伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること③ - 夕刻版

2015/08/07 (Fri) 19:51:36

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46

(2)スレッド「人の上に立つ者に求められること①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974

(3)スレッド「人の上に立つ者に求められること②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6518568

・・・

松下幸之助は、「聞く心」を大切にしていた
~問題意識があれば「風の音」からも悟る

          *Web:東洋経済オンライン(2015.7.31)より

ある寒い冬の日、私は松下幸之助といつものように真々庵の茶室でお茶を飲んでいた。
木枯らしが吹き、杉木立のひゅうひゅうと鳴る音が聞こえていた。

すると突然松下が、

 「きみ、風の音を聞いても悟る人がおるわなあ」

と言った。

私はそのとき、松下が何のことを言っているのか意味がわからず、
ただ「はぁ、そうですか」と返事をしただけであった。

後になってよく考えてみると、
松下は私にもっと勉強してほしいと思っていたのではないだろうか。
問題意識があれば、風の音を聞いても悟る人がいる、ということである。

聞く耳を持っていたら、聞こうという気持ちを持っていたら、
何でもない風の音を聞いてもハッと悟ることができるのに、
きみと話をしていても、なんとはなしに頼りない。

もう少し問題意識を持って話を聞け。
松下はこう言いたかったのではないか、と気づいたのはしばらくたってからのことだった。
おそらくこのように言いたかったのだろう。

「話をするよりも、話を聞くほうが難しいな。いくらいい話をしても、
聞く心がなければ何も得ることはできんが、

聞く心があれば、たとえつまらん話を聞いても、
いや、たとえあの杉木立を鳴らす風の音を聞いても、
悟ることができる人は、悟ることができる。そんなもんやで」

 
たとえばニュートンである。
リンゴの実が枝から落ちるのを見て万有引力を発見した。
リンゴが落ちる光景は、それまで何万人、何千万人もの人が見ているはずである。
それにもかかわらず、ニュートンだけが宇宙の真理のひとつを発見した。

耳を傾ける心があったからである。

 
松下幸之助が中小企業の経営者の方々を対象に「ダム経営」について話したことがある。
ダム経営というのは、川にダムをつくり水を貯めるように、
企業も余裕のある経営をしようという松下の持論であった。

話が終わって、400人ほどいた経営者の中のひとりが手をあげ質問をした。

「おっしゃるとおりなのですが、なかなかそれができないのです。
どうすればダムがつくれるのでしょうか」

 
これに対して松下は

「やはりまず大切なのは、ダム経営をやろうと思うことですな」と答えた。

会場からは「なんだ、そんなことか」という失笑が起こった。

 
しかし、その中にひとり、衝撃を受けた人物がいた。
それは京セラを創業して間もないころの稲盛和夫氏で、
まだ経営の進め方に悩んでいた頃であった。

のちに、このように語っている。

「そのとき、私はほんとうにガツンと感じたのです。
何か簡単な方法を教えてくれというような生半可な考えでは、経営はできない。

実現できるかできないかではなく、まず『そうでありたい、自分は経営をこうしよう』
という強い願望を持つことが大切なのだ、そのことを松下さんは言っておられるのだ、と。
そう感じたとき、非常に感動したのです」

400人ほどの経営者が同じ話を聞いている。
しかし、そのように受け取った人は一人しかいなかったと言っていい。

稲盛氏には、そのように受け止めるだけの力量があったということである。
のちの京セラの発展は改めて説明する必要もないと思う。

 
「なあ、きみ、人間の心は広がればなんぼでも広がっていく。
縮まればなんぼでも縮まって、しまいには自殺までしてしまうんや。
それほどの間を大きく動くわけやね。

だからどんどん知恵が出ておるときには、非常にいい知恵が出る。
しかし知恵が閉ざされてくると、どんな知恵も出ない。
それで失敗してしまう」

そのような特質を、人間の心は持っている。
心が変われば行動が変わり、成果が変わる。

さて今、私たちの心は、風の音を聞いても悟ることができるほど、
問題意識を持っているだろうか。

生き生きと活動しているだろうか

     (http://toyokeizai.net/articles/-/78793

            <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(1) 家康の"作り馬鹿" - 伝統

2015/08/08 (Sat) 17:44:33


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


あるとき、豊臣秀吉が聚楽第に諸将を集めて演能の会を開いた。

戦国の世は落ち着きを取り戻し、演能の才も書道、和歌も武士のたしなみでもあった。
秀吉はそれぞれの才を見ようとした。

織田信雄(のぶかつ・信長の弟)は、舞に自信があった。
龍田舞いを一部のすきもなく見事に演じた。

 
徳川家康は、船弁慶で義経を演じることになったが、
若武者には似つかわしくない太鼓腹でよたよたと舞台を動き回り失笑を買った。

家康をなじる声を聞いて、秀吉は
「信雄は不必要なことに達人で、家康は不必要なことに下手なだけだ」と見抜いた。

あえて馬鹿を装う家康の“作り馬鹿”の才に、そら恐ろしさを感じていたかもしれない。

 
また、秀吉が小田原に北条氏を攻めたときの逸話がある。
家康は先手の将としてある小川にさしかかった。
細い木橋がかかっている。

家康は馬の名人として知られていたから、豊臣勢の武将たちは、
「いい場面に出くわした。家康殿の馬術の才を見ようじゃないか」
と固唾を飲んで見守っていると、

家康は木橋の際まで来ると馬を下り、従者に背負われてぶざまな格好で橋を渡った。

見守っていた丹羽長重らは、
「馬の名人ながら達者ぶらず、いくさを前に慎んでいる。大将たるものかくありたいものだ」
と感心したという。

 
「あの古狸め」と、家康を嫌う秀吉の近臣の一人が秀吉に進言した。

「腹が出ていて、自分一人では下帯も結べず、用便もできぬとか。
家康はぼんやりの鈍物でありましょう」

 
秀吉は言った。

「わしが知っている利口者というのは、
武に優れ、広大な領国をうまく経営し、財力を持つものをいう。

この三つが整えば、ほかのことは馬鹿でもかまわぬ、
家康の作り馬鹿は、お前たちが真似をしても一生できぬことよ」

 
人は人前で才を誇りたくなるものである。
接待ゴルフのラウンドで見事なクラブさばきを誇る手合いは多い。
しかし、プロでもあるまいにその能力を評価するものはいない。

あえて才気を見せず、作り馬鹿を装う才こそ、人を怖れさせる。

 
天下統一の創業者である秀吉は、やがて、作り馬鹿の家康が、
豊臣の世の後、天下人となることに気づいていたに違いない。

            <感謝合掌 平成27年8月8日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(2) 毛利元就、"三矢の教え"の真実 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 19:36:11


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

長州藩の始祖、毛利元就(もうり・もとなり)には3人の子があった。

臨終に際して、3人に、
束ねた三本の矢は容易に折れないことを示し兄弟の結束を促したという。
よく知られた「3本の矢」の逸話である。

武家は原則として親から子へと藩の経営権をつないでいった。
オーナー企業でも同様だろうが、子が複数いた場合、だれに継がせるかは悩みどころである。

場合によっては継承をめぐって内紛も起きかねない。そんな例は多々ある。

策略家と知られた元就は、なかなかの知恵を発揮している。

初め安芸の国(広島県)にあった毛利家は、
東に尼子、西に大内という二強に挟まれ、苦しい経営を余儀なくされていた。

元就は性格穏健な長男の隆元に本領を継がせることを早々と決断し内政を任せた。

武家の常道としては、次男の元春、三男の隆景(たかかげ)は家臣として長男を支えることになる。
しかし元春、隆景はともに長男に劣らず才気あふれ、内紛が起きるのは必至だ。

そこで元就は、元春を北にある吉川家に養子に出し、
日本海沿いの出雲から伯耆(ほうき)の国を治めさせた。

また隆景を、西に隣接する小早川家の世継ぎとし送り出し、
瀬戸内の山陽道から、のちには北九州までを与えた。

養子問題はその時代なればこそだが、元就の決断を現代風にいうなら、
後継者の兄弟に子会社を設立させ、その経営に専念させることで、
力が内に向かうことを避けたのだ。

毛利家が、中国地方の西半分から北九州を治める雄藩に発展する基礎はここにあった。

次男、三男を養子に出すにあたって、
元就が幼少時代の2人の適性を見抜いたこんな逸話がある。

ある時、元春と隆景が従者を連れて左右に分かれ雪合戦をしていた。
元春は勇猛果敢に攻め立てる。勝負あったかと思われた時、
隆景が隠していた二人が左右から打ちかかって撃退した。

これを見ていた元就は、「北国の人は質実剛健、南国は交際上手で計略を好む。
元春を北国に、隆景を南国に」と決めたという。

有名な3本の矢の教えについてであるが、史実をたぐれば、
元就臨終の際には長男はすでに亡く、次男は在陣中であったから、よくできた作り話である。

父は切羽詰まった死に際して息子たちの結束を説いたのではなかった。
早々と子供たちの適性を見抜き、適材適所で手を打っていた。

先代の今わの際の遺言は混乱の元だ。

 元就に学ぶべき、後継問題の要点はそこにある。

            <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

新渡戸稲造 ~ 正しいことをする人 - 伝統

2015/08/10 (Mon) 17:36:41


             *佐々木常夫のリーダー論より


新渡戸稲造は1862年(文久2年)岩手県盛岡市に盛岡藩士の新渡戸十次郎の三男として生まれた。

札幌農学校に入学し、その後、東京帝大に入学するが、
入学試験の面接で「太平洋の橋となりたい」と述べたというから
若いころから志を高く持った青年だったようだ。

その夢を実現するためにアメリカに留学、ジョンズ・ポプキン大学に入る。
敬虔なクリスチャンとなったが、クエーカー教徒たちとの親交を通して
メアリー・エルキントンと知り合い結婚する。

カリフォルニアにいたとき1900年、名著「武士道」を発刊し、
新興国日本の真の姿を紹介する本としてベストセラーとなり、
セオドア・ルーズベルト大統領ら世界中に大きな反響を起こした。

私は著書や講演を通じて、人生や仕事を乗り切るためのメッセージを送っており、
そんな私を、「ビジネスマンのメンターおじさん」と呼ぶ人もいるが、
さしずめ新渡戸は「百年前の日本の偉大なメンターおじさん」と言ってもいいところがある。

つまり、新渡戸は「修養」や「人生読本」など優れた自己啓発の著書を残しているが、
これらの本を読んだ私の率直な感想は、「これは新渡戸による、
リーダーとなるための優れた指南書である」ということだった。

その思想には、百年という時を超えて、大いに共鳴を覚え、かつ心に染み渡るものがあり、
今回は新渡戸のリーダー論を紹介したい。


新渡戸は「自己の成長と、世でいういわゆる成功とは、稀には合致するが、
多くの場合は相いれない。なぜなら、立身出世の標準は外部に求められるが、
自己の成長は各自の内部の経験に基づくからである」という。

組織の長だからといってリーダーというわけではない。
新渡戸は「成功者になることが自己の成長ではない」という。

組織のリーダーというのは、外部で成功した人であり、その物差しは外部にあるが、
実際に尊敬される人、リーダーになるべき人の物差しは内部にある。

だから自分自身の内面を高めていくことが大切だという。

マズローは、その欲求の五段階説で「人は、自己実現のために働く」と規定している。
しかし、私はその自己実現のもう一段上に「人は自分を磨くために働く」
ということがあると考えている。

新渡戸も人が働くというのは、信頼されるように仕事をきちんとしたり、
仕事を通じて自分を磨いたりすることで人から愛されたり、尊敬されたりするためである。
そういうことを通じてリーダーになっていくという。

それは必ずしも出世と言った形に表れることではないのだ。


新渡戸はまた、「第一義は『あること(to be)』であって
『なすこと(to do)』は第二義」とも言っている。

優れたリーダーは、「正しいことをする人」であり、
優れたマネジャーとは、「決められたことを正しく遂行する人」である。

ここでいう「正しいこと」とは、人間としてあるべき姿といってもいいことで、
それは世のため人のために、即ち何かに貢献するために行動することである。

欧州では「ノブレス・オブリュージュ」と言って
「社会的地位のある人には責任が伴う あるいは義務がある」という言葉があるが、
この考え方に近い。

新渡戸の言葉にある「to be」とは「正しいことをする優れたリーダー」のことで、
「to do」とは「正しいこと、いわれたことをきちんと遂行する人、すなわち優れたマネジャー」
のことである。

リーダー(to be)のほうが上位にあるのは、いうまでもない。
リーダーには常に自己の成長と何かに貢献するという人間のあるべき姿を追求する
「高い志」が大切なのだ。


新渡戸は「自己の発展とは、自己の内部の善性を高め、悪性を矯正することである」と言う。

人はなるべく自己のいいところを見つけて、それを強化し
悪いところはなるべく抑えるべきだということである。

どんなに立派な人でも、悪い面、弱い面を持っているが、
そういった悪性を目立たせないようにして、自分の長所を伸ばしていくことで
自分全体を大きく成長させる。

新渡戸は「自己発展にあたっては、まず、自己とは何かを解明することが重要である」としている。

老子の言葉に「知人者智、自知者明(人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり)」
というものがある。

これは、「ある程度の知性があれば、他人を洞察することはできる。
だが、自らを知ることができるというのは、より深い洞察力を持った本当に聡明な人である」
ということ。

元東京地検特捜部検事で弁護士の堀田力さんが面白いことをいっている。
「普通の人間は、自分の能力に関しては40%のインフレで考え、
他人の能力に関しては40%のデフレで考える」

これはすなわち、自分を過大評価して、他人を過小評価するということ。

なぜ、自分を過大評価するかというと、他人の成果はことの結果だけを見るのに対して、
自分のことは言い訳ができるからである。

「これができなかったのは時間がなかったから」「私にはお金がなかったから」などと、
自分には言い訳の材料がたっぷりある。

一方、冷静に自分を見られる人というのは、
謙虚な人だから自分には欠けたことがあると思っている。
そういった人は他人の話に耳を傾けるものだ。

聞くということは相手から学ぶ姿勢があるということだ。
そういう人は自分のことをよく知るとともに、
もっと自分を成長させたいと考えている人である。

そういう人こそ、新渡戸のいう自己を高めることのできる人である。

「昔から人生すべて塞翁が馬といったりするが、良きことでも悪しきことでも、
人間の意志ではどうにもならないことが起きるのは、誰もが認める事実である」と彼は言う。

そもそも生まれたこと自体が、自分の意志ではないわけだし、
親が貧乏か金持ちかも自分で選ぶことはできない。

「そこは運命として引き受けて、それを前提として自己を成長させていくこと」が
真のリーダーを作っていく。

新渡戸も4歳のときに父を、19歳のときに母を亡くし、
さらに、さまざまな排斥を受けた時期があった。

一流の教育者・農学者として著名な新渡戸にも、どうしようもない苦難のときはあった。
予期せぬことはしばしば起こるが、彼はその中でできる限りのことをするしかないと考えた。

新渡戸は後年「仏に対してでもよいし、自分を超えた何者かに対してでもよい、
そういう大きなものに対して祈る気持ちを持ちなさい」と言っている。

どんなことをしても、みんな神様は知っている。
自分が苦しんでも喜んでも天はみんな見ている。
だから、新渡戸は「自分を超えた何者か」に対して祈りなさいという。

運命は神がつくったものだとすると、それを受け入れつつも、
「自分はこういう人間になりたい」という強い志さえあれば、
努力によって人はリーダーになれる。

厳しい出来事にあっても、それを受け止め立ち向かっていけば
最後に幸せをつかめるということだ。

人生にはさまざまなことが起こるが、
リーダーとは自ら運命を受け入れ粘り強く切り拓いていく人である。

            <感謝合掌 平成27年8月10日 頓首再拝>

指導者の条件28(怖さを知る) - 伝統

2015/08/11 (Tue) 17:37:17


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は世間の怖さを知り身を正していかなければならない。

剣豪宮本武蔵が豊前小倉に滞在していた時に、一人の兵法修行者が面会を求めてきた。
武蔵は会って、話を聞き、骨柄を見て「なかなかのお腕前のようで、
これならどの諸侯につかえて指南してもいいでしょう」とほめた。

ところが、ふと相手が自分の木刀を見せて「これは諸国を回って、試合を望まれた時に使います」
というのを聞くと、武蔵は「その程度の腕で試合をするなどと、馬鹿なことを言ってはいけない」と、
その家の主人の小姓をそこに座らせ、その前髪に一つの飯粒をつけ、太刀を抜いた。

そして「見よ」と振り下ろすと、その飯粒だけが見事真っ二つに切れていた。

それをその兵法者に見せて、「これができるか」と聞くと、もちろん「できません」という。
すると武蔵は、「これほどの腕があっても、なかなか敵には勝てないものだ。
試合など滅多にするものではない。試合を望むものがあれば、早々にその所を立ち去るのが、
真に兵法の真髄を知った者と言えるのだ」と戒めたというのである。

宮本武蔵と言えば、生涯に六十余度の勝負をして
一度もおくれをとらなかったという剣の名人である。
その武蔵がこういうことを言っているのは興味深いことだと思う。

結局、武蔵という人は、いわゆる”怖さ”を知っていたのではないだろうか。
怖さを知ることは、人間にとって極めて大切だと思う。

人間がよりよく生きて行くには、常に自分を律し、自分を正していくことが大事だが、
それにはやはりなんらかの形で、怖さを知る、言い換えれば、
怖い人、怖いものを持つことが必要であろう。

子供は親が怖い、生徒は先生が怖い、社員は社長が怖いというように、
人間は怖さを知ることによって、自分の身を正しく保っていけるわけである。

怖いもの知らずという人は、往々にして行き過ぎて失敗したり、
他を傷つけたりすることにもなる。

ところが、指導者、最高責任者になると、
直接叱ったり注意してくれる人がいないから、つい怖さを忘れがちになる。

しかし、よく考えてみれば、社長とか総理大臣といった最高責任者でも、
直接には誰も叱ってくれないが、過ちがあれば必ず世間大衆というか
国民のいわば罰が返ってくる。

だから、総理大臣であっても国民に怖さを感じ、政治に誤りなきを期さなくてはならない。
そういう怖さを知ることが指導者にとって極めて大切だと思う。

            <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(4) 信玄の遺言 - 夕刻版

2015/08/12 (Wed) 19:52:12


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


戦国の名将・武田信玄は天下取りの志半ばで病に倒れ、後を託した息子の勝頼に、
「三年間は自分の死を伏せよ。そして、老臣たちの忠告をよく聞いて、まずは攻めるな、守れ」
と遺言している。

「くれぐれも合戦にふけることがあってはならぬ。お前より年上の信長、家康の命運が
尽きるのを待て。それまでは上杉謙信を頼り、引き継いだ領国を守り持ちこたえよ」

 
信長、家康が戦いを挑んできたら、まずは信濃口の天険で守り、
甲斐の領内に引き込んで戦えば負けることはない、
と守りの要点を具体的に言い残してもいる。

事業を引き継いだ息子は、先代が偉大であればあるほど、
父を乗り越えようとして、攻めの姿勢で実績を作ろうとする。

勝頼は武勇においては父にひけを取らないと自負している。
信玄は創業者として、そういう才気に富んだ息子にかえって危うさを感じたからこそ、
自重を求める遺言を伝えた。

 
信玄もまた、父を追放してまで家督を継ぎ所領を拡大した野心家であった。
死に際して似た境遇の唐・太宗の「創業と守成」の故事が脳裏をよぎったか。

「先代様は、こうなさいました」。
残された老臣たちは、二十代で家督を継いだ勝頼をことあるごとに諌めた。

企業でいえば、「若社長、それはなりません」という重役の小言に
耐えきれずキレる二代目が思い浮かぶ。

 
勝頼は、長坂釣閑(ながさかちょうかん)ら新側近を周りに置いて、
老臣を遠ざけるようになる。

やがて3年の喪があけて勝頼は父の死を公表するやいなや、
全軍を挙げて三河に攻め入り、徳川方の出城である長篠の城を囲む。

攻城戦に手こずる間に、信長、家康の援軍が出動してくる。

旧臣たちは、
「ひとまず後退し、敵が追撃するなら、信濃口の天険で迎え撃てばよい」と進言した。

しかし勝頼は長坂らの「武田軍は信玄以来、敵を前に逃げたことはない。
織田、徳川を一気に叩き潰す好機」という勇ましい主戦論に引きずられ
設楽原(したらがはら)に進軍してしまう。

そして待ち構える織田・徳川連合軍の新戦術、
鉄砲隊の餌食となり自慢の騎馬群を壊滅させてしまう。

これをきっかけに、武田家では家臣団の離反が相次ぎ、衰亡の道を歩み出す。

後継者が有能であればこそ、「守成」に甘んじることは難しい。
先代を越えようと焦る。

後継者に求められるのは、先代に負けない手柄の追求という
安易な誘惑を断つことのできる、真の意味でタフな精神なのである。

            <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(3) 創業と守成 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 18:02:59


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

中国・唐の第二代皇帝である太宗(たいそう)がある時、近臣たちに問いかけた。

 「創業と守成いずれが難きや(事業を始めるのと、
  いったんでき上がった事業を保ち守るのとでは、どちらが難しいか)」

太宗の父、高祖は隋末の政情不安の中で、隋の皇帝を廃して帝王の地位についた。
しかし、国内の大半は唐には服さず、太宗が軍事的才能を活かして周囲の諸国を攻伐し、
はじめて真の建国がなった。

太宗は、皇太子だった兄を殺して力づくで天下を奪った過去がある。
周囲を平定すると武力にかえて文による治世を開く。
年号をとって「貞観(じょうかん)の治」と言う。

中国史上最高の名君とされる太宗が問いを発したのは、そのころのことである。

太宗と国家創業の困難をともにした宰相・房玄齢(ぼうげんれい)は、
「割拠する群雄を降伏させて天下を平定した苦労を考えますと、
創業の方が難しいでしょう」と主張した。

これに対して貞観の治を支えた重臣の魏徴(ぎちょう)は、
「天下が治まると気が緩み驕(おご)りも生まれます。国の破滅は常にこれが原因となります。
守ることの方が難しいのです」と反論した。

太宗は、「どちらも理がある」とした上で、
「しかし創業の困難はすでに過ぎ去った。これからは諸君ととも
に守りの難しさを心してやっていこう」と決意を伝えたという。

太宗の下問は、国家の創業と守りの時代を一代で経験した者の悩みの吐露でもあった。

 
しかし創業者がまず意を用いるべきは、
後継者の選定と育成であることはいうまでもない。
しくじれば、「守成」どころではない。

往々にして創業者は、苦労を重ねて困難の中に道を切り開くことに終わる。
偉業の成否は次代にかかってくる。
聡明な太宗は、偉業を次代に引き継ぐことに成功したのか。

太宗は即位と同時に長男の李承乾(りしょうけん)を皇太子に選ぶが、
承乾は長じるにつれて遊興にふけるようになる。

太宗は四男の李泰(りたい)を重用し、
承乾は嫉妬から四男の謀殺を企てて抗争に発展し、
二人とも廃位、追放された。

太宗の死後、第三代皇帝・高宗となったのは最も凡庸な九男で、
太宗が後宮に抱えた妃を皇后(則天武后)に迎える。


則天武后は外戚の力を背景に皇帝の地位に上り、
政治を操り天下は千々に乱れることとなった。

創業者に課せられた最大の「守成」は、後継者選びに尽きるのである。

            <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(5) 徳川二代目・秀忠の大失態 - 伝統

2015/08/14 (Fri) 19:53:24


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


15代260年に及ぶ太平を現出した江戸時代について、徳川家康がその基礎を築き、
三代目の家光がその体制を固めたというのが、教科書に学ぶ常識的な歴史である。

ぽっかりと抜け落ちている二代目の秀忠とはどういう人物だったのかを調べてみると、
創業者の事業を引き継ぎ、安定的に発展させるためには何が必要なのかが見えてくる。

秀忠は家康の三男である。
長男の信康は武勇、知略ともに秀でていたが、信長によって自害させられた。

家康の後継者は、秀忠ら残る四人の男子から選ばざるを得なかった。

天下分け目の関ヶ原合戦の前夜、家康は会津攻めのため関東に下っていた。
そこに石田三成挙兵の知らせが届く。

家康は自ら旗本三万の兵を率いて東海道を進むことにし、秀忠に譜代の主力軍三万八千を託し、
東山道を信濃経由で上方に向かうように指示した。

この時、次男の秀康が、「先陣を務めさせていただきたい」と志願したが、
家康は却下し関東に留まるように命じている。
秀康は勇猛で知られていたが、秀吉の養子となり、のちに結城家を継いでいる。

嫡男の秀忠に初陣の武功を上げさせ、後継者の地位を固めようとの家康の配慮がある。

しかし、秀忠は大失策をおかす。
西上の途中で、三成方の真田昌幸、幸村親子が籠る上田城の攻略にこだわって
進軍が遅れ、関ヶ原に間に合わなかったのだ。

家康から秀忠の参謀役を命じられた本多正信は、秀忠を現地で叱り進軍を急がせている。

「若殿様は、若さゆえに無茶をするだろうと、父上は私を参謀につけたのです。
上田城攻めは時間がかかります。それでは本軍への合流に間に合いません」

しかし自負心を傷つけられた秀忠は従わなかった。

主力軍を欠いたまま、きわどい戦いを強いられた家康は激怒し、
合戦後に遅れて到着した秀忠の対面も許さなかった。

秀忠の不始末は徳川の家臣団に動揺をもたらした。
家康は重臣五人を集めて、後継者の選定を諮る。

「言いたいことを述べてみよ」とはいうものの、家康の本心が、
唯一関ヶ原で武功のあった四男の忠吉にあることは明らかだった。

三人は忠吉を推した。本多正信は、秀忠の失態を間近に見ていただけに、
「武勇に優れた次男の秀康様こそ適任でしょう」と進言した。
秀忠の軍才を見限ったのだ。

秀忠失格は避けがたく思われた。(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(6) 耐え忍ぶ秀忠 - 伝統

2015/08/15 (Sat) 20:03:35


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

関ヶ原の合戦に間に合わなかった徳川秀忠は、
その一点で父・家康の不興を買い、世継ぎの失格者と見なされた。

後継選定会議では、武才を基準に
兄の秀康か弟の忠吉のいずれかを推す声が重臣の間に高まった。

そのとき、大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)がただ一人、異を唱えた。

「軍陣が続く時代であれば、人の上に立つ者の評価は武勇が第一でありましょうが、
すでに天下が納まったとなれば、文治の時代となります。
武勇に関してはお三方ともに甲乙はつけがたいと思われます。
秀忠殿こそ、謙譲の徳を備え、父上の意に添って統治なさることができるでしょう」

「創業」と「守成」の時代で求められるリーダー像は異なると主張し、秀忠を擁護した。

忠隣はさらに、
「秀忠殿をこれまで嫡男として扱ってきたではありませぬか」と強調している。
後継者としてむやみに嫡流を廃したのでは混乱を招くという判断だ。

家康は、いったん後継者の評議を預かり、
数日後、忠隣の主張を汲んで秀忠を後継者として告知する。

関ヶ原から3年後の慶長八年(1603)、家康は征夷大将軍に任じられる。
そして2年後には、27歳の秀忠に将軍位を譲り、駿府(静岡)に隠居する。

しかし、隠居とは名ばかりで大御所として政治の実権は手放さなかった。
駿府に重臣を集め、そこで決定された政策を江戸の将軍・秀忠に指図し続けた。


「まだまだ、豊臣の威光は無視できぬ。政権固めはわしがやる」

豊臣遺臣の間では、いずれ秀吉の遺児である秀頼が成人すれば
政権を取らせるという暗黙の了解があった。


であればこそ家康は、徳川世襲で政権を担う意志を天下に示す必要を感じて、
形だけの秀忠への政権委譲を強行した。 

三代目の指名も家康が江戸へ乗り込んで裁定する。

秀忠の妻、お江は長男が夭逝した後、俊敏な三男の国松を偏愛した。
次男の竹千代(のちの家光)は奇行が多く、秀忠も三代目は国松にしたいと
気持ちが傾いていたが、家康はひっくり返してしまう。

トップの地位にありながら、何ひとつ任せてもらえない二代目。 
これほどの屈辱はない。
ふてくされて遊興に走るか、実力で父の影響力を除く挙にでるのが世間の常だ。

しかし、秀忠は違った。ひたすら家康を立てて耐えながら、
父が発案する政策を着実に補佐し続ける。

二代目の不甲斐なさを嘲る声が家臣のみならず庶民の間にも広がっていく。

そして、家康の死を迎える。耐え忍んできた秀忠は豹変するのである。 (次に続く)

            <感謝合掌 平成27年8月15日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(7) 動き出す秀忠 - 伝統

2015/08/16 (Sun) 17:53:38


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

慶長二十年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康はようやく乱世に終止符を打った。

関ヶ原での勝利から15年、江戸開府から12年かかった。
そして翌年、病床につく。

後継者の秀忠を呼んだ家康は覚悟を問う。

 「わしが死んだ後、天下はどうなると思うか」

答えて秀忠が言う。

 「再び乱世となりましょう」。

その即答を聞いて家康は、「思い残すことはない」と満足げだったという。

信長の統一事業、そして豊臣の世、家康の天下取りと激動の半世紀を振り返れば、
太平の世はまだ遠いと家康は考えていた。

太平の世にこそ似つかわしいと秀忠を後継者に据えたが、ひとつ間違えば世は再び乱れる。
その際の対応を覚悟している息子は後事を託すに足りると父は安心した。

父に「大権現」の神名を奉って見送った秀忠は、
人が変わったように政権の強化に乗り出す。

家康は、譜代と豊臣家臣のバランスで権力を保ったが、秀忠は違った。
力による大名統制に取りかかる。

まずは身内から。
異母弟の松平忠輝(信濃川中島)の乱脈統治を聞くや、迷う事なく伊勢に配流した。

秀吉の忠臣から徳川方についた大大名の福島正則(芸備)に対しても、
将軍家を軽視した振る舞いに、 禄を没収した。

加藤清正の跡を継ぐ九州の加藤家をも、お家騒動を収められないとして取り潰した。

秀忠の時代に取り潰した大名家は四十一家、石高にして四百万石を越えた。

そして将軍名で領地安堵の朱印状を発行して、思い通りの大名配置を実現してゆく。

その果断は、「凡庸な二代目」と秀忠を軽んじていた大名たちを震え上がらせるに十分だった。

さらに、朝廷の権限も大幅に縮減させ、幕府による一元支配を完成させる。
まさに太平の体制を築いていくのである。

創業者である父の存命中は、ひたすら父を立ててその統治方法を踏襲し、
自分の代になって独自性を発揮した。

ひたすら耐えながら父の統治方法を学んだればこそである。

父に倣って家光に将軍職を譲り大御所として君臨した秀忠にも死期が訪れる。

 「大御所様は家康公のように神号をお受けにならないのですか」と、

見舞いに訪れた側近の天海僧正から問われ、秀忠はこう答えている。

 「私はただ、先代の偉業を継ぎ守ろうとしたまでで何の功績もない。
  人というものは栄達ばかりを考えて、己の分際を知らないのが一番怖いことだ」

二代目という辛い立場を見事に乗り越えた男の最期の言葉である。

            <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

指導者の条件29(最後まで諦めない) - 伝統

2015/08/17 (Mon) 19:47:17


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は最後の最後まで志を失ってはならない。

関ヶ原の合戦に敗れた石田三成が捕らえられ家康の所へ送られてきた。

その時に家康の家臣本多正純が三成に、「戦に負けたのに、自害もせずに、
おめおめと捕らえられてくるなどとは、武将の心構えに欠けるではないか」と言った。

すると三成は、「人手にかからないように切腹するというのは、雑兵のすることだ。
本当の大将は軽々に命を捨てずに最後まで諦めず再起を図るものだ」と答えたという。

あるいは、斬首の直前に柿をすすめられ、体に毒だからと断ったところ、皆が笑ったので、
「大義を思うものは首を切られる直前までも命を大事にして、本望を達することを心がけるものだ」
と言ったとも言われている。

三成が家康を相手に戦を起こしたこと、またその戦いの進め方などについては、
昔から是非色々に論ぜられているようである。

しかしこのように最後の最後まで諦めたり志を捨てることのない態度には、
非常に学ぶべきものがあるように思う。

三成自身も本多正純に言っているのだが、
その昔伊豆に平家打倒の兵を起こした源頼朝は、緒戦に惨敗し、一命も危ういところを
朽木の洞穴に身を潜めて、辛うじて難を逃れ、後再び兵を挙げて
今度は首尾良く天下を取ったのである。

もし最初の敗戦に「もはやこれまでだ、名も無き者の手にとらわれるより・・・」
などと考えて、切腹していたら、後の彼はあり得なかったわけである。

だから何事によらず、志を立てて事を始めたら、少々うまくいかないとか、
失敗したというようなことで簡単に諦めてしまってはいけないと思う。

一度や二度の失敗でくじけたり諦めるというような心弱いことでは、
本当に物事を成し遂げていくことはできない。

世の中は常に変化し、流動しているものである。
ひとたびは失敗し、志を得なくても、それにめげず、辛抱強く地道な努力を重ねていくうちに、
周囲の情勢が有利に転換して、新たな道が開けてくるということもあろう。

世に言う失敗の多くは、成功するまでに諦めてしまうところに原因があるように思われる。

もちろん、ただいたずらに一つのことに頑迷に固執するということではいけない。
あくまで変化に応じ得る柔軟性というものも一面極めて大切なのは言うまでもない。

しかし、ひとたび大義名分を立て、志を持って事に当たる以上、
指導者は、1%でも可能性が残っている限り、
最後の最後まで諦めてはいけないと思う。

            <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

セーラ・マリ・カミング ~ 交渉力とは粘り強さ - 伝統

2015/08/18 (Tue) 17:34:15


             *佐々木常夫のリーダー論より

少し古い話であるが、月刊誌「日経ウーマン」が主催する
「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2002年大賞」にセーラ・マリ・カミングスが選ばれたことがあり、
興味溢れるこの女性に私は長野県小布施町まで訪ねて行ったことがある。

私の会社の機関紙の新春インタビューに出てもらうためであったが、
今まであった人の中で最も刺激的な人の一人であった。

彼女の特質は「戦略あっても計算なし」「悩む前にまず行動」という二つに言い尽くされる。
そのひたむきさと行動力はあきれるほどで、大袈裟に言うならば
私たちの数倍生き抜く力が大きいのではないかと感じるほどだった。

長野駅から電車で北へ30分ほどのところにある小布施町にセーラが来たのは今から20年前。
17代続いた老舗の「枡一市村酒造場」という会社で仕事を始めたセーラは
「ここに自分の居場所がある」と感じ、企業改革や町起こしのため、
次々に大仕事をやり抜いていった。

最初に手掛けたことは、小布施町ゆかりの葛飾北斎を町起こしのシンボルにしようと、
従来ヴェニスで開催されていた国際北斎会議を小布施に招致することだった。

北斎は日本よりむしろ欧米での評価が高く
アメリカやイギリス、イタリアにその研究家が多かった。

それを’98年の長野オリンピックの年でかつ北斎没後150年という節目の年に
小布施で開こうというのがセーラの狙いであった。

しかし東京での開催ですら困難なのに
長野県の小さな町小布施での開催は無理という周囲の評価であった。

セーラはまず北斎研究家の春原高次の門をたたき勉強に次ぐ勉強を重ねた。
そして欧米に飛び、ベニス大学、ハーバード大学などの北斎研究者を訪ね歩き
プランを説得し、日本の関係者をも巻き込み持ち前の実行力で
第3回北斎国際会議を実現させてしまった。


また、長野冬季オリンピックではアン王女と英国選手団のいわば民間特命大使役を担い、
選手団へのおみやげとして五輪カラーの蛇の目傘150本を3カ月以内に作ろうと思い立つ。

蛇の目傘を作るといっても、骨組みを作る人、和紙を張る人、
傘の表面に漆を塗る人と多くの人手と材料と時間がいる。

だから周囲は無理だというのにセーラは片っ端から和傘屋に電話をかけ、
30軒に断られながらも粘り腰で交渉し、ついに京都の内藤商店を口説き落としてしまった。


一方、枡一市村酒造が酒蔵を改造した和食レストランを作ろうとしたことがある。

当初は料理人の要らないレトルト主体のメニューを考えていたものを
「蔵人が丹精込めて作る酒屋のレストンにレトルトの料理などもってのほか」と反対し、
17代続いた酒屋にふさわしい店作りを提案した。

設計には著名なアメリカ人デザイナーであるジョン・モーフォードに香港まで出掛け
頼み込んだがあまりの熱意に負けモーフォドは引き受ける。

モーフォードとセーラは外壁、内装、厨房設備、家具などすべてオリジナリティを追求し、
米は「かまど」で少しおこげが付くように設定した。

賄は全員男性で、枡一市村酒造の藍の印半纏に股引、
足元は足袋に雪駄と日本の男衆伝統のユニフォームとした。

そのレストラン「蔵部(くらぶ)」は町の店は通常5時で閉店するという常識を破って
10時まで営業し、年中無休という究極の「顧客第一主義」を貫き、
多くのお客を呼び寄せることに成功した。

この事業は当初予算の2500万円を10倍も上回る規模になってしまったが、
その評判がお客を呼び、結果は投資を回収できる実績を上げた。

「私に何か能力があるとすれば、それは粘り強さです。
交渉力とは粘り勝ちする能力のこと」

とセーラは言う。

セーラはスポーツ大好き、フレンドリーで華やか、
熱しやすく冷めやすいがツボにはまると驚くべき集中力を発揮する。


セーラの驚異的な粘り強さの活躍をいくつか紹介したが、
実はその陰にはこの小布施の街の人たちの大きな力が働いている。

セーラがこの町に来る前に小布施の人たちはこの美しい風景と澄んだ空気のある町に
「文化」を導入し、商業・サービス業を含めた第三次産業の可能性を求めた動きをしていた。

行政、法人、個人の地権者三者が対等な立場で参加し
街並みを整えるという修景事業をしていたのだ。

その結果、小布施への訪問客が急増した。
そうした動きが一段落し、次の一手を模索していたところにセーラの登場であった。

セーラはやること成すこと、かなり乱暴で、思い立ったら即実行、あだ名は「台風娘」、
周囲を振り回す力はものすごい、おそらく組織という仕組みには合わない人材なのだろう。

しかしその発想力と実行力は他の追随を許さない。

私は「リーダというのはその人といると勇気と希望をもらえる人」と定義しているが
セーラはまさにそうしたリーダーに当たる。

酒造りではセーラはまず欧米人としては初めて「利酒師」の資格を取り、
一般のお酒とは差別化された新酒「スクエアワン」を開発した。

酒造りは半世紀前までは木桶で作っていたが、
減酒することと手間暇かかるということでホーローに代わってしまっていた。

セーラは「木桶仕込み」の酒を作るべく木桶職人を見つけ出し、
木桶に合った奥信濃の米を探り当て、できたお酒を高付加価値品として
高価格でインターネット中心で売り出し、従来赤字であった酒造部門を黒字にしてしまった。

このあとセーラは「木桶仕込み保存会」という組織を立ち上げている。


一方、町の人達はコミュニケーションの場を求めているし、必要だと考え、毎月一回
ゾロ目の日(8月8日とか10月10日)に「小布施ッション」を開催し、
著名人を講師に呼ぶなど、知的で遊び心に満ちたイベントの立ち上げにも成功した。


私の会社の講演会にセーラを招いて講演してもらったことがある。

その次の日、セーラから2か月後の12月12日に私に小布施ッションで
講演してほしいという電話があった。

さすが、即実行のセーラだ。

私は家内と二人で小布施まで出かけたが、
講演は栗羊羹「小布施堂」の工場の3階の多目的ルームにいっぱいの人、
終わっての小布施堂での立食パーティの内容は小布施ならではの料理だった。

次の日、素敵なイタリヤ料理の朝食をとったあと、
長野駅に向かって乗ったタクシーでどれほど素敵な旅であったかを家内と話をして
少し沈黙があったその5分後、携帯が鳴る。

セーラからだ。
「昨夜はご苦労さまでした。よく寝られましたか。お食事はお口に会いましたか」
絶妙なタイミング、人をどんなときどう対応すべきかを熟知した顧客重視の気配りだが、
セーラの場合自然にそれができるところがすごいところだ。


彼女の持論は「日本の地方には本当に古き良きところがたくさんあって、それを引き出し、
地方の活性化につなげなくてはならない」というものであり、小布施はその成功例といえる。

つまりセーラが日本を見つけ出したわけだ。

ただ彼女のひたむきさや行動力をその周囲の人達が理解し、
ひとつひとつ夢を実現していったことが成功の背景にある。
そういう意味では日本がセーラを見つけたわけだ。

セーラがアメリカのペンシルバニアにいたとしたら、これほど活躍しただろうか。
もちろん、生来の明るさと行動力で何がしかの結果は残しただろうが
小布施ほどではないだろう。

これは、1人の人間に特長があってもその人を活かし何かを実現させるのは、
その周りにいる人達であり周りの環境だともいえるのではないだろうか。

リーダーというのは周囲が生み出すものでもある。

            <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

ほめなければ、人は伸びない、動かせない - 伝統

2015/08/19 (Wed) 19:36:08


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)


上から順に「+1,+2,+3,0,-1,-2,-3」だった評価基準を
「+7,+6,+5,+4,+3,+2,+1」と 改めたところ、
それだけで社員のやる気が増した企業があるのだという。

「減点主義」から「加点主義」に変更したという側面はあるにせよ、
それまで「-3」の評価だった 人は「+1」に、「-2」の人は「+2」にといった具合に、
ポイントをずらしただけで、そうなったそうである。


これは、心理学者の石川弘義先生が紹介された事で、氏はこの事実をこう解説している。

“生存の欲求に始まって自尊の欲求、あるいは自己実現の欲求、創作の欲求と、
人間の欲求は、ちょうど山を登るように高い所に登ってゆくというのがマズローの説なのだが、
マズローのいう自尊の欲求、つまり自尊心を高めたい、誇示したいという欲求に、
この減点法から加点法への切り換えはまったく見事に対応していたということなのだろう…”


氏の解説を待つまでもなく、自尊心ということでいえば、
人間誰しも叱られるよりは、ほめられた方がいいに決まっている。


ほめられることによって自尊心はくすぐられるものだ。

このことは、部下にしても管理職にしても同じである。

それゆえ、「8ほめ、2叱り」とか「8ほめ、2注意」といったスローガンに託し、
部下であったら上司をほめ ましょう、
上司であったら部下をほめましょうと、
ここそこでほめることの大切さを力説しているわけだ。


とはいえ、実際には叱ったり、注意を与えることが必要な場面も出てくる。

部下に問題があった時、上司の態度としては、
「何も言わず、無視する」「注意する」「叱る」「怒る」「クビにする」という
5つの態度が考えられる。

この中で、最初と最後の「無視する」「クビにする」は論外として、

「注意する」「叱る」「怒る」
の間のバランスを取ることが大切になるが、 4つほどポイントを上げておこう。


(1)8ほめ、2叱り

   部下に対しては、ほめることに8割のウエイトを置き、
   叱ることは2割にとどめること。これが「叱る」事の前提だ。


(2)「ヒト」を叱らず、「コト」を叱る

   どんな状況でも人格そのものをけなせば逆効果となる。
   「お前が悪い」ではなく、「お前がやった仕事が悪い」というように、
   「ヒト」ではなく「コト」を叱ることで客観性が維持できる。


(3)叱ったあとはフォローする

   打たれ強いか弱いかといったような、相手の個性を考えたうえで叱る。
   そして、決してそのままにはしておかないこと。


(4)怒る前に叱る、叱る前に注意する

   「怒る」は感情そのもの。

   「叱る」「注意」になるにしたがって、
   感情が抑えられ、逆に論理性・客観性が強くなる。

   怒ることを全否定するわけではないが、注意や叱りでとどめたい。

            <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

指導者の条件30(自主性を引き出す) - 伝統

2015/08/20 (Thu) 19:42:34


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は部下の自主性を引き出し生かすことが大切である。

安藤直次は、徳川家康が自分の息子紀州藩主頼宣の後見役に特に選んだ人物で、
若い頼宣を厳しく訓育し、名君たらしめた人である。

その直次の所へ、後に幕府の大老となった土井利勝が政務の見習いにやってきた。

利勝が見ていると、色々な人が直次の所へ決裁を仰ぎに来る。

それに対して直次は、「よろしい」とか「いけない」としか言わない。
そして「いけない」と言われた人がまた別の案を持ってきても、
それが気に入るまで、何度でも「いけない」と繰り返すだけであった。

それで利勝が不審に思い、「どうして、ただ”いけない”と言われるだけで、
”ああせい、こうせい”と指図されないのですか。

その方がはかどると思いますが」と尋ねたところ、直次は、

「それはその通りです。しかし私は老齢でもあり、
紀州家のために人を育てようと思っているのです。
いちいち指図すれば、みな私の意見を聞けばいいと思い、
自分で十分考えることをしなくなります。
それでは真の人材は育ってきません」

と答え、利勝も非常に教えられ、それを心に銘じたという。

人を使って仕事をするにあたって、部下が未熟である場合が少なくない。
だからその提案でも意見でも足りない点は色々あるだろう。

それに対してつい「ああしたらいい、こうしたらいい」と言いたくなるのが人情である。
またそういうことは実際に必要な時もあり、また少なくとも方針だけはきちっと
指図しなくてはならないだろう。
しかし、あまり細々と指図することに終始していると、部下は安易になる。

いわゆる命これに従うというか、上の人から言われないと動かないという姿になってしまう。
これでは人も育たないし、本当に生きた仕事もできない。

やはり大事なことは、自分で色々考え、発想し、自ら行っていくという自主性である。
そういう自主性を持って仕事をしていって、初めて人も育ち、仕事の成果も上がってくる。

だから指導者として大事なことは、そのように人々の自主性を引き出していくことである。
決して、命これに従うというような姿にしてはいけない。

さすがに家康の眼鏡にかなうだけあって、直次はそのポイントをつかんでいたのだろう。
今日はテンポの速い時代で、つい事を急いであれこれ指図したくもなろうが、
それだけにこの直次の生き方をいかに現代的に生かすかが大事だと思う。

            <感謝合掌 平成27年8月20日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(8) 本田宗一郎の引き際 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 18:21:34


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「猫の首に鈴をつける」ことは難しい。
であればこそ諺にもなる。

時代の動きについて行くためには、どんな組織も世代交代が不可欠だ。

企業経営であれば、次世代にうまくバトンタッチできるかどうかが、
企業が永続できるかどうかに関わってくる。


町工場から身を起こした本田技研工業(ホンダ)は、根っからのエンジニアである本田宗一郎と、
販売・金策の天才である藤沢武夫の社長、副社長コンビで順調に業績を伸ばしていた。

職人としての腕と発想に絶大の自信を持つ本田は、技術研究所を舞台に新技術開発に没頭する。
二輪車の成功を基盤に四輪への進出を夢見ていた。

藤沢はというと、事業が順調であればこそ、次世代の経営陣の育成に腐心していた。

藤沢は早くから、二人の天才による牽引では事業経営はやがて行き詰まると考えた。

まだ草創期から、
「創業者の一番大事な仕事は、次の世代に経営の基本をきちんと残すことだ」
と周囲に宣言していた。そして行動に移す。

これはと見込んだ部長、次長クラスを取締役会に出席させて討議の輪に加え、
マネジメント能力を磨かせた。

そして30代の若い取締役を次々と誕生させ、
若い4人の専務による集団指導体制の布石を打っていく。

「カネのことはお前に任せる。その代わり技術については口を出すな」と
本田が宣言した二人三脚による創業体制は絶妙なバランスだったが、
やがて、暗礁に乗り上げることになる。

本田は、二輪車で磨き上げた空冷エンジン技術に絶大な自信を持ち、
その技術を持って四輪の世界に挑むことを決断する。

確かに360ccクラスの軽四輪では「ホンダの空冷」は一世を風靡したが、
1000ccを越える本格的乗用車では、他社が進めるラジエター式の水冷エンジンに分があった。

現場の技術陣には、「技術的に限界のある空冷にこだわり続ければ会社はもたない」
と不満がわだかまったが、「これは俺が作った会社だ。いやなら辞めちまえ」と吠える社長に、
表立って非を鳴らすには勇気がいった。技術者たちのサボタージュが始まった。

「よし、俺が言おう」。藤沢が動き出す。 

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

後継の才を見抜く(9) ホンダのツートップ、幸せな引退 - 伝統

2015/08/22 (Sat) 18:43:10


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「空冷エンジンにこだわるかぎり、ホンダに将来はない」
という若い技術者たちの直訴に、副社長の藤沢武夫は社長・本田宗一郎の説得を決断した。

しかし、本田にも技術者としてのプライドがある。
引くための口実が必要だった。

おりしも、米国ではマスキー法案が審議され(1970年成立)、
各国の自動車メーカーに厳しい排ガス規制の遵守を求めようとしていた。
技術陣の判断は「低公害エンジン開発は水冷エンジンが有利」だった。

「これだな」と、藤沢は説得のキーワードを見つけた。

藤沢は本田と対座する。そして切り出した。

「低公害エンジンの開発がホンダの四輪業界への進出のまたとないチャンスとなる。
水冷エンジンの開発を認めてもらえないか」

本田は予想通り抵抗した。

「空冷だって低公害化はできる。おれに任せろ」

確かに、技術は本田、経営は藤沢の役割分担は会社発足からの約束だった。

「これ以上は言いません。ただ一つだけお聞きしたいことがあります」と藤沢。

「本田さん、あんたはホンダの社長としての道をとられるのか、
それとも技術者としてホンダにいるべきだと思われるのか。
そろそろはっきりさせるべきだと考えるんだが…」

熟考する本田。しばらくあって沈黙を破る。

「おれは社長として残るべきだろうな」

この日から、本田は技術研究所から事実上、手を引き、
本社で経営の指揮をとるようになる。

 
若い技術者たちは、最先端の水冷低公害エンジンの開発にしゃにむに取り組む。
そしてホンダ初の本格的水冷エンジンを積んだ軽乗用車ライフに結実し、
やがてマスキー法の基準をクリアし世界を驚かせるCVCCエンジンにつながった。

会社は名実ともに世界のホンダへと駆け上る。

4人の専務による集団指導体制も軌道に乗っていた。
藤沢は、これでホンダを次世代に引き継げると考えた。
本田も同じ思いだった。

1973年、二人三脚で支えた創業25年を前に、
二人は社長、副社長の同時引退を決断する。

「まあまあだな」と本田。

「そう、まあまあさ」と藤沢が応じる。

「ここらでいいということにするか」

「そうしましょう」

「幸せだったな」

「本当に幸福でした。心からお礼をいいます」

「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」

本田宗一郎66歳、藤沢武夫62歳。

見事な引き際だった

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(1) 藤沢武夫の経営観 - 伝統

2015/08/23 (Sun) 19:16:13


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

本田宗一郎とともに町工場から始めた本田技研を世界のホンダに育てあげた
共同創業者の藤沢武夫は、「万物は流転する」と常々、周囲に説いた。

紀元前6~5世紀のギリシャ人哲学者、ヘラクレイトスの言葉である。
「自然界は常に変化しており、人は同じ川の水に二度と入ることはできない」
と古代の大哲学者は喝破した。


藤沢はホンダの二輪車事業が軌道に乗り世の注目を集めはじめたころ、
若手の技術者を集めて経営について一週間合宿したことがある。

技術バカではいけない。
技術者といえどもバランスシートの見方、在庫の管理の重要性を知るべきだ、という狙いだった。

その合宿で、藤沢が話した講話に彼が「万物流転」に託した真意が見える。


「世の中に万物流転の法則があり、どんな富と権力も必ず滅びるときが来る。
しかし、だからこそ本田技研が生まれてくる余地があった。
だが、この万物流転の掟(おきて)があるかぎり、大きくなったものもいずれは衰えることになる。
その掟を避けて通ることができるかどうかを勉強してもらいたい」

 
単に慢心を戒めるという一般的経営訓ではない。
いかなる大企業もいずれは滅びるという悲観的無常観でもない。
とどまることなく流転する世の中に合わせた企業運営こそが、
企業の永続性を担保するという経営観なのだ。

藤沢が書き残したものを見ると、
人事面でも創業初期のホンダは、固定的な組織ピラミッドを作らなかった。

「でき上がった組織が企業活動を規定してしまう」ことを嫌った。
必要に応じて組織は作られるもので、組織が最初にあるべきではないと考えた。

また、「計画」を過度には重視しなかった。
計画に縛られると、発想が計画消化のスケジュールに合わせて
固定的になってしまうと見たのである。

 
歴史をひもとけば、時代の過渡期に偉大な変革者はあらわれる。
しかし、こうしたヒーローによる変革事業が永続するとは限らない。

フランス革命後、「自由」の旗を掲げて社会組織を大きく変えたナポレオンは、
大西洋の孤島、セント・ヘレナへ幽閉されて生涯を終えた。

 
国内に目を転じても、戦国の世を天下統一へ導こうとした
奇才、織田信長の末路はご存知の通りだ。

万物流転する世の中で、時代を継いで組織と活動を永続させるには、
何が必要なのか。何が欠如して滅びていくのか。

古代から現代までの滅びの歴史を追いながら前向きな教訓を学びとってみたい。

            <感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>

指導者の条件31(私心を捨てる) - 伝統

2015/08/24 (Mon) 18:21:50



            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は私の心を去ってものを考えることが大事である。

明治の新政府が発足した時、最高指導者である参議には、
薩長はじめ各藩のいわば実力者がなっていた。
それだけに、時として意見が対立して、物事が円滑に進まない嫌いがあった。

それを見た西郷隆盛は、
「多頭政治ではらちがあかない。一つこの際木戸さん一人に参議になってもらって、
後は皆その下についてやろうではないか」と提案した。

他の人も賛成したが、肝心の木戸孝允が、
「西郷さんと二人なら良いが、一人では絶対にやらない」と言い張ったので、
皆も隆盛を説いて、結局二人が参議となり、
いわゆる廃藩置県などの大きな懸案を力を合わせて解決したのである。

西郷隆盛は、これに先立つ、彰義隊の戦いの時も、薩長が反目しがちだったのを、
「この戦いは長州の大村(益次郎)さんに指揮をとってもらいましょう」と、
進んでその指揮下に入って、官軍の一体化を生み出している。

維新の志士と言われる人々は、
一身を省みず、いわば私心を捨てて国のために尽くした人が多いが、
その中でも西郷隆盛は一際とびぬけて私心というもののなかった人のようである。


もともと西郷隆盛は、会う人が誰も惹き付けられるような
偉大な人格者だったと言われており、従って自分が大将になっても不思議はない人だと思う。


それが、あえて自分は下に付くというのだから、皆もそれに従わざるを得ない。
それで事がスムーズに運ぶ。

明治維新は、見方によると西郷隆盛を中心にして進んでいったとも言われるが、
それはその大きな人柄と私心のなさがそうせしめたのだとも言えよう。

人間誰しも自分が大事であり、可愛いものである。
そのことはごく自然な感情ではあるが、しかしそうした自分の利害とか感情に
とらわれてしまうと、判断を誤ることもあるし、また力強い信念も湧いてこない。


そうした自分というものを捨て去って、何が正しいかを考え、
なすべき事をなしていくところに、力強い信念なり勇気が湧き起こってくると言えよう。

だから、私心を捨てるということは、
誰にとっても必要ではあるが、特に指導者にはそれが求められる。

西郷さんには遠く及ばないとしても、少なくとも指導者である以上は、
自分の事を考えるのは四分、あとの六分は全体のこと、
他人のことを考えるようでなくてはいけないと思う。

            <感謝合掌 平成27年8月24日 頓首再拝>

『人気』と『人望』 - 伝統

2015/08/25 (Tue) 18:14:32


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)

後継者や右腕となる人物を選ぶ場合は、社内での評判、
特に下からの評判をチェックすることも多いが、
その際注意を要するのは、評判の良さが 「人望」からくるものなのか、
「人気」からくるものなのかということである。

某大手銀行が、一般社員を対象に“付き合いたい上司のタイプ”についてアンケートをとったが、
ベスト8は以下の通りであっ た。

  (1) 決断力のある上司
  (2) 仕事に熱心な上司
  (3) 自分の考えをしっかり持っている上司
  (4) 自信を持っている上司
  (5) 面倒見のよい上司
  (6) 人情味のある上司
  (7) 太っ腹な上司
  (8) 気さくな上司…

なるほどと思う反面、よく見ると、
(1)や(2)といった答えは尊敬の念や人望からきているのに対して、
(8)となると、人気から の回答であることがわかる。

下の評判がいいといっても、よくチェックしたところ、
飲みやゴルフに連れていってくれるからといった、
人気取りゆえの評判だったりすることもあり得るの だ。


《指導者に求められるのは、「人気」ではなく「人望」である。》

外の評判にしても同様。
例えば、「お宅の営業マンは一生懸命やってくれる」と評判がいいとしよう。

だが、会社のためにならないような妥協をしてまでも、
外面を良くしているということもあるかも知れない。
会社の利益にとって実はマイナスということはないだろうか。

私は、こうした人物に何人も出会っている。

反対に、「お宅の担当は融通が利かない。何とかしてくれ」 と苦情を頂戴し、
本人を呼んで聞いてみたところ、会社によかれとの判断から、
得意先の無理な要求に応じていないだけというケースもあった。

人選にあたっては、内外の評価が重要なチェックポイントだが、
「評価の中身」をよく吟味しないと、フェアではない評価になってしまうこともあるのだ。


後継者や右腕を選ぶに際して、最後は、相性も問題になってくる。
意見が違っても、気質が違っても、性格が違ってもいい。
私は自分の片腕を選ぶ時、基本的なところで“相性が合っている”ことを重んじてきた。

ただこの点については、本人がいくら努力してもかなわない面があることは、
知っておいてもらいたい。


            <感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>

指導者の条件32(指導理念) - 伝統

2015/08/26 (Wed) 19:33:44


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者というものは、一つの指導理念というものを持たなくてはならない。

そういうものを持たずして、ただその場その場の考えで事を行っていくということでは、
到底人々を力強く導いていくことは出来ない。

だから、国家の指導者であれば、政治の哲理、企業の経営者であれば経営理念
というものをそれぞれに持つことが大切である。

もちろん、一国には憲法があり、会社には定款というものがあって、
そこに国としての、あるいは企業としての基本のあり方は書かれているわけである。

しかし、そうした憲法や定款を生かして、
生きた国家経営、企業経営を生み出していくものは、指導者の指導理念である。

指導者が理念を持ち、そこからその時々の情勢に対応する具体的な方針を次々と
生み出していくことが、真の発展を生む最大の力となることを銘記しなくてはならない。

            <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(2) ローマ・カルタゴ戦争 - 伝統

2015/08/27 (Thu) 18:23:47


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

紀元前3世紀の地中海世界は、
イタリアのローマと北アフリカを拠点とするカルタゴが覇権を争っていた。

現代に暮らすわれわれは、やがてカルタゴは歴史の舞台から姿を消し、
ローマがヨーロッパの大半を勢力圏におさめ繁栄に向かうことを知っている。

勝者と敗者を分けたものは何か。
勝敗は偶然なのか。
カルタゴのハンニバル、ローマのスキピオという二人の若き英雄の軌跡をたどってみる。

海洋民族のフェニキア人を祖とするカルタゴは巧みな航海術を駆使して
地中海沿岸の諸都市との交易で栄えた。

対するローマは農業中心の一都市国家に過ぎなかったが、
次第にその外交・軍事力によって周囲に版図を広げはじめていた。

そして両者は、長靴の形をしたイタリア半島の
つま先に蹴られた小石のようなシチリア島で利害が激突する。

現在のチュニジアにあったカルタゴ本国は、シチリアを交易拠点としていたが、
勢力を南イタリアまで拡張してきたローマは、この島へ軍を進めた。

23年に及んだ海と陸での戦いの末、カルタゴは放逐され、
西地中海の制海権はローマが握ることとなった(第一次ポエニ戦争、紀元前264~241年)。

海を越えての戦いならば、強力な海軍と輸送船団を有するカルタゴに分があった。
無敵の重装歩兵を押し立てての陸戦の国で、海軍には縁のないローマ人は、
戦いの初期に捕獲した巨大なカルタゴ戦艦を解体してそっくりな船を建造し、
海戦に勝利するまでになった。

必要とあれば技術でも文化でも、果ては神までも、たとえ敵からであれ
異民族から貪欲に移入する柔軟さがローマ人にはあった。

この戦いに敗れたカルタゴの猛将ハミルカルは本国を離れ、
鉱山利権確保のためイベリア半島(スペイン)に渡る。

同行を願い出た7歳の息子ハンニバルをハミルカルは、
バアル神の前で「一生、ローマを敵とする」と誓わせたという。

スペインで幼少期を過ごしたハンニバルは、
カルタゴから海の盟主の地位を奪ったローマが、ガリア(フランス)南部に進出し、
やがてスペイン沿岸に手を伸ばすに違いないとの危機感を感じるようになっていた。

「祖国の国益を守るために、敵の本拠地、イタリアへ攻め入ろう」

とてつもない構想がこの若者にもたげはじめていた。  (次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年8月27日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(3) ハンニバル、アルプスを越える - 伝統

2015/08/28 (Fri) 19:13:43


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

第一次ポエニ戦争でローマに破れて西地中海の制海権を失ったカルタゴは、
海洋交易国家として存亡の岐路に立っていた。

ローマと再び戦って勝つ以外に生きる道はない。
スペインで将軍となりイベリア半島の平定を進めていたハンニバルは、
イタリア本土への侵攻を目指した。

敗戦国が講和の制約を破り、再び海外に軍を進めるには名分が必要である。
ハンニバルは、スペインの地中海沿いにありローマと同盟関係を結ぶ都市、
サグントゥムを包囲し陥落させた。

ローマの反発を見越してのことだ。
狙い通りに怒ったローマがカルタゴに宣戦布告したことで戦争に突入する。

紀元前218年5月、29歳のハンニバルは歩兵・騎兵合わせて
10万2千の軍と象37頭を率いてスペインを進発。
ピレネー山脈を越えてガリア(フランス)を横断し、イタリア国境のアルプスに向かう。

ローマ軍は、大軍を率いてのアルプス越えなど不可能だと高をくくっていた。
敵の虚をついたカルタゴ軍は、山中の部族と戦い、雪中の崖に道を切り開きながら進む。

ようやくたどり着いた峠の頂上で疲労困憊する兵たちを前に、
ハンニバルは眼下に広がる北イタリアの平原を指差して叱咤激励した。

「さあ、そこはもうイタリアだ。まもなく、お前たちはローマの主人になれるのだ」

二千メートル以上の峠に難路を切り開いてのアルプス越えは15日で成し遂げられた。

スペインを出発して5か月。
イタリア側に降り立ったハンニバルの兵は二万の歩兵と六千の騎兵のみ。
出発時の四分の一に減っていた。

それでも、近代戦の重戦車とも言える、カルタゴ軍の独自戦力である象は20頭が生き残った。

あまりに大きな犠牲を払ったアルプス越えは無謀とも見える。
しかしハンニバルには勝算があった。

北イタリアはいまだローマの版図には組み入れられていない。
北への領土拡張を続けるローマとガリア人の抗争が続いていた。
そのガリア人たちを味方に引き入れることができれば、山越えで失った戦力は補える。

 
古代の歴史家たちが書き残した戦記を見れば、
ハンニバルという男、決して血気にはやるだけの若者でない。

情報収集を重視し、確かな戦略眼と戦術の巧みさを随所に見せる。
組織運用の要諦を心得ていた。

その知将ぶりがこのあと、15年にわたりローマ軍を翻弄することになる。 

(次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年8月28日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(4) 現地調達による軍運用 - 伝統

2015/08/29 (Sat) 17:22:26


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

軍事における三大要素とは、戦略と戦術、そして補給支援である。
いかに戦略、戦術を練り上げても、補給の道が確保されていなければ、軍は機能しない。

ビジネスにおいても事情は同じだ。
原料補給から生産、そして販売までの物流の確保が最重要だ。

英語では、軍事、ビジネスともに、この補給と輸送の確保をロジスティクスという。


カルタゴ対ローマの戦いの話に戻る。
本拠地・スペインを出発したハンニバル率いるカルタゴ軍は、
アルプスの高嶺を越えて北イタリアの平原に至るまで5か月を要した。

さらに15年を故国から離れた敵地でローマ軍相手に優勢に戦い続けることになったのである。

制海権はローマに奪われて祖国から補給支援の船は出せない。
武器・食糧の確保と兵員の補充をどのようにしのいだのか。

現地調達で間に合わせたのである。

カルタゴは通商国家であり、スペインに銀鉱山を確保していたから資金はある。
ガリア(フランス)南部の横断時は、「敵はローマだ。ガリア人と戦うつもりはない」と
現地部族を説得し、豊富な資金で懐柔して食糧を供出させ、兵士を徴発した。

反抗する部族には武力で略奪し、食糧を確保して進軍してきた。

ハンニバルは、長征の軍を起こすにあたって100年前のアレキサンダー大王の東征を範とした。
同大王はわずか3万8千の軍でギリシャ北部のマケドニアを出発し、
ペルシャからインドまで現地調達で遠征し大帝国を築き上げた。

 
軍事ロジスティクスに関して、古代中国の兵書『孫子』に興味深い記述がある。

 「よく軍を運用する者は、戦費は国内で賄うが、食糧は現地で調達する。
  軍を起こしたために国が疲弊するのは遠征軍が補給物資を遠くまで運ぶからだ」(作戦篇第二)

その理由について孫子は、
「国から軍需物資を持ち出せば、国内では品不足から物価が高騰し民は困窮する」と指摘している。

現地調達は、洋の東西を問わず経験則から導き出された、古代の軍事の知恵でもあったようだ。

現代のビジネスでも海外市場への進出では、補給線が延びるのを避けるために、
資材部品と人材の現地調達は有効である。敵地で有利に戦うための基本である。

 
さて、ハンニバルは北イタリアに降り立ったが、
現地のガリア部族は、ローマかカルタゴか、強い方に味方することにして、容易に動かない。
食糧も兵の調達も思うに任せない。

ハンニバルは、「一刻も早く、ローマ軍と一戦交えて勝って見せねばなるまい」と考えていた。

 (次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(5) 敵の主戦力を非戦力化する - 伝統

2015/08/30 (Sun) 19:34:41


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

北イタリアに攻め入ったカルタゴ軍を率いるハンニバルは、
アルプス越えで2万6千人にまで減少した兵力の補充に迫られていた。

そのためにも、ローマ軍相手にまずは一戦交えて、
現地で模様ながめのガリア部族にカルタゴ優位を印象づける必要があった。

現在のトリノ周辺で数日間、略奪した食糧で英気を養ったカルタゴ軍は、
ローマ軍を求めて東へ向かう。

索敵に出たハンニバルの騎馬部隊が、敵の索敵隊と遭遇し、これを撃滅する。
狙い通りカルタゴ軍に合流するガリア部族が増えた。

これは偶発的な戦闘だったが、やがて両軍は双方それぞれ4万の兵が激突する本格的会戦に臨む。
トレビアの戦いである。

戦闘における戦術の要諦は、敵の主戦力をいかに非戦力化するかにかかっている。

たとえば、競合社の営業力が圧倒的なら、営業力で対抗せずに商品力で戦う。
商品の性能で劣るなら、価格で対抗して相手の優位性を消してしまうようなことだ。

ローマ軍の主戦力は重装歩兵だ。
一糸乱れぬ戦闘力で中央を突破し敵を撃破する。

カルタゴ軍には、敵を蹴散らす象部隊と、
騎馬の本場である北アフリカから連れてきた精強なヌミビア騎兵がいる。

戦いの火ぶたが切られるや、降り注ぐ矢に驚いた象たちは興奮して四散してしまった。
戦わずしてカルタゴ主戦力の一つは消えた。

ローマ軍の重装歩兵たちは勝利を確信して敵の中央に突入し、
ガリア人主体の軽装歩兵を押しまくる。

しかしハンニバルは慌てなかった。策は講じてあった。
敵の主力と当たる中央よりも両翼に戦闘力のある強力な歩兵を配していた。

その外側には、ローマ騎兵を数と戦闘力で圧倒するヌミビア騎兵がいる。

騎兵戦で押し込んで空いた敵の側面に主力の歩兵と騎兵が回り込む。
ローマの重装歩兵は押せば押すほど敵に包囲される形になった。

さらに、林の中にあらかじめ配置しておいた騎兵と歩兵の伏兵2千が背後から襲いかかる。
四周を包囲されては、重装歩兵も戦う術はない。殺し尽くされてしまった

この敗北をローマ軍は、「騎兵の差だ」と受け止めた。
重装歩兵の突撃の有効性を疑うことはなかった。
長年培って来た戦術を改めることは難しい。

主戦力に絶対的な自信があればこそ変革の必要性に気づくのは遅れる。

見渡せば、どこにでもそんな事例はある。

2年後、同じ過ちを犯したローマ軍が壊滅の危機に追い込まれようとは、
まだ知るべくもなかった。 

(次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(6) 敗戦に学ばぬローマ軍 - 伝統

2015/08/31 (Mon) 17:50:21


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

トレビアの会戦で敗北しカルタゴ軍の騎兵の威力を思い知らされたローマ軍だが、
半年後の紀元前217年春、増援軍の到着を待ってハンニバルを前後から挟み撃ちにしようと試みる。

情報戦でまさるハンニバルのこと、四方に放った間諜からの情報で敵の意図を見抜いていた。

トラシメヌス湖畔の林と湖水に挟まれた狭隘地で追撃するローマ軍を兵を隠して待ち構え、
三方から囲んで湖に追い落とす。挟み撃ちの失敗を知らぬ敵の正面軍を撃破した。

フラミニア街道をそのまま南へ向かえばローマまで三日の距離。
連戦連敗の報にローマ市民のだれもが、都城に迫るカルタゴ軍の影に怯えた。

ところがハンニバルの取った行動は意外なものだった。
ローマをつかず、そのまま半島の東岸へ出て南下したのだ。

ハンニバルは当初から、ローマを地上から葬り去る大戦略を秘めていた。

 「ローマを包囲して講和を迫ることはたやすい。それではローマという国は落ちない」

都市国家のローマは、イタリア半島内外の諸都市と同盟関係を持ち、
さらに各地に市民を入植させた植民都市を経営している。

ローマを取り囲んでも、後詰めの同盟軍、植民地軍に背後をつかれては
5万の軍ではローマを滅亡には追い込めない。

ローマと諸都市との同盟関係をぶち壊す。
急がば回れと考えたハンニバルは、勝利のたびにローマ市民兵は捕虜とし、
同盟軍の兵士は国元へ返した。

 「ハンニバルは寛容な男だ。敵はローマだけらしい」

と同盟都市内で宣伝させ、ローマからの離反を目指した。

略奪しながら南下しては味方を増やすハンニバル。
会戦ではかなわぬと見たローマ軍は、正面戦を避けてハンニバルをつかず離れずで追尾、監視する。
奇妙な膠着状態が一年にわたり続く。

半島内で敵の略奪を傍観するだけのローマ軍に市民の間から不満が募る。

ローマの世論を聞き知って「機は熟した。もはや敵は逃げない」と見たハンニバルは
中部イタリア、カンネーの地で5万の兵を布陣させる。受けて立つローマ軍は8万7千。
ローマ軍を指揮する執政官ウァロは、数の優位を見て、勝利を疑わなかった。

だが、相変わらずの重装歩兵頼みの自軍の布陣に危うさを感じる若者がローマ軍にいた。

緒戦からローマ軍を無惨な敗戦に導き続ける憎き敵であるハンニバルの戦術を
学び続けてきた若者の名はスキピオ。弱冠十九歳だった。

カンネーの平原に吶喊(とっかん)の声が上がり、両軍の前衛が激突する。 

(次へ続く)


            <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(7) カンネーの大敗北を乗り越えたローマの力 - 伝統

2015/09/01 (Tue) 17:52:36


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

ローマとカルタゴ両軍はついに中部イタリアのカンネーの地で激突した。

この一戦に形勢の逆転をかけたローマ軍が敷いた布陣は、
相も変わらず中央に軽装歩兵とその背後に重装歩兵を縦に連ねる。

歩兵兵力なら8万対4万、ローマ軍が圧倒していた。
歩兵で一気に敵の中央を突破する戦術だった。

ローマ軍は両翼に配置した騎兵の数と質は劣っていたが、
総司令官のウァロは、騎兵が持ちこたえている間に勝負はつくと計算する。

とっておきの精鋭1万を、とどめの要員として陣営に残す余裕を見せるほどだった。

しかし、ハンニバルは新たな戦術で臨んだ。
前衛の軽装歩兵を中央が出た「へ」の字の弓形に置いて
敵の猛攻に時間を稼ぐ陣形を敷いた。

軽装歩兵と重装歩兵が入り乱れて剣を振り上げ殺到するローマ軍は、押しに押したが、
カルタゴの軽装歩兵がカーテンを開くように左右に別れて側面に回り込み、
疲れ切ったローマ歩兵の正面に新手の重装歩兵が壁となって立ちはだかる。

左右両翼の騎兵戦でローマ騎兵が総崩れになるころには、歩兵七万は完全に包囲され、玉砕した。

戦死7万、出動することなく陣営に残った精鋭1万は捕虜となる。
これほどの惨敗はローマ史上、先にも後にもない。

それでもローマはくじけない。
なんとかローマに帰還したウァロを市民たちは歓呼で迎えて敢闘を讃え、
かえって戦意は高まった。

ローマ軍の強さは、貴族層から平民まで、市民の義務として兵役につくことにある。
だれもが自分のこととして戦いに赴く。

カンネーの戦場でも、共和制の中核である元老院議員たち80人が兵士として命を落としている。

敗戦の責任は市民全員にあると考えるから、敗軍の将を処刑することもない。
敗戦から学んだ将にこそ次を期待し再び兵を預ける。
処刑の対象は、敵前逃亡と命令違反だけなのだ。


戦いであれ経営であれ、トップが安全な銃後で命令だけ出し、
責任は現場にとらせて次々と首をすげ替える組織は多い。

そんな組織が“戦い”にいかに弱いかは、現代でも同じことである。

かたやカルタゴ軍。
ハンニバル個人の軍事的天才にその強さを負う。
兵は基本的に傭兵である。
戦いにかける義務感と決意に劣る。

だれよりその弱点を知るハンニバルは、大勝利の後、
南イタリアに籠もって各都市の攻略を続け、
粘り強くローマ連合の瓦解を目指す戦略を継続する。 

 (次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年9月1日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(8) スキピオ立ち上がる - 伝統

2015/09/02 (Wed) 17:53:58


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

第二次ポエニ戦争は、南イタリアに拠点を築いたハンニバル軍と、
遠巻きにして圧迫するローマ軍との間で小競り合いを繰り返しながらも
奇妙な均衡状態が続いていた。

戦いがはじまって7年。事態は遠くスペインから動き始めた。

イタリアに侵入したハンニバルの出発地であるスペインには、
数万のカルタゴ軍が残されていた。

この残留軍がハンニバルと合流し共同作戦をとれば、やっかいなことになる。
ローマ軍は重要な第二戦線であるスペインで有利に戦いを進め、敵を封じ込めてきた。

紀元前211年、スペイン戦線で軍を指揮するプブリウス・コルネリウスと弟が、
マッシリア騎兵の待ち伏せにあい戦死してしまった。
ローマのスペイン封じ込め戦略は瓦解の危機に直面する。

その時、一人の若者が元老院に直訴した。
「父の仇を討つ。スペインに送り出してほしい」。
プブリウスの子、スキピオであった。

スキピオはこの時、24歳。軍を指揮するには若すぎる。しかし他に人物もない。
元老院はこの若者にローマの命運を託した。

カルタゴ軍の強さは、状況に応じて歩兵と騎兵を自由自在に操るその機動性にある、
と若者は見ていた。

とくに敵の主力である北アフリカ出身のヌミディア騎兵を無力化できれば勝算はある、と。

2年後、実戦で試す機会が訪れた。
スペイン地中海に面した港町、新カルタゴの城塞を、
守りの手薄な側面の潟から奇襲し攻略した。

さらにバエクラ、イリバの二度の会戦では、
ハンニバルばりの包囲戦術で騎兵の動きを封じてカルタゴ軍を撃滅する。

かつての従軍経験で敗戦から多くを学び、いま実践してみせた。
主力の重装歩兵で押すだけの戦法からの転換である。

この間、捕らえた敵兵のうち、アフリカからのカルタゴ兵は捕虜としたが、
スペインの傭兵は故郷の村へ返した。
扱いを分けたのもハンニバル流だ。現地での味方を増やすことになる。

ある日、捕虜の中に高貴な顔付きの少年がいるのに気づいたスキピオは、尋ねる。

「だれの身内か」。
少年は答える。
「叔父はマッシリア王子のマシニッサと申します」

マシニッサ。父を待ち伏せて殺した騎兵の隊長だ。
スキピオは憎しみを押し殺して、少年を丁重に仇敵マシニッサのもとに送り届けた。

「いずれ効果を現すはずだ」。

非凡なる若き将軍は確信していた。  

(次へ続く)


            <感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(9) 戦略変更は素早く大胆に - 伝統

2015/09/03 (Thu) 19:24:49


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

指導者たるもの、個人の情にとらわれていては大局を見誤り、成功は覚束ない。

恩讐を乗り越えて、父を死に追いやった敵将マシニッサの甥を
敵陣に送り届けたローマの将・スキピオは大胆な戦略の変更を考えていた。

「南イタリアに籠るハンニバルの軍を打ち破るのは難しい。
となれば、敵の本拠である北アフリカに軍を進めるべきだ。
そうなれば、カルタゴはハンニバルを本国に呼び戻すに違いない」

戦局を一気に転換するために敵地をつく。
かつてハンニバルが考えついた大胆な発想だ。
スキピオは、どこまでも敵将ハンニバルに学ぶ。そして実行に移す。

 
スキピオは、最高行政官で二人制で全軍を指揮する執政官に立候補する。
まだ30歳。経験が求められる執政官就任は40歳からとの不文律をたてにローマ元老院は抵抗する。

しかも、おひざ元のイタリアでハンニバルに手を焼いている現状で
アフリカ進撃などもってのほかと長老たちは反発する。

スペインからカルタゴ勢力を駆逐したスキピオはローマに戻り、元老院で力説した。

「私は若いが戦場経験はある。
これまで成功してきたことも、必要であれば変えねばならない。
今こそその時だ」

カンネーでの大敗北以来、決戦を避けて持久戦法を取り続ける
元老院に対する忸怩(じくじ)たる思いを隠し、
「成功」と持ち上げたうえで変更を迫る。

強い自信の表明とともに、長老たちの面子を決してつぶさない。

若い指導者が組織を動かし変革を成功に導く鉄則である。

 
元老院はスキピオの執政官立候補を特例で認め、
「北アフリカ侵攻は翌年以降」と条件を付けて
まずはカルタゴとせめぎあいが続くシチリアに送り込んだ。

大胆な戦略変更には、確実な勝利への裏付けが必要だ。

カルタゴの息の根を止めるためには、
敵の主戦力であるヌミディア騎兵を無力化する必要がある。

彼らを味方につければ、敵の力を削ぐとともにこちらの戦力も増す。
“行って来い”で彼我の戦力を逆転させる妙案ではないか。

捕虜となった甥を送り返した恩を活かしてヌミディア騎兵隊長のマシニッサに会い、
「ともに戦おうではないか」と寝返りを持ちかけたが色よい返事はなかった。

シチリアで過ごした1年間、スキピオは軍備を整えながら
カルタゴ国内の政情について情報収集に専念する。 

 (次へ続く)

           <感謝合掌 平成27年9月3日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(10) ローマとカルタゴ、勝敗を分けたもの - 伝統

2015/09/04 (Fri) 18:02:19


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「ハンニバルがイタリアでやったことを北アフリカでやる」。
固い決意のもと、ローマ軍を率いるスキピオは、紀元前204年の夏、
シチリアから、敵の本拠、北アフリカに上陸する。

スキピオの狙い通りにカルタゴは翌年、ハンニバルをカルタゴに召還した。
その数は一万五千に満たなかったという。

スキピオの狙いはもう一つ当たった。
カルタゴ軍の主力、精強ヌミディア騎兵を率いてきたマシニッサが、
ヌミディアの政争に敗れ、スキピオの陣営を訪ねて来た。

「私にはもう、二百の騎兵しかない」と消沈するマシニッサをスキピオは励まし、
事実上の副将に据えた。
父を死に追いやった敵を許し取り込んだのだ。


開戦前の状況に戻り、両国は講和の道を探る。
しかし、互いに決戦に備えての時間稼ぎでしかなかった。
激突は秒読みとなった。

ハンニバル召還から1年後の春、両軍はカルタゴの内陸部ザマの平原で向き合う。

総兵力ならカルタゴ5万対ローマ4万だが、騎兵の数では4千対6千とローマが上回る。
そのローマ軍騎兵をマシニッサが指揮する。

ハンニバルは象八十頭を先頭に立てる陣形。
象部隊の突撃にかけるハンニバルの作戦を読み切ったスキピオは、
歩兵部隊の間に通路を空けて象部隊をやり過ごし、歩兵が激突した。

歩兵戦はハンニバル軍が押し込んだが、両翼の騎兵に優るローマ軍は
やがてじわりとカルタゴ軍を包囲し、大勝利をおさめる。

スキピオは敵ハンニバルから学んだ包囲戦術をとり、
カンネーでの大敗北の屈辱を、ハンニバルになめさせた。
彼我逆転して。

ハンニバルとスキピオ。ともに傑出したリーダーで甲乙はつけがたい。
経済力ではカルタゴが上回る。
なにがローマとカルタゴの勝敗を分けたのか。

市民兵部隊のローマ軍と、傭兵主体のカルタゴの兵の祖国防衛への決意の差だとの評価もある。
ローマ共和制の勝利ということか。それだけではあるまい。

ローマには、ハンニバルに攻め込まれ連戦連敗の中でも裏切らずローマを支えた
多くの同盟都市が寄せる信頼があった。

一方でカルタゴは、隣国ヌミディアや、事実上の植民統治下においたスペインも、
敗色が濃厚となるや観望を決め込む関係しか築けなかった。

通商国家として「金さえ出せば盟友関係、勝利は買える」との驕りがなかったか。

湾岸戦争での対応を見るまでもなく、金で平和は買えると考えてきた身近な国の姿がちらつく。

敗れたハンニバルは、将軍職を辞し、やがて地中海東岸のシリアに逃れる。
カルタゴが滅ぶまでには、まだ時があった。 

(次へ続く)

            <感謝合掌 平成27年9月4日 頓首再拝>

万物流転する世を生き抜く(11) カルタゴ滅亡とローマの苦難 - 伝統

2015/09/05 (Sat) 18:42:19


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

ザマでの大敗北でカルタゴの命運も尽きたかに思われた。
しかし、その後、半世紀にわたり商業国家として生き残った要因は、
ハンニバルによる速やかな敗戦処理と、勝者ローマの寛容にあった。

ハンニバルは、首都の都城に立て籠っての戦争継続を主張する
カルタゴ元老院を説き伏せ講和文書に署名させた。

五十年年賦による過酷な賠償金支払いと、一切の交戦権の放棄という屈辱と
引き換えではあったが。日本の戦後によく似ている。

政治家に変身したハンニバルは、行政長官として財政改革に取り組むが、
有産階級への課税強化が貴族層の反発を招く。

国外退去を余儀なくされた彼は、地中海世界で拡大を続けるローマに
唯一抵抗する東地中海のシリアに捲土重来を期して身を寄せる。

そのシリアもローマに敗れ、ハンニバルは逃亡先の黒海沿岸の王国、
ビテュニアで毒杯をあおって生を閉じる。紀元前183年。
彼がイタリアに侵入して35年後のことである。

いまわの際に、「ローマが、このおいぼれの死を待ち望むなら、
ローマの心配の種をここで永遠に解いてやろう」と言い残したという。

勝者のスキピオも奇しくも同じ年にこの世を去る。
ローマの政争で戦時中の公金横領の濡れ衣を着せられ、失意のうちの死であった。

スキピオは、その遺骸をローマ領内に葬ることを拒絶した。そして遺言した。

「恩知らずのローマよ。お前は決してわが骨をもつことはないであろう」と。

今や地中海世界の「一強」へとのし上がりつつあるローマに
その運命を翻弄された敵と味方、二人の名将の最期であった。

 
軍事力を放棄して一強ローマに生殺与奪を託し、経済力なら
戦前に劣らず復興を果たしたカルタゴにも、やがて最期のときが来る。

カルタゴ憎しの一念に取り憑かれたローマ政界の雄、大カトーの説く
「カルタゴ不要論」が世論を席巻し、カルタゴ都城を取り巻いたローマ軍によって、
カルタゴはこの世から永遠に姿を消した。紀元前146年のことである。

ローマ軍の将は、スキピオの息子の養子、スキピオ・エミリアヌス。
陥落するカルタゴを前にして彼は嘆く。

「今、私の胸を占めているのは勝者の喜びではない。
いつかはわがローマも、これと同じときを迎えるだろうという哀感なのだ」

それから数世紀を経て、帝国となったローマは東西に分裂し、哀れな姿をさらす。

ライバルを消せばやがて自らも消える運命となる。一強の驕りは、世の常である。

            <感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>

指導者の条件33(自分を知る) - 伝統

2015/09/06 (Sun) 17:56:11


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自分の力、自分の集団の実力を正しく把握しなくてはならない。

九州、四国を討ち、西日本を平定した秀吉は、
次に関東の重鎮北条氏を傘下に加えるべく、使いを送り、上京を促した。

しかし、北条氏政、氏直父子は、天下の形勢を察せず、
自分の力をたのみ、秀吉を軽視し、言を左右にしてそれに応じなかった。
あまつさえ、秀吉に開戦の口実を与えるようなことまでしたのである。

そしてひとたび戦端がひらかれると、小田原城の要害を頼って、籠城の策をとった。
小田原城は天険の地で、かつて勇将上杉謙信が大軍を持って囲んでも、
びくともしなかった実績がある。

その夢を追ったわけだが、
天下の半ばの兵を集めた秀吉の力はかつての謙信の比ではない。

それに対して北条氏自身は藩祖早雲以来五代を数え、名門化して、
かつての質実剛健さがやや薄れつつあった。

したがって戦いの帰趨はおのずと明らかで、
北条勢も各所に善戦はしたものの、圧倒的な力の差はいかんともしがたく、
あたら関東に雄飛した北条氏も五代で滅亡してしまったのである。

孫子の有名なことばに、

「彼を知り己を知らば百戦してあやうからず」

とあるが、この北条氏政、氏直の場合は、その反対に相手を知らず、
自分をも知らなかったといえるだろう。


やはり、相手の力、自分の力というものを的確にはかった上で、
戦うべきか、和すべきかを判断しなくてはならない。

しかし、実際にはなかなかこれが難しい。
ともすれば、希望的にものを見て、相手を軽視し、自惚れを持つ。
特に、相手を知ることもできにくいが、それ以上に自分の力を正しく知ることは難しい。

自分の事は一番わかりそうなものだが、事実は反対で、
いわゆる贔屓目ということになってしまう。

だから指導者は、そういうことを十分考えた上で、
自分の力、自分の会社、団体、国の力といったものを、客観的に眺め、
正しく把握することに努めなくてはならない。

そのように自分を的確に知ることができる人は、
相手についてもあやまりない判断ができるであろう。

そうなれば、何事をやっても、ほとんど失敗せずにいけるのではないかと思う。

            <感謝合掌 平成27年9月6日 頓首再拝>

正しい権限委譲5つのポイント - 伝統

2015/09/07 (Mon) 18:58:52


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)


“人を育てるには権限委譲が一番” であることは論を待たない。

しかし、権限委譲する際は、この社員にならどの程度まで任せられるかという、
指導者としての判断が重要である。

権限委譲という「美名」 に隠れて、
すべてを部下に押しつけ責任回避に向かう上役を見かけることもある。
これでは、むしろ、権限放棄だ。

では、権限委譲を効果的に進めるポイントを まとめてみよう。


(1)「どの部下に、どのあたりまで任せていいのか」という
   事前の瀬踏み、判断が必要である

   “一律に、平等に、誰にでも任せる” のは、基本的に間違い。
   人は、キャリア・能力・やる気などの面で様々だからである。


(2)任せても、報告は受ける

  ①任せたからと放りっぱなしでは、権限委譲とはいえない。
  
  ②上手くいっても、いかなくても、途中経過の報告を定期的に受けること。
   これを、事前の約束事にしておく。


(3)必要に応じて指導・助言する

  ①“必要に応じて” とは、まず、部下から説明を求められた時のことだ。
   これは当たり前のこと。

  ②また、アドバイスを求められなくても、明らかに手順が誤っていたり、
   やり方がずさんだったりした場合は、助言をすべきである。

  ③問題は、“100点満点の80点ぐらいのやり方だ” とか、
   “まだちょっと甘いなぁ” と感じられる時だ。

   つい口に出したい気持ちも先立つが、じっと黙ってガマンして見ていた方が、
   結果的に部下を育てることになる。

   完璧を求めずに、多少のことには目をつぶり、極端に拙い時だけ手を差し伸べる。
   これがポイントだ。


(4)あなたが責務を負うこと

   任せた以上、個性を発揮してやらせていいが、仕事の最終的な結果については、
   任せたあなた自身が責務を負うことのが大前提。
   それ が、正しい権限委譲のあり方だ。


(5)結果を評価する

  ①目標がある以上、結果に対して評価を下す必要がある。
   もちろん、評価するだけではなく、信賞必罰がベースに伴っていることが重要。

  ②“よくやっても、やらなくても、だいたい同じ評価”とか、
   または“評価は異なっても処遇は同じ”というのでは、評価とは呼べない。

  ③逆説的な言い方をすれば、
   「部下のやる気を奪う一番の方法」は、部下の出した結果を無視することだ。


以上、5つのポイントを心に留め権限委譲を行えば、結果は部下が出してくれるはずである。

            <感謝合掌 平成27年9月7日 頓首再拝>

指導者の条件34(使命感を持つ) - 伝統

2015/09/08 (Tue) 17:36:39


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者の力強さは使命感を持つところから生まれる。

日蓮上人は、非常な非難、迫害に会いながら、いささかもひるむことなく、
法華教の教えを説き続けた偉大な宗教家である。

単に民衆に布教するだけでなく、
国家というか時の幕府に対しても敢然と諫言を行っている。

そうした課程では、一夜その庵室を襲撃放火されるとか、幕府の手にとらえられ、
危うく斬刑に処せられかけ、それを免れた後も佐渡に流刑にされるなど、
筆舌につくせぬほどの艱難の中で終始一貫変わらぬ信念で力強い布教活動を終生続けている。

そうした強さはどこから出てきたのだろうか。
それは、日蓮上人の使命感ではないかと思う。

当時は末法の世とされ、天災地変が相次ぎ、社会が非常に混乱しつつあった。
その原因を上人は、お釈迦様の正しい教えが失われたからであり、
それを今の世に説く者は自分をおいてほかにない、自分こそいわゆる末法の世における
法華教の行者だと考えた。

だからこの教えを広めることが自分に与えられた使命だというところから、
ああした命も惜しまない力強い姿が生まれたのだと思う。

上人のことばに「われ日本の柱とならむ、われ日本の眼目とならむ、
われ日本の大船とならむ等と誓いし願いやぶるべからず」というのがある。

この日本を救う核心に自分はなっていこうという、まことに烈々たる気迫である。

人間というものは、時に迷ったり、おそれたり、心配したりという
弱いともいえる心を一面に持っている。

だから、事をなすにあたって、ただなんとなくやるというのでは、
ともすればそういった弱い心が働いて、力強い活動が生まれてきにくい。

けれども、そこに一つの使命を見出し、使命感を持って事に当たっていく時には、
そうした弱い心の持ち主といえども、非常に力強いものが生じてくる。

だから、指導者という者は、常に事に当たって、
何のためにこれを成すのかという使命感を持たなくてはいけない。

それを自ら持つとともに、人々にそれを訴え、
いわば植え付けていくことが極めて大事である。

人間は利によって動くという面もあるが、それだけでなく、
使命を遂行する、使命に殉ずるといったことにそれ以上の高い喜びを感じる者でもある。

日蓮上人の考え方には異を唱える人もあるかもしれないが、
その燃ゆるが如き使命感には、誰もが学ばねばならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

「機会は平等、処遇は公正」 - 夕刻版

2015/09/09 (Wed) 18:43:02

社員を平等に扱うな


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)

たとえば、15年という社歴の社員の給料・賞与が全員同じだったとしたら?

誰が見ても「平等」ではあるけれど、決して「公正」ではないと誰にでもわかる。
企業経営にとっての「平等」の確保は、扱い方によっては難しい問題だ。

学歴や社歴・年齢・性別なども、無視できない要素ではあるが、
会社の成長発展にとっては、あくまで周辺的な要素であり、根本的な要素ではない。

経営者があまりそういう要素にこだわりすぎると、短期的に社内の和を保つことはできても、
中・長期的には、経営者自らが会社の衰退への大きな墓穴を掘る結果になりかねない。


私は、19世紀の米国の思想家・エマーソンの“平等でないものを平等に扱うことほど、
不平等なことはない”にならい、“社員を平等に扱うな”と主張したい。

言い換えると、年功序列・社歴・学歴などではなく、
仕事によって人を処遇せよ、ということだ。

「機会は平等、処遇は公正」というのが、私の考え方である。

教育訓練を受ける機会、上司から指導・助言をしてもらう機会、
違う部署・違う店舗・違う職種で働く機会などは平等にする。
その代わり社員には、与えられたチャンスを利用して、
業績貢献の面でお返しをしてもらう……。


経営者がこのような考えで社員に接していたら、会社は必ずよくなるはずだ。

今日、日本の経営者には、ますます「機会は平等、処遇は公正」という面が要求される。
私は外資系企業の経験が長いことから、ともすれば外資系に厳しい評価をしてしまいがちになる。
しかし、この面についていえば、外国企業に大いに学ぶべき点ありと言いたい。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>

人を評価するモノサシ - 伝統

2015/09/10 (Thu) 18:03:51


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


日本陸軍に、辻政信という参謀がいた。

彼ほど毀誉褒貶(キヨホウヘン)相半ばする人生を送った軍人は、稀である。

軍には「考課表」と呼ばれる勤務評定があり、
全将校は上官から直接に評価され、
その内容は、定期的に陸軍大臣に報告されたものという。

東条英機・関東軍参謀長の彼に対する評価は

「辻大尉は、戦場活動じつに勇敢、かつ適切であって、
将来、わが陸軍の至宝たり得る人物なり」…である。

かと思うと、青木漢口参謀長の評定は、

「辻少佐は、協調性欠如、自我強烈にして、
将来、中央部の要職には絶対に充用すべからざる人物である」…。

この2つの評価、好評と酷評の両極論だが、どちらが当たっているのか判らない。
どちらも“それなりに”正しいかもしれないし、両方とも間違っているの かもしれない。

ことほどさように、「評価」というものは、
評価する側によって差が出てしまうもののよう である。


こうしてみると、評価が評価として普遍性を伴った意味を持つためには、
事前に“評価基準=評価の モノサシ”を設定しておく必要がある。


ポイントは2つ。

第一は、《業績基準(Performance Standards)》を、計数をからめて具体的に作っておくこと。

もしこれを行っておかないと、何を基準にして評価するのかを客観的に説明できないので、
する方もされる方も納得のいく評価となりにくい。
ともすると、 評価が、感情論・感傷論になってしまい、
対象の人間に対する“好き嫌い”だけがベースになりがちである。


第二は、《結果(Result、Performance) 対 過程(Process)》の 点だ。

一般にアメリカ企業の場合、結果あるいは業績だけに関して評価が行われるのに対し、
日本では、過程をこれに加えて勘案する傾向が強いようである。


企業である以上、《結果》は当然であるが、
結果至上主義の危険は“結果さえよければ、やり方はどうでもいい”類の、
長期的には企業に害を与える考え方を生みがちなことである。

私としては《過程》をも含めて評価する懐の深さが必要であろうと考える。

では、具体的にどのくらいの評価ウエイトをかけるべきかの問題だが、
アメリカ企業の「結果・100%:過程・0%」に対して、
「結果・80%: 過程・20%」程度が妥当なのではないだろうか。

経営者によっては、「結果・50%:過程・50%」という人もいるが、いずれにしても、
“正しい過程の積み重ねのみが、正しい結果を生む”といくコンセプトを信じたい。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

若手の『やる気』に火を付ける - 伝統

2015/09/11 (Fri) 19:42:13


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


“どうも社員が燃えていない”“部下にやる気が感じられない”…

このように嘆く経営者・管理者が、実に多い。

しかし、無気力・無感動・無関心が若い世代の特徴と云えたとしても、
接し方やリードの仕方によって、やる気を引き出すことは可能である。

人に対するマネジメント能力を磨こうとするからには、「方向性」を明確に示し、
やる気を引き出す「目標の与え方」をマスターし、正しい「権限委譲」と、
納得のいく「評価の仕方」を身につけていかなければな らない。

キーワードは、「方向性」「目標」「権限委譲」「評価」の4つであるが、
今回は、「方向性」について考えてみたい。


人間というのは、“給料が安い”“残業が多い”といった不平や不満のネタがあると、
どうしても目先にこだわり、新しい角度でものを見たり、
積極的な姿勢を 示すことができなくなる。

そもそも、将来に明るさや楽しさが感じられないとしたら、
いくら“やる気を出せ”と社員にハッパを掛けたところで、無理というものだ。ところが、

“10年たったら、ウチはこういう会社にしたい。売上規模は××にしよう。
地域のシェアはナンバーワンを目指そう。福利厚生はこうしよう…etc”

このように、将来に希望や期待、夢や楽しさといったものが感じられると、
完全に解消されるとはいわないまでも、不平不満の程度は、相当和らぐ。
トンネルの先に光を見出し、前向きの姿勢を取ろうとするものだ。


英語で取締役を、「ディレクター」という。
「ディレクト」とは「先を示す」という意味であり、「ディレクター」とは「先を示す人」である。

社員に将来の方向性を示せない人間に、取締役の資格はない。
取締役の最高峰たる社長が、社員に将来の方向性を明確に示せないようでは、
社長であって社長ではない。

もちろん、部課長とて同じである。
部として、あるいは課として、1年先、2年先に何を目指すのか、
できる限り具体的に方向性を明らかにすることが求められ る。


私は、30代までにマネジメント能力を身につけておく方が望ましいと、つねづね指摘している。
中間管理職クラス以上になると、機能的・専門的能力に加えてマネジメント能力も
要求されるようになってくるからだ。

そのマネジメントの基本中の基本は、部下をいかにリードするかにある。
それには、まず、方向性を示す。

その上で、日常業務にあたらせる時は、「目標」を与え、
「権限委譲」と「評価」(この二つに関しては、連載で述べている)
を正しく実行していくことがポイントだ。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

”ベストな目標”の与え方 - 伝統

2015/09/12 (Sat) 19:05:32


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


指導者として、社員・部下のやる気を引き出す「目標の与え方」をマスターしたいものだ。

目標の与え方によっては、やる気を促すこともできるし、反対に、意欲をそぐことにもなるからだ。

そもそも人は、
“目標を持つことによって、より達成意欲をかき立て、スキルも磨こうとする”ものである。

その反面、目標があまりにも現実離れしていては、その意欲も萎縮してしまう。
目標設定をどこにするか、そのさじ加減が難しい。


基本的には、“やってやれないことはない”というラインをめどに目標を設定するのがポイントだ。
微妙な表現ではあるが、社員それぞれの能力を10%から15%程度上回るあたりを基準とすべきである。

これが五割、六割アップ、あるいは二倍ということになると、
最初から“そんなの無理じゃん”とあきらめの気持ちが先に立ってしまう。

かといって、ほんの少しの頑張りで達成可能なラインに目標を置けばよいかというと、
これもまた彼らの新たな意欲を引き出すことにはならない。


1回の挑戦では不可能、2回でも無理、ようやく3回目で手が届く―― 。

能力を10%から15%程度上回るラインとは、こんな感覚だ。
設定目標のめどはこのあたりに置くことが望ましい。

そのためには、普段から彼らとのコミュニケーションができていて、
社員一人ひとりの能力を正しく押さえていることが前提となることは、いうまでもない。

また、いったん目標を与えたからには、
やり方についてはできる限り彼らに任せるのもポイントだ。

意欲をかき立てるラインの設定、そして最終的には任せること。
それが、目標の与え方の基本である。


“与えられた部下も、その目標に納得する―――。”

部下に目標を与える場合、ポイントとなるのは、この「納得目標」を与えるということである。


そもそも、与えられた目標数値が同じであっても、それが自分の納得した目標である場合と、
相談もなしに強制的に押しつけられた場合とでは、達成意欲に差が出るものだ。

ある心理学者の調査結果では、2.6対1の差があるという。
もちろん、納得目標の方が達成意欲は2.6倍高いということだ。

客観的に見て、相当程度妥当と思われる目標であっても、
与え方が一方的な押しつけである場合、84%の人が嫌悪感を示すという調査もある。


納得目標を与えるためには、目標を作る過程において、
一方的に作成するのではなく、
部下に意見を述べさせるというプロセスを経ることがポイントだ。

誤解を恐れずにいえば、「上意下達」方式から、「合意形成」方式への転換である。

こうすることによって部下は、たとえ、結果的に自分の意見や考えが
目標に反映されないとしても、目標に対する親近感を増すのである。
時間はかかるが、目標づくりにタッチさせることが大事である。


もっとも、部下に対して“目標は10だ”といったところ、
“8しかできません”という答えが返ってくる場合もあり、
「部下の納得」 にウエイトを置くと、会社全体の目標が達成されない、という問題も出てくる。

その場合は、

“君のいうように、客観的には「8」が妥当なところだろう。10は難しいかもしれない。
でも、10を目指そうよ。残りの2の部分につ いては手を貸すから、ひと肌脱いでくれないか”

とフォローすることによって、10を納得目標とさせる。
これが納得目標の基本のひとつである。


“What gets measured gets done.”(計数化・測定化できるものは実行に移される) 
と はアメリカの金言だが、
それを待つまでもなく、目標とするからには数値が入っていれば、より具体的になる。

第一、その方が、達成具合を測定できる。

その意味において、営業はいいとしても、その他の部門、
例えば、人事、経理、企画、開発などにおいては、
目標を数値として設定することが難しいと考えるむきもある。

しかし、これらの間接部門においても、
“新しい在庫管理システムを200X年X月X日までにスタートさせる”といったように、
月日で押さえることによって、計数化・数値化可能である。

“やろうという目標意識と問題意識”があれば、
間接部門やスタッフ部門でも、目標の計数化はできるのである。

            <感謝合掌 平成27年9月12日 頓首再拝>

エイブラハム・リンカーン~自分以外に誰もいない - 伝統

2015/09/13 (Sun) 20:34:04


             *佐々木常夫のリーダー論より

先日、ステルスバーグ監督の映画「リンカーン」を見た。
主役のダニエル・ディ=ルイスはたしかに本物のリンカーンかと思うほどの風貌であったし、
これぞまさしくリーダーともいうべき迫力ある演技であった。
アカデミー賞主演男優賞というのもうなずける。

リンカーンは自由と正義のため奴隷解放をしたアメリカ史上に残る勇気ある大統領として
44代大統領の中で1,2位を争う人気がある。

しかしリンカーンについては南北戦争の功罪を抜きに語ることはできない。
連邦を守るという信念から生じたこの南北戦争の戦死者は62万人という異常さだ。

総人口を現在の人口(3.1億人)として計算すると、この戦死者数はおよそ600万人に相当する。
さらに戦争に加わった北軍のおよそ270万人の兵士のうち200万人が21歳以下の若者、
そのうち半数が18歳以下という。

しかも当時の武器の水準からいえば、一度の大量殺戮は起こりにくく、
いわば一対一の肉弾戦であり壮絶な殺し合いであったと想像される。

南北戦争はリンカーンがサムター要塞の防衛を命じたことから始まった。
この要塞は守ることができないことはわかっていたし、
他に選択肢は複数あったにも拘わらずリンカーンはそれを命じた。

このことが4年間に及ぶ長期に亘る戦争と62万人の戦死者に繋がった。
政治家としての判断が甘く史上まれにみる悲惨な戦争になったことについては
大きな責任を負わねばならない。

もちろん最初から長期になるとは誰も思わなかっただろう。
この当時、北部23州の総人口は2200万人、南部連合11州のそれは900万人、
しかも南部の350万人は黒人奴隷だった。

加えて北部は発展した工業、豊かな農業、南部を圧倒する海軍力。
北部が短期的に決着をつけられると考えたとしても当然であった。

この戦争を長引かせた原因の一つは信じられないほどの北軍司令官の無能、
それに対し南軍には天才とも言えるロバート・リー将軍の存在が大きかった。

リンカーンは1809年ケンタッキーの農家の子として生まれ、
父母とも無学で小さいころから勉強をしたいリンカーンと労働させようとする父親とは
抜きがたい確執があったようだ。

9歳の時母を亡くし、姉も弟も亡くなるというように身近な家族を失い、
死を日常のものとして育っていった。

後年、子ども4人のうち2人まで亡くすという悲しい体験もあり、
リンカーンは人一倍人の命の尊さとはかなさを感じていたと思われる。

弁護士の仕事をしているうちに政治に興味を抱き、
分裂の危機にあるアメリカの連邦を守る政治家は今や
「自分以外に誰もいない」という確信を持つに至る。

リンカーンの特長は、自らの思想や政策をとことん理論的に詰めたうえで、
その正しいことを明確な言葉で主張し、それを他人に押し付けるのではなく
実に控えめに遠慮がちに選挙民に接するという姿勢で貫いたことである。

それは38歳でイリノイ州の下院議員になってから
大統領2期のとき56歳で暗殺されるまで続いた。

メアリー・アン・トッドとの結婚生活は彼女の浪費癖や精神不安定で、
また政治の世界では予想もしない数々の困難が起こり、公私とも心休まる日は少なかった。

こうした環境の中で自分を見失うことなく、常に国民の幸せは何かを問いつつ、
国民に対し、まるで神のごとき正しいメッセージを与え続けた。

一日も早くこの悲惨な戦争を終えようと心血を注ぎ、
一方で幾度も戦地に出かけ負傷者を見舞い、戦死者の家族を弔問し、勇気づけた。

それでなくても年齢より老けて見える風貌はさらに年老いた哲学者のようになっていった。
このようなリンカーンの生き様や人に対する優しさが、次第に国民のゆるぎない支持を集め、
1864年の大統領選では圧倒的多数で再選される。

リンカーンの考え方や政策は何度も自分で検証し練り上げられているために
極めて論理的でありほとんどぶれない。
リンカーンの偉大さや人気の源は彼の発するその言葉にある。

ゲティーズバーグで北軍が勝利した時、
亡くなった兵士のための国立墓地の儀式のとき
リンカーンが行った演説はわずか2分であった。

「人民の人民による人民のための政治をこの地球上から決して消滅させてはならない」

という有名なしめくくりで終わる272語のスピーチ。

このスピーチはこの戦場で死んでいったすべての兵士への悼みであり敵も味方もない、
未曽有の戦いの中で南部兵士には「赦し」の心境に達していた。
「目には目を」の恨みや憎しみを超え慈悲と愛を以って接すべきことを述べている。

集まった人たちは敵に憎しみを持った人たちであり、
リンカーンの考え方を素直に受け入れることは難しかった。

北部の愛国心を自賛し、彼らの勇気と忍耐を讃える方がどれだけ民衆に受け入れ易かったか。

事実、聴衆の意識とリンカーンのそれとのあまりの乖離に演説が終わったとき、
ほとんど拍手はなかったという。しかしその後ほとんどの国民がこのスピーチに感動し、
50年後にはこの演説は小学生が暗記するほどになっている。

1858年、共和党の上院議員候補の時、歴史に残る名演説「相争う家、立つことあたわず」
―私が望むのは国内で争うのを止めることーを語っている。

1963年の奴隷解放宣言もわかりやすく格調の高い内容であった。
リーダーの発する「言葉」の重要性と戦略性を如実に示す例は、
リンカーンを以って最高であるといっても過言でない。

リーダーは、仲間に「向かうべき方向性」を明示しなければならない。
仲間の先頭に立って、「こっちへ進もう」と旗を振らなければならない。

そして、人間社会において、「旗」とは言葉にほかならない。
自らの意志や思想を最も明確に伝えることができるのは言葉でしかなく、
リンカーンの演説のレベルの高さは、彼の思想や哲学の高さを示す。

もう一つ、リンカーンのリーダーとして優れたところは死を全く恐れなかったことである。
大統領選に勝利したとき、暗殺の脅迫状が自宅に届いたが、リンカーンは
「どんなにガードしても殺そうと思えば方法はいくらでもある」といって無頓着に行動した。

死があまりにも身近だった人生を歩んできたこともあるが、己の信念に基づいて行動した結果、
命を落としても仕方がない、それは神の計らいだと考えていた。

彼が大統領に就任すべく故郷を去る時の最後の挨拶は

「この別れの時に私が感じている悲しみを理解できる人は誰もいない。
私はいつ戻って来られるのか、また実際に戻って来られるのか分からず去っていかねばなりません。
私の前にはワシントンが背負った以上に重い仕事が待っています」

であったがこの時すでに死を予見していたのだろうか。


他にリンカーンの特筆すべきことは人事において適材適所に徹したことだ。

特に2期目に、サーモン・チェイスを最高裁長官に任命した。
彼は財務長官だった3年間、リンカーンに最も逆らった人物として知られる。
そのような過去やチェイスが急進派共和党員であることも完全に無視した。

彼が重視したのはチェイスは有能な弁護士であり、
最高裁長官として最も適していると考えたからである。
あくまで仕事に対する能力で人事を決めていた。

南北戦争後にアンドリュー・ジョンソンという民主党の南部人を副大統領に選んだが、
リンカーンはこのようなことを平然と実行する勇気ある卓越したリーダーであった。

            <感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>

指導者の条件35(自問自答) - 伝統

2015/09/14 (Mon) 18:02:27


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はたえず自問自答していくことが大切である。

ソウシンという人は孔子より46歳も年下の弟子で、年齢的にはいわば孫のような人だが、
孔子はこの若い弟子を立派な人物としてほめている。

そのソウシンの有名なことばに次のようなものがある。

「私は、毎日3つのことについて、自ら反省している。

第一は人のために考え行動しながら、かえって忠実さを欠くことはなかったか、
第二は、友人との交際で信義を欠くことはなかったか、
第三には、学んでもいない、自分でもよくわかっていないことを人に教えたりはしなかったか、

ということだ」

こうしたことを日々、自らに問いつつ、過ちなきを期していたというのだから、
さすがに若くして孔子にほめられるほどの人だという感を深くする。

このソウシンが日々三省している事柄はそれぞれ極めて大事なことだと思うが、
それとともに、そのように毎日自分の行いについて自問自答しているということ自体に
指導者として非常に学ぶべきものがあると思う。

指導者のあり方というのは極めて重要である。
そのあり方いかんが、一国の運命をも左右し、多くの人々の幸不幸を決定するほどのものである。
だから、指導者は過ちなきを期すという上においては、
極めて厳しい自己検討を要求されているわけである。

従って、指導者は自分の指導理念なり方策について間違いがないか、
あるいは自分の力というものを正しく把握しているかといったことについて、
たえず自らに問い自ら答えるということを繰り返していかなければならない。

そうした自問自答こそ、指導者が日々決して怠ってはならないことである。

もちろん、自分一人で自問自答していたのでは十分わからないという場合もあるだろう。
その時は、それを他の人にも尋ねてみればいい。
”自分はこう考えているが、どうだろうか”ということを謙虚に尋ねてみる。

それによって得た答えを自分自身の考えに加味して検討していくということを重ねていけば、
比較的過ち少なくやっていけるのではないかと思う。

ソウシンは自分一個の身を修めるだけでも、日に三省したのである。

まして大勢の人の幸不幸を預かる指導者は日に五省も十省も、
自問自答を重ねていくことが必要だといえるだろう。

            <感謝合掌 平成27年9月14日 頓首再拝>

「孫子」 - 伝統

2015/09/15 (Tue) 19:03:41

(第1人目) 「孫子」

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

シナ大陸で出た本のうち、ヨーロッパで最も重んじられたものは何か、
と言えば『孫子』であろう。

儒教あるいは儒学が重んじられた文化圏では当然『論語』などの四書五経が影響力を持ったが、
儒学はキリスト教文化圏ではあまり意味がない。
シナ文化やシナ文学を専門とする人たち以外にはほとんど関係がない。

ところが『孫子』とは違うのである。軍事の関係者が注目し、尊敬してきているのだ。
そしてヨーロッパで軍事学の知識は高級インテリにとっては必修のものとされている。

 
まだベルリンの壁が崩壊しない頃、日本を訪問した西ドイツの首相B氏が、日本の首相F氏に、
「西ドイツの現在の最大の関心事はソ連の中距離ミサイルである」と言って、その話をしたが、
日本の首相は、そのミサイルの名前も性能も、またそれに対抗するためのNATO側の
ミサイルの名前も性能も全く知らなかったので、西ドイツの首相の方が驚いたという。

ヨーロッパでは似たような国力の国々が戦争し続けてきたから、
軍事に無関心では、政治家にはなれないし、経済界でもリーダーになれなかったのである。
そういう風土の中ではすぐれた軍事の本ならどこの国のものでも読まれるし評価もされる。

それで『孫子』は最も広く国際的に評価されてきたシナの本ということになるのである。
『孫子』はリーダーを志す人の必読の書としての評価が国際的に確立しているのだ。

孫子が誰かということについては学者の間で議論があるが、われわれが『孫子』として
知っている内容は、かの『三国志』の英雄である曹操(魏の武帝という)が注釈した
『魏武注孫子』という本から出ていると知っておけば十分であろう。

 
日本が大日本帝国として世界に威張っていた時代と、
大東亜戦争とその敗戦を体験的に知っている私から見て、
最も痛切な文句を二つばかり『孫子』からあげてみよう。

 
まず書き出しの部分にある文句である。
「戦争は国の大事であって、死ぬか生きるか、国が存続するか滅亡するかの
別れ道になることであるから十分に考えなければならない。」

 
第二には「従って〔戦争にはもの凄く金や物や人が消耗されるので〕
戦いは荒っぽくてもとにかく早くやるのがよいのだ。
うまく長く戦うというようなことは、いまだかつてないのである。」

 
日本がアメリカやイギリスと戦う羽目になったのは、昭和15年に
ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアと三国軍事同盟を結んだからである。
当時はドイツもイタリアもバリバリの社会主義国である。
日本とは貿易関係もたいしてない。

そんな国々と同盟して石油を売ってくれるアメリカと敵対するのは正気のさたではなかった。

特にナチスのユダヤ人迫害を知っていたらその世界的影響も考えるべきだった。
一番重要なことは、「負けない側」につくことなのだ。

その点だけでも当時の日本のリーダーたちがよく考えたらよかったのに、
その一番肝腎なことを考え抜いていなかったのである。
それで日本は敗れた。

 
次ぎに、戦争の準備は十分やるが、やったらすぐ終えなければならないということである。
日清戦争も日露戦争も、日本は軍事的にも外交的にも十分に準備した上で、
いずれも2年もかけずに終了している。

満州事変も十分準備した約1万の日本軍が、40倍の40万の張学良のシナ兵を追い払って、
一挙に満州国独立まで持って行った。

ところが昭和12年以後のシナ事変(日中戦争という人もある)では、
日本は全く準備していない時に戦争をしかけられた。

あわてて兵力の逐次投入を続け、北京、上海、南京、武漢三鎮と占領しながらも
戦いは終わらず、国際情勢がどんどんけわしくなって、
ついに英米とも戦うようになったのである。


孫子は教えるのだ。
リーダーにとって一番重要なことは、常に敗けないようにすること、
つまり、いつも勝つ側についていること。

そして準備は十分にするが、始まった戦いはすぐ終えるようにしなければならない、
ということである。


 (中華人民共和国や中華民国の略称として「中国」を用いるが、地理的、民族的、文化的、
通史的な場合はシナ、つまり英語のチャイナに相当する語を用いる。
元来、「中国」は東夷西戎北狄南蛮に対する語で、周辺の諸民族を獣や虫扱いした差別語である。)

http://www.jmca.jp/column/watanabe/1.html

            <感謝合掌 平成27年9月15日 頓首再拝>

「源頼朝」 - 伝統

2015/09/16 (Wed) 19:38:00



            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


第2人目「源頼朝」

源頼朝が征夷大将軍となって鎌倉に幕府を開いたのは建久三年(西暦1192年)である。
それから明治維新(西暦1868年)までの約七百年間、日本は武家政治の時代であった。

この武家政治を開いたのが頼朝であるから、日本歴史の上では特別に偉いリーダーであった。
その前に平清盛がいたが、彼は武家から出世して宮廷人になってしまった。

では、頼朝のリーダーシップはどこから出たのであろうか。

まず当時の「家門」という観念があったことを忘れてはなるまい。

頼朝の父は左馬頭(さまのかみ)義朝であり、母は熱田神宮の大宮司藤原季範の娘である。
義朝は源氏の氏神様みたいな八幡太郎義家の直系の曽孫である。
つまり義家の長男の長男の長男である。

つまり源氏の嫡流で最も家柄がよいのである。
源氏の一門にとってはそれだけで仰ぎ見られる存在である。

頼朝の弟には蒲冠者(かまのかんじゃ)範頼とか、戦争の天才の九郎判官義経などがいたが、
この弟たちは義朝の妾の子たちである。

範頼の母は遠江国池田宿の遊女であり、義経の母は妾の常盤御前で、
後に平清盛の妾にもなった女性である。

一方、頼朝の母は、日本一の「武」の神社の大宮司の娘で正妻である。

現在のように妾(めかけ)の地位は低くなかったにせよ、母の身分は物を言う。
リーダーには「家系」が物を言うことがある。
ヨーロッパでも「敗けても王は王だが、王と戦ったものは勝っても敗けても叛逆者だ」と言われている。

また頼朝の兄には、平治の合戦に父義朝が敗れたあと、それぞれ別の死に方をした義平と朝長がいる。
特に義平は、悪源太義平といわれる豪勇の者であったが、母は不明である。朝長も同じだ。

つまり八幡太郎義家以来の源氏の嫡流は頼朝一人ということになる。

言うまでもなく頼朝は秀れた素質を持った大人物である。
幸田露伴の名著『源頼朝』にもそのことがよく書いてある。
しかし頼朝の権威が「源氏の嫡流」ということに基づくことが十分指摘されていないように思う。

源氏の武士たちの心情は「本家の嫡流」に向けられていたのだ。
そうでなければ、戦争にかけては古今無双の天才で、実際に平家を戦場で滅亡させた義経が、
頼朝の不興を買うと、源氏の武士どもがすべて頼朝についた理由がわからない。

今でも企業や組織では「名門の嫡流」が何となく組織の長に祭り上げられることがある。
すると納まりがよいからである。

その名門が「家」から学校に変わって、「一中→一高→東大」だったり、
「(東京)幼年学校→陸軍士官学校→陸軍大学」だったりしたこともある。

ヨーロッパ、特にイギリスでは名門が物を言う。
企業でも財団でもその長になる人にはサーやロードの肩書きが重要である。

アメリカでも目に見えにくいがそれがある。実力主義の時代には言い憎いことだが、
リーダーシップの要件として考慮に入れておくべきことだろう。


もちろん頼朝の資質にも大リーダーとなるものがあった。

その一つは「可愛げ」ということである。

父の義朝が特に愛したのは嫡男ということでわかるが、平治の乱の後で、平家の捕虜になった時も、
関係者はみんなその「可愛げ」なところに感銘して助命運動をしてくれているのだ。

たとえば平家の弥兵衛宗清に預けられている時、「小刀と板が欲しい」と言った。
十四歳の少年が退屈して何か彫りたいのかと思ったら、

頼朝少年は「父の四十九日も近いが何もできないので、卒都婆(そとば)を作り
御仏の名を書いてとむらいたいのだ」と言う。

また宗清が知り合いの僧侶を呼んであげた時、頼朝は着ていた小袖を脱いでその僧侶の前に置き、
「今はこれだけしか差し上げられないけど」と言って差し出した。
おとなしやかな十四歳の少年のそうした振舞を見て宗清や僧侶も思わず涙を流したのである。

こうしたことが清盛の継母の池の禅尼をも動かして頼朝は助命された。
大リーダーは子供の時の振舞が敵をも動かす「可愛げ」があったことに注意すべきである。
「可愛げ」がなければ、さっさと首を斬られていたはずなのだ。

しかし武家の総大将になる人が「おとなしやか」とか「可愛げ」なだけでは十分でない。
平治の乱で敗れて逃げる時、頼朝少年ははぐれて一人になった。
それを見つけた落武者狩りの者たちが、子供とみて捕えようとした。

そして頼朝少年の馬の口を取って抱き下そうとした時、
頼朝は源氏重代の髭切丸の名刀を抜いてばっさりその男の頭を切り割った。
次の男がまた馬の口に取りつくところを、その腕を切り落としたのである。

その後に大伯父の政家がやってきて、一緒に父の義朝に追いついたのであった。

少年であっても、自分の馬に取りつく武者を二人まで直ちに切り捨ててその場を逃れたのだ。
こういう気性を内に秘めて、しかも「おとなしやか」だったのである。

激しい英気が表に出ず、普段は「可愛げ」のある少年だったところに、
頼朝という人物の大きさを見る気がしてならない。


            <感謝合掌 平成27年9月16日 頓首再拝>

「蒋介石」 - 伝統

2015/09/17 (Thu) 19:47:11


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


第3人目 「蒋介石」

有名なローマの諺に
「ライオンに率いられた羊の群は、羊に率いられたライオンの群より秀れている」
というのがある。ローマは元来上杉謙信の領地ぐらいの小さな国だった。

それが絶えず戦争を繰り返しながら大ローマ帝国に成長したのだ。
だから戦争の経験はまことに豊かである。
その結論が「リーダーが何より大切なんだ」ということであった。
弱兵でもリーダーがよければ勝てるし、強兵でもリーダーが駄目なら敗北するのだ。

 
この諺を思い出すたびに私は蒋介石と日本軍のことを思い出す。

シナ事変(戦後は日中戦争とも言う)が始った時、私は小学校1年生だった。
そして日本が敗戦した昭和20年には私は旧制中学3年生だった。
8年間以上、物心のつく時期を通じて蒋介石は日本の敵であった。
南京陥落のお祝いの旗行列や堤燈(ちょうちん)行列を見に行った記憶がある。

シナ大陸では日本軍は連戦連勝であった。
いつも1対10ぐらいの少ない数の軍隊でも日本軍は強かった。

たとえば南京から逃げた蒋介石が次に首府にした漢口の攻略戦は、
日本軍も戦死者約7千人、負傷者約2万5千人を出す激戦であったが、
シナ軍が棄てて逃げた戦死者は約19万5千5百人、捕虜約1万2千人、負傷者不明であった。

漢口から蒋介石は更に山奥の重慶に逃げた。
日本軍の爆撃機はそこまでの距離は遠いので戦闘機を連れてゆくことができず、
はじめのうちソ連製の戦闘機によく落とされた。

しかしゼロ戦の登場で蒋介石の飛行機部隊は全滅した。
南京には汪 兆銘の親日政府が樹立された。
蒋介石は山奥にひっこんで何もできない。

 
しかし彼は降参しなかった。
彼には勝つための「生き筋」が見えていたからである。

その「生き筋」とは――日本にとっては「死に筋」だったのだが――日本はそのうち、
アメリカやイギリスと戦争することになるだろうという洞察である。

日本にはリーダーがいなかったのだ。
シナ事変が始まった時の首相は近衛文磨であるが、その後、米英と開戦するまでの4年間に、
内閣が6回変わって、7回目に東條大将が首相になって、大東亜戦争の勃発となる。

1年足らずで次から次へと内閣が変わる日本を蒋介石はじっと見ていた。
日本の国の方針に一貫性がなくぐらぐらし、しかしますます反アングロ・サクソン的になり、
アメリカを怒らせている。

いな、正確に言えばアメリカやイギリスが蒋介石を支援してくれているので、
日本も反米・反英の方に進まざるをえない。
しかし、この方向を転換させる強力なリーダーがいない。

それを蒋介石はしっかり見ていた。

日本の上層部は羊の群のようにまとまりがないのである。
戦場の日本軍の兵士たちはライオンの群だ。
シナ軍は蒋介石という一匹のライオンと羊の群の如く弱い兵士だった。
しかし結果はローマの諺の如くになったのである。

この前の戦争中、日本には本当のリーダー、
つまり一匹の指導的ライオンがいなかった例を一つ示すことにしよう。
当時ドイツの空軍に使われていたエンジンはダイムラー、ベンツ社のDB600型系のエンジンである。

これは液冷式でその性能のよさは世界に知られていた。
日本の飛行機用エンジンは空冷式であったから、出力の大きい液冷式の
エンジンの技術導入をする必要があった。

当時のドイツは日本の同盟国であるからライセンスを売ってくれることに同意した。
値段は今のお金で十数億円である。

ところが日本の陸軍と海軍は全く連絡し合わず、
同じエンジンに対し別々に同じ金額のライセンス料を払っているのだ。

しかもこのライセンスで製造する会社は、陸軍は川崎航空機、海軍は愛知航空機と別々なのである。
二つのメーカーは図面の検討も説明書の翻訳も別々にやらねばならなかった。
技師やお金の無駄遣いも甚だしい。

結局、このエンジン本来の性能を十分発揮できるものができなかった。
そして陸軍では「飛燕」に使う予定だったが、ついにこのエンジンは完成しなかった。

これは極端な例だが、外務省と軍部の話が合わず、陸軍と海軍の話も合わず、
総合的なリーダーは不在であった。

陸軍は海軍はあてにできないからと言って、
陸軍だけで航空母艦や潜水艦の製造に乗り出したのだから話にならない。

戦場で戦う日本軍の将兵は、世界一強いライオンたちであっても、
上層部はまとまらない羊の集団だったのである。

こうして蒋介石は日本に勝つことができた――と言っても戦場で勝ったわけではないが、
日本の方で米英を敵に廻して負けてしまったのだ。

蒋介石の洞察と、その自分の洞察に対する信念の固さは感服に値する。

しかしその蒋介石も毛沢東に負けてしまった。それは何故か。
これは蒋介石の責任ではなく、ソ連のスターリンとアメリカのトルーマン大統領の差である。
日本の敗戦後、スターリンは毛沢東の共産軍に軍事援助を惜しまなかった。
しかしアメリカは蒋介石に対する軍事援助をやめてしまったのだ。

シナの状況をよく知るウェデマイラー大将の勧告は無視されたからである。
リーダーとしてはスターリンの方がトルーマンより上だったと言えよう。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/3.html

            <感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>

指導者の条件36(衆知を集める) - 伝統

2015/09/18 (Fri) 19:30:06


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に人の意見に耳を傾けなくてはならない。
信玄在世中は諸国に恐れられた武田氏も、
勝頼の代になって、文字通り跡形もなく滅びてしまった。

その武田氏の滅亡を決定的にしたのは、
何と言っても信長、家康の連合軍を相手に大敗を喫した長篠の合戦である。

この時、信玄以来の名将と言われるような武田方の老臣達は、
戦いの不利なことを説いて、勝頼になんとか合戦を思い止まらせようとした。

しかし勝頼はそれを聞き入れず、最後は家伝来の家宝、
源氏の白旗と無盾の鎧甲に対して戦いの誓いを立ててしまった。
この御旗無盾に対する誓いは絶対で、誰も口出しを許されない。
いわば問答無用というわけである。

そして合戦に入った結果、戦いは一方的で、譜代の名将も皆討死、
勝頼は辛うじて身をもって逃れたのであったが、
これを機に武田家は急速に滅亡に向かうのである。

勝頼は一面、父信玄以上の勇将で、
個々の戦いにおいては、非常な戦果をあげたことも少なくなかったという。

それにもかかわらず、ああした悲惨な最期になったのは、
彼が自説に固執し、家臣達の意見を聞かなかったからではないだろうか。

もちろん、戦いの相手の信長も、かつては家臣達の意見を無視して、
今川義元に勝利した経験を持っている。

しかし、絶体絶命の境地から死中に活を求めた信長の場合と、
自ら戦いを求めていった勝頼の場合とでは、同じように家臣達の意見を無視するので
あっても、大きな違いがあると言えよう。

やはり大将というものは、誤り無く事を進めていくためには、
出来る限り人の意見を聞かなくてはいけない。
一人の知恵というものは、所詮は衆知に及ばないのである。

人の意見を聞かない指導者はともすれば独断に陥り、誤り易い。
また人心もそういう指導者からは次第に離れていってしまう。

それに対して、人の意見に耳を傾けて、衆知を求めつつやっていこうとする人は、
それだけあやまちをおかすことも少ないし、そういう人に対しては
皆もどんどん意見を言い、また信頼も寄せるようになってくる。


信長でも、桶狭間では独断専行したけれど、
いつもいつもそのようにばかりしていたのではなく、
やはり聞くべき時には秀吉始め家臣達の意見を求めているのである。

まして、普通の指導者たる者は、
常に衆知によってことを行うことを心がけなくてはいけないと思う。

            <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

「ビスマルク」 - 伝統

2015/09/19 (Sat) 19:45:13


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第4人目 「ビスマルク」

ナポレオン以降のヨーロッパで、万人が天才と認めるリーダーは
オットー・フォン・ビスマルクである。

面白いことに彼が生まれた1815年(徳川11代将軍・家齋の文化12年)は、
ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れてセント・ヘレナ島に島流しになった年なのである。
フランスのナポレオンが舞台から去り、ドイツのビスマルクがこの世の中に生れ出たのだ。

ビスマルクが生れた時、ドイツは一つの国ではなかった。
38の小さな王国や侯国に分かれていたのである。

宗教改革の発生地であったドイツは、その後、三十年戦争という激烈な宗教戦争の主戦場となり、
人口も四分の一とか五分の一とかになってしまった。

カトリックとプロテスタントの諸侯は、そのうち殺し合いにうんざりして、
1648年(徳川三代将軍・家光の慶安元年)に平和条約(ウエストファリア条約)を結んだ。

その条約の根本方針は、「君主の宗教はその領民の宗教とする」という
極めて非宗教的な取り決めであった。

このようにしてドイツは38の小さな諸侯国が、しかも宗教が違う小国が
市松模様(いちまつもよう)に入り混じって存在することになり、
統一された国家ではなかったのである。

日本にたとえてみると、幕末の頃、300諸侯と言われていたから
大名の数はドイツの十倍ぐらいあった。国土の面積をほぼ同一とすると、
日本の大名領を十個ぐらいずつまとめたのがドイツの38の小国ということになる。

日本には大名の上に幕府があったが、ドイツにはそれがない。
つまり秀吉統一以前の戦国日本に似たところがあった。

しかしお互いに戦争していたわけではなく、フランクフルトに、
こういう小国が集まって連邦会議を開いて相談し合って事をすすめようとしていた。

そしてこのフランクフルト連邦会議を牛耳っているのはオーストリアであった。

このような状況の時にビスマルクが政治に登場し、このフランクフルト連邦会議に
プロシア代表の大使として8年間ほど活躍することになる。

プロシア(プロイセン)というのはベルリン・ブランデンブルグを中心とする
北ドイツの王国で、38小国の中では、南のミュンヘンを中心とする
バイエルン(ババリア)王国と並んで、最大のものであった。

ヨーロッパの真ん中にあるドイツが、このように多くの小国に割れているのは、
周囲の大国たち---ロシア、フランス、イギリス、オーストリア---にとっては
甚だ都合のよいことであった。

ドイツが一つにまとまられたら周辺諸国はこわい。
分裂させておくに限る、というのが諸大国の腹の中であった。
そしてヨーロッパ中の誰も、ドイツの統一はありえないと思っていた。

ところがフランクフルトの連邦会議に出ているうち、ビスマルクには一條の光が見えた。
それは「ドイツ統一は可能である」という光であったが、
それは、ほかの誰にも見えない光であった。

逆に言えば、他の誰にも見えない光---生き筋---であったからこそ、
ビスマルクは諸外国から大した邪魔を受けず、奇跡の如く、
19世紀後半にドイツ帝国を統一することができたのである。

これはある意味で信長の「桶狭間の急襲」にも比較されよう。
天才的リーダーのみに見える「生き筋」が見えたのである。
ではその「生き筋」とは何であったか。

それはまずオーストリアの勢力をドイツから一掃することである。
次いでフランスの勢力をも一掃し、アルサス・ロレーヌ地方を取り戻すことである。
これによってドイツ帝国は建設される。そして戦争はヨーロッパ内で不要になる。

そのためにはロシアと仲良くし、イギリスとの友好関係を維持し、
この二国にはドイツのことに口出しさせないようにする。

この基本方針が頭に出来あがると、彼は魔法のような外交手段と武力で、
19世紀の奇蹟、ドイツ帝国建設に成功するのである。

まずクリミア戦争(1854~56)ではロシアに恩を売る。
この戦争はイギリス、フランス、サルジニアがロシアに対して行った戦いである。
ビスマルクは断乎としてロシアに対して好意的中立を行い、ロシアに感謝された。

次にシュレースウィヒ・ホルシュタインという二州を
デンマークから取るためにオーストリアを誘った。そしてデンマークに勝つと
直ちにその二州をプロシアのものにし、キール軍港も手に入れた。

オーストリアは当然恨む。
しかしオーストリアと戦う際にはフランスが口を出さないようにしておかなければならない。

それでビスマルクはナポレオン三世と密約をする。
「フランスが後にベルギーとルクセンブルクを合併する時はプロシアは反対しない」
そしてオーストリア戦争の準備に全力をあげる。

モルトケ参謀総長を鉄道会議の議長にして、兵員輸送が迅速確実になるようにしておく。
そしてオーストリアを怒らせて開戦させ、7週間で完勝すると、
一文の賠償金も、一平方メートルの土地もとらずに撤兵する。

この早さと無欲さのため、どの国も干渉できない。
そしてその一方ではドイツ国内の小国や自由都市を遠慮なく合併したが、
ドイツ国内のことというのでどの国も口出しすることができなかった。

 
次にフランスを怒らせ開戦させる。
その時、フランスの「ベルギー・ルクセンブルグ合併案」をイギリスの新聞にバラしたので、
イギリスはプロシアに好意的中立となる。

オーストリアも敗戦した時に土地も金も取られなかったのでビスマルクに恩を感じている。
ロシアも好意的中立。戦場では十分に準備したプロシア=ドイツ軍が圧勝。

パリ郊外のベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の式典が行われる。
1871年、つまり明治4年のことである。
統一ドイツ帝国は明治政府よりも新しかったのだ。

38小国を一つの大帝国にまとめる早さは正に奇跡としか言えないし、
それはビスマルクのリーダーとしての天才を示す以外の何物でもない。

            <感謝合掌 平成27年9月19日 頓首再拝>

「石田三成」 - 伝統

2015/09/20 (Sun) 19:50:11


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


第5人目 「石田三成」

第二次朝鮮出兵の途中で秀吉は死んだ。
その後の政治は五大老、五奉行で行うことになった。
念のために言っておけば五大老とは徳川家康、前田利家、小早川隆景(彼の死後、上杉景勝)
毛利輝元、宇喜多秀家である。

いずれも代表的大大名であり、豊臣政権の実力ある相談役ではあっても、
日常の実務を行うのではなかった。
日常の政治事務、つまり内閣に当るような仕事は五奉行がやっていた。

事実、五奉行は秀吉の政治執行機関であるから、秀吉が実質的に天下統一を成しとげて
関白になった天正十三年(1585年)頃にすでに発足している。

これに反して五大老の方は、秀吉が晩年に、自分の幼児秀頼の後見を頼む
という意味で作ったので、文禄四年(1595年)のことであった。

つまり五大老・五奉行といっても、五奉行の方が十年も古い制度であり、
秀吉が関白になってからのすべての行政は、この五奉行が中心になって行われたのである。

豊臣政権を会社にたとえるならば、秀吉が社長で五奉行が取締役である。
この取締役のうち、石田三成の実力はぬきん出ているから、
石田三成がただ一人の専務取締役、他の四人が常務取締役に当るといってよいであろう。

五大老は大株主の相談役である。
秀吉の部下の諸大名は、福島正則でも加藤清正でも、
それぞれの支店をまかされた取締役支店長ぐらいである。

本店の業務は五奉行がやる。
その筆頭専務が石田三成と考えておけばだいたいの見当がつく。

もちろん石田三成も戦国の武将であるから戦場でも大いに働いている。
柴田勝家を破った賤ヶ岳(しずがだけ)の合戦でも大谷吉継らと奮戦している。
後世「賤ヶ岳の七本槍」というのもかなりいい加減で、
福島正則も、大谷吉継も石田三成も入っていない。

入っていないのは後に徳川家に潰されたからであろう。

一説には元来は「賤ヶ岳の九本槍」といわれ、
これには石田三成も大谷吉継も入っていたとされるが、
関ヶ原の戦いで家康と戦った人間をたたえることは徳川時代には差し障りがあったのだろう。

事実、徳川時代に石田三成をほめた文献は皆無と言ってよく、
例外的に評価しているのは水戸黄門こと徳川光圀だけである。

彼はこう言っている。

『三成は憎むべき人間でない。人はそれぞれ自分の主君のために忠義を蓋すということなのだ。
志を立てて、事をなした者は、たとえ敵であっても憎むべきではない。
これは、君臣ともに心得ておかねばならぬことである。』

水戸光圀は何しろ御三家の人だから、三成を弁護するようなことを言っても
幕府のおとがめはなかったのである。

三成は堺奉行をやっていたが秀吉の九州征伐に従軍、
25万の大軍のために―――日本はじまって以来の大軍のために―――食糧・弾薬など、
少しの遅滞もなく補給した責任者の中心は三成であった。

日本軍は明治以来、兵站(へいたん)、つまりロジステックスを疎かにする悪癖があり、
この前の戦争でその弱点は極限に達したが、その一因は、石田三成のような才能を
顕彰する習慣が、徳川時代に消されていたことにあるのかもしれない。

 
また秀吉の小田原征伐、つまり北條攻めの時も、三成は館林城や忍城(行田)を落としている。
あざやかな戦勝とはいかなかったように見えるが、秀吉は満足して、
その後の陸奥の検地を三成と浅野長政にまかせている。

秀吉は朝鮮遠征軍にも三成を派遣しているから、
秀吉の目には三成は優秀な参謀将校に見えていたに違いない。

なかでも三成の能力を十分に発揮したのは、秀吉死後に、
朝鮮にいた全部隊を無事に引き揚げさせたことである。

太閤死後の状況の中で、しかも軍事情勢不利の中で、大量の船を手配するなど、
一切の指揮をとったのは三成であった。

秀吉から見ると戦場に強い武将などいくらでも見つけることができた。
しかし検地などの行政事務や大軍を動かすロジステックスをちゃんとやれる部下こそが
貴重だったのだ。それで三成は参謀本部勤務になる。

 
それが朝鮮で明の大軍を相手に死闘をやってきた実戦部隊長たちの気にくわない。
秀吉死後の加藤清正や福島正則の三成に対する反感はそこにある。
家康はその亀裂を見て取り、そこに楔(くさび)を打ち込み、豊臣家を潰したのである。

 
秀吉が死んだあと、秀頼の天下になると誰が信じたろうか。
いつまでも家康が秀頼の下にいると誰が信じたろうか。

家康はすでに250万石だ。前田家だってその半分にも及ばない。
家康を倒さなければ豊臣家の明日はない、と確信したのは三成一人である。

 
関ヶ原の戦いは三成が十分勝てる戦だった。
明治の日本陸軍の指導にやってきたメッケルも、関ヶ原の布陣を見て、
「西軍の勝ちだろう」と言った。

敗れたのは小早川秀秋の裏切りだけのためである。
更に言えば、グズな毛利輝元が大坂城から出てこなかったからである。

20万石足らずの中大名の三成が、十倍以上の大大名の家康を向うにまわして、
十分勝てる戦争を構築したのだ。三成と一緒に仕事をしたことのある人は彼の側についた。
いざ敗れる時も、石田軍は最もよく戦った。

これは三成がいかによい殿様であったかを示すものである。
とにかく「天下分け目の戦」をしたことのある日本人は三成と家康しかいないのである。

            <感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>

指導者の条件37(出処進退) - 伝統

2015/09/21 (Mon) 18:44:12


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に出処進退を誤らないことが大切である。

明治維新は近代日本の出発点であるが、その過程には、多くの戦いもあり、また犠牲もあった。
しかしまた、見方によっては、一国が大きく脱皮し、新しいスタートを切るという大事業が、
あの程度の争いや犠牲で達成できたというのは驚くべき事ではないだろうか。

うっかりすれば、国内が真っ二つに分かれて戦火を交え、
外国の植民地と化すといったおそれもあったわけで、そうしたことなしに
局地的な争いだけですんだことは誠に幸いであった。

その原因は大きく言えば、日本の良き伝統というものが働き、
当時の指導者の人々の多くが意識するとしないとにかかわらず、
そうした伝統にのっとり、日本のためということを考えて行動したからだと思う。

その中でも特筆されることの一つとして、いわゆる大政奉還ということがある。
今まで徳川幕府が握っていた政治の実権を、本来の姿に戻して天皇にお返しするということである。

これによって基本的に平和のうちに政権の交代が行われることになったわけで、
こうしたことは民主主義になってからはともかく、
封建時代としては世界にもあまり例を見ないのではなかろうか。

この大政奉還は、いわば当時の衆知の所産であろうが、
何と言っても最後の断を下したのは、時の将軍徳川慶喜その人だったと思う。

慶喜については、色々違った評価もあるようだが、
この場合の彼のいわゆる出処進退をあやまたない決断が、
明治維新を成功させる一つの大きな力になったと思う。

昔から、出処進退をあやまたないということは極めて大事なこととされている。

進むべき時に進み、退くべき時に退くということが、
個人の身の処し方としても、戦を行うような場合でも必要なのであり、
特にそれは指導者にとって大切な心構えだと言えよう。

しかし、それでいてこの出処進退をあやまたないということは誠に難しい。
特に、進むことは比較的易しいが、退くことはこれは人情としてもなかなか出来にくい。
けれども、やはり退くべき時に退くということが出来なくては、本当に優れた指導者とは言えない。

古来戦でも、名将といわれた人は、退く時にその真価があらわれたという。

この場合の慶喜の偉さも、日本全体のことを考え、
一慶喜、一徳川家という私を捨て、身を退いたというところにあり、
そこに指導者として学ばねばならないものがあると思う。

            <感謝合掌 平成27年9月21日 頓首再拝>

「変えたらいかんものは、変えたらいかん」 - 伝統

2015/09/22 (Tue) 19:04:14


         *Web:東洋経済ONLIN(2015年6月11日)より


松下幸之助の「生きていく上で大事な3要素」

松下幸之助は、経営を進めていくなかで、
普遍性と時代性、そして国民性が大事だと繰り返し述べている。


《「経営理念を貫かなければ、会社は潰れてしまう」》

昭和49(1974)年秋、少し肌寒く感じるようになった京都の私邸、真々庵の座敷で庭を眺めながら、

「会社の経営でもなんでもそうやけど、普遍性というか、そういうものは絶対に変えずに、
貫く棒のように守り続けると。そういうことが必要やな。まあ、そうやな、基本理念やね。

会社経営の理念、それはどのような時代になっても守り抜かんと、会社はすぐ潰れてしまう。
経営の拠りどころやな。迷ったときにそこに戻って、そこからどうすべきかを考える。
そういうことが大事や。

だから、経営理念というか、基本理念、これは変えたらいかん。
消してしまったらあかん。変えたらいかんものは変えたらいかんのや。
それを変えたり、消したりすると、迷ったとき、どうしたらええかわからんくなる」

「キリスト教が、今日まで大きな発展をしとるわね。仏教もそうやな。
もう、2000年以上も続いておるのは、今もって信者の皆さんが、キリストさんはこう言うてはる、
聖書にはこう書いてある、お釈迦さんはこう言うてはる、仏典にはこう書いてある、そう言うやろう。

禅宗のお坊さんやキリスト教の神父さん、牧師さんの話を聞いても、皆、そういう言い方やな。
だから、自分はこう思うんや。つねに、キリストさんとか、お釈迦さんとか、そういうものを
踏まえて話をする。決して、キリストさんを否定したり、お釈迦さんを無視したりせんわな。

だから、キリスト教も、仏教も今日まで続いておるんやね」


会社を永続、発展させるためには、経営基本理念を守ること。
それが、変えられないものは変えられない、変えていけないものは変えていけない。
守り貫けということだろう。


「けどな、変えんといかんものも出てくるわけや、早い話。時代が変わるからな。
時代に合わせるということも、経営で考えておかんと、言うところの、時代遅れということになる。

戦前と今では、世の中、全然違う。
社会環境ひとつとっても、とても大きな変わりようと言える。

わしのやってる電器製品でも、戦前では想像もつかんようなものが、
このところ、生まれてきておる。自動車も、ようく走るようになったし、電話も便利になった。

そういう時代の変化、人々の考え方の変化に合わせて、経営のやり方、進め方は、変えんといかん。
日に新たという、そういう経営をやらんといかんということや」


変えるべきもの、変えなければいけないものは、
時代に合わせ、どんどん変えていかなければならない、
そうしないと会社の発展はない、ということだろう。


《「国民性を考えんといかん」》

「もうひとつはね、国民性を考えんといかんということや。
まあ、ウチの会社も世界中に会社を作ったり、工場を作ったりしておるけどね。
その国の国民性を考えて、その国の人に合うように、経営をせんと。

国によって、考えや風習が違うからな。マレーシアのうちの会社には、モスクがあるんや。
あそこはマホメット教の人たちが多いからな。
そういうふうに、マレーシアの人に合わせんとな。

そう、わしの水道哲学、あれ、わしがそう名付けたわけではないけど、
一般的に、そう言われているんやけどね。

道端にある、よその家の水道の蛇口をひねって、水を飲んでも咎める人はいない。
なぜかというと、水道の水は、タダではないけど、安いからや。
水道の水は、安全で、安くて、たくさんある。

だから、いいものを安くたくさんつくり、この世から貧をなくすことが、産業人の使命やと。
そういうことを話したら、みんなが『松下さんの水道哲学』と言うようになった。

けどこれを、インドネシアで『水道哲学』と言うたら、
『なに言うてますか、水はここでは貴重なもの、高価なものです』ということや。

それでは『日本の水道と同じ、安くて、豊富で、いいものは何ですか』と聞くと『バナナです』と。
そうすると、インドネシアではバナナで話をせんといかん。
まあ、それぞれの国柄、風習、考えをもって、経営をせんといかんということや」



普遍性、時代性、国民性は、なにも経営だけではない。
国家にも、人生にも、この3要素は大事ではないかと思う。

http://toyokeizai.net/articles/-/70376

            <感謝合掌 平成27年9月22日 頓首再拝>

「本多静六」 - 夕刻版

2015/09/23 (Wed) 18:30:56



            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第6人目 「本多静六」

リーダーには国を導く首相から、プロジェクト・チームの中心人物に至るまでいろいろある。
『孫子』の教えなどは大部分が首相級の人に対する教訓であるが、
もっと小さなグループでのリーダーの例をあげてみよう。

 
本多静六は、極貧の中から身を起こして、東大最初の林学博士になった人である。
東大教授として広く活躍したが、全国の国立公園や日比谷公園など、
本多博士の力によるものが多い。

個人的には、多数の学術書や啓蒙書を出した著述家であると同時に、
経済的にも巨額の私産を作り、一時は淀橋区(だいたい今の新宿区)で
一番の高額納税者でもあった。

そして晩年は老夫婦が暮らしてゆくだけの資産のほかはすべて
―― 今のお金で何十億か何百億円相当 ――をすべて公益事業に寄付した人である。

本多博士がなくなられたとき、中央大学総長の林頼三郎博士は
「本多博士の前に本多博士なし。本多博士の後に本多博士なし」と書いた。
そんな「人生の達人」である本多博士の中年の頃の話である。

大東京の水源地である多摩川上流の水源林(すいげんりん)は、
今でこそ素晴らしい大森林であるが、明治30年頃は濫伐と焼畑のため荒廃寸前で、
土砂は流れるし、水源は涸渇するし、一寸した雨でも洪水になるといった情況であった。

それでも当時の東京府に委託された本多博士は、帝室林野局長官の岩村通俊と交渉し、
八千二百余町歩の広大な森林を、一町歩八十二銭というタダみたいな値段で
東京府に買い取らせることに成功した。

その大成功に引続き本多先生は東大教授のかたわら、
東京府水源林の経営監督まで引き受けさせられてしまった。

ここで問題になったのは雑木処理のための製炭事業であった。
つまり木炭の製造と販売の問題である。

いろいろ苦労しながら十年かけて、ようやく軌道に乗ってきた時に、
府から市に経営移管されることになったのである。
そこに浮び上がったのは炭焼き人夫の「下がり」処分であった。

元来、官庁の会計規則では出来上った炭にしか代金を支払うことはできない。
しかし当時の炭焼人夫は資力がないから、何から何まで立替えて前渡しを
してやらなければならなかった。
その家族の病気の世話から味噌・醤油まで前貸ししてやったのである。
これを当時は「下り」と言っていたのである。

それは売却利益の中で徐々に消すことにしており、
当時はその「下り」も2、3年で完全に帳消しになる予定であった。
ところが急に移管引き継ぎということになり、会計規則違反の赤字が出ることになった。

それは当時としては相当大金の7千50円10銭(家が5軒建つぐらい)という額である。
本多博士には法規上の責任はないが、このままだと自分の監督下にあった営林署長以下が
処分を受けなければならない。

それで本多博士は全部、自分の財産で支払うことにしたのである。

これを聞いた署長や技師長も東京府から出された解任手当をそっくり出してくれたので、
本多博士は結局、4千8百37円96銭を出すことで一件落着し、
問題は一切表面化せず、署長以下も無事だったのである。


本多先生がその一生にわたり巨大な業績を残されたのは、
その下で働く人が、本多先生を信ずることができたからであろう。

森林事業には何だかんだと金の問題が出る。
規則一本で解決できれば申し分ないが、上記の例のような場合は、汚職でないのに、
会計規則違反で罰を受けることもある。

そんな時に私財を以って救ってくれる人が上におれば、誰でも安心して仕事ができる。

ここに私有財産の意味が見えてくる。
私有財産で護ってくれる人がついている時は、
能力ある人が十分に能力をふるうことができるのである。

 
その本多博士にもこんな話がある。

35歳の時に、すすめる人があって衆議院に出馬しようかなと思ったのである。
その時、本多博士は恩師の背水将軍中村弥六先生に相談に行った。
その時の中村先生の忠告は大要次のようなものであった。

「いろいろな連中と会食などする時、みんなの分をそっと払って知らぬ顔ができるかな。
月に5百円、年に約6千円いるよ(今なら家が3軒建つぐらいの金額)。
そうすれば数年後には幹部にもなれるし、大臣にもなれるかも知れない。

しかし自分の意見なんかそんなに通らないし、虚名とひきかえに
元の素寒貧(すかんぴん)に逆もどりするかも知れないが、その覚悟はあるかね。」

そう言われて本多博士は当時の代議士になるのをやめた。

似たようなことをして、戦後に外務大臣になった人に、
実業家で大金持の藤山愛一郎という人がいる。

自腹を切る覚悟ができている人は、その範囲のグループではリーダーになれるであろう。
自腹を切れない人は、金を出してくれる人をスポンサーに持つ才能が必要である。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/6.html

            <感謝合掌 平成27年9月23日 頓首再拝>

「ナポレオン」 - 伝統

2015/09/24 (Thu) 20:07:16


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

第7人目 「ナポレオン」

ナポレオンが大リーダーであったことについて今更言うのもおかしな話である。
その大リーダーがなぜ終わりを全うしなかったか。
こっちのほうが参考になるかもしれない。

先ず第一になぜナポレオンが最初の頃に勝ち続けることができたのか。
これはなぜフランス革命が成功したか、ということにも関係がある。

フランス革命で王様が首を斬られた時、周辺諸国はみなゾーッとした。
周辺諸国はみな王様や皇帝がいる国ばかりだったからだ。

そこでフランス革命を潰そうと各国は軍隊をフランスにさし向け、
革命勢力を潰そうとしたのである。
しかし成功しなかった。

というのは革命を起こしたフランスの兵隊は徴兵による国民軍であるのに反し、
フランスに攻め込んだ各国の兵隊は傭兵であったからである。
徴兵と傭兵はどちらが強いか。それは断然、徴兵のほうが強い。

徴兵の方は国家意識がある上に、逃げて故郷に帰るわけにいかない。
逃げて帰ったら警察が待っている。

傭兵の方は逃げることができる。
逃げ帰って別の王様に傭われることもできる。

これが革命フランス軍が強かった理由である。
ナポレオンはこの徴兵による国民軍を指揮する天才だったのだ。

徴兵に対しては指揮官は相当無理を要求できる。
ナポレオン軍の行進速度は傭兵を持つ軍隊よりもはるかに速く、
それで有利な戦闘をすることができたのであった。

ナポレオンは「足で戦う」と言ったそうだが進軍速度が当時の常識を超えていたのである。

 
第二に、はじめの頃の戦闘はそれほど大軍が衝突することはなかった。
ナポレオンにしても三万五千人から五万人ぐらいの兵隊を率いて勝ちまくっていたのである。

ナポレオンは天才的な頭脳で、末端の隊長の名前まで覚えていて、
その固有名詞を使って命令を出せたという。
直接に名指しで命令された将校は奮い立たざるをえない。

 
これがナポレオンの勝利のもととなった重要な理由であった。

しかしこの有利さがなくなった時に、ナポレオンは勝てなくなるのだ。
最初からこの有利さのなかった海軍では、フランス革命軍は常にイギリスに敗れている。

海の上では脱走兵が出ないから、革命軍の徴兵の方が有利ということはなく、
指揮官と船員の熟練度と能力が物を言う。
フランスにはネルソンに匹敵する艦隊司令官がいなかった。

 
先ず第一に徴兵の有利さであるが、そのことは周辺諸国にもわかってくる。
他の国でも徴兵をやるようになれば、フランス軍だけの有利さは消える。

それまでの戦争は王様同士の戦争だったのに、フランス革命軍とナポレオンの出現で、
ヨーロッパ中に国民軍が出来たのだ。
国民軍VS国民軍の戦いの時代に入ってしまったのである。

 
第二に、国民軍の時代になると、一つの戦場で戦う兵士の数も膨大になる。
傭兵の時代なら王様の財布の都合で、そんなに大軍は作れなかったのに、
国民軍の時代になれば話は違ってくる。

ここに私の言う「蚤の原理」が働き出すのであるが、
ナポレオンはそれに死ぬまで気付かなかった。

「蚤の原理」とは何か。
蚤は体の長さの五十倍ぐらいの距離を跳ねることができる。

では猫と同じ形をした蚤を作ったら、やはり体の長さの五十倍も跳ねることが出来るか。
馬の大きさの蚤を作ったらどうか。象の大きさの蚤を作ったらどうか。
絶対に体の五十倍の距離を飛ぶことはできない。

象の大きさにしたら身長の2倍の距離も跳べないであろう。
マンガの世界なら象の大きさの蚤を画くこともできるが、
実際に象の大きさの蚤を作ったら足が折れてしまう。跳ねるどころではない。

 
軍隊の大きさもそうである。
ナポレオンはあまりにも頭脳優秀であったために参謀を必要としなかった。

せいぜい命令書を書く事務的なことをする将校とか、
食糧などの調達をする兵站関係の将校がいたにすぎない。
それでよかったのだ。

ところがロシア遠征の時は、60万近い軍隊を連れてゆく。3万の軍隊の時の20倍である。
大砲や鉄砲や将校の数を二十倍にすればよいというものではないのだ。

「蚤の原理」が働くのである。
どんな天才でもそんな大軍を一人で指揮し続けることなどできないのである。

これに最初に気付いたのはナポレオンに最初の頃は敗けてばかりいた
プロシア軍(ベルリンを首府とする北ドイツ軍)であった。

ナポレオンのような天才に対しては、よく訓練されて、
質の揃った将校群を作って対抗することにしたのであった。
これが有名なドイツ参謀本部の誕生である。

個々の指令官は天才でなくてもよい。
十分検討された作戦を整然と実行できる将校団が重要なのである。

ロシアから敗退したナポレオンは、直ちに50万の大軍を率いて再びドイツへ進攻する。
そしてライプツィヒ付近で五、六回戦う。

いずれもその戦場では勝ったのであったが、ナポレオンの50万の大軍は5万になっていて、
パリに逃げ帰らざるをえなかった。プロシア参謀本部の作戦勝ちである。

そのあとのパリ攻防戦でも同じ“テ”でやられ、
エルバ島から復帰してからのワーテルローの戦でも同じ“テ”でやられ、
ナポレオンはついにセント・ヘレナ島に流されて生涯を終えることになった。

「蚤の原理」を誰かが教えてやるべきだった。


            <感謝合掌 平成27年9月24日 頓首再拝>

変革はたった一人から始まる - 伝統

2015/09/25 (Fri) 18:19:00


          *メルマガ「人の心に火を灯す(2014.10.27)より

   (志賀内泰弘氏の心に響く言葉より…)

   ある年の4月、底抜けに明るい女子社員が入ってきた。

   Kさん、20歳。

   総務課へ配属された。

   お客様なら「いらっしゃいませ!」、
   他の課員なら「こんにちは!」と大声で挨拶する。

   あまりの声の大きさに、一歩退いてしまうほど。

   まるで、威勢のいい魚屋さんだ。

   たぶん新人なので、人事課の新人研修をバカ正直に守っているのだろう、と思っていた。

   その後も、その勢いは止まらなかった。

   Kさんは、ビルの廊下やエレベーターの中で、すれ違う人すべてに、

   「こんにちは!」

   と連呼する。

   正直、少し戸惑っていた。

   同じ会社の中で、全く面識のない人にも「こんにちは」と言うことに、
   違和感を覚えていたのだ。

   せいぜい一礼するくらいが、自然ではないかと。

   ところが、夏を迎える頃、社内に異変が起きた。

   他の課の女性も「こんにちは」と言うようになってきたのだ。

   全く、名前も顔も知らない女性から挨拶されると、ドギマギしてしまう。

   小さな声で、

   「こんにちは」

   と返事をする部課長の姿が、アチコチで見られるようになった。

   それは、人から人へと伝染していった。

   やがて、男性も女性も、平社員も管理職も「こんにちは」と挨拶するようになってしまった。

   すると、あら不思議、いつの間にか私自身が抱いていた違和感もなくなったのだ。

   腐ったみかんが一つでもあると、みかん箱の中は全部腐ってしまうという。

   kさんの場合は、その逆だ。

   たった一人の元気が、全員に伝染したのである。

   それも、1年かかって。

   ふと思った。

   ひょっとして、たった一人の力でも、世の中は変えられるんじゃないかと。
   言い訳していただけじゃないかと。

   会社という組織の中に、長いこと居るせいで、心がくすんでいたのかもしれない。
   翌年もまた、総務課に新人が配属された。

   Kさんの隣に座って、「いらっしゃいませ!」「こんにちは!」と大声が響く。

   パワーは2倍になった。

           <『元気がでてくる「いい話」』グラフ社>

            ・・・

脳力開発の城野宏氏の「変革の指針」の中に次のような言葉がある。

「悪条件の中で建設を推進できる者が真のリーダーである」

リーダーとは、なにも役職が上の人がなるわけではない。

たとえ新入社員であっても、変革をすすめることができる人はリーダーだ。

逆に言うなら、仮に社長であっても、変革することができない人はリーダーとは言えない。

変革とは、時間をかけて一歩ずつ一口ずつ、
自分が先頭に立って、周りを一人ずつ巻き込みながら、実践をくり返すこと。

そして…

いつも、変革はたった一人から始まる。


            <感謝合掌 平成27年9月25日 頓首再拝>

Re: 人の上に立つ者に求められること③ - vcqkzefrMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:11:36

伝統板・第二
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