噛みしめて、味わって、いただく。

自分が生かされていること、命をいただいていることがじんわりと体中にゆきわたるようで、
「いただきます」と「ごちそうさま」にいつも以上の感謝がこもりました。


黒尊神社にお参りした際、誰もいない拝殿の扉が開いていたので、
置いてあった箒(ほうき)で簡単なそうじをしました。
すると、潜んでいたアシナガバチが二の腕をチクリ。

「さすが黒尊大明神のエネルギーは強烈だ。なにかをいただくときには痛みもともなうものだな」

腫れた腕を押さえながら笑う僕に、友だちは「どれだけポジティブなんだ?」と
呆れていましたが、実は本気です。
こんな気持ちになれることも、土地の神さまの恵みだと思っています。

http://diamond.jp/articles/-/75391

             <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

《神さまと過ごす春夏秋冬》 - 伝統

2015/10/06 (Tue) 18:03:53


神社に行ったら、近くの温泉で土地のパワーをもらおう~その2

            *Web:DIAMOND online(2015年7月23日)より

《神さまと過ごす春夏秋冬》

神さまに出会う旅が好きになったら、春夏秋冬、それぞれの季節に会いに行ってみましょう。
同じ神社に足を運べば、変化がくっきりと味わえます。
山や林に囲まれた神社であれば、なおのことです。

桜が美しい神社、紅葉が見事な神社は注目され、ライトアップが施されたりして見事です。
それはそれで楽しいものですが、特別な見所がない神社もまた、すばらしい。
あまり“観光ナイズ”されておらず、自然が自然のままに残っている神社は、
そのままの四季が味わえます。

春の訪れは街中でも感じられますが、みんな華やかな桜に見とれます。
新緑の淡い緑の美しさをゆっくりと見つめる時間はなかなかとれないようです。

神さまに会いに行く道すがらは、立ち止まることが許される貴重なひととき。
春の緑を味わいましょう。
足元にはスミレ、イヌフグリなど、つつましい野の草が新しい命を輝かせています。


鳥の鳴き声が若いのも春らしさ。うぐいすの「ホーホケキョ」という鳴き声は、
春先だと「ホーホケキュッ!」とか、「ホーホケ、キョ、キョ」とへたくそです。
うぐいすの「ホーホケキョ」は、春になるとオスだけが発する求愛のさえずり。
春は若い鳥たちが、初めての恋のために練習中というわけです。


夏になると、若い緑が濃くなります。
梅雨のあとで山の中の神社に行くとき、僕はちょっと怖くなります。
いっぱいに生い茂る木々と、むっとする草の匂い。
自然の力が強すぎて、圧倒される気がします。


秋になると、美しいのは紅葉だけではありません。
草木がだんだん枯れていく秋が、僕は一番好きです。

山形県のお寺には、生きながらミイラになったお坊さん〈即身仏〉が
たくさんお祀りされています。
肉体を捨てて悟りをひらき、永遠の生命になるという仏教、主に密教の過酷な修行ですが、
僕は「枯れていくこと」だと解釈しています。

人間の体は、死んでそのままにしておけば、やがて腐っていきます。
しかし即身仏になる昔のお坊さんは、まず穴のなかに入り、
木の皮などを食べながら瞑想を始めます。

最小限しか食べないので脂肪も筋肉もすっかり落ちていき、
死を迎えるときには腐らない体になっています。

草木は枯れ、死んだように見えても動物よりずっと長い命をもっています。
即身仏は腐るのではなく、枯れてなお何かを残していく意味があるのではないか。
素人ながらそんなことを考えたりするのです。


冬になると、山の中の神社は人を寄せつけず、立ち入ることができなくなります。
生きているものは近づけない黄泉の国を、自然が表しているのかもしれません。
山の中でなくとも、冬の神社の静けさは、ひとつのサイクルの終わりを味わえます。


春に生まれ、夏に盛りを迎え、秋に枯れ、冬に終わりを迎え、次の春の生にそなえる。
四季とは命のいとなみそのものだと思います。

自然崇拝の神社に春夏秋と行き、立ち寄れない冬に思いを馳せれば、
僕たちも生まれて死んで、また次の命をつないでいく自然の一部だということを、
感じることができるのではないでしょうか。

自然を感じられる神社として僕が特に好きなのは、どちらも奈良県にある神社と神社。

日本各地に「日本で一番古い神社はうちだ」という神社はたくさんありますが、
大神神社もそのひとつ。拝殿はあるけれど本殿がないのは、「山そのものが本殿」
という信仰によるもので、自然を感じるにはぴったりの神社と言えます。


も一つは、天河神社。天河神社は正式な名前を天河大弁財天社といいます。
神道の神さまであると仏教の仏さまである弁財天が一緒に祀られており、
〈修験道〉の聖地ともされる個性的な神社で、近年はパワースポットとしても知られています。
拝殿では神道の祝詞も、仏教の般若心経も唱えられています。

この神社は川沿いに建てられており、「川を渡ると神域」という雰囲気が漂っています。
小さいながら自然と信仰というものが色濃く残っている神社です。

「呼ばれた人しか行くことができない」と言われているのは、
おそらく電車が通っていない山奥の集落にあるからでしょう。

天川村は紀伊半島の真ん中に位置しますが、一番近い駅から出ているバスは一日数本。
車で行くにしても、長時間、山道を走らなければなりません。
大雨が降ると通行止めになることもしばしばという不便さも、
まるで人の都合より自然の都合が優先されているかのようです。


手つかずの自然が残っている和歌山県の熊野三山、
海を感じる福岡県の宗像大社もすばらしいし、
伊勢神宮や出雲大社は豊かな自然に人の手が適度に入っています。

結局、好きなところだらけなのですが、
それだけ日本という国が魅力に満ちているということでしょう。

http://diamond.jp/articles/-/75391

             <感謝合掌 平成27年10月6日 頓首再拝>

神さまと向き合って、大きくなりすぎた<我>を捨てる - 夕刻版

2015/10/08 (Thu) 19:03:11


            *Web:DIAMOND online(2015年7月25日)より


《登拝で我を捨てる》

僕は、尾道自由大学で〈神社学〉を教えていますが、その中でしばしば神社ツアーを開催します。

「参加してもらえれば、神さまと仲良くするすばらしさを、絶対にわかってもらえる」

つねに自信に満ちているのですが、それは僕のツアーがすごいからではなく、
「自然は絶対にすごい」という揺るぎない自信があるから。
「あそこまで連れていけば、否が応でも伝わるものがあるだろう」と思うのです。

とくに自信があるのは、由緒正しい神社を巡るツアーではなく〈登拝〉のツアー。

〈登拝〉とは、神さまに会うための山登り。
山そのものが信仰されていたり、山奥に神社があったり、
いずれにしろ自然崇拝が色濃く残った山の神さまを訪ねる旅です。

2013年6月、世界文化遺産に登録された富士山は日本のシンボルであり、
世界でも指折りの観光名所ですが、山自体を神さまとする山岳信仰の対象でもあります。

昔の日本で山に登るのは、修行をする人、山越えをしないと目的地に行けない人、
狩人くらいのものでした。山は危険であり、神さまがいる神聖な場所であり、
簡単には近づけない。

今日のような登山は近代になって広まった、ヨーロッパ式の山とのつきあい方です。

僕の解釈だと、西洋的な考え方では、自然とは制するものです。
だから開発したり、レジャーやスポーツの場として利用したりするのでしょう。

そして日本的な考え方では、自然とは、決してかなわないところがある、おそろしいもの。
だからそのままの姿を敬い、尊重して、ときにはおびえる。
つまり“神さま”だったのではないでしょうか。

今は日本にとっても自然は“制するもの”となっていますが、
尊敬やおそれが日本人の心から完全に消えてしまったとは思いません。

だからこそ僕は〈登拝〉をおすすめしたいのです。


登拝の際に大切なのは、慢心しないこと。

「これくらい大丈夫」と油断すれば怪我をします。
さほど険しい山でなくても、木の根でごつごつしていたり、
急な傾斜だったり、雨上がりで滑ったりする山道を歩くことは、
普段の快適に舗装された道を歩くときとはまるで違います。

神さまに会う山登りでなくとも当たり前の話ですが、慢心し、
「これくらい別にいいだろう」と山でゴミを捨てることも、絶対にあってはなりません。

便利で安全で快適な世界で暮らす僕たちは、
あらゆることをコントロールできるような錯覚に陥っています。

欲しいものがあれば、クリックひとつで遠い街からでも翌日に届き、
海の向こうの人と無料で顔を見ながら通話できる。
昔の人には奇跡でしかなかったことが、誰にでも当たり前にできるようになっています。

不治の病のいくつかは克服され、一生かけても食べる機会がなかったような
珍しい食べものもお金を出せば味わえ、蛇口をひねれば新鮮な水がいくらでも出てきます。

そうすると僕たちは、うぬぼれてしまう。
万能感を抱いてしまう。
慢心し、自然すらなめてかかってしまうのです。

自分の弱さを忘れ、人の弱さを忘れ、自然の強さを忘れる。
これはとても怖いことだと僕は思います。

すっと手を伸ばして星がつかめるのなら、
星のきらめきは特別なものではなくなってしまいます。
あの輝きと美しさに見惚れ、憧れることもなくなるでしょう。

同じように、すべてが当たり前だったら、何に対しても感謝はできなくなってしまいます。

ところが〈登拝〉をすると、当たり前が当たり前でなくなります。
歩くことすらキツい。走るのは危険だし無理。タクシーを拾うなど不可能。
持参の水でなくコーラが飲みたいと思っても、コンビニも自販機もありません。

普段の生活で「最近、慢心しているな。もっと謙虚になったほうがいい」と意識することも
必要ですが、これは簡単そうでとても難しいこと。

相当な精神力がいるでしょう。

座禅を組みたくても組み方がわからないし、
瞑想すれば眠くなるという人は、さほど珍しくありません。

しかし山に行けば、誰でも慢心を捨てられます。
何時間もかけて汗だくになり、息も絶え絶えに山を登れば、
イヤでもいろいろなものが見えてきます。

自分が絶対にかなわない自然という大きなもの、
そのなかで生かされている自分という小さなもの。

そうやって登るうちに、だんだん、だんだん、いらないものが削ぎ落とされていきます。
いつもと違う気分になっていきます。

しばらくすると、疲労と道の険しさに心も体も支配され、何ひとつ考えられなくなります。
右足を前に出し、左足を前に出し、その繰り返しで精一杯。
山の上の神社にたどり着く頃には、頭の中は真っ白になり、無我の境地になれるのです。

無我夢中にならないと出会えない、それが山の神さまだと思います。

「登れば人生が変わる」なんてことはあり得ないし、そんなインスタントな感動はほしくない。

しかし、山の上の神社を訪ねれば、
どんな人でも自分をなくして神さまに出会うことができる。
僕はそんな気がしています。


             <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

修験道で生と死を味わう - 伝統

2015/10/09 (Fri) 19:30:40


神さまと向き合って、大きくなりすぎた<我>を捨てる~その2

            *Web:DIAMOND online(2015年7月25日)より


登拝は険しい山でなくてはいけないというわけではなく、
東京の高尾山や山のようなところでも一向にかまいません。

「山登り、ハイキング」という意識を、
「神さまに会う旅」という意識にスイッチするだけで、見える景色が違ってきます。


しかし、より深く自然という神さまに出会いたい人のために、
僕自身が修行もしている〈修験道〉について簡単にふれておきましょう。

修験道は飛鳥時代に生まれ、奈良時代に生きたという修行者が開祖とされています。
古来ある山岳信仰に仏教がまじりあい、神道の影響も受けて今のかたちになったとされ、
山に籠もって修行をすることで悟りをひらきます。
道教、イスラム教など、外国の宗教も取り入れているようです。

修験道は宗教というより、実践的な修行を通した一つの道であると僕はとらえています。

一番大きな要素は山岳信仰であり、修験道の行者を〈山伏〉ということから、
〈山伏修行〉としても知られています。

さまざまな信仰がまじりあっているため、お坊さんも神主さんも修験道の修行をしますが、
一般の人も参加できます。長らく女人禁制とされていましたが、
今では女性を受け入れる修行場も多くなってきました。

主宰によって異なりますが、危険な修行なので個人的に行くことは不可能。
修行をおさめた〈行者〉あるいは〈先達〉の案内に従うことになります。
行者は僧侶や神主が多いのですが、
山岳ガイド顔負けに山のことを知り尽くした実務家でもあります。

時折「登山の経験があるから、一人で平気だよ」と言う人がいますが、
そういう慢心は危険です。

「身の保証はない」といった看板もありますし、「自己責任」という説明もあります。
どれほど注意をしても命を落とす人もいますし、
年に何回かはヘリコプターで救助作業が行われると聞きます。

厳しさと覚悟がなければ挑戦しないほうがよいでしょう。

修行のための登山というと、山伏スタイルを連想するかもしれません。
白装束に袈裟がけ……黒いさな帽子のようなといういでたちを知っている人も多いでしょう。

これまたケースバイケースで、白装束で臨む人も多くいますが、
登山ウエアでも問題はありません。

あまりにもカラフルなものだと気持ちが入りにくいなら、
白っぽいものを選ぶくらいの意識でいいと思います。
足元は登山靴を履く人もいますし、僕は地下足袋にしています。

修行の舞台は日本各地にある霊山。山形県の出羽三山、和歌山県の熊野三山、
奈良県の大峰山・金剛山などがよく知られています。

通常の〈登拝〉であれば、三、四時間かけて険しい山道を歩き、
神社にたどり着いたところで「やりきったね!」となります。

しかし修験道では、ここからが修行の始まり。〈行場〉と言われる難所がいくつかあります。
たとえば大峰山は〈鐘掛岩〉という険しい岩を登り、有名な〈西の覗き〉という断崖絶壁から、
命綱をつけて半身を乗り出し、千数百メートルの谷底を覗き込みます。

落ちたら命を落とすおそろしい場所で、死をかいま見るという修行です。

崖っぷちで恐怖にさらされながら「親孝行するか」「家族を大切にするか」といったことを
行者に聞かれるので、必死になって「はいーっ!」と答えます。嘘をつく余裕もない、
自分の原点に戻されるような修行で、これをやって帰ってくると、悪いことなどできません。

これら表行場も相当におそろしいのですが、
東側にある別ルートを行く裏行場はさらに過酷です。

〈背割岩〉〈不動登岩〉といった険しい岩場をいくつも踏み越えますが、
最も厳しいとされているのが〈屏風岩〉。大きなとがった一枚岩を抱きながら
一回りするのですが、突起物は最小限しかない。

「ここに左足を置いたら、次はこっちに右足」と行者に
足場を教えてもらいながら一回りするのですが、
思い出しただけでおそろしくてたまらない!

修験道の修行とは、怖いし、辛いし、厳しい。
死を疑似体験し、生きていることのありがたさを思い知るためです。

他にも山形県の出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山の三山などが有名ですが、
ここはまさに死の世界を味わう場所です。

羽黒山は険しく、登るのに骨の折れる山で、これは現世。死の恐怖を感じるほどに
過酷で荒涼とした月山は、黄泉の国。

下りてきて湯殿山に到着すると、御神体から出ているお湯で足湯を使わせていただく。
温かくなって、再生して、現世に戻っていく。
生きて、死んで、また生まれる。

これが出羽三山の修行なのです。

昔の人にとって、死は身近にありました。
生きていること自体に感謝もしやすかったでしょう。

今でも世界の紛争地域や疫病が蔓延している地域では、
死と隣り合わせに生きる人がたくさんいます。若い頃に僕が旅した南米でも、
バス停でバスを待っていた、ただそれだけなのに三歳くらいの幼い子どもが射殺される
という日常がありました。

今の僕たちにとって、死は身近とは言えません。
医療技術が進み、寿命が延び、圧倒的に死ななくなった世の中は、
いいか、悪いかと言えばいい世の中でしょう。

しかし、死が遠ざかることによって生きる実感も遠ざかる、それもまた事実なのです。

神さまと仲良くすることで、
死を見つめて生に感謝することを思い出してもいいのではないでしょうか。
方法はたくさんあり、修験道はその一つだと僕は感じます。


             <感謝合掌 平成27年10月9日 頓首再拝>

《神さまと暮らすようになると「普通の毎日」に感動できるようになる》 - 伝統

2015/10/20 (Tue) 19:42:57


            *Web:DIAMOND online(2015年8月10日)より

《信じるのではなく大事にする》

僕は宗教家でも霊能力者でもないので、神さまは見えません。
それでも、こんなふうに思うのです。「目に見えているものだけが絶対なのかな?」と。

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は、
「いちばん大事なものは目に見えない」と言っていますが、僕も同じ意見です。

たとえば、心を見たことがある人は一人もいません。
財布からぱっと一万円札を出すように、「これが心だよ」と人に見せることはできないのです。
それでも僕たちにはたしかに心があるし、「お金より心が大切だ」と思う人はたくさんいます。

もっとわかりやすく言えば、空気は人間の目には映りません。
それでも生きていくには空気が必要であり、
「見えない空気より目に見える水のほうがずっと大切だ」と言う人はほとんどいません。

人というのは、目に映らないものがなければ、生きていけない存在なのです。
こう考えると、僕は「目に見えないものにこそ、大事なものがあるんじゃないか」と感じますし、
神さまもそのようなものではないかと思うのです。

神さまも神話も、目に見えず、確かめようがないものです。

しかし、「信じる・信じない」ではなくて、
「大事にする」という考え方のほうが僕にはしっくり来ます。

見えないものは見えないままでも、何かを感じるというのは豊かなことです。

見えないものを「感じる」には、意識しなければなりません。

無意識に呼吸しているとき、空気も、
自分の身体のなかの肺や血液の働きもまったく感じないものです。
しかしひとたび意識すると、驚くほど緻密な作業が行われていることが想像できます。

「空気を吸って、吐いている。口と鼻が息を吸い、それを肺が受け入れる。
肺は酸素を血液の中に出して、血液の中にある二酸化炭素と交換して、もういちど息を
吐き出している。これを二四時間、三六五日、休みなくやっているから僕は生きている」

こんなふうに考えると、素直に「すごいなあ」と思うのです。
科学者であれば、「人体の仕組みはすばらしい」と言うのかもしれません。
自分が大好きな人であれば「俺ってすごい」と誇らしくなるのかもしれません。

そして僕は「おかげさまだなあ」と感謝の気持ちを抱いています。

空気という目に見えないものがあり、科学で完全に解き明かされていない
命の仕組みという「見えない何か」が存在している。そんなふうに思えるのです。
その気持ちの延長として、見えない何かに感謝したくなります。
僕はたぶん、その見えない「何か」を、神さまだと思っているのでしょう。

僕らはみな、朝になれば目が覚めるのは当たり前だと思っていますが、
たとえ若くて健康体でも、夜眠るときに「明日、目覚める」という保証はひとつもないのです。

夜のうちに呼吸が止まることも、心臓が動かなくなることもあります。
夜中に火事が起こることもあるし、強盗が来るかもしれない。
脳みそが死んでしまうこともあるでしょう。

神さまを意識すると、そうならないように一晩中動きつづけてくれた
自分の体と見えない何かに対して、「ありがたいな」という気持ちが自然に湧いてきます。
「今朝も起きられてよかったな」、そんな気持ちを込めて言う「おはよう」は、
我ながらすがすがしい挨拶です。

もちろん、忙しいときや、予定が詰まっているのに寝坊したときには、
「もう朝かよ」「やばい、朝食抜きで出かけなきゃ」となり、感謝などできません。

そういう日には数秒だけ時間をとって、「朝、目が覚めた。ありがたいな」と
あえて意識することにしています。

多少わざとらしくてもこれを繰り返していき、感謝の習慣がついてくると、
「普通でいられることの幸せ」を味わえるようになってきます。

目覚めるしあわせ、太陽があるしあわせ。
ごはんを食べられるしあわせ、食べたものをすこやかに消化できるしあわせ。

平凡に終わった一日も、「今日もなにごともなく穏やかに過ごせた」と
しあわせを感じることができます。

トラブル続きでわりに辛い一日であっても、
「まあ、息が止まったわけじゃない。とりあえずは生きていられてありがたい」
としあわせを味わえます。

恋をしたり仕事で大成功したりという
「心がふるえるようなしあわせ」が、お寿司やステーキのような特別なごちそうだとしたら、
「今日を普通に生きるしあわせ」は、毎日のお米やパンです。

いつも食べるものがおいしいなら、人生はそう悪くない。
そんな気がします。


《人はみな、自然の分身》

「一粒のお米にも神さまがいる」

日本人ならどこかで聞いたことがある言葉でしょう。

おばあちゃんが孫娘に語り継ぐ『トイレの神様』という歌がヒットしましたが、
トイレにいるのは、仏教から生まれ、神道にも取り入れられた〈弁財天〉という神さま。

かまどには〈荒神〉という土着の神さまがいますから、
『キッチンの神様』という歌があっていいかもしれません。

キリストは教会に、釈迦は寺院にいますが、日本の神さまは神社だけではなく、
ありとあらゆるところにいます。八百万の神がいるといわれるくらいで、
神さまがいないところを見つけるほうが難しいでしょう。

そもそも、神さまと人の距離がものすごく近い。
それが僕たちの国のありかたです。

『古事記』に登場する伊邪那岐と伊邪那美という二人の神さまは、
淡路島を第一子として末っ子の本州まで日本列島を生んでいきます。
夫婦仲はかなり良かったらしく、二人はほかの日本の島々を生んだあと、
海の神、港の神、風の神、野の神、木の神、山の神を生みます。

処女懐胎してひとりっ子のイエスを生んだマリアさまと比べると、
なんとも子だくさんのビッグファミリー。

イスラム教は一神教ですし、独身のイエスや、
結婚したものの息子がひとりだけという仏陀に比べると
そうとうな数の子どもが生まれ、何人かは神さまになっています。

そもそも日本にはこの二人以外にも、神さまがたくさんいます。
『古事記』はとても面白くて興味が尽きないのですが、僕がここで注目したいのは、
「日本列島と神さまは、きょうだい」ということ。

日本人と神さまの距離が近いのは、昔ながらの神と人との定義づけにあるのかもしれません。

『古事記』は古代日本の各地で口承されていた自然崇拝をまとめたものと考えられているので、
『古事記』ができるずっと前から、日本人はあらゆるところに神さまを見いだしていたのでしょう。


ところが今、多くの日本人は「自分は無宗教だ」と思っています。
「宗教は怖い。事件や紛争のもとだ」と恐れたりもしています。

しかし宗教とはまったく別に、自然を神さまのように大切にしながら、
神さまを身近なものとしてとらえる心は、現代にも生きていると思うのです。

たとえば、宮崎駿監督が制作するアニメーション。
多くの人が心うごかされる理由は、ストーリーのすばらしさ、
絵の見事さだけが理由ではないはずです。

僕たちの心の底に眠っている自然崇拝がそこにあるから深く感動するし、
日本のみならず世界で高く評価されているのも、人間がもつ根源的な自然への思いが
作品に息づいているからではないでしょうか。


自然崇拝は日本だけのものではありません。
アメリカのネイティブアメリカン、南米のインディオ、アイルランドや
スコットランドのケルト民族、オーストラリアのアボリジニ、砂漠の遊牧民ベドウィン、
日本のアイヌ民族など、みんな自然崇拝をもっていました。

その多くはキリスト教やイスラム教、仏教といった圧倒的なパワーをもつ宗教に
おしやられてしまいましたが、日本は自然崇拝を残したまま近代化をはたした
数少ない国だと思います。

特に仏教を受け入れつつ神道もしっかり息づき、それらを信じていない人たちも漠然と
“神さま”を意識できるというのは、曖昧さではなく多様さを受け入れる豊かさだと感じるのです。


何を神さまと思うかは、何を大切にするかというその人の価値観を映し出しています。
日本人が自然崇拝をしているのなら、自然こそ日本人の神さまであり、
自然こそ日本人の価値観と言えます。

「それなのに人間は自然を破壊している。自然を守らなければいけない」という
意見がありますが、人間もまた自然の一部にすぎません。

人間は、自然につくられたたくさんの動物や植物のうちの一種類であり、
どのようにつくられ、どのように命が動いているのかは、
これほど科学が発達しても、いまだすべては解明されていません。

僕たちが当たり前に使う「自分」という言葉は、
「ご先祖さまが『自ずを分け』て、自分の分身をつくっていったからだ」と言う人がいます。

いっぽう、「人間は自然の分身だから、『自分』なのだ」という考え方もあり、
僕はこちらのほうがしっくりきます。

人間は自然を神さまとして崇めてきましたが、人間もまた、自然の分身。
そう考えると、やっぱり神さまとは、人間一人ひとりの心の中にいるのかもしれません。

http://diamond.jp/articles/-/76380

             <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

神社と大社と神宮の違い - 伝統

2015/10/31 (Sat) 19:14:17


         *『日本の神さまと上手に暮らす法』中村真・著(P209~213)より

(1)「神宮」とつくのは天皇を祀っている神社。
   代表格の伊勢神宮に祀られているのは、天皇の祖先神である天照大御神。

(2)「大社」とつくのは、国津神が祀られていた神社のうち、もともと勢力が大きかったところ。
   代表格として、出雲大社、他に宗像大社、熊野本宮大社などがある。

(3)「神明社」とつく神社には天照大御神が祀られていることが多く、
   明治以降につくられた名称が多い。



《神社の"2大メジャー"は、八幡さまとお稲荷さん》

(1)八幡宮(八幡神社)はおよそ4万社、稲荷神社は3万社ほどもあるのだといわれています。
   八幡さまは戦いの神さま、お稲荷さんは商いの神さま。


(2)八幡さまの総本山である大分県の宇佐神宮に祀られているのは、応神天皇と神功皇后。
   応神天皇は第15代天皇であり、文武両道といわれた戦いの神様でもあるとされて
   います。

   応神天皇の霊を「御霊分け」でいただいて全国各地で祀ったのが、
   4万を超える八幡宮だというわけです。

   そんな八幡宮が広がったのは、戦国時代のこと。
   当時は戦いが一生をかける仕事だったため、どこの国の殿さまも
   自分の領土に戦いの神さまをお祀りし、武将たちは熱心に祈願していたのです。


(3)その後、徳川家康が天下を取って江戸時代が始まると平和が訪れ、
   人々の仕事は戦いから商売へ。

   武士は引き続き八幡さまにお参りしていたとはいえ、そんなことから以後は
   商売繁盛のお稲荷さんが庶民の人気を集めていきます。

   なお稲荷神社の総本山は、京都にある伏見稲荷大社。赤い千本鳥居が有名で、
   外国人観光客の人気スポットとしても有名です。

   伏見稲荷と愛知県の豊川稲荷、佐賀県の祐徳稲荷は、三大稲荷として知られています。


   『古事記』によると、ここに祀られている宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は
   穀物の神さまで、当初は素朴な土着信仰でありましたが、それが五穀豊穣を願う
   農家の人たちの信仰を集め、江戸時代以降は商売の神さまという解釈にまで
   広がっていきました。


(4)お稲荷さんのルーツ

  ①ルーツには諸説ありますが、そのひとつが、伊勢神宮の外宮に祀られている
   豊受大御神と宇迦之御魂神は同一の神さまだというもの。

   天照大御神の食を担うために呼ばれた豊受大御神は、衣食住の神さま。
   宇迦之御魂神と守備範囲が同じで、豊受の「ウケ」と宇迦之御魂神の「ウカ」が
   近いことから、この説が生まれたということのようです。

  ②「お稲荷さん=キツネ」というイメージがあるかもしれませんが、
   キツネは祀られているわけではなく、神さまのお使いとして神社にいるのだそうです。

   しかもキツネのルーツは、552に日本に伝来した仏教と、それまで日本にあった
   素朴な自然信仰とまじりあうことになります。これが神仏混淆(しんぶつこんこう)。

   稲荷神社も神仏混淆で、もともと祀られていた宇迦之御魂神と
   仏教の荼枳尼天(だきにてん)が混淆して祀られるようになりました。

   荼枳尼天のお使い役はキツネであり、キツネに乗った女神の絵も残されていることから、
   キツネがお稲荷さんのシンボルになっていったといわれております。

  ③「お稲荷さんは怖い。お礼参りをしないと祟られる」といわれることがありますが、
   これは「キツネは霊験が強い」といわれていたから。

   特に仏教色が強い豊川稲荷は、「お参りをすると必ず応えてくれる。
   そのかわりお礼参りをしなかったら罰が与えられる」と信じられていたため、
   そこから「安易にお稲荷さんにお参りしちゃうと、その後が大変だよ」という
   俗説が広まっていったということのようです。

             <感謝合掌 平成27年10月31日 頓首再拝>

神社はあなたの最強の味方 - 伝統

2015/11/18 (Wed) 18:43:34


        *「感謝の習慣で、すべてうまくいく」佐藤伝・著(P134~136)より抜粋

今まで、お願い事をするために神社に行っていた人が多いのではないかと思います。
神社の境内に下げられた絵馬を見れば明らかですね。

しかし、本来、神社は自分の「ふるさと」へ感謝しに行くところなのです。
ふるさとというのは、お母さんのお腹のなかのことです。

神社には鳥居があって、参道があります。
参道を歩いてお宮にたどりつきます。

参道は、すなわち産道、私たちが生まれたきた道です。
お宮は、子宮を表します。


つまり神社にお参りするということは、自分たちが通ってきた産道を戻って
子宮にたどりつき、生まれた「いのち」に感謝することなのです。

「命をありがとうございます。いま、こうして生きています。
そして、いろいろと自由に選択ができています。
ありがとうございます」

私たちがどのような選択もできる自由な状態で生かされていることを感謝します。

すると、神さまは、

「そうか、この人はいろいろと選択できていることが嬉しいんだな。
では、もっともっとそうしてあげよう」

と思ってくれます。


営業マンなら、外回りをしているとき見知らぬ神社にどんどんお参りしてみましょう。
こういう習慣を持っていると、絶えず感謝の気持ちがあるから自分がぶれません。

大事なのは、見えないものに意識を向けるということです。


             <感謝合掌 平成27年11月18日 頓首再拝>

全然、知らずにお参りしてた 神社の謎 - 伝統

2016/04/28 (Thu) 20:02:24

         *「全然知らずにお参りしていた神社の謎」 合田道人・著より要約

(1)まず鳥居をくぐる前に丁寧に一礼する。
   (今から敷地内に入らせていただきます。というあいさつ)

(2)お社まで参道を歩くときは、真ん中は通らない。真ん中は神様の通り道。左側を通る。

(3)手を清める。柄杓を右手に持って水をくみ、左手にかける。左に持ち替えて右手を清める。   
   また右手に持ち替えて、左手に少量の水をとり、口をすすいで清めた後、
   左手で口を隠してそっと吐き出す。   

   左手を少し洗い流し、両手で柄杓を持って立て、残ったお水で柄を洗い流す。   
   これを1杯のお水でやる。

(4)お賽銭を入れる

  ①心の現れこそが大切だから、お賽銭の相場などというものはない。

   1000円でも100円でも5円でも本質的にはいいはずだ。
   だからこそ、日本の神道はいい。

   あえて、言っておきたい。
   10円は遠縁(とおえん)であまりよろしくない。   
   5円(ご縁)、11円(いい)、41円(よい)、45円(始終ご縁がある)、
   20円(二重にご縁)などなどがよい 。

  ②他人から借りるのではなく、自分の財布から出す。
   神様へお願いするのだから、そのぐらいのお金は自分で用意すべき。

  ③自分自身の心の表現として、お供え物であるお賽銭なのだから
   丁重な振る舞いを心がけながらお賽銭箱等へ入れるのがよい。

(5)軽く一礼する

(6)二礼、二拍手する   
   柏手は両手を合わせた後、右手を少し引いて左手の方が関節1つ分上に出るくらいで
   たたく。(左手は神、右手は人間、なので、人間を下げる)

(7)お礼をする   
   まずは住所と名前を言う。どこのだれかを伝える。   
   そして感謝を伝える。いきなりお願いをしない。   
   しっかり感謝の気持ちを伝えた後、お願いがある時はしてもよい。

   お願いごとよりも、ここへ来られたことへの「感謝の氣持ち」を伝えることが大切。

(8)深く一礼する

(9)軽く一礼する

(10)帰りも真ん中は通らず、左を通り、鳥居の前でまた一礼する。
   (伊勢神宮では通る側が外宮と内宮で違い、外宮は左側、内宮は右側なので注意)
 

氏神様へのお参りは、1日と15日、月に2回は行くのがいいそうです。

             <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

開運するための神社の作法 - 伝統

2016/05/19 (Thu) 17:40:30


     『神社の神様に聴いた天国に行ける人、行けない人』はづき虹映・著より

神社の本殿に置かれているのは、鏡。
「カガミ」から、「ガ(=我)」をとると「カミ(=神)」になる。

神殿で目をつぶって、
手の指先を上に向けてお願いするのは、残念な参拝方法。

それでは「内なる神(=自分自身)」とつながることはできません。



日頃の「罪・穢れ」を払い、清められた状態こそ、
「神」そのもの。自分自身が「神」であるということを
想い出す場のシステムが、神社なのです。


せっかく、神社の聖域の中で、
「ガ(=我)」がとれた自分(=神)と対面しているのに、

そこで目をつぶったり、難しい顔をしていては、
鏡の中の自分(=神)と対面することはできません。



神社の本殿に着いたら、合わせた手の指先を正面にある
鏡の方にまっすぐ向けて、ニッコリ笑顔でご挨拶です。

目はしっかり見開き、まずは神様の開運をお祈りします。


その後、神様に感謝を捧げて、
最後に自らの夢やビジョン、目標を高らかに宣言します。


間違っても、「~ように」と神様にお願いしてはいけませんよ。


「~します!」と力強く宣言すること。

その後、「私も精一杯、顔晴りますので、
神様の後押しをよろしくお願いいたします」とつけ加えます。

基本、これでOK!

          (http://ameblo.jp/hazuki-kouei/entry-12106400831.html

             <感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>

第六感的神社めぐり - 伝統

2017/02/14 (Tue) 18:11:05


       *「「第六感」で決めると、すべてに迷わなくなる!」
         普天間 直弘・著(P68~73)より

(1)きちんと自分の名前と素性をのべること。
   「ご挨拶に来ました」だけでもかまいません。

(2)鳥居の内と外の空気感やエネルギーの違いを感じます。
   それには、参道の右から歩くのか、左から歩くのかを意図的に決めます。
   ”Feel(感じる=感覚)で選択します。

(3)神社での参拝は禊ぎのためです。
   参道を歩きながら現世の垢をどんどん落とすのです。

   そのためにも自分のベストなライン(道)をちゃんと取って歩くほうが、
   いちばん垢が落ちやすいと感じるのです。

   そのような心持ちで歩いていると、本殿の前に到着するころには、
   ほぼ禊ぎが終わった状態になります。

(4)二礼二拍のときの「二拍」のことを、私は《エネルギーセロの状態になる》と
   解釈しています。

   右手はエネルギーを出す手、左手は吸う手と言われています。
   両手を合わせることで足してゼロになる。
   つまりゼロのエネルギーが生じる場がそこにできるのです。

   そのゼロのエネルギーの状態で、自分の胸の前で両手を合わせる ―― 。
   そのためにも静かに、心の浄化とともに本殿と向かい合うことです。

(5)神社参拝も誰かの家を訪問するのも同じです。
   どうぞ意識を丁寧に定めて、清々しい気持ちでお参りを楽しんでみてください。

             <感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>

御蔭が多い参拝方法 - 伝統

2023/07/26 (Wed) 13:06:55

御蔭が多い参拝方法
伊勢ー白山 道(2023-07-26)
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9ca461e7a25cfaf3cb819f1ecaaeef8a

         <感謝合掌 令和5年7月26日 頓首再拝>

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