伝統板・第二

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二宮尊徳(二宮金次郎)③ - 夕刻版

2015/07/16 (Thu) 18:23:01

スレッド「二宮尊徳(二宮金次郎)② 」からの継続です。
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6511555

・・・

二宮翁夜話 巻之三~その1

山内董正(やまうちただまさ)氏が所蔵していた幅があった。

孔子が魯の桓公の廟を見たところ欹器(いき)があった。
孔子は廟を管理する者にこれは何という器か尋ねた。
宥坐(ゆうざ)の器だと答えた。

孔子はおっしゃった。
「私は宥坐の器は虚であれば欹、中であれば正、満つるなら覆ると聞いている。
明君はもって至誠となし、だから常にこれをそばに置くと」と。

孔子は弟子に言った。
「試みに水を注いでみなさい」
そこでこれに水を注ぐとまさしくいっぱいになると覆った。
孔子はため息をついておっしゃった。
「ああ、どうして物で満ちて覆らないものがあろうか。」

子路が進み出て言った。
「あえて先生にお尋ねしますが、満をたもつのに道がございますか。」

孔子はおっしゃった。
「聡明で叡智があってもこれを守るに愚をもってし、
功績が天下を覆うようであっても、譲をもってし、
勇気・力があって世を振るうようでもこれを守るに怯をもってし、
天下を有するようでも、謙をもってする。
これをいわゆるこれを損じまたこれを損じるの道である。」


尊徳先生はおっしゃった。
「この図とこの説は面白いが、満の字の説ははっきりとしていない。
また満をたもつ説は、また尽していない。
論語や中庸の語気とは少しへだたりがあるように思える。
何という書に有るのであろうか。」

門人が言った。
「先生、満の字の説、また満をたもつの法をお聞かせ願えませんか。」


先生はおっしゃった。

「世の中で、何をおさえて満というか。
100石を満といえば、500石、800石がある。
1,000石を満といえば5,000石、7,000石がある。
10,000石を満といえば、50万石、100万石がある。

そうであればどういうのをおさえて満と定めようか。
これが世の人々が惑うところなのだ。

おおよそ書籍でいうところは、皆このように言っているが、実際には行うことが難しい。

だから私は人に教えるのに、
100石の者は50石、1,000石の者は500石、
すべてその半分で生活を立てて、その半分を譲りなさいと教えている。

その人の分限によってその中とするところは、各々異なるからである。
これが「允(まこと)にその中を執(と)れ」と中庸にいうところに基づいているのだ。

このようにすれば、各々明白であって迷いもなく疑いもない。
このように教えなければ用を成さないものだ。

私の教えでは、これを推譲の道という。
すなわち人道の極である。
「中であれば正しい」というのにもかなっている。

そしてこの推譲に順序がある。
今年の物を来年に譲るのも譲である、これを貯蓄という。
子孫に譲るのも譲るである、これを家産増殖という。

その他親戚にも朋友にも譲らなければならない。
村里にも譲らなければならない。
国家にも譲らなければならない。

資産のある者は確固とした分度を定めて法を立ててよく譲るがよい。」

※「欹器」とは水を入れる器で、空っぽのときは傾き、
半分ほど入れるとまっすぐ立ち、満杯にするとひっくりかえる。
菜根譚:欹器(いき)は満つるを以って覆(くつがえ)る




<関連Web:光明掲示板・第三「傳記 二宮尊徳」>

   <傳記 二宮尊徳 ①>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

   <傳記 二宮尊徳 ②>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

   <傳記 二宮尊徳 ③>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=483

   <傳記 二宮尊徳 あとがき>
      http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=546



<関連Web:光明掲示板・伝統・第一「二宮尊徳(二宮金次郎) (72)」
      http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=45


       伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)
      http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6457816 >

            <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その2 - 夕刻版

2015/07/17 (Fri) 19:16:00


尊徳先生はまたおっしゃった。

世の中の人は、口には、貧富とか驕倹(きょうけん)を唱えるが、
何を貧といい何を富というか、何を驕といい何を倹というか、その理をつまびらかにしない。

天下もとより大も限りがなく小も限りがない。

十石を貧といえば、無禄の者がある。
十石を富といえば、百石の者がある。
百石を貧といえば五十石の者がある。
百石を富といえば千石、万石がある。

千石を大と思えば世の中の人は小旗本という。
万石を大と思えば世の中の人は小大名という。

そうであれば、何を認めて貧富大小を論じようか。

たとえば売買のようなものだ。
その物と価格とをくらべてこそ、安いとか高いと論ずることができよう。
物だけで高い安いを言うことはできない。
価格だけではまた高い安いを論ずることはできないようなものだ。

これが世に中の人が惑うところであるから、今これをつまびらかに言おう。
千石の村で戸数一百、一戸十石に当る、これが自然の数である。
これを貧ではなく富でもない。
大でもなく小でもない、
どちらにも偏らない中というべきである。

この中に足らないのを貧といい、この中を越えるものを富という。

この十石の家において九石で営むのを倹といい、十一石で暮すのをこれを驕奢という。

だから私は常にこう言っている。

中は増減の源であり、大小の名の生ずるところであると。
そうであれば貧富は一村一村の石高平均度をもって定め、
驕倹は一己一己の分限をもって論じるべきである。

その分限によっては、朝夕豪勢な料理に飽き、錦の刺繍をほどこした服をまとっても、
玉堂に起き臥ししても贅沢とはいえない。

分限によっては米飯も贅沢であり、お茶もタバコも贅沢となる。

みだりに驕倹を論じてはならない。

            <感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その3 - 伝統

2015/07/18 (Sat) 17:58:34


ある人が尊徳先生に問うた。

「推譲の論が、まだ了解することができません。
1石の身代の者が5斗で暮らし、5斗を譲り、
10石の者が5石で暮し、5石を譲るというのは、
行うことが難かしいようですが、どうでしょう。」


尊徳先生はおっしゃった。

「譲というのは人道である。
今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るという道を勤めないのは、人であって人でない、
10銭取って10銭使い、20銭取って20銭遣い、宵ごしの銭を持たないというのは、
鳥や獣の道であって、人の道ではない。

鳥や獣には今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲るという道はない。
人はそうではない、
今日の物を明日に譲り、今年の物を来年に譲り、その上子孫に譲り、他に譲るの道がある、

雇人と成って給金を取って、その半ばを使ってその半ばを将来のために譲って、
あるいは田畑を買い、家を立て、蔵を立てるのは、子孫へ譲るのである。

これは世間で知らず知らずのうちに人々が行っているところで、すなわち譲道である。
そうであれば1石の者が5斗譲るのもできがたいことではなかろう。
なぜならば自分のための譲りであるからである。

この譲りは教えがなくても行ないやすい。
これより上の譲りは、教えによらなければ行ないがたい。

これより上の譲りとは何か、
親戚・朋友のために譲るのである、郷里のために譲るのである、
なお、行ないがたいのは、国家のために譲るのである。

この譲りも結局のところ自分の富貴を維持するためであるけれども、
眼の前で他に譲るために難しいのである。
家産のある者は勤めて、家法を定め、推譲を行うがよい。」



ある人が問うた。

「譲は富者の道です。
1000石の村に戸数が100戸あったとして、1戸10石です。
この貧でなく富でもない家であれば、譲らなくともその分であるとし、
11石であれば富者の分に入るために、10石5斗を分度と定め、5斗を譲り、
20石の者は同く5石を譲り、30十石の者は10石を譲る事と定めればどうでしょうか。」


尊徳先生はおっしゃった。

「それでもよい。
しかし譲りの道は人道である。

人と生れた者は譲りの道がなくてはならないのは、論を待たないといっても、
人により家により、老幼が多いところもあり、病人があるものもあり、
厄介があるものもあるから、毎戸法を立てて、厳に行えといっても、行われるものでもなかろう。

ただ富有者によく教え、有志の者でよく勧めて行なわせるがよい。

そしてこの道を勤める者は、富貴・栄誉はこれに帰し、
この道を勤めない者は、富貴・栄誉は皆これを去る、
少し行えば少し帰り、大きく行えば大きく帰る、
私が言うところは決して違わない。


世の富有者によく教えたいのはこの譲道である。

ひとり富者だけではなく、
また金穀だけでなく、

道も譲らなければならない、
畔(あぜ)も譲らなければならない、
言葉も譲らなければならない、
功績も譲らなければならない、

君たちよ、よく勤めなさい。

            <感謝合掌 平成27年7月18日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その4 - 伝統

2015/07/19 (Sun) 19:39:06


尊徳先生はおっしゃった。


世の人は富と名誉を求めて止まる事を知らないというのが、凡俗の通病である。
それだから、永く富と名誉をたもつことができないのだ。

止まるところとは何か。

日本は日本人の止まるところである。
そうであればこの国(藩)は、この国の人の止まるところ、
その村はその村の人の止まるところである。

1000石の村も、500石の村もまた同じ。
海辺の村、山谷の村も皆同じだ。

1000石の村で家が100戸あれば、1戸10石に当たる。
これが天命で、まさに止まるべきところである。

そうであるのに先祖のお蔭で100石200石持っているのは、有り難い事ではないか。
そうであるのに止まるところを知らないで、
際限なく田畑を買い集める事を願うのは、大変あさましい。

たとえば山の頂上に登って、なお登ろうと欲するようなものだ。
自分が絶頂に在って、なお下を見ないで、ただ上だけを見るのは、危い。

絶頂にあって下を見る時は、皆眼下である。
眼下の者は、憐むべく恵むべき道理がおのずからあるのだ。

そのような天命の有る富者がなお自分だけ有利であることを欲するならば、
下の者はどうして貪欲にならないことがあろうか。

もし上下互いに利を争そうならば、奪いとらなければ満足しないことは必然である。
これが禍の起るべき原因である。
恐るべきことだ。

また海浜に生れて山林をうらやみ、山家に住んで漁業をうらやむなど、もっとも愚かである。
海には海の利がある、山には山の利がある、天命に安んじてその外を願ってはならない。

            <感謝合掌 平成27年7月19日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その5 - 伝統

2015/07/20 (Mon) 18:18:54


矢野定直が来て、

「私は今日は思いもかけず、結構なことをうかがって有り難い」と言った。


尊徳先生はおっしゃった。

あなたが今の一言を忘れないで、生涯一日のようであれば、
ますます貴くなり、ますます繁栄することは疑いない。

あなたが今日の心を分度と定めて土台とし、この土台を踏み違えないで
生涯を終るならば、仁であり忠であり孝である。
その成就するところは計ることができない。

おおよそ、人々は事が成るに当たってすぐに過ってしまうのは、
結構におおせられたというのを当り前のように思ってしまい、
その結構を土台として、踏み行うためである。

その始めの違いはこのとおりである。
その末は千里の違いとなることは必然である。

人々の身代もまた同じです。
分限の外に入ってくる物を、分内に入れないで、別に貯へ置く時は、
臨時の物入りや不慮の入用などに、差しつかえるという事は無いものだ。

また売買の道も、分外の利益を分外として、
分内に入れなければ、分外の損失は無いであろう。
分外の損というのは、分外の益を分内に入れるからである。

だから私の道は分度を定めることをもって大本とするは、このためである、

分度が一たび定まるならば、譲り施こす徳が積み重なって、
勤めなくても成就するであろう。

あなたが「今日は思いがけず、結構なことをうかがって有り難い」という一言を
生涯忘れてはならない。

これが私があなたのために懇ろに祈るところです。

            <感謝合掌 平成27年7月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その6 - 伝統

2015/07/21 (Tue) 21:04:48


尊徳先生はおっしゃった。

ある藩の人が藩の要職であった時、私は礼譲と謙遜を勧めたが用いなかった。
後についに退けられた。
今や困窮がはなはだしく、今日をしのぐこともできない。

その人はその藩が、衰廃で危ないときに当たって功績があった。
そして今このように窮乏している。

これはただ要職に登用された時に、
分限の内で生計を立てない過ちがあったからである。

官威が盛んであって。富有が自在である時は礼譲と謙遜を尽し、
官を退いて後に遊楽したり贅沢であれば害はない。

その時は一点のそしりもなく、人もその官を妬むこともなく、
進んで勤労に励み、退いて遊楽しても、昼に働いて夜休息するようである。


逆に、進んでは富裕にまかせて遊楽や贅沢にふけって、
退いて節倹を勤めるのは、たとえば昼休息して夜勤労するようなものだ。
進んで遊楽するならば誰もがこれをうらやましく思うであろう、
そしてこれを妬まないものがいようか。

雲助が重荷をかつぐのは、酒食をほしいままにするためである。
遊楽や贅沢をするために、国の重職にいるのは、雲助等がするところに遠くない。

重職にいる者が、雲助のするところに同じようなことをして、
よく久安を保つことができようか、退けられたのは当然であって、
不幸にあったわけではない。

            <感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その7 - 夕刻版

2015/07/22 (Wed) 19:34:43


尊徳先生はまたおっしゃった。


世に忠諫というものは、おおよそ君の好むところに随って甘言を進め、
忠言に似せて実は阿諛(あゆ:おべんちゃら)し、自分を取り入ってもらおうとするもので、
そのため君を損なう者が少くない。

主人は深く察してこれを明らかにしなければならない。

ある藩の老臣がかって植木を好んで多く持っていた。
ある人が、その老臣に語つて言った、

『なにがしの父は植木を好んで、多く植えていたのを、
その子が釣りを好んで、植木を愛さないため、せっかく植えたのを抜き取って
捨てようとしました。私はこれを惜んで止めました』と、

単なる世間話のついでに語った。

老臣はこれを聞いて言った。

「なにがしの無情は甚しいものだ。樹木ぐらい植え置いたままで何の害があろうか。
それなのに抜いて捨てようとはいかにも惜しいことではないか。
彼が捨てるというなら私は拾おう。汝がよろしく取り計らってもらいた。」

ついに自分の庭に移した、
これはなにがしという人が、老臣に取り入るためのはかりごとであって、
その老臣はその謀計に落し入られたのである。

そして老臣はなにがしを、忠義がある者と称し、信ある者と称した。


おおよそこのようであれば、節儀の人も、思わず知らず不義に陥ることになる。
興国安民の法に従事する者は恐れなくてはならない。」


            <感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その8 - 伝統

2015/07/23 (Thu) 20:43:46


尊徳先生はおっしゃった。


太古の交際の道は、互いに信義を通ずるのに、
心力を尽し、四体を労して、交りを結んだものだ。
なぜかというと金銀貨幣が少なかったためだ。

後世になって金銀の通用が盛んになって、
交際上の手段として贈答に皆金銀を用いるようになった。
金銀は、通用が自在で便利この上ない。

これから賄賂という事が起って、礼を行うとか、信を通ずるとかに、
ついに賄賂に陥いるようになった。

このために曲直が明らかでなくなり、法度が正しからず、
信義がすたれて、賄賂が盛んに行われるようになった。
百事賄賂でなければ用がたせなくなった。

私が始めて、桜町に至ったとき、かの地の奸民は争って私に賄賂しようとした。
私は塵ほども受けなかった。

これから善悪や邪正が判然として信義や貞実の者が初めてあらわれた。

もっとも恐るべきはこの賄賂である。

あなた達は誓ってこの物に汚される事があってはならない。

            <感謝合掌 平成27年7月23日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その9 - 伝統

2015/07/24 (Fri) 20:44:47


伊東発身、斎藤高行、斎藤松蔵、紺野織衛、荒専八らが先生のお側に坐っていた。
皆中村藩士である。


先生が諭してこうおっしゃった。

草を刈ろうと欲したら、草に相談するには及ばない。
自分の鎌をよく研ぐがよい。

髭を剃ろうと欲する者は、髭に相談はいらない。
己が剃刀をよく研ぐがよい。
砥石に当って、刃の付かない刃物が、しまっておいて刃が付いたためしはない。

古語に、教えるに孝をもってするは、天下の人が父を敬するゆえんである。
教えるに悌を以てするは、天下の人の兄を敬するゆえんである。

教えるに鋸の目を立てれば、天下の木を伐るゆえんである。
教えるに鎌の刃を研げば、天下の草を刈るゆえんである。

鋸の目をよく立てれば天下に伐れない木でなく、
鎌の刃をよく研げば、天下に刈れない草はない。
だから鋸の目をよく立てれば、天下の木は伐れたの同じだ。

鎌の刃をよく研げば、天下の草は刈れたのと同じだ、

秤があれば、天下の物の軽重は知れない事はなく、
桝(ます)があれば天下の物の数量は知れない事はない。

だから私の教えの大本は、
分度を定める事を知れば、天下の荒地は、皆開拓できたのと同じだ。

天下の借財は、皆済がなったと同じだ。
これが富国の基本であるからである。

私は往年貴藩のために、この基本を確固と定めた。

よく守るならばその成るところは量ることができない。

あなたがたはよく学んでよく勤めるがよい。

            <感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その10 - 伝統

2015/07/25 (Sat) 18:16:30


尊徳先生はまたおっしゃった。


ここに物があるとする。
これを売ろうと思う時は、飾らないわけにはいかない。

たとえば芋や大根のごときも、売ろうとと欲すれば、
根を洗って枯葉を去って、田んぼにある時とはその様子を異にする。
これは売ろうと欲するためである。

あなたがた(相馬藩士)はこの道を学んでも、
この道をもって、世に用いられ、立身しようと思ってはならない。

世に用られる事を願い、立身出世を願う時は、本意に違い本体を失うに至り、
そのためにあやまる者は既に数名ある。
あなたがたも知るところである。

ただよくこの道を学び得て、自らよく勤めるならば、富貴は天より来たるなり、
決して他に求めてはならない。

古語に、富貴天にあり、というのを、
誤解して、寝ていても富貴が天より来たる物と思う者がいる。
大いなる心得違いである。

富貴天に有りというのは、自分の行いが天理にかなう時は、
求めなくても富貴の来たることをいうのだ。
誤解してはいけない。

天理にかなうとは、一刻も間断なく、天道の循環するがごとく、
日月の運動するがごとく勤めて息まないのをいうのだ。

            <感謝合掌 平成27年7月25日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その11 - 伝統

2015/07/26 (Sun) 19:21:39


尊徳先生はおっしゃった。

世の中に道を説いた書物は、算えるに暇がないが、一として癖がなく完全なものはない。
なぜかというと、釈迦も孔子も皆人間であるからである。

経書(けいしょ:論語など)といい、経文(きょうもん:お経)といっても、
皆人が書いた物だからである。

だから、私は書かざる経典、すなわち物言わずして四時行われ百物がなるところの、
天地の経文に引き当てて、違いがない物を取って、違うものは取らない。

だから私が説くところは決して間違いがない。

燈皿(とうがい:火皿)に油があれば、火は消えない物と知るがよい。
火が消えれば油がなくなったと知るがよい。

大海に水があれば、地球も太陽も変動がないと知るがよい。
万一大海の水がなくなる事があれば、世界はそれまでである。
地球も太陽も散乱するであろう。

その時までは決して違いのないわが大道である。

我が道は、天地をもって経文とするから、
日輪に光明があるうちは行れない事がなく、違う事がない大道である。

            <感謝合掌 平成27年7月26日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その12 - 伝統

2015/07/27 (Mon) 19:59:14


尊徳先生はおっしゃった。


家屋の事を、俗に家船(やふね)また家台船(やたいぶね)と言う。
面白い俗言である。

家を実に船と心得えるがよい。
これを船とする時は、主人は船頭である。
一家の者は皆乗合いといえよう。

世の中は大海である。
その時は、この家船に事あるときや、また世の大海に事あるときも、
皆逃れられない事であって、船頭は勿論、この船に乗り合せた者は、
一心協力してこの屋船を維持すべきである。

さてこの屋船を維持するのには、
かじの取りようと、船に穴があかないようにするという二つが大切である。
この二つによく気を付ければ、家船の維持は疑いない。

それであるのにかじの取りようにも、心を用いず、家船の底に穴があいても、
これを塞ごうともしないで、主人は働かないで酒を飲み、妻は遊芸を楽しんで、
せがれは碁や将棋にふけって、二男は詩を作り、歌を読んで、安閑と歳月を送って、
終に家船を沈没するにいたらしめる。

歎息の至りではないか。

たとえ大穴でなくても、少しでも穴があいたならば、すぐに乗合一同力を尽して、
穴をふせぎ、朝夕ともに穴のあかないように、よくよく心を用いるがよい。
これがこの乗合いの者の大切な事である。

そうであるのに既に大穴があいてなお、これをふさごうともしないで、
各々自分の心のままに安閑と暮していて、誰かがふさいでくれそうな物だと、
待っていてすむであろうか。

助け船を頼みにしていてすむであろうか。

船中の乗合いの一同、身命をもなげうって働かなければならない時ではないか。

            <感謝合掌 平成27年7月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その13 - 伝統

2015/07/28 (Tue) 17:58:17


ある村に貧しい若者があった。
困窮がひどいといっても、心掛けはよかった。

彼が言うに

「私の貧窮は前世の宿因であろう。やむをえない。
なんとかして、先祖伝来の田畑をを昔のように復し、老いた父母を安心させたいものだ」

と言って、昼夜農事を勉め励んだ。

ある人がご両親の望みだと言って、嫁を迎える事を勧めた。

若者は言った。

「私は愚かでかつ無能・無芸であり、金を得る方法を知らない。
ただ農業を勉め励むだけで、そこで考えるに、ただ妻を持つ事を遅くするほか、
他に良策はないと心に決めています」

と言って、固辞した。


尊徳先生はこれを聞いておっしゃった。

「善いことだ、その志は。
事を為そうと欲する者はもちろん、一芸に志す者でも、これを良策とするべきだ。

なぜなら人の生涯は限りがある。
年月は延すことはできない。
そうであれば妻を持つのを遅くするほかには、益を得る方策はないであろう。
誠に善い志である。

神君の遺訓でも、自分が好む処を避けて、嫌うところを専ら勤めるべきである、とある。
私の道はもっともこのような者を賞するべきである。
なおざりにしてはならない。

世話掛けたる者は心得えなければならないことだ。

世の中は好む事を先にするならば、嫌うところがたちまちに来たる、
嫌うところを先にするならば、好むところは求めなくても来たる、
盗みをすれば追手が来たり、
物を買えば代金を取りに来たる、
金を借用すれば返済の期限が来たり、
返さなければ差し押さえ状が来たる、

これは眼前の事である。


            <感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その14 - 伝統

2015/07/29 (Wed) 19:32:21



門人で過って改めることができない癖のある者がいた。
その者は多弁で常に過ちを飾っていた。

尊徳先生は諭しておっしゃった。

「人は誰でも過ちをおかすものだ。
過ちと知れば、自分で反省してすぐに改める、これが道である。

過って改めないで、その過ちを飾ってかつ押し張るのは、
智や勇に似ているようだが、実は智でもなく勇でもない。

汝はこれを智勇と思っているかもしれないが、
これは愚かつ不遜というもので、君子が憎むところである。
よく改めなさい。

若年の時は、言葉と行動とともによく心を付けなさい。
ああ馬鹿な事をした、しなければよかった、言わなければよかった
というような事のないように心掛けなさい。

この事がなければ富貴はその中にある。

戯れにも偽りを言ってはならない。
偽りの言葉から大害を引き起し、一言の過ちより、
大きな過ちを引き出す事が往々にしてあるのものだ。

だから古人は禍いは口から出ると言った。

人を誹って人を言い落すのは不徳である。
たとえ誹って当然の人物であっても、人を誹るのはよろしくない。

人の過ちを顕わすのは、悪事である。
虚を実にいいなし、鷺を烏といい、針ほどの事を、棒ほどに言うのは大悪である。

人を褒めるのは善であるけれども、褒めすぎるのは直き道ではない。
自分の善を人に誇って、自分の長所を人に説くのはもっとも悪い。

人の忌み嫌う事は、必ず言ってはならない。
自ら禍の種を植えるものだ。
慎しまなければならない。

            <感謝合掌 平成27年7月29日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その15 - 伝統

2015/07/30 (Thu) 17:18:33


尊徳先生の歌に
「むかしより人の捨てざるなき物を拾い集めて民に与えん」

とあるのを、
山内董正氏が見て、
「これは人の捨てたるというべきではないか。」と言った。


尊徳先生はおっしゃった。

「そのような時は人が捨てなければ拾う事ができません。
はなはだ狭うございます。
捨てたるを拾うのは、僧侶の道で、私の道ではありません。

古歌に
「世の人に欲を捨てよと勧めつつ跡より拾う寺の住職」とあります。ハハ。


董正氏は言った。
「捨てざる無き物とは何か。」



尊徳先生はおっしゃった。

「世の中の人が捨てない物で無き物がいたって多いのです。
挙げて数うことができません。
第一に荒地、第二に借金の雑費と暇潰し、第三に富人の驕奢、第四に貧人の怠惰等です。

荒地のごときは、捨てたる物のごとくですけど、
開こうとする時は、必ず持主があって容易に手を付けることができません。
これは無き物で、捨てたる物ではありません。

また借金の利息、借替・成替の雑費、また同じ類です。
捨てたのではなく、また無き物です。

そのほか富者の驕奢の費、貧者の怠惰の費えも皆同じです。

世の中このように、捨てたのではなくて廃れて、無に属するもの幾等もありましょう。

よく拾い集めて、国家を興す資本とすれば、あまねく救って、なお余りがありましょう。
人の捨てない無き物を、拾い集めるは、
私が幼年から勤めるところの道であって、今日に至るゆえんです。

すなわち私の仕法金の本根です。

よく心を用いて拾い集めて世を救うべきです。」

            <感謝合掌 平成27年7月30日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その16 - 伝統

2015/07/31 (Fri) 19:05:12


尊徳先生はおっしゃった。

私の道は、荒蕪を開くをもって勤めとする。
そして荒蕪に数種類ある。

田畑には実際に荒れた荒地がある。
また借財がかさんで、家禄を利息のために取られ、禄があっても益がないに至るものがある。
この国にとって生産の土地であっても、本人にとっては荒地である。

また薄地・粗末な田、年貢が高くかかるだけで、作益なき田地がある。
これは上のために生産の土地だが、下のためには荒地である。

また資産があり金力があって、国家のために何もなさず、
いたずらに贅沢にふけって、財産を費やす者がある。
国家にとってもっとも大いなる荒蕪である。

また智慧もあり、才能もありながら、
学問もしないで、国家のためも思わないで、
琴や囲碁将棋、書画などをもてあそんで、生涯を送る者がある。
世の中のため、もっとも惜しむべき荒蕪である。

また身体強壮でありながら、家業を勤めないで、怠惰やバクチに日を送る者がある。
これもまた自他のために荒蕪である。
これ数種の荒蕪のうち、心田が荒蕪している損が、国家のために大である。

次に田畑山林の荒蕪がある。
皆勤めて起さなければならない。

この数種の荒蕪を起して、ことごとく国家のために供することをもって、
私の道の勤めとする。

「むかしより人の捨ざる無き物を拾集めて民にあたへん」
これが私の志である。


            <感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その17 - 伝統

2015/08/01 (Sat) 20:26:44


尊徳先生がおっしゃった。

「孝経に、『孝弟の至りは神明に通じ、四海に光りおよばざる処なし、
また東より西より、南より北より、思うて服せざる事なし』と。

この言葉は俗儒の説くところは、何の事とも解りがたい。

今わかりやすく引き下して言うならば、
孝とは、親の恩に報いるの勤めである。
弟は、兄の恩に報いる勤めである。

すべて世の中は、恩を報わなければならない、
この道理をよく心得れば、百事心のままになるものである。

恩に報いるとは、借りた物には利を添えて返して礼を言い、
世話になった人にはよく謝礼をし、買い物の代金はすぐに払い、
日雇の賃金は日々払って、

総て恩を受けた事を、よく考えてよく報いる時は、
世界の物は、実に自分の物のように何事も欲するとおり、思うとおりになる、

ここにに到って、神明に通じ、四海に光り、西より東より、南より北より、
思うとして服さないことはないようになるのである。

それなのに、ある歌に

「三度たく飯さへこはしやはらかし思ふまゝにはならぬ世の中」

と言う。

大変間違っている。
これは勤める事も知らず、働く事もしないで、
人の飯を貰って食う者などの詠んだものであろう。

この世の中は前に言ったとおり、
恩に報いる事を厚く心得るならば、何事も思うままになるものである。

それなのに思うままにならないというのは、
代金を払わないで品物を求め、蒔かないで、米を収穫しようと欲するからである。

この歌の初め句を「おのがたく」と直して、自分の身の事にすれば、少しはよかろうか。

            <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その18 - 伝統

2015/08/02 (Sun) 17:51:24


尊徳先生はおっしゃった。


子貢は言った。

紂(ちゅう)王の不善はこのようにひどいものではなかろう。
これを以て君子は下流に居るをにくむ、
天下の悪は皆これに帰する、とある。

下流に居るとは、心の下った者とともにいることをいう。
紂王も天子の友とするべき者、上流の人をだけ友となすならば、
国を失い、悪名を得る事も有ることがなかろうに、
婦女子が佞悪者だけを友としたために、国は滅びたために悪がこれに帰したのだ。

ただ紂王だけのことではない。
人々皆同じだ。

常に太鼓持ちや、三味線引などとだけ交ったならば、たちまち滅亡に至るは必定である。
それもごもっとも、これもごもっともと、錆付く者とのみと交わるならば、
正宗の名刀であっても腐れて用いる役立てることができないであろう。

子貢はさすがに、聖門の高弟である。

紂の不善此の如く甚しからずといい、
これをもって君子は下流に居る事を悪(にく)むと教えた。

必ず紂の不善も、後世伝えるように甚しいことはなかったであろう。

なんじらも自ら戒めて下流にいてはならない。

            <感謝合掌 平成27年8月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その19 - 伝統

2015/08/03 (Mon) 19:29:36


尊徳先生はおっしゃった。

「堯(ぎょう)は仁をもって天下を治めた。
民は歌って言った。
井戸を掘って飲み、田を耕して食らう、
皇帝の力ななんぞ我にかかわりが有ろうか」と。

これが堯の堯であるゆえんであって、
仁政が天下に及んで跡がないようであるためである。

名宰相の子産のごときにいたっては、孔子は「恵人」と呼んだ。

            <感謝合掌 平成27年8月3日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その20 - 伝統

2015/08/04 (Tue) 19:08:02


尊徳先生がおっしゃった。

論語に、孔子に問う時、孔子が知らずと答える事がしばしばある。

これは知らないのではなく、
教える場合ではないのと、教えてもためにならない場合がある。

今日、金持の家に借用を申し込むのに、
先方で折りあしく金がないというのと、同じ場合である。

知らずということに大きな味わいがある。

よく味わってその意味を解しなさい。

            <感謝合掌 平成27年8月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その21 - 伝統

2015/08/05 (Wed) 20:05:22


尊徳先生がおっしゃった。

論語で哀公が
「今年は飢饉で必要な税が不足している。こんなときどうすればよいのでしょうか」

有若(孔子の弟子)が答えて言った。
「どうして租税を半額(10分の1税)にしないのですか。」

これは面白い道理である。

私は常に人を諭すに、
一日で十銭取って足らなければ、九銭取るがよい。
九銭取って足らなければ、八銭取るがよい。

人の身代というものは、多く取ればますます不足を生ずる。
少なく取っても、不足がない物である、
これは理外の理である。

            <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その22 - 伝統

2015/08/06 (Thu) 18:12:08


尊徳先生はおっしゃった。


君子は、食は飽きることを求める事がなく、居宅は安楽であることを求める事もない。
仕事は骨を折って働き、無益の言葉は言わず、その上に道の人があればこれについて正す。
よほど誉めるかと思うに、学問を好むというだけである。

聖人の学はこのように厳格なものである。

今日の上で言えば、酒は呑まず仕事はよく稼いで、無益の事はなさない、
これが通常の人であると言うようなものである。

            <感謝合掌 平成27年8月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その23 - 伝統

2015/08/07 (Fri) 19:49:36


尊徳先生はおっしゃった。


儒教で大極と無極という論がある。
思慮が及ぶのを大極といい、思慮の及ばないのを無極といっただけだ。

思慮が及ばないからといって、無いというわけではない。
遠海に波がなく、遠山に木がないようだが、無いわけではない。

自分の眼力が及ばないのと同じことだ。

            <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その24 - 伝統

2015/08/08 (Sat) 17:46:24


尊徳先生がおっしゃった。


「大学」に、
「安んじて、しかしてのち、よく慮(おもんぱか)り、慮りて、しかしてのちよく得」とある。

誠にそのとおりである。

世人は大体苦しまぎれに、種々の事を思いはかるために、皆成らないのである。
安んじて、しかしてのちによく慮って、事をなすならば、過ちがないであろう。
しかしてのちによく得るという。

誠に妙である。

            <感謝合掌 平成27年8月8日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その25 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 19:38:02


尊徳先生がおっしゃった。

才知が勝れた者は、おおよそ徳に遠いものである。
学問があれば申韓(重刑主義の法家の申不害と韓非子)を主張し、
学問がなければ三国志や太閤記を引用する。

論語や中庸などには一言も及ばないものである。
なぜかといえば、道徳の本理は才知では理解できないものだからである。

この類の人は必ず実行することがやさしい中庸を難かしい難しいと言うものである。
中庸に、賢者はこれに過ぎる、とある、もっともなことだ。

おおよそ世人は、太閤記や三国誌などの俗書を好むけれども、大変よろしくない。

そうでなくても争う気が盛んであるのに、偽心が起きはじめる若者に、
このような書物を読ませるのは悪いことだ。

世人が太閤記や三国誌などをよく読めば、
利口になるなどというのは誤りである、

心しなければならない。


            <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その26 - 伝統

2015/08/10 (Mon) 17:42:37


尊徳先生はおっしゃった。


仏者も釈迦がありがたく思われ、儒者も孔子が尊く見えるうちは、
よく修行するべきである。

その地位に至る時は、国家を利益し、世を救うのほかに道はなく、
世の中に益ある事を勤めるほかに道はない。

たとえば、山に登るようなものだ。
山が高く見えるうちは勤めて登るべきである。
登りつめたら外に高い山はなく、四方ともに眼下であるようなものだ。

この場に至って、仰いでいよいよ高いのはただ天だけである。
ここまで登るのを修行という。

天の外に高いものがあると見えるうちは勤めて登るがよい。
学ぶがよい。


            <感謝合掌 平成27年8月10日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その27 - 伝統

2015/08/11 (Tue) 17:40:06


尊徳先生はおっしゃった。

どれほど勤め励んでも、なにほど倹約しても、
歳の暮れに差しつかえる時は、勤勉も勤勉ではなく、倹約も倹約でもない。

先んずれば、人を制し、後れると、人に制せられるといふ事がある。
倹約も先んじなければ、用をなさない。
後れる時は無益である。

世の人はこの理に暗い。
たとえば1,000円の身代が、900円に減ると、
まず1年は他から借りて暮す、そこでまた800円に減る。

この時初めて倹約して、900円で暮すために、また700円に減る、
また改革をして、800円で暮す、
年々このようにするために、労して効果がなく、ついには滅亡に陥いるのである。

この時になって、自分は不運であるなどと言う。
これは不運なのではない、後れるために、借金に制せられたのである。

ただこの一挙、先んずるのと後れるのとの違いにある。
1,000円の身代で900円に減らせば、
すぐに800円に引き去って暮しを立てるべきである。
800円に減らせば、700百円に引き去るべきである。

これを先んずるというのである。
たとえばば難治の腫れ物のできた時は、手でも足でも断然切て捨てるようなものだ。
姑息に流れためらう時は、ついに死に至り悔いても及ばないようになる、
恐るべきことではないか。


            <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その28 - 夕刻版

2015/08/12 (Wed) 20:00:17


尊徳先生はおっしゃった。


国家の盛衰や存亡は、各々利を争うことの甚しいことから起こる。

富者は足る事をしらないで、世を救う心もなく、有るが上にも願い求めて、
自分の勝手だけを工夫し、天の恩も知らず、国の恩も思わず、

貧者はまた何とかして、自分のみ利せんと思うけれども、工夫がないから、
村費の納めるべきを滞らせ、収穫した租税を出さず、借りたものを返さず、

貧富ともに義を忘れて、願っても祈ってもできがたい工夫のみをして、
利を争い、その見込が外れた時は身代限りという。
大河のうき瀬に沈んでしまう。

この大河も覚悟して入る時は、溺れ死ぬまでの事はない。
浮んで出る事も向うの岸へ泳ぎつく事も、あるだろうが、覚悟がなくて、
この川に落ちる者は、再び浮び出る事はできず、身を終わるのである。

なんとあわれなことではないか。

私の教えは世上このような悪弊を除いて、安楽の地を得させることを勤めとする。

            <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その29 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 18:04:37


尊徳先生はおっしゃった。


天下国家、真の利益というものは、もっとも利の少いところにある。

利の多いのは、必ず真の利ではない。

家のため土地のために、利をおこそうと思う時は、よく思慮を尽さなければならない。

            <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その30 - 伝統

2015/08/14 (Fri) 19:55:14


尊徳先生はおっしゃった。


財宝を産み出して、利を得るのは農業・工業に従事する者である。
財宝を運び転がして、利を得るのは商人である。

財宝を産み出し、運び転がす農工商の大道を、勤めないで、
それで富有を願うのは、たとえば水門を閉じて、分水を争うようなものだ。
智者のするところではない。

そうであるのに世間で智者と呼ばれる者のするところを見ると、
農工商を勤めないで、ただ小智・浅知恵をふるって、財宝を得ようと欲する者が多い。

誤っているというべきである。迷いというべきである。

            <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その31 - 伝統

2015/08/15 (Sat) 20:04:58


尊徳先生がおっしゃった。


千円の資本で、千円の商法を行う時は、他から見て危い身代であるという。

千円の身代で、800円の商法をする時は、
他から見て小さいけれども堅い身代だという。

この堅い身代といわれるところに、味いがあり、益があるのである。

それなのに世間では、百円の元手で、
200円の商法をするのを、働き者という。

大きな誤りであるというべきである。

            <感謝合掌 平成27年8月15日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その32 - 伝統

2015/08/16 (Sun) 17:55:11


尊徳先生がおっしゃった。


世間の人の願いは、もとより遂げられない。
願ってもかなわない事を願うからである。

世間の人は皆金銭の少いことを憂えて、ただ多い事を願う。
もし金銭を、人々が願うように多くするならば、
どうして砂や石と異なることがあろうか。


このように金銭が多ければ、草鞋一足の代金が銭一把(は)、
旅宿の一夜の代金が銭一背おいとなるであろう。
金銭の多すぎるのは、不便この上ないというべきである。

世間の人の願望は、このような事が多い。
願ってもかなわず、かなっても益がない。

世の中は金銭が少いことが、面白いのだ。

            <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その33 - 伝統

2015/08/17 (Mon) 19:48:40


尊徳先生はおっしゃった、


仏説は面白い。

今近くたとえるならば、
豆の前世は草なり、草の前世は豆なり、というようなものだ。

だから豆粒に向えば、なんじは元は草の化身である、
疑わしく思うならば、なんじの過去を説いて聞かせよう。

なんじの前世は草であって、だれだれの国のだれだれの村のだれだれの畑に生れて、
雨風をしのぎ、炎暑を厭って草におおわれ、兄弟をまびかれ、辛苦・患難をへて、
豆粒となったなんじであるぞ。

この畑主の大恩を忘れないで、またこの草の恩をよく思って、
早くこの豆粒の世を捨てて元の草となって、繁茂する事を願え、
この豆粒の世は、仮の宿りであるぞ、未来の草の世こそが大事であるというようなものだ。

また草に向ってはなんじが前世は種であるぞ、
この種の大恩によって、今草と生れて、枝を発し葉を出し
肥を吸って露を受け、花を開くに至ったのだ
この恩を忘れないで、早く未来の種を願え

この世は苦の世界であって、風雨寒暑の患いがある、早く未来の種となって、
風雨寒暑を知らず、水火の患いもない土蔵の中に、住する身となれというようなものだ。

私は仏道を知らないけれども、おおよそこのよであろう。

そして世界の百草は、種になれば生ずるきざしがある、生ずてば育つきざしがある、
育てば花が咲くきざしがある、花が咲けば実を結ぶきざしがある、
実を結べば落るきざしがある、落ればまた生ずるきざしがある、

これを不止不転・循環の理というのだ。

            <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その34 - 伝統

2015/08/18 (Tue) 17:35:47


宮原瀛洲(神奈川の豪商)、が質問した、


一休の歌に「坐禅する祖師の姿は加茂川にころび流るゝ瓜か茄子か」とあります、
この歌の意味はどういうことでしょうか。


尊徳先生はおっしゃった。


これは盆の祭が済んで精霊棚(しようりやうだな)を川に流すのを見て詠んだのであろう。
歌の意味は、坐禅する僧を嘲笑しているようだが実は大いに誉めているのだ。

瓜やナスが川に流れゆくのを見よ、
石に当っても岩に触れても、さわりなく痛みなく、
沈んでも、すぐに浮かびあがって沈む事もない。

これをどんな世の変遷に遭遇しても、仏者が障りなく滞りなくいくのを誉めて、
世間の人が、世の移り変わりのために浮瀬に沈んでしまうのをいやしめて、
かつこの世だけではなく、来世の事をも含ませたのであろう。


たとえば鎌倉を見るがよい、
源家も亡び、北条も上杉も亡んで、今あとかたもないけれども、
その時代に建立した建長寺、円覚寺、光明寺の諸寺は、現に今存在する。

すなわちこのことである。

仏はもとより世間の外の物であるから、
世の海の風波には浮いたり沈んだりしないという道理をよんだ歌であって、
別の意味があるわけではないであろう。


            <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その35 - 伝統

2015/08/19 (Wed) 19:42:12


尊徳先生がおっしゃった。


天に暴風雨があるときは、これを防ぐために、家の四壁に大木を植える。
また水の勢いの向う堤防には、牛枠に蛇籠(じゃかご)を設ける。
海岸に家があれば、乱杭に柵を掛ける。

これは平日は無用の物であるようだが、
暴風雨があらん時のために、費用を惜まないで修理するのである。

天地にのみ暴風雨があるのではない。
往年大磯駅その他の所で起った暴徒乱民は、すなわち土地の暴風雨である。

この暴風雨は必ずその地の大家に強く当たる事は、大木に風が強く当たるのと同じだ。
地方の豪家と呼ばれる者が、この暴徒を防がなければ危いというべきだ。


宮原瀛洲(ゑいしう)が質問した。

この予防の方法はどうすればよろしいのでしょうか。


先生はおっしゃった。

平日心掛けて米や金をたくわえて、
非常の災害があるときに、これをを施与するほか道はない。


瀛洲(ゑいしう)は
あえて質問しますが。

この予防に備える金額は、その家の分限によると思いますが、
おおよそどのくらい備えればよろしいでしょうか。


先生はおっしゃった。

その家々に取って第一等の親類一軒の交際費だけを、年々この予防のために、
別途にして米・麦・稗・粟等をたくわえて置いて、慈善の心をあらわさば必ず免れるであろう。

しかしながら、これは暴徒の予防のみである。
慈善ではなく、たとえば雨天の時に、傘をさしたり蓑を着るのに同じで、
ただぬれないためだけである。

            <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その36 - 伝統

2015/08/20 (Thu) 19:44:02


尊徳先生はおっしゃった。


暴風に倒れた松は、雨露が入って既に、倒れようとするところの木である。
大風に破れた垣根も、杭が朽ち繩が腐って、まさに破れようとするところの垣根である。

風は平等均一に吹くもので、松を倒そうとことさらに吹くのではない、
垣根を破ろうと、分けて吹くわけではなく、
風がなくとも倒れるところを、風を待って倒れ破れたのである。

天下の事皆同じである。

鎌倉幕府の滅亡も、室町幕府の亡滅も、人の家が滅却するのも皆同じである。

            <感謝合掌 平成27年8月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その37 - 伝統

2015/08/21 (Fri) 18:23:16


尊徳先生はおっしゃった。


この世界咲く花は必ず散る、
散るといえども、また来る春は必ず花が咲く、
春に生ずる草は必ず秋風に枯れる、
枯れるといっても、また春風に逢えば必ず生ずる、
万物皆同じである、

そうであれば無常といっても無常にあらず、
有常といっても有常にあらず、

種と見る間に草と変じ、草と見る間に花を開き、花と見る間に実となり、
実と見る間に、元の種となる、
そうであれば種となったのが本来か、草と成ったのが本来か、

これを仏に不止不転の理といい、儒に循環の理という。

万物は皆この道理にはずれる事はあるまい。

            <感謝合掌 平成27年8月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その38 - 伝統

2015/08/22 (Sat) 18:46:25


尊徳先生はおっしゃった。


儒(「大学」)に、「至善に止まる」とあり、
仏に、「衆善奉行」(もろもろの善を行え)という。

しかしながらその「善」というものは、どのようなものかということは、
確かでないから、人々は善をなすつもりで、そのなすところが皆違ってしまうのだ。

もともと善悪は一円である。
泥棒の仲間では、よく盗むものを善とし、
人を害しても盗みさえすれば善とするであろう。

しかるに、世間の法では盗みを大悪とする、
その隔たりはこのようである。

天には善悪はない。
善悪は、人道にて立てたものである。

たとえば草木のようなものに、どうして善悪があろうか。
この人体があるから、米を善とし、田に生える草を悪とする、
これは食物になるのと、ならないとをもってするのだ。

天地がどうしてこの別があろうか。
田に生える草は、生えるのも早く茂るも早い。
天地生々の道に随うことが速かであるから、
これを善草といってもおかしくあるまい。

米や麦のように、人力を借りて生ずるものは、
天地生々の道に随うことが、大変隔たっているから
悪草といってもおかしくあるまい。

そうであるのにただ食うことができるのと、食うことができないをもって、
善悪を区別しているのは人体から出た癖道というべきであろう。
この理を知らなければならない。

上下貴賤はもちろん、貸す者と借りる者と、売る人と買う人と、
また人を使う者、人に使われる者に引き当てて、よくよく思考してみよ。

世の中すべての事は皆同じだ。
彼に善であればこれに悪しく、これに悪しきは彼によし、
生を殺して喰う者はよいが、喰われるものには大変悪い。

しかしながら、既に人体があり、生物を食わなければ、
生を全うすることができないことをどうしようか。

米や麦や野菜といっても、皆生物ではないか。

私はこの理を尽して

「見渡せば遠き近きは無かりけり己々が住処(すみど)にぞある」

と詠んだのだ。
しかしながら、これはその理をいったのみだ。

人は米食い虫である。
この米食虫の仲間であって立てた道は、衣食住になるべき物を、
増殖するものを善とし、この三つの物を、損害するを悪と定めた。

人道でいうところの善悪は、これを法定規とするのである。
これに基いて、すべて人のために便利であるのを善とし、
不便であるのを悪と立てたものであるから、
天道とは別のものであることは論を待たない。

しかしながら、天道に違うのではない、
天道に順いながら違うところがある道理を知らせたのみである。

            <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その39 - 伝統

2015/08/23 (Sun) 19:17:39


尊徳先生がおっしゃった。


用をなす材木は、皆四角である。
しかしながら、天が人のために四角なる木を生じない。
だから満天下の山林に、四角の木はない。

また皮もなく骨もないカマボコのようにハンペンのような魚がいれば、
人のために便利であるけれども、天はこれを生じない。
だから満々たる大海に、そのような魚は一尾もない。

またモミもなくヌカもない、白米のような米があれば、
人の世にとってこの上もない利益があるけれども、天はこれを生じない。
だから全国の田地に、一粒もこんな米はない。

これをもって、天道と人道と異なる道理を悟るがよい。

また南瓜(かぼちゃ)を植えれば必ずツルがある。
米を作れば必ず藁がある。
これもまた自然の理である。

ヌカと米とは、一身同体である。
肉と骨もまた同じである。
肉が多い魚は骨も大きい。

それなのにヌカと骨とを嫌って、米と肉とを欲するのは、
人の私心だからであって、天に対しては申訳けないではないか。

しかしながら、今まで食った飯も腐れば食うことのできない人体であるから、仕方がない。

よくよくこの理を明らかにしなければならない。

この理を明らかにしなければ、
私の報徳の道は了解することが難かしく、実行することが難しい。

            <感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その40 - 伝統

2015/08/24 (Mon) 18:25:08


尊徳先生がおっしゃった。


「咲けば散り 散ればまた咲き 年ごとにながめ尽せぬ 花の色々」、

困窮に陥って、どうともするべき方法がなくて、売り出す物品を、安い物だと悦んで買う。
また不運が極ってよんどころなく、家を売って裏店へ引っこめば、
表店へ出てめでたいと悦ぶ者も、絶えずある世の中である。


「増減は器傾く水と見よ こちらに増せばあちら減るなり」、
物価の騰貴に、大きい利を得る者があれば、大損の者がある。

損をして悲しむ者があれば、利を得て悦ぶ者がある。
苦楽・存亡・栄辱・得失、こちらが増すとあちらの減るほかはない。
皆これは自他を見る事ができない半人足の、寄合い仕事である。


「喰へば減り 減ればまた喰ひ いそがしや 永き保ちのあらぬこの身ぞ」、

屋根は銅板で葺いて、蔵は石で築けるが、三度の飯を一度に喰いおく事はできない。
やがて寒さが来るとて、着物を先に着て置くという事もできない人身である。
そうであれば長くは生きられないのは天命である。


「腹くちく 喰うて つきひく女子等は 仏にまさる悟りなりけり」、

我が腹に食満れれば寝ているのは、犬猫を始め心無き物の常の情である。
それなのに食事を済ますと、すぐに明日食べる物をこしらえるのは、
未来の明日の大切なる事をよく悟るためである。

この悟りこそ人道に必要な悟である。
この理をよく悟れば、人間はそれだけで事足りるであろう。
これが私の教えであり、悟道の極意である。

あたかも道を悟ったような類の悟りは、
悟っても悟らなくても、知っても知らなくても、
ともに害もなく益もなない。


「我というその大元を尋ねれば食うと着るとの二つなりけり」、

人間世界の事は政事も教法も、皆この二つの安全を計るためだけである。
その他は枝葉のみであり、潤色のみである。

            <感謝合掌 平成27年8月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その41 - 伝統

2015/08/25 (Tue) 18:19:45


尊徳先生はおっしゃった。


世の中では、とにかく増減の事について、さわがしいことが事多いが、
世上にいう増減というものは、たとえば水を入れた器を向こうへこちらへ傾けるようなものだ。

むこうが増せばこちらは減り、こちらが増せば向こうが減るだけである。
水においては増減はない。

向こうで田地を買って悦ぶものがいれば、こちらで田地を売って歎く者がある。
ただ向こうとこちらとの違いがあるだけである。
本来増減はないのだ。

私の歌に

「増減は器傾く水と見よ」

というとおりである。

私の道で尊ぶ増殖の道はそれと異なる。

直ちに天地の化育を助け育てる大道であって、米5合で、麦一升でも、芋一株でも、
天つ神の積置せられた無尽蔵より、鍬や鎌の鍵をもってこの世上に取り出す大道である。
これを真の増殖の道というのだ。

尊むべく努めるがよい。

「天つ日の恵み積み置く無尽蔵 鍬でほり出せ鎌でかりとれ」

            <感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その42 - 伝統

2015/08/26 (Wed) 19:37:15


尊徳先生はおっしゃった。


日月が清明であり、風雨が順調であることを祈る念いは、
天下の祈願所の神官や僧侶は、忘れる時が多いであろう。

しかし、入作小作の収穫を頼みに、生活を立てる、
農業に従事する女性・男性においては、
苗を植える時より刈り取る日までは、片時も忘れるひまはないであろう。

その情は、実に憐むべきである。
私はこの情を、歌に述べようと思ったが、意を尽す事ができなかった。

言葉が足りないから、聞きにくいであろうが、
「もろともに 無事をぞ祈る年毎に 種かす里の 賤女(しづめ)賤の男(を)」

            <感謝合掌 平成27年8月26日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その43 - 伝統

2015/08/27 (Thu) 18:25:33


尊徳先生がおっしゃった。


善因には善果があり、悪因には悪果を結ぶ事は、皆人が知るところであるが、
目前に萌(きざ)して、目前に顕われる物であれば、
人々はよく恐れ、よく謹しんで、善種を植え、悪種を除くであろうが、

いかんせん、今日まく種の結果は、目前にきざせず、目前に現われず、
10年20年ないし40年50年の後に現れる物であるために、
人々は迷って怖れることがない。

歎かわしい事ではないか。
その上にまた前世の宿縁がある、
いかんともできない。

これが世の中の人の迷いの根本である。

しかしながら、世の中すべての事象に、原因がないものはなく、結果がないことはない。
一国の治乱、一家の興廃、一身の禍福みなそのとおりだ。
恐れ慎しんで、迷ってはならない。

            <感謝合掌 平成27年8月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その44 - 伝統

2015/08/28 (Fri) 19:15:28


尊徳先生はおっしゃった。


最近の世の中は嘘でも、さしつかえがないようだが、
これはその相手も、また嘘であるからである。
嘘と嘘であるがゆえに、そのままとどこおることもない。

たとえば雲助仲間が口げんかをするようなものだ。
もし嘘を以て、実に対する時は、すぐにさしつかえるであろう。

たとえば100枚の紙を、1枚とれば知られないようだが、99枚目にいたって不足する、
百間の繩を5寸切るのも同様で、99間目にいたって、その足らないことを知る、

人の身代も1日10銭取て、15銭遣い。20銭取って、
25銭遣う時には、年の暮まではしれなくても、
大晦日になって、その不足はあらわれる。

嘘が実に対することができないのはこのようだ。

            <感謝合掌 平成27年8月28日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その45 - 伝統

2015/08/29 (Sat) 17:24:39


尊徳先生はおっしゃった。


貧となり富となる、偶然ではない。
富も因って来たるところがある、貧も因って来るところある。

人は皆貨財は富者のところに集まると思っているがそうではない。
節倹であるところと勤め励むところに集まるのだ。

百円の身代の者が、百円で暮す時は、富の来たる事がなく貧の来たる事がない。
百円の身代を80円で暮し、70円で暮す時は、富がこれに帰し、財はこれに集るのだ。
百円の身代を120円で暮し、130円で暮す時は、貧はこれに来たり財はこれを去る。
ただ分外に進むのと、分内に退くとの違いだけである。

ある歌に

「有りといへば有りとや人の思ふらむ呼べば答ふる山彦の声」

というように、世人は今は有っても、その有る原因を知らないで、

「無しといへば無しとや人の思ふらん よべば答ふる山彦の声」

にて、世人は今ないのにその無い原因を知らない。

今有る物は今に無くなり、今無いものは今にあり、
たとえば今有る銭がなくなるのは、物を買うからである。
今無い銭が今あるのは、勤めるからである。

繩を一房なえば五厘手に入り、一日働けば十銭手に入るのだ。
今手に入る十銭も、酒を飲めばただちになくなることは、
明白であり疑うことのできない世の中なのだ。

中庸曰く、
誠なれば則ち明かなり、明かなれば則ち誠なり と、

繩一房なえば五厘となり、五厘使えば繩一房来たる、
晴天白日の世の中ではないか。

            <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その46 - 伝統

2015/08/30 (Sun) 19:36:04


尊徳先生がおっしゃった。


山畑に粟や稗が実る時は猪や鹿、小鳥までも出て来て、これを取って食う。
礼もなく法もなく、仁義もない。
それぞれが腹を養うだけである。

粟を育てようと肥しをする猪や鹿などいない。
稗を実らせようと草を取ろうとする鳥もない。
人であって礼法がないものは、どうしてこれと異なろうか。

私が戯れに詠んだ歌に

「秋来れば山田の稲を猪(しし)と猿、人と夜昼争ひにけり」

検見に来る地方官は、米を取るためである。
検見を受ける地主も、作徳を取るためである。
小作は元よりである。

そうであるけれども皆仁があり義があり、法があり礼があるために、
心中には争っていても、乱には及ばないのだ。

もしこの三人のうち、一人仁義礼法を忘れて、私欲を押し張ればたちまち乱れるであろう。

世界は礼法こそ尊いのである。

            <感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その47 - 伝統

2015/08/31 (Mon) 17:53:38


ある人が問うた。

地獄・極楽というものは実際にあるものなのでしょうか。


尊徳先生はおっしゃった。

仏者はあるというが、取り出して人に示す事はできない。
儒者はないというが、また往って見きわめたのではない、
ありというもないというも、ともに空論に過ぎない。

しかしながら、人の死後に生前の果報はなくて、かなわないのが道理である。
儒者がないというのは、三世を説かないからである。

仏は三世を説く。

一つは説かず、一つは説くも、三世は必ずある。
だから地獄・極楽がないというわけにいかない。
見る事ができないからといって、ないと極めることができない。

さて地獄・極楽はあるといっても
念仏宗では、念仏を唱える者は極楽へ行き、唱えない者は地獄へ落ちると、
法華宗では、妙法を唱える者は浮び、唱えない者は沈むと、
また甚しきにいたっては寺へ金や穀物を納める者は極楽へゆき、納めない者は地獄に落ちると、
このような道理は決してあるわけがない。

もともと地獄は悪事を行った者の、死んでやられるところ、
極楽は善事を行った者の、死んでいくところである事は疑いない。

地獄・極楽は勧善懲悪のためにある物であって、
宗旨の信・不信のためにあるものではない事は明らかである。

迷ってはならない。

疑ってはならない。

            <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その48 - 伝統

2015/09/01 (Tue) 17:57:59


尊徳先生はおっしゃった。


鐘には鐘の音があり、鼓(つづみ)には鼓の音があり、笛には笛の音がある。
音はそれぞれ異っているが、その音たるや一つである。
ただその物に触れて、響きが異なるだけである。

これを別々の音に聞くのを、仏道では、迷いといい、
これをただ一音に聞くのを、悟りというようなものだ。

しかしながらこれをすべて別音に聞いて、
そのうちをいくつにも分かって聞かなければ、
五音六律が分けられないため、調楽はできない。

水も朱にすられて赤くなり、藍に和して青くなるが、地に戻せばもとの清水になるのと同じだ。

音は空であって打てば響き、打たなければ止む、
音の空に消えるのは、打った響きが尽きたからである。

そうであれば神といい、儒といい、仏というのも、本来は一つである。
一つの水を酒屋にては酒といい、酢屋では酢というような違いがあるだけである。

            <感謝合掌 平成27年9月1日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その49 - 伝統

2015/09/02 (Wed) 17:55:16


尊徳先生はおっしゃった。


衣は寒さをしのぎ、食は飢えをしのぐだけで足りるものである。
その外は皆無用の事である。
官服は貴賤を分つ目印であって、男女の服はただよそおいだけである。

婦女子の紅おしろいとどうして異なろう。
紅おしろいがなくとも婦人であれば、結婚にさしつかえはない。

飢えをしのぐための食、寒さをしのぐための衣は、智愚・賢不肖を分たず、
学者でも無学者でも、悟っても迷っても、離れる事はできないものである。
これを備える道こそが人道の大元であり、政道の本根である。

私の歌に

「飯と汁木綿着物ぞ身を助く其の余は我をせむるのみなり」

と詠んだ。

これが私の道の悟門である。
よくよく徹底するがよい。

私は幼い頃より食は飢えをしのぎ、衣は寒をしのいで足りる。
ただこの覚悟一つで今日に及んだ。
私の道を修行し、施行しようと思う者は、まずよくこの理を悟るべきである。

            <感謝合掌 平成27年9月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その50 - 伝統

2015/09/03 (Thu) 19:28:21


尊徳先生はある宿場の旅屋に宿泊した。

床の間に

「人常に菜根を咬(か)み得ば則ち百事做(な)すべし」

と書いた掛け軸がかかっていた。

先生はおっしゃった。

菜根が何の功能があって、そういうのかと考えてみるに、
これはそ食になれて、それを不足に思わない時は、なす事は皆成就するという事である。

私の歌に「飯と汁木綿着物は身を助く その余はわれを責むるのみなり」と詠んだのと同じだ。
よい教訓である。

またそのかたわらに

「かくれ沼の藻にすむ魚も天伝ふ日の御影にはもれじとぞ思ふ」

と書いた短冊がかかっていた。

先生はおっしゃった。

この歌は面白い。
米は地から生ずるようだが、元は天から降ってくるのと同じだ。

太陽は日々、天から照すところの温気(うんき)が、
地に入って、その力にて米穀は熟するのである。
春分に耕し初める頃から、秋分に実るまでを、尺杖のように図に書いてみるがよい。

10日照れば10日だけ、一月照れば一月だけ、地に米穀となるべき温気が入っているから、
たとえその間に雨天や冷気等があったとしても、それまで照り込んでいるだけの実るのだ。

しかしながら人力を尽さなければ、実りが少い。
なぜかといえば、耕して鋤ですいてかく働きが多ければ多いほど、
太陽の温気が地に入ることが多いからである。

地上の万物は一つとして、天つ日のみ影にもれた物はない。

海底の水草ですらも雨天や冷気の年は繁茂しないという。

そうであろう、この歌は、歌人が詠んだものには珍らしい。

            <感謝合掌 平成27年9月3日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その51 - 伝統

2015/09/04 (Fri) 18:07:00


尊徳先生はおっしゃった。


富と貧とは、元は遠く隔てるものではない。
ただ少しの隔てがあるだけである。
その本源はただ一つの心得にある。

貧者は昨日のために今日勤め、昨年のために今年勤める、
だから終身苦しんで、功がないのだ。

富者は明日のために今日勤め、来年のために今年勤める。
安楽自在であって、行う事で成就しないという事がない。

そうであるのに世の人は、今日飲む酒が無い時は、借りて飲み、
今日食う米がない時は、また借りて食う。
これが貧窮する原因である。

今日薪を取って、明朝飯を炊いて、今夜繩をなって、明日垣根を結ぶならば、
心安らかであってさしつかえることがない。

そうであるのに貧者のやり方は、明日取る予定の薪で、今夕の飯をたき、
明夜なう繩で、今日垣根を結ぼうとするようなものだから苦しんで功が成らないのだ。


それゆえに私は常に言っている。

貧者が草を刈ろうとする時に鎌がないとする。
これを隣りから借りて、草を刈るのが常の事である。
これが貧窮を免れる事ができない元因である。

鎌がなければまず日雇いで賃金を取るがよい。
この賃金で鎌を買い求めて、その後に草を刈るがよい。

この道はすなわち開闢元始の大道に基くものだから、卑怯・卑劣の心がない。
これが神代の古え、豊芦原に天降った時の、神の御心である。

だからこの心がある者は、富貴を得て、この心が無い者は、富貴を得る事ができないのだ。

            <感謝合掌 平成27年9月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その52 - 伝統

2015/09/05 (Sat) 18:44:21


尊徳先生はおっしゃった。


私の教えは、徳をもって徳に報いるの道である。

天地の徳より、君の徳、親の徳、祖先の徳、そのこうむるところ人々皆広大である。
これに報いるに私の徳行をもってすることをいう。

君の恩には忠、親の恩には孝の類、これを徳行という。

しかしこの徳行を立てようとするには、
まず己々の天禄の分を明らかにして、これを守ることを先とする、
だから私は入門の初めに、分限を取り調べてよくわきまえさせるのである。

なぜかといえば、おおよそ富家の子孫は、
自分の家の財産はどれほどあるか知らない者が多いからである。



論語に、

師冕(しべん)見ゆ、皆坐す、
子の曰く、某(それがし)は斯(ここ)にありと、

師冕出づ、
子張問ふて曰く、師と言ふの道か、
子の曰く、然り、固より師を助くるの道なり

とある。


私が人を教える、まず分限を明細に調べて、汝が家株・田畑何町何反歩、
この作益金は何円、うち借金の利子何ほどを引いて、残りはなにほどである。
これがなんじの暮すべき、一年の天禄である。

この外に取るところはなく、入るところはない。
この内で勤倹を尽して、暮しを立てて、何ほどか余財を譲る事を勤めるがよい。
これが道である。

これがなんじの天命であって、なんじが天禄であると、
皆このようにして教えるのである。
これがまた心が盲目の者を助ける道である。

入るを計って天分を定め、付き合いや贈答も、義理も礼義も、皆このうちで行うがよい。
できなければ、皆止めるべきである。

あるいはこれをケチだという者があっても、それは言う者の誤りであるから気にしなくてもよい。
なぜかといえばこの外に取るところがなく、入るものがないからである。

そうであれば義理も交際もできなければ行わないのが、すなわり礼であり義であり道である。
この理をよくよくわきまえて、惑ってはならない。

これが徳行を立てる初めである。

自分の分度が立たなければ徳行は立たないものと知るがよい。

            <感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その53 - 伝統

2015/09/06 (Sun) 17:57:42


尊徳先生はおっしゃった。


人生尊ぶべき物は、天禄を第一とする、

だから武士は天禄のために、一命をなげうつのである。

天下の政事も神・儒・仏の教えも、その実、衣食住の3つの事のみである。
庶民が飢えず寒(こご)えないのを王道とする。

ゆえに人たる者は、慎んで天禄を守らなければならない。
固く天禄を守る時には、困窮・艱難の患いはない。

かりそめにも、自分の天禄を賤む心が出る時は、困窮・艱難たちまちに至る。
天禄の尊い事はいうまでもない。

日々の衣食住その他、はきもの、笠やからかさから鼻紙までも、皆天禄分内の物である。
嫁は他家より来たる者ではあるが、その原因を考えると、
天禄の中より来たるといっても違いはない。

だから私のこの方法は、天禄がない者に天禄を授け、天禄の破れんとするを補い、
天禄の衰えた者を盛んにし、かつ天禄を分外に増殖して、
天禄を永遠に維持するところの教えであるから、尊い事は論をまたない。

古語に、血気ある者、尊信せざる事なし、というのは、私の道の事である。

            <感謝合掌 平成27年9月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その54 - 伝統

2015/09/07 (Mon) 19:00:35


尊徳先生はおっしゃった。


ある藩士のなにがしが、江戸詰めで、顕職を勤めた。
一朝退勤の命があって、帰国することになった。
私は往って暇を告げ、
かつその者に言った。

あなたがこれまでの驕奢(贅沢)は、実に思いの外の事であったが、
職務のことで、いいとも悪いとも言いますまい。

今帰国しようとされています。

これまで用いられた衣類や諸道具等は皆分不相応の品物です。
これを持ち帰る時は、あなたの驕奢はなくならず、
妻子なども同じく奢侈が止らないことでしょう。

その時はあなたが家は、財政がたちゆかず滅亡に至りましょう。
恐るべきことではありませんか。

刀は折れていない曲っていない利刀で、外飾がないのを残し、
その他は衣類諸道具、一切これまで用いた物品は残らず、
親戚・朋友や懇意にした出入の者等に、形見としてすべて与えなさい。

普段着・寝巻のまま、ただ妻子だけを連れて、
帰国して、一品も国に持ち帰ってはなりません。

これが奢侈を退けて、驕意を断つの秘伝です。

そうでなければ妻子や扶養者までしみこんだ奢侈は決して退きません。
あなたの家が終には亡びる事は鏡に掛けて見るようです。

決して迷ってはなりません、と懇々と教えたけれども、

なにがしは用いる事ができず、一品も残さず船に積んで持ち帰って、
この物品を売り売り生活を立て、終に売り尽して、
言うこともできないほどの困窮に陥ってしまった。

歎かわしいことではないか。
これが分限を忘れて、驕奢に馴れて、天をも恐れず人をも憚らない過ちである。

自分の驕奢が、誠に分に過ぎていると気付いたならば、
同藩に対しても、憚からなくてならない。

このケースは驕奢に馴れて自ら驕奢と知らなかったためである。

歎くべきことだ。

            <感謝合掌 平成27年9月7日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その55 - 伝統

2015/09/08 (Tue) 17:40:39


高野丹吾氏が帰国(相馬藩)しようとしていた。

尊徳先生はおっしゃった。


伊勢の国の鳥羽の港から、相模国の浦賀の湊までの間に、
大風雨の時、船がとまるべき港は、たった伊豆国の下田港だけである。
だから灯台がある。

大風雨の時は、この燈台の明りをめあてに、往来の船は下田港に入るのだ。
この脇に妻良子浦(めらこうら)というところがある。
岸の巌が高く大岩が多く、船路がないところである。

この辺に悪民がいて風雨の夜に、この処の岸の上に火を焚いて、下田の灯台と、
見違うようにするものだから、難風をしのごうと、燈台をめあてに走り来る船は、
灯台の火と見まちがって入り来る勢いに、大岩に当って破船することが多かった。

この破船の積荷物品を奪って、取り隠し置いて分配した事が、たびたびあった。
ついには発覚して皆刑び処せられたと聞く。
自分のわずかの欲心のために、船を壊し人命を損ない、物品を流失させた。
悪い仕業ではないか。

私の仕法にもまたこれに似た事がある。
烏山の灯台は菅谷氏であった。
細川家の灯台は中村氏であった。

しかし、二氏の精神は半途で変じ、
前にいたところと違ったために、二藩の仕法目的を失い今困難に陥った。

かりそめにも、人の師表となろうとする者は、恐れなければならない。
慎まなければならない。

貴藩のごときは、草野氏・池田氏のような、大灯明上にあれば、安心であるといえる。
あなたもまた成田・坪田二村のためには大灯明である。

万一心を動かして、いどころを移すような事があれば、
二村の仕法の破れる事は、船の岩に当れるがようなものだ。
そうであれば二村の盛衰・安危は、あなたの一身にある。

よくよく心に銘じなければならない。
二村のため、あなたのため、この上もない大事である。

あなたはよくこの決心を定めて、
不動仏の、猛火が背を焼いても、動かざるごとくであれば、
二村の成業においては嚢中(のうちゆう)の物を探るよりもやさしい。


あなたの心さへ動かなければ、村民はあなたをめあてとなして、
船頭の船路を見て、おもかじ。トリカジと呼ぶようなもので、驕奢に流れないよう
オモカジと呼んで直し、遊惰に流れないようトリカジと呼んで漕ぐのみである。

その時は興国・安民の宝船ではないか、
あなたが所有する成田丸・坪田丸は、成就の岸に、安全に到着することは疑いない。

この時君公のお悦びはいかばかであろうか。
草野・池田の二氏の満足もいかばかりであろうか。

勤めよや勤めよや。

            <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その56 - 夕刻版

2015/09/09 (Wed) 18:45:03


高野氏は旅粧いが成って暇乞いにきた。

尊徳先生はおっしゃった。

あなたに安全の守りを授けよう。
すなわち私が詠んだ
「飯と汁木綿着物は身を助く其余は我をせむるのみなり」
の歌である。

歌が拙ないからといって軽視してはならない。
身の安全を願うならばこの歌を守るがよい。

一朝変ある時に、自分の味方となる物は、飯と汁木綿着物の外にはない。
これは鳥獣の羽毛と同じくどこまでも味方である。
このほかの物は、皆自分の身の敵と知るがよい。

この外の物は、内に入るのは敵が内に入るようなものだ。
恐れて除き去るがよい。

これしきの事は、これくらいの事はといいながら、自ら許すところから人は過つのだ。
初めは害がないといっても、年を経る間に思わず知らず、いつか敵と成って、
後悔しても及ばない場合に立ち至る事がある。

このくらいの事はと自ら許すところの物は、
猪や鹿の足跡のようにく、隠す事はできない。
ついに自分の足跡のために猪や鹿が猟師に獲られるのと同じだ。

この物が内に無い時は、暴君も汚吏も、どうにもする事ができない。
進んで私の仕法を行う者は、慎まなくてはならない。
必ず忘れてはならない。

高野氏は何度も頭を下げて感謝した。

波多八郎が傍にあって言った。

古歌に
「かばかりの事は浮世の習ひぞとゆるす心のはてぞ悲しき」
というのがあります。

先生の教戒によって思い出だしました。
私も感銘いたしました。
と言って生涯忘れまいと誓った。


            <感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>

二宮翁夜話 巻之三~その57 - 夕刻版

2015/09/10 (Thu) 18:12:04


尊徳先生はおっしゃった。


人の神魂について、生ずる心を真心という。
すなわち道心である。

人の身体について生ずる心を私心という。
すなわち人心である。

人心はたとえば、田畑に生ずる草のようなものだ。
勤めて草刈して除かなければならない。
そうでなければ、作物を害するように、道心を荒してしまう。

勤めて私心の草を草取りして、米や麦を培養するように、
工夫を用いて、仁義礼智の徳性を養って育てるがよい。

これを身を修め、家を斉える勤めである。


二宮翁夜話 巻之三 終

・・・

次回からは、二宮翁夜話 巻之四について、新たなスレッドにて進めてまいります。

            <感謝合掌 平成27年9月10日 頓首再拝>

Re: 二宮尊徳(二宮金次郎)③ - holpdcvyMail URL

2020/08/29 (Sat) 19:12:42

伝統板・第二
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