伝統板・第二

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神の流出口 - 伝統

2015/06/01 (Mon) 17:35:18

【 自己は神の流出口 】

        *「光明道中記」<6月神にむすばる>(はじめのことば)より


吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

・・・

(静思集 P183)にも収録されております。

           <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

「久遠を流るるいのち」の流出口 - 伝統

2015/06/05 (Fri) 18:00:54


        *『生命の實相』第27巻久遠佛性篇より

招神歌を唱えない日はない


わたしは始めから「わたしは生長の家の教祖ではない。 わたしは諸君と共に 
『生長の家』 の教えを聴聞してひたすら、そのごとく生きゆかんと努力せる一人の
求道者にすぎない ・・・・・」と 『生命の實相』 第1巻14ページに明記してある。

わたしは教えのすべての栄えを神に帰し、

「我が業は我が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」

という招神歌(かみよびうた)を唱えない日とてはないのである。

 
わたしは釈迦、キリストがそうであったろうところの
「久遠を流るるいのち」に触れんことをつとめ、かくつとめつつ、
「久遠を流るるいのち」の啓示を 『生命の實相』 に書き止めたのである。

だから 『生命の實相』 の本当の著者は谷口という、いつにか生まれて
いつかは死滅してしまうような儚い人間が書いたのではない。 

その著者は「久遠を流るるいのち」である。 
わたしはただ「久遠を流るるいのち」の流出口にすぎないのである。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17719449.html

           <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

神のラッパとして - 夕刻版

2015/10/08 (Thu) 19:20:19


            *Web:「光の進軍」 より
             ~ 仙頭 泰

谷口雅春先生は、常に「私は神のラッパである」と言っておられました。
そして先生のお書きになる文章は、
つねに神からの啓示によるものであることを述べておられます。


「菩薩は何を為すべきか」の九頁には、つぎのように書いておられます。

「世界がこのように急速に航空機や電波受信機が発達してせまくならない前だったら、
地球は広いから、色々の宗派が群雄割拠していてもあまり互いに障りにはならなかった
けれども、このように地球が狭くなってきたら、どうしても万教帰一のこの生長の家のような、
あらゆるものを生かすところの完璧な宗教が要るようになったのであります。

瑕(キズ)のない立派な珠(タマ)のような、あらゆる宗教を生かし、
あらゆる人類を生かし調和せしめる、そういう教えを私というラッパを通して
神が説かしめられたのは、深い意義のあることであります。」

 
また「生命の実相」第一巻の中で「生長の家とわたし」と題するご文章では、
つぎのように述べておられます。

「もし『生長の家』に教祖というべきものがあるならば、この地上のわたしではないであろう。
およそ宗教的な深さをもったものは、それが教えであると芸術であるとを問わず、
その源は霊界にあるのである。

古来から神品といい神らしいといいインスピレーションといったのはこれである。

……われらがいっそう高き世界よりくる思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に
調子を合わさねばならぬのである。ここにわれらは不断に心を清め、心をいっそう高き世界より
の波動に感ずるように訓練しなければならない。

この訓練がたりないとき雑音が混じる。
受けるインスピレーションが不純なものとなる。

もしわたくしの書くものに、純粋でない雑音が混じっているならば、
それはわたしの罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた
神秘者の罪ではないのである。」


谷口雅春先生はつねに「私は『生長の家』の教祖ではない」と述べておられるのであります。
「詳説神想観」の"はしがき"のなかに、つぎのようなお言葉があります。

「できるだけ多くの人たちが、真理をただ書籍上で知るだけでなく、身をもって実修して、
真理を全身心をもって体得し、一切の繋縛を脱して自由自在の境地に達せられんことを
希望するのである。

これは(神想観のこと)神授のものであって、私自身も、これによって尚、
修行中のものであることを申添えて置く。」


私達、講師会員は「うぬぼれの心」をもってはならないのです。
信徒の方々のなかにも、深い悟りに入っておられる人は、多いのです。

ですから講師会員は伝道にあたっては、
ただ神のラッパとして、活動させていただけばよいのです。

 
谷口雅春先生は、第二回目のブラジル御巡錫をなされる時に、
「如何なる話をしたらよいか導き給え」という意味の祈りを、
眠りしなになされたのであります。

その時に、明け方目覚められて、夢うつつのような心境において、
神が谷口雅春先生に「真理を"かく語れ"」というかのように、
諄々と説き給う神の声を聴かれたのであります。

 
その時のことを、次のように述べておられます。

「それはわたしが筆記したのではない。唯、神が繰り返し告げ給うた言葉を記憶によって
再現して、それを文章にしたものが本書である。従ってその文中"わたし"とあるのは
"神"御自身のことであって谷口のことではない。

なるべく神が告げ給うた言葉の調子を文章にあらわそうとしたのであるけれども、
表現力足らずして充分にそれはできなかった。」

このようにして、出来上がったのが、「神真理を告げ給う」と題する本なのであります。

神は谷口雅春先生を通して、真理を私達に説かれたのであります。
そしてその御文章のはじめの方に次のようなお言葉があります。

 
「真理は人間の肉体から生まれてくるものでも、人間の脳細胞から生産されてくるものでもなく、
実にそれらの人々に宿っている"わたし"がそれを説いたのである」(同書・12頁)

そしてまたつぎのように、説かれてあります。

「しかし、"本当の教祖"というべき"真理の啓示者"は"実相世界"にある"神"のみなのである。
イエス・キリストも『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』と言っているし、
谷口雅春も、"自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はる"といっているのである。」

 
このお言葉は、谷口雅春先生の「実相と現象」と題する御本の中の"はしがき"にも引用され、
さらに次ぎのような事を書いておられます。

 
「このような文章- 神の言(コトバ)に接する毎に、私は畏れ平伏(ヒレフ)すのである。
そして図りしれない神のはからい、摂理、お導きに、谷口は十二分にお応えし得たであろうか、
この九十余年の生(セイ)を以て些かの悔いることなく尽くし得たであろうか、
と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。

そして谷口賜った神々の大いなる恩寵に唯々感謝合掌、
悦びが悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に拝するのである。

本著作集も第四巻となり、いよいよ佳境に入った感がある。
生命の実相哲学の骨格を成す唯神実相論の霊々妙々の極意を、
極めて平明に、話し言葉を以て表現してある。

先の海外巡錫の時よりも若い時代の著述が多いが、
もとより谷口の脳髄知、谷口の力倆で構えて説いたものではない。

いずれもその折々に最も相応(フサワ)しい神々の指導助言の賜である
万般の奇瑞が続出するのも、故なしとしない。

諸賢が本著に親しまれることにより"聖なる求め"を放棄することなく日に日に高きを望み、
深きに入りて、真理を体得せられんことを、神に代わり切に切に望むものである。」

 
この"はしがき"を書かれた日付は、昭和六十年五月二十八日となっています。
そして、この年の六月十七日、午前七時五十三分、九十一歳の天寿をまっとうされて、
谷口雅春先生は神去りました。

私達は谷口雅春先生のこの純粋な求道のお姿を、
自分の胸の中に深く刻み込んで伝道者としての使命を果たしましょう。

                             (終わり)

http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/22kami-no-rappa.htm
 より転写)


           <感謝合掌 平成27年10月8日 頓首再拝>

わたしは喇叭(らっぱ) - 伝統

2015/10/20 (Tue) 19:59:27


         *「生命の實相」第27巻久遠仏性篇上(P157~160)より

ともかく「久遠を流るるいのち」としての釈尊は世界の至るところに遍満したまうのであって、
その「いのち」の霊波を感受するラジオ・セットさえあれば日本でも英国でも、米国でも
何国(どこ)ででも、そこに仏の教えが説かれるのである。

伊藤道海禅師が『生命の實相』を読んで見て、
『言々すべて仏の教えである』と雑誌『宇宙』で評したのは当然のことなのである。

『仏とは久遠を流るるいのち』の表現なのである。
わたしは始めから『わたしは生長の家の教組ではない。私は諸君と共に『生長の家』の教えを
聴聞してひたすら、其の如くい生きんと努力せる一人の求道者に過ぎない・・・』

と『生命の實相』第一巻14ページに明記してある。

わたしは教えのすべての栄えを神に帰(き)し、「我が業(わざ)は我が為すにあらず、
天地(あめつち)を貫きて生ける祖神(みおあや)の権能(ちから)」という
招神歌(かみよびうた)を唱えない日とてはないのである。

わたしは釈迦・キリストがそうであったろうところの「久遠を流るるいのち」に触れん事を
つとめ、斯くつとめつつ、「久遠を流るるいのち」の啓示を『生命の實相』に書き止めた
のである。

だから『生命の實相』の本当の著者は谷口という、いつにか生まれていつかは死滅し
しまうような儚い人間が書いたのではない。

その著者は「久遠を流るるいのち」である。
わたしはただ「久遠を流るるいのち」の流出口となったに過ぎないのである。

谷口という名はよくつけてくれたものだとい思う。
わたしは老子が。「谷神(こうしん)不死」と言ったところの、死なず不滅の
「久遠を流るるいのち」の喇叭口(らっぱこう)になったのにすぎないのである。


わたしとと同じく、「久遠を流るるいのち」の喇叭口となったものは、
いずれも仏の教えを語るものである。

仏の教える真理は「生長の家」が独占するものでもなければ
既成仏教が独占するものでもないのである。

キリストの聖書は既に「久遠常在の釈迦」の言葉なのである。

またかのカーライルが「汝の運命を征服する武器は念(こころ)である。汝もし人または
団体に対して致命的な考えをもつならば、汝は引金を引かなくても相手に手傷を負わす
ことになる。念ずればその結果は必然に現れる」と言った時に、
カーライルは既に仏の教えを語ったのである。

なぜなら、それは「三界は唯心の所現」であることを説き、この世界は因縁所生の世界である
ことを説破しているからである。彼はこれを説いたとき「久遠を流るるいのち」に触れて
その喇叭口となったのである。

換言すれば、カーライルが斯く真理を説いた時、常住久遠の釈迦牟尼仏が
「余国に衆生のために無上の法を説いた」のである。


また見よ、エマースンが「聖者と天才とが世界に投げた思想は世界を変化する」と説いたとき、
彼もまた三界唯心の真理を説いて、常在久遠の釈迦の歌口(うたぐち)となったのである。

彼は大自然を精神的絶対者であると説き、Overe-Soul(オーヴァー・ソール)なる超越的神性
があらゆる事物の根底に存すると説き、いっさいの価値はこのOvere-Soul(オーヴァー・ソール)
の発現に源泉すると説き、しそうがこの世界を変化するものであると説いたとき、

正に彼の汎神論的唯心論は仏説に一致しているし、彼の称したオーヴァー・ソールなるものは
仏教の仏性に当たるし、大自然を精神的絶対者と見たとき、法身仏をそこに見出したと断言
してさしつかえないのである。


かくのごとく観じきたるときには、ユダヤにも英国にも米国にも「久遠常在の釈迦」はすでに
仏教を説き給うたのである。仏教とは、ここに見よ、かしこ処に見よ、というがごとく
堂塔迦藍や書庫のうちには存在しないのである。

また釈迦と言う名前の肉体が喋ったことならば何でも仏教だと思うことも間違いである。
肉体の釈迦の言(げん)でも、悟らないで喋っていた時の言葉は仏教ではない。

竜樹菩薩の作でも、曇鸞大師の作でも、カーライルでも、エマースンでも
「久遠を流るるいのち」に触れて真理が語られる時には、それが仏の教えなのである。

すべての仏教者は、も少し心を広くして、せめて伊藤道海禅師のように、誰の著作であっても
真理が説いてあるものならば「これすべて仏の教え」と讃嘆するほどの「和」と宏量とが
あってほしいと思う。


           <感謝合掌 平成27年10月20日 頓首再拝>

観世音菩薩・神の言葉を仲介するラッパ - 伝統

2015/10/23 (Fri) 20:20:45

             *『即身成仏の真理』(P73~75)より

その「末法の世」のことを、キリスト教では「世界の終末」と言っていまして、
その時が来ると、キリストの再臨があり、再臨後の理想世界実現に先立って
前時代の大破壊が来る、即ち最後の審判がある。 

それは 『マタイ伝』 によると 「稲妻が東より西にきらめき渡るが如く、
突然としてキリストが再臨して来る」 といわれているのですが、

そのキリストの再臨が、
仏教では、弥勒菩薩が愈々再臨して来て “ミロクの世” と云う
永久平和の地上天国が実現するというのです。

 
その弥勒菩薩は何処に再臨してくるかというと、お釈迦さんは印度人で皮膚の色が黒かった
のですが、「弥勒菩薩の皮膚の色は黄金色である」 と釈尊は預言しておられるから、
それは黄色人種の世界に、きっと日本に再臨して出て来られるのだと私は思うのであります。 

このキリストの再臨と仏説のミロク菩薩の再臨とは一致するのであります。


信者の中には、キリストの再臨は谷口雅春だと言う人もあるけれども、僕じゃないんです。 
僕は、ただ 「ラッパ」 なのです。 近代語で言うと “スピーカー” であります。 
もっともスピーカーの中から喚(よ)びかけていられるのは観世音菩薩であります。

 
『マタイ伝』 に 「彼(キリスト)は使たちを大いなるラッパの声とともに遣わさん。 
使たちは天の此の極(はて)より彼の極まで四方より選民を集めん」 とある場合の
ラッパが私であり、本部講師や、各地の生長の家幹部の人たちが 「使たち」 であり、

その声をきいて集って来る誌友や信徒たちが 「選民」 即ちこの緊急事態の世に
人をすくうために選ばれた霊の選士なのであります。

そして、観世音菩薩が人類救済のために、このラッパを通して 
「甘露の法雨」 を澍(そそ)ぎたまうて 「煩悩を焔を滅除したまう」 のであります。 

『生命の實相』 などもみなラッパの声であります。

ともかく私は観世音菩薩様又は生長の家の神様の言葉を仲介しているだけであって、
僕自身はそんな偉いもんじゃないのです。 肉体の僕を崇拝してはなりません。 

ラッパやスピーカーは、やがて壊けるものであり、それが壊けたときに、
神様でも壊けるのかなどと誤解してはなりません。 

古いラジオ・セットが壊れたら、一層新しいラジオ・セットが使われることになりましょう。 

然しながら今はまだ、「僕」 というスピーカーを通して、観世音菩薩が出て来て、
人類救済の教をなさっているのであります。


キリストは 「果実を見てその樹の善悪を知れ」 といわれましたが、
例えば、この 『甘露の法雨』 の冒頭にある 「汝等天地一切のものと和解せよ」 
という簡単な文句などでも、これは誰でも書ける平易な文章でありますから、
これが、人間が書いたものであったら、こんなに魅力がある筈がない。

けれども、この簡単な一句に神秘的な霊的力がありまして、たった一行 
「汝等天地一切のものと和解せよ」 と読むだけで、実際心の底から震撼(しんかん)して
クラリと魂のかわる人がある。 それは実に驚くべき文章の霊力であります。

だから、これはただの文章家が書いた文章ではないのであって、
どうしても、「僕」 というラッパを通して、観世音菩薩が口述なさったのを、
僕は書いたに過ぎないのだと思うより仕方がないのであります。 

           <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝> 

観世音菩薩又は生長の家の神様の言葉を仲介しているだけ - 伝統

2015/11/28 (Sat) 18:45:48

観世音菩薩又は生長の家の神様の言葉を仲介しているだけであって、肉体の僕を崇拝してはなりません

             *『光の泉』(昭和34年1月号)より


劫尽きて現象界は焼けつきてしまう時が来るというのが、仏教の教でありますが、
これは「アガシャの預言」にもあり、『ダニエル書』の預言にもあり、

キリスト教にもいよいよ世界の最後の時が近づいて来たときは「最後の審判」と云って
キリストが再臨して来て、この世界をさばくという預言が出ているのであります。 
 〈『マタイ伝』 第24章。 『マルコ伝』 第13章〉。

ところが仏教にもそう云う預言が出ています。 
『法滅尽経』というお経や、『弥勒菩薩下生経』というお経がそれであります。  
『法滅尽経』の“法”というのは、「仏法」であります。 
その仏法が滅び尽きてしまう時が来るというのであります。

お釈迦さんが直々に説教されてから5百年間は「正法」の時代と申しまして、
正しい仏法  ―  正しい真理が伝わる。 

ところが段々それが堕落してくると、どういうことになるかというと、「像法」の時代が出て来る。 
「像法」というのは、真理を行ずることよりも仏像に重きをおいて仏像を滅多矢鱈に拝み倒して。
御利益を得ようとするような時代が出てきて、自分の生命の実相が仏の生命(いのち)だという
  ―  その本当の正しい真理の教がくずれてしまって、

仏というものは、自分から離れた堂塔の中にある仏像にあるのだと思って
自己の仏性を忘却してしまうような時代になってくるのであります。

仏教でもキリスト教でも、内部に宿る「神性」 〈又は仏性〉 を自覚することを主にしないで、
像や物質の「何かの形」を礼拝してこの外のものが「救いの主」だとか「幸福製造機」であるかと
思って、その前に跪き、

自分の生命(せいめい)の中に神の生命(いのち)そのものがあるという真理を忘れてしまうと、
それは迷信になり、「正法」がくずれて「像法」となり、更にそれが段々と堕落すると、
「この像や物体を拝まぬと罰が当るぞ」などと人を脅して恐怖心を起さしめて、

自宗の信者をふやそうとする宗教があらわれて来ると、
愈々、お釈迦さんの教がすたれてしまって法滅尽  ―  法が滅してつきてしまう。

 
仏教と云うものは本来、人間から恐怖心を絶滅して安心(あんじん)の境涯にあらしめる
ものであるのに、いつも「仏罰が来るか」と思って戦々兢々として恐れていなければならぬ
ような時代が来るというのであります。

それだからそのことを『法滅尽経』というお経で、釈尊は、それを預言されたのであります。 
そういう時代は、どういう時期に起るかというと、お釈迦さんの弟子である坊さんのくせに、
お釈迦さんの言うことを守らない坊さんが出て来るというのです。

お釈迦さんの弟子のくせにお釈迦さんの訓戒を守らなくなって、
このように仏法が生活に行じられなくなり、「正法」がまさに抹殺された時代になっています。 
これが、お釈迦さんの預言された 「末法の世」 であります。

その「末法の世」のことを、キリスト教では「世界の終末」と言っていまして、
その時が来ると、キリストの再臨があり、再臨後の理想世界実現に先立って前時代の大破壊が来る、
即ち最後の審判がある。

それは『マタイ伝』によると「稲妻が東より西にきらめき渡るが如く、突然として
キリストが再臨して来る」といわれているのですが、
そのキリストの再臨が、仏教では、弥勒菩薩が愈々再臨して来て、
“ミロクの世”と云う永久平和の地上天国が実現するというのです。

その弥勒菩薩は何処に再臨してくるかというと、お釈迦さんは印度人で皮膚の色が黒かったのですが、
「弥勒菩薩の皮膚の色は黄金色である」と釈尊は預言しておられるから、それは黄色人種の世界に、
きっと日本に再臨して出て来られるのだと私は思うのであります。 

このキリストの再臨と仏説のミロク菩薩の再臨とは一致するのであります。


信者の中には、キリストの再臨は谷口雅春だと言う人もあるけれども、僕じゃあないんです。 
僕は、ただ「ラッパ」なのです。 近代語で言うと“スピーカー”であります。

もっともスピーカーの中から喚びかけられているのは観世音菩薩であります。 

『マタイ伝』に「彼〈キリスト〉は使たちを大いなるラッパの声とともに遣わさん。 
使たちは天の此の極より彼の極まで四方より選民を集めん」とある場合のラッパが私であり、
本部講師や、各地の生長の家幹部の人たちが「使たち」であり、

その声をきいて集まって来る誌友や信徒たちが「選民」即ちこの緊急事態の世に
人をすくうために選ばれた霊の選士なのであります。

そして、観世音菩薩が人類救済のために、このラッパを通して 
「甘露の法雨」 を潅ぎたまうて「煩悩の焔を滅除したまう」のであります。 
『生命の實相』 などもみなラッパの声であります。

 
ともかく私は観世音菩薩又は生長の家の神様の言葉を仲介しているだけであって、
僕自身はそんな偉いもんじゃないのです。 

肉体の僕を崇拝してはなりません。

ラッパやスピーカーは、やがて壊けるものであり、それが壊けたときに、
神様でも壊けるものかなどと誤解してはなりません。 

古いラジオ・セットが壊れたら、一層新しいラジオ・セットが使われることになりましょう。 
然しながら今はまだ、「僕」というスピーカーを通して、観世音菩薩が出て来て、
人類救済の教をなさっているのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/060a5e9c9e5163c793b86677244723db より転載)


           <感謝合掌 平成27年11月28日 頓首再拝> 

私(谷口雅春)は喇叭、【内在の光】を尊敬せよ - 伝統

2015/12/23 (Wed) 19:31:48


          *『光明道中記』(P42) より

【自己内在の光】

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 平成27年12月23日 頓首再拝> 

キリストも釈迦も喇叭 - 伝統

2015/12/27 (Sun) 19:44:13


     *『生命の實相 幸福篇上 第三十七巻』<6月30日>(P180)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。
キリストは父の子であり使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業(わざ)をなすのであり、
教えの上では喇叭であり、結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(ヨハネ伝第十章三十八節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者(つかい)がもたらした仕事と用向きを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値無きものであるといえども将軍家の上使(じょうし)で
あるといえば、将軍家の権威をもって臨むがごときものである。

「キリストはもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第十五章ニ十四節)
「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同ニ十八節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ現われているように思う。
キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。

「キリストの黙示」であるとしてか慣れている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたとき、その霊姿は次のごとく言ったのである。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我ヨハネなり。かくて見聞きせしとき我これらのことを
示したる御使いの足下(あしもと)に平伏して拝せんとせしに『つつしみて然(し)か為(す)な、
われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しき僕(しも
べ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕(しもべ)」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、「吾はアルファなり、オメガなり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり・・・」(「黙示録」第一章一節以下および二十二章十三節)とあるので、

ふたたびこの章の黙示者たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと解され
そうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり「始めなり、終わりなる
大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神(おおかみ)の言葉を写(うつ)し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、「つつしみて然(し)か
為(す)な、われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者
と等しく僕(しもべ)たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、

釈迦の衆生救済の御心(みこころ)、キリストの万民救拯(ばんみんきゅうじょう)の御心は
いずれも天地の大神の御心である。そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 平成27年12月27日 頓首再拝> 

私はただその喇叭(ラッパ)である、口である、谷口である。 - 伝統

2016/01/09 (Sat) 19:21:53


          *「生長の家」(昭和12年5月号)より

みんな私の力ではない。

真理の力であり、神の力であり、天の御影、日の御影である。

天の御影、日の御影と云うことを忘れてしまって、
『わしが・・・』と自分の力を振り回すようになったときに、
そこから悪魔が忍び込むのである。
 
神一元の世界に、『わしが・・・』と云う力はないものである。

悪魔と云って本当は“ない”ものなのだが、本来無い所の『わしが・・・』と云う自負が、
その心の凝りが、本来ない悪魔の相(すがた)をあらわすのである。
 
世の中で一番気の毒な悩んでいる人は此の『わしが・・・』を握っているひとである。

『わしが・・・斯(こ)うしてやったのに、あの人は斯うしてくれない』
これが人生の悩みの元である。

怨み、憎み、怒り、嫉妬・・・
すべての悪徳はこの『わしが・・・』から生まれるのである。

『わしが・・・』が無くなったとき、そこは神のみである。

神一元である、神一元であるから悩みはないのである。

人を怨んだり、悪口を云っているのは皆此の『わしが・・・』から来る。


最初、ささやかな社員生活片手間の八十頁の雑誌に出発した生長の家が、
七年後の今日にして日本全国津々浦々まで知れ渡った。

講習会を開くと云うと一回に七百名に垂(なんな)んとする申し込みがある。

これは私の力でない。私はいと小さきものである。

時々『大先生』と云う人があるが、それを聞くと私は身の跼(ちぢ)まる思いがする。

斯く云う人はほかの講師たちにも××先生と云うのだから
その××先生を教えて今日に到らしめた先生なのだから
大先生と云わなければ上下の区別がつかないと云う意味だろうが、

私は大先生ではない。
私は何も教えたことはない。

私は宇宙に満つる真理を受信するラヂオ装置になっただけである。

諸君はラヂオの聖典講義を聴いて、そのラヂオ・セットが旨(うま)く講義したから
と云って、ラヂオ・セットに『大先生』と云いますか。云わないでしょう。

テレビジョン装置に神様の姿が出たからと云って、
『テレビジョン様、あなたは生神様だ』と云いますか。
云わないでしょう。

さすれば、私が上手に真理を話しても、
たとひ何の姿が講演中に見えても『大先生』と云うのは止して頂きたい。

手紙で時々『尊師』とか『聖師』とか云う私に相応(ふさ)はない
尊敬を払った敬語を用いて発信せられる方があるが、私は尊師でも聖師でもない。

尊師、聖師は實相の世界にいますのであって、
私はただその喇叭(ラッパ)である、口である、谷口である。

このことは『生命の實相』全集第一巻に『生長の家と私』と題して
夙(つと)に書いたところである。


(「明窓浄机」草創篇・昭和五年~十二年 P.254-256より)

   (http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/342/ より抜粋し転写)

           <感謝合掌 平成28年1月9日 頓首再拝> 

「久遠を流るるいのち」の表出口 - 伝統

2016/06/21 (Tue) 17:44:32


      *「生命の實相」第27巻・久遠仏性篇上・第7章(P147~149)より

「生長の家は久遠の昔からある」ということが教えの中に時々出てくるのである。

わたしが「生長の家は久遠の昔からある」といったのは、生長の家というものが、
まことにもわたしの私有のものではないという意味である。
生長の家は実に「久遠を流るるいのち」の所有(もの)である。

私はそれを本当に信じているのであるし、そうであってこそ生長の家には、
ただ書を読むだけによって病気が治るというが如き奇蹟すらも生じて来るのである。

なぜなら、かくてこそ生長の家の発行書を読むことによって、
「谷口」と言う私の《いのち》に触れるのではなく
「久遠を流るるいのち」に触れることになるからである。

(中略)

「生長の家」とはわたしのものではなく「久遠を流るるいのち」が、
人類を和するために生まれたのである。

           <感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝> 

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2016/06/30 (Thu) 17:41:58


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと
解されそうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

すべては、「久遠を流るるいのち」から流れ出たもの - 伝統

2016/09/28 (Wed) 18:58:40


       *『生命の實相』第13巻「倫理篇上」(P83)より

《キリスト》でもこれを肉体イエスという「物質的肉体」に見いださず、
「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「《永遠神性》」に
これを見いだし、


《仏》でもこれを肉体釈迦に見いださず、
「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難に答えた
「《久遠の釈迦》」に見いだし、

「《生長の家》」でもこれを肉体谷口の家に見いださず
「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された
「《久遠実在の生長の家》」に見いだすとき、

すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという
縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

久遠の釈迦が、生長の家を通して説法している - 伝統

2016/10/21 (Fri) 18:13:31


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月21日)より

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無しと観ずる事だと
考えている人もある。これを人空法空と言う。併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。
仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、肉体の釈迦が説いた
教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と言っているので、
法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、外道だと思われていた真理が
案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

自己内在の光 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 19:47:41


        *『生命の實相』第35巻功徳篇(P150)より

生長の家の光明書籍類は諸君自身の内に宿る力を指示するために執筆されたのである。

他(ひと)に依頼する心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫の方へ幸いに振り向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在り所(か)を指示するだけである。

われわれの光明思想に諸君の心が転向した結果病気が治るというのも
諸君自身がそういう思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆび)さすのみである。

文章力の力による指(ゆび)さし方が懇切丁寧を極めているので、
文章の力が病気を治したともいいうるが、くわしく言えば文章の力は、
よく諸君の心を振り向けただけである。

そこに自己内在の光を見、そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であってわたしの力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
わたしはただのラッパであり、指南者である。

指を月とまちがえわたしの書いた符号を
本物と取り違える者は実相を見ることができないであろう。

わたしはただ諸君を振り向かすために、文章で叫ぶだけにすぎないのである。

わたしという人間を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたいと思う。

            <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2017/06/30 (Fri) 19:56:36


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」
(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、使者(つかい)を信じなくとも
使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども
将軍家の上使であるといえば、将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして
国を父なる神に付(わた)し給うべし」(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を
己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、
ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、
服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、
その黙示を伝えたキリストと認められる霊姿の前にヨハネが
平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、
なんじ神を拝せよ』と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、
「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと
解されそうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、
使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」と
メッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 平成29年6月30日 頓首再拝>

【自己内在の光】 - 伝統

2018/02/01 (Thu) 18:17:39


        *「光明道中記(二月「天地そろう」はじめの言葉)」より

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

【 自己は神の流出口 】 - 伝統

2018/06/01 (Fri) 19:39:15


           *『光明道中記』(P172)より

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

           <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>

キリストも釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2018/06/30 (Sat) 21:03:27


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」
(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、使者(つかい)を信じなくとも
使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども
将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして
国を父なる神に付(わた)し給うべし」(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を
己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、
ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、
その黙示を伝えたキリストと認められる霊姿の前にヨハネが平伏して
拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、
なんじ神を拝せよ』と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、
「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)
とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」
ところの本源の神だと解されそうになるのであるが、この矛盾は、
キリストが使者(つかい)であり「始めなり、終わりなる大神」の言葉を
取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、
使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」と
メッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>

常在法体の釈迦の説法 - 伝統

2018/10/21 (Sun) 18:19:32


    *「光明道中記」(10月21日 必ず一人を導く日)より抜粋

仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、
肉体の釈迦が説いた教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と言っているので、
法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、外道だと思われていた真理が
案外真の仏教であったりするかも知れない。


私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。

久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 平成30年10月21日 頓首再拝>

指差す人を尊敬せず、真理を尊敬せよ - 伝統

2019/02/01 (Fri) 18:55:43


     *【自己内在の光】~『光明道中記』二月「天地そろう」はじめの言葉

吾々の『生長の家』は毎号、
諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2019/06/30 (Sun) 22:15:07


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと
解されそうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和元年6月30日 頓首再拝>

久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が今も此に在りて説法している - 伝統

2019/10/21 (Mon) 19:28:30


       *「光明道中記」(10月21日《必ず一人を導く日》)より 

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                       (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無し
と観ずる事だと考えている人もある。これを人空法空と言う。

併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。
ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。
仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、
肉体の釈迦が説いた教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と言っているので、
法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、
外道だと思われていた真理が案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>

私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。真理をこそ尊敬せられたい。 - 伝統

2020/02/02 (Sun) 00:00:53


   *「光明道中記」~二月「天地そろう」はじめの言葉《自己内在の光》 より

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 令和2年2月1日 頓首再拝>

【 自己は神の流出口 】 - 伝統

2020/06/01 (Mon) 18:55:12


      *「光明道中記」(6月のことば)より

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」
―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

           <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

キリスト釈迦も「使者(つかい)」であり「喇叭(ラッパ)」である - 伝統

2020/06/30 (Tue) 23:53:17


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、
その仕事の結果を父に奉るのである。

だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、
教えの上では喇叭(ラッパ)であり、結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」
(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよ
というのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども
将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして
 国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を
 己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、
ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を

「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」

と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、
服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、
その黙示を伝えたキリストと認められる霊姿の前に
ヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。
 かくて見聞きせしとき我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に
 平伏して拝せんとせしに

 『つつしみて然か為な(しかすな)。
  われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
  言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」
 と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、
「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)
とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが
「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと解されそうになるのであるが、

この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、
使者(つかい)の口上には使者(つかい)をつかわし給うた
大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、

「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
 またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」

とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、
ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、

釈迦の衆生救済の御心、キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心は
いずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和2年6月30日 頓首再拝>

法体の釈迦が或るスピーカーを通して真理を説いているのだ - 伝統

2020/10/21 (Wed) 23:45:20


    *「光明道中記」(10月21日《必ず一人を導く日》)より 

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無し
と観ずる事だと考えている人もある。
これを人空法空と言う。

併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。
ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。

仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、
肉体の釈迦が説いた教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と
言っているので、法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、
外道だと思われていた真理が案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 令和2年10月21日 頓首再拝>  

谷神(大生命)の流出口 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 19:51:10


       *「光明道中記」6月はじめの言葉より
        ~【 自己は神の流出口 】

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」
―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

           <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

キリストも、釈迦も喇叭(ラッパ) - 伝統

2021/06/30 (Wed) 21:24:29

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」
(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、使者(つかい)を信じなくとも
使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども
将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして
 国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を
 己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、
ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、
その黙示を伝えたキリストと認められる霊姿の前に
ヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。
 かくて見聞きせしとき我(われ)これらのことを示したる
 御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
 またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、
 なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、
「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
 始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)
とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが
「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと解されそうになるのであるが、
この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、
使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」と
メッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、
ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、

その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、
釈迦の衆生救済の御心、キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心は
いずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和3年6月30日 頓首再拝>

指差す人を尊敬せず、真理を尊敬せよ - 伝統

2022/02/02 (Wed) 03:58:51


     *【自己内在の光】~『光明道中記』二月「天地そろう」はじめの言葉

吾々の『生長の家』は毎号、
諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 令和4年2月1日 頓首再拝>

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2022/06/30 (Thu) 14:16:43


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、その仕事の結果を父に奉るのである。
だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、教えの上では喇叭(ラッパ)であり、
結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、
使者(つかい)を信じなくとも使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものであるといえども将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、その黙示を伝えたキリストと
認められる霊姿の前にヨハネが平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。かくて見聞きせしとき
我(われ)これらのことを示したる御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の「これイエス・キリストの黙示なり」
に対応して、イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って「王」だと言っていないのである。
しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
始めなり、終わりなり…」(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」ところの本源の神だと
解されそうになるのであるが、この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり
「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者であることがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる預言者、またこの書(ふみ)の
言(ことば)を守る者と等しく僕たるなり」とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた使者(つかい)であり、
その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心はいずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>

【 自己は神の流出口 】 - 伝統

2022/07/01 (Fri) 04:56:32


        *「光明道中記」<6月神にむすばる>(はじめのことば)より

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

・・・

(静思集 P183)にも収録されております。

           <感謝合掌 令和4年6月30日 頓首再拝>

法体の釈迦が或るスピーカーを通して真理を説いているのだ - 伝統

2022/10/21 (Fri) 15:06:47


    *「光明道中記」(10月21日《必ず一人を導く日》)より 

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無し
と観ずる事だと考えている人もある。
これを人空法空と言う。

併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。
ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。

仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、
肉体の釈迦が説いた教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と
言っているので、法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、
外道だと思われていた真理が案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 令和4年10月21日 頓首再拝>  

【 自己は神の流出口 】 - 伝統

2023/06/01 (Thu) 11:53:52


       *「光明道中記」<6月神にむすばる>(はじめのことば)より


吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、
自分は「谷神の流出口」―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

       <感謝合掌 令和5年6月1日 頓首再拝>  

キリスト釈迦も「使者(つかい)」 - 伝統

2023/06/30 (Fri) 05:04:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月30日)より

キリストは父であるか。
キリストは父ではない。キリストは子である。
キリストは父の子であり、使者(つかい)である。

使者(つかい)は父が言いつけられた仕事をなし、
その仕事の結果を父に奉るのである。

だから業(わざ)の上では父の業をなすのであり、
教えの上では喇叭(ラッパ)であり、結果は父に奉献せられる。

「たといわれを信ぜずとも、その業(わざ)を信ぜよ」
(「ヨハネ伝」第10章38節)とは、使者(つかい)を信じなくとも
使者がもたらした仕事と用向きとを信ぜよというのである。

使者(つかい)みずからは、たとい価値なきものである
といえども将軍家の上使であるといえば、
将軍家の権威をもって臨むがごときものである。


「キリスト」はもろもろの権能、権威、権力を亡ぼして
 国を父なる神に付(わた)し給うべし」
(「コリント前書」第15章24節)

「子もまたみずから万(よろず)の物を己に服(したが)わせ
 給いし者に服(したが)わん」
(同28節)

これはパウロの言(ことば)であるが、
ここにキリストの役目がハッキリ顕われているように思う。

キリストは主ではなく、みずからの纏めた業績を
「父なる神に付(わた)し」かつ
「みずから、万の物を己に服わせ給いし者に服わん」
と言っているのである。

治めるのがキリストの役目ではなく、
服従するのがキリストの役目であったのである。


「キリストの黙示」であるとして書かれている「ヨハネ黙示録」に、
その黙示を伝えたキリストと認められる霊姿の前にヨハネが
平伏して拝せんとしたときに、その霊姿は次のごとく言ったとある。

「これらのことを聞き、かつ見し者は我(われ)ヨハネなり。
 かくて見聞きせしとき我(われ)これらのことを示したる
 御使いの足下に平伏して拝せんとせしに

『つつしみて然か為な(しかすな)。われは汝および汝の兄弟たる預言者、
 またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と等しく
 僕(しもべ)たるなり、なんじ神を拝せよ』」と言っている。

「これらのことを示したる御使い」とは、「黙示録」冒頭の
「これイエス・キリストの黙示なり」に対応して、
イエス・キリストの霊姿であること明らかである。

するとキリスト自身はみずから「僕」だと言って
「王」だと言っていないのである。

しかも続いてその霊姿の言う言葉に、

「我はアルファなり、オメガなり、
 最先(いやさき)なり、最後(いやはて)なり、
 始めなり、終わりなり…」
(「黙示録」第1章1節以下および22章13節)とあるので、

ふたたびこの書の黙示録たるキリストが「始めなり、終わりなる」
ところの本源の神だと解されそうになるのであるが、
この矛盾は、キリストが使者(つかい)であり

「始めなり、終わりなる大神」の言葉を取り次いでいる者である
ことがわかれば、

使者(つかい)はメッセンジャーであるから、
使者(つかい)の口上には使者(つかい)を
つかわし給うた大神の言葉を写し伝えるのは明らかである。

しかし「使者(つかい)」そのものを「神」として拝しようとすると、
「つつしみて然(し)か為(す)な。われは汝および汝の兄弟たる
 預言者、またこの書(ふみ)の言(ことば)を守る者と
 等しく僕たるなり」
とメッセンジャーは答えるしか仕方がないのである。

イエス・キリストも、釈迦も、ともに本源の大神から使わされた
使者(つかい)であり、

その教えは宇宙の大本源の大神の教えを伝えたのであるから、
釈迦の衆生救済の御心、
キリストの万民救拯(きゅうじょう)の御心は
いずれも天地の大神の御心である。

そこに三教合一の鍵がある。

           <感謝合掌 令和5年6月30日 頓首再拝>

法体の釈迦が或るスピーカーを通して真理を説いているのだ - 伝統

2023/10/21 (Sat) 11:10:14


    *「光明道中記」(10月21日《必ず一人を導く日》)より 

【真我は迷わぬ。「迷い」と云うのも、「迷うている我」と云うものも”無い”。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

一切皆空を、すべて皆無し、「人」もなく「法」(一切の事物)も無し
と観ずる事だと考えている人もある。
これを人空法空と言う。

併し総てが何もないと観ずるのは断観外道の
観方だと言って排斥する人もある。
ただし、外道と言っても必ずしも間違と云う意味ではない。

仏教以外の人生観であって、正統の仏教ではないと云う意味に過ぎない。

仏教も、歴史的流れに従って次第にそれが完成しつつあるのであって、
肉体の釈迦が説いた教えだけが仏教だと思うと間違いである。

釈迦は「法華経」の中で「吾れ常に此(ここ)に在りて説法す」と
言っているので、法体の釈迦は今も此に在りて説法しているのであって、
外道だと思われていた真理が案外真の仏教であったりするかも知れない。

私に言わせれば、キリスト教も仏教であり、生長の家も仏教である。
久遠の釈迦が、常在法体の釈迦が、別の時代に、別の形をもって、
或るスピーカーを通して同じ真理をその時代に相応しく説いたものである。

大乗仏教は今や日本で完成しつつあるのである。
インドで二千五百年も以前に説かれた仏教のみが仏教だと思うのは愚者である。

釈迦は随宜(ずいぎ)説法せられたのであるから、
日本で、そして現代では、またその時処相応の仏教が出現するのは当然である。

           <感謝合掌 令和5年10月21日 頓首再拝>

指差す人を尊敬せず、真理を尊敬せよ - 伝統

2024/02/01 (Thu) 11:23:38


     *【自己内在の光】~『光明道中記』二月「天地そろう」はじめの言葉

吾々の『生長の家』は毎号、
諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であって
わたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 令和6年2月1日 頓首再拝>

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