伝統板・第二

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- 日曜版

2015/06/07 (Sun) 12:23:45

このスレッドでは「徳」に関する情報を日曜版のひとつとして紹介してまいります。

・・・

「徳」とは「直心を彳(おこ)なう」こと

         *『生命の實相』第三十八巻幸福篇下(P68)より


「徳」とは何であるか。

その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。

そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

           <感謝合掌 平成27年6月7日 頓首再拝>

よきことを素直に実行する - 伝統

2015/06/14 (Sun) 12:24:29


            *「生活読本」より

お釈迦さんは、

「笑うべき時に笑わず、歓ぶべき時に歓ばず、
慈心(なさけごころ)を起すべき時に慈心を起さず、悪をなして恥じず、
善を聞いて意(こころ)につけない人は確かに人らしくない人である。」

そして又こう云われた。

「笑うべき時に笑い、歓ぶべき時に歓び、悪をなして恥じ、
善を聞いてそれを意に感銘する者は確かに人らしい人である。」

愉快に楽しく生々していることは、確かに人間にとっての美徳であるのである。
美徳と云うのは美しい徳だと云うことである。

徳と云う字は「直心(じきしん)を行ず」と云うことを
文字に組み合わせたものである。

直心と云うのは、素直にそのままの心を出すことである。

即ち笑うべき時に笑うことである。
歓ぶべき時に歓ぶことである。

なさけの心を起すべき時に、
素直に可哀そうだと思って救(たす)けてやることである。

http://michie-h.jugem.jp/?eid=1154

           <感謝合掌 平成27年6月14日 頓首再拝>

【徳を積み、よき言葉を使う】 - 伝統

2015/06/21 (Sun) 12:37:57


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2014年05月23日)」より

   (浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   他人に尽くす。

   私たちは成功すると有頂天になり、自分を人並み以上の優秀な人間と思い、
   自己中心的な行動をしがちです。

   実はこれらは徳を損なう、つまり、不陰徳なのです。

   その結果は晩年に現れるのです。


   私は不陰徳の最大のものは、人の心を傷つけることだと思っています。
   私たちは故意に、あるいは気づかずに人の心を傷つけてしまい、
   業の貯金を借金にしてしまいます。

   その結果が晩年の不運、不幸、心の病なのです。

   これから逃れるには、相手の心を傷つけない、他人に親切にし、
   他人の喜びを自分の喜びにする以外にないのです。

   私も以前は、人の幸福を望むなどということがとてもできない性質でした。

   しかし、最近年齢とともに、因果の法則が的中することを目の当たりに見て、
   他人に尽くす、人のためにする、他人の喜びを我が喜びにするということが
   いかに大事かをしみじみ感ずるようになったのです。


   法句教(ほっくきょう)に次のような言葉があります。

   「ひとを傷つける言葉を言うことなかれ 言われしものは、かならず言い返す
   怒りを含む言葉は苦痛を与え その報いはかならずわが身に至る」


   私は悪行を生むもっとも大きな原因は人の心を傷つけることだと思っています。
   私たちはすでに多くの人の心を傷つけてきました。
   これはどうしようもないのです。

   しかし、この世だけではなく来世も来々世もあります。

   今からでも遅くないのです。
   徳を積む、人の心を傷つけないということに全力をあげましょう。

          <『責めず、比べず、思い出さず』コスモ21>

              ・・・

時に、言葉は人を一瞬にして傷つける、刃物のようになることがある。

逆に、言葉は人を一瞬にして幸せにできる、魔法の道具でもある。


釈迦は、ある時弟子たちに向かって、
「貧しい人たちの家を托鉢(たくはつ)してまわりなさい」と言ったという。

弟子たちは驚いて、
「それは、貧しい人たちではなく、お金持ちの家の間違いではないでしょうか」
と聞き返したという。

釈迦は、
「貧しい人たちは、人に与えたり尽くすことを知らないから、いつまでも貧しいのだ。
金額の多寡(たか)ではなく、その気づきのための托鉢なのだ」と。


人に与えること、人に尽くすこと、人に喜んでもらうことは、徳を積むこと。

人が喜ぶ姿を見ることは、自分もこの上なくうれしい。


徳を積み、よき言葉を使って人の心を温かくしたい。


           <感謝合掌 平成27年6月21日 頓首再拝>

空の徳 - 伝統

2015/06/28 (Sun) 13:14:24

空の徳を生きる日

          *「光明道中記」(P368・11月30日)より

【物質はすべて心の顕れである。物とは「心の塊」である。(『生命の實相』第九巻)】


中空(なかくう)なる竹は折れがたいのである。
それは余程(よほど)撓(たわ)んでも折れ難いのである。
空(くう)の徳である。

喬木(きょうぼく)は風に折られ、
葉あまりに繁き常磐樹(ときわぎ)は却って雪に逢えば折れてしまう。
中あまりに充実し、葉あまりに茂るときは、却って災禍(わざわい)身に及ぶ。

落葉すべき時に葉を落し、
芽をいだすべき時に新芽を出すは時を得たるもの、また策を得るたるものである。

空の中に一切があることを知らず、形のみを集めんとするものは、飽(あ)くことを知らない。
飽くことを知らないものは、満足することを知らない。
満足することを知らない者は常に不幸の者である。

すべて物は用を為すためのものであって、蓄積すべきためのものでない。
貯蓄奨励と雖(いえど)も、国家有用のことに用を為さんがためであって、
貯蓄そのものが目的でない。

用とはハタラキである。

物の本質は物に非ず、《いのち》であるから、
用をなしたときに、《いのち》は発揮され、

《いのち》は無形なものであるから、
《いのち》を発揮したとき物は無形となって発顕するのである。

《いのち》の固定したものが「物」であり、「物」が《いのち》に還元する時に
ハタラキをあらわすのである。

活動の固定化したものが「物質」であり、物質が波に還元する時電波となるが如きである。

           <感謝合掌 平成27年6月28日 頓首再拝>

天に貯金をする - 伝統

2015/07/05 (Sun) 12:16:13


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015-06-03)」より

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   私は、『天に貯金をする」ということを祖母や親に教えられて育ちました。

   貯金というのは普通、地上の銀行などの金融機関にするものですが、
   私の家では私たちがもらった小遣いやお年玉は、
   すべて天の銀行に貯金することになっていました。

   それは具体的にいえば、自分たちよりも
   もっと困っている人たちのための寄付をすることです。

   幼かった私は、天の貯金もいいが、
   たまにはこちらの貯金箱にも回してほしいとうらめしく思ったものです。

   そんなときに祖母は、「天の銀行に預けておけば、あとで1万倍になって返ってくる。
   もし自分の代で返ってこなくても、子どもや孫の代になって返ってくる」というのです。

   旅費が工面できずに高校の修学旅行への参加をあきらめたときには、
   母もまた、「将来、天の貯金に利息がついて、お前は外国を飛び回ることが
   できるようになる」といいました。

   たしかに、その後、私は二度もアメリカに留学することができましたし、
   研究やシンポジウムへの参加などで何十回も外国に出かけることになりました。

   こうした考えかたには、当然、サムシング・グレートに対する感謝の念が入っています。


   地上の貯金は必要なときに自分で引き出しに行かなくてはなりませんが、
   天の貯金は、その人間にとって本当に必要なときに自動的に降りてきます。

   私には、それを実感として感じた経験がいくつもあります。


   また、運がいいというのも、天の貯金に関係しているのかもしれません。

   運がいい人は、それだけ天にたくさん貯金を積んでいる人です。
   しかも、それは、自分だけの貯金ではなく、両親や祖父母をはじめとする
   ご先祖の貯金も含まれているかもしれません。

   これは理屈ではなかなか理解できないことかもしれませんが、
   そういう教えを聴いて育ち、しかも天からの貯金が降りてきたとしか
   思えないような体験をしてきた私には、よく理解できることです。

   こうした教えは、ほかの宗教にも見られます。


   新約聖書のマタイ伝にも、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、
   帰ってあなたの持ちものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。
   そうすれば天に宝をもつようになろう」という表現が見られます。

   また、仏教にも「陰徳(いんとく)を積む」という言葉があります。

   陰徳とは、人知れず、天に貯金をすることだといえます。

   このように、どんな宗教であれ、宗教的な真理には共通のものがみられます。

   天の銀行と地上の銀行の違いは、天の銀行は倒産しませんが、
   地上の銀行は倒産する可能性があることです。

   また、地上の貯金は持ち越せませんが、天の貯金は持ち越すことができます。
   持ち越された分は、子や孫、さらにその下の世代にまで恩恵をもたらすことができます。

   どこかのクレジットカードの宣伝ではありませんが、
   天のポイントは永久不滅ポイントなのです。


   私も、ご先祖や親が積んでくれた天の貯金の恩恵にあずかるだけでなく、
   少しでも増やしてあの世にいかないといけないでしょう。

   私の代でだいぶ使ってしまったような気がするので、
   このままだと後の世代が困ってしまいます。

         <『望みはかなうきっとよくなる』海竜社>

               ・・・

「天に貯金をする」とは、「運をためる」ということでもある。

何か嫌なことがあったとき、今あることに感謝し一所懸命に努力してそれを乗り越える。

それが、運をためること。

そのときに大事なことは、不平不満やグチ、泣き言や文句を一切言わないこと。

それを言った途端に、運はどこかへ行ってしまう。


困難や、嫌なこと、辛いことは、運をため、天に貯金をするチャンス。

天の貯金を増やす人でありたい。

           <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

お蔭のない善行を喜びましょう - 伝統

2015/07/12 (Sun) 12:54:38


           *「真理」第九巻生活篇(133)より

常に深切であれ。
金光教祖はこれを「実意丁寧」と教えられた。
実相からあらわれる真心を丁寧に実践することである。

深切を親切と書いて親しく狎(な)れ狎れしいことのように解している者があるが、
深切とは実相の魂の底深くから切に催してくるところの真心を言うのである。

何事をするのでも、実相の底から切に深く催して来ることを
実践するようにしなければならない。

深切はまた実相から催うしてくるところの深い愛である。
神は愛である。愛念の深い者にはまた智慧も催してくるのである。

お蔭があらわれないからとて気短なことを考えてはならない。
若し人に深切を施してお蔭があらわれなかったら、
それこそ悦(よろ)こべ歓(よろ)こべである。

お蔭がすでに形にあらわれた善行は、もはや天の倉から引き出されたる徳である。
お蔭があらわれていない徳であってこそ、それは天の倉に貯えられたる徳である。

           <感謝合掌 平成27年7月12日 頓首再拝>

【徳は鉄牢(てつろう)よりも強し】 - 伝統

2015/07/19 (Sun) 12:18:16


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2011年10月27日)」より

   (井原隆一氏の心に響く言葉より…)


   徳のない者は経営者としての資格がない。

   経済社会のつながりの凡(すべ)ては「信」によって結ばれ、
   組織内の人々は「敬」(己を慎み人を敬う)によって結ばれているからである。


   いかに能力・財力があり、権力があっても、
   人格に劣る徳のない人間に心から従うものはない。

   一時は権力・財力につられて従うにしても、いずれは去り行くものである。

   長期にわたって従ったとしても、
   本心は「心ならずも」ということであって心服のそれではない。

   古今東西、徳に反する者が、国、事業を長らえたものはない。

   個人にして有終の美を飾るものもない。


   王 遵(おう じゅん)の詩に、「徳は鉄牢(てつろう)よりも強し」がある。


   秦は万里の長城を築いて、
   鉄の牢屋のように匈奴(きょうど)を閉じ込めてしまったので、
   こちらに入ってこなくなった。

   このように延々雲に連なるような長城も、
   理想の帝王と言われた堯帝(ぎょうてい)が土階三段の低い宮殿によって
   立派に太平の世を築いたことにくらべると、
   まったく比較にもならない愚かなことであった。

   中国古代の名君、堯帝は治世よろしきをえたため、
   武力に頼ることなく50年間も治めたが背く者もなかった。


   現代でもトップが徳を失うようなことになれば、
   表面威権は行われているようにみえるが、部門内の人々の心は乱れ、
   ついには反抗心が士気の低下となって会社を窮地に追いこむ。

   かりに、利につられて部下が協力しているとしても、
   外部の信用を失って四面楚歌(しめんそか)の苦境に立たされる。


   企業マンとして利を追うのは当然であるが、
   人間として踏むべき道を踏み外してよいということではない。

   孔子も「利を追うときは義を思え」と教えている。

          <『社長の帝王学』日本経営合理化協会>

            ・・・

徳を高めるとは、自らを律し、人の幸せを考えて日々行動すること。

自分の利を忘れ、人の喜びの種まきをすることでもある。


徳には、「陽徳」と「陰徳」がある。

陽徳とは、人に知られるように公然とあからさまに行う徳のこと。

陰徳とは、人に知られないように、密かに目立たないように行う徳のこと。


陽徳を行う人は、損得で動く人。

陰徳を行う人は、見返りを求めずに、ただ人のために動く人。


陽徳は、一時的に大きく賞賛されてそれで消滅してしまうが、
陰徳は、深く密かに積み立てられる。

トップであろうと市井の人であろうと、徳積みは、人間にとって最も大切なこと。


「徳は鉄牢よりも強し」

徳を高め、自らの人生を切り拓(ひら)きたい。

           <感謝合掌 平成27年7月19日 頓首再拝>

「徳」は決して「自己犠牲」を必要としない - 伝統

2015/07/26 (Sun) 12:13:47


             *「真理」第9巻生活篇(P320~321)より

「徳」とは自己犠牲を必要とするものだと云うような考えが、あなたの潜在意識の
何処かににありますと、個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、
自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、

その願望にふさわしきものを、其の人のところへ持って来てくらますから、
自己犠牲を必要とするような事件が其の人の身辺に集って来て其の人は不幸になる
のです。

「徳」と「福」とは両立しないと云う潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。

そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで「神の国」即ち「実相世界」
には犠牲がない、従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲が
なくなり、共存共栄の世界があらわれて来るものだと云うことを潜在意識の底の底までも
徹底せしめることが必要なのです。

           <感謝合掌 平成27年7月26日 頓首再拝>

徳を下げない5つの秘訣 - 伝統

2015/08/02 (Sun) 12:21:21


           *Web:「ミニ講話~宮司のいい話」より

皆さんは、これから社会に出て、
色々な苦労をしながら自分の人生を築いていかなければなりません。
あるいはすでに、社会人として活躍されているかも知れません。

日々を自分のできる範囲で一所懸命努力して頑張って生きていく。
そうした努力の積み重ねが、自分の徳として周りの人達から評価されていくのです。
徳は、損得の得ではなく、道徳の徳、人徳の徳です。

 
しかし、せっかく積み重ねてきた徳をちょっとしたことから崩してしまうことも度々あります。
今回は積み重ねた自分の徳を下げない、くずさないための5つの心掛けについて考えてみます。

 
(1)一つ目は、「愚痴を言わず、与えられた仕事を一所懸命にやる」ということ。

   与えられた仕事とは、一生涯続ける仕事であれ、一時の仕事であれ、
   人に頼まれたちょっとした用事であれ、汚い仕事、嫌な仕事であれ、

   自分がする仕事であるならば、それはすべて自分の仕事として、
   不平不満を言わずに一所懸命することです。

   嫌々していたり、「どうして自分がこんなことをしなければならないのだ」と
   愚痴をこぼしたりすると、せっかく一所懸命した仕事でも値打ちを落としてしまいます。

 
   「人の嫌がる仕事をあの人は一所懸命する人だなー」とか、
   「人が見ていようが見ていなかろうが、一所懸命働く人だなー」と
   周りの人が評価してくれても、

   ちょっとしたことで、
   嫌々している態度が目に入ったり、一言言った愚痴を聞かれたりすると、

   「何だこの人は一所懸命やってるように見えたけど嫌々やっているんだ」と
   思われたならば、せっかく努力した仕事が評価されなくなります。

   ですから、どんな嫌な仕事でも、腹の立つ仕事でも、自分が引き受けた以上、
   これは自分を鍛えるために神様が与えてくださった修行だ、と思って行えば
   愚痴は出てきません。

   愚痴を言わずに行う仕事は、
   どんなささやかな仕事でも、徳として積み重なっていくのです。


(2)二つ目は、「悪口を言わない、聞かない」ということ。

   人の悪口を言わないようにすることは、自分が気を付ければできることですが、
   悪口を聞かないということは難しいことです。

   人が集まれば、中には他の人の悪口を言う人がいるものです。
   輪になって話せばどうしても聞いてしまいます。

   しかし、「そう、そう」と相槌を打ったり、同調したりしないで、
   「そうかい」ぐらいに返事をしておけば、悪口を聞かないことになります。

   自分が直接悪口を言わなくても相手に同意したのでは、
   「あの人も言っていたよ」と、同じように取られかねません。

   人の悪口を言うと、「あの人は人の悪口を言うのが好きだから、気をつけなきゃ」と、
   逆に自分が言われてしまいます。

   本人に対しての忠告は悪口ではありませんが、陰口や悪口を言うことは、
   巡り巡って自分の徳を崩してしまうことになるのです。


(3)三つ目は、「立場上の差はあっても、公私混同をしていばらない」ということ。

   これは特に、上司や経営者など、人を使う立場になった時に
   気を付けなければなりません。

   会社内では立場上、部下を命令調で使い、あるいは怒鳴ることがあっても、
   一旦仕事の立場から外れると、お互いそれぞれの人格を持った人間同士となります。

   それを公私混同して、自分が偉くなったような気がして、
   仕事以外で個人的な立場になった時でも、上から見下ろすような態度や言葉遣いを
   していたのでは「あの人はいつも威張っている」とか「自分を人として見ていない」
   等の不平不満がわき出てきます。

   ですから、時と場所によって立場が変わったならば、
   相手に対しての態度も変わらなければ、人徳を下げてしまうことになるのです。


(4)四つ目は、「お金はきれいに支払う」ということです。

   どうせ支払わなければならないお金なら、
   相手に喜んでもらえるような支払い方をすることです。
   それが生きたお金の使い方となるのです。

   催促を何回もされてようやく支払うようでは
   「あの人は金払いが悪い」と思われます。

   集金に来られた人に直接支払うような時にも、面倒臭い態度を取ったり、
   「持って行け」と言わんばかりの態度で支払うと相手は気分悪く帰って行きます。

   しかし「ご苦労さん」と笑顔で支払うと相手も自分も気持ちよく支払えます。
   相手が喜んでくれた分だけ自分が得したことになり、
   生きたお金の使い方となってきます。

   又、支払の期限があるならば、期限内に支払うように心掛けましょう。
   しかし、どうしても期限内に支払いができない場合は、期限が過ぎない前に、
   支払いが遅れることを連絡すると相手は安心します。

   金銭のトラブルから、親しい間柄が気まずくなってしまうことはたくさんあります。
   「申し訳ないけど、まだ払えないので、いついつ迄待って欲しい」と、
   一寸した誠意の一言があるかないかで人間関係を気まずくさせないで済むのです。


    「金の貸借不和の基」ということわざがあります。
   なまじっか親しい間柄で情がからむと、貸した方も借りた方も気まずくなって
   不和を生むということですが、親しいからこそ大切なお金を貸してくれるのです。

   きれいな支払い方をすれば一層信頼関係を深めることになっていくでしょう。
   お金の支払い方一つにも、徳を上げたり下げたりすることになるのです。


(5)最後は、「人の苦しみを自分の苦しみとして受け止めてあげる」ということ。

   気の向いた人の相談には真剣に乗っても、
   気の向かない人の相談には、冷たくあしらうという人がいます。

   相談してくる人は、この人ならば自分の苦しみを理解してくれるだろう、
   親身に相談に乗ってくれるだろうと、信頼して相談してくるのです。

   そうした信頼に応えることなく、損得を考え、人を見て態度を変えるのでは、
   その人の人徳が疑われてきます。

   裏表のない、人の苦しみを自分の苦しみとして受止められる優しさ、
   思いやりを持つことが自分自身の心を大きくしていきます。

   人を見て態度を変えることは
   器量の狭さをあらわしてしまい、人徳を下げてしまうのです。


人徳を下げない、或いは、人徳を高める道は、自分のためにではなく、
人のために何ができるかをよくよく考え、日々実践していくことです。
これからの人生の参考にしてください。

 (http://www.hachimangu.com/cgi/kouwa/kouwa.cgi?mode=one&namber=150&type=0&space=0


           <感謝合掌 平成27年8月2日 頓首再拝>

徳を積むの話 - 伝統

2015/08/09 (Sun) 12:10:38


           *Web:「斎藤一人さん 徳を積むの話」より

人間に必要な物が3つあるんです。

1. 体に栄養

2. 頭に知識

3. ハートに徳


1・2番目は分かるよね。

それで3番目はハートに徳がいるんだけど

「徳って何ですか? 」って言った時に

人の心が軽くなること、人の心が明るくなる事をする人が徳があるって言うんです。

だからいつも暗そうな顔をしている人はそれだけで罪なんだよ。

いつもにこにこしている人はそれだけで幸せなんだ。
人の心が軽くなるような事してればどんどん人徳がついてくるんです。
だから笑顔の人っていうのはそれだけで人徳がついてくるんだよ。

そして人徳があれば良いことばかりやってくるの。

人が喜ぶ話・明るくなる話をするの。


人が暗くなるような顔してたらだめよ。

気持ちが明るくなりたいから来てるのに暗くなっちゃう。

やっぱり徳のない人っているの。



この間すっごい徳のない顔の人にあったんだよね。

でもその人すごく成功しているの。

何でかって見てたら、その奥さんがすごく人徳がある人なんだよね。

そういう人は大切にした方が良いよね。


お金があるから働かないっていう人は何か悪い事が来るよ。


「ただより高いものはない」の意味知ってるかい?

「その2つついてる眼はおいくらで買ったんですか?」って聞かれて

「はじめからついている」ってなりますよね。

「耳を30万出すからきってくれるかい?」っていわれてもイヤだよね。

これを神様はただで与えてくれている。

例えば空気。雨。俺達は本当に貴重な物をただで頂いているだよ。



「ただより高いものはない」ってはそういう意味なんです。

そのうち徳のある顔だとか、ない顔だという人が分かってくるよ。

  (http://plaza.rakuten.co.jp/ikiikilife/35003/


           <感謝合掌 平成27年8月9日 頓首再拝>

陰徳 - 伝統

2015/08/16 (Sun) 12:50:35


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年08月16日)」より

【他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなもの】

   (中井俊巳氏の心に響く言葉より…)

   先日、久しぶりに、バスに乗っていたときのお話です。
   夏の夜の祭りの後、バスは乗客で満員でした。

   あるバス停に止まったとき、数人の乗客から遅れて、
   80歳くらいのおばあちゃんが2人、
   付き添いの男性に伴われて乗車するところでした。


   その姿をチラリと見るや、私の隣に座っていた
   アイルランド人と近くに座っていたスペイン人の友人が
   席を譲るために即座に立ち上がりました。

   むむ、ここで立ち上がらなくては日本の恥だ、と思ったわけではありませんが、
   私もつられて席を立つ形になりました。

   が、われわれ3人より一瞬早く行動した人たちがいました。

   入口に一番近かった若い日本人カップルです。

   若い男性が横目でチラリとおばあちゃんの姿を見るや、
   横に腰掛けていた女性に何か一言ささやきました。

   その瞬きするような間に、2人は誰よりも早く席を立っていたのです。

   そして、そのまま無言で出口の方に向かいました。

   腰を曲げ、おぼつかない足取りで乗り込んできたおばあちゃんたちは、
   それまで2人が座っていた場所に空席を見つけ、難なく腰をおろすことができました。


   若いカップルは、バスを降りようとしたのではありません。
   おばあちゃんたちに席を譲るために、席を空け、出口の方に居場所を変えたのです。

   2人はおばあちゃんたちが席に腰を下ろしているのを横目で確認すると、
   ほんの少し笑みを見せ、その後はつり革を握り、ずっと立ったままでした。

   おばあちゃんたちも付き添いの男性も、
   その若い2人が席を譲ってくれたことに気づいていませんでした。

   下車するときも、このカップルに一言も謝辞を述べることはありませんでしたから。
   この2人の行動は、誰からも感謝されず、誰からもほめられませんでした。
   しかし、それでよかったのではないかと思います。


   「他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。
   ふりかけるとき、自分にも数滴はかかる」(ユダヤの格言)

   2人が降りた後のバスに、まだ少し上質の香りが残っているように思えました。

          <『「人生がうまくいく」48の物語』>

               ・・・

電車やバスなどで、お年寄りや妊婦さんに、席を譲った後、
少し離れた場所にさっと移動して、知らないふりをしている人がいる。

見ていて、とても、清々(すがすが)しく、心があたたかくなる。


徳には、「陽徳」と「陰徳」とがある。

陽徳とは、人に分かるようにする善行であり、陰徳とは、人知れず積む善行のこと。

陽徳はその場で感謝やお礼をもらえるが、陰徳は宇宙に徳の貯金が貯まる。

どちらも大事な徳積みだ。


「他人を幸福にするのは、香水をふりかけるようなものだ。
ふりかけるとき、自分にも数滴はかかる」

まわりを幸せにできる人は魅力的だ。


           <感謝合掌 平成27年8月16日 頓首再拝>

天の倉に宝を積むこと - 伝統

2015/08/23 (Sun) 12:45:14


           *「あなたは無限能力者」(P247)より

他を犠牲にして自分が利益を得てはならない。
そういう利益は、現実的には得のように見えるけれども、
霊の世界に於いては徳を失っているのである。

肉体の意識は、物質の利益を希(こいねが)い、
霊の意識は物質の利益よりも、不可視の世界に貯えられたる徳行に積まんと希う。

肉体は短期間のものであるが、霊は永遠のものである。
肉体の利得を欲する者は短期間の欲得に心をけがし、
霊の世界に徳行を積まんとする者は、永遠に亡びない宝石で心を飾ることになる。

人間よろしく心の近眼を捨てて永遠の宝を目標にして精進努力すべきである。
他(ひと)を愛し、他を助け、他のためになる善行を積んでおれば、必要に応じて、
現実界になくてはならぬ事物も、天の倉から自然に現実化して出て来るのである。

天の倉に貯えていないものを現実界に引き出して来ようと思うから苦労するのである。

                    (『真理』第10巻より)

           <感謝合掌 平成27年8月23日 頓首再拝>

【明るく真剣に】 - 伝統

2015/08/30 (Sun) 13:19:48


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2013-12-13)」より

   (齋藤孝氏の心に響く言葉より… )

   サッカー日本代表チームのキャプテンマークは、
   今のところ長谷部誠選手がもっともよく似合う。

   カリスマ的にグイグイ引っ張るという感じではないが、とにかく真面目。
   その徹底ぶりは、しばしばチームメイトからジョークのネタにされるほどだという。

   それだけ人望も厚いということだろう。

   こういう真面目なキャプテンの下では、メンバーは明るくなりやすい。
   チームの中心軸が定まっていると、メンバーは安心して遠心力を使える。
   勢いよく暴れ回ることができるのである。

   だが、これは一歩間違えればチームとしてのタガが緩むもとにもなりかねない。


   2011年のアジアカップでのこと。
   初戦のヨルダン戦で日本代表は緊張感を欠き、辛うじて引き分けた。

   そこで次のシリア戦の前日、
   彼は選手全員を集めてミーティングを開き、以下のように語ったという。


   「ふざけるのと明るくやるのは紙一重だ。
   若手が楽しくやるのはすごくいいと思うし、その持ち前の明るさを無くしてほしくはない。
   けれども、試合や練習の場ではふざけるべきではない」

   これ以降、日本代表は5戦全勝し、同大会4度目の優勝を果たすことになる。

   「このミーティングが優勝へのターニングポイントだった」と語る選手が多いという。

   およそスポーツのチームには、明るさが不可欠だ。
   しかしそれは、気の弛みも生みやすい。

   特に相手が格下の場合、「まあ大丈夫だろう」という雰囲気がチームに蔓延し、
   気がつけば大敗しているということがよくある。

   かといって真面目の一点張りでは、雰囲気が固くなったり暗くなったりしてしまう。

   そこで狙うべきは、「明るく」「真剣に」というゾーンだろう。
   両方とも揃えることが、強いチームの条件だ。

   そいういうチームをつくるのはリーダーの役割だが、一人ですべてを担う必要はない。

   雰囲気が「明るく」なるように盛り上げ役のメンバーを自由に泳がせる一方、
   ときどきリーダーが「真剣に」手綱を締めてバランスを取るのが理想的だろう。

   その意味で、長谷部は典型的なリーダーといえるわけだ。

        <『リーダーシップとは言葉の力である』日本経済新聞社 >

              ・・・

安岡正篤先生は

「徳とは無類の明るさのことである」と言われた。


調子に乗るのはいいが、乗りすぎるとそれは「図に乗る」状態となり、品がない。
ふざけすぎるのも同様に、下品で、不謹慎になる。
つまり、そこには「徳」がない。


徳とは、温情、勇気、真剣、誠実、謙虚、気品、等々のことだが、
これらはすべて明るさに通じる。

暗さは、不徳であり、背徳だ。


額にしわをよせた「深刻」と、「真剣」は違う。

真剣さには、軽さと徳がある。


明るくて、真剣で、徳のある人でありたい。

           <感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>

人生は「徳」を実現するためにある - 伝統

2015/09/06 (Sun) 14:46:10

自己に宿る神性を生かす者の悦びは永遠である。

            *「あなたは無限能力者」(P248)より

人生は快楽のために造られたのではない。
といって苦痛のために造られたのでもない。
快楽や苦痛はその人の生き方に伴う副産物に過ぎない。

快楽主義者も過っているし、
受難礼賛の克己主義(ストイズム)も間違っているのである。

人生は「徳」を実現するためにあるのである。

「徳」とは人間にやどる「神性」であり、本質であり「神そのもの」である。
神の愛は人間にやどって「徳」となり、愛を行じ、人々を救う力となる。
そしてその愛と救いが成就したとき自己完成の悦びを伴うのである。

その悦びは肉体の感覚的快感のように瞬時にして消え去るような儚(はかな)い
ものではないのであって、無限につづく法悦となって続くのである。

自分だけ快楽を得て、愛他行を励まない者にはこの悦びはわからない。

           <感謝合掌 平成27年9月6日 頓首再拝>

「徳」は目に見えないが素晴らしい救いを与える - 伝統

2015/09/13 (Sun) 12:34:10


            *「あなたは無限能力者」(P248~249)より


人間の「徳」というものは、能力でも腕力でも知力でもない。
それは内在するその人の身についた善業(ぜんごう)である。

その人の身についた善業はおのずから善き雰囲気となってあらわれ、
何事を成さずとも、唯その人がいるだけで、周囲の人々に大きな感化を与え、
周囲の人々を幸福にすることが出来るのである。

大事業をする人、大政治家、社会事業化など、いずれも素晴らしい人々ではあるが、
それらの人々は仕事の大いさによって人々を救うのである。

勿論、かくの如き人々が世を救う力は大であるが、唯、天皇がましますことによって、
日本国の平和の度がより多く保たれるというが如きは、能力の力によらず、
智慧の力によらず、仕事の力によらず、天皇の徳の然らしむる処である。

           <感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>

老子の説く「5つの徳」 - 伝統

2015/09/20 (Sun) 13:13:25


徳はこの5つに要約されると老子はいう。


(1)第一『美ならず』
   とは、「美言は信(しん)ならず」といい、
   飾った言葉は、真実味が薄い。

   訥々(とつとつ)とした誠意ある物言いの方が相手の胸をうちます。


(2)第二『弁ならず』
   とは、「善なる者は弁(べん)ぜず」といい、
   善人は議論しないし、言葉で打ち負かそうとしない。

   口先だけの評論家もダメです。


(3)第三『博ならず』
   とは、「知る者は博(ひろ)からず」といい、
   エセの知識人は、本当の深いところを知らない。

   ただ浅くて薄っぺらな知識が多くあるだけだ。


(4)第四『積まず』
   とは、「聖人は積まず」といい、
   よくできた人物は何事もため込まないで、人に分け与える。

   与えれば与えられる。


(5)第五『争わず』
   とは、「聖人の道は、為(な)して争わず」といい、
   聖人は天道のように、利して争わないので、人から親しまれ与えられ、
   ますます物も多くなり、いよいよ心も豊かになる。


           <感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>

最も永続性のある宝 - 伝統

2015/09/27 (Sun) 12:06:06


            *『あなたは無限能力者』(P249)より

人間の最も滅びがたき永続性ある宝は「徳」である。

金銭は徳なくして多く得れば必ず破滅に導くのである。
快楽は徳なくして多く得れば、その人を魂の荒廃に導くのである。
美貌は徳なくしてこれを得ればその人を堕落に導くのである。

金銭は徳なくしてこれを使えば、浪費せられて間もなく貧しさが訪れる。
快楽は徳なくして貪(むさぼ)れば忽(たちま)ち苦渋と変る。
美貌は時と共に老い朽ちてあとを留(とど)めなくなるのである。

しかし徳は、これらすべての物を生かすのである。

金銭は徳ある者これを使えば必ず人を救うのである。
快楽は徳あるものこれを得れば人生に興趣(きょうしゅ)を添えるのである。
美貌が徳ある者に備わるとき愈々(いよいよ)高くけだかくなって
其の人に接するだけで人々の魂を高めるのである。

           <感謝合掌 平成27年9月27日 頓首再拝>

「徳」が身に備わるためには - 伝統

2015/10/04 (Sun) 13:03:28


            *『あなたは無限能力者』(P250)より

徳 は一日にして備わらない。
徳は善き行為の累積がついにその人の人格より発する光輝となったところのものである。

毎日人様の便所を掃除するとか、
廊下の拭き 掃除や掃き掃除をするとか、
貧しき人を救けてやるとか、
人々の垢を流す風呂を沸かすとかして、

人々に交換を与えるように、
人々にべんりを与えるように
人々を何らかの形で救ってあげるとかすることによって、

その人に何となき温かい風貌が備わるようになって来る。

内にたくわえられた「徳」が外に光を放つようになったとき、
その人の容貌は、生まれつき骨格がどうであろうと何とも言えない、
麗しい、優しい、親しい、そして威厳のある感じを有(も)つようになるのである。

美貌というものは「愛によって変貌した容貌である」と或る人が言った通りである。

「人間の〝徳〟というのは、能力でも知力でもない。それは内在するその人の身についた善業である」

           <感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>

宇宙生命より人間が得たるものを「徳」という - 伝統

2015/10/11 (Sun) 13:19:29


             *『人物を創る』安岡正篤・著(はしがき)より


宇宙の本体は、絶えざる創造変化活動であり、進行である。
その宇宙生命より人間が得たるものを「徳」という。

この「徳」の発生する本源が「道」である。
「道」とは、これなくして宇宙も人生も存在し得ない、その本質的なものであり、
これが人間に発して「徳」となる。

これを結んで「道徳」という。
よって「道徳」の中には宗教も狭義の道徳も政治もみな含まれている。

しかもその本質は「常に自己を新しくする」ことである。

殷(いん)の湯(とう)王の盤銘にいう

「苟(まこと)に日に新たに、日日に新たに、又(また)日に新たなり」

という言葉は、宇宙万物運行の原則であり、したがって人間世界を律する大原則でもある。

人はこの「道徳」の因果関係を探求し、その本質に則(のっと)ることによって
自己の徳(能力)を無限大に発揮することができるのである。


(参考Web:講老箚記 – 東洋思想・哲学・文化の研究
        → http://kourousakki.com/zuisou/1657/ )

           <感謝合掌 平成27年10月11日 頓首再拝>

天徳と人徳と地徳 - 伝統

2015/10/18 (Sun) 12:20:20


       *Web:シシの部屋~水瓶座時代の在り方~(2012.04.24)より


天の徳とは、「天の道に叶う心で生きる事で積まれる徳」と言えます。

人の徳とは、「人の道に叶う心で生きる事で積まれる徳」と言えます。

地の徳とは、「地の道に叶う心で生きる事で積まれる徳」と言えます。


具体的に、分り易く書くと。

天の徳とは「信仰心」によって積まれます。
これは「宗教心」とは違い、「物事を貫き通す事を言います」。

例えば、画家なら「絵を描く事」が「信仰心」。
作家なら「文書を書く事」が「信仰心」。

講演家なら「講演をする事」が「信仰心」。
音楽家なら「音楽活動」をする事が「信仰心」。

もちろん、神仏を信仰する事は「宗教心」でもあり「信仰心」でもあります。
「宗教心」は、宗教的な神仏を崇敬する心でもありますが「信仰心」とも言えるので。

ここの部分が拡大して「信仰=宗教」というのが一般認識になってしまってます。

本来、「信仰心」はもっと大きく捉えていいのです。

「天の道に叶う心」こそが「本来の信仰心」。

どんな事でも、命がけで真剣に行なうと「天の徳」が積まれるのです。



「人の徳」とは、「人の道に叶う事で積まれる徳」であります。
人の道とは、「明るい心で誠意を持って事にあたる事」です。

この簡単なであり、かつ深く難しい事をしっかり実践すると「人の徳」が積まれます。

いわゆる「人徳のある人だね~」というあの人徳です。



地の徳とは「社会的な貢献によって積まれる徳」の事です。
いわゆる大富豪や、慈善事業家、社会福祉家等は、
地の徳を積むのが得意なんだと思います。

社会や世の中、地球に関して大きく貢献して足跡を残す事で
それがやがて「地の徳」になり、大きく幸せを広げて行く事になるのです。



「天の徳」

「人の徳」

「地の徳」



この3つの徳を意識されると
自ずと「聖人的な何か? 」を感じられる方も多いと思います。


そうです、本当の「聖」とは、

「天と人と地の全ての徳分をバランス良く保っている人」に他成りません。

自分に足りている部分、足りない部分を検証して頂いて
足りない部分の認識を強化して
行動に生かして頂ければ調和度が増し、より素晴らしい人生になると信じています。

    (http://yaplog.jp/hisa1977/archive/316 より転写)

           <感謝合掌 平成27年10月18日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2015/10/25 (Sun) 12:29:23


            *「光明法語」(p198)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、心に明るさを失っている者は真の善人ではない。
あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事はすべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の
力をもっているものなのである。

心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

           <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首再拝>

【挨拶行(あいさつぎょう)】 - 伝統

2015/11/01 (Sun) 12:32:30


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年10月20日)」より

   (立花大敬氏の心に響く言葉より…)

   サッカー元日本代表監督の岡田武史さんの母校早稲田大学での講演記録の一節に
   挨拶することの意味が語られていて、「なるほど! 」と思いました。

   それによりますと、

   「挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めていますよ、
   許しているんですよ」

   という相手に対する合図だというのです。


   ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、

   「僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めていませんよ、
   許していませんよ」

   という合図になるのですね。


   だから挨拶しないということは相手に対してとても失礼にあたるし、
   挨拶されない人もとても腹が立つわけなのです。   

   AさんがBさんに挨拶しないとします。

   BさんはAさんに挨拶しても全然挨拶が返ってこないものですから、
   次第にAさんに挨拶しなくなります。

   これを先ほどの「認める、認めない」の議論を元に考えますと、
   Bさんは次第に「自分の世界(心)にAさんが存在することを認めなくなる、
   許さなくなる」ということですね。

   もしAさんがクラス(学校)のすべての人に挨拶しないとすれば、
   ついにはクラスのすべての人が、Aさんがクラスに存在することを認めなくなる、
   許さなくなる、ということになってしまいます。

   Aさんが困っていても無視する(無視とは「い無(な)いものと視(み)なす」
   ということですね)。

   意見を主張しても誰も賛成、協力しない、そのような状態になってしまいます。


   今度はBさんの態度を見てみましょう。

   Aさんの態度に腹を立ててAさんに挨拶しないということになれば、
   Bさんの世界(心)のなかにAさんがいなくなります。

   そのぶん、Bさんの世界(心)は狭くなったのです。


   心が狭くなると「徳」が減ります。

   無視する人が増えるほど「徳」はどんどん減ってしまいます。


   BさんのAさんに対する態度にも未熟なところがあります。
   
   BさんがAさんに挨拶します。
   Aさんは挨拶しませんでした。

   それに対して腹を立てて、もうAさんに挨拶しないとしたら、
   これはBさんの負けですね。


   挨拶とはギブ・アンド・テイクのものなのでしょうか。

   見返りを求めてしているものなのでしょうか。

   そうではないのですね。


   好きな人も、嫌いな人も、みんな自分の世界(心)の内側に存在することを許し、
   認めることができる。

   挨拶はそんな器の大きな人物(徳の高い人)になるための、とてもいい練習なのです。

   自分がした挨拶に反応があってもなくても、それは問題ではないのです。


   すべての人を許し、認めることができる。

   私がそんな大きな人物となれますようにと祈りを込めてする「挨拶行」なのです。


   《挨拶が育てる「もとめない心」》

   覚悟を決めよう
   つらいこと、悲しいこと
   厳しい呼びかけが

   まだまだ続く

   どんな呼びかけがやってきても

   「ハイ」、「ハイ」と

   答え続けよう

   何万回続く苦難だとしても
   
   無視する人、反発する人
   呼びかけても、呼びかけても
   返事がない

   それでも呼びかけを続けよう

   何万回拒否され続けたとしても

     <『2万人の人生を変えた23通の手紙』イースト・プレス>

              ・・・

マザー・テレサの「あなたの中の最良のものを」という素晴らしい言葉がある。

「あなたが善を行うと
利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

気にすることなく、善を行いなさい


目的を達しようとするとき
邪魔立てする人に出会うでしょう

気にすることなく、やり遂げなさい


善い行いをしても
おそらく次の日には忘れられるでしょう

気にすることなく、し続けなさい」(抜粋)



挨拶も、善い行いも同じで、見返りを求めてしまうなら、それは続かない。

損得やお礼を求めずに、淡々と続けるからこそ、そこに価値がある。


挨拶行の実践者でありたい。

           <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

【先施の心】 - 伝統

2015/11/08 (Sun) 12:23:12


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年08月10日)」より


   (植西聡氏の心に響く言葉より…)

   『好運の女神は「先に施す人」に微笑む』


   江戸時代の中期に細井洲(へいしゅう)という儒学者がいました。
   米沢藩の財政を立て直した、あの上杉鷹山が師と仰いだ人物です。

   その細井平洲の教えの一つに「先施(せんし)の心」というのがあります。


   先施とはいうまでもなく、先に施すという意味です。

   わかりやすくいうと、

   「自分から率先して挨拶する」

   「自分がまず笑顔をつくる」

   「自分がまず相手を敬う」

   「口論になったときは、自分が先に謝る」


   など、良いことは人に先駆けて行うことが大切になる、と説いているのです。

   人に尽くす、人を助ける、人に親切にするといった
   愛と善意に満ちた行為も例外ではありません。


   自分が大変な状況にあっても、苦しくてつらい状況にあっても、
   他人からヘルプを求めるまえに、先に他人の要求に応えてあげるようにするのです。

   すると、「他人のお役に立つことができた」という思いがこみあげてくるため、
   自分の心にポジティブな感情が増大していきます。

   すると「自分は大変な状況にある」「苦しくてつらい状況にある」という
   ネガティブな感情がだんだんと薄らいでいきます。

   しかも、それは苦境下における徳積みにつながります。

   そのため、通常のそれよりも数倍の預金を宇宙銀行へ積んだことになるため、
   やがて大きな恩恵を授けてもらうことができるようになるのです。

   《苦境下のときに徳積みを行うと、莫大な利息がつく》

        <『ツキを呼ぶコツ』ぱる出版>

           ・・・

先輩と後輩、親と子、上司と部下、年長者と年少者といった、
上下関係にあるときには、上の立場にある者から先に働きかけることが大事、ということ。

挨拶など、上の立場にある人は、下の者から先に言ってこないのは失礼だ、
というような感覚になりがちだ。


あるいは、車などでも、われ先に行くのではなく、
「お先にどうぞ」の精神で道をゆずる、ということも同じだ。

人と意見がぶつかったら、先ずはゆずって、相手の気持ちが落ち着いたところで
自分の意見を少し述べる、ということでもある。


また、率先垂範(そっせんすいはん)という意味もある。

難しいこと、嫌なことを率先してやるということ。

そうすることによって、命令せずとも、相手は動いてくれる。


真のリーダーとは、今の役職での上下ではない。

今は、たまたま下の地位にあったとしても、
「先施の心」を持っている人こそが真のリーダー。


挨拶、笑顔、ゆずる、感謝する、謝る、ゆるす・・・

先施の心で日々過ごしたい。

           <感謝合掌 平成27年11月8日 頓首再拝>

五常の徳 - 伝統

2015/11/15 (Sun) 13:30:53


人としての道、守るべき徳を説いた儒教の教え「五常の徳」。
孔子・孟子が説いた、仁・義・礼・智に、信を加えてまとめられたものを五常といいます。


(1)仁 :仁は、人間が守るべき理想の姿です。
      自分の生きている役割を理解し、自分を愛すること、
      そして身近な人間を愛し、ひいては広く人を愛することです。

      義・礼・智・信それぞれの徳を守り、真心と思いやりを持ち誠実に人と接するのが、
      仁を実践する生き方です。

      ほどこしの心、やさしさ、自分を愛し、周りの人を愛し、全ての人を愛する。
      人の立場に立って、物事を考える心を持つ。


(2)義 :義とは、人の歩んでいく正しい道のことです。
      義をおろそかにすることは、道を踏み外すことになります。
      仁を実践する基本として、義を貫くことが必要です。

      本当に人を愛し思いやる生き方は、正義を貫いてこそ成り立つのです。 

      人助けのこころ。
       勇気を持って正しい道を貫くことが、人を愛し思いやる生き方に繋がる。


(3)礼 :人の世に秩序を与える礼儀礼節は、仁を実践する上で大切なことです。
      親や目上の人に礼儀を尽くすこと、自分を謙遜し、
      相手に敬意を持って接することが礼、

      場合に応じて自分を律し、節度を持って行動することが節といえます。 

      礼儀、礼節のこころ。
    

(4)智 :智とは、人や物事の善悪を正しく判断する知恵です。
      さまざまな経験を積むうちに培った知識はやがて変容をとげ、
      智となって正しい判断を支えます。

      より智を高めるには、偏りのない考え方や、
      物事との接し方に基づいた知識を蓄えることが必要です。 


(5)信 :信とは、心と言葉、行いが一致し、嘘がないことで得られる信頼です。
      嘘のために一度損なわれた信頼を、取り戻すのは難しいことです。

      たとえ、仁なる生き方を実践していても、
      人に信頼されないことには社会で生きていけません。
      信頼は、全ての徳を支えるほどに大切なのです。 


 ・・・

「仁義礼智信」とは、儒教の基本的な五つの徳目、「五常」と言います。
五常は孔子(紀元前551~紀元前479)が確立したものではありません。

孔子は「仁」と「礼」を説き、
孟子(紀元前372~紀元前289)が「仁義礼智」の四つを説きました。
さらに漢の董仲舒(紀元前176~紀元前104)がこれに信を加え、
「五常」を確立したのです。


 ・・・

二宮尊徳は、生活が苦しい藩士のために、「五常講」という金融の仕組みを作りました。
仁・義・礼・智・信(五常)の徳を実践するものであれば、
その心を担保にお金を借りられるというものです。

借りた者は、借りたときの感謝の気持ちを忘れずにきちんと返せば、
五常の徳を実行したことになるというこの制度は、後の信用組合の原型となりました。

           <感謝合掌 平成27年11月15日 頓首再拝>

八徳 - 伝統

2015/11/22 (Sun) 12:17:13

八徳 『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』(じん・ぎ・れい・ち・ちゅう・しん・こう・てい)
  
南総里見八犬伝でおなじみ。
滝沢馬琴の南総里見八犬伝に出てくる八犬士は、
仁義礼智、忠信孝悌の8つの徳目を持った人物が活躍します。

(1)仁・・・愛。人を思いやる心。慈しみ。最高の徳
       身ぢかな家族→親戚→社会 と、近くから遠くへと秩序だてて広める。

(2)義・・・正義を貫く心。善悪、正邪、真偽。人道に従うこと、道理にかなうこと。
       仁を広める形。親への孝、兄や年長者への悌、君主への忠、社会には礼。
       これが道義・正義。

(3)礼・・・敬意を表す心。社会秩序を保つための生活規範、儀式、礼儀、作法、礼節。
       礼を学ぶことが、学。礼儀を身につけた人を、学のある人という。
       仁を実行して社会から信頼される人、そんな人が、学のある人。

(4)智・・・正しい判断を下せる能力。
       正しく豊富な知識と経験、洞察力が加わったものが智慧。

(5)忠・・・心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。

(6)信・・・信頼する心。
       言葉で嘘を言わないこと、相手の言葉をまことと受けて疑わないこと。

(7)孝・・・親や先祖を大切にする心。おもいはかること、工夫をめぐらすこと。
       親孝行すること。

(8)悌・・・兄弟仲がいいこと。

・・・

<八徳占い>

計算の方法
1.(生年西暦+660)+(生月-2)+(生日-11)を計算する。
2.1で出した数を8で割る
3.その余りを下の表に当てはめる。

余り数 0 1 2 3 4 5 6 7
八徳  仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌

仁:情に厚く、誰からも慕われる。 情に流され易く損得にうとい
義:相手を好きか嫌いかはっきりしている。 両極端な資質。
礼:社交性に富み、明るい性格。 精神的にもろい一面も。
智:探求心がおおせいで、努力家。 人付き合いは不得手。
忠:目的に向かって推進する性格。 人に対しては冷徹。
信:いやと言うことのできない性格。 悪く言えばお人好し。
孝:仲間への面倒見がよい。親分肌。 赤の他人には冷たい。
悌:目上に対して従順。 目下にたいしては横柄。

http://bigocoro.blog53.fc2.com/blog-entry-576.html

           <感謝合掌 平成27年11月22日 頓首再拝>

心の徳 - 伝統

2015/11/29 (Sun) 13:12:16


         *『生命の實相』第15巻・人生問答篇(P65~66)より


谷口:

善人がかえって失業して、悪人がかえって栄えている。
一見そう見える例もあるでしょう。

この世界は心の法則で支配されている。
栄える人には栄えるような心的雰囲気をもっていて財を諸方から引き寄せる。

「悪運盛んなれば天に勝つ」という諺もあるとおり、
その人がたといいわゆる道徳の眼から見て悪であっても、
諸方の財を引き寄せる磁石となるような人には多くの資産が集ってきます。

これは自分の心の徳 ―― 強さ、豊富さ、寛(おお)いさや、
自由自在の心境などの徳のためにそうなるのです。

《心の徳》―― 人間の栄える要素となるべき《心の徳》は
いわゆる狭い意味の窮屈な善ばかりではありません。

正しさも一つの心の徳ではありますが、
強さや、明るさや、豊富さや、偉大さや、自由自在な心境などもまた
人間になくてはならぬ《心の徳》です。

よく肺病になる人などを見ると、たいてい《気の小さい》善人が多いのであります。
そんな善人は善であることにおいて天地の道にかなっているけれども、《気の小さい》こと、
一つの小事に引っかかっていて、凝りすぎていて心の自由を失っていることなどにおいて
天地の道に背いているのです。

何よりも《気の小さい》ということは悪い。
気が小さいということは、言い換えれば神を本当に信じないということです。

自分の力一つで生きねばならぬと、小さく力んでいる人で、
《天地を貫いて生き通す力に押し流されて生きるような人でない》。
それゆえに気の小さい善人は肺病に罹ったり、失業したりすることがあるのです。

           <感謝合掌 平成27年11月29日 頓首再拝>

人は必ず陰徳を積むべし - 伝統

2015/12/06 (Sun) 12:28:36


          *「ある禅者の夜話」 紀野一義(著)より

(1)「人は必ず陰徳を修すべし」、
   人は必ず人に知られないところで徳を積むべきである。

   どんないいことをしても、それを人に知られるようにやったら、
   それは徳にはならぬ、というのである。


(2)徳を積むということは、剃刀の刃のようなものなのである。
   あるいは両刃の剣のようなものである。
 
   それはいいことには相違ないのであるけれども、
   人間というものは、いいことと、悪いことには、必ず執着がつきまとうものであるから、
   いいことをすれば、いいことをしたという執念がつきまとうわけである。


(3)仏教は、世間の宗教の中で、もっとも心理的な宗教だから、
   人間の心理の、深い文(あや)まで見ている。
   だから、いいことをするときほど用心せよというのが仏教の原則である。

   いいことをするときは、恥かしいと思いながらせよという。
   それがないと、相手に負担を負わせることになる。

   それで陰徳ということを言うのである。


(4)今の人は、こういうやり方を好まない。無条件では動かない。
   いいことをするときは、必ず人によくわかるように宣伝しながらやる。
   そういうのは陽徳というのであろう。

   陽徳は悪徳につながるということになる。
   陰徳でなくてはいけないのである。


(5)世の中には「ついている」という人がある。
   これは陰徳を積んでいるからだと、わたしは思う。

   こっそり人に知られないところで、いいことをしている。
   それがちゃんと報いてくる。

   そこが人生といもののおもしろさなのである。


(6)陰徳を修すれば、見えないところでも力が加わり、
   見えるところでも利益があるものである。

   だから、泥でできた仏像、木に刻んだ仏像、土をこねてつくった仏像等々、
   たとえ粗末な仏像であっても、仏像は無条件で敬わなくてはならぬ。

           <感謝合掌 平成27年12月6日 頓首再拝>

「徳」は目に見えないが素晴しい救いを与える - 日曜版

2015/12/13 (Sun) 12:28:41


           *『真理』第8巻信仰篇 より

人間の「徳」と云うものは、能力でも腕力でも知力でもない。

それは内在するその人の身についた善業である。

その人の身についた善業はおのずから善き雰囲気となってあらわれ、
何事を成さずとも、唯その人がいると云うだけで、
周囲の人々に大なる感化を与え、周囲の人々を幸福にすることが出来るのである。

大事業をする人、大政治家、社会事業家など、いずれも素晴しい人々ではあるが、
それらの人々は仕事の大いさによって人々を救うのである。

勿論、かくの如き人々が世を救う力は大であるが、
唯、天皇がましますことによって、日本国の平和の度がより多く保たれるとうが如きは、
能力の力によらず、智慧の力によらず、仕事の力によらず、

天皇の徳の然らしむる処である。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/27087805.html より転写)

           <感謝合掌 平成27年12月13日 頓首再拝>     

徳をつむ - 伝統

2015/12/20 (Sun) 12:15:46


             *Web:不安と悩みをなくす方法(2012.02.09)より

すべての悩みや苦しみは“徳”の不足が原因になっています。
特に以下のような悩みをお持ちの方は“徳”のことを知ることによって
八方塞がりの状況から抜け出すことができるようになります。

・努力しても報われない
・そもそも努力する気が起きない
・ブログや、自己啓発本に書いてあることが実行できない。
・夢や目標はあるが、ヤル気がない。
・そもそも夢や目標が見つからない


この世には“因果応報”の法則があります。

つまり、人に快感を与えれば、後で自分に快感を感じるような出来事がおこり、
人に不快感を与えれば、後で自分も不快になるような出来事がおこるということです。

このとき、「人に与えた快感」のことを「徳」といいます。

例えば、自分から笑顔で挨拶したり、電車で席を譲ってあげるなど、
親切な行為の積み重ねが“徳”になります。

これは“宇宙銀行”などと例えられることもあります。

善行は、目には見えないけれど、宇宙の銀行に蓄えられていて、
満額になれば貯金が降りて、幸福なことが起こる……という考え方です。
これは徳のことをとても分かりやすく表現しています。

この世界には「真実に近づけば楽になる」という法則があります(この世はバーチャルゲーム)
この“真実に近づく”という行為も徳になります。

真実とは、“ギブ&ギブ”や“ユダヤの法則”などのような、知れば幸福になる知識のことです。
これらの真実を知れば知るほど、“人徳”という徳が積まれていきます。

よく「あの人は人徳がある」という言い方をしますが、
これは「たくさん真実を知っている人」という意味になります。
(本当は知っているだけではダメで、実行できなければいけませんが)



《“地徳”と“人徳”は同時に積もう》

徳は“天徳”“地徳”“人徳”の3つに分類されます。

◎天徳
  神様を喜ばせた量

◎地徳
  人を喜ばせた量
  
◎人徳
  より多くの真実を体得し、人格を高めること。 

※上記の他にも様々な解釈があります


前世や祖先がつんでくれた地徳のおかげで、恵まれた環境に生まれてくる人がいます。
しかしそのような人でも、本人に“人徳”がなければ、
いつかは地徳を使い果たし、落ちぶれた人生を歩むことになってしまいます。

人徳のない人は性格が悪いので、人に嫌われやすく、人間関係で悪いカルマを作ります。
また、人徳のない人は霊的な知識に乏しいため、なかなか自分で徳をつむことができません
(そもそも徳という概念が理解できません)。

それどころか、“不満”“不安”“怒り”“見栄”などの波動を出しては、
絶えずカルマを作り続けています。

そんな状態では、せっかく前世や祖先がつんでくれた地徳もいつか使い果たしてしてしまいます。

そうかと思うと世間には、人柄はいいのに出世とは縁遠い人がいます。
スポーツ選手でも、一生懸命頑張っているにもかかわらず、なかなか結果が伴わない人がいます。

引き寄せの法則などを実行しているにもかかわらず、なかなか思うようにいかなかったり、
そもそもそういうことをやる気力すら起きない人もいます

そのような人達は、そこそこ人徳を積んでいるにも関わらず、
地徳が不足しているため、なかなか思うように行かないというパターンにハマっています。

上の例からも分かるように、地徳と人徳は、“同時につむ”ことが必要です。
両者の関係は、車とガソリンの関係に例えるとわかりやすいと思います。
 
 車=人徳
 地徳=ガソリン

いくら車をピカピカに磨き上げても、ガソリンがなければ走りません。
逆にいくらガソリンが満タンでも、車がポンコツだとなかなか前に進まみません。

人間もこれと同じで、いくら勉強して自分を磨いても、
地徳をつんでいないと、なかなか出世することはできません。

逆にいくら地徳があっても、本人がポンコツでは、
そのうち運を使い果たしてしまいます(一発屋の芸能人など)

地徳と人徳は、車の両輪にも例えることもできます。
どちらかがパンクすると、バランスが悪くてなかなか前に進めません。
人徳がなければ地徳は積めませんし、地徳がなければ人徳をつむ気力が起きません。

しかし、能力の高い医者ほどより多くの患者を救えるように、
人徳が高まれば、より多くの地徳がつめるようになります。

地徳を積むと、身体からエネルギーがみなぎってくるので、
バリバリ勉強できるようになり、さらに人徳をつむことができるようになります。

そして、磨き上げられた人徳で、さらに多くの地徳を積めるようになるのです。

このように、地徳・人徳は同時進行で積んでいくことが大事なんですね。


「じゃあ自分は地徳も人徳もスッカラカンだからどうしようもないのか!?」
と思われる方もいるかもしれませんが、その心配はありません。

小さな雪の塊が、段々と大きな雪だるまになっていくように、
自分にできる小さなことからちょっとづつ徳を積んでいけば、
それが文字通り雪だるま式に膨らんでいきます。

コツは、焦って大きなことをしようとしないことです。
大きな事をしようとすると、気持ちが萎えて身体が動かなくなってしまいます。
そんな状態で無理に善行をしても、苦しみの波動を出してしまうので、
逆に悪いカルマを作ってしまいます。

“自分が楽しんで出来る範囲”で、チビチビ善いことをするのがポイントです。

           <感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>

広徳 - 伝統

2015/12/27 (Sun) 12:26:47

《広徳成就の日》

          *『 生長の家 』(昭和16年11月12日)の法語より

   あの大海原を見よ。
   最も清らかなもので最もけがれている。

   一切の陸上から流れ入るすべての汚物を排斥しないで、
   自分のうちに呑みほしてしまうから、
   これほど穢れたものはないが、
   またこれほど浄らかなものはない。

   これが 『太白は辱の若し』 である。

   またそれが広徳即ちひろびろとした徳であって、
   一切を容れて不平を云わないから、
   一寸この人足らぬ人ではないかと云うようにも見える。

   この人は鈍物ではないかと思われるが、
   そう云うような人こそ広徳をそなえた人だと謂える。

   運鈍根の三徳こそ出世に必要だと云うのはそれである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295

           <感謝合掌 平成27年12月27日 頓首再拝>

地徳をつむコツ - 伝統

2016/01/03 (Sun) 13:08:14


          *Webより

(1)地徳=人を喜ばせた量

(2)良い言葉でひとりごとを言う

  ①“始めに言葉ありき”といいますが、
   地徳を積むのに一番手っ取り早いのが“良い言葉を言う”ことです。

  ②もちろん、人を褒めたり、挨拶したりするのも徳になりますが、
   相手がいないとき、自分一人でいるときにも徳を積むことはできます。

   それは良い言葉でひとりごとを言うことです。

  ③良い言葉を言うことで、身体から良い波動がでて、周辺の空気を浄化します。
   また、私たちは潜在意識の中でつながっているので、
   良い言葉を言うだけで、全生命の波動をも良くすることができるのです。

(3)「ありがとうございます」「感謝してます」という言葉を言う。

  ①「ありがとうございます」と、ずっと唱え続けることで
   癌などの難病がなおってしまったという実験結果は、
   枚挙にいとまがないくらい報告されています。

  ②その他、
   ・嫌なこと、不運なことがおこらなくなった
   ・ラッキーなことがたくさんおこるようになった
   という小さな(?)ことから

   ・思わぬ大金が手に入った
   ・事業が大成功した
   などという大きな事まで、たくさんの事例が色んな本で紹介されています。

(4)「人の幸せを願う」

(5)自分から挨拶する

  ①挨拶は徳をつむ絶好のチャンスです。

  ②「自分から」「笑顔」で「元気よく」挨拶するのが、効果的に徳を積むポイントです。
   これをやるだけでも、かなり運がよくなります。

(6)笑顔

  ①笑顔は0円です。
   しかしそれが人に与える幸福感は絶大です。

  ②ただ笑顔を増やすだけで、運勢は劇的に良くなります。
   笑顔はのまさに“幸運の打出の小槌”です。

(7)ボランティア

  ①ボランティアするのはいいのですが、
   無理してやっていると悪い波動が出てくるので注意が必要です。

  ②「早く成功したい」「早くこの不幸から逃れたい」という
   “焦り”の気持でボランティアをすると、どうしても体から
   ネガティブな波動が出てしまいます。
 
   こうなると、徳をつみながら悪いカルマも作っているわけで、本末転倒です。

  ③焦らず、欲張らず、無理のない範囲で取り組むのがコツです。

(8)寄付、募金

  ①ボランティアする時間や体力のない人は募金をするのがお勧めです。
   1日1円でも大丈夫です。
    自分が楽しんで出来る範囲でやればOKです。

  ②かの有名なアンドリュー・カーネギーは、
   貧しい頃から自分の出来る範囲で寄付をしていたそうです。

   そうしているうちに段々と事業が成功しはじめ、
   最終的には3億ドルを超える寄付をするまでになってしまいました。

(9)会社で給料以上の働きをする

  ①会社で働くとき「給料分だけはきっちり働く。でもそれ以外は私の仕事ではない」
   と考えていると、プラマイゼロで全く地徳はつめません
   (むしろケチくさい波動が出ているのでマイナスです)

  ②「私は事務だから、事務以外の仕事はする必要ない」
   「同じ給料で人より多く仕事をするなんて損だ」
   「こんな雑用、契約外だ。なんで私がやらなきゃいけないの」
   「言われたことだけやってたら十分だ」

   ……このようなことを考えているとき、
   その人は間違いなくネガティブな波動を出しています。

   その結果、引き寄せの法則によって、
   ネガティブなできごとを引き寄せるようになります。

  ③仕事をするときは、
   「期待以上の仕事をして上司(客)を喜ばせよう」
   「ボランティアのつもりで給料以上の働きをしよう」
   と思ってやっていると、ガンガン地徳が貯まっていきます。

(10)役立つ知識を教える

  ①徳のしくみを知らない人は、
   「自分の知識を人に教えたら、自分が追い抜かされてしまう」
   「人に情報を教えることは損だ」
   と考えます。

   彼らのような人間は、因果応報によって自分も他人から情報を与えられなくなります。

  ②真の成功者は、自分の成功体験を出版したり講演したりして、
   惜しみなく世間に公開しています。
 
   それは、この世が幸福感のエネルギーサイクルで成り立っている
   ということを熟知しているからです。

(11)業者さんに親切にする

(12)身内に親切にする

  ①家族が感じた不快感も、きっちり悪いカルマとして蓄積されています。

  ②家族にこそ気を引き締めて、思いやりの心を忘れないことが大切です。

(13)未来を見通す

  ①何かをするときには“一時的な結果”ではなく“遠い未来”を見すえてやらないと、
   かえって悪いカルマを作ってしまうことになります。
 
  ②よく想像力を働かせて行動することが大事です。

(14)悪いカルマを作っても気にしない

  ①人間は完璧ではありません。
   人はそもそも失敗する生き物です(ユダヤの法則)。
   だからといって、失敗を恐れて引っ込んではいけません。

  ②どうせ失敗するのですから、そんなことは気にせずガンガン徳をつんでいきましょう!
   3歩進んで2歩下がるくらいの心構えで徳をつんでいくことが大切です。


           <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

人徳をつむコツ - 伝統

2016/01/10 (Sun) 12:09:14


          *Webより

(1)「人徳を積む」とは、色々なことを勉強して人格を高めることです。

   例えば、性格の悪い人よりも性格の良い人のほうが、
   より多くの人に幸福感を与えることができます。

   また、勉強不足の医者より、
   よく勉強している医者のほうが、より多くの患者を救えます。

   このように、人徳を積めば、効率よく人を幸せにできる(地徳を積める)ようになります。


(2)人徳をつむ方法には以下のようなものがあります。

  ①一般教養(学校の勉強も含む)を身につける。

  ②哲学、人生訓、医学、自己啓発、心理学、脳科学、スピリチュアルなど、
   さまざまな分野の本を食わず嫌いせずにたくさん読む。
   (※限られた分野に偏って読書するのはドグマにおちいるのでNGです)

  ③技術を磨く。

  ④魂の書を読み、おのれを磨く。

  ⑤人生経験を積む。

(3)徳を積むことに限界はありません。
   「私はもう歳だ。本もたくさん読んできた。もうこれ以上学ぶことはない」
   と思っていると、人生頭打ちになります。

   学ぶことは無限にあります。
   人の成長も無限です。
   同じ本でも読めば読むほど、以前には気づかなかった新しい真実が見えてきます。

   それに、人は忘れる生き物です。
   常に知識や技術を磨き続けないと、人格は退化してしまいます。
   運動しないと筋肉が衰えるのと同じです。

           <感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>

《陰徳の日》 - 伝統

2016/01/17 (Sun) 12:23:17


        *『 生長の家 』(昭和16年11月13日)の法語より

   陰徳とは徳建ちたる者である。
   また建徳に通じ健かなる徳である。

   偸(とう)とは 『偸(ぬす)む』 ことである。
   人の目を偸み、時間を偸み、ポカンとして
   遊んでいるように見えるのである。

   またかくれて目だたぬことである。

   如何に徳高くしても目立ってこれを行う者は人からおとされる。
   夜そっと降りて来て万物をうるおす夜露のようなのが
   隠れたる建徳である。

   また本当に質実なものは 『私は質実でございます』 
   などとは云えないから、却って質実でないように思われる。

   併し孔子も云ったように巧言令色する者に質実はない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295


           <感謝合掌 平成28年1月17日 頓首再拝>

悪口を言わない人徳 - 伝統

2016/01/24 (Sun) 12:10:00


         *「愛国本流掲示板」(2016年01月17日)より
           ~(”おさる さま”の投稿記事)

(リーマンブログからの転載)

**********************

芸能界で有名なカップルが結婚発表をされました。
私は、あまり興味は無かったのですが、
ネットではファンではない男性たちも旦那さんの悪口が無いのです。

このことに興味を持ちました。

* 旦那は、とにかく人が良さそう。
* 金持ちの嫌味がない人。
* 心根が優しそう。
* 意外と真面目で、誠実そう。
* 将来に二人に何か問題が起こっても、旦那の原因では無さそう。

ここまで擁護される男の人徳とは、いったいそれは何か?を考えて視ました。
裕福で有名な家庭に生まれましても、なおさらに

* 他人から嫌われない人は、本当に少ない。
* 誰からも祝福される結婚が出来る徳を持つ人は少ない。
* 仕事も、美しい奥さんも授かるという人は少ない。

裕福な家庭に生まれ、好きに育った子供ほど、
女性関係が乱れたり、親の会社をダメにしてしまったりと、
上手く行かないパターンが社会では多々有ります。


しかし、この男性は仕事関係者からも、引きこもりがちのネット住民たちからも、
別に好きでは無くても口撃をされない人徳を持たれます。

その理由は、この男性は、

(1)他人の悪口を言わない。

(2)他人の悪口を自分に聞かされても、それに乗らない。

(3)この男性ならば、他人の悪口を言わないという安心感が有る。

という人徳が有ることを感じました。


そして、守護霊には有名な祖父が存在しており、
兄弟の中でも特にこの次男の守護に影響しています。
その影響で自然と、

(1)強く他人を怒れないサガが出ます。
(2)他人の悪口を言わない人徳を持ちます。

これはネットや出版物で書かれているエピソードなのですが、

この男性の祖父は、若い頃に身内に思いやりを持たずに強く叱責をした為に、
取り返しの付かない辛い経験をし、それ以来これがトラウマとなり、

* 他人を罵倒するのは嫌だ
* 嫌なことは、自分が呑み込む

という生き方に変わったようです。

これが幸いして、老子がいう
「弱は、強に勝つ」
を証明するがごとく、強い者同士が競い合い、「潰し合う」政界におきまして、

* 結局は、無難な線で選ばれる。漁夫の利を得る。

という人徳を得た御方だと思います。

このお孫さんには、祖父の守護霊が周囲に「よろしくお願い致します」と
今でも頭を下げる様子を感じます。

一番安心しておられるのは、彼のご両親かも知れません。
有名で裕福な家庭に生まれた子供が、イジメや期待過剰で潰れることが社会では多い中、
しっかりして独り立ち出来たことは素晴らしいです。

* 悪口を言わない人徳

とは、これ1つでも人生が変わる天の徳です。

これも知識として、知って置いたほうが良さそうです。

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=4496 より)

           <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

孤独の徳、和楽の徳 - 伝統

2016/01/31 (Sun) 12:10:54


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P26)より

《ひとり》になる時間を持つことは大切である。
その時間は静かに自分の 魂 に対座する時間である。

しかし、《ひとり》になる時間ばかりに耽(ふけ)る者は独善主義に陥りやすい。
人は自他一体の生命(せいめい)であるから、互いに扶(たす)け合い、語り合い、
讃(ほ)め合い、勇気を付け合う時間も必要である。

孤独は《ひとつ》の徳であるが全部の徳ではない。
他人と仲の悪い孤独は悪徳でさえある。
さらに家族と仲が悪いにいたっては度すべからざる罪人(ざいにん)である。

すべての人と仲よく交わることの中に 魂 の生長があり、家庭の和楽があり、
人間らしい歓びがあるのである。

            <感謝合掌 平成28年1月31日 頓首再拝>

《寛容の徳をもつこと》 - 伝統

2016/02/07 (Sun) 12:11:15


        *『生長の家』誌 昭和40年新年号より

あなたは寛容の徳をもたなければならない。

人を狷介に審くものは、自分も人から偏狭に審かれ、
人を寛大に容れてやらない者は自分も容れられずに排斥せられることになるのである。

すべて自分の心が環境に反映し、
自分が人を遇した通りに、自分も遇されることになるのである。 

自分の境遇はかくの如くして、悉く自分の心と行為の所産であって、
決して偶然に自分の運が悪いのでもなければ、悪い星の下に生まれたのでもないのである。

しかし、寛容の美徳だなどといっても、それは私的な関係や、自分に対する相手の行動、
公けに関係しないことで自分に不快を与えたような事や、相手の無知や、
行届かないことから来る失敗に関してのみ、寛容であれというのであって、

相手が公けな問題で間違った事をやろうとしたり、
間違った教えを真理の如く宣布して人をまどわしたり、
国家をくつがえすような陰謀をやろうとしている際には

寛容にほっておいてはいけないのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17864837.html

            <感謝合掌 平成28年2月7日 頓首再拝>

明るく強く大きくしっかりと生きる - 伝統

2016/02/14 (Sun) 12:34:12


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P20~21)より

交友を選ぶことは生涯のうちで最も大切なことである。
悪しき友と交わってはならぬ。
悪しき人間は《本来ない》けれども、方向のまちがった側へ進む者を「悪しき人間」と仮に言う。

生命(いのち)の本質の栄えのことを思わず、外面の虚栄に心を奪われ、五官の快楽のことに
のみ心を引かれて悪しき者と交わるならば、その人は人生で一番大切なものを見失う時が来る。

かく言えばとて、決して一日中一室に閉じ籠っている憂鬱な友達を選べという意味ではない。

明るく生きることは人生の一つの美徳である。
強く生きることも一つの美徳である。
大きく生きることはさらにまたもう一つの美徳である。

何物をも包容しつつ、強く大きくしっかりと
生命(せいめい)の大地を踏みしめて行くことは常によい。

外面(がいめん)の虚栄や五官の快楽には強さがなく、大いさがなく、広さがなく、包容性がなく、
それが常に狭く個人的なものになりたがるから低卑なのである。
孤独ということも、それが個人的なかぎりにおいては人の生長を害(そこな)うものである。

            <感謝合掌 平成28年2月14日 頓首再拝>

ゴミ拾いは「徳積みの行為」になる - 伝統

2016/02/21 (Sun) 12:15:28


          *Web:貴方の素晴らしい人生に乾杯(2015/10/5)
              ~「心の眼―Angel’s Eyes」井出章彦・著(P119)からの引用


(井出章彦さんの質問)

  徳についての質問です。
  どうすれば徳を積んでいけるのですかそして、
  徳を積むとなにか良いことがあるのですか


(天使の回答)

  貴方の場合ですと、奉仕しでヒーリングを行っている、
  これも徳として積まれています。

  またたとえ職場での勤務時間内であったとしても、
  外に落ちているゴミを拾ったりすると、これも徳となります。

  天上界(の天使)は、その人からの祈りを聞く場合、
  その人個人の徳の数によって働きます。
  すると徳の数が少ないと、動かないと言えてしまうのですが・・。

  今、日本人の平均徳の数は、二十です。
  天上界が動くには、八十は必要だと思って下さい。
 
  徳積みの行為はそこに見ている人が誰もいなくても関係ありません。
  なぜなら、天上界では、貴方の思念と行為は全て承知しているのですから。

  走っているクルマの中からゴミを投げ捨てるような人がいますが、
  このような人の場合、徳の数が減るのではなくて、心の段階が落ちます。
 
  また、逆にゴミを拾うような人の場合、徳は積まれることになっています。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/sintyounobirsuyodokomademo/65432040.html


            <感謝合掌 平成28年2月21日 頓首再拝>

「徳あるはほむべし、徳なきはあわれむべし」 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 12:08:03


          *「抜粋のつづり75集」(クマヒラ刊、平成28年1月)から

「徳あるはほむべし、徳なきはあわれむべし」

これは道元の正法眼蔵の「四摂法」の中にある言葉です。
日常の人との触れ合いの中で愛語の大切さを説いた中に
ある言葉で、相手を思いやる言葉を発する心構えを説いています。

凡人である私は相手に好悪をつけがちでした。

若いころは相手の気持ちに無頓着に自分の手柄を得々と述べ立てる人、
気の毒な状態にある人を馬鹿にする人、
細かいことばかり言い立てて人を批判する人、
他人の欠点や間違いを面と言わないで陰口を言う人、
などに出会うたびに腹を立てていました。

特に自分のあこがれるようなポストについている人や、
上司や組織の上の地位にいる人が、こちらが期待するほど有能でなかったり、
人間性の低い品格のない言動をするといらだち、つい反発していました。

しかしこの言葉に出会ってからは、そうした心ない言動をする人は
「徳がない」だけなんだ。
人間として未熟なんだからかわいそうな存在なのだ、
と考えるようになれました。

そうした人の言動に怒ったり、いらだったりするのは、
相手が自分より優れているべきだ、立派であるべきだと期待するからです。

この程度の未熟な人なんだ、まだ人間ができていないかわいそうな人なんだ、
と憐れめばいいのだと気づいたら楽になりました。

相手と自分が同等の立場と思ったり、上の人と尊敬していると裏切られた
気持ちになりますが、「気の毒に、まだ人間ができていないんだ」
と考えれば腹は立ちません。

部下や子供たちが未熟でも腹が立たないのと同じように、
夫や同僚、上司や先輩もまだ人間として発展途上で完成していないから
こんな思いやりのない言葉を言ったり、意地悪な行動をとるのだと
考えればよいのだ。

すると相手に腹を立てるのではなく、憐れまなければならないという
気持ちに慣れました。

それより難しいのは「徳あるはほむべし」を実行することでした。

私は負けず嫌いのそれこそ未熟な人間だったので、友人が成功したり、
業績を上げたりしていると、悔しい気持ちが抑えられませんでした。

何であの人はうまくいくのに自分はダメなんだろうと情けない
思いにとらわれがちでした。

会議や友人の集まりでも、うまいことを言う人、立派に行動する人に対して
「いいカッコして」とねたんで「それに引き換え自分はなんて下手なんだろう、
うまく立ち回れない」と内心で嘆いていました。

しかし「そうだ、立派にふるまうことのできる人、いい言葉を言う人と
自分を比べる必要はないのだ。単にすごいな、立派だな、と褒めておけばよいのだ」
と気づいてからは悔しがったり嘆いたりすることが減りました。

もちろん完全にいつも「ほむべし」とはいかず「それに引き換え私は」
という気持ちになることがあります。

しかし、その時は呪文のように「徳あるはほむべし、ほむべし」
と繰り返し笑顔で祝福するようにしています。

            <感謝合掌 平成28年2月28日 頓首再拝>

徳の数 - 伝統

2016/03/06 (Sun) 12:32:29


          *「心の眼Ⅲ」井出章彦・著(P30~37)より抜粋

(1)徳の数は如来界の最高責任者であり、大天使長である大天使ミカエル様が決めている。

(2)日本人の平均の徳の数は20にしかすぎません。
   天上界の方たちがその人の祈りをきく場合には、
   その人の徳の数が80は必要だということらしいのです。

(3)徳積みの行為は、そこにあなたの行為を見ている人がいなくても関係ありません。
   また、あなたの行為を相手が気がつかなかったりする場合もです。

   何故なら、天上界では、あなたの思念と行為は全て承知しているのですから。

(4)徳積みの行為とは、「善の行為をする」ということです。
   やさしい言葉を投げかけたり、助けの手を差し伸べたり・・・。

(5)徳の数は同じ行ないであっても、その人の魂の器、光の量によっても、
   数字としては様々に変わってきます。

   それは心の段階の高い人の場合だと、影響力というものの差が、
   そこに出てくるからなのです。

   また、人が見ているから行なう、という思いでの行為となると、
   また、数字が違います。

                ・・・

          *「心の眼Ⅲ」井出章彦・著(P99)より

人に与えた思いやり
徳となって積まれます

心で発したその行為
徳となって積まれます


人が見ているからと
そんな気持ちは邪心です

人の気に入るためからと
そんな気持ちは邪心です


あなたの心の行ないは
光となって届きます

あなたの善意、善行は
天の蔵に積まれます

            <感謝合掌 平成28年3月6日 頓首再拝>

あなたの行為は、徳となって積まれます - 伝統

2016/03/13 (Sun) 12:08:27


           *「心の眼」井出章彦・著(P104~105)より


あなたらしさを磨きましょう

あなたは世界でただひとり

あなたの存在そのものは
世界でひとつだけのもの

道 即 法

法 即 行(ぎょう)

行(ぎょう) 即 光


行為はあなたの糧(かて)となり
徳となって積まれます

            <感謝合掌 平成28年3月13日 頓首再拝>

天の倉に貯える - 伝統

2016/03/20 (Sun) 12:06:19


           *「光明道中記」(P64)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、天の倉に貯えられたる善行である。
すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを先ず天の倉に有つことから始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの不幸不運な人ならば、
その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が少しもないことを現しているのであるから、
その人が自己の運命を改善しようと思うならば、先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、善念を貯え、愛念を蓄え、
善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

            <感謝合掌 平成28年3月20日 頓首再拝>

祈り - 伝統

2016/03/27 (Sun) 12:02:06


          *Web:貴方の素晴らしい人生に乾杯(2015/10/5)より

誰もが皆、お祈りをしたことがあると思います。

それは心の中であったり、神社の前であったり、お寺の中であったり、
あるいは夜寝る前の布団の中であったりしたかもしれません。
 
そして多分皆さんは、神様が、天使が、ご先祖様が守ってくれる、導いてくれる、
願い事を叶えてくれるとのことで、祈られているのではないかと思います。
 
以下、心の眼の観点から感じたままに記していきます。

まず、祈りは、徳の数によって成就されるということです。

えっ、何のこと?、と思われることでしょうね。きっと。

ここで、預金のことを思い浮かべてみてください。
原理としては同じですから、把握しやすいと思いますので。

あなたが新車を欲しくても、それだけのお金がなければ購入する事は出来ません。
お金という貯えがこの場合、必要です。
 
 
では徳とはどういうものなのでしょうか。
そして徳を積むとは一体どういうことなのでしょうか。
 
人に親切にするとか、街に落ちているゴミを拾うという行為も、
徳として換算されて、積まれていきます。

たとえそこに貴方のその行為を見ている人が誰もいなくても、
あるいはあなたの親切を相手の人が気づかないとしても、です。

私は時々、遠隔ヒーリングを行うことがあります。

相手には「気を送ったよ」とか、「今からヒーリングをするからね」とかを、
特に伝えたりはせず行う場合が殆どですが、心の眼で私自身の徳の数を教えてもらうと、
それは増えていたのですね。

「情は人のためにあらず」という言葉の意味は実は、
このように自分のためとなっているのだ。ということなのです。

 
拝めば救われる、という以前に、自分自身の今までに行ってきた善の行為によって、
自分自身が助けられる、救われる、という事柄は実際にあり、それは事実なのであるということを、
皆さん方には是非知っておいていただきたいと思うのです。

 
今の日本人における徳の数の平均はいくつでしょうか。
100を満点とした場合、その平均値というものは実は20です。
ちょっと少ないなあ、と感じられたのではありませんか。
 
ではなぜ少ない数なのでしょうか。
それは、自分本位の考え方で生きている人が多いことをそのまま顕しています。

それだけ自分だけ良ければいいんだ、という考え方に基いて
生きている人が多いということを顕しているのですね。

ですが、面白いことに、そのような人というのは徳が少ないから、
逆に幸せな人生は送りにくいのですけれども。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/sintyounobirsuyodokomademo/65445916.html


            <感謝合掌 平成28年3月27日 頓首再拝>

「宇宙預金(徳を積む)」の利子は、年利1000%らしい - 伝統

2016/04/03 (Sun) 12:30:08

           *「ありがとうの神様」小林正観(P116~119)より

   「足腰の立たない親を33年間介護している」と言う方から、相談を受けたことがあります。
   この方は42歳の男性ですが、「介護のために恋愛もお見合いもできない。
   私の人生はこれで終わりだと思うと、つらい。このままでいいのだろうか」

   と悩み苦しんでいました。

   そこで私は、次のように答えました。

   《「人間が汗を流したときに、報酬は2通りの形でやってきます。
   ひとつは、お金や金銭的な報酬で、もうひとつは『宇宙預金(徳を積む)』という形です」》

   お金の場合、現金で100万円入ってきても、100万円使えば、「0」になります。

   一方、「宇宙預金」は、ずっと年利1000%の複利計算で、
   翌年から、10倍、10倍に増えていくらしいのです。


   母親を3年間介護して汗を流して、それに対して金銭的な報酬がない状態の人は、
   ものすごくたくさんの「宇宙預金」を貯め込んでいることになります。


   ところが、「宇宙預金」が何億ポイント貯まっても、
   一瞬にして「0」になってしまうことがあります。

   それは、「(1)不平不満・(2)愚痴・(3)泣き言・(4)悪口・(5)文句」を言うことです。
   「五戒(ごかい)」を口にしたとたん、今まで貯めたポイントは「0」になります。

   ビジネスマンの中には、流した汗の分だけ「時間外手当」がつく人がいますが、
   もしかしたら、手当をいただいている人は、不幸なのかもしれません。

   金銭的な報酬のない汗をたくさん流している人ほど、
   じつは、ものすごいパワー、人脈、「宇宙預金(徳を積む)」が貯まっています。

   「宇宙預金」が貯まれば貯まるほど、何が起きるかわかりません。
   どんな利息を生むのか、とても楽しみです。

   《「いざお金に困ったとき、『宇宙預金(徳を積む)』では役に立たないのではないか」
   と言う人がいます。そんなことは、ありません。なぜなら「宇宙預金」は、
   「人脈」ともイコールだからです。》

   仮に私が「今晩中に1000万円集めなくてはいけない」というときに、
   「100万円ずつ貸してくれる人が10人」いたら、集められます。

   お金だけではありません。「どうしても人手が3人か4人ほしい」というときも、
   「人脈」を持っていれば、協力をしてくれる人がすぐに集まるでしょう。


   「宇宙預金」のほかに、「にこやか貯金」も利子が大きい。

   たとえば、上司から「頼まれごと」をされたとします。
   そのときは、イライラせず、いやみも皮肉も言わず、笑顔でやってあげましょう。
   いつも笑顔でやり続けていくと、それは「にこやか貯金」になります。

   人間は基本的に、「良心」の塊です。
   あなたが嫌な顔をせず、ニコニコやっていれば、頼んだ人の心の中に「借り」ができます。
 
   その「借り」は目に見えないものですし、数字でもあらわせません。
   しかし、快く引き受けていると、どれほど威張っている上司でも、
   心の中に「借り」が生まれます。

   そしてその借りを「大きな利子をつけて返そう」とします。

   上司から何か頼まれたときは、
   「にこやか貯金を積み立てるチャンスがきた。ありがとうございます」と思ってください。

   そのときから「にこやか貯金」がはじまります。
   そして、大きな利息が付いて返ってくるでしょう。

            <感謝合掌 平成28年4月3日 頓首再拝>

明徳を明らかにする - 伝統

2016/04/10 (Sun) 12:02:00


          *Web:「息游堂 ~ 東洋思想・漢学教室」より

『大学』(儒教の四書のひとつ)の冒頭で説かれるのが「明明徳」、
つまり「明徳を明らかにする」という教えです。


   大学之道、在明明徳、

   大学の道は明徳を明らかにするに在り。


「徳」というのは本来、人間が有しているあらゆる性質を指します。
思いやりや感謝、愛情、物事を処理する才覚、欲望や妬みといった感情も含めて、
本来は「徳」です。

ただ、すべてを「徳」と言うと、ちょっと収集がつきません。
そこで人間が持つ性質の中でより根本的・本質的なもの、
もっとも大切なものを「徳」と呼びます。

つまり、人にとってなくてはならないものが「徳」です。

「無為自然」を愛する老荘思想では、
人にとってなくてはならないものを象徴して「玄徳」と呼びます。

これは要するに自然であり、ただ生きるということを愛する。
なにものも所有せず、恃まず、取り仕切ったりということもしない。
これはまさに自然・宇宙の姿です。

一方で、儒学ではそれを象徴して「明徳」と呼びます。
「明」は月の光が窓(日)から差し込み、部屋の中を照らす形。

暗い部屋の中で月明かりを頼りに書を読むように、実生活に活きるものを明らかにし、
自覚を深めていくことが「明明徳」です。


《「明徳」を以て、人生の矛盾を統一する》

では、なぜ「明徳」が必要か。欲望のままに生きてもよいのではないか。
「徳」なんて言うと堅苦しいし、古くさい。そう思われるかもしれません。
私も以前はそう考えて、老荘の説く「無為自然」が良いと思っていました。


しかし、「明徳」は決して形式道徳ではなく、
我々が矛盾の多い人生を生きる上で道を示す、個人の生活に根ざしたものです。

私たちが生きるということは矛盾に満ちています。
人の役に立ちたいと思う一方で、気に食わないやつは蹴落とそうと思う。
友人の出世を喜びたい一方で、嫉妬する。

人に愛されようと思えば、思いやりを持って接し、
自ら愛さなければならないと思うが、素直になれない。

仕事にしても、価値を出したいと思う一方で、休みたい・遊びたいと思う。

西洋では、これらの矛盾を分析・分割して解消しようとします。
例えば、「仕事は生活を支えるための労働」として、仕事とプライベートは切り分ける。
なるべく互いを浸食しないようにする。

また、出世で言えば、細かい評価項目を設けて、理知的に矛盾する感情を解消しようとする。
「30の評価項目のうち、24個を満たした者をマネージャーにする」。
こうすれば、少なくとも理知的には納得せざるをえない。

そして、出世できなかった者は「仕事は仕事、自分はプライベートを楽しむ」として、
自分の感情に折り合いをつける。

これは理知的な文化に根ざしている西洋では問題が生じづらいかもしれませんが、
東洋人はどちらかというと本来は感情的です。分析的・理知的に折り合いをつけようとし過ぎると、
自分の感情を整理しきれなくなってしまい、神経が摩耗してしまう。


その矛盾を解消し、統一して高めていくのが「明徳」の役割です。
自分はどう生きれば幸福を感じるのか。
それを自覚していくのが「明明徳」です。

自分の本性を自覚すれば、自ずと矛盾に対したときの振る舞いが明らかになる。

人に優しく生きたい人は、気に食わない人がいるときでも、
どうすればその「道」を外さずに済むかを考える。

健康を大切に想う人は、身体を損ねない働き方はどうあるべきかを工夫する。

尊敬する人に私淑し、身を捧げようと思えば、身命を抛って尽くす。

これらはすべて「明徳」あってこそ、可能です。
あらゆる矛盾を「明徳」を以て処理していく。
自分の生活を統一し、ひとつの人格として決断を重ね、高めていく。

そこに生じる決断は「たち(断ち)」、つまり剣太刀という象徴で示されます。
これがつまり、三種の神器の1つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が示す
剛利決断の徳に通じます。

もちろん、分析・分割することは非常に有効です。
仕事を処理していく上では非常に力を発揮することを、私も強く感じます。
西洋文化も素晴らしい、活かすべきだと思います。

しかし、同時に自らが依って立つ「本性」の自覚が必要である。
これが『大学』の「明明徳」が教えていることだと思います。

http://sokuyudou.com/daigaku/71/


            <感謝合掌 平成28年4月10日 頓首再拝>

三種の神器が象徴する徳 ~ 仁・智・武 - 伝統

2016/04/17 (Sun) 12:13:44


          *Web:「息游堂 ~ 東洋思想・漢学教室」より


日本における象徴として、もっとも有名なものの1つが「三種の神器」だと思います。
「実在は確認されていない」、「解釈は儒学伝来以後のものである」など、
つまらない考証学的な議論はありますが、

要するに我々の祖先がそれにある種の力を感じてきたということが重要な問題です。



八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は穆(内実満ちて美しいさま)たる「仁愛」、

八咫鏡(やたのかがみ)は仁に即して発し、明らかにする「明智」、

天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は矛盾を統一する「武勇」を表す。


つまり、思いやりを持ち、明るい智慧によって物事を照らし、
善悪・矛盾を統一して導く武勇を日本人は美徳としたということだと思います。


『孫子』の「作戦編」に見られる「勝つことを尊び、久しきを尊ばず」という教えからも、
「武」は戈(か、中国古代の武器)を止めることであり、決して暴ではなく、
むしろ争いを収める徳であることが分かります。

     ( http://kourousakki.com/zuisou/1643/ )


            <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

徳は人間の精神の最高位 - 伝統

2016/04/24 (Sun) 19:10:44


       *「人物の条件」下村澄・著(P174)より

安岡正篤先生は人間を他の動物から分け隔てて、
人間たらしめているものは精神性にある、と説かれた。
人間の精神性は道徳として発現する、ともいわれている。

そして、ずばりこうも述べられていた。

「人間の精神の最高位のものは徳性であります」

利にのみ走ると、この人間の最高位の精神である徳性を裏切ることがしばしば起こる。
このことは、政界や経済界のスキャンダルをあげるまでもあるまい。
小人とうぃあれ、下品と極めつけられても止むを得ないことである。

徳性もまた人物たる条件として不可欠のものである。

人物たることを心がけてさまざまな努力を重ねることは、徳を磨くということである。

人物たる究極の目標は、この徳性を獲得し、
それを磨き、徳を積むというところにある、
といってもいいほどである。

そのことが品位にもつながってくる。

            <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

「徳」は決して「自己犠牲」を必要としない - 伝統

2016/05/01 (Sun) 13:01:27


            *『真理』第9巻生活篇(P320~321)より

「徳」とは自己犠牲を必要とするものだというような考えが、
あなたの潜在意識の何処かにありますと、
個人の潜在意識は宇宙の潜在意識につながっており、

自分の願望するところのものを宇宙意識に伝え、宇宙意識は一切の所に遍満していて、
その願望にふさわしきものを、その人のところへ持って来てくれますから、
自己犠牲を必要とするような事件がその人の身辺に集まって来てその人は不幸になるのです。

「徳」と「福」とは両立しないという潜在意識の観念を打ち破らなければなりません。

そのためには『生命の實相』を繰り返し繰り返し読んで、
「神の国」即ち「実相世界」には犠牲がない、

従って「実相世界の秩序」があらわれたら現象世界にも犠牲がなくなり、
共存共栄の世界があらわれて来るものだということを
潜在意識の底の底までも徹底せしめることが必要なのです。

           <感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>

明徳を明らかにする - 伝統

2016/05/08 (Sun) 12:35:59


         *Web:人生の道しるべを探して(2011/4/17)より

人が人と成り、人とし生きる根幹を説いた教えに中国古典の『大学』がある。

大学は孔子の弟子である曾子が著した大人のための学、
すなわち人によい影響を及ぼす人物となるための教えを記したもので、
その冒頭は、三綱領(さんこうりょう)といわれる有名な一文から始まる。


大学の道は、明徳を明らかにするに在り。

民に親しむに在り。

至善に止まるに在り。


「明徳を明らかにする」は、三綱領の一番の根幹だという。

人間には、生まれながらにして徳性が授けられており、
素直な心でこの天から与えられている徳性を発揮していくことが大切だということです。

徳には見える徳と見えない徳があります。

木の根は地中にあって直接見ることはできないが、非常に大きな役割を持っていて、
その働きによって、幹や枝や葉や花が表に現れます。

見えないところで大きな働きをしている徳を玄徳(げんとく)といい、
表に現れた徳を明徳という。

ゆえに人間も、立派に成長していくためにはまず根をしっかりと養わなければならない。

明徳の裏には常に玄徳があることを認識しておくことが大切なのですが、
人間の明徳にはしばしば「我(が)」という霧や、「私(わたくし)」という
雲がかかるといいます。

我や私を少しでも薄くしていくよう努めて、太陽がはっきり見えてくるように
明徳を明らかにしていかなければならないのです。


「民に親しむ」とは、殿様になれば、自分の直属の家来だけではなく、
一般の民に対しても親しみ、つまり一体感を感じなくてはいけないということ。

そして、明徳が明らかになると、
世の上に立つ者は、直接関係のないところまで一体感を感じて処置をしていくことです。

したがって、明徳を明らかにすることと、
民に親しむことは、別々のものではなく一つのものだという。


「至善に止まる」の善は、私たちが普通に使っている善とは次元の異なるものです。

普通は善悪を自分の利を中心に考えており、
自分に都合のいいことを善、都合の悪いことを悪と見なしています。

これは相対の世界での捉え方で、これに対して至善とは、
相対という対立する二つの世界を超えた、絶対的な一なる世界の善のことだという。

家を再興するという目的から利を追求し事業を興した松下幸之助が、
後に、社会公共のために転換をはり「七つの精神」を定め、世界に通用する規範をもって
会社を運営したことは「至善に止まる」をまさの実践した人物だという。


天地のルールを道理といい、人のルールを義といいます。

道理や義を無視して儲けに走るところから様々な間題が生じる。

至善に止まることを目指し、何事もまず道理や義にかなった行動を心がけることこそが、
真の繁栄に通ずる道だと思うのです。

    (http://perafe.blog90.fc2.com/blog-entry-321.html )

           <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

徳とはきわめて日常的である - 伝統

2016/05/15 (Sun) 12:28:36


       *「人物の条件」下村澄・著(P175~176)より

道徳、人徳などと、徳という言葉は日常よく使われる。
私たちはなんとなくわかったような気でいる。
しかし、よく考えてみると、私たちの理解はきわめて曖昧で、
突き詰めていくと、わかったようでわからない。

そこで、私は徳とな何かを安岡(正篤)先生に質問したことがある。
私は先生の口から深遠な言葉が返ってくるのを期待していた。
だが、その言葉は期待に反して、意外な言葉であった。

ちょっと聞けば、へえ、そんなことが、と思えるような、当たり前というか
当然というか、瑣末すぎるともいえる事柄の中に人間の根本的なものはあるのだな、
と感じた。

安岡先生の答えとは、こうだった。

「雨に濡れてぶるぶる震えている子供がいる。
あるいは親にはぐれてしくしく泣いている子供がいる。
そういうのを見て、あなたはどう思いますか。

ああ、可哀そうに、と不憫に思うでしょう。
惻隠の心ですね。

それは人間だけが持つ心なのです。
そういう心が徳なのです」

明解である。確かにそういう心持ちは人間だけのものである。
徳とはむずかしい理屈でも高邁な理論でもなんでもない。
きわめて日常茶飯事的なものなのである。

だからこそ、人間の精神の最高位のものであり、
人物の条件として究極のものだといえるのである。

           <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>

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