伝統板・第二

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奇跡の人 - 伝統

2015/06/27 (Sat) 03:57:24

 光明掲示板・第二「【奇跡の人の日】 (9458)」からの継続です。
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1845

・・・

今日、6月27日は【奇跡の人の日】

アメリカの社会福祉事業家、ヘレン・ケラーの1880年(明治13年)の誕生日。

・・・

《ヘレン・ケラーが言葉に目覚める瞬間。》

        *「ヘレン・ケラーはどう教育されたかーサリバン先生の記録ー」より


今朝顔を洗っているとき、ヘレンは、「water(水)」という名称を知りたがりました。

彼女は、何かの名前を知りたいときには、
知りたいものを指差し、そして私の手をたたきます。
私は、「water」と綴り、それについては朝食のあとまでとくに考えませんでした。

朝食後、私はこの新しい単語を利用して、
「mug(湯飲み)―milk(ミルク)」のむずかしさを解決できるかもしれないと思いつきました。

ヘレンにとって、「mug(湯飲み)」と「milk(ミルク)」は、他の言葉よりわかりにくいのです。


ヘレンは、「drink(飲む)」という動詞とこの2つの名詞を混同しました。

ヘレンは「drink(飲む)」という単語を知らなかったのですが、
「mug(湯飲み)」や「milk(ミルク)」をつづるときはいつも飲む身振りをしました。



私は、井戸小屋に行って、私が水を汲み上げている間、
ヘレンには水の出口の下にコップを持たせておきました。

冷たい水がほとばしって、湯飲みを満たしたとき、
ヘレンの自由な方の手に「water」とつづりました。

その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚に
とてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。

彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。
ある新しい表情浮かびました。
ヘレンは何度も、「water(水)」と綴りました。

それから、地面にしゃがみこみ地面の名前をたずね、
そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。

私は「teacher(先生)」と綴りました。


家にもどる道すがらヘレンはひどく興奮していて、
手にふれる物の名前をみな覚えてしまいました。


ヘレンにとっては今や物はすべて名前をもっていなければなりません。

ヘレンはつぎからつぎに物をとりあげてはその名前をたずね、大喜びで私にキスしました。
はじめて私にキスしたのです。

私の心ははりさけるようでした。それほど喜びであふれていました。

ヘレンは、すべての物は名前をもっていることと、
文字が自分が知りたいすべてのことへの手がかりになるということを学んだのです。



<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「「奇跡の人」ヘレンケラー (2955)」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=582

(2)光明掲示板・第一「【奇跡の人の日】 (9517)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1805

(3)光明掲示板・第二「奇跡の人 (5038)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1043


            <感謝合掌 平成27年6月27日 頓首再拝>  

フランスで実在した、もうひとりのヘレンケラー物語 - 伝統

2015/06/28 (Sun) 06:20:43


映画「奇跡のひと マリーとマルグリット」
 → http://eiga.com/movie/81786/video/


  《残された人生をかけてマリーの教育係となる修道女マルグリット》

   聴覚障害の少女たちが暮らす修道院に、目も耳も不自由な少女マリーがやってきた。
   教育を一切受けずに育ったマリーは野生動物のようにどう猛で、だれにも心を開かない。

   不治の病を抱え、余命いくばくもない修道女マルグリットは、
   残された人生をかけてマリーに“世界”を与えるべく教育係となるのだった。

   さまざまな困難を乗り越え、ついにマリーは言葉を理解する。
   学ぶ喜びを知り、日に日に成長していくマリー。

   そして母親のように愛情を注ぎ、教育をつづけるマルグリット。
   しかし、マルグリットの死期は確実に近づいていた……。

   迫りくる死の気配を感じながらマルグリットがマリーに与えたのは
   「喪う悲しみ」より多くの「生きる喜び」だった。

   日本ではほとんど知られていない、実在したふたりの女性による
   真実の物語が観る者の心を打つ。

              ・・・

   <今日 魂に出会った。小さくもろい魂。驚くべき魂。>

   ある日、ラルネイ聖母学院に目が見えず、耳も不自由な少女マリーがやってきた。
   生まれて以来14年間、しつけも教育も一切受けずまるで野生動物のように
   獰猛なマリーが放つ、強い魂の輝きに惹かれた修道女マルグリットは、
   自ら彼女の教育係となる。

   そしてふたりのむき出しの魂がぶつかり合う「戦い」とも呼ぶべき教育が始まった。



   <素晴らしい進歩。言葉がほとばしる、まるで奇跡のようだ。>

   マリーがやってきて8か月目、ついに奇跡が起こる。
   ふとしたことから、ようやくマリーは、物には名前があることを理解したのだ。

   最初の1語こそ苦労したものの、その後は次々と言葉を精力的に会得していくマリー。
   学ぶことの喜びを知り、日に日に成長するマリーと、
   母親のように惜しみなく愛情を注ぎ、教育を続けるマルグリット。

   ふたりの絆はより強いものとなった。
   もともと体が弱く不治の病を患っていたマルグリットだったが、
   静養を進める医者の反対を押し切って、マリーとともに生きることを誓う。



   <彼女は私の喜び。私の魂の娘。私の人生の光だ。>

   しかし、ふたりの別れの時間は刻々と迫っていた――。
              

・・・

Web:聴覚障害乗り越え銀幕デビュー 
    仏新人女優が語る「奇跡のひと マリーとマルグリット」
    → http://eiga.com/news/20150605/18/

・・・

紀子さま、佳子さまが映画「奇跡のひと」をご鑑賞

       *産経ニュース(2015.5.19)より

秋篠宮妃紀子さまと次女の佳子さまは5月19日、
東京都千代田区の有楽町朝日ホールで開かれた映画「奇跡のひと マリーとマルグリット」
のチャリティー試写会を鑑賞された。

 
この映画は、目と耳が不自由な少女マリーが修道院に預けられ、
不治の病を抱えた修道女マルグリットと衝突しながら手話を教わり、成長していく物語。
19世紀末にフランスであった実話が基になっている。

 
試写会は全国盲ろう者協会が後援。
紀子さまと佳子さまは公務などを通じて手話などへの理解が深く、
試写会後には同協会理事の福島智さんらと点字通訳などを介して懇談された。

 
試写会関係者によると、
佳子さまは同じく多重障害を抱えていたヘレン・ケラーにも興味を持ち、
今回の試写会を楽しみにされていた。

懇談の場では「ヘレン・ケラーの物語と違うのは命の問題を描いているところですね」
などと話されていたという。

紀子さまと佳子さまは宮内庁を通じて募金もされたという。

 (http://www.sankei.com/life/news/150519/lif1505190017-n1.html

・・・

映画「奇跡のひと マリーとマルグリット」Twitte
  → https://twitter.com/kisekimm

            <感謝合掌 平成27年6月28日 頓首再拝>  

サリバン先生の教育(1) - 伝統

2015/07/06 (Mon) 04:02:04

       *『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』サリバン・著より
         

ヘレンを寝かせてから、座って考えました。
「普通の子どもはどのようにしてことばを覚えるのだろうか」と自問しました。

答えは簡単でした。
つまり「模倣によって」です。

子どもは生まれながら学ぶ能力を授けられており、
外からの十分な刺戟を与えられさえすれば、ひとりでに学びとります。

ひとのやるのを見てまねをしようとしたり、話すのを聞いて自分も話そうとします。
でも、子どもは口をきき始めるずっと前から、自分に話しかけられたことの内容を理解します。

私は近くの小さな子を観察しています。
生後十五カ月位の女の子ですが、すでにたくさんのことを理解します。

尋ねられたことに答えて、鼻、ロ、目、顎、頬、耳などをかわいらしく指さします。
「赤ちゃんのもうひとつのお耳はどこ?」ときくと、正確に指さします

。花を手渡して、「ママにあげていらっしゃい」と言えば、
それをお母さんのところへ持って行きます。

「いたずらっこはどこ?」と言うと、お母さんのうしろに隠れたり、
手で自分の顔を隠してちゃめっ気たっぷりに私の方を覗き見したりします。

こんなふうに、彼女はつぎのような命令に従います。

たとえば、「おいで」「キスして」「パパのところへ行きなさい」「戸を閉めて」
「ビスケットちょうだい」など。

しかし、彼女がそれらのことばを何百回もくり返し聞かされたとしても、
どれひとつとして自分でしゃべるのを私は聞いたことがありません。

でも、彼女にそれらのことばがわかっていることは明らかです。

この経験はヘレンにことばを教えるひとつの手がかりを与えてくれました。
私は、赤ちゃんの耳に話しかけるようにヘレンの手に話しかけることにします。
彼女も普通の子どものようにまねをする能力があると思います。

彼女に正しい文で話しかけ、必要なときには、
身振りや彼女特有の合図で意味を補うことにします。

でも私は、何かひとつのことに彼女の心を留めておこうとするつもりはありません。

彼女の心を刺戟して、興味を起こさせるために全力を尽くし、結果を待つことにします。


   (http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yaseiji34.html

            <感謝合掌 平成27年7月6日 頓首再拝>

サリバン先生の教育(2) - 伝統

2015/07/14 (Tue) 04:09:47

       *『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』サリバン・著より
          

彼女が「流暢に話す」とはお思いになりませんように。
小さな子と同じように、ヘレンも一つの単語で全部の文章を表現します。

身振りで「ミルク」と表わせ ば、「もっとミルクちょうだい」ということですし、
何か問いたげな表情で「ママ」 と表わせば、「お母さんはどこにいるの?」ということですし、
また「行く」は、「私はお外に行きたい」ということです。

でも、私がヘレンの手に、「私にパンをください」と綴ると、
彼女は私にパンを取ってくれますし、

「帽子をとっていらっ しゃい。お散歩に行きましょう」と言えば、すぐそのとおりにします。
「帽子」と「歩く」という二つの単語は、彼女にとって外に出るという同じ効果を及ぼしました。

けれども、一日のうちに何回となく繰り返すことによって、時が経てば、文章全体が
彼女の頭に印象づけられるでしょうし、また、やがて自分で文章を使うようになるでしょう。

           ○

何週間も、私たちはクリスマスのことばかり話したり、
また、お話を読んだり話しあったりしました。

もちろん、新しい単語を全部は説明しなかったので、
ヘレンは私のした短いお話を十分理解しなかったことでしょう。

でも、何回もくり返されることによって、単語や熟語が記憶され、
少しずつその意味もわかるようになるでしょう。

私は余りに「形式的な」会話をさせてことばを教える方法には賛成できません。
それはばかげたやり方で、生徒も教師をも無感覚にします。

会話の目的は、ごく自然であって、お互いの考えを交わすことにあるはずです。

もし、会話をする心の準備ができていない子どもに、
「ねこ」「とり」「犬」などについての短い無味乾燥な文章を黒板に書かせようとしたり、
指で綴らせようとしても、それはほとんど無意味なことと思います。 

  (http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yaseiji35.html

            <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

サリバン先生の教育(3) - 伝統

2015/07/20 (Mon) 03:52:55


       *『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』サリバン・著より

           ○

私たちはいつも夕食の頃には家に帰ります。
帰ると、ヘレンは自分の経験してきたことをすべてお母さんに話したがります。

自分に話されたことを他人に話したいという欲求は、著しい知的な進歩を示していますし、
また、ことばの習得にとって はかり知れない刺激になっています。

私はヘレンの友だち全部に、彼女を勇気づけて自分の行動を話すようにさせたり、
また、彼女のささいな進歩にもできるだけ好奇心や喜びを示してほしいと頼んでいます。

このことは、他人に賞められることを喜ぶ子どもの心を満足させ、
物事への興味を長続きさせます。
これが真の意志交換の土台になります。

もちろん、彼女は多くのまちがいをして、単語と句をとりちがえたり、前後を誤ったり、
名詞と動詞を滅茶苦茶に混乱したりします。
しかし、このようなまちがいは、耳の聞こえる子どもでもします。

私はそうした困難は何とか解決できると確信しています。
話したいという衝動はとても大切なことです。…

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yaseiji36.html


            <感謝合掌 平成27年7月20日 頓首再拝>

ヘレンの感覚 - 伝統

2015/07/27 (Mon) 03:50:45


       *『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』サリバン・著より

           ○

その年、彼女の触覚は目立って発達し、鋭さと繊細さをました。
実際彼女の全身は精密に組織され、彼女は仲間とのより親しい関係をもつための
手段としてそれを用いているかのようである。

彼女は音や運動によって起こされる空気の震動や、床の震動を正確に区別し、
手や服にふれるだけで友だちや知人を見分けられるだけでなく、
彼女のまわりの人たちの精神の状態までも感じることができる。

ヘレンと話しをする人は誰でも、喜びすぎたり悲しみすぎたりできないし、
また逆に、その心の動きを彼女に知らせないでおくこともできない。

  
彼女は会話の中で、ある一つの単語におかれたどんなにささやかな強調をも
見分けることができ、手の筋肉のいろいろな運動や位置の変化の意味を
発見することができる。

彼女は親愛の情を示すやさしい抱擁や、賛成して手をたたくことや、
もどかしがってひっぱることや、命令の力強い確固とした動きや、
その他のさまざまな無数の感情を表わすことばにすぐに反応する。

彼女はこれらの情緒的な何気ないことばの判断に熟練してきて、
ときには私たちの考えていることを言いあてることさえできる。

  
ヘレンに関する報告の中で、昨年私は、彼女が不可解な精神能力を
働かせているようにみえるいくつかの例についてのべた。

しかし、それについて更に注意して考察した結果、現在では、この能力は、
彼女が触れた人の感情を表わす筋肉の変化を 完全に把握した、
ということであると説明できるように思う。

彼女は周りの人たちの精神状態を確認する手段として、
主として、この筋肉の感覚に頼らざるを得なかったのである。

彼女は身体のいくつかの動きを怒りに、また他の動きを喜びに、
また悲しみに結びつけることを学んだ。


ある日、母親とアナグノス先生と外出しているときに、
ある少年がかんしゃく玉を投げてケラー夫人を驚かせた。
彼女は即座に母親の動きの変化を感じ、「何がこわいの?」と尋ねた。

またあるとき彼女と広場を歩いているとき、私は警官が一人の男を警察署に
連れて行くのを見た。私の感じた動揺は明らかに気づかれるほどの身体の変化をうんだ、
なぜならヘレンは興奮して「何を見たの?」と尋ねた。

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yaseiji37.html

            <感謝合掌 平成27年7月27日 頓首再拝>

サリバン先生の教育(4) - 伝統

2015/08/04 (Tue) 04:43:56


      *『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』サリバン・著より

           ○

私はこのごろ、念入りに作りあげられた特殊な教育方法にすべて疑問を抱きはじめています。
私にはそれらの方法が、子どもは考えることを教えなければならない、
無知なる者だという仮定のうえにたてられているように思えるのです。

ところが、子どもは好きなようにさせておくと、たとえ目立たなくても、より多く、
より良く考えるものです。

やさしい声の先生が、積み木で石垣をこしらえたり、細い色紙で虹を作ったり、
ビーズの花瓶に藁の木を植えるように子どもに言ったりしながら家の中で
丸い小さな机に向かわせる代わりに、

子どもを自由に行ったり来たりさせたり、
実物にふれさせたり、自分で感じたことをまとめたりさせるべきです。

なぜなら、そのような先生の教え方だと、子どもは生き生きとした経験から自由な考えを
養う前に、除かなければならない不自然な連想で頭をいっぱいにしてしまうのです。

          ○

私は私の生徒を、自由で活発な人間とみなし、その生徒自身の内発的な衝動が
私のもっとも確かな導き手だと考えた。

私は目が見え耳が聞こえる子どもに話しかけるのと全く同じように、
いつもヘレンに話しかけた。

そして他の人も私と同じようにヘレンに対するようにと主張した。

彼女があれやこれやの単語を理解するだろうかときかれたとき、私はいつも答えた、
「文章の中の個々の単語を彼女が理解するかどうかを先にする必要はありません。
彼女はその新しい単語の意味を、これまでに知っている他の単語との関連から
推理するでしょう」。

          ○

最初私は、私の生徒をどんな方法にも縛りつけようとはしなかった。

私はいつも、何が彼女の興味を最もひくか見つけだし、
それが計画した授業に関係があろうとなかろうと、それを新しい授業の出発点にした。

彼女の知的生活の最初の2年間は、私はヘレンにあまり書かせないようにした。
書くためには、人は書くべきものをもたねばならず、書くべきものをもつには、
精神的な準備が必要である。

書くことが自然で愉快な仕事になるには、観念が記憶され、
知識によって心が豊かになっていなければならない。

子どもは、何か言いたいことをもつ前に書くことを強制されることが多すぎる、
と私は思う。自己抑制することなしに考え、読み、話すことを考えれば、
彼らは書かずにいられなくて書くようになるだろう。

ヘレンは、言語を、法則や定義の勉強よりも、実践と習慣から習得した。
わけのわからない多くの分類や、術語や品詞活用表を伴う文法は、
すべて彼女の教育では放棄された。

彼女は言語を生きた言語そのものとの接触から学んだ。
彼女は言語を毎日の会話や本の中で扱い、正確に使えるようになるまで、
さまざまにひっくりかえし、掘りかえすようにさせられた。

口で言えたであろうことよりもずっと多くのことを私は指で話した。
もし彼女の目が見え、耳が聞こえたとしたら、
娯楽や教訓を私に頼ることは少なかったであろう。

http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/yaseiji38.html

            <感謝合掌 平成27年8月4日 頓首再拝>

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