伝統板・第二

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乃木将軍 - 伝統

2015/09/13 (Sun) 04:46:43

今日(9月13日)は、
乃木希典将軍と妻静子夫人は明治帝に殉じて自刃を遂げられた日です。

・・・

          *Web「乃木神社」より抜粋

大正元年(1912)9月13日、
この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。


午前8時、乃木将軍と静子夫人は記念写真を撮り、9時宮中に参内。

午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。

そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。

この時乃木将軍御夫妻は明治天皇の後を追って亡くなったのです。


乃木将軍64歳、静子夫人54歳。

御夫妻が亡くなった2階の部屋のテーブルには9月12日付で、
乃木将軍が次の人々に宛てた遺言書が置かれていました。

湯地定基(静子夫人の兄)殿、大館集作(乃木将軍の末弟)殿、
玉木正之(乃木将軍の次弟・正誼の子)殿、そして「静子どの」・・・


9月18日の葬儀は、約20万の人々が見守る中で行われました。


・・・・

 ☆ 谷口雅春先生による「乃木希典大将を偲ぶ」

   『一将功成りて萬骨枯るという語があったように思うが、決してそうではない
   のである。一将陽徳いよいよ重厚となり、味わい深きものとなるのである。

   日露戦争の旅順の二○三高地の戦いに、乃木希典将軍の武名愈々高く輝けども、
   将軍は二児を失ったし、二児どころではない、多くの、名も明らかに記憶されて
   いない兵卒たちが、その尊き生命をこの戦いに献げたのである。

   多くの隠れたる兵卒の犠牲の上に乃木将軍の武名と功業が輝いたが、
   それを本当に知って申訳なさにひそかに慟哭していられた乃木将軍は、
   明治大帝の大喪の報せを聞くと同時に、将軍夫妻して大帝の跡を追うて
   殉死せられたのであった。

   その家と部屋とは歴史的遺産として東京赤坂の乃木神社の境内を含む隣地に
   大切に保管せられているのである』

          ~ 明窓浄机 56年5月号 ~
  


<参考Web>

(1)「明治天皇と乃木希典」については、

   「本流宣言掲示板」~「明治天皇崩御100年」の子記事

   「打算なき武士(乃木希典)に皇孫の教導を託す (11681) 2012年07月28日」

   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583


(2)「光明掲示板・第一」~「乃木大将今昔」(by ”童子 さま”)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=999


(3)「光明掲示板・第二」~「乃木希典将軍 (594)」

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=186


(4)「光明掲示板・第二」~Father Nogi 

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(5)「光明掲示板・第二」~昭和天皇をお育てした乃木大将 

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(6)「光明掲示板・第二」~乃木大将の「みあとしたひて」

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(7)「光明掲示板・第三」~乃木希典大将 (275)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=93


           <感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>

乃木将軍の《殉死》 - 伝統

2015/09/18 (Fri) 03:56:15


今日9月18日は、乃木将軍ご夫妻の葬儀が行なわれた日です。



《自刃前の乃木》

乃木は、大正元年(1912年)9月10日、裕仁親王、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)
及び光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、

山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう述べた。

当時10歳の裕仁親王は、乃木の様子がいつもとは異なることに気付き、
「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞いたという。


《自刃》

大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬が行われた日の午後8時ころ、
妻・静子とともに自刃して亡くなった。

当時警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、
遺体の状況等について詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、
乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。

(1)乃木は、大正元年(1912年)9月13日午後7時40分ころ、
   東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、

   日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、
   軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、
   迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

(2)将軍(乃木)はあらかじめ自刃を覚悟し、12日の夜に『遺言条々』を、
   13日に他の遺書や辞世等を作成し、心静かに自刃を断行した。

(3)夫人(静子)は、将軍が割腹するのとほとんど同時に、
   護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、
   将軍にやや遅れて絶命した。

(4)乃木は、いくつかの遺書を残した。
   そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に
   連隊旗を奪われたことを償うための死である旨を述べ、
   その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた。

   「自分此度(このたび)御跡を追ひ奉り自殺候処、
   恐れ入り候儀、その罪は軽からず存じ候」。

   10カ条の遺書は最初にそう慚愧(ざんき)の念をあらわしたあと、
   35年前の西南戦争で軍旗を失い、死を決したこと、

   「皇恩の厚き」のために命をながらえたが、すでに老境に入り、
   今度の崩御で「覚悟相定め」たこと- が記されていた。



   乃木は、以下のような辞世を残した。

      神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる

      うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり


   また、妻の静子は、

      出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき


   という辞世を詠んだ。


   なお、乃木の遺書には、遺書に記載されていない事柄については
   静子に申しつけておく旨の記載等があり、
   乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提とした。


《乃木自刃に対する反応》

乃木の訃報が報道されると、多くの日本国民が悲しみ、
号外を手にして道端で涙にむせぶ者もあった。

乃木を慕っていた裕仁親王(後の昭和天皇)は、乃木が自刃したことを聞くと、
涙を浮かべ、「ああ、残念なことである」と述べて大きくため息をついた。


乃木の訃報は、日本国内にとどまらず、欧米の新聞においても多数報道された。
特に、ニューヨーク・タイムズには、日露戦争の従軍記者リチャード・バリーによる
長文の伝記と乃木が詠んだ漢詩が2面にわたって掲載された。

日露戦争の時に第3軍に従軍していた記者スタンレー・ウォシュバンは乃木の殉死の報を聞いて、
『乃木大将と日本人』(原題『Nogi』)を著し故人を讃えた。

              ・・・

乃木夫妻の葬儀は、1912年(大正元年)9月18日青山斎場で行われた。

乃木邸から斎場に向かう夫妻の棺を、
それまで行われた如何なる高位顕官の国葬よりも多くの人々が見送った。

沿道に並ぶ人々の多さは、東京開市以来最大であった。

葬列には学習院生徒と廃兵が加わっていた。
 
沿道に並ぶ人々は、乃木大将の棺が近づくと、粛として声なく厳粛に稀代の忠臣を見送った。

しかし、次に夫人の棺が近づいてくると、群衆は一変し、
合掌礼拝し、嗚咽し、ことごとく涙を流したという。


次世代の党 西村眞悟は昨年、次のように述べておりました。

   昭和の敗戦による自虐史観の中で、乃木希典を時代遅れの愚将とし
   乃木流が軍隊を堕落させたようにいう人々がいる。
 
   しかし逆だ。
 
   乃木希典を忘れたから堕落したのだ。
 
   乃木希典を忘れたから我が国は弱体化しているのだ。


<参考Web:乃 木 希 典 の 殉 死
       → http://www.geocities.jp/kyoketu/6158.html >

           <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

乃木将軍殉死の日 - 伝統

2016/09/13 (Tue) 04:49:04

今日(9月13日)は、
乃木希典将軍と妻静子夫人は明治帝に殉じて自刃を遂げられた日です。

・・・

<参考Web>

(1)「明治天皇と乃木希典」については、

   「本流宣言掲示板」~「明治天皇崩御100年」の子記事

   「打算なき武士(乃木希典)に皇孫の教導を託す (11681) 2012年07月28日」

   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583   (既に消滅)


(2)「光明掲示板・第一」~「乃木大将今昔」(by ”童子 さま”)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=999   (既に消滅)


(3)「光明掲示板・第二」~「乃木希典将軍 (594)」

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=186


(4)「光明掲示板・第二」~Father Nogi 

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=196


(5)「光明掲示板・第二」~昭和天皇をお育てした乃木大将 

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=221 


(6)「光明掲示板・第二」~乃木大将の「みあとしたひて」

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=239


(7)「光明掲示板・第三」~乃木希典大将 (275)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=93


           <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

乃木将軍と「中朝事実」 - 伝統

2016/09/26 (Mon) 03:54:46


       *Web:草莽崛起(2011/11/24)
            ~日本のリーダー必読の書「中朝事実」  より

     
日露戦争の英雄乃木大将は「中朝事実」を座右の書とし、
山鹿素行を終生の師として仰慕していたという。

明治45年7月30日、明治天皇が崩御され、大正元年9月13日に御大喪が行われることとなった。

その2日前、学習院院長であった乃木大将は皇太子殿下(後の昭和天皇)の御殿に伺候し、
永のお暇乞いの際、本書を献上し本書を熟読されんことを言上したという。

昭和59年は天皇・皇后のご成婚60年の目出度い年であったが、
この年の正月に日本橋三越本店で産経新聞社主催の「天皇」展が開催された。
その展示物の中に乃木大将が献上した本書上下2冊があった。

・・・

「中朝事実」で示された思想 

江戸時代の初期、儒学が流行しシナのものは何でも優れ日本のものは劣る、
というシナかぶれの風潮があった。

また、儒教的世界観では、シナ帝国が周辺の野蛮人の国よりも勢力も強く、
倫理的にも優れるという 中華思想が根本にあった。


素行はこの書で、この中華思想に反論した。
当時シナは 漢民族の 明朝が滅んで、
万里の長城の北の野蛮人の 満州族が皇帝の 清朝となっていた。
また歴史を見ると、シナでは王朝が何度も替わり家臣が君主を弑することが何回も行われている。

シナは国力が強くもなく、君臣の義が守られてもいない。

これに対し日本は、外国に支配されたことがなく、
万世一系の天皇が支配して君臣の義が守られている。

シナは中華ではなく、日本こそが中朝(中華)であるという素行の思想が、この書の主張である。

・・・

「中朝事実」を著した山鹿素行 

山鹿素行は浪人の山鹿貞以を父に現在の会津若松に生まれた。
寛永5年(1628年)6歳で江戸に出る。

寛永7年、9歳のとき 大学頭を務めていた 林羅山の門下に入り 朱子学を学び、

15歳からは 小幡景憲、 北条氏長の下で 軍学を、廣田坦斎らに 神道を、
それ以外にも 歌学など様々な学問を学んだ。

特に漢学においては15歳で既に一家をなしており、
将軍家光にその才を認められ登用の話があったが家光の死去により叶わなかった。
各藩から召抱えの話が出たがこれを固辞していた。

しかし「人生意気に感ず」として千石で赤穂藩主浅野長友に仕えることとなり、
約9年間赤穂藩で文武両道を藩士に教えた。39歳の時、致仕して江戸へ戻った。

44歳の時、「聖教要録」を著し 朱子学を批判した。
朱子学は江戸幕府の公認の学問であり、
これに反したということで 赤穂藩へお預けの身となった。

赤穂藩は幕府に遠慮せず大石内蔵助をはじめ藩士の教育を素行に依頼したのである。
54歳の時、許されて江戸へ戻り64歳で亡くなるまで積徳堂で弟子を指導した。

素行6世の孫、山鹿素水の門から吉田松陰が出ており、
素行の教えは後世の日本に大きな影響を与えている。

赤穂蟄居の折、著したのが「中朝事実」である。

本書を著すことにより素行自身、日本的自覚に達し日本精神を以て
一切の指導原理とする信念を確立したという。

・・・

<参考Web>

(1)ねずさんの ひとりごと~日本こそアジアの盟主・・・山鹿素行 (2009/12/19)
   → http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-735.html

(2)山鹿素行の履歴考
   → http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/yamagasokoco/rireki.html

(3)光明掲示板・伝統・第一「山鹿素行「中朝事実」」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=107

(4)伝統板・第二「山鹿素行」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6492809

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

裕仁親王殿下の仁政を願って伝授された『中朝事実』 - 伝統

2016/10/11 (Tue) 03:58:36


             *Web より

いまから百年前の明治四十五(一九一二)年七月三十日、明治天皇が崩御され、
九月十三日青山の帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われました。

午前八時、明治天皇の柩が、神宮外苑絵画館裏口に当たる臨時駅から、
京都桃山御陵に向かってご発引の砲声が轟きわたると同時に、
乃木希典将軍は赤坂の自邸で、静子夫人と共に自刃し、明治大帝の御後を慕っていったのでした。


その二日前の九月十一日、乃木は東宮御所へ赴き、
皇太子裕仁親王殿下(後の昭和天皇)だけにお目にかかりたいと語りました。

当時、乃木は学習院長、御年満十一歳の皇太子殿下は学習院初等科五年生でした。

以下、そのときの模様を大正天皇の御学友、
甘露寺受長氏の著書『背広の天皇』に基づいて紹介します。
 

乃木は、まず皇太子殿下が陸海軍少尉に任官されたことにお祝いのお言葉をかけ、
「いまさら申しあげるまでもないことでありますが、皇太子となられました以上は、
一層のご勉強をお願いいたします」と申し上げた。

続けて乃木は、

「殿下は、もはや、陸海軍の将校であらせられます。将来の大元帥であらせられます。
それで、その方のご学問も、これからお励みにならねばなりません。
そうしたわけで、これから殿下はなかなかお忙しくなられます。

──希典が最後にお願い申し上げたいことは、
どうぞ幾重にも、お身体を大切にあそばすように──ということでございます」
 
ここまで言うと、声がくぐもって、しばらくはジッとうつむいたきりでした。
頬のあたりが、かすかに震えていました。
 
顔をあげた乃木は、

「今日は、私がふだん愛読しております書物を殿下に差し上げたいと思って、
ここに持って参りました。『中朝事実』という本でございまして、
大切な所には私が朱点をつけておきました。

ただいまのところでは、お解りにくい所も多いと思いますが、
だんだんお解りになるようになります。
お側の者にでも読ませておききになりますように──。

この本は私がたくさん読みました本の中で一番良い本だと思いまして
差し上げるのでございますが、殿下がご成人なさいますと、この本の面白味が
よくお解りになると思います」
 

自刃を決意し、乃木が最後の仕事として是非とも皇太子殿下に伝授しておきたかったのが、
山鹿素行『中朝事実』だったのです。

乃木は、その三日前の九月八日には、椿山荘に赴いて、山縣有朋(枢密院議長)に
自ら中朝事実を抜書した「中朝事実抜抄」を手渡し、大正天皇に伝献方依頼しています。


さて、乃木の様子がなんとなく、いつもと違った感じなので、
皇太子殿下は、虫が知らせたのでしょうか、
「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」とお尋ねになりました。
 
すると、乃木は一段と声を落して、

「はい──私は、ただいま、ご大葬について、英国コンノート殿下のご接伴役を
おおせつかっております。コンノート殿下が英国へお帰りの途中、
ずっとお供申し上げなければなりません。

遠い所へ参りますので、学習院の卒業式には多分出られないと思います。
それで、本日お伺いしたのでございます」と、お答えした。


それから六十六年を経た昭和五十三年十月十二日、
松栄会(宮内庁OB幹部会)の拝謁があり、
宮内庁総務課長を務めた大野健雄氏は陛下に近況などを申し上げる機会に恵まれました。

大野氏が

「先般、山鹿素行の例祭が宗参寺において執り行われました。
その際、明治四十年乃木大将自筆の祭文がございまして、私ことのほか感激致しました。
中朝事実をかつて献上のこともある由、聞き及びましたが……」と申し上げると、

陛下は即座に、

「あれは乃木の自決する直前だったのだね。自分はまだ初等科だったので
中朝事実など難しいものは当時は分からなかったが、二部あった。
赤丸がついており、大切にしていた」

と大変懐しく、なお続けてお話なさりたいご様子でしたが、
後に順番を待つ人もいたので、大野氏は拝礼して辞去したといいます。

(坪内隆彦 「日本こそが中国だ」と叫んだ山鹿素行(明日のサムライたちへ)

『月刊日本』の許可を得て一部転載
http://gekkan-nippon.com/?p=4148
 
http://www.asyura2.com/12/senkyo133/msg/451.html より転写)

           <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

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