伝統板・第二

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終戦を支えた皇族たち - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:52:38

         *メルマガ「Japan On the Globe(H27.08.09)」より

789万人の陸海軍将兵に戈(ほこ)を収めさせるために、
昭和天皇の大御心を説くべく、皇族たちは戦地に向かった。


(1)「不退転のご決意を秘められた荘厳なお姿」

   昭和20(1945)年8月12日、在京の皇族男子全員12人が宮中の御文庫付属室に呼ばれた。
   空襲で宮殿も焼け落ち、分厚いコンクリートで覆われた暑く湿度の高い御文庫に、
   両陛下は住まわれていた。

   お出ましになった昭和天皇の憔悴されたお姿を目のあたりにして、
   竹田宮恒徳(つねよし)王は「天皇陛下は今まで拝したことのない程に緊張された御様子」
   「しばらくお目にかからない間に、なんと深いご心労を宿されたことか」と思った。

   8月9日深夜の御前会議で、昭和天皇の御聖断の下に、
   最高戦争指導者会議と閣議でポツダム宣言受諾の政府決定がなされた。

   しかし、このまま戦争を無事に収拾できるのか、降伏後の日本がどうなるのか、
   については五里霧中の状態だった。

   集まった皇族方に、昭和天皇はこう話された。


      私自身はどうなってもよいから、ここで戦争を止めるべきだと思う。
      そこで自分は明治天皇の三国干渉当時の御心労を偲び、ポツダム宣言を受けて、
      戦いを止める決心をした。

      どうか私の心中を了解してくれ、
      そしてこれからは日本の再建に皆真剣に取り組んでもらいたい。

                    [竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』,p170]

   そのお姿に触れた時の思いを、竹田宮は後にこう記している。


      ふだんはむしろ女性的にさえ思えるほど、お優しい陛下が、
      この日本存亡の際にお示しになった、不退転のご決意を秘められた
      荘厳なお姿を、私は生涯忘れることができない。


   最年長の梨本宮が、皇族全員を代表して
   「陛下の御英断に謹んでお従い致します。そして今後共国体の護持に全力を尽します」
   と奉答した。


(2)「自分の心中をよく第一線の将兵に伝えて欲しい」

   8月15日正午の玉音放送により、昭和天皇が直接、国民に終戦を告げられた。

   その翌日、朝香宮(あさかのみや)鳩彦(やすひと)王、
   東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦(なるひこ)王、
   竹田宮恒徳王、開院宮(かんいんのみや)春仁(はるひと)王に、
   昭和天皇から突然の御召があった。

   東久邇宮以外の3名が、まず昭和天皇の御前に案内された。

   昭和天皇は14日と同様の緊張した面持ちで、こう話された。


      終戦をつつがなく行なうために、一番心配なのは現に敵と向かい合っている
      我が第一線の軍隊が本当にここで戈(ほこ)を収めてくれるという事だ。

      蓋(けだ)し現に敵と相対している者が武器を捨てて
      戦いを止めるという事は本当に難かしいことだと思う。
      しかし、ここで軽挙盲動されたら終戦は水の泡となる。

      自分が自ら第一線を廻って自分の気持をよく将兵に伝えたいが、それは不可能だ。
      ご苦労だが君たちが夫々手分けして第一線に行って自分に代わって
      自分の心中をよく第一線の将兵に伝え、終戦を徹底させてほしい。

      急ぐ事だから飛行機の準備は既に命じてある。
      ご苦労だがあした早朝発ってくれ。

                    [竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』,p173]
  
   当時、陸海軍合わせて789万人の将兵がおり、特攻に使える航空機も6千機は残っていた。
   特に中国大陸では、陸軍が国府軍を圧倒しており、突然、降伏を命ぜらたからと言って
   素直に従ってくれるかどうかは、まったく不明だった。

   もし、前線や日本本土で降伏を潔しとしない陸海軍将兵が戦い続けたら、
   終戦は有名無実となる。イタリアのように内乱状態になるか、ドイツのように
   全土占領されるまで戦いが続くことになるか、のどちらかだった。

   いずれにせよ、民の苦難は続く。

   昭和天皇は、これを恐れて、三方の宮を御自身の代理として戦地に派遣して、
   無事に戈を収めるよう説得しようとされたのだった。

   朝香宮は支那派遣軍に、
   竹田宮は関東軍と朝鮮軍に、
   そして開院宮は南方総軍に

   それぞれ天皇の特使として
   終戦の聖旨を伝達しに行くことになった。

終戦を支えた皇族たち~その2 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:56:09

(3)「満洲帝国皇帝の亡命を助けよ」

   東久邇宮には、終戦決定の後に総辞職した鈴木貫太郎内閣の後を継いで、
   組閣の大命効果があった。誰も経験したことのない降伏後の混乱は、これまた
   昭和天皇の分身としての皇族内閣により乗り切るしかない、という判断だった。

   皇族が政府の長となるのは、明治政府が樹立された時に、
   有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王が
   「総裁」の地位に就いて以来のことであった。

   その日の午後、東久邇宮は組閣で忙しい中、
   竹田宮を呼び出して、東郷外相とともにこう依頼した。


      竹田さんは満州に行くそうだが、もしできたら薄儀(ふぎ)満州国皇帝に会って、
      皇帝が希望されたならば、一緒に日本へ連れてきてもらいたい。

      もちろん、あなたの本来の任務は聖旨の伝達にあるのだから、
      無理をしてまでとの依頼ではないのだが。


   竹田宮は、つい7月まで関東軍参謀として満洲帝国の首都・新京(長春)に赴任していた
   から、ソ連軍と中国軍の進駐を目前に控えた現地の混乱ぶりは容易に想像できた。

   果たして無事に帰れるかも分からないと思って、身辺の整理を始めた所に、
   さらにこの依頼である。


(4)「皇族の三人や五人は○ね」  

   明治天皇は「男子皇族は軍人となって政治に関与すべきではない」との
   思召(おぼしめ)しを示され、竹田宮も軍人として生きてきた。

   竹田宮恒徳王は昭和13(1938)年に陸軍大学校を卒業したが、
   軍の首脳部は宮をあくまで安全な場所に配置しようとした。
   皇族を戦死させては、という心配が軍の内部にはあったからだ。

   しかし、竹田宮は、陸軍省の人事局局長と電話で激しく口論した末に、
   中隊長として中国の前線に赴くことになった。

   ただ、戦闘に加わる以上、皇族の身分を隠した方がよいということになって、
   「竹田宮」をひっくり返し、「竹」を「武」に代えて、「宮田武」とした。

   以後、「宮田参謀」が皇族であることは、軍の中でもごく一部しか知らなかった。

   後に、大本営勤務となった際に、南洋方面の戦略検討のために、
   参謀次長と軍令部次長がラバウルの前線司令部に出向くことになった時も、
   竹田宮は随行を願い出た。

   しかし、杉山参謀総長と東條陸軍大臣は頑として聞き入れない。
   竹田宮は眼に涙を浮かべながら、上司の辻政信班長に嘆願した。


      班長さん、御願ひです。私を、ラポール(ラバウル)にやるやう、
      総長、大臣に班長から是非もう一度、申上げて下さい。

      私が皇族なるがため、当然なすべき仕事をさせて貰へないなら、
      今すぐ大本営参謀をやめさせていたゞきます。

      この大戦争に、もし、明治天皇様がお出になりましたなら、
      きつと、皇族の三人や五人○ね!! と仰言るでせう。

                    [竹田恒泰『語られなかった皇族たちの真実』,p197]


   竹田宮の迫力に押された辻班長は、杉山総長に宮の思いを伝えると、
   「そうか、それほどの御決心か!」と涙を拭い、万一のことがあったら切腹する覚悟を固めて、
   自ら東條大臣を説得した。東條大臣も涙ながらに、これを許したという。

   竹田宮恒徳王の母親は、明治天皇の皇女・昌子内親王だけに気骨ある母親で、
   「皇族の三人や五人は○ね」とはその母からの手紙の中の一節であった。

(○:死)

終戦を支えた皇族たち~その3 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:57:12

(5)聖旨伝達

   竹田宮は8月17日朝、東京・立川から専用機で飛び立った。
   到着した新京では、関東軍総司令官山田乙三大将以下の幕僚が、
   司令部2階の広い総司令官室を埋め尽くした。

   竹田宮は、昭和天皇が仰せられたお言葉を詳しく語って、御決意を伝えた。
   「どんな返答が戻ってくるか、この時ほど心配したことはなかった」と
   宮は後に書き記している。

   厳粛な空気の中、山田大将は「謹んで聖旨に沿い奉ります」と奉答した。
   誰もが目頭を熱くしていた。

   翌18日朝、竹田宮を乗せた飛行機は奉天(瀋陽)に向かって飛び立ったが、
   間もなく故障を生じて、新京に引き返した。

   幸い、故障は1時間ほどで修理できて、再び、奉天に向かった。
   翌19日にはソ連軍が進駐したので、もし修理が長引いて、
   新京にもう一泊していたら、ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行されていたろう。

   奉天に着いた竹田宮は満洲南部で治安維持に当たっていた第3方面軍司令部で
   同様に大御心を説き、さらにその日のうちに京城(ソウル)に飛んで、
   朝鮮軍司令部にも同じく聖旨を伝達した。

   竹田宮の搭乗した飛行機は、4機の戦闘機「隼(はやぶさ)」に護衛されていた。

   いずれも若く優秀なパイロットで、竹田宮は京城に着いて、彼らと別れる際に、
   厚く礼を述べ、固い握手を交わして

   「今後、いろいろの情勢になろうが、くれぐれも自重して、日本の再興に尽くしてくれ」

   と言った。

   しかし、4機が奉天に戻ると、飛行場にソ連機が並んでいる事を目撃し、
   既にソ連軍に占拠されていることを知った。

   4機は垂直に急上昇してから、編隊を組んだまま、
   真っ逆さまに飛行場中央に突っ込んで、自爆した。


(6)皇帝溥儀の運命

   もう一つの任務である満州国皇帝溥儀の救出に関しては、
   溥儀は満洲と北朝鮮の国境にある通化(つうか)の山中にいることが判り、
   17日に幸いにも電話がつながって、翌18日午後に京城で落ち合う約束をした。

   しかし、その18日には、溥儀から「小さな飛行機しかないので長白山脈が
   越えられないから、明日(19日)午後奉天に出る」との電報が来た。

   竹田宮は新京に赴任中、皇帝溥儀とは特に親しくしていた。
   宮が転任で新京を去る時には、溥儀はお忍びで宮の官舎に見送りにきた程だった。

   竹田宮は翌日再び、奉天に戻って、溥儀との再会を果たそうとした。

   しかし、阿部・朝鮮総督と上月・朝鮮軍司令官が口を揃えて、
   「あなたの主任務・聖旨伝達の結果を一刻も早く帰って陛下に復命し、
   御安心を頂かれるべきではありませんか」と反対した。

   この言葉に竹田宮はハッと目を覚まし、直ちに東京に帰ることとした。
   竹田宮は再び、命拾いをした。

   溥儀にとっては、京城に直接飛べなかった事が運命の分かれ道となった。
   奉天飛行場に出ると、ソ連軍に身柄を拘束され、そのままシベリア送りとなった。

終戦を支えた皇族たち~その4 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:58:22

(7)「国内での不穏な動きを抑えよ」

   竹田宮は8月20日、無事に帰国し、復命することができた。
   同様に、サイゴン、シンガポールで南方軍に聖旨伝達した閑院宮、
   支那派遣軍に伝えた朝香宮も、それぞれ任務を終えて、帰国した。

   帰国して2日後の8月22日、昭和天皇から竹田宮に3度目のお召しがあった。

   昭和天皇は、占領軍の本土進駐に際して、反乱などがあってはならないと心配され、
   不穏な動きが報告されていた福岡の陸軍航空部隊と、広島県宇品(うじな)の
   陸軍船舶司令部に行って、自重するよう聖旨の伝達を竹田宮に命ぜられた。

   竹田宮はすぐに福岡と宇品に行き、それぞれ戈を収めさせた。

   8月26日には、連合軍の先遣隊が神奈川の厚木飛行場に降り立つ日だったが、
   そこを本拠とする相模原航空隊は進駐軍を撃退すべく演習を続けていた。

   海軍上層部はこれを抑えようとしたが、言うことを聞かない。
   昭和天皇に差し遣わされた弟宮の高松宮が直接説得することで、
   ようやく24日の夕方、強行派は厚木飛行場を明け渡した。

   翌25日には米軍機が東京上空を盛んに飛んだので、
   厚木飛行場の武装解除が半日遅れたら、戦闘状態になった可能性もあった。

   こうして789万人もの将兵が、君主の号令一下、整然と戈を収めたのは
   史上でも例のない見事な降伏ぶりであったが、その背景には、各皇族が
   昭和天皇の分身として、自分の身はどうなっても良いから民を助けたい、
   という大御心を内外の将兵に伝えたからであろう。

終戦を支えた皇族たち~その5 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:59:07

(8)歴代天皇陵への代拝

   終戦の混乱も落ち着きかけた11月29日、7名の皇族をお召しになって、
   123代に及ぶ歴代天皇の御陵に代拝を依頼された。

   このような終戦は自分の不徳の致すところで、それを歴代天皇に謝り、
   日本の今後の復興への御加護をお願いしたい。

   神武天皇の畝傍陵、明治天皇の桃山陵、大正天皇の多摩陵は御自身で参拝するが、
   残りは皇族で手分けして代参してくれ、との御聖旨だった。

   竹田宮は四国と淡路島を担当した。各皇族は全国に散って、代参をするかたわら、
   病院や行政機関などを訪問され、多くの要人や民衆と交流した。

   後に昭和天皇は8年半をかけて、沖縄を除く全都道府県を行幸され、
   数千万の国民と交流されたが、この皇族方の代参はその原型とも言えるものであった。

   昭和22年10月、直宮(昭和天皇の弟宮である秩父宮、高松宮、三笠宮)を除く
   すべての皇族、11宮家51人が臣籍降下した。

   皇室の力を弱めようという占領軍司令部の意向であった。

   竹田宮恒徳王も竹田恒徳となったが、その後、スポーツを通じて青年のために
   奉仕できればと、スケート、馬術などのスポーツ連盟の会長となり、
   東京オリンピックや札幌冬季オリンピックの招致に貢献し、「スポーツの宮様」と呼ばれた。

   (文責:伊勢雅臣)

   (http://archive.mag2.com/0000000699/index.html

             <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>    

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