伝統板・第二

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大東亜戦争を振返る - 伝統

2015/08/15 (Sat) 04:58:21

今日は、8月15日「終戦記念日」。

終戦記念日に関連し、
大東亜戦争に関した先代の掲示板等からの記事を集めてまいります。

 ☆本流宣言掲示板「天皇・日本の使命と終戦の真相 (3856)」
  → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=752


お忙しい方のために、以下に要点を列挙してみました。
(「古事記と現代の預言」の【第8章 天皇・日本の使命と終戦の真相」】からの要点 )


(1)マッカーサー元帥が語る天皇の犠牲精神

   元帥はこう言っています。──

   「天皇は侍従をつれていなかった。私も副官をつれていなかった。天皇と私が他人を
   交えないで、ただ通訳一人をはさんで会見した内容は、これまで互いに秘密にして、
   どこにも公表しなかったが…

   天皇は私に会うと『今回の戦争は誠に申し訳ないことした。しかしながら、これは
   私一身の責任であるから、国民が個々に戦犯として罰せられたり、国家が賠償の責任を
   負うたりするということは、私には忍びないことであるからどうか私一身を処刑して
   お許し願いたい』と語った。

   …この時、
   私は、日本の天皇は国民に対する愛情と責任感をもった立派な人だと思った。」


   このように述懐して、またマ元帥は、

   「ソ連はまっ先に天皇を戦犯にすべし、と主張したあとがその後に、不思議なことに
   イギリスも賛成した。又、豪州も賛成した。しかも、ソ連は、北海道に駐兵させろ
   ということまで、執拗に要求した。

   しかし、アメリカはこれに強く反対した。もし、あの時、ソ連の駐兵を認めていたら、
   日本は今頃ドイツのようになっていたかも知れない」


(2)(昭和)天皇 杉山大將を叱咤し給う

   (日米開戦前)

   ”九月五日――天皇は永野と杉山陸軍参謀總長とを呼んで、
   「一に戰爭、二に外交という様子だが、日米が開戰したら、どのくらいで片づくか?」
   と、杉山にたずねた。杉山が、「南洋方面だけで、3か月ぐらいです」と答えると、

   天皇は、「お前は支那事変勃發のときの陸相で、そのときも1か月ぐらいで
   片づくといった。が、4か月たっても片づかないでは な い か」と詰問。

   恐れいった杉山が、「何分、支那は奥地が廣いので」と釈明明すると、
   天皇は、「大平洋はなお廣いではないか」と、杉山を叱った――

   というようなことがあったにもかかわらず、東條たちは開戰論をとって譲らなかった。


(3)既に預言されたる大東亜戦争

  ①衆議が一決したものに対しては専制君主でないところ天皇は私意をさしはさまず、
   衆議の一決したものには御璽(ぎょじ)を捺す制度に従われましたことも無理はない
   譯(わけ)であります。

   こうして天皇の御心に反する戦争に、
   天皇の名に於いて英米に対する宣戦布告の詔勅がが出るに至ったのであります。

  ②それではこの大東亜戦争は誰の責任であるかと言いますと、
   それは天皇の責任でも軍閥(ぐんばつ)の責任でもない。

   あるべきものが人類進化の過程として、
   あるべきようにあらわれて来たというほかはなかったのであります。

  ③預言された事実というものが、どうしてその通り起こってくるので
   あるかという事を考えてみますと、現象界の事件というものは、現実に起こる
   までに、念の世界、にチャンとそういう事件のフィルムというものができておって、
   それが現実世界に、映画のスクリーンみたいに映ってくるものだからであります。


(4)日本民族の歴史的使命

   ところでそういうふうに、アジアの民族が独立し、アフリカの民族が独立する、
   その預言が実現するためには、その独立精神に火をつける役目をする者が
   なければならない。

   その使命を承ったのは誰であるかというと、それは日本民族であるのであります。


(5)白色人種のアジア侵略

  ①白色人種は、有色人種を科学兵器をもって脅かして侵略した。

  ②1842年8月、南京で講和条約が結ばれ、香港島の
   イギリスへ割譲、広東、上海等の5港の開港、治外法権、関税協定などで、

   事実上、シナ大陸の有力な拠点をイギリスに押さえられるような事となり、結局、
   シナ大陸も白色人種に分割支配され続々と植民地となり、属国になる形勢が
   顕著になってきたのです。

  ③このようにしてアジア大陸は分割されつつあったにも関わらず、こんな島国の日本だけが、
   何処の国にも取られないで、そしてさらに白色人種を撃破して、そして有色民族の
   気を吐いたということは、これはまた素晴らしいことであるあると考えられるわけで、

   それは日本民族の優秀性にもよるけれども、時の日本の科学の発達の程度や、
   物量の比較から考えると、この日本の国が何処の国の侵略をも受けなかったのは
   単に人間だけの力によるとは考えられない、

   特に日本の国を、その将来の使命を思って守っておられるところの
   神さまの御心によるものと考えるより仕方がないのであります。


(6)有色民族独立の基礎工事なる

  ①まことにこんな小さな国でありながら、
   アジアの諸民族の中で侵略を受けなかった民族は、日本しかないのであります。

   それが、アメリカを叩くより仕方がない国際情勢立ち到って、
   いよいよ大東亜戦争がはじまったのであります。

   そして日本軍は南方にむかって1年間は連戦連勝で殺到して行ったのでした。

   そして今までアジアの南方諸国を侵略し、其処を植民地とし、
   属国としていた白色人種の軍隊を駆逐したのであります。

  ②それでアジアの南方における有色民族は、
   今までは有色民族は白色民族に絶対にかなわんと思っていたのであるけれども、
   「日本は有色民族でもやりよるぞ」と思ったのであります。

   そして「われわれ有色民族も白色民族よりも下等につくられているのではないのだ。
   みんな人類は平等だから白色人種に屈服している必要はない。

   我々有色民族も起ち上がろう」という民族精神が、
   それによって喚起されることになったのであります。

  ③それですから、大東亜戦争の目的というものが、

   「大東亜民族の解放戦である」

   という旗印が戦争中にかかげられることになったのも、
   「天に口なし人をして言わしむ」であったのであります。

  ④ヴェッテリニという高級霊がレイヌという霊媒を通して霊視せしめている
   ところの預言「アジア民族及びアフリカ民族が独立する」ということが
   現象界に起こってくるためには、

   どうしても何処かの有色民族が白色民族を一度たたきつけて、
   有色民族の奮起する精神を喚起する契機をつくらなければならない。

   つまり有色民族の劣等感を取り除いて民族独立の精神を培養しなければ、
   アジア民族の独立、アフリカ民族の独立というものは起こるはずがない。

   だから「有色民族も同じく、人間、であっていつまでも白色人種には負けてはおらんぞ」
   という自主独立の精神を有色民族が得るために有色民族はどうしても一度はアジアの
   南方に殺到して白色民族を駆逐する必要があり、

   日本民族はあの際そういう役割を使命づけられておったのであります。


(7)日本は何故敗戦して後退したか

  ①勝ち通していたら、やっぱり傲りたかふった気持ちになり、其処に総督なり、
   日本の司政官をおいて永久支配したくなる。

   勝っているのに、負けたかの如くに本国に帰還して南方の土着の民族に
   「お前たち勝手に自治せよ」という譯にもゆかないのであります。

   そしたら今までアジアを侵略していた白色人種の侵略者の
   後継者になってしまいます。


  ②ところが日本民族はそのような侵略者の後継者になるような民族ではない。

   本来侵略民族ではなく、救世主的使命をもつ民族だから、ともかく、一辺、
   白色人種を追い出して南方民族に民族精神勃興の種子を播いてしまたっら、
   あとは、もう既に日本民族の役目終われりという譯で「敗戦」という形を
   とって還ってくるということになったのであります。

   そして日本民族はアジア、アフリカの民族独立のために、
   十字架を背負ってキリストのように、
   他の民族を救って自分が敗戦したのであります。


(8)キーナン検事の天皇観

   キーナン検事が裁判終了後、
   天皇と会見したときの述懐を次の様にしていることであります。

   「天皇はまったくウソのない正直なお方だと思った。
   日本人は天皇を紳士であり学者であるとだけ思っているが、

   私はよく知っている、天皇は非常に強い性格の持主だ。

   こういう天皇をあの裁判の最中に法廷に引き出したら、
   陛下は必ず被告席を指して、

   ここにいる者たちは全部自分の命令によって戦争を遂行したのである。
   責任は全部自分にあるのだから、
   直ちに全員を釈放して、自分を処刑してくれと言ったに違いない。

   こんな立派なことを言われたら。俺としても、まったく打つ手がなくなってしまい、
   わがアメリカの円満なる占領政策などどこかに吹っとんでしまっただろう。

   俺は天皇に直接会って、あのとき陛下を証人台に立たせなくてよかった、
   とつくづく思ったよ」


(9)天皇は身を捨てて國民を救われた

  (第1回目の聖断)

  ①御前會議は8月9日夜11時から開かれました。

  ②御前會議は約2時間半。意見はまとまりません。

  ③陛下は先ず『それならば自分の意見を言おう』と仰せられて
   『自分の意見は外務大臣の意見に同意である』と仰せられました。

   *外務大臣の意見の論旨はこの際ポツダム宣言を受諾して戰爭を終わるべきである。

  ④聖断の理由

   『大東亞戰爭が初まってから陸海軍のして來たことを見ると、どうも豫定と結果が
   大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、總長が申したように本土決戰
   の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、
   自分はその貼について心配している。

   先日参謀總長から九十九里濱の防備について話を聞いたが、實はその後侍從武官が
   實地に見て來ての話では、總長の話とは非常に違っていて、防備は殆ど出来ていない
   ようである。

   又先日編制を終わった或る師團の装備については、
   参謀總長から完了の旨の話を聞いたが、
   實は兵士に銃劍さえ行き渡って居らない有様である事が判った。


   このような状態で本土決戰に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である。

   或いは日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。

   そうなったらどうしてこの日本という國を子孫に傳えることができるか。

   今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が將來
   再び起ち上がって貰う外に、この日本を子孫に傳える方法はないと思う。

   それにこのまま戰いを続けることは世界人類にとっても不幸なことである。

   自分は明治天皇の三國干渉の時のお心持も考え、自分のことはどうなっても構わない。
   堪えがたきこと忍び難きことであるが、この戰爭をやめる決心をした次第である。』 

                  ・・・

  (第2回目の聖断)

  ①御前會議は8月14日午前10時から開かれました。

  ②議題は、ポツダム宣言を受諾した場合の
   日本の「國體の護持」について疑問について。

  ③陛下は、『自分の意見は先日申したのと変りはない、
   先方の回答もあれで満足してよいと思う』と仰せられました。

  ④陛下は、さらに、

   『こうして戰爭をやめるのであるが、これから日本を再建しなければならない。
   それはむずかしいことであり、時間も長くかかることであろうが、

   それには國民が皆一つの家の者の心持ちになって努力すれば必ずできるであろう。
   自分も國民と共に努力する』

   と仰せられました。

  ・・・

<参考Web:玉音放送の口語訳全文と音声【終戦の日】
       → http://matome.naver.jp/odai/2131332556551988801 >

           <感謝合掌 平成27年8月15日 頓首再拝>

聖経『甘露の法雨』は日本民族分断の悲劇を防いだ - 伝統

2015/08/16 (Sun) 04:32:51

8月15日の玉音放送を守った『甘露の法雨』の奇蹟

☆本流本掲示板のスレッド「大東亜戦争の英霊諸霊に捧ぐ」
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=734 (既に消滅)

          *Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2012年07月20日)より
          (本流掲示板から消滅した記事の複写掲示されたものです)

              <その四>

          8月15日と『甘露の法雨』の奇蹟 

      < 聖経『甘露の法雨』は日本民族分断の悲劇を防いだ >

8月15日は、大東亜戦争終結の御詔勅(しょうちょく)が玉音(ぎょくおん)放送として
全国民にNHKラジオから伝えられた日であります。

このことに聖経 『甘露の法雨』が、大いなる働きをなした事、
そして日本民族分断の悲劇を防いだ事、この奇蹟については、
現代に生きる「今の教え」を信仰している生長の家 信徒の人たちは詳しく
ご存知ないと思いますので、謹んでお取次ぎ申し上げます。


 
昭和20年8月9日と14日の御前会議で、ポツダム宣言を受諾して
大東亜戦争を終結するとの昭和天皇陛下御自身の御発意による決定が下され、
終戦の御詔勅が翌八月十五日正午にNHKラジオで放送されることになり、
その録音が完了されました。

 
これを知った近衛師団の中堅幹部将校たちが本土決戦による徹底抗戦を主張し、
これを阻止しようとした森師団長を射殺し、軍司令官のニセの戦争継続命令を
出 そうとしたのであります。

これを伝え聞いた東部軍管区司令官・田中静壹大将は『甘露の法雨』をもって
副官を従えて反乱現場へ駆けつけ、右手にその『甘露の 法雨』を打ち振りながら
熱情を篭めて天皇陛下の御心を諄々(じゅんじゅん)と反乱将校たちに
諭(さと)されたのであります。

不思議に も、この時、田中静壹大将が右手で打ち振っている
“紫色のサック入り大型の聖経『甘露の法雨』”が反乱軍将校たちには、
“紫色の絥紗(ふくさ)に包んだ天 皇陛下の御諚(ごじょう)”に見えたのであります。

かくして反乱軍は鎮圧されたのであります。
そして無事に戦争は終結したのでありますが、反乱が実行され 戦争が継続されていたならば、
その後の日本はドイツと同様、東西に分割占領され、日本民族は分断の悲劇を招く事になった
でありましょう。

この民族的悲劇を間一髪のところで食い止めたのは田中静壹大将の打ち振られた
『甘露の法雨』であります。

開祖・谷口雅春先生は
「生長の家四十年史」P.59-60に於いて次のように書かれておられます。――


<<  ・・・ 反乱軍の戦争継続の考えを変更せしめたものは、全くこの奇蹟であったのである。
田中静壹大将の右手に握っているものは、紫色ではあるけれども、 紫色のサックに入った
紫色の表紙を持つ大型の聖経『甘露の法雨』であったのである。

それを反乱軍の中の唯一人が、天皇陛下の御諚と見あやまったのであれ ば、
それは唯の錯覚だと言う事が出来るかも知れないが、田中静壹大将を取り巻いて、
「戦争継続に反対なら射つ」と身構えして覘(ねら)っている多勢の将校 全部に、
その『甘露の法雨』が、紫色の絥紗に包んだ陛下の御諚と見えたのである。

これは明らかに、住吉大神が日本滅亡の危機を救わんが 為に『甘露の法雨』を媒介として、
奇蹟を演じられたのだと解釈するほかはないのである。

もしあの時点で日本が終戦の終結に同意いていなかったならば、
ソ連 は八月十五日の三日後にはエトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタンの諸島にまで
侵入して来ていたし、(これをソ連はまだ返還しようとしない)日本軍は、
当 時まだ日ソ中立条約が有効中であるので、ソ連軍は決してその条約を破って攻撃して来る
とは予想もせず、従ってソ連国境および北海道の兵員は極々手薄にし て、
南方に全兵力を投じていたものだから、ソ連が計画的に正規軍を以って侵入してきたら、
ひとたまりも無いのである。

もしあの時、近衛 師団の反乱を鎮定(ちんてい)できずに戦争継続状態になっていたならば、
瞬(またた)く間に北海道、東北六県、関東、信越諸県はソ連軍の席巻するところと なり、
東京は東部半分がソ連の駐屯、西部半分がアメリカ軍の駐屯となり、

日本は、恰もドイツが東ドイツ、西ドイツと分断され、ソ連圏内の東ドイツが未だに
ソ連に搾取誅求されて、経済的には常に貧しく、思想の自由すら失った警察国家であるように、
ソ連圏の東日本はドンナひどい目に会わされていたかも知れない のである。

これを救い給うたのは、実にあの時点に於ける天皇陛下の戦争終結の大英断の賜であるが、
それにしても近衛師団が反乱を起こし て、全日本の師団をリードして抗戦を続けていたら
大変な事であったのに、

その反乱を中止せしめた、住吉大神(観世音菩薩)の降ろしたまえる
聖経『『甘露の 法雨』が奇蹟的に反乱将校を鎮圧せしめる功徳を演じてくれたお蔭である。

 
住吉大神が何のために、万教帰一を説きながら、特殊の生長の家という姿で、
今から四十年前に出現しなければならなかったか――それはこうして此のような時点に於いて
日本国家を鎮護救拯(きゅうじょう)せられんが為であったのである。>>

(注)「神の真義とその理解」P.223-230もご参照下さい。

     
http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/cat_477230.html?p=22

           <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

大東亜戦争の闇の部分 - 伝統

2015/08/17 (Mon) 07:02:48

「戦後70年に寄せて」=ドナルド・キーン

           *Web:時事通信社(2015年8月13日)より

70年前からこれまで戦死した日本人は一人もいない。
これ自体は極めて喜ぶべきことであるが、実際に戦争体験のある人が大変少なくなったため、
戦争の悲惨さに恐れを感じない日本人が多くなったようで非常に危険なことだと思っている。

93歳になった私は、残念ながら戦争のことを忘れられる日は少ない。
アメリカ海軍の情報将校として日本語を覚えたこと以外に、戦争について楽しい記憶は全くない。

太平洋戦争は軍人対軍人のような昔の戦争と違っていたので、戦争と関係のない、
そして罪のない、おびただしい数の民間人が命を落とした。

こともあろうに軍部はそのような死を美化した。
サイパンや沖縄でアメリカ軍が捕虜になった女性を強姦(ごうかん)するという
嘘(うそ)を広め、それを信じた女性が小さい子供をおぶって崖の上から身を投げた。

当時の日本の新聞は、このような女性を英雄として褒めたたえた。
犠牲者の家族や友人を慰めるためなら理解できるが、むしろこのような
犠牲者の数を増やしたいとさえ思っていたかのようである。

生きて捕虜になることは恥だと教えられたため、アメリカ軍と激しく戦った
アリューシャン列島のアッツ島で、日本兵は最後の手りゅう弾を敵に対して投げるのではなく、
自分の胸に打ち付けて自爆した。これが後々、方々の島で玉砕の模範となった。

沖縄に比較的捕虜が多かったのは、
日本兵が大本営のでたらめな発表を信じなくなったからだろう。

捕虜の大部分は生きて日本には帰れないと思っていた。
私は「新しい日本のために帰ってください」と説得したが、納得する人はまれだった。
家族が“恥”を許さないと思っていたのだろう。

しかし戦後家に帰った時、皆、家族に大歓迎された。

戦争が終わったとたん、お互いの敵愾(がい)心はなくなった。

一握りの軍人は戦争を続けようとしたが、敗戦を受け入れ、終戦を喜んだ人が圧倒的だった。

アメリカ軍の占領が始まる前から言論の自由は既に戻り始めていた。
親交のあった作家の高見順は生まれて初めて自由を感じたという。

またアメリカ軍が上陸した後も日米間の摩擦や事件は起こらなかったし、
むしろ親しく付き合うようになった。

そして、現在の私から見ると、毎年8月15日は敗北や追悼の日であることは確かだが、
新しい日本が生まれた日として人々の心に刻まれているようだ。

私は1945年の終戦直後、中国に派遣されたが、その年の12月の命令によって
元の本部に戻ることになった。元の本部はハワイのホノルルにあり飛行機で向かった。

しかし飛行機が上海から経由地の厚木に到着した時、私は目的地が横須賀にあるかのように偽って、
思い切って途中で降り、日本の土を踏んだ。嘘が発見されたら困ると分かってはいたが、
どうしても日本を見たかった。厚木から東京までの風景は相当荒廃していた。

東京の市街地に入ると建物は遠くからは壊れていないように見えたが、
実際は破壊され、ひどいありさまだった。

しかし、言葉を交わした人たちに緊張感はなく、皆驚くほど親切だった。
床屋さんに入ってひげをそった。後で、かみそりで敵だった私の喉を切ることだってできたのに
と気が付いたが、何の不安もなかった。

戦争が終わったのはたった4カ月前だったが、悪夢から覚醒したようだった。
床屋さんはもう間違いなく友達だった。


◇ドナルド・キーン氏
 ドナルド・キーン氏 1922年、米ニューヨーク市生まれ。
38年、16歳でコロンビア大に入学。在学時に「源氏物語」の英訳を読み、
日本文学に関心を持つ。

43年海軍語学学校を卒業し、ハワイなどで日本語の翻訳、通訳を担当。
アッツ島攻撃や沖縄戦にも従軍した。

終戦後、コロンビア大大学院、ケンブリッジ大を経て、53年京都大大学院に留学。
現在コロンビア大名誉教授。
日本文学や文化の研究、紹介に尽くし、08年文化勲章受章。

11年の東日本大震災をきっかけに永住を決意し、12年に日本国籍を取得した。
「日本文学の歴史」「明治天皇」など著書多数。93歳。

   (http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/news/detail.php?newsId=20150813163636


・・・

Web:「谷口雅春に訊け(2013.1.2313:17)」には、

「大東亜戦争 ――その「誇るべき点」「恥ずるべき点」」として、
谷口雅春先生のご文章が集められております。

その中から、あえて「恥ずるべき点」に関するご文章の一部を、
以下に転写させていただきます。

光が闇に対する姿勢で、冷静に観つめて、
感じとっていただければと思っております。

 (http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65713586.html



             ・・・

八月十五日、陛下の玉音で、終戦の詔勅を承ったときに愕然とし、放心し、
やがて潜々(さんさん)と両頬に伝わる涙を自覚したと言われておりますが、
私はあの時少しも悲しくもなかったし、愕然ともしなかったし、
涙もこぼれなかったのであります。

私はあの時、『ついに来るべきものが来た、よかった。ニセ物の日本の戦は終った』
と感じたのであります。私はもうその1年も前に霊界に於て、終戦の運動が
開始されていることを知ったのであります。

「生長の家」誌(昭和二十一年二月号)より謹写――

             ・・・

私は『誌友はどんなに熱心でも、近頃は戦意昂揚の講演以外は出来ないようになっている
から講習会は開けないよ。僕は暫く黙々として百姓をしているつもりだ。
あんな間違った戦争に今更戦意昂揚の講演をしてどうなる。

今の日本軍の戦争のやり方は皇軍のやり方ではない。
神武不殺の精神にそむいている。
あれでは勝てる筈はない。

出血作戦、出血作戦と臆面もなく新聞にもラジオにも宣伝するのは、あれは一体なんだ。
一人の人間でも神の子である。神の子を多く殺すほど手柄になると云うような戦争は
神の戦いでも聖戦でもない。君も講演する時には戦意昂揚の話などをしたら可かんぞ(略)』

(中略)

今から考えて見れば、もう其の頃、霊界では高級霊の戦争停止運動が始まっていたものと
見えまして、それを何となく霊感に感ずるので、私の口は重く、戦争に関する話も
国体に関する話も全然したくないので、朝から晩までただ焼跡の整理と畑の世話ばかりを
しているのでありました。

「生長の家」誌(昭和二十一年二月号)より謹写――

・・・

日本の軍隊は何故負けたか、生命を軽んじたからである。
部下の兵隊を擲(なぐ)る蹴るのは上等兵の常套事となっていた。
そして、それが、天皇の名に於て行われたので、誰も反抗し得なかったのである。

しかも天皇は兵隊を擲(なぐ)れ、蹴れとは仰せられたのではなかった。
彼等上等兵以上の将兵は、天皇の大御心を歪曲し、天皇の權威を笠に着て、
天皇の大御心を詐称して、天皇の赤子たる人間を冒涜したのである。

かかる不徳な詐称者の集団である軍が天皇の軍である筈もない。
彼等は天皇をも威嚇し、天皇の自由をさえ縛っていたのである。
迷いの自壊によって、此等の軍は解体せられた。

それは日本国民の自由への解放であると同時に、
天皇御自身も却って自由になり遊ばされたのである。

天皇は今や自由に民間に行幸せられてまことに悦ばし気に拝せられ奉るのである。

人間の生命を礼拝しなかった軍隊は、その生命が断ち切られた。
己れにいずるものは己れに還る。
一切万事われより出でて、われに還る。

環境も肉体もわが心の反影(かげ)である。

「白鳩」誌(昭和21年5月号)より謹写――

・・・

私が南京郊外に於いて岡村軍司令官にお目にかかったときに、岡村大将は、副官までも退けて、
私と唯二人きりで対談して下さったが、その時、軍の実情を内密に私にお談しになって、

「今の日本軍は皇軍じゃないんですよ」と言われた。

そのとき私は自分の耳を疑うような気持で「それでは一体〝何軍〟ですか?」と訊くと、岡村大将は

「日清日露の戦争のときには、日本軍はまことに皇軍と称するにふさわしいような
軍紀厳粛な軍隊でございましたが、今の日本軍は上官の命令が下に通らないで、
占領地に往ったら戦勝の余威をかりて殺人、強盗、強姦勝手次第で、怒涛の如く狂いまわって、
上官がそれを抑止しようと思っても、抑止でききればこそ。

若し、現在の日本軍が、皇軍と言い得るように軍紀厳粛な軍隊でございましたら、
もう今頃は大東亜戦争も何もなく、戦勝の条件によって蒋介石軍と講和条約が結ばれていた
のですけれども。

実は今までに三度蒋介石が〝手を握ろう〟と言って講和条約の手を握りかけたことがあるのです。
けれども、現地の末端の軍隊そのものが命令をきかないで暴動的な勝手次第な行動をするので、
首脳部でいくら休戦協定をやってみても、現地の軍に乗ぜられるばかりだ、

日本軍には信用がおけないと蒋介石政府では思うようになり、
蒋介石は折角〝握りかけた手〟を放して、〝此処まで来んせ〟と奥地へ退いて抗戦しだした。

(中略)

若し今の日本軍が、日清日露の戦争のときのように、天皇から来る御意志がそのまま
上官の命令となり、それがそのまま末端の兵隊に遵奉せられるような軍紀厳粛な軍隊で
ございましたならば、もう今ごろは大東亜戦争などはなかったでありましたろうに。」

(中略)

この話をきいてから、私は現地の日本軍を「皇軍」として「必勝」づける勇気がなくなったのである。

「生長の家」誌(昭和三十四年三月号)より謹写――

・・・

敗退したるところの日本精神は、決して精神主義的なものでも心霊主義的なものでもなく、
日本精神の仮面を被った唯物論そのものであったことは先ず最初に注意すべき事柄である。

(中略)

日本軍部の敗退の原因は其の徹底的唯物論であって兵を観るに『人格』として視ることなく、
ただの物品として取扱った。打つ、擲(なぐ)る、蹴るは無論のこと、
『鶯の谷渡りをせよ』と云って小鳥の真似をさせたり、『蝉になれ』と云って
柱に数時間とまっている真似をさせたり、人間を人格として観ず、
鶯や、昆虫や無機物として取扱った。

(中略)

更に、日本軍部敗退の原因は其の軍需経済の建て方が、唯物的であったと云うことである。
換言すれば『奪えば増加し、与えれば減る』と云う物質的算術図式の経済しか知らぬ
幼稚なものであったのである。

「白鳩」誌(昭和二十一年六月号)より謹写――

・・・

軍も官も概ね利己に心の眼がくらみ、富める国より、有てる国より奪うことによって、
日本を大きくしようと考え、それに付随して自己の栄達を希(ねが)って、
国民を引摺って行ったのである。

国民もそれに無我に随って行ったようであるが、真に無我ではなかった。
やはり利己的動機で儲けようと考え(中略)尚それよりも重大なのは、やはり富める国より、
その領土を奪って、日本領土を拡張することが国に忠義であるとの国家的利己主義に
眼がくらんで、それを謳歌していたのである。

国民はかくして眼くらみ、盲人となって盲人なる軍官指導者に手を引きずられつつ歩んで行った。
そうしてついに今日の破局に墜落したのである。

「生長の家」誌(昭和二十年十二月号)より謹写――

・・・

           <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

特別攻撃隊 - 伝統

2015/08/18 (Tue) 04:52:06


☆本流宣言掲示板「終戦記念日 (3912)」
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=766


☆本流宣言掲示板「知覧特別攻撃隊 (4655)」
 → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=979


・・・

          *『特攻へのレクイエム』工藤雪枝・著 より要点を抜粋


(1)平成8年、31歳のとき、不規則な仕事などの影響もあって、体調を崩した。
   命に関わりはない病気とはいえ、
   精神的にも肉体的にもつらい毎日に、日々泣きながら過ごし、

   「こんな風に生きているくらいなら、死んだほうがましだ」とさえ考えた。

   そんな状況で手にしたのが、特攻隊員の遺書や日記を集めた本だった。

   読みながら、あとからあとから溢れる涙を抑えることができなかった。

(2)祖国のために殉ずるという決意のもと、
   若く健康でありながら眼前に迫っている死を見つめて書かれた彼らの日記や遺書は、

   私がこれまで読んだどんな書物よりも力強く、切なく、つらかった。

   一方で、私は涙をこぼしながら、
   雨が、なかるみの泥を流していくかのごとく、
   自分の心が澄んでいくのを感じた。

(3)人間が生きているか、死んでいるかを区別するのは魂であり、精神である。

   私が真剣に特攻隊の遺書に対峙したとき、
   むしろ私は死んでおり、特攻隊員たちは生きているとも思った。

(4)魂や精神性のなさ、これは戦後の日本社会が抱えてきた状況であると、
   昨今つくづく思う。

   他人を思いやる気持ち、
   家族や国を思う気持ちが年々なくなってきているのではないだろうか。

(5)過去、現在、未来と続く歴史軸の中に自分が生かされているのを感じて、
   礎を築いた人々に感謝すること、
   そして、今ある現在を価値ある未来へと繋げていくことを
   我々一人一人が真剣に考えて行動するべきである。

   特攻隊の資料にふれ取材するたびに、そう思う。

(6)特攻隊員達は、生と死との思いを日々感じながらも、
   明るく朗らかにいつも変わりなく規則正しい毎日を生きていた。

   「出撃の時は完全な体調で」

   と健康診断を受け食事に気を配った。
   書道、茶道、音楽を嗜む人もいた。

(7)研ぎ澄まされる感受性。
   隊員達は、残された時間の一瞬一瞬を大切に生き、
   食事をするときでもどんな時でも

   「これが最後かもしれない」

   という気持ちで、厳粛に「時間」に対峙していた。

(8)彼らは暇があると、日記や手紙を書いた。
   何も書くことはなくとも、
   とにかく軍隊生活の毎日を記録しておくことで、
   生きているという痕跡を残したいと考えたからである。

   「具体的に自己を表現し得るのは、今の生活にあってこの日記だけなのだ」

   と、ある隊員は書き残している。

(9)鹿児島県知覧の知覧特攻平和会館に残されている特攻隊員の遺影。
   そこには、まるで晩年の人物だけが待ちうるような穏やかで、
   満ち足りた充足感、悟りの境地にも似た澄み切った表情が数多く並んでいる。


(10)とりわけ真剣さと、凛とした気概が感じられるものは、
   出撃の際の出陣式、そして水盃を交わす光景だ。

   敬礼をしてまっすぐ前を見つめる眼差しの先にあるものは何か。
   一人一人が並々ならぬ決意を秘めた、引き締まった表情をしている。

   しかし、決して力んでなどいない。
   端正で清冽な表情だ。

(11)実際に特攻隊の出撃を見送った人々は皆、いかに彼らが立派で、
   「まるで神のようにみえた」かということを語る。

   出撃の際の白黒の、少々ぼやけた写真を見ていても、
   私にも何か普通では考えられないような感情を秘めた雰囲気が充分伝わってくる。

(12)彼らの直筆の書を読むと、
   はっきり日本が敗戦に向かっていることを自覚した上で、
   自分達の死が日本にとってどんな意味合いがあるのか、
   必死に見つけ出そうとしている軌跡が表現されている。

   いかに彼らが冷静に、しかしもがき苦しみながら、
   その葛藤の中にそれぞれの答えを見出そうとしていたのかが良くわかる。

(13)送別会において、10名を代表して畠山少尉が特攻教官へ、
   淡々と、悟りきったように、静かに、しかし力強く別れの言葉を述べた。

   「先輩を差し置いて、未熟な私達が栄えある特攻先陣を拝命して、
   責任の重大さを痛感しています。

   将校、准士官、下士官、兵と、出身と階級は異なっても、
   祖国を愛する愛国心に変わりはありません。

   戦争が終わったら、世界から尊敬される、
   平和で豊かな文化国家を建設して、
   人類の平和と繁栄に貢献する、日本を再建してください。

   部下の遺族のことを、よろしくお願いいたします」

(14)田形准尉は「後のことは頼みます」という言葉にこそ、
   特攻精神の真髄が秘められていると感じた。

(15)フィリピン、日本、アメリカと特攻隊員達への尊敬と慰霊をみてくると、

   真の意味で国のために貢献する、
   究極的には殉ずるという行為の価値と困難さを知っている人達だけが、
   特攻隊員の魂を真に癒しているように感じる。

(16)知覧特攻平和会館の来館者の多くが、特攻隊員達の遺書に接して、
   その筆跡の素晴らしさ、内容の立派さに感動し、
   いかに特攻隊員達が、自分達とは違うのだろうかという感嘆の気持ちを表現している。

(17)数多くの遺書や日記を読めば読むほど、
   現代を生きる私達が想像もできないくらいのレベルで、
   自分達の生の意義を自問自答していたと実感するのだ。

(18)英国の戦史家であるバジル・ハートはいう。

   「もし平和を欲するならば、戦争を正しく理解しなければならない」

(19)日本という国に生まれ、日本という国を信じ、国への忠誠を果たす。
   戦争さえ終結すれば、今、ここで自分達が命を懸けてこの国を守れば、
   平和でかつ尊敬に値する国である日本は再生するという想いを、
   彼らは抱いていた。

(20)本当の意味で、特攻隊員達の死を無駄にするか、
   すなわち特攻隊員達を犠牲者とするかは、
   現代を生きる私たちにかかっている。

   彼らの精神、そして散華していった目的を現代に生かし、
   特攻隊員たちが望み、希求していたような祖国日本をつくりあげることで、
   彼らの遺志は達成される。

(21)特攻要員となった隊員達の宿舎を当時の軍の上層部が、
   励ましに訪れることもあった。

   しかし、実際に隊員達に接してみると、
   階級でも年齢でもずっと上の参謀達が、
   何もかける言葉がなくなってしまったという。

   むしろ、そんなときは特攻隊員達が、

   「私たちに任せてください。しっかりやりますから」

   と言い、どちらがどちらを励ましているのか解らなくなってしまったと、
   田形准尉は私にそう語った。

・・・

神風特攻隊員たちの遺書
Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2013年01月30日)
  →http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/22897598.html

・・・

特攻インタビュー(第8回)
http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=1013&forum=13&post_id=5158#5158

  ・その3
    海軍航空特攻 粕井貫次氏

 (公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ

http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=1013&forum=13&post_id=5160

・・・

《魂の飛翔》

(1)「復員の同胞を迎へて」~、『生長の家』昭和21年7月号(P16、19)より

   日本の国難をすくはんとして、献身を行じた特攻隊その他の兵士たちを、
   全て一概に侵略に協力したもの…として攻撃する人もあるけれども、
   その人々の功罪は『結果』ばかりによって論ずべきではないのである。

   (中略)

   戦争の動機はどうあらうとも【過ちは過ちとして深く懺悔しつつも】一粒の麦になって
   同胞愛のために生命を捨てんと挺身した兵隊たちを、十字架にかヽつたキリストのやうに
   傷ましくも仰ぎ見るのである。


(2)『精神科学』誌、昭和26年12月号より

   特攻隊の青年や殉教者を心から賛美する。

   (この項は、『真理』第四巻「青年篇」第十七章「献身の美徳について」に
    収録されております)
           (P385~389)

(3)生長の家誌昭和48年6月28日の法語
   ~「霊魂進化の一周期と肉体的欲望の離脱について」

   《二十八日の法語 国を護る激烈なる修行を了へて地上生活を卒業せる高級霊魂達》

   霊魂の高度の進化は、物質的な肉体的な現世的なものへの執着から離脱して、
   そのような欲望の繋縛(けいばく)---即ち煩悩から解脱することによって得られるのである。

   「人その友のために生命を損(す)つる是より大なる愛はなし」とイエスが言ったが、
   その「友のため」というところを「国を護るため」と書き換えることが出来るのである。

   国難来たって海外から攻めて来るとき、国を護る兵士は、敵軍の侵略下に
   曝(さら)されれば、非常な苦難に面する国民(吾らの最も近き友である)を護るために、
   と同時に国家理想を護るために、「肉体の生への執着心」から解脱する行為であるから、

   「一旦緩急ありて公に奉ずる」ところの実践は、霊魂進化が一層急速に行われる
   ”魂の霊的修行”なのである。

   幾百万の日本兵は大東亜戦争に於いてそのような理想のために、
   自分の肉体への執着を離脱して生命を損(す)てたのであった。

   それは実に彼らの霊魂の急速なる浄化の過程となったのであって
   特に「特攻隊」の如きは一層はげしい霊魂の修行であった。

   彼らはこれらの修行を経て、地球という天体に生を享けて為すべき最高の修行を完了して、
   その霊魂は一層高き天体に昇天移行転生したのである。

   尊きかな、称(ほ)むべきかな。

           (http://blogs.yahoo.co.jp/indianphilosophy2005/29348790.html


           <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

終戦の裏側 - 伝統

2015/08/19 (Wed) 04:31:24


            *Web:「ねずさんのひとりごと(2013年08月14日)」より


題名【日本は負けていない】
  ~超経験者しか知らない真実~
著者 中松義郎博士


昭和20年8月15日正午、その日は天文台によると33度で特に暑かった。

突然「第二種軍装(夏用麻製仕立)の正装にて至急整列すべし」との
館内モールス信号で校庭に集合し、直立不動で汗を流しながら待つ
我々帝国海軍機関学校最後の海機58期生(昭和20年に海軍兵学校と合併)は、
最後の帝国海軍将校生徒として整列し、ラジオから流れる玉音放送を聞いた。

海軍機関学校の入学試験の体格検査で75センチだった胸囲が、
入校後の猛訓練と猛鍛錬で僅か3ケ月で104センチになった巨大な胸が
歴史上初めての玉音放送に大きく高鳴った。

しかしラジオの雑音が多く、よく聞き取れない。
「本土決戦が近いので頑張るようにとの天皇陛下御自らの激励のお言葉」
と全員が受け取った。

当時の日本人は全国民が「歴史上敗れたことがない神国日本は最後には必ず勝つ」と
信じており、全国民誰一人として日本が負けるなどと考える者はいなかった。

特に軍は全軍士気旺盛だった。

現に私のいた舞鶴軍港は二十四時間軍艦を造るリベット音が絶えず、
食糧、武器、弾薬が豊富で、いつでも敵を迎え撃つ準備が連日連夜進められていた。

原爆研究については陸軍が東京帝大の仁科博士と理研に開発を依頼した「二号研究」
(海軍は京都帝大と「F研究」)として行い、濃縮ウランは海軍が潜水艦で
ドイツから運ぶ手配がされ、出来た原爆の第一弾をハワイに落とす作戦を
杉山参謀総長は陛下に上奏したが、

陛下は「原爆という非道なものは使うべきでない。
特にハワ イには日本人が多いので却下する。」となり杉山参謀総長は解任され、
東條首相が参謀総長を兼務することになった経過がある。


この様に非人道的爆弾と陛下が認識されていたものを日本に落とされたのだから、
陛下の衝撃は大きく終戦する一つのきっかけになったと思われる。

しかし杉山参謀総長は、原爆開発を継続したのだ。
軍人は戦争に勝つために打てる手を全て打とうとする。

しかしそれは陛下の御意向に反しているので、原爆を造って勝っても、
原爆を造らずに敵に原爆を使われて負けても、いずれの場合にも
杉山参謀総長の責任なので切腹すると誓い終戦直後に切腹した。

元来日本は武士道を基に戦争を行ってきたのである。

陛下は米の原爆に対し非道だと禁じた原爆で応じたのなら
「人類の文明が滅亡する」と終戦を御聖断された。

米が原爆を落とせば日本もこれに応じて米に原爆を落とす。
このことによって日米の多数の人が死に、この原爆戦争が世界に及び世界中の人が死ぬ。

これを防ぐために米が日本に原爆を落とした時点で終戦にされたのであって、
日本が原爆を落とされたから、または負けたので終戦にしたのではない。

日本は負けていないのに終戦したのである。


これを文章にしたのが終戦の詔勅、
~~~~~~~
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ
頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所
眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ
尚 交戦ヲ継続セムカ
終二我力民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス
延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ
朕何ヲ以テカ 億兆ノ赤子ヲ保シ
皇祖皇宗ノ神霊二謝セムヤ
~~~~~~~
であって、終戦の理由は負けたからではない、という意味である事を読み取ってほしい。

翌日の八月十六日には、帝国海軍航空隊による米本土突撃大作戦が予定されており、
その猛訓練が行われていたことを陛下はご存知なかっただろう。

この作戦が実行されていればドゥーリトルの東京空襲によりミッドウエイ海戦の日が
繰り上がったのと同じに米軍は、十月予定の本土決戦を急濾九月に繰り上げた結果、
天候の条件も加わり日本が勝利する展開になったのではないか。

いつどこに敵が上陸するか、日本陸軍参謀本部と海軍軍令部の想定は、
時期は九月又は十月、上陸地点は九州南部
(「陸軍作戦名「決号・第6号」海軍作戦名「天号」。さらに翌年関東の九十九里浜に上陸)。

この日本軍側推定は米軍上陸作戦計画(米軍名「オリンピック作戦」(九州)
「コロネット作戦」(関東)の「ダウンフォール作戦」)とピッタリ一致して
日本は見事米軍の動きを見透していた。

陛下は侍従武官を九十九里浜に遣わして防衛体制を調べさせたが、
侍従が「防衛は全くされていません。」との報告をお聞きになったことが
終戦を決断された一因と伝えられる。


この時九十九里浜で訓練していた三千人の「伏龍」隊は、シールドにかくれていて
侍従武官に見えなかっただろうし、又、米軍は九州を先に攻めると想定されたので、
日本軍の陣立は九州南部を先に固め、そのあと九十九里を固めようとしたのであるので、
陛下に上奏された終戦を決定する情報の一部に重大な誤りがあったのは残念だ。


これは開戦時の宣戦布告をワシントン大使館の怠慢により米国務長官への提出が遅れ、
日本の騙し討ちという口実を与えてしまったことと同じ位に大きなミスだ。


本土決戦の火蓋がきって落とされた後をシュミレーションする。

先ず米軍は上陸地点の南九州に原爆を落とすだろう。
しかし陸軍参謀本部堀少佐率いる特殊情報部が原爆コールサインを
五時間前に傍受していたので、近くの海軍大村基地の紫電改が発進し、
B29を太平洋上で撃墜。

ついで艦砲射撃するため日本に近づいた米軍の日本本土上陸作戦に対する日本軍の準備は、
完成した三千機の特攻専用機「劍」が、上陸しようと集まった敵艦艇に突っ込み、
多くの敵艦を撃沈撃破し、水中からは千隻の特殊潜航艦「蛟竜」(海軍兵学校校歌
「江田島健児の歌」の「地に潜む「蛟竜」からとった名」から泡の航跡が全く残らない
日本海軍の世界に先駆けた発明九三式酸素魚雷が発射されて、敵艦艇は次々に轟沈する。

この猛攻撃からしぶとく残った敵艦に対し、岩陰に隠れていた海軍兵学校六十九期
満野功大尉率いる第六十七震洋隊江ノ浦(静岡三津浜)など三千隻の「震洋」
爆突特攻艇が轟々と暁に発進し、残る敵艦や上陸用舟艇に勇猛果敢に体当たり。

それでも残る敵艦艇からかろうじて発進した敵の上陸用舟艇に対しては波打ち際の
水中に展開する五式撃雷を待って潜む予科練出身者や海軍陸戦隊古兵の精鋭から成る
三千人の「伏龍」隊が上陸用舟艇を爆沈させて波打際に寄付けないようにする。

それでもかろうじて上陸した敵兵を、五重の陣地で固めた世界最強の
本土決戦部隊が米戦車より強力な新開発五式重戦車と共に待ち構える。

敵戦車に対しては最新鋭の「ロタ砲」で、敵戦車M2を遠方から撃破し、
更に敵が近づくと「櫻弾」で厚い装甲を撃ち破り、もっと近づくと決死隊が
チビ(ガラス球に人った青酸がス)を戦車のスリット窓にぶつけて操縦者の目潰しをし、
次にキャタピラ破壊扁平爆弾を敵戦車のキャタピラの下に挿入してキャタピラを破壊し、
敵戦車を動けなくし、止まった戦車本体の下に戦車爆雷を挺身突撃隊が放り込んで擱座させる。

一方、上空の敵機には大東亜戦争決戦機として開発された世界最強
(戦後アメリカの実験で時速最大六九〇kmを記録し最高傑作機と評価された。)の
中島飛行機製二千馬力四式戦闘機「疾風」や、ゼロ戦の次世代戦闘機堀越二郎設計の
三菱製「烈風」が敵グラマンF6F、ノースアメリカンP51を次々と撃ち落す。

更にB29キラーとして海軍空技廠設計九州飛行機先尾翼型機首と
強力三十ミリ機関砲四門搭載の「震電」が時速七百粁以上という、
米軍戦闘機、B29より早い世界最速スピードで敵戦闘機に追い付き、敵機を一撃で撃墜する。

又、B29の前方上空に廻り込んで四門の砲でアッという間にB29を撃墜する。

種子島海軍大佐が開発し石川島重工業製の世界初のジェットエンジン搭載の
双発ジェット戦闘機「橘花」がB29を攻撃。

甲液「過酸化水素オキシノリン・ピオリン酸ソーダ」と乙液「水化ヒドラジン・メタノール
・銅シアン化カリウム」を一〇〇対三六でミックスした脅威の推進力で、
今迄達しなかった一万二千粁の成層圏まで従来型の飛行機では十数分かかったのを
僅か三分五十秒で急上昇できる時速九百粁の画期的無尾翼型ロケット戦闘機「秋水」が
その先頭部に搭載する強力三〇ミリ機関砲二門が火を吹きボーイングB29を
一撃で次々と撃ち落すとして行く。

運よく残ったB29も新開発の二万米に達する新高高度高射砲で撃墜されて行く。

だがこれら最新戦闘機を動かす燃料はどうするのか?

そもそも大東亜戦争が始まったきっかけは軍艦や航空機に必要な石油を
米英蘭三国が対日輸出禁止して日本経済を窒息させようとし、これに対して
ワシントンに交渉を行った甲案提示の野村海軍大将(大使)と東郷外相の秘策乙案を
持った来栖大使が追いかけて米側と交渉。

ほぼアメリカが合意し日米和平が実現しようとしたのに対し、その翌日引っくり返り
「日本の全権益放棄とシナ大陸からの日本陸軍の全面撤退」を要求する蒋介石の言い分を
通した文章を共産主義者でソ達のスパイであったアメリカ国務次官補が草稿を書き、
ハル国務長官がそれに署名した「ハル・ノート」の回答に、
これでは日本は到底合意できないので日本が大東亜戦争を始めたというのが第一の理由だ。


この戦争を始める理由になった燃料については、私の先輩で百歳の長寿を全うした
帝国海軍機関学校第四十期生木山正義機関中佐と、又、私の先輩東京帝国大学工学部
桑田勉教授の研究により、南方からの油を頼る事なしにパイン・ルート・オイルから
終戦直前十年分の燃料を創り出したのだ。

これに加えて更に「太陽と水と大地」があれば
永久に生産出来るバイオ燃料を創り出す事に成功した。
しかも空襲に耐えるため蒸留工場を全国に分散して建設し、製造した。

この蒸留装置製造を実現できたのは海軍艦政本部が木山中佐の依頼に全
面的に協力し蒸留装置を急速に造り全国に設置したからである。
これで日本は永久に戦える燃料を終戦前に用意できたのである。


本土決戦では日本は必ず勝つとすべての陸海軍参謀は確信していた。
一方、アメリカ軍上陸攻撃隊司令官は戦後日本軍の陣立てを見て驚嘆し

「米軍は上陸に三回失敗しただろう。上陸に三回失敗すれば米軍の戦力はほとんど消耗し、
戦争はベトナム戦と同様な状態となり、アメリカ国内で戦争反対の世論が起こり
ベトナム戦で米軍が負けたと同じく米軍は日本から敗退せざるを得ない。
もはや戦えないので日本に和睦(降伏)を申し出るしかなかったであろう」と述べている。


ポツダム宣言を発した米国大統領トルーマンは、
急死したルーズベルトから戦争を引き継いだとき、

「日本の国土は九十%が山森であり、攻めるのが非常に困難な地形である。
しかも廻りは海で近づきにくい「不沈空母」である。地形のみならず無傷の
七百五十万の世界最強(マッカーサーが議会で証言)の日本陸軍が本土と東南アジアに展開し、
この敵とどう戦いどうやって打破する事が出来るか見当もつかない。」
と溜息して日記に書いている。

実は日本を空襲したB29から「アメリカは鉄が不足して船をコンクリートで造りはじめたり、
男のパイロットが不足して女が飛行機に乗ったりしてアメリカは青息吐息だ。
日本人よ、もう少しでアメリカが参るから、ガンバレ」というビラが撒かれた。

恐らく乗っていた日系二世が日本上空から撒いたと思われる。

一方、昭和二十年五月にベルリンに居た藤村義朗海軍中佐がスイスで
ルーズベルトの代理人キャノンと交渉し、
米側は「満州、朝鮮、樺太、千島列島(北方領土)は日本に残す。
台湾は蒋介石と交渉してくれ。この条件で停戦しないか。和睦は急いでやりたい。」
と驚くべき提案をして来たが海軍軍令部はこれを受けなかったと藤村中佐自身から私は聞いた。

これを継承したトルーマン大統領は、日本を降伏させるのは不可能で、
どうにも打つ手が無く、手づまりだから
「ポツダム宣言」というフェイントのような宣言を出した。

これは又、原爆投下をする言い逃れにもしたのである。

なぜフェイントのようかというと戦後、米、英、支のポツダム宣言の書類の実物を見ると、
トルーマンしか署名していない事が判った。
イギリスもシナも署名していなかった。

これから見るとトルーマンの一人芝居だったことが史実として判明した。

そしてドイツ攻撃用に急いで実験的に作ったファットマンとリトルボーイの
一つづつの二つしかない原爆を投下し、同時に数百個の原爆があると
ウソの宣伝をして日本をおどした。

このフェイントのようなものに、
まんまとお人よしの日本政府は引っ掛かってそのままのんでしまった。

これにはろくな返事も来ないだろうと思っていた
トルーマン大統領自身もビックリした事だろう。

陸軍参謀総長、海軍軍令部総長という戦う陸海軍の責任者は前述のように
本土決戦は勝つ見込みが充分あるから、天皇陛下の御前会議でもポツダム宣言受諾に
絶対反対し戦争継続を主張したのであるが、天皇陛下が終戦の御聖断を下されたのである。

この会議室の入口で、特攻の海軍現場責任者の海軍軍令部次長の大西滝治郎中将が
「あと特攻機が千機あれば勝てます(実際は既に三千機が用意されていた)。」
と意見具申したが拒否されたので、大西中将はこれに抗議して切腹した。
切腹の介錯も頼まなかったのは怒りの表現であろう。


一方本土決戦の帝都の空の護りとして厚木にある無傷の帝国海軍航空本土防衛隊は、
零戦設計者堀越二郎の新設計の四翼プロペラ延長回転軸式新型迎撃戦闘機「雷電」や
川西航空機製「空戦フラップ」付の新鋭機「紫電改」などの一万機が厚木航空隊に温存され、
強くて米軍から恐れられたラバウル海軍航空隊などから集められた歴戦のベテランパイロット
が手ぐすねを引いて待っており、厚木海軍航空隊小園司令は終戦命令に絶対反対で
最後まで降伏しなかった。

右の如く終戦時には「日本は負けていなかった」のは歴史的事実である。

そして「終戦」の実態は「負ける」どころか「血気にはやり、戦いたい」
陸海軍や士気旺盛の国民に終戦を説得し抑えるのが大変だったというのが歴史的事実である。


しかしポツダム宣言に対して日本政府は「これは敵から申し出た和睦の条約」
とまじめに甘く考えていてこれに乗ってしまったのである。

アメリカの新聞は大喜びで「日本は無条件降伏」と事実とちがう報道を行った。

アメリカの提示したポツダム宣言自体、八つの条件付であり、
これに加えて日本政府は「国体護持」という条件付きで受諾したので、
計九つの条件付和睦で「無条件降伏」は事実に反するのである。

又、ポツダム宣言にも日本の国としての無条件降伏とは一字も書いていない。
戦後の日本人が洗脳されて「敗戦」だとか「日本が無条件降伏した」と
思っているのはまことに嘆かわしい。

さて日本は歴史上負けたことがなく、前例が無いので終戦のやり方が非常にまずかった。
通常どんな契約でも必ずネゴをして味方の条件を良くするものだ。

現に藤村中佐のスイス交渉では、ルーズベルト大統領が
「満州、朝鮮、樺太、千島列島は日本に残す。台湾は蒋介石と交渉してくれ。」
と言っているのだから、この線に戻すことは可能性大だったのだ。

だが今も昔も変わらぬ外国との交渉下手の日本政府はネゴをしなかった。

ところが和睦の条件の武装解除をして日本に武力を無くすると、
アメリカは次のステップとして、日本の陸海軍を廃止させた。

これはポツダム宣言に入っていない。

更にアメリカはハーグ国際条約に反してアメリカ原案の憲法を日本政府に呑ませ、
日本の政治家は一人として抵抗する「男」がいなかった。これは今日迄統いている。

又、進駐の翌朝から進駐軍は軍政を敷き、B円という占領軍貨幣を使わせ、
日本経済をコントロールしようとしたが
重光外務大臣と側近の岡崎氏の命を懸けた交渉でこれだけは阻止した。
軍政と通貨は、ポツダム和睦条件に入っていないのだ。

あたかも徳川家康が大阪冬の陣の和睦条件に外堀を埋めることとし
人のよい豊臣方が呑んだら、内堀も埋められて、次に難癖をつけられ
夏の陣で滅ぼされてしまったのと同じ手法だ。

先に述べたようにアメリカは国際法で禁じられている行為、
占領軍による憲法制定を強引に日本政府に呑ませ、
占頷下で手も足も出ない日本政府は屈服した。

軍人は切腹したのに政治家はこの不法行為に抵抗する「男」が誰もいなかった。

一方、ソ進は日本との不可侵条約が厳として存在しているのに、
日本が終戦の仲介を依頼しているのを知りながらノラリクラリとこれを無視し続け、
日本に宣戦布告をした。

樺太や千島列島の日本軍は上陸するソ進軍を撃退し、
又、関東軍と朝鮮軍は旺盛な士気で朝鮮半島北部でソ連軍を待ち構えていた。

しかしソ進軍は、終戦後不法に北方領土を占領したのみならず支那大陸にいた
六十万人もの純心な日本兵を「帰国させる」と偽って貨車に乗せ、シベリアに拉致し、
重労働させた上、洗脳されないものは帰国させないと脅して共産主義教育を叩き込み、
共産主義に洗脳された兵のみ帰国させ日本の教育界、マスコミ界、労働組合、演劇界に
もぐり込ませた。

そしてGHQと共に日本を左傾させ、学生も勉学そっちのけで革マル、中核、赤軍派など
学生運動を繰り広げてこの学生が今や成人して政治家となり偏向した現政府の幹部となって
日本を動かしている。

そして産業も沈滞し道徳は乱れ、これらは現在日本が弱体化している基本的要素となった。

この「終戦」の実情、つまり
「戦意旺盛の陸海軍や頑張っている全国民をいかに説得してやめさせるか」が
終戦にするには大変な事で、「敗戦」どころの状態ではないのである。

この実態を知らない最近の日本人は「終戦」を「敗戦」と言い変えているのは史実に反する。
右に事実を説明したように実際に負けていない「終戦」と、負けたという「敗戦」は全く違うのだ。

昭和一桁初期以降に生まれた若い人は右に述べた本当の歴史を知らない。

だから日本政府の正式名称であり理論的に正しい「大東亜戦争」(太平洋だけでなく、
ビルマ・インド等も含めた戦争)を米軍の言う「太平洋戦争」に言い換えたり、
日本政府の正式名称「支那事変」を「日中戦争」と言い換えたり、
国際間の正式国名の「チャイナ」又は「シナ」と言わず相手におもねって、
又はお世辞で「中国(世界の中心の国)」と言っている。


「支那事変」は日本政府が正式に国家間での戦争と認めていないのだから、
日本政府は「事変」と言っているのであり、この事実に反しているのを知らないで
「戦争」というのは理論的にも誤っている。

又、「わが国」と言わず、
他人の国のように「この国」と言っている人も洗脳されている人である。

占領軍は日本占領中新聞や手紙の検閲を行って「大東亜戦争」の使用を禁止し
「太平洋戦争」を公文書に使うよう強制したが日本は独立している今もって
間違った表現の「太平洋戦争」という名前を使って占領軍のトラウマに囚われているのだ。


さて終戦の詔勅の文章を協議する会議で詔勅原案の中に「戦勢日に非にして」という
文章があり、某大臣から「日本は勝ったのか負けたのか?」と質問が出たのに対し

阿南陸軍大臣は「勝ち負けの定義を「日本が支配している地域の大きさと兵の士気」
とすれば、日本が戦争を始めたときの面積と現在(終戦時)の面積を比較すれば、
現在(終戦時)の面積の方が大きい。

つまり日本はこの戦争で勝っていることになる。
しかも兵の士気は旺盛で日本は最後には必ず勝つと信じている。」

と答え、詔勅原案「戦局日に非にして」は「戦局必ずしも好転せず」と訂正された。

阿南大将は「本土決戦をやれば日本は負けないので、本土決戦のあと講和を結ぶ」
との陸軍の主張が聞き入れられず、御前会議で終戦が決定されたので、いさぎよく切腹した。

これは計画されていた大掛かりな陸軍のクーデターも抑える効果もあった。
介錯も断った見事な切腹だった。

この様な信念と責任感旺盛で主張が通らなければ、
最後には自分の命を堂々と切腹して絶つという大臣は現在の日本の大臣に誰一人いないのは、
日本人が終戦後いかに堕落してしまったかを示すものである。


右のように終戦時は日本軍に停戦を説得するのが大変で、まして敗戦ではないのが事実だ。

終戦の詔勅について私の小学校も大学も同じ迫水久常書記官長(現在の官房長官)と
私は公私ともに非常に親しく迫水さんから終戦の御前会議の模様など色々重要な話しを
直接迫水さん本人から問いた。

御前会議でおっしやった天皇陛下のお言葉をラジオで全国民に伝える正式な勅語の
文章作成を迫水さんが任され、迫水さんが一高で教わった漢文の先生である
漢学者川田瑞穂に文章作成を依頼され原案を作成した。

これを大東亜省顧問の陽明学者安岡正篤が手を加え、
とくにこの詔勅の原文の中に「義命の存する所」という言葉が重要であった。

全大臣が終戦の詔勅の文章を協議する会議が十一日夜から十三日夜迄続き、
訂正箇所が四十ケ所もあり、特に重要だった「義命」という言葉が某大臣から
「辞書にないから「時運」にしよう」と提案があって書き直されてしまった。

そして「義命の存する所」が「時運の赴く所」に変更され正式の終戦の詔勅になった。

私の名前は「義郎」だが、この「義」という意味は「道徳に基づく人として行うべき正しいこと」
の意味で「義命」とは「信以て義を行い、義以て命を成す」意味であり
『「義命」の存する所』とは普通にいわれる大義名分よりもっと厳粛な意味を持っている。


国の命運は義によって造られて行かなければならない。
その義は列国との交誼においてもその治政においても信でなければならない。

その道義の至上命令に示す所によって終戦を選ぶのであり敗戦ではないという意味である。

簡単に言えば『日本はこれからは道徳に基づく正しい方向を行くべきだ』との意味であるが
『「時運」の赴く所』は「時の流れのままに」という意味で、全く違う意味になってしまった。

だから今日でも日本は「時運の赴く所」つまり世に流されフラフラ流されて
リーダーシップがなく国是も定まらない誇りのない国になってしまった。」
と迫水さんが私に嘆いた。


又、終戦の御前会議で東郷外務大臣が陸軍が主張したソ連を仲介者にするという案に猛反対し、
仲介者を入れるなら「蒋介石を仲介にしたらどうか」と提案があったが、
近衛文麿が「蒋介石を相手にせず」という声明を出し「汪兆銘による南京政府」が
日本によりつくられているので「蒋介石仲介はまずい」と横槍が入り、
それではと不可侵条約を結んでいるソ連を仲介者にした。

結果はご存知の通り最悪で、ソ連は不可侵条約を結んでいる日本にかくれて
ヤルタで米英支と日本をやっつける会談(ヤルタ会談)にこっそり参加し、
日本からの情報はソ連を通じ連合軍に筒抜けになっていた。

毛沢東の中共軍と戦っている蒋介石は、
中共に勝つため日本に助けてもらいたいので日本に非常に有利な条件で仲介しようと考えていた。

戦後蒋介石は「なぜ自分に相談しなかったのか。自分に相談したなら
もっとよい条件で日本が終戦出来たのに」とくやしがったという。


先般あるテレビ番組で「中国戦線で敗走する日本兵」というコメントと映像が出た。
私の記憶では支那事変で日本が負けた戦線は知らない。

そこでその担当者を呼び「どこの戦線で日本が負けたのか」と質問したが、
返事がなくごまかすので再度追求すると、結局「根拠がありませんでした」
と白状し「おわび」が回答だった。

国の権威に関わる事実無根な「日本軍の敗走」を国民に誤報して、
これを放送で訂正せず口頭の回答で「おわび」でお終いにしている無責任さ。

歴史を知らないのである。

元大蔵大臣の塩じいこと塩川さんも支那大陸に従軍し
「支那戦線で武器を持っていなくても日本軍の軍服を着ているだけで支那兵は逃げた」
と体験談を話している。


ところで私は最後の海軍将校生徒であり、又、最後の東京帝国大学生でもある。

戦時中の東大総長は世界に誇る一万トン重巡の設計者平賀造船中将だったし、
東京都知事は陸軍教育総監の西尾寿造大将(その長男は現在ドクター中松創研の取締役営業部長)
だったが、終戦時も日本のエリートは追放され、

戦後の東大は、左翼の南原総長になり、占領軍によって、
「ゼロ戦」を作った東大航空工学科、世界一の戦艦「大和」を作った東大造船学科、
戦後の米軍テストで米最新型グラマン戦闘機より命中精度が高かった事が証明された
ゼロ戦の機関砲を追った西村教授の東大造兵学科など、

日本を強く支えた研究の学科が強制的に廃止されただけではなく、東京帝国大学正門にあった
「菊の御紋章」がはぎ取られ、名前も「東京大学」となり、「東京帝大」が「東大」になった。

名前だけではなくこの新制東京大学の学力レベルは、
旧制東京帝国大学よりも四年以上下に学力レベルを下げてカリキュラムが組まれた。

麻布時代の成績が下の方の私の友人でも実際新制東京大学に人っている。
私達東京帝国大学学生十人に対して二十人の教授陣が取囲んで最高レベルの教育をし、
最高の実験装置を持つ東京帝国大学は世界のトップレベルだったが、
新制東京大学の世界ランキングは今年は世界二十四位までに落ちている惨状だ。

又、東大の学生自治会は完全に左だった。

私は中立の丁友会理事として学生の健全化に努めた。

日本は軍隊の強さも世界一(マッカーサーが議会で証言)だったが、
戦後経済でもスイス、イギリス、ドイツを抜きGDPはアメリカに次ぐ二位となり、
次にアメリカも抜く勢いで、アメリカでは日本を恐れて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
という本も出たくらいだ。

そして一九九三年には日本人の個人所得はアメリカ人を抜き世界一になった。

戦争にもビジネスにも強かったのは当事の日本人が青年時代に兵隊に行き、
気力も体力も鍛えられ、又、まじめに高度な勉強をした昭和一桁初期の日本人
(これを私は「超経験者」と言っている)による努力の結晶なのだ。


しかし占領軍による日本弱体化政策により戦後育ちは勉強も怠り、徴兵にも行かず、
体力も気力も鍛錬されていないので、体力的にも気力的にも弱く知識経験も少なく、
国際競争に勝てない。最近の日本の男はすぐ泣く。

山一證券倒産の時に社長が泣いたのはその象徴だ。

最近の若い男は草食系と言われ、やる気がなく泣き虫で、
私が教えているハーバード大学やMITに日本人留学生がいない。
最近の日本人は留学するファイトもないのだ。
シナや韓国人が多数外国一流大学に留学しているというのに。

そして日本のGDPも二位から三位に後退し、
日本人の個人所得もかつての世界一から現在二十七位に落ち込んでいる。
日本はこの状況から脱却せねばならぬ。


それには「超経験者」を指導者にして次世代若者を十五歳から全寮制で肉体と気力を鍛え、
道徳修身を勉強させ更に世界より高いレベルの教育をしてゆく事が日本再生の基本なのである。

戦争中、私の家の玄関ドアに鍵をかけなくても泥棒が人らなかった。
しかし終戦後、同じ私の家で厳重な鍵をかけても何回も泥棒に入られたことでも判るように
戦時中立派だった道徳心が高い日本人に比べ、修身を廃止した戦後の日本人の道徳の疲弊は
驚くべきものがある


もう一度言う。

「日本は負けていなかった」

これを裏付ける賀川豊彦のマッカーサーヘの終戦直後の手紙の一部を添付する。


『マッカーサー総司令官閣下』

陛下の詔書の一分前まで全国民の戦意は燃えに燃え陸海空三軍の銃口が
一様に貴官各位の胸に向けられていた事も事実なのです。

総司令官閣下
貴官は去る28日の厚木進駐の指揮者から進駐が平和的に日本側の満足すべき心づかいの中に
先遣部隊の進駐を終了した報告を受けられたでしょう。

そして閣下は多数の日本人を眼前にされたでありましょう。
そしてまたその日本人が口をキッと結んでいる表情に気がつかれたことと思います。

日本人は最後まで戦うつもりでいました。
おそるべき原子爆弾がやがてわが身に落下するということを予想し
覚悟しなかった者は只一人もありますまい。

またたとえ身は焼かれても粉砕されても戦争は陛下の指揮のあるまで続けてゆかなければならぬ
ことを毛程も疑った日本人は一人もなかった事も事実ですが、
それが、陛下の詔書によって戦争から平和へ完全に変向しました。

その決意の固さと新しい理想へ出発への努力が閣下の見られる
日本人のキッと結ばれた口もとの表情なのです。
この様な民族が、国家が他に例を見ることができたでしょうか。』


最後に日本全国民が、もう一度「終戦の詔勅」を読むことを提案する。

そして負けていないのに終戦した無念さを思い起こし、そこに書かれている陛下が示された
これからの日本の指針「総力を将来の建設に傾ける事」「正しい道を進みその心を堅持」
「国体の真髄を発揚」「世界の流れに遅れを取らぬよう」を全国民が実行することが、
我が国を立派だった古き良き日本に甦らせることなのである。


繰り返すが今迄「敗戦した」と殆どの人が思っている事は間違いであり、
史実は「日本は負けていなかったのだ」という事を再認識し、
これからの各人の行動を百八十度転換する事が日本再生の第一歩であることを確信し、
日本が立ち直る起爆剤にするために本論文を発表したのである。

=============

いかがでしたか?

最近、8月15日を「終戦」と呼ばず、「敗戦」という語句を使う人が増えています。
とんでもない話です。
あくまでも日本が主体的に戦闘を終わらせたのです。
だから「終戦」なのです。

本土空襲を繰り返した米軍のB-29は、高度1万メートルという、
日本の戦闘機では届かない高高度を飛ぶ爆撃機でした。
当時にあっては、まさに世界最強の「空の要塞」です。

けれど、その高度的に届かない筈の高さを飛ぶB-29を、
陸軍の上坊良太郎大尉は、(高度が届かない筈の)戦闘機で12機も撃墜してしまっています。

さらに高高度を飛ぶことのできる飛行機を日本が完成させていたら。
戦況はまるで逆転です。

ちなみに、あれほどの脅威を誇ったB-29を、戦後米軍は、あっという間に廃棄処分しています。
役に立たなくなったからです。
なぜかといえば、ジェット戦闘機が開発された。

ジェット戦闘機の前に、B-29は、
まるで空に浮かぶ間抜けな「的」できなくなってしまったからです。
そしてそのジェット戦闘機を、日本は戦時中、すでに開発していた。

そして一番大切なことは、原爆を落とされた日本が、実は原爆を持っていた、ということです。
その日本が、報復のため米国にもし原爆を投下したら。
それは、十分にあり得ることです。

それだけの技術が日本にはあったし、当時日本は戦争をしていたのです。
軍は、「勝つため」に戦争している。

けれど原爆の打ち合いが、まさに人類を崩壊させるものとなるということも、
容易に想像できることです。
そして陛下の終戦の詔勅は、本文は原文のままでしたが、口語訳すれば

~~~~~~~~~
敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、
その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、
さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
~~~~~~~~~

この一文に込められたメッセージは、たいへん重要です。

「この上、なお交戦を続けるであろうか」

という一文には、原爆に対する報復措置としての米国への日本の原爆投下をする、
というメッセージが込められている。

そうなれば、戦いには勝つかもしれないが、
「朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか、
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。」と陛下は述べられているのです。

国家間の戦争に勝つということは、どういうことか。
世界的名著である、クラウヴィッツの「戦争論」によれば、
戦争とは、「国家の目的を達成するための究極の手段である」と述べられています。

日本が大東亜戦争で目的としたものは、「世界の平和と繁栄」です。
日本は、良心のために戦った。

だからこそハーグ陸戦条約を堅持し、
日本は、一般市民に対する虐殺行為を一切やらずに戦い抜いたのです。

その日本が、一般市民を巻き込む原爆投下を行ったらどうなるか。
なるほど日本は戦いには勝つかもしれない。

けれど、陛下は、虐殺を行ったという事実を、
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊に、如何にして謝れば良いのか、と述べられているのです。

そして日本は、主体的に戦いを終わらせたけれど、その日本が巻いた種によって、
戦後、世界の被植民地諸国は、次々と独立を果たし、経済的繁栄を遂げるようになってきた。


考えてみると、それら諸国の国民は、すくなくとも戦前までの支配者側だった白人たちよりも、
いまでははるかに良い暮らしをしています。

ちょうど、戦前なら、よほどの大金持ちか大臣でしか乗れなかった自動車に、
いまでは主婦や働く人たちが、当時の車よりもはるかに安全性、居住性の良い車に
乗っているのと同じように、です。

国家の行う戦争は、戦闘行為自体が目的ではありません。
目的のために戦争をするのです。
そしてその「目的を達成」した国家が、戦争に「勝利した」ことになる。

日本は、間違いなく、戦争に勝利したのです。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1979.html

           <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

大東亜戦争の波紋 - 伝統

2015/08/20 (Thu) 04:43:23


☆光明掲示板・第一「大東亜戦争 (413)」
  →  http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=120


☆光明掲示板・第二「大東亜戦争 (226)」
  → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=92


・・・

      *『日本が戦ってくれて感謝しています』井上和彦・著 より要点を抜粋


(1)対米戦反対を唱えながらも、マニラを10日余りで陥落させ、
   占領地マニラで善政を敷いた知将・本間雅晴将軍。

  ①その処刑前にこういい遺した。

   「私はバターン半島事件で殺される。
   私が知りたいのは広島や長崎の数万もの無辜の市民の死は、
   いったい誰の責任なのかということだ。
   それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」

  ②昭和21年4月3日、本間雅晴陸軍中将「戦死」。
   享年58歳であった。


(2)米軍反攻直前の昭和19年10月になって、
   第14軍司令官としてフィリピンへ赴任してきたのは陸軍大将山下奉文である。

  ①持久戦を戦っていたが、終戦後、山下将軍は山を降り、
   敢えて「生きて虜囚の辱め」を享けたのである。
   彼は側近にこう語っていた。

   「私はルソンで敵味方や民衆を問わず多くの人々を殺している。
   この罪の償いをしなくてはならんだろう。

   祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、
   私がひとり先にいっては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。
   だから私は生きて責任を背負うつもりである。

   そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。
   そして祖国再建のために大いに働いてもらいたい」


  ②山下将軍は10万の部下を無事復員させることに全力を傾けたのだった。
   この山下将軍を正義の名の下に裁き、処刑したのは誰であろう、

   部下を置き去りに敵前逃亡し、
   そして敗戦の責任を部下に押し付けた、
   かのダグラス・マッカーサー将軍だったのである。

  ③マニラ軍事裁判で、山下将軍の弁護人であった、
   米国人フランク・リールはその著書『山下裁判』で次のように書いている。

   「祖国を愛するいかなるアメリカ人も消しがたく苦痛に満ちた恥ずかしさなしには、
   この裁判記録を読むことはできない。
   われわれは不正であり、偽善的であり、復讐的であった」


(3)パラオのペリリュー神社にはこの地を訪れる日本人を無条件に驚かせ、
   そして「世界の常識」を思い知らさせる石碑がある。

   「諸国から訪れる旅人たちよ、
   この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、
   そして玉砕したかを伝えられよ」

   敵将・米国太平洋艦隊司令長官C・W・ミニッツ提督から贈られた賛辞であった。

   国を守るために尊い生命を捧げた軍人に感謝することは当然である。
   しかし戦後の日本人はそんな常識をいつしか忘れ去り、
   先人の尊い犠牲の上に築かれた「平和」を当然のことのように享受してはいまいか。


(4)わたしは台湾を訪れると龍山寺を訪れる。
   古き良き時代の「日本」に会うために。
   そこにいる台湾のお年寄りたちは、こう言ってくれる。

  ①「昔僕らはね、祖国日本のために全力を尽くして戦ったんですよ。
   ああ、懐かしいな~。
   知っていますか?

   『敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花』

   今の人は知らんだろうな~」

  ②「なんで日本は、あんな中国、韓国にペコペコしすぎるんだ!
   もっと堂々としなさい。
   大和民族が何をやっとるのか! 」

  ③「老台北」の蔡さんはいう。

   「私がもっとも尊敬する実業家、それは許文龍さん。
   この人は私利私欲がない。
   尊敬する後藤新平の生き方そのものなんです。
   いわば台湾の宝です」


(5)藤原岩市少佐は、参謀本部の命令によって、
   「F機関」を発足させ、英軍の7割を占めるインド人将兵に投降を呼びかけ、
   また捕虜となったインド兵をインド独立のために立ち上がらせる工作活動を任された。

   F機関の構成メンバーは民間人を含めてわずか10余名。

   陸軍中野学校出身の中でもずば抜けて優秀な若手将校から、
   マレー語に堪能な60歳近い実業家まで、
   年齢も経歴もバラバラな猛者の集まりだった。

   そんな男たちを藤原少佐は見事に纏め上げたのである。


(6)戦史はただ過去の戦争の歴史ではない。
   戦史は、現在を知り、そして将来を占う確かな道しるべなのである。

                ・・・


 ☆【書評】 
  『日本が戦ってくれて感謝しています』 アジアが賞賛する日本とあの戦争 井上和彦著
   産経ニュース2013.10.6 12:48
    → http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/e/f03253c42648bafdc3affed715d13bd5

 ☆著者へのインタビュー
  → http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20131229/enn1312290725000-n1.htm


 ☆ポイント
  → http://goldtumitate.blog41.fc2.com/blog-entry-1445.html

 ☆全文(コピー不可)
  → http://bewithgods.com/hope/japan/24.html


・・・

<参考Web>

(1)光明掲示板・第二「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか (4624)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=974

(2)光明掲示板・第一「“18歳の宣戦布告 国家観なき若者に告ぐ” (7850)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1473

(3)光明掲示板・第二「『18歳の宣戦布告 国家観なき若者に告ぐ』全文紹介 (118)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=54

           <感謝合掌 平成27年8月20日 頓首再拝>

皇恩に感謝 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 04:56:31


☆本流宣言掲示板「 忘 れ 得 ぬ こ と(昭和天皇侍従次長・木下道夫氏著)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=790


☆光明掲示板・第二「国民のおばばさま、貞明皇后 (6646)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1351


☆本流宣言掲示板「「直き心」の日本文明(「4月29日昭和の日」に因んで) (868)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=204


☆光明掲示板・第一「「昭和の日」 (8024)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1500


☆伝統板・第二「終戦を支えた皇族たち」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6566763


☆本流宣言掲示板「昭和天皇さまの戦後のご巡幸 (234)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=70


☆伝統板・第二「昭和の日」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6477200


           <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

世界が語る神風特別攻撃隊 - 伝統

2015/09/02 (Wed) 04:50:11


          *『世界が語る神風特別攻撃隊』吉本貞昭・著からの要点の紹介です。


本書は、大東亜戦争末期、必死必殺の特攻兵器をもって国家の危急を救わんとした、
殉国の血潮に燃えた青年たちの勇気と自己犠牲の記録である。


(1)元海軍飛行予備学生の杉暁夫氏は次のように述べている。

   「私たちの常識ではとても想像もつかないような完全な『滅私』を
   神風特攻隊員の一人一人が実践してみせたのである」

   「ただ一途に、祖国の危機の前に敢然と立ち向かった若い特攻隊員たちの
   悠久の偉功を決してないがしろにしてはならない」


(2)「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の発露であった。
   今後数千年の長期にわたって語れ継がれるに違いない」(ビルマ初代首相バー・モウ)


(3)天佑神助

  ①終戦後、GHQは、対日占領政策の一環として、日本改造計画を実施したが、
   幸いにも日本は、固有の領土をほとんど保全することができたし、
   ドイツのように分割占領にもあわず、国体を護持することができたのは、
   まさに天佑だったと言わねばならないだろう。

  ②著者は、このような天佑神助とも思われる終戦を招来することができたのは、
   まさに神風特攻隊の影響だったと思っている。

   米国の従軍記者ロバート・シャーロッドが、

   「(特攻のような)型破りな戦術は、アメリカ海軍に深刻な影響を与えた。
   なぜならば、アメリカ軍はいまだかつて、このような自己犠牲の光景ほど、
   ゾッと身の毛のよだつような無気味なものをみたことがなかったからである」

   と述べているように。

  ③別言すれば、戦後70年もの長きにわたって、
   日本が平和を維持することができたのも、

   日本国憲法第9条のおかげではないし、
   日米安全保障体制のおかげだけでもなく、

   神風特攻隊の脅威が周辺諸国に抑止力となって働いていることにあると思っている。


(4)出撃の2日前、西田高光中尉は、
   海軍報道班員の山岡荘八氏からの戦いについての質問にこう答えている

   「学鷲は一応インテリです。
   そう簡単に勝てるとは思っていません。
   しかし、負けたとしても、そのあとはどうなるのです。
   おわかりでしょう。

   われわれの命は講和の条件にも、
   その後の日本人の運命にもつながっていますよ。
   そう、民族の誇りに」


(5)フランスのジャーナリスト、ベルナール・ミローも、

   「日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた。
   彼らは千年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの
   使命を、取り出して見せつけてくれたのである」

   と述べ、特攻隊員の崇高な自己犠牲の姿に敬意を表しているのである。


(6)「ドイツはみな、万歳万歳と叫んでいるのに、
   日本の首相は敵の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。
   やはり日本はサムライの国だ」

   これは大東亜戦争末期の総理大臣鈴木貫太郎(海軍大将)が、
   昭和20年4月12日に病死した米大統領ルーズベルトの死を悼んで送った弔電に対する、
   ドイツのノーベル賞作家トマス・マンの言葉である。

   当時ナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命していたユダヤ系ドイツ人のトマス・マンは、
   日本の総理大臣から送られてきた弔電に感銘し、ラジオを通じて、
   「ヨーロッパの騎士道がアジアの日本に生きていた」
   と、全ヨーロッパのユダヤ人同胞に対して励ましのメッセージを送ったのである。


(7)フランスの作家で文化大臣であったアンドレ・マルローは、次のように述べている。

   「日本は太平洋戦争で敗れはしたが、そのかわり何ものにも代え難いものを得た。
   それは、世界のどんな国にも真似のできない特別攻撃隊である」


   「日本の特攻隊員たちはファナチックだったろうか。
   断じて違う。

   彼らに権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。
   祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。

   代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、
   逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。
   人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならない」


   「私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべて乗り越えて、
   いさぎよく敵艦に体当たりした特別攻撃隊員の精神と行為の中に、
   男の崇高な美学を見るのである」


(8)「我々の空母の飛行甲板を貫いたこの男は、私より立派だ。
   私には、到底このようなことはできない」
               (アメリカ海軍大尉、マルコム・マックガバン)

              <感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>

虚構の南京虐殺事件~陰謀(プロバガンダ) - 伝統

2015/09/03 (Thu) 04:48:39


(1)本流宣言掲示板「南京事件 (8515)」

   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2009


(2)本流宣言掲示板「共産中国にご用心! (6125)」

   http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1381


(3)Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2012年09月10日)
       南京大虐殺はなかった! この動画を見れば一目瞭然

   http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/17308939.html


(4)Web:南京の真実を知らせ隊

   http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-277.html

(5)Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2015年04月04日)
      【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』製作へ[桜H27/3/28]

   http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/43485349.html

(6)Web:谷口雅春先生に帰りましょう(2015/04/14)
       <衝撃の事実> 生長の家信徒の8割が『通州事件』を知らない。

   http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15314357

              <感謝合掌 平成27年9月3日 頓首再拝>

南京大虐殺の不思議 - 伝統

2015/09/05 (Sat) 02:58:41

              *「日本人の誇り」藤原正彦・著(P104~120)より抜粋

《「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。》(P104~108)


1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、
その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。

1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、
中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、
「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、
これらは数年をかけて行われたものだ。

レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、
2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。
天皇を中心にした日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。

「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。
舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。

私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、
私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。
祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。


そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民に
どうしても真実を知ってもらう必要があります。


1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。
日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊で
ロシアと戦ったことを誇りに思っていました。

そこで攻勢前に兵士たちに、
「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」
という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。

これ自体が稀な行為です。
そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、
若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。

孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は
親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、
せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。

そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、
民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。

蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。
続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、
無政府状態となりました。


ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、
市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。

第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、
どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。
北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。

南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。
「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに
撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。

指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。
大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。


『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が
安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。

南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。
日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、
すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。

安全区は、狭い南京の一角に作られた2㌔四方程度の狭小の地区です。
日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、
全市民がここ安全区に集まっていました。 

資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。
「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。


ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の
日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。
皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。

こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、
そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。

  ・・・・

  <参考:Web:南京で、本当は何があったのか ② より抜粋>

   昭和12年12月、南京が陥落したとき、朝日80名、毎日70名、読売70名、
   同盟通信30名…など、総数600余名の従軍記者たちが、いっせいに南京市内へ入った。

   7月に盧溝橋事件が起こり北支事変に拡大すると、中国戦線は各新聞社の最重点取材地となり、
   各社は多数の記者やカメラマンを特派した。

   のちに政界へ転じて佐藤内閣の官房長官、田中内閣の幹事長を務めた橋本登美三郎は、
   当時朝日新聞の南京通信局長で、南京陥落のときは部下の記者を15人ほど引き連れて、
   一番乗りしたことは有名である。

   南京戦では朝日2人、読売2人、他2人と、6人の報道関係者が死亡している。
 
   記者たちは、当然、南京の様子をつぶさに見ている。
   12日の総攻撃、13日の陥落、14~16日の掃討戦、17日の入城式、
   18日の慰霊式…といった連日の様子を取材し、日本へ詳しく書き送っている。

   しかし彼らは、戦時下においてはもちろんであるが、
   戦後の左翼勢力の台頭してきた言論界においても、
   南京事件などといった記事は書いていない。

   日本軍占領下の南京で、虐殺と認識される事件など見ていないのである。

   南京陥落を目撃した記者たちが、日本の新聞社に在職していた間、
   南京事件といった類の記事は紙面に載ることはなかった。

   彼らが退職して、南京の日々を知らない記者が記事を書くようになって、
   伝聞記事「中国の旅」が朝日新聞に連載された。

   それはかつて南京を歩き回って取材した朝日の記者たちを驚かせ、
   古巣に抗議する記者もいたのである。

   (http://homepage3.nifty.com/akira-i/Daitoha/20080522%20nankin2.htm

  ・・・・

日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、
国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、
そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)
などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。

この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、
検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。

また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、
南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。
無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。

当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」
と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。
これにも虐待の影はありません。

一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。(~p108)


《ティンバレーもスノーも南京にいなかった》(P108~110) ~略

    *参考Web:「南京大虐殺」を伝えた宣教師・新聞記者とは
           → http://homepage3.nifty.com/akira-i/Daitoha/20080528%20nankin3.htm

           南京での埋葬数 -虐殺20万人とは程遠い記録-
           → http://homepage3.nifty.com/akira-i/Daitoha/20080603%20hontonogisei.htm


《東京裁判で再登場した》(P110~112)

 
「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。

証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。
日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、
屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。

この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、
証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。

殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が
「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、
ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。

中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など
数人の欧米人も証人として出廷しました。

ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、
「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。

「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを
埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。

埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。

実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、
1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して
南京市民の被害状況を調査していました。

スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、
50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。

この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、
殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。

ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、
家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。

また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)
として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。
というわけで実数はある程度上下するはずです。

しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。

ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
 
「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体が
ゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、
城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」

と述べたのです。
一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。
ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。

またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、
ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、
「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。

しかもそれは、日本軍歩哨に誰何(すいか)され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。

当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、
アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した
『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。


《安全区に逃げ込んだ更衣兵》(P113~ 116)~  略

  *参考Web:南京安全区(難民区)に逃げ込んだ便衣兵と督戦隊の虐殺行為
         → http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n242489


《証拠は捏造されていた》(P116~119)   略


《「大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実》(P119~)

さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、
という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。

「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。

事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、
「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、

「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、
中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。

ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、
肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とか
ケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。

南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。

南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。
中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。

尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、
怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」と
つぶやくだけの国となっているからです。


・・・

<参考Web:「南京大虐殺」は捏造(ねつぞう)だった
       → http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm >

              <感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>

自衛戦争か、侵略戦争か - 伝統

2015/09/11 (Fri) 04:44:10


          *Web:Japan On the Globe(H20.12.07)より

(1)自衛戦争か、侵略戦争か

 1951(昭和26)年5月3日、ダグラス・マッカーサー元帥は、
   米上院の軍事外交合同委員会で次のような発言をしている。

      日本は絹産業(蚕、かいこ)以外には、固有の産物はほとんど何もないのです。
      彼らは綿がない、羊毛がない、石油の産出がない、錫がない、ゴムがない、
      その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジア
      の海域には存在していたのです。

      もしこれらの原料の供給を絶ち切られたら、1千万から1千2百万の失業者が
      発生するであろうことを彼らは恐れ ていました、

      したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に
      迫られてのことだったのです。


   この5年前に開かれた東京裁判では、キーナン検事が冒頭陳述でこう述べている。

      彼らは文明に対し宣戦布告をしました。彼らは起訴状に列挙されている
      偉大な民主主義諸国に対し侵略戦争を計画し、準備したのです。
      (全世界の)支配および統御が彼らの共同謀議の趣旨であったのです。
             
          [福冨健一『東條英機 天皇を守り通した男』,p205]

   「日本が世界を支配しようとして侵略戦争を起こした」という東京裁判史観と、
   「日本は自衛戦争を戦った」というマッカーサーの史観は完全に対立するものである。


   マッカーサーはどこからこのような史観を学んだのか。それはおそらく東京裁判において、
   キーナン検事に徹底的に抗弁した開戦当時の首相・東條英機の供述からであろう。

(2)「東條証言の影響はおそらく深刻なものになるであろう」

   東京裁判で、東條の供述書が朗読されたのは、昭和22 (1947)年12月26日からであった。
   供述書は220ページもあり、朗読に3日間もかかった。
   前年の4月から、清瀬弁護人が毎朝東條に面会して書き上げたものであった。

   東條は、その供述の最後に、「摘要」として次のような総括を行っている。
   (読みやすくするために、かな遣いを一部改め、 句点を追加している)

 
      私は・・・1941(昭和16)年12月8日に発生した戦争なるものは米国を
      欧州戦争に導入する為の連合国側の挑発に起因し、我国の関する限りにおいては
      自衛戦として回避することを得ざりし戦争なることを確信するものであります。

          [渡部昇一『東条英機 歴史の証言,p526]
   
   供述書朗読の後、12月31日から、キーナン検事の東條尋問が始まった。
   その内容の一部は後で紹介するが、尋問が終わった翌日、イギリス駐日代表部長の
   ガスコインはマッカーサーにこう言った。

      東條の証言は、キーナンに完全に勝っています。東京裁判に対する世論が心配です。

      「その通り。きわめて心配である」とマッカーサーも同意し、
      さらに「東條証言の影響はおそらく深刻なものになるであろう」と語った。

   当のマッカーサー自身がその「深刻な影響」を受けて、それが5年後の米国上院での
   冒頭の証言に現れてた、と考えられる。

(3)「米英蘭の合従連衡による対日経済圧迫の事情」

   東條自身は当事者として供述書で次のように述べている。

      米英蘭政府は日本の仏印(ベトナム)進駐に先立ち、緊密なる連携の下に
      各種の圧迫を加えて来ました。これらの国は1941年(昭和16年)7月26日
      既に資産凍結を発しました。

   以下、東條はフィリピン、イギリス、オランダでも同時に資産凍結が行われた事を指摘した。
   日本企業がこれらの国で持つ預金口座などが凍結されることで、輸入のための支払いが
   できなくなり、また輸出の代金も日本に送金できなくなる。

   結局、日本は輸出入を完全に閉ざされたわけである。

(4)「日本の経済生活は破壊せられんとした」

   供述は続く。

      右のごとく同じ日に「アメリカ」「イギリス」「オランダ」が対日資産凍結を為した
      事実より見てこれらの政府の間に緊密な連絡がとられておったことは明白なりと
      観察せられました。

      その結果は日本に対する全面的経済断交となり、爾来(じらい)日本は満洲、支那、
      泰(タイ)以外の地域との貿易は全く途絶し日本の経済生活は破壊せられんとした
      のであります。

   この結果が、マッカーサーの証言で「1千万から1千2百万の失業者が発生するであろう」
   という事態になったわけだが、この点に関しては東條は次のように述べている。

      ・・・ことに石油は総て貯蔵に依らねばならぬ有様でありました。
      この現状で推移すれば我国力の弾発性は日一日と弱化し、その結果日本の海軍は
      2年後にはその機能を失う。液体燃料を基礎とする日本の重要産業は極度の戦時規則を
      施すも1年を出でずして麻痺状態となることが明らかにされました。
      ここに国防上の致命的打撃を受くるの状態になったのであります。

                   [渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p237]

   まさに日本は国家の生存権を奪われ、座して死を待つ状態に置かれたのである。

(5)米英豪其他の陸海空軍の大拡張

   日本を経済的な麻痺状態に追い込むと同時に、米国は対日軍備の増強を続けた。

      この当時米英側の一般戦備ならびにその南方諸地域における連携は益々緊密を加え
      活気を呈するに至りました。すなわち1940年(昭和15年)8月には「ノックス」
      海軍長官は「アラスカ」第13海軍区に新根拠地を建設する旨公表したとの情報が
      入りました。・・・

      同年12月には米国は51カ所新飛行場建設および改善費4千万ドルの支出を
      「スチムソン」、「ノックス」及「ジョオンズ」の陸、海、財各長官が決定した
      と伝えられました。
      これらは米国側が日本を目標とした戦争準備ならび軍備拡張でありました。
                  [渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p191]

      しかも依然として米英豪其他の陸海空軍の大拡張が継続せられつつありとの情報が入って
      来ております。すなわち米国海軍省では1940年(昭和15年)1月以降72億34百万ドル
      を以て艦艇2831隻の建造契約なり現在968隻を建造中なる旨発表しました。

      なお1941年(昭和16年)10月下旬には「ノックス」海軍長官は米海軍の建造状況に関し
      (イ)就役せる戦闘用艦船346隻(ロ)同建造中乃至契約済345隻・・・(ホ)
      10月1日現在海軍飛行機4535機(同)製造中のもの5832機なる旨発表しました。
                   [渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p328]


   日本側は鉄も石油も輸入を止められ、その軍事力は日々衰弱する一方であったが、
   米国はその国力を傾けて軍備大拡張に邁進していたのである。

(6)「日本はそれを脅威と感じた」

   こうした点について、キーナン検事と東條は法廷において次のようなやりとりをしている。

               [福冨健一『東條英機 天皇を守り通した男』,p213]

      キーナン 1940年9月、アメリカは日本に脅威を与えておりましたか?

      東條   ここの証拠を提出しているように、相当の圧迫を受けておりました。
           とくに、経済的圧迫を受けておりました。ご承知のように昭和14年7月、
           日米通商航海条約はアメリカに破棄され、
           日本政府は非常な圧迫を受けておりました。

      キーナン 私はあなたに軍事的脅威があったかどうかを尋ねているのです。

      東條   昭和15年5月と思います。アメリカの大艦隊は、ハワイに集結していた
           という事実を申し上げれば、おわかりだろうと思います。

      キーナン アメリカが自国の半島や島々に飛行場や設備をつくるのは、
           防衛的意味を持っていないというのですか?

      東條   それはアメリカがどう考えるかは勝手であって、
           日本はそれを脅威と感じた、そう申し上げているのです。


   アメリカの大軍拡、およびハワイでの大艦隊集結は争うことのできない事実であり、
   日本がそれを脅威と感じたという点も、誰にも否定しようがなかった。
   事実においても論理においても、東條がキーナン検事を圧倒していた。

(7)「首謀者の言動は著しく挑発的となって来ました」

   もっともアメリカの軍備拡張が「防衛的意味」を持ってはいないことは、
   米英政府の挑発からも明らかであった。

      ・・・米英蘭豪の政情及軍備増強は益々緊張し又、首謀者の言動は著しく
      挑発的となって来ました。・・・

      例えば1941年11月10日には「チャーチル」英首相は「ロンドン」市長就任午餐会
      において「アメリカ」が日本と開戦の暁には「イギリス」は1時間以内に対日宣戦を
      布告するであろうと言明したと報ぜられました。

      その翌々日「イギリス」の「ジョージ」6世閣下は議会開院式の勅語にて
      英国政府は東亜の事態に関心を払うものであると言明せられたと報ぜられました。

      「ルーズベルト」大統領はその前日である休戦記念日に於いて米国は自由維持の
      ためには永久に戦わんと述べ前記英国首相ならびに国王の言葉と相呼応して居ります。
      「ノックス」海軍長官の如きは右休戦記念日の演説に対日決意の時至ると
      演説したのであります。[渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p343]

 
   日本を経済的に追い詰め、大軍拡による戦争準備を進め、
   その上で「さあ、かかって来い」と日本を挑発してきたのである。

   これらの挑発は、「我国朝野を刺激し」、と東條は述べている。
   議会も新聞も、対米開戦を求める声を上げていた。

(8)「米国は日本の受諾し得ざることを知りて通知」

   こんな状況の中でも、日本政府は外交交渉を通じて戦争を回避しようと、
   最後の努力を続けていた。

   日本政府が11月5日に最終の譲歩案として米政府に提案したのが、甲乙二案であった。
   特に乙案は、日支間の和平が成立すれば日本軍を引き上げると約束した上で、
   石油禁輸、資産凍結を解除してもらいたい、という最終譲歩案であった。

   この2案を承認した御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製

      四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になど 波風の立ち騒ぐらむ

   を読み上げられ、「自分はこの明治天皇の平和愛好の御心を実現したいと思っている」
   と述べられ、満座粛然として、しばらくは一言も発する者はなかった、という。

   米国がこれへの回答として送ってきたのが、「ハル・ノート」であった。
   支那からの無条件撤兵、すでに数十各国から承認されている満洲国の否認、
   南京国民政府の否認など、それまでの交渉を白紙に戻したような強硬な要求が並んでいた。

   これを受け取った日本政府は「米国案の過酷なる内容に唖然たるものがありました」として、
   こう解釈した。


      米国は右条項は日本の受諾し得ざることを知りてこれを通知して来ている。
      ・・・米国側において既に対日戦争の決意を成しているもののごとくである。
              [渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p352]

   ここに至って、日本政府はようやく対米英戦争を決意した。

(9)「国に報ゆることの足らねば」

   東條供述書は次の一節で締めくくられている。

      戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、
      敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別できる二つの異なった問題であります。

      第一の問題は外国との問題であり、かつ且法律的性格の問題であります。
      私は最後までこの戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には
      違反せぬ戦争なりと主張します。・・・

      第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。
      この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、真心より進んで
      これを負荷せんことを希望するものであります。
                      [渡部昇一『東条英機 歴史の証言』,p529]

   昭和23(1948)年11月4日、東京裁判の判決が下され、東條は絞首刑を言い渡された。
   東條は満ち足りた表情で、二度ほど「分かった、分かった」というように頷いた。
   裁判で言うべきことは言った、という思いがあったのだろう。

   東條は清瀬弁護人に対して「再審請求は行わないでほしい。
   一日も早く刑を執行していただきたい」と語った。

   それは「侵略戦争」を起こした罪からではなく、国民に対する敗戦の責任をとる道であった。
   絞首刑は12月23日に行われ、東條は次の辞世を遺して世を去った。


     我ゆくもまたこの土地にかへり来ん国に報ゆることの足らねば
     さらばなり苔の下にてわれ待たん大和島根に花薫るとき

    (http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h20/jog576.html
   
              <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

献げる戦争には敗戦はない - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:31:41


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月4日 何かを人に施す日)より

【他人の不幸に面したら一緒に泣いてあげよ。
  泣いてもその悲しみに捉われるな。(『生命の實相』第九巻)】

吾々は人生観を変えなければならない。

世界を覆う世界大戦も、武器によって起こったのではなく、
人生観によって起こったのである。

その人生観とは「生存競争必須」の観念である。
「奪う」か「餓死するか」二つに一つを選べの矛盾的人生観である。

大東亜戦争は自国を犠牲にすることによって、
大東亜の非圧迫民族を白人から解放する目的で、国民の血をそそがれたのだ。

最初はこれを自覚しないで、
ドイツ流に「持てる国と持たざる国との生存競争的展開」であるとして、
その人間自然の不可避的事実であると価値づけようとした人もあった。

併しドイツは「ダンヒチを寄越すか、寄越さなければ武力で奪う」と傲語したのであって、
日本が八紘為宇の理念に無我献身して南洋諸国延いてはアフリカ諸国をも白人の桎梏から
解放せしめたのとは理念の相違があるのである。

成功の秘訣は奪うことではなくて献げることにある。
戦勝の秘訣も、奪うことではなくて献げることにある。

形は敗戦の如く見えても、献げる戦争には敗戦はないのである。
民族の自覚に貢献してこれらを独立せしめたのは勝利である。

           <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

大東亜戦争は東洋民族を解放する聖戦であった - 伝統

2018/12/08 (Sat) 04:56:27

(今日、12月8日は、大東亜戦争が開戦された日です)

谷口雅春は、昭和二十七年の『生長する青年』(現『生長の家青年会』機関誌)十月号に
「霊の選士としての青年の使命」と題する御文章に、
大東亜戦争の意義について次のように書いている。



「日本は大東亜民族の解放の旗幟(きし)をかかげて戦ったのである。
そして日本は侵略国として色々の汚辱を蒙ったけれども、
それは恰もキリストが十字架に釘(はりつけ)けられたのと同じことである。

「人を救いてみずからを救い得ざる者よ」と当時のユダヤ人は
十字架上のキリストを嘲笑したけれども、
この汚辱ある刑罰の中に彼は全人類を解放したのである。

それと同じく、日本は「侵略国」と云う汚名の下に侮辱され、
戦争犯罪人と称して裁判にかけられ、上衣を奪われて十字架上にのぼった
キリストのように領土の十分の四を奪われたけれども、その犠牲によって、
東洋民族は自己の内部に、西欧民族と同様に尊ぶべき人権が、
尊ぶべき「神性」が宿っていることを自覚することを得たのである。

それまでは多くの東洋民族はみずからの無自覚によって自縄自縛していたために
白色民族の支配下に土地はその植民地となり、人間は奴隷の如き生活を
送っていたのである。

日本の蹶起(けっき)のために多くの東洋民族は目覚めた。

西洋民族と同じように彼らも神が平等に造った神の子であり、
「何でも出来るぞ」という自覚を得たのだ。

かくて東洋民族は続々として白色民族の桎梏から解放されて独立したのである。」

http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html より抜粋)

           <感謝合掌 平成30年12月8日 頓首再拝>

フーヴァートレジャー~最終判決・東京裁判 - 伝統

2019/02/05 (Tue) 19:32:51

西鋭夫のフーヴァートレジャー

~持ち去られた日本の記憶~

最終判決・東京裁判


http://b56.hm-f.jp/cc.php?t=M7789&c=3334&d=d557



”フーヴァートレジャー” とは何か?

西教授は数年前、偶然にも、フーヴァー研究所の地下にある公文書館に、
膨大な日本関連の史料が置いてあるのを発見しました。

その史料というのは、1945年11月。
敗戦後の混乱の中、GHQの許可のもと設立されたフーヴァー研究所:東京オフィスが、
「日本が戦争に突入した原因を探る」という目的で、 数々の機密文書や史料を秘密裏に集め、
アメリカへと持ち去ったものでした。

(*約5年半の間に1,468箱の史料がアメリカに送られていました。)

その中には、、GHQが書いた「日本国憲法草案」原文をはじめ、秘密会談の克明な記録
…東条英機など、東京裁判でA級戦犯に処された人物が獄中で綴った手記…
特高警察と共産党に関する機密文書から、戦地で日本の兵隊が書いた手紙や絵本まで…
研究歴40年を超える西教授でさえ、初めて見るような史料も数多くあったことから、、
まるで日本の記憶を発掘する”宝探し”のようだ… と、
これらの史料を「フーヴァートレジャー」と名付けました。


           <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

Re: 大東亜戦争を振返る - jgwlsvlmMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:42

伝統板・第二
[url=http://www.g1i5q3u53bie5891x0dtiq2gt27a0y22s.org/]ujgwlsvlm[/url]
<a href="http://www.g1i5q3u53bie5891x0dtiq2gt27a0y22s.org/">ajgwlsvlm</a>
jgwlsvlm http://www.g1i5q3u53bie5891x0dtiq2gt27a0y22s.org/

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