伝統板・第二

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”善”のみ実在する① - 伝統

2015/05/19 (Tue) 04:58:43

  *光明掲示板・第一「”善”のみ実在する (6016)」からの継続です。
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1126

・・・

《ただ『善』のみ實在するという信仰》

              *『生長の家』誌(昭和42年11月号)より



  『何の信仰も、私はもっていない』という人がある。
  併し本当は何の信仰ももっていない人はないのである。

  
『神を信じない』と云う人は物質の力を信じているのであり、
『不幸が来るかも知れない』と恐怖している人は、『悪』の力を信じているのである。

そして信じている相手の力に圧倒されて、『不幸』を信ずる人には不幸が訪れて来、
『悪』を信ずる人には『悪』が襲ってくるのである。そしてついに
『吾が信じたる処のもの、皆われに襲いかかれり』と嘆かずにはいられなくなるのである。


それは『不幸』や『悪』が真に客観的な存在として我々に襲いかかって来るのではなくして、
その存在を信ずる自分の『信念』が外界に移入されて、そのような結果をもたらすのである。

  
では、そのような《悪》や《不幸》の存在を信じないで、愛ふかき神のみの存在を信じ、
そのような神が常に吾々を《神の子》として護って下さり、無限の恵みを与えて下さる
のだと信ずれば、その信念が外界に移入されて、色々の幸福が豊かに恵まれて与えられる
ことになるのは当然ではないか。


  人は信ずる通りの運命を自分自身に受けるのである。

  正しい信仰をもつことが必要である。


『悪』の存在を信じてはならない。
 『悪』は存在しないのであって、唯、『善』のみ存在するのであり、
『悪』と見えるものは、其処に『善』が存在しないか、『善』の顕現がまだ不充分であるか、
『善』が顕現する途上であって、
  
恰も卵殻が割れて雛が生まれ出ようとしている『卵殻の割れ』を
『悪』と思い違いしているようなものである。

吾々は卵殻の破壊の方を見て、それを不幸と感ずるよりも、
新生した雛の方を見て、それを祝福する気持ちにならなければならないのである。

  
右すべきか左すべきか、いずれが良いのであるかという問題に直面したときに、
戦後の人は大抵誰でも自分の利益になるのはどちらだろうかということを
選定の基準に立てて自分の行動を選ぼうとする傾向があるのである。

しかし本当はどちらが善であるか、換言すれば、どちらが道徳的要請にこたえるもの
であるかによって行動の基準とすべきものなのである。

  
では『善である』とか『道徳的要請にこたえる』とかいうことは、
もっと具体的に云うならばどういう事をすればよいのであろうか。

自分を基準にせず他の人々を基準にして
できるだけ多くの人が幸福になる行為を選んでするがよい。
それが結局、自分自身をも幸福にする道にかなうのである。

  
   何故なら『与えよ、さらば与えられん』の法則が人生を支配しているからである。

              (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18352636.html

       <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2015/05/25 (Mon) 04:30:27


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P64)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

〝悪〟は存在しないのである - 伝統

2015/05/30 (Sat) 04:08:10


          *『人生の秘訣365章』(P294~295)より

〝存在の本源〟(神)から顕れて来るものはすべて〝善〟であるならば、
〝悪〟は何処(どこ)から来るのであろうか。

〝悪〟を神はつくらないのであるから〝悪〟は本来無いのである。
〝無いもの〟は何処からも来ることはないのである。

しかし〝悪〟は在(あ)るかのように見える。それは恰度(ちょうど)、
夕方になると〝闇〟がどこからともなく訪れて来るように見えるのとよく似ている。

しかし〝闇〟はどこからも訪れて来ることはないのである。
光が欠乏して来ると、その欠乏の状態が〝闇〟と見えるだけの事である。

それと同じく、〝悪〟というものはどこにも実在するのではなく
〝善〟がそこに素直にスラスラと姿を顕さず、善が歪められたり、中断されたり、
欠乏したりする状態に過ぎないのである。

善のあらわれを歪めないように、善のあらわれを抑制しないようにすれば、
顕れるものはすべて〝善〟のみとなるのである。

           <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

絶対善なる実相のみを見よ - 伝統

2015/06/05 (Fri) 04:28:02


           *「生活と人間の再建」(P20~22)より

すべての事物の根底は想念である。
想念によって一切のものは作られたのである。

されば、もし吾々が悪を想念するならば悪が現われてくるのである。
「汝ら悪を見つむること勿れ。悪をみつむるものは神より遮断される。
なぜなら神に於いては悪は存在しないからである」
という意味のことをイザヤも云っているのである。

善のみが実在なのである。
もし吾々の想念が悪を見つめ、悪から心を離さないならば、
吾々は実在を見失ってしまうことになるのである。

真の實在は神に造られたものであって、それのみが永遠の存在であり、不滅の存在であり、
何時までも消えぬところの価値をもっているところのものである。


なぜ善のみを實在であるというか。
善といい、悪というも、結局はわれわれの心で認めたる所のものであって、
何(いず)れもそれは心的存在であることに変りはない。

然(しか)し悪は常に破壊的なものである。
その上に築かれたところのものは結局はくずれる外(ほか)はないのである。

然し何を悪というか何を善というかは重大な問題である。
戦争中に善であると考えられたところのものが平和克服後悪であると
考えられるように到った事柄は随分沢山あるのである。

されば善悪とは結局、相対的存在であって、絶対の悪、絶対の善、などというものは
存在しないのであると云う人もあるが、

しかしながら吾々が「神は善である。されば神によって造られたこの世界は善であるほかはない」
というが如き場合の善は、時代や環境によって移り変わるところの相対的善を云うのでは
ないのである。

吾々がいう善は、すなわち、「善のみ實在である」という場合の「善」は、斯(か)かる
相対的批判を超えて、常に変らぬところの《絶対的善》を指すのである。


大体、善悪観念なるもには、神話的にいうならばアダムとイブとが「善悪を知る樹」の果(み)、
換言すれば智慧の樹の果(み)を食べた時に生じたるところの《差別智》である。

吾々がかかる差別の見地に立っている限りに於いて、人類はエデンの楽園
―― すなわち極楽浄土 ―― から追放されるほかはないのである。


それ故に、キリストは「汝ら自(みずか)らがさばかれざらんがために、人をさばくこと勿れ」
と云う意味のことを云っているのである。

人の善悪をさばく時に、そこに人間の不幸は生じるのであって、
人間は「善悪を知る樹」の果(み)を食べた時に楽園から追放されるのである。

―― という意味は、われわれが常に相対界に生活している限りに於いては、
いろいろの邪悪が充満しており、そして常にそれを気にかけて悩んでいなければならない
という意味である。


           <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

善悪の境を超えて - 伝統

2015/06/12 (Fri) 03:43:07


           *「生活と人間の再建」第2章(P26~27)より

古歌に「よしあしや憎み可愛いと思わねば、今が世界が皆われのもの」というのがある。
即ち吾々がこの世界で苦しむのは善悪を知る智慧の樹の実を食べて何が善、何が悪と思いわずらい、
さばき合う時に楽園から追放されて悩みが出てくるのである。

そのような善悪の考えをして、「絶対善」の世界からみつめる時、
そこに不滅の極楽が実現するということになるのである。


善だ悪だといっている間は、必ずものの半面には暗い面があるので
その暗い面を心で見つめようになるのである。

すると、この世界の現象は、心で認めたものが形に現れるのであるから、
吾々は善から切り離されて悪のみを一層多く見つめることになるのである。
悪を見つめれば悪の想念を以って自分の意識の中をみたすのである。

そういう習慣がつく限り吾々は、あらゆる事物の半面に悪を見る。
そしてこの世界を「悪」の一色で塗りつぶすのである。
かかる人は光があれども光の方を見ないで影の方ばかり見るようにするのである。

彼は朝起きても鳥の鳴く声をきけどもきこえず、美しい花を見ても見えず、
朗らかな青空を見ても見えず、面白くもない新聞記事や、仕事場や、
自分の体の不健康だけを見るのである。

太陽が輝いておれば「今日は暑い天気だ」と呟くのである。
曇っておれば「今日は真にうっとおしい」と不平を言う。
かかる人にとってはすべての環境は悉く悪に見える。
吾々はこの様な人になってはならないのである。


肉眼で見える太陽の光の奥に、万物を生かそうとする神の愛を感じ、
曇っている雲の奥に万物を潤ほそうとする神の慈悲を感じ、
囀る鳥の声に神の子の生命をよろこび楽しんでいる「生命の兄弟」を見ることができるものこそ、
現象の相対的善悪の奥にあるところの「絶対の善」を見るところの人である。

即ち、現象の「善を思わず、唯絶対絶命の時、わが生命の正体如何(いかん)」を知るのである。
それは神の生命であり、唯ありがたいばかりなのである。

かくして自ら口にのぼってくるものは、ただ「ありがとうございます。ありがとうござうます」
の感謝の言葉となって来るのである。そこから光明の生活は開かれる。

現象界に「實相」の絶対善が、感謝の念によって注ぎ込まれるのである。
そして現象界が絶対善の實相世界の投影となるのである。

              <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

想念を浄めよ、其処には善のみがある - 伝統

2015/06/19 (Fri) 04:51:27


        *「生活と人間の再建」第2章(P27~28)より

吾々は余りにも長期間に亘って、現象界の事実であるところの想念の世界に
「悪の思い」をつぎ込んで来たのである。

吾々は清らかな澄き通った清冽な水のような實相の世界に「悪」の想念の泥を投げ込んで、
それをかき回して、「この水は濁っている」というが如くに
「この世界には悪が満ちている」と呼んできたのである。

それは結局自分の想念の影を見ているのであって、
本当に悪は実在するのではないのである。

水は濁ったように見えても、水そのものは常に純粋なる酸素水素の化合物であって、
濁っているのは水ではなくて泥そのものが濁っているに過ぎないのである。

それと同じく、汚く見えるのは實相が汚いのではなくして、
自分の想念で濁らしたその想念そのものが汚いのに過ぎないのである。

想念を浄めよ。
そうすればこの世界は、純粋の水の如き清らかな實相が
そのままに見えてくるのであって、即ち、天国が地上に実現するのである。

              <感謝合掌 平成27年6月19日 頓首再拝>

全ての人を善しと観よ - 伝統

2015/06/27 (Sat) 04:11:25


         *「幸福を招く365章(P80)より


貴方は今日より肉の眼をもっては事物をみないのである。
実相を観る眼をもって一切の人と事と物とを見るのである。

如何に現象が不完全に見えようとも、それは現象であり、仮想(かりのすがた)であって、
実の相(すがた)は既に完全なることを見るのである。

何故なら、現象は人間の迷いの心の雲が蔽(おおう)ている姿であり、
実相は神のつくりたまえる其の儘であるからである。

人間の迷いの心を取り去って、
現象の仮の相(すがた)に捉(と)らえられることなく実相を観ることであある。

彼を善しと観れば彼の善があらわれる。
観る事は創造(つくる)ことである。

              <感謝合掌 平成27年6月27日 頓首再拝>

《適材適所が善である》 - 伝統

2015/07/05 (Sun) 04:30:05


            *『生長の家』誌(昭和25年6月18日)の法語より

   すべては よきものであるが
   神の智慧が
   その善きものが あるべき所に あるべき様に あらしめる様に、働かないから、
   そこから悪の姿がわきおこって来るのである。

   正しき所に適当なるものを正しき様に置きさえすれば
   今まで悪と見えていたものも善に変わってしまうのである。

   適材適所が善である。

   人間を殺す劇毒剤の砒素(ひそ)でさえも
   適当な分量で適当な方法でそれを使えば、
   強壮剤ともなり黴(ばい)毒の治療剤ともなるのである。

   適当なる智慧とは
   神の智慧である。

   神の智慧をよびだして来るためには
   神想観をすることが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

              <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

善のみに心を振り向ける神想観の念じ方 - 伝統

2015/07/13 (Mon) 04:33:35


        *「真理」第9巻生活篇(P336~337)より

「私は、今日(こんにち)、善なるもの、美なるもの、光なるもの、愛なるもののみに
心を振り向けるのである。悪は私の心の視野から去ったのである。
醜なるもの、暗黒なるもの、憎悪、怨恨等は私の心の中から去ってしまったのである。

心のうちに思うものが実現するのであるから、今後、私の身辺には、善なるもの、
美なるもの、光なるもの、愛なるものが実現するのである。

心配や恐怖や取り越し苦労はわが心の中に座を占めることはできないのである。
ただ神のみ、わが心の中に座を占めたまうて、其処より、善なるもの、美なるもの、
光なるもの愛なるものを放射したまうのである。

私はその事を自分の心に、言ってきかせることを怠らないのである。
われは神の子である。神はわが内に宿り給う。
わが内に宿りたまう神は宇宙遍満の神である」

              <感謝合掌 平成27年7月13日 頓首再拝>

【最善観】 - 伝統

2015/07/20 (Mon) 03:58:45


          *『修身教授録』森信三・著より

……………………………………………………………………………………
     第25講「最善観」
……………………………………………………………………………………

ですからたとえば親が病気になったとか、
あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、
あるいはまた親が亡くなって、
本校を終えることさえ困難になったとか、
その外いかなる場合においても、

大よそわが身に降りかかる事柄は、
すべてこれを天の命として慎んでお受けをするということが、
われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。

ですからこの根本の一点に心の腰のすわらない間は、
人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。

したがってここにわれわれの修養の根本目標があると共に、
また真の人間生活は、ここからして出発すると考えているのです。


(中略)


そこで今この信念に立ちますと、現在の自分にとって、
一見ためにならないように見える事柄が起こっても、

それは必ずや神が私にとって、
それを絶対に必要と思召されるが故に、
かくは与え給うたのであると信ずるのであります。


ところが、「神が思召されて――」などと言うと、
まだ宗教心を持たれない諸君らには、
あるいはぴったりしないかも知れません。

それなら次のように考えたらよいでしょう。
すなわち神とは、この大宇宙をその内容とするその根本的な統一力であり、
宇宙に内在している根本的な生命力である。

そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、
人格的に考えた時、これを神と呼ぶわけです。

かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、
実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、
ここにそのようにわれに対して起きるのである。

かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、その一つひとつが、
神の思召であるという宗教的な言い現し方をしても、何ら差し支えないわけです。
すなわちこれは、道理の上からもはっきりと説けるわけです。


そこで、今私がここで諸君に申そうとしているこの根本信念は、
道理そのものとしては、きわめて簡単な事柄であります。


すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、
そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、
またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。

それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、
一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、
そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。

したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、
天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、
すなわち天命を信ずるが故に天命を楽しむという境涯です。

              <感謝合掌 平成27年7月20日 頓首再拝>

《汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ》 - 伝統

2015/07/28 (Tue) 04:39:17


        *『 生長の家 』誌(昭和25年5月13日)の法語より

   汝の舌によって憎みの言葉を語るな。
   悪しきことを語るな。
   人を呪(のろ)う言葉を語るな。

   汝の心に悪を思うな。
   怒る勿(なか)れ。
   憎む勿れ。

   そして唯 実相のみを見よ。

   これ汝らが神によって救われんがためである。


   神は無限の愛であるから何ものをも憎み給うことなく、
   怒り給うことなく、
   永遠に吾々を祝福し給うているのである。

   常に神にふりむけ、そして愛の言葉のみを語れ。
   人のよきことのみを語れ。

   かくれたる所にて凡ゆる人々をほめよ。

   それが自己に於いて神を現わす所の最善の智慧である。
   
   誰かが自分の心を傷つけようとも、
   それは かつて自分が誰かを傷つけたことがあるからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132


              <感謝合掌 平成27年7月28日 頓首再拝>

善きこと語れば善きこときたる - 伝統

2015/08/05 (Wed) 04:47:22


             *「女性の幸福365章」(P104)より


人に愛されるためには、人を愛しなければならない。
自己中心的になってはならない。

人と対話するときには、自分の自慢話は避けて、自分をへりくだり、
相手の長所について、美点について、より多く語るようにしなければならない。


人との対話中に、誰かの悪評が出て来たときには、
決して其の悪評に同調して、一緒に悪口を言ってはならない。

話を転ずるか、その人についての美点を見出だし、
「だけども、あの人は、こんな良いところがありますよ」と
褒めるようにするがよい。

そのような愛念は必ずその人に通じて、その人を感激させ、
その人を立派な人にする力がある。


あなたの心の眼を、ただ「善」のみ「明るい出来事」のみに振り向けなさい。

病気や損失や脅喝などをあなたの視野から外しなさい。

人の欠点を見るかわりに、美点を見なさい。
悪口をささやくよりも、賞める言葉を話しなさい。

              <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

《ただ善事のみ数えよ》 - 伝統

2015/08/12 (Wed) 04:40:32


           *『 生長の家 』(昭和26年7月14日)の法語

   人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
   小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て
   増大するような事を避けよ。

   善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、
   そしてそれを賞(ほ)め語れ。

   さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、
   諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

   それが心の法則である。

   他人に辛(つら)くするときは 自分も 亦 辛くせられ、
   他人に寛大である者は 自分も亦(また)寛大に取扱われるのである。

   人が自分に対して冷酷だと思う者よ。
   他を怨(うら)むまでに、自分が他に対して
   冷酷でなかったかを反省して見よ。

   そして今まで批難していた人々を赦(ゆる)せよ。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3c09a72ecfeb3c3ee15ff5f39ad5c544


              <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

ただ善のみを求めましょう - 伝統

2015/08/22 (Sat) 04:57:39


        *「真理」第9巻生活篇(P127~128)より

わたしたちが他(た)の人の善き処を見、その善を期待し、その人を賞讃することは、
これまた善き事物を祈り出すところの一種の「祈り」であるのである。

これに反してその人の欠点を期待し、その人の悪を予想し
その人から間違いを摘出しようと思うならば、それは、その人に関して、
「悪」が起こることを「祈って」いるのと同様なのである。

「求めよ、さらば与えられん」と云うイエスの教えは斯う云う点から言っても真実である。
それは「心の法則」である。

わたしたちが、すべての事物について、其処に神の顕現をを予想し、其処に神の愛を見出し、
すべてのものに神の賜物を見、それに感謝し、それを讃(ほ)め称(たた)えるならば
それはまことに「善」を呼び出すところの「祈り」となるのである。

さらば皆さん、悪や、困難や、失敗や、欠点などを探し出す心を捨てて、
ただ「善なるもの」「明るいもの」のみを求めることに致しましょう。

              <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

“善を生きる”ということ - 伝統

2015/08/29 (Sat) 04:24:02


            *「第二青年の書」より
             Web:Angel(2012/6/9)からの転写です。

『甘露の法雨』を読むと、「神があらはるれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのづから備はり、一切の生物處を得て争そうものなく、相食むものなく…」と
示されておりますが、

善を生きるということは、神の知恵にしたがって、
時、と、處、と、人、との三相應を得たときにそれが善となるのであります。

この世界の一切のものは、神がおつくりになったものでありますから、本来悪なるものはありません。
それが「悪」とあらわれているのは、處、を得ない、時、にふさわしくない、
人、にふさわしくないからであります。

即ち、人時所(じんじしょ)、の三相應(さんそうおう)を得ないからであります。

○○で、はじめて赤坂道場に於いて指導者講習会を開いたことがありました。

その時、家内が一階の便所へ降りて行きますと多勢の修行者が詰めかけていて
便所が満員でありましたので、家内が暫く待っておりますと、
便所に入っている人たちの聲がきこえてまいりました。

私の家内がいるとは気がつかないので、大聲で遠慮なしに喋っているのです。

「こんなにキンカクシに引っかけてはきたなくて仕方がない。
ちっと気をつけてすればよいのに!」

「なあに、汚いと思うからきたないんだ。
物質は本来無いと思えば、きたない事もありゃしない。
神のつくりたまうたものは何でもきれいなのじゃ。」

併し、これは處を得ないから汚いのであります。

糞便でも、それが肥料として地下に埋められ、それが適当に植物に吸収されて、
分子排列がかわり、野菜となったり、お米となったりして、食膳に盛られると、
舌鼓(したづつみ)を打って美味しくたべて少しもきたなくない。

それが汚いのは、處、を得ないでキンカクシの縁にかけたり、
お茶碗にそれを盛って出したりするからきたないのであります。

糞便でもその分子組織を適当に處理し、各々分子に處を得せしめて、化学的に精製し、
純粋なアンモニア液にでもしますと私たちはそれで着物の襟垢(えりあか)などを
ふくために使ったりいたします。

馬の小便でもそのままではきたないけれども、その尿から純粋に女性ホルモンを抽出して、
その成分をあるべきところにあらしめると、それは決してきたないことはない、
注射に使ったり、錠剤にして服(の)んだりするのであります。

このように綺麗とか、きたないとかいうのは、
すべてそのものが處を得ているか、處を得ていないかできまるのであります。

處を得なければ、どんな善に見えるものも悪にかわります。

性欲というようなものでも、それは本来善である。
それは種族の肉體を永遠に持続するために神が興えたものでありますから、
本来善なのであります。

しかし、それも、處、を得ず、時、に、適せず、人、にふさわしくない場合には、
それは「悪」になるのであります。

まずいかなる、人、に對して性欲を遂行するかということであります。
人にふさわしくなければ、それは悪になるのであります。

他人の奥様に對して性欲を起こしたり、恋愛もしていない南洋の黒ん坊の土人に對して
性欲を遂行したりしますと、その性欲は悪になります。

性欲は自分の正しい配偶に對して起こすのだったら、それは善であります。

もし性欲それ自體が誰に對しでも悪であるとしましたならば、
神前結婚など出来ることではありません。

「これから二人は互いに性交の儀式を行って、分かち難き1つの生命にならせていただきます」
なんて鹿爪らしい儀式をあげて神様に申し上げることはできません。

神前結婚を行っても神様の前に恥じることがないのは、
正しい相手に對する、性、の要求は、本来善であるからであります。

それなら、自分の妻に對してならば、
いつ何處で、性、の要求をみたしてもよろしいかというと、決してそうではありません。

白晝(はくちゅう)、往来や観衆の前で、性の要求をみたしたりしては、「悪」となります。
すなわち何時、いかなる、處、でいかなる、人、にという、時、と、處、と、人、との三相應
が得られて、それは「善」なる実相があらわれるのであります。

麦を捲くのでも、十日早く蒔くのと十日おそくまくのとでは
非常にその収穫量がかわって来るのであります。

或る人が停車場へ行く道を教えてくれというので、
「この踏切を越えて今行きなさい、もう直ぐに発車の時間ですから」と教えてあげたとします。

ところがそこへチンドン屋が来たというので、その人は直ぐ踏み切りを越えずに
チンドン屋にみとれていて、十分間のちにその踏み切りを渡ろうてしたら、
其処へ汽車が来て、汽車にはねとばされて大怪我をしたとします。

「先生が踏み切りを渡れたというから、私は踏み切りを渡ったのですが、
そのために私はこんなに怪我をしたのです」と訴えるかも知れません。

しかし、踏み切りは渡るべきものであるから、「踏み切りを渡る」ということは、
本来「善」でありますけれども、その行為が「時」をあやまれば「悪」になるのであります。

こういうように何でも物事、時をあやまれば悪にかわるのであります。

また会館を建てたり工場を建てたりするなら立地條件ということも考えなければならない。
会館の種類や目的によって、付近の人口数や住民の階層や、その嗜好趣味なども
よくよく調査してかからねばならない。

工場などを建てるのには、原料や製品を運搬するのに
最も便利な立地條件のところへ建てなければならない。

即ち、時、と、場所、との相應が必要なのであります。

それから建物や工場が適当な、時、に適当な、場所、に建ちましても、
それを経営するのに適当な「人」を得なければ、折角の施設の経営も不結果に終わるのであります。

「人」が得らなければ、時と場所とがよくっても、
それは「空家」同然で何の役にも立たないのであります。

現象界の一切は実在ではなく、影であるから、
一切の行為も材料も「無自性(むじしょう)」であって、
その「無自性」の中から、その奥にある「善なる実相」を引き出すのは、
時、場所、と、人、との三相應によるのであります。

皆さんは行動をとるときには、この行動は、時、の宜(よろ)しきに適い、
場所、の宜しきにがない、人、の宜しきにかなっているかということを考えた上で、
慎重に行動していただきたいのであります。

時、の宜しきにかない、處、の宜しきにかない、人、の宜しきにかなうということは、
正しき秩序を得たということであります。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/mimoru1219/44644778.html


              <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

《善き想念のみを放送せよ》 - 伝統

2015/09/07 (Mon) 04:47:49


            *「希望実現の鍵」(P38~39)より

「必ずよいことが来る。必ずよくなる。必ず平和のみが来る」というような
善と福とを実現するための言葉のみを吾々は考え、放送しようではありませんか。

真理を知るものはかくの如き善念のみを放送しなければならない、
そして全世界に拡がっている悲観的な破壊的な想念に
対抗しなければならないのであります。

吾々は人類は神の子であるから善き性質があり、
争闘の性質などのあり得べからざることの想念を強き信念を以て
強調しなければならないのであります。 

吾々が実相を見る心の目を開いてみれば、
実相は神の子であるからただ善意のみを想念しているのであります。

それだのに悪があると疑う。 
それを新聞が書きたてる、ラジオが放送する。 
多くの人類がそれによっておどろかされる争闘の想念に拍車をかける。 
そうしてその争闘が現実に具象化するのであります。

吾々はそのような混乱の世界を、吾々は宗教家の立場からこれを是正して行くのは
「真理の武器」を用いる外に仕方がないのであります。 
吾々は今、すぐ、今日よりそれを実行することができるのであります。

今日唯今人類互に神の子として唯拝み合うのみの思想を大声叱呼して全人類によびかける、
これこそが宗教的世界平和運動だといわねばならないのであります。

              <感謝合掌 平成27年9月7日 頓首再拝>

善の創造は、実在の世界に善なる「生命」が創造である。 - 伝統

2015/09/15 (Tue) 04:33:52


           *「生命の實相」第23巻常楽篇(P61~63)より

このようにわれわれ人間の実相は「神の子」であって、不増不減、不生不滅、生きとおしの
どうしても死なない、常住円満至善至美の生命(せいめい)でありますから、
この「本当の自分」というものが動き出すとき必ずそこに善が創造されるのであります。

現象界の善は実在の世界に造られた善の投影でありますけれども、
投影が現象界へ現れている以上は実在の世界に、実在の善が創造せられている
ということは否定できないのであります。

だからわれわれが善を為すということは
神の子が実在の世界に一つの創造をするということになって尊いのであります。

悪を為しても悪は実在の本性に反する ―― すなわち幻であるから創造にはならないので、
したがって悪を為してもわれわれの真生命は生長しないのであります。

ところが善は、「実在の我」すなわち「本当の自分」が動き出したときに
自然に創造されたものであるからそれは実在の世界に蓄積されていて
決して消滅しないのであります。

この善が創造されて実在の世界に蓄積されるということは、
たんに倉庫の一隅に物品が積まれているように死蔵されているものは一つもないのでありまして、
善が溌剌たる生きた生命をもって実在の世界に生きているということを意味するのであります。

およそ、「実在の世界」にあるものは物品のように死蔵されているものは一つもないのでありまして、
「実在の世界」にあるものはすべて生きている。

そこに「善」があるということは、すでに為し終わったところの「善」の形骸とか痕跡とか
いうものがそこに転んでいるということではなく、そこに実在の世界に善なる「生命」が創造され、
それが永遠に生きて躍動しているということになるので尊いのであります。

こういうように「善」というものは現象世界を超えて永遠に生きている生命の創造になるからこそ、
古(いにしえ)の聖者も「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」と言い、われわれもまた
「善」を本当に為しえたときには肉体は、死んでも可いという感じがするのであります。

肉体は死んでもよい ―― と感じるのは、肉体は本当の自分ではなく、
本当の自分というものは、自分の造った「善」と共にあるものであって
「善」の永遠不滅性のために永遠に生きることがそれとなく体験されるからであります。

              <感謝合掌 平成27年9月15日 頓首再拝>

神は善であると信ずること - 伝統

2015/09/23 (Wed) 04:56:56


          *「善と福との実現」(P5~6)より

世界の根源が神であり、神が善であるとわかったならば、
そして神のみがすべての渾(すべ)てであるとわかったならば、
世の中に悪意ある対立などはありようがないのである。

「敵がない」と云う人生観にならなければならないのである。

「敵がある」と云う人生観に立つ限り、自分の妄想によって「敵」を描き、
描くがゆえにその「敵」が現実にあらわれ、ついにその敵のために敗北せしめられる
と云うことになるのは、古今東西の実例によっても明かなことである。

「敵」だと思えば、敵でないものが敵とあらわれて来る。

すべての存在は「敵」ではない、「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを
互に貢献し協力すべく与えられているところの存在であると信じ、
現実に「敵」とあらわれていても、それは敵ではないとして
「実相」の善を信頼して厚遇するならば味方となってあらわれて来るのである。

敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、それに対して身構えすることは、
神の善と、その無限力とを信じない不敬の罪だと云わなければならない。

              <感謝合掌 平成27年9月23日 頓首再拝>

善き事のみを創造する - 伝統

2015/10/03 (Sat) 04:50:23


           *「希望を叶える365章」(P177)より


今日、あなたは自己が神の子であり、神に愛され、神に護られ、神に導かれ、
神に恵まれていることをしっかり自覚したのである。
だからあなたの心は平和であり、安定している。

あなたは自分の前に困難が横たわっているなどと云うことを決して考えない。 
何故ならあなたは神の子であり、神に護られ、神の無限の力は
どこまでもあなたに味方しておるのであり、神より大なる力はないから、
どんな困難でも自由に切りひらき得ると云うことを知ったからである。


あなたは、神が一切のものを「心で想う」ことによって創造(つく)ったのであるから、
“神の子”たるあなたも「心で想う」ことによって一切のものを造ることができると
云うことを知ったから、決して、悪や不完全や不幸や病気や災難などを
心に思うことをしないのである。

そして善き事、好ましきこと、愛すべき事、悦ばしき事、人に与える事、
与える力があること、与える悦びの事などを「心に思う」のである。
やがて、その想った通りのことがあなたの運命となるのである。

              <感謝合掌 平成27年10月3日 頓首再拝>

実在の善を、現象界に現わすには - 伝統

2015/10/11 (Sun) 04:25:33


        *「生活と人間の再建」第2章善悪を超えて(P28~31)より

《物質と見えるものは想念の具象化である》

20世紀になってからも人類の最大の発見は事物の根底に横たわるものは単なる物質では
なくして、「想念」であるということの発見であるのである。

信仰物理学の進歩に従って物質は結局「無」なるところのエーテルのうづきにすぎない
ということが発見され、かくてそのエーテルを動かしているところの力は、「形のない
知性的エネルギ-」であるということが発見されたのであって、知性的エネルギーは
即ち想念に外(ほか)ならないのであるということが発見されたのである。

宇宙にみつる一大本源である神であり、すべての天体も鉱物も植物も生物も、
すべてこの「神の一大知性的エネルギー」によって具象化されたものであるといいことが
発見されたのである。


その「知性的エネルギー」が吾々に宿って、吾々の生命(せいめい)となっているのである。
従って吾々の起す想念は宇宙にみつる神の想念の一部であり全体につながっているので
あって、吾々の想念が事物を創作するという力があるということは当然のことなのである。

だから、根本に於いてこの世界の実相が「絶対善」であっても吾々は想念によって仮に
悪をこの世界に創造して、それによって自ら苦しむことができるのである。


《真の智慧による新生活の樹立》

まことにもこの世界が開くの様相を呈するのは、
吾々が「善悪を知る樹」の実(み)を食べて善悪の想念にとらわれる様になったからである。

善悪の観念にとらわれるのは、五官の現象的な現れを見てそれを實相だと思うからである。
これを称して「蛇の智慧にだまされる」というのである。

智慧の樹の実をたべるように教えたのは蛇であって、
蛇とは地面即ち物質にぴったりくっついて歩むもの、
――物質ありと認めるところの五官智の象徴である。

 
吾々は五官の感覚によって認めるところのものをありと思ってはならないのである。
透明なる水は殆んど見えないのであって、濁りがあるので見えるのである。
そして水というものは皆多少不純物でにごっているものである。

――それと同じく実相は五官には見えないのであって、
われわれの濁った想念である影が見えるのである。

そして世界は濁っていると云い、悪であるという。
かかる想念を起すことが又濁りとなるのである。
かくて濁りは濁りを生みて停止するところを知らない。

かくて現象界は苦しいという、この濁りを途中で中断する道は吾々が心の法則を知り、
再び心に濁りを生じしめないように工夫することである。

それは現象の濁りからまず目を放つことである。
そして実相の玲瓏珠の如き世界を見つめて、心を澄みきらせることである。


心の目を放って実相を見よ。
実相の世界を見よ。
実相の人間を見よ。

神はただ善である。
神の造り給うた此の世界はただ善である。
そして神の造り給うた神の子も又ただ善である。

自分のみが善であるばかりでなくすべての人間が善である。
このことを常に自分の心の中に唱えるべきである。

しかし自分自身に於いて、自分自身をとりかこむところの周囲に於いて、
神の造り給うたところの円満完全なる相(すがた)を見よ。

そこに神が現れる。
神の国が現れるのである。


これこそがキリストが「神の国は汝の内にあり」といい給ひし言葉の真の意味である。

善のみが実在であるから吾々が悪の想念の上に、悪の計画の上に、
自分の生活を打ちたてようとするならば、

それは存在せざる基礎の上に生活をうちたてるのだから、
結局その人の生活は滅びてしまうのである。

善のみが実在であるから吾々を支えてくれるところの実在する力は唯善のみであるのである。
善に支えられないものは結局滅びるのである。

吾々が栄えるところの原理は結局「実在」を見出すこと、
実在は絶対善であるからその善の上に生活をうちたてるとき、
現象界にも真の善が出てくるのである。

              <感謝合掌 平成27年10月11日 頓首再拝>

「善」の一般的要素 - 伝統

2015/10/17 (Sat) 04:47:59


            *「生命の實相」第13巻倫理篇上(P67~71)より

倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、
ついでにその自由の主体たる人格が何をなすか、人として善であるか悪であるかの
問題に移らねばならない順序となるのであります。

われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、
善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはずでありますが、

さて、ひとかどの成人に対(むか)って
「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、
またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、
ちょっと返事に困るでありましょう。

では「善とは何? 」「悪とは何? 」これを「生長の家」の倫理学で解説しますと
なんでもないのであります。
「生長の家」で申しますと、善というものは固定した「律」ではないのであります。

善の確立する根本原理は、

唯一の「善」は神のみである。

ということであります。

「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。
「神」のいます処、そこに、「善」があり、
「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。


「生長の家」で申しますところの神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であります。
言い換えれば、神があらわれてすべてのものとなったのであります。
だからすべてのものは、神において一体なのであります。

すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては神はその御親(みおや)であり、
すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)であります。

すべてのものは、御親の生命(いのち)の分化でありまして、神において一体なのであります。

自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、
実は相離れているのではない、本来、自他一体なのであります。
神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。

それで、『マタイ伝』二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。

「一人(ひとり)の教法師、イエスを試むるために問う

『師よ、律法(おきて)のうち、いずれの誡(いまし)めが大なるか』

イエス言い給う
『なんじ心を尽(つく)し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。
これ大にして第一の誡なり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、なんじの隣(となり)を
愛すべし。律法(おきて)全体と預言者とはこの二つの誡によるなり』」
                       (『マタイ伝』第22章35~40節)


パウロもまた『ロマ書』の中で、

「汝等(なんじら)互いに愛を負うのほか何をも人に負うな。
人を愛する者は律法(おきて)を全うするなり。

それ『姦淫(かんいん)する勿(なか)れ、殺すなかれ、盗むなかれ、貪(むさぼ)るなかれ』
と云える、この他(ほか)なお誡命(いましめ)ありとも
『おのれの如く隣(となり)を愛すべし』と云う言葉の中にみな籠るなり。」
                            (『ロマ書』第13章8~9節)

「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられんためなり。
ただ其の自由を肉に従う機会となさず、反(かえ)って愛をもて互いに事(つか)えよ。
その律法(おきて)の全体は『おのれの如く、なんじの隣を愛すべし』との一言(げん)にて
全うせらるるなり。」(『ガラテヤ書』第5章13~14節)

といっています。

「愛」のうちにこそいっさいの人倫は含まれているのであります。

イエスは、その弟子のパウロに、「おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、
「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」というのであります。

他(た)をおのれのごとく愛するのではまだ足りない。
自己と他(た)とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他(た)なるがゆえに
自己を愛するということは、必然他(た)をも同時に愛しなければならないのであります。

使徒ヨハネは、

「愛する者よ、われら互に相(あい)愛すべし、
愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり。
愛なき者は神を知らず、神は愛なればなり。」
               (『ヨハネ第一書(だいちのふみ)』第4章7~8節)

といっているのであります。

「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書』以来今日にいたるまで、
神について下された最も要領を得た定義であります。

では愛とは?

「《おのれのごとく隣人を愛すべし》」

何故(なにゆえ)であるか。答えて曰く、

神はすべての親であるから、《自己と他とは一体であるから》、

その答えは大いによろしい。

自他包容の渾一体(こんいったい)―― 
すなわち《「自他一体」そのもの》が神なのであります。

自他一体を生きるということが神を生きるということ、
神をこの世に顕現することであります。

自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、
軽くいえば《自己のごとく》他を愛する。

いっそう切実にいえば《自己そのもの》として他を愛することが、
《神を生きる》ことになるのでありまして、

「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは
「愛」を生きることにほかならないのであります。

             <感謝合掌 平成27年10月17日 頓首再拝>

善の一般的要素 - 伝統

2015/10/25 (Sun) 04:51:10


            *「静思集」(P237~238)より

善とは何ぞやと云うことは、古来問題になっています。
また今も人生に生きて行く上にこれ程重大な問題はないのであります。

人に嘘を吐(つ)かないのが善であるとか、
泥棒しないのが善であるとか、
間男しないのが善であるとか、

細かく分けると沢山あるのですが、
根本を忘れるとそれが善であるか善でないかが
わからないことになるのであります。

一つひとつの行為の外形に就き、それが善であると形によって決めることことは
出来ないのであります。

吾々は「殺人」とか「倫盗(ちゅうとう)」とか形の上で判断をするよりも
善の本質に入って判断せねばならぬと思います。

唯一の善は神のみである ―― これが善の本質であります。
善の本質は「神」なのであります。是が大切なことであります。

人間の生命(せいめい)というものは神の生命(せいめい)が宿っているのです。
人間が此処に現れ出たのは、神なる内部の生命(せいめい)がちょうど、
花が内部の力の発現として咲き出(い)でるように、見えない内部から外部へと
咲き出(で)たところの「神の生命(せいめい)」なのであります。


根本が定まることが必要です。
人間の生命(せいめい)は「神の生命(せいめい)」が種子(たね)から伸びて
花が咲くように咲き出たのだと云う根本が分かりますと、

人間という生命(せいめい)は何のためにあるかと云う目的もおのずから判ります。
それは神を実現するため此処に発現したのであります。、

人間の目的は神を実現するためにあるのですから神を実現したら善です。
その反対に神を隠したら悪になります。

この根本真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理であります。

罪というのは、神を包んで実現せしめないことであります。
神の実現を包むのが罪であって、神を現せば善なのです。

善というのは、どういう形、どういう現象とかいうものではない。
神が、善なのです。神が善の本体なのであります。

その「善」の本体であるところの「神が顕るれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、
調和自ずから具わり」と『甘露の法雨』に書いてあります通り「神」が善なのですから、
神が顕れたら必ず善となるのです。

「何が善か」の問題は「唯一の善は神のみである」という根本真理
―― 此処から出発しなかったならば混雑してしまうのであります。

           <感謝合掌 平成27年10月25日 頓首礼拝>

総ゆる善は神より来ると知ること - 伝統

2015/11/04 (Wed) 06:28:05


          *「善と福との実現」(P6~7)より

神が善であり、一切創造の本源であると云うことを知るならば、
「敵」も「悪」も存在しないものであり、かく見えることは唯、
仮相に過ぎないことが解るのである。

が、それと同時に、我々は、「自分」と云う自我(自力、肉体我、分別我)の力に
よって「善」なるものを創造出来ると考えることは間違である。

「自分」と云うものは無く、ただ「神」のみ実在し給うのであるから、
皐月(さつき)の鯉の吹き流しのように、自分と云うものが空っぽになり、
そこに大生命の生きる力を吹き流し入れるならば、あたかも空中を翩翻(へんぽん)として
ひるがえる吹き流しの鯉の如くに生々として来るのである。

「自分」と云うものを、「神」に対する別物として対立せしめ、
自分の力で何事かを成そうとすることは、「神」を信じているとは云いながら、
いつか二元論におちているのである。

尤(もっと)も「自分」と見えるものは本来ないのであるから、
その「自分」の力でやることも結局、神の力でやることではないか
と云うような議論も成立ち得るのであるが、

それは議論であって、実際上、自分の心の中では、「自分」と云うものを立て、
全体我(大生命)としての神をわすれて生活し、計画し、行動しているのである。

だから、そのような「我(は)」の行動、計画、生活によって、
一時、一見「幸福」や善や繁栄が持ち来たされたかのように見えようとも、
それはやがて果敢(はか)なく消ゆる陽炎(かげろう)の様な「幸福」であり、
「善」であり繁栄に過ぎないのである。

ハンブリン氏は云っている、「神が植えないところの凡ての植物は根のない植物であり、
神の築かないところの凡ての建物は、礎なき建物である」と。

まことに偉大なる業績は、イエスの所謂(いわゆ)る
「われ、みずからにては成し得ず、天の父我にいまして成さしめ給(たま)うのである」

との自覚よりして得られるのである。

           <感謝合掌 平成27年11月4日 頓首礼拝>

神は何故善であるか - 伝統

2015/11/13 (Fri) 04:25:36


            *「善と福との実現」(P9~10)より

自然に神の摂理に従順にまかせて動いておれば、善いことばかり、幸福ばかり実現する
と云うのは、神が本来「善」であるからである。

神が何故「善」であるかと云うことがわかるかと云う人があるが、吾々は「最高の善なるもの」
を神と名称づけるのであるから、神が何故善であるか ―― の疑問の存在の余地はない。
そして吾々は「善」なるを求めずにはいられない ―― それは事実であり、

何故吾々が心に「善」を思い浮かべ、それを追求せずにはいられないかと云うと、
吾々の内に既に「善」が宿っているからなのである。


「善」が吾々の《うち》に宿っておらず、全然内的に体験したことがないとしたならば、
「善」の何物たるかを吾々は知らず、それを思い浮かべることもなく、
それを追求することもない筈である。

だから、「善」は《自己の内》に既にあるのである。

イエスは「神の国は《汝らの内》にあり」と云い給うたが、その内在の「神」こそ
「善」であり、その内在の善なる世界こそ「神の国」であり ―― 
《既に》あるのである。

外在の不完全な国は、《内在の神の国》の不完全なる顕現に過ぎない。
だから、内在の神の国は、外在の世界に、それを押し出そうと云う「内からなる衝動」を
起さずにはいられない。

それが吾らの「善と幸福に対する希求」として現われて来るのである。
「善と幸福に対する《希求》」が必然的に吾々に起こるのは、
既に内在の世界に神があり、善と幸福との世界が成就しているからなのである。

           <感謝合掌 平成27年11月13日 頓首礼拝>

「常に神一元・善一元の世界を観る」 - 伝統

2015/11/21 (Sat) 04:46:12


                *聖詩 より

神は常にあなたの側にい給うのである

どんなに事業が悪化するように見えても
どんなにすべてがく壊(くだ)けるように見えても
それは化膿した腫物(はれもの)が破裂するようなものだ

悪化のような仮面をかぶりながら
究極は、ただ善の方向にのみ延びて行く

恐れることはない
疑うことはない
神はあなたの父であり母である

あなたに必要なるすべてのことは
この世界に実在するものは
ただ善なる神と
神のつくりたまえる善なる生き物と
善なるすべての事物とだけだと知ることである

行け
勇敢にあなたの与えられた人生の行路を

そこに
花園が華麗な装いをつけて
あなたを待っているのである

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=79 <2015年06月12日>より)

           <感謝合掌 平成27年11月21日 頓首礼拝>

善と幸福への希求 - 伝統

2015/12/02 (Wed) 04:07:22


            *「善と福との実現」(P11~12)より

ここに「善と幸福への我等の希求」は、同時に、
「神御自身の善と幸福とを実現せんとの御意(みこころ)」
に一致することを知るのである。

だからわれらの、善と幸福への《願い》は、決して無駄に捨て去るべきではなく、
吾々は全能の神の有ちたまう「善と幸福の実現力」に、一切をおまかせして
とりさえすれば好いと云うことが出来るのである。



それでは何が我々にとって「善」でなく「幸福」でないかと云えば
それは誰でも直感的に知っているのである。

利己主義や、不貞操や、殺人や、盗みや、憎悪や、無慈悲や、不誠実や、猜疑や、恐怖や、
貪欲や、およそ仏教の十悪五逆と云わるるものは善ではないのであり、病気、貧乏、天災、人災、
家庭の不調和、心配、取越苦労、持越苦労などは幸福でない事は誰も知っているのである。

しかも現実には、かくの如きものが往々にして現われている。
我々は現実に於いてかかる経験を嫌悪し、それを避け、のがれようとする希求の奥に、
転禍為福(てんかいふく)の、神のやさしき慈手(みて)がさしのべられているのである。

不善と、不幸とは神御自身よりは、来たらないのであるが、その奥に神の
「転禍為福の慈手」が動いているので、悪と不幸とを契機として神を見出し、
「善」と「幸福」への道を見出す人が出来ているのである。

そこで「病気にかかったので却って神を見出した。病気にかかったのもお陰だった」
などと云う人も出て来る。

しかし、どこまでも、不幸と不善とは神がつくったものではない。
だから、その奥にそれを排除しようとする神の慈手が動き出でるのである。

           <感謝合掌 平成27年12月2日 頓首礼拝>

直観による善一元の世界の把握 - 伝統

2015/12/09 (Wed) 04:17:17


          *「真理」第9巻生活篇(P47~48)より

合理主義や常識主義では病気を否定することはできません。
不幸を否定することもできません。

合理主義や常識主義は、肉眼に見える現象的な相(すがた)を、
そのまま実存するとして理論づけをしますから、どうしても病気や不幸を
そのまま《あり》として肯定するほかはありません。

病気や不幸の存在を否定し、現象的にもそれを消滅せしめてしまうためには、
どうしても我々は現象の存在を否定しなければならない。
合理主義を超えなければならないのです。

常識を超え、合理を超えるには

「神のつくり給える世界には悪はあり得ない。
唯、善のみ実在する。実在は善である。
実在でない現象は、ただ現れて見えるだけで本当は存在しない。」

と直観によって「善一元の実在界」を把握しなければならないのです。

以上の直観を神想観中に繰返し黙念すれば病気を治す効果がある。

           <感謝合掌 平成27年12月9日 頓首礼拝>

善のみを観よ - 伝統

2015/12/16 (Wed) 04:37:27


            *「若人のための78章」(P51~52)より

今日いちにち自分の前に立つすべての人を、必ず善人であると信ぜよ。
如何なる不快なる相をもってあらわれようとも、その不快なる相は、
現在又は過去において自分のどこかに潜んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、禮し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己には峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上るからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼に映じないのは、
自分の心の眼が雲っているのであるとして責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には、
腹立った声、憎む表情ーそんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために供に泣き得る底になったときにのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」という感じを持たないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」という感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

           <感謝合掌 平成27年12月16日 頓首礼拝>

ただ善と円満のみ実在す - 伝統

2015/12/24 (Thu) 04:27:51

          *「真理」第9巻生活篇(P50~51)より

神は大生命であり、霊であり、霊は分割しがたきものであるから
神に於いてはすべて一体である。この一体感を「愛」と言うのです。

神には「私」もなければ「貴方」もなく、「他(た)」もなく「自(じ)」もなく、
すべてが兄弟であるから、すべてが平等に栄える世界が神の国(天国)であり
「実相の世界」である。

既に此の神の国は実在するのであるけれども、
心の迷いがその普遍平等の世界を分割して個々別々にみせているのは、
水に映る月がくだけてバラバラに見える如くです。

円満完全なのを「実相」と言い、くだけたる影を「現象」と言う。

しかし本当は月はくだけていない如く、くだけたる月は無いが如く、
不完全なる現象は在りと見ゆれども無いのである。

その如く病気も不幸も在りとみゆれども無いのである。

           <感謝合掌 平成27年12月24日 頓首礼拝>

想念を浄めよ、其処には善のみがある - 伝統

2015/12/31 (Thu) 04:22:48


           *『生活と人間の再建』第2章善悪の境を超えて(P26~27)より

吾々は余りにも長期間に亘って、現象界の事実であるところの想念の世界に
「悪の思い」をつぎ込んで来たのである。

吾々は清らかな澄き通った清冽な水のような實相の世界に「悪」の想念の泥を投げ込んで、
それをかき回して、「この水は濁っている」というが如くに
「この世界には悪が満ちている」と呼んできたのである。

それは結局自分の想念の影を見ているのであって、本当に悪は実在するのではないのである。
水は濁ったように見えても、水そのものは常に純粋なる酸素水素の化合物であって、
濁っているのは水ではなくて泥そのものが濁っているに過ぎないのである。

それと同じく、汚く見えるのは實相が汚いのではなくして、
自分の想念で濁らしたその想念そのものが汚いのに過ぎないのである。

想念を浄めよ。

そうすればこの世界は、純粋の水の如き清らかな實相がそのままに見えてくるのであって、
即ち、天国が地上に実現するのである。

           <感謝合掌 平成27年12月31日 頓首礼拝>

《他(ひと)の悪を認めてはならない》 - 伝統

2016/01/08 (Fri) 04:48:08


        *「生活と人間の再建」第11章信仰生活の種々相(P141~142)より

吾々が神の救いにあずかろうと思うならば、神と同じ心境にならなければならない。
神は完全なる善であるから、神は悪を感ずることができないのである。
それは丁度光は暗を感ずることができないのと同じことである。

吾々が悪を感じ得るのは、少なくとも吾が心の中に悪の波動が起こるからである。

我々が、「赤い色」を感じ得るのは自分の心の中に「赤い色」の波動が起こるからである。
赤色(せきしょく)色盲に於いては、心の中に「赤色」の波動が起こらないが故に、
「赤色(せきしょく)」を見る事ができないのである。

神に於ては一瞬間といえども、「悪」の波動が起こらないが故に、
神は吾々の「悪」を認め給うこと決してなく、従って吾々の悪を罰し給う
こともないのである。

吾々が神の救いと完全に波長を合わせようとするならば、吾々自身が神と等しく、
一切の悪を認めない心境にならなければならないのである。

神は吾々の愛深き父であり、神の子たる人間のただ「善」のみを見給うのである。
その如く吾々人間も、すべての人間の内に在る「神なるもの」「完全なるもの」
「人間の実相」「内に宿るキリスト」を見て礼拝しなければならないのである。

そこに如何なる悪と見えるものの前にも、
それも見えないところの無限の赦しが生ずるのである。

法華経に於ける常不軽経菩薩はすべての人間を、
「仏(ほとけ)なるもの」として礼拝し、
石で打たれてさえも、更に相手を仏なるものとして礼拝したのである。

キリストは十字架につけられながら、
一緒に磔(はりつけ)にかかっている盗賊に対して
「次の日汝らは我と共に天国にてあらん」といって

悪を見ないで天国にいる神の子人間を見たのである。

           <感謝合掌 平成28年1月8日 頓首礼拝>

《常に善念を把持すべし》 - 伝統

2016/01/16 (Sat) 03:26:51

            *「光明法語」(P33)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。

善のみ来(きた)るであろう。

           <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首礼拝>

月が円満の如く人間は円満である - 伝統

2016/01/25 (Mon) 04:49:22


         *「生活の智慧365章」(P220~221)より

この世界は愛の神の造りたまえる世界であるから、
そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。

われわれは決して外界の誰とも戦っているのではないのである。
われわれの戦っているのは自分自身の心に対してである。
自分自身の心を克服することによって外界が克服されるのである。

この世界は神の創造したまえる世界であるから悪いことは何一つ存在しないのである。

それはたとえば、円満なる満月の如くである。

それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
雲が曇っているのを月が曇っていると間違えているようなものである。

実相は永遠に曇らないのに人間の心が曇って実相が曇ったように見えるにすぎないのである。

           <感謝合掌 平成28年1月25日 頓首礼拝>

内なる善が、吾々をして善を為すように強制する - 伝統

2016/02/02 (Tue) 04:55:49


           *「光明道中記」(P36)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
                     自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

            <感謝合掌 平成28年2月2日 頓首再拝>

吾々の生命の本性は善なのである - 伝統

2016/02/10 (Wed) 04:14:58


            *「光明道中記」(P36)より

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

            <感謝合掌 平成28年2月10日 頓首再拝>

心に善事のみを描きましょう - 伝統

2016/02/18 (Thu) 04:48:44


          *「真理」第9巻生活篇(P37~38)より

悪を心に描くことは、此の肉眼に見える第二次創造の世界に「悪」を主題とする
映画を映し出すことになるのです。

そして実相(神の第一次創造の世界)は完全でありながら、多くの人々は
其処に不幸が実現していると見るのであります。

不幸にして多くの人々は、自分の欲するところの、健康とか豊かさとか幸福とかの
善き有様を心に描かず。ただ「不幸なことがでて来やしないか」と恐怖して「不幸」を
心に描きますから、その心に描いた通りの「不幸な事件」が相継いで出現して来るように
なるのであります。

しかも残念なことに、吾々の住んでいる世界は、印刷、ラジオ、テレビ等の発達により、
間断なく周囲から「言葉の力」で”好ましくない事柄”が存在すると云う暗示が与えられ、
まるで強力な催眠術家に取り囲まれているような有様ですから、外部から来る「不幸」の
暗示を拒絶するようにつとめねばなりません。


            <感謝合掌 平成28年2月18日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2016/02/26 (Fri) 03:41:07


           *「光明法語」(P46~47)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 平成28年2月26日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2016/03/04 (Fri) 03:18:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(P64)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 平成28年3月4日 頓首再拝>

善とは何ぞや - 伝統

2016/03/11 (Fri) 04:00:27


           *「光明道中記」(P61)より 


【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

            <感謝合掌 平成28年3月11日 頓首再拝>

悪しきことを語る勿れ - 伝統

2016/03/21 (Mon) 03:32:46


        *「人生の秘訣365章」(P235~236)より

人のゴシップに同調してはならない。

人の悪しきことを語る勿れ、また自分の悪しきことを語る勿れ。
悪しきことは実在しないのである。
何故なら神は、悪しきことを造り給わないからである。

誰かが人の悪しきことを噂するとき、その噂に耳を傾けてはならない。
それに相槌を打ってはならないのである。

寧(むし)ろ悪しざまに言われている人も”神の子”であり、
現象の姿は如何に悪しく見えようとも、それは仮の相(すがた)であって、
一時的に”心の波”が曇のように湧き上起って、そんなように見えてるに過ぎないのであって、
雲は常住でないが如く、その仮相(かりのすがた)も常住ではない。

常住の本当の相(すがた)は、あの人も”神の子”であるから、完全円満であって、
そのような悪い人ではないのであると思い返して、その人の円満完全なる実相を
心に想望し、その人を心の中で祝福してあげるがよい。

            <感謝合掌 平成28年3月21日 頓首再拝>

《一切の悪や不調和は非実在である》 - 伝統

2016/03/29 (Tue) 03:08:23


            *『 生長の家 』(昭和46年3月24日)の法語より

   根本的に知らなければならない事は、
   唯一の実在は“ 神 ”そのもの及び、“ 神 ”の延長として、
   又は“ 神 ”の展開としての実相世界のみであるということである。

   神は唯一の実在であり、そのほかに実在するものは存在しないのであるから、
   神は普遍的存在であり、無限であり、一切の存在は神の無限内容の展開である
   ということである。

   そして神は愛であり、無限智であり、無限生命であり、善であるから、
   神の無限内容が展開して万象となるとき、それは善なるものとなり、愛の道にかない、
   智慧によって全てが適当に排列されて計画されているから、
   不調和や不完全はあり得ないのである。

   従って一切の不幸や災害や病気や諸々の悪現象は
   “ 実相に於て ”存在しないのである。

   この実相を知ることを ー “ 真理を悟る ”と言うのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12708750.html

            <感謝合掌 平成28年3月29日 頓首再拝>

神から悪しきものが、来るという考えを捨てよ。 - 伝統

2016/04/02 (Sat) 03:28:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物がどこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。
神は悪しきものを与え給わないから、悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。
神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)
われわれは神の子であるから、われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

              <感謝合掌 平成28年4月2日 頓首再拝>

善事のみ心に描く日 - 伝統

2016/04/09 (Sat) 04:49:43


           *「光明道中記」(4月9日)より

【心そのものは吾らの本体にして病気になることはない。(『生命の實相』第四巻)】

心に描くことが第一の創造である。
心に描いた通り形にあらわれるのは第二の創造である。

家は建ち上ったとき初めて建ったのではなく、
それは設計家の心に出来上がったとき既に立ち上がったのである。

それよりも更に遡(さかのぼ)れば、漠然たる建築主の心の中に何となく家を
建てたくなったとき、既にその家は建っているのだとも言えるのであろう。

或る地方では食事のときにする遊戯に「茶柱が建つ」と云って、
湯呑(ゆのみ)に注(つ)いだ茶の茎(くき)が縦になって浮き上るのを楽しんで、
左手で箸で拾い上げて袂(たもと)の中に祝福しながら入れる風習がある。

盛んに茶柱が立つときには、その人の運勢は盛んであり、家なども盛んに建つ。

昭和10年どこへ往っても私の茶碗に注がれる茶には不思議に「茶柱」が立ったと
言っていると、本部の改築が出来上る、光明思想普及会の新社屋が出来上がる、
原宿の学生寮が新築される、家庭光明寮の第三寄宿舎「愛泉寮」が新築される、
研究室の新設等・・・建つ、建つ、建つ・・・

形あるものは、その奥にその形に相応する心の波動(アイディア)が動いているのである
から、自分の心の世界に「すべて立つ」アイディアが動き出すと、
現象界の事々物々にそのアイディアが映し出されて具象化するのである。

              <感謝合掌 平成28年4月9日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善のみ - 伝統

2016/04/14 (Thu) 04:33:30


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 平成28年4月14日 頓首再拝>

『善』のみあると言葉で肯定せよ - 伝統

2016/04/28 (Thu) 03:42:19

          *『生長の家』(昭和26年10月号)より

実相は最大の力である。
それは『実』であるから、如何なる『虚』の力も
これに対抗することは出来ないのである。

一つの『実相』の想いは百万の『虚』の想いを打消す力があるのである。

吾々はどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを『実』と見ないで『虚』であると見るのである。

吾々は見せかけの外貌を超えて其処に『実』にある『完全さ』を見なければならない。

暗(やみ)はどんなに深くとも、それは『虚』であり、ニセモノであるから
光には対抗することが出来ない。

悪は如何に姿をあらわしても、それは『虚』でありニセモノであるから、
善には対抗することが出来ない。

善のみ実在することを信ぜよ。

それを言葉に出して語れ。 
悪を言葉で否定せよ。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19635072.html より転写)

            <感謝合掌 平成28年4月28日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2016/05/20 (Fri) 03:36:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>

唯一の善は神のみである - 伝統

2016/05/27 (Fri) 03:51:52


          *『静思集』(P243~244)より抜粋

(1)「善」というのは支那語で本来の日本語ではないのです。
   日本語では善をマコト申します。

(2)神を掴めばそこに誠(まこと)があり、
   善が調(ととの)っているということになっているのであります。

(3)イエスの言った『神の国の義(ただしき)を求めよ』と言った
   其の「義(ただしき)」と云うのは日本語の「誠(まこと)」の
   意味に当て嵌(はま)りましょう。

(4)唯一の「善」は神のみである ―― と私は最初に申しましたが、
   又「神は全ての渾(すべ)てだ」と申しましたが、

   その唯一の善である神、その「全ての渾(すべ)て」なる神に対し
   あなたは『心を尽くし精神を尽くし思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。』
   とイエスが言われたように愛してますかと云うことです。

   『是(これ)が第一であって第二も亦之(これ)にひとし』とまで言って、
   神を愛することが全部であることを強調しておられるのです。
   吾々は先ず神を愛しなければならない。

            <感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>

《すべての事物は結局は最善の結果へ向かう》 - 伝統

2016/06/04 (Sat) 03:05:17


         *『 生長の家 』(昭和25年5月18日の法語)より

   もし吾々がここが神の世界であり、
   凡ゆるものが自分を祝福するために
   共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、

   吾々は 現在目の前に進行している出来事が
   どんな不幸の様に見えても
   それについて思い煩う必要はないのである。

   もし吾が心の平安が害(そこな)われるということがあるならば、
   その瞬間ふりかえりて光明面に心を転じさえすればいいのである。

   それには
   「 すべてのものは 共同作用を営みつつ 吾が善を成就しつつあるのである 」
   と繰り返し繰り返し心に念ずるがいいのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>

唯一の善は神のみである - 伝統

2016/06/14 (Tue) 04:48:26


           *「静思集」(P243~244)より

善(グッド)は神(ゴッド)の別名である。

斯う申しますと、それは英語をもじった言葉の牽強付会(こじつけ)であって、
そんな英語がなかったらどうするとお考えになつかもしれませんけれども、
日本語でも同じことです。

「善」というのは支那語で本来の日本語ではないのです。
日本語では善をマコト申します。

また神をミコトと申します。
マコト ―― ミコト同一語源であります。

だから日本語でも誠即ち善は、命(ミコト)即ち神の別名である
と云うことが出来ます。

そんなら支那語ではそう云う訳には行かぬと言われるかも知れませんが、
「善」と「天」とは発声上同一語源に属する語であって、
儒教では神のことを「天」と云うのであります。

悟りを実現する意味の「禅」と云う語も「善」と同じ発音です。

そのように各国語とも「善」と「神」とは同一語でありまして、
神を掴めばそこに誠(まこと)があり、
善が調(ととの)っているということになっているのであります。

イエスの言った『神の国の義(ただしき)を求めよ』と言った
其の「義(ただしき)」と云うのは日本語の「誠(まこと)」の
意味に当て嵌(はま)りましょう。

(中略)

唯一の「善」は神のみである ―― と私は最初に申しましたが、
又「神は全ての渾(すべ)てだ」と申しましたが、

その唯一の善である神、その「全ての渾(すべ)て」なる神に対し
あなたは『心を尽くし精神を尽くし思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。』
とイエスが言われたように愛してますかと云うことです。

『是(これ)が第一であって第二も亦之(これ)にひとし』とまで言って、
神を愛することが全部であることを強調しておられるのです。
吾々は先ず神を愛しなければならない。

            <感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2016/06/22 (Wed) 03:53:47


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。
今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。
今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 平成28年6月22日 頓首再拝>

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