伝統板・第二

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尊師の「30年祭」 - 合掌

2015/06/13 (Sat) 18:34:23

《尊師、今生の最後のお言葉》

6月13日(朝)3時30分 【谷口雅春先生 最後のお言葉】


 『”病なし! 迷いなし! 罪なし!”

 これが生長の家の根本真理であります。

 それでは、神様ただ今より眠らせていただきます』


その後、眠りに入り、
神様から託された使命を全うし、
昭和60年6月17日午前7時53分、眠ったまま最高級神界に旅立たれました。

             <感謝合掌 平成27年6月13日 頓首再拝>

「不滅のご慈愛」 - 伝統

2015/06/15 (Mon) 19:24:08

明後日(6月17日)は「30年祭」です。

以下は、昭和60年6月15日の出来事です。

・・・


「不滅のご慈愛」 ご復活の日・6月17日を偲んで ~ 宮澤次郎(故人)
 

昭和60年6月15日(土)朝、いつものように4時40分ごろ起床し、
洗面を終えて5時過ぎに、毎日の行事である氏神さま氷川神社への朝詣でに出かけようと
しましたが、ふと長崎の雅春先生ご夫妻にしばらくご無沙汰をして申し訳ないなあ、
という気持ちがこみあげてきました。

今日は土曜日でもあるし、よし、長崎へ行こうと決め、
電話で午前8時50分発の航空券予約をとりました。

長崎空港に到着した私はすぐに公衆電話で総裁公邸にお電話しましたところ、
お側付きの人から「総裁先生(雅春先生)は長崎大学の病院にご入院中である」と
お答えを耳にし、瞬間愕然として信じられない思いが致しました。

更に確かめると、ご病室をお教えいただき、これは事実だ、思いもかけない事が起った、
と胸がドキドキする思いで空港の屋外へ飛び出しました。

ちょうど市内行きのバスが出発しようとしているころに乗せてもらい、
バスのスピードのおそいのを気にしつつも大学病院に着いて
先生のご病室のドアをノックしました。

出て来られたお付添いのお話で、先生はいま静かにおやすみになっておられること、
輝子先生は現在公邸にいらっしゃるが、恵美子先生方は担当医師とのご対談中で、
別室に居られるとのこと、などを知りました。

私としては、恵美子先生がたが医師との話を終えられたあと、ご一緒にご病室に入らせて頂こう
と思いしばらくお待ちしましたが、時間がかなり経過し、遂に待ち切れず再びドアをノックし、
お付添い人の了解を得て、ようやくご病室の先生に拝顔することができました。

このように病院のベッドの上にお寝みになっている先生にお目にかかれることは、
今朝東京を出発するときには夢にも考えていなかっただけに、私は夢中の思いで
先生のベッドに手をつき、

お耳に自分の口を近づけて思わず大声で

「先生、宮澤次郎です、お見舞いに参りました。おわかりになりますか」

と叫んだのでした。

先生は、それまでウトウトしておられたようですが、有難いことに私のことばを
お判り預けたと見え、そのときお眼をはっきりとお開きになり、再度うなずいて下さいました。

そしてその後はまたお瞼を閉じられ静かにお寝みになるご様子でした。


ご病床の先生は、少しおやつれの気配は拝されるものの、お顔色も唇の色も平常と変わりなく、
そのときにはご病状の急変が起ることは全く予想されない思いで、
私は静かにご病室の外に出ました。

ご病床にあらせられる先生のご慈愛あふるるご温容には、
平生と些かの変りもなかったことが私の心にはっきりと灼きつけられています。

このようにして私がお目にかかることができた日の翌々日の朝7時53分、
雅春先生は従容としてご天寿を全うされご昇天あそばされたのでした。


私は、偶然にこの最後の先生とのお別れとなった日の
勿体ない貴重な思い出を、生涯自分の胸裡に刻んで大切にさせて頂きます。


私は、雅春先生の身に余る勿体ない深い温かいご愛念の中に抱かれて
今日まで生きてくることができました。
ご生前のなつかしい思い出の数々は到底筆紙に尽し切れない感謝と感激と感銘の連続でした。


先生のおかげで私の人生は此の上もなく輝かしい充実した人生となりました。


僭越ではありますが、私の拝する限り、雅春先生がそのご生涯を通じて凡ての人々に垂れ給うた
ご愛念は、まことに限りも無く偉大であり深遠であり、人々の魂に深く染み透り、
人々の生命を真に蘇らせて下さいました。

「神は愛なり」という真理のことばは、
とりもなおさず「谷口雅春先生は神なり」という永遠不滅の事実を啓示しているものと
私は信じます。

谷口雅春先生は生死を超越され人類への無限の愛の象徴として無量寿如来として、
現在から未来に向け永遠に私たちを導き給うことを固く信じております。

ご昇天によって、もはや二度と先生のお姿を身近に仰ぐことのできなくなったことは、
まことに涯しもない悲しみと寂しさに身も心も打ちひしがれる思いでありますが、

それと同時に私は、この6月18日の葬場祭の終りに臨み、
輝子先生が喪主としてごあいさつされましたお言葉の一つ一つが胸に染み、
特に次のお言葉は私にとって深いお諭しでありました。

「・・・・・私はね、あれで一番よい最後をなさった。
ほんとうに神様に戴いた限りを生き切って、あれでもう充分この世の使命を果して下さった
という感じしか今ございませんので唯々合掌するばかりでございます。

どうぞ皆さんも先生の尊い御教えを、
お亡くなりになっても忘れないで下さいませ。

・・・・・ほんとうにこの世に何の心残りもなくお亡くなりになったのだと思います。
どうぞ皆さんも泣かないでお見送りして下さいませ。ありがとうございます。」と。


私は、輝子先生の此の崇高な御心に従い、
雅春先生のご遺訓を更に一そう深く肝に銘ずるよう努めて参る所存であります。

                             (宮澤次郎の稿、終了)
                           『心のかけはし』誌 平成18年

        <感謝合掌 平成27年6月15日 頓首再拝>

明日は、30年祭 - 伝統

2015/06/16 (Tue) 20:26:03


谷口雅春先生 

昭和60年6月17日午前7時53分、眠ったまま最高級神界へと天翔ける


       「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」



《合掌》



<参考Web>

(1)愛国本流掲示板
   今日6月17日は、大聖師谷口雅春先生の「28年祭」です。 (272)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=104

(2)光明掲示板・第一「谷口雅春先生【28年祭】 (9307)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1767

(3)愛国本流掲示板
   (重要なお知らせです。)本日は谷口雅春先生【29年祭】 (4175)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=1511


        <感謝合掌 平成27年6月16日 頓首再拝>

尊師の羽化登仙~あたたかき御手のうちに - 伝統

2015/06/17 (Wed) 07:08:06


谷口雅春先生のこの世の最後の場面を、
谷口恵美子先生・著「わたしの玉手箱(P192~199)」から紹介いたします。


・・・

「お父様、ありがとうございました。羽化登仙なさったのですね」

私と上野さんは、父のベットの両側にひざまついたまま、あたたかく柔らかい父の手を、
両方からそれぞれの合掌の中に囲むように、そっと持ってうつむいて泣きました。

「先生が・・・」

「え?」

と上野さんの視線を追うと、閉じた父の左の目から、
ひとしずくの涙がスーッと耳の方につたわりました。

「きっと皆様とのお別れの涙なのね」

こんなときにも、私は自分の父でありながらも、多くの方達の大いなる父であることが
忘れられずに心の中でつびやきました。

「きれいなお顔をなさって・・・」
と私は父のやわらかな髪を撫でながら、その清らかな美しさにみとれました。
九十一歳なんて、とても信じられません。

「上野さん、ありがとう、ほんとうに有難う・・・」


(中略)


今回、長崎を訪れた私は、最後の十一日間父と共に過ごしました。

食事をほとんど召し上がらないが、食事の時間になると、いつものように椅子に腰かけ、
食前のお祈りをする父でした。

けれども箸を取らないで、ただ腰をかけたまま、私たちがおしゃべりしながら頂くのを
優しい眼で見ていました。

召し上がるものをおすすめしても、わずかに微笑をたえた顔を横に静かにうごかし、
端然と腰かけたままでした。

まるで神様にお供えして下げているような感じがつづきました。

そして又ベットにもどります。
もういつものように大好きなお風呂に入るともいわず、
テレビもつけないで眠っている時間が長くなりました。

ベッドの傍によく顔を近づけますと、両手を伸ばし、あたたかい手で私の顔を挟んで、

「あんたも、やせたね」

といわれる。


しばらくして母が入ってきて、父が細く目を開けると、大きな声で私の事を父に聞きました。

「お父様、この人誰だか知っていますか」

すると父は、ふざけたような笑いをふくんだ声で答えるのです。

「天の使いです。天の使い、来たりて歌い給う」

又ある時は、そばの椅子に腰かけている私を、ふと目をさました父がチラリと見て、

「恵美子さんが元気そうでうれしい」

と寝言のように言ってまた眠ってしまわれたこともありました。

食事をしなくてもお腹もすかず、父は淡々とした表情で、自分にいま何が起こりつつあるかを
みつめていられるようでした。

上野さんが一人でお傍にいるとき、父は四月の末頃に書いておいた『生長の家』誌の
「碧巌録」の終講の辞という長い文章を読み返し、
「日本教文社か、その関係の人に渡して下さい」

と渡されたと聞いて、その時読ませていただきました。

それには皆様への別れのご挨拶と、次の境涯で再会できるということなどが書いてありました。

主治医のすすめで点滴を受けられることになりましたが、食事は一口もとされず、朝の牛乳だけは
半分ほど召し上がっていた六日目、飲むものもいらない風になりました。

背中を撫でてあげると、寝返りを打ちながら、

「もう、お別れかもしれないね」

と、やさしい声で、まるで人事(ひとごと)のように言われるのです。

私はその夜、眠れないまま思いました。
昆虫はさなぎになる前に、青葉を食べるだけ食べると、
ある時期に何も食べなくなってしまう。

そして、さなぎになり、さなぎが蝶になって飛び立とうと、静かに、静かに、
自然に自然に羽化するそのとき、決して邪魔をしてはならない。

(中略)

少しでもよくなられたら、食べられるようになられたら、という人々の願いのままに入院と
いうことになりましたけれども、父は羽化の過程を進めつづけられた。

『甘露の法雨』には次のごとく書かれています ――

   汝ら明かに知れ、繭は蚕に非ず、
   然らば肉体は人間に非ずして、
   人間の繭に過ぎざるなり。

   時来らば蚕が繭を食い破って羽化登仙するが如く、
   人間もまた肉体の繭を食い破って霊界に昇天せん。

   汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿れ。

   人間は生命なるが故に
   常に死を知らず。

「ほんとうに、ありがとうございました・・・」

あたたかき御手のうちに、どれだけ多くの人が救われたか知れません。
その方たちの想いも込めて、私は合掌し感謝を捧げたのでした。
                            (六十年九月)

        <感謝合掌 平成27年6月17日 頓首再拝>

昭和60年6月17日夕刻の出来事~通夜・遷霊祭 - 伝統

2015/06/17 (Wed) 20:02:17

           *Webより

 午前7時53分、谷口雅春先生は此の世の使命を果たされ御昇天になられた。


通夜祭--(昭和六十年六月十七日 午後七時より 於総裁公邸)

  一.手水の儀
  一.開式の辞
  一.修祓

  一.招神歌
  一.献饌
  一.祭文奏上

  一.祭主 玉串奉奠
    喪主 玉串奉奠
    家族親族 玉串奉奠

  一.聖経『甘露の法雨』一斉読誦
    参列者・関係者玉串奉奠
  一.撤饌

  一.大調和の歌
  一.閉式の辞    

             ・・・

遷霊祭--(昭和六十年六月十七日 午後八時半より 於総裁公邸)

       御遺体の安置せし場所にて移霊をおこなふ。

       一.開式の辞
       一.修祓

       一.招神歌
         御遺体の前に位牌を置き、その前に座す。
       一.招霊

   昭和六十年六月十七日を現世の限りとして神去り給ひて、久遠実相世
   界・永遠の生命に還り昇りましし、生長の家総裁谷口雅春尊師の和霊、
   今し此の霊璽に天降りませと畏みて白す。

       一.魂鎮め--数歌十回
       一.悟りの歌二回

       一.大調和の歌
       一.閉式の辞

     (良本峯夫講師の日記より)

        <感謝合掌 平成27年6月17日 頓首再拝>

宮中でのお悔やみの お言葉 - 伝統

2015/06/18 (Thu) 04:24:19

以下は、ある相愛会のブログからの転写です。
(現在は、この内容を確認することはできない状況になっております)

・・・

実は昭和60年6月17日、谷口雅春先生のお亡くなりになった日の夕方、
兵庫県の信徒たち40人は、第1回皇居勤労奉仕のため飛田給道場に着きました。

明くる日皇居へ参りますと、皇宮警察の方から団長の私にお悔やみのお言葉があり、
「信徒の皆さんに動揺はありませんか」とお尋ねになり、
「先生の訃報はすでに皇居に届いていますので、陛下からお言葉があるかもしれません」
ということでした。

私は生長の家のことを宮中で、これほどまでに関心を持たれていることに今更のように驚きました。
明くる日何処か外国の大統領の歓迎晩餐会があり、予定が変更されて、私達は赤坂離宮に伺いました。
雨の中を5団体、200人ほどでしたが、御殿の日月の間にあげていただきました。

皇太子両殿下(現在、今上陛下と皇后さま)から、それぞれの団体にお言葉を賜り、私達には、
「谷口先生が亡くなって」と妃殿下(現、皇后さま)がおっしゃいましたときには、
感激に胸がいっぱいになりました。


激動の昭和の御代を支えたのは、当の昭和天皇陛下と、谷口雅春先生、
そしてひょっとすると、歴代総理大臣が師と仰いだ安岡正篤先生だったのでしょうか。

皆さんは「レガシー(legacy)」と言う語をご存じでしょうか。
遺産という意味ですが、日本の場合ですと、広い意味で2000年の歴史の中に、
創造された文化と伝統、魂と生活の知恵などを考えなければなりません。

日本民族の想像を絶する高次の霊的な遺産があるのです。
21世紀新しい時代に入って心したいのは、谷口先生が教えてくださいました
「神の国の神の無限の宝物」です。

        <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

昭和60年6月18日の出来事~葬場祭・帰家祭 - 夕刻版

2015/06/18 (Thu) 20:19:49


           *Webより

昭和六十年六月十八日
 葬場祭(告別式)-(昭和六十年六月十八日 午後一時より 於総裁公邸)
          一.手水の儀
          一.開式の辞
          一.修祓

          一.招神歌
          一.献饌
          一.帰幽の神示
          一.久遠生命の歌
          一.悟りの歌

          一.弔詞(祭文)

          一.玉串奉奠
            祭主・祭員
            喪主・家族・親族

          一.聖経『甘露の法雨』一斉読誦
            会葬者・関係者玉串奉奠

          一.撤饌
          一.大調和の歌
          一.閉式の辞

 
最後に輝子奥様の御挨拶があった。

「総裁先生は本当に此の世の使命を果たし終わられて
やすらかにお亡くなりになりましたから、
皆さんも泣かないでお送りして下さいませ」

とおっしゃった。

               ・・・


昭和六十年六月十八日

 谷口雅春先生はお骨になって総裁公邸にお帰りになった。

帰家祭(昭和六十年六月十八日 午後七時半より    於総裁公邸)

    一.手水の儀
    一.開式の辞
    一.修祓  
    
    一.招神歌
    一.献饌

    一.祭文奏上

    一.玉串奉奠
      祭主・祭員
      喪主・家族・親族

    一.聖経『甘露の法雨』一斉読誦
      関係者玉串奉奠
    一.撤饌 

    一.大調和の歌
    一.閉式の辞

     (良本峯夫講師の日記より)

        <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

昭和六十年(1985年)七月二十二日追善供養祭 - 伝統

2015/06/19 (Fri) 17:59:29



            *Web:「谷口雅春先生を語る」より抜粋
        

この偉大なる人類の霊的指導者である、谷口雅春先生は、
昭和六十年(1985年)六月十七日午前七時五十三分、九十一歳で帰天されたのであります。

まさに、

「自分の身体が燃え尽くすまで、蝋燭のようにみづからを焼きつつ人類の行くべき道を照射する」

の御言葉の通りの御生涯でした。

 
昭和六十年(1985年)七月二十二日、長崎の生長の家総本山で
谷口雅春先生の追善久養祭がおこなわれました。

暑い日でした。約一万人の信徒が集まりました。
私は、海外代表として参加いたしました。


この時の出来事で忘れられないのは、輝子奥様が追善供養祭の最後に、
集まった人々に対して、喪主としてのご挨拶をされた時の御言葉です。

 
その内容は、谷口雅春先生が帰天されてから、
お山に来る手紙は、どれも谷口雅春先生が亡くなられて悲しい、
涙に泣きくれていると云う内容のものが殆どであったそうです。

ですから、輝子奥様にとっては、日本中の信徒がみな泣いてばかりいるように感じられたそうです。

輝子奥様は「甘露の法雨」に書いてあるように、「人間の生命は永遠」であり、
「人間は死なないものである」ことを、本当に信じてくださいと、話されまして、

「悲しみの涙は、総本山のお庭に捨てて、これからは魂になって自由自在な活動を
活発にしていらっしゃるであろう谷口先生と一体になって、光明化運動を活発にして、
谷口先生のお心に応えて戴きたいと思うのです。」と述べられました。

 
そして、輝子奥様は、追善供養祭の参列者一同に対して結びの言葉として、

「どうぞ、お泣きなるような暇(いとま)があったら、
人類光明化運動を一所懸命なさって戴きとう存じます。」と、
このように御自分の胸の内を披露されたのであります。


*谷口輝子先生の結びの言葉としては、別のWebには次のようにあります。

『皆様どうしてそんなに悲しんでいるのですか?
私は淋しくはありますが、悲しくはありません。

谷口雅春先生は生涯を通して、いのちは永遠不滅であるということをお説き下さいました。
泣いている時間があったら「人類光明化運動」にお励み下さいませ。』


http://hikarinoshingun.giri.jp/02-gyouseki/0201gysk-sendou-kouen/19-sensei-wo-kataru.htm

        <感謝合掌 平成27年6月19日 頓首再拝>

Re: 尊師の「30年祭」 - hnrlwkzMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:57

伝統板・第二
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