伝統板・第二

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(4月29日)は「昭和の日」 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 08:28:51

明日の「昭和の日」を迎えるに際し、次の情報を紹介してまいります。


昭和天皇と白川義則大将 ~ いくさとどめしいさを

          *Web:JOG( H27.04.26)より


(1)「爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが」

  昭和7(1932)年4月29日、天長節の式典が上海の虹口公園でも挙行されていた。

  この年、1月29日に第一次上海事変が起こり、白川義則大将率いる上海派遣軍が
  国民政府軍を撃退して、5月5日には国民政府との停戦協定を結ぶ手はず
  となっていた。

  朝からの曇天は細雨となったが、国歌斉唱では公園を埋めた群衆も壇上の代表たちも
  粛然と声をあげた。その時に後方からアルミ製の水筒が壇上に投げ込まれ、
  重光葵大使の足元に落ちた。


     爆弾が投げ込まれたのは分かっていたが、
     国歌斉唱の最中に動くのは不敬であると考え動かなかった。
                    [福富健一『魂の外交官 重光葵に帰れ』]

  と、重光は日記に書いている。
  動かなかったのは、壇上の野村司令官、白川大将なども同じだった。
  火花と爆煙が式台を覆った。

  水筒には爆薬とともに鉄片が練り込まれていた。
  重光公使は左右の下肢に爆傷、全身に多数の弾片傷を受けたが、生命はとりとめた。
  この後は隻脚の外交官として、昭和天皇のアジア諸国との平和・親善の御心を体して
  尽力した。


  白川大将も全身に破片を受けたが、顔面に流れる血をそのままに、
  足下に落ちた軍帽をかぶり、駆け寄った憲兵に「犯人を捕らえよ」と命じた。

  犯人の朝鮮人・尹奉吉は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後で
  自殺を図ろうとした所を検挙された。


(2)第一次上海事変

  この前年、昭和6(1931)年に満洲事変が起こり、関東軍は半年で満洲全土を占領した。
  満洲はもともと満洲族の土地であり、昭和7(1932)年、関東軍により、
  満洲族の王朝であった清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)が執政に迎えられて、
  満洲国が建国された。

  この動きに対して、蒋介石率いる国民政府は日貨排斥運動を全国的に扇動した。
  現代においても数年前に中国共産党が反日暴動を扇動したが、それと同様である。

  さらに、国民政府は日本を非難して、国際連盟理事会に提訴した。
  それに基づき、国際連盟はイギリス人リットンを団長とする調査団を
  3月に満洲に派遣していた。

  満洲事変以来、昭和天皇は国の行く末を心配されて、眠れない夜が続いていた。
  ひとり政務室のなかをぐるぐる歩き回り、大きな声で独り言を言われる。
  そばに侍る侍従たちは、その声を聞き、暗澹たる思いであった。

  昭和7(1932)年1月には、上海郊外に国民政府の十九路軍約3万人が押し寄せた。
  上海の租界には、英米仏伊の居留民とそれを守るための各国軍が駐留していた。
  日本人も約2万7千人の居留民がおり、海軍陸戦隊1千人を駐留させていた。

  日本を含む列国は租界内を共同して警護する事を決めた。

  1月28日午後、日本の警備地区が十九路軍の射撃を受け、90余名の死傷者が出た。
  軍事衝突の発生を受けて、日本側、国民政府側とも援軍を送った。

  日本側は更なる軍事衝突を避けるために、国民政府軍に対し、列国租界から
  20キロ撤退することを要求したが、十九路軍はこれを拒否、
  2月20日に日本軍は総攻撃を開始して、激烈な戦闘が始まった。

  第一次上海事変の始まりである。

  (つづく)

昭和天皇と白川義則大将~その2 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 08:30:25

(3)「お前ならば守ってくれるだろう」

  2月19日には犬養毅首相は上海には増兵しない方針を打ち出し、
  昭和天皇は大変、喜ばれたが、戦火は収まらず、やむなく2個師団の増派が決定され、
  派遣軍司令官に元陸相の白川義則大将が選ばれた。

  事変の拡大を憂えられていた昭和天皇は、国際連盟が3月3日に総会を開く
  と決めたので、「その日までに上海の陸軍をひきあげねばならぬ」と
  侍従武官長に厳命されていた。

  白川大将の親補式が2月25日正午に執り行われた。
  昭和天皇は特に「条約尊重、列国強調を旨とせよ」と指示され、
  さらにこう言われた。


     それからもう一つ頼みがある。
     上海から中国軍を撃退したら、決して長追いしてはならない。
     計3個師団もの大軍を動かすのは戦争のためではなく、治安のためである
     ということを忘れないでほしい。とくに陸軍の一部には、これを好機に
     南京まで攻め込もうとする機運があると聞いている。

            [文藝春秋(編)『大いなる昭和―昭和天皇と日本人』p30]


  「存じております」と答えた白川大将に、陛下が重ねて言われた。


  私はこれまでいくたびか裏切られた。
  お前ならば守ってくれるだろうと思っている。


  白川大将は、このお言葉にはらはらと涙をこぼし、聖旨をかならず守ることを誓った。

  翌2月26日、白川大将は東京を発った。
  3月3日までには、あと6日しかない。


(4)白川大将と重光公使

  白川大将率いる上海派遣軍が3月1日に十九路軍の背後を突く形で上陸すると、
  敵は退却を開始した。

  参謀本部次長からは「あくまで敵を急迫し、徹底的打撃を与えることを期待す」
  という要請が届いており、停戦の雰囲気など毫(ごう)も見えなかった。

  白川大将は重光公使と会うと、余人を遠ざけて、こう伝えた。


     自分が出発前に天皇陛下に拝謁したところ、陛下は自分に対して、
     事態は重大であるから、お前はなるべく早く軍の目的を達して、
     遅滞なく軍を引き揚げて帰って来いと申された。
     この事を貴下の耳に入れておきたい。
       (http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog519.html

  重光公使自身も、1月に帰国して中国の状況について上奏した際に、
  やはり陛下は「上海方面においても、和平を旨とするよう」と言われていた。

  和平を願われる陛下の大御心をいかに実現するか、二人の志は一致していた。

  (つづく)

昭和天皇と白川義則大将~その3 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 08:31:38

(5)「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

  3月3日に現地会議が開かれた。
  午後1時、ジュネーブでは国際連盟総会が開かれる日の朝である。
  重光は姿勢を正して、こう述べた。


     いまわれわれは上海における軍と外交の最高責任者として、
     国家の大事を相談しているわけです。その結果は日本の国運に少なからず
     影響するでありましょう。

     とくに東京の宮中においては、さぞかし天皇陛下はこのことについて
     御心配をされておられることと思います。恐懼に耐えません。


  この発言に白川大将は胸を打たれた様子で、しばしの熟慮の後、
  いきなり立ち上がって言明した。
  「白川は戦争を止めます。停戦命令を出します」

  その口調ははるか東京の陛下に奏上するかのように、聴く者に荘重に響いたという。
  重光公使は「独り心に期するところありしものの如く、遂に参謀等の反対を
  押し切り停戦を断行した」と記録に残している。
   [占部賢志「『桃の節句』の終戦秘話 昭和天皇と白川義則大将」、致知、H24.4]


  陸軍中央からは追撃の指令が次々と届けられていたが、
  司令官の権限をもって、停戦を断行した。陸軍は激怒した。

  午後2時に出された停戦命令により、ジュネーブの国際連盟総会の険悪な空気が
  一挙に好転し、日本は見直されて、日中両国に停戦協議の開始を要請するだけで
  終わった。

  陛下は心から喜ばれて、鈴木貫太郎侍従長に何度も言われた。
  「本当に白川はよくやった」と。


(6)「よかったね。ほんとうによかった」

  停戦交渉は、英米仏伊の4カ国公使の斡旋で、重光公使と国民政府外交部で進められ、
  ほとんど締結寸前まで漕ぎつけていた。

  その矢先に起こったのが、冒頭の爆弾テロであった。

  犯人の尹奉吉は、上海における亡命政権である大韓民国臨時政府の
  首班・金九の指示でテロを行った。
  そして、この組織は国民政府から資金援助を受けていた。

  しかし、この爆弾テロは、日本と国民政府の停戦交渉がまとまりかけた時期に
  仕掛けており、日中の戦闘拡大を狙ったものと考えるべきだろう。

  実は十九路軍は国民党軍を装いながら、実質的には中国共産党が扇動している、
  と日本側は見ていた。

  日本と国民政府を戦わせて共倒れをさせることが、モスクワの指示を受けた
  中国共産党の戦略であった。中国共産党は国民党政府内にも多くのスパイを
  送り込んでおり、十九路軍がその指示で動いていたとしても不思議ではない。

  事件をきっかけに、上海居留邦人の不安がかき立てられ、陸軍の強行派が
  勢いを得るのでは、と天皇も心配されたが、入院中の重光公使が苦痛に耐えながら、
  停戦交渉を進め、5月5日に無事、調印に漕ぎ着けた。

  5月7日、伏見宮軍令部長と真崎参謀次長が停戦協定の成立を上奏すると、
  天皇は晴れ晴れとした笑顔で、奈良武官長にいった。

  「よかったね。ほんとうによかった」

  奈良武官長は、これまでの天皇の心配ぶりを知っていただけに、
  これでご安心いただける、とホッとした。

  (つづく)

昭和天皇と白川義則大将~その4 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 08:32:47

(7)「有難い、まことに有り難い」

  白川大将は病院にて瀕死の床についていいたが、
  5月20日には周囲にこう指示した。

     今度くらい陸海軍の共同作業がうまく行ったことはない。
     このことは、自分が奏上することが出来なくても、
     陛下の上聞に達するように。

  5月23日、陛下から白川大将に勅語が電報で届けられた。


     卿、上海派遣軍司令官トシテ異域ニ在リ、精励克(よ)ク其任務ヲ達成シテ、
     威武ヲ宣揚シ、国際ノ信義ヲ敦(あつ)クセリ。
     朕(ちん)深ク其労ヲ嘉(よみ)ス


  病床の白川は息絶え絶えとなりながらも
  「有難い、まことに有り難い」と幾度もつぶやいた。

  しかし、治療の甲斐もなく、
  両手を胸に、東方を拝したまま、5月26日に絶命した。

  翌昭和8年4月末、白川大将の遺族宅に鈴木侍従長から
  「明日お届けしたいものがありますから在宅願います」と電話があった。

  当時大学生だった長男の白川義正氏が、入院中の母に代わって、
  学生服姿で待っていると、侍従長が一人で来訪した。


    靖国神社を陛下が参拝されたおり、故白川大将を思い出されて歌を詠まれた。
    その歌を持参しました。


  と、侍従長は短冊に墨書された御製(ぎょせい、天皇のお歌)を手渡した。


    をとめらが雛(ひな)祭る日にたたかひをとどめしいさをおもひでにけり

   (「娘たちがお雛様を祭ってお祝いをする日に戦闘を止めた功績が思い出された」
     という意味である。)


  天皇が特定の個人に御製を贈るのは、きわめて異例だ。
  それだけに、昭和天皇の故白川大将への御思いの深さが窺われる。

  (つづく)

昭和天皇と白川義則大将~その5 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 08:33:40

(8)『昭和の日』に思い出したいこと

  こうして白川大将の決断により、第一次上海事変は決着した。
  日中の対決はしばし収まったが、再び戦火が燃え広がったのは、
  それから4年余後の昭和12(1937)年のことだった。

  日本と国民政府を戦わせて共倒れにさせ、共産革命を実現しようとする
  中国共産党の魔の手により、同年7月7日に日本軍が銃撃を受けて始まった
  盧溝橋事件、7月29日に在留邦人260名が惨殺された通州事件、
  8月11日、日本人租界が包囲されて始まった第2次上海事変、
  と矢継ぎ早に挑発が繰り返された。
    [http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog446.html]


  こうして昭和天皇の御祈りもむなしく、
  日本は中国大陸での戦争に引きずり込まれていったのである。

  第一次上海事変を小火で収めることが出来たのは、
  昭和天皇の平和への御心を体した白川大将の軍事統率力と
  重光公使の外交交渉力のお陰だった。

  「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」
  ために設けられた『昭和の日』には、この逸話を思い返してみたい。

     (http://blog.jog-net.jp/201504/article_6.html

             <感謝合掌 平成27年4月28日 頓首再拝>

今日は、「昭和の日」。 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 03:55:57


祝日法には、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、
国の将来に思いをいたす」日と定められています。



「昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ために、次のWebも活用できます。

(1)光明掲示板・第一「昭和の日 (8024)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1500

(2)光明掲示板・第二「《 昭和の日をお祝いする集い 》 4月29日」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1551


             <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

「日本国民が絶対に忘れてはならない昭和天皇の思い」 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 12:49:09

         *『致知』2011年2月号 より
          (対談)伊藤哲夫(日本政策研究センター代表)
              小柳左門(国立病院機構・都城病院院長)

     

小柳 日本国民が絶対に忘れることがあってはならないのは、
   やはり終戦時の昭和天皇のご聖断だと思います。

   マッカーサーと対面された陛下は、
   
   「自分はどうなっても構わない。一切の責任は自分にある」

   とおっしゃって国民を守ろうされた。

   ですから昭和天皇のこのお言葉も、
   長い日本の歴史の中で、それを支えてこられた天皇方の
   責任感の表れではないかと私は思うんです。


   私たちは日本という国が歴史を背負われた天皇を仰いでいることを、
   もっと大事に考えなくてはなりません。


伊藤 私もまったく同感です。


小柳 終戦の時の昭和天皇の御製をご紹介しましょう。


   「爆撃に たふれゆく民の うへをおもいひ
     いくさとめけり 身はいかならむとも」

   「身はいかに なるともいくさ とどめけり
     ただたふれゆく 民をおもひて」

   「国がらを ただ守らんと いばら道
         すすみゆくとも 戦とめけり」


   この三首の連作は侍従次長であった木下道雄さんが
   陛下のお許しを得ないで発表された経緯があるようですが、
   それだけ真実のお言葉なんです。

   この御製に込められた陛下の思いは、
   何としても後世に伝えていかなくてはならないと思います。
   陛下のご決断によって日本民族は救われたのですから。


   三首目に「国柄をただ守らん」とあります。

   この国柄こそが伊藤先生が説明された「国体」であり「徳」なんでしょうね。


伊藤 そうだと思います。


   こうした一貫した「徳」こそが、昭和天皇へと繋がる皇室の伝統なんです。


小柳 「国がらを ただ守らんと いばら道……」。


   昭和天皇が何があっても、守り通さなくてはならないと思われた国柄。


   皇室と民がお互いに心を通じ合わせて
   国を支えていこうという素晴らしい国柄のこと
   ではないかと私は思います。
 

伊藤 この昭和天皇の思いは
   今上天皇にも確実に受け継がれている。


小柳 ええ。

   今上天皇がまだ皇太子殿下でいらした頃、
   美智子皇太子妃殿下とご一緒に沖縄に戦没者慰霊の旅をされました。
 
   ひめゆりの塔の前で花束を捧げておられた時、
   全共闘の学生が突然火炎瓶を投げつけたんです。

   周りの人たちは慌てて皇太子殿下に後ろに下がっていただこうとした。
   
   しかし、皇太子殿下は動こうとはされませんでした。

   逆にそばにいたひめゆり部隊の生き残りの方を
   庇(かば)おうとさえされました。

 
   私は実際のニュースの映像で見ましたが、感動しましたね。


   身を挺して民を守ろうとする歴代天皇の思いが、
   こういう咄嗟の時に出てくるんだと。


伊藤 あの時は皇太子妃殿下も咄嗟に
   殿下を庇おうとされました。


小柳 だから日本の国柄は、西洋の階級闘争史観とはまるで違うんですね。

   民というものは押さえつけるものでは決してない。

   民が幸せであったからこそ国は栄えていくんだ
   という思想が古くからあったことは確かです。


             <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

今日は、「昭和の日」 - 伝統

2016/04/29 (Fri) 12:39:22

今日は、「昭和の日」。

祝日法には、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、
国の将来に思いをいたす」日と定められています。


《昭和天皇とGHQのマッカーサーとの会談時のエピソード》

          *Web「正しい歴史認識」(2007/4/30)より

実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。

「天皇の話はこうだった。

 『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なった
すべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。
  あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』

 ──大きな感動が私をゆさぶった。

 死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、
進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。

 私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」

 (マッカーサー回顧録一九六三年)



天皇とマッカーサーの会見は、はじめ15分の予定だった。

しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は35分にも及んだのである。

会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、
侍従長に渡される習慣になっていた。

会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、
通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。

しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、
次のように著書の中に書いている。

「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。
  文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。

  私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。
  この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』

 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、
マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。

 『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、
世界の歴史にも前例のないことと思う。
  私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、
日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。
  これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。
どうか、よろしくお願い致したい』」

とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18934657.html

・・・

「昭和の日」に振り返る 昭和天皇が送った激動の生涯【画像100枚】
 → http://www.huffingtonpost.jp/2016/04/28/showa-day-2016_n_9802392.html

             <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

【国会議員に読ませたい敗戦秘話】 - 伝統

2016/04/30 (Sat) 16:46:57


東京裁判は、マッカーサーが自らを「極東の統治者」だと演出づけるための政治ショーだった


           *Web:産経ニュース(2016.4.29)より

~敗戦から70年。なぜ我が国は繁栄しているのか?~

雨が降っていた。正確な日時は覚えていない。
旧制湘南中学校の学生だった石原慎太郎(元東京都知事)は、
隣に住む大学生に連れられて東京裁判の傍聴に行った。

父、潔がどこからか傍聴券を手に入れてくれたからだった。

法廷があったのは、大戦中は大本営陸軍部が置かれた
東京都新宿区の陸軍士官学校(現市ケ谷記念館)。

2階の傍聴席につながる大理石の階段を上がると
踊り場で進駐軍の憲兵(MP)に肩をつかまれた。

 「キッド(小僧)!」

大声で怒鳴られたが、何を言っているのか分からない。

大学生が「『うるさいから下駄(げた)を脱げ』と言ってるぞ」と耳打ちした。
仕方なしに下駄を脱ぐと、MPは下駄をけり払った。
石原ははいつくばって下駄を拾い、胸に抱いてはだしでぬれた階段を上った。

 
傍聴席から下を見下ろすと、
被告席にA級戦犯として起訴された被告がずらりと並んでいた。
元首相の東條英機の顔も見えた。

英語なので何の審理をしているのか、さっぱり分からなかったが、
戦勝国が「支配者」として一方的に敗戦国を裁こうとしていることだけは伝わった。

 
あの屈辱感は今も忘れない。


東京裁判の法廷は、ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いた
ニュルンベルク裁判の法廷を模してつくられた。

かつて天皇の玉座だった講堂の正面部分は無残に破壊されて通訳席となり、
判事席と被告席が対面するよう配置された。

 
1946年5月3日から48年11月12日まで続いた東京裁判は、
連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが、
自らを「極東の統治者」として演出するための政治ショーでもあった。

被告席は傍聴席から見やすいよう配置され、
被告の顔が記録フィルムにくっきり写るよう照明は増設された。


45年8月30日、愛機バターン号で厚木飛行場に到着したマッカーサーは、
その日のうちに米陸軍対敵諜報部隊長(准将)、エリオット・ソープにこう命じた。

「戦争犯罪人の逮捕者リストを作れ。そしてまずトージョーを逮捕しろ」

指令を受けたソープは当惑した。
リストを作成しようにも戦争遂行に関与した人物どころか、
日本政府の指導体制や大戦の経緯など基礎知識がほとんどなかったからだ。

もちろん東條の自宅さえ知らなかった。

作業が遅々として進まぬことにいらだったマッカーサーは9月8日にソープを呼び出し、
怒鳴りつけた。

「私の命令が10日間も実行されないのは前代未聞だ。48時間以内にリストを提出しろ!」

追い詰められたソープはふと思いついた。


「そうだ。マッカーサーはトージョーと言っているのだから、
とりあえず真珠湾攻撃を仕掛けたトージョー内閣の閣僚を中心にリストを作ればよいのだ…」

こうしてソープは翌9日に40人近いリストを作成した。
日本軍に協力した元フィリピン大統領やビルマ独立義勇軍のアウン・サン(少将)まで
含まれるずさん極まりないリストだったが、これを基に戦犯容疑者の一斉拘束が始まった。

 
「居所が分からない」とされた東條は東京・世田谷の自宅にいた。
AP通信記者からこの情報を聞いた連合国軍総司令部(GHQ)は、
9月11日にMPを拘束に向かわせたが、東條は直前に短銃自殺を図った。

何とか一命を取り留めたが、その後もGHQの失態は続き、
キーマンとなる人物が相次いで自殺した。

近衛文麿はその象徴だといえる。
37年7月の日中戦争開戦時の首相で、41年の日米開戦直前まで首相を務めた近衛は、
日本の戦争責任を追及する上で最重要人物だったが、どうやらGHQは気づいていなかった。

その証拠に、近衛は終戦後の東久邇宮内閣に国務大臣として入閣し、
45年10月4日にはマッカーサーが直接会って憲法改正を指示している。
この時点では、GHQは従順な近衛に占領政策の一翼を担わせる考えだったのではないか。

近衛は戦犯リスト入りをひそかにおびえていたが、
GHQが相次いで発表する追加リストにその名はなかった。

11月9日には米戦略爆撃調査団から日中戦争の経緯などを3時間も追及されたが、
19日発表のリストにも名前がなかった。

そこで近衛はようやく安堵したようだが、12月6日に突如としてリストに名を連ねた。
近衛は出頭期限の16日、東京・荻窪の自宅で「戦争犯罪人として米国の法廷で裁判を
受けることは耐え難い」と書き残して青酸カリで服毒自殺した。

近衛のリスト掲載が遅れたのは、中国が南京の軍事法廷への引き渡しを要求したこともあるが、
GHQが大戦の経緯を理解していなかったことが大きい。

近衛の自殺により、「軍人だけでなく文官も戦争犯罪人として処罰する」という
マッカーサーの構想はもろくも崩れ、戦争への関与が極めて薄い元首相、広田弘毅が
代わりに処刑されることになった。

×     ×     ×

東京裁判のずさんさは数え上げれば切りがない。
検事団も判事団も戦勝国のみ。

A級戦犯の「平和に対する罪」は終戦近くになって編み出された概念にすぎない。
戦勝国に不都合な被告側の証言は通訳を停止し、記録に残さなかった。

しかも被告の選定には、戦勝国の利害が露骨にからんだ。

1946年4月10日、GHQはA級戦犯26人を確定した。

ところが、遅れて来日したソ連検事団が、日ソ間の協定で解決済みの
張鼓峰事件(38年)とノモンハン事件(39年)を蒸し返し、
元駐ソ大使の重光葵と元関東軍司令官の梅津美治郎の追加をねじ込んだ。

重光が禁錮7年の刑となったことには
首席検事のジョセフ・キーナンにも自責の念があったようだ。

後に重光の弁護人に「重光が無罪になることを期待する十分な理由があり、
有罪となって非常に困惑した」と手紙で吐露している。


そんな戦勝国の一方的な裁判に正面から異を唱えたのが東條だった。

キーナンによる東條への尋問は47年12月31日から48年1月6日まで続いた。

 
キーナン「米国は日本に軍事的脅威を与えたのか?」

東條「私はそう感じた。日本もそう感じた」

東條はこう語り、米国にハル・ノートを突きつけられ日米開戦が避けられない状況だった
ことを縷々説明し、キーナンの「対米侵略戦争論」をはね返した。

東條は尋問直前に提出した口述書でも
「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反せぬ。(略)勝者より訴追せられ、
敗戦国が国際法の違反者として糾弾されるとは考えたこととてない」と主張。

その上で
「敗戦の責任は総理大臣たる私の責任である。この責任は衷心より進んで受諾する」と結んだ。

自らも認めた通り、東條が大戦時の指導者として多くの兵や国民を死なせた責任は大きい。
陸相時代の41年1月に、「生きて虜囚の辱を受けず」の一節を含む戦陣訓を示したことも
非難されても仕方がない。逮捕時に自殺を図ったことも不評を買った。

東條の指導力や先見性にも疑問符がつくが、
GHQが貼った「日本のヒトラー」というレッテルはあまりに酷だろう。

少なくとも東條が昭和天皇を守る盾になる一心で東京裁判に臨んだことは論をまたない。

「日本=侵略国、米国=正義」というGHQの世論操作もあり、
東條の遺族に対する戦後日本社会の風当たりはすさまじかった。

東條の長男、英隆は父親と反りが合わず軍人ではなかったが、
戦後は就職できず、長く妻の内職で生計を立てた。

その長男(東條の孫)の英勝は、小学校では誰も担任を引き受けたがらず、友達もいない。
よく登り棒の上から教室をのぞいて過ごした。自殺を図ったこともあったという。
就職にも苦労したが、「一切語るなかれ」という家訓を死ぬまで守り続けた。

1972年生まれの東條のひ孫、英利も幼い頃から大人の冷たい視線を感じて育った。
小学校の担任教諭は何かにつけて「東條英機のひ孫の…」と接頭語をつけた。

小学4年の時、母親に連れられてドキュメンタリー映画「東京裁判」を見に行った。
被告席で東條が国家主義者の大川周明に頭をポカリと殴られたシーンを見ていると、
母から「あれがひいおじいちゃまよ」と耳打ちされた。

57年に東條英機の妻、かつ子が91歳で死去。
玄関に飾られた曽祖父の軍服姿の写真を見て、
何となく自分の家族の置かれた状況が分かるようになった。

高校では、社会科で世界史を選択した。
授業中に教諭に東條英機の話を振られるのが嫌だったからだ。

「私も多少不快な思いをしたけれど父の代に比べればかわいいものです。
父に『これだけは誇りを持て』と言われたのが、
GHQがいろいろと探したのに不法な金品財宝が一切なかったこと。
おかげで貧乏暮らしでしたが、今は曽祖父に感謝しています」

こう語る英利は、自分の息子の名にも「英」をつけた。
重い歴史を背負う東條家の意地だといえる。

               ・・・

※この文章は、好評発売中の
 「国会議員に読ませたい敗戦秘話」(産経新聞出版)から抜粋しました。 

 産経新聞の東西編集局が特別取材班を組み、
 あまり光があたることのなかった先の大戦末期から現代までの70年の歴史を
 貴重な証言をつむぎながらたどったノンフィクションです。

 (中略)

 国会議員よ、歴史から目をそむけてはならない。
 本書にはこんなメッセージがこめられています。

 (http://www.sankei.com/premium/news/160429/prm1604290006-n1.html

             <感謝合掌 平成28年4月30日 頓首再拝>

東條英機・天皇を守り通した男 - 伝統

2016/05/01 (Sun) 12:58:19


        *『東條英機・天皇を守り通した男』福冨健一・著より

(1)戦争は、その国の育んできた歴史を凝縮する。
   その国のインテリジェンスの総体であり、ヒューマニズムの総体でもある。

   事実、大東亜戦争を戦った東條、ルーズベルト、チャーチルは、
   それぞれの国の最高の教育を受けて育った。

   いいかえれば、東條と向き合うことは、日本の国柄と向き合うことでもある。

   そして東條と向き合うことは、今の日本の素晴らしさを知ると同時に、
   日本の抱える課題解決に向けての示唆を得る手段でもあるのだ。

(2)東京裁判での、静かに証言台に立つ国民服の東條の姿は、
   語らずとも連合国の判事たちを圧倒する迫力を持っていた。
   しかも、その表情には武人のみが到達できる穏やかさと威厳があった。

(3)マッカーサーは、東條証言によって世論が東條に味方し、
   東京裁判が中止に追いやられることを恐れた。

   東條の迫力、器量は、マッカーサーさえも小さく見せたのだった。
   東條の器量は戦いのときは敵を圧する迫力になり、
   しかし、普段は人を包み込む包容力になる。

(4)東條夫妻のように戦犯裁判に立ち向かった人々を調べると、
   そこには日本人の夫婦の原風景があるように思えてならない。

   たとえば、マニラ裁判に立ち向かった本間雅晴中将の妻、富士子も、
   東條かつ子と同じように「Love&Serve」に生きた。

   夫を救うため法廷に立つ和服姿の富士子は、
   法廷にいる判事や弁護人、新聞記者に感銘を与えた。
   法廷で弁護人のコーダー大尉が、富士子に尋ねる。

   「あなたの目に映る本間中将とは、どのような男性でありますか」

   髪を後ろ手に結い、凛とした富士子の姿は、
   女性としての品格さと強さを感じさせた。
   富士子の静かな証言は聞く人に、夫を信じ動じることのない信念を感じさせた。

   「わたくしの主人は、米国では人にして人に非ず、
   と申されているそうでありますが、
   わたくしは今もなお、本間雅晴の妻であることを誇りに思っております」

   「わたくしに2人の子どもがおります。
   娘は今19になりますが、いずれは家庭を持つことになりましょう。
   そのときは本間雅晴のような男性とめぐり合い、
   結婚することを心から望んでおります。
   本間雅晴とはそのような人でございます」

   富士子の証言は1時間余り続けられたが、傍聴席からすすり泣く声が聞こえた。
   そのときの写真を見ると、本間中将は白いハンカチをくしゃくしゃにして、
   目を覆っている。

(5)東條は首相になるや、
   日米交渉妥結に向け天皇のご意志に沿うよう、全霊を傾け邁進した。
   東條は「真摯に平和の道を探求」し、
   これを「陛下も十分お認めになっていた」という。

(6)第二次世界大戦はインテリジェンス戦争でもあり、
   イギリスは大戦中、暗号解読のために3万人もの人員を投入し、
   ドイツの暗号「エニグマ」を解読している。

   国家情報にたずさわる人々は、
   欧米では「ベスト・アンド・ブライテスト」として尊敬される。

   20世紀の戦争史は暗号戦争の歴史でもあり、
   インテリジェンス活動こそが外交史、戦争史の核心なのである。

(7)日本のマスコミは、課題が多い。
   そこには、イギリスのBBC放送のように、
   世界的な視野を持ったニュースキャスターによる
   落ち着いた内容や分析は存在しない。

   日本の報道は、日本国民のみが見ているのではなく、
   世界の人々も見たり読んだりして日本を評価しているのである。

(8)私は、歴史博物館のようなロンドンの街並みを眺めるたびに、
   何世紀ものあいだ変わらずにある、
   冷厳な質感のある街並みに鳥肌の立つような魔性を感じる。

   イギリスの強さは、公式、非公式の国際会議をいつでも開いている
   魔性を秘めた、このロンドンの街そのものにあるのではないかとさえ思う。
   このロンドンで行われている非公式の国際会議こそが、
   外交の前哨戦なのである。

(9)東條は国家の命運を背負い、3度の戦いをしている。

  ①最初の戦いは、「戦争は外交の延長」といわれるように、
   和平のための日米交渉という外交の戦いである。

  ②次は、大東亜戦争。

  ③最後に、東京裁判での戦いである。

(10)アメリカから武器や資金の援助を受ける蒋介石、中国におけるコミンテルンも、
   日米交渉の成立は断固反対であり日米開戦を望んでいた。

   すぐれた諜報組織を持つイギリスのチャーチルは、
   日本が開戦に踏み切ることを事前に知っていた。

   チャーチルは情報官が手を加えた諜報情報ではなく、
   側近のデズモンド・モートン少佐が選んだ、重要文書を原文のまま読んでいた。

(11)特攻隊戦隊長の村岡英夫少佐は、次のように記している。

   「戦中、戦後にかけて、特攻隊員へのいささかあやまった観察は多い。
   特攻隊員とても、すべて生身の人間であり、
   悟りの境地にたったような透徹した死生観は、持ちあわせていなかった。

   死を恐れないなどという者もいなかった。
   ただ、あったものは、祖国が未曾有の危機に直面している現実と、われわれ若者が、
   この祖国と民族の危難を救わなければならないという義務感であったろう」

(12)敗れはしたものの、日本はよく戦ったのである。
   この敗戦の教訓は、本来であれば正当に評価されるべきであろう。

   米英中ソという大国を敵にして3年8ヶ月ものあいだ戦い、
   そして、ドイツのような「無条件降伏」ではなく、
   ポツダム宣言による「条件降伏」で戦争を終えるのである。

(13)古典的名著『大東亜戦争全史』を執筆し、陸軍作戦課長を務めた服部卓四郎は、

   「この大東亜戦争は、もとより深刻な反省と教訓を残している。
   朝野をあげて真剣に検討し、日本再建の方途を誤りなかりしむことが、
   またもって戦争犠牲者に対する供養でもある」

(14)東條の姿を巣鴨プリズンのなかから見ていた笹川良一は、

   「東條尋問のためにキーナン君は馬脚を露し、東條を英雄にした」

   と東條を絶賛している。

(15)また大本営情報参謀で元陸自幕僚長の杉田一次は、

   「東京裁判で最後まで堂々と日本の立場を主張したのは、
   東條元総理ひとりではないか」

   と笹川と同じく東條を賞賛する。

(16)在日イギリス代表部のガスコインは、本国のベヴィン外相に、
   キーナンの東條尋問は失敗であったと報告している。

   「主席検事キーナンの尋問は、最初からまごついていた。
   東條がキーナンを軽蔑しているのは、誰の目からも明らかだった。
   東條は日本の自衛を強調し、戦争を犯罪として裁くことに真っ向から反対した。
   東條は日本人の尊厳を取り戻した」

(17)東京裁判を把握するうえで最初に理解すべきは、
   木を見て森をみずとならないように、
   東京裁判全体の流れを理解することである。

  ①4万8000ページの記録の細かなことを知ることも必要かもしれないが、
   その前に裁判全体の流れを知ることが大切なのである。

  ②判決の多数意見に対する反対意見が出されている。
   そのため、裁判記録はあまりにも膨大であり、
   その全容を把握するには気の遠くなるような作業が必要となる。
   筆者は仕事柄、全10巻の東京裁判速記録を通読している。

  ③結局のところ日本が共同謀議によって侵略戦争や
   残虐行為を行ったという検察側の主張と、

   日本の戦争は自衛の戦争であり、
   共同謀議や組織的な残虐行為などなかったという、
   弁護側の意見の対立なのである。

  ④清貧のダンディズム、清瀬一郎弁護人。
   東條にとって幸運だったことは、清瀬一郎との出会いである。

   清瀬は、東條の弁護を引き受けようと申し出る弁護人がなかなか現れないため、
   陸軍省からの要請もあり、最終的に東條の弁護人となる。

  ⑤東條は、次のように明快に述べている。

   「自分には法廷で述べたいことが3つある。
   一つは、大東亜戦争は自衛のための戦争であったこと。
   二つは、日本の天皇陛下には、戦争についての責任がないということ。
   三つは、大東亜戦争は東洋民族解放のための戦争であったということである」

  ⑥清瀬は日本人弁護団副団長、東條の主任弁護人として活躍する。
   当時、すでに60歳を過ぎ、
   白髪を無造作にうしろに撫でつけた小柄な外見である。

   しかし、裁判にあける清瀬はこの枯淡とした外見とは別人のように、
   東京裁判の矛盾を次々と明らかにしている。
   この清瀬の功績は、今なお日本人として共有すべき貴重な財産といえよう。

  ⑦嶋田海軍大将の補佐弁護人であった瀧川政次郎は、清瀬の活躍を法廷で眺め、

   「清瀬弁護人の冒頭陳述は、
   まことに名優松本幸四郎の弁慶が安宅の関で勧進帳を読み上げたようなもので、
   東京裁判のもっとも華やかな一場面であった」

   と清瀬の法廷での陳述を「弁慶の勧進帳」のようだった手放しで褒めている。

  ⑧東京裁判当時の清瀬の生活は、極端な貧乏生活であった。
   清瀬は長い裁判の日々を古びて擦り切れた背広と、
   古い大きな兵隊靴で市ヶ谷法廷に通い続けた。

  ⑨当時の清瀬の写真を見ると、擦り切れた背広の襟から、内布がはみ出している。
   しかし、どこか遠くを見つめるその姿には、
   凛とした男の生き様があふれている。

   貧しさのなかにも明らかにダンディズムがあることを確信させられる。
   白洲次郎が英国流のダンディズムであるなら、
   清瀬は日本流のダンディズムといえよう。

  ⑩死をためらうことなく受け入れる国民服の東條、
   擦り切れた背広の清瀬、

   すでに戦争は過去のものとなった日本で、
   2人は東京裁判という徹底的に不利な戦場で新たな戦いを続けるのである。

   二人の写真や映像には、
   自分ではなく誰かのために生きるという日本人としての男の生き様、
   時代を超えたダンディズムがある。

  ⑪東條証言の翌日、イギリス駐日代表部長ガスコインはマッカーサーに、

   「東條の証言は、キーナンに完全に勝っています。
   東京裁判に対する世論が心配です」

   と伝える。

   「その通り。極めて心配である」

   東條はキーナンだけでなく、
   マッカーサーさえも窮地に追いやってしまったのである。

   東條を追い詰めようとするキーナンの姿は、
   法廷にいるすべての人の目に東條の引き立て役、単なる脇役と映った。

   キーナンが焦るほどに東條は悠然と答弁し、
   死を覚悟した東條は神々しく輝いていた。

(18)東京裁判の7人の死刑囚に立ち会った花山信勝教誨師は、
   死刑のときの受刑者たちの安らかな心を、
   後年、教え子たちに次のように語っている。

   「死を与えられたとしても、最期の瞬間まで、命を惜しんで、
   与えられた限りの時間を利用して、いうべきことをいい、
   書くべきことを書いて、そして大往生をとげることこそ、
   すなわち永遠に生きる道である」


   また花山は、巣鴨での最初の法話で次のように説いている。

   「人生は、順境だけで終わった人が幸福というわけではない。
   逆境に落ちてはじめて、
   人生の真の意義をつかんだ人のほうがどれほど幸福か知れぬ。
   人生は有限であるが、未来は無限である。
   無限の未来のために、
   有限の一生を有意義ならしめることこそ大切である」

・・・   

《東條英機の口述書(抜粋)》

        *Webより

 口供書は、次のような言葉で締めくくられた。

 「終わりに臨み、恐らくこれが当法廷で述べることのできる最後の機会であろうが、
  私は重ねて申し上げる。われわれとしては、国家自衛のために起つということが、
  ただ一つ残された道であった。

  われわれは、国家の運命を賭した。しかし、敗れた。
  戦争が国際法上、正しき戦争であったかどうかと、敗戦の責任とは
  二つの明白に異なった問題である」

 「第一の問題については、私は最後までこの戦争は自衛戦であり、
  国際法には違反せぬ戦争であると主張する」

 「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。
  私はこれを受諾するのみならず、衷心よりすすんで負荷せんことを希望するものであります」


 東條は、日本の戦争は自衛戦争であり国際法に違反しないと述べる。
 しかし、敗戦の責任はすすんで受け入れるという。

                 ・・・

 事実、マッカーサーは、東條の
 「日本の戦争は侵略戦争ではなく、やむなく行った自衛のための戦争であった」
 という主張を、昭和26年(1951)5月3日、アメリカ議会で認めている。

 「日本人は、もし原材料の輸入が断たれたら、
  一千万人から一千二百万人が失業するのではないかと恐れていた。
  日本が世界大戦に突入した理由は、そのほとんどが安全保障のためであった」


 マッカーサーは、日本の「原材料輸入が断たれた」から、
 つまりアメリカやイギリスなどの行った経済封鎖によって日本は戦争を決意したのであって、
 日本は安全保障のため、侵略戦争ではなく自衛のためやむなく戦争を決意したのである
 と証言している。
 
   (http://tamtam.livedoor.biz/archives/51008567.html

             <感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>

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