伝統板・第二

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先祖供養 - 伝統

2015/07/13 (Mon) 04:54:50

今日は7月13日、「新盆(しんぼん)」が始まります。
「新盆(しんぼん)」、8月の「旧盆」ともに、
生きている御先祖様へ感謝の思いを届ける大切な期間です。

(「新盆」「旧盆」
  → http://mukaebi08.seesaa.net/article/124112011.html )


このスレッドは、光明掲示板・第三「先祖供養 (511)」からの継続です
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=128

・・・


《あなたの御先祖様は生きている》

          *『精神科学』誌(昭和38年2月号P6~8)より


『祖先と子孫との運命の連関』

現代の多くの人たちは、あまりにも個人主義に目醒め過ぎているために、
自己の運命が左右される原因となるべき両親との連関、更に進んでは祖先の霊魂との連関を
忘れてしまっていて、恰も根を培い幹をそだてる事を忘れて、枝葉ばかりが独走して、
美しき花を咲かせ良き果を実らせようとあせっているかのように見えるのである。

 
しかしながら諸君よ、あなた達の祖先は生きているのである。 
無論、祖先の肉体は生きていない、けれども肉体は「人間そのもの」ではないのである。 

肉体は“霊魂”が地球上で或る使命を果す目的をもって着用するところの
“宇宙服”の一種であって、地球という天体で現実的な仕事をする間だけ着用したあとは、
脱ぎ棄てるべき不要物に過ぎないのである。

 
肉体の死によって肉体を脱出した吾々の祖先の霊魂は、霊界に於いて或る期間休息し、
また他の肉体に受胎して、別の異る環境に於いて、異る経験を新たに加えて
その魂が進歩し向上しつつあるのもあれば、尚、霊界に於いて生前の病苦の記憶の継続の中に
苦しみつつあるのもあり、

或は、既に高級霊となって、人類嚮導のために活躍しつつある霊もあり、
その生活状態は色々あるのであるが、いずれにせよ、彼らは子孫に対して愛着をもっており、
子孫の幸福と繁栄とを希いつつあることは確かであるのである。

ところで、彼らが子孫に対して愛着の念をもっているということは、
彼らが彼らの有する色々の精神状態を放送しつつあり、
その“念波”の放送を吾々が受信しつつあるということである。 

もっとも吾々は自己の精神波動の周波数にしたがって、
或る程度の選波作用をもっているのであるから、
祖先から放送されるすべての精神波動(念波)を悉くは受信する訳ではない。

 
其処には「類を以て集る」 「類は友を呼ぶ」という法則が行われており、
自己が極めて明るい健全な精神状態でいる時には、たとい暗い不健全な病的な精神波動を
放送されても、それを感受することは、あまり無いのである。

併し人間は、なかなか四六時中いつも明るい健全な精神状態を平均に保つことが至難であるから、
精神状態が多少落ちて、心が暗く陰気に沈んで来たときに、霊界でまだ悟りをひらかないで
苦悩している祖先の暗い陰気な精神波動を受信して、自分自身が一層暗くなり、
その不幸な状態に拍車をかけ、それを一層増悪するような結果になり勝である。

 
こういう事が、“個人の運命”と“霊界の祖先の運命”との相互関係に於いて起るのであるから、
祖先の霊魂たちを、導いて悟りをひらかせて、その暗黒なる状態又は運命から救うために、
“真理を述べた言葉”〈聖典又は聖経〉を読誦して聴かせることが必要なのである。

それは単に祖先の霊魂に悟りをひらかせて、
その余慶として自分が幸福になるための手段とするというような
自己中心的目的だけではないのであって、

寧ろ自己の“地上の生活”が今日あるのは祖先を媒介として斯くあるのだという
事実にもとづいて、その恩に報いるための報恩感謝の行事としてお墓又は仏壇、神棚等に
祭祀せる祖霊の前に“真理の聖経”を読むべきである。

 
“七つの燈台の点燈者の神示”の中には、
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう」
と示されているのであるが、

報恩感謝の念で『甘露の法雨』を読誦することは、
単に霊界の祖先を悟りに導くだけの功徳にとどまらず、
神の救いの霊波に感応することになるのである。

同時に既に高度の発達をとげた祖先霊の“子孫を護る霊波”にも感応して、
その導きを受け易くなり、病気も癒やされ、運命も改善されることになるのである。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/de89bfda66f06161d48cebef8898b202 )

・・・

<関連Web>


(1)「光明掲示板・第一」スレッド「先祖供養 (125)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=63  

(2)「光明掲示板・第二」スレッド「先祖供養 (96)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=45

           <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

盂蘭盆会 - 伝統

2015/07/15 (Wed) 19:06:13

「 盂蘭盆供養について」~ 谷口輝子先生 

         *「白鳩」 昭和39年10月号より
         (”童子 さま”のブログより
           http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23240741.html

「そうね。おぼんて、何て言ったら貴方に解るかしら。
あのね、お釈迦さまの十大弟子の一人に目蓮さまと仰有る偉い坊さんがあってね。

その坊さんは天眼通と言って肉眼では見えない世界も見えたのよ。
目蓮さまが天眼力で幽界を御覧になったところ、亡くなったお母様が地獄で
「倒懸」の苦と言って、さかさまに吊り下げられて苦しんで居られる姿が
見えたのですって。

親思いの目蓮さまは驚き悲しがり、お釈迦さまに教えて頂いて、
尊いお経をあげたり色々の食物をお供えしたりして御供養をなさって、
お母様を苦しみから救ってお上げになったのが七月十五日だったのよ。

そのことに倣って、
後の世の仏教信者たちが、自分の肉身たちの亡者を幽界からお招きして
愛情をこめて盂蘭盆のお供養をして上げているのです。

東京へ出稼ぎに来ている人たちも、故郷へ帰ってお墓詣りをしたり、
先祖の御魂をお招きしてお供養をしたりするために、
同じ頃汽車に乗るのでこむんですよ。

貴方たちの帰る頃には、おぼんを済して東京へ帰る人たちで汽車はまたこむでしょうね。
でも善いことですね。乗車券を買うために、夜半から行列をして、苦労をしてでも
切符を手に入れた人たちが、故郷で肉身たちと集って、亡き人たちの供養をすると
いうことは、尊いことですね。

また死んだ人と生きている家族との心のつながりを強める温かい行事ですね・・・・・」

幼い時から霊魂の不滅を聞かされている雅宣少年は「ふ~ん」とうなずき、
何の疑いも見せない顔をしてばたばたと走って行った。

目蓮尊者は偉いお坊さんだと言われているが、
その母君は高い悟りの境涯に達しないうちに亡くなられたと見えて、
あの世で地獄に堕ちて、しかも最も苦しい責苦の一つである
「倒懸〈ウランバナ〉」の苦を受けて居られたのであったが、

息子の孝心によって真理の教をきき、
「さかさま」だった心が「真直ぐ」の心に立ち直られたのであろう。

「さか吊り」は誰かがしたのではく、
自分の心で自分が「さか吊り」をしていたのであった。


これは目蓮尊者の母君の昔話だけではない。

現代に生きている人たちの中にも、心が顛倒しているために、
さかさまに物ごとを見たり、人の善意をさかさまに受取ったり、
真実をゆがめて嘘をついたり、いろいろと神の御心に反する行いをして、
自分自身を苦しめている人が沢山あるように思う。

盂蘭盆の十五日の近づいて来た今日此頃、私たちは一層反省を深めて、
すべてのもの、すべてのことを正しい眼で見、正しく処して行きたいと思う。


・・・

<参考Web:光明掲示板・第一<お盆のはなし> 橋本徹馬NEW (10180)
      → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1960

・・・

中国での盆会の由来では、

お釈迦さまの教え

「七月十五日、安居(あんご)の最後の日に、
できるかぎりの食べ物・飲み物・衣服を用意して、
母親になりかわって比丘(修行僧)たちみんなに供養のまことをささげるとよい」

により、目連がその通り実行する事により

「比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。
するとその喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、
母親の口にも入り、母親が救われた」とあります。

( ⇒ 他の人への「愛行」が、喜びとなり、それが巡りめぐって、
    ご先祖さまの霊(みたま)を救うことになるという、教え)



一方、日本での盂蘭盆会では
家に帰ってきた先祖の霊魂をもてなす意味合いが濃くなっています。
「先祖が家に帰ってくる」というのは、元々の仏教の教えにはなく、
日本古来の習俗によるもののようです。


「生長の家」での供養は、まずは物施(食べ物・飲み物)、
そして法施(聖経の読誦)を行なうようになっております。

           <感謝合掌 平成27年7月15日 頓首再拝>

家の中心を大切にせよ - 伝統

2015/07/21 (Tue) 21:07:04


           *「善き人生の創造」(P353~354)より


人間の幸福は人間自身の「我(が)」の固まりから来るものではないのであります。

「幸(さいわい)」と云う字が「割(さ)き延(は)え」と云う語源から来ているのは
神の生命(いのち)の分割延長流入によってのみ人間の幸福があるからである。

神の生命(いのち)が流れ入らなければ人間に幸福などあり得ないのであります。
神の生命(いのち)が流れ入るには神の生命(いのち)の法則に随わねばなりません。


神の生命(いのち)の法則とはすべて「家(いえ)」には中心があると云うことであります。
即ち大は「宇宙」と云う家から、小は物質原子と云う家にさえも
中心があると云うことであります。

あなたの家が若し幸福でなかったり、誰か家族に病気が起っているようでありましたならば、
家の「中心」がおろそかにされていはしないかと云うことを反省なさらねばなりません。

家の「中心」とは何か、それは祖先である。

あなたの祖先祀りは大切になされていますか。
毎日礼拝なさいますか。
墓はきれいに掃除してございますか。

礼拝なさいましても、ただ習慣で形式上、お供えをポンと棚に上げて
お辞儀をすると云うような「形式(かたち)」ばかりでは可けないのであります

神は《まこと》であらせられ、御先祖も《まこと》であられますから、
それを礼拝するには 誠(まこと)をもって真心を以って
礼拝しなければならないのであります。

御先祖さまにお礼の心で「悟りの糧」となるべきお経を供養するのは、 
「法施」と申しまして、供養の中で最も尊い供養であります。

勿論生きている父母があれば父母に対する中心帰一が必要なのは申すまでもありません。

           <感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>

霊魂の浄化 - 伝統

2015/07/27 (Mon) 20:01:55


            *「人生を支配する先祖供養」(P4)より

「幸いにして、霊魂の浄化というものは、霊魂は物質ではないから、
洗濯機にかけて霊魂を摩擦の搾(し)め木で拷問的に叩きのめさねば浄化できぬ
というものではないのである。

霊魂の浄化は消極的には”懺悔(さんげ)”と、
積極的には”真理を悟る”という二つの方法によって主として行われる。

”懺悔”というのは、

”今までの行為は悪うございました。
人間の為すべき本来の姿ではございませんでした。
今後一切いたしません”

と過去の悪業を”心の世界”で否定することで、
過去の悪業を否定消去してしまうのである。


”真理を悟る”というのは、『人間の実相』は本来”如来”であり、
”神の子”であるという真理を述べた経典を現実界の縁者から読誦して貰い
(これを聖経供養と謂う)その真理の霊波を霊界で感受して、
人間本来”如来”であり”神の子”であり、本来”無罪”の実相をその霊魂が自覚して、
悪業存在の世界から解脱して”如来”の実相地に超入することである。

この”如来地”(如来の境地)に入ることを成仏するというのである。
祖先及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の子孫及び縁者の義務でもあり、
それはまた自分自身に報いられて来て家族ぜんたいの健康ともなり、繁栄ともなるのである。

           <感謝合掌 平成27年7月27日 頓首再拝>

冥界の照魔鏡について - 伝統

2015/08/01 (Sat) 20:53:05


         *『人生を支配する先祖供養』(P9~10)より

四十九日間の浄化の期間が終わった霊魂は
高級霊が霊波によって作ったスクリーンの前まで伴われていくのである。

彼はその浄化されて透明になった心で、そのスクリーンに向かうと、
そのスクリーンに、彼自身が生前の一生涯に閲(けみ)して来た全ての生活が、
天然色映画の如くカラーテレビの如く映し出される。

幽界の此の前室は、もう現実世界とは時間のサイクルが異なるのであるから、
極めて短時間ともいうべき間に、彼自身の生涯の生活の実情を、
第三者的立場に於いて、それを眼(ま)のあたり見るのである。

現実世界に於いては、彼は第三者ではなく、
第一者として自分自身が主人公として生活して来たので、

「これ位のことは別に悪でも不浄でもない」

と厳重には批判することなしにわがまま勝手次第に生活して来たのであるが、

今、こうして霊的スクリーンの前に立って自分の一生涯の生活を
第三者として客観的に見せられると、善悪判断の基準が公正になって、

「この位のことは悪くない」と思って生前に行為した事柄でも、

「ああ、これも悪かった。あれも悪かった。あんな汚い行為をするのでなかった」

と懺悔の心が起こるのである。

懺悔というのは心を洗い浄めるという意味である。
その懺悔の程度は、それぞれの霊魂によって反応が異なって、
必ずしも完全に悔い改めが完了する訳ではない。

過去に色々犯しきたった悪業でも「わるかった! 」と否定し、
「再び罪を犯すまい」と反省決意すれば、その蓄積された“業”が着物を脱ぐように
一枚一枚剥落(はくらく)して空中に消えて行くのである。 

この過去の行為の一切を照らし出す霊的スクリーンを、擬人的に閻魔(閻魔)大王と称し、
または神話的に“閻魔の庁”の照魔鏡(しょうまきょう)と称するのである。

そして「悪かった、二度と再び犯すまい」という決意と共に、
悪業の蓄積が一枚一枚、剥落して行く課程を、三塗(さんず)の川の手前に
“脱衣婆”がいて、亡者の着ている着衣を脱がせるというような寓話(ぐうわ)が
仏教ではつくられているのである。

いずれも死者の霊がそこで過去の業が自己審判され、消える業は消え、
消えない業はそのままに、その業の種類の善悪軽重にしたがって三塗(さんず)のうちの、
どれかに行く事が定められて、その霊魂は霊界での落ち着く修業場が決定せられるのである。

それを三塗の川を渡るというのである。

           <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

祖先霊を祀ること - 伝統

2015/08/05 (Wed) 20:14:58

         *『人生を支配する先祖供養』(P13)より

死者の霊はこのように現実界の人々にも力を及ぼすことができるのである。

諸君は祖先の霊の祭祀(さいし)のことを思い浮かべることがあったり
気にかかったりするならば、それは祖先(亡父母を含む)自身の祭祀して貰いたい
意識があなたの意識の中に織り込まれているからなのである。

だから、そういう考えが起こってきたときには
お仏壇のない家庭ならお仏壇を買ってきて祀(まつ)ってあげるがよい。

           <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

霊界への移行と死後の霊魂の状態 - 伝統

2015/08/07 (Fri) 19:54:41


          *『人生を支配する先祖供養』(P13~14)より

このような高級霊の特殊の状態は別として、
一般普通人の霊魂の、肉体死後間もなくの状態は、
現実世界の臨終の状態のつづきの状態を経験するのである。

心境が急激に変わることはないからである。

霊魂が肉体を脱皮して新たなる境涯に入る課程は、
毛虫が蛹(さなぎ)の状態から脱皮して
翅(はね)の生えた蝶の状態に移行する課程にも似ている。

それは“霊界への出産”ともいうべき状態で、
出産の陣痛ともいうべき断末魔の苦しみを経験する。

(もっとも悟境に入っている霊魂は既に述べたように無痛分娩とでも謂(い)うべき
安楽の状態で、意識を持続しながら霊界へ移行する)

断末魔の苦しみを味わう霊魂は、神の慈悲によって、ある程度以上の苦痛を免除して、
ある期間人事不省の無意識状態に入る。

(人により長短があり、間もなく意識を回復する者もあるが、
長きは数十年にわたり人事不省のまま継続するのもある)

それは各自の過去の業因の相異によって業果(ごうか)が異なるのである。

その人事不省の無意識状態が長きにせよ、短きにせよ、いずれにせよ、
霊界に於いて意識を回復したときには、(その人にとって無意識中のことは
心の中に存在しないからである)

生前、臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生(よみがえ)って来て、
癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して来て、霊界でその癌の症状を
その幽体に継続する状態を仮作(けさ)し苦しむようになるのである。

           <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために - 伝統

2015/08/08 (Sat) 17:59:28


           *『人生を支配する先祖供養』(P14~15)より

病念を霊界まで持ち越して、
病気の記憶のままに病気を霊界で体験しつつ苦しんでいる霊魂の救われる道は、

病気や肉体はないということと、死後の生命の継続を説いて聞かせてあげ、
「死」というものは《ない》、それは現実界から霊界への転任である。
その転任の時機は神の御手にあるのだという真理を悟らせてあげることが第一である。

それには祖霊を招霊して『甘露の法雨』を毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。

一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明の病気や不治の病気、
それに家庭不和などが改善される場合があるのである。

だから、先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものを
決しておろそかにしてはならないのである。

           <感謝合掌 平成27年8月8日 頓首再拝>

わが生命は祖先の生命の連続である - 伝統

2015/08/09 (Sun) 19:43:13


             *『人生を支配する先祖供養』(P15)より

祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の想念は、その子供に影響を与えるので
祖先が好まないところを子孫が行えば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて
その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。

また祖先または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、
信ずべからざるを信じ、妄執にとらわれていると、

現実界の子孫たるわれらがその念を受けて、正しいことを行いながらも、
それがおもしろくゆかなくなることになるから
祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らせてあげる必要がある。

(『生命の實相』第四巻、第五巻、第十六巻参照)

           <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

先祖供養 - 伝統

2015/08/11 (Tue) 17:43:25

先祖供養


            *生長の家Web版 誌友会(7月)より抜粋

《先祖供養はなぜ必要なのでしょうか?》

別々の人生を歩んできた男女が不思議な縁(同じ業因のものが集まるという親和の法則)で
夫婦となり、子どもが誕生し先祖の命を受け継いで新しい家庭を作っていくのです。

私や夫が生きているということは、数え切れないほどの多くの先祖(30代までさかのぼると
20億人以上)が命をつないでくれたおかげで、今ここに私や家族は生きているのです。
そのことに感謝の思いを表現していくのが先祖供養です。

それは、人間としてこの世に生まれ命をいただいている者の当たり前の、自然な行為です。
何か良いことがあるから先祖供養をするのではありません。

自分の命の根源である両親や先祖に感謝するということは、
自分の存在そのものを肯定することになり、
明るい人生を歩むための精神的土台となります。

なぜなら、私や子どもや孫達は両親や先祖の一人がいなくても
生まれてくることは出来なかったのです。

また、寝ている間も私達の心臓を動かしているのは誰でしょうか。
食べたものが、血となり肉となり栄養素となって体に蓄えられ命が維持される
生命の神秘について考えたことがありますか。

私たちは、自分が生きていると思っていますが、
本当は目に見えない不思議な力(先祖を通していただいた神の無限の生かす力)に
よって生かされているのです。

この世に誕生させていただき、生かされていることに感謝する心が、
幸せな人生を創っていくからです。

生長の家では、大地に根付く樹木に例えて、「大地は神様、根は先祖、幹は両親、子孫は枝葉、
枝葉に花咲き、よき果を結ぶは親に孝行、先祖に供養」と説いています。

祖先を供養することは、私たちの根っこを大切にすることになり、
枝葉である子孫が立派に成長し、美しい花を咲かせ、立派な果をつけることになります。


《先祖供養はどのようにしたらよいでしょうか》

生長の家では、人間の実相(本質)は神の子で完全円満、永遠生き通しの生命であり、
肉体が滅んでも霊魂は生き続けると、説いています。

先祖供養の意義の第一は、人間は神の子で、それ自身で完たいのですから、
外から何かを付け加えることによって初めて完全になるようなものではないのです。

死後、人間の神性(実相)を自覚した霊にとっては
どんな形式によっても祀ってもらう必要はないのです。

しかし、第二義的には人間の神性(人間は神の子で、肉体ではなく霊的実在である)の
自覚が足りず、未だ悟りの境地に達せず、肉体的自覚を脱し切っていない霊魂は、
肉体がなくても習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむ者もあるので、

応病与薬的に「食を欲するものには食を与え。薬を欲するものには薬を与え」というように、
宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには仏壇を与えて、
死後も生き続ける霊を供養し、誠を尽くすことが先祖に対する道となるのです。

だから、先祖が仏教で続いてきた家系の霊を祀るには仏教的儀礼に従うのがよいのです。
先祖に対する感謝の思いで、真理の言葉が書かれたお経を唱えて供養をすると
先祖の悟りも深まり、私たち子孫を守護する力も強くなります。


生長の家創始者・谷口雅春先生は、ご著書『霊供養入門』に
次のように、お説き下さっています。(265頁)

   聖経の読誦を供養されることによって、その霊魂がいよいよ一層“迷い”の束縛から
   解脱するに至ると、その霊魂は神通力を得て、今まで聖経読誦の供養を受けたことの
   感謝報恩に、守護神となって、その人を健康と繁栄とに導いてくれることにもなる


《先祖供養の仕方について》

 詳しくは、谷口雅春先生著『新版人生を支配する先祖供養』の71~74頁、76頁をお読みください。

①位牌(霊牌)を用意する。
 位牌がない場合は、清浄な木材(または紙)で四枚の位牌(霊牌)を作り
 父方の両親、母方の両親の両家の名前を下記のように書く。
  「〇〇家先祖代々親族縁族一切之霊位」

 昇天後五十年未満の場合は、下記のように一人ひとりを俗名で書く。
  「〇〇〇〇比古命之霊位」(男)
  「〇〇〇〇比女命之霊位」(女)

 書き上げた位牌は仏壇に安置する。
 仏壇がない場合は、部屋の中の清潔な場所に安置する。

②献せん(お供え)
 ご飯、お水、その他、その人の生前好きだった食物を供える。
 焼香して、地上の不浄な匂いを消す。

③招霊
  「〇〇家先祖代々親族縁族一切の霊イイイ・・・」
  「〇〇〇〇比古命(ひこのみこと)之(の)霊(みたま)イイイ・・・」
  「〇〇〇〇比女命(ひめのみこと)之(の)霊(みたま)イイイ・・・」
 と唱えて、供養する霊を順次呼び、
 最後に「其他親類縁者一切之(の)霊(みたま)イイイ・・・」と呼ぶ。

④聖経読誦
 まず、「唯今、これより生長の家の聖経(または讃歌)を読みます。
 このお経はあなたが祖先代々伝承してこられた〇〇宗の教えの真理を、
 最も分かりやすく現代語で書かれたものですから、

 心を集中してこのお経を聞き給うて悟りを開き、仏の境涯に達し給え、
 今後は毎日この時間に読誦します」と唱える。
 その後、感謝の念をもって、聖経を読誦する。

⑤最後に
 読誦し終えたら、次のように唱える。
 「あなたたちは、今聖経の説く真理を知り、
 既に肉体を脱して、自己は肉体ではないのだと悟られました。

 円満完全なる神の子であり、仏の子なのです。どうぞこの真理を充分お悟りくださり、
 一切の迷いの束縛から解脱し、益々霊界の修行を重ね給いて、
 一層高き霊位(みくらい)に昇り給え」

 このように、聖経の意味を説明し先祖供養を毎日、
 一定の時間を決めて、尊敬と報恩感謝の誠を込めて行いましょう。

 また、自然流産や人工流産した赤ちゃんがいる場合には流産児供養が大切です。
 特に人工流産は、本来ならば、元気に地上に誕生して、両親や家族の暖かい愛情の中で育てられ、
 この世の使命を全うするはずだったのです。

 それを親の都合で地上に誕生することなく闇に葬り去られた霊魂は
 親の暖かい愛情を受けることができず、どんなに淋しく悲しかったことでしょう。
 親はその胎児の無念の思いをくみ取り、懺悔の心と流産児を抱き慈しむ愛の心で
 名前をつけ供養をしましょう。


《流産児供養の仕方》

①位牌(霊牌)を用意する
 位牌(霊牌)に流産児の名前を書く。
 名前のない霊魂には、必ず名前をつける。

 性別が分からない場合は、「薫」や「操」などのように、男女どちらにも適する名前をつける。

 下記のように、他界した年月日と名前を書く。
  「平成〇年〇月〇日帰幽
   〇〇〇〇童子(どうじ)位(い)」

②仏壇に安置する
 位牌(霊牌)を仏壇に安置する。花や水、食物を供え、線香をたく。
 仏壇がない場合は、部屋の中の清潔な場所に安置する。

③毎日時間を決めて聖経を誦げる
 「平成〇年〇月〇日、現世を去り、幽世(かくりよ)に還りましし
 〇〇〇〇童子(どうじ)の命(みこと)のみたまよ。唯今から聖経を読誦します。

 このお経は一宗一派のものではなく、ご先祖様が信仰された宗教の真理を
 現代語で書かれたもので、これによって生命のほんとうの姿が分かります。

 どうぞ、これを聞かれて、霊界で一層高い悟りを得て、
 ますます、向上の道を進んでください」と唱えてから、毎日、同じ時間に聖経を誦げる。


《“心の向き”をしっかりと先祖に向けましょう》

 先祖供養のために墓参りをすることはとても大切で、
 先祖との魂のつながりを確認する良い機会です。

 しかし、お墓は清浄であることが、大切です。
 種々の事情でお墓参りができない場合は、
 近くの親戚や業者に清掃、立花を頼むのも良いです。


           <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

ご先祖様が一番喜ぶ『先祖供養』の仕方 - 夕刻版

2015/08/11 (Tue) 18:20:35

     *メルマガ「頑張らないで 幸せになる 無意識の使い方(8月11日)」より


3年前、私は癌になって、自分が近いうちに
ご先祖様になってしまうかもしれない状況になりました。


その時

「妻子を残して死ぬわけにはいかない」

「今まで自分が培ってきた心理療法の技術や思想を後世に伝えずして○ねない」   (○:死)

という想いが湧き上がってきました。


その結果、より妻子と過ごす時間を長くとるようになり、
私の心理療法家としての集大成ともいえる
『マインドリバランスメソッド(MRM)講座』
を創り、認定講師に託しました。


そんなとき『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス著
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314010037/happyimage-22/

を読みました。


人も含めて生物の究極の目的は、自分の遺伝子を残すこと
だとドーキンスは書いています。

自分を犠牲にして他者を助けようとする一見、利他的な行動も
結果的には、そうした方が自分に近い遺伝子を残せるからなのだそうです。



親が自分がひもじい思いをしても
子どもには美味しいものを食べさせてやりたいと思うのは、

自分より子どもの方が余命が長いので、
子どもを生かしたほうが、
自分の遺伝子をより長く生存させることができるからだ

とドーキンスは言います。


そう考えると、

  人の究極の願いは
  子孫が幸せに暮らしてくれること
  
だと思います。


つまり、

ご先祖様の最大の願いは、

あなたが幸せに暮らしていることなのです。



だから、お墓参りをして

幸せな姿をご先祖様に見せてあげましょう。


そして、あなたがどんなに幸せか、

ご先祖様に報告してあげてください。


それに勝る先祖供養はありません。


◆ お子さんがいらっしゃらない方へ

私は遺伝子を残せなかった、
と落ち込む必要はありません。

人間が残すのは肉体の遺伝子だけではありません。

私たちは、思想や技術、そして愛という心の遺伝子も
残すことができるのです。


マザー・テレサや坂本龍馬など、
偉人には子をなさなかった人が少なくありません。


彼らは肉体の遺伝子を残しませんでしたが、
たくさんの心の遺伝子を後世に残したのです。


お子さんがいらっしゃらない方は

肉体の遺伝子を残せなくても
技術や思想や誰かに伝え、
誰かに愛を注いでいるはずです。

そのことを、お墓参りして、ご先祖様に報告してください。


私がMRM講座を創ったのも心の遺伝子を残したい
という思いからです。


そして、妻子と過ごす時間を長くとるようにしているのも
子どもたちに、私の愛を伝えたいという思いからです。


お子さんがいらっしゃらなくとも

あなたが愛を伝えたいと思う人と

(愛してもらい人ではなく、愛を与えたい人です)

多くの時間を過ごすようにしてみませんか。




◆ 帰省される方へ。

いつかご先祖様になる

お祖父ちゃんお祖母ちゃん 
お父さんお母さんにも

あなたがどんなに幸せかを見せてあげてください。



そして、あなたがどんなに幸せか、

お祖父ちゃんお祖母ちゃん
お父さんお母さんに

報告しましょう。



では、お墓まりに行ってらっしゃい。

そして、楽しいお盆休みを!

           <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

”神の子”の自覚と祖先に聖経読誦することで自然に富もできる - 夕刻版

2015/08/12 (Wed) 20:04:03


            *『子供と母の本』(P120~121)より

この体験談(昭和37年9月2日、名古屋講習会、小島ゆう一さん<当時36歳>)で
わかるとおり、この人は、生長の家の教えに触れて何を学んだかというと、
”祖先を大切にせよ”ということ”父母に感謝せよ”ということを学んだわけです。

祖先を大切にして、祖先を祀ってある御仏前において、『甘露の法雨』というお経を
誦げて、亡くなった父母に感謝することを続けたというんです。

すると、生長の家に触れて《それ》を続けて、僅か22日目にですねぇ、
今まで借金が1200万円もあってそれが払えない。

仕事はしても、商品が倉庫に積んであって、それを出すことができなかった。
―― そういうようであったのが、祖先に対して親孝行の心を起こして、
感謝のために聖経『甘露の法雨』をあげるようにすると、

一遍に道がひらけてそれが捌(は)けて、スイスを通してイタリアへの仲継貿易で
輸出されて、借金も、在庫品もなくなり順調な商売ができるようになったという実例です。


吾々は祖先を大切にしなければならないのです。

祖先があるので私たちは”神の子”としてここに生まれてきているので、
祖先は「根」であり、「父母」は幹であり、私たちは枝葉であり、
枝葉に美しい花が咲いて、よき実を結ぶためには、祖先にお経を供養し、
根を大切にし、父母に感謝し、深切にし、幹を大切にしなければなりません。

           <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

「真理の言葉による供養の意義」 - 伝統

2015/08/13 (Thu) 18:06:13


          *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇(P71)より

われわれは現世とか来世とかいうカンバスに何で絵を描くかというと、
念波で絵を描くのであります。

念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、
その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、 悟りの念波、真理の念波なのであります。

この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施というものでありまして、
最も尊いほどこしであります。

われわれが人に物を施すのは、 物施といって物を施すのと、
それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、
真理の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。

            <感謝合掌 平成27年8月13日 頓首再拝>

先祖に対して聖経を読誦するときの心得 - 伝統

2015/08/14 (Fri) 20:01:23


           *「人生を支配する先祖供養」(P26~28)より

先祖に対して聖経を供養する時

「先祖の霊魂よ、お前は迷っていて、迷いの霊破を送ってくるので困っている。
この聖経を読んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、二度と迷いの霊波を
送って悩まさないようにしてくれ」

というような事を言ったり、思ったりして聖経を読誦しても効果が少ないのである。

何故なら、そのような気持ちで聖経を読誦したりすることは、相手の悪をみとめて、
軽蔑的語調や”よく勉強せよ”などと言っているようなもので、現実界の人間に対してでも
このようなことを言うと、反抗心を起こして反発されたりするのである。

これと同じ事が先祖の霊たちにも起こるのであって
「お前は迷っているから、おの真理のお経をおききなさい」では、
いくら聖経を誦げても霊魂達は聴きに来ないかもしれないのである。


 だから、祖霊に対して聖経を誦む時には、

(1)唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦むこと。

   ただ尊敬と感謝の念をもって、「今まで色々と子孫が受けて来た密たる御恩に対して
   唯感謝のためにこの真理の御経を霊界に対して放送しますから、どうぞ御受け下さいませ」
   と誦えて、”ただ感謝”の念をもって読誦するがよい。


(2)聖経の意味を説明する。

   聖経を読む前に、先ず「この聖経『甘露の法雨」はあなたが先祖から伝承して来たxx宗の
   教えの真理を最も解り易く、現代語で書かれたものでありますから、心を集中して
   此の聖経を聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於いて解脱を得て神通自在となり給いて
   仏陀の境涯に達し給わんことを冀(こいねが)う」と
   生ける人に語るが如く唱えてから聖経を読むのがよい。

   そうでないと折角、「甘露の法雨」を誦んであげても、それは他宗教の経文である
   と誤解して反感を起こして傾聴しない場合があるのである。


(3)読誦の時間を定める

   聖経読誦は、毎日一定の時間を決めて、正確に必ず読誦するようにするがよい。
   霊界には霊的訓練があって、中々多忙であって、毎日不定の時間に読誦していては、
   残念ながらその聖経の読誦を霊が拝聴することができないことがあるのである。

   だから、聖経を誦み終わると「毎日、”この時間”または幾時に聖経を読誦しますから
   必ずその時間に来たりて傾聴して下さい」と約束して置くがよい。
            (『生命の實相』頭注版第26巻参照)

            <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

先祖供養の大切さ - 伝統

2015/08/15 (Sat) 20:06:56


          *『美と健康の創造』(P103~104)より

人間が今日あるのも、ただひとり、自分の力で此処に生れ出ているのではない。
花には、幹があり、根があるように、人間には父母があり、祖先があり、
祖先のもとには神様があり、その神様のいのちが自分に通うていて人間は生きているのです。

ですから神様に感謝しなければならぬ。
祖先に感謝しなければならぬ。
父母に感謝しなければならぬ。

(中略)

そして自分の「いのち」の根や幹になっている神様の御恩、祖先の御恩、父母の御恩を
知って、感謝することに致しましょう。

貧乏をしたり、病気をしたりするのは、根に養分が足らぬからです。
感謝が根に養分をやることになるのであります。

毎日、祖先に『甘露の法雨』を誦げて感謝をいたしましょう。
そうしていますと、毎日いっそう人間は元気になり、運がよくなり、
成績がよくなり、何でも都合よく行くようになります。

            <感謝合掌 平成27年8月15日 頓首再拝>

先祖供養は子孫繁栄の源 - 伝統

2015/08/16 (Sun) 17:57:18


         *生長の家宇治別格総本山総務 楠本加美野 講演録より
          (感謝を込めた先祖供養が運命好転と繁栄の鍵)


神の子の皆さま、有難うございます(拍手)。

『喜びの先祖供養』の34頁、第2章に「あらゆる善きものを育む元となった先祖供養の実例」
という所に、谷口雅春先生が次のようにお示し下さっております。

『神の生命の法則とはすべて「家」には中心があると云うことです。
即ち大は「宇宙」と云う家から、小は物質原子という云う家にさえも
中心があると云うことであります。

あなたの家が若し幸福でなかったり、誰か家族に病気が起っているようでありましたならば、
「家」の中心がおろそかにされていはしないかと云うことを反省なさらねばなりません。
「家」の中心とは何か、それは祖先である。』(『善き人生の創造』353頁)


生長の家では「大地は神様、根は先祖、幹は両親、子孫は枝葉。枝葉に花咲き、
よき果を結ぶは、親に孝養、先祖に供養」と教えられていますが、先祖は根である。
根なくして枝葉の存在は有り得ないように、先祖あっての子孫です。

植物の根に養分が必要であるように生命の根である先祖にも供養が必要です。
先祖を供養することによって子孫の繁栄があるわけです。

次のような実例があります。

わずか30戸たらずの漁師村に、破れ寺があり、25歳の若い住職が来た。
彼は家々の過去帳を手に、毎日その日が命日にあたる先祖を供養して廻った。
初めは馬鹿にしていた村人も、五年も経つと、米を喜捨し、食事を振舞うようになった。

昭和15年、この村の漁師達が沖に仕掛けた網が破れるほどに、大漁の鰤が掛かり、
村人は1日にして巨万の富を得た。他の村は不漁なのに何故だろうと考えた時、
きっとあの住職が家々の先祖を1日も欠かさず供養してくれたお蔭に違いないということになり、
みんなで、立派な山門や庫裏、本堂を建てて、和尚に感謝したというのですね。

これは水上勉著、『足もとと提灯』という本に書いてあります。

このように、繁栄と幸福の基は先祖供養にありますが、実は私の若い時分は、
全く先祖供養をしていなかったのです。

『生命の實相』を読んでも「霊界篇」が嫌いで、仕方なく読んでいたし、
仏様のことを「ほっとけ様」などと呼んでいた(笑)。
先祖と自分の関わり合いが本当に解からなかった。

が、練成をうけて憎んでいた父母に感謝できたとき、
先祖にも感謝でき、仏壇を買って先祖供養をするようになった。

 
先祖供養には、物施と法施がありますね。
物施は果物や菓子など、物をお供えする。これも大切ですよ。
霊界という所は、念の世界でありますから、子孫が愛の心で
「どうぞ召し上がってください」と捧げるその念をご先祖様は戴かれるわけですね。

それから法施というのは、お経を誦げて真理の言葉を施すことであります。
 
谷口雅春先生は法施を最も貴い供養とお説き下さっています。

『御先祖さまにお礼の心で「悟りの糧」となるべきお経を供養するのは「法施」と申しまして、
供養の中でも最も貴い供養であります。』(『善き人生の創造』354頁)

“お礼の心”という所が大切です。

「迷える先祖」の悟りのためと聖経を読誦している人がいますが、
先祖が迷っていると思っている人が迷っているのであって、
聖経を読誦しても効果がないことがあります。

聖経を読むときには、ただ尊敬と感謝の念をもって読誦するのがよいのです。

練成会では親孝行の話をして浄心行をし、
親に感謝してから先祖供養するようになっています。

「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」と
父母への感謝を強調しているので親に感謝できるようになり、
先祖にも感謝できるようになります。


■聖典読誦を繰り返し、潜在意識の罪の観念を消去する

私も先祖供養を始めてから家内と出会い、祝福されて結婚したわけでありますが、
何故か、子供が宿ると流産を繰り返し、大変辛い思いをしました。

そんな私に、当時、宇治修練道場の練成局長であった徳久克己先生が、
『生命の實相』の中から「罪本来なし」に関する文章を抜粋筆写して、
系統的に纏めるよう指示された。

それによって私の潜在意識の中にある罪の観念を徹底的に払拭させようとのご愛念でありました。

私は『生命の實相』全巻を通読して、肺結核が癒された体験がありましたが、
全巻を10回通読した時に、『人類無罪宣言』が纏められ、長男を授かり、
谷口雅春先生に「行孝」と命名して頂きました(現在、生長の家総本山に勤務)。

先生は、「『人類無罪宣言』は『生命の實相』の真髄である」と言われ、
昭和33年3月号の『生長の家』誌の「明窓浄机」に次のようにお書きくださいました。

生長の家宇治修練道場の楠本加美野講師夫人が去年の暮れちかく玉の如き男児を
出生せられたことを爰に報告しておきたい。
同夫人はこれまで三回も流産された。

これについては楠本講師が、まだ青年時代の頃の自分自身の親不孝の罪の具象化、
又は家系につながる肉親の跡嗣は(中略)得られないかもしれないと心配されていたのであるが、

(中略)

「罪本来なし」の真理と取り組んで筆写しておる内に、
「自分の親不孝の罪業も家系に伝わる肉親の跡嗣となる子供が代々得られないという業因も本来無し」
ということが、徹底的に潜在意識に印象されるようになったのである。

(中略)

この実例によって、業というものは何処に実在しているかといえば、
潜在意識の中につかまれているのであって、聖典読誦の繰返しによって潜在意識を浄化すれば、
個人および家系に伝わるすべての罪業は消えてしまうものだということが証明されたのである。

楠本家はそれまで何代かにわたって、子供が生まれたら子供一人を遺して親が死ぬという、
親と子が両立できない恐ろしい業があったのですが、私が生長の家の教えに触れ、
「人間神の子・罪本来無し」の真理を徹底的に学び、それが潜在意識の底深く印象された時に、
その業因が消えて長男が生まれたわけです。

ここが大切な所なんですね。

先祖が迷っているから聖経を誦げて、聖経の功徳によって先祖に悟って貰わないと
悪業が消えない・・という考え方は間違いであって、自分の心を浄化すれば、
先祖代々の悪業も消えるわけです。

「一人出家すれば、九族天に生まるる」とはこのことであって、一人が悟ることによって、
先祖からの悪業も消えるわけです。

だから先祖供養は、
何よりも先祖への愛と感謝の心で供養し、聖経を読誦することが大切なのです。

            <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

御先祖の加護は大きい - 伝統

2015/08/17 (Mon) 19:54:33


            *『生長の家』誌  昭和62年10月号 より
             ~ 生長の家宇治別格本山総務  楠本 加美野

「大地は神様、根は先祖  幹は両親 子孫は枝葉
 枝葉に花咲き、よき果を結ぶは 親に孝養 先祖に供養」 (『霊供養入門』)

と教えられています。

根は地中にあるので見えないが、根の大切さを知らない人はいない。 
先祖も見えないが根のように大切であるというわけです。

人間は「肉体が死んだら、後は灰になるだけ」という人生観からは、
霊界を肯定することもできないし、先祖をないがしろにして無視するようになります。

生長の家では、人間は 「肉体ではなく、霊的存在であり、生き通しである」 
という人生観であります。 

死ぬことは、この世からあの世に誕生することになります。 
そして現世の悪業の総決算が行われ、霊界で苦しんでいる霊もあります。
              (『生命の實相』 頭注版 9・10巻 霊界篇参照)


私は肺結核になり 『生命の實相』 を読んで死から救われたのです。 
この本こそ杖とも柱とも頼む御本であると爾来6年間、1日もかかさず 
『生命の實相』 を拝読しました。 
しかし 霊界篇 だけは興味がなく、そのため、先祖供養にも関心がなかったのです。

入信10年後、夢に描いた教員生活に生甲斐がなくなり、
学校を休み生長の家の練成会に参加しました。

「神に感謝しても、父母に感謝し得ない者は、神の心にかなわぬ」 (「大調和の神示」) 
との言葉により大切な父母に感謝していない誤りに気づきました。 

私の父は生まれてまもなく行方不明になり母が苦労して育ててくれました。 
13歳の時、継父ができました。 
私は実父を憎み、嫌いな継父と結婚した実母を責め、継父を憎んでいました。

御教えにふれて父母への感謝の祈りを捧げているうちに、
母に感謝でき、継父にも感謝できるようになりました。 

しかし実父には、生れてまもなく別れたままなので中々感謝できなかったのが、
御教えにふれた感謝の極みに達した時、私達母子を苦しめたと永い間憎んでいた
実父にも感謝ができたのです。 

私にとってこの体験こそは御教えにふれるために必要であったのです。 
父親が体験させてくれた御蔭で御教えにふれることができました。

父母に本当に感謝できた時 「大調和の神示」 にある通り 
「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう」 
という聖句を信ずることができました。 

そしていつかは必ず行方不明の父にの会えるだろうという確信ができました。

それから2週間後でした。 
私と友達の妹との婚約を解消するために友達の家を尋ねた時、
父親は既に亡くなっていたことが分り、その遺族の方に会うことができ、
実父の仏前で聖経 『甘露の法雨』 を誦げさせていただいたのでした。

こうした結婚問題がキッカケとなって亡父に会えたことから私は 
「親というものは、あの世に往ってからも、子供の結婚を心配し、
いつまでも子孫が繁栄することを願っているのである」 と染々と身をもって体験しました。 

その親である祖父、またその親も同じように子孫の繁栄を願って下さって、
今日の自分があるのだと心から御先祖に感謝することができました。 

それから早速仏壇を購入して、毎朝仏前で聖経 『甘露の法雨』 をあげ
先祖供養をするようになりました。

親は先祖のはじまりです。 
親に無条件に感謝できた時、先祖にも無条件に感謝できるようになるのであります。


その後に結婚の話が起った時のことです。 
先方の父がわざわざ祖父の出身地を尋ねたところ、15代も続いた由緒あるお寺が
私の実家であることがわかり、結婚することになりました。 

両親に感謝して先祖供養したら自分の先祖もわかり、
結婚もできて、子孫も繁栄するのであります。

祖先に対しても親に対するのと同様で 『霊供養入門』 には、

「祖霊に対しては聖経を読むときには、ただ尊敬と感謝の念をもって 

“今までもいろいろと子孫が受けて来た密れたる御恩、陽なる御恩に対して、
ただ感謝のためにこの真理のお経を霊界に対して放送しますから、どうぞお受取り下さいませ” 
と唱えて “ただ感謝” の念をもって読誦するのがよいのである」  

と教えられています。

先祖の霊が迷っているからお経を聴きなさいでは、霊魂は聴きに来ないかも知れません。

「人間の運命の半分は前世の業績、4分の1は神又は高級霊の加護による運命の改善又は修正」  
(『霊供養入門』 参照) と言われていますが、『生命の實相』 (第33巻) には、
谷口雅春先生御自身の体験を次のようにお書き下さっています。


「わたしにとって13日という日は実に不思議な日なのであります。 
この日、谷口家のお祖母さん、お祖父さんが亡くなった命日が13日なのであります。 
それからわたしの養父になる人のおっ母さんがやはり13日死んでいる。 
それからわたしの家内の両親がやはり13日に死んでいるのです。 ・・・

わたしが泥棒に入られて絶体絶命の立場に立たされたのが13日であります。 
ここに祖先の霊魂の導きというものが感じられます。 

祖先の霊魂がわたしを絶体絶命の境地に導き、
その絶体絶命がわたしを悟らせてくださったのであります。

諸君が悟ろうと思い、またこの世で成功しようと思うには
祖先の礼拝を鄭重にし、おのずから祖先の加護を受けるようにせねばなりません」

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/s/%C0%E8%C1%C4%B6%A1%CD%DC


            <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

霊界へ捧げる真理の言葉  ―  流産児供養 - 伝統

2015/08/19 (Wed) 19:49:46


          *『精神科学』誌(昭和62年8月号) より
           ~ 生長の家宇治別格本山宮司  楠本 加美野

「人間は肉体で、死ぬと灰となってしまう」 という人生観からは、
霊界を認めないから先祖供養の必要がなくなるわけです。

生長の家は、人間は肉体ではなく霊的存在であり、生き通しであるという人生観です。 
死ぬことは、この世から霊界に誕生することになるのです。

霊界と現世とはどんな関係にあるのでしょうか。 
『霊供養入門』 には次のように書かれています。


「人間の運命の半分は前世の業績、残りの半分の1/2は自分の努力による業績、
残りの半分の、もう1/2は、神又は高級霊の加護による運命の改善又は修正によって、
もっと不幸になる筈の運命が救われるということになる」

「霊界において迷っていたり、あるいは病気で苦しんでいる霊がいると、
『なんとか救われたい』と思って、その霊が“頼み心”を起す、
この“頼み心”は親子とか孫とか親類の人とか、そういう親しい人や、
感じやすい人が感ずることになる。 

つまり霊界を“放送局”とすると、現実界の人間が“受信機”になって感応するわけである。 
そして胃病で苦しんでいる霊が『助けてほしーい』という念波を孫娘にでも送ると、
その孫娘が胃病になるということになるのである」


つまり先祖が高級霊であると、その人の運命を幸福に導いてくれるし、
迷っていると逆に不幸になるわけです。

それでは迷っている霊に、高級霊になって貰うにはどうしたらよいでしょうか。 
更に 『霊供養入門』 には次のようなことが書かれています。


「霊界の祖先霊を30代も遡れば大変な巨大な人数に達するので、
その巨大な人数の祖先の霊魂のうちには既に悟りを開いて仏陀の境涯に達している者もあるが、
迷境を彷徨して苦しんでいる霊もあるので、

それらの諸霊に“人間・神の子”の真理を知らせて“本来神通自在の境”に達するように
導いて差し上げる事は、吾々子孫が先祖に尽す最高の孝養なる布施行と言わざるを得ない。 

毎朝又は毎夕、仏前又は神前で先祖霊に対して
聖経『甘露の法雨』を読誦することは重要なことである」


と先祖に 『甘露の法雨』 を誦げる重要性が強調されています。

しかし、ここで心得ねばならぬことは、
「お前は迷っているからこの真理のお経をおききなさい」では、
いくら聖経を誦げても霊魂達は、聴きに来ないかも知れないのである。 
だから唯、「尊敬と報恩、感謝の念をもって誦むこと」 と 
『人生を支配する先祖供養』 に書かれています。

       *      *

ここで岡本さん母娘の体験談を紹介します。 
岡本さんの長女は優等生であったが、中学に入ると登校拒否になった。 
よいと言われることは何でもやったが解決しなかった。 

とうとう母娘で練成に参加したのです。 
娘をおいて母親が帰る予定であったが、娘の問題は母親の問題である。

「その問題とは “流産児はいないか” “その子が幼い頃、夫婦が不調和なことはなかったか” 
“両親自身が、自分たちの両親に心配かけたことはなかったか” ですよ」 と話した。

思い当たることがあったのか、母親は10日間の練成を受けることになった。

母親は練成中の体験を次のようにのべています。

「先生から “娘の問題でなく、私の問題だ” といわれ、
『あなたが10日間の練成を受けなさい』 と言われました。 
それで主人に電話しましたら、『そうしなさい』ということでしたので受けました。

最初娘は食事もせず、眠れないといって『祈りの間』に入って聖経を誦げていました。 
そして先生に『帰りたい』と言って無理ばかり言っていました。 
でも時が経つにつれ、皆様の暖かい御愛念によりまして、だんだん立直って参りました。 

私も先生方の講話を聞きながら、今迄の自分の事を懺悔いたしました。 
父母に対して、主人に対して感謝しているつもりだけでした。 
これはきっと娘が観世音菩薩となって、この練成会に導いてくれたのだと思いました。

流産児供養の説明を聞いてわかったのですが、流産児の7つの訴え  ―  やる気がない、
暗い所が好き、冷え症、お菓子が好き、淋しい、親に反抗、無駄遣い  ―  の全部が
娘にあてはまっていましたのでびっくりしました。 

私には流産児がおりませんが、母親にあったのです」


流産児は救われたくて、現世にいる兄弟を通じて霊界から訴える場合が多いのです。 
親は子の苦しみを目の辺にして、流産児の苦しみがわかるのです。 
岡本さんの場合は、姉妹の子にあらわれた例です。 

胎児はこの世に使命があって宿ったにもかかわらず、
殺されてあの世でその使命を果すこともなく苦しんでいるのです。 
その苦しみがわが子にやる気がないように現れてくるのです。 

その他の6つの姿も同じです。

ですから本人を直接よくしようとしてもよくなりません。 
先祖の墓を建ててもよくなりません。 
親が流産児を愛して、真理の言葉を誦げることによって流産児が救われるのです。 

岡本さんの場合は、娘である岡本さんが親の気持になればよいわけです。


「流産児供養祭が終ると娘が、『お母さん、赤ちゃんが5人でてきたよ。 
光の方へ行くように言ったら、赤ちゃんが“光の方へ行ったら、お母さんいるの”と言ったよ。 
“聖経を誦げてあげる”と言ったら“ミルクが欲しい”と言っていたよ』 と言いました。
 娘は 『嬉しくって嬉しくって涙が出てきた』 と言いました。 頭痛も治ってしまいました」


供養には法施と物施とがあり、聖経を祖先の悟りのために読誦するのは法施、
仏前に物を御供えするのが物施です。 
聖経をあげると共に、ミルクをあげることも必要です。 

流産児は親の愛を求めて親に反抗するのですから、愛されると満足します。 
ミルクをのませたいという親の愛念を感じて流産児は満足するのです。

娘さんは次のように決心しました。

「御先祖様がここに呼んで下さったんです。 
“生長の家嫌い”な私に、本当の御教えを知らせて下さったんだ。 
御先祖様有難うございます。 お父さん、お母さん心配かけてすみませんでした。 
有難うございます。 

私は生長の家が嫌いでした。 
だから、生長の家を理解していない方々に、
本当の生長の家の真理を拡めるのが私の使命だと信じます。 
人類光明化運動に頑張ります」


顕幽相通じあう世界です。 

霊界への真理の供養 “法施” の功徳は、限りないものがあります。

     (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/c8ced68956ff7c7cc0e1c839c34479f1

          <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

「因果、昧(くらま)さず」 - 伝統

2015/09/21 (Mon) 20:21:18

秋のお彼岸(9月20日~9月26日)にあたり、
「人生を支配する先祖供養」(はしがき)を紹介してまいります。


            *「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より

多くの人たちは、霊界と現実界との関係を知らないのである。
人間の肉体が死んだら、もう人間そのものは消えてしまって無くなるものだと考えている。

だから此世で狡(ずる)いことをして利益を得たり、
人に残虐な行為をして自分だけが快楽を貪ったりしても、
それは利益の取り得(どく)であり、快楽の貪りどくだということになる。

実際そうして悪賢い狡い奴や、残虐な奴が此世で少しも制裁を加えられないで
栄華をきわめたままで地上の生を終る例をたびたび吾らは見せられるのである。

そして死と共に、彼らは一様に”無”の世界に消え去って、後に何も残らないのだったら、
狡いことの仕得、楽しみの仕得で、正直な人間が馬鹿を見るのがこの世界だということになる。

そこで”悪” の仕得ということが一般の通説になり、道徳地に落ち、
人心は乱れに乱れて此世には悪人充満の地獄相を呈することになるのである。
それが現代の、いつわらぬ世相ではあるまいか。

併(しか)し、人生はそんなに甘いものではないのである。

悪業(あくごう)の仕得や、悪い奴の、富や快楽の貪りの仕得などということを
われわれが心の奥底で不公平に感ぜずにはいられないのは、われわれが”心の深層”の中に、
「そんな不公平は決して存在しない」という
原因結果の法則を直観的に知っているからなのである。


原因があれば結果を生ずる。
これは宇宙の大法である。

それを仏教では「因果、昧(くらま)さず」と教えられているのである。
悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出てこないからとて、
人生を馬鹿にしてはならないのである。

悪業を行なっても現世に、その帳尻が出てこないということは、
どこかに、その帳尻の総決算がおこなわれる世界があるという証拠でもある。

その総決算が行なわれる世界が霊界及び未来世(未来に、われわれの霊魂が
生まれ代わって来る世界。単に”来世”ともいう)である。

(次へ続く)

          <感謝合掌 平成27年9月21日 頓首再拝>

霊魂の浄化 - 伝統

2015/09/22 (Tue) 19:08:53


            *「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より

現代は物質科学が発達しているだけでなく精神科学が発達して、
既に過去の心理学とは様相が一変しつつあるのである。

更に心霊科学と称して”第四次元”以上の霊的存在の世界の研究も段々進歩して
科学的、実証的に現世で帳尻が合わない悪業が霊界に於いてその清算をさせられるために
苦しんでいる霊魂がたくさんあることが、明らかにせられつつあるのである。

過去の仏教での地獄・極楽説は、その通りあるのではない。
しかし、その通りではないが、霊魂の行く世界には、地獄とか煉獄とかいう語で
形容されるような多種多様の苦しみの境界があって、霊魂の浄化作用が行われるのである。

つまり霊魂の浄化とは、汚れた霊魂の洗濯のようなものである、
一層多く汚れている(悪業の集積している)霊魂ほど長時間激しいショックの中で
その〝汚れ〝 を落とさねばならないのである。

”多種多様の苦しみ”と私がいったのは、それらの霊魂が自分の身につけた悪業の種類は
各人一様でなく多種多様であるからそれを浄化する過程も多種多様であるという意味である。


それらの苦しみによる浄化の過程にある霊魂が苦しみの叫びをあげ、悩みの呻きに喘ぎながら、
”助けてほしい”と思って子孫や親類縁者の名を呼ぶのである。

そうすると、此の世界は電波の交流する世界であると共に、霊波(霊魂の想念の波動)が
互いに交流交感する世界であるから、われわれ現世の人間で、その霊魂の身近者が
その苦痛で叫んでいる霊魂の思念の波を感受するのである、

すると、放送局の放送を感受したテレビセットが、その放送を画像化して具体化するように、
自分の身に、その苦痛悩みの画像を具体化してそれを病気としてあらわすのである。


このような病気は、原因が霊魂の世界にあるのであるから、
物質医学や精神医学の方法によっては解決の道はないのである。

概ね現代の医学で解決し得ない病気――癌やスモン病や、原因不明の不随症又は
各種の精神的痛み、麻痺を伴う病気は、霊界に於ける霊魂の苦しみを、
その人が受像した結果だとみとめられるのである。

これを癒す道は霊界に於ける霊魂の苦しみを除去するほかに道はないのである。


霊界に於いて霊魂の背負う”悪業”を浄化消滅する自然の道は、
苦しみによって償うことによって、その悪業が清算されるのであるが、
それには長時間かかる。

しかし現世に於ける縁者がそんなに長時間”苦しみの霊波”を感受して
病気をつづけていてはたまらないのである。

それで、祖先及び自分の家系に属する縁者の霊魂が霊界で苦しんでいるのを
急速に救う道を講じてやらなければならないのである。

これを救いえたならば、
霊界の霊魂自身及びその影響を受けるべき現実界の両様の救いとなるのである。


幸いにして、霊魂の浄化というものは、霊魂は物質ではないから、
洗濯機にかけて霊魂を摩擦の搾(し)め木で拷問的に叩きのめさねば浄化できぬ
というものではないのである。

霊魂の浄化は消極的には”懺悔”と積極的には”真理を悟る”という
2つの方法によって主として行われる。

”懺悔”というのは”今までの行為は悪うございました。人間の為すべき本来の姿では
ございませんでした。今後一切いたしません”と過去の悪業を”心の世界”で否定することで、
過去の悪業を否定消去してしまうのである。

”真理を悟る”というのは、「人間の実相」は本来、”如来”であり”神の子”であり、
本来”無罪”の実相をその霊魂が自覚して、悪業存在の世界から解脱して
”如来”の実相地に超入することである。

この”如来地”(如来の境地)に入ることを成仏するというのである。

祖先及び縁者の霊魂を成仏させてあげるのが、現実界の子孫及び縁者の義務でもあり、
それはまた自分自身に報いられて来て家族ぜんたいの健康ともなり、繁栄ともなるのである。

「先祖供養」と本書の表題にはなっているが、
流産児や子供や自分の兄弟姉妹等々へ・・・の真理供養も本書は扱っているのである。

それも中々大切である。

(次へ続く)

          <感謝合掌 平成27年9月22日 頓首再拝>

奇病・難病が生ずる背景 - 夕刻版

2015/09/23 (Wed) 18:35:41


            *「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より

戦後、戦前に見られなかった小児癌が殖えたり、現代医学で原因のわからない奇病が
発生したりしているのは、戦後、占領軍が日本弱体化のために押しつけたマッカーサー憲法が
「日本の美しき正しき伝統」であるところの”家”(”霊の継続”の系譜)の制度を破壊して、
家督相続ということではなくなり、財産相続のみとしてしまったために、

子孫が結婚して家庭をつくれば、所謂(いわゆ)る”核家族”として、
祖先及び父母から断絶してしまうことになったために、祖先及び父母を聖経読誦によって
”真理”を供養してあげる子孫が次第に少なくなり、

それだけ、祖先及び亡父母の霊魂が、霊界に於いて”真理”の悟りをひらいて”如来”の実相を
顕す(所謂る”成仏”の)機会にめぐまれないために、成仏がおくれる。

その迷っている霊魂の霊波の影響を受けて
脳腫瘍その他の難治の病気が特に戦後多くなって来たのである。
このような脳腫瘍は、原因が霊界にあるから霊供養のほかに治療せしめる道はないのである。


そんな理論を信じない人もあると思うのであるが、その理論の正しさは、
実際聖経を読誦して祖先に”真理”を供養した場合、脳腫その他、医界難治の病気が
消滅する奇蹟がたびたび起こることによって実証されるのである。

その実証は、本書の最後の章に収録してあるがこの”はしがき”には、
脳腫瘍が簡単に治った実例一つだけ挙げておく。

これは本書をお読みになる最初の予備知識として知って置いて頂きたいからである。

(次へ続く)

          <感謝合掌 平成27年9月23日 頓首再拝>

実証例~脳腫瘍が癒ゆ - 伝統

2015/09/24 (Thu) 20:11:03


            *「人生を支配する先祖供養」(はしがき)より


それは昭和48年12月10日、佐世保市の市民会館で生長の家の講習会があったとき、
佐世保市針尾東町2393ノ2の田島はる江さん(43歳)が次のような体験を演壇に立って
発表されたのである。 ――


   『有難うございます。私は佐世保市針尾東町の田島はる江でございます。
   生長の家のみ教えにはズーッと以前から入っておりましたけれども、
   それも名ばかりの事でございまして、仕事仕事で夢中でございました。

   そんなにしておる時、私は肩が凝ったり、頭が痛んだり、そして眼も見えなくなったり、
   髪の毛が次第に抜けて来たりしたのでございます。

   そして病院に行って診察して貰いましたところ、頭のレントゲンを撮られまして、
   「頭の中に腫れているものがある」と言われまして、「大学病院の方に行くように」と
   言われまして、大学病院の方へ入院いたしました。

   それも連れて行かれたところが脳外科の方でございまして、毎日毎日検査ばかりで
   私は検査疲れで・・・疲れてしまいました。

   そして無理に退院しまして、家に戻りましたが、退院しましたその翌日私は、
   支部長でもあり、また友達でもある小田さん宅に・・・頭の毛が抜けておりますので
   三角巾を被りましてバスに乗って、小田さん宅に行ったのでございます。そして、

   「小田さん、神想観を頼みます。お願いします」と言って、
   神想観と”甘露の法雨”を一所懸命に誦げました。

   そして家に帰ってどうすることも出来ず、不安に暮れておりましたが、
   ひょっこり宮田講師と小田さんがお出でになってくださりまして、

   「髪は神様をあらわし、そして頭は御先祖様や目上の人をあらわすのですよ」

   とおっしゃいまして、・・・私はそれに《本当に》気付いたのでございます。そして、

   「あなたをいつも生かして下さる神様に感謝し、そして夫や、あなたを生んで下さった
   お父さんお母さんに感謝しなさい」

   と教えられたのでございます。そして、

   「主人にも感謝しなければならない」とおっしゃったのでございます。

   で私は、それに気付かせて頂きまして、今まで私は眼の前(さき)のことばかり
   考えていて仕事に夢中でありましたことに気付きまして、
   それから”甘露の法雨”と神想観を毎日実行しました。

   そして本部の神癒祈願もお願いしたのでございます。
   そして小田さんも毎日、先祖供養に来て下さいました。

   それから他の病院に行ってレントゲンを撮って貰いましたところ、
   まだ矢張り頭の中に腫れものができていたのでございます。

   それから2ヶ月してからまた私は、レントゲンを撮って貰いました。
   そしたらその腫れものがキレイに無くなっていたのでございます。

   そのとき、私は生長の家の素晴らしさを教えられまして、本当に”有難うございます”
   と祈るばかりでございました。医師(せんえい)も驚かれまして、
   「田島さん、お祝いしていいですよ」とおっしゃいましたのです。

   それから私は、生長の家のみ教えを皆さんにも(近所の人にも)「こんなこんな・・・」
   と言いまして、練成会にも参加させて頂きまして、此の素晴らしいみ教えをより深く
   教えられたのでございます。

   これも生長の家のみ教えのお蔭様でございまして、
   また皆様の御愛念のお蔭でございまして、本当に私は救われたのでございます。

   一時は私も生きる望みもございませんでしたけれども、今は此の素晴らしいみ教えに
   私は一所懸命でございます。そして・・・現在(いま)は鬘(かつら)を被って
   おりますけれども、頭の毛もだんだん生(は)えて来まして、現在(いま)は
   此の通りになりました。ちょっと鬘を外します。
   (聴衆拍手、本人嗚咽・・・)此の通りでございます。

   私はこれから一所懸命・・・(嗚咽)生長の家のみ教えのために一所懸命働かせて
   頂きます。皆様、有難うございます。』


これで田島はる江さんの体験談は終っているが、一つの実例を知るのは、
霊界と祖先祀りに関する十を知る前提となるのであって、

最初原理篇から、順次読み進んで、霊界の事情に通暁して、あなたの家族が
顕幽両界にまたがって真理の功徳に浴せられんことを希うものである。

   
      昭和四十九年三月二十日  
                                 谷口雅春

(「はしがき」の謹写を完了いたします)

          <感謝合掌 平成27年9月24日 頓首再拝>

春のお彼岸の入り - 伝統

2016/03/17 (Thu) 03:19:31


今日、3月17日は、春のお彼岸の入り。
20日(日)は彼岸の中日(春分の日)です。

「彼岸」とは、迷い苦しむ現世の人間界(此岸)に対する言葉で、「彼(か)の岸に至る」を
意味するサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」からきています。

煩悩の束縛から解き放たれて悟りを開いた涅槃(ねはん)の境地が彼岸です。

ところで、彼岸に欠かせないのが「ぼたもち」です。
今は1年を通して「おはぎ」として売っている店もありますが、
本来は季節の花にちなみ春の彼岸は「牡丹餅」、秋の彼岸が「お萩」。

赤色系の花の色や、餡となる小豆には邪気を払う効力があるとされています。

この2つ、違いは食べる時期や名前だけではなく、
ぼたもちは牡丹の花をかたどり丸く大きく、
おはぎは萩の花のように小ぶりで少し長め、

元々は、ぼたもちはこし餡、おはぎはつぶ餡という違いもありました。


さて、お彼岸に墓参りをするのは日本独特の良き風習です。

古来、人々はこの時期を春の訪れを祝う時期としていました。
それと同時に祖先に感謝をするお祭りを行ない、この風習は農村部で長く続いてきました。

お彼岸の期間、ご家族でお墓参りは、その最たるものです。

この機会に、それぞれのご先祖様へ、感謝のご挨拶をいたしましょう。

               ・・・

《お墓参りを大切にする》

    *「悪縁バッサリ! いい縁をつかむ極意」禅僧・枡野俊明(著)(P119~120)より

お盆やお彼岸には、必ず子どもをお墓参りに連れて行ってください。
家族が揃ってお参りをすることに意味があると私は思います。

父親は、お墓の前に立ち、お墓を洗いながら、ご先祖様のことを語ってあげることです。

「お父さんのお爺さんが子どもだった頃、お爺さんはこんな経験をしたんだって」

そんな話をしてあげる。
子どもにとって3世代も前のそそ話は、100年も前の出来事です。
頭ではなかなか想像がつかなくても、心では自分と縁がつながっていることが
わかるものです。

写真でも見たことのない父親の祖父、その姿は見えなくても、
そこにある縁は不思議なことに実感できたりする。


[お墓参りというのは、自分が受け継いできた縁に出会いに行くこと]

日頃は忘れているご先祖様への報恩感謝の念を思い出すために行くということです。

そしてそれは、ご先祖様や亡くなった人のためだけではない。
自分自身の心が強くなるためのものでもあるのです。

          <感謝合掌 平成28年3月17日 頓首再拝>

春季皇霊祭 - 伝統

2016/03/20 (Sun) 03:27:57


今日は、「春季皇霊祭」。
今日は、ご皇室とともに、ご先祖に感謝する日です。

明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、宮中において祖先を祭る日となったのを
きっかけとして、一般市民の間でも祭日とされました。

春季皇霊祭とは、毎年春分の日に行われる歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式をいい、
宮内庁が公開している皇室の「主要祭儀一覧」には
「春分の日に皇霊殿で行われるご先祖まつり」と記されています。



皇居内の宮中三殿には神殿、賢所、皇霊殿があります。
皇霊殿には、歴代天皇、皇族の御霊が祭られています。

皇霊祭では天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。


また、本日は「春季神殿祭」も行われます。

皇居内の宮中三殿の神殿神殿には国内のさまざまな神が祭られており、
この神々の神恩に感謝する祭儀が行われます。

天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。



<Web:奉祝、春季皇霊祭
      → http://sahashipesu.blog.fc2.com/blog-entry-135.html >


・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

        *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。


・・・

<参考Web:お彼岸のお中日と皇霊祭の意味
        → http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/2012/09/post-3de1.html >

          <感謝合掌 平成28年3月20日 頓首再拝>

霊界の諸霊への供養のこと - 伝統

2016/04/27 (Wed) 04:10:28


        *「如意自在の生活365章」(P174)より

あなたの愛する”誰か”がこの世から去って逝ったからとて神の愛を疑ってはなりません。
決してあなたの「愛する人」はなくなったのではありません。

人聞の生命は、”神の生命”が宿っているのですから、
永遠の存在であり、久遠滅びざる存在なのです。

常に永遠にその人の”霊” は生き通してあなたが〝その人”を思うとき
その人の”霊”はすでにあなたの側にいるのです。

無論、霊界も現実界と同じく、唯心所現の世界でありますから、
その人の心境に従って霊界で、その心境相応の世界に住んでいることは
現世と一向異なりません。

それゆえ、霊界の祖先霊、縁者の霊などの心境の向上のために、
”真理の言葉”(聖経)を読んであげることは非常な功徳があることなのであります。

だから常に、仏壇または祖霊祭祀の宝壇の前で聖経『甘露の法雨』を読んであげることは、
霊界の諸霊を救済するところの非常な功徳ある法施(真理の供養)となるのであります。
                           
          <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

祖先供養について - 伝統

2016/07/23 (Sat) 04:34:44


          *「人間無病の原理」(P173~175)より

生長の家の神示には

「神に感謝しても父母に感謝し得ないものは神の心にかなわぬ」

と示されている。

“父母”とある中には父母のそのまた父母である祖先の霊をも含むのである。

吾々が、ここに神の生を享(う)けて地上に出現し得ているのは
“諸々の祖先”を含む父母を通してであるから、

祖先及び「父母に感謝せぬものは神の心にかなわぬ」
と神が示し給うているのは当然のことである。

多くの心霊治療家がその力の限界を暴露し、精神集注によって念じても、
祈っても、神想観してすらも病気が治らないことがあるのは、
祖先及び父母に対する感謝行が足りないのである。

ここに霊界にい給う祖先霊に対して報恩感謝のための供養をすることが必要なのである。

祖先供養とは霊魂を招霊し、感謝の法要的儀式をして
真理のお経(生長の家では聖経『甘露の法雨』)を子孫の者又は同信の多数者によって朗読し、
その経文に書かれてある「真理」を多数者のコトバの力によって祖先霊に念送するのである。

肉体死後の霊魂は物質的食物は食さないけれども、真理の念送によって、
真理を一層深く悟り、霊界に於いて一層の自由を得、神通力を発揮して
子孫の報恩行事によって歓喜し満足して、

子孫の幸福を「ちょっと待った」と今まで貯金帳(*宇宙銀行の貯金通帳)を
押さえていた霊の手を放してくれ、子孫が”実相の完全円満さ”を現実界に
引出し易いようにしてくれるのである。

それによって今まで、如何に手をつくしても治らなかった重症が、
祖先供養によって治った実例が出てくることになるのである。

          <感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>

すばらしい祥月命日供養祭 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 04:49:59


           *Web:宇治別格本山 より
                ~楠本加美野(生長の家長老)

(1)命日供養祭が先祖のお祭り

   たくさんの御参拝を下さいまして心より感謝申し上げます。
   この宝蔵神社月次祭(毎月十三日)は、
   本尊曼陀羅(ほんぞんまんだら)の月次祭(つきなみさい)です。

   本尊曼陀羅に

  「いつもお導きいただきまして、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」

   との感謝を捧げるお祭りです。

   盂蘭盆供養大祭もそうです。本尊曼陀羅の大祭なのです。


   では、皆さんの御先祖のためのお祭りは? というと、
   これは宝蔵神社で毎日おこなわれている「霊宮聖使命祥月命日供養祭」なのです。
   祥月命日供養祭が先祖のお祭りになります。

   ですから命日供養のときは、祝詞に
   「これから命日供養祭を、この場所を貸していただいてやらせていただきます」と
   本尊曼陀羅におことわりをしてやるようになっています。

   月次祭は月に1回、大祭は年に1回執り行われます。
   毎日行われているのが命日供養祭です。

   全国の霊宮聖使命菩薩(永代祭祀)・霊宮聖使命会員の命日に毎日午後2時より
   祥月命日供養祭が宝蔵神社大拝殿にて執り行われます。

   このお祭りが宝蔵神社で主体的に毎日行われているお祭りです。
   これが先祖のためのお祭りなのです。


(2)谷口雅春先生と命日供養祭のエピソード

   私が此処、宇治別格本山に来る前の話ですが……。

   永代供養あるいは霊宮聖使命会員に申し込んでいる方には、
   1か月前に「祥月命日供養祭御案内」の通知が行きます。

   ところがあるとき、谷口雅春先生のところに通知を出してしまった。
   すると谷口雅春先生が「通知が来たから宇治の命日供養に行く」と言われた。

   谷口先生が命日供養祭に来られたら、お祭りをやるのは私たちです。
   谷口先生が壇の下にいらっしゃることになる。
   これはどういうことだ? と言ったら、間違えて出したらしいのです。

   しかし、谷口雅春先生は「祥月命日供養祭」の通知を御覧になって、
   こちら(宇治)へ来られて先祖の供養をしたい、とおっしゃった。
   そのときは、大山半之助先生が代理で出席されたらしいですけれども……。


(3)谷口輝子先生と命日供養祭のエピソード

   それから、私が来てからの話ですが、
   その当時荒地浩靖先生が宇治別格本山の理事をしていた。

   すると輝子先生が「荒地さん、宇治に行く用事はありませんかね」と聞かれた。

   荒地さんは、そのとき用事がなかったから「いいえ、別にありません」と答えたら
   「あ、そうですか」と言われた。

   あとになって気になって「この前、宇治に行く用事はありませんか? 
   と聞かれたのはどういうことだったのでしょうか?」と聞いてみた。

   すると1月13日が輝子先生のお父さんの命日で、
   12月13日がお母さんの命日だから、お祭りに参加したいが、
   もう歳もとっているし、遠くからだから一人ではいけない、

   そうかといって、個人的なことに誰か、ということもあるので、
   荒地さんが行くついでがあったら、私も一緒に連れて行ってもらおうと思ったのだ、
   ということを後から聞いて、

   「ああ、しまった。行く用事がないと言ってしまって申し訳なかった」
   ということだったのだそうです。



   ということで、この祥月命日供養祭を如何に、
   谷口雅春先生、輝子先生が重要視されているか、
   つまり先祖供養が如何に重要視されているかということが、

   このことでわかると思うわけです。


(4)繰上命日供養祭について(先祖と共に練成を受け、光明化運動する)

   命日供養祭は、命日供養祭にお参りに来て、来月のも再来月もあるが、
   家が遠方にあって毎月来るわけにも行かないという場合、
   一緒にまとめて御供養する繰上命日供養祭というのもあります。

   命日供養祭は毎日ですから、練成期間中にも繰上命日供養祭が執り行われます。

   例えば、北海道や九州に住んでいるが、「今月は命日がたくさんあるから、
   是非宝蔵神社で命日供養祭をしたいが、命日供養祭だけで帰るのはもったいないから、
   練成会も受けに来ました」という人がいつも大勢出て来ます。


   神の子の自覚を深めるためには、
   先祖と偕に真理を学ぶ(『神真理を告げ給う』)と教えられています。
   つまり先祖と偕に練成を受けることが神性開発には大切なことです。

   本尊神霊(ほんぞんしんれい)の導きを受けて先祖と偕に光明化運動をする、
   そこに宇治練成会の特徴があります。

   そういうことで、この「霊宮聖使命祥月命日供養祭」の参列者が増えることが
   そのまま練成会員も増えるということになる。練成会員が増えることは多くの人が
   救われる。

   人類光明化運動に大いに役立つということになるので、 皆さんどうぞ、
   この祥月命日供養祭という非常に大切な供養祭にお越し頂きたいと思います。

   それが

   「此の宇治の地はまことに聖霊天降って衆生教化の中心地としていたまうからである」

   (谷口雅春先生)とのお言葉の実証になると思います。


     (平成8年5月13日 宝蔵神社月次祭における宮司(当時)挨拶より)

          <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

お墓参り - 伝統

2016/08/13 (Sat) 08:55:45


         *光明掲示板・第三「霊は墓にいるの? 仏壇にいるの? 
          「いのちを守る親の会」大熊良樹先生のご指導 」 より

          (日時:2015年02月08日 (日) 18時55分 名前:ガラスの仮面
            キャッシュ データ より転写)

質問 「生長の家では先祖供養が大事だと教えるが、墓参りのことはあまり言わないが、
    どういうことだろうか。」

答  「順番があります。先祖供養の基本は「仏壇供養」です。
    しかし、墓供養は、大事であると指導しています。
    荒御霊を大事にする、丁寧に祀る・・これは、実に尊い日本文化(精神)です。

    それは、生長の家の「霊供養」が、一霊四魂をしっかりと押さえているからです。

    これが、押さえられていないと、霊供養の指導ができませんし、
    今日の仏教の崩壊(もう、お墓はいらない。散骨でいい。)もここに起因するのです。」

                  ・・・

質問 「先祖の霊は、いつも仏壇にだけいるものなのだろうか。
    お盆、お彼岸などのときはどうなのだろう。
    宇治の霊牌供養。そのとき霊は宇治に来ているのだろうか。」

答   「この質問の十分な答えに、下記の資料はなる事と思います。
    生長の家の教えというのは、わかるほどに、スゴイですね。


一霊四魂(いちれい・しこん)が、わかれば先祖供養がわかります。

「千の風になって」という歌を聴いてここちがいいのは、
霊的悟りの境涯が表現されて在るからだと思います。

この歌の歌詞に、「お墓の中に私はいません。私は死んでなんかいません。」
というフレーズがありました。

これについて、ある僧侶からしたら「これはどういうこっちゃ」という事なのであります。

「お墓にいないのなら霊供養は『気慰めでしかない』し、やってもやらなくてもいいものとなる。
また、≪死んでない≫とは荒唐無稽である」という事でした。

私も、時々こういう類の質問を受けたり、
時には専門家であるはずの僧侶から「教えて戴きたい」と乞われた事もありました。

 
日本の仏教というのは昔インドで説かれた仏説に加えて、
日本の霊観(神道)や、中国の先祖供養(儒教)が融合して
「日本仏教」となっておりますので、

まずは、神道の≪一霊四魂≫という日本の生命観と言いますか、霊観を知らないと、
なぜお墓と霊牌があるのかわけがわからなくなってしまいます。

一霊四魂(いちれい・しこん)についてお話しましょう。

「一霊がすなわち実相です。神とか法身(仏の本体)とか言ってよろしいかと思います。

人間の本性。神性仏性の「元」であります。

この一霊が、4つの働きをするんですね。


▼ まず荒魂(あらみたま)、これは肉体です。もっとも波動が粗大で、荒々しいのですね。
  肉体や骨を土葬すると荒魂は墓地にいます。

  古代日本人は、肉体を単なる物質として捉えるのではなく、
  荒魂(あらみたま)と称したのですねえ。

  日本人が戦没者の骨を一片たりとも残さず回収したいと
  ・・・60年以上の年月が経っても願うのは、物でなく
  「荒霊のまします遺骨」と捉えているからです。

  これは理屈ではない。日本人の鋭い直観把握であります。
  やはり理論や理屈を超えているのでありますね。

  4世紀に日本に哲学的な仏教がやって来たので、その後お寺で弔い、
  供養していただく事になったのです。

  蛇足かもしれませんが、死後に限らず生きている間も
  「肉体のレベルで」刹那主義かつ快楽主義のように自己愛に偏重した生き方を
  している現代人もあるようですが、

  もし肉体以上の価値を人生に見出し得なかったとするならば、
  最も低い生き方と言えるのかもしれません。


▼ 次に幸魂(さちみたま)

  霊牌に鎮まります御霊ですね。亡父にいざという時「父さーん。」と叫ぶと
  助けてくれたというような体験談がたまにありますねえ。

  そういう大事な家族や子孫を守護する御霊(みたま)を幸魂(さちみたま)と言います。
  荒魂でありながら、同時に、幸魂であることができるのですね。

  モノではないですから、墓にいながら、
  霊牌を依代(よりしろ)としてそばに居て下さるのです。

  3人の兄弟の「仏壇」の「霊牌」に同時に現われることもできるというわけです。
  それは≪思い≫=働きでありますからね。

  荒魂が自己の肉体のレベル(自己保身)であるなら、
  父母や妻・子供たちのためなら、大切な人のためなら、わが身を顧みない
  というような「少し自己愛の延長上にある愛」少し発達した愛は、
  幸魂の愛といえるのかもしれませんね。


▼ 次に、和魂(にぎみたま)です。

  天界に昇って、天界を拠点に社会国家のために活動する御霊です。
  世界に一人の不幸せがあってもならん。
  この自他一体の思いを、大きな和魂(にぎみたま)すなわち、
  本当の大和魂(やまとだましい)であります。

  大東亜戦争でアジア諸国が西洋列強国から侵略されぬようにと、
  防衛のために身を捨てた多くの英霊は、やはり「遺言の内容」などを
  読んでみると和魂(にぎみたま)の生き方でありましょうね。

  この三つの魂は、三様にしてばらばらでないのであります。
  荒魂(あらみたま)でありながら、幸魂(さちみたま)でありつつ、
  同時に和魂(にぎみたま)であるというわけです。



  「お墓の中に私はいません。」というのは。

  千の風になった≪私≫は「幸魂」であり「和魂」であるという事であります。

  また、「私は死んでなんかいません。」というのは一霊すなわち実相であり、
  「神の生命」であるという事です。

  この「ほとけ(仏)たるいのち」は仏教で言うところの不生(ふしょう)であります。
  現象から観れば、生まれていないから滅びない。
  実相から観れば久遠の生命(いのち)。生き通しであります。



▼ そして最後に奇魂(くしみたま)

  それは悟れる魂(みたま)であり、叡智の御魂です。
  くし(奇し)というのは、不思議であるという意味で、
  薬師如来の薬(くすり)=「くすしき」に通じ、神や仏に近いニュアンスがあります。

  その奇魂は、肉体を脱した時に直日霊(なおひのみたま)=実相に還る。

  これは、現れでありながら、全て、実相(一霊)=神の働きであります。
  死してからでなくそれぞれの働きをもって、生きてあるのですね。

  肉体が滅びて悲しい悲しい・・それはわかるけれど、
  その程度の生命観を元に供養するならば、どんなにつまらない
  「是非、供養は和魂(にぎみたま)のレベルで行って戴きたいし、
  生き方もそうでありたいものですね。

  「千の風になって」はそう言った大事なメッセージ性を持った
  素晴らしい歌であると思います。


  この「一霊四魂」は、近代心理学でマズローが説く
  「自己実現の5段階説」を思わせますね。

  このような発達した「霊学のような」鋭い価値観を
  大古の日本神道が持っていたのであると思うと不思議な感慨を持ちます。

  思えば近代心理学で「フロイト」や「ユング」の説く
  「無意識」・「集合無意識」などについても、

  すでに千五百年前の「唯識」(仏教)において「マナ識」「アラヤ識」という呼称で
  詳しく説明されており、緻密に体系化されていたことも合わせて、

  ≪仏教・神道などの東洋の叡智は、「21世紀の心理学」に
  今後大いなるヒントを数多く与えてくれるであろう≫、ことが予想できるのであります。


  「五体の図」  出典『霊供養入門』(谷口雅春先生著:日本教文社)
  古神道《一霊四魂》と、近代霊学で示す《霊五体》とが類似していることは、非常に興味深いです。

                  ・・・

<関連Web: 

(1)大熊先生のブログ(2011/2/18(金) )『一霊四魂(いちれい・しこん)』 
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11177994.html

(2)大熊先生のブログ(2011/2/19(土) )『死は教化なり』
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11191572.html


          <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

先祖を思い、孝行を尽くす - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:15:08


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年06月24日)より

   (伊與田覺氏の心に響く言葉より…)

   「三者備(さんしゃそな)わる。然(しか)る後能(のちよ)く
    其(そ)の宗廟(そうびょう)を守る、
    蓋(けだ)し卿大夫(けいたいふ)の孝(こう)なり」


   三者というのは、法服、法言、徳行。

   その三つが備わって初めて宗廟を守ることができる。

   「宗廟を守る」とは、先祖祀(まつ)りができるということです。


   高い地位に就いたのは結構であったけれども、
   その地位を失うと先祖祀りもできなくなる。

   そうすると家が絶えるということになる。

   だから、先祖祀りができるというのが
   「蓋し卿大夫の孝なり」で、
   卿大夫あるいは大臣としての孝行であろうというのです。


   日本もそうですが、中国では特に先祖祀りが非常に重視されています。

   それが孝行のひとつの大きな条件になっています。


   曾子(そうし)が『論語』の中でこういっております。

   「終わりを慎(つつし)み、遠きを追(お)う」


   「終わりを慎む」とは、親が亡くなったときに葬儀を丁寧にするということです。

   そして「遠きを追う」とは、
   その先祖の遺徳を偲(しの)んで先祖祀りをするということです。

   これが孝行として非常に大切なことだと曾子はいうのです。

   生きた親に孝行することはいうまでもなく大切だけれども、
   同時に「終わりを慎み、遠きを追う」ことを忘れてはいけない、と。


   先祖を思うということは自分を大切にすることにもつながります。

   今日ここに我々があるのは、先祖のお蔭によってあるのです。

   また、それだけに自らも子孫にとってよき先祖となることが大切である。

   子孫からよき先祖であったといわれるように、
   自らを慎んでやっていかなければなりません。


   だから、先祖祀りをするということは、
   同時に自己自身を修めていくことにもつながっていくんですね。

          <『孝経 人生をひらく心得』致知出版社>

               ・・・

「田中角栄さんが総理大臣になったとき、老いたる母親から
『総理大臣を辞めないかんかったらいつでも帰ってこい』と言われたそうだ。

『庇(かば)うてやるから帰ってこい』と。

これが親の姿だ」(同書より)


子どもがいくら一国の総理になったとしても、
親が子を思い心配する気持ちは一般庶民と変わらない。

子どもの頃から自分がどれほど親に世話になったか、大事にされたかを忘れている人は、
恩を大事にできない人。

恩を忘れた人は、周りの人にも薄情だ。

人はそれをよく見ている。


先祖を大事にし、親への孝行を尽くしたい。

          <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

秋のお彼岸の入り - 伝統

2016/09/19 (Mon) 04:50:31

今日、9月19日は、秋のお彼岸の入り。
22日(木)は彼岸の中日(秋分の日)です。

「彼岸」とは、迷い苦しむ現世の人間界(此岸)に対する言葉で、「彼(か)の岸に至る」を
意味するサンスクリット語の「パーラミター(波羅蜜多)」からきています。

煩悩の束縛から解き放たれて悟りを開いた涅槃(ねはん)の境地が彼岸です。

ところで、彼岸に欠かせないのが「ぼたもち」です。
今は1年を通して「おはぎ」として売っている店もありますが、
本来は季節の花にちなみ春の彼岸は「牡丹餅」、秋の彼岸が「お萩」。

赤色系の花の色や、餡となる小豆には邪気を払う効力があるとされています。

この2つ、違いは食べる時期や名前だけではなく、
ぼたもちは牡丹の花をかたどり丸く大きく、
おはぎは萩の花のように小ぶりで少し長め、

元々は、ぼたもちはこし餡、おはぎはつぶ餡という違いもありました。


さて、お彼岸に墓参りをするのは日本独特の良き風習です。

古来、人々はこの時期を秋の訪れを祝う時期としていました。
それと同時に祖先に感謝をするお祭りを行ない、この風習は農村部で長く続いてきました。

お彼岸の期間、ご家族でお墓参りは、その最たるものです。

この機会に、それぞれのご先祖様へ、感謝のご挨拶をいたしましょう。

・・・

《墓地参拝》

       *「人生を支配する先祖供養」(P164~165)より

祖先に本当に感謝の心があるならば、海外移住者は別として日本内地に
住んでいる限り、遠すぎる距離というものはありません。
遠いと思うのは、自分の心が祖先からと遠くなっているのです。

日本に住んでいる以上、距離的に年に2~3回は詣れない人は無いと思います。
その費用はあなたに本当に祖先を大切にする心があれば、祖先の霊の守護によって、
家業も栄え、経済的にも豊かになり、決して不自由することはありません。

墓地は茫々と生やすようではいけません。
墓地に近い親類又は知人、又は供花を業とする人に頼んで墓地の清掃、草取り、
供花等を委託しておかれるがよろしい。

若し何かの理由で墓参出来ない時があっても、自宅の仏前で毎日聖経を誦げて
幸魂(さちみたま)を供養してあげればよろしい。

そして祥月命日とか、お盆とか御彼岸とか、適当な時に墓参なされば好いのであります。

           

<参考として>

当スレッド内の記事「お墓参り 2016/08/13 (Sat) 08:55:45」及び、
同記事で紹介の次のWebを詳しく参照願います。

(1)大熊先生のブログ(2011/2/18(金) )『一霊四魂(いちれい・しこん)』 
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11177994.html

(2)大熊先生のブログ(2011/2/19(土) )『死は教化なり』
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11191572.html


          <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>

秋分の日(秋季皇霊祭) - 伝統

2016/09/22 (Thu) 03:38:46

秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」となっていますが、
昭和22(1947年)までは秋季皇霊祭といいました。

日本に昔からあった先祖まつり、春分と秋分の日を、中日とした七日間を彼岸といいます。

この期間に法要や墓参りをしたり、お寺では彼岸会(ひがんえ)が催されるなど、
仏教の影響が色濃く感じられます。

しかし、仏教思想とは解釈できない要素が含まれていて、
もともと我が国固有の信仰行事が、基調をなしていることがわかります。

「日本書紀」には、「皇祖神武天皇陛下」が、「皇祖天神を祭りたまふ」とあり、
天武天皇十年(682)五月十一日条に「皇祖の御魂を祭りたまふ」と記述がみえます。

従って、このような祖先祭祀の伝統が前提にあったからこそ、
やがて仏教的なお彼岸会も行われるように至ったのです。

中世・近世の宮廷では、御所の一角(清涼殿のお黒土)に歴代天皇の霊牌(れいはい)や
念持仏を安置して、ご命日の法要など営まれてきました。

明治維新の際、神仏分離令により、従来の歴代霊牌は、
京都・東山の泉湧寺(せんにゅうじ)などへ遷されました。

明治2年(1869)改めて神祇官で歴代天皇の御霊代(みたましろ)を招き祭り、
明治天皇陛下の御拝礼がありました。

明治11年6月、「春秋二季祭」を置き、
「神武天皇を御正席とし、先帝まで御歴代天皇、ならびに后妃以下皇親(皇族)」も
「合祭」すると定められました。

さらに、明治四十一年公布の「皇室祭祀令」で皇霊祭は「大祭」と定められ、
祭典の中で東遊(あずまあそぶ)(楽師の歌舞)も奉奏されることになりました。

これは第二十七代安閑天皇(531年-535年)の頃に駿河の有度浜(現在の静岡県三保松原)に
舞い降りてきた天人の姿を象った(かたどった)舞とされています。


この春分と秋分には、皇霊祭に続いて神殿祭が行われます。
その神殿には、日本国中の天神地祇(てんじんちぎ)が祀られています。

天神地祇の由緒を遡れば、記紀神話にみえる高天原(九州)から降臨された、
大和朝廷と関係氏族が奉齊する天神(あまつかみ)と元来地上にいた土着氏族が
奉齊する地祇(くにつかみ)から成るとみられています。


このように皇室、全国の神社では、先祖の供養(くよう)をする日とされています。

春・秋の中日は、氏神さまや、お墓参(はかまい)りをしてご先祖さまをお慰めし、
感謝をする大切な日であることを忘れてはなりません。

古来、日本人は家族や地域の共同体の「和」を大切にし、名誉を重んじてきました。
何気無い不用意な自分の行為が、家族や地域の人の和を損(そこ)なわないように、
自分を律(りつ)する自制心を高めるために、常に身を修(おさ)め、
家を斉(ととの)えてきたのです。


日本古来の習俗を体現され、今日に継承されておられる、皇室。
「敬神崇祖(けいしんすうそ)」のこの日に、
それぞれが、皇霊を遥拝し奉り、ご祖先を敬う気持ちを示すことが大切です。

<参考Web>

(1)Web:日本よい国、きよい国。 世界に一つの神の国。(2011/9/23)
       → http://blogs.yahoo.co.jp/meiniacc/43826836.html

(2)Web:かつて日本は美しかった(2010-09-23)
       → http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20100923/1285193194

               ・・・

皇室および一家の祖先を礼拝せよ

        *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)P65~66より

【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。


          <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

後妻を迎えるに際し、亡き先妻の承諾を得ておく - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:17:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P115)より

男子が妻を失って家庭の事情か何かで後妻を欲する場合は
先妻の霊魂の承諾を得ることが先決問題なのである。

そうでないと先妻の嫉妬の逆念などを放送せられて、なんとなく後妻と
その良人との感情を疎隔せしめ、ついに離婚に立ち到らしめるか、
夫婦中のどちらかを病気にならせることがありがちである。

先妻は死んでしまって、現在眼の前にいないのにどうして
その承諾を得ることができよう―― と思われる人があるかもしおれないが、

先妻は肉体はいなくともその霊魂はたいてい良人に執着して身辺にいるのであるから、

身辺にいなくとも霊界にいて、名を唱えれば招霊しうるのであるから、
仏前で先妻の名を呼んで招霊し、

「汝(あなた)はすでに霊界の人であって地上の存在でないから、地上の世人に
おける地上の営みに執着しないで霊界で向上の道を辿ってください。

地上のわれわれの家庭では子供の多いことであるし、地上の生活上家事をとるための後妻が
必要であるから後妻を貰いたいからこれはやむえない事情の出来事として怨まず嫉妬せず、
家庭の中に不幸の起こらないように祝福しておいて完全に霊界の人となってください。

いつまでも地上のことに執着している霊は浮かばない霊と言っていつまでも苦しまねば
ならぬのである。今後一ヵ月間聖経『甘露の法雨』をあなたのために読んであげるから、
その真理をよく聴き悟って

人間本来肉体でないこと、病も本来ないこと、本来自由自在で歓びに
満たされていることを悟って、成仏して自由自在の境地に入ってください。」


こう前置きしてから一ヵ月間一定の時刻に『甘露の法雨』をその亡妻の
ために誦するがよいのである。

こうして後、後妻を迎えたら先妻の執着の念は消えているから、
なんら障礙の念波を送らない。

そうして先妻の霊魂は過去帳または位牌の中に、戒名または俗名を書いておいて、
あとは「何々家先祖代々親類縁者之霊」とその家の縁者の霊を一緒にとなえて、
読経なり回向すればよいのであるから、
後妻に対して、先妻の名前を呼ばしめる必要もないのである。

世間には「生き別れの後へ嫁(い)っても、死に後へな嫁(い)くな」という諺があるのは、
先妻の死別したあとへ行くと先妻の亡霊の念波の干渉があってうまくゆかないのと、

死んだ者は美しく見えるので、「前の妻はこうだった、こうしてくれた」などと
ともすれば比較されるので後妻にとって耐え難いことがあるからである。

後妻の前で先妻の噂をしたり、先妻を賞(ほ)めたりするものではないのである。

           <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

霊界の霊魂に対しては真理の念波を施すことが最も根本的な供養になる - 伝統

2016/11/13 (Sun) 03:25:28


          *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇(P71)より

われわれが霊界に行きましても、
この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。
霊界で病気している霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。

それはちょうど下手な画家であれば板の上に描いても布カンバスに描いても
依然として下手であるというのと同じようなわけであります。

ですからわれわれが自身または他(ひと)の霊界における生活状態というものを
良くしようと思うと、やはりどんなカンバス

 ―― 現世とか来世とかいうカンバスがどんなに変わっても ―― 

どんな画布(カンバス)の上に描いてもいい絵が描けるように
しておかなくちゃいけない。

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何で絵を描くかというと、
念波で絵を描くのであります。念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、
その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施
というものでありまして、最も尊い施しであります。

われわれは人に物を施すのは、仏施といって物を施すのと、
それから法施といって悟りの念波を施すのとがありますが、
真理の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。

          <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 03:34:34


今日は、「春季皇霊祭」。
今日は、ご皇室とともに、ご先祖に感謝する日です。

明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、
宮中において祖先を祭る日となったのをきっかけとして、
一般市民の間でも祭日とされました。

春季皇霊祭とは、毎年春分の日に行われる歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式をいい、
宮内庁が公開している皇室の「主要祭儀一覧」には
「春分の日に皇霊殿で行われるご先祖まつり」と記されています。



皇居内の宮中三殿には神殿、賢所、皇霊殿があります。
皇霊殿には、歴代天皇、皇族の御霊が祭られています。

皇霊祭では天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。


また、本日は「春季神殿祭」も行われます。

皇居内の宮中三殿の神殿には国内のさまざまな神が祭られており、
この神々の神恩に感謝する祭儀が行われます。

天皇陛下がお告文を読まれ、
皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が拝礼されます。

・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

          *Web:☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆(2015-11-21)より

【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】

             (『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)P65)


この われわれの生命が 永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫(つらぬ)くところのものであります。

これがハッキリわからなければ
「 皇霊を遥拝し 」 ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということも虚礼ではありません。
いろいろの批判はあるにしても、われわれ日本人は
日本国の歴史を通して 「 今 」 の一点に生きているのです。

そして いろいろの日本国の興隆(こうりゅう)浮沈(ふちん)は あったにしても、

どんなときにも 日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展して
きました不倒翁(おきあがりこぼし)の重心のごとく ドッシリとして、その中心から
どんな時にも 日本国が立ち直ることができた重心は 天皇がましましたからであります。

われわれは 歴代の天皇の この御恩沢(ごおんたく)を忘れてはならない。
恩を知るということが 実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だから われわれは 歴代の皇霊に対して崇敬(すうけい)の誠を捧げるのであります。

・・・

われわれは 「 現世 」 とか 「 来世 」 とかいうカンバスに 何で絵を
描(か)くかというと、念波で 絵を描くのであります。
念波という絵具(えのぐ)をもって 絵を描くのでありますから、
その念波を善(よ)くし、また よくしてあげることが 必要であるのあります。

最もよい念波は 何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。
この真理の念波を人に与えるということ、これが仏教でいう法施(ほうせ)というもので
ありまして、最も尊い施(ほどこ)しであります。

われわれは 人に物を施すのは、物施(ぶっせ)といって物を施すのと、
それから法施といって 悟りの念波を施すのとがありますが、
真理(さとり)の念波を施すということが 本当の最も根本的な供養になるのであります。

・・・

最高の救いは、やはり真理のお経を 意味が本当に分かって読むに限るのです。
そうしますと そのお経を捧げられる相手方の霊魂は 非常に心が富み、心が満腹し、
生命が生長するということになるのであります。

ですから われわれは 暇があれば朝晩は
必ず 「 祖先の霊魂の悟りのための供養として・・ 」 といって
生長の家の聖経 『 甘露の法雨 』 を誦(よ)むなり、
先祖から伝わっている宗教の経典を読むということにされることが

祖先に対する子孫の務(つと)めなのであります。

・・・

われわれは 祖先というものがあって 今ここに生きる機縁(きえん)を
与えられているのでありますから、その祖先に対して われわれが供養する、
お経をよんで真理の念波を供養する、実相のサトリを 供養するということは
実に大切な子孫の務めであります。

・・・

実際上 祖先に対して よく真理を施(ほどこ)しておられる人々は、祖先の守護も多く、
また 自分の善念の具象化として 不幸というものがないのであります。


『 生命の實相 』 ( 頭注版 第28巻 久遠仏性篇 65・66頁、71頁、73・74頁 )
谷 口 雅 春 先 生

   (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/dde79b69a883f9a695059055d1c27968

          <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

死後、魂はどこに向かうのか - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:15:17


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P223~223)より

死の瞬間からあの世へと移っていくプロセスをご説明しましょう。

臨終を迎えるとき、体がばたばた動くのは苦しんでいるからではなく、
肉体のスーツを脱ごうとしているからです。
肉体から抜け出して魂と幽体となり、自分の体を外側から見、
この世に強い執着を残している人は、肉体をなかなか脱ぐことができず苦労します。

ともかく、肉体から抜け出したとき、ほとんどの方はこんなふうに思います。

「私は死んだのか、ここに私がいるのに、肉体はあそこにある。
どちらが本当の私なんだろう。みんなが泣いている。
死んだというのに、どこも痛くないし、苦しくない」

自分が死んだことをすぐ理解できる人もいますが、中には、肉体に戻ろうとして、
肉体の上に重なって見たりする人もいます。

そのとき、トントンと肩を叩かれます。

あの世からお迎えが来たのです。
身内や先祖が迎えにくるケースが大半です。


肉体と霊、幽体はシルバーコードと呼ばれるもので結ばれています。
シルバーコードが切れて、死を迎えたら、約四十九日の間は幽現界という
現世と重なり合った世界にいます。

そして、なつかしい場所や愛する人がいる場所に
あいさつなどに出向き、執着を落とします。

その後、お迎えに来てくれる身内や先祖に導かれながら安心して、
個性や人格はそのままに幽界という階層へ浄化していくのです。

でも、遺族が故人に執着すれば、残してきた人たちのことが心配で、
なかなか浄化できません。

事故で亡くなった故人の死を悼んで事故現場に花束やお線香、飲食物を
お供えするのは、死者にとってはかわいそうなことです。

もちろん、遺族の悲しみも痛いくらい伝わってくるのですが、
これでは死者の霊は成仏できません。

お葬式を終えても、事故現場に遺族が執着し、死者に語りかけていては、
霊も事故に対する後悔や遺族を悲しませていることを気にして、
事故現場に執着せざるを得なくなるのです。(未浄化霊となる)

そのような場所では、未浄化霊の放つ悲しい波長が
また同じような事故を引き起こしてしまうのです。

道端の花束を見かけたら、不吉だと思わずに
「成仏して一日も早く楽になってくださいね」と
唱えてあげてください。

そして、もしもあなたの身近な方が、不慮の事故で命を落とされたときは
思い出してください。事故現場にはお供えはいりません。

できるなら、事故現場へは、お葬式の前までに出かけ、一緒にお葬式に行こう・・・
おうちに帰ろう・・・「もう痛くないからね・・・すすむべき道へ進もうね・・・」
と連れて帰ってあげてください。

死者にいつまでも執着してはいけません。

50日ほどたったら、涙を拭いて、快くあの世へ送り出してあげましょう。
生前の愛用品や部屋への執着は、なるべく早くなくしましょう。

遺族にとっては、決して簡単なことではありませんが、
そうしてあげることが何より大切なお弔(とむら)いであり、愛でもあるのです。

            <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

《縁者の霊を供養する日》 - 伝統

2017/05/03 (Wed) 03:46:01


        *「光明道中記」(5月3日)より

【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、
 小児麻痺的現象・・・等々を起す。
            (『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】

生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、
小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。
小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。

併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。

それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に
「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し

「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ
たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を
誦するのである。

1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。

それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、
予(あらかじ)めその治癒の期限を予告することは出来ない。

生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、
物言い始めし例もある。

神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて
精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは
藤岡秀信氏の体験談である。

            <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝>

【嫁ぎ先の家系のカルマと恩恵】 - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:17:17

         *「魂の導き」越智啓子・著(P74~77)より要点の紹介

(1)私が最初に嫁いだ家系

  ①子供を産めない難病を持っていることを承知で結婚してくれたのですが、
   やはり子供が欲しいということで、やむなく別れることになりました。
   
  ②夫の実家は大きな精神病院をしていて、そこに2度も国税局が入りました。

  ④4年間の役目を終えて離婚するときに、
   ピラミッド状にご先祖さまが並ばれて、

   「たくさん祈りをありがとう!
   おかげでいろんな問題も片づきました。
   ご恩は忘れません。

   あなたが使命を果たせるように、私たちもずっと応援しています!」

   と言われて、涙が出ました。

   ご先祖さまたちとの、不思議な涙の別れでした。

  ⑤人生一切無駄なしです。


(2)嫁ぎ先2つ目の家系は、住んでいた場所が霊の通り道になっていて、
   さらに複雑な男女関係の解放がありました。

  ①いろんな人に助けてもらいながら、14年間の長いチャレンジが終わりました。

  ②2人の娘を子育てする貴重な体験と霊的な不思議体験がたくさんできました。
   そのおかげで霊的にとても強くなりました。
   本当にしっかりと鍛えられました。

  ③その家系を去るときも、ご先祖さまたちから、

   「本当にご苦労さま。
   いろんな問題が解けました。
   本当にありがとう!

   子供たちへの愛もありがとう!
   これからは自由に癒しの仕事をしてください」

   と贈る言葉をまるで卒業式のようにいただいて、嬉しかったです。


(3)3つ目の家系は、まさに今体験中です。

  ①最初のデートで、「ぜひお墓の掃除をさせてください」と申し出て、
   「変わった人だね~」と言われながら
   本当にお墓の掃除をして、手を合わせたときに、

   「めんそ~れ、お掃除とお参りありがとう! これからもよろしくお願いしますね!」

   とご先祖さまたちからさっそくご挨拶がありました。

  ②入籍してから、お父さまが整理して作られたという大きな家系図に
   自分の名前を入れたときに、「ついに琉球の嫁に入れた! 」
   という感無量の感動がありました。

   私自身の魂の過去生にも琉球王朝の時代があるので、
   先祖返りにもなります。

   個人の喜びがご先祖さまの喜びになります。


<参考Web:家系の霊線
      http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/a5ee7c24d8bc7ffd94513ce867e1b9dc

            <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>

「満中陰と五十日祭について」 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 04:23:35


       *『人生を支配する先祖供養』(P8~9)より

霊界の待合室は薄暗い世界である。
それは”冥界(めいかい)”という語(ことば)がふさわしいかも知れない。

そこに肉体を脱出した霊魂は、
肉体の病臭や屍臭の〝移り香〟の不快臭を浄化するために、
ある期間滞在せしめられるのである。

それを仏教では「中陰(ちゅういん)」と称して、
まだ霊界のどの位置に往くべきかが定まらない期間である。

それは大体七週間であり、仏教では四十九日間とせられ、
神道では死の直後より数えて五十日目とせられているのは、
仏教も神道も根本的に一致していることを示しているのである。

四十九日間の中陰の期間を満了すると”満中陰”の法事があって
生前の懇親者にお供養(満中陰の志)が配られる習慣(しきたり)になっている。

神道では”五十日祭”という祭典が行われて、冥界の薄暗い前室から解放されて、
受持の高級霊の案内によってその霊魂が割当てられた幽界の位置に伴われて行き、
其処で修行することになっているのである。

現実世界も、幽界及び霊界も、いずれも霊魂がその本来の”神の子”の実相を
研(きが)き出すための修行の〝場〟であることに変わりはない。

            <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

「死者への思い」 - 伝統

2017/06/29 (Thu) 04:41:21


        *Web:In Deep(2017/01/03)より

シュタイナーの1922年の講演「死者への思い」より抜粋


大切な友だちが長いあいだ遠いところにいて、
皆さんがその友だちのことを愛情を込めて思いながらも会えないでいるとき、
その友人が写真を送ってくると、皆さんはその写真を大事にするでしょう。

その写真は皆さんの心を暖かくします。
その写真は皆さんに必要なものです。

皆さんにとってその写真が貴重であるように、
人間の目覚めた昼の意識のなかに生きる死者への思いは、
死者にとって貴重なものです。

死者は地上を眺めるときに、「ありえないもの」でありながらも
「なくてはならないもの」に精神プロセスが貫かれるのを感じます。
そうでないと、死者は持続する精神プロセスを感じるだけです。

持続する精神プロセスが地上にいる心魂から発するものに貫かれるのを死者が感じると、
それは愛する人々の写真のようなものになります。

ですから、「死者慰霊日や万霊節に墓地に行って、
貴重な死者たちのイメージに満たされた多数の人々を見、
そして、思い出されている心魂たちを見上げると、
そのイメージは死者たちにとって芸術作品、大聖堂である」ということができます。

地上から輝いてくるものが死者を照らします。
その死者たちにとって、世界は素晴らしい大聖堂のようなものです。
その大聖堂は私たちにさまざまな秘密を語り、世界に光を注ぎます。


ここまでです。


シュタイナーの主張では、「私たち生きる者の死者への思い」は、
死者たちにとって「輝く光」になるようです。

    (http://indeep.jp/r-i-p-dr-toru-abo-and-thank-you/

            <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

先祖の徳のお話 - 伝統

2017/07/17 (Mon) 03:43:18


         *Web:「和蘭の大部屋 に ようこそ!」(2015-07-10 )より

「先祖の徳や罪というものは子孫には放棄できない遺産相続」

良いことも悪いことも、すべてそのまま受け継いでしまいます。

先祖が人を殺していれば、殺されて成仏できない霊は
悪霊となり子孫に祟り、家系は途絶える方向に向かいます。

先祖が徳を積めば、子孫が繁栄していきます。

いずれ私達も死んだら先祖になります。

生きてる今、懺悔し、徳を積み、次世代に繋げていく事は
自分にとっても家系にとっても、大切なことなのです。

生まれてきたことに感謝し、

心のあり方をちょっとプラス思考に変えるだけで

物事は自分も周りも顕著に変わってきます。

人を思いやり、人に喜ばれるように、

人と関わりながら生きることは、

無償の愛を実践 していることになります。

一人一人が意識して徳を積んでいくことにより

世の中も変わっていきます。

       (https://ameblo.jp/925-peso/entry-12048963370.html)      

                ・・・

         *Web:「和蘭の大部屋 に ようこそ!」(2015-07-11 )より抜粋

《何故ご先祖様に感謝が必要か?》

今こうして私たちが存在するのは、
ご先祖様たちからの命のリレー繋がりのお陰です。

私たちが今、生きていられるのは
いろんな免疫力を持っているからです。

いろんな病気が流行った時に、その病気で死ぬ前に
なんとか免疫を作った人がいます。

ご先祖様が免疫を作り、私たちに命というバトンをくれました。

お母さんのお腹の中で十月十日過ごしますよね?

母体がなければ、胎児は成長できません。
この世に生まれるには母がいなければ不可能です。

両親は生きてる先祖(先の祖)なのです。
だからどんな親でも親孝行をしなくてはいけない。

生んで頂いた恩は受けっぱなしではいけないのです。

たくさんのご先祖様のおかげで私達は
今、こうして生かされているのです。

今年のお墓参りはそんなことを思い出し、
感謝の気持ちを持って、手をあわせて頂けたらと思います。

       (https://ameblo.jp/925-peso/entry-12049140737.html

・・・

<参考Web:何故、先祖霊への感謝が必要か
       http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/c9e43e63c777d992bfe3213153de0a4e

・・・

《谷口雅春編著「人生を支配する先祖供養 」》

先祖の供養は何故必要なのか? 
どのように供養すれば良いのか? 

それらの答を具体例を挙げて判りやすく示した、先祖供養の意義と実際のすべて。
一家に一冊、家庭必備の一大宝典。


【目次より】

第一部 原理篇
第一章 祖先の仏性を開顕するために
5 祖母と孫娘との間の断絶
6 祖父母として又、父として母として
7 仏性・内在のキリスト・人の内にある聖霊
8 生きて歩む宗教
9 時代の相違で子供が脱線したように見える場合
9 霊祭の儀礼には必ずしも一定の形式はない
10 大往生と断末魔の苦痛について
11 満中陰と五十日祭について
12 冥界の照魔鏡について
14 三途の川を渡って我らは何処へ行くか
14 幽界と現実界との境
15 思いやりある死者の霊の力
16 祖先霊を祀ること
17 霊界への移行と死後の霊魂の状態
18 病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために
19 わが生命は祖先の生命の連続である
19 仏壇、神棚の意義
20 位牌と鎮魂の仕方
21 位牌には何名の名を書いてもよい
22 新たに祖先霊を祭祀する場合
23 生長の家は葬祭の儀式に何故神社的式典を採用するか
24 先祖供養の意義
25 献饌の意義
27 幽斎と顕斎について
28 個別霊の供養の期間について
29 無縁仏を祀ることについて
30 宗旨を変える事によって起る障害
31 聖経『甘露の法雨』の由来について
32 先祖に対して聖経を読誦する時の心得
34 葬祭等に焼香する意義


            <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

ご先祖に届く供養の方法 - 伝統

2017/07/30 (Sun) 03:52:22


       *Web版誌友会(2015.07)(白鳩会)
         「どうしたらいいの?先祖供養」 より抜粋

《先祖供養はどのようにしたらよいでしょうか》

生長の家では、人間の実相(本質)は神の子で完全円満、永遠生き通しの生命であり、
肉体が滅んでも霊魂は生き続けると、説いています。

先祖供養の意義の第一は、人間は神の子で、それ自身で完たいのですから、
外から何かを付け加えることによって初めて完全になるようなものではないのです。

死後、人間の神性(実相)を自覚した霊にとってはどんな形式によっても
祀ってもらう必要はないのです。


しかし、第二議的には人間の神性(人間は神の子で、肉体ではなく霊的実在である)
の自覚が足りず、未だ悟りの境地に達せず、肉体的自覚を脱し切っていない霊魂は、
肉体がなくても習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむ者もあるので、
応病与薬的に「食を欲するものには食を与え。薬を欲するものには薬を与え」
というように、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには仏壇を与えて、
死後も生き続ける霊を供養し、誠を尽くすことが先祖に対する道となるのです。

だから、先祖が仏教で続いてきた家系の霊を祀るには仏教的儀礼に従うのがよいのです。

先祖に対する感謝の思いで、真理の言葉が書かれたお経を唱えて供養をすると
先祖の悟りも深まり、私たち子孫を守護する力も強くなります。

生長の家創始者・谷口雅春先生は、ご著書『霊供養入門』に次のように、
お説き下さっています。(265頁)


   聖経の読誦を供養されることによって、その霊魂がいよいよ一層
   “迷い”の束縛から解脱するに至ると、その霊魂は神通力を得て、
   今まで聖経読誦の供養を受けたことの感謝報恩に、守護神となって、
   その人を健康と繁栄とに導いてくれることにもなる。


《先祖供養の仕方について》

詳しくは、谷口雅春先生著『新版人生を支配する先祖供養』の71~74頁、76頁をお読みください。

①位牌(霊牌)を用意する。

 位牌がない場合は、清浄な木材(または紙)で四枚の位牌(霊牌)を作り
 父方の両親、母方の両親の両家の名前を下記のように書く。

 「〇〇家先祖代々親族縁族一切之霊位」

 昇天後五十年未満の場合は、下記のように一人ひとりを俗名で書く。

 「〇〇〇〇比古命之霊位」(男)

 「〇〇〇〇日女命之霊位」(女)

 書き上げた位牌は仏壇に安置する。
 仏壇がない場合は、部屋の中の清潔な場所に安置する。


②献せん(お供え)

 ご飯、お水、その他、その人の生前好きだった食物を供える。
 焼香して、地上の不浄な匂いを消す。

③招霊

 「〇〇家先祖代々親族縁族一切の霊イイイ・・・」

 「〇〇〇〇比古命(ひこのみこと)之(の)霊(みたま)イイイ・・・」

 「〇〇〇〇比女命(ひめのみこと)之(の)霊(みたま)イイイ・・・」

 と唱えて、供養する霊を順次呼び、最後に
 「其他親類縁者一切之(の)霊(みたま)イイイ・・・」と呼ぶ。

④聖経読誦

 まず、「唯今、これより生長の家の聖経(または讃歌)を読みます。
 このお経はあなたが祖先代々伝承してこられた〇〇宗の教えの真理を、
 最も分かりやすく現代語で書かれたものですから、心を集中して
 このお経を聞き給うて悟りを開き、仏の境涯に達し給え、
 今後は毎日この時間に読誦します」と唱える。

 その後、感謝の念をもって、聖経や讃歌を読誦する。

⑤最後に

 読誦し終えたら、次のように唱える。

 「あなたたちは、今聖経(または讃歌)の説く真理を知り、既に肉体を脱して、
 自己は肉体ではないのだと悟られました。

 円満完全なる神の子であり、仏の子なのです。
 どうぞこの真理を充分お悟りくださり、一切の迷いの束縛から解脱し、
 益々霊界の修行を重ね給いて、一層高き霊位(みくらい)に昇り給え」



このように、聖経の意味を説明し先祖供養を毎日、一定の時間を決めて、
尊敬と報恩感謝の誠を込めて行いましょう。

   (http://www.sni-honbu.or.jp/whda/wp/?p=115

・・・

<参考Web:先祖霊に届く供養の仕方
     → http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/553f0496cd59fc84f3edb57ea2a45d30 >


            <感謝合掌 平成29年7月30日 頓首再拝>

お盆に聞くお話 - 伝統

2017/08/13 (Sun) 04:42:47

最高の先祖供養とは

     *Web:龍青三 オフィシャルサイト(2014/06/26)より抜粋
          ~ 斎藤一人 さんの 祖霊供養 

供養の話します。

Q:なんかひとりさんの話聞いてると、うちの先祖いっぱい地獄いってますよね?、って。

A:ああ、いってるよ。


Q:どうしたらいんでしょう?

A:どうにもなんないよ。
  だって、勉強に行ってんだもん。

  勉強に行ってんだもんねぇ?
  それでいいんだよねぇ?

  で、供養したかったらどうすんの?
  いや、仏壇拝んだりすんのいいんだよ?

  やんな、って。

  だけど子供が懲役3年なれば3年だよね?
  拝んだって3年だよね?

  わかる?
  もし2年で出てきたら、拝んだからじゃないよね?
  中で、その子は真面目にやったからだよね?

  オッケーですか?


Q:で、拝んじゃいけないんですか?

A:そうじゃないよ。
  あの、刑務所はいったってほったらかされてるより、
  たまに面会いったり、お手紙出してりゃ、

  お母さんに次出てきたら悪いことしないようにしようとか、そう気になるからね。

  そりゃいいことなんだよ。


  ただね、《一番の先祖供養は、自分が地獄に行かないこと。》

  ああ、うちからもやっと地獄に行かないのが出たんだ。
  俺たち、いのち、ずーっとずっと繋いできたんだ。
  で、やっと出てくれたんだ。

  これが最高の供養なの。

  わかります、供養塔建てたい気持ち。ツボ買いたいのわかります。

  壷買って天国行けるなら俺買います。
  デカイの買って入ります。
  さよならして、自分でふた閉めて、ってね(笑)

  だけど、そんなことダメなの。
  ここにいる人……反応見ててわかるけどさ、気をつけなよ。
  騙される波動がムンムンしてるもん。

  あのね、ロクでもないね占いだとかさ、
  ああいうのに行くと一番最初に言われるのが、

  「あなたは凄い家柄の出ですよ。前世はお姫様です」

  とか言うんだよ。真に受けちゃう……
  自分の顔よくみてみな?お姫様の顔かどうか(笑)

  ね?男の人は「あなたは、インドのマハラジャだった」

  必ずその後ね、あなたがお姫様の時につけてのたと同じ首飾りがありますから、
  っていうと喜んで買っちゃう。

  ハッキリいいます。
  前世、どんな立派な人でも関係ないです。

  俺たちリセットされて出てくる。

  先祖の加護がどうあってこうあって、って関係ないの。

  今世、立派に生きたら立派な人なの。
  前世がどんな立派な人でも、今世ロクでもなきゃ地獄へ行くの。

  で、前世石川五右衛門だっていいの。
  石川五右衛門だってなんだって今世人助けしてればいいの。

  (http://ryuseizan.tsuvasa.com/senzokuyou


<関連動画> ご関心のある方は次の動画もどうぞ

(1)【斎藤一人さん】「日本のお盆です 霊と神とあの世の話」
   https://www.youtube.com/watch?v=60bPgz9wtTw

(2)藤一人 お盆に確認~守護霊からのお知らせ方法
   https://www.youtube.com/watch?v=q3Ko-ix1alU

(3)斉藤一人 お盆に聞く~守護霊様が発霊する条件とは?
   https://www.youtube.com/watch?v=mdBXWdB4d5I

(4)斉藤一人 お盆に聞く死後の世界とは?
   https://www.youtube.com/watch?v=OZ6uY_ZgpmU

            <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

幽界、霊界も現象世界 - 伝統

2017/08/26 (Sat) 04:22:40

         *「生命の實相」第3巻生命篇上(P193~196)より

現象世界といいますと、この眼に見えている現実世界だけをさすのかと思ったら
大変見当違いであります。

幽界、霊界も現象世界でありまして、
われわれが実相生命のありのまま神からつづいている本当の相(すがた)における
自己の生命のありのままを自覚すると否とによって、
幽界、霊界におけるわれわれの生命の自由さが変わってくるのであります。


霊魂の向上とはなにをいいますかといいますと、
実相生命の自由自在完全円満さをいかなる程度に発揮するか
ということによってきまるのであります。

幽界、霊界においても、苦しんでいる霊魂や、病気をあらわしている霊魂や、
完全な自由を得ていない霊魂はたくさんあるのであります。

幽界、霊界は現世におけるよりも、念のフィルムが現像される速力が早い
のでありますから、われわれが正しい念をもつか迷いの念をもつかによって、
一瞬のうちに、その状態が客観化(かたちにか)されてあらわれて来るのでありますから、

生前死後を通じてわれわれは自己の生命を神との正しい関係において
自覚することがぜひとも必要なのであります。


それで、聖典『生命の實相』は生きている人だけが読む本、
病気が治るためばかりに読む本、
現世における運命を好転さすためばかりに読む本
だと思っているとまちがいなのであります。

《これは死んで行く人にはよりいっそう必要な本である》、
《死ぬ》といいますけれども人間は死ぬのではない

―― 循環輸廻(じゅんかんりんね)して幽界、霊界に姿を現わす ―― 
いいかえるとわれわれは幽界、霊界に転任し誕生するのでありますから、

その新世界に誕生するにはその新生の最初から、神と正しき関係において
自己の生命の実相を自覚して幽界、霊界に誕生することにすれば、
その人は幽界、霊界において永遠の自由を得るということになるのであります。


だから人の臨終にのぞんで静かに念送治療(ねんそうちりょう)し、
聖典『生命の實相』を読んで聞かせることは非常な功徳となるのであります。

そうすると、現世に存続する期間に属している人なら必ず健康を回復せられますし、
すでに霊界に席をうつす時期のきていられる人ならば、その人の霊界における
生活状態が改善されてくるのであります。

仏教ではこれを引導を渡すという、

霊界移行の瞬間に生命の実相が神であって
自由自在なものであるという悟りに引き導く、

これが引導であります。

このように自己の生命の実相を悟るということは、
生前臨終死後を通じて必要なのであります。

霊界へ行ってしまった人ならば、こちらから聖典『生命の實相』を
読んできかせてあげても、もう手遅れでとどかないだろうと思う人が
あるかもしれませんが、そうではない。

こちらから、その人の霊代として祭ってある位牌なり、墓なり、お厨子などに向かって、
その人に「今聖典『生命の實相』を読んで聞かせてあげるから真理をさとれ」という念を
ハッキリ起こして、さて読んであげることにすると必ずとどくのであります。

われわれが毎朝祖先の霊にお供えするご飯でも
「どうぞお先祖さんおあがりください」という念を本当に起こして
お供えするようにすると、その御飯が霊界にとどく。

変なことをいうようでありますが、実際とどくのであります。
現世でも、実際これはたれそれに上げたいと思えば必ずとどく

―― われわれはその上げたいものに、その上げたい相手方の名前を書いて、
郵便局なり鉄遺の小荷物係の所へ持って行くと必ずとどく――
これは相手にとどけたいという念が具象化したのであります。

この念というものは必ず具象化するものであります。

            <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

今日から秋の彼岸(9月20日~26日) - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:41:38


        *Web:エンディングパーク より

《彼岸入りから先祖や家族を思う時間にする》

彼岸入りの日を、日頃なかなか手入れが届かないお仏壇やお墓などの細部まで
手入れする日にして、同時に先祖や家族のことを考える時間にしてみましょう。

またお彼岸の機会をきっかけに家族みんなでご先祖の話しをしてみるのもいいでしょう。

お墓参りをしたり、家族に会ったり、彼岸入りから7日間は、
感謝や縁を改めて感じる時間として過ごしてみてはいかがでしょうか。


《お彼岸入りから自身の修行の期間に入る》

お彼岸は先祖に手を合わせて感謝する機会だけでなく、
人生において大切な6つのこと「六波羅蜜」を実践できているかどうか
見つめ直す期間でもあります。

お彼岸入りの2017年9月20日から六波羅蜜を意識して
徳目を1つずつ実践してみるのもいいかもしれません。

6つの徳目「布施、持戒、精進、忍辱、禅定、智慧」を
お彼岸の期間は意識してみましょう。

https://en-park.net/books/8207

            ・・・

<参考>六波羅蜜(ろくはらみつ)

1.布施(ふせ)~人に施しを与えること。

2.持戒(じかい)~戒律を守り、省みること。

3.精進(しょうじん)~つねに努力すること。

4.忍辱(にんにく)~苦しくても耐えること。

5.禅定(ぜんじょう)~心を落ち着かせること。
           安定させた状態で自己反省すること。

6.智慧(ちえ)~正しく判断力をもち、ものごとの真実を見る目をもつこと。


            ・・・

<参考:六波羅蜜の詳細については、
    谷口雅春先生の「『般若心経』講義」にてご確認ください。
    → (伝統第二) http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6995626 >

            <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

秋季皇霊祭 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 05:04:02

今日は秋分の日、秋季皇霊祭で祝日です。

秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」となっていますが、
昭和22(1947年)までは秋季皇霊祭といいました。

歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿の「皇霊殿」で行われるのが「皇霊祭」で
一般のお彼岸の先祖供養にあたります。

皇居の皇霊殿で行われる御皇室の祖先祭りを全国の神社で遥かにお参りするのが
秋季皇霊祭遥拝式です。

        
・・・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

      *『生命の實相』第28巻・久遠佛性篇下(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


【毎朝、皇霊を遥拝】~久遠佛性篇下(P65~66より)

このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。

・・・

君が代
https://www.youtube.com/watch?v=KimaJ0kNNtU


            <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

宮中三殿 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 13:25:01

秋季皇霊祭に関連し、天皇陛下が斎行される所の、
宮中三殿の概要について紹介させていただきます。

        *Web:西野神社・社務日誌(2008-03-08)より

宮中三殿とは、皇室の御祖神(みおやがみ)である天照大御神をお祀りする
「賢所」(かしこどころ)、

歴代の天皇・皇族の御霊をお祀りする「皇霊殿」(こうれいでん)、

天神地祇(てんしんちぎ)・八百万神(やおよろずのかみ)をお祀りする
「神殿」(しんでん)の三殿の総称で、

更に新嘗祭が行われる神嘉殿(しんかでん)が、
この三殿と一体になって建っています。

宮中三殿は吹上御苑の東南に南面して建てられており、
賢所を中央に、その西に皇霊殿、東に神殿が建てられ、

各殿とも入母屋妻入、向拝を付した素木造で、正面には木階があり、
その前面には石階が付されています。

また、内部は内々陣、内陣、外陣に分かれており、
それ以外の部分も含め社殿としての構造は三殿とも同様ですが、
中央に位置する賢所は、その左右に位置する皇霊殿や神殿よりも一尺高く造られています。


《賢所(かしこどころ)》

三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)の一つである
八咫鏡(やたのかがみ)を依代として皇祖・天照大御神一柱を奉斎する御殿で、
「畏(おそ)れかしこむべき所」という意味から「賢所」と称されています
(但し、八咫鏡の実物は伊勢の神宮に奉安されており、
賢所に奉安されている八咫鏡は後述のように実物の分身として模造された御神鏡です)。


天照大御神は、御自身の御孫に当たられる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が
葦原中国(日本の国土)を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に天降られる時、

「皇孫を中心として地上に建てられるべき国が末永く栄えていくように」

との御言葉をお示しになり、八咫鏡をお授けになって、
「この鏡を我が御魂として祀り国の繁栄を祈念するように」と御命じになられました。

歴代の天皇はこの御教えを守り、皇居の中に御神鏡(八咫鏡)をお祀りして、
只管国の発展を祈念し続けられました。

これが賢所の始まりで、宮中に賢所が鎮座される事は、
日本書紀に見られる所謂「同床共殿の神勅」により明らかです。


第十代崇神天皇の御代には、世の乱れと共に神威を畏れて
御神鏡は同床共殿ではなく豊鍬入姫命に託けて皇居の外でお祀りされるようになり、

そして次の垂仁天皇の御代には、倭姫命は更に良い鎮座地を求めて
近江、美濃の国を経て伊勢の国に至り、そこで天照大御神のお示しを受けて
御神鏡は伊勢の地(五十鈴の川上)に奉斎されました。

これが伊勢の神宮の始まりで、国家の発展に伴い
天照大御神は宮中にお祀りされるに留まらず、伊勢の地で
広く国民全体からの崇敬を受けられるようになったのです。

そして、御神鏡が伊勢の地に御遷座された事に伴い、
それに代わる新たな御鏡を造って宮中にお祀りし、
これが現在に連なる賢所の始まりと云われています。


賢所は、平安時代には、
中国で鏡を出す所の名である温明(うんめい)という言葉に関連して
「温明殿」と称されたり、また、内侍(ないし)と云われた女官が
近侍して奉仕した事から「内侍所」とも称されました。

天徳4年(960年)、寛弘2年(1005年)、長久3年(1042年)には
火災等の御被害も受けられましたが、畏み奉斎の伝統は継承され、
明治2年3月、東京への遷都に伴い、賢所も
京都の御所から東京の皇居へと遷座されました。

なお、賢所(かしこどころ)の名称は、その奉斎御殿や、そ
こに奉斎されている御神体御自体の事を指しますが、

宮内庁が用いる賢所(けんしょ)という名称は、
三殿を含む御構内一帯を指します。


《皇霊殿(こうれいでん)》

初代神武天皇はじめ歴代の天皇、皇后、皇妃、皇親の御霊が奉斎されている御殿で、
明治2年12月に竣工した神祇官神殿に奉斎されていた皇霊が
明治4年9月に宮中に遷座されたのがその始まりです。

皇室の御先祖の陵墓は、大和周辺、京都の泉山、東京都下の多摩陵、武藏野陵など
各地に散在しておりますが、これらの陵墓が一般の“お墓”に当るものだとすれば、

皇霊殿は、皇居の中に設けられた皇室の“祖霊舎(みたまや)”に当るものといえ、
崩御・薨去の1年後に合祀されます。


中世には、京都御所御黒戸に歴代天皇の御尊を安置して女官らが仏式で奉仕し、
また、神祇伯白川家では八神(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、
足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神)と共に歴代天皇の皇霊が
神式で奉斎されていましたが、

明治2年、明治天皇は祭政一致の叡旨を以って国是の確立を御奉告の御趣で、
天照大御神はじめ天神地祇八百万神、また神武天皇はじめ歴代天皇の御神霊を
神祇官に設けた霊代に招き祭り御拝になり、
これが、明治維新以後、歴代天皇の皇霊が神式で奉斎された最初と見られています。


同年12月、神祇官(明治4年に神祇省に改変)に仮神殿が建てられて、
その中央の座に八神、東の座に天神地祇、西の座に歴代天皇の皇霊が
それぞれ奉斎され、

そして明治4年、前述のようにその神祇省神殿から歴代天皇の皇霊が、
宮中の賢所へ、相殿の形で奉遷され、これが現在の皇霊殿となりました。

当初は賢所と合わせて「皇廟」と称され、
歴代天皇の御霊のみお祀りされていましたが、

明治10年1月の元始祭の日に、皇后以下皇族の御霊も合祀されるようになり、
そして、明治33年4月に公布の皇室婚嫁令に「皇霊殿」と記されるようになって
以降、一般にも皇霊殿と称されるようになり、またそのように記されるようになりました。


ちなみに、京都御所御黒戸にあった歴代天皇の霊牌や仏像等は、
明治6年、皇室の菩提寺である東山泉涌寺(真言宗泉涌寺派総本山)に移され、
現在は同寺にて奉祀されています。


《神殿(しんでん)》

天神地祇八百万神が奉斎されている御殿で、
明治5年3月に神祇省の廃止と共に宮中に遷座したのがその始まりで、
三殿の中では最も後に成立しました。

前項で記しましたように、明治2年6月、明治天皇は国是の確立を、
天照大御神はじめ天神地祇八百万神と、神武天皇から孝明天皇に至るまでの
歴代天皇の皇霊に御奉告のため、神祇官に霊代を設け招き祭らしめられ、
御拝されました。

そして同年、神祇官に神殿を設ける事が決まり、
同年12月に仮神殿が竣工し、その中央の座に八神を、
東の座に天神地祇を、西の座に歴代天皇の皇霊がそれぞれ奉斎され、
鎮座祭が斎行されました。

明治4年8月、神祇官が廃され神祇省が置かれ、
それに伴い神祇省に継承された神殿(西の座)に奉斎されていた
歴代天皇の皇霊は宮中賢所に奉遷されましたが、
八神と天神地祇は引き続き神祇省の神殿にお祀りされました。

しかし、翌5年に神祇省が廃止され新たに教部省が置かれる事になり、
そのため同年3月、神祇省神殿に奉斎されていた八神と天神地祇を
宮中に遷し仮に賢所拝殿に奉安せしめ給う旨仰せ出され、

それを受けて同年4月、神祇省の神殿に奉斎されていた八神と天神地祇、
及び京都の神祇伯白川家、神楽岡の吉田家斎場、有栖川宮家の旧邸と新邸に
それぞれ鎮座されていた八神を、御羽車に移し、賢所拝殿に奉遷しました。

翌5年、八神と天神地祇の両座を合祀して一座とし、「神殿」と改称され、
これによって現在の宮中三殿の原型が成立しました。

  (http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20080308 より転写)

・・・

「神殿」に合祀されている八神

      *Web:天皇の信仰に見る日本人と仏教(2003.03.23)より抜粋

明治二(1869)年、神祇官に神殿が設けられた。
かつて神祇官八神殿に奉斎され、その後は神祇官家の白川・吉田家に祭られていた
八神[注7]を神殿中央に招き、その西座に歴代の皇霊、東座には天神地祇を奉祀した。

やがて、天照大神を祭る宮中の「賢所」(かしこどころ)そばに神々は集められ、
歴代の皇霊は「皇霊殿」に、八神と天神地祇は「神殿」に祭られ、
宮中三殿として今に至っている。同じ頃、伊勢神宮の改組も行なわれた。


[注7]玉体の守護と鎮魂を司る八神。御巫(みかんなぎ)祭神八座。
神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神
(この「産日・ムスビ」五神は天皇の心身の神)、
大宮売神・御食津神(飲食の神)、事代主神(言葉の神)。


     (http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-136.htm

            <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

亡き先妻の承諾を得てから、後妻を迎える - 伝統

2017/10/31 (Tue) 03:23:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月31日)より

男子が妻を失って家庭の事情か何かで後妻を欲する場合は
先妻の霊魂の承諾を得ることが先決問題なのである。

そうでないと先妻の嫉妬の逆念などを放送せられて、なんとなく後妻と
その良人との感情を疎隔せしめ、ついに離婚に立ち到らしめるか、
夫婦中のどちらかを病気にならせることがありがちである。

先妻は死んでしまって、現在眼の前にいないのにどうして
その承諾を得ることができよう―― と思われる人があるかもしおれないが、
先妻は肉体はいなくともその霊魂はたいてい良人に執着して身辺にいるのであるから、

身辺にいなくとも霊界にいて、名を唱えれば招霊しうるのであるから、
仏前で先妻の名を呼んで招霊し、「汝(あなた)はすでに霊界の人であって
地上の存在でないから、地上の世人における地上の営みに執着しないで
霊界で向上の道を辿ってください。

地上のわれわれの家庭では子供の多いことであるし、
地上の生活上家事をとるための後妻が必要であるから後妻を貰いたいから
これはやむえない事情の出来事として怨まず嫉妬せず、
家庭の中に不幸の起こらないように祝福しておいて完全に霊界の人となってください。

いつまでも地上のことに執着している霊は浮かばない霊と言って
いつまでも苦しまねばならぬのである。

今後1ヵ月間聖経『甘露の法雨』をあなたのために読んであげるから、
その真理をよく聴き悟って人間本来肉体でないこと、病も本来ないこと、
本来自由自在で歓びに満たされていることを悟って、
成仏して自由自在の境地に入ってください。」

こう前置きしてから1ヵ月間一定の時刻に『甘露の法雨』をその亡妻の
ために誦するがよいのである。

こうして後、後妻を迎えたら先妻の執着の念は消えているから、
なんら障礙の念波を送らない。

そうして先妻の霊魂は過去帳または位牌の中に、戒名または俗名を書いておいて、
あとは「何々家先祖代々親類縁者之霊」とその家の縁者の霊を一緒にとなえて、
読経なり回向すればよいのであるから、
後妻に対して、先妻の名前を呼ばしめる必要もないのである。

世間には「生き別れの後へ嫁(い)っても、死に後へな嫁(い)くな」
という諺があるのは、先妻の死別したあとへ行くと先妻の亡霊の念波の干渉があって
うまくゆかないのと、

死んだ者は美しく見えるので、
「前の妻はこうだった、こうしてくれた」などと
ともすれば比較されるので後妻にとって耐え難いことがあるからである。

後妻の前で先妻の噂をしたり、先妻を賞(ほ)めたりするものではないのである。


           <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

あなたがほめられることが、最高の先祖供養になる - 伝統

2017/11/27 (Mon) 03:30:24


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年11月25日)」より

【先祖供養の本当の意味】

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   先祖供養の本当の意味は、子孫であるその人のことを、
   「いてくれてよかった」って言う人が何人いるかなんだよ。

   大きな仏壇を買うことが先祖供養じゃないの。
   それは仏壇屋さんや宗教をやってる人が言うこと。

   さらにいえば、それって商売なの。


   仏壇に入っているのは仏様なんです。

   それで30分も1時間も先祖供養のために念仏を唱えるっていうんだけど、
   お経って仏様の教えなの。

   仏様が教えたことを仏様に向かって30分も1時間も話すって変だよね。

   きっと仏様も、「それ、俺が言ったんだよ。だからわかってるから、
   外に行って実践しな」って言うと思うよ。


   お経をあげるのがいけないって言ってるんじゃないの。

   あげてるあいだは無心になれるし、そのあいだ、人の悪口とか言わないから
   そういう意味ではいいの。

   でも、どうせだったら、意味も知ってたほうがいいよね。

   さらに言えば、それを実践できるようにしたほうがいいよねってことなの。


   だから先祖供養でいちばんいいのは、
   「あなたがいてよかった」って言ってもらうことなの。

   あなたが生まれてきたのはご両親がいて、そのまたご両親がいたからなの。
   先祖が誰一人として欠けても、あなたはこの世に生まれてこなかったんだよね。

   子供をほめられたら親ってうれしいの。

   だから、あなたがほめられることが、最高の先祖供養になるんだよ。

        <『変な人の書いた世の中のしくみ』サンマーク出版>

             ・・・

死んだとき、神さまに二つのことを聞かれると言う。

一つは、どれだけ人の役にたったのか。

もう一つは、人生を楽しんだか。


どれだけ人の役に立ったかとは、どれだけ「陰徳」を積んだのか、
どれだけ人から必要とされたのか、どれだけ喜ばれたのか、ということ。

つまり、一人さんの言う「あなたがいてよかった」という人が何人いるかということ。 


また、人生を楽しんだか、というのは、
毎日デズニーランドにいるかのように楽しめ、ということではない。

そうではなくて、つらいことや、困難なこと、嫌なことを、
見方や考え方を変えて、楽しんだかということ。

後から振り返ってみると、
「あのときの大変なことがあったら、今の自分があるんだよね」と思うことは多い。

すると、その大変だったことに感謝できるし、楽しむこともできる。        


先祖供養の本当の意味は…

多くの人に、「あなたがいてよかった」と言われたい。

           <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

先祖供養は、報恩のためだけにするもの - 伝統

2017/12/14 (Thu) 03:08:26

        *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
            青山 俊董・著(P226~227)より

「先祖のなかで供養されていない霊がいて、それが災いしている」とか
「水子の霊がたたっている」とかいわれ、
供養してくださいといってたずねてくる人がある。

こんなのはおだやかなほうで、ひどい例になると「因縁切りだ」「先祖供養」だ
といって何十万円も請求されたり、おかしなものを買わされたりする、
そういう人に私は言葉を強めていう。

「ご先祖が子孫の不幸を願って、たたるはずがないじゃありませんか」

供養には、冷静に考えれば、自業自得で、自分が招いたものも少なくない。
それらを先祖の責任へと転嫁しないこと。それはたんなる気やすめであり、
ごまかしであり、そこからはなんの解決も与えられない。

もうひとつ、しっかり心にとどめておいてほしいことがある。
供養するのはよい。

「ただし、『たたってもらいたくないための供養』などという、
条件つきの供養はしないことです。
これは先祖への供養ではなく、『たたってもらいたくない、不幸になりたくない、
しあわせになりたい』という、あなたの欲へ供養しているだけのことです。

立場をかえて考えてごらんなさい。『これをさしあげるかわりに、
こういうことをしてください』とだれかにいわれたら、あなたはうれしいですか。
それは取り引きであって、供養でもなんでもありません。

先祖供養はけっこう。
ただし無条件に、純粋に報恩のためだけの供養をしなさい。

災難は、先祖や水子の責任とせず、私の責任のもとに受けとめ、さらには、
その災難のゆえに、こんな世界に気づかせていただくことができて
ありがたかったと、災難を肥料と転じて花咲かせる道こそ学ぶべきでしょう」

           <感謝合掌 平成29年12月14日 頓首再拝>

祖先をまつる - 伝統

2018/01/10 (Wed) 04:01:59


        *神社庁コラム(20)より


 父母はわが家の神、わが神と心つくしていつけ人の子

     ―本居宣長・玉鉾百首―(神道文化会発行『神道百言』より)


この歌は、近世国学の碩学である本居宣長が
「父母は我が家の神さま、自分をお守りしてくださる神さまとして、
心を尽くしておまつりしましょう」と詠んだものです。

これは、わが家がこんにちあるのは、父母が私たちを生んでくれたおかげ。
その意味で、実際の人生においては、自分を生んでくれた父母を
最も身近なわが家の守り神として大切にすべきで、

更にその祖父母、曽祖父母、高祖父母と遡っていけば、
自分の祖先を最も身近な神さまの一つとして、
真心を尽くして大切にお仕えすべきであると説いた歌です。

わが国では、地域によって違いはありますが、
いまでも旧暦7月15日頃にお盆が行われます。

お盆は祖先の霊をお迎えして行う先祖祭りであり、日本古来の習俗です。
私たちは様々な神さまのおかげを戴いて生活していますが、
現代の忙しい日々の中では、このおかげを忘れてしまうことが多いのでは
ないでしょうか。

先に記した歌は、最も身近な父母や祖先を守り神として大切にすることが、
神まつりの第一歩であると教えています。

           <感謝合掌 平成30年1月10日 頓首再拝>

Re: 先祖供養 - xjzkdlbqddMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:15

伝統板・第二
[url=http://www.gd9o5wv0236si6nh832xk11q09yp5i6is.org/]uxjzkdlbqdd[/url]
xjzkdlbqdd http://www.gd9o5wv0236si6nh832xk11q09yp5i6is.org/
<a href="http://www.gd9o5wv0236si6nh832xk11q09yp5i6is.org/">axjzkdlbqdd</a>

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