伝統板・第二

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法則としての《神》① - 伝統

2015/07/06 (Mon) 08:21:46

掲示板「谷口雅春先生に帰りましょう」において、
”平賀玄米 さま”により、「善き人生の創造」の謹写が進んでおります。

本日(7月6日)の<美の本質としての神>の最後の部分に次のご文章があります。


  『生長の家で説いている神は、これらの総ての内容を包蔵する神であり、
   美であり、調和であり、正義であり、法則であり、愛である神であり、
   あらゆる点に円満なる神であります。』

  (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15378114


このスレッドでは、「神は法則」に関した言葉の数々を紹介してまいります。

・・・

《神は法則である》


        *「光明法語」(P91~92)より

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

           <感謝合掌 平成27年7月6日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2015/07/14 (Tue) 04:24:09


            *「光明法語」(P154)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、生命の創造力を豊かにる流露(るろ)
せしめんがためのものである。

           <感謝合掌 平成27年月14日 頓首再拝>

法則は神の顕現 - 伝統

2015/07/21 (Tue) 04:26:32


            *「光明法語」(P167)より

人間の頭脳が、自然を研究するに従ってそれを支配する法則が段々徐々にわかれば、
自然を構造したところの知性(神)は、吾々人間の頭脳知よりも遥かに発達した知性
であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

           <感謝合掌 平成27年月21日 頓首再拝>

”法則”というもの - 伝統

2015/07/29 (Wed) 04:34:01


        *「若人のための78章」第40章(P109~110)より

到る処に法則が満ちている。

法則こそは吾等の生活を可能ならしめ、天体を運行せしめ、
血液を循環せしめ、栄養を吸収せしめ、吾等の肉体を肥えさせたり、痩せさせたりし、
物質と言われるものを、或いは固体に、或いは液体に、或いは気体にならしめる力である。

物質はただ「法則」に従ってその姿を変ずるのである。
従って物質とは法則の顕現であって、物質とは決して死物の凝塊物ではないのである。

法則は一定の秩序をもって事物を展開せしめるところの神の智恵なのである。
この神の智恵に従うとき万物は成就するのである。

吾らは法則によって栄え、法則によって衰え又は亡びる。
それは電気が法則によって人間に光熱や動力を興えるが、
また法則によって原子を崩壊せしめて原子爆弾たらしめたりするのである。

しかも法則によって原子力はやがて吾らの熱源となり動力源となるであろう。
法則は変ることなく常に存するが、吾等の適合の仕方が変ることによって、
それは幸福を吾等に興えたり、不幸を吾らに興えるのである。

法則は神の愛が、吾らに利用しやすき形に、機械化し普遍化し、一定化されたものである。

やがて人類の知性が進歩するに従って、
法則は完全に理解せられ、法則によって人間が傷つくことなく、
法則はただ人間に幸福と利福とを興うるところのものとなるであろう。

           <感謝合掌 平成27年7月29日 頓首再拝>

この世界は法則の世界 - 伝統

2015/08/05 (Wed) 04:40:43


            *「女性の幸福365章」(P61)より

この世界は法則の世界である。
物理科学的な法則もあれば、精神科学的な法則もある。

善き種子(たね)を蒔けば善き樹が生長し、
悪しき種子を蒔けば悪しき樹木が生長する。

深切や愛ふかき善行(ぜんこう)はよき種子(たね)であり、
冷酷な利己的な所行(しょぎょう)は悪しき種子である。

神は吾々をその意志を以て罰したまわないけれども、
法則が自働して吾々に報いを与えるのである。


           <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

神は法則であり偏頗はない - 伝統

2015/08/11 (Tue) 03:55:27


            *「光明法語」(P94)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

           <感謝合掌 平成27年8月11日 頓首再拝>

動・反動の法則について - 伝統

2015/08/18 (Tue) 04:44:47


        *「若人のための78章」第41章(P111~113)より

宇宙は混乱の宇宙ではなく、秩序の宇宙である。
自然界が法則に支配されているということは其処に秩序が存在することを示すのである。

秩序性があるということは智恵の支配する世界があるということである。
智恵の発達の程度に従って秩序性は発達する。

子供の世界よりも大人の世界は秩序性が発達しており、
野蛮人より文化人の世界の方が秩序性が発達しているのは、
それだけ後者の智恵が発達しているからである。

さて秩序があるので人間の生活が滑かに快適に生活することが出来るのである。

もし自動車が櫛の歯のようにならんでいる十字街頭で、
われ勝に自動車が通り抜けようとしたら、
自動車たちは互いに衝突して無数の死傷が毎日出るであろう。

ところがこの無数の自動車が互いに傷つくことなしに交通し得るのは、
ゴー・ストップの信号通りに自動車が従うからである。

これは法則に従うということである。

「服従は自由なり」という諺があるが、
まことに法則に服従することによってのみ人間は自由を得るのである。

人間の自由は、服従によって得られるということは、
一見矛盾するように思われるけれども、それは決して矛盾するのではないのである。

自分が十字街頭を早く横切りたいのに、停って待っていることは
「先ず他をして自由ならしめる」ことなのである。
それは「先ず相手に”自由”を興える」ことである。

然らば与えられた物が自分に復って来るという
「動・反動の法則」原因結果の法則によって、すべてかくの如くなるのである。

与えたものが自分に投げ返されて来るのである。
法則はかくして、それに従うことによって吾等に自由を与え、
与える者に幸福を与えてくれるのである。


この法則を知らずして、自己の利益のみを求めて、他に先ず興えることを知らない者は、
ゴー・ストップの街頭信号を見ず他を通行せしめないで自分ばかりが十字街頭を
横切ろうとするようなものであり、かえって自分が傷ついてしまうのである。


近頃、法秩序を無視して集団の暴力をもって闘争を合理化しようとする者、
かえって社会に混乱を惹き起こして自己をも傷つけつつある事実を見るは、
まことに歎かわしき限りである。

           <感謝合掌 平成27年8月18日 頓首再拝>

進歩の法則に支配されている人生 - 伝統

2015/08/25 (Tue) 03:50:43


            *「光明法語」(P101)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

           <感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>

神は人格であると同時に法則である - 伝統

2015/08/31 (Mon) 03:28:08


            *「光明法語」(P123)より

親がその子に対して、善きものを与えたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、与えたる富はただ他を害する為
のみに使う様な場合には親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

           <感謝合掌 平成27年8月31日 頓首再拝>

二つの法則 - 伝統

2015/09/09 (Wed) 04:52:16


            *「光明法語」(P154~155)より

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

           <感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>

神に於いては無法則 - 伝統

2015/09/16 (Wed) 04:38:06


            *「光明法語」(P155~156)より

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、
それを人間の方から見ると、神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれる
ように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

           <感謝合掌 平成27年9月16日 頓首再拝>

「理」は神から来る - 伝統

2015/09/24 (Thu) 03:54:05


            *「光明法語」(P219)より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、むしろ神御自身が
人間によって利用できるように「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

           <感謝合掌 平成27年9月24日 頓首再拝>

「理」に順応せよ - 伝統

2015/10/05 (Mon) 03:33:15


            *「光明法語」(P220)より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

           <感謝合掌 平成27年10月5日 頓首再拝>

心の法則に順応せよ - 伝統

2015/10/12 (Mon) 04:50:08


            *「光明法語」(P220~221)より

それと同じく「心の法則」と云う理によって起こる災禍や病気は、
神の肆意(しい=かってきまま)による神罰でないから、顧みて、自分が如何なる心を
もったかを反省し、理に逆らっていた心の持ち方を捨て、理に順応する心の持ち方に
心を転ずれば災禍や病気は治るのである。

何よりも今まで神の光に眼を瞑(ふさ)いでいた眼を開くことが大切である。
そうすれば暗がりにいて頭を打つ様な馬鹿らしい病気や災難は受けなくなる。
人を打つ心をもてば、自分が打たれる。

心の法則は何も難しい事はないのである。

           <感謝合掌 平成27年10月12日 頓首再拝>

病気の存在を支える法則もない - 伝統

2015/10/18 (Sun) 04:56:00


            *「光明法語」(P225~226)より

すべての法則も神から生じたものであるから、
病気の存在を支えている法則も実は存在しないのである。

心に悪を思えば、悪しき姿の病気が《あらわれて来る》と説くが、
それは《あらわれて来る》だけであって決して存在に入ったのではない。
病気の存在を支える法則など決して《ない》のである。

病気が如何に実在すると見える醜き姿を現そうともそんなものは無い。
無いものは如何に見えてもない。
それは悪夢に襲われてうなされている様なものであって覚めて見れば何もない。

           <感謝合掌 平成27年10月18日 頓首再拝>

法則は不変であるが、法則を悪用すれば不幸を招く - 伝統

2015/10/26 (Mon) 05:00:06


      *「生活と人間の再建」第19章無限なるものとの調和(P249~251)より


健全の法則や、繁栄の法則に関する知識を集め、その応用法を悟りたいならば、
先ず私の著『運命の原理』や『人生は心で支配せよ』をお読みになるがよい。

「無限者」は諸君自身の内にあって、諸君自身の生活の「法則」となっており、
従順に偏頗(へんぱ)なく諸君自身の受用を待っているのである。

併しそれは「法則」であるから、侵犯したり誤用したりすることも出来るのだと云う事実を
知ることが肝腎である。吾々が法則を侵犯したり誤用したりした場合は、禍いを招き、
病いを得、失敗する。

吾々が「法則」と調和した場合は、健康を得、人生に成功し、すべての問題や困難は、
「内在無限の力」を利用する新しい方法を発見するための魂の錬成にすぎなかったことに
なるのである。


精神科学は「心の法則」を研究し、考究し、日常生活に実地に応用することを考えるのである。
諸君の日常生活に、教えられた心の法則を応用して実際的体験を積むようにするが好い。
斯うして初めて理論的知識が強力な現実的力となり、確乎不動の信念となるのである。

自分の運命は自己自身の生活態度に責任があるのであって、他(た)の原因に
なすりつけるような卑怯なことはしない方がよい。
自己弁護の心的態度そのものが不幸を引き寄せる種類の心の波長である。

過去に於いて自己の生活にはいって来たものはすべて自身が意識的にわざと招いたか
或いは無意識の内に禍いを欲していたのか、或いは「心の法則」を侵犯したために
はいって来たのだと知り、「一切万事我にかえる、自分は宇宙の主人公だ」と云う
積極的な精神態度を取ることである。

その理由は、運命の選択力は自己を司る本体として貴方自身の内にあるのであって、
公平無私なる「法則」の中(うち)には無いからである。

すなわちすべて、「宇宙を貫く法則」として偏在するものは個人が何を選択しても
干渉せず、選んだ通りのものを与えるからである。

貴方が現在の運命に就(つ)いて不満足であるならば、貴方自身の過去の経験を
「法則」に照らして精査し、善にせよ悪にせよ、貴方の経験を産み出したのは、
あなたの想念、感情の力をどこでどうして活動せしめたために、その結果として
斯う云う状態を産み出したのであるとよく考えて反省して見るがよいのである。

貴方が意識的でなかったにしても、あなたは結局、決して誤ることのない「法則」を
常に日常生活に応用したのであり、それが悪い結果になっても、その法則を悪い方に
応用したのであって、貴方の過去は、公平無私なる法則の力を実際的に応用する
ための研究室であったことは間違いがないのである。

           <感謝合掌 平成27年10月26日 頓首再拝>

法則は愛憎によって変化しない - 伝統

2015/11/06 (Fri) 04:55:00


          *「真理」第9巻生活篇(P40~41)より

茄子を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは「法則」によるのであります。

「法則」と云うものは「一定の条件に於いては一定の事物が出現する」
と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)を
もってあらわれたのが「法則」であります。

若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来(きた)さないのであるならば、
私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。

今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る。
明後日(あさって)はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることが出来ないで
生活が成り立たないのであります。

また或る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、
或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば
科学が成り立たないのです。

だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。


           <感謝合掌 平成27年11月6日 頓首再拝>

実相人間には、自然の法則は害し得ぬ - 伝統

2015/11/15 (Sun) 03:41:12


         *『生長の家』(昭和25年10月17日~18日)の法語より

《自然の法則も心で変化する》


京都府舞鶴市に有名な外科の医学博士があった。

常にレントゲンで患部を診察して執刀施術をするのであったが、
ついに自分の右の手にレントゲン潰瘍を生じて手指(しゅし)を
3本切除しなければならなくなったのである。

あと残った拇指(おやゆび)と人差指の2本も切除するほかはないと云う時に
その医者は 『 生命の實相 』 を読んだのである。

そして人間は神の子であり、自然界の法則の主人公であり、
自然界の法則を駆使することは出来るが
自然界の法則は人間を害することは出来ないと悟った。

すると潰瘍の進行は止って、手指の切断は不要となり
今では残った2本の手指で自由に外科手術を行っているのである。


《実相人間には法則は害し得ぬ》

レントゲン照射を過度に行うと潰瘍を生ずる。
それは自然の法則である。

その潰瘍は中々癒えがたいものであって
患部が段々拡大し手腕全体にひろがる惧(おそ)れがあり、
そして又癌に移行することがある。それは自然界の法則である。

その法則に従って医者は手術するのである。

ところがその患者が

「人間は神の子であり、
自然界の法則は人間を益するためにのみ作用することが出来るのであって、
人間を害するために作用するように見えるのは自己の迷いだ 」

と悟ると

自然界の法則が人間を害しなくなくなるのは、
法則が不確実原理のものであって人間の信念によって左右せられる証拠である。


   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85 より転写)

           <感謝合掌 平成27年11月15日 頓首再拝>

「法則」が全てを成就する - 伝統

2015/11/24 (Tue) 04:42:32


            *「幸福を招く365章」(P174)より

「私は健康である。私は健康である。私は健康である・・・・」
病人はこの言葉を暇のある毎に唱えよ。

但し、その回数多きによって自分の言葉の力で、健康になるのだと考えてはならないのである。
そう引っかかると、唱える回数や、思念の力の薄弱さなどを考えて、結局こんなことで
祈りがきかれるだろうかと云う不安と疑いとに導かれ、そのため効果がなくなってしまうのである。

吾々が善き言葉、健康の言葉を自分から出すことは、
ビルディングのルーフから手を突き出して風呂敷包を自分に手から放つと同じである。
あとは「法則」がその風呂敷を地上に必ず落下せしめる。

汝の言葉が汝を健康にするのではなく、汝の言葉が種となって、
後は法則がそれを成就するのである。

           <感謝合掌 平成27年11月24日 頓首再拝>

法則に対して正しき関係にあれ~その1 - 伝統

2015/12/04 (Fri) 04:46:09

        *「生活と人間の再建」第19章無限なるものとの調和(P251~253)より 
          
神と調和するとは結局、法則に対して正しい関係にあると云うことである。

良き電気技師は電気の法則と正しい関係にある。

彼は決して祈りによってその性質即ち法則に反する働きをさせようとはいないのである。
電気の技師が神に従順であると云うことは、電力を理解し、且つ正しく応用することである。
即ち法則に従えば電力が彼に服従するのである。

彼が電力で自己の欲することを成さしめようとして意の如くならぬ時は、
法則が間違っていたのではなく、法則の応用法に誤りのあったことを知っていて、
決して「神も、仏も、法則もあるものか」とは言わないのである。


或る人がエディソンに向って、貴方は何回もの実験をして電気に光を出させようとしたが、
すべて失敗に終わりましたね、と云ったときに、エディソンは
「いやいや、私は用いてはならぬ幾百の方法を発見したのです」
と答えたと云うことである。

それが真理ならば、大抵の人は、人生の幸福と成功とを得るために何百通りもの実験をし、
その実験を幾通りも繰返し繰返していることと思う。

何回も何回も同じ心も持ち方で失敗を重ねながら、原因が心の世界にあるために
気がつかないので、その同じ失敗したやり方を繰返すのは、

蛾が幾度も火傷(やけど)しながら、その原因を知る智慧がないから又しても火中に
飛び込むのと似ている。

科学者は何かの実験でそれが出来なかった場合には、再びその失敗した方法では
実験をせぬのであるが、我々が心の生活にその科学者と同じ常識を働かさないのは
不思議である。

科学者は失敗したやり方を直ちに捨て、正しい方法を発見するまで次々と別の
新しい方法を試みるのである。

然(しか)し不幸をを嘆く人は不幸であっても、不成功であっても、相変わらず同じ
旧(ふる)い手法を用い、同じ旧い思想を持ち続けて火中に飛び込む蛾と同じように
失敗を繰返すのである。


世の中には憎しみを持つ人が非常に沢山居る。
然し憎しみが惹き起こした醜い大きな現実を一度見せてもらったら、
憎しみが幸福を招待するためには何の役にも立たぬと云う事実が瞭(はっき)り判るのである。

それにも拘らず、人々は憤慨、怨恨、憎悪等を大切に保存し続け、そんな感情を起すことに
よって自分自身が生理的に気持ちが悪く、どんな善い結果も出て来ないで自(おの)ずからを
不幸にしているのに気がついても認めようとせぬ。

人生の科学を幸福問題に応用する点では彼らは馬鹿であり、
無分別であると云うほかはないのである。

(その2へ続く)

           <感謝合掌 平成27年12月4日 頓首再拝>

法則に対して正しき関係にあれ~その2 - 伝統

2015/12/11 (Fri) 04:42:27


        *「生活と人間の再建」第19章無限なるものとの調和(P253~254)より 

更に、今一つの役に立たぬものは取越苦労や持越苦労である。
これらの気苦労は身体(からだ)の活力を奪い、心を混乱せしめる。

それは「幸福の法則」と調和しない。
「幸福の法則」と調和しないと云うことは不幸を招くと云う事である。

諸君のうち若し常習の気苦労患者があるならば、和つぃの著書『光明の生活法』
又は『美しき生活』『愛と光との生活』をお読みになることをお勧めする。
これらをお読みなって実行されれば、あの不愉快な、活力を奪う心の習慣は必ず治るものである。

この外(ほか)我々が本当に役に立たぬことを知っている感情がたくさんある。
即ち、恐怖、怒(いかり)、焦心(あせり)、短気、心配、あら捜し、噂話(ゴシップ)、
落膽、狭量、怺(こら)えられぬ気持等である。

これらは人生の交響楽の中の不調和な噪音みたいなものである。
これらは生命の「幸福と健康の法則」と調和の取れぬ感情的雑音である。

読者はどうすれば「幸福の法則」と調和することが出来るのですか、
その神聖な力と調和するにはどうすれば好いのですか。
と質問するかも知れない。

誠にも調和する道は手近にあるのです。
世界中に充ち満ちている悲惨と失敗とが如何に多いかを見れば其の方法は
甚だむずかしそうに思われるが、事実はそれ程むずかしくはないのである。

すべての善き宗教はこの「幸福の法則」と調和する道を説いている。
然し多くの既成宗教は其の教祖の教えた、原理を
後世の祖述者によって歪められて伝えられたため、

教祖の教(おしえ)を晦まし、人間の心を啓蒙せず、
却って混乱に導き「法則」へ調和する道が判らなくなってしまって
教祖時代と同じような奇跡的治療があらわれなくなっているのである。

生長の家出現の理由は、すべての宗教よ、その宗祖の教えにかえれと云うことである。

(その3へ続く)

           <感謝合掌 平成27年12月11日 頓首再拝>

法則に対して正しき関係にあれ~その3 - 伝統

2015/12/19 (Sat) 05:01:22


        *「生活と人間の再建」第19章無限なるものとの調和(P254~255)より 

歪められた宗教は、宇宙の崇高な相(すがた)は霊であり、人間もこのまま霊的存在である
と云うことを知らないので、神と人間とのつながりが絶縁されていることである。

神は霊である。

故に神はすべてのものの中に在り、すべてのものの原因である。
この「普遍者」が我々の生命(せいめい)として、我々の智慧として、
各個人に宿っているのである。

この「無限力の普遍者」との接触点は我々の内にある。
それは吾々自身が霊的存在であるからである。
神の霊が我々の内にある以上、それは我々の存在の崇高な核心である。

吾々自身が宇宙の中心であり、創造の核心であるのである。
人生の幸福と成功への道は、「普遍者」なる神は尽きざる生命(せいめい)として、
《反応する智慧》として、直ちにそして常に、今、利用できる力として、
「自分」と云う核心と接触しているのだと云うことを悟ることである。

この基本的命題を意識して受け容れる時、我々は我々の内なる創造力を実験し、
その力を映す準備が出来るのである。

神なる「無限者」は法則そして宇宙に充ち満ちている。
それはラジオ波のようにあなたに応答するのである。
そして波長の合う姿だけをテレビジョンの映像機のように実現するのである。

或る種の精神状態又は感情状態、面白くもない病的人間の悩みの
精神活動を受像してそれを形に形象化する。
だから貴方は真面目に努力して自身の精神的感情的習慣を調律修正しなければならぬのである。

憎悪の感情は神の「幸福の波長」とは調和しないからあなたは是非憎しみを止めなければならぬ。
気苦労は神なる幸福の本源を信頼しないことを意味するのであるから、
結局、神の霊と波長が合わぬことであるから止めなければならない。

貴方の欲するもの即ち幸福と成功と招来する為には、
取り越し苦労など全然約に立たぬ反対効果を齎(もたら)すものにすぎないのである。

           <感謝合掌 平成27年12月19日 頓首再拝>

神は公平な愛のために”法則”として生活の中にあらわれる - 伝統

2015/12/27 (Sun) 04:51:46


              *「神真理を告げ給う」(P125~126)より

”法則”を知ることは”学科”の与え手を知ることである。
人生学校の学科は”わたし”が与えたのである。

”わたし”は決して好悪によって依怙贔屓することはない。
それが私の深い愛であり、公平な愛なのである。

偏愛や好悪の愛によっては公平を期することは出来ないから、
私はみずからの深い公平な愛のために”法則”としてあなた達の生活にあらわれ、
学校の教師のごとく”法則”があらわれてあなたの人生の点数をつけるのである。

”わたし”の与えた点数は”法則”によるのであるから、あなたの人生に於いて
得られる点数は、体重秤(はかり)の上にあなたの体をのせれば、”法則”が
あなたの体重がいくらあるかを示すように、あなたの心の姿の通りを

人生という「あなたの”心”の目方を測る目盛盤」が、
あなた自身の心の成績を見せてくれるのである。

謂わば、あなた達自身の環境も境遇も運不運も健病も貧富もことごく、
あなたの”魂の学校”に於ける”成績表”又は通知簿のようなものである。

あなたはそれを利用して”魂”の向上をはかる目安としなければならぬ。

           <感謝合掌 平成27年12月27日 頓首再拝>

法則と自由意志 - 伝統

2016/01/05 (Tue) 04:15:41


        *谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「信仰生活の暗黒時代を通過する道」
          内の記事「法則と自由意志」より
          ~吉田國太郎

四。

要するに 『我』 の考えや我欲によって動いている時に因難というものは来たるのである。 
即ち神の法則を、神を智慧に導かれて正しい方向を使わずして誤った使い方をするのである。 

そして神が吾々に幸福になるべく造ってくれた所の火の中に、
手をつっこむに等しいような行動をとることになるのである。

人間が幸福になる道は、『我』 を捨てることである。 
『智慧の樹の果』 をすてることなのである。 
キリストがいった 『十字架を負いてイエスに従う』 ことなのである。 

『十字架を負う』 というのは 『我』 を磔刑にかけて、『我』 を抹殺してしまって、
神のみ心に神の智慧によってすなおに従うことなのである。 

そこから本当の平和が本当の智慧が湧き出てきて、
人間は真の幸福に達することができるのである。


キリストが第一最大の誡めとして教えたのは、
『心をつくし、精神をつくし、魂をつくして汝の神を愛せよ』 という事であったのである。 

次に彼が教えたのは 『汝の如く汝の隣人を愛すべし』 ということであった。 

更に彼が教えたことは 『いと小さきものを愛するはキリストを愛するのである』 
ということであった。 

そして最後に 『汝た互に相愛せよ。 愛する所に春はいるなり』 と教えたのである。


この四つの教えを連関させて考えて見る時に、神を愛するということは
神の子である人間を愛することであり、いと小さき人間をも愛し得ないものは
神を愛しているのではないということである。 

吾々は自己の中に宿る所の 『神の子』 を礼拝すると共に、
人々の中に宿る所の 『神の子』 をも礼拝しなければならないのである。


パウロは 『神を愛するのは神を霊として愛さなければならない』 といったが、
人間も 『神の子』 である以上はそれを霊として愛しなければならないのである。 

吾々は時として、人間を愛する道を誤るのである。 
そして彼を肉体として愛する。 
そこに時としてまちがいが生じてくるのである。

彼を見るのに肉体として見るのである。 
自分の見るのに肉体としてみるのである。 
わが子を見るのに肉体としてみるのである。 

そしてそこに病気を見る。 
そこに不幸を見る。 
そこに困難を見る。 

そこに肉慾や情欲を見、その慾を満たしてやりたいと考える。 
これは相手を肉として愛するのであって 『神の子』 として愛するのではないのである。 

それは決して人間の実相を見ないのであって、
人間は未だかって、病まず、不幸にならず、苦痛をうけず、
肉慾の欲望に支配されざる所のものなのである。

 
五。

吾々の祈りがきかれない場合には、
以上述べたようないろいろの原因が交錯しているのである。 

まず第一に注意すべきことは、自分を或は自分の子供をその他すべての家族達を、
神の子として、霊としてみているかを反省してみるべきである。 

もし治らない恐怖心や、死の恐怖があるならば、
それは人間を霊として見ていない証拠である。 
霊は病もなく死もないからである。


第二には、自分は誰かを恨んでいないか、憎んでいないかということを
反省して見ることである。 

時とすれば、もう記憶にも残らないほど誰かを憎んだままで赦していないで、
そのまま忘却していることもあるのである。 

できるだけ過去を記憶によびもどして、
もし不調和な人があらばその人を赦して彼と和解する事である。 

憎むべき原因、色々の争い等は、本来実相の世界には存在しないのであって、
すべての人間は、皆善き人間ばかりなのである。 
従って憎み恨みという事は結局根拠のないことだと悟って、すべてを赦してしまうことである。

それには静かに坐して目をつぶり、目の中に相手の姿を思い浮かべ
その名前を数回となえて相手を呼びだすような気持になり、  

『私はあなたを赦しました。 私はあなたを愛しています。 
もし私があやまってあなたに気に入らないことをしていましたならどうぞお赦し下さいませ。 
あなたと私とは神の愛の中に渾然と融けこんで互に一体でございます』  

というような言葉を心の中で幾回もくりかえし、
二十分乃至三十分間その思念に精神を集中し心の世界で相手と和解するのである。



第三には、、吾々は業の観念から解放されなければならないのである。 
過去に何か誤った業をおかしてその報いをうけなければならないというような
罪の観念を捨ててしまうことが必要である。 

多くの不幸病気災難等は自己処罰の観念の具象化として現われて事が多いのだから、
自己処罰の観念を捨てなければならないのである。

 
そのためには瞑目合掌神想観して  

『神の光吾に流れ入り給うてすべての過去の罪と業とを浄め給うたのである。 
今吾は完全に洗い浄められて、本来罪なき所の円満完全清浄無垢なる
神の子に生れ変ったのである。 

もう自分は如何なる罪の束縛も業の束縛をも受けることはないのであって、
自分は自由自在である』  

というような言葉を心の中にくりかえし念ずることが必要である。  

      (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=57

           <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

法則は各人を縛るものでなく法則は「道」である - 伝統

2016/01/12 (Tue) 04:31:02


      *「生活と人間の再建」第19章 無限なるものとの調和(P245~246)より


    諸君の生活内に入(い)り来(きた)るすべてのものの原因は
    諸君自身の内に働いている内部の力を完全に会得したならば、
    諸君は諸君の生活を正確に諸君の欲する通りのものに
    決定することが出来る」(ウオルトン・トライン著「無限なるものとの調和)


《本当の自由人は運命の主人公でなければならぬ》  

運命は外から働く強制的な力ではないのである。
上に掲げた引用文は心で人生を支配するための実用人生哲学の真髄とも言うべきものである。

運命が外から課せられた宣告であると観じて、それが真理であるならば人間は奴隷である。
併し個人の経験の原因は環境の中にあるのではなく、個人の心の内にあるのだと言うことが
自覚され始めたとき、人間は奴隷状態から解放され、自由人となり民主主義的生活を
実際に行い得るのである。

自由の世界と云うものも決して法則がないのではない。
法則がなくて滅多矢鱈に各人が動き出したら、交通規則のない繁華街のように
交通事故で衝突や負傷や色々の不幸が起るのである。

すると結論は必然的に法 則が存在し、その法則に則って各人が生活するとき
個人は自己の生活を欲するがままのものに正確に決定することが出来る
と云うことになるのである。

即ち、法則は各人を縛るものでなく法則は「道」である。
自動車道も、人力車道も、その他いろいろの道があるが、そのうちどの道を選ぶか
と云うことによって、諸君の身に降懸って来るすべての運命は決定する。

だから法則は決して我らに宿命を課するのではない。
あなたの運命の原因は貴方の内にあるのだと云うことが出来るのである。

           <感謝合掌 平成28年1月12日 頓首再拝>

この世界には平衡の法則が働いています - 伝統

2016/01/22 (Fri) 03:55:41


        *「真理」第9巻生活篇(P92~93)より

腹の立っている時に人に対して手紙を書いたり反駁文を書いたりしてはなりません。
自分に対して不当の批評を加えた人に対して、自分の心を整えないで、
すぐやり返してはなりません。

何よりも自分の心を整えることが先です。
そのためには神想観して相手の実相が完全であることを、
赦しと愛と深切の心で見詰めましょう。

そして、”自分に対しては何人も傷付けることができない、すべては神の子であって、
調和している”という実相を心で確認してから次の行動に移るのがよいのです。

何が起こっても恐れることはありません。

この世界には、「平衡の法則」と云うのが働いているのです。
奪ったものは必ず奪い返えされるのです。
深切をつくしておれば、何時かは深切が自分に返って来ます。

「正しいのに不幸だ」と一見思われる事件がありますが、そう云う正しさは、
正しさの故に相手を憎んでいたことに気が付かねばなりません。

           <感謝合掌 平成28年1月22日 頓首再拝>

《法則は冷酷である・併し法則は我に仕える》 - 伝統

2016/01/30 (Sat) 04:47:00


           *『白鳩』誌(昭和42年12月17日)の箴言より

   自然は冷酷である。法則は冷酷であり、2を二倍すれば4になる
   〈2×2=4〉 という法則には情状を酌量して、2を二倍しても
   5にしてやるとか6にしてやるとかいうことはできないのである。

   あなたが幸福なる生活を送るためには
   法則を知らなければならないのである。
   法則に旨く乗った者だけが勝利を得るのである。

   〃法則〃 のことを仮に 〃真理〃 と名づけるならば、
   イエスの言った通り 
   「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 
   であるのである。

   もしあなたが人生に於いて御自分の希望を達しようと思うならば、
   人生を支配している法則を知らなければならないのである。

   しかし法則を知るとき、法則は下僕の如く我に仕えるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

           <感謝合掌 平成28年1月30日 頓首再拝>

《この世界は原因結果の法則が働いている》 - 伝統

2016/02/06 (Sat) 03:27:34


         *『 生長の家 』(昭和25年1月号27日)の法語より

   この世界は 原因結果の法則が 常に働いているのである。

   決して蒔(ま)かぬ種は生えぬのである。
   種を蒔かずに置いて収穫を得ようと考えてはならない。

   他(ほか)から得た者に値を払わないのも
   やはり一つの自分が貧乏になる原因である。

   値を払わないで旨(うま)く利益を占めたと思っていても、
   それは結局 神の世界に於(お)いては 借金になっておるのである。

   それは 将来における貧乏を約束しているのと同じことである。
   だから、泥棒が千万長者になったためしがない。

   値を払わないでいたものは 結局消えてしまうのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8954e362d6eb4e4edc9967e263e125c3

           <感謝合掌 平成28年2月6日 頓首再拝>

動・反動の因果の法則 - 伝統

2016/02/14 (Sun) 04:37:25


             *「生活と人間の再建」(P46~47)より

ともかく吾々の肉体年齢にせよ、吾々の環境及び身辺に起こる色々の問題にせよ、
悉く人間に属するものは人間の自己創造によるものであるのである。

多くの人々は、病気や、老衰や、不幸や、災難を外からやってくるかの如く考えがちである
けれども、それは結局原因結果の法則に対する無智から来るのである。
知らず識(し)らず犯した原因が知らず識(し)らずの中に結果を招いているのである。

雑草は知らずに蒔いても、それは到る処にはびこるのである。
人生の苦痛は何故(なぜ)起こるか。これは自己創造である。
自分がその種を蒔いているのである。

何時(いつ)如何にしてそれを蒔いたのであろうか。
それを彼は知らないのである。
知らないから自分に原因がないと思って「人を恨む」のである。

そして「人を恨む」という種を蒔くのである。
そして人から恨まれたり嫌われたりする結果を来たす。
そして自分は何もしないのにこんな不幸に陥ったと、
更に不幸の想念を蒔いて人生を呪詛するのである。


然し、再び云う。
人間の運命はニュートンの力学の法則と尾案じように行なわれるのである。
自分が奪った程度に自分は奪われ、自分が傷つけた程度に傷つけられるのである。

人を傷つけることなにに自分が傷つけられるということはあり得ないのである。
自分が人の権利をおかすことなしに自分の権利をおかされるということはあり得ないのである。

すべての人間は、神の自己実現として、不可侵の人権をもっているのである。
その人間の実相の尊厳が自らの許しと、自らの行為なくしては、傷つけられるということは
絶対にないのである。

病むということ、老いるということ、死すということ、生活に苦しむということ ―― 
これら人生の四苦は外から来るのではなくして、自分がそれを許し、それにふさわしき行為を
行なうことによってのみ、その災いを蒙(こう)むるのである。

吾々は自分自身がそのような人生の苦しみに悩まされないようにするためには
まず隣人が神の子として尊敬し、その尊厳を傷つけず、冒(おか)さず、奪わず、
争わないようにしなければならないのである。

ここにキリストの「汝がせられんと欲する如く他(た)の人になせ」と絶対命令が、
自分を幸福にする根本原則として存在するのである。

           <感謝合掌 平成28年2月14日 頓首再拝>

《原因結果の法則の世界》 - 伝統

2016/02/22 (Mon) 03:13:44


             *「生活と人間の再建」(P144)より

このようにこの世界は原因結果の世界に支配されているのである。
憎みや、怒りや、復讐のパイプを造って置いて、
そこから平和や喜びや、幸福が流れ込んでくると考えてはならないのである。

他(ひと)から奪うような方法によって、富んでみても、
その富は又他人から奪われるか、そうでなければ他の方法で
その人の幸福は奪われるのである。

多くの富める人の生活につきまとうものが、家族の病気や、家庭の不調和や、
団体と団体との面白くない葛藤等によって起こる不幸であるということは、
その富が他(ひと)から幸福を奪った結果得られたような部分があるからである。

人の幸福を奪うものは、又自分の幸福が奪われるのである。

           <感謝合掌 平成28年2月22日 頓首再拝>

《神から功徳を得るには神の法則に従わねばならぬ》 - 伝統

2016/02/29 (Mon) 05:03:15


           *「光明法語」(2月29日)より

電気の働きによって、電燈を得、電熱を得るためには、吾等は電気の法則に従わねばならぬ。

神の働きによって色々の功徳を得る為には、吾々は神の法則に従わねばならぬ。
神の法則とは、『与える通り与えられる』と云うことである。

若し与えられなかったら祝すべきである。
それはなお天の倉に蓄えられて増殖しつつあるのだからである。
その報いが遅ければ遅いほどそれは複利計算で神様から利子がつけられるであろう。

一方に与えて置いたら、軈(やが)て予想そうもしない他のところから
無限の供給がやって来ると云うことである。

            <感謝合掌 平成28年2月29日 頓首再拝>

《類は類を招(よ)ぶ》 - 伝統

2016/03/07 (Mon) 03:50:55


          *『 生長の家 』(昭和26年2月4日)の法語より

   人は動(やや)もすれば、
   自分の愛する人に対しては美点のみをみとめて賞賛するし、

   自分の愛しない人に対しては
   欠点のみをみとめて非難しようとするけれども、

   吾々が心に描いた姿は 「 類は類を招ぶ 」 という法則に従って、
   欠点をみつめれば、欠点が集って来るし、
   美点を見つければ美点が集って来るのである。

   そして結局、自分自身の運命に美点が集ってくる者は
   幸福になり、栄えるが、

   自分自身の運命に欠点が集って来る者は不幸になり、衰微するのである。


   想念が創造力をもっていると云うことを知るならば、
   如何なる場合にも、人の悪を思い、且(か)つ噂(うわさ)することを
   慎まなければならぬ。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f02806856da376d61069e20a4f83028a

            <感謝合掌 平成28年3月7日 頓首再拝>

《法則と協調することにより人間は幸福になる》 - 伝統

2016/03/14 (Mon) 03:48:55


           *『 生長の家 』(昭和24年2月21日)の法語より

   人間の意思は、可変的であって、常に変わるが、
   神の意思は 「 法則 」 となって変わらない。

   吾々がその法則を正しく使いさえすれば、
   幸福になるように法則は与えられているのである。

   その法則と協調する時すべての物事は順調に運ぶ。
   法則を逆用するとき、吾々はそれによって危害を受ける。

   高圧電気に触れて死する人も、高圧電気を利用して工場を運転する人も、
   何れも法則に従ってその報いを受けているのである。

   神は拝み倒しておいたからといって、
   法則にそむく人に幸福を与えるということはないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12976519.html

            <感謝合掌 平成28年3月14日 頓首再拝>

《何教であるからとて運命に特別の保護はない》 - 伝統

2016/03/23 (Wed) 03:39:09


       *『 生長の家 』(昭和24年2月22日)の法語 より

   神は その人が仏教徒であるから特に保護するとか、
   キリスト教徒であるから特に保護するとかというようなことはない。

   如何なる宗教の信者も、爆弾に触れれば爆死する。
   法則は 宗教の差別なく万人に同様に適合される。

   しかし吾々は自由意志をもっており、
   意志の選択能力をもっており、
   高圧電気や爆弾に触れない位置にいることは自由である。

   そしてどの位置に自分がいるかということは
   心の法則によって定まる。

   その人の心の波長が
   その人が自然に行きたくなる位置を決定する。

   それは 「 類の心は類を呼ぶ 」 という心の法則による。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12984530.html

            <感謝合掌 平成28年3月23日 頓首再拝>

《法則は力の動く道である》 - 伝統

2016/03/30 (Wed) 04:36:48


          *『 生長の家 』(昭和24年2月23日)の法語より

   「 法則 」 それ自身は
   力ではないのである。

   それは 「 力(ちから) 」 の動く道である。

   「 力 」 がどの方向に動くか、その動くべき方向に
   道を開いてやる所の主動者は
   「 自分自身 」 であるのである。

   爆弾は自然の法則に従って爆発する。
   神は爆弾によって人間を殺す意思をもち給うのではないのである。

   爆弾の爆発力を人間を殺すように導いたのは
   人間自身の自由選択にあるのである。

   その爆発力を機械の運動に、汽車、汽船の交通に利用することも
   人間自身の自由意志であるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13003271.html

            <感謝合掌 平成28年3月30日 頓首再拝>

《同じ力を破壊にも建設にも使うことが出来る》 - 伝統

2016/04/09 (Sat) 04:54:23


           *『 生長の家 』(昭和24年2月24日)の法語より

   神の意志なる法則は一定不変であって、
   どの方向にその道を開くか否かということは
   自分自身の 意志の自由 と 想念の自由 によるのである。

   神は決して人間の自由を、
   それが如何に善なる方向へ向おうとも、
   如何に悪なる方向へ向おうとも
   妨げ給うということはないのである。

   すべて吾らが自己選択して心に描く所の想念の波によって、
   宇宙の創化作用がどの方向へ
   その法則によって動き出すかが極まるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13039409.html

            <感謝合掌 平成28年4月9日 頓首再拝>

《因果昧(くらま)さず》 - 伝統

2016/04/17 (Sun) 03:54:39


        *『 生長の家 』(昭和26年2月26日)の法語より

   恩に着せがましい心を起してはならないのである。
   恩はすべて神から来るのであって、すべての人間は受身である。

   真の宇宙は 神によって造られたものであるから、
   実相に於いては 全体が平等釣合っていて、
   恩の貸し借りなどは存在しないのである。

   甲が乙に与えても、乙が丙に与えても、
   それは釣合の原理に従って、天地の法則に従って
   高き所の水が 低き所に流れるが如く行われるのであるから、
   自分が恩を与えたのである。

   原因結果の法則は 恢々(かいかい)として漏らすことなく
   他の処(ところ)で取り過ぎがある時に奪われるようになっており、
   他の処で与え過ぎがある時に与え返されるようになっているのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5fd6b6badfc3a14342bf8f252a796305

            <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

《人間は法則に従うことによって一切のものを支配する》 - 伝統

2016/04/26 (Tue) 04:45:07


         *『 生長の家 』(昭和25年2月27日)の法語より

   人間は 万物の霊長として
   世界の一切のものを支配する力を与えられているのである。

   然(しか)しながら
   それは 如何(いか)にして支配し得るかといえば、
   法則に従順に従う事によってである。

   電気は驚くべき恵福を人類に与えてくれる。
   その電気の力を支配するには
   電気の法則に従順であるということによってである。

   従うものだけが従えることができるのである。

   もし吾々が電気の法則を無視すれば、電気も吾々を無視して、
   光も動力も与えてくれないし、
   時とすると吾々に驚くべき災厄を与えるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成28年4月26日 頓首再拝>

法則に支配されている世界 - 伝統

2016/04/30 (Sat) 04:24:33


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月30日)」より

ああ驚嘆すべきかな、自然の過程が驚くべき数学的精確さを保てることよ。

あらゆるエネルギーの法則、エネルギーの交換、化学的結合分解ことごとく
一定の法則に支配されている。

これを見るも、この世界が単なる精神なき物質の集合だとどうしていえよう。
なぜこの世界の一切の事物が数学的正確なる法則に支配されているのだろうか。

それは物質はいわゆる「物質」にあらず「理念」の表現であるからである。
「物質なし」とは常識的捉われの物質観を破摧して、
一挙に背後の理念を掴ましめんがための喝であったのである。

ここにおいて

「一切の《もの》に和解せよ」「一切の《もの》に感謝せよ」

の教えが生きてくるのである。

            <感謝合掌 平成28年4月30日 頓首再拝>

《神は法則であり偏頗はない》 - 伝統

2016/05/01 (Sun) 04:33:05


          *「光明法語」(4月30日の法語)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

            <感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>

《進歩の法則に支配されている人生》  - 伝統

2016/05/08 (Sun) 04:37:43


         *「光明法語」(5月8日の法語)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。


            <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

「因縁の法則」は、実在の世界には無い - 伝統

2016/05/14 (Sat) 04:47:39

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものからマイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

            <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>

《神の法則とは 愛の法則である》 - 伝統

2016/05/22 (Sun) 03:37:16


         *『 生長の家 』(昭和25年2月28日)の法語より

   神の恵みを自由に受けようと思うならば
   神の法則に すなおに従う外はないのである。

   神の法則とは 愛の法則である。

   「 汝(なんじ)の如(ごと)く 汝の隣人を愛すべし。」

   これが神の法則であるのである。

   憎み、怒り、争い・・・・・等(など)は
   神の法則に逆うものであるから

   電気の法則に逆うものは 感電して致命傷を受けるのと同じように、

   神の法則に逆って人を憎み、怒り、争うものは
   又 自分自身に致命傷を負わすことになるのである。

   どんなに今 不幸の人も、病気の人も、神を愛し隣人を愛し
   まず赦(ゆる)すことから始めよ、そこから幸福が芽生えて出る。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>

《神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す》 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 03:42:01


         *『 生長の家 』(昭和25年3月1日)の法語より

   神は到る処に みちみちていられるのである。
   神は 無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、
   常に吾らを その無限の愛をもって 護(まも)っていられるのである。

   だから、神の無限の智慧と無限の力とは
   いつでも自由に自分が利用する事ができるのである。

   神は法則であり 法則は到る処にみちみちているのであって、
   吾々が食事をする時にも、空気を吸う時にも、仕事をする時にも、
   常に神は吾々の生活に利用される形でい給うのである。

   法則は 吾々の内にあり、又 同時に外にあって、
   内の智慧なる法則を知る事ができるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

神は人格であると同時に法則である - 伝統

2016/06/08 (Wed) 03:43:03

         *『光明法語』(6月8日)より

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、与えたる富はただ他を害する為
のみに使う様な場合には親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

        <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>

《秩序は智慧と法則の実現》 - 伝統

2016/06/17 (Fri) 04:36:24

         *『 生長の家 』(昭和24年2月9日の法語)より

   無機物と云えども、
   その分子組織には一定の秩序をそなえていて、
   其処に神の智慧がみられるのである。

   秩序は智慧の産物であり、
   不秩序は智慧の崩壊を示すのである。

   生物が無生物状態への墜落は、
   高級なる智慧が崩壊して
   低級なる智慧の世界があらわれたのである。

   智慧は 秩序であり、
   秩序は 法則によって、維持せられる。

   法則の守られたる状態が秩序なのである。

   法則は、神の自己実現の 「 道 」 であり、
   神は 「 法則 」 と云う 「 働き手 」 を通して
   自己を実現したまうのである。

   法則のなかった世界などと云うものは
   考えることが出来ない。
   法則は 神のコトバである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12913684.html

        <感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝>

愛に背く法則は存在しない - 伝統

2016/07/05 (Tue) 03:46:35

           *「幸福を招く365章」(P251~252)より

物質は人間を害する力であると云う古き皮袋の中に、
真理の新しき酒を注ぐことは出来ないのである。
また古き酒が充満している甕(かめ)の中に新しき酒を注ぐことも出来ない。

刻苦精励して、物質の人間に及ぼす権威を潜在意識の中から逐(お)い出し、
新たに人間神の子の権威を潜在意識の中にたゝみ込まなければならないのである。

在来の物質観を捨て去り、宇宙には唯一つの大法がある。
それは神である。
神の大法は愛であり、調和である。

愛にそむく法則、調和に背く法則などはあり得ようがない、従って、
人間に苦痛をもたらす法則などはあり得ようがないと云うことを知ることである。


        <感謝合掌 平成28年7月5日 頓首再拝>

自然界の法則と心の法則 - 伝統

2016/07/20 (Wed) 03:25:22

         *「生活の智慧365章」(P38~39)より

法則というものは実相の智慧から発現した生命顕現の秩序である。

従って法則に従順に随(したが)うとき、生命(せいめい)が伸び伸びと発現して
物事が順調にはこぶことになるのであるが、法則を破るときには何事も順調に行かず、
苦痛や悩みを受けることになるのである。

それは神が神罰を与え給うのではなく、生命(せいめい)顕現の秩序に反したから、
激流を遡る人が流れを順調に下)くだ)る人よりも、より多く苦痛を受け、
時には溺れるのと同じことなのである。

神は人語(じんご)を語り給わないので、
法則を、人間みずから発見するほかはないのである。


法則にも物質界の法則と、心の法則とがあるが、
これはいずれも生命(せいめい)が顕現する場合の両面の秩序であって、
いすれも、ゆるがせにすべきではないのである。

物質界の法則でも、古代人はそれを発見する程度が低いものだから、
無智にして知らず識らずの間に自然の脅威にさらされ、生活に安定性が乏しかった。

一層多く自然界の法則を知り、その法則に則(のっと)って生活するようになったとき
文化が発達して人類の生活に安全性が増加して来たのである。

併(しか)し尚(なお)、人類の大多数は、心の法則に無智であるために、
この面から生活の危機が迫っているのである。
原水爆戦の危機などもそれである。

            <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝>

物質の法則の上に精神の法則の優位がある - 伝統

2016/07/22 (Fri) 03:12:08

           *「光明法語」(7月22日)より

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、ただの物理化学的法則以上に
それに精神が働きかけた時、物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを
現し、自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

            <感謝合掌 平成28年7月22日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2016/07/23 (Sat) 04:19:07

           *「光明法語」(7月23日)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、生命の創造力を豊かにる流露(るろ)
せしめんがためのものである。

            <感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>

二つの法則 - 伝統

2016/07/24 (Sun) 04:36:25

           *「光明法語」(7月24日)より

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

            <感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>

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