伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること② - 夕刻版

2015/06/18 (Thu) 20:10:48

スレッド「人の上に立つ者に求められること」 からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974

・・・

《自己演出の達人》

           *メルマガ「人の心に灯をともす」より

   (柴田励司氏の心に響く言葉より…)

   ソニーの盛田昭夫さんとずっと一緒に仕事をしていた人が
   「盛田さんの一番すごいところは、強烈な自制心を持っていることだった」
   という話をしていた。

   「ソニーという小さな町工場が世界的な企業になっていく過程で、
   盛田さんは日々、戦いの中にいた。それでも、相手が敵であれ味方であれ、
   いつどんなときでも盛田さんは笑顔を浮かべていた。

   不快なときであればあるほど、いい笑顔を見せた。
   それが『盛田スマイル』と呼ばれ、世界中に盛田ファンがたくさん増えて、
   盛田さんの夢の実現のための大きな力となった。

   あの笑顔は、すべて強い自制心による自己演出だったと思う」


   トップリーダーたちは、みんな激しい戦いの中で、日々、業を煮やしたり、
   感情を揺さぶられる場面に遭遇したりしている。

   しかし、その感情に左右されてしまっては、
   正しい決断もできないし、的確な施策も打ち出してはいけない。

   いちいち感情を表に出していては、社員もお客も付いてこなくなる。

   そこで、リーダーたちは自制心を働かせ、感情をコントロールする。

   つまり、盛田昭夫さんと同じように、自己演出をしている人が非常に多い。


   この場面では、どういう態度で、どういう表情をするのがベストか。
   それをイメージしたうえで振る舞う。
   そういう習性を身に付けているのだ。

   リーダー職に就くようになったころ、そういう自己演出をしたほうがいい
   ということは私も頭ではわかっていた。

   しかし、生来の瞬間湯沸かし器。
   すぐにキレてしまうような人間だったので、そうそう簡単に
   自制心を身に付けられるものでもなかった。


   自己演出のポイントは、人それぞれであるが、
   もっとも手っ取り早い方法は、だれか具体的な人物をイメージすることだ。

   尊敬する上司でもいいし、有名なビジネスマンでもいいし、
   映画やドラマの登場人物でもいい。

   「自分も、あんなふうになりたいな」と思う人をイメージして、
   そのモノマネをすることから始めるというわけだ。


   もう一つのポイントは、相手の顔をよく見ていることだ。
   相手の顔は私の鏡。
   
   相手がこわばった表情をしているときは、こちらもこわばっているもの。
   こちらがスマイルを浮かべれば、相手も笑顔になる。

   もちろん、言うまでもないことだが、
   自己演出はトップリーダーの専売特許ではない。

   組織人であれば、あらゆる立場の人たちにとって有効な方法だ。

   たとえば、上司に理不尽なことを言われて腹が立つようなときは
   「ここはダメな上司を受け止める寛大な部下で行こう」とイメージしてみる。


   後輩をたしなめたり、励ましたりしなければいけないときは
   「ここは佐藤浩市みたいにカッコいい先輩社員で行ってみよう」と
   イメージしてみる。

   もっとも、どのイメージのときも、やりすぎは禁物。

   臭くならないように、あざとくならないように、
   トレーニングを重ねていけば、かならずそれなりに名優になれるはずである。

     <『遊んでいても結果を出す人、真面目にやっても結果の出ない人 』成美堂出版>

                ・・・

中村天風師の師匠であるカリアッパ先生は、
病気療養中の天風師に対してこう語ったという。

「お前は、きょうはどうも頭が痛いとか、きょうは熱がありますとか言ってる
言葉の後に、たとえ言葉に出なくても心のなかで思うだろう。

あーあ愉快だと思わない。

実に不愉快で何ともいえないいやな気持ちだ、と。

まして、普段よりよくない状態が体に現れてくりゃ、
これがもとで死にゃしないかとか、もっと悪くなるじゃないかしらんというふうに、
現実よりもさらに上を越した神経を使いやしないか。

それがいけないんだ。」



病気にとき、「頭が痛い」「気分が悪い」と口に出して言えば
病気が少しでもよくなるなら別だが、言っても状況が変わらないなら、
それは周りのテンションを下げ、気分を暗くするだけ。

これは、病気だけでなく、ビジネスや対人関係にも言えること。

嫌なことや辛いことがあったとき、
愚痴や文句を言っても状況はよくはならないなら、言わないほうがいい。


感情のセルフコントロールができる人を「自己演出」ができる「自律した大人」という。

自己演出の最高のものは「笑顔」。


どんなときも笑顔をたやさない人でありたい。

・・・

<関連Web>
 光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること」
  → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46


            <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

決断と実行(3)~勝利から教訓を得る勇気 - 伝統

2015/06/19 (Fri) 18:01:31


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


織田信長を天下人へ押し上げた桶狭間の合戦直前、低地の中島砦に兵を集めた若きリーダーは、
目の前にせり上がる尾根続きの丘陵を見上げた。

およそ1キロ先に今川軍の前哨の兵がちらちらと動くのが見えた。
信長は判断した。そして兵卒に伝えた。


 「皆のもの、よく聞け。今川の兵は宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高城に兵糧を入れ、
 砦の攻略に手を焼き疲れ果てている。こちらは新手の兵だ。恐れることはない」


信長の判断は誤っていた。兵糧を運び入れた家康麾下の兵は砦攻めのあと大高城に戻っている。
目の前の敵は新手の兵だ。手ぐすねを引いて待ち構えていた。

しかも後方の敵の本陣には十倍の敵がいる。
さらに丘陵の下から上を少数の兵で攻めるのは孫子の兵法をひもとくまでもなく愚策だ。

しかし、この時点で信長は今川本隊に勝てるとまでは考えていない。
一撃して敵の前哨を崩せば、引けばいい。
信長ここにありを敵に知らしめれば目的は達すると慎重だった。

実際に、「敵がかかってきたら引け、敵が退いたら追え」と命じている。

指揮官の誤判に導かれて兵卒たちは、勢い込んで丘陵の麓に取り付いた。
敗戦必至であった。しかしここで異変が起きる。

車軸を流すような豪雨が降り始めた。
大木を押し倒すほどの暴風は信長の兵たちを押し上げるように背中から吹きつける。
顔面に雨つぶてを叩き付けられた今川兵はひるみ、どっと後ろに崩れる。

「かかれ、かかれ」。勝機と見た信長は判断を変え先頭に立ち本陣に向けて丘陵を駆けた。

「そこだ、義元の本陣じゃ」。朱塗りの輿(こし)が打ち捨てられ、
旗本の精鋭三百が義元を取り囲み引き始めたが、狭い地形では兵の多寡は関係ない。
勢いに任せて追う方が強い。しかも今川方にとっては、まさかの敵の出現だった。

義元は首を打ち取られ、今川軍は総崩れとなる。

信長も予期せぬほどの大勝利となった。

 
現代風にいうと、社の礎を築いた出来事。
社史に特記してもおかしくないリーダーの業績だったが、信長はのちのちまで、
側近たちが桶狭間の勝利について語るのを嫌ったという。

本来なら全軍を死地に追いやった致命的な誤判、そして暴風雨という運、偶然に救われた。
彼はこれを勝利の方程式には組み込まなかった。

「このような戦いを重ねてはならぬ」。
本能寺で果てるまで、信長は圧倒的な兵を整えて「勝てる」と確信がある戦いでなければ
戦端を開くことはなかった。

負け戦に教訓を得ることはたやすい。
だれもが奢る勝ち戦にこそ、「やってはならぬこと」を学ぶ。

それを勇気という。

            <感謝合掌 平成27年6月19日 頓首再拝>

徳川家康(常識人 律義者 忍耐力) - 伝統

2015/06/20 (Sat) 18:38:43


             *佐々木常夫のリーダー論より


私は高校3年のとき、山岡壮八の「徳川家康」を夢中になって読んだことがある。
たしかこの本は20巻以上もあり(原稿用紙17400枚という)世界最長の小説と
言われていたので、受験勉強をしなければならない私は時間を気にしながら、
それでもあまりの面白さにこれを1ヶ月ほどで読んでしまった。

戦国時代のリーダーと言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人が
代表的人物として取り上げられるが、先般、ある週刊誌の「日本の歴史上のリーダー・ランキング」
という著名人に聞いたアンケートを読んだが、家康がトップであった。

やはり天下を安定させ、250年の揺るぎのない幕藩体制を築いた実績から考え、
このアンケート結果はうなずける。

家康は目標を掲げ、努力と忍耐を重ねた英雄であるが、
そのリーダーとしての優れたところは3点である。

まず第一は、海道一の弓取りで、戦いでは極めて有能な第一線の指揮者であったこと、
第二は事に当たって、常識人で、律儀者で、忍耐力があったこと、
第三に抜群の統治能力の高さと経済的センスが豊かなことである。

家康は毛利元就に多くを学んだと言われているが、私から見れば、
厳島合戦で敵将陶晴賢が派遣したスパイを反対にだまし、陶氏を亡ぼした後、尼子を攻め、
75歳で世を去るまで266戦不敗の55年間を送った元就は、
その調略と持続力で家康をはるかにしのぐものがあったと考える。


しかし、家康の偉大な歴史的実績の重さには元就の器量は、影を薄くならざるを得ない。
家康の強みのまず第一の武力であるが、織田信長に敗れた今川義元から独立した後の行動を見ると、
家康の考え方の基本は「武」であったことがわかる。

戦国時代を生き残るにはさまざまな能力を必要とされるが、
まず第一に大事なことは戦に強いということである。

三河一向一揆における戦いぶり、武田信玄との三方ヶ原の戦いで見る家康は、
文字通りの「猛将」であり「闘将」であった。
家康は常に正々堂々の正攻法で臨み、その野戦指揮官としての実力は諸侯の認めるところであった。

だが武力、武勇だけでは優れたリーダーとは言えない。
世の中を治めるためにはそれなりの知恵というか、バランス感がいる。

信長の場合は、登用の基準は完全に能力主義であり、途中入社の明智光秀も、
足軽出の秀吉も出世させ、子飼いの柴田勝家などは極めて不満であったようだ。

家康の場合は、常識的というか、バランス感覚があり、
三河譜代も能力ある家臣もどちらも上手く使う。

四天王でいちばん石高の多い井伊直政などは途中入社であったし、
信玄の遺臣も有能な武将はスカウトした。

また、生前の家康の評価は「律儀者」であった。
織田信長との織徳同盟を、彼は律儀に守り通し、そのため正室の築山殿を殺し、
嫡男の信康を切腹させたことまである。

また、家康には秀吉を謀殺できるチャンスが幾度もあったが、決してそれはしなかった。
元就と違って常に正攻法、常に大義名分を大事にした。

秀吉に従い、北条氏を攻め滅ぼした小田原陣後、秀吉に関東移封を命じられた。
慣れ親しんだ三河を捨てるというこの命令に対し,臣下の者は反発したが、
家康はひとつの文句も言わずに、7月13日から8月9日までの間にすべての移封を敢行した。

この決断の速さと思い切りの良さには、さすがの秀吉も驚愕したという。
自分より強いものには従うということは、戦国時代の常識であったし、
その常識に家康は従ったまでである。

のちに、関ヶ原の戦い後、淀君やその周囲の家臣たちが、家康の様々な要求に反発し、
戦いに挑み自滅したが、家康からみれば「強いものに従う」という常識のない者たちと思え、
哀れみを感じたことだろう。


次に家康の優れた「統治能力」と「経済的センス」について触れたい。
統治能力の高さについて言うと、8歳から19歳まで今川家に人質になったが、
この時代は家康にとっては、生命が保障され、安全な生活のもとで、
じっくり勉強ができた時期でもある。


家康にとっての学問とは、実学であり、雪斎の教えを受け、さまざまな学問を修めていった。
吾妻鏡を愛読し、貞永式目、建武式目を基本に、今川仮名目録を加えた法治主義を学習していく。
藤原惺窩からは貞観政要の講義を受け、法律、政治、軍事、財政等、統治者の実学を学んでいく。

のちに制定した武家諸法度、禁中並公家諸法度、寺院法度などは、
この時代の家康の学習の成果であろう。

無法が横行した戦国時代から近世日本の社会のもとを作った実績には、
この時代の学習効果が大きく、信長、秀吉、家康の3人の中で、
家康ほど日本の法制史と中国的な政治学に関心を持ったものはいない。

家康はいわゆる教養主義的な学問にとらわれず、学ぶべきことと、
それを学び取りかつ活用する方法を探求していた。こうした面では天才と言える。

家康はある意味、日本で成功するタイプの典型ともいえる。
決して「おれが、おれが」とは出しゃばらない、ある程度事が成って、
征夷大将軍になれという人がいても受けない。

いつも現実的で実際問題から手を付ける。
世論や大義名分を、つまりコンセンサスを大事にしてそれをあわてず「待ち」でする。

それを桶狭間出陣19歳から、75歳で死ぬ前の年に大坂城を始末するまで
55年間続けたのだから、超人ともいえよう。


もうひとつ、家康の特長は、経済人としての能力が高いということである。
基本的に,華美嫌いで質素、いえばケチであったからよくお金がたまる。

北条氏を攻め滅ぼした小田原陣後、秀吉に関東移封を命じられた。
自分より強いものには従うという家康の哲学でもあったが、それよりも、
北条氏は、5代100年の善政を敷き、年貢は武田信玄の7公3民に対し、
4公6民であり、経済統一がなされ、永楽銭を関東の通貨としていた。

そうした肥沃な関八州の経済的価値を見抜いた家康の
「経済人としての目」の確かさは尋常ではない。


家康は伊奈忠次を総代官に任じ、河川の整備、街道・港湾の整備、農地の開拓に着手し、
予測通り富裕な土地を手に入れることができた。

家康は政策家にして、政略家である。
政略家とはあらゆる権謀術数を弄して権力獲得に走る最短コースを知っている。

政策家とは人民の潜在的願望を知り、
最も少ない犠牲でそれを達成する手段を知っているものである。

天下の人々が、潜在的に何を望んでいるかをよく知り、
それを政策の上で実現する手段を知っていた。

人々は戦いはもうたくさん、平和な政治的体制の下で生存する権利を保障してほしい
と考えていたが、そうした社会を築き上げる達人であった。

譜代・外様の配置、尾張・紀伊・水戸御三家の創設、参勤交代、
貨幣経済の導入など安定社会の礎を築いていった。

家康は野盗の横行していた戦国時代を、女の一人旅ができ、
芭蕉が丸腰で旅行できる法治社会を作ることができた。


家康を総括すると、情に溺れず、自己規制を貫き、
信長、秀吉のような理屈にならない行為はせず、
至難なことを忍耐強く生涯継続した。

身体が大事と健康法に心がけるとともに、
「統治には強い権力が必要、政権維持には善政が不可欠」ということを
徹底した類稀なるリーダーであった。

            <感謝合掌 平成27年6月20日 頓首再拝>

指導者の条件20(原因は自分に) - 伝統

2015/06/21 (Sun) 19:22:52


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は失敗の原因はすべて我にありと考えるべきである。

明暦の大火で江戸城や江戸市中が大きな損害を受けた時のこと、
役人の中には、非常な働きをした者もあるが、いたずらに右往左往して
なすすべを知らずといった姿の者が多かった。

そこで、今後のためにいちいち詮議して処置すべきだという首脳者もあった。

その時に、大老保科正之は、

「今後のためというのはまことにもっともだが、考えてみるとそれでは教えずして
罪をつくるということになってしまう。今度の火災は家康公のご入国以来70年間に
かつてなかった大きなものであり、こういう大火の時はどうせよということが決まって
いなかったので、みな混乱したのだ。だから、本当に今後のためを考えれば、
この経験を生かして、大火の時にはそれぞれどうすべきかを定めておくことが肝心だ」

といって、詮議は取りやめになったという。

何か失敗したり、問題が起こったりすると、誰でもその原因をとかく外に求めがちである。
誰が悪い、彼が悪い、あるいは社会が悪い、運が悪いといった具合である。

しかし、実際は、ほとんどの場合失敗の原因は自分にあると思う。

事前に十分な計画を立て、行う課程でも慎重な配慮を怠らなければ、
たいていのことはうまくいくものである。

まして指導者ともなれば、ほとんど100%その責任を自分に帰さなくてはいけないと思う。

かりに部下に失敗があったとしても、その部下がはたしてその任にふさわしかったかどうか、
またそれをさせるについて、十分な指導なり教育をしたかどうか、
そういうことを指導者としてまず反省してみることが大事だと思う。

保科正之はまさにそれをいっているのである。

火事にあってなすすべを知らなかった部下の役人達を責める前に、
まずそういう大火にあたっての指針をつくらなかった指導者としての自分達の責任を感じ、
だから当然のこととして役人達を不問に付したのである。

会津藩主として、また大老として名声をほしいままにした人だけのことはある。

用意周到な準備をし、あらゆる配慮をし、慎重にことを進めていけば、
余程の不測の事態がない限り、まず失敗ということのあり得ないのが本当である。

指導者はそのことをはっきり知らなくてはならない。

そして、もし部下に失敗があれば、部下を責める前に
まず責任は我にありという意識を持つことが必要だと思う。

            <感謝合掌 平成27年6月21日 頓首再拝>

【一人で決めるということ】 - 伝統

2015/06/22 (Mon) 17:57:46


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年9月6日)」より

   (曽野綾子氏の心に響く言葉より…)

   どんなに年が若くとも、何かしようと思ったら、一人でできなくてはいけない。

   女の子などは映画に行くにも、トイレに行くにも、誰かと連れ立って行くが、
   その癖は一刻も早くやめて、一人で、あらゆる不安や危険をおしのけて、
   やれる癖をつけるべきである。

   考えてみると、世の中の重大なことは、総(すべ)て一人でしなければならないのである。
   生まれること、死ぬこと、就職、結婚。

   親や先輩に相談することもいい。
   しかし、どの親も、どの先輩も、決定的なことは何一つ言えない筈である。
   すべてのことは、自分で決定し、その結果はよかろうと悪かろうと、
   一人で胸を張って引き受ける他はない。

   本当に学ぶのは、一人である。

   良き師に会い、大きな感化を受けることはよくあるが、
   それも自らが学ぶ気持ちがない限り、どうにもならない。

   女が男と同等に働いて真の男女同権を完成しようと思うなら
   「一緒に行きましょうよ」とか「あなたがなさるなら、私もするわ」とか
   「お揃いでやりましょうよ」などという発想を排除することである。

   誰かと一緒でなければ、というのは、つまり幼児性のあらわれであり、
   それはとうてい一人で、世の中で仕事をしていける、という条件とは考えられない。

   つまり成功したくなかったらすぐ、人を頼りにすればいいのである。

            <『辛口・幸福論』新講社>

              ・・・

旅に出たり、食事するときは、一人より誰か気の合った人とするほうが楽しさも数倍増す。

しかし、こと人生の岐路となるような大事な選択をするときには、
たとえ誰かに相談したとしても、最後の決断は自分がしなければならない。

誰のものでもない自分の人生だからだ。

これは、最終決断をしなければならないリーダーになってみればすぐにわかる。
しかし、会社の経営者や組織の長だけがリーダーではない。

自分の人生においては自分がリーダーだ。

自律(自立)していない人が、リーダーになることくらい悲劇的なことはない。
自律(自立)の対極にあるのが幼児性。

生まれてきたのも一人なら、死んでゆくときも一人。
自律(自立)した大人でありたい。

            <感謝合掌 平成27年6月22日 頓首再拝>

決断と実行(4)(5) 「夢の超特急」を走らせた執念 - 伝統

2015/06/23 (Tue) 20:14:08


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


分刻みで「のぞみ」が発着する東京駅新幹線18・19番ホームの品川寄り先端に
一人の男のレリーフがひっそりとあるのを知るものはまずいないだろう。

この男の執念ともいえる信念がなければ、東海道新幹線は実現しなかった。
男の名は十河信二(そごう・しんじ)。第四代国鉄総裁だ。

十河が71歳で国鉄総裁に就任したのは、昭和30年。
洞爺丸事故、紫雲丸事故と大型事故が相次ぎ、国鉄は批判の矢面に立たされていた。
さらに、赤字が膨らみ続ける中で総裁の引き受け手などいなかった。

十河も老齢と病気を理由に固辞したが、同郷愛媛出身で保守政界の大立者の
三木武吉に恫喝まがいの説得を受け総裁職を引き受けた。

戦前の鉄道院官僚だったとはいえ、鉄道疑獄に巻き込まれて組織を去った身。
「線路を枕に討ち死にの覚悟」と就任会見で決意を語ったが、
新聞は「鉄道博物館から引っ張り出された古機関車」と書き、
実力者総裁が決まるまでのつなぎと、だれもが考えた。

しかし、十河には、引き受けたからにはこれだけは、という拘わりがあった。
東海道新幹線、いわゆる「夢の超特急」構想の実現だ。

戦後復興は軌道に乗り始め、
大量の人と貨物の輸送を担う東海道線は過密ダイヤでパンク寸前だった。

 「東京―大阪間に広軌の新幹線を必ず走らせて見せる」

しかし、国鉄幹部たちも、
「爺さんのたわごとだ。十河はすぐにいなくなる。適当にあしらっておけ」と協力の姿勢はない。

官民を問わず“役人根性”とはそうしたものだ。
保身優先。リスクを抱える度量はない。
民間でも社内にはびこる“役人”をどう動かすかがリーダーに問われる。

老体に鞭打って十河の政治家回りが始まった。
政治家にとって鉄道は利権の具。
明治以来、地元路線新設の予算分捕りが常態化していた。

新幹線に予算を取られれば、「おらホの線路ができない」と
抵抗する政治家たちに夜討ち、朝駆けが続く。

 「国家百年の大計」を説く鬼の形相を前に、一人また一人と賛同者が増えていく。

ようやく国会で総工費1972億円の新幹線予算が国会を通ったのが昭和34年3月。
しかし十河の指示で実際の総事業費を6割に圧縮したごまかし予算で、
いずれ資金不足が露呈するのは目に見えている。

ここで時の大蔵大臣・佐藤栄作が国鉄に知恵を出す。

 「内閣が変われば建設方針が揺らぐかもしれない。世界銀行に借り入れを申し込め」

戦後復興のための国際金融機関として設けられた世銀からの融資には、
政府の事業完成の保証が必要となる。

 「外から縛りをかけておくことが必要だ」。

佐藤の入れ知恵に、十河は世銀詣でを開始した。


広軌線路による新幹線建設に燃える第四代国鉄総裁の十河信二(そごう・しんじ)。

 
予算獲得に向けて政治家詣で、そして世界銀行の融資実現に向けて奔走する一方で
肝心の技術面でも布石を打っていた。

総裁就任直後、「輸送力増強は在来の東海道線の増強で足りる」と
新幹線構想に否定的な技師長を更迭する。

技師長といえば、国鉄の技術陣を率いるトップだ。
その協力なしには新幹線は走らない。

 「親父さんの弔い合戦をやらんか」。

十河が技師長の後任として口説いたのは、島秀雄だった。

戦前からSLの設計士としてD51など数々の名機を生み出した島は、
戦後、電化時代の到来に、湘南型電車を設計した。

同じ電化でも機関車が客車を引く列車より、各車両に備えられたモーターで走る
分散動力方式の電車の時代がやって来る。その先に島は広軌の新幹線を見据えていた。

しかし、昭和26年に198人の死傷者を出した桜木町電車火災事故の責任をとり国鉄を去った。

国鉄の官僚主義と無責任体制に嫌気がさし、民間会社の取締役に職を得た島は、
十河の再三の復帰要請にためらいを見せた。

 その島を突き動かしたのは、「親父さんの弔い合戦」のひと言だった。

これには少々説明がいる。

明治維新後、全国に鉄路を敷設しはじめた日本は、
技術指導を仰いだ英国のアドバイスで「狭軌」(※編集注1)を採用した。
しかし、明治初期から「広軌改設」の議論が絶えなかった。

それが、「広軌化よりも、うちの選挙区に鉄道を敷くのが先」という
政治家たちの“我田引鉄”の動きに翻弄され、何度も浮上しては挫折してきた。

十河を戦前の鉄道院に引き込んだ都市計画の第一人者・後藤新平がリードして来た
広軌改設は、大正7年、鉄道院が政治圧力に屈し、「日本ノ鉄道ハ狭軌ニテ可ナリ」
と決議するに至って、ついに葬り去られる。

この時、鉄道院技監として広軌派の技術トップだった島の父、島安次郎は鉄道院を去った。

 「やりましょう」。

島秀雄が父の、そして後藤新平の無念を想い、国鉄副総裁格の技師長に就任する。
十河は「私には技術のことはわからない」と公言し、技術面は全面的に島に託す。

十河と島、二頭立ての馬車を得て新幹線構想は驀進を始める。

常識を覆すプロジェクトを動かすには、広く時代の先を見通す力と、
信念に基づく政治力とともに技術的裏付けが不可欠だ。
そして事の成否は、人をいかに得るかにかかっている。

万難を排してそれを牽引するのが真のリーダーシップなのだ。 

            <感謝合掌 平成27年6月23日 頓首再拝>

決断と実行(6) 「夢の超特急」を走らせた執念<技術開発マネジメント> - 伝統

2015/06/24 (Wed) 17:59:36


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

東海道新幹線実現のため国鉄総裁・十河信二(そごう・しんじ)から懇願されて
技師長に就いた島秀雄の頭の中には、明確な新幹線像があった。

踏切のない独立した広軌の上を低重心で軽量の電車列車方式の車両を走らせる。
送電方式は在来線の直流を排して効率のいい高圧交流とする。

車体には空気バネ、最高走行時速は210キロ、集中制御、自動列車停止装置システムの採用…。

島は戦前、技術者として蒸気機関車(SL)の設計を手がけD51などの名機を生み出し、
戦後は湘南型電車の開発に取り組んだ。

しかし今回は、国鉄技術陣を総指揮する。現場から一歩引いて全体を見渡す立場だ。
現場で培った知識を駆使して各部署を指導し、夢の実現に向かう。

システムコーディネートという。
この総合プロデュース、技術マネジメント能力こそ、
叩き上げの技術者でトップに登りつめた人間に求められる能力だ。

しかし、優秀な技術者であればあるほど専門にこだわり、
全体を俯瞰して見渡すのはなかなかに困難なことだ。

島はその卓越したマネジメント能力を発揮し、
個々の技術開発の足並みをそろえつつ、短時間でひとつずつクリアしていった。

「東海道新幹線は、それぞれに蓄積されていた既存の技術を活かして、
現場のみなさんの創意工夫によって出来上がったものだ。
私は技師長として、単にそれを取りまとめたにすぎない」。島の回想である。

その取りまとめこそ、マネジメントだ。

電車列車方式は戦後、湘南電車の設計で経験している。
さらに島は就任後、新幹線を睨んで電車列車の運転距離を伸ばすため、
在来線の東海道線で東京―大阪間を走る電気機関車列車「つばめ」に替わる
新型電車特急の開発に取り組み、昭和33年11月、ビジネス特急「こだま」号による
東京―大阪間6時間50分運行を実現した。

この「こだま」を使って、昭和34年7月には、時速163キロの試験最高時速を打ち立てる。
すべては新幹線を見据えた技術蓄積を目指したものだった。

一方で、島は、昭和33年から本格化した新幹線車両設計でも、
当時、近郊電車列車の高速化に取り組んでいた小田急の軽量車両、低重心化や、
名鉄の空気バネなど、私鉄の新技術を大胆に取り入れて開発を急いだ。

部品を製造する関連会社への技術指導にも全力を傾けた。

国鉄内にはびこる「官僚主義」を排除しての開発。

それが可能だったのは、島自身が一度は組織の“お役所仕事”に絶望し
国鉄を去った経験があったればこそだった。

            <感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>

決断と実行(7)「夢の超特急」を走らせた執念<差し出された首> - 伝統

2015/06/25 (Thu) 17:59:58


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

膨大な金がかかる新幹線構想の実現までには、予算不足問題がつきまとった。

執念を燃やす第四代国鉄総裁の十河信二(そごう・しんじ)が構想実現の切り札として賭けた
世界銀行の融資は、昭和36年に決定した。
融資額は8,000万ドルにとどまり、国鉄の要求の2億ドルには及ばなかった。

しかし世銀が求める「国による計画実現の保証」という外圧は、
昭和39年秋の東京五輪までに完成させるという国の威信をかけた
「期限切り」とともに工事を押し進める原動力となった。

着工から開業までわずか5年の突貫プロジェクトは、
技術開発、用地買収、土木工事ともに順調に進んで行くかに見えたのだが…。

十河は、国会で予算を通すため、3000億円と見込まれた総工費を
6割の1900億円に圧縮してごまかしたことは先に触れた。
これが十河の足下をすくうことになる。

政治家から相次ぐ地元の地方新線建設の陳情を蹴り、
在来線の予算を可能な限り新幹線工事に振り向けてしのいだ。
しかし、工事が終盤にさしかかるにつれて、ついに予算不足が露呈することとなった。

事業推進のための政治的方便は、一見して賢智に見えたとしても、結局は愚策である。
ごまかしはいつか身にはね返る。十河がそれを知らぬわけがない。

ではなぜ。

解き明かすべき謎がある。

さらに十河は国鉄の官僚主義的体質を壊すために、
民間から国鉄監査委員に招いた石田禮助(いしだ・れいすけ)とともに
大胆な人事政策を推進する。

旧帝大系以外からも新卒者を幹部候補として採用し、
ノンキャリア組も実力主義で幹部に登用した。

これが組織内のエリート“官僚”たちの反発を招いていた。
敵は政治家のみならず身内にも増殖し、内外から「十河下ろし」の声が高まってくる。

十河がそんな苦境に陥っていた昭和37年5月3日夜、常磐線で三河島事故が起きる。
脱線、転覆した貨物列車に上下線の満員電車が相次いで突っ込み、485人の死傷者を出した。

「在来線の安全性が新幹線工事の犠牲になった」と、世論は一斉に反発を強める。

翌年、約900億円の工事予算が上積みされたが、
それでも800億円の予算が不足していることが明るみに出て万事窮す。

十河は昭和38年5月、志半ばで国鉄を去る。
技師長として支えた島秀雄もまた、「こう百鬼夜行の状態では、とてもお役には立てぬ」
と言い残して国鉄を辞した。

東海道新幹線の開業は1年半後に迫っていた。 

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年6月25日 頓首再拝>

決断と実行(8)「夢の超特急」を走らせた執念<有法子=不屈の精神> - 伝統

2015/06/26 (Fri) 19:15:51


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


新幹線建設に邁進した十河信二(そごう・しんじ)と島秀雄(しま・ひでお)が
国鉄を去った昭和38年5月の段階で、前年に始まった一部区間での試運転も
軌道に乗り、計画は9分9厘完成の域に達していた。

残る問題は、いかに不足予算を確保し、全線軌道敷設を終えるかにあった。

十河は戦前、鉄道院に奉職して以来20年間を会計畑で過ごした。
小手先の「圧縮予算」のウソで乗り切れないことは知っていた。

とすると、「まやかしの予算」で強引に予算を通し、
計画が引き返せなくなった時点で予算不足を暴露し、
自らの首と引き換えに予算を確保し完成させる。

当初からの大胆な計画だったとしか思えない。

十河は、鉄道事業の師・後藤新平が戦前に取り組んだ鉄道広軌改良計画について、
「後藤(鉄道院)総裁は真先にとりあげてやろうとしたのですが、
軍や政党の反撃を受けて挫折しました」と書き残している。

戦後の十河にとっての抵抗勢力は、政治家と組織内外にうごめく官僚たちだった。

その抵抗を排除して新幹線構想の実現を最優先に、
身を捨てる覚悟でついた「大ウソ」だったのではあるまいか。

いかなる組織にも、「我田引鉄」的発想で動く“政治家”と、
「事なかれ・前例主義」の“官僚”はいる。

その中で事を進めるには覚悟と知恵がいる。

政治家は大風呂敷的ロマンに弱い。
官僚たちは、自ら責任を取らずにすめば抵抗せずについてくる。
そのことを巧みに利用した。

戦前を満鉄で過ごしたことのある十河は
「有法子(ユーファーズ)」という中国語を座右の銘としていた。

 「まだ方法がある、もっと努力を」という不屈の精神を意味する。

昭和39年10月1日。新幹線一番列車の出発式に、十河と島は招かれなかった。

テープカットしたのは、有能な商社マンとして知られ、
十河の後任総裁についた石田禮助(いしだ・れいすけ)。

その石田でさえ、十河から引き継いだ新幹線を「道楽息子」と呼び、
開業後の採算性と安全性に懸念を隠さなかった。

しかし今秋に開業50周年を迎える東海道新幹線はドル箱路線として走り続け、
ただの一度も人命にかかわる運行事故を起こさず、
世界の高速鉄道の模範として注目を集めている。

 
今日も東京駅新幹線18,19番線ホームの端で、
発車、到着する新幹線を見守る十河のレリーフには次の六文字が刻まれている。


 「一花開天下春」(いっかひらいて てんかのはる)。

 
その業績には似合わないほど、だれも気づかぬ控えめな碑である。

しかし、新幹線が戦後日本に明るい春をもたらしたことを、知らないものはいない。


            <感謝合掌 平成27年6月26日 頓首再拝>

ヴィクトール・E・フランクル(生き抜こうという勇気) - 伝統

2015/06/27 (Sat) 21:12:56


             *佐々木常夫のリーダー論より

私はかって、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」
(原題は「心理学者、強制収容所を体験する」)を読んで、
自分の人生観を根本的に修正した記憶がある。

この本は、優秀な心理学者であったフランクルが、ユダヤ人であるというだけで、
妻子、両親ともアウシュビッツへ送られ、最後はダッハウの強制収容所に移送、
そこで終戦、家族すべてを失うものの、奇跡的生還を迎える。

その間に起こったこと、考えたことをまとめたものである。

冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに、過酷な環境の中、
囚人たちが、何に絶望したか、何に希望を見出したかを克明に記した。

「夜と霧」は戦後間もなく出版され、英語版だけでも、900万部におよび、
アメリカでは「私の人生に最も影響を与えた本」のベスト100入りした
唯一の精神医学関係の書となっている。

この本が、時代を超えて多くの人たちに読まれるのは、
単なる強制収容所の告発ではなく、人間とはいかなるものかという分析力の深さと、
それを踏まえて、人生とは何か、人はいかに生きるべきかを問う内容だからである。

人生を生きる意味を自分の体験をもとに明確に世に発信した。


私は「リーダーとはその人の存在が周りの人たちに勇気と希望を与える人」と考えているが、
フランクルのこの本を読むだけで、ほとんどの読者が勇気をもらえるという意味では、
彼は優れたリーダーと言える。

彼の収容所での過酷な体験を知って驚くのは、人はなんでも可能だということだ。
自分の身体以外はすべて取り上げられ、ギュウギュウ詰めのベットで寝かされても、
すぐに眠れる、一日に300グラムのパンと1リットルの水のようなスープでも生きていける、
半年に1枚のシャツでもなんとかなる。

収容所の看守は、感情に任せ、囚人をただ意味もなく殴りつけるが、
殴られることにも何も感じなくなるし、目の前で人が死んでいくことにも無関心になる。

まさに「人間は慣れる存在」(ドストエフスキー)なのだ。

収容所ではさまざまな選抜がされた。ガス室に送られるか、
別な収容所に移されるかはちょっとした偶然で決まった。

先が見えない中、収容所ではクリスマスに解放されるとのうわさが広まり、
それが裏切られると、急に力尽きて死ぬ人が多かったという。

それは過酷な環境の中で、心の支え、つまり生きる目的を持つことが、
生き残る唯一の道であるということだろう。

どんな時でも人生には意味があるとフランクルは言う。

「人は何のために生きるのか」というのは、こちらから問うことができるものではない。

「人生から問われていることに全力で応えていくこと」つまり
「自分の人生に与えられている使命をまっとうすること」なのだ。

その人を必要とする「何か」がある。
その人を必要とする「誰か」がいる。
その「何か」や「誰か」のためにできることは何か。
それを全力で応えていく。

そうすることで自分の人生に与えられた使命をまっとうする。
私たちの元にいつの間にか送り届けられている「意味と使命」を発見し実現していく。

私がフランクルのいくつかの本を読んで、自分の人生観を根本的に修正したと言ったのは、
ひとつは、私が障害の家族や仕事のことで苦労したことなどは、
フランクルの経験したことに比べれば、取るに足らないことだということもあるが、

もう一つは「人は自分に与えられた人生で全力でその使命を果たすことが生きていく意味なのだ」、
私の言葉でいえば「運命は引き受けるもの」ということを気付かせてくれたからである。


次に「どんなときにも生きる希望を持つ」というフランクルの基本的な生き方に触れたい。

フランクルがいたユダヤ人の収容所は、過重労働と飢餓の連続する悲惨な毎日であった。
あるとき、飢えかけた人がじゃがいも倉庫に忍び込み、数キロのジャガイモを盗んだ。

その収容所のきまりでは絞首刑である。
当局は被収容者たちに対し、侵入者の引き渡しを要求し、
拒めば全員一日の絶食を課すと伝えた。

2500名の仲間は、誰が盗んだかは知っていたが、
その人を絞首台にゆだねるより断食を選んだ。
食事が出なかったその日の夕方、収容所全体がすさんだ雰囲気になっていた。

その時居住棟の班長が「ここ数日間、病死したり、自殺したりした仲間を見ていると、
死因はさまざまでも本当の原因は自己放棄である。
どうしたら精神的な崩壊を防げるか、解説してほしい」とフランクルに頼んだ。

フランクルは立ち上がって次のような話をした。

我々の置かれている状況は、お先真っ暗で生き延びる蓋然性は極めて低い。
しかし私個人としては、希望を捨て投げやりになる気は全くない。

なぜなら、未来のことは誰にもわからないし、
次の瞬間に自分に何が起こるかもわからないからだ。

たとえ、明日にも劇的な戦況の展開が起こることは期待できないとしても、
収容所の経験から、少なくとも個人レベルでは、大きなチャンスは
前触れなくやってくることを私たちはよく知っている。

ありがたいことに未来は未定だ。

人間が生きることには常にどんな状況でも意味がある。

今このとき、私たちは、誰かのまなざしに見下ろされている。
誰かとは友かも、妻かも、神かもしれない。
その見下ろしている誰かを失望させないでほしい。
私たちは一人残らず、意味もなく苦しみ死ぬことを欲しないと。

フランクルが話し終わったとき、仲間たちの間に大きな感動が広がり、
仲間の一人が立ち上がり、涙を流してお礼の言葉を発した。

フランクルの話は仲間たち全員に、生き抜こうという勇気と希望を与えたのだ。
この悲惨な状況の中でも、フランクルはいつの日かここで起こったことを本に著したり、
講演で話そうという強い決意と目標を持っていた。

事実彼は解放の後、この本をわずか9日間で書き上げている。

このような理不尽な悲劇を風化させまい、
経験者としての使命を果たしたいという大きな目標があったから、
日々の苦難に耐え、奇跡的な生還に繋がったのだ。

いつかここを出て、結婚して9か月で別れざるを得なかった
愛する妻と会いたいという強い希望も彼の生きようとする力を補強した。
心の中で愛する人の面影に思いを凝らせば生きていく力が湧いてくる。

愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだということを感じていた。

ニーチェは
「何故生きるかを知っているものは、どのように生きるかということにも耐える」と言った。

何故生きるかは、前回書いた通り、
「与えられた運命を引き受け、自分の使命をまっとうするため」である。

その時、運命を引き受け努力するに値するような目標や夢を持つことが、
苦しみを乗り越える力となる。

日本では、1年間に3万人以上の人が自殺する。
私の妻のように自殺未遂したという人はおそらくその10倍いる。
苦しいことが起こり「死のうかな」と思った人はそのまた10倍いるだろう。

苦悩は誰にでも必ず訪れるが、苦悩は人間の「能力」のひとつでもある。
しかし、苦悩を乗り越えたとき、そこに光がある。
フランクルは身を持って私たちにそれを教えてくれた。

            <感謝合掌 平成27年6月27日 頓首再拝>

指導者の条件21(謙虚である) - 伝統

2015/06/28 (Sun) 18:13:42


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は地位が高くなればなるほど謙虚でありたい。

前田利家のところへ、ある時福島正則から鯉を2匹贈ってきた。
そこで利家が家来に礼状を書かせたところ、その家来は利家の方がはるかに先輩でもあり、
身分も上であるところから、ごく簡単な形式的な手紙をしたためた。

それを見た利家は、

「公式の文書であれば、決まった書式もあるだろうが、
このような手紙はできるだけ先方を敬い、”お心にかけていただきかたじけない”
というように丁重に書くものだ。

特に、目下の人への手紙は、丁重に書けば書くほど先方は嬉しく思うものだ。
目下だからといって見下した書き方をすれば、いかにも自分とお前とは
これだけ位が違うといわんばかりで、そんなことは小身の愚か者のすることだ」

といって、書き直させたという。

前田利家といえば、信長、秀吉につかえた歴戦の勇将でもあるが、
その篤実な人柄で人々の信望も厚く、この人が生きていたら
家康もたやすくは天下をとれなかっただろうとさえいわれている。

そのように利家が人望を集めたのは、ここに見られるように、
非常な高い地位に昇りながら、それにおごることなく、
きわめて謙虚に人に接したことが大きな原因をなしていると思う。

地位が高くなればなるほど、周囲の人は、その人自身よりも
その地位に対して敬意を表するようになる。

それになれると、人間はともすれば傲慢になり、態度も横柄になってくる。
そうなっては、人々は表面的には敬意を払っていても、だんだん心の中では
その人に対する尊敬の念を失い、心服しなくなってしまう。

それでは、もはや指導者として、
人々を動かし力強い活動をしていくことはできないだろう。
だから、いくら地位が上がっても、謙虚さを失ってはいけないと思う。

というより、むしろ地位が上がれば上がるほど、
ますます謙虚にへりくだるという面が必要ではないかと思う。

そうすれば、「あの人はああいう高い地位にありながら、少しも尊大なところがない。
極めて丁重だ。偉い人だ」ということで、人々も心から敬服するようになるだろう。

またそういう態度でいれば、おのずと人の意見にも耳を傾けるようにもなって、
衆知が集まってくるということにもなると思う。

昔から”実るほど頭を垂るる稲穂かな”という言葉があるが、
まことに指導者のあり方をいいえて妙なものがあると思うのである。

            <感謝合掌 平成27年6月28日 頓首再拝>

人をやる気にさせるリーダーは多くの人を動かせる。 - 伝統

2015/06/29 (Mon) 19:35:46


        *メルマガ「人の心に灯をともす( 2013年5月21日)」より

   (城野宏氏の心に響く言葉より…)

   近頃日本では、さかんに「実力主義」の主張がなされているようです。
   「実力主義」というなら、学歴があったり、資格試験にパスしていたり、
   年功序列で古参であったとしても、「実力」があれば
   出世させて一向に差し支えがないということになる。

   ところが、ジャーナリズムに現れる「実力主義」は、
   殆どが、学歴、資格試験、年功等のあるものは出世させてはいけない、
   それのないものを出世させろという主張だという印象をもたせてしまう。

   学歴、キャリア、年功等をもっているものは
   みんな「実力」がないのだとうことにされてしまう。

   実力のないものを抜擢するのだということを方針にしている
   会社、官庁、学校など一つも存在しないといってよかろう。

   年功だけで実力は一切考慮しないという方針をとっているところは
   殆ど存在しないのだから、日本社会は「年功序列か、実力主義か」といった
   問題提起はなんの役にもたたないのである。

   実際を外れた言葉の遊戯にすぎない。

   問題は、実力、実力といっているが、何が実力の標準とされているかという点にある。
   少し極端な言い方をすれば、実力主義を主張する当人は「実力」があるけれど
   自分が自分を評価している実力相当には他人が評価してくれず、

   自分が希望するような出世がさせてもらえないことへの不平を
   「年功序列を排し、実力主義を」といった錦の御旗に置きかえて
   表現しているものが多いようだ。

   具体的には、自分の優点だけ挙げて欠点には目をつぶり、
   他人、特に上の地位についた者の欠点を取り出して優点は伏せる
   といった手法が多いようだ。

   この際の「実力」とは、つまり主張者当人の「優点」ということにしかならぬ。

   日本リクルートセンターの調査によると、
   一般企業で「高く買っている能力」は「社交性、協調性」であり、
   「低い評価」は「専門性、基礎学力、一般能力」だそうである。

   企業、特に大企業で買われているのは、親切で、よく人の面倒を見、人を育て、
   他の企業や機関とよく協力強調のできる人物である。

   人間動員の実力といってもよかろう。

   大企業のヘッドになっている人は、大体においてこういう人物である。
   この「実力」をもたぬ人物は、どんなに頭が切れる、知識が豊富、
   やり手といった評価があっても、大組織の長にはなれない。

   日本という組織性社会では、専門知識を振り回したり、
   個人の能力をいくら売り込んでも、その人だけで
   うまくやりとげられるという仕事はないのである。

   また、世界一に教育の普及した日本社会では、何等かの知識を振り回すだけでは、
   他人を動員し組織的活動をうまく完遂することはできない。

   欧米的実力主義の社会では、部下を育てて力をつけてやれば
   自分が追い出されることになるから、自己の職業のノウハウは秘密にして
   他人に伝えず、それを自分だけがもっているということを売りものにする。

   日本では、そのノウハウをできるだけ部下に伝え、
   すべての人が活用できるようにしてやり、
   その綜合活動力で成果をあげるようにもっていく。

   だから部下育成能力がなければ、日本では立派な仕事をすることができないし、
   「実力ある」指揮官とは認められない。

        <『日本的常識の診断学』日新報道>

              ・・・

組織の大小に関わらず、「人間動員力」はリーダーにとっても最も必要とされる資質だ。
リーダーは人を動かすことによってしか、目的を完遂することができない。
人数が多ければ多いほど、自分一人が頑張ってもたかがしれているからだ。

D・カーネギーは、「人を動かす秘訣は、この世に、ただ一つしかない。
すなわち、みずから動きたくなる気持を起こさせること…これが秘訣だ」と言っている。

「ロバを水辺まで連れていくことはできるが、ロバに水を飲ませることはできない」
ということわざのごとく。
のどが渇いていなければ、無理矢理水を飲ませることはできない。

人をやる気にさせるリーダーは多くの人を動かせる。

            <感謝合掌 平成27年6月29日 頓首再拝>

決断と実行(9)(10)(11)日本海海戦 - 伝統

2015/06/30 (Tue) 17:38:54


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


《(9)日本海海戦<迷わず敵を待つ>》

日露戦争(1904―1905年)の勝利を決定づけたのは、
東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)司令長官の率いる連合艦隊が
ロシア・バルチック 艦隊を打ちのめした日本海海戦だった。

東郷は戦勝後、「天佑と神助」を強調したが、
勝利は神がかり的な偶然ではなく、冷静な判断による必然であった。

旅順港を奪われ、奉天会戦に敗れたロシアは、起死回生を賭けて
バルト海を拠点とするバルチック艦隊を沿海州のウラジオストクに回航し、
日本海の制海権確保を目指した。

そうなれば、弾薬が尽き、補給線が伸びきった日本陸軍は
背後のシーレーンを奪われて孤立する危機にあった。

東郷は戦艦「三笠」を旗艦とする連合艦隊を対馬海峡に臨む
朝鮮半島の鎮海(ちんかい)湾を拠点に集中配置して待ち受けた。

 「敵は必ずここを通る」

そう信じて待つ東郷だったが、決戦が迫った1905年5月、連合艦隊内に動揺が走る。

アフリカ南端の喜望峰回りで地球を半周してウラジオストクに向かうロシア艦隊が、
5月14日に仏領インドシナのバン・フォン湾を発ったあと、姿を消したのだ。

航海速度を考えると5月20日すぎには対馬海峡に姿を見せるはずが現れない。

「おかしい。バルチック艦隊は太平洋を迂回して
津軽海峡を抜けるルートを選んだのではないか」という疑心暗鬼が
連合艦隊の参謀たちの頭にもたげはじめた。

津軽海峡に敵が姿を現してから駆けつけたのでは取り逃がす。
津軽海峡で待っても、敵艦隊が対馬海峡を通過すれば捕捉しきれない。

東郷腹心の首席参謀、秋山真之(あきやま・さねゆき)も、
悩み抜いて艦隊の北進を献策するに至る。

5月25日。「三笠」艦上で開かれた軍議では「北進」策が大勢を占めた。

この時点で、東郷が決断をすれば津軽海峡に向かう手はずが、
すでに「密封命令」として各戦隊に発出されていた。

議論を聞いた東郷は自らの意見を示さず、長官室に籠った。
敵が姿を見せないのは不審だが、さりとて太平洋に回った情報もない。

疑心がもたげると、新たな情報もないまま方針を変更しがちなのが人間。
それが思い切った決断だと酔ったように思いこんでしまう。

遅れて「三笠」に到着した第二戦隊司令官の島村速雄(しまむら・はやお)少将は
長官室に乗り込んで具申する。

「いましばらく情報が入るまで留まったほうがよろしいかと」。

「もう一日待とう」と東郷。この一日が運命の女神を呼び込むことに なる。 



《(10)日本海海戦<常山の蛇勢>》

バルチック艦隊が対馬海峡にやってくるか、太平洋から津軽海峡へ向かったか。
情報のないまま難しい判断が問われた。

東郷平八郎が、連合艦隊幹部たちの割れる判断を前に
「もう一日対馬海峡で待とう」と最終命令を保留したことは吉と出た。

翌5月26日未明、敵艦隊の輸送艦が上海のウースン港に入ったとの情報が入り、
敵がいまだ東シナ海にいることが確認された。 

27日未明には長崎沖で哨戒していた巡洋艦「信濃」から「敵艦隊見ゆ」の打電が入る。
旗艦「三笠」以下、一斉に錨を上げた。


ここから先は、正面から一列縦陣で決戦を挑む連合艦隊が
敵前で左に大きく向きを変えるという東郷が下した捨て身の「敵前大回頭」の決断が
勝敗を決した、とされる。

「丁字戦法(ていじせんぽう)」という。敵の進路を防ぐようにして横切り、
敵の先頭に火砲の攻撃を集中し一艦ずつ撃滅する水軍の古兵法にならったものだ。

 
しかし、戦史を丹念に読むと、
丁字戦法が成功するかに見られた時、東郷は重大な誤判を下している。

先頭を圧迫されて押されるように東へ東へと進路を変えるバルチック艦隊の中で、
先頭の旗艦「スワロフ」が北に向かう姿勢を示す。

三笠艦上の東郷は北への一斉回頭を指示する信号旗を上げた。
北へ逃げる敵に対する先回りを目指したのだ。

 
「(スワロフに)ついていっちゃ駄目です」ととっさに判断した男がいた。

三笠以下、戦艦六隻の第一艦隊に続行していた装甲の弱い巡洋艦六隻からなる
第二艦隊の旗艦「出雲」の参謀、佐藤鉄太郎(さとう・てつたろう)である。

「集中攻撃を受けたスワロフは舵が壊れただけのこと。スワロフに構わずここは直進です」。

「よし」。第二艦隊司令長官の上村彦之丞(うえむら・ひこのじょう)は、
「われに続け」の信号旗を上げて、不利を承知で敵艦隊に突撃して行く。

 
中国の兵書『孫子』は、「常山(じょうざん)の蛇勢(だせい)」を説く。
常山に住む精強な蛇は頭を攻撃されると尾が助けに来る。
尾が撃たれると頭が助けに現れる。腹を攻められると頭と尾が助ける。

一見無敵に見える「命令一下」の縦割り組織より、
目的は一つながら各部署がとっさの判断ができる有機的組織ほど強いものはないのだと。

戦線から離れて行く東郷の第一艦隊が再び現れるまで1時間。
上村が指揮する弱勢の巡洋艦隊は敵艦隊に次々と打撃を与えていく。



《(11)日本海海戦<明確な決意と指示>》

東郷平八郎率いる第一艦隊が戦域に引き返し第二艦隊と合流した後、
連合艦隊は日の暮れまでバルチック艦隊を砲撃で叩きに叩いた。

機関停止した旗艦「スワロフ」から脱出した敵艦隊の司令長官、
ロジェストウェンスキーの乗る駆逐艦も後に捕獲される。

夜は駆逐・水雷隊が夜襲をかけ、二日目は日本側の一方的な追撃戦となり、
残余のロシア艦隊は白旗を掲げて降伏した。

 
東郷が練りに練った丁字戦法と大胆な敵前大回頭という戦術面ばかりが
勝因として強調されるが、真の勝因は決意の差にあった。

戦力的には互角。

明治天皇から「勝てるか?」と下問されて、「必ず勝ちます」と答えたものの、
東郷にここまでの完勝の自信があったかどうか。

東郷が心に期したのは、たとえ連合艦隊が全滅しても、
バルチック艦隊のウラジオストク入港だけは絶対に阻止するという明確な決意であった。
それを全将兵に徹底させた。

海戦に先立つ4月17日、東郷はこう訓辞している。

  ☆「士気が戦果に関係する。戦場では味方を不利に見やすい。
    敵七分、われ三分と思うときが実際には五分五分である」

   「ひるむな」ということだ。

  ☆「積極的な攻撃は最良の防御だ。砲術におけるわが練度は、はるかに敵に優っている」

   「自信を持て」と促している。

 
ロジェストウェンスキーはというと、航海中に旅順艦隊の壊滅を知り、
「極東への回航に意味はあるのか?」と、幾度かロシア皇帝ニコライ二世に
「回航中止」を提案したが、拒否されている。逡巡が支配していた。

一人悩み、胸に描く戦術は側近の参謀にも明かさなかったという。

 
決戦直前の指示は、「艦隊は敵と交戦しつつ常に機を見て北航の行動をとる」。
敵をかわしてとにかくウラジオに逃げ込めという。
敵を撃滅する決意も、戦術上の準備もなかった。

 
さて東郷。
海戦前に策定した「戦策」で細かく戦術を指示している。

その中にこうある。

「第二戦隊(艦隊)は(中略)敵の運動に注意し、
或いは第一戦隊に続航し、或いは反対の方向に出て」、機動的に敵に当たれ、と。

勝利を決定づけた第二艦隊の、とっさの判断による
「われに続け」の分離行動も東郷の術中に示されていた。

あとは、部下の戦意と練度そして判断を信じることが東郷の仕事で あった。

 
事前の準備もないままに、本番になるや細かく現場に指示を繰り返し、
「なぜ俺のいうことを聞けぬ。だから負けた」と責任を転嫁する、
ワンマンリーダーシップの弊害はどこにでもある。

 
真のリーダーシップはその対極にある。

            <感謝合掌 平成27年6月30日 頓首再拝>

非常時のリーダーシップ - 伝統

2015/07/01 (Wed) 18:06:45

非常時のリーダーシップ
 ─ ハリケーン・カトリーナとBP原油流出事故の対応に学ぶ

       *本物のリーダー養成講座
        『DIAMOND Harvard Business Review (ハーバード・ビジネス・レビュー)
         2011年 02月号』より

        以下は、メルマガ「日本一元気(2015年07月01日」からの紹介です。


《元アメリカ沿岸警備隊司令官、タッド・アレンの「非常時のリーダーシップ」》


彼(タッド・アレン)は、
記憶に新しい、ハリケーン・カトリーナやメキシコ湾岸原油流出事故の際に

災害対策本部で全体の指揮を執ってきた人で、
ここではインタビュー記事として掲載されているのですが、

非常時にリーダーはどのようにあるべきか、
多くの示唆を得られます。


まず、原油流出事故が起き責任者に任命されたとき、
これを軍事作戦として対処しようと
考えたのかという問いに対し、

タッド・アレンは、

「それはありえません」

と否定。


通常軍隊では指揮系統が完全に統一されているが、
このように政府全体が対応を迫られている場合、


「必要なのは、各関係者がそれぞれ異なった権限と責任を持っている
という事実を考慮しながら、一つの目的の達成に向けてみんなの能力を統合することです。
指揮の一元化というよりも、努力の結集を図ること」

と述べました。リーダーのあり方を考えさせられます。


ハリケーン・カトリーナによる被害は甚大なもので、
行政機能自体が途切れてしまい、
物資を受け取って任務に振り向けることができる能力を
持った地方自治体は皆無の状態になりました。

そこで、タッド・アレンは、
大量破壊兵器に対応する時のようなメンタル・モデルになっていた
ことに気づきます。

すなわち、ニューオーリンズ市をいくつかの区域に分けて、
それぞれに部隊を配置、
治安を確保し、地方自治体が担う機能を果たすこと、
つまり、排水作業、戸別訪問による捜索などに重点を置いていきます。


これは、


通常のルールを離れた「掟破り」の決断


です。

ただちに行動をとる必要があるときは、
ルールに従わずに直接命令を下すという、
通常のハリケーン対応のやり方ではない方法をとったわけです。


以前、メルマガでも書きましたが、


「フロネティック・リーダー」は、

「共通の善」という価値基準をベースに、
一般論ではなく、個別具体の判断を適切に行う力、

つまり、そのつどの文脈のただなかで、
最善の判断ができるという実践知

を持っている。


この話の具体例のように思えました。
個別具体的に最善の判断を決定するリーダー。

当然、それは「共通の善」がベースになっているわけですが。


なかなかレベルが高い話です。


タッド・アレンは、
「軍事訓練を受けた人は優秀な経営者になると思うか」
との問いに対し、興味深い答えを述べています。

「軍規にとらわれすぎると、軍人以外の人々への対応で柔軟性を欠くことになるでしょう。

一方で、民間企業にのめり込んで、あらゆることをバランス・シートに絡めて考えるようになると、
偏ったイデオロギーの信奉者になってしまいます。」


そして、彼が言うには、

優れたリーダーシップに必要なのは、


(1)柔軟性

(2)機敏さ

(3)好奇心


この3つがあれば両方の世界で成功することは可能と指摘しました。


このタフそうな司令官の話は勉強になるなあと
思いながら、

平和ボケした日本人の代表でもある私から見ると、
やはり違和感を感じました。

日本の自衛隊の幹部もおそらく持っているだろうかかる資質を、
日本のビジネスリーダーたちは取り入れようとする試みは
していないだろうなあと。


『ハーバードビジネスレビュー』では、
しばしば最近、
軍隊のリーダーシップと経営のリーダーシップの親和性について
論文が書かれていますが、

日本でこの議論は、ないですね。

むしろお互いまったく別の世界のものとして考えられている。

もったいないような気がしました。


            <感謝合掌 平成27年7月1日 頓首再拝>

指導者の条件22(権限の委譲) - 伝統

2015/07/02 (Thu) 19:29:07


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は各人の力の範囲で仕事を考えるべきである。

秀吉がまだ木下藤吉郎といっていた若い頃、
信長の清洲城の石垣が百間あまり崩れたことがあった。
ところが、その修理が二十日もかかってもまだ完成しない。

たまたまある日、信長に従ってそこを通った藤吉郎は、
「いつ敵が攻めてくるかわからない戦国の世に、
こんなに日数がかかったのではどうにもならない」とつぶやいた。

それを聞きつけた信長は彼を奉行に命じた。

すると秀吉は、従来雑然とやっていた工事の仕方を改め、百間を十間ずつの十区画にわけ、
人員も十組にわけて、各区画を責任を持ってやらせるという、いわゆる割普請の方法で
工事を進めさせ、自分は各部署を巡回して督励することにより、わずか二日で仕上げてしまった。

それを見て信長も非常に感心し、大いにほめ、また加増したという。

こうした藤吉郎の行き方は、何か今日の企業経営における
事業部制の考え方に相通ずるものがあるように思われる。

大勢の職人や人夫が雑然と全体の仕事にかかっている。
そこに仕事の段取りなどの無駄が生まれ、
また奉行としても全体に目が届きにくく、能率が上がらない。

それを適当な大きさに分け、それぞれの責任範囲をはっきりさせることによって、
仕事にも無駄がなくなるし、奉行も全体に目が届くようになる。
それで能率も上がり、遅々として進まなかった工事がわずか二日でできたのだろう。

このように、仕事を適切な大きさに分け、その分野については責任と権限を与えて、
徹底してこれをやらすことは極めて大切だと思う。

一人の人間の力というものはどうしても限りがある。
その限りある力以上のことをしたり、させたりすれば往々にして失敗する。

力にあった適正な範囲で事を行うのが一番良いのであって、
その事が力に余るようであれば、それを分割して何人かの力によって
行わせることが望ましい。

しばしば見聞することだが、いくつかの会社を合併させて、
それでうまくいく場合もあるが、案外うまくいかないことも少なくない。

反対に、一つの会社を分割するとか、そこまでいかなくても
徹底した権限の委譲で、実質的に独立会社のような姿にするなど、
専門細分化することによって非常に発展した例も多い。

やはり指導者としては、責任と権限を委譲して、各人の力に応じた仕事をし、
またさせていくことを考えなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年7月2日 頓首再拝>

坂本龍馬(謙虚さゆえの自己変革) - 伝統

2015/07/03 (Fri) 17:27:45


             *佐々木常夫のリーダー論より


今回のリーダーは坂本龍馬である。
龍馬に絡んだテレビドラマや小説が出ると、ほぼ間違いなく多くの人の関心を引き、
日本人には最も人気がある人物の一人である。

私にしても龍馬に関する本やドラマを、どれほど興味深く読んだり見たりしたか、
司馬遼太郎の「龍馬がゆく」など大学生のころ、それこそ寝食を忘れ夢中になって読み、
龍馬にあこがれ、明治維新に生まれなかった自分をどれほど恨めしく思ったかしれない。

なぜ、龍馬はこれほどまでに人気があるのだろうか。

吉田松陰や高杉晋作など幕末の英雄たちが、小さいころから秀才の誉れ高かったりしたのだが、
龍馬にはそのようなことはなく、成績も良いとは言えず、本もあまり読まなかったという。

19歳の時、江戸に出て北辰一刀流の千葉道場に入り、免許皆伝の腕前になったが、
そのころでも特別、政治や社会情勢に興味を示していたわけではない。

龍馬が龍馬らしく行動するのは、勝海舟に弟子入りした28歳から、
33歳で京都の近江屋で暗殺されるわずか数年のことである。

その間に、神戸海軍操練所の塾頭になり、亀山社中を立ち上げ、薩長同盟を締結させ、
海援隊を組織し、後の五箇条の御誓文の元となる船中八策を作っている。
その時間の短さに驚くとともに、その短い間に成し遂げた業績の大きさにさらに驚く。

ある時点から、龍馬は驚くべき速さで自己変革をし、社会変革をしていく。
それを可能にしたのは、誰からでも学ぼうとする素直で貪欲な性格と、
地位や権威には無関心だったこと、広い世界観と実行力であった。

龍馬の生涯を振り返り驚くことは、彼は敵も含め、
誰をも憎んだことがないという不思議ともいえる人間的魅力と
強いヒューマニズムを持っていたことである。

こうした龍馬の人間的魅力は、彼の無欲さと自己否定の精神というか、
信じられないような謙虚さがあり、その謙虚さゆえに、
次々と自己変革ができていったようだ。

そして龍馬の壮大な発想は、彼自ら生み出した独自なものではなく、
優れた一級の人材の知恵を自分流に取り入れ、それを膨らましていった、
いわば応用力が優れていたせいのようだ。

そのため、龍馬は第一級の人材と聞けば、すぐにその地に足を向けて面談に行った。
勝海舟、松平春嶽、大久保一翁、横井小楠、西郷隆盛、後藤象二郎などから素直に学んでいった。

特に勝海舟の場合は、ことによったら斬ってやろうと思って会いに行ったのだが、
少し話しただけで「この人には全くかなわない、弟子になろう」と感じ入り、
弟子入りしたところなどは、龍馬の面目躍如といえる。

龍馬の偉業は、すべて無資本というか、他人の褌で相撲を取ることが多かったが、
それができたのは龍馬の人間的魅力の賜物で、人との出会いを大切にし、人を選び、
土佐藩以外のネットワークを大事にし、他人から優れたものを身に付けていった。

まさに「男子、三日会わざれば括目して見よ」(三国志演義)を地でいったのだ。

龍馬は人を愛することにおいて、並外れた性格を持つが、
それは天下を愛することに繋がり、天下を愛するということは、
日々の暮らしを愛し、国を愛することになる。

幕末の時代、龍馬ほど、国家国民を大事にし、
最後の最後まで人を愛することを生き抜き、
他人から学ぶことで自己変革したリーダーはいなかった。

龍馬はいつも森や山の彼方を見ていた。
海の彼方に外国を見ていた。
地球を見ていた。

事実と情報を重視し、AかBかといった二極対立方式ではなく、
AとBを視野に入れながら、第3の道を探るという複眼の目線で物事に当たる
という稀有な才能を持ったリーダーであった。

龍馬を語るとき、特筆すべき点は、そのフェミニスト振りというか、
特別、女性に持てたことである。

龍馬には、千鶴、栄、乙女という3人の姉がいるが、
特に乙女姉にはいろいろ面倒を見てもらい、江戸に出てからも、
何かにつけて手紙を書いている。
現存する龍馬の手紙は、127通であるが、乙女への手紙が16通と最も多い。

龍馬の初恋の相手といわれているのは、土佐勤王党幹部・平井収二郎の妹、加尾である。
この加尾はのちに山内容堂の妹の侍女として、京都へ行くが、
龍馬が脱藩の時、その必要な品を用意したといわれる。

龍馬が19歳の時、江戸に出て、北辰一刀流の千葉道場で修業を積む。
師事した千葉定吉にはさなという娘がいたが、
龍馬はさなと恋仲というより、さなに強く慕われたようだ。

姉乙女にあてた手紙には「さなは今年26歳で、馬によく乗り、剣もよほど強く、
長刀もでき、力は並みの男より強く、顔は平井(加尾)よりもよい」と評している。


龍馬が帰国した後、二人は疎遠になってしまうが、さなは生涯独身を通し、
甲府市清運寺にある墓碑には「坂本龍馬室」と刻まれている。

そして龍馬は、京都の医師の長女の楢崎龍を、
父が亡くなってから困窮していたとき見初め、30歳で祝言を挙げた。

龍馬は、お龍の境遇と妹二人を人買いから取り返した武勇伝を、
家族あての手紙に詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。

慶応2年(1866年)1月23日に暗殺されかかったとき、
お風呂に入っていたお龍が全裸で二階の龍馬に知らせ、
その機転で危機を逃れた話は有名で、

龍馬は姉・乙女の宛への手紙で
「このお龍がいたからこそ、龍馬の命は助かりました」と述べている。

その年の3月から6月、龍馬はお龍を伴って薩摩に下り、療養のために各地の温泉を巡った。
龍馬は日本最初の新婚旅行といわれているが、こういう近代的なセンスがあるところも龍馬らしい。

龍馬にはこの3人以外に、
高知の漢方医の娘・お徳や、公家の腰元・お蝶、長崎の芸妓・お元、京都の旅宿の娘・お国など
数多くの女性の名が伝わるが、どうも龍馬のもて振りは尋常ではない。

龍馬は身の丈6尺(180?B)と当時としてはかなりの大男で、
写真で見る限り、それほどイケメンとは言えないが、なかなか味のある顔をしている。

自分の境遇や女性とのことを、姉の乙女にしばしば本音ベースで、
手紙に書くなどということは、当時も現代もあまり例のないことであるが、
このへんが龍馬の持ち味で、てらいも見栄もなく、自然体で自分を表現できる。
龍馬の懐の深さと言ってもいい。

周りの女性たちが渾身の協力を惜しまなかったのは、龍馬があまり男女の性別意識もなく、
相手の良さを素直に認めるところがあったからだろう。

そういえば、かつて、龍馬が勝海舟に西郷隆盛に会った印象を聞かれ
「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と評したが、

海舟は「評されるものが評されるものならば、評するものも評するもの」として、
二人の器の大きさを認めている。

西郷隆盛にしても桂小五郎にしても勝海舟にしても、みな龍馬を好きになってしまう。

薩長連合の契約書ができたとき、桂はその実行を龍馬に裏書してくれと言っている。
雄藩の契約書に一介の浪人の保証を求めるなどということは通常はありえない。
いかに龍馬の信認が厚かったかという証左であろう。


            <感謝合掌 平成27年7月3日 頓首再拝>

優秀なリーダーが常に意識している4つの【E】 - 伝統

2015/07/04 (Sat) 18:07:02

             *Webより


(1)ENERGY   自分自身がエネルギーで漲っている

  ①リーダーのたった一つの条件として「元気であること」。

  ②リーダー自身がエネルギーレベルを高め、周りを引っぱっていく必要がある。

  ③一にバイタリティ、二に楽天性、三に絶えざる自己修養。
   この三つはいつの世もリーダーに欠かせない資質。


(2)ENERGIZER 周囲を元気づけ、刺激を与える

  ①リーダーの一番の仕事は、部下に「元気」を与えること。

  ②あなた方が業務でどれほど優れていようと、
   他の社員をエナジャイズできない限り、
   リーダーとして優れていることにはなりません。

  ③一流のリーダーはそのエネルギーを活かせるような仕事に抜擢させます。

  ④「モチベーションクリエーター」。

    http://matome.naver.jp/odai/2140833629408495601/2140984398544360603

  ⑤最も優れたリーダーは、大きなエネルギーを持ち、他人の行動を刺激する。


(3)EDGE    競争心が強く、決断する

  ①世間から笑われてもかまわないという勇気と行動力を併せ持つ。

  ②エッジって言って、よく使われる言葉ですが
   ここでは、
   ・競争心に富む
   ・明確なルールを持つ


(4)EXECUTE  実行力があり、一貫した行動をとる

  ①向かうべき方向性を立案し、やるべきかを意思決定し、「実行」する。

  ②最も問われるのは、自分の企画を実現に結びつける実行力。

  ③やると決めたことを確実に実行していく力。

  ④言ったことをとことんまで実行して、結果に結びつけることが出来ること。

    (http://matome.naver.jp/odai/2140833629408495601

            <感謝合掌 平成27年7月4日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(1) 家康、信玄の術中にはまる - 伝統

2015/07/05 (Sun) 17:51:32


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

徳川美術館(名古屋市)に若き徳川家康の異様な肖像画がある。
やせこけて目を見開き所在なげに頬杖をついている武将姿の絵だ。

1572年12月、武田信玄に完敗を喫した三方ケ原の合戦直後に
家康自らが描かせたものだと伝えられている。当時31歳。

 
やがて織田信長、豊臣秀吉の世が去り、
関ヶ原の戦いに勝って天下を取り、知略で豊臣一族を滅ぼす。

慎重かつ狡猾な「狸おやじ」のイメージがあるが、
若き日に血気にはやって屈辱を味わったのが三方ケ原(みかたがはら)の合戦だった。

 
今回は、若いうちの屈辱をのちに活かすかどうかという話である。

当時、家康は天下取りに近づいた尾張・美濃の信長と同盟を結び、浜松城にあった。

そこへ信玄が反信長包囲網の盟主として甲斐を発ち上洛に動いたとの知らせが入る。

武田の精鋭2万5千が三方向から徳川領の三河・遠州に殺到する。
家康の手勢は8千。信長の援軍3千を含めても1万1千の劣勢だ。

「浜松城は堅固。籠城が得策かと存じます」と側近たちは自重を促す。常識的な判断だ。
信長からも「打って出るな」との司令が届いている。
やがて、尾張か美濃で信長軍は武田軍を迎え撃つことになる。

その時に家康を背後から出撃させればいいとの思惑があった。

信玄も、家康に立て籠られて攻城に時間はかけたくない。
家康を城から引き出し一気に叩きたい。

浜松城に近づいた武田軍は踵を返して北の三方ケ原(みかたがはら)から西へと軍を向け、
家康をおびき出すかのように素通りの姿勢を見せる。

 「おのれ」と家康は逆上した。

12年前の桶狭間の合戦。
家康は敗れた今川義元の下で従軍し信長の奇跡の勝利を目にしている。

 「あの時、信長は十倍の勢の今川軍の上洛を前に籠城策を捨てて清洲城から出撃、
 義元の首を取ったではないか」。

29歳の信長を一躍戦国の雄に押し上げた勇断に自分を重ね合わせたに違いない。

 「目にもの見せてくれる」。

 「出陣じゃ、出陣じゃ」。

家康は全勢力を率いて城を後にし、信玄の後を追った。
三方ケ原の高みから道は西に狭い下り坂となる。

隘路に義元を奇襲し成功した信長の用兵が頭をよぎる。

 「下り坂で背後から襲えば勝てる」。

折しも雪が降り始めた。

 「おお吉兆か。桶狭間でのあの日も降り始めた暴風雨をついて信長は奇襲を成功させたぞ」

 「やはり若造、出て来おったか」。

若気とはこういうものよ。
百戦錬磨の猛将、52歳の信玄は若い家康の心理を読み切っていた。

武田勢は三方ケ原(みかたがはら)から下らず、その高みに万全の体勢で布陣していた。 

            <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(2) 敗戦に学ぶ家康 - 伝統

2015/07/06 (Mon) 17:42:23


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

武田軍を急追する家康の軍勢は、
三方ケ原(みかたがはら)の台地上で迎撃戦闘態勢をとる敵に出会う。

武田軍は、各部隊を魚の鱗状に重ねて配置する「魚鱗(ぎょりん)の陣」を取っていた。

戦場に着いた家康は、戦力を横一線に置く「鶴翼(かくよく)の陣」を敷いた。

鶴翼の陣形は、圧倒的に数で優る場合、
正面激突の間に左右両翼で相手を包囲殲滅する定石である。

しかし二万五千の敵に味方は一万一千しかいない。
常識ではあり得ない布陣。一種の奇策だ。

雪の夕暮れ時に始まった戦闘は、緒戦こそ家康軍は鶴翼で敵を包囲して攻撃を仕掛けたものの、
いかんせん少数では陣は薄い。正面を破られ、家康軍は敗走する。

命からがら浜松城に逃げ戻った家康は、震えが止まらなかった。
逃走中の馬上で恐怖のあまり脱糞したとも伝えられている。

一方の信玄。浜松城を一旦は包囲したが、時間のかかる攻城戦を嫌い囲みを解く。

そして四か月後、三河を転戦して甲府への帰途、持病が悪化して死ぬ。

信玄の死によって存亡の危機を脱した家康は、「この敗戦を忘れまい」と、
前回紹介した驚愕と失意の表情の肖像を描かせた。

敗戦によって家康が得た教訓は、精鋭相手に奇策は通じないということ。

 
しかしその後が、さすが家康という男、少し違う。
自らを危地に陥れた憎き信玄による軍の統率法と
「人は石垣、人は城」を実践した人事、統治原則に学ぼうとするのである。

家康は晩年、側近の酒井忠勝らに、こう語ったという。

  「ある時は盟友として、ある時は敵としてよく観察すると、
  武田信玄の家法のようによく整ったものはない。
  だから武田の家法に則ってわが家の軍法を定め訓練させた。
  今もそれは変わらない。これからもそうあるべきだ」

三方ケ原(みかたがはら)の合戦から3年後。
織田、徳川の連合軍は、三河の長篠(ながしの)の地で、
信玄の遺児・武田勝頼の精鋭騎馬軍団を圧倒的な鉄砲隊の威力で打ち破った。

 
僥倖(ぎょうこう)とも言うべき桶狭間の戦いでの勝利から、
「奇策とるべからず」を学んだ信長と、
同じ原則を屈辱の敗戦から学んだ家康の必然の勝利であった。

 
信玄は、死に際して勝頼に、「これからは内政に努めよ」と言い残したが、
勝頼は、軍団掌握より領地拡大を優先させ身を滅ぼした。

勝利からも敗北からも、敵からも身内からも学ぶべきことは多いという教訓である。

            <感謝合掌 平成27年7月6日 頓首再拝>

「心」を持っているかどうか - 伝統

2015/07/07 (Tue) 18:25:04


            *メルマガ「人の心に灯をともす(2014.07.24)」より

   (富士フイルムホールディングスCEO、古森重隆氏の心に響く言葉より… )

   私はさまざまな企業の経営者にお会いすることが多いが、
   優れた経営者はちょっと話をすると、「この人は“心”を持っているな」と
   すぐに感じとることが出来るものだ。

   「社会・社会の公器としての会社・組織に対する使命感・責任感と、
   国民や社員にたいする思いと、その両方を背負いながら仕事をしている」という匂いが、
   言葉や態度の端々から漂ってくるのだ。

   しかし中には匂いがしない経営者もいる。
   若い経営者の中には、社長の職に就いたときには匂いがしなくても、
   1年も経てば見違えるように変貌する人もいる。

   だが残念ながらずっと変わらない人もいる。
   そういう経営者はだいたい会社をダメにするし、短命に終わる。

   上に立つ人間は、人間に対しての共感や責任感、広い意味での愛・思いやり、
   人を受け入れる力とかそういうものがないといけない。

    経営者にとってなくてはならないものは、やはり心だ。
   こういう力がない人は社長になってはいけない。

   「心」を持っているかどうかは、
   リーダーとしての器を判断するときの絶対に欠かせない条件となる。

   心というのは私の解釈で言えば、誠実に生きるということ。
   それは社会や会社、社員に対する愛情や責任感、使命感といったものである。
   そしてさらに、会社に対しても、社員に対してもフェアでなくてはならないのである。

   心が欠けている人は絶対にリーダーになってはいけない。
   また、正しいことを、フェアなことをやらなければいけない。
   社会に対しても、あるいは競争相手に対してもフェアであることが大事だ。

   しかも賢くやらないといけない。
   そして、それを実行・完遂するには強さがいる。

   また、それに加え、優しさがないといけない。
   人に対する愛や会社に対する愛がないとダメだ。
   人間に対しての優しさや思いやりを持つこと、こういうことが心であり、
   人の気持ちが理解出来るということだ。

   心が欠けているリーダーは、「自分だけが利益を得られればいい。生き残ればいい」
   という身勝手な判断をしがちだ。

   全体のことを考えている使命感のある人間というのは、それなりの風格があり、匂いがする。
   「もっと社会の役に立ちたい」「もっと社員に幸せになってほしい」という心は、
   決して忘れてはいけないものだ。

   私はこの使命感こそ、自分自身のモチベーションを高めるトリガー(引き金)だと思う。

       <『君は、どう生きるのか 心の持ち方で人生は変えられる 』三笠書房 >

                  ・・・

リーダーとしての生き方は、なにもリーダーだけが持たなければいけないものではなく、
人として生きるのに誰もが必要な考え方だ。

このことは、会津藩の武士の子どもへの教え、「什(じゅう)の掟」に見ることができる。

それは…

「年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ」
「虚を言ってはなりませぬ」
「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ」
「弱いものをいじめてはなりませぬ」

というようなものだが、最後に「ならぬものはならぬものです」と締めくくっている。

礼儀を正しくし、嘘をつかない、卑怯なことをせず、弱い者いじめはしない、
というごくごく当たり前のことだ。
しかし、現代ではこのことが欠けている人が多い。

特に、リーダーにこの資質がなければ、その組織は早晩崩壊する。
「心」を持っているかどうかは、人として最も大切なこと。

            <感謝合掌 平成27年7月7日 頓首再拝>

指導者の条件23(見識) - 伝統

2015/07/08 (Wed) 19:24:56


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より


指導者は是は是とし非を非とする見識を持たねばならない。

源頼朝は、伊豆に兵を挙げ、一敗地にまみれたあと、
一度房総に逃れ、再起を期して各地の武士を招請した。

それに応じて一部の豪族ははせ参じてきたが、頼朝が最も期待し、
一番有力な大豪族でもある上総介広常はなかなかやって来ない。

そこで、やむを得ず広常を待たずに進軍を開始したところ、
やや遅れて2万の兵を率いて広常がやってきた。
その時頼朝の軍勢は数千にすぎなかったから、2万といえば大変な数である。
だから頼朝は喜んでこれを迎えたかというとそうではない。

いきなり、「なぜ今までぐずぐずしていたのか」と遅参したことを強く詰問したのである。
これには広常も味方の大将達も驚いて、言い訳したり、とりなししたりしたが、
頼朝はなかなか許さなかった。

そのため、場合によっては平家の側に立って頼朝を討とうとも考えていた広常も
かえってすっかり心服し、心から忠誠を誓ったというのである。
そして、この大軍を得て、頼朝の事業は一気に進んだわけである。

これはやはり頼朝の見識というものだと思う。
2万の大軍はこの際非常な力強い味方である。
だから普通であれば、躍り上がって喜び、手を取って感謝してもいいとも思われる。

しかし、もしそうしていたらどうだろう。
たとえ少人数とはいえ、部下を率いて取るものもとりあえず駆けつけた
豪族達は面白くないと感じるだろう。

広常も自分の力を誇って、頼朝の命に服さず勝手なことをするかもしれない。
そうなっては何万集まろうと、軍の秩序も保たれず、烏合の衆に過ぎなくなってしまう。

とかく人間というものは、物事を数の大小や力の強弱といったことで判断しがちである。
そしてまた、そういうことを中心に考えた方がいいという場合もあるだろう。

ソロバンをはじくという言葉もあるが、そういうものを無視したり、
軽視して事を進めたのでは、うまくいかないことも多いと思う。

しかし、それは日常の事というか、いわば小事について言えることである。
大事を決するに当たっては、そうした利害、損得といったものを超越し、
何が正しいかということで判断しなくては事をあやまってしまう。

それが出来るということが、指導者としての見識であろう。
とかく長い物に巻かれろ的な風潮の強い昨今だけに、
指導者にはこうした是を是とし、非を非とする見識が強く望まれるのである。

            <感謝合掌 平成27年7月8日 頓首再拝>

リーダーに必要な13のルール~コリン・パウエル - 夕刻版

2015/07/09 (Thu) 17:48:40


(1)何事も思うほど悪くはない。
   翌朝には状況が改善しているはずだ。

(2)まず怒れ。その上で怒りを乗り越える。

(3)自分の人格と意見を混同しない。
   さもないと意見が却下されたとき自分も地に落ちる。

(4)やればできる。

(5)選択には最新の注意を。
   思わぬ結果になることもあるので注意すべし。

(6)優れた決断を、問題で曇らせてはいけない。

(7)他人の道を選ぶことはできない。
   他人に自分の道を選ばせてはいけない。

(8)小さなことをチェックすべし。

(9)功績は分け合う。

(10)冷静であれ、親切であれ。

(11)ビジョンを持て。一歩先を要求しろ。

(12)恐怖にかられるな。
   悲観論に耳を傾けるな。

(13)楽観的であり続ければ、力が倍増する。

   (http://dime.jp/genre/148120/1/

            <感謝合掌 平成27年7月9日 頓首再拝>

浜口雄幸(男子の本懐) - 伝統

2015/07/10 (Fri) 19:27:59


             *佐々木常夫のリーダー論より

1929年(昭和4年)田中儀一内閣が張作霖爆殺事件の責めで異例な形で
総辞職した後を受けて、首相に就任した立憲民政党の浜口雄幸は政治空白は許されない
として電光石火、わずか1日で組閣を行った。

難問山積みの内閣であったがその風貌から「ライオン宰相」と呼ばれていた浜口は
その名にふさわしい勢いで日本の政治のかじ取りを断行していった。
この内閣の喫緊の課題は財政の再建と経済の再興、そして軍縮の実行であった。

経済問題では、なんといっても最大の課題は12年間、
8代の内閣が手つかずであった金解禁であった。

第2次大戦の勃発で経済が混乱し先行きの不安に備え、
各国はとりあえず国内に金を温存しようとして金輸出禁止を行っていた。

ある国で輸出超過が続けば、経済代金として外国から金が流れ込む→金の保有量が増大
→通貨増発→国内物価上昇→輸出減→輸入増→輸出入がバランス という循環が生ずる。

即ち各国が金本位制をとれば、各国経済が世界経済と有機的に結ばれ、
国内物価と国際物価が連動し、自動的に国際経済のバランスが取れるということになる。
金本位制は火の利用と並ぶ人類の英知ともいわれた。

1922年ゼニアで開かれた国際会議で、金本位制復帰が決裁されぞくぞく解禁に向かった。
1928年のフランスでほとんどの国が終わり、残すはスペインと日本だけとなり、
安定装置を持たない日本は通貨不安定国で為替相場は国内外の思惑で乱高下する。

為替差益を狙う投機筋が暗躍し地道な生産や貿易に従事するものは痛手を受け、
倒産するなど経済は低迷していた。

しかし金解禁とは金の輸出禁止措置を解除し金の国外流出を許すことであるため、
金が国外に出ないような政策、即ち大胆なデフレ政策が必要で、そのため財政の緊縮や軍縮などを
断行し、国内物価も引き下げておく必要があり、多くの人々に痛みが生ずる不人気な政策である。

政治家の売り物は常に好景気で
古来「デフレ政策を行い命を全うした政治家はいない」ともいわれていた。
ましてやこのときの最大の難敵は軍部と右翼であった。

しかし浜口は国の経済再建と軍縮実現のために金解禁に命を懸けた。
6人の子どもと妻に「すでに決死だから何事が起こって中途で倒れるようなことがあっても、
もとより男子として本懐である」と説き、

妻の夏子に家の財産を説明し、財産目録や関係書類を渡したがこのとき
浜口はおそらく自分は無事では済まないだろうと覚悟していたのだろう。

この一大事を実行するに当たり大蔵大臣に元日銀総裁の井上準之助を選んだ。
浜口にしてみればこれを共に戦えるのは自分の知る限りでは井上しかいないと考えていた。

手放しの解禁論者ではない井上ではあったが、
浜口に会いその無私の思想と国のために命を捧げようという
浜口の覚悟に打たれ共に命を懸けることを誓った。

この浜口という男は本当に変わった男である。
1870年(明治3年)、高知県長岡郡五台山の林業を営む
水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。

長兄とは16歳、次兄とは8歳も離れていたことや元々山村で友だちもいない環境の中で
幼いころから孤独のことが多かったことが無口な浜口をますます寡黙な少年にした。
無口なうえに無趣味、遊ぶことが苦手、鎌倉に別荘はあるが行くのが面倒と考える。

浜口は自らを分析し、

「1. 余は極めて平凡、しかし自らその本分と信ずるところに向かい全力を傾注し、
   ほとんど余事を顧みるだけの余裕がない。

2. 余の生立の環境は余をして黙座瞑想に傾かしめた。

3.余は無精―物臭太郎―なる性癖であるが、現代の青年は余りに多くの趣味道楽に耽っている」

としている。

世間の一部からは浜口の趣味は政治だと言われたが、
彼は「政治は趣味道楽ではない、政治ほど真剣なものはない。命を懸けてやるべきもの」
と言っている。

浜口の最大の特長はその無欲さと左遷不遇の時期の長さである。
大蔵省には入省したものの上司とぶつかりずっと日の当たらない部署を経験。
そして専売局長となった。

そのとき半年間の洋行を勧められたが、
高齢の義母に不安な思いをさせたくないという理由で断っている。

初代満鉄総裁を務めた後藤新平は、浜口の国会答弁に見る堂々たる見識と責任感で
謹厳寡黙で惜しみない男と感じ、満鉄の理事に口説くが専売局長官として
塩田整理の仕事を投げ出すわけにはいかないという理由で浜口は断った。

当時満鉄の理事といえば中央官庁の次官以上のポストであり、
俸給も10倍以上であったのにである。

明治41年、第2次桂内閣のときに後藤新平は
逓信大臣で浜口に次官ポストを用意したがこれも断った。
大蔵省では先が見えているのでこの話に乗った方がいいと誰もが思ったのにである。

浜口の熱意に負けてさすがの反対運動も収まり塩田整理は完了した。
大正3年大隈内閣の時、若槻礼次郎が大蔵大臣になり浜口を次官に起用した。

入省以来左遷に続く左遷。
地方回りと外局勤務。
省内の主流を歩まずコースを外れた回り道ばかり。

それが45歳で大蔵次官。
浜口の人間としての大きさを見抜いていたのは後藤新平だけではなかった。
見ている人は見ているということだろう。

その後、政治家志望であった浜口は高知県から選挙に打って出るが落選してしまう。
党事務員となり党の事務所に毎日通い、党の政策立案や運営に貢献した。
浜口にとってはこのような不遇は今更のことではなかった。

しかし浜口の染み入るような誠実さは深く知れ渡るようになる。
渋沢栄一は東京市長に出るよう促すが
浜口は憲政会が逆境にあるときに見捨てられないとして断っている。

自分の利害よりも組織を考えるという今も当時も珍しい政治家であった。
そしてついに昭和4年憲政会の党首となり首相となる。

昭和5年の予算編成は金解禁に備え徹底的な緊縮予算の策定であった。
経費は原則1割カット、陸海軍省予算は大幅に削減、公債は発行しない。
そしてそれらの前提として金解禁を断行するが海外はこれを高く評価する。

しかし軍部、右翼、枢密院を中心に猛反発が生じる。
更に経費削減の中で、特に機密費を3割削減したことは世の大きな評価に繋がった。

東京朝日などは
「削りとられた暗い政治の費用。記録される浜口内閣の善政。機密費3割削減の英断」
と4段抜きの記事にした。

その当時の世間の政治家への評価は決して高くはなかったが、
政治を大切だと信じているものとしてそのレベルを高めたいという浜口の念願でもあった。

そして断固としてやり抜くという行動への反発があり、
東京駅で3メートルの至近距離からピストルで狙撃される。

駆けつけた医師の大丈夫ですかという問いに浜口は「男子の本懐です」と答えている。

何度かの手術で命は取り留めたが、その後悪化し翌年の8月に亡くなる。
日比谷公園での葬儀、久我山から日比谷までの沿道、別れを惜しむ人垣で
霊柩車はスピードを10キロに落とさなくてはならなかったという。

党葬ではあったがおよそ2000人の出席者となりほとんど国民葬と言えた。
式の終わった後、午後1時、一般の告別式に移ったが数万の民衆が殺到し
老人子どもの悲鳴が上がるというありさまであった。

予定していた警備陣では足らず、
丸の内署や警視庁からの応援を呼ばなくてはならなかったという。

今となっては果たして浜口が行ったデフレ政策や金解禁が正しかったのかは歴史の検証が必要だろう。

しかし、政治や経済を自分の目で見、人の意見を深く聞き、
予断なく決め、決めたら命を懸けてでも ー実際彼は命を失ったがー という政治家が
日本の歴史の中にいたことを知るとき私は救われるような気がする。

            <感謝合掌 平成27年7月10日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(3)友情に先んじるものあり・明治6年の政変 - 伝統

2015/07/11 (Sat) 19:07:28


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「急ぎ帰国されたし」。明治6年3月、欧米視察中の大久保利通は、
東京からの連絡を受けて急ぎマルセイユから帰路についた。

幕藩体制を倒し政権を握った維新政府は、
前々年に右大臣の岩倉具視を全権大使として米欧へ遣外視察団を出した。

不平等条約改正の探りも兼ね、新政府の幹部打ち揃っての外遊中に、
西郷隆盛の主導で留守政府は「征韓論」に傾いていた。

「これはまずい」。5月に帰国した大久保は、愕然とする。
1年半にわたる欧米視察で、西欧列強の産業革命の有り様をつぶさに見た大久保は、
欧米に追いつくには100年はかかると思い知らされた。

「まずは産業をおこし国力を充実させる必要がある。むやみに戦争を起こす余裕などない」。

見聞に基づく固い信念のもと大久保は、8月の岩倉帰国を待って巻き返しにかかる。

西郷隆盛と大久保利通。二人を抜きには、倒幕の成就はなかった。

ともに薩摩藩の下級武士として鹿児島の同じ町内で兄弟さながらに交流し育った。
「肝胆相照らす以上の仲」と自他ともに認める関係にある。

その西郷は、維新によって禄(給与)を奪われ失業した全国の士族たちから、
その不平を代表する総帥としてまつりあげられている。

その士族たちの不平を対外戦争に振り向ける。
「内乱を冀(こいねが)う心を外に移して国を興す」(西郷)。
それが「征韓論」の背景にあった。

王政復古から鳥羽伏見の倒幕戦争の過程で西郷は「武」を担当し、
大久保は朝廷工作の「政」を担った。

企業でいうなら共同創業者ではあったが、
維新の理想と目指す方向は大きく離れ始めていた。

情にほだされ下手に「足して二で割る」妥協をすれば、
今後の方針は動揺し、派閥の葛藤を助長する。
となれば決断しかない。

「屈辱的な不平等条約改正のためにも、まずは殖産興業、内政を固めるのが先決。
この道理がわからぬなら、西郷といえども切り捨てるほかなし」と、大久保は決心する。

大久保得意の政界工作で、いったん決定された征韓の方針は覆された。

下野を決心した西郷は大久保邸を訪ねる。

「大久保どん、後はよろしく頼む」と情に訴え別れを告げる西郷に、
「おれは知らん。勝手にすればいい」と冷たく言い放ち背を向けた大久保は、
やがて西郷が戻った鹿児島を発火点に未曾有の内乱が勃発することも想定していた。 

            <感謝合掌 平成27年7月11日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(4)揺るぎない信念が開く未来 - 伝統

2015/07/12 (Sun) 17:32:46


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

明治6年の政変に敗れた西郷隆盛が戻った薩摩(鹿児島県)は独立国の様相を呈した。
士族への禄の支給は継続され、農地からの地租(税)も中央政府に納入されない。

その薩摩の不平士族が西郷を担いで明治10年2月に決起した。
1万6千の武装士族が鹿児島を発って熊本鎮台を襲い、
7か月にわたって熊本、宮崎、鹿児島を転戦し政府軍に抵抗した。

最後に西郷は鹿児島の城山で自決して内乱は幕を閉じる。ご存知の西南戦争である。

何ごとにおいても「話せば分かる」式のうやむや解決が得意の日本の近代政治だが、
大久保は容赦しなかった。

決起の翌日には征討令を発し、最終的には10万の軍を鎮圧に投入する。
主力は徴兵令による平民兵士たちで、最新兵器で武装していた。

武力においても、旧時代(士族)と新時代(徴兵軍)が激突し、旧時代 は敗れ去る。

「西郷は大義のない反乱には加担するまい」との期待を裏切られた大久保の行動は速い。

この危機も、新時代を開くためには障害である士族を取り除くチャンスと捉えた。
竹馬の友を切り捨ててでもやる。開化の行方に信念があった。

混乱が収拾された翌年、明治11年5月14日朝、
大久保は麹町の自宅を訪れた福島県令の山吉盛典にこう語っている。

「明治元年から10年までは創業期。混乱もあり、何もやれなかったが、
事が片付いて維新は、これからだ」

「そして次の10年が一番大事で、内治を整え産業を興す。これは私がやる。
さらにその後の10年は、後進たちがうまくやってくれるのを待ちたい」

言い残して大久保は太政官に出仕する馬車に乗る。
馬車が紀尾井坂を下ったところで、「西郷の復讐」を唱える
石川県の士族ら四人に襲われ斬殺される。

大久保にも、この暗殺だけは見通せなかったか? 

いや、事件の数日前、大久保は側近の前島密に前夜の夢見を語っている。

「西郷と取っ組み合いをして崖から落ちてな、わしの頭蓋が割れたんだ」。

西郷とともに旧時代を葬り去る。
命と信念をかけた覚悟の先に、後進たちが次の時代を開くことを信じて。

士族たちの不満は、自由民権運動に振り向けられ、
やがて憲法制定、国会開設へとつながり、「この国のかたち」が見えてきた。

            <感謝合掌 平成27年7月12日 頓首再拝>

指導者の条件24(公平である) - 伝統

2015/07/13 (Mon) 17:52:16


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より


指導者はあらゆる面で私心無く公平を期さなくてはならない。

春秋戦国と言われた長い戦乱の時代も、次第に秦の国が力を得て、
始皇帝の代になって天下を統一するわけだが、そうした秦の隆盛には、
ショウオウという大臣が法を厳正にして国を治めることを推し進めたことも
一つの大きな原因だといわれる。

ショウオウがそうした政策を進めている時、たまたま秦の太子に法に触れる行為があった。
すると彼は、「太子といえども、法に触れることは許されない」として、
太子の代わりに、そのお守役と教育役を厳しく罰した。

そういうことはかつてなかったので、人々は大いに驚き、その時から法を守るようになり、
秦の国では盗みや争いがなくなり、人々は富み、国は治まったという。

ショウオウの法律、法令は厳しきに過ぎ、その弊害もあったと言われているようだが、
このような、法の適用に当たっての公平さということは極めて大事なポイントだと思う。

もし、一般庶民は法を犯したら罰せられるけれど、
身分の高い者は見逃されるということであれば、
誰も本気で法を守ろうとしなくなるであろう。

形だけ守られたとしても、その不公平さに対する不満や怨みが人々の心の中に残って、
信頼関係は失われてしまう。

今日では民主主義だから、一見法の適用は平等のようであるけれども、実際にはどうであろうか。
かりに個々人が暴力をふるえば罰せられるだろうが、大勢の者が数をたのみ、団体の力で、
無形の暴力をふるうといった、いわゆる多数の圧力、多数の横暴というものが見逃され、
まかり通っている面もあるような気がする。

そのように、力弱き者に対しては仮借無くといってもいいほどに法が厳正に適用され、
力ある者はなんら罰せられないということでは、法はあってなきが如しで、
秩序も保たれないし、人心も荒廃してしまうだろう。

もちろんこうしたことは一国における法律ということだけでなく、
会社や団体における規律や規則についても同じ事である。

会社の規則というものは、一新入社員であろうと社長であろうと等しくこれを守り、
それに反した時は等しく罰せられるということで、
初めて社内の秩序も保たれ、士気もあがるのである。

だから、指導者は常に公平ということを考えなくてはならない。

利害とか得失、相手の地位、強弱ということに関わりなく、
何が正しいかというところから、公平に賞すべきものは賞し、
罰すべきものは罰するということをしなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

天璋院篤姫(あなどるべからざる女性) - 伝統

2015/07/14 (Tue) 18:17:46


             *佐々木常夫のリーダー論より


昨年末、所用で鹿児島に行ったとき鶴丸城址で天璋院の像を見た。
南国鹿児島にふさわしいなんとも凛々しい顔立ちであるが、
彼女は若いころ、日に焼けて黒々とした肌を持つ健康そのものの女性だったという。

篤姫は1835年、摩藩島津家の一門・今和泉の5代領主・島津忠剛の長女として生まれる。
幼少のころから聡明・利発で両親はじめ周囲の人は「この子が男子であれば」と
その器量を評価していたという。

そうした評判が時の藩主島津斉彬の耳にも届き、斉
彬は正月にわざわざ篤姫を接見することになる。

篤姫は最近読んだ本のことを聞かれ。
日本外史15巻を読破していてあと7巻を読みたいと答えて、
斉彬はその知識欲と向上心に驚く。

その後、是非にということで島津本家の養女となり、
そのあと徳川第13代将軍・徳川家定の正室として江戸に行くことになる。

第12代将軍の家慶の子どもたちは体が弱くほとんど亡くなり
成長したのは家定だけだったが、その家定も病弱、加えて京都から迎えた
公家出身の正室は2人とも子どもを産まずに亡くなった。

斉彬は水戸藩主徳川斉昭や老中阿部正弘と協議し、
身体が丈夫で利発な武家の娘をということで篤姫に白羽の矢がたった。

最初は側室という話もあったが、
御台所に異論を持っていた水戸の徳川斉昭と福井の松平春嶽が
篤姫に会ってその聡明さに感じ入り正室で進めることになったという。

島津家の分家から本家に養女で入ることすら大事件なのに、
将軍の御台所に嫁すということはずいぶん破天荒な人事ではある。

跡継ぎになる家定の子が生まれないという深刻な状況だったこともあるが、
なにより斉彬が篤姫の物おじせず、勉強家で前向きな性格を高く評価していたことが
このようなことに繋がったと思われる。

この篤姫―幼少の呼び名は「一子」(かつこ)で3人の兄がいるが、
いずれも軟弱で一子がまだ5歳の時、8歳上の兄がよその子にいじめられそうになり、
相手に砂をぶつけて兄を助けようとしたこともあるという逸話を持つしっかり者。

加えて書物を読むのが好きでさまざまな古典を読みふけるなど、
まさに「男であれば」と思わせるところがあった。

近衛家に奉公していた幾島という老女が、篤姫を徹底的に教育していくが、
その幾島も篤姫の判断力や行動力に敬服するようになる。

大奥には3000人もの女中がおり、
それなりの階級組織で、またさまざまなしきたりもあった。

このとき大奥を取り仕切っていたのは3代の将軍に仕えた滝沢という総取締役であったが、
篤姫の合理的な考えでの変革にさすがの滝沢も篤姫に心底従うようになっていく。

また政治のことでも常に筋の通った考え方を示すので、
大老の井伊直弼とも対立することもあり、次の大老の安藤信睦などは
「天章院さまはあなどるべからざる女性」と言い何かに付けて事前にお伺いを立てていた。

しかし徳川家に嫁いで1年9か月で家定が急死する。
さらに同じ年に頼みとしていた斉彬まで死去してしまう。
家定の死を受け篤姫はわずか26歳で落飾し、戒名・天璋院を名乗る。

家定の後継として家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任する。
その後、幕府は公武合体政策を進め、文久2年(1862年)朝廷から
家茂の正室として皇女・和宮が大奥に入ることになる。

薩摩藩は天璋院に薩摩への帰国を申し出るが、
天璋院は一度嫁したからには自分は徳川の人間だからと筋を通し
江戸で暮らすことを選んだ。

本来なら役目も終わり懐かしい薩摩に帰れたら心穏やかな日を過ごせるであろうに。
自分のミッションを強く自覚し一度決めた運命を引き受けその中で全力を尽くすという
篤姫らしい生き様であった。

和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の違いもあって
しばしば対立することがあったが、天璋院は大奥女中3000人の筆頭として
あくまで江戸風(武家風)の生活をするように説き伏せた。

天璋院の人間性や気配り、信念などを深く知るようになった和宮は
次第に心を開くようになりお互いに尊重しあうようになる。

1866年家茂が21歳の若さで亡くなると、
朝廷は京に帰るように勧めたが和宮は天璋院にならって断っている。

慶応3年(1867年)15代将軍徳川慶喜が大政奉還するが、
その後に起きた戊辰戦争で徳川将軍家は存亡に危機に立たされたときは、
慶喜を嫌っていた天璋院だが、朝廷や島津家に嘆願し徳川家の救済や慶喜の助命に尽力している。

天璋院は身寄りのない大奥女中260人~300人の
再就職や嫁入り先を心配しきめ細かく斡旋している。

江戸城を明け渡すときには、徳川家伝来の家宝を広間に飾り、
大奥の品物を一切持ち出すことなく、討幕軍に明け渡し、
徳川家の女の意地を薩摩・長州に見せつけた。

江戸幕府の終焉の幕引きをして身一つで一ツ橋家に向かったという。
江戸を東京都に改められた明治時代、鹿児島に戻らなかった天璋院は、
東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。

生活費は討幕運動に参加した島津家からはもらわず、あくまで徳川の人間として振る舞った。
勝海舟や和宮と親しくし、16代徳川家達に英才教育を受けさせ、
海外に留学させるなど最後まで徳川家のために尽くした。

天璋院は薩長軍が江戸城を攻め滅ぼそうとしたとき、
かっての同郷の竹馬の友であった西郷隆盛に無益な戦を止めるように
1300字に及ぶ切々とした嘆願書を書いている。

この嘆願書が西郷に届く直前、勝海舟の意を受けた山岡鉄舟が西郷に会っている。
「現在の日本の形成は同胞と争っている場合ではなく、外国からの侵略の危機に
一致団結して向かうべき」であること、

また「徳川慶喜は恭順の意を表している。降伏しているものに攻撃を加えるのは国際法上違法」
という英国パークスの意見、そして西郷隆盛と勝海舟には個人的な信頼関係があったこと
などの理由で、すでに西郷は江戸城無血開城を決めていたと思われる。

しかし、かつて敬愛する斉彬が実の娘のように可愛がっていた篤姫、
そして自分も何度か会ってその真摯な人間性に惹かれていた篤姫の嘆願書が
西郷の決断を後押ししたことは容易に推察できる。

ハリスに随行してきたヒュースケンの暗殺事件が起こった。
彼は独身の28歳。残された母親がどれほど悲しい思いをするだろうかと考え、
天章院は母親に1万ドルを送っている。

ほとんどの日本人の感情がいまだ異人討つべしの感があった当時、
遺族への補償まではとっさには思い浮かばないものだ。
天章院の時代や国を超えた人を愛する人間性の現われといえよう。

江戸幕府崩壊のあと、勝海舟は天璋院を姉と称して2人でいろいろ東京の街に繰り出し
遊んでいたようだがあの勝海舟が天璋院を「女性であるが尊敬できる人」と述べているし、
16代家達は「もし徳川に天璋院なかりせば家は瓦解の際、滅亡して果てただろう」と言っている。

1883年に死去。享年48歳。
亡くなった際、手元に残っていたお金はわずか3円(現在の価値で6万円)であったという。

まことに薩摩女の面目躍如といえよう。

少し顔はいかついが、天璋院は日本女性の鑑であり
「サムライの心意気」まさにハンサムウーマンである。

            <感謝合掌 平成27年7月14日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(5)虎穴に入らずんば虎子を得ず - 伝統

2015/07/15 (Wed) 18:38:43


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

15世紀後半のイタリア・フィレンツェにロレンツィオ・デ・メディチという男がいた。

各地に国が乱立割拠する当時のイタリアで、共和国フィレンツェは
ヨーロッパの金融を取り仕切るメディチ家を中心にして、
多くの芸術家たちを保護しルネッサンスの華として繁栄を誇っていた。

ロレンツィオは20歳でメディチ家の家督を継ぎ国政を取り仕切ることになった。
9年後、そのフィレンツェを危機が襲う。

ロレンツィオを宗教的権威にたてつく法敵と見たローマ法王が、
ナポリ、ミラノ、ベネチア、ジェノバの四都市の軍で包囲したのだ。

フィレンツェは1年半の間よく抵抗したが、法王庁は宗教的権威で締め付け、
4か国軍の攻撃で、もはやこれまでかと思われた。

そこでロレンツィオは意外な手にうって出る。
市評議会にも諮らず、商人姿に身をやつし従者を連れて秘かに市を抜け出した。

向かった先は反フィレンツェの急先鋒のナポリ。

突然、王城の城門に現れた宿敵の姿にナポリ王のフェランテは度肝を抜かれる。

残虐で知られるフェランテに、ロレンツィオは「話がある」と切り出した。

「異教徒のトルコはコンスタンチノープルを落とし、イタリアに迫っている。
われわれが仲たがいしている場合ではない」

「さらに」とロレンツィオは言葉を継ぐ。

「法王庁を増長させれば、次は国境を接するナポリを攻めるに違いない」。

お分かりか、とまで言わなくとも、フェランテには思い当たる節がある。

実際にトルコ軍はイタリアに向けて動き出していた。
「この剛胆な男を使わぬ手はない。ここは恩を売って味方にしておけば、
メディチ家の財も役に立つ」とフェランテは考えた。

いったんは投獄したロレンツィオを解放し急ぎ講和を結ぶ。
法王を説得して四か国軍は包囲を解いた。

ロレンツィオは、どちらかというと醜悪な面相の男だったと伝えられる。

しかしその人柄は、一度会うと相手を虜にしてしまう不思議な魅力にあふれていたという。
対面した暗殺者が剣を納めたこともあった。

子供のころから哲学と文学に秀で、雄弁術にたけていた。
「人たらし」の才に満ちていたからこそ、窮余の策が人を動かした。

敵地に飛び込んで虎の子を得るか、
ただの蛮勇(※向う見ずの勇気)に終わってしまうかは紙一重。
剛勇が必ず好結果を呼ぶとは限らない。

それを分けるのは、智謀のあるなしではなく、「人間力」なのだ。

            <感謝合掌 平成27年7月15日 頓首再拝>

「六正・六邪」―人材を見わける基本 - 夕刻版

2015/07/16 (Thu) 18:26:57



               *「貞観政要」より

貞観政要ー帝王学

貞観政要ーじょうかんせいようーは平安時代から一貫して
日本人のリーダー学の教科書とも言うべき書物である。

隋の太宗626年ー649年は貞観の治と言われ、理想的な統治があったとされた。
日本では桓武天皇の800年頃輸入され、以後天皇に進講され北条・足利・徳川氏等が用い
民間でも知識人必読書として広く読まれたという。

日蓮も筆写し法話に引用、日本人に貞観政要的思考が広く残っている。

・・・

《六正》

(1)「兆しがまだ動かず、兆候もまだ明確でないのに、
   そこに明らかな存亡の危機を見て未然に封じて
   主人を超然として尊崇の地位に立たせる、これが可能ならば聖臣である」

(2)「とらわれぬ、わだかまりなき心で、善い行いの道に精通し主人に礼と義を勉めさせ、
   優れた計りごとを進言し主人の美点を伸ばし欠点を正しく救う、
   これが可能ならば良臣である」

(3)「朝は早く起き、夜は遅く寝て勤めに精励し、賢者の登用を進める事を怠らず、
   昔の立派な行ないを説いて主人を励ます、これが可能ならば忠臣である」

(4)「事の成功・失敗を正確に予知し、早く危険を防いで救い、
   食い違いを調整してその原因を除き、禍を転じて福として主人を心配させない、
   これは智臣である」

(5)「節度を守り、法を尊重し、高給は辞退し、賜物は人に譲り、生活は節倹を旨とする。
   これは貞臣である」

(6)「国家が混乱した時、諂わずに敢えて峻厳な主人の顔をおかし、
   面前でその過失を述べて諌める、これは直臣である」


              ・・・

《六邪》

(1)「官職に安住して高給を貪るだけで、公務に精励せず世俗に無批判に順応し、
   ただただ周囲の情勢をうかがっている。これが見臣である」

(2)「主人のいう事はみな結構といい、その行いはすべて立派といい、
   密かに主人の好きな事を突き止めてこれを勧め、見る物聞く物すべてよい気持ちにさせ、
   やたら迎合して主人と共にただ楽しんで後害を考えない、これ諛臣である」

(3)「本心は険悪邪悪なのに外面は小心で謹厳、口が上手で一見温和、
   善者や賢者を妬み嫌い、自分が推挙したい者は長所を誇張して短所を隠し
   失脚させたいと思う者は短所を誇張して長所を隠し、賞罰が当たらず、
   命令が実行されないようにしてしまう。これが姦臣である」

(4)「その知恵は自分の非をごまかすに十分であり、その弁舌は自分の主張を通すのに十分、
   家の中では骨肉を離間させ朝廷では揉め事を作り出す。これが讒臣である」

(5)「権勢を思うがままにし、自分の都合のよいように基準を定め、
   自分中心の派閥を作って自分を富ませ、勝手に主人の命令を曲げ、
   それにより自分の地位や名誉を高める。これが賊臣である」

(6)「佞邪を持って主人に諂い主人を不義に陥れ、仲間同士でぐるになり主人の目を晦ませ、
   黒白を一緒にし是非の区別を無くし、主人の悪を国中に広め、
   四方の国々まで聞こえさせる、これが亡国の臣」

              ・・・

《まとめ》

倒産企業や没落する国や団体にはこの六邪がいる。
六邪がいると六正は自ら失脚するか去って行くから六邪が取り仕切り没落する。

賢臣は六正の道に拠り、六邪の術を行わず、故に上安くして下治まる。
生けるときは則ち楽しみ、死すると則ち思われる。

これを現出するのが「人臣の術なり」で人事のことである。

            <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

貞観政要~”十の心構え” - 夕刻版

2015/07/17 (Fri) 19:18:11



貞観政要で太宗の側近、魏徴〔ぎちょう〕が挙げた〝十の心構え〟(十思)

(1)十思の一

   欲しいとなると、前後の見境もなくやみくもに欲しがるようなことをせず、
   自戒することを思え。

(2)十思の二

   アイディアや企画の事業化も、部下のことを忘れてまで夢中で突っ走らず、
   何度か立ち止まって組織の安泰を思え。

(3)十思の三

   危険の多い賭や高望みをしそうなときは、自分の位置を思い、
   謙虚に自制することを思え。

(4)十思の四

   やみくもに事業の拡大や自分を高みに登らせたいという願望が起きたときは、
   自分を低い位置に置けば、そこにあらゆる人のチエや人望も流れ込み、
   おのずから充実してくることを思え。

(5)十思の五

   遊びに溺れそうになったら、限度をわきまえることを思え。

(6)十思の六

   軽率に始めてすぐ飽きてしまいそうになったり、怠け心が出そうだと思ったら、
   始める時は慎重に、そして終りも慎むことを思え。

(7)十思の七

   おだてにのらず、虚心に部下の言葉を聴くことを思え。

(8)十思の八

   中傷や告げ口を嫌い、自らそれらを禁じ、一掃することを思え。

(9)十思の九

   恩恵を与えるときは、喜びのあまり過大な恩恵を与えぬように思え。

(10)十思の十

   罰を加えるときは、怒りのあまり過大な罰にならないように思え。

      (http://xpp.sakura.ne.jp/sub/jougan/jou001.php

            <感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>

貞観政要~”九つの徳” - 伝統

2015/07/18 (Sat) 17:52:52

貞観政要で太宗の側近、魏徴〔ぎちょう〕が挙げた〝九つの徳〟

(1)九徳の一 ~ 寛〔かん〕にして栗〔りつ〕

          ── こせこせしておらず、寛大だが厳しい。


(2)九徳の二 ~ 柔にして立〔りつ〕

          ── トゲトゲしくなく柔和だが、事が処理できる力を持っている。


(3)九徳の三 ~ 愿〔げん〕にして恭〔きょう〕

          ── まじめだが、尊大なところはなく、丁寧でつっけんどんでない。


(4)九徳の四 ~ 乱にして敬

          ── 事態を収拾させる力があるが威丈高ではなく、慎み深い。


(5)九徳の五 ~ 擾〔じょう〕にして毅〔き〕

          ── 粗暴でなくおとなしいが、毅然としている。


(6)九徳の六 ~ 直にして温

          ── 率直にものをいうが、決して冷酷なところはなく、
             温かい心を持っている。


(7)九徳の七 ~ 簡にして廉〔れん〕

          ── 干渉がましくなく大まかだが、全体を把握している。


(8)九徳の八 ~ 剛にして塞〔そく〕

          ── 心がたくましく、また充実している。


(9)九徳の九 ~ 彊〔きょう〕にして義

          ── 強いが無理はせず、正しい。

     (http://xpp.sakura.ne.jp/sub/jougan/jou002.php


            <感謝合掌 平成27年7月18日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(6)チャーチルの闘い抜く信念 - 伝統

2015/07/19 (Sun) 19:37:05


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

1940年5月10日、チャーチルが英国首相に任命された日に、
ヒットラーは満を持して西部国境を破り、戦車を先頭に機甲部隊が
オランダ、ベルギーから北部フランスになだれ込んだ。

英仏両国は、ナチスドイツがポーランドに侵攻した前年秋、ドイツに宣戦布告し、
第二次世界大戦に突入していたが、この期に及んでも英国政府内には対独宥和論が消えない。

多大な犠牲を出した第一次世界大戦(1914~1918年)の後、
英国民に蔓延する厭戦気分に政治指導者たちは迎合し、現実が見えなかった。

1930年代前半から保守党の論客であるチャーチルはナチスの台頭について繰り返し
「欧州に遠からず未曾有の危機が襲うだろう」と警告を発していたが、
党内では厄介者の「好戦狂」として遠ざけられてきた。

知識人たちも、第一次大戦後のベルサイユ条約の講和条件は
敗戦国ドイツにとって過酷すぎるという意見が主流でドイツに同情的だ。

「共産主義ソ連の脅威への楯」としてドイツの再軍備も黙認してきた。

1938年、前任の英国首相チェンバレンはミュンヘンに乗り込みヒットラーと会談し、
ドイツの隣国チェコスロバキアの部分併合にわざわざお墨付きを与える愚を犯している。

「ヒットラーの冒険主義の危険」を英国は見抜けなかった。チャーチルを除いて。

「ドイツとソ連は手を結ぶ」というチャーチルの予言も世間から冷笑されたが、
39年には独ソ不可侵条約として現実のものになる。

 
首相就任の日のことを、チャーチルは
「私は絶対に失敗するはずがないと確信していた」と回顧録に記している。

だが、挙国一致内閣というものの、むしろ保守党内は
「やれるものならやってみろ」と冷ややかで、政権基盤は脆弱だ。

執務の初日からドイツ軍の電撃侵攻に見舞われ、
ライン河方面に送り込んでいた20数万の英国軍はドーヴァー海峡沿いの
ダンケルクに追い込まれ、兵士たちの運命は風前の灯火だった。

戦時閣議では米国を仲介にした対独講和論が台頭する。

「馬鹿な、全員を救い出せ。戦いはこれからだ」。
チャーチルは講和論を打ち消し海軍艦艇を動員して救出に向かわせる。

最高指揮官の強い意志に国民は反応する。
対岸の各港から呼びかけに応じた民間のフェリー、モーターボート、はしけ、ヨットまでが
ダンケルクに向かう。

ドイツ軍の包囲網は徐々に狭まっていた。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月19日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(7)チャーチルのコミュニケーション術 - 伝統

2015/07/20 (Mon) 18:15:17


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

ヒットラーのナチスドイツ軍電撃侵攻で、
英仏軍はドーヴァー海峡に面したフランス北部のダンケルクに追いつめられた。

この間、オランダ、ベルギーは押し寄せるドイツ軍にあっと言う間に降伏し、
圧倒的な陸軍を擁するフランスも弱気になっていた。

チャーチルの度重なる警告にも関わらず、連合国側は“平和ぼけ”していた。


「そうであってほしい」という願望が、「そうである」との事実誤認に化ける。
リーダーたちが避けるべき“希望的錯誤”だ。

 
この場合、「ヒットラーといえど自滅覚悟で挑戦してくるはずがない」という願望に
ヨーロッパ中が支配されている。

 
チャーチルだけは、迫る危機への冷静な判断力を保持していた。


ドイツ軍の侵攻17日後から英国連合軍のダンケルク撤退大作戦が始まった。
呼びかけに応じて駆けつけた民間の船を含めて艦艇は860隻。

兵士たちを次々と船に収容してドイツ空軍の猛爆撃の中、往復する。
十日間で英国軍と連合国の兵士33万8千人が対岸英本土の土を踏んだ。

撤退作戦が終了した6月4日、チャーチルは英国議会下院で不敗の決意を訴える。

「われわれはこの救出を、勝利と受け取らないように注意する必要がある。
撤退によって勝利は得られない」
「ヒットラーはイギリス諸島に侵入する計画を持っているようだ」。

そう国民に警告した後、声のトーンを上げた。

「われわれはいかなる犠牲があっても本土を守り抜く。われわれは海岸で戦い、
上陸地点で戦い、野原や市街で戦い、山中で戦う。われわれは決して降伏しない」

もはやひるむ英国民はいなかった。
これから5年、国民はチャーチルのラジオ演説に希望を求めてかじりついた。
連日の空襲の中で。


6月21日、フランスのペタン政権は降伏。
もはやドイツと戦うのは「ブリテンの戦い(本土防衛戦)」を掲げた英国のみとなった。

彼が国民を一致団結させたのは、
戦いの方向を示し決意をふるい立たせる巧みな演説だけではない。

ロンドン大空襲のさ中でも、国民の前に姿を現しては声をかけ励ました。

チャーチルを「好戦狂」「戦争屋」と罵倒してあれほどに嫌っていた労働者たちも、
「ウィニー爺さん」と呼んで絶大な信頼を寄せた。

演説の名手とされたヒットラーは戦争が始まるや国民の前に姿を見せず、
やがてナチスと対決するソ連のスターリンもクレムリンの奥に籠もり
指揮を執ったのと鮮やかな対照を見せた。 

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月20日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(8)チャーチルが有事にとった組織運用 - 伝統

2015/07/21 (Tue) 21:02:57


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

平時のリーダーシップと有事のそれとは根本的に異なる。 

有事に求められるのは、

  ①素早い決断とその実行のための組織づくり

  ②決断を組織末端まで徹底させるコミュニケーション術

  ③大局を俯瞰(ふかん)して判断する戦略眼

の3点に集約できる。

 
組織づくり。平時においては、まず不動の組織があって、
各組織が決められた役割を分担することですむ。

有事にあっては、膨大で緊急を要する実務を見極め、
それに見合った組織を生み出す大胆さが肝要だ。

「その権限はうちの組織にはありません」。
どこにでもありがちな硬直した組織運用では有事には無責任体制となる。
組織が実務を縛るのではなく、必要な実務が組織を生み出さなければならない。

チャーチルは内閣を組織するにあたってまず国防省を置き、
首相自らが国防相を兼任した。
戦争指揮系統を簡素化し①と②を可能にした。

さらに必要に応じて柔軟に、軍事生産委員会、戦車評議会、
航空機生産省、英米合同原材料庁、英米船舶輸送調整庁などを組織し、
膨大な行政需要に効果的に対応していった。

ある意味、ヒットラー、スターリンと同じく戦時独裁的体制を敷いたのだが、
チャーチルは大いに違う点があった。

議会を重視し、議会に説明し議会の議論を経て、ものごとを民主的に決定していった。

 
指示、指令も上から下への一方的なものではない。
各組織から情報を上げさせ、迅速に処理した。
彼の行く所、決裁書類が大きな箱に詰められ付いて回ったとされる。

「情報は必ず文書で上げろ」は当然としても、
「すべてペーパー1枚に要約するように」と指示した。

目を通した膨大な書類のうち、緊急を要するものには、
「即日実行」の付箋がつけられ戻された。

決断と実行は速度が決め手となる。

 
こうして英国が「ブリテンの戦い」という孤独な防衛戦を継続する中で、
ヒットラーは英国本土上陸を断念し、1941年6月に突如、独ソ不可侵条約を破って
モスクワ攻略に向かった。

あわてふためき必死で持ちこたえるスターリンからチャーチルに要請が届く。
「英国はフランスに再上陸して第二戦線を開くべきだ」

 
「時ではない」

チャーチルは勝利のためのさらに大きな戦略を思い描いていた。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(9)チャーチルの大戦略 - 夕刻版

2015/07/22 (Wed) 19:36:17


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

1940年5月、ナチス・ドイツ軍の電撃的な独仏国境突破でフランスは降伏し、
英国は孤独な本土防衛戦を強いられることになる。

英首相チャーチルは、国民を激励しつつ大きな戦略図を描いていた。

「独ソ不可侵条約は永続しない」という冷静な目と、
「大陸への上陸反攻には米国の参戦が不可欠だ」という世界地図を見据えた大局観に基づく。

チャーチルは若き日に、騎兵将校として赴任したインドで、
寝る間を惜しみギボンの『ローマ帝国衰亡史』などの歴史書、哲学書を読みふけったという。

さらに、19世紀初頭の欧州を覆ったナポレオン戦争の教訓を踏まえ、
「いかに強大な軍をもってしても、戦線を過大に拡大すれば国は滅びる」
「敵と味方は固定的なものではない」という歴史に裏付けられた事実を
信念として学びとっていた。

 
歴史に学ぶ重要さとはそういうことである。
教養としての読書ではない。

先に触れた、「ブリテンの戦い」の決意を表明した演説はこう結ばれている。

「神のご都合の良い時に、
新大陸がその力をもって旧大陸の救出と解放に乗り出してくる時まで」。
戦争に巻き込まれることをためらう「新大陸」米国の参戦を見据え、促している。

一方のヒットラーも、欧州大陸を席巻し、
英国をブリテン島に押し込んだ大戦初期のこの段階で、
「英国が勝てるのは、米ソが参戦した場合だけである」と周辺に語っている。


情勢を読み取る「勘」はあったが、背反する行動をヒットラーは取る。

空爆に耐える英国への上陸をあきらめた彼は反転して“同盟国”のソ連に攻め込む。

さらに1941年12月に日本が真珠湾奇襲に成功するや米国に宣戦布告し、
「欧州の戦争」から距離を置く米国を自ら戦場に引き込むことになる。

 
チャーチルは、第一次世界大戦の経験から陸軍同士の正面戦は
ただただ無駄に膨大な犠牲を生む消耗戦に陥ることを熟知していた。

英国軍のフランス上陸による第二戦線構築をせっつくソ連のスターリンに対して、
欧州を占拠したドイツを巨大なワニにたとえて説得した。

その口が牙をむくフランスへの上陸を避け、「柔らかな腹部を攻撃する」の基本戦略を示し、
北アフリカに兵を送り、地中海の制海権を掌握する迂回作戦に全力を注ぐ。

そして、兵の消耗を防ぎながら、来るべきノルマンディー上陸の
「Dデイ」に向けて戦備を整えることを忘れなかった。   

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(10)チャーチルの準備された楽天主義 - 伝統

2015/07/23 (Thu) 20:42:20


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

ナチスドイツとの戦いを勝利に導いた英国首相、チャーチルは楽天的な準備の人である。

英仏海峡を越えての上陸反攻を「時にあらず」として自重しつつ、
北アフリカ、中東に軍を進める迂回作戦を取ったが、
ノルマンディー上陸の「Dデイ」に向け着々と手を打つ。

かつて海軍大臣を努めた第一次大戦でのトルコ上陸作戦の失敗から、
大規模な上陸には上陸用舟艇、水陸両用戦車が必要であるとして
その斬新な軍備の増産を命じる。

さらに近代戦に不可欠の空軍力の強化も空前の速度で進めた。

最大のカギは、米国の本格参戦だった。
1941年8月、参戦を逡巡していた米大統領・ルーズベルトを説得するため
米国沖に赴いたチャーチルは大統領の頑なな言葉に愕然とする。

「合衆国はファシズムを憎むのと同じく、英国の帝国(植民地)主義も認められない」

というのだ。

この会談の際、チャーチルが風呂から上がるとルーズベルトがいきなりドアを開けた。
裸のチャーチルがすかさず振り返って言う。

「大英帝国首相は、合衆国大統領の前に隠すべきものは何ひとつない」

この危機にも忘れぬウィットに、険悪だった二人は打ち解けた。
米英両国はともにファシズムと戦うことを誓う「大西洋憲章」を結ぶことになったのだ。

1943年6月6日、米英軍を主力とする連合軍17万6千の将兵が
北フランスのノルマンディの海岸に上陸する。
追いつめられたヒットラーは1年後に自殺し、ドイツは降伏する。

 
ヒットラーは遺書に敗因を書き記した。

「あの大酒飲みの半アメリカ人(チャーチルの母は米国人)さえいなければ、
老化した動脈硬化の英国なんか…」。

ヒットラーとは、欧州に襲いかかった一つの狂気であった。
しかも戦いに関して天賦の勘を備えている。
勘をそなえた戦い上手な狂気にだれしも手こずる。経営者なら思い当たるだろう。

しかし案ずることはない。歴史に学んだ正気が、こうした狂気に敗れることなど、
これまでも、これからもないのだ。

チャーチルがのこした言葉から、危機を乗り切るための金言をふたつ紹介しておこう。

 
  「危機が迫ったとき、決して逃げてはいけない。危機が倍になる。
   ひるむことなく決然と立ち向かえば、危機は半分となる」


  「人生ではしばしば最初に直面する試練が最も厳しい。
   一度その困難を乗り越えれば、道は比較的容易になる」


            <感謝合掌 平成27年7月23日 頓首再拝>

指導者の条件25(公明正大) - 伝統

2015/07/24 (Fri) 20:46:33


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自ら省みてやましいところなきを期さなくてはならない。

後漢の時代に、ヨウシンという高潔をうたわれた政治家がいた。

この人がある地方の太守として赴任していったところ、
たまたま以前に引き立ててやったオウミツという人が夜分に訪ねてきて、
色々昔話などしたあと、大枚の黄金を取り出し、ヨウシンに贈ろうとした。

ヨウシンが受け取るのを断ると、
オウミツは、「こんな夜中で、この部屋には私たち二人しかいないのですから、
誰にもわかりませんよ」と重ねてすすめた。

その時にヨウシンはこういったという。

「君は誰も知らないと言うがそうではない。
まず天が知っている。地も知っている。
それに君と私自身が知っているではないか」

これにはオウミツも恥じ入って下がったが、
ヨウシンはその後ますますその人格が評価され、
中央政府の高官に栄進したという。

”省みて直ければ千万人といえども我往かん”という言葉もあるが、
人間というものは、その考えるところ、行うところにやましいものがなく、
いわゆる公明正大であれば、そこに非常な勇気というか力強さが生まれてくるものである。

他人に対して恥ずかしいようなこと、非難されるようなものを持っていたのでは、
どうしても物事を進めるに当たって力弱いものになってしまう。

しかしまた、人間は一面弱いもので、
人が見ていないところではつい誘惑にかられてよくないことでもしてしまいがちである。

実際の所、警察というものがなければ泥棒もやりかねない
といった面を多くの人が心の底に持っているのではないだろうか。

けれども、それだからといって、よくないことをして
それで全く平気でいられるかというとそうではない。

人間には誘惑にかられやすい弱さもあるが、同時に良心というものがある。

だから、他人はたとえ誰も見ておらず、誰一人知らなくても、
自分の良心の目を逃れることはできない。
それでは、結局真の力強さは生まれてこないだろう。

結局大切なのは、他人が知っているということよりも
自分が知っているということである。

天とか地というのはいわば神が知っているということだと思うが、
これも現代的に解釈すれば、自分の良心が知っているということになるのではないだろうか。

だから指導者として、真の勇気を生み出し力強い活動をしていくためには、
まず自らの心に問うて、やましいところがないか、公明正大であるかということが
大切だと思うのである。

            <感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(11) 壬申の乱と天武の決断 - 伝統

2015/07/25 (Sat) 18:15:04


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)


「大王(おおきみ)がお呼びです。物言いには気をつけられませ」。

7世紀後半、独裁権力をほしいままにした天皇・天智は琵琶湖のほとり、
近江の大津の宮で瀕死の床にあった。

天智の弟、大海人(おおあま、後の天武天皇)は親しい使者から宮殿に呼び出しを受けた。

「わしも永くはない。皇位を継いでもらえるか」。

病床の兄の言葉に大海人はとまどった。

 
天智はこれに先立ち息子の大友(おおとも)を太政大臣に据え、
だれの目にも大友後継の布石に見えた。

「心変わりか、それならば」と一瞬心が動いたが、
気ごころを知った使者のひとことが気にかかった。

「物言いに気をつけよ」。罠だと悟った。

 
応諾すれば「謀反の心あり」として斬り殺される。
数十年の間、皇位継承をめぐっては、同じ謀略が繰り返されて来た。

 
「私も病がち、とてもその任には」と兄の申し出を断り、
「きょう出家して仏道に入る」と言い残すと控えの仏間ですぐさま剃髪し、
皇太弟として託されていた武器を国庫に戻し、吉野の山を目指した。

 
「仏門に入ったとなれば、無茶な追い討ちもできんな」と兄は考えつつも、
吉野に下った弟の動静監視を怠らなかった。

弟は写経、読経三昧で二心のないことを見せる。

こう着状態のままで翌々月、天智は崩御する。

後継者を血縁から選ぶにしても、側近として経験豊富な弟にするか、
若くとも決して裏切ることのない息子とするか、だれしも迷う。
親なれば子への想いはひとしおのものがある。

 
と書けば、どこにでもある下世話な跡継ぎ争いになってしまうが、
大海人には、後継争いを越えたより大きな国家像が見えていた。

兄は軍事クーデターで大豪族の蘇我氏を滅ぼし(645年)、
翌年断行した大化の改新で皇族中心の律令国家を目指したものの改革は中途半端で、
特権を取り上げられた豪族たちの巻き返しにあっている。

百済一辺倒の朝鮮半島外交では、唐・新羅の挟撃にあって滅んだ百済の再興を
しゃにむに支援し、白村江の戦い(663年)で派遣した水軍が惨敗を喫して、
唐の本土追撃におびえ、飛鳥の都まで放棄した。

「これでいいのか」。

常に兄に寄り添い従ってきた大海人は、激動する国際情勢を思うにつけ、
「今こそ大胆な国家改造が求められている」と、読経三昧の吉野で考えていた。

(次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月25日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(12) 天武 決起のタイミング - 伝統

2015/07/26 (Sun) 19:13:37


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

天皇・天智は息子の大友を後継に指名して世を去った。

「いま立ち上がらねば野たれ死にだ」。
大友にとって即位の邪魔者となった叔父の大海人(おおあま)は吉野の山里にこもって焦る。

相手は絶大な権限と軍を持つ近江朝廷、自らには兵もいない。

吉野に下った大海人(おおあま)に付き従った側近はわずか10人にすぎない。

当面の身を守るのは、身をやつした出家の立場のみ。
それとても兄・天智の大喪作業がすめば、
その子、大友が公式に皇位に就き軍を差し向けるだろう。

それから決起したのでは皇位簒奪、反逆の汚名を着ることになる。

決起のタイミングがかぎを握っていた。大海人の情報収集が始まる。

畿内の大豪族は朝廷方についたが、不満をかこつ地方豪族はどうか。

大海人の直領地として密接なつながりのある美濃の安八磨(あはつま)郡からは
秘かに兵供出の約束も取り付けた。

天智崩御から半年後。その美濃から、
「朝廷が天智陵造成のための労役を募集している」との情報が届いた。
当時、労役は軍役に等しい。

近江と吉野の間の宇治川で、朝廷が吉野への食糧運送の荷を止めているとの通報も。
しびれを切らした大友が動き出したのはまちがいない。

「いかに黙して身を亡ぼさむや(このまま黙って滅ぼされてたまるか)」と、

この時、大海人は決断の一声を上げたと日本書紀は伝えている。

大海人は、馬の手当も待たず吉野を脱出した。
付き従うのは妃(後の持統天皇)、皇子・草壁のほか、男女30人に過ぎなかった。

  
この稿で何度も強調してきたが、危機脱出の成否を握るのは、
的確な情報に基づく情勢判断と迅速な行動、そして明確な目標にある。

「甥とはいえど大友を討つ」と目標を定めた大海人の決断と行動は速かった。

吉野から宇陀へ山道を抜け、そこで伊勢から飛鳥へと
荷を運ぶ馬50頭と出会う幸運も呼び込んで、この馬に乗る。

猟師の先導で名張、伊賀へと間道を松明を掲げて徹夜で駈け抜けた。

地図でその行程をたどってみると、約100キロを15時間で走り切っている。

  
孫子の兵法が説く「疾(と)きこと風の如し」。

672年6月24日のことである。 

  (次に続く)


            <感謝合掌 平成27年7月26日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(13) 天武の「謀反の兵法」 - 伝統

2015/07/27 (Mon) 19:57:39


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

天皇・天智の死後に、その子で後継者の大友との決戦を決意し吉野を脱出した天智の弟、
大海人(おおあま)は美濃への道を急ぐ。

側近わずか30人を引き連れて、敵の監視の目を逃れての逃避行は、
追いつめられて虎の尾を踏む危ない賭けにみえるが、計画は綿密に練られていた。

決起の2日前、大海人は側近を美濃へ派遣し、美濃と近江を隔てる天険にある
不破(ふわ)の関(関ヶ原)を兵で固めるように指示している。

さらに吉野出立の前日には大津の宮に密使を出して、
息子の高市(たけち)、大津(おおつ)の二人に挙兵を告げている。

 
自ら天皇・天武として即位後に編纂した『日本書紀』では、
「やむを得ず」の挙兵であったと強調しているが、
それは「謀反」の汚名を避けるためであって、事実は事前に計算された「計画的犯行」だ。

さて大海人は、吉野から美濃への決死行の途中、
近江から脱出した高市、大津の二人の皇子と合流し、
ただちに高市を総司令官として不破の関に向かわせる。

伊勢、美濃では計画通り地元豪族が立ち上がり、鈴鹿、不破の両関の封鎖は完了した。

外敵を畿内に入れないための古代の関所の役割を、大海人は逆手にとり、
朝廷と軍事動員の拠点である東国との間の連絡を遮断した。

さらに大海人は、大友方を追い込むに「二正面作戦」を取る。

不破での正面戦に近江勢力が全力を注げば、軍勢の数ではかなわない。
そこで、近江の背後の大和に決起を促し、敵の軍勢の二分を余儀なくさせることにした。

大和の戦線が膠着し敵の軍勢が裂かれたのを確認して、
不破の後方に陣取る大海人は、皇子・高市の軍に進撃を命じる。

「一気に大津の宮へ攻め込め」

「それ未だ戦わざるに廟算(びょうさん)して勝つ者は、算を得ること多ければなり」
(勝つ者は戦う前に勝算があればこそ戦いを挑む)= 『孫子』計篇。

まず立ち上がってから勝利を算段する謀反など成就しない。
本能寺に織田信長を討った明智光秀のその後の運命を見るまでもない。

琵琶湖東岸を南下し各地に朝廷軍を破った大海人軍は、
大友を大津に追いつめ、大友は自害する。

大海人が、吉野を出発して、ちょうどひと月後のことだった。

あっけない勝利の裏に半年をかけた情勢分析と準備があった。 

   (次に続く)

            <感謝合掌 平成27年7月27日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(14) 天武の建国と国家危機意識 - 伝統

2015/07/28 (Tue) 18:00:03


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

皇太子である大友との戦いに勝利した皇太弟・大海人(おおあま)は、
戦勝後1か月半を美濃の不破にとどまり、戦後処理に専念する。

死罪は、近江朝廷の右大臣・中臣金(なかとみのかね)らわずか7人だけで、
その他の大友の側近の多くは流罪にとどめられ、官僚たちは新朝廷で重用した。

先帝の天智が大友を後継者に指名した事実を踏まえれば、
大海人の挙兵は謀反、軍事クーデターである。

大友がいまだ公式に最高位に就任していなかったとしても、
跡目争いを巡る「私闘」のそしりは免れない。

事実、皇国史観を維新の大義にすえた明治政府は困惑する。

朝廷に弓を引いた壬申の乱はまずい、との判断から教科書の記述から外したこともある。

 
しかし目を当時の東アジアの国際情勢まで拡大して俯瞰すれば、
壬申の乱の違った側面が見えてくる。

乱後の動きを見る必要がある。

 
大海人は672年9月に飛鳥の古京に戻り、そこを都に定め、翌年、天武として即位する。

天智が皇太子時代から外交を担当した7世紀の倭(日本)は、
中国・唐の強大化で激動する朝鮮半島情勢に、
百済一辺倒外交を展開し外交・軍事両面で敗れた。

その結果、防衛の必要から近江遷都を余儀なくされた。

天武が都を大和の地に戻すことができたのは、
百済一辺倒だった天智外交の刷新があったればこそだ。

唐との連携で百済、高句麗を滅ぼし朝鮮半島を統一した新羅(しらぎ)は、
やがて唐と対立するようになる。

 
『日本書紀』の天武時代の記述をみれば、
唐、新羅の外交団が引きも切らずに日本を訪れ日本の使者も送られている。
唐と新羅がそれぞれの思惑で日本を味方に引き込もうとする外交戦が始まる。

天武は、いずれ一方に寄ることなくバランス外交を展開。
二度と朝鮮半島に兵を出すこともなかった。
そして内政の充実に専念する。

唐、新羅にならって官僚制度を充実させ、
律令(法制度)支配による中央集権を強化する

。明治維新後の大久保利通の戦略も同じだ。

「天皇」の称号も、「日本」という国名も天武から始まる。

壬申の乱という大内乱が国を開いた。

「国を立てる」。

国際情勢を踏まえた広い目と強い思いがなければ、乱も成就しなかった。

 
組織生活の中では誰も覚えがあるが、身に及ぶ危機は常に隣り合わせだ。
私怨、権力闘争の衣をまとった危機の本質を、
国家、社会、企業の危機と受け止める度量と先見性があるかどうかが、
謀反と革新の道をわける。

古代最大の内乱にそれを学ぶ。

            <感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>

リーダーの3つの条件 - 伝統

2015/07/29 (Wed) 19:30:25

リーダーの条件

           *「致知」2015.4月号より
            ~セーレン会長兼CEO 川田達男氏

(1)一つ目は「常に新たな発想、果敢な挑戦」ですね。
   現状に満足せず、チャレンジ精神をもってやり続けること。

(2)二つ目は、これは私の座右の銘でもありますが、「流汗悟道」。
   とにかく汗を流さないと道は悟れない。現場に真実がある。
   
   現場を歩き、現場とともに汗を流す。
   一所懸命働くことが大事。

(3)三つ目は、「不易流行」。
   変えるべきことと変えてはならないことをしっかり判断する。


            <感謝合掌 平成27年7月29日 頓首再拝>

指導者の条件26(志を持つ) - 伝統

2015/07/30 (Thu) 17:17:01


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は常に理想を描き大きな志を持たなくてはならない。

明治9年、アメリカのアマスト大学学長のウィリアム・クラーク博士は、
招かれて、北海道に新設された札幌農学校の教頭に赴任した。

そして、8ヶ月間にわたって24人の学生と寝食をともにしつつ、教育を行い、
その学生の中から佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造など、偉大な教育者が生まれている。

そのクラークが、学校を去るに当たって
、学生達に残した言葉「少年よ、大志を抱け」はあまりにも有名である。
我々がお互いの人生を歩む上で、何かしら志を立てるということはまことに大事である。

孔子は「われ十有五にして学に志す」と言っているし、
日蓮上人は、12歳の時に「日本一の智者になろう」という志を持ったと言われる。

そのように一つの志を立て、それを一生貫くということもあろうし、
あるいは人生のその時々にある志を持ち、
それを次々と遂げていくということもあるだろう。

それは色々な姿があっていいと思うが、
そういうものを何も持たずして、ただ何となく日々を送るということでは、
人生の喜びも生き甲斐もうすいものになってしまうだろう。

やはり、一つの志を立て、その達成を目指して歩むところに、
力強さが生まれてくるのだと思う。

個々の人生でもそうなのだから、
まして指導者には志がなくてはならないのは当然である。

指導者が志を持ち、それを人々に訴え、皆が志を同じくして進む
というところにおのずと力強い歩みが生まれてくる。
指導者がそういうものを持たなくては、皆が進むべき道を見失ってしまう。

そして、その志はやはり大きく立てるべきだと思う。
もちろん全く現実から離れた夢のようなことという意味ではないが
”棒ほど願って針ほどかなう”ということわざもある。

志を大きく持ち、高い目標を掲げてこそ、ある程度の事がなっていくのであって、
はじめから、志を小さくし、目標を低きに置いたのでは、
かなうことでもかなわなくなってしまう。

だから、現実というものから遊離してはいけないけれども、
現実を見つめつつも、いわゆる理想を描くというような姿で、
大きな志を立てることが大事なのだと思う。

その意味で、クラークの言葉は、
「指導者よ、大志を抱け」と置き換えても立派に通用するのではないだろうか。

            <感謝合掌 平成27年7月30日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(15) 核戦争の瀬戸際、キューバ危機 - 伝統

2015/07/31 (Fri) 19:03:42


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

「大統領、これを見てください」。
1962年10月14日朝、ホワイトハウスの大統領執務室に、
スパイ偵察機がキューバ上空から撮影した数百枚の写真が持ち込まれた。

それは若き大統領、ジョン・F・ケネディに衝撃的な事実を告げていた。
フロリダから目と鼻の先にあるキューバに米本土への核攻撃が可能な
弾道ミサイル基地が建設中であることを示していたのだ。
核兵器搭載可能なソ連製の爆撃機21機も写っていた。

東西冷戦まっただ中の1959年、フィデル・カストロに率いられたキューバ革命軍が
親米バチスタ政権を倒し、社会主義政権を樹立していた。

ミサイル基地建設が発覚した前月の2日に、
ソ連のフルシチョフ書記長はカストロとの間で「帝国主義の脅威に対抗するため」の
対キューバ軍備支援を明確に打ち出していた。

しかし、米国の情報当局は、「ソ連の軍事支援はあくまで防衛軍備に限られている」
と繰り返し大統領に伝えていた。

チャーチルの項でも触れた「思い込みによる錯誤」だ。

キューバに攻撃用武器を持ち込むことは、米ソ戦争を引き起こす。
しかも核兵器の配備は核戦争につながることは必至だ。

「いくらソ連でも、米国の庭先でそんな馬鹿なまねはしないだろう」
という思い込みが米側にあった。
しかし、それは裏切られた。

「何ということだ」と、ケネディは怒りに震えながらも、決断していた。

キューバでの攻撃用ミサイルの存在は認められない。
すべてのミサイルを撤去させる。
そのための交渉を行うが、武力は使わない。

「武力行使は核戦争を招く」。
それだけは避けたかった。
それは地球の破滅を意味した。

ケネディは、報告内容を極秘とした上で、情報の精査を命じた。

核ミサイル持ち込みが間違いないとなった2日後の16日、
ホワイトハウスに国防省、国務省の両長官、CIA長官、統合参謀本部議長ら
危機管理のトップメンバーを集めて「最高執行会議」(EXCOM)を立ち上げ、
「核ミサイル持ち込みの理由とミサイル撤去の方法の検討」を指示した。

初日の会議では、軍関係者らが「武力攻撃」を強く主張し、
「平和的解決」を献策する国務省との間で意見は激しく対立する。

軍部の強硬論には複雑な理由があった。
1961年の就任以来、ケネディがとってきた微温的な対キューバ政策への反発だ。

手のうちが読めないソ連だけでなく、身内にも見えない“敵”を抱えていた。

この日から、人類を破滅から救うための13日間の戦いが始まる。  

  (次に続く…)

            <感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(16) 「弱腰批判」に悩むケネディ - 伝統

2015/08/01 (Sat) 20:25:05


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

ソ連が米国の庭先にあるキューバに核ミサイルを持ち込むという危機を目の前にして、
米国大統領ケネディは、人類の存亡をかけた重大な判断を問われた。

「武力行使は行わず外交的にミサイルを撤去させる」との意思を固めていたが、
軍部と国民の納得を得るためには慎重な作業が必要だった。

話は遡ってアイゼンハワー政権末期の1960年6月、
キューバのカストロは、国内の米英系の石油精製所を国有化し社会主義化を進める。
放置すれば周辺諸国に社会主義が蔓延する。

アイゼンハワーは、亡命キューバ人と共同での侵攻作戦を立案して極秘に準備を進める。

翌年1月、政権を引き継いだケネディは就任早々、
中央情報局(CIA)と統合参謀本部から、侵攻作戦の許可を求められた。

ケネディ自身、前年の大統領選挙の過程で、
軍事侵攻を「好ましい選択」として容認の姿勢を見せていただけに対応に苦慮した。

考慮の末に、米軍は直接に関与しないという条件で許可した。
結果的に同年4月、米軍の支援なしにピッグス湾に上陸した
約1,500人の亡命キューバ人部隊は撃退される。

CIAは米空母からの空爆支援を要請するがケネディは言下に拒否し、作戦は失敗した。

この時の煮え切らない態度が広く米国民の中に「弱腰大統領」のイメージを定着させた。

翌月には、2年間のケネディ政権が評価される議会の中間選挙を控えていた。

その中で迎えたキューバ危機だ。
「あの時、キューバを叩いていれば」の世論を巻き起こし
与党の民主党の惨敗はまぬがれない。

悩むケネディは、司法長官に任命し政策立案の中枢を任せていた弟のロバートを呼んで、
「国民に情報を伝える前に、方策をまとめ上げてほしい」と託した。

ロバートは、自ら取り仕切る「最高執行会議」(EXCOM)3日目の10月18日の会議で
5つの選択肢を示した。


(1)同盟国とラテンアメリカ諸国の指導者に通告したあとミサイル施設を爆撃する。

(2)フルシチョフ(ソ連首相)に警告したあとでミサイル施設を爆撃する。

(3)キューバ侵攻の決意をソ連に通告する。

(4)米ソで政治的予備会談を開き、ミサイル撤去の合意に失敗すれば
   大規模空爆と軍事侵攻を実施する。

(5)予備会談なしに大規模空爆と軍事侵攻を実施する。


もしあなたが弱腰批判と核戦争回避のはざまで揺れる大統領なら、どれを選ぶだろうか。

  (次に続く…)

            <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(17) 議論を尽くし収斂させる - 伝統

2015/08/02 (Sun) 17:50:08


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

核戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機に際して、
米国大統領ケネディが最高執行会議(EXCOM)での議論をリードし、
決断した方法は意外なものだった。

ケネディは議論の場に加わらなかったのだ。無責任なのではない。

絶大な権限を持つ大統領が出席すれば、だれもがその顔色をうかがい、
普段は個性の強い独自の意見を持つものでさえ、保身のために
大統領の耳に心地がよい意見を披瀝する。

「それを避けるためだ」と、
大統領への献策をまとめあげた弟の司法長官、ロバートは、のちに振り返っている。

 
「案は一つでなくてもいい、議論を尽くして、即時軍事侵攻案であれ、
外交交渉案であれ、互いに対立案の長所、問題点を洗い出せ」

というのが大統領の指示だ。

当初から、大統領の頭には、軍事力行使のオプションはない。
しかしそれは示さない。

議論を経て、二案に煮詰まってきた。

キューバへこれ以上のミサイルを持ち込ませないための
「海上封鎖案」と、「即時軍事行動案」だ。

それぞれに対立派からの精密な批判を受けることによって、具体的に肉付けされてきた。

封鎖案は、法的根拠と効果、船舶停止と臨検のための軍事的手続き、
軍事行動への転換のタイミングが、即時軍事行動案は、効果的な攻撃地域の選定、
国連の反発への対応、中南米諸国の説得策が、それぞれ詳細に具体化してくる。

 
極秘のうちの議論が始まって五日目。
詳細な二案の提出を受けた大統領は、決断を下した。

「まず海上を封鎖し、それでもソ連が強硬姿勢を示せば、
武力行使も辞さない米国の強い意思をフルシチョフに伝える」

安易な折衷案か。違う。
議論を尽くした上で組み立てられた精緻な総合案なのだ。


対立を尊重した上で信頼する部下に将来を踏まえた手順を作成させる。
そして全責任を取って決断する。
それがリーダーの使命であり、求められる資質なのだ。

強力なトップにへつらって議論を尽くさず、曖昧な方針で見切り発車して陥穽にはまる、
そんな危機管理の失敗例は枚挙に暇がない。

最近では、誤報問題の処理をめぐって、謝罪と強硬突破の間で揺れ、
いつまでも社会から指弾を浴び続ける某新聞社の対応。
ケネディの決断と比べれば、何が違うかが分かる。

1962年10月22日夜、ケネディはテレビ演説を通じて国民に危機の発生と、
海上封鎖の実施を知らせ、「国民の団結」を呼びかける。

そして、海上封鎖のための海軍艦艇をカリブ海に集結させた。
望まないシナリオであっても武力行使の可能性に備えて、
陸、空軍部隊をキューバに近い南東部に移動させることも指示した。

あとは、ソ連首相フルシチョフの出方にかかっていた。  


  (次に続く…)

            <感謝合掌 平成27年8月2日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(18) 五分の勝利(引き分け)が道を開く - 伝統

2015/08/03 (Mon) 19:27:47


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

キューバ危機打開に向けて、米国大統領ケネディが、
海上封鎖でソ連の出方を探るという方針を国民に示して2日後の1962年10月24日朝、
ホワイトハウスは緊張に包まれていた。

複数のソ連の船舶が海上封鎖をあざ笑うかのように、封鎖線突破の動きを見せていた。
フルシチョフに警告は通じないのか。判断は間違っていたのか。危機は最高潮に達する。

数分後、6隻のソ連船が封鎖線直前で停止し、引き返し始めたとの情報が入った。
とりあえずの危機は回避されたのだ。

この前後、ソ連首相のフルシチョフとケネディは、
弟ロバート(司法長官)と駐米ソ連大使を通じて、
精力的に書簡を往復させ意見交換を していた。


 「われわれは、ミサイルは搬入したが、米国攻撃の意図はない」と、フルシチョフ。

 「米国こそ(ビッグス湾事件のような)キューバ侵攻を繰り返さないと約束すべきだ」

 
さらに、ソ連は、米国がモスクワ牽制のためにトルコに配備したミサイルの撤去を要求し、
ケネディは国民には極秘で合意した。

フルシチョフは、「トルコのミサイルに関する合意の秘密は守る」と
ケネディの憂慮を解いた上で、10月27日朝、キューバからのミサイル撤去を通告してきた。
米軍部の反発を考慮しての裏取引だった。

大統領の意を受けて奔走したロバートは、
「相手の立場に立って考えることが重要だった」と危機の13日間を振り返っている。

 
ケネディは、必ずしも一枚岩ではないソ連指導部内でのフルシチョフの立場を気遣い、
秘密合意で面子を立てる。

一方のフルシチョフは、ロバートから、
状況が長引けば大統領が軍部を制御できなくなると訴えられ、
「私はその危険を見落とさなかった」(『回想録』)と、決断の背景を打ち明けている。

危機回避後、両首脳間にホットラインが設けられ、
翌年8月には、部分的核実験停止条約が調印されることになる。

 「戦いは、五分の勝利をもって上とし、七分を中とし、十分をもって下とす」(武田信玄)

 
軍部が主張した空爆、上陸侵攻による十分の勝利ではなく、
妥協による五分の勝利が、平和共存への道を開いた。

しかし、やがてケネディ兄弟は相次いで国内不満分子の手で暗殺され、
フルシチョフは、政争に敗れ幽閉されて生涯を閉じる。

相手を配慮する危機回避の知恵は皮肉にも、
「五分の勝利」を受け入れられない互いの国内の不満から力によって踏みにじられ、
冷戦下の体制競争と対立は、それから約30年、ソ連崩壊まで続くことになる。

            <感謝合掌 平成27年8月3日 頓首再拝>

指導者の条件27(心を遊ばせない) - 伝統

2015/08/04 (Tue) 19:09:36


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は体は遊んでいても心は働かせていることが大事である。

古代ギリシャの哲学者であり、科学者でもあるアルキメデスが、
ある時王様から、純金製であるべき王冠に
何か不純物が混じっていないか調べるように命じられた。

つまり、職人に金塊を渡して王冠を作らせたのだが、
その職人が不正をしたという噂が立ったのである。

王冠を壊して分析すれば簡単だが、それは許されないということで、
アルキメデスも思案に余ってしまった。

ところがある日、公衆浴場に行った時に、湯船からお湯があふれるのを見て、
王冠とそれと同じ重さの金をそれぞれ水に入れ、その時にあふれる量を比べれば
王冠が純金製かどうかがわかることに気付いた。

そして喜びのあまり「わかった、わかった」と叫んで裸のまま飛び出し、
早速実験してみた結果、不純物が混じっていることが証明されたという。

このことはアルキメデスが学者として
いかに熱心に真理探究に心を費やしていたかを物語っている。

彼は四六時中その問題について考えていたのだろう。
それで、一度のんびり風呂にでも入ってサッパリしようとしたのだろうが、
その時にも心の方は遊んでいなかったのであろう。

それでお湯のこぼれるのを見て、パッとひらめくものがあり、
解決の道が見つかったわけである。


これは学究者としてまことに尊い姿だと思うが、
指導者というものも、本質的にはこういう姿でなくてはならないと思う。
常に心を働かせていなくてはいけない。

もちろん指導者といえども、
四六時中仕事をしていなくてはならないということではない。
それではとても体がもたない。

だから時に休息したり、あるいはレジャーを楽しむということもあっていいと思う。
ゴルフをするなり、温泉に行くのもそれなりに結構である。

しかし、そのように体は休息させたり、遊ばせたりしてもいいが、
心まで休ませ、遊んでいるということであってはならないと思う。
心は常に働いていなくてはいけない。

たとえ温泉につかっていても、
心の方は、政治家であるなら政治のことを、経営者であるなら経営のことを、
どこかしらで考えているということが大切だと思う。

そうであれば、アルキメデスのごとく、
お湯のあふれる姿からも何かヒントを得ることにもなってこよう。

全く遊びのうちに心を許してしまうというような人は、
厳しいようだが、指導者としては失格だと思う。

            <感謝合掌 平成27年8月4日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(19) 失敗の教訓を生かせ - 伝統

2015/08/05 (Wed) 20:08:09


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

昭和30年代に小学生だった人なら、
給食で飲まされた経験のある脱脂粉乳にまつわる話である。

昭和30年3月1日午後から2日にかけて、東京都内の児童ら1,936人が、
相次いで激しい嘔吐や下痢、腹痛などの食中毒症状を起こした。

給食に出された脱脂粉乳が原因として疑われたが、
製造した雪印乳業(現雪印メグミルク)は当初、会見で
「厳重な出荷検査をしているので製品に間違いはない」と強気の対応を見せた。

しかし、翌3日になって、保健所の検査で、問題の脱脂粉乳から
溶血性ブドウ球菌が検出されると、佐藤貢社長の対応は素早かった。

即座に製品の販売停止と回収を指示し、新聞各紙に謝罪広告を載せる。
そして社長自らが工場で原因調査に当たった。

製品を出荷した北海道八雲工場の生産ラインで、
停電と機械故障が重なり、原因菌が増殖したことがわかった。
前日残った牛乳を使い回ししていたことも判明した。

対応が一段落すると、佐藤社長は問題を起こした八雲工場に全従業員を集め、
「品質によって失った名誉は、品質をもって回復する以外に道はない」として、
次のように訓示した。

「信用を獲得するには長い年月を要し、これを失墜するのは一瞬である。
そして信用は金銭で買うことはできない」

「機械は、これを使う人によってよい製品を生産し、あるいは不良品を生産する。
機械は人間の精神と技術をそのまま製品に反映する」

「今回の問題は当社の将来に対して幾多の尊い教訓をわれわれに与えている」

訓示を受けて「すみませんでした」と泣きじゃくり土下座する製造課長を
抱き上げた社長は、「これからが大事なんだよ」と諭した。

同社は、衛生管理、検査部門を独立させ、検査網を強化した。
同時に衛生教育を徹底させた。安全管理マニュアルも整備した。

しかし、佐藤社長が強調し求めたのは、
まさに、それを実行する従業員の高い意識だった。

製品事故は起こしたが、報じられる一連の雪印の対応は好感をもって
消費者に受け入れられ、この年の売上は増えた。

社長訓示は「全社員に告ぐ」と題されて全従業員と、
翌年からは新入社員にも配られ、社訓となって受け継がれていった。

それから45年過ぎた2000年6月、
雪印は「低脂肪乳」を原因とする被害者14,780人に及ぶ大食中毒事件を起こす。

その対応のまずさが、押しも押されもせぬ世界ブランドに成長した雪印を揺さぶることになる。 

  (次に続く)

            <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

危機を乗り越える知恵(20) 忘れ去られた教訓 - 伝統

2015/08/06 (Thu) 18:10:31


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

雪印乳業が脱脂粉乳による集団食中毒事件を乗り越えてから45年経った2000年6月27日、
同社大阪工場製造の低脂肪乳を飲んだ子供が下痢と嘔吐の症状を訴え、
病院から大阪市に通報があった。

これが事件の始まりである。

翌日には発症者の届け出が増え、市は製造自粛と製品の回収を指導した。

しかし、雪印側は「うちが原因と決まったわけでない。うちに限ってそんなことはあり得ない」
と頑なに拒んだ。

石川哲郎社長に事故が伝えられたのは29日になってから、同社はようやく会見に応じて
事実を公表したが、回収作業は遅れ、被害は隣県におよび、14,780人が症状を訴える
戦後最大の食中毒事件に発展した。

大阪工場の逆流防止弁の洗浄不足が原因と発表して
原因菌の繁殖は大阪工場に限定されるかに見られたが、事態はさらに深刻化する。

大阪府警の捜査によって、大阪工場に原材料の脱脂粉乳を出荷していた
北海道の大樹工場に原因があることが分かったのだ。

同工場で起きた停電事故で、タンク内に滞留した脱脂乳に原因菌が繁殖、
マニュアルでは滞留した材料の廃棄を定めていたが、

工場では、「殺菌すれば問題ない」として、これをラインに乗せたまま
製造を再開するという不手際が明らかになった。

後手後手に回る社の対応に、消費者の雪印製品への不信感は高まり、
スーパーから全製品が撤去される騒ぎとなった。

 
雪印は前回の事故以来、最新の設備を誇り、業界をリードするトップブランドに成長していた。
その奢りが大きなつけとして回り、雪印グループは解体、再編される事態に至った。

かつての事故当時、佐藤貢社長が警告した「機械は人間の精神をそのまま反映する」
という教訓が忘れ去られていたのだ。

その佐藤社長の名訓示「全社員に継ぐ」は、どこへ行ってしまったのか。

実は1976年から、新入社員への配布は打ち切られていたのだ。

二度めの事故を受けて、雪印乳業はあらためて倫理綱領を定め、社員に示した。

そこにこうある。

 「信頼を失うことは一瞬です。しかし、信頼を築くには長い歳月を要します」


半世紀前に示された社長訓示そのままに。
代を継いで教訓を維持し活かすことは、かくも困難なことなのだ。

            <感謝合掌 平成27年8月6日 頓首再拝>

Re: 人の上に立つ者に求められること② - qjcwobbwygMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:44

伝統板・第二
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