伝統板・第二

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日本民族の精神・日本国の使命 - 夕刻版

2015/08/16 (Sun) 18:44:49

すべてを包容する日本民族の精神~(「生命の教育」誌 平成27年8月号)

(1)日本建国の理想は、「大和(やまと)」の精神
   (新版『真理』第3巻232頁 より引用)

(2)日本文化にあらわれた”包容”の心
   (『古事記と日本国の世界的使命』102~103頁 より引用)

(3)日本建国の理想
   (新版『真理』第1巻65~66頁 より引用)

(4)「やまと」の意味するもの
   (新版『真理』第3巻241頁 より引用)

(5)現実の奥にある「理念の日本」を愛する
   ((新版『真理』第7巻272~274頁 より引用)



・・・

<参考Web>

(1)光明掲示板・第一『天皇信仰と日本國體』 第四章 日本の心と日本的思惟 (2200)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=459

(2)光明掲示板・第一『天皇信仰と日本國體』 第五章 祖国を生くるものの為に (2772)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=564

(3)光明掲示板・第一『日本國の使命』 16年10月の法語 (1596)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

(4)光明掲示板・第一「皇紀2673年 (6361)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1198

(5)光明掲示板・第二「皇紀2674年 (5420)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1113

(6)光明掲示板・伝統・第一「皇紀2675年(日本神話と日本国の尊厳)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=83

          <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

【私たちのなかに生きている日本神話】 - 伝統

2015/08/18 (Tue) 17:39:57


            *Web:にっぽん護国士(2011-02-26)より
             ~高千穂神社宮司 後藤俊彦

神職として高千穂神社に奉仕しておりますと、
神話と今の日本がいろいろな形でつながっているということを感じます。

高千穂は「天孫降臨の地」と言われております。

記紀によりますと、天孫降臨というのは、遠い神代の昔に、
この国を秩序ある豊かな国として治めるために、高天原から天照大神さまの御孫の
ニニギのミコト様が降臨してきた。

その地が日向(宮崎県)の高千穂だとされております。

この神話に符号するように、奈良時代の「日向国風土記」には、
ニニギノミコト様が降臨されたときに、葦原の中つ国と呼ばれていた地上は真っ暗闇で、
昼夜の区別もつかないほどだった。

そのときに、高天原から持ってこられた稲の穂を抜いて、そのモミ種を四方にまいたところ、
たちまち日月光かがやいて、明るい世界が開けてきた。

したがって、この所を「臼杵の郡、ちほの里」と名付けたと語り伝えられています。

そしていまも、ニニギノミコト様に連なる天皇陛下が、皇居の中で稲をおつくりになり、
新嘗祭のお祭りをなさっているというその事実を考えますと、これは敗戦・占領そして戦後
というものを経ても、日本は神話とつながっているのだなと感じるのです。

むろん、戦後は、日本人が古来大切にしてきたそうした価値観を封建的価値観として
全否定してきたわけですけれども、それでも子供が産まれると氏神様のところにお宮参りに
行きますし、七五三になれば、やはり氏神様にお参りして子供の健全な成長を願う。

また最近は、私どもの高千穂神社だけでなく、
全国のいろいろな神社が「パワースポット」「スピリチュアル・スポット」などと言われ、
非常に多くの女性、しかも若い女性が神社を訪れています。

もちろん、それらの人々は必ずしも天孫降臨神話や、それぞれの神社の由来などを
理解して来る方ばかりではないのですが、いろいろな意味で、閉塞された現状を打破したい
という気持ちがあるのでしょう。

気持ちの切り替えや、精神のよりどころを求めてやってくるわけです。

そして木々に覆われた清くおごそかな神域に足を踏み入れただけで、なにか心が洗われたり、
あるいは神社の由来や歴史にふれることによって、身近に自分の生まれたこの国の
いにしえの姿や、祖先の歩いてきた道が、尊い清らかなものであったということを知り、
それに感動して心から喜んでいらっしゃる。

そういう姿を見ていると、神話時代の感性というものが、
まだいまでも私たちの心理の奥深くに残っているのだなということを感じます。

神話というのは、私たちの祖先が、いまだ文字や記録を持たない有史以前のはるかな昔から、
その民族が、数万年、ときに数十万年にわたって経験した記憶の伝承、集合的無意識とでも
いうべきものです。

それは文字に記録されてはいないけれども、
人々の世界観や感性に決定的な影響を及ぼした経験の記憶です。

ですから、決して簡単に消え去る者ではない。

いまでも私たちの文化とか、精神性に影響を与え続けているのではないでしょうか。



これまでは、神話的な世界、あるいは神道的な世界というものと我々が、
占領政策や戦後教育によって切り離されてきました。

いまは逆にそれらを取り戻そうという流れになってきています。

そして大切なことは、そこからもう一歩踏み込んで、
自分の国のいにしえの姿や祖先の歩んできた道が、尊く清らかなものであった
ということを知ることだと思うのです。

とりわけ2月11日を迎えるにあたっては、
やはり神武天皇の建国の理想というものを思い起こしていただきたいと願っています。


いまではご存知でない方も多いと思いますので、
簡単に神武建国について振り返っておきますと、高千穂では、
ニニギノミコト様が降臨されたあと、その子孫の皇子が西の辺りをおさめていました。

しかしそれ以外の土地は、いまだ暗く荒々しく、人々の争いが絶えなかった。


あるとき、塩土の翁(おきな)から東に青山に囲まれた美しい地があることを聞いた
神武天皇と兄のイツセノミコトは、天つ神の御心にかなった理想をこの地上に実現しよう
として、皇子たちと舟師をひきいて東へ向かって日向の国を旅立たれました。

これが「神武東征」と呼ばれることから、
戦後は天皇の先祖は武力でもって他国を侵略し征服したというように言われてきましたが、
それは間違っています。


ここでいう「征」とは、「正しきを行う」という意味です。

神武天皇は、旅立たれてから、豊後、安芸、吉備の国々を順々に治めて行かれましたが、
行く先々で稲作という新しい技術を普及しながら、国が豊かになり、
人々が安心できるということを年月をかけて実地に示していったのです。

また、その土地の氏族が持っている信仰を壊すことなく、そのまま認めていきました。

それによりそれぞれの氏族が、天孫族のリーダーシップの下でも領分、役割というものを
十分に認識し、平和的に国が護られていった。

こういうプロセスが反映して「神武東征」の物語になっていると考えられます。

ですから「神武東征」を侵略というのは、日本の始まりを貶めようとする作り話にすぎません。



やがて一行は、大和を平定し、畝傍山(うねびやま)のふもとの橿原(かしはら)の地に
宮殿を建て、神武天皇が建国の祖として初代天皇の御位につかれます。

そのとき、神武天皇は天つ神の守護によって国内の争いが収まり、
平和で豊かな国になったことを感謝するために、作物を捧げてお祭りをなさいました。


そしてこうお誓いになったのです。

~~~~~~~~~~~
上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(うつくしび)に答え、

下(しも)は即ち皇孫(すめみま)の正(ただしき)を養いたまいし心を弘(ひろ)めん。
然(しか)して後に六合(りくごう)を兼ねて、以って都を開き、

八紘(はっこう)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為さんこと亦(また)可(よ)からずや
~~~~~~~~~~~

つまり、まず国を授けていただいた祖先の神々の恩に感謝し、
祖先から伝えられた正しい道を、自分たちも広めていこうではないかと。

そしてそれによって天下万民がもれなく日本という大きな一つ屋根の下で、
家族のように睦まじく幸せに暮らして行こう。

こういう気高い国家観といいますか、建国の理想が謳いあげられているわけですね。



これは「家族国家」建設の理想と言ってもいいと思います。

戦後は、家族あるいは地域というものは、自分たちを縛る悪者であるかのように
教えられてきましたけれども、家庭が崩壊し、地域が崩壊することによって、
昔は考えられなかったような様々な問題が、特にここ十数年ぐらいの間に、
表面化してきました。

そして今になって、家族の大切さや、地域の役割というものが見直されつつある
現実をみますと、神武天皇が「家族国家」建設の理想を掲げられた素晴らしさが、
より際立って受け止められます。

もちろん、「家族国家」といきなりいわれると、戦後の教育を受けてきた私たちは、
何かしら違和感や抵抗感を覚えるかもしれません。

しかし私は、むしろ個人主義や個の権利というものは、
そもそも日本人にはなじまないものではないかと思うのです。


神話をひもときますと、日本という国は、
イザナギ、イザナミという男女の「むすび」によって、
国も島々も、山川草木も、人も、鳥獣も生まれてきたと書かれています。

つまり、最初から、最小単位がダブル(個ではなく複数)なのです。

一方、ユダヤ・キリストの世界では、唯一の神が「光あれ」と言って、
土や水などが生じて天地創造が行われたとされています。

最初から最小単位がシングルなのです。

このように考え方が根本的に違う。

にもかかわらず、戦後は個を大前提とした考え方を
・・・最初は占領憲法の押しつけなどにみられるように強制的に、その後は自発的に・・・
是として社会がつくられてきました。

しかしその一方、日本人の大半は、一神教のキリスト教やイスラム教に
改宗したわけでもなく、日本人は依然として多神教的な民族です。

こうした事実から考えると、個を大前提とした仕組みなり社会なりを作った結果、
いろいろな不都合が出てきたのは当然の帰結なのではないでしょうか。

そこから考えると、物事には多種多様なるものの結びと結合によって作られていくのだ
という神道本来の考え方に、立ち返る必要があると思うのです。

では、われわれひとりひとりにとって、
イザナギ、イザナミに相当するのは何なのかというと、それは父と母です。

家というのは、父と母がまずあって、家族というものが生まれます。
そして家の中には、昔はどこの家にもお仏壇と神棚がありました。

お仏壇には祖先の御霊を、神棚には地域の守り神である氏神さまをお祭りしました。

つまり、家というのは、いま生きている人間だけでなく、
祖先とともにある家、地域の守り神とともにある家。それが本来の家なのです。



一方「家族国家」建設の理想というのは、神話に描かれているというだけなく、
現実的に日本人は同じ親から生まれてきたといっていいほどつながりの深い民族です。


2008年の米大統領選の前に、オバマさんの母方の先祖をたどっていったら、
十代さかのぼるとブッシュ大統領(当時)と同じ先祖だったということが
話題になりましたが、

人口1億2千万人以上の日本人の場合は、800年さかのぼると
みんな同じ親から生まれたことになるのだそうです。

日本はすくなくとも2千年以上の歴史がありますから、
もう二度も三度も私たちは同じ命の中から生まれ直してきていることになる。

日本人が相手の立場になってものを考えたり、他人の悲しみを自分の悲しみとして
とらえる国民性があるのも、そういうところからきているのかもしれません。

このような来歴や神武天皇の「家族国家」建設の理想というものに思いをいたすとき、
やはり家が基本であり、家庭の価値を重視するという原点に立ち返るところから、
国や社会の在り方を見直して行くことが大切だと思うのです。

(中略)

日本の歴史を振り返ってみますと、閉塞した状況に直面したとき、
日本人はいつの時代も神武建国の理想や神話的精神を回顧しながら、
時代を切り拓いてきました。

近いところでいえば、江戸時代の天保8年、当時の政治の腐敗堕落に対して憂いていた
大塩平八郎が、大阪で乱を起こしましたが、そのとき、大塩平八郎は、
神武天皇の建国の理想に立ち戻らなければだめなのだと言って決起しました。

あるいは幕末、維新期の志士たちも「神武創業」を回顧し、
それが時代を動かすエネルギーとなりました。

幕末の国学者八田知紀は、

   いくそたびかき濁しても
   澄みかへる水ぞ
   み国の姿なるらむ

という歌を詠んでおりますけれども、

どんなに行き詰っても、国が乱れて行っても、神武天皇の建国の精神に立ち返れば、
間違いなくまたもとのこの清らかな生き方ができるという確信を日本人は持っていたのです。



ある意味、国家というのは、
そうした建国の理想の神話なくしては成り立たないものなのです。

それは北朝鮮が嘘でもなんでも金日成、金正日の「神話」を造って国を
まとめようとしているころをみても分かりますが、それとはまったく
比較にならない立派な本物の神話が、我が国にはあるわけなのです。

また神話に起源をもつ皇室は、現実の歴史の中で
「国安かれ、民安かれ」のお祈りを続けてこられました。


   身はいかになるとも
   いくさとどめけり
   ただ、たふれゆく民をおもひて


これは昭和天皇の終戦時の御製ですが、まさにご自分の身はどうなってもいいから
国民を救いたい、そのようなお気持ちで、御歴代の天皇はお祈りを続けてこられたのです。

そういう尊い事実を何一つ知らないから、最近は皇室を軽んじるような言動が次々出てくる。

(中略)


今上陛下がお出ましになるということは、
単に1億2700万人の日本国民の象徴たる方がそこにお越しになるということではなく、
2671年前に、国を思い、民を思い、この日本の国を創立された神武天皇の化身が、
そこにお出ましになられるということでもあるのです。

だからこそ、天皇陛下に間近に接した人々は、
自然に涙が出てきたり、なんとも言い難い深い感銘を受ける。


そもそも日本の国は、その神武天皇の高き理想に、
当時の日本列島に住むあらゆる一族が最終的に共鳴してできあがった国です。

いつの時代も流行があり、価値観は変化していきますが、
現代のわれわれも、その素晴らしい理想に立ち返って、閉塞した状況を切り拓き、
誇りある立派な国にしていきたいものです。


          <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

日本建国の理想 - 伝統

2015/08/22 (Sat) 19:17:08


       *『真理』第1巻入門篇(P75~76)より

ところが、神武天皇の建国も神話であって、神武天皇は実在の人物でなかったと云う人が、
戦後に日本の歴史家の中にも出て来たのであります。

併し神武天皇が実在であろうがなかろうが、
その神話を古代の日本民族がつくったと云うこと其のことが大切であって、
日本国を建設した古代民族の心の中にある「建国の理想」が、
人格的に表現されて「神武天皇」となったのであります。


そしてその神武天皇が、建国の理想として
「八紘を蔽(おお)いて宇(いえ)と為さん」と仰せられた。


これを吾々は一口に「八紘一宇」の建国の理想と申しておりますが、

これを、まるで世界侵略思想のように外国人は巣鴨法廷で裁判したのでありますが、
天地間に外国は無い、何処も彼処も一家族で兄弟であると云う理想を表現せられたのであります。

このように、日本国はその建国のはじめから、全世界の人間は互いに兄弟であると云う
民主主義理想のリーダーとして神武天皇が描かれているところに日本民族の理想を見るべき
であります。

          <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

日本建国の理想は、「大和(やまと)」の精神 - 伝統

2015/08/29 (Sat) 17:31:40


           *新版『真理』第3巻(232頁)より

日本民族は、人類互(たがい)に相和(あいわ)そうと云う理念をもって、
国をはじめたのでありまして、 「大和(やまと)」の国号がそれを示しているのであります。

これが日本建国の精神なのであります。

「形は心をあらわす」と云う諺(ことわざ)がありますが、
日本人の発明した風呂敷を見ればわかります。
風呂敷はどんな形のものでも、その形を毀(こわ)さずに一緒に包んでしまうことが
出来るのであります。

他の国を毀(こわ)して併呑(へいどん)するのは
覇道(資格のない者が国を横取りするやり方)であって、
日本の皇道(すべてをつつむ道)ではありません。

日本の精神は風呂敷精神であります。
総(すべ)ての物を毀(こわ)すことなく一つに包んで「人類」と兄弟となり
一家族となるのを建国の理想としているのが日本民族であります。

人類が「一つ」であるとと云ううことは感覚で見るだけではわかりません。
その《いのち》が一つであると云うことを実相を観(み)る心の眼(め)で
見ねばわかりません。

感覚で見ていますと、彼(かれ)と我(われ)とは別れているように見えております。

          <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

「やまと」の意味するもの - 伝統

2015/08/31 (Mon) 17:57:02


           *新版『真理』第3巻(241頁)より

日本民族は総(すべ)てバラバラに分かれてるのを一つに綜合(そうごう)するところの
天分を持っているのでありまして、

日本の国の名前を「大和(やまと)」と名づけられたということも、
「や」というのは「彌々(いよいよ)」と云う字が当てはまるので、
いよいよ多いという意味であります。

「《まと》」というのは「纏(まと)める」という意味であります。

弓で射(い)る「的(まと)」を「まと」というのも、同じことでありまして、
中心に「纏(まと)まって」いる姿を現わしています。

いろいろに分かれていても、
その悉(ことごと)くが一つに纏(まと)まるべきものであって、
決してバラバラのものは存在しない、

宇宙は一つである、世界は一つであるというところのその人生観が、
古代の日本民族を通して現在の日本民族に至(いた)るまでずっと
貫(つらぬ)き通しているところの民族的信念とでもいうべきものなのであります。

          <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

日本文化にあらわれた〝包容〟の心 - 伝統

2015/09/02 (Wed) 18:19:18


        *『古事記と日本国の世界的使命』(102~103頁)より


日本人の日常生活に就(つ)いて考えて見ますならば、
この無限包容の象徴(あらわれ)は到る処(ところ)に満ちています。

先ず住(じゆう)の方から云うと、
各部屋各部屋分離して鍵をかけるなどということはなく、各部屋共通であって、
たとい閉めても互いの空気の交通するような紙の障子で隔てている。

衣(い)の方から云いますと、些(ちっ)と位(くらい)は大きくとも小さくとも
包容して着られるよう自在なキモノを着ています。

足に穿(は)くものでも、大きい足にも小さい足にも合うような包容性の広い下駄(げた)
を穿(は)いている。

どんなに大きいものでも包めれば、用のないときには懐中(ふところ)に捻じ込んで
置くことの出来る風呂敷という便利なものもある。西洋のハンドバッグのように一定の形で、
それ以外の形のものは容(い)れられぬ物とは訳がちがうのであります。

筆なんかでも毛筆は大きな字も書ければ、その尖端(せんたん)を利用すれば
ペン字で書けないほどの細字(さいじ)もかけるのであります。


しかも国土の位置が、東西両洋の文明をすべて輸入し包容するに適当な位置にあります。


どこから見ても実相世界の無限包容を体現した国は日本国であります。

          <感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>

現実の奥にある「理念の日本」を愛する - 伝統

2015/09/04 (Fri) 18:12:24


           *新版『真理』第7巻(272~274頁)より

愛国心の高揚などと言っても、愛し得る値打のある国というものがあれば
愛するけれども、愛し得る国としての資格があるかないかわからん現状のような
日本国では愛することができないというのは、それは国というものを、唯(ただ)、

単に形にあらわれている現状の国――即ち現象の国家――だけを日本国だと思っているために、
こんなに強盗や、強姦や、失業者や、ストライキや、戦争や、つまらないことばかり
充満している此のような国家は、愛することはできないということになるのでありますけれども、

その現実の奥に「理念の日本の国」なるところの、目に見えざる「国の本体」なるものを
みたならば、其処に希望が生まれ、其の国に生きていることに、生甲斐を感じ、
其の国を愛することができるのであります。

外面の現象は如何にともあれ、それを内在の理念――理想に近づけて行くところに希望が
持て、勇気が出で、生甲斐が感じられて来るのであります。

(中略)

愛し得(う)る現状の国家があるなら愛し得るけれども、
愛し得る現状でないから私は日本国を愛することはできないと云う
ど恰度(ちょうど)、肉体の物質面だけを見て自暴自棄で自殺している青少年と同じことです。
併(しか)し、智慧ある者は人間が体と肉体でないことを知るのです。
単なる物質的肉体「人」なるものがあることを知るのです。

その実相には肉体ならざる「人」なるものがあることを知るのです。

          <感謝合掌 平成27年9月4日 頓首再拝>

日本の建国・肇国と東道(みちびき)の神「塩椎神」 - 夕刻版

2015/09/10 (Thu) 18:36:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月11日)」より

今日(2月11日)は神武天皇が大和(やまと)に遷都せられた記念すべき慶ばしい日である。
”みすまる”の魂が高千穂の高御座(たかみくら)に天降りして弥数多(いやあまた)の国を
大和(だいわ)する八紘一宇(Universal brotherhood)の精神が形にまで顕れて、
大和国(やまとのくに)に都(みやこ)することになったのである。

それはおよそ二千六百年前であるという。

日本の国は領土という土塊の容積ではないのである。
「大和(だいわ)」の理念そのものが日本国で、
それが地上に天降って形を整えたときが日本の建国である。

しかし日本の肇国(ちょうこく)はなおそれ以前に遡る。
畏くも明治天皇が教育勅語に「国ヲ肇ムルコト宏遠ナリ」と仰せ給いしことに鑑み奉るも、
わが日本の肇国は数をもって言い現わすことのできない悠久久遠の太初(たいしょ)に
遡ることが明らかである。

神武天皇なお高千穂にましませしとき「天祖の降跡(あまくだり)ましてより以遠(このかた)、
今に一百七十九万二千四百七十余歳」と『日本書紀』に明記してあるから、彦火瓊々杵尊(ひこ
ほのににぎのみこと)より神武天皇に到るまですでにこれだけの皇紀を経ているのである。

これは神話であるから「大和理念」の地上顕現が悠久であることの象徴と見るべきである。

日本の建国の歴史をわざと長くないように考証して喜んでいる人もあるが、
それは結局自己侮辱であり、自己破壊本能の展開に過ぎない。

人間には「生」の本能と「死」(自己破壊)の本能があって、「生」の本能が旺(さか)んなる
ものが栄え、「死」の本能が」「生」の本能に打ち勝つとき衰えかつ滅びるのである。
自己を矮小に言うことに誇りを感ずるような悪い趣味は止めた方がよい。

そのころ塩土老翁(しおつつのおじ)なる老翁(おきな)来たりて神武天皇に「東(ひんがし)
に美地(うましくに)有り」と御奏上申し上げたということが同じく『日本書紀』に書かれて
いる。東方より「大和(だいわ)」の理念が生まれて来るという象徴物語である。

この塩土老翁(しおつつのおじ)は『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)とて目無堅間
(めなしかつま)の小船(おぶね)を作り彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を乗せ
まつって金銀(こがねしろがね)饒(さわ)なる竜宮海に導き奉ったと出ている。

竜宮海とはウミの底である。「創造(うみ)の根底(こんてい)」にある世界とは現象のよって
もってあらわれる根元の世界である。換言すれば実相の浄土である。

目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)とは、時間の目盛(めもり)無く空間無く堅く
つまりたる小なる一点である。換言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、そこより
時空生まれる一点(久遠の今此処)に乗るとき衆宝(しゅうほう)あまねく充つる竜宮海に入る
ことができるのである。

「無字透関(むじとうかん)」である。「無」を超えてさらに実相地(じっそうじ)に透関する
ときに竜宮海すなわち、無限供給の極楽浄土を実現することができるのである。
この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう神が塩椎神(しおつちのかみ)である。

そして竜宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界ともいい、
住吉世界の本尊を住吉大神(すみよしのおおかみ)と申し上げるのである。

竜宮海は時間空間を超えた世界であるから、浦島太郎はそこにあるとき永遠(えいえん)に
年(とし)老いず、このことを仏教では無量寿世界に入るとき無量寿仏と同じ悟りに入ると
言うのである。

老病死の三奸(かん)を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して
長湾(ちょうわん)をなせる山峡(やまかい)に鎮め祀られたのである。

今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、神功皇后を主神とし、脇神(わきだち)として
筒男(つつのお)の三神をお祭りしてある。
後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを本住吉神社というと承っている。

三韓征伐とは、老病死の三奸(かん)の克服の象徴物語である。
住吉大神(すみよしのおおかみ)が竜宮の大神であり、無量寿仏のあらわれである以上、
老病死の三奸(かん)を克服せられたことは当然のことでなければならない。

            <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

日本建国の実相 - 伝統

2015/09/12 (Sat) 19:18:33


            *『真理』第1巻入門篇(P73~75)より

そこで日本国家と云う家も色々の部分が集って出来ていますが、
そこに住んでいる何々人種が日本国家ですかと云っても、
それは日本国家ではありません。

此の机が日本国家ですかと云っても、机は日本国家ではありません。
この土が日本国家ですかと云っても土が日本国家ではありません。

それらすべては日本国家を形づくる材料であって、「家」にすれば、
材木や瓦や壁やセメントに当たるものなのです。


神話的に云いますならば、日本国家は、天照大御神の理念(おほみこころ)の中に
先ず造られて、それが「千五百(ちいほ)秋の瑞穂の国は世々わが子孫(うみのこ)の
王(きみ)たつべき地(くに)なり」と云う天孫降臨の神勅となってあらわれています。

神話と云うのは、作者が誰と云う一定の人間ではなくて古代の民族が、その民族全体
の精神によって作られたものであって、民族全体の一致した信念の協同作品と云う
ようなものであります。

この民族全体の協同信念によって各人が集団して、日本は天皇中心の国家を
形作ったのでありますから、日本国家が天皇中心の国家であると云うことは
最も民主的なことであります。

この民族全体の協同精神が謂わば日本国家の設計のようなものでであって、
その協同精神の通りに、形の世界の日本国は、家が色々材料が集められて
徐々に出来上がるように、出来たのです。

だから日本国家の本質及び設計は、天皇国家の姿をとるべく日本民族全体の
心の中に既にあったのであります。それが世の中の進むに従い、形の世界に
徐々に出来上がって来たのであります。

そして神武天皇が大和(やまと)に都をはじめ給うたのは、天皇中心の国と云う
日本民族全体の精神が具体化した第一期工事の完成だと云うことになります。


最近、日本民族の中にも海外から輸入された思想にかぶれて、日本が天皇国家の形を
とる必要はないと力説する人がありますけれども、

古代の日本の建国のときの日本民族精神の協同制作による日本国が吾々の祖国である
とすれば、そしてその祖国のつづきが日本国であるとすれば、吾々が先祖から
引き継いだ国は、やはり天皇中心の国家でなkればならないのであります。

そうでなければ、ものその国は、吾々が古代の先祖から引きついだ日本国ではない、
別の国だと云うことになります。


            <感謝合掌 平成27年9月12日 頓首再拝>

神国日本の実相を顕す祈り - 伝統

2015/09/16 (Wed) 19:43:10


            *「光の泉」誌(昭和48年3月号)より

【神国日本の実相を顕す祈り】(谷口雅春)


大日本帝国は神国なり。神の建てたまえる国家であるのである。

宇宙を照らし給える天照大御神が

「豊芦原の瑞穂の国は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」

と詔らせ給うて、瓊々杵尊を天降し給いし時をもってわが日本(ひのもと)の国家は肇まるのである。

その時、瓊々杵尊と倶に天降り給いし五伴緒(いつとものおの)命は
吾等日本民族の祖先にましますのである。

伴緒命とは〝玉の緒〟を共にするという意味であって、瓊々杵尊を中心座に、
尊と同じき霊統の玉の緒を共にする五(いつ)柱の兄弟たちの命たちの霊、
その中心座を繞(めぐ)り護りて地上に降誕したまうたのである。

かくて天皇家とわれわれ国民とは玉の緒を共にする兄弟姉妹同胞なれば、
大日本帝国は〝国〟であると共にひとつの家庭であるのである。

世界に多くの国々あれども、〝国家〟と称し得る、本当に〝国即家庭〟なる国家は、
大日本帝国のほか、どこにも存在しないのである。

言葉を換えて謂えば、わが国は大日本家族国家なのである。

天皇家を宗家とし、国民ことごとくその子々孫々の霊の流れ、
血の流れを汲む同族不可分一体の家族国家が大日本帝国なのである。

それ故に一国家、一民族、一言語という
世界に比類なき神の建て給える神聖国家が大日本帝国なのである。

われわれはこの大日本帝国に生まれ来たったことを誇りとするものである。

翻って海外の諸国を眺むるに一民族一言語一国家なる国は何処にも存在しないのである。

彼らの国は、神の詔(みことのり)によってその国の在り方が決定せられたのではなく、
個々の人間ばらばらで生活すれば、暴力を持って侵入し来る者に対抗する力乏しきをもって、
集団安全保障の目的をもって、一地域に住む人間ども相集まりて協議会をひらき、
団結して各々の福祉を守り、相互共存に適するように人智を持って構成したところの
生活共同体が〝国〟なのである。

それらは大日本帝国の肇国(ちょうこく)とは、
その発現の趣旨、目的、由来に於いて全然異なるものなのである。

彼らの国々は、みな人為の構成をもって発展するをもって、その発展の途上に於いて
一層武力又は智力に於いて強力なる者、前任の首脳者を圧倒して権力を握るのであり、
その権力の座の争奪のために常に闘争又は悲惨なる戦戮(せんりく)が繰り返されるのである。

これに反して、わが国は天照大御神より国を授けたまえる国家なるが故に、
まことに〝神国〟なりと謂うべく天皇より授けられたる政権が如何に交代すると雖も、
国家の生命の中枢たる位はすべて皇孫尊(すめみまのみこと)の占め給うこと

万世不易に変わることなき国体なるが故に、神武天皇建国以来既に皇統連綿として
二千六百数十年を経るといえどもその中心の位、国家の基礎、磐石にして揺るぐことなく、
宝祚(ほうそ)栄えまさんこと天壌と共に無窮なること炳焉(へいえん)たるなり。

ああ、吾らのこの大日本神国に生まれたる光栄を思い、
皇祖天照大御神の御神霊及び歴代の天皇の御神霊に対し、深き感謝の意を捧げ奉る。

 ありがとうございます。


   *光明掲示板・第一「皇紀2673年 (6361)」より転写
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1198


            <感謝合掌 平成27年9月16日 頓首再拝>

花子とお祖父ちゃんの対話 ~ 建国の理想 - 伝統

2015/09/18 (Fri) 19:31:58

光明掲示板・第一「花子とお祖父ちゃんの対話 ~ 建国の理想 (6410)」より抜粋


(5)万世一系を実現してきた国民のすごさ

   祖父: 万世一系というのは結果であって、歴代の天皇の多くが国民の幸せを祈ってきて、
       それを代々の多くの国民がありがたい、大切だ、と思って皇室をお守りして
       きたんだ。

       皇室だけがすごいんじゃなくて、
       それをずっとお守りしてきた代々の国民もすごいんだよ。


       日本の歴史で平和な期間が長かったのも、
       こういう形で立派な国民が立派な皇室をお守りしてきたからだ。

       南北朝時代や戦国時代は戦乱が続いたけど、これは国民が皇室の祈りを忘れて、
       私利私欲に走った時期だ。それで戦乱の時代になる。




(7)「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」

   祖父: 「一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」というのが、
       日本の建国宣言なんだよ。

       そして、ここにある「天照大神のお心」とは、子孫である皇室に対して、
       日本国が豊かに栄えるように尽くせ、という命令だ。

       神武天皇はその使命を抱いて初代天皇として即位した。
       歴代の天皇も、神に祈る事で、その使命を受け継がれている。

       現在の陛下が心から被災者の身の上を案ずるのも、
       天照大神が命じ、神武天皇が志した「一つ屋根の下の大家族」を目指して、
       天皇としての使命を果たされているということだよ。


(8)世界が共感する「一つ屋根の下の大家族」

   祖父: まさにその通りだね。
       皇室を中心にして、国内が長い間、平和にまとまってきたからこそ、
       あれほどの非常の際にも、互いへの思いやりができる。

       大震災で見られた思いやりの心というのは、日本人の生まれつきのものではなくて、
       長い時間をかけて、我々のご先祖様が積み重ねてきたものだ。

       さらに「一つ屋根の下の大家族」のように支え合い、助け合う姿が
       全世界から称賛された点も見逃せない。これは単なるお国自慢ではなくて、
       神武天皇の理想は世界の人々の共感を得られる、という事なんだ。

       今までは平和で安定した国内で、日本人はそんな理想も教えられず、
       天皇が秘かに国民の幸せをお祈りされていることにも気がつかず、
       呑気にやってきた。

       でも国際化が進むほど、外国の異質な思想も入ってくるし、日本人社会に
       溶け込もうとしない在日外国人が増えてくる。さらに近隣諸国が隙をついてくる。

       こういうい時代こそ、日本人一人ひとりが自分の国がどういう理想で建てられ、
       また先祖がどのような苦労をしてそれを守ってきたのか、よく知る必要がある。


  *全文については、以下のWebアドレスにて確認できます。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1208


            <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

『日本国家』は神の理念の最高顕現 - 伝統

2015/09/25 (Fri) 19:11:08


           *『明窓浄机』草創篇257頁-昭和12年5月号より

私は『生長の家』と云ふ大いなる団体を作って、その主宰者となり、
自分の団体の勢力を拡大したいとは思っていない。
 
唯私の心の中には国家あるのみであり、人類あるのみである。

ここに私は『国家』と『人類』との二つを同格に平列せしめて語ったが、
私にとっては『日本国家』と『人類』とは同格なのである。

日本国家が栄えることによってのみ、人類は栄えるのである。

『生長の家』で説く『実相』は、既往の仏教者の大多数が誤って『実相即ち空なり』と
説いたような 『空』ではない。

『実相』とは空気のような、エ-テルのような空しき無常の存在ではない。

実相とは無限荘厳の組織体である。

だから実相が顕現するとは、無限荘厳の組織体がこの世界に顕現しなければならない。
そしてヘ-ゲルも云ったように『国家は最高の組織体である』が故に、
完全なる国家の顕現が、実相の顕現であるのである。

而して世界にありとあらゆる国家組織体のうち、
日本国家のみが最高完全の組織体である。

その理由はその中心(すめろぎ)が万古不易永遠 に続いているからである。

外国の国家のように中心定まらず、時々交代するようでは最高完全の組織体とは云い難い)。

それ故『日本国家』は神の理念の最高顕現であり、無限荘厳の実相の顕現であるのである。

而して『日本国家』が拡がり行くことは実相の顕現がひろがり行くこととなる。
『日本国家』のために尽くすことは『人類』のために尽くすことになる。

人動(やや)もすれば『国家』的立場は一つの民族的執着の立場であり、
人類的立場は一層高き普遍的平等的立場で あると思いたがろうとするのであるが、
日本国家に於てのみ、国家的立場は人類的立場と完全に一致するのである。

国家的立場と、人類的立場と、家族的立場 と、個人的立場とは
悉く『まこと』(実相)の一つに於て一致する、これが生長の家の光明思想である。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/6510 より転写)

            <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

大和理念としての日本国 ~その1 - 伝統

2015/09/27 (Sun) 18:42:06

           *「私の日本憲法論」(P3~6)より

私は日本を限りなく愛する。私は限りなく愛国者であることを欲する。
こう云う言葉は真に日本を愛しない非愛国者から僧まれるかも知れない。
僧まれても好い、私は限りなく日本を愛し、日本的なるものを愛するのである。

兎も角も日本国が地上にいつの時代からか存在し、
神が日本人なるものを此の地上に生んだことは、何か日本国なるものや、
日本民族なるものに特殊の使命が与えられているのだと考えざるを得ない。

特殊だと云っても必ずしも、日本民族が他民族に優れていると云うのではない。

ささやかな梅の花にも梅の花としての特殊の美しさがある。
それは豊艶な桜や牡丹の花には及ばないにしても、
梅の花には梅の花に許された特殊の美がある。

日本民族にも日本民族に許された小さいながらも梅の花のような美があるのではなかろうか。
私は、それがあることを信ずる、信ぜざるを得ない。

私は、桜の花や牡丹の花を愛しないのではないが、此の小さい梅の花の雪に蔽(おお)われ、
寒気と戦いながら清楚に咲き出でた其の美を限りなく愛するように、

何か日本民族に許されたる日本的な美しさがあることを信じ、
これを愛せざるを得ないし、愛し育てたいことを念願とするのである。


日本的なものと云えば、直ぐ人々は軍国主義的なもの、好戦的なもの、侵略的なもの、
掠奪的なもの、狡滑なもの……等々とすべて悪しきものの総称が日本的なものと誤解せられ、
かかる「日本的なもの」を撥無(はつむ)し、除外し、消滅せしむることが、
日本人にとって必要な緊急の課題だと考えている向もあるらしい。

例えば、かつて「人間」と云う雑誌に出ていた「文学者の責務」と云う座談会に於いて、
荒正人と云う人が、「その日本的自我を解放しなければならぬ。
それはヨーロッパ的な個人主義であっていい」と平然として云い放っていた如きはそれである。


何が日本的であるか、若し「日本的」なるものが全面的に悪しきものであるならば、
それらすべてを抹殺し除去しそれらから人間を解放しなければならぬのは当然のことである。

ただ敗戦のためゆえに、全面的に日本的なものが悪いと考えるような考え方は、
若し日本が日清日露の両戦のように勝っていたときには、
「日本的なもの」は善きものだと考える考え方であり、

かかる考え方は、善悪の真理についての一貫した考え方ではなく、
その時その場の現象的勝敗と云う環境に迎合する時局便乗的な考え方であって、
真に善悪を定めるところの考え方ではないのである。


吾々は「日本的なもの」を肯定し、又は否定するまでに、
「目本的』とは如何なるものであるか、その前提をハッキリさせて置かなけれぱ、
「日本的なもの」を排斥しても肯定しても、何を排斥するのか肯定するのか
判らないことになると思う。


それでは「日本的」とは如何なることを指すのであろうか。
日本人が行為したから、それは悉(ことごと)く日本的だと考えるのは愚かなことである。

日本人は戦争をしたから、戦争をすることが果して「日本的」であろうか、
私はこれに対して否と答える。

そう云う好戦的なことを「日本的な」と云うのであるならば
私は「日本的なものを限りなく愛する」とは云わぬ。
私は却って、「日本的なものを限りなく排する」と云ったであろう。

日本的なものを愛すると云い、排すると云い、どちらにしても、
吾々は「日本的な」と云うものの中から、真に「日本的なもの」と、
真個(ほんとう)は日本的ではないが誤って「日本人が犯したもの」との区別を
ハッキリさせて置かなければならないと思う。


日本は今開闢(かいびゃく)以来の危機に直面している。
それは形骸の頽廃も重大な危機ではあるが、それは単なる肉体的危機である。

それよりも一層重大なのは日本民族が、理想を失おうとしていることであり、
すべての理想を失って、ただ焼跡に蠢動(しゅんどう)する蛆虫や昆虫のように、
亡国の民のみじめなる姿の中に闇から闇を追いつつ彷徨しつづけようとしている
ということである。

形の国は崩壊しても、キリストも云ったように「我が国は此の世の国にあらず」であるから
それは重大なるものではない。

最も重大なるものは、日本人であるところの、「日本に生れた人間」の内部にある理想
(これこそ本当の日本の国であり、「日本的なもの」である) が崩壊すると云うことである。

それが崩壊したとき、真に日本は、形の上でも魂の上でも滅びたと云うことになる。
今やそれが滅びつつあるのではないか。長谷川如是閑氏がこれを評して
「敗戦後も日本はまだ敗けつづけている」と云った如き状態がつづいていることである。

形の上での日本の崩壊よりも尚恐ろしいのは日本の魂の崩壊であるのである。
その日本の魂が、今もまだ崩壊しつづけていると云うことは何と云う悲惨なことであろうか。
私は限りなき悲痛をもって慟哭せざるを得ないのである。

(次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年9月27日 頓首再拝>

大和理念としての日本国 ~その2 - 伝統

2015/09/28 (Mon) 20:23:34


           *「私の日本憲法論」(P6~8)より

私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、
日本の国号が過去に於いてありし如く「大和」であると云うことである。

私の限りなく愛すると云った「日本的なもの」とは、日本の国旗の標識が○であるように、
すべてのものと手をつないで真に丸く、円満完全に、○の中が空であるが如く、
虚心無我にして、苟(いやしく)も私心を差し挿まない大調和な心と、
それより発し育てられ来たった大調和の事々物々を指すのであつて、
好戦的と云うこととは全く反対(うらはら)のことを指すのである。


私の信念に於いては本当に「日本的なもの」即ち「大和の理念」があらわれたら、
あの戦争は起らなかったに相違ないのである。

今後日本が国連の一員として平和を護って行く上に最も大切なのは
「大和」の理想の培養であらねばならぬ。

形の世界は心の世界の反影(リフレクション)であるから、心の世界に「大和」の理念が、
真に「日本的なもの」として、換言すれば、「日本本来の姿」として、確立せられなければ、
形の上にも真の「平和日本」は確立せられないのである。


「日本的なるもの」とは、必ずしも単に過去の現象歴史の上に於いて、
日本人が行為し来った行為の中に現れているものではない。
またその総和でもない。「

日本的なるもの」は、他の「ヨーロツパ的なるもの」と同じく、まず「理念」の世界に於いて
生み出され、それが徐々に歴史的現実となって具現化し出づるものであるから、歴史的現実を
跡辿(たど)って行くとき、その中にも発見されるが、
発見されるすべてが「日本的なるもの」と云うことは出来ないのである。

現象界は「理念」の現実化の世界であると同時に、それは「妄念」の具象化でもある。
真象(理念の具象化)と、偽象(妄念の具象化)とが交々(こもごも)相錯綜しているのが
歴史的現実である。

日本の歴史全部を日本的理念の表現だと考えることは、
真妄を甄別(けんべつ)しないことになる。

何処の国に於ける現代の市井の出来事にも、殺人も強盗もあるが、
それが「人間なるもの」の理念の表現ではなく、
迷える一部人の妄念の表現であるのと同じように、

歴史的現実にあらわれたる日本民族の諸相の中にも
真に「日本的な理念」の表現であるものと、
そうでない迷える人間の妄念の表現であるものとがある。

それをハツキリ区別し、理念の表現であるものを発見し、
妄念の表現であるものを非日本的なものとして排除し、正しく理念(又は理想)を
生き切って行くべく努力するところに、人間生命の知性の純化と、
意志の鍛錬と感情の陶冶(とうや)とがあるのである。

それは可成り難かしい仕事であるけれども、その難かしい仕事を努力して成し就げて行く
ところに人間の魂の向上があるのである。

〈中賂〉

大和の心こそ真の日本の国であり、国とは形ではなく、「心」そのものが日本の国である。

そして具体的「国」なるものは「心」の展開であるが故に、
大和の「心」が真に深く行じられたとき、真の日本の国は生れるのである。

まだ、謂わば真の日本の国は生れていなかったのである。
真の大和日本(理念の日本)は理念の奥深く眠っていたと云うほかはない。

戦争をした軍国日本の如きは真の日本を遠ざかること甚だしかったに拘らず、
僭上にも日本国と号した。併(しか)しそれは大和国ではなかったのである。

今や大和国は「理念」の底深きところからやっと生れ出でようとしているのである。
軍国主義のニセ日本の敗北が、理念の底に眠っていた「真の大和の国」に対して
その目覚めるべき契機を与えてくれたのである。

軍国主義日本の敗退を嘆いてはならない。
吾らの実相の「平和日本」は今理念の世界から顔を出しつつある。
太陽は今昇り始めたばかりである。

国民よ、この幼い日本愛し育てようではないか。  

(「生長の家」誌 昭和21年7月号に発表された日本の実相顕現運動発進への文章、
  昭和26<1951>年9月に公刊された「新生の書」第4章に収録)

・・・

<参考:「新生の書」目次

序文
第一章 價値書換の哲學 / p3
第二章 光へ步む生活 / p11
第三章 物質無と云ふことに就いて / p21

第四章 大和理念としての日本國 / p27

第五章 歸還同胞を迎へて / p39
第六章 平和への道 / p49
第七章 新生への言葉 / p59

第八章 戰爭內因の歷史の批判 / p67
第九章 唯心經濟史觀 / p79
第十章 唯物・唯心理論鬪爭 / p97

第十一章 新しき天地と新しき經濟理論 / p105
第十二章 見える世界と眞實の世界 / p119
第十三章 日本民主化と「家」の理念 / p125

第十四章 供給無限の黄金律 / p139
第十五章 理念の祖國に就いて / p155
第十六章 向上の爲の默念 / p159

第十七章 善の實踐に就いて / p187
第十八章 西田幾太郞博士との對話 / p221 >


            <感謝合掌 平成27年9月28日 頓首再拝>

『日本國の使命』 - 伝統

2015/09/29 (Tue) 18:33:11


          *「生長の家」(昭和16年10月の法語)より抜粋

《巻頭のことば》            

日本の國は《すめらみくに》である。

《すめら》は澄む〈浄化〉統(す)める〈統一総欖〉‘すすめ’〈前進、創造〉等の意味を含む。

澄むは浄化であり、復元であり、沈静であり、沈静は統一であり、
住み佳き世界の出現であるが、ただそれのみにては沈滞に陥るのである。

その沈滞を破って前進するのが、《すすめ》である。
《澄む》と進むとの正反を一つに統一し復元し、
更に新しく世界を創造して行く《みくに》がすめらみくにである。

《すめら》は一であり、『澄む』である。
澄むが前進によって分かれて陽陰となって現れる。
それが『《むすび》』である。

『む』は群れである。〈ム声の発音の時の唇の形を見よ〉 
『す』は前述の如く統(す)である。 
『ひ』は開くである。

開けば光があらわれ、一切群生を統一して、スの一元に復元し、
さらに前進して、萬霊を開くのが‘《むすび》である。

 
まず萬霊を産むのが産霊(むすび)であって、形を産むのではない。
形は、形なきもの〈霊〉の投影であって、象(かたち)の力は影であって、影立つが形である。

されば影立(かたち)の世界は日本では現世(うししよ)と云われている。
まづ霊を清めて萬象清まるのである。


《日本民族の使命を知る》

日本神随(にっぽんかんなが)らの道は、宇宙と與(とも)に立つ道である。
一人の人間が思索によって造り上げた理屈でもなければ哲学でもない。

宇宙と與(とも)に立ち、宇宙にミチる精神が、
そのまま日本民族を通してあらわれたる道である。

随ってそれは日本民族精神であるとともに宇宙精神である。
神の‘そのまま’のみこころであり、宇宙にミチているから道とも称するのである。

それは宇宙にミチているのであるから、無論外国人の生命の中(うち)にも満ちている
のであるけれども、大八州即ち東洋の日本列島は、伊邪那岐伊邪那美命の正しき天地・陽陰の結びに
よって創造された國であるから、その國に生れた民族は最も、宇宙にミチが正しく宿っているのである。

 
そこで日本民族が‘そのまま’の心になるとき、其処に最も完全に『道』があらわれる。
それは『神さながらの道』であるから、『神(かん)ながらの道』と云うのであるが、
同時に日本民族の‘そのまま’の精神であるから、日本民族精神とも、また簡単に日本精神とも
云うのである。

論(い)うまでもなく、外国民族にも、その精神はやどっているのであるから、
‘そのまま’の心になったときには外国人でも日本精神は理解出来る。

単に理解出来るだけではなく、日本精神に成り得るのであり、
それが理解出来、日本精神に成り得たとき、
六合(りくごう)一都・八絋一宇の神武天皇様の御理想が実現するのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346 より抜粋し転写)


            <感謝合掌 平成27年9月29日 頓首再拝>

四方拝の精神こそ日本精神である - 伝統

2015/09/30 (Wed) 19:07:55


           *「生長の家」(昭和16年10月2日の法語)より

日本民族は何事にも神々しき心持を持っていたのである。

無明(まよい)や執着が國を生んだのではなく、神が國を生んだと信じていたのである。
いたるところに神を観たのであって、八百萬神々の思想は、
その到る処に神を観たところの日本民族の聖なる心の反映である。

神を観るものは、神の心が宿っているからである。
他を神として礼拝し得る者は、自分自身の中(うち)に神性が目覚めているからである。

自分の中に『光』の感覚の起らない者は、外界に『光』があっても見ることが出来ない。
自分の中に『赤い色』の感覚が起らない者には、外界に『赤い花』が咲いていても、
赤い花だとは感じ得ない。

到るところに八百萬神々を見ることが出来た日本民族は、
自分の中に神性は目覚めていたからである。
即ち自分自身が『神』であるからである。

だから古代日本人はみづからミコトと謂い、彦〈日子〉と云い、姫〈日女〉と称した。
自己神性の自覚である。自分が神性を自覚したから、萬物にそのまま神性を観ることが出来、
萬物に八百萬神々を見たのである。


神性の自覚は、理論では説くことは出来ない。
釈迦無尼佛も四十余年間説法したけれども、
一字不説で、一字も説いたことはないと云われている。

本当のことは言説を超えている。
説くことが出来ない。
ただ行ずるだけである。

萬物を神であるとして拝した。

その四方拝の精神こそ日本精神である。

            <感謝合掌 平成27年9月30日 頓首再拝>

『今』と『久遠』との一致、散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神 - 伝統

2015/10/01 (Thu) 20:42:02


           *「生長の家」(昭和16年10月3日の法語)より

     みる人はなきものにしてしづがやの籬の花は咲きならひけむ


畏くも此の明治天皇御製の中(うち)にあらわれている
「しづがやの籬(まがき)の花」の心が日本精神である。

見られるために何事をも成すのではない。
すこしも衒うこころもなければ、人に見せびらかす心もない。
ただありのままに、‘いのち’のありのままに咲いているのである。

それは、説教するような心でもなく、他に打ち勝ちたい心でもない。
争う心でもない。絶対が其処にあらわれている。
刻々瞬々が無限の‘いのち’である。

明日炉に投げ入れられようと、
賎(しづ)が屋のまがきの花は『今』絶対生活を生きているのである。
『今』久遠の生命(いのち)を生きているのである。
一字不説である。しかも久遠現成(げんじょう)である。
久遠の生命が『今』現に成就しているのである。


 同じく四十四年の御製に ――


     なつかしき朧月夜のかげふみてたたずむ袖にちる櫻かな


単に叙景の御歌としてもまことに素晴らしく拝せられるのでありますが、
『散る櫻』が散る瞬間に『久遠の生命』を生きているのであり、その瞬間と久遠との一致、
『今』と『久遠』との現成をいみじくも捉えたまうて表現したまうたのであります。

 
この『今』と『久遠』との一致、
散る一瞬に『久遠なるもの』を見る精神が日本精神なのであります。

            <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

『老即新生』・『死即生』の把握が日本精神 - 伝統

2015/10/02 (Fri) 19:30:22


           *「生長の家」(昭和16年10月4日の法語)より

花は散る。人は現世の船を乗り降りするけれども、
そこに散らないものがあり、乗り降りしないものがある
 ―― そこに『久遠不滅』のものがあることを悟ることが必要なのである。

 
無常に常(じょう)に観、うつろな姿が不壊(くだけない)なるものを見るのが、
武士(もののふ)の、もののあはれを知る心である。

 『古池や蛙跳び込む水の音』

波紋は消え、蛙は去る。
しかしながら天地がその静寂の中に久遠の音を立てているのである。

瞬間と久遠との一致である。


 明治天皇御製に宣わく
  
     ちる花をのせてかへりぬ渡舟むかひの岸に人はおろして
     さむしとてこもるべしや枝くちし老木のうめも花さきにけり


人間不老不死である。老衰と復古と新生とが
『一』になっているところの『生命』を把握したまいし
御表現にましますのである。

『老即新生』の把握、死即生の把握が日本精神である。

日本に於ては『死』は単なる『死』ではない。〈随って『死』は無いとも云い得る〉

『死』することが『生』きることである。
『生命を得んとする者は生命を失い、生命を捐つるものは生命を得ん』とイエスも云っている。

日本神随らの道は宇宙の道であるから、何処へ往っても、聖賢の教えは『一』である。

底に足をついていては泳ぐことは出来ぬ。

足を思い切って離したとき浮く。
 

            <感謝合掌 平成27年10月2日 頓首再拝>

『理念の国と現象の国』 - 伝統

2015/10/04 (Sun) 19:13:17

            *「我ら日本人として」より抜粋

(1)理念とは(P36~37)

  ①理念とは神様が心に描かれた念であります。

  ②理念は物質ではないから壊けない金剛不壊であります。
   これを實在とも實相とも言います。


(2)理念の国とは (P40)

   人間にその霊的原型として「理念の人間」が実在するとおり、
   国にもやっぱり「理念の国」という霊的原型が実在するのであります。

   アメリカ合衆国には合衆国としての理念があるのです。
   日本の国には「日本の国」の理念があるのです。


(3)「日本の国」の理念とは(P40~41)

  ①日本のホンモノは「大和理念の国としての日本」であります。
   「大いに和するところの理念」であり、理想であります。

   その理想が形に現れて出て来たのが日本の国であります。

   現在、形に現れている「日本の国」というものは、
   これは「実相の日本の国」じゃなくて、映像(うつし)なのです。

   「映像(うつし)の世界」と「實在の世界」とを混同してはなりません。  

  ②「本当の日本国」とは、現象の奥にあるところの「大和の国」なる
   滅びない「理念国家」がそれであるのです。     


(4)(古事記・日本書紀における)天孫降臨とは(P58~59)

  ①天とは、實相世界のことなのであります。

  ②孫とは、「まご(孫)」という意味ではなく、
   眞子(マゴ)即ちマコトのミコという意味であります。

   ウソ(嘘)の子ではなく、正真正銘の、實相世界の間違いのない
   眞(まこと)の子が人類であるという意味であります。

  ③まことの子という「子」という意味は、「凝り固まる」ことであります。
   つまり無形のものが結晶して形になて出たものが「子」です。

  ④實相の世界から物質肉体の形に結晶してあらわれたののが、天孫降臨であります。

   そして、「大和の国」を建てたということになっているのであります。

  ⑤皇孫ニニギの命様の正式な御名前は、
   「天ニギシ国ニギシ天津日高日子番能ニニギノ命」であらせられます。

   この御名前にも、日本の理想が象徴せられているのであります。

   アメニギシは「天賑し」であり、「天の賑わい」、
   クニニギシは「地の賑わい」であります。

   「天の繁栄を地にもち来たして地を繁栄させるところの高き日の御子」が
   ニニギノミコト様だということになっているわけであります。


(5)形に現れている「日本の国」とは

  ①無形の実相世界から”大和の理念”が天降って、
   それが形をあらわしたのが日本の国である。

   それ以来色々な状態に現れたのは、
   この理念がいろいろの角度から影をうつしたのであります。(P60)

  ②その不滅国家(理念国家)が現象界に現れたのが即ち
   神武天皇のあの大和の橿原で国を建て都を造り給うて、
   そして「八紘一宇」という大理想を宣言された。

   あそこに「理念国家たる日本」の最初の現象界への顕現があるのであります。(P41)

  ③或る時にはその理想の影は濃く、或る時には薄く、或る時には現象的には
   その影が消え失せたようにも見えたかも知れないけれども、
   理念は金剛不壊であって不滅なのであります。 (P60)


(6)日本民族としての自覚とは(P34~P35)

  ①日本人が神孫としてその魂が天降って地上に肉生したという日本の理想は、
   それは神話であるにせよ、日本人の未来を「神らしさ」に引き上げていく
   ものであるのである。

  ②神の生命を分かち持つという自覚を失うとき、
   どんな日本民族の未来の運命が展開するのであろうか・・・。

            <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

日本人よ、自己の尊厳と自国の尊厳を知れ! - 伝統

2015/10/29 (Thu) 19:39:14


           *「古事記と現代の予言」(P6~7)より

しかし日本人よ。もっと自己の尊厳を知り、自国の尊厳を知れ。

西洋人のつくり出した神話によって、その国が支配されるようになったとき、
その国は形の上では独立国であっても、中味は植民地であるのである。

凡そその国の文化といい得るものは、その国の民族それ自信が創作した
ものでなければならないのである。そうでなければ、その国の文化が如何に
絢爛たるものであっても、それは輸入文化であり、植民地文化であるのである。

ダーウインの類人猿進化説や、マルクスの唯物史観に動かされて、日本古来の文化の傳統が
歪められるならば、日本は文化の面において既に独立国家たる本質を失いつつあるのである。

吾々日本人は断じて、ダーウインのつくった神話や、マルクスの創作した神話によって、
日本の文化を侵略させてはないのである。

日本の完全独立が叫ばれる聲が激しいけれども、形の上で外国軍隊が駐屯しなくなっても、
日本人たちの精神の世界において、そして、もっと深い、そして、魂、の深層において、
外国人のつくった唯物論的人間観や、唯物論的国家観を君臨させておく限りにおいて、

精神の上、魂の上では、本来の日本国は滅びてしまって植民地となっていると
いわなければならないのである。

日本人よ、日本人の顔していて中味の精神は外国の神話で満たされ、
それによって動かされている半人半獣の怪物になってはならないのである。

            <感謝合掌 平成27年10月29日 頓首再拝>

日本人よ、自己の尊厳と自国の尊厳を知れ!~その2 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 19:30:22


           *「古事記と現代の予言」(P7~8)より

日本民族は人間をダーウインの如く、獣人、として把握しないで、
神人、として把握したのである。

それゆえに、古代人は、すべて何々之命(なになにのみこと)と称したのである。
そして男子を”日子(ひこ)”即ち天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子(みこ)と称し、
女子を”日女(ひめ)”即ち天照大御神の御子(みこ)と称したのである。

そして日本民族ぜんたいを天孫民族(てんそんみんぞく)と称して、神の生命(せいめい)の
降臨であると把握し、国号を「大和」(ヤマト)又は日本(ひのもと)と称して、
日の大神の降臨によって六合(りくごう)を照徹してこれを光明化し、一切の人類を
大和(だいわ)の理想のもとに包容する偉大なる国家としてこの国を出発させたのである。

「六合を兼ねて都を開き、八紘(はつこう)を掩(おお)いて宇(いえ)と為さん」という
神武建国の宣言は、まさに日本民族が創作した一大戯曲であり、一大詩劇の一節であり、
神話の実現であるのである。

戦後の唯物論的歴史家は「実證、実證」と称して、遺跡や、日本文化の残留物だけを
探しまわって、日本民族の精神的歴史を知ろうとしないから本当の日本国も本当の日本民族も
わからないのである。

残留物を探しまわって日本の生命(せいめい)を知ろうとしても不可能なのは、
死骸をいくら探して見ても生命が見当たらないのと同じである。

日本国の生命(せいめい)の歴史は神話に求めることによってのみ得られるのである。

            <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

天皇国日本 - 伝統

2015/11/24 (Tue) 19:37:48


       *「古事記と現代の預言」(序~神話というものについて)(P9~10)より

   「日出ずる国」として天照大御神(あまてらすおおみかみ)の「豊葦原(とよあしはら)の
   千五秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は、
   是(こ)れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」


   という神勅(しんちょく)より出発した日本国は、世界を光をもって照らして
   地上に「大和」の天国を招来する使命をもつ国であるとの神話を自覚意識は勿論、
   潜在意識の深層にもっていて建てられた国家である。

   マルクスの神話が西欧諸国や中共を動かして特殊の文化を形成しつつあると同じように、
   文書以前に出発し、やがて「古事記」や「日本書記」によって傳承されたる日本民族の
   神話が、日本の建国となり、そこに独自の日本文化を形成し、
   日本独得の天皇中心国家を形成して今日に至ったのである。


   この日本民族神話の中核を形成するものは、「大和」(やまと)の理念であり、
   天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)なる創造神をもって始まる神話の
   第一章の「御中」を中心として全世界が大調和にまとまる理想である。


   日本は概ね東洋文化に属し、東洋文化は霊的文化、宗教文化であると称せられている
   けれども、

   実は日本民族の創作した神話は、、御中主、の理念によって、一切万象を統合し、
   東洋の霊的文化と西欧の物質文化と両方を一つの「絶対無」の中心に包摂して、
   それを大和(だいわ)する理想を表現しているのである。

   日本民族創作の衣食住の習慣又は方式をよくよく観察してみると、
   その事がよく分かるのである。


   日本民族よ、もっと日本民族の創作した独自の文化の尊厳に自身をもって頂きたい
   のであり、ゆめゆめ、外国創作の神話に日本文化を蹂躙せしめてはならないのである。

   そして「天皇国日本」は日本民族が創作した世界最大の文化的創作であって、
   これより大なる大芸術は他のどこにもないことを知って、
   この国體を尊重して貰いたいものである。

        昭和43年4月22日      著者しるす

            <感謝合掌 平成27年11月24日 頓首再拝>

日本国の本質は天照大御神の神勅(みことのり)である - 伝統

2015/11/27 (Fri) 19:46:50


         *『私の日本憲法論』(P34)
           《理念篇 仏典・聖書より観たる宇宙の実相
            ――日本の国体と憲法との奥にあるもの――》より


私がこんな話をいたしますのは、
実は日本国家の本質について皆さんのご理解を得たいからなのであります。

日本国は誰が何を如何にして創造されたかという問題であります。

日本国がどのようにして出来たかと申しますと、
日本書紀には、天照大御神の勅(みことのり)によりまして、


 「豊芦原千五百秋之瑞穂国(とよあしはらのちいほあきのみずほのくに)は、
  是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。

  宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ、行矣(さきくませ)。
  宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と
  窮無(きわまりな)かるべし」

 
と録(しる)されているのであります。

天照大御神の「天」とは天球即ち宇宙でありまして、
天照大御神とは宇宙の大神であらせられます。

大神が出現された時の有様を日本書紀には
「光華明彩六合照徹(ひかりうるわしくりくごうにてりとおらせり)」と書かれており、
宇宙全体にその光明がうるわしく照り徹っている有様が形容されているのであります。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1507 より転載)

            <感謝合掌 平成27年11月27日 頓首再拝>

瑞穂の国の根本構図について - 伝統

2015/11/30 (Mon) 19:37:54


         *『私の日本憲法論』(P36~37)
           《理念篇 仏典・聖書より観たる宇宙の実相
            ――日本の国体と憲法との奥にあるもの――》より


その水火国(みずほのくに)が如何なる形相をもつべきか、
換言すれば、如何なる構造であるべきかの、根本構図として示されたのが、
「世々わが子孫の王なるべき地なり」というコトバであります。

これは「この根本構図は、一切の存在は世々変らざる即ち永久不変の中心をもつべきものである」
という意味であります。

これが宇宙の大神たる天照大御神の御宣言なのであります。
それは宇宙の大神の御宣言でありますから、宇宙の万物すべてのものに
あらわれている存在の根本的構図の原理であります。

だから吾々が知っている最も小さな存在たる"原子"も、
原子核という永久変らざる中心をもっているのであります。
原子が原子としての存在を保っているのは、
原子核という「永久変らざる中心」があるからである。

原子核を中性子で攻撃して、核を破壊してしまえば、
もうその原子は、爆発して飛んでしまって存在しなくなります。

太陽系統も、太陽というその系統の「永久変らざる中心」があるので、
その存在を保っているのであって、何らかの原因で太陽が爆発して飛んでしまったり、
消えてしまったら、太陽系を巡る天体は、中心を失って存在しなくなる。
無論、地球は単なる"死天体"として冷却して、一切の生物は存在し得なくなります。

家庭も、家長たる父又は良人がその家庭から姿を消すと、
従来の安泰平和な状態を失って、四分五裂してしまう。

国家も日本天皇の如き万世一系の変らざる中心が無くなってしまえば、
四分五裂して、ソ連や中共の革命当時のような混乱状態が起るのは必然であります。

そしてその混乱は一時的ではなく、たえず強者が弱者を倒して、易姓革命が起り、
王朝が変り、インドネシアのような状態や、中共の紅衛兵旋風に類するものが起って、
存在の安定が失われてしまうのであります。

このようにすべての存在は、永久変らざる中心を持つことによって、
その存在を維持しているのであります。

 
ところが現行の憲法では、国家の中心である天皇を象徴と称して、
半ば破懐し、"家"の制度を根本的に破懐した。

家長とか戸主 とかいうものはなくて、唯(ただ)夫婦単位に、
陰陽がただ集っているのが家庭であって、中心というものはない。

恰度(ちょうど)それは分子を滅茶苦茶に集合さしただけであるから、
親の言うことをきく必要もなければ、親孝行する義務もない。夫に操をつくすという要請もない。
ほかに好きな男が出来たら、離婚するのは自由だというようにできている。

中心のない家庭雑居は、もう既に「家」ではないのであって、
それはただの下宿人の集まりである。
太陽を失った遊星のように、みんな冷えつつある。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1507 より転載)

            <感謝合掌 平成27年11月30日 頓首再拝>

“愛”は“自他一体の自覚”、”愛国心”は国民と国家との”生命一体の自覚” - 伝統

2015/12/16 (Wed) 19:31:25


              *『愛はかくして完成す』(245~248)より
          

《“愛”とは“自他一体の自覚”である》

“愛”は“自他一体の自覚”であるとは、私が常に説くところである。

肉体は現象的には別個の存在としてあらわれながら、
実相は互いに“一体の魂”であり、生命が互いに一体であり、
互いに魂の半身であるという自覚が愛である。

 
愛国心とは何であるか、抑々(そもそも)、“国を愛する”という
其の“国”なるものは一体何であるかと、近頃の若い人は尋ねる。 

そして大人からも若い人からも適確明瞭な回答が得られないのである。

ある人は“運命協同体”というものが“国”であるという。 
無論、国が敗戦したら、国民はその敗戦の惨害をまともに受ける。 
私たち日本人はその惨害を身をもって体験したのである。

国が栄えれば、国民はその余慶を受ける。 
インドネシアやアフリカの新興国家や、インドやパキスタンは経済的後進国として
“国”が経済的に繁栄していないために、国民も個人として裕かなる生活が出来ない。

 
“国”が戦争しているために、国民が常に爆撃や銃砲火の危険に晒され、
難民が続出している国もある。 

そのような国家の運命は直ちに国民の運命を左右し、
“国”の平和と繁栄とは国民の生活の平和と繁栄につながり、
国家の危機は国民の危機につながる。

まことに国民と国家との運命は一体である。 
その一体の自覚が“愛国心”というものである。


《彼女を愛すること・国家を愛すること》

国家と自分とが一体であるという‘自覚’の前には、
「“国”とは抑々(そもそも)何であるか」などという
廻りくどい論理の弄びなどはする気にならないのである。

それは、ある青年がある女性を真に愛したならば、
「この自分が愛している女は一体何であるか。 彼女の正体は何であるか。 
彼女は物質の分子が集まっている唯の肉塊ではないか、そんなものを私は何のために愛するのだ。 
愛する価値がないではないか。 

彼女は美しく見えているけれども、それは皮膚一枚の仮面を被っているだけではないか。 
皮膚一枚めくって見ると、見るに耐えない血みどろの肉塊である。 
そして内臓の中には異臭芬芬たる糞便がつまっている。 彼女の正体はこんなに汚ないものだ。 
愛すべき理由はないではないか」  

などとは決して論理の遊戯をもてあそぼうとはしないのである。

 
彼女を愛している青年は、そんな論理も、正体の究明も超えて、
ただ直截簡明に、彼女との一体の生命を自覚して、ただ愛するのである。

 
私たちが「国を愛する」というのも、それと同じである。 
国家の生命と自分の生命とが一体であることを自覚して、「ただ愛する」のである。

「愛する」とは、そのようなことである。 

論理の遊戯や、分析の遊びを超越して、直接「国家」の生命に触れ、
それとの一体の自覚から、唯愛さずにはいられないのである。

            <感謝合掌 平成27年12月16日 頓首再拝>

生命の全的把握としての 『國』 と 『家』 - 伝統

2015/12/29 (Tue) 20:03:19


             *Web:『生命の實相』哲學に学ぶ(2015/12/1)より
 
『家』を尊ぶという場合の『家』は、決して『建物』という意味でもなければ、
個人の生命を縛るところの『封建的制度』でもないのである。

『家』とは『宗祖』の生命と『個』の生命との『一連続』を表現する言葉である。 

戦後の日本人は『個』の生命には目覚めたけれども、概ね唯物論であるから、
『祖孫一体・親子一体』の“連続体としての生命”の自覚を欠く傾向が非常に強いのである。

人間の生命は『個』だけで忽然と地上に生れたのではない。 
祖を通じ、父母を通じ、その生命の一連続の地上への顕現として此処に在る。 
それを自覚しないことは、人間生命の部分的自覚に過ぎない。

私たちは生命の部分だけで生きるだけで満足してはならない。 
私たちは生命の『全』を生きなければならない。 
それこそが自己の『全』を真に愛する道である。 

それゆえに真に自己の『全』を愛するためには祖先の生命が其処に生きている
『國』を愛しなければならないし、『家』を愛しなければならない。

私たちは憲法にどうきめてあるから『國』を愛するというのではなく、
法令で『家』の制度がなくなり『戸主』がなくなったからとて
『家』を愛しないというのではない。 

『國』と『家』とは私たちの『個』のいのちが其処に生きている本源であり、
単に本源であるばかりでなく『祖』の生命が自己と家族の生命として分化して
発展してその空間的広袤としてあらわれたものが『國』であり『家』であるから、

『國』を単に『人民』に対立してそれを束縛する存在と見たり、
単に人民が住むための土地の面積だと思ったり、
『家』を単に『個人』の集団の場に過ぎぬと思ったりするのは誤りであるのである。

『國』と『家』こそは、祖孫、親子一体の生命の具体的表現であり、
過去と未来を『今』の一点に把握するその生命の展開であるのである。 

この生命把握の認識が欠如して、ただ唯物論的に孤立せる『個』としての
“肉体”のみを『人間』だと感ずるがゆえに、一切の過ちとわざわいとは
むらがり生ずることになるのである。

私が憲法復元を高唱するのはこの意味における祖孫・親子・一体の生命の
宗教的心霊的把握の上からであって、

『現行憲法が単に、占領中に押しつけられたものであるから、
その内容は良いけれども排斥する』というような、
そんな根拠の薄弱なものではないのである。

真の民主主義は『個』としての生命が祖孫一体に拡大してのみ完成し得るのである。 
しかし前述せるが如くジャーナリズムの大半は言葉の利剣をもって現行憲法の改定を
ただ『改悪』として『斬捨御免』的に葬り去ろうとしているのである。 

かくの如き一方的な言葉の暴力で日本の大衆は欺瞞されつつあるのに
われらは黙して好いものであろうか。 

ああ、われらに協力して、真に日本を愛する人は出でざるか。 
愛国者協力して運動化しなければ、國を救うことはできない。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19738538.html  より転写)

            <感謝合掌 平成27年12月29日 頓首再拝>

天皇国不滅 - 伝統

2016/01/01 (Fri) 19:24:25

年頭に立って惟うこと 天皇国不滅・億兆々年無限継続
              

         *昭和57年1月1日 聖使命  第1242号 より抜粋
          ~ 生長の家総裁   谷口 雅春 

起ったり終わったりするものは本当にあるものではない。

Kingdom of Heaven is at hand.という語を「天国は近づけり」と訳した人もあったが、
「神の国は今此処に在り」と訳した人もあった。

「天国は近づけり」と訳した人には天国は季節の循環によって
動いてくるもののようにも思える。

at hand という語は「手のとどく所に」という意味であって
「天国が歩いて近づいてくる」という意味ではないのだ。

「人形つかい、首にかけたる人形箱、鬼を出そうと仏出そうと」と云う諺もある。

そういう意味で、この世界に地獄相をあらわそうと、極楽相を現出しようと
自分の心の侭で、自由になるーという意味である。


この世界の主体は、主体の如き顔をしてあらわしている客観体にあるのではなく、
観る側の“心”が主体なのである。そんなら観られている事物は本来無いのであって、
“心”ばかりが姿をあらわしているのであるかと云うと、そうでもないのである。

観られている事物はすべて本来無いのであったら、
それは幻化の所作であって、何らの確実性もないことになる。
 
私は“本当にあるもの”を実相と云う、また実在といっても好い。
本当にあるものが、現れているものと分離せずに“一つ”になっている
=主客未部分のものが「本当に有る実在」である。


私はよく日本の事を「天皇国家」と呼ぶ。
天皇が中心にましまして国家がその外延であると云えば、
天皇と国家とが分離してしまう惧れがあるのである。

「天皇国家」ズバリ其の侭一つなのが日本国家である。
 
仮にポーランドと云う国があって、何某という政権担当者があったが、
革命が起って、何某は逮捕されて、何々某が政権を握ったとする。
政治の体制もそれで変った。もう以前のポーランドは無いのである。

このような国々が諸外国の国々だ。
つまり総理大臣が変れば、前の国家そのものが無くなるのである。
 
日本国では総理大臣が変っても日本国は変らない。
何故なら日本国は天皇国日本であるからである。

天皇さまと日本国とは一体であるからだ。

天皇と云う天授の主権者(天孫降臨・永遠不滅)のあらわれにまします日本国家は、
天授であるから滅びるということがないのである。

教育勅語に「皇祖皇宗国を肇むること高遠に徳を樹つること深厚なり」と
明治天皇は仰せられた。

高遠なる世界即ち実相世界の徳を天授としてそれが天降り給いて
皇祖天照大御神地上に天降りまして、「天孫降臨」となったのである。

天孫降臨とは地上に天国の種子天降って、根を張り幹が伸びつつあることである。
天孫とは天照大御神の皇御孫(すめみ真子・マコトの御生命)うるわしく
地上に生々の気を延ばし給うことである。

それは本当に、実在する天国の降下であるから滅びることはないのである。

神国不滅、天皇国不滅である。

   (http://blog.livedoor.jp/honnenojidai/ より抜粋)

            <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

天皇制の理念に就いて - 伝統

2016/01/04 (Mon) 19:54:45


         *『白鳩』誌 昭和21年3月号掲載の予定なるも検閲にて全文削除さる
          『大和の国日本』(89頁 ~ 90頁)より

凡そ形あるものは、内在の『形なき形』 ― 理念的存在の具象化せるものである。
 
日本が皇統連綿二千六百余年の光栄ある歴史を存続せしめ得たのは、唯偶然の所産ではない
のであって、日本民族に内在する民族理念が、終始一貫『中心』をもとめ、その『中心』に
帰趨し還帰し復元しそこより再び出発して其処に復るところの生命の中心本体を
礼拝帰一せずにはおれないところの其の本然性の然らしむるところであるのである。

 
斯く、中心者をもとめ、それに礼拝帰一せんとの本然性を、
単なる封建制であると考えることは間違いである。 

事物にはすべて中心がある。 

中心者の前には容易にひれ伏す素直な心情こそ、
日本人に与えられる純情なる幼な児の如き、『神への帰一の心』 ― 宗教心の発露であって、
日本人の忠誠心は此の心の現われの一つであるのである。 

そしてその生命の必然的礼拝の対象者として吾々の心の中に内在する
理念的実在が『天皇なるもの』であらせられるのである。 


歴代の天皇はその理念の表現として具体的天皇であらせられた。 

そしてその具体的天皇は常に必ずしも理想的天皇の状態をあらわし給うとは限らない
のであって、その時代の国民の精神状態が反映して理念の完全なる天皇にも
色々の影が反映したのである。 


かくて古事記にも必ずしも完璧なる天皇の御状態のみが書いてあるのではない。 
武烈天皇の如き天皇も歴代のうちには描かれているのである。 

具体的現象の天皇が如何に不完全であらせられようとも、
天皇に就いて日本民族は失望したことはないのである。 

現象の状態が如何にあろうとも本当の天皇は理念の世界に理念的完全の天皇として
日本民族の心の中にあるのである。

永遠で完全にまします天皇 ― 吾々の心の中には斯くの如き理念が存在して、
それにすべての細胞的存在なる臣民の理念が奉仕しているのである ― 斯くの如き、
有機的生命的世界観 ― 日本民族に於ける中心への還帰帰一の心、忠誠心があるのが
欠点なのではない。 

この心を利用して自己の幕府的存在の野心を満足せしめようとした重臣的、又は軍閥的、
将軍的存在が理念の完璧なる天皇の真象の顕現を隠覆して、その聖明を蒙まし奉ったのである。 

それは日蝕に於ける表面の暗黒的存在が、太陽そのものにあるのではなくして、
地球みずからの影であるが如くである。 

かくて、日蝕について太陽それ自体を犯罪者として非難する如きは愚かなることであって、
地球みずからが懺悔し反省しなければならないと同じように、

国家の重臣、軍閥、将軍家的存在が、
皇の『久遠神聖の理念』を顕現を曇らし奉ったことについて
真に深き懺悔を必要とするのである。

 ( http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e9e383f885dc4737d8e1e0c26c867819 より転写)

            <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

大和(だいわ)の國の神示 - 伝統

2016/01/06 (Wed) 20:31:59

            *「大和の国日本」(P25~27)より

われ再び大日本天津日嗣天皇(あまつひつぎすめらみこと)と云ふ意味について語らん。

天孫降臨(てんそんこうりん)と云ふことは
天の父のみこころが天降つて、天(あめ)の下ことごとくが一つの光の世界になり、
大和(だいわ)、平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。

日本民族が世界を治めるのでなく、
『天孫』すなはち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。

これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。

それが真の大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)である。

大日本世界國(ひかりあまねきせかいのくに)と云ふことを狭い意味に解して、
日本民族の國だなどと考へるから誤解を生ずるのである。
そんなものは、小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。

天(あめ)の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを
「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
と教へたのである。

天孫(てんそん)とは肉體のことではない。
「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、やはり肉體のことだと思つて
執着が強いから大それた間違をして取返しがつかぬことになるのである。

神からみればすべての人間は神の子であるから、
特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。
あまり自惚れるから間違ふのである。

大日本天津日嗣(だいにっぽんあまつひつぎ)スメラミコトとは固有名詞ではない。
理念の表現である。

「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津(あまつ)」すなわち「天の父の」、
「日嗣(ひつぎ)」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
「スメラミコト」すなはち「天降(あも)りましたる帝王」と云ふ意味であるから、

総じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる
天降(あも)りましたる帝王」と云ふことである。

天の父のみこころが全世界に光被(こうひ)してあまねく平和になる世界になれば、
それが本當の大和(だいわ)の國である。
それが本當の大日本天津日嗣(だいにっぽんあまつひつぎ)すめらみことの
治しめし給ふ世界である。

肉體のことではない。

(昭和二十一年一月六日朝の啓示による)

            <感謝合掌 平成28年1月6日 頓首再拝>

「大和の國の神示」講義 - 伝統

2016/01/08 (Fri) 19:48:32


(昭和51年6月2日)
            *「大和の国日本」(P29~34)より


〔われ再び大日本天津日嗣天皇(あまつひつぎすめらみこと)と云ふ意味について語らん。〕

神示の冒頭に「われ再び・・・」と言われているのは、
生長の家の草創期に天降った「久遠天上理想国実現の神示」(昭和七年五月二十七日)、
「実相金剛身の神示」(昭和七年九月二日)、「梅の花の神示」(昭和八年一月六日)
を通して、神は「日本国」と「天皇」の実相を明らかにされたが、

大東亜戦争と、それに続く連合国の日本占領によって、
日本国民の永続性と久遠性との自覚が破れ、国家大権と天皇大権が一時中断されたなかで
再び「天皇」と「日本国」の実相を明らかにしようとされたからであります。

さて、「天津日嗣」の〝天津〟とは、天津神すなわち「実相の神」のことでありますが、
本源の神としては天之御中主神様を申し上げ、これが陰陽二つの働きに分れて見れば
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)様と神産巣日神(かみむすびのかみ)様の
二柱の神様のことを申し上げるのであります。

つぎに”日嗣”(ひつぎ)というのは”日”は即ち”霊(ひ)”であって
「霊的理念」のことであります。

従って「天津日嗣」とは、天之御中主神の中心帰一の原理であるところの
「中(みなか)」の理念を承け継ぐということであります。


つづいて「天孫降臨」と云うことでありますが、”天孫”の”孫”とは
子のつぎの三代目になる孫(まご)といった意味ではなく、「天の御心」(理念)の
真子(まこ)即ち「真実の子」(真実の具体化)という意味であります。

ですから「神示」には、


  〔天孫降臨と云ふことは天の父のみこころが天降つて、
  天(あめ)が下(した)ことごとくが一つの光の世界になり、大和(だいわ)、
  平和の世界があらはれると云ふ意味の象徴的表現である。〕


と示されているのであります。つづいて「神示」には、


  〔日本民族が世界を治めるのでなく、
  『天孫』すなはち『天の父のみこころ』が全世界を治める時期が到ることである。
  これがイエスの『主の祈り』にある御心が既に成る世界の意味である。〕

と、示されているのであります。

これはどういうことであるかと申しますと、天孫が天降ってきて、
この世界を治めるということは、何も、肉体の孫がでてきて全世界を治める
ということではないのであり、

「天の父のみこころ」を受けた真(まこと)の子すなわち、
皇孫尊(すめみまのみこと)によって全世界を治める時期が来るということであります。
それは「御心の天になるが如く、地にもならせ給え」と祈れと
イエス・キリストが言われたそれと同じ意味のことであります。


「御心の天に成るが如く、地にもならせ給え」というのは、
「神の御心が”天”即ち”実相の世界”に既に成就し実現しているのであるが、
その如く”地”即ち”現象世界”にも実現し成就せしめ給え」という祈りであります。

その「御心の天に成る」世界が大日本世界国であるというのであります。
神示には「大日本世界国」と書いて、「ひかりあまねきせかいのくに」と
ふり仮名がつけられているのでありますが、漢字よりもこのふり仮名の方に
もっと深い意味があるわけであります。

即ち”大日本”とはひかりあまねき国であって、日本列島の如き小日本ではない。
”ひかりあまねきせかいのくに”これが「大日本世界国」であるのであります。
 

だから「大日本世界国」になることを、民族意識が昂揚(こうよう)して、
日本民族が全世界を統一することだとそのように考えることは間違いなのであります。

「大日本世界国」とはふり仮名でかいてある通り、「ひかりあまねきせかいのくに」であって、
いわゆる黄色人種である日本民族の国というのは、小日本国である。

本当の大日本国とはひかりの国であり、「ひかりあまねき」日本の国こそ大日本国である。
それはすなわち「天(あめ)の下(した)ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる
世界が来る」ことだということであります。
 
従って「神示」に示されてあるところの「全世界五大洲の國土を『天孫』に
御奉還申すべき時期が來る」という意味は、「天孫」すなわち「天の父のみこころ」が
全世界を治める時期が到るということであり、

またイエスの『主の祈り』にある「御心の既に成る世界」が地にもならしめられる時が
来るということであり、それが真の「大日本世界国」即ち「ひかりあまねきせかいのくに」
となるということなのであります。


 〔大日本世界國と云ふことを狭い意味に解して、日本民族の國だなどと考へるから
  誤解(まちがい)を生ずるのである。

  そんなものは、小日本であり、本當の大日本國(ひかりのくに)ではない。

  天の下ことごとくが『天のみこころ』で満ちひろがる世界が来ることを
  「全世界五大洲の國土を『天孫(てんのみこころ)』に御奉還申すべき時期が來る」
  と教へたのである。〕


と「神示」に明瞭に示されている通りであります。
そしてつぎに「天孫」とは「肉体ではない」ことが、はっきりと説かれるのであります。


 〔天孫とは肉體のことではない。「肉體は無い」と云ふことをあれほど教へてあるのに、
  やはり肉體のことだと思つて執着が強いから大それた間違をして取返しがつかぬ
  ことになるのである。神からみればすべての人間は神の子であるから、
  特に日本民族のみを愛すると云ふことはない。あまり自惚れるから間違ふのである。〕


このように「天孫」とは「肉体ではない」ことがあきらかにされて、
いよいよ「大日本天津日嗣天皇」の真の意味について神は語られているのであります。


 〔大日本天津日嗣スメラミコトとは固有名詞ではない。理念の表現である。

  「大日本」すなわち「ひかりあまねき」、「天津」すなわち「天の父の」、
  「日嗣」すなわち「みこころを嗣ぎたまへる」、
  「スメラミコト」すなはち「天降(あも)りましたる帝王」と云ふ意味であるから、

  総じて譯せば「ひかりあまねき天の父のみこころを嗣ぎたまへる天降りましたる帝王」

  と云ふことである。

  天の父のみこころが全世界に光被してあまねく平和になる世界になれば、
  それが本當の大和(だいわ)の國である。それが本當の大日本天津日嗣すめらみことの
  治(しろ)しめし給ふ世界である。肉體のことではない。〕


かくの如く神示には示めされているのであって、天之御中主神の御霊を嗣ぎ給う
スメラミコトの治(しろ)しめし給う世界が、これが本当の大和の国であり、
それは「肉体のことではない」のであります。


さてこの「大和の国の神示」は、昭和21年1月1日に「天皇の人間宣言」と
世にいわれる詔勅が渙発された5日後の1月6日の朝に啓示されたものであります。

そして当時のことを回想すると、神武天皇の「八紘為宇」の建国の理想は世界を征服して
一つに統一するという侵略主義であって、その軍閥の中枢を成しているのが天皇である
といった判断を連合国がもっていて、

日本を裁くところの極東軍事裁判(東京裁判)において、天皇を戦争犯罪人として
出廷せしめようとする強い動きがあるなかで、私はこの啓示を受けたのであります。

従って占領軍の天皇への風当たりを避けしめるため
その表現には配慮がなされているわけであります。

私は、天皇さまを、實相を直視して全知全能の神の御現われであるというように
今も考えているのであります。

そしてアインシュタインがいみじくも言った如く世界連邦(※)が成立し、
誰をその連邦の神聖な中心にすべきであるかというと、自然に日本天皇が
その首座に推されるほかはないと信ずるものであります。




 「世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、
  最後に戦さに疲れる時がくる。その時人類は必ず誠の平和を求めて
  世界的盟主をあげねばならぬ時が来る。

  この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、
  凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。

  世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
  それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。

  吾々は神に感謝する。
  天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれたことを。」
           (谷口雅春著書『秘められたる神示』170頁より)

            <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首再拝>

全世界は天皇に於いて一宇(ひとつのいえ)である - 伝統

2016/01/24 (Sun) 19:35:01


           *「光明道中記」(P31)より


【十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするのが日本の使命である。
 (『秘められたる神示ー神示講義<秘の巻>』「久遠天上理想国実現の神示」)】
     

全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略戦争ではない。
八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。

此の理念を「生長の家」と言う。
理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。

何故そう云う名称を附したかと言えば、
生は縦に無限に生(の)びることを現わし、
長は横に長(の)びることを現すからである。

縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、
縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、
内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇(スメラミコト)の御天職である。

此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。

全世界は天皇に於いて一宇(ひとつのいえ)である。

万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以って
出現したのが吾々の団体である。

病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用にすぎない。

天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、
真理の中には病気不幸は存在しないが故に、
病気不幸が消えるのは当然のことである。

病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。
省みて真理に載るものは幸(さいわい)である。


            <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である - 伝統

2016/01/27 (Wed) 19:15:39


           *「光明道中記」(P33)より

「高天原(たかあまはら)に神詰ります」と
実に朗々とした声で祝詞(のりと)が響いて来る。

朝の空気を動かし、霧を動かし、
「高天原なる大宇宙に神が充満している」と云う観念が
天地を動かす、実に荘厳だ。

それを古代日本人は知っていた。
常に古代日本人は「大宇宙(たかあまはら)に神遍在(つまりま)す」と誦(とな)え念じ、
邪気を祓(はら)っていたのである。

神が充満しているから、悪の存在はあり得ない。
尽天尽地ただ神のみである。神光遍満、邪気不在である。
その大宇宙を「家」と見たのが古代日本人である。

吾々はそれを生長の家と名附けた。

「生」の縦に生びる神漏伎(かむロギー)と、「長」の横に長びる神漏美(かむロミー)と、
一つの中心普遍的神漏皇(かむロゴス)が陽陰の対偶と分化しあらわれて、
陽陰の偉大な素晴しき交流となった家が「生長の家」である。

私の家が生長の家ではない。大宇宙が「家」であり、生長の家の理で充たされている。
生長の家の理を隠蔽することなく生きた時に、其の人が生長の人となり、
其の人の家が生長の家となり、国家が生長の国家(いえ)となる。

組合(クミ)と云う意味での国々は世界到るところにあるが、
国家すなわち国がそのまま家族であるのは日本のみである。

全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である。

            <感謝合掌 平成28年1月27日 頓首再拝>

「日本国家は神の理念の最高顕現」 - 伝統

2016/02/01 (Mon) 20:50:12


             *『明窓浄机』草創篇(P257~258)より

「私は『生長の家』と云う大いなる団体を作つて、その主宰者となり、自分の団体の勢力を
拡大したいとは思っていない。唯私の心の中には国家あるのみであり、人類あるのみである。

ここに私は『国家』と 『人類』 との二つを同格に平列せしめて語ったが、
私にとっては『日本国家』と『人類』とは同格なである。
日本国家が栄えることによってのみ、人類は栄えるのである。

『生長の家』で説く・・・実相とは無限荘厳の組織体である。
だから実相が顕現するとは、無限荘厳の組織体がこの世界に顕現しなければない。

そしてヘーゲルも云ったように『国家は最高の組織体』であるが故に、
完全なる国家の顕現が実相の顕現であるのである。

而(しか)して世界にありとあらゆる国家組織体のうち日本国家のみが最高完全の組織体である。
(その理由はその中心<すめろぎ>が万古不易永遠に続いているからである。外国の国家のように
中心さだまらず、時々交代するようでは最高完全の組織体とは云い難い)

それ故 『日本国家』は神の理念の最高顕現であり、
無限荘厳の相(すがた)の実相の顕現であるのである。

而(しか)して『日本国家』が拡がり行くことは実相の顕現がひろがり行くこととなる。
『日本国家』のために尽すことは『人類』のために尽すことになる。

人動(やや)もすれば『国家』的立場は一つの民族的執着の立場であり、
人類的立場は一層高き普遍平等的立場であると思いたがろうとするのであるが、
日本国家に於てのみ、国家的立場は人類的立場と完全に一致するのである。 」

            <感謝合掌 平成28年2月1日 頓首再拝>

真理国家 - 伝統

2016/02/14 (Sun) 20:17:00


           *『真理入門25章』 より

要するに生命を内に持つ組織体は、植物でも動物でも人間でも一つの変らざる
“動きの中心”があるのが“宇宙の法則”であり“真理”であります。

その“宇宙の法則”即ち“真理”は 言い換えると“神の御心”であります。

そして国家のうちでは、日本だけが、建国以来、いつも常にかわらぬ
万世一系の“天皇”という“動きの中心”〈支えの中心〉をもっているので、
われわれは、この日本の国を唯一の尊い 『真理国家』 だというのであります。

わたしたちは世界に唯一つの真理国家に生まれて来たことを
尊く思い感謝しなければなりません。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/8029d1ef05a016e9902239c14537a281 より転写)

            <感謝合掌 平成28年2月14日 頓首再拝>

久遠皇位を胆(きも)に銘ずる - 伝統

2016/04/02 (Sat) 17:55:22


           *「光明道中記」(P35)より

【火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、火を着けて皇子をお生みになったのです。
                              (『驀進日本の心と力』)】

生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、
八紘は一宇であり、一家庭であり、すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが
出来るのである。

ナチスの血の哲学、民族の哲学はゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。

日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。
東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。

それはまだ血を見ている。
血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、人種の差別を見ることである。
人と人とを分割することである。

外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。
日本の哲学は包容帰一である。
ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。

全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、
何人種と言えども既に日本人である。

「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。
天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。

            <感謝合掌 平成28年4月2日 頓首再拝>

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