伝統板・第二

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二宮翁夜話 巻之四 - 夕刻版

2015/09/11 (Fri) 19:57:17


スレッド「二宮尊徳(二宮金次郎)③ 」からの継続です。
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6543350

・・・

二宮翁夜話 巻之四~その1


尊徳先生はおっしゃった。


論語に曰く、

信なればすなわち民任ずと、

子どもが母を信ずることは、自分がどれほど大切と思っている物でも、疑いなく預けるものである。
これは母の信が、子どもに通じているからである。

私が先君に対するのもまた同じだった、

私に桜町仕法を委任するにあたって、
先君は心組みの次第を一々申し立てるに及ばない、
年々の収入支出の計算をするに及ばない、
10ヶ年の間お前に任せおくということであった。

これが私が一身をゆだねて、桜町に来た理由である。

さてこの地に来て、いかにしようかと熟考するに、
皇国を開闢された昔、外国から資本を借りて、開いたわけではない。

皇国は、皇国の徳沢にて開いたに相違ない事を明かにしたため、
本藩から助成金を謝絶し、近郷の富豪に借用を頼むことなく、
この4000石の地の外を、海外とみなして、

われ神代の古えに、豊葦原へ天降ったと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそが、
天照大御神の足跡であると思い定めて、一途に開闢元始の大道によって、勤め励んだのである。

開闢の昔、芦原に一人天降ったと覚悟する時には、
流水にみそぎをしたように、潔い事は限りない。

何事をなすにもこの覚悟を極めるならば、依頼心もなく、卑怯卑劣の心もなく、
何を見ても、うらやましい事もなく、心中清浄であるために、
願いとして成就しないという事はないという場に至るのである。

この覚悟は、事を成すの大本であり、私の悟道の極意である。

この覚悟が定まれば、衰えた村を起すのも、廃家を興すのも大変やさしい。
ただ、この覚悟一つである。


・・・

<関連Web:光明掲示板・第三「傳記 二宮尊徳」>

   <傳記 二宮尊徳 ①>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

   <傳記 二宮尊徳 ②>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

   <傳記 二宮尊徳 ③>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=483

   <傳記 二宮尊徳 あとがき>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=546



<関連Web:光明掲示板・伝統・第一「二宮尊徳(二宮金次郎) (72)」
      http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=45

       伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)①」
      http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6457816 

       伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)②」
      http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6511555 >


            <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その2 - 伝統

2015/10/05 (Mon) 17:52:16


尊徳先生はおっしゃった。

惰風が極まって、汚俗が深く染まった村里を新たにする方法は、大変困難な事業である。
なぜかといえば、法も戒めることはできない。
命令も行うこともできない。
教え施すことができない。

これを精励におもむかせ、これを義に向わしめるのは大変困難なことではないか。
私が昔桜町陣屋に来て、配下の村々も遊惰や汚俗でどうにもいたしかたがない。

そこで、私は深夜あるいは未明に、村里を巡り歩いた。
遊惰を戒めるわけではない、朝寝を戒めるわけでもない、可否を問わず、勤惰を言わず、
ただ自らの勤めとして、寒暑風雨であっても怠ることがなかった。

1月2月たって、初めて足音を聞いて驚く者があった。
また足跡を見てあやしむ者があった。
また現に出逢う者があった。

これより共に戒める心を生じ、畏れる心を抱き、
数月で、夜遊び博奕や闘争等のごときはもちろん、
夫妻の間、雇い人どおしの交りに、叱責の声が無くなった。

諺に、

権平種を蒔けば烏これを掘る、三度に一度は追わずばなるまい、

という。

これ田舎のことわざ、戯言といっても、有職の人は知らなければならない。
烏が田畑を荒すのは、烏の罪ではない、
田畑を守る者が追わない過ちである。

政道を犯す者が有るのも、官がこれを追わない過ちのためである、
これを追う道も、また権兵衛が追うのをもって勤めとして、
捕えるのをもって本意としないように、ありたいものだ。

これは戯言とはいっても政事の本意にかなっている。
田舎のことわざといっても、心得ておかなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年10月5日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その3 - 伝統

2015/10/15 (Thu) 19:20:24


尊徳先生はまたおっしゃった。

田畑が荒れている罪を惰農のせいにし、人口が減ずるのは、
産まれた子を育てない悪弊に帰するのが、普通の論であるが、
どうして愚かな民なればとて、ことさらに田や畑を荒して、自ら困窮を招く者があろうか、
人はけだものではない。

どうして親子の情がないであろうか。
しかるに産まれた子を育てないのは、食が乏しくて、生育が遂げ難いからである。

よくその実情を察するならば、あわれなことはこれより甚しいことはない。
その元は、税金が重いのに耐え切れないから、田や畑を捨てて作らなくなること、
民政が届かないで堤防や溝や道や橋が壊れて、耕作ができがたいこと、
バクチが盛んに行れて、風俗が頽廃して、人心が失せはてて、耕作をしないことの3つである。

耕作しないために、食物が減ずる、食物が減ずるために、人口が減ずる、
食があれば民が集まり、食が無ければ民は散ずる、
古語に、重ずるところは民の食・葬・祭とある。

もっとも重んずべきは民の米櫃(こめびつ)である。

たとえばこの坐に蠅を集めようとすれば、
どれほど捕えて来て放っても追い集めても、決して集めることはできない。

しかるに食物を置く時は、心を用いないですぐに集まる、
これを追い払っても決して逃げ去る事がないのは眼前の事実である。

そうであればこそ、聖語に、食を足らすとあるのだ。

重んずべきは人民の米櫃である。

あなたたちはまた自分の米櫃が大切である事を忘れてはならない。

            <感謝合掌 平成27年10月15日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その4 - 伝統

2015/10/17 (Sat) 19:28:46


ある人が来て先生を訪問した。

尊徳先生はおっしゃった。


だれそれの家は無事であるか。

ある人は答えた。

父親が家業に勤労する事は、村内無比でした。

ですから収穫が多く豊かに営んで来ましたが、その子は悪い事はないのですが、
家業を勤めないで、耕耘や培養が行き届かないで、ただ蒔いては刈り取るだけで、
よい肥料を用いるのは損であるなどと言って、田畑を肥やすことの益を知りません。

ですから父親が死して、わずかに4,5年ですが、
上田も下田となり、上畑も下畑となって、収穫もあがらず、
今日にいたって生計にもさしつかえるようになっていますと。

尊徳先生は左右に侍していた門弟達をかえりみておっしゃった。

きみら、聞いたか。

これは農民一家の事ではあるが、自然の大道理であって、
天下国家の興廃や存亡もまた同じである。

肥料を用いて作物を作るのと、
資材を散じて領民を撫育して、民政に力を尽すとの違いだけである。

国の廃亡するのは民政の届かないことにある。
民政が届かない村里は、堤防や溝がまず破損し、道路橋梁が次に破壊し、
野の橋や作場道等は通路がないに至るのである。

堤防や溝が破損すれば、川の側の田畑はまず荒れはてる。
用水路が破壊すれば、高い田や低い田は耕作ができなくなる。
道路が悪ければ牛馬は通じないから、肥料が行き届かないで、
精農の者であっても、力を尽すに困却してしまう。

このため耕作するといっても収穫がない。
だから人家から遠く、不便の地は捨てて耕かさなくなってしまう。
耕さないから、食物は減ずる。
食物減ずるために、人民は離散するのだ。

人民が離散して、田畑が荒れれば租税が減ずるは眼前ではないか。
租税が減ずれば、諸侯が窮するのは当然の事である。

前の農家の興廃と少しも違う事はない。
きみら心を用いるがよい。

たとえば上国の田畑は温泉のようなものだ。
下国の田畑は、冷水のようだが、上国の田地は耕耘がゆき届かなくても、
収穫のある事は温泉が自然に温かなようなものだ。

下国の田畑は冷水を温湯にするようであるから、
人力を尽すならば収穫があっても、人力を尽さなければ収穫はない。
下国辺境の人民は離散し、田畑が荒蕪するはこのためである。

            <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その5 - 伝統

2015/10/20 (Tue) 19:44:58


尊徳先生がおっしゃった。

江川県令が私に問うたことがあった。

あなたは桜町を治めること数年で、年来の悪習が一洗し、
人民は精励におもむいて、田野が開け、民集まると聞いています。
感服の至りです。

私(江川)は支配所のために、心を労して久しいのですが、少しもその効果が得られないのです。
あなたはどのような術を施されているのですか。


私は答えて言った。

あなたには領主としての御威光がありますから、
事を為すことはなはだやさしいことでしょう。

私はもとから無能・無術ですが、ご威光でも道理を説いても、
行われないところの、ナスをならせ、大根を太らせる事業を、確かに心得ておりますから、
この理を法として、ただ勤めて怠らないだけです。

草野は一変すれば米となります、
米が一変すれば飯となります、
この飯には、無心の鶏や犬でも、走まり集りきたって、尾を振れといえば尾を振り、
回れといえば回り、ほえよといえばほえる、鶏や犬が無心であるのにこうである。

私はただこの理を推して、下に及ぼし至誠を尽しているだけです。

別に術があるわけではありませんと答えた。

このことから私が年来実地に執り行った事を談話する事6,7日に及んだ。
(江川氏は、)よくあきることなく聴かれていた。

さしずめ支配所のために尽されたことであろう。

            <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その6 - 伝統

2015/10/22 (Thu) 20:03:25


尊徳先生はおっしゃった。

私の道は至誠と実行のみである。
だから鳥、獣、虫、魚、草木にも皆及ぼすことができる。

いわんや人においては当然である。
だから私の道は才智や弁舌を尊ばない。

才智や弁舌は、人には説くことができても、鳥獣や草木を説くことはできない。
鳥獣は心あるから、あるいは欺くことができるかもしれない。
しかし、草木をも欺くことはできない。

私の道は至誠と実行であるがゆえに、米、麦、蔬菜、瓜、茄子でも、
蘭や菊の花でも、皆これを繁栄させることができる。

たとえ知謀が諸葛孔明を欺き、弁舌が蘇秦・張儀を欺くことができても、
弁舌を振って草木を栄えさせる事はできないであろう。
だから才智や弁舌を尊ばず、至誠と実行を尊ぶのである。

古語に、至誠神のごとしというが、至誠はすなわち神であるといってもよい。
およそ世の中は智慧があっても学問があっても、
至誠と実行とがなければ事は成ないものとしらなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年10月22日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その7 - 夕刻版

2015/10/24 (Sat) 19:59:10


尊徳先生はおっしゃった。


朝夕に善を思っても、善事をなさなければ、善人といえないのは、
昼夜に悪を思っても、悪をなさなければ、悪人ということができないようなものだ。

だから人は、悟道や治心の修行などに時間を費やすよりは、
小さな善事であっても身に行うことを尊いとする。

善心をおこすときは速やかにこれを事業にあらわすがよい。

親がある者は親を敬い養なうがよい。
子どもがある者は子どもを教育するがよい。
飢えた人を見て哀れと思ったら、すぐに食を与えるがよい。

悪い事をしてしまった、自分が過っていたと気づいたら、改めなければ仕方がない。
飢えた人を見て哀れと思っても、食を与えなければ仕方がない。

だから私の道は実地実行を尊ぶのだ。
世の中の事は実行するのでなければ、事はならないものだからである。

たとえば菜虫の小さいものを求めても得ることはできない。
しかし野菜を作れば求めなくても自ら生ずる、
ボウフラの小さいものを求めても得ることはできない、桶に水を溜めれば自ら生ずる、
今この席に蠅を集めようとしても、決して集らない。

捕えて来てはなっても、皆飛びさってしまう、
しかし飯粒を置く時は集めなくても集まるものである。

よくよくこの道理をわきまえて、実地実行を励みなさい。

            <感謝合掌 平成27年10月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その8 - 伝統

2015/10/26 (Mon) 19:32:37


尊徳先生はおっしゃった。


およそ物の根元であるものは、必ず卑しきものである。
卑しいからといって、根元を軽視するのは過ちである。

家屋のように、土台があってその後に、床も書院もあるようなものだ。
土台は家の元である。

これ民は国の元である証拠である。
さて諸職業の中で、また農をもって元とする、

なぜかといえば、自ら作って食べ、自ら織って着る道を勤るからである。
この道は、一国ことごとくこれを行って、さしつかえることがない事業だからである。
そのような大本の業が賤しいのは、根元であるためである。

およそ物を置くときに、最初に置いた物が、必ず下になり、
後に置いた物が、必ず上になる道理であって、
これがすなわち農民は、国の大本たるがために賤しいのである。

およそ事、天下一同これを行って、さしつかえない事業だから大本なのである。

官員の顕貴であっても、全国皆官員となれどどうだ、必ず立ちゆかない。
兵士が貴重だからといって、国民がことごとく兵士となれば、同じく立ちゆかない。
工は欠くことができない職業であるが、全国皆工となれば、必ず立ちゆかない。
商となるのもまた同じである。

しかるに農は、大本であるから、
全国の人民が皆農となってもさしつかえることなく立ちゆきであろう。

そうであれば農は万業の大本である事は、これよって明了である。
この理を究めれば、千古の惑いは破ぶれ、大本が定って、末業は自ら知るであろう。

だから天下一般これ行って、さしつかえるのを末業とし、
さしつかえのないのを本業とするのが、公明の論ではなかいか。

そうであれば農は本である。
厚くしなければならない。
養わなければならない。

その元を厚くし、その本を養えば、その末は自ら繁栄する事は疑いない。
さて枝葉といってもみだりに折ってはならないが、その本根が衰える時は、
枝葉を伐り捨てて根を肥すのが、培養の方法である。

            <感謝合掌 平成27年10月26日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その9 - 伝統

2015/10/28 (Wed) 18:59:30


尊徳先生がおっしゃった。


創業は難しい、守るはやさしいと、
守るのがやさしいというのは論なしといっても、
満ちたる身代を、平穏に維持するのもまた困難なことである。

たとえば器に水を満たして、これを平に持っておれと、命ずるようなものだ。
器は無心であるから、傾く事はあっても、持つ人の手が疲れるか、空腹になるか、
必ず長く平らに持っていることはできないのと同じだ。

さてこの満を維持するは、至誠と推譲の道にあるといっても、
心が正平でなければ、これを行うにあたって、手違いが生じ、
折角の至誠と推譲も水泡に帰する事がある。

大学に、心忿ち(怒る)する所、恐懼する所、
好楽する処、憂患する処あれば、すなわちその正を得ず、といっている。
まことにそのとおりだ。

よく心得なければならない。

よく研いた鏡も、中がくぼんでいる時は顔が痩せて見へ、中が高い時は顔太って見える。
鏡面が平らでなければ、よく研いだ鏡もそのかいがなく、顔がゆがんで見えるのと同じことだ、

心が正平でなければ、見るのも聞くのも考えも、皆ゆがんでしまうであろう。

慎まなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年10月28日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その10 - 伝統

2015/10/30 (Fri) 20:07:31


世の中で刃物を取ったりやったりするのに、刃の方を自分の方へ向けて、
柄の方を先の方にして出す、これが道徳の本意である。

この意をよく押し弘めるならば、道徳は完全となるであろう。

人々がこのようであれば、天下は平和となるであろう。

刃先を自分の方にして先方に向けるという、その心は、
万一誤りがある時、自分の身には疵を付けても、他に疵を付けるまいという心である。

万事このように心得て自分の身上をば損じても、他の身上に損を掛けるまい、
自分の名誉は損じても、他の名誉には疵を付けまいという精神であれば、
道徳の本体が全しというべきである。
これから先はこの心を押し広めればいいのだ。

            <感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その11 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 19:23:49


尊徳先生はおっしゃった。


人の身代はおおよそ数のある物である。

たとえば鉢植の松のようなものだ。
鉢の大小によって、松にも大小がある。
緑を延び次第にする時は、たちまち枯気づくものである。

年々に緑をつんで、枝をすかしてこそ美しく栄えるのである。
これは心得ておかなければならないことだ。

この理を知らないで、春は遊山に緑を延し、秋は月見に緑を延ばし、
このように、よんどころない交際といっては枝を出し、親類の付合いといっては梢を出し、
分外に延び過ぎて、枝葉が次第に殖えゆくのを、伐り捨てない時は、
身代の松の根が、次第に衰えて、枯れ果ててしまうであろう。

そうであるからその鉢に応じた枝葉を残して、
不相応の枝葉を年々伐りすかさなければならない。

もっとも大事な事である。

            <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その12 - 伝統

2015/11/04 (Wed) 19:14:07


尊徳先生はおっしゃった。


樹木を植えるのに、根を切る時は、必ず枝葉をも切り捨てるべきである。

根が少くて水を吸う力が少なければ、枯れる物である。
大いに枝葉を切りすかして、根の力に応じなければならない。
そうしなければ枯れるであろう。


たとえば人の身代の稼ぎのある人が欠ければ、家株が減ずるのは、
植え替えた樹が、根が少くて水を吸い上げる力が減じたようなものだ。
この時は仕法を立てて、大いに暮し方を縮めなければならない。

稼ぎ人が少い時に大いに暮せば、身代は日々に減少して、終に滅亡に至るのである。
根が少くて枝葉が多い木が、終に枯れるのと同じだ。
どうにも仕方がない。

暑中であっても、木の枝をおおかた切り捨てて、
葉を残らずはさみで取って、幹をコモで包んで植え、
時々このコモに水をそそぐ時は、枯れないものだ。

人の身代もこのとおりだ。

心を用いなければならない。

            <感謝合掌 平成27年11月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その13 - 伝統

2015/11/06 (Fri) 19:08:13


尊徳先生はおっしゃった。


樹木も老木となれば、枝も葉も美しくはない。
痿縮して衰えるものである。

この時大いに枝や葉を切りすかすならば、来春は枝や葉もみずみずしく、美しく出るものである。

人々の身代もこれと同じだ。

初めて家を興す人は、自ら常人と異っているから、100石の身代で50石で暮しても、
世の人が許すであろうけれども、その子孫となれば、100石は100石だけ、
200石は200石だけの交際をしなければ、家内も召使も他人も承知しないものである。

だからついに不足を生ずる、
不足を生じて、分限を引き去る事を知らなければ、必滅亡する、

これは自然の勢いであって、免れることができないところだ。


だから私は常に推譲の道を教える、
推譲の道は100石の身代の者は、50石で暮しを立てて、50石を譲ることをいう。

この推譲の法は私の教えの第一の法であって、
すなわち家産を維持し、かつ次第に増殖する方法である。

家産を永遠に維持するべき道は、この外にはない。

            <感謝合掌 平成27年11月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その14 - 夕刻版

2015/11/09 (Mon) 19:41:51



大和田山城が、楠木正成公の旗の文であるといって、
次の文を写して来て真偽はどうでしょうかと問うた。

    楠  非  は 理に勝つ事あたはず
    公  理  は 法に勝つ事あたはず
    旗  法  は 権に勝つ事あたはず
    文  権  は 天に勝つ事あたはず
       天  は 明らかに して私なし


尊徳先生はおっしゃった。


理・法・権という事は、世にいう事である。
非・理・法・権・天というのは珍らしい。

世の中はこの文のとおりである。

どのような権力者も、天には決して勝つ事はできないものである。
たとえば理があっても頼むに足りない。
権力に押される事がある。

かつ理を曲げても法は立つであろう。
権力をもって法を圧することもできよう。
しかしながら、天があることをどうしよう、

俗歌に
「箱根八里は馬でも越すが馬で越されぬ大井川」という。

そのように人と人との上は、智力でも、弁舌でも、威権でも通らば通るけれども、
天があるのをどうしよう。

智力でも、弁舌でも、威権でも、決して通る事のできないのは天である。

この理を仏教ではは無門関という。
だから平氏も源氏も長久せず、織田氏も豊臣氏も二代と続かないのである。

そうであれば恐るべきは天である、
勤めるべきは天につかえる行いである。

世の強欲な者は、この理を知らないで、どこまでも際限なく、身代を大きくしようとして、
智を振い、腕を振ったとしても、種々の手違いが起こって進む事ができず、
また権謀・威力を頼んで専ら利を計っても、同じく失敗だけがあって、
志を遂げる事ができないのも、皆天があるためである。


だから大学に、

止まるところを知れ、
と教えるのだ。

止まるところを知れば、次第に進むという理がある。

止まるところを知らなければ、必ず退歩することを免れない、
次第に退歩するならばついには滅亡するであろう。

天は明らかであって私なしという。
私がなければ誠である。

中庸に、
誠なれば明らかなり、明らかなれば誠なり、誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり、
とある。

これを誠にするというのは、私を去ることをいう。
すなわち己れに克(か)つということである。

難しい事ではあるまい。
その理がよく通っている。
その真偽については私の知るところではない。

            <感謝合掌 平成27年11月9日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その15 - 伝統

2015/11/11 (Wed) 18:42:35

ある人が問うた。

「春は花 秋は紅葉と 夢うつゝ 寝ても醒ても有明の月」
というのはどういう意味でしょうか。


尊徳先生はおっしゃった。


これは色則是空 空則是色 いう心を詠んだものだ。

色とは肉眼に見えるものをいう。天地間森羅万象これである。
空とは肉眼に見えないものをいう。
いわゆる玄の又玄というのもこれである。

世界は循環・変化の理であって、空は色を顕し、色は空に帰する、
皆循環のために変化しないものはない、これが天道である。

今は野も山も緑であるが、
春になれば、梅が咲き、桃や桜が咲き、爛漫・馥郁(ふくいく)とする。

それも見る間に散り失せて、
秋になれば、麓は染り、峰も紅葉する。実に錦やあやにもまけるまい。

そうながめるうちに、一夜木枯しが吹けば、見る影もなくなり散りはててしまう。


人もまた同じく、子供は育ち、若年は老年になり、老人は死ぬ。
○ねば、また生まれて、新陳交代するのが世の中である。
(○:死)

そうだからといって悟ったために、花が咲くのではない。
迷ったために、紅葉が散るのでもない。
悟ったために、産れるのではない。
迷ったために、死ぬのでもない。

悟っても迷っても、寒い時は寒く、暑い時は暑く、死ぬ者は死んで、生れる者は生れ、
少しも関係がないから、これを「ねても覚めても在明の月」と詠んだのである。

特別な意味があるわけではない。

ただ悟道という物も、特に益のないものだという事を、よんだのである。

            <感謝合掌 平成27年11月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その16 - 伝統

2015/11/13 (Fri) 20:11:32


神儒仏の書は、数万巻ある。

それを研究するのも、深山に入って坐禅するのも、
その道を上り極める時は、世を救い、世を益するほかに道はない。

もし有るというならば、それは邪道であろう。

正道は必ず世を益するの一つである。

たとえ学問して、道を学んでも、ここに到らなければ、むぐらやヨモギが
いたずらにはい広がったようなもので、人の世には用の無い物である。
人の世に用が無い物は、尊ぶにたらない。
広がれば広がるほど、世の害となる。

幾年の後か、聖君が出て、このような無用の書は焼き捨てる事もないはいえない。
焼き捨てる事がなくても、荒蕪を開くように、無用なむぐらやヨモギを刈り捨てて、
有用の道が広まる時節もないとはいえまい。

ともかくも人の世に益のない書は見てはならない。
自分にも他人にも益のない事はなしてはならない。

光陰は矢の如し、

人生は60年といっても、幼老の時がある、疾病がある、事故がある、
事をなす日はいたって少ないのだ。

無用の事は行ってはならない。

            <感謝合掌 平成27年11月13日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その17 - 伝統

2015/11/15 (Sun) 18:22:49


青柳又左衛門が言った。

越後の国では、弘法大師の法力によって、
石油が地中から湧き出て、今にいたっても絶えません。


尊徳先生はおっしゃった。

それは不思議といえば不思議といえようが、
ただそこの一所に過ぎない、尊ぶにたらない。
私の報徳の道はそれと異って、もっとも不思議である。

いずれの国でも、荒地を起して菜種を蒔けば、その実りを得て、
これを油屋に送るならば、種一斗で、油二升はきっとできて、永代絶えることがない。

これは皇国固有・天祖伝来の大道であって、
肉食妻帯・暖衣飽食し、智愚・賢不肖を分たず、
天下の人に、皆行うことができる。

これはこの国が開けて以来天祖相伝の大道であって、
日月の照らす限り、この世界があらん限り、間違いなく行われる道である。

そうであれば弘法大師の法に勝っていること、何万倍ではないか。
かつ私の道はまた大きな不思議がある。

一銭の財がなくて、四海の困窮を救い、
普く施し海内を豊かににしてなお余りがある法である。

その方法はただ分度を定めるの一つのみである。
私はこれを相馬、細川、烏山、下館などの諸藩に伝えた。
しかしながら、これは諸侯大家でなければ、行うことができない方法である。

この外にまた方法がある。
原野を変じて田畑となし、貧村を変じて福村となす方法である。

また愚夫愚婦をして、皆為さしむべき方法がある、
山家にいて海の魚を釣り、海浜にいて深山の薪(たきぎ)を取り、
草原より米麦を出し、争わないで必ず勝つ方法がある。

ただ一人だけ、よくさせるだけでなく、智愚を分たず、天下の人をよくさせる。
なんという妙術ではないか。
よく学んで国に帰って、よく勤めなさい。

            <感謝合掌 平成27年11月15日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その18 - 夕刻版

2015/11/17 (Tue) 18:26:07


尊徳先生がまたおっしゃった。

きこりが深山に入って木を切るのは、材木が好きで切るのではない。
炭焼が炭を焼くのも、炭が好きで焼くのではない。

きこりも炭焼きも、その職業を勤め励むならば、
白米も自然に山に登ってくるし、海の魚も里の野菜も、酒も油も皆自ら山に登ってくる。

実にありがたい世の中というべきではないか。

            <感謝合掌 平成27年11月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その19 - 伝統

2015/11/19 (Thu) 20:05:53


尊徳先生はおっしゃった。


世界は、人はもちろん、動物や虫や魚や草や木に至るまで、
およそ天地の間に、生きているものは、皆天の分身というべきである。

なぜかといえば、ボウフラでもカゲロウでも草や木でも、天地造化の力を借りないで、
人の力で生育させることはできないからである。

そして人はその長である。
だから万物の霊長というのだ。
その長である証は、動物や虫や魚や草や木を、人間が勝手に支配し、
生殺してもどこからも咎められることがない。

人間の威力は広大である。
そうであれば本来は、人間と動物と草や木と何の違いがあろう。
皆天の分身であるために、仏道では、悉皆成仏と説くのだ。
我が国は神国であるから、悉皆成神というべきであろう。

そうであるのに世の人は、生きている時は人であって、
死んで仏となると思うのは誤っている。
生きて仏であるために、死んで仏となるのだ。

生きて人であって、死んで仏となる道理はあるはずがない。
生きて鯖である魚が死んで鰹節となる道理はない。
林にある時は松であって、切られて杉となる木はない。

そうであれば生前仏であって、死んで仏と成り、
生前神であって、死んで神となるのだ。

世間で人の死んだのを祭って、神とすることがある。
これはまた生前神であるために神となるのだ。
この理は明白ではないか。

神といい、仏という。
名は異っているといっても、実は同じなのだ。
国が異っているために名が異っているだけだ。

私はこの心をよんだ歌に

「世の中は草木もともに神にこそ死して命のありかをぞしれ」

「世の中は草木もともに生如来死して命のありかをぞしれ」

ハハハ


            <感謝合掌 平成27年11月19日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その20 - 伝統

2015/11/21 (Sat) 19:04:35


尊徳先生がおっしゃった。


儒に循環といい、仏に輪廻転生という。
すなわち天理である。

循環とは、春は秋になり、暑は寒になり、盛は衰に移り、富は貧に移ることをいう。
輪転というのもまた同じだ、

そして仏道は輪転を脱し、極楽に往生する事を願い、
儒は天命を畏れて天につかえて泰山の安きを願う。

私が教える所は貧を富にし、衰を盛にし、
そして循環輪転を脱して、富盛の地に住さしめる道である。

実のなる木も今年大いに実るならば、翌年は必ず実らない物である。
これを世に年切りといい、これは循環輪転の理であるからだ。

これを人の力をもって、年切りなしに毎年実をならすには、枝を切りすかし、
また、つぼみの時につみとって花を減らし、数度肥料を用いれば、
年切りがなく、毎年同じように実るものである。

人の身代に盛衰貧富あるのは、すなわち年切りである。
親は勤め励むが子は遊惰であるとか、親は節倹だが子は驕奢だとか、
二代三代と続かないのは、いわゆる年切りにして循環輪転するからである。

この年切がない事を願うのであれば、実のなる木の方法にならって、
私が説く推譲の道を勤めるがよい。

            <感謝合掌 平成27年11月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その21 - 伝統

2015/11/23 (Mon) 19:06:56


尊徳先生はおっしゃった。

人の心からすれば、最上無類清浄と思う米も、
その米の心からすれば、糞尿の水を最上無類の好いものと思うことであろう。

これもまた循環の理である。

            <感謝合掌 平成27年11月23日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その22 - 伝統

2015/11/25 (Wed) 19:20:41


ある人が尊徳先生に言った。

「女大学」は、貝原益軒氏の著作ですが、
女子を圧すること、はなはだしぎるのではありませんか。

尊徳先生はおっしゃった。

そうではない。
「女大学」は婦女子の教訓書であって、至れり尽せりである。
婦道を説いた至宝の書というべきであろう。

このようであるときは、女子の立つべき道がないようであるが、
これは女子の教訓書であるためである。
婦女子たる者が、よくこの理を知るならば、斉わない家はあるまい。

舜(しゅん:古代中国の聖王)が瞽(こ)そう(舜の父)に仕えたのは、
すなわち子である者の道の極みであるのと同一の理である。

しかしながら、もし男子が女大学を読んで、
婦道はこのようなものであると思うのはもってのほかの過ちである。

「女大学」は女子自らの教訓であって、貞操心を鍛練するための書である。
鉄もよくよく鍛練しなければ、
折れることがなく曲ることがない刀とはならないようなものだ。

すべて教訓は皆そうなのだ、
そうであれば男子の読むべき物ではない。

誤解してはいけない。
世の中にはこの心得違いが往々にしてある。
教えはおのおの異っている。

論語を見ても知ることができよう。
君には君の教えがある、民には民の教えがある。
親には親、子には子の教えがある。

君は民の教えを学んではならない。
民は君の教えを学んではならない。

親もまた然り、子もまた然り、
君民親子夫婦兄弟皆然り、
君は仁愛を究明しなければならない。

民は忠順を道としなければならない。
親は慈愛、子は孝行、おのおの自分の道を違えなければ、天下は泰平である。

これに反するならば乱となる。

男子は、「女大学」を読んではならないというのは、このためである。
たとえば教訓は病に対する薬の処方のようなものだ。
その病によって施すものだからである。

            <感謝合掌 平成27年11月25日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その23 - 伝統

2015/11/27 (Fri) 19:42:33


尊徳先生の家に親しく出入していた者の家が、嫁と姑(しゅうとめ)となかが悪かった。

ある日その姑が来て、嫁の善からぬところを並べたててお喋べりした。

尊徳先生はおっしゃった。


これは因縁であっていたしかたがない。
堪忍するより外に道はない。
それはその方が若い時、姑を大切にしなかった報いではあるまいか。

とにかく、嫁の非を数えても益はない、自ら省みて堪忍しなければならない。
と大変つれなく言い放って帰されたことがたあった。


尊徳先生は門弟達におっしゃった。

これは善い方法である。

このように言い聞かせる時は、姑は必ず省みるところがあって、
今までの治り方が、幾分かはよくなるであろう。

このような時におざなりの事を言って、一緒になって嫁のことををわるく言う時は、
姑はいよいよ嫁と仲が悪くなる者である。

すべてこれらの事は、父子の仲を破り、嫁姑の親みを奪ってしまうものである。
心得ておかなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年11月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その24 - 伝統

2015/11/29 (Sun) 19:20:59


尊徳先生がおっしゃった。

「郭公(ほととぎす)鳴きつる方をながむれば、ただ有明の月ぞ残れる」、

この歌の心は、たとえば鎌倉の繁花(はんか:繁栄)していたというも、
今はただ跡のみ残って物淋しいありさまであると、感慨の心をよんだ歌である。

鎌倉だけではない、人々の家もまた同じである。

今日は家や蔵が建ち並んで人が多く住んでにぎやかであっても、
一朝行き違うならば、身代限りとなって、屋敷だけが残るだけになる。

恐れなければならない。

慎しまなければならない。

すべて人造物は、事ある時は皆亡んで、残る物は天造物だけである、
という心を含んで詠んだものである。

よく味わってその深意を知るがよい。

            <感謝合掌 平成27年11月29日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その25 - 伝統

2015/12/02 (Wed) 19:47:13


尊徳先生はおっしゃった。

おおよそ万物は皆一つだけでは、相続はできないものだ。

父母がなくて生ずるものは草木である。
草木は空中に半分幹や枝を発して、地中に半分根をさして生育するからだ。

地を離れて相続するものは、男女二つを結び合せて一組とする。
すなわち網の目のようなもので、
網は糸の二筋を寄せては結び、寄せては結びして網となる、

人倫もそのように、男と女とを結び合せて、相続するものである。
ただ人だけではない、
動物も皆そうである、
地を離れて相続するものは、一粒の種が二つに割れて、その中から芽を生ずる、
一粒のうちに陰陽があるようなものだ。

かつ天の火の気を受け、地の水の気を得て、地に根をさし、空に枝葉を発して生育する、
すなわち天地を父母とするのである。

世の中の人は草木が地中に根をさして、空中に育つ事を知っているけれども、
空中に枝葉を発して、土中に根を育する事を知らない。
空中に枝葉を発するも、土中に根を張るというのも一理ではないか。

            <感謝合掌 平成27年12月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その26 - 伝統

2015/12/04 (Fri) 19:40:03


尊徳先生がおっしゃった。


世間では一般に、貧富・苦楽と言って、さわぐけれども、
世間は大海のようであるから、良いも悪いもない。

ただ水を泳ぐ術が上手か下手かがあるだけである。

舟の上から用便する水も、溺死する水も水に替りはない。
時によって風に順風があり逆風があり海が荒い時があり穏かな時があるだけである。

そうであれば溺死を免がれるのは、泳ぎの術一つである。

世の海を穏やかに渡る方法は、勤勉と倹約と推譲の三つだけである。

            <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その27 - 伝統

2015/12/06 (Sun) 19:08:27


尊徳先生はおっしゃった。


およそ世の中は陰々と重なっても立たず、陽々と重なってもまた同じである。
陰陽陰陽と並び行われることを定則とする。

たとえば寒さ暑さ・昼と夜・水と火・男と女があるようなものだ。

人の歩行も、右に一歩左に一歩とすすめ、
尺取り虫も、屈んでは伸び屈んでは伸び、
蛇も、左へ曲り右に曲って、このように行く、

畳の表や莚(むしろ)のようなものも、下へ入っては上へ出て、上に出ては下に入り、
麻布の目のあらいのも羽二重の細やかなものも皆同じである。

天理だからである。

            <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その28 - 伝統

2015/12/08 (Tue) 19:43:41


尊徳先生はおっしゃった。


火を制する物は水である。

陽を保つ物は陰である。

世に富者があるのは貧者があるためである。

この貧富の道理は、すなわち寒暑・昼夜・陰陽・水火・男女、
皆互いに持ち合って相続するのと同じだ、則ち循環の道理である。

            <感謝合掌 平成27年12月8日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その29 - 伝統

2015/12/11 (Fri) 19:17:20


尊徳先生がおっしゃった。

飲食店に登って、人に酒食をふるまっても、
支払いがなければ、ご馳走したと言う事はできない。

不義の財を以てするならば、
日々三牲(牛・羊・豚)で養うとしても、どうして孝行といえようか。

禹王(うおう:古代中国の聖王)の飲食を薄くし、衣服の粗末なものを着て、
と言うようなもので、出所が確かでなければ孝行とはならない。


ある人の発句に「和らかにたけよことしの手作麦」とある。

この句はよくその情を尽している。

「和らかに」という一言に孝心が顕われ、一家和睦の姿もよく見えている。
手作麦というところに親を安んずるの心が言外にあふれている、
よい発句であるというべきだ。

            <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その30 - 伝統

2015/12/13 (Sun) 19:30:14

尊徳先生はおっしゃった。


世の中は、大も小も限りがない。
浦賀港では米を数えるのに、大船で一艘(そう)二艘と言い、
蔵前では三蔵四蔵と言う。

実に俵米で数えるのは数に入らないようである。
しかし、その米が大粒であるわけではない、通常の米である。

その粒を数えれば一升の粒は6,7万あるであろう。
そうであれば一握りの米も、その数は無量といってもよい。
ましてその米穀の功徳においてはなおさらである。

春に種を下してから、稲が生じ風雨や寒暑をしのいで、花が咲き実って、
またこきおろし、つき上げて白米とするまで、
この丹精は容易なものではない、実に粒々辛苦である。

その粒々辛苦の米粒を日々無量に食べて命を継いでいる。
その功徳は、また無量ではないか、
よく思うがよい、だから人は小さい行いを積むことを尊ぶのだ。

私が教える日課繩ないの方法のごときは、人々が疑わないで勤めるよう勧めている、
これが小を積んで大をなす方法であるからである。

一房の繩でも、一銭の金でも、乞食に施すの類ではない、
実に平等利益の正業であって、国家興復の手本なり、
大きい事業は人の耳を驚かすだけであって、人々がとても及ばないといって、
退くならば仕方が無いものだ。

たとえ退かなくても、成功は遂げがたいものである。
今ここに数万金の富者があるといっても、必ずその祖先が一鍬の功から、
小を積んで富をいたしたに相違ない。

大船の帆柱、永代の橋杭などのような大木であっても一粒の木の実から生じ、
幾百年の星霜を経て寒暑風雨の艱難をしのいで、
日々夜々に精気を運んで生育したものである。

そして昔の木の実だけが生育するだけでない、
今の木の実でも、また大木となることは疑いない。

昔の木の実が今の大木となり、今の木の実が後世の大木なる事を、
よくよくわきまえへて、大を羨やまず小を恥かしがらず、
速かであろう事を欲しないで、日夜怠らず勤めることを肝要とするのだ、

「むかし蒔(ま)く木の実大木と成りにけり今蒔く木の実後の大木ぞ」

            <感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その31 - 伝統

2015/12/16 (Wed) 19:26:31


ある人が、一飯に米1勺ずつを減ずるならば、
一日に3勺、一月に9合、一年に1斗余り、百人で11石、万人で110石である。
この計算を人民に諭(さと)して富国の基(もと)を立てたらいかがかと言った。


尊徳先生はおっしゃった。


この教諭は、凶歳の時にはよろしいけれども、
平年にこのような事は言ってはならない。

なぜかといえば凶歳には食物を増やすことはできない。
平年には一反に一斗ずる増収するならば、
一町に1石、10町に10石、100町に100石、万町に万石である。

富国の道は、農業を勧めて米穀を取り増すことにある。
どうして食を減らす事をいうことがあろうか。

貧しい人民は平日の食が十分でないために、十分に食べたいと思うことが、常の思いであろう。
だから飯の盛り方が少ないことですら快く思わないものだ。

それであるのに一飯に1勺ずつ少なく食えなどと言う事は、聞くもいまいましく思うであろう、

仏教の施餓鬼供養(せがきくよう)で、ホドナンパンナムサマダと繰り返し繰り返し唱えるのは、
十分に食いたまえ、たくさん食ひたまえということだと聞いた。

そうであれば施餓鬼の功徳というのは、十分に食べなさいということにあるのだ。

貧しい人民を諭すには、十分に食べて十分に働け、たくさん食べて骨を惜しまず稼げと諭し、
土地を開き米穀を増収して、物産の繁殖する事を勤めるべきである。

労力を増すならば土地は開け物産は繁殖する、
物産が繁殖すれば商も工もしたがって繁栄する、
これが国を富ますの本意である、

人はあるいは言うであろう、
土地を開くにも開くべき地がありませんと、
私の目をもって見る時は、どの国も皆半分しか開けていない。

人は耕作し仕付けてあれば皆田畑だとするが、湿地や乾地、平らでない地や、
土壌の悪い地、皆まだ田畑とはいえない。

全国を平均して、今三回も開発しなければ、真の田畑とは言うことができない。
今日の田畑はただ耕作がさしつかえなくできるといった程度だ。

            <感謝合掌 平成27年12月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その32 - 伝統

2015/12/20 (Sun) 19:36:57


尊徳先生がおっしゃった。

およそ事業を成功しようと欲するならば、始めにその終りを詳細にさせておくべきだ。

たとえば木を切るようなときは、まだ切らない前に、木の倒れるところを、
詳細に定めなければ、倒れる時にあたって、どうにも仕方が無くなるものだ。

だから私は印旛沼を事前調査した時も、事業完成後の見込み調査も、
一度に実施しようといって、どのような異変が起こっても、失敗がない方法を工夫した。

相馬侯が、相馬藩を復興する方法を依頼してきた時も、
着手から以前の180年間の収納を調べて、分度の基礎を立てたものだ。

これが荒地を開拓し、成功するための用心である。

私の方法は分度を定めることをもって本とする、
この分度を確立し、これを厳格に守るならば、荒地がどれほどあっても
借財がどれほどあっても、何を恐れ何を憂えることがあろう、

私の富国安民の方法は、分度を定めるということ一つであるからである。

この皇国は、皇国だけに限り、この外へ広くする事は決してならない。

そうであれば、10石は10石、100石は100石のその分を守る外に道はない。
100石を200石に増し、1000石を2000石に増す事は、
一家ならば相談はできようが、一村一同にする事は、決してできない。
これは簡単なようで大変難しい事である。

だから分度を守ることを私の道の第一とする、
よくこの理を明かにして、分度を守るならば、誠に安穏であって、
杉の実を取って、苗を仕立て、山に植えて、その成木を待って楽む事ができる。

分度を守らなければ先祖から譲られた大木の林を、一時に切り払っても、
間に合わぬようになりいく事は、眼前である。

分度を越える過ちは恐るべきだ。
財産がある者は、一年の衣食はこれで足るというところを定めて、
分度として多少を論ぜず、分外を譲って、世のために年を積んでいけば、
その功徳は無量であろう。

釈尊は世を救うために、国家をも妻子をも捨てられた。

世を救う志があるならば、どうして自分の分度外を、譲る事を行わないでいられようか。

            <感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その33 - 伝統

2015/12/23 (Wed) 19:18:41


尊徳先生がおっしゃった。


ある村の富農に利口な子供がいた。
江戸の聖堂に入れて、修行させようとして、父子で一緒に来て、暇乞いを告げた。

私はこれを一生懸命諭した。
このようだ。

それは善い事だ。
しかしながら、あなたの家は富農であって、多く田畑を所持していると聞いている。
そうであれば農家にとって尊い先祖伝来の財産だ。

その先祖伝来の財産を尊く思って、祖先の高恩を有難いと心得て、
道を学び、近郷の村々の人民を教え導いて、この土地を盛かんにしよう、国恩に報いよう、
そう願って修行に出るならば、誠に結構なことだ。

しかし、祖先伝来の財産を農家だからと賤しんで、難しい文字を学んで、
ただ世に誇ろうという心であるならば、大きな間違いである。

農家には農家の勤めがあり、富者には富者の勤めがある。

農家はどれほど大家であっても、農事をよく心得なければならない。
富者はどれほど富者であっても、勤勉と倹約を行って余財を人に譲り、
郷里を豊かにし、土地を美しくし、国恩に報いなければならない。

この農家の道と富者の道とを、勤めるためにする学問であれば、誠によろしいといえる。


もしそうではなく、先祖の大恩を忘れて、
農業はつたない、農家はいやしいと思う心で学問するのであれば、、
学問はますます放心を助長し、あなたの家は滅亡する事は疑いない。

今日の決心はあなたの家の存亡にかかっている。
うかつに聞いてはならない。

私の言うところは決して間違いがない。
あなたが一生涯学問しても、このような道理を発明する事は決してできまい。
またこのように教戒してくれる者も、決して有るまい。

聖堂に積んである万巻の書よりも、私のこの一言の教訓のほうが尊いであろう。
私の言うところを用いるならば、あなたの家は安全である。
用いない時は、あなたの家の滅亡は眼前にある。

そうであれば、用いるならばよいが、用いる事ができなければ二度と私の家に来てはならない。
私はこの地の廃亡を、復興させるために来ている者であるから、
滅亡などということを、聞くもいまいましい、必ず来てはならないと戒めたが、
用いる事ができないで、江戸に出ていった。

修行がいまだならないうちに、田畑は皆他の所有となり、
ついに子は医者となり、親は手習いの師匠をして、今日をしのぐようになったと聞いた。
痛しいことではないか。

世間にはこの類の心得違いがおうおうにしてある。

私がその時の口ずさみに
「ぶんぶんと障子(しょうじ)にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷ふなりけり」
とよんだ事があった。

なんといたましいことではないか。

            <感謝合掌 平成27年12月23日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その34 - 伝統

2015/12/26 (Sat) 19:37:35


門人のなにがしが、若年の過ちで、所持品を質に入れて使い捨てて退塾した。
その者の兄が、再び入塾を願い、金を出して、質入品を受け戻して本人に渡そうとした。

尊徳先生はおっしゃった。

質を受けとるはよいが、彼は富家の子である。
生涯質入れなどの事は、なすべき者ではない。
ふつつか至極だといっても、心得違いをしたのだからやむをえない。

今改めようと思うならば、質入品は打ち捨てたほうがよい。
一日でも質屋の手にかかった衣服は、身に付けるまい
というくらいの精神を立てなければ、生涯の事がおぼつかない。

あやまちと知れば速かに改めて、悪いと思えば速やかに去るがよい。

きたない物が手につけば、速かに洗いさるのは世の常である。

どうして質入した衣服を、受け戻して、着用しようか。
過って質を入れ、改めて受け戻すのは困窮した家の子弟の事である。

彼はかたじけなくも富貴の大徳を、生れながら持っている大切の身ではないか。

君子は固く窮すると論語にあるとおり、こづかいがなければ、使わずにおり、
ただ生れ得た大徳を守って失わなければ、必ず富家の婿となって、安穏であろう。

このような大徳を、生れながら持っていながら、自らこの大徳を捨てて、
この大徳を失う時は、再び取り返す事ができないであろう。

そうなれば芸をもって生計を立てるか、自ら稼がなければ、生活の道がないようになるであろう。

長芋ですら腐れかかったものを保存するには、
まだ腐れていないところから切り捨てなければ、腐りは止らないものだ。

だから質に入れたる衣類は、再び身につけるまいという精神を振り起し、
生れ持った富貴の徳を失わないように勤めていくことが大切であるのだ。

悪友に貸した金も、また同じく打ち捨てるがよい。
返そうといってきても、受け取ってはならない。
なおまた貸すことがあっても、悪友の縁を絶って、悪友に近づかないことを専務とするがよい。

これをよく心得ておかなければならない。

彼がような者は身分をさえ謹んで、生れ得た徳を失わなければ、
生涯安穏であって、財宝は自然に集ってきて、随分他の困窮をも救う大徳を、
生れながらに備っている者である。

よくこの道理を諭して誤らせてはいけない。

            <感謝合掌 平成27年12月26日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その35 - 伝統

2015/12/28 (Mon) 19:04:39


尊徳先生がおっしゃった。

山や谷は寒気に閉ざされ、雪が降り凍っていても、
柳の一芽が開きはじめる時は、山々の雪も谷々の氷も皆それまでである。
また秋になって、桐の一葉が落ちはじめる時は、天下の青葉はまたそれまでである。

世界は自転して止まない。
だから時に逢う者は育ち、時に逢わない物は枯れるのだ。

午前は東向きの家は照って、西向きの家は影になり、
午後は西に向く物は日を受け、東に向く物は影となる。

この理を知らない者は惑って、
自分は不運であるといい、世も末だなどと嘆くのは誤りである。

今ここに幾万金の負債があっても、何万町の荒れ果てた地があっても、
賢君があってこの報徳の道によるときは憂えるに足りない。
なんと喜ばしいことではないか。

たとえ何百万金の貯蓄があっても、何万町の領地があっても、
暴君があって、道を踏まず、これも不足、彼も不足と贅沢や慢心が増長に増長すれば
消滅することは、秋の木の葉が嵐に散乱するようなものだ。

恐れないわけにいかない。

私の歌に「奥山は冬気に閉ぢて雪ふれどほころびにけり前の川柳」

            <感謝合掌 平成27年12月28日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その36 - 伝統

2015/12/31 (Thu) 19:19:06


尊徳先生がおっしゃった。

仏教に悟道の論がある。

面白いといっても、人道を害する事がある。
すなわち生者必滅・会者(えしゃ)定離(じょうり)の類である。
その本源を明らかにしていうためである。

悟道はたとえば、草の根はこのような物だと、一々明らかにして、人に見せるようなものだ。
理はそのとおりだが、これを実地に行う時は皆枯れてしまう。

儒道は草の根の事は言わず、草の根は見ないでよいものと定め、
根があるために生育する物であるから、根こそ大切である、
培養こそ大切であると教えるようなものだ。

松の木が青々と見えるのも、桜の花が美しく匂うのも、土中に根があるためである。
蓮の花が馥郁と薫るのも、花菖蒲が美しいのも、泥中に根をさしているからである。

質屋の蔵が立派なのは、質を置く貧しい人が多いためであり、
大名の城が広大なのは、領分に人民が多いためである。

松の根を切れば、すぐに緑の先が弱り、二三日もすれば、枝も葉もみなしぼんでしまう。

民が窮すれば君も窮し、民が富めば君も富む、
明々了々、少しも疑いのない道理である。

            <感謝合掌 平成27年12月31日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その37 - 伝統

2016/01/02 (Sat) 20:12:23


尊徳先生があるお寺に参詣された。

灌仏会があった。

尊徳先生はおっしゃった。

天上天下唯我独尊という事を、侠客者流などが、
広言を吐いて、天下広しといえども、我にしく者はなしなどというのと同じように、
釈尊の自慢と思っている者がある。

これは誤ちである。

これは釈尊だけでなく、世界皆、我も人も、
ただこれ、我こそ、天上にも、天下にも尊い者である、
我に勝って尊い物は、決して無いものであるという教訓の言葉である。

したがって銘々それぞれ、この我が身が天地間にこの上も無い尊いものである、
なぜかといえば、天地間に自分がなければ、物が無いようであるからである。

そうであれば銘々それぞれ皆、天上天下唯我独尊である。

犬も独尊である、鷹も独尊である、
猫も杓子(しゃくし)も独尊といってよいものである。


            <感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その38 - 伝統

2016/01/04 (Mon) 19:50:28


尊徳先生がおっしゃった。


仏道の伝来は祖々厳密である。
しかしながら、古と今と表裏の違いがある、

古の仏者は鉄鉢一つで、世を送った。
今の仏者は日々厚味に飽いている。

古の仏者は、糞雑衣といって、人の捨てた破れ布を、とじ合せて体を覆った。
今の仏者は常にきれいで見事な衣をまとっている。

古の仏者は、山林の岩穴に、常に座禅していた。
今の仏者は、常に高堂に安坐している、
是が皆遺教等に説く所と天地雲泥の違いがあるではないか。

しかし、これは自然の勢いである。
なぜかといえば、遺教(ゆいきょう)に田宅を安置する事を得ずとある。
そこで上朱印地を賜わる。

財宝を遠離する事、火坑を避るようにせよともいう、
また蓄積する事勿れともある、

そして世間の人が、競って財物を寄附する、

また好(よし)みを、貴人に結んではならないと、
すると貴人自ら随従して、弟子と称する、

たとえば大河流水の突き当る処に砂石が集らないで、
水の当らないところに集るようなものだ。

これもまた自然の勢いである。

            <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その39 - 伝統

2016/01/06 (Wed) 20:15:48


ある人が尊徳先生に言った。


恵心僧都源信の伝記に、
今の世の仏者達の申される仏道が誠の仏道であるならば、
仏道ほど世に悪いものはあるまい、と言われたとあります。
面白い言葉ではありませんか。


尊徳先生がおっしゃった。

それは誠に名言です。

ただ、仏道だけではなく、儒道も神道もまた同じです。
今時の儒者達が行っているところが、誠の儒道であるならば、
世に儒道ほどつまらないものはありますまい。

今時の神道者達が申される神道が、誠の神道であるならば、
神道ほど無用のものはあるまい、と私も思います。

神道というものは天地開闢(かいびゃく)の大道であって、
この豊蘆原を瑞穂の国、安国と治めたもう道であることは、論ずることなく明かです。

どうして今の世の巫祝(まじない)者のような、あるいは神札を配って、
米銭を乞うような者等の知るところでありましょう。

川柳に「神道者身にぼろぼろをまといおり」といいます。
今の世の神道者は、貧困に窮する事はこのようです。
これは真の神道を知らないためです。

神道は、豊芦原を瑞穂の国として、漂える国を安らかな国と固めなす道です。
そのような大道を知る者は、決して貧窮に陥いる道理はありません。

これは神道がどのようなものかを知らない証拠です。
嘆かわしい事ではありませんか。

            <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その40 - 伝統

2016/01/08 (Fri) 19:42:17


尊徳先生がおっしゃった。


庭訓往来に、「注文に載せられずといえども進じ申すところなり」と書いてあるは、
よく人情を尽している文である。
百事このようにありたいものだ。

「馳馬(はせうま)に鞭(むち)打って出る田植えかな」、
馳せ馬は注文である、注文にのせてなくとも、鞭打って出るとことである。

「影膳(かげぜん)に蠅(はえ)追ふ妻のみさをかな」、
旅行中の夫の無事を祈る影膳は注文の内である、
注文にないけれども、蠅を追うところである。

進んで忠を尽すのは注文の内である、退いて過ちを補うのは、
注文に載せていないけれども、勤めるところである。

親を繰り返し諌(いさ)めるまでは注文の内である、
いさめて聞かなくとも親を敬って、親の言葉に違わない、
また労して怨まないのは、注文に載せられていないけれども、親に尽すところである。

菊花を贈るは注文なり、注文にないけれども根を付けて進呈ずるところである。

おおよそ事はこのようにすれば、志の貫かなかれないことはなく、
事のならないことはあるはずがない。

ここにいたって、親に孝行を尽くし兄を敬うならば、
神のみ心にかない、西から東から南から北から、思いとして、
服さない事はないというにいたるのである。

            <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その41 - 伝統

2016/01/10 (Sun) 19:46:55


尊徳先生の家の召使いが芋種を埋めて、その上に「芋種」と書いた木札を立てた。

尊徳先生はおっしゃった。


あなたがたは大道は文字の上にあるものと思って、
文字のみを研究して、学問と思っているのは間違っている。

文字は道を伝える道具であって、道ではない。
それを書物を読んで道と思うのは過ちではないか。
道は書物ではなく、実行にあるのだ。

今、あのところに立てた木の札の文字を見るがよい。
この札の文字によって、芋種を掘り出し、畑に植えて作ってこそ食物となるのだ。

道も同じく目印の書物によって、道を求め身に行って、初めて道を得るのだ。
そうでなければ学問ということはできない、単なる本読みに過ぎない。

            <感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その42 - 伝統

2016/01/12 (Tue) 19:35:20


尊徳先生がおっしゃった。


現在の憂いは村里の困窮で、活気のないことである。
この活気を直そうとするには、困窮を救わなければ免れる事はできない。

これを救うのに財産を施し与えようとする時は、財力は及ばない。
だから無利足金貸し付けの方法を立てたのだ。

この方法は実に恵んで費えない道である。
この方法に一年の謝礼金を付する方法をも設けた。
これは恵んで費えない上にまた欲して貪らない方法である。

実に貸借両全の道というべきではないか。

            <感謝合掌 平成28年1月12日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その43 - 伝統

2016/01/14 (Thu) 19:23:36


尊徳先生はおっしゃった。

経済には天下の経済があり、一国一藩の経済がある。
一家もまた同じだ、各々異っていて、同一には論じられない。

なぜかといえば、バクチをなすのも売○屋をなすのも、
一家一身上にとっては、皆経済と思うであろう。
  *○:春

しかし、政府はこれを禁じて、みだりに許さないのは、国家に害があるからである。
このようなものは、経済とはいうことができない。

眼の前の自分一人の利益だけを見て、
後世にどうかなどを考えず、他のためをもかえりみないからである。

諸藩でも、宿場町に娼妓を許して、藩中と領中の者は、ここへ遊びにいくことを厳禁とする、
これは一藩の経済だからである。

このようにしなければ、自分の大切な藩と、領中の風儀を害するからである。

米沢藩では、その年少しでも凶作であれば、酒造を半分に減らさせ、
大きく凶作であれば、厳禁にし、さらに他藩から醸造用に米を輸入することを許さない。
大豆が不作であれば、豆腐を作るのも禁ずると聞いている。

これは自藩の金を、他に出さないための方策で、すなわち一藩の経済である。

天下の経済はこのようではなく、公明正大でなければならない。

大学に、「国は利を以て利とせず、義を以て利となす」とある。
これこそが国家経済の格言というべきである。
農業や商業の家の経済でも、必ずこの心を忘れてはない。

世間で富裕者といわれるような者は知らなければならない。

            <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その44 - 伝統

2016/01/16 (Sat) 19:15:52


尊徳先生がおっしゃった。


万国とも開闢(かいびゃく)の初めに、人類がある事はなかった。
幾千歳の後に初めて人があり、そして人道ができた。

動物は欲しい物を見れば、すぐに取って食う。
取れるだけの物を、はばからず取って、譲るということを知らない。

草木もまた同じだ。
根を張れるだけの地にどこまでも張ってはばからない。

これが動物の道である。
人であってこのようであれば、盗賊である。

人はそうではない。

米が欲しければ、田を作って取り、豆腐を欲すれば金銭を渡して取る、
動物がすぐに取るのとは異なる。

人道は天道と異なり、譲道より立てるものである。
譲というのは、今年の物を来年に譲り、親は子のために譲ることから成る道である。

天道には譲道はない。

人道は、人の便宜を計って立てたものであるから、
ややもすれば、奪い取る心を生ずる、鳥獣は誤っても、譲る心が生ずる事はない。
これが人と動物との別である。

田畑は1年耕さなければ、荒地となる、
荒地は、百年経っても自然に田畑となる事はないのと同じだ。

人道は自然ではなく、作為の物であるために、
人間が用弁する所の物品は、作った物でないものはない。

だから人道は作る事を勤めることを善とし、破ることを悪とする、
百事自然にまかせれば皆廃ってしまう。

これを廃れないようにに勤めることを人道とし、人の用いる衣服の類や、
家屋に用いる四角の柱、薄い板の類、その他白米や麦、味噌、醤油の類は、
自然に田畑山林に生育したものであろうか。

だから人道は勤めて作るのを尊び、自然にまかせて廃れるをにくむ、

虎や豹のようなものはもちろん、熊や猪のようなものは、
木を倒し、根をうがって、強い事は強いが、その労力もまた大変なものだ、

このように、終身労して安堵の地を得ないのは、譲る事を知らないで、
生涯自分のためだけにするために、労して功がないのだ。

たとえ人であっても、譲りの道を知らず、勤めなければ、
安堵(あんど)の地を得ない事は、動物と同じだ。

だから人たる者は、智恵は無くとも、力は弱くても、今年の物を来年に譲り、子孫に譲り、
他に譲るの道を知って、よく行うならば、その功は必ず成るであろう、

その上にまた恩に報いる心掛けがあることを、
これまた知らなければならない、勤めなければならない道である。

            <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その45 - 伝統

2016/01/18 (Mon) 19:34:29


尊徳先生はおっしゃった。


交際は人道に必要なものであるが、世の中の人は交際の道を知らない。
交際の道は碁や将棋の道にのっとるのがよい。

将棋の道は強い者が駒を落して、先の人の力と相応する程度にして指す。
力量が大変違っている場合は、腹金(駒落将棋の一つ。上手は王と金だけ)だとか、
また歩三兵(ふさんぴょう:駒落将棋の一つ。上手の駒は、盤上に玉のみ、
はじめから持駒に歩を三枚もっている。)というまでに外すのである。

これが交際上必要な理である。

自分が富んでいて、さらに才芸があり学問があって、
相手が貧乏であれば、富を外すがよい。

相手が不才であれば、才を外すがよい。
無芸ならば、芸を外すがよい。
不学ならば、学を外すがよい。

これが将棋を指すの法である。
このようにしなければ、交際はできないものである。

自分が貧しくて不才かつ無芸、無学であれば、碁を打つように心得るべきだ。
相手が富んで才能があり、かつ学があり芸があるならば、幾目も置いて交際するべきであり。
これが碁の道である。

この理はひとり碁や将棋の道だけではない、
人と人とが相対する時の道も、この理に随うがよい。


            <感謝合掌 平成28年1月18日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その46 - 伝統

2016/01/20 (Wed) 19:48:58


尊徳先生はまたおっしゃった。

礼法は人間界の筋道である。
人間界に筋道があるのは、たとえば碁盤や将棋盤に筋があるようなものだ。

人は人間界に立っている、
筋道によらなければ、人の道は立たない。

碁も将棋もその盤面の筋道によるからこそ、その術も行うことができ、勝敗もつくのである。
この盤面の筋道によらなければ、小児の碁や将棋をもてあそぶようなもので、
碁も碁にならない、将棋も将棋にならない。

だから、人倫は人間界の筋道としての礼法を尊ばなければならない。


            <感謝合掌 平成28年1月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その47 - 伝統

2016/01/22 (Fri) 19:52:35


尊徳先生がおっしゃった。

おまえ達よくよく考えるがよい。
恩を受けて報いない事が多かったであろう。
徳を受けて報じない事が少くないであろう。

徳を報いる事を知らない者は、将来の繁栄だけを願って、
本を捨てるために、自然に幸福を失なうのだ。

よく徳を報いる者は、将来の繁栄を後回しにして、今、精一杯働くことを思うために、
自然に幸福を受けて、富貴はその身を離れない。

報徳は百行の長であり、万善の先というべきである。

よくその根元をおし極めてみるがよい。

身体の根元は父母の生育にある、
父母の根元は祖父母の丹誠にある、
祖父母の根元はさらにその父母の丹誠にある。

このように極める時は、天地の命令に帰するであろう。
そうであれば天地は大父母ともいえる。
だから、私は元の父母というのだ。

私が詠んだ歌に

「きのふより知らぬあしたのなつかしや元の父母ましませばこそ」とある。

私も人も、一日も命が長かれと願う心や、惜しい欲しいの念は、天下皆同じである。
なぜかといえば明日も明後日も、お日様が出で、万世替わらないと思うからである。

もし明日からお日様が出ないと定まったならば、どのようにするか。
この時は一切の私心や執着、惜しい欲しいもないであろう。

そうであれば天恩の有り難い事は、誠に明らかであろう、よく考えなさい。


            <感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その48 - 伝統

2016/01/24 (Sun) 19:32:19

尊徳先生はおっしゃった。


自然に行われる、これが天理である。
天理に随うといっても、また人為をもって行うのを人道という。

人体は柔弱であって、
雨や風、雪や霜、寒さ暑さ、昼や夜、循環して止まらない世界に生れて、
羽毛もウロコで堅く身体を保護することもなく、
飲食も一日でも欠くことができず、爪や牙の利もない。

だから身体のために便利である道を立てなければ、身を安んずる事はできないのだ。

そうであるからこそ、この人道を尊んで、
その本源が天に出るといい、天性といい、善とし美とし大とするのである。

人の道が廃れない事を願うからである。

老子はその理を見て、道の道とすべきは常の道にあらず、などといわれるのは無理もない。

そうかといって、この身体を保つために、ほかにないことをどうしよう。
私達が、米を食い、衣服を着て、家にいながら、この言を主張するのは、
また老子のともがらの失まりというべきであろう。

ある人が言った。
そうであれば仏が言われることもまた誤りというべきでしょうか。

私はこう答えた。

仏は生といえば滅といい、有りと説けば無しと説いて、色則是空といい、空則是色と言った。

老荘の意とは異なる。

            <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その49 - 伝統

2016/01/27 (Wed) 19:12:59


尊徳先生がおっしゃった。


天道は自然である。
人道は天道に随うけれども、また人為のものである。

人道を尽して天道に任せるがよい。
人為をゆるがせにして、天道を恨んではならない。

庭の落葉は天道である。
無心であって日々夜々に積もる、
これを掃除しないのは人道ではない。

掃除してもまた落ちる、
これにに心をわずらわし、これに心を労して、
一葉落れば、箒(ほうき)を取って立つ、これはチリアクタのために、
使われるもので、愚かであるというべきだ。

木の葉が落ちるのは天道である、人道をもって、毎朝一度は掃除するがよい。
また落ちても捨ておいて、無心の落葉に使われてはならない。

また人道をゆるがせにして積ったままにしておいてはいけない。
これが人道である。

愚人であっても悪人であっても、よく教えるがよい。
教えても聞かなければ、これに心を労してはならない。
聞かないからといって捨てることなく、幾度でも教えるがよい。

教えて用いなくても憤ってはならない。
聞かないからといって捨てるは不仁である。
用いないからといって憤るのは不智である。

不仁や不智は徳者が恐れるところである。
仁智の二つを心がけて、自分の徳を全うするがよい。

            <感謝合掌 平成28年1月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その50 - 伝統

2016/01/29 (Fri) 19:09:58


ある寺に、24孝図の屏風があった。

尊徳先生はおっしゃった。


聖門(孔子の教え)は中庸を尊ぶ。
それであるのに24孝というものは皆中庸ではない。
ただ王褒、朱寿昌など数名だけが奇異でない。
その他は奇異である、

虎の前で号泣したら、害を免れたというのにいたってあきれるばかりだ。
論語で孝を説くところと遠く隔たっているように思われる。

孝というものは親の心をもってわが心とし、親の心を安んずることにある。

子たる者は平常の身持ちや心がけがたしかであるならば、たとえ遠国に奉公して、
父母のもとに帰ることがないときでも、ある藩で褒賞を受けた者があると聞けば、
その父母はわが子ではないかと喜び、

また罪科を受けた者があると聞く時は、必ずやわが子ではあるまいと
苦慮することがないようであれば、孝というべきであろう。

また同じく罪科に陥っている者があると聞く時は、わが子ではないかと苦慮し、
褒賞の者があると聞く時は、わが子ではあるまいと、喜ばないようでは、
日に月に父母の家に行き通って、安否を問うたとしても、不孝である。


古語に、親に事(つかう)る者は、上に居て驕(おご)らず、下に居て乱(みだ)れず、
醜(しゅう)に在って争わずといい、また違(たが)う事なしとも、また親の病を患えるともいう。

親子の情を見るべきである。
世間に親である者の深情は、子のために無病長寿、立身出世を願うほか、
決して余念のないものである。

そうであれば子である者は、その親の心をもってわが心とし
親を安心させることこそが、至孝というべきであろう。

上にいておごらないというのも、下となって乱れないというのも、常の事ではあるが、
醜(しゅう)に在って争わないというのに、注意するがよい。

醜俗に交わる時は、どんなに耐え忍んでも、忍びがたい事が多いであろう。

その場において争わないというのが、実に至孝というべきであろう。

            <感謝合掌 平成28年1月29日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その51 - 伝統

2016/01/31 (Sun) 18:31:43


尊徳先生はおっしゃった。


人の子たる者はどんなに不孝であるといっても、
もし他人がその親をそしる時は必ず怒るものである。

これは父子の道が天性のものであるために起こるのである。

詩に曰く、

汝の祖を思ふ事無からんや、

という。

そのとおりではないか。

            <感謝合掌 平成28年1月31日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その52 - 伝統

2016/02/01 (Mon) 20:48:08


尊徳先生がおっしゃった。


深く悪習に染まった者を、善に移らさせるのは、大変難しい。
あるいは恵んで、あるいは諭す、
一旦は改める事があっても、また元の悪習に帰るものなり、これはどうにも仕様が無い。

何回でもこれを恵んで教えるがよい。

悪習の者を善に導くには、たとえば渋柿の台木に甘柿を接いだようなものだ。
ややともすれば台芽の持前の性質が発生して継穂の善を害する、
だから継穂をした者は、心を付けて、台芽をかき取るように厚く心を用いるべきである。

もし怠るならば台芽のために継穂の方は枯れ失せてしまうであろう。

私が預った地に、このような者が数名あった。
私はこの数名のために心力を尽したこと、はなはだしかった、そのように勤めたのだ。

君たち、このことをよく考えなさい。

            <感謝合掌 平成28年2月1日 頓首再拝

二宮翁夜話 巻之四~その53 - 伝統

2016/02/04 (Thu) 18:37:39


尊徳先生はおっしゃった。

富裕の人で小道具を好む者は、大事は成就できないものである。

貧乏人がはきものやタビなどを飾る者は立身はできないものである。

また人が多く集まり雑踏するところには、良いはきものをはいていってはならない。
良いはきものは紛失する事がある。

悪いはきものををはいて紛失した時は探さないで、更に買い求め履いて帰るがよい。

混雑の中で、はきものを尋ねて人をわずらわすのは、粗悪な履物をはいたのより見苦い。

            <感謝合掌 平成28年2月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之四~その54 - 伝統

2016/02/06 (Sat) 19:05:04


尊徳先生はおっしゃった。


聖人は中を尊ぶ、
そしてその中というものは、物ごとに異なる。

あるいはその物の中に中があるものがある、ものさしの類がこれである。
あるいはは片寄って中があるものがある、
棒ばかりの錘(おもり)の平衡になるのがこれである。

熱くなく冷たくもないのが温湯の中であり、
甘くも辛くもないのが味の中、

損もなく得もないのがやりとりの中、
泥棒は盗むのをほめ、世の中の人は盗むのを咎めるようなものは、共に中ではない。
盗まず盗まれざるを中というべきである。

この理は明白である。

そして忠孝は、他と我と相対して、そして生ずる道である。
親がなければ孝をなそうと欲してもなすことができない。
君がなければ忠をなそうと欲しても、なす事ができない。

だから片よらなければ、至孝至忠とは言いことは難しい。
君の方に片より極って至忠である。
親の方に偏より極って至孝である。
片よるというのは尽すことをいう。

大舜が父である瞽ソウ(こそう)につかえ、楠正成公が南朝につくしたのは、
実に偏倚(へんい)の極である。
至れり尽せりというべきだ。

このようになれば、鳥モチで塵を取るように、
天下の父母たる者は君である者に合せて合さない事はない。
忠孝の道はここに至って中庸である。

もし忠孝を、中分中位とするならば、どうして忠といおう、どうして孝といおう、
君と親とのためには、百石は百石、五十石は五十石、尽さなければ至れりとはいえない。

もし百石は五十石にして、中であるというようなものは、過ちの甚しいものである。
なぜかといえば、君臣で一円であるためである、
親子で一円であるためである。

君という時は必ず臣がある。
親という時は必ず子がある。
子がなければ親ということはできない。
君がなければ臣ということはできない。

だから君も半分であり、臣も半分である。
親も半分であり、子も半分である。
だから偏って極まることをもって、これを至れりというのだ。

・・・

以上で、「二宮翁夜話 巻之四」の紹介を終えます。

「二宮翁夜話 巻之五」以降については、別のスレッドにて紹介してまいります。

            <感謝合掌 平成28年2月6日 頓首再拝>

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