伝統板・第二

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臨死体験~ベティ・イーデイさんの場合 - 夕刻版

2015/04/27 (Mon) 18:37:35

        *「死んでわたしか体験したこと」ベティ-・イーディー・著
                     (訳者 鈴木秀子)(P50~54)より

《訳者 鈴木秀子 さんによる紹介》

彼女はモルモンの会員ではない。
アメリカインデイアンの血を受け継ぎ、子供の時カトリック系の寄宿学校に収容され、
その後プロテスタント系のウエスレー派のメソジストのインデイアン訓練学校で訓練を受け、
休みの時などは、ルーテル教会,バプテスト教会にも行っていたと記されている。

この方は1973年11月、子宮の一部を切除するため入院して、病院で手術を受け、
その後体の具合が悪くなり、自分の霊が体から離脱し、ベッド上の自分の死体をながめ、
家族の状況を確かめ、霊の状態で霊界に赴きどのような経験をし、
どのようなことを理解してきたかが記されている。

彼女の経験は,聖書の教えとよく一致し,
興味深い内容を含んでいることから紹介してみたい。

彼女は手術後,病室のベツドに寝ていたときのことを次のように記している



《死んだときの状態》

身体の芯がしだいに冷たくなって、まったく体験したことのない衰弱感がおそってきました。

・・・・・ベッドのそばのコードに手を伸ばして、看護婦を呼ぼうとしました。
しかし、手を伸ばそうにも、身体が言うことをききません。
どこまでも沈んでいくようないやな感じがします。
まるで身体から血液の最後の一滴までしぼりとられていくようです。

ブーンという静かな音が頭の中で鳴っています。
そのままどんどん沈んでいって、最後に身体が動かなくなって死んだようになりました。


《空中をただよっているわたし》

そのとき、エネルギーがみなぎってくるのを感じました。
身体のなかでなにかがポンと軽くはじけたかと思うと、
いきなりわたしの身体から霊がスルリと抜けて、上へ上っていきました。

強力な磁石にでも引っ張られているみたいです。
ああ、これが自由なのだ、それがわたしの第一印象でした。
不自然さはどこにもありません。

ベッドの上の天井のあたりをわたしはただよっています。
無限の解放感にきたっていたわたしは、永遠の昔からずっとこうしていた気がします。

向きを変えてみました。
ベッドに誰か寝ています。
あれはだれかしら、そう思った瞬間、わたしはもう下に降り始めていました。

見習い看護婦の経験があるわたしは、死体は見慣れています。
近寄って顔をのぞくと、その人はもう死んでいました。
よく見ると、それはわたしの死体でした。
ベッドの死体はわたしだったのです。

しかし、びっくりしたわけでもなく、こわくもありませんでした。
ただちょっとかわいそうな気がしただけです。
わたしは以外にも若くてきれいでした。

でも、もうそこに死んでいます。
いままで着ていた洋服を脱いで永遠にどこかにしまいこんだようなものです。
いい服だったのに、残念なことをしたわ。
まだまだ何回も着られたのに。

そういえば,わたしは生まれて初めて自分の姿を3次元で見ていることに気がつきました。
鏡に映った姿ならよく知っていますが,それは平面でしかありません。
不完全な肉体の目とはちがって、霊の目はもっと多くの次元でものを見ることができます。

自分の身体があらゆる方向から、しかも一度に見えてしまうのです。
前からでも、うしろからでも、よこからでも、思いのままです。
そこには、まったく知らなかった自分の姿もありました。

そうした部分が加わって、わたしという人間の全体が見えてきました。
だから、はじめのうちは自分の死体を見てもわからなかったのかもしれません。

新しい体は軽快で動きも自由でしたから、わたしはこの状態がとても気にいりました。
ついさっきまでは手術の痛みがありましたが、いまはまったく平気です。
わたしの身体はどこをとっても完璧でした。

だから、わたしは思ったのです。
「これが本当のわたしだったのね」

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

《死んだときの状況~3人の修道士の訪問》 - 伝統

2015/04/28 (Tue) 19:07:28


        *「死んでわたしか体験したこと」(P54~57)より

自分の死体に注意を戻しました。
わたしが死んだことはまだだれも知らないのです。
ともかく,だれかに知らせないといけない。「

わたしは死んでいる。
でもこの部屋にはそれを知らせる人がいない」、
そう思って部屋から出ようとしたところに、いきなり3人の男の人が現れました。

3人とも薄茶色のきれいなローブを身にまとい、
そのうちの一人はくびの後ろにフードをつけています。
腰には両端をだらりとたらした金色の帯を巻いています。

その3人からは光が射しています。
決してあやしげな光ではありません。
それにわたしの身体からも柔らかな光が射しています。

二組の光がわたしたちのまわりでひとつになりました。
なにもこわいことはありません。

見たところその人たちは、7、80歳くらいなのですが、
どうも時間の尺度がこの世のものとは違っています。
7、80歳どころか、大昔の人といった印象でした。

その3人には、すぐれた精神性と知識と知恵が備わっているようでした。
ローブを身にまとっているのも、そうした徳をわたしたちに伝えるためだったでしょう。
修道士にちがいないわ。だってローブなんか着ているんだもの。
きっと信頼できる人なのよ。

その3人はわたしに話しかけてきました。

わたしたちはあなたといっしょに永遠を「何回も」過ごしてきた、
そんなことを言っています。

なんだかよくわかりません。なんのことを言っているのかしら、
永遠だなんて、まして、永遠を何回もだなんて。
永遠といえば未来のことに相場がきまっているのに、この3人は、
永遠を何度もわたしといっしょに過してきただなんて過去の話ををしているのです。

よくわかりません。そのときです。
わたしの心にはるか昔の映像が浮かんできました。

この世で生を受ける前のわたしの姿や、この人たちとの「その当時」の関係など
が浮かんできたのです。

そうした光景が心のなかに映し出されていくにつれ、たしかにわたしたちは永遠を
「何回も」も過ごしてきた仲で、お互いによく知っていることがわかってきました。

生まれるまえの人生のできごとがわたしの心のなかで結晶をはじめました。
人の死とは,永遠のいのちへ生まれ変わることだったのです。
永遠のいのちとは、時を超えてまえにもうしろにも伸びている知恵と知識の
いのちなのです。

ここにきてくれた3人は、わたしの永遠のいのちのなかでも大の仲良しだった人たちです。
わたしといっしょにいることを選んでくれた友人です。

この世の人生で、この3人が中心となってわたしの守護天使となってくれていました。
なかでもこの3人はわたしには特別の存在で、「奉仕の天使」の役も努めて
くれていたのです。

わたしの死ぬときはまだ来ていません。
この3人はそういっていました。
すべて大丈夫だから何も心配はありません、そうも話してくれました。

心配することはないんだと思うと、わたしもその3人の深い愛と思いやりが
感じられるようになりました。こうした感情と思考は,お互いの霊をとおして、
理性から理性へと伝えられていきました。

はじめのうちは、その人たちも口でしゃべっているとばかり思っていました。
だって、これまで「口」でしゃべる人しか知らなかったのですから。
そのうち会話のスピードが速くなって、完全なものになっていきました。

それは「純粋認識」という方法なのた゜そうです。
わたしたちの言葉でいちばんそれに誓い言葉はテレパシーですが、
それでもまだ言い尽くせません。

その3人の心の動きや意思をわたしたちは直接感じています。

その人たちの愛をわたしは直接感じています。
3人の感情をわたしは直接体験しています。
わたしはうれしくてたまらなくなりました。

だって、あの人たちはわたしのことをあれほど愛してくれているのですから。

いままで使っていた肉体の言葉は本当に幼稚です。
感情をあらわすのに使っていた昔の能力は,この霊的に純粋な会話能力と比べたら
まったく無力としか思えません。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月28日 頓首再拝>

《残された家族》 - 伝統

2015/04/29 (Wed) 18:21:27


        *「死んでわたしか体験したこと」(P59~61)より

(彼女は、家族が心配になり、彼女の霊は家に飛んでいて家族を見ていた。)

主人がいます。お気にいりのひじかけ椅子で新聞を読んでいます。
子供たちは階段を昇ったり降りたりしています。
寝る前のしたくをしているのです。まくらを投げあっている子供が二人、
寝る前の我が家はいつもこうでした。

わたしは家族と話がしたかったわけではありません。
わたしのいない生活がどんなものか、ただそれが知りたかっただけなのです。
家族の一人一人をじっくり観察してみました。

それぞれの人生の予告編がわたしの心の中に写し出されていきました。
この世でわたしの家族は自分の人生をそれなりに歩んでいくことがわかりました。

子供たちは「わたし」の所有物だと思っていたのですが、実はそれは間違いでした。
一人一人がわたしと同じように独立した霊で、
この世に生まれてくる前からすぐれた知性が備わっていたのです。

そして一人一人に与えられた自由意志で、自分の人生を選んでいくのです。
子供たちの自由意志を否定することはできません。
わたしはただ子供たちをあずかっていただけだったのです。

子供達にはそれぞれの人生のスケジュールが用意されています。
そのスケジュールを終えてしまうと、子供たちもこの世の滞在を終えるのです。

子供たちがこれから体験することになる試練や苦難の数々を、
わたしはさきにこの目で見てしまったのですが、
みんな子供たちの成長に必要なものばかりでした。
ですから悲しんだり、心配する必要はありません。

結局のところは子供達はみんな大丈夫なのですから、
それはわたしたちが再会するまでの、ほんのひとときにすぎません。
まるで平安の海にひたっているようです。

わたしの主人、そして最愛の子供達、わたしの昔からの夢だった
この家族は、みんなだいじょうぶです。
みんな、ちゃんとやっていける。
だから、わたしもだいじょうぶなのです。


《死んだわたしはどこへ行くの》

それがわかってほっとしました。
そんことを教えてもらえたのは、私がうしろ髪を引かれずに
死をとおりこせるようにとの配慮なのでしょう。

今度は、自分のいのちのことがとても気になって、なにがわたしを待ちうけているのか
知りたくてたまらなくなりました。わたしは病院に引き戻されました。
あっというまのことでした。

左手の1メートルほど下にベッドが見えます。
そこにはまだわたしの死体があります。
3人の友人もまだそこにいます。
わたしを待っていてくれたのです。

その3人はわたしを助けることに愛と喜びを感じている、
このときもわたしはそう感じました。

その3人の豊かな愛に満たされながら、旅立ちのときがきたことがわかりました。
親友の修道士たちとは、いっしょに行けないこともわかっていました。

せきたてるような音が聞こえてきます。


(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月29日 頓首再拝>

《トンネル》 - 伝統

2015/04/30 (Thu) 19:43:13


        *「死んでわたしが体験したこと」(P62~64)より

すさまじいエネルギーのなかに身を置けば、そのエネルギーの存在がわかります。
わたしのまわりにはエネルギーがありました。

せきたてるような音が地響きをたてて病室いっぱいにとどろいています。
その背後には有無を言わさぬ力があります。
しかし、そのすさまじい音と力のなかで、わたしはまた楽しい気分になってきました。

チャイムが鳴っています。
もしかしたら遠くの鈴の音かもしれません。
とても控えめな音でした。

その美しい音色は忘れることができません。
暗闇がわたしを包みはじめました。

ベッド、ドアのわきの常夜灯、そして病室がぼんやりしてきました。
そのとたんに、わたしはふわりと引き上げられて、
回転する巨大な暗闇に包みこまれてしまいました。
巨大な竜巻に飲み込まれてしまいました。

《死の陰の谷》

巨大な竜巻に呑みこまれてしまったみたいです。

目の届くかぎり、ただ果てしない暗黒が広がっています。
手を伸ばせばさわれそうな暗闇です。
光がなく暗いといった程度の暗さではありません。

それは、これまでまったく経験したこともない濃密な暗黒でした。
常識では、わたしは怖気づいていて当然でしたし、少女時代の恐怖が一気に表面化
してきてもおかしくなかったのですが、この暗黒の広がりのなかにいながら、
わたしはそのここちよいおだやかさに心の底から喜んでいました。

どうやらわたしはその暗黒のなかを前に進んでいたらしいのです。
回転した音はしだいに遠のいていきました。

わたしはリクライニングの椅子にもたれた姿勢で、足早に、こころもち頭をあげています。
光の速さでも測れそうもないほどの信じられない速度です。
その一方で,平安と静けさが増しています。

できることなら、このすばらしい状態にいつまでもひたっていたい、そんな気がしました。
そこにいたければ、わたしはそうすることもできたのです。

わたしのほかにも同じ旅をしている人がいます。
いろいろな動物もいます。
でもここからはだいぶ距離があります。

そうした人たちの姿はわたしの目に見えませんが、
みんなわたしと同じ体験をしていたのです。

個人的なつながりもないし、危害を加えてくるようすもないので、
そのうちわたしの意識から消えていきました。

それでも、わたしのように前に進む一方の人ばかりではなくて、
なかにはこの居心地のよい暗黒の中でぐずぐすしている人たちもいます。
そうした人たちは、まえに進みたくないか、単に進み方がよくわからないかの
どちらかなのです。恐れがあったからではありません。

癒されている感じがします。
回転する巨大な空間には愛があふれています。
わたしはそのぬくもりと暗黒のなかに埋まっていきました。

そして、なんお心配もない安けさのなかで喜んでいました。
そうだわ。「きっと、ここが死の陰の谷にちがいない」

これほどの静けさをわたしはかつて味わったことがありません。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年4月30日 頓首再拝>

《光に抱かれて》 - 伝統

2015/05/01 (Fri) 17:49:00

        *「死んでわたしが体験したこと」(P65~68)より

遠くに一点の光が見えてきました。
まわりの巨大な暗黒がトンネルの形になっていきます。
わたしはそのトンネルのなかを光に向かって猛烈なスピードで進んでいます。
本能的にその光に吸い寄せられているような感じがします。

でも、吸い寄せられてはいない人もいるらしい、そんな気がまたしました。
近づくにつれて。光の中心部に男の人の姿が見えてきました。
光はその人から射していたのです。

もっと近づくと、光が輝いてきました。
それは、ことばでもはもはや表現できないほどの強烈な光で、
太陽をいくつ集めてもその光にはかないません。

人間が肉眼でそれを見てしまったら、目がつぶれてしまいます。
霊の目でなければ、正視はおろか目を向けることさえできません。
近づきながら私は「気をつけ」の姿勢になっていました。



《救い主・イエス様》

その人は身体のまわりが金色の光で輝いています。
まるで全身から後光が射しているようです。
その人から出た金色の後光は、荘厳な白い光の帯となって周囲へ広がっています。

その光はわたしの光と溶けてしまいそうです。
どうやらわたしの光がその人の光にたぐりよせられているみたいなのです。

(中略)

その人の光はわたしの光と比べものにならないほど明るく輝いています。
でも、わたしの光もあたりを照らす役をしています。

二人の光がひとつに合わさったとき、わたしはその人の身体のなかに
本当に飛び込んでしまったかと思いました。
そこからは愛が奔流のようにわきでていました。

それは完全に無条件の愛でした。
これまでそんな愛に触れたこともありません。

両手を大きく広げてわたしを迎えいれてくださっているその姿を見て、
わたしはその方のところに行って、思いっきり抱きしめてもらいました。

わたしは同じ言葉をただ繰り返すだけでした。
「わたしの家、ここがわたしの家。やっとわたしは家に帰れたのね」
この方の偉大な霊が伝わってきます。

そうです、いつもわたしはこの方といっしょだったのです。
この方のもとを離れるようなことは一度だってなかったのです。
おそばにいて、この方を抱きしめることがわたしには許されています。

この方はわたしのすべての罪やとがをご存じでしたが、それもいまは問題ではありません。
この方はただわたしを抱きしめて、御自分の愛をわたしにくださろうとしておられたのです。
わたしもこの方に自分の愛をさしあげたくなりました。

この方はどなたなのか、尋ねるまでもありません。
この方こそ、わたしの「救い主」わたしの友達、わたしの「神さま」です。
この方こそイエス・キリストです。

イエスさまは、わたしのことをいつも愛しておられます。
自分は神に憎まれていると思っていたそんなわたしのことを、
イエスさまは愛していてくださったのです。

「いのち」そのもの「愛」そのものであるお方。
このお方の愛でわたしはあふれるばかりの喜びに満たされました。
この世に生まれる前のずっと昔から、わたしはこの方のことをよく知っていました。
わたしの霊はこの方を覚えていたのです。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

《イエスさまは知識そのもの、真理そのもの》 - 伝統

2015/05/02 (Sat) 18:49:04


        *「死んでわたしが体験したこと」(P70~72)より

次々に疑問がわいてきました。
どうしてわたしはあんなふうに死んでしまったのかしら。

早すぎたのはともかく、再臨がまだこないうちにわたしの霊が
イエス様のもとにきてしまったのは、なぜなのかしら。

この期におよんでも、わたしは少女時代に教わった知識にまだこだわっていました。
そのとき、この方の光がわたしの心に注ぎこまれてきました。
すると、質問がまだ終わらないうちに、
こうしたわたしの疑問はすっかり答えられてしまいました。

この方の光は知識だったのです。
その光には、あらゆる真理でわたしを満たす力がありました。

なにも疑わずに、光がわたしのなかに注ぎこむにまかせるてみると、
頭で考えるよりも早く質問が浮かんでくるようになりました。
そして、質問が浮かんだその瞬間に答えが与えられてしまうのです。
しかもその答えは完全無欠なものでした。

死を恐れていたわたしは、死を誤解して、勝手なことばかり想像していました。
お墓は霊のためにつくられたものではなくて、
たんに肉体のためのものでしかなかったのです。
それを誤解していたからといって、罰せられるというわけではなさそうです。

生きておられる真理そのものの御方がわたしたちの過ちをつぐなってくださるのです。
この方こそ「神の一人子」です。ご自身が神であられるのに、天地創造のはるか昔から
わたしたちの「救い主」となることをお選びになったお方なのです。

天地万物の造り主としてのこの方の役割が納得できました。
この方の使命は、この世においでになって、
わたしたちに愛を教えてくださることだったのです。

これも納得したというよりも、思い出したというほうが当たっています。
生まれる前のはるか昔のことがらが、わたしの心によみがえってきました。

産声をあげたその瞬間に、なぜか忘却という「ベール」で隠されてしまったことがらが
よみがえってきたのです。

こちらから一方的に質問攻めをしているうちに、
この方のユーモアのセンスに気がつきました。

イエスさまはおかしくてたまらないというようすで、「もっと落ち着いて」だとか、
「知りたいことはなんでもわかるのだから」と声をかけてくださいました。
しかし、わたしは初めから終わりまでともかくすべてのことが知りたかったのです。

知りたがり屋だったわたしは、両親にも主人にもいつも頭痛の種になっていました。
自分でもやっかいだと思うようなときがありました。
でも、いまはそrふぇが祝福となっています。

なんでも自由に学べるすばらしさに、心がときめいています。
だって、わたしは先生のなかの先生に教えてもらっているのだから。
どんなにたくさんのことも、ほんの一瞬でわかってしまいます。

まるで、1回見ただけで1冊の本の内容が全部わかってしまうようなものです。
静かに椅子に腰をかけているだけで、本が自分のほうからその内容をことこまかに
明らかにしてくれると言ったらいいかもしれません。

初めから終わりまで、なにもかも、あらゆるニュアンスや言いたいことのすべてが、
すっかりわかってしまうのです。しかも、それは一瞬のできごとです。

(中略)

宇宙の神秘といった問題でも、ただそのことを頭に浮かべただけで、
すべてがわかってしまうのですから、われながら驚いてしまいます。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年5月2日 頓首再拝>

《いろいろな宗教があるのはなぜか》 - 伝統

2015/05/03 (Sun) 19:43:35


        *「死んでわたしが体験したこと」(P73~74)より

世の中にはどうしてあれほどたくさんの教会があるのでしょう。
どうして神様は教会をひとつだけになさらなかったのでしょう。
宗教だって本物一つでよかったのに、
するとまったく疑問の余地のない答えが返ってきました。

わたしたち人間は霊的な成長と理解という点で一人一人異なったレベルにあるというのです。
ですから、人間の霊的な知識も人によってレベルが異なっているのです。
すべてこの世の宗教には存在理由があります。
さまざまな宗教を必要とする人がいるからです。

宗教によっては、神の福音がぼんやりとしか伝わらないものもあります。
場合によっては、福音とはまったく無縁の宗教もあります。

ところが、そうした宗教も、まことの知識に近づくための
足がかりとして用いられているのです。おそらくどの教会でも,他の教会では
満たすことのできない霊的な要求を満足させているはずです。

どんなにすぐれた教会だとしても、一つの教会がすべての人の要求を
すべてのレベルにわたって満足させることはできません。

神について、そして自分の永遠の成長についていろいろなことがわかってくると、
その人はいずれ自分の教会の教えに満足できなくなって、また違った哲学や宗教を求めて
その空白を埋めようとします。

こうしたことが起こるのは、その人の霊的な理解がいちだんと深まったからなのです。
そして、さらに真理と知識を深めようと、成長への新たな手がかりを求めるのです。
そうした歩みの一歩一歩に、新しい知識を得るための手がかりが備えられています。

してみると、教会や宗教についてあれこれ批判する権利など、
そもそもわたしたちにはなかったのです。
神の目から見れば、すべてのものに重要な意味があります。

たいせつな使命を負った特別に選ばれた人たちが、あらゆる国、あらゆる宗教、
人生のあらゆる局面に備えられ、隣人に働きかけています。

すでに福音は十分に伝えられているのですが、その福音に接することのできない人たちが
この世にはまだたくさんいます。この真理を自分のものとするには、聖霊に耳を傾けて、
自我を捨てるようにしなければなりません。

(つづく)

           <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

天地創造と天父とイエス・キリストの関係 - 伝統

2015/05/06 (Wed) 18:47:33


        *「死んでわたしが体験したこと」(P74~77)より

わたしは人生の目的を教えてもらおうと思いました。
わたしたちは,なぜこの世にいるのでしょう

イエス・キリストの愛を全身で浴びていたわたしには、
このすばらしい天国を自分から捨ててしまおうとする霊がいるなんて、
どうしても信じられません。

ここ天国には訪れてみたい世界がたくさんあります。
まったく新しい考え方があります。
そして、まったく新しい知識があります。

天国からいただくそうした一切のものを自分から捨ててしまおうという人たちは、
いったい何を考えているのでしょう。
この世にもどりたいと思うような人が本当にいるのでしょうか。

その答えとして、わたしは天地創造を「思い出す」ことになりました。
わたしの目の前で天地創造のようすが再現されていったのです。
それは重要な意味がありました。

イエスさまは、わたしが天地創造の知識を自分のものにすることを望んでおられました。
天地が創造されていく間、自分がなにを感じていたのか、
それをイエスさまはわたしに思いださせようとしておられたのです。

その唯一の方法が、天地創造の場面をわたしに見せて、
昔わたしが感じたとおりにもう一度「感じさせる」ことだったのです。

生まれる前の世界で霊的な存在だったわたしたちは、
一人のこらず天地創造に参加していたのです。
参加していたわたしたちはみんな感激で胸を震わせています。

わたしたちは神さまとともにいます。わたしたちを造られたのは神です。
わたしたちは、自分が神ご自身の子供だということを知っています。
神はわたしたちの成長をお喜びになり、わたしたち一人一人をこよなく愛しておられます。

そこにはイエス・キリストもおられます。
驚いたことに、イエスさまは神とは別の人格で、
ご自身の聖なる目的をもっておられました。
そして神がわたしたちみんなの「おとうさま」だったのです。

プロテスタントとして育ったわたしは、父なる神とイエス・キリストは
一つの存在と教わっていました。一カ所に集められたわたしたちに、
父なる神さまが説明してくださいました。 

この世にしばらく行くことは、
わたしたちの霊的な成長にプラスになると話してくださったのです。

この世に行く予定の霊たちは、人間をあとで支配することになる滅びの法則をはじめ、
この世のいろいろな環境づくりにいそしんでいます。

たとえば、だれでも知っている物理法則や、肉体の限界、わたしたちのなかに秘められた
霊的な力など、こうした環境づくりの手伝いをしています。
わたしたちは神様の助手として、この世の植物や動物のいのちを創っていたのです。

すべてのものは、まず霊的なもので創られ、それから物質的なものになっていきます。
太陽系、太陽、月、恒星、惑星、惑星上の生物、山、川、海、
みんなそうして造られていきました。

天地創造の場面をわたしは見せてもらったのです。

ところが救い主なる神は、わたしたちの理解がもっとふかまるようにと、
こんな話をしてくださいました。

霊的な創造は写真の焼き付けのようなものだと言われたのです。
霊的な創造を鮮明な陽面とすれば、この世に存在するものはその陰面です。
この世のものは美と栄光に輝く霊的な創造の影にすぎません。

しかし、その影にすぎないものがわたしたちの成長に必要でした。
わたしたちが力を合わせて、ともにこの世の環境づくりを手伝ったという、
その事実を知ることがわたしには重要だったのです。

           <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

《わたしたちの中での霊・肉の戦い》 - 伝統

2015/05/07 (Thu) 20:17:28


        *「死んでわたしが体験したこと」(P77~80)より

この世で創造的な思考と呼ばれているものは、多くの場合、目に見えない
インスピレーションに根ざしています。重要な発見とか技術的な進歩にしても、
その多くのものが霊的な天才の手によって創られています。

そのあとで、この世のインスピレーションを受けた人間がそれを発見していくのです。
霊の世界と肉の世界のあいだにはダイナミックな生きた関係があります。
人類が進歩するには、向こうの世界の霊が必要です。

霊は、そもかく人間の世界の役に立つことが大好きなのです。

生まれるまえの世界いたとき、わたしたちは自分の人生の使命を知っていたばかりか、
その任務にみずから志願していたのです。その任務がなにを目的とするかによって、
自分の人生の役回りも決められていました。

(中略)


家族や友人など親しい隣人は,わたしたちの使命の達成を手伝ってくれる助け手です。
わたしたちには隣人の助けが必要です。
わたしたちは自分で手をあげてこの世にやってきました。

わたしたちのために神が創られたものを学んで体験しようと、みんな懸命になっています。
この世に来る決心をしたわたしたちは、みんな勇敢な霊でした。

この世ではどんなにだらしなさそうに見えたとしても、
霊の世界では強くて勇敢な霊だったのです。

わたしたちにはこの世で行動するための力が与えられています。
みずからの行動でわたしたちは自分の人生の進路を決めています。
いつでも好きなときに,自分の生き方を変えて、人生の進路を変更することができます。

わたしは大切な原理に気がつきました。それは、わたしたちのほうから神さまに
御願いしないかぎり、神様のほうからはわたしたちの人生に介入なさらないという
神ご自身のお約束があることです。

しかも全知全能の神は、わたしたちが正しいことを願うようになるために力を貸して
くださっています。ありがたいことに、わたしたちには自分の自由意志をあきらかにして、
それを実現していく力が与えられています。

わたしたちには大きな喜びを手にすることもあれば、逆に悲しみにくれることもあります。
選択しているのは、その判断をしたわたしたちなのです。

 
この世がわたしたちのふるさとでも生まれ故郷でもないことがわかって、ほっとしました。
この世は一時の訓練の場所にすぎなかったこと、罪は自分自身本来の性質ではなかったこと、
そうしたこともわかってうれしくなりました。

わたしたちの霊的レベルは人それぞれで、置かれている光の段階、知識の水準も
人によってさまざまです。神に似た霊の性質をいただいているわたしたちは、
良いことをしたいという思いであふれています。

ところが、肉の自我がいつも霊の自我に逆らっているのです。
肉の体はなんと弱いものかがわかります。
肉は弱いのですが、実にしたたかです。

霊の体は光と真理と愛であふれています。
しかし肉に打ち勝つためには絶えず戦い続けなければなりません。
その戦いが霊を強めていくのです。

まことの成長をとげた人は、肉と霊の間に完全な調和が生まれています。
そして調和が生まれると、恵みとして平安が与えられ、隣人を助ける力が与えられるのです。

           <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

《愛が最高のもの》 - 伝統

2015/05/08 (Fri) 18:35:30


        *「死んでわたしが体験したこと」(P80~83)より

創造の法則のもとで生かされているわたしたちは、
その法則を自分のためにどう活用すべきかを学んでいます。
わたしたちをとりまいている創造的な力とどう調和して生きていけばよいか、
それをわたしたちは学んでいるのです。

神はわたしたち一人一人に異なるたまものを与えられました。
多くのたまものをいただいたものもいれば、ほとんどもっていない者もいます。
たまものはわたしたちの必要に応じて与えられています。

こうしたたまものを使いながら、わたしたちは創造の法則をよりよく理解して
その法則とともに生きる術を学び、肉のいのちの限界を克服していく方法を学んでいるのです。

こうした法則がわかってくるにつれて、
自然にまわりの人たちに仕えることもできるようになります。

この世というはかない世界で、たとえ自分がひとかどの者になったとしても、
それが隣人のためでなければ、なにも意味がありません。才能やたまものが
わたしたちに与えられているのは,隣人に仕えるためだったのです。

隣人に仕えながらわたしたちは霊的な成長をとげていくのです。

なによりも愛が最高のものだったのです。
たしかに愛がなければ、わたしたちはなにものでもありません。

わたしたちがこの世に生かされているのは、お互いに助け合い、
お互いの世話をして、相手を理解し、許し、そして仕えるためでした。
わたしたちがこの世に生かされているのは、この世で生を受けたすべての人を
愛するためだったのです。

この世の人間には、黒人や黄色人種や褐色の肌をした人などがいます。
ハンサムな人、みにくい人、やせた人、ふとった人、金持ち、貧乏人、
頭のよい人、わるい人のように、さまざまな人がいます。

しかし、そうした外見で人を判断してはいけません。
霊にはそれぞれの器が備えられていて、その器を愛と永遠のエネルギーで
あふれさせなければなりません。

そもそものはじめから、ひとつひとつの霊には定まった量の光と真理が与えられています。
あとでわたしたちがそれを豊かに成長させていくのです。
霊がどのくらい成長したかは、人間には計ることができません。
ただ神だけが人間の心を知っておられ、神お一人が正しく判断をくださるのです。

神はわかたりの霊を知っておられます。
人間にわかるのは、一時的な強さや弱さでしかありません。
わたしたち自身の限界のために、人間には人の心のなかがほとんどわからないのです。

なんであれ、愛をあらわすことがたいせつです。
ほほ笑んであげること、励ましの言葉をかけてあげること、
少しでも人のためになにかしてあげることがとてもたいせつです。

こうした行動がわたしたちを成長させてくれるからです。
すべての人を愛することはなかなかできません。
しかし、どうしても愛せないような人に出会ったときは、
たいがいそうした人がわたしたちのなかの思わしくないものを
思い起こさせているのです。

自分の敵を愛して、怒り、憎しみ、嫉妬、敵意、人を許さない気持ちを捨てさりなさい。
わたしたちはそう教わってきました。
こういうものが霊の調子を狂わせてしまうからです。

どういうふうに隣人と接していたのか、
わたしたちはあとでその責任を問われることになります。

           <感謝合掌 平成27年5月8日 頓首再拝>

神は愛なり、わたしたちはみんな必要な場所に置かれている - 伝統

2015/05/09 (Sat) 19:36:33


        *「死んでわたしが体験したこと」(P83~85)より

天地創造の計画を知らされたわたしたちは、
喜びの歌を歌い、神の愛で満たされていました。

この世でわたしたちが成長していく姿や、
わたしたちが交わしあった喜びの約束を見せてもらえたので、
とてもうれしくなりました。

それから地球が造られていくようすを見ることになりました。
そこには霊的な兄、妹たちが順番に自分の肉体の中に入っていって、
苦しみと喜びを味わいながら成長している姿がありました。

アメリカの開拓者たちの大陸横断のようすがとくに印象に残っています。
難事業に堪えて、自分の使命を達成した開拓者たちが歓喜の声をあげています。
その体験を必要とした人たちだけが、その場に置かれていたのです。

天使は、試練を耐え抜いて成功した人たちのことを喜び、
試練に負けてしまった人たちのことを悲しんでいます。

負けてしまった人たちのなかにも、自分自身が弱かったために負けた人もいれば、
他人のせいで負けてしまった人もいます。

わたしたちが開拓者にならなかったのは、きっとその仕事に不向きだったり、
開拓者魂を汚すような者になっていたか、あるいはまわりの人に迷惑をかけて
しまう可能性があったからなのでしょう。

それと同じように、開拓者の人たちもそうですが、別の時代に遣わされた人たちの
なかにも、現代の試練にはきっと耐えられなかった人もいたはずです。

わたしたちはみんな必要な場所に置かれているのです。

こうしたことのすべてがわかって、
わたしは神の完全なご計画を理解することができるようになりました。

この世で自分がおかれている立場や環境は、
実はわたしたちがみずから志願したものだったのです。

しかも、想像以上の助けを神からいただいていたのです。そこには神の無条件の愛、
この世の愛をはるかに超えた神の愛が、一人残らずわたしたち神の子供全員に向けて
神ご自身から降りそそがれていました。

そしてわたしたちのそばには天使たちがついていてくれて、
わたしたちが使命を達成するのを助けて,その喜びをともに喜ぼうと
待機しているのです。

そして最後のとどめが、イエスさまです。
万物の創造主、世の救い主、そしてわたしたちの友だち、
イエスさま以上に親しい友だちを、だれももつことができません。

イエスさまの腕に抱かれてなぐさめられているだけで、
わたしは喜びのあまりとろけてしまいそうです。

やっと自分の家に帰ってきました。
わたしの力のなかにあるすべてのもの、わたしの過去の一切のものを
すべてさしあげます。だから、もう一度その愛で満たしてください。

どうか、イエスさまのその永遠の光の腕のなかでわたしを抱きしめてください。


           <感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>

法則 - 伝統

2015/05/10 (Sun) 17:43:58


        *「死んでわたしが体験したこと」(P86~88)より

わたしは主の光のなかにいます。主の光のぬくもりが全身に降りそそいでいます。
自分がどこにいるのか、まわりはどんなところなのか、ほかにも人がいるが、
そういったこともまったく気になりません。

主は、わたしが見るものすべてをご覧になっています。そして、この目で見て
理解したものをことごとくわたしにくださいました。


わたしは主の光の中にいます。
問答はさらに続けられました。

このときには対話のスピードも速くなって範囲も広がっていましたから、
ありとあらゆることがテ-マになりました。

ふたたびわたしの心がこの世で人間を支配している法則のほうに向っていくと、
主の知識がわたしの中に注ぎこまれてきました。
主はとても喜んでおられます。わたしとの語らいを楽しまれているようでした。

人間を支配している法則には、霊的な法則、物質的な法則、宇宙の法則など、
たくさんの法則のあることがわかりました。
こうしたことをわたしたちはうすうす感じてていただけだったのです。

こうした法則が創られたのは、一つの目的を果たすためでした。
すべての法則が互いに補いあっています。

そうした法則を理解して、その前向きの力と後ろ向きの力を使いわけていくなら、
理解を超えた力にも近づけるようになります。こうした法則の一つにでも違反して
自然の秩序に逆らうときに、わたしたちは罪を犯すのです。

すべてのものは霊的な力によって創られています。
被造物をつくりあげている元素や分子はすべて、そのなかに知性が組みこまれて
います。その知性は霊といのちであふれているので、歓びを味わうことができます、

そうした元素はおのおの独立して動きながら、周囲の法則や力に反応しています。

神がことばをかけられると、その元素も反応します。
そして喜んで神の言葉に従っていきます。

この自然の力と創造の法則を使って、キリストは地球を造られたのです。

           <感謝合掌 平成27年5月10日 頓首再拝>

自分の肉体に罪を犯しているわたしたち - 伝統

2015/05/11 (Mon) 19:48:46

        *「死んでわたしが体験したこと」(P88~89)より

人間を支配している法則に正しく従って生きていけば、
わたしたちは豊かに祝福されてさらなる知識に恵まれるようになります。

ところが、こうした法則に違反して人間が「罪」を犯すようになると、
これまでに築いてきたものが揺らぎはじめ、ついにはすべてが崩壊してしまいます。

罪には原因と結果があります。
自分の行いが原因になって、みずから罰を与えているようなことがよくあります。

たとえば、人間は環境を汚染していますが、それは地球に対する「罪」なのです。
その結果、わたしたちは、いのちの法則を無視した当然の帰結を
刈り取ることになります。

わたしたちは、自分の行ないのせいで健康を害したり、死んでしまったりします。
また、わたしたちの行ないが隣人の健康を害したり、死に至らせてしまうことも
あります。


肉体に対して犯す罪もあります。
過食や拒食、運動不足、麻薬中毒(肉体によくないものはすべてそうです)など、
肉体を弱めてしまう行ないです。

こうした肉体に対する「罪」はどれがいちばん重いということはありません。
わたしたちは自分の肉体に責任を負っているのです。


霊はみんな自分の肉体をもっています。
滅ぶべき世界で生きているあいだは、
霊が肉体を支配して、食欲や感情を従わせています。

霊から出てくるものはすべて肉体のうえにあらわれてきますが、
肉体のほうからは霊の意志に逆らって霊を支配することはできません。
どちらかを選ぶかは、わたしたちの内なる霊の仕事です。

霊がすべてを支配しているのです。
滅ぶべき人間ができるだけ完全な姿に近づこうと思えば、
精神と肉体と霊を全体として調和させていく必要があります。

霊的に完全な姿に近づきたいと思うなら、
その調和のうえにさらにキリストの愛と義を加えていく必要があるのです。」

           <感謝合掌 平成27年5月11日 頓首再拝>

光は光を呼び,闇は闇を好む - 伝統

2015/05/12 (Tue) 18:47:20


        *「死んでわたしが体験したこと」(P89~92)より

真理を目の前に見せられて、わたしの霊は歓喜の叫びをあげんばかりでした。
真理がわかったからです。目のまえに示された真理をわたしがすべて理解したことを、
イエスさまもご存知でした。

わたしの霊の目がふたたび開かれました。

神が多くの世界を創造なさったこと、そしてその世界で神が被造物を支配して
おられることがわかりました。神は、法則とエネルギーと物質のすべてを支配する
権威を持っておられます。

わたしたちの世界には陽と陰の2つのエネルギーがあって、
そのどちらもが創造と成長に必要なものだったのです。

そのエネルギーには知性があって、人間の意志をおこなっています。
そのエネルギーはわたしたちの意のままに動く召使いなのです。

神はこの2つのエネルギーのうえにせったい的な力を持っておられます。

陽のエネルギーには、次のようなものがあります。
光、善良、親切、愛、忍耐、慈善、希望、こういったものです。

陰のエネルギーは次のようなものです。
暗黒、憎悪、恐怖(サタンの最強の武器です)、不親切、狭量、わがまま、
絶望、失意といったものです。

陽と陰のエネルギーは、互いに対立して働いています。
そのエネルギーがわたしたちの中に取り込まれると、よく働く召使いになります。

陽のところには陽が集まり、陰のところには陰があつまります。
光は光を呼び、闇は闇を好みます。

人間も陽か陰のどちらかに傾くようになると、
似たような人たちとの交わりがはじまります。

陽になるか陰になるか、その選択はわたしたち自身の手にゆだねられています。

前向きの思考だけを考えて、前向きのことばだけを口にしていれば、
それだけで陽のエネルギーが集まってきます。本当にそのとおりです。

後ろ向きの人たちのまわりには、陰のエネルギーが取り囲んでいます。
口から出たことばが、その話し手のエネルギーの状態に現実に影響を与えるのです。

「ことば」それ自体、つまり空間の波動が、いずれかのエネルギーをそばに集めてきます。
人の願望にも同じような効果があります。

わたしたちは自分で考えたとおりに周囲の状況をつくりあげています。
物質的にはしばらく時間がかかるかもしれません。
でも霊的には一瞬の話です。

思考がもっているこの力を知っていたら、
わたしたちは自分で考えていることにもっと気を使うようになるはずです。

自分のことばがもっている恐るべき力に気がつけば、悪い言葉を口にするよりも、
むしろ黙っていようと思うはずです。

わたしたちは自分で考えたりしゃべったりしながら、
自分自身の弱さや強さをつくりあげていたのです。
諦(あきら)めも喜びも、その源はわたしたちの心のなかにあります。

陰を陽に置き換えるのは,いつでも簡単にできる話です。

人間の思考がこの永遠のエネルギーに影響を与えていくのですから、
思考こそ創造の原点ということになります。

すべて創造の出発点は心のなかにあります。
まず「考えること」からはじまるのです。

才能に恵まれた人は、自分の想像力を駆使して新しいものをつくりだしています。
そうした新しいもののなかには、すばらしいものもあれば、がらくたもあります。

際世から豊かな想像力に恵まれて地球にやってくる人もいますが、
そのなかには、この世で自分の力を悪用するひともいます。
陰のエネルギーを使って、凶器になる道具やことばのような有害なものを
こしらえる人がいます。

逆に自分の想像力を善いことに使って、
周囲の人に幸せをもたらしている人たちもいます。
まことの喜びをつくりだしているこうした人たちは、祝福されます。

心がつくりだすものには真の力があります。
思考こそ行為なのです。

人生をもっとも充実して生きられるのは、想像のなかでだったのです。
うがった言いかたをすれば、想像こそ現実への鍵なのです。
こんなことを、いままで考えてみたこともありません。

わたしたちがこの世に送られてきた目的は、
充実した人生を思いっきり生きるためだったのです。

そして、新しい思考や新しい事物、新しい感動や新しい経験など、
わたしたちがつくりだすもののなかに喜びを見いだすためなのです。
人間は自分の人生を自分で作っていかなければなりません。

いただいたものを使って、失敗と成功を体験していくのです。
人間は自分の自由意志を働かせて、人生を開拓していかなければなりません。

           <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

神を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛する - 伝統

2015/05/13 (Wed) 17:40:09


        *「死んでわたしが体験したこと」(P93~96)より

こうしたことが理解できるようになると、
愛こそ最高のものだということがよくわかるようになりました。
すべては愛が支配していなければいけません。

愛は霊を支配しています。
そして霊は強められて、精神と肉体を支配しなければいけません。
いたるところに愛の自然な秩序が存在しています。

まず、最初はわたしたちが創造主を愛することです。
これは人間の愛の中で最も偉大な愛です
(主を知るまでは,きっとわからないかもしれません)。

次に、自分自身を愛することです。
自分のことを愛しているという思いもなしに、隣人を愛しているといっても、
それはまがいものの愛です。

そして、その次にくるのは、すべての隣人を自分自身のように愛することです。
自分のなかにキリストの光が見えれば、隣人のなかにもそれが見えるはずです。
隣人のなかの神の領域を愛さずにはいられなくなります。

わたしは、救い主の光とその純粋な愛のなかにいました。
主をこわがっていた子供のころのわたしは、
自分から勝手に主から遠ざかっていたのです。

神に愛されてなんかいないと思っていたわたしは、
自分の愛を主から遠ざけていました。
主は決してご自分から遠ざかるような方ではありません。

主は銀河系の太陽のような存在だということが、やっとわたしにもわかりました。
主のそばに近づいたり遠ざかったりしながらぐるりと回ってみましたが、
主の愛は決して衰えたりはしませんでした。

わたしを主から遠ざけるために他の人たちがどんな働きをしていたのかがわかりました。
だからといって、その人たちに敵意を覚えたり断罪するつもりはありません。

わたしを指導教育する立場にあった人たちが、どうして陰のエネルギーの
えじきになっていったのか、またどうして恐怖心をとおして神への信仰を
教えるようになっていったのか、そんなこともわかってきました。

彼らの目的自体は善かったのですが、その行いが悪かったのです。
先生自身がこわがっていたので、生徒を指導するのに恐怖心を利用していたわけです。

神の信仰を子供たちに教えるときに、
彼らは「神を恐れよ。さもなければ地獄に行け」とおどかしていました。
それがつまづきとなって、わたしは神を愛せないようになりました。

恐れと愛とは全く反対のもので、
サタンの最大の武器になっていることがよくわかりました。
神をこわがっていたわたしは、神をまごころから愛することができなかったのです。

神を愛せなかったので、自分自身のことも隣人のことも、
どちらも純粋に愛することができなかったのです。
愛の法則はは破綻(はたん)していました。

キリストはなおもわたしにほほ笑みかけておられます。
この体験に心ときめかせながら学んでいるわたしの姿をご覧になって、
喜んでおられたのです。

神は本当におられることがわかりました。
もはや「普遍的な力」を信じているのではなく、
その背後におられる「人格的な神」とわたしは出会ったのです。

宇宙を創造し、その宇宙にすべての知識を投入された「愛なる神」と出会ったのです。
神がその知識を支配し、その力を指揮しておられます。
わたしたちが、神に似たものとなることを神御自身が望んでおられます。

想像力、創造性、自由意志、知性、そしてもっとも大切な愛する力、
こうした神と似た性質を神ご自身がわたしたちに恵んでくださったことも
よくわかります。

人間が神の力に近づくことを神は心から切望しておられます。
そして、自分も神に近づけると信じれば、
わたしたちもそのようになれるということがわかりました。

           <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

《病気と癒し、思いの影響》 - 伝統

2015/05/14 (Thu) 17:49:15


        *「死んでわたしが体験したこと」(P97~98)より

主のおられるところで、こうした一連の学習はきちんとした筋道で
次から次へと流れるように進められていきました。

さっきは宇宙に二つのエネルギーの力があって、
そのいずれもが神の権威に服していると教わりましたが、
今度はその二つの力がどのようにしてわたしたちに肉体的な影響を及ぼしているかを
教えてもらうことになりました。

霊と精神は肉体に対して計り知れないほどの影響力をもっているのですから、
わたしたちには自分の健康を左右する力があることがわかります。

わたしたちのなかの霊はその力を使って、
肉体に活力を与えて病気を寄せ付けないようにしています。

また肉体が病んでいるときは、回復力を与えてくれます。
霊には精神を支配する力があります。
そして精神は肉体を支配しています。

このことを考えると、いつも次の聖書のみことばを思い出します。

「彼はその欲望が示すとおりの人間だ」(箴言二十三章七節)


人間の思考には不思議な力があって、
わたしたちのまわりに陽や陰のエネルギーを集めてきます。

陰のエネルギーばかりが集まると、肉体の防衛力が弱まります。
とくに暗い考えが自分自身のことに集中しているときは、それが顕著になります。
鬱(うつ)の状態にあるときは、自分自身のことしか考えられません。

長期の鬱(うつ)状態ほど、本来の活力と健康をそこねるものはありません。

しかし、なんとかして自分のことから自分を解放し、
隣人が必要としているものや、どうしたら隣人の役にたてるかという方向に
自分の思いを集中させていけば,快方に向かいます。

奉仕は霊と肉体のいずれにも効く妙薬なのです。

           <感謝合掌 平成27年5月14日 頓首再拝>

《愛されていないという思いから人間は病気になる》 - 夕刻版

2015/05/15 (Fri) 17:56:44


        *「死んでわたしが体験したこと」(P98~100)より


病気の回復はすべて内側から生じてきます。
肉体を癒すのは霊です。

医者の頼もしい手術が成功し、薬が健康に最適な状況をもたらしてくれるとしても、
病気を癒すのは霊なのです。
霊のない肉体は癒されることがないのであまり長くは生きられません。

人間の細胞はいのちを永久に供給できるように設計されていました。
はじめのうち細胞には自分でどんどん再生できるような
プログラムが組まれていたのです。

機能が悪くなったり傷ついたりした古い細胞を取り替えて、
いのちが尽きないような仕組みになっていました。

ところが、なにかがそれを変えてしまいました。
どうしてそうなったのかは教えてもらえませんでしたが、
「死」がエデンの園に滅びをもたらしたのです。

エデンの園は実際にあった話です。
エデンの園の取り決めによって、永遠のいのちが滅ぶべき世界には
存在できないような状況になってしまったのです。


肉体は死ななければなりません。
しかし、病の癒えるのがみこころならば、信仰と陽のエネルギーを使って
病気が回復する方向に細胞を変化させていく力が、
わたしたちにはまだ残されています。

病がいやされるときは、必ず神のみこころが働いていることを忘れてはなりません。

わたしかこれまでにかかった病気は、多くの場合、
失望や愛されていないという感情がその原因になっていました。

そういえば、わたしは暗い「ひとりごと」の誘惑に
いつも負けていたような気がします。

「痛い、苦しい」、「どうせわたしなんかだれにも愛されていない」、
「わたしはこんなにつらいのに」、「こんなこと,わたしはもういや」、
そんな思いばかりでした。

ふと、わたしはこうしたひとつひとつのことばのなかに、
「わたし」が繰りかえし顔を出しているのに気がつきました。
自分がどんなに自己中心的だったかがよくわかるようになりました。

そのうえ、こうした暗い考え方に生まれついた自分に文句をつけていたばかりか、
自分から扉を開けてそのくらい考え方を招き入れてていたのです。

そのころのわたしの肉体は一種の自己実現めいた予言を体現していました。

「わたしに災いあれ」と口にすると、それが肉体に翻訳されて
「わたしは病気」になっていたのです。

こんなことは今までまったく考えたこともありませんでしたが、
自分自身が問題の一部だったことがはっきりとわかってきました。

           <感謝合掌 平成27年5月15日 頓首再拝>

《病をいやすのは明るい思考と前向きの言葉》 - 伝統

2015/05/16 (Sat) 17:52:27


        *「死んでわたしが体験したこと」(P100~102)より

明るいひとりごとが癒しの第一歩だったのです。
病気や問題に気がついたら、まずその回復を口にすることが必要です。
病気だという思いを頭の中から消し去って、回復に考えを集中します。

次にその治療法を口にして、思考の力のうえに言葉を重ね合わせるのです。
そうすると、それが知性の働きを呼び覚まして、病気を癒す方向に働きはじめます。
言葉を口にするという行動がもっとも理想的に行われているのは、祈りです。

癒されることがみこころなら、
癒されているあいだ神はわたしたちを助けてくださるのです。

目の前の病気や試練そのものの存在を否定することはできません。
病気や試練にはわたしたちの信仰を窒息させかねないほどの力があります。
わたしたちが否定できるとしたら、信仰をおさえつけているその力だけなのです。

わたしたちは信仰によって生きています。
見えるものによってではありません。
目に見えるものは、判断や分析をおこなう精神の領域です。
それは合理性や正当性の世界です。

目に見えない信仰を支配しているものは霊です。
霊は感情的で受容的で主観的です。

どんなことことにも同じことが言えるのですが、
信仰を自分のものとする最善の方法は、その扱い方に慣れることです。
自分が手にしているものの扱い方に慣れていけば、
それだけもっと多くのものが受け取れるようになります。これが霊の法則です。

信仰の成長は種まきに似ています。
道ばたにまかれた種でも、少しは実がなります。

信仰による行ないは、必ずわたしたちを祝福してくれます。
そして、信仰が成長していくにしたがって(訓練によって、信仰は成長します)、
信仰の実りも大きくなっていきます。

まかれた種は、どれも自分と同じ実をつけます。
これも、霊の法則です。

           <感謝合掌 平成27年5月16日 頓首再拝>

《霊を通して神さまと交われるのです》 - 伝統

2015/05/17 (Sun) 20:11:03


        *「死んでわたしが体験したこと」(P102~103)より

霊の力が肉体を支配していることが、ようやく納得できるようになりました。

ふつうの人間にはわからないようなところで、霊は働いています。
思考をつかさどるのが精神で、行動をつかさどるのが肉体だということくらいなら、
わたしにもわかっていました。ただ、霊というものが謎だったのです。

でもいまでは、ほとんどの人にとって霊は謎なことがわかりました。
多くの場合、精神は霊の働きに気がつかないからです。
霊は神と交わっています。神の知識や洞察力の受信装置なのです。

それを知ることがわたしにはとても重要でした。
なんだかわたしの身体のなかに蛍光灯が埋められているような気がします。
光がともっているあいだは、わたしたちの身体の中心は光と愛に満たされています。

肉体にいのちと力を与えてくれるのは、そのエネルギーだったのです。
その光が細くなって、霊が弱くなってしまうことがあります。
こうした事態は、暗い体験、つまり愛の欠如や暴力、
性的な乱れといった害毒をもたらす体験を通して起こってきます。

こうした暗い体験が霊を弱めていって、その結果、肉体も弱くなってしまいます。
病気にはならないまでも、霊をもう一度充電しないかぎり、
病気にかかりやすい肉体になってしまうのです。

霊を充電しなおす方法は、隣人に仕えること、神を信頼すること、
そして明るい思考を通して陽のエネルギーに自分を明け渡すことです。
それをコントロールするのは自分たちです。

エネルギーの源は神です。そして,それはいつも手の届くところらあります。
しかし、神の周波数にあわせておかないといけません。
神の力を受け入れないかぎり、わたしたちは自分の人生で神の力を味わうことはできません。

           <感謝合掌 平成27年5月17日 頓首再拝>

《病も死も、すべてのことがわたしたちの成長の糧》 - 伝統

2015/05/18 (Mon) 19:45:47


        *「死んでわたしが体験したこと」(P104~106)より

わたしたちのあいだで、つらい病気を選んだ仲間がたくさんいたのには、
いささかびっくりしました。その中には死にいたる病を選んだ者もいます。

病気はすぐには癒されないことがあります。
まったく癒されないこともありますが、それはわたしたちの成長に必要だからです。
すべての体験が益とされます。

ときにはわたしたちの霊の成長を助けるために、わたしたちの目にはどう見ても
後ろ向きとしか思えないような体験を与えられることもあります。 

霊の状態にあったとき、わたしたちは自分の霊的な成長のために
この世で経験するあらゆる病気や事故を進んで受け入れていたのです。
それを望んでさえもいました。

この世での時間の経過は、霊の世界とは比べものになりません。
この世で味わう苦痛は、霊の世界の感覚で言えば、
ほんの一瞬のことにすぎないからです。

ですから、わたしたちはそれを喜んで堪えることができるからです。
死でさえもわたしたちの成長に役立つと考えられています。

ガンの患者には死ぬまで長いあいだ苦しむ人がたくさんいます。
それは、ガンにかかることで、はじめて信仰を成長させる絶好の機会に
目が開くようになるためです。

わたしの母はガンで死にました。
母は死の床で、それまでとまったく違った態度で家族の者に接するようになりました。
人間関係は改善されて修復されていきました。

母は自分の死のおかげで、信仰を成長させることができたのです。

なかには、自分の死によって隣人を救う道を選んだものもいます。

道に飛び出して、酔っ払い運転の車にひかれて死ぬことを選んだ人がいたとします。

そんなひどい話があるかという気もするのですが、紙の純粋な知識のなかでは、
ひかれて死んだ人の霊は、いずれ起こるはずだった悲惨な事故からその運転手を
自分が救ってあげたことがわかっているのです。

人をひいた運転手はその1週間後にまた酔っ払って、十代の若者の群れをはねて、
不自由な体にさせたり、無用の痛みや苦しみにあわせてしまうかもしれなかったのです。
でも、この運転手はそうはならずにすみました。
人をひいた罪で刑務所に入っていたからです。

ひかれた人はこの世での自分の目的をこれで遂げることができました。

永遠の観点から見れば、若者たちは無用な苦しみを免れ、
運転手は信仰の成長を体験する出発点につかされたことになります。

この世の手違いは、想像するほど多くはありません。
永遠にわたしたちに影響を与えるような手違いとなると、さらに少なくなります。

神の手が働いておられること、そしてこの世にやってくるまえに
わたしたちが道を選んでおいたことのために、決断が求められるようなときでも、
あるいは一見なんお脈絡もなさそうな体験をするようなときでも、
きちんと導かれていくからです。

そのひとつひとつを説明していてもあまり意味がありませんが、
現実にそういうことが目的をもって起こっています。

たとえば、離婚されたり、いきなり解雇されたり、
暴力ざたに巻きこまれたりといったような体験でさえ、最終的には、
わたしたちに神の知識が与えられて、霊的な成長に役立っていくのです。

こうした体験はつらいものですが、わたしたちの成長を助けてくれるのです。

イエスさまはこの世でご自身の使命を果たしておられたときに、こう言われました。

「つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいの人です」
                  (マタイの福音書十八章七節)

          <感謝合掌 平成27年5月18日 頓首再拝>

過去の恨みから解放されたわたし - 伝統

2015/05/19 (Tue) 22:57:33


        *「死んでわたしが体験したこと」(P106~108)より

すべてこの世での体験は益とされています。
それを認めることがわたしにはたいせつだったのです。
救い主の導きによって、そのことがわかるようになりました。

自分の人生の目的と役割を、わたしははっきり認めなければならなかったのです。
自分の身にふりかかってきた後ろ向きのできごとをあるがままに受け入れたおかげで、
その悪い影響から抜け出すことができるようになりました。

そのうえ敵を許すことも、さらに敵を愛することもできるようになりました。
こうして、その敵から受けたはずの悪い影響をぬぐいきることも
できるようになりました。

善いことを考えたり親切なことばを選んだりすることもできるようになりました。
こうして、自分の魂だけでなく隣人の魂のことも慰めてあげれるようになったのです。

わたしは善い方向に向っていました。
愛からはじまって、感情、精神、肉体の順に癒されています。
絶望という腐食作用の魔の手から逃れることができました。
わたしには人生を豊かに生きる権利があったのです。

罪の意識と恐怖の連鎖というサタンの強力な武器のひとつにわたしが屈したとき、
そこには悪意がありました。わたしは過去から訣別することが必要だったのです。

もしわたしが法を破ったり罪を犯したりしていたら、まず心を入れかえて自分を
許してから、前に進まなければいけません。

もしわたしがだれかを傷つけていたとしたら、その人のことをます愛して、
それもまごころから愛するようにして、
そのあとでその人に許しを乞わなければなりません。

もしわたしが自分の霊を傷つけていたのなら、まず神に近づいて、
神の愛を、神の癒しの愛をもう一度実感しなければいけません。

悔い改めそのものは実に簡単です。
だから難しいのかもしれません。

転んだら、起きあがってちりを払い、また歩きはじめなければいけません。
もう一度転んだら、やはり前進しなければいけません。
百万回、転んだとしても同じです。

そうしていくうちに、思ってもいなかったような成長をとげていくようになります。

霊の世界では、神はこの世とは別の見方で考えられています。
あらゆる体験が前向きなものとされています。
そして、すべての人がいろいろな体験をしています。

          <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

《自殺》 - 伝統

2015/05/20 (Wed) 17:38:45


        *「死んでわたしが体験したこと」(P108~110)より

自殺は決して考えてはいけません。
自殺をしてしまうと、この世で成長していく機会を失ってしまうことになるからです。

あとになって、失われた成長の機会を思い出すたびに、
大へんな苦しみと悲しみにおそわれます。

神はひとつひとつの魂の裁き主であるとともに,、
れぞれの魂の試練の厳しさをも判定される御方ですから、
そのことを忘れてはなりません。

ひとつでもいいからなにか明るい行いのなかに希望を見いだすように努めるのです。
そうすれば、以前は見えなかった光がかすかながらも見えてくるようになるからです。
絶望を正当化することはできません。なぜなら絶望する必要など、どこにもないからです。

わたしたちがこの世で生かされているのは、学んで、体験して、過ちを犯すためです。
ですから、みずからを厳しく裁く必要はありません。
必要なことは、ただ人生を一歩づつ歩んでいくことだけなのです。

他人の目を気にしたり、他人のものさしで自分を測ったりする必要はありません。
自分自身のことを許して、自分の成長を助けてくれるものに感謝していればいいのです。

つらくてどうしようもなかった体験が、いつの日にか、
偉大な教師となってあらわれてくるはずです。



すべての創造は思考とともに始まったのですから、罪もとがも絶望も希望も愛も、
すべてその出発点はわたしたちのなかにあったわけです。

すべての癒しはわたしたちのなかから出てきます。
すべて悲惨なこともわたしたちのなかから出ています。

わたしたちは絶望のらせん階段をつくることもできますが、
幸福と達成のトランポリンをつくることもできるのです。
わたしたちの思考には、驚くべき力が備わっています。

わたしたちは、はいはいしている赤ちゃんのように、
自分のなかの力の使い方を覚えているところです。
その力はとても強力です。

そしてその力を支配している法則のおかげで、
わたしたちは自分自身が守られているのです。

しかしわたしたちが成長していくにつれて、
人生に前向きなものをもとめるようになると、
法則そのものが姿をあらわしてきます。

わたしたちのために用意されていたものが、すべて与えられるようになります。

          <感謝合掌 平成27年5月20日 頓首再拝>

生まれる前の場面 - 伝統

2015/05/21 (Thu) 19:22:59


        *「死んでわたしが体験したこと」(P134~135)より

案内役を務めていた人は私の質問を喜んでくれました。
そして私の手を引いて、たくさんの霊がこの世の生活に入る準備をしている
ところに連れていってくれました。

そこには、成長した霊ばかりが集まっていました。
見たところ、子供の霊はどこにも見当たりません。
その霊もみんなこの世に行きたがっています。

この世の生活は、そこに行ってたくさんのことを勉強し、
自分の欠点を改善するための学校だと考えられていました。
わたしたちもかつてはこの世に行こうとしていたのです。

しかも、この世の生活に弱さや困難な状況をみずから選んで、
自分の成長に役立てようとしていたのです。

わたしたちには弱さが与えられていますが、それは、わたしたちの益とされるためでした。
主は、みこころに従って、わたしたちにたまものを与えてくださいました。
ですから、たまものであれ欠点であれ、自分をほかの人比較してはいけません。

わたしたちには必要なすべてのものが与えられているからです。

自分というものはひとりしかいません。
霊的な力が弱いとか、たまものが公平に与えられているかといったことは、
重要ではありません。

          <感謝合掌 平成27年5月21日 頓首再拝>

サタンの手から守るには、キリストの光が必要です - 伝統

2015/05/22 (Fri) 18:05:16


        *「死んでわたしが体験したこと」(P137)より

サタンはわたしたちを自分ものにしようと必死になっています。
サタンがわたしあちのだれか一人に的を絞って全力を傾けてくるようなら、
その人には手厚い保護が必要です。

けれどもサタンは人間の考えが読み取れないので、
わたしたちはサタンの手から守られています。

ところが、サタンは人間の表情なら読み取ることができるので、
わたしたちの思いはまず見透かされてしまいます。
まわりの雰囲気や表情に、霊的な感情や心の動きがあらわれてしまうからです。

神はそれをご覧になります。
天使やサタンもそれを見ています。
この世の人間でも、感受性の鋭い人にはそれがわかります。


自分の思いをコントロールして、自分の人生にキリストの光を受け入れるなら、
わたしたちは自分を守ることができます。

それができれば、キリストの光がわたしたちをとおして輝くようになり、
わたしたちの表情もキリストの光があらわれてきます。

          <感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>

周りの人々は、約束を取り交わした霊の兄弟姉妹 - 伝統

2015/05/23 (Sat) 19:47:07


        *「死んでわたしが体験したこと」(P138~139)より

わたしたちには霊の世界でとくに親近感を覚える兄弟姉妹が与えられてるのだそうです。
案内をしてくれた霊が言うには、わたしたちが約束を取り交わした兄弟姉妹の霊は
この世で家族や友人になっているという話です。

永遠にわたってともに過したなかから培われてきた愛情が、
この霊的な結びつきとなったのです。

そのほかにも、この世でいっしょに仕事をする仲間も自分で選んでいたのです。
仲間と手を組んで、この世を少しでも変えてみたいと考えている霊がいます。

まえもって選んでおいた両親や仲間たちに一定の環境をつくり出して
おいてもらえれば、その仕事もうまく進めるわけです。

また、すでに敷かれたレールを補強して、あとから来る者のために
道を教えてあげたいと考えている霊もいます。

この世に人生で、お互いにどんな影響を与えあうか、
また家族からどんな肉体的な特徴や行動面の資質を受け継ぐことになるのか、
こうしたこともすべてはじめからわかっています。

          <感謝合掌 平成27年5月23日 頓首再拝>

この世での肉体や容姿を納得して生まれてきている - 伝統

2015/05/24 (Sun) 19:36:33


        *「死んでわたしが体験したこと」(P139~140)より

不完全な肉体の遺伝子の情報も、自分がそんな容姿で生まれてくるかも、
はじめから承知のうえでした。
自分の容姿は自分が選んだもので、自分にはそれが必要だったのです。


記憶は自分の肉体の細胞に彫りこまれていることがわかりました。
わたしたちは人生でいろいろなことを考えたり経験したりするものですが、
実はそうしたことのすべてがまえもって潜在的に心に刻みこまれていたのです。

まったく同じことが細胞にも記録されています。
つまり、細胞には、たんに遺伝子情報が刻みこまれているだけでなく、
過去のすべての体験も刻みこまれていたのです。

そればかりか、こうした記憶が字電子情報という形で子孫に受け継がれて
いくこともわかりました。そして、この記憶が子孫に伝えられて、
麻薬の常習壁や強迫観念、強靭な精神力といった特徴をつくっているのです。

(中略)

わたしたちはこうした肉体の複雑な仕組みをすべて承知のうえで、
その状況を確信をもって受け入れていたのです。

          <感謝合掌 平成27年5月24日 頓首再拝>

この世での霊的な資質 - 夕刻版

2015/05/25 (Mon) 17:31:04


        *「死んでわたしが体験したこと」(P140~141)より

また、わたしたちには自分の使命を成し遂げるのに必要な霊的な資質が
与えられています。霊的な資質には、自分の必要を満たすために特別な工夫が
凝らされているものがたくさんあります。

両親には両親の霊的な資質があって、その一部をわたしたちは受け継いでいます。
ですから、自分の親がその力をどのように使っていたかがわかります。
成長するにしたがって、それ以外の資質も身につけていきます。

こうして、わたしたちに自分自身の霊的な武具が備わってきます。
これからさきもその霊的な力の使い方を学ぼうとするのか、それとも
一切そうした力を使わずにすませるのか、それはわたしたちの選択にかかっています。

わたしたちは年齢に関係なく、いつでも新たな霊的な資質を獲得して、
そんな状況にも対応していくことができるのです。
選択はいつも手の届くところにあります。

わたしたちには自分を救ってくれる正しい資質が常に備わっているのですが、
ややもするとそれに気がつかなかったり、気がついても使い方を覚えていなかったり
します。

自分の内側をのぞきこむ必要があります。
そして自分の力を信頼する必要があります。
正しい霊的な武具は、いつもわたしたちの手の届くところにあります。

          <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

誕生後の早死のために、この世に生まれる準備をしている霊 - 夕刻版

2015/05/26 (Tue) 18:13:01

        *「死んでわたしが体験したこと」(P141~143)より

強烈な光を発している活発な霊が、いままさに母親の胎内に入ろうとしています。
その赤ん坊の霊は精神的な障害を負ったまま、この世に行こうとしていたのです。

しかも、このチャンスに恵まれたことを大いに喜んでいます。
これで自分も両親も成長できると確信しているからです。
結び合わされた3人の家族のあいだでは、ずっとまえからこのことが決められていたのです。

赤ん坊の霊は障害という肉体的な条件をもって、
人間としての自分の人生にスタートを選びました。

その霊は母の胎内にすべりこんで、できたばかりのいのちに入っていきました。
人間という不完全な両親から豊かな愛を受けることを切望しているのです。


妊娠のどの段階でも、霊はいつでも好きなときに母胎に入っていくことができます。
いったん母胎に入ってしまえば、そのときから身をもって不完全な人間の性質を
体験しはじめるのです。

堕胎は自然の法則に反するものだと聞かされました。
胎内に宿った霊は、自分が拒否されていると思って悲しむことになります。

私生児として生まれようと、障害児であろうと、この世で数時間しか生きる力がなかろうと、
霊が自分の肉体だと知っているからです。

赤ん坊の霊はそれでも自分の母親に同情しています。
母親だって思いあまって堕胎を決断したのだと、わかっているからです。


ほんのしばらくのあいだしかこの世にいられない霊もたくさんいます。
生まれてから数時間とか数日間しか生きられない人たちです。
そういう霊も、みんなと同じように大いに喜んでいます。

自分たちにもなすべき目的があることがわかっているからです。
その人たちは、この世に生まれるまえから死ぬことが決まっていました。
死ぬことが決まっているのは、だれでも同じです。

こうした霊は、それ以上この世で長らえて成長する必要がありません。
自分たちの死が、両親の成長を早める材料になっているからです。

この世の悲しみは確かにつらいものがありますが、それはすぐに過ぎ去ります。

あとになってわたしたちがもう一度ひとつのものにされたとき、
あらゆる苦しみは洗い流され、成長してひとつになることのできた
喜びだけが感じられるようになります。

          <感謝合掌 平成27年5月26日 頓首再拝>

最もたいせつな神の命令、それは互いに愛し合うことです - 伝統

2015/05/27 (Wed) 19:29:37


        *「死んでわたしが体験したこと」(P143~145)より

隣人を幸せにするために、なんと多くの計画や決定がなされていたことでしょう。
わたしたちはみんな他人のために喜んで犠牲を払っていたのです。
すべてのことが霊の成長に不可欠なものでした。

あらゆる体験、あらゆるたまもの、そしてあらゆる弱さが、
ただ成長のためだけに用意されていたのです。

この世のできごとは、霊の世界ではそれほど大したことではありません。
ほとんど、どうでもよいことばかりです。
霊の目をとおして見れば、すべてのことが明らかになります。

この世の教育を終える時期がひとりひとりに定められています。
霊によっては、生まれるためだけこの世にやってきて、隣人に何らかの経験を与えたら、
すみやかにこの世を去ってしまう者もいます。

また、老人になるまで生きて、自分の目的を果たし、
人に仕えることで隣人を幸せにしている霊もいます。
あるいはリーダーや部下、兵士、金持ちや貧乏人としてこの世にやってくる霊もいます。

霊がこの世にやってくる目的は、こうしたさまざまな状況や人間関係をつくりあげて、
わたしたちに愛することを教えてくれるためだったのです。

人生で出会うさまざまな人たちがわたしたちを究極のゴールにまで導いてくれます。
厳しい条件のなかで、わたしたちは試されています。

すべての命令のなかで最もたいせつな命令をわたしたちが実行できるかどうか、
それが試されているのです。
最もたいせつな命令とは、互いに愛し合うことです。

この世では、わたしたちは互いに結び合わされています。
そして、唯一の究極の目的に向って、ひとつのものにされています。

その究極の目的とは、お互いに愛を学び合うことなのです。

          <感謝合掌 平成27年5月27日 頓首再拝>

酔いつぶれた男 - 夕刻版

2015/05/28 (Thu) 17:59:47

        *「死んでわたしが体験したこと」(P147~151)より

この世に行くのは、学校を選んだり専攻科目を選択するのによく似ています。
霊的な成長の程度は人それぞれなので、わたしたちは自分の霊の状態に
最もふさわしい環境を選んでこの世にやってきます。

(中略)

このことを具体的に説明するかのように、大都会の街角にピントが合わされています。
ひとりの酔いつぶれた男がビルの一角の歩道で前後不覚に寝ています。

案内役のひとりが「なにか見えますか」と訊ねてきました。
「なにって、ただ酔っ払いの浮浪者が自分のねぐらで寝ているのしか見えません」
そう答えながら、なぜこんな光景を見せられるのか、いぶかしく思っていました。

《酔いつぶれた男と親友の弁護士》

案内役たちは色めきたって、こう言いました。
「さあ、それでは、この人の本当の姿をお見せしましょう」

その人の霊があらわれてきました。
光あふれた偉大な人の姿がそこにありました。
愛が其の人からにじめ出ています。
天国でみんなの尊敬を一身に集めている人でした。

この偉大な人は、霊的に結ばれた自分の友を救うために、
その友人の導き手としてこの世にやってきたのです。


その友人は有名な弁護士で、この街角から数ブロック先に事務所を構えていました。
酔っ払いのほうは友人との約束ごとなどまったく記憶から失われていたのですが、実は
隣人の苦しみにその弁護士の目を向けさせるのが酔っ払いの目的だったのです。

その弁護士はそもそも人情味にあふれた人だったのですが、酔っ払いの姿を見せれば、
それが刺激になって、自分の助けを必要としている人たちにも
もっとなにかをしてあげられないかと思うようになるはずです。

この二人はいつか必ず顔を合わせることになります。
顔さえ合わせれば、弁護士は酔っ払いの霊に気づきます。
酔っ払いのなかにもうひとりの男がいることがわかります。
そして、弁護士はさらに善いことに励んでいくようになるわけです。

かつて合意したこの世の役割をいまの二人は知るよしもありません。
それでも、二人の使命は必ず成就されます。

酔っ払いはこの世の自分のときを隣人のために捧げます。
弁護士はこれからも成長を続けていきます。
その成長に必要な材料は、そのときがくれば与えられます。


会うまえから知り合いだったように思える人との出会いが、
これまでにもたしかに何度かありました。
ひと目見たときから、親しみを感じて、
なにか初めてではないような気がする人がいるものです。

どうしてそんな気がするのか、わたしにはわかりませんでした。
でもいまでは、なにかの理由があって、その人たちがわたしの人生の道筋に
あらわれてきたのだとわかります。
そういう人は常にわたしと特別の関係をもつようになりました。


考えごとから引き戻されたわたしに、
ふたたび案内をしている人がこんなことばをかけてきました。

「あなたはまだ純粋な知識に欠けているので、他人を批判する資格はありません」

街角のあの酔っ払いのかたわらを通りすがるひとたちは、酔っ払いの内面の高貴な霊には
気がつかずに、その見てくれで人間を判断していました。
人を見かけで判断するということならわたしも同罪です。

ひそかに人のことを財産や目に見える力で判断していたからです。
わたしという人間は正しいものではありませんでした。

人のいのちとはどんなものか考えてみたこともありません。
さらに悪いことには、人の霊とはどんなものか、
わたしは一度も考えてみたことがなかったのです。

こんな考えもわいてきました。
「貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
それで、あなたがしたいときは、いつでも彼らに善いことをしてやれます」

この聖書のみことばを思い出すたびに、頭がこんがらがってしまいます。
どうして、貧しい人たちが現にわたしたちといっしょにいるのだろう。
どうして主はすべてのものをお与えにならないのだろう。
どうして主は、あの弁護士に財産を隣人に分けさせようとなさらないのだろうか。

わたしの考えごとがふたたび案内役のことばで中断されました。

「あなたがたのあいだを歩んでいる天使がいます、
あなたがたはその天使に気がつきません」

(中略)

わたしたち人間には欠けたものがあります。
貧しいのは、なにも貧乏人だけではありません。

わたしたちは互いに助け合おうという約束を霊の世界で交わしてきました。
しかし、はるか昔に交わされたその約束がいまも実現されないままになっています。


そこで、主は天使を遣わされて、わたしたちがその約束を忠実に果すよう
催促しておられるのです。

主はわたしたちを無理強いなさる方ではありません。
でも、催促をなさる方です。

わたしたちには、だれがその天使なのか見分けがつきません。
そのあたりにいるだれかが、そうなのかもしれません。
わたしたちの気づかないときにも、見えない天使はわたしたちのそばにいます。

          <感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>

わたしたちの力は、隣人への思いやりのなかに見出されます - 伝統

2015/05/29 (Fri) 18:25:45

        *「死んでわたしが体験したこと」(P152~153)より


主はお与えになることのできるすべての助けを、
わたしたちの個性や自由意志をそこなうことなく、
わたしたちにくださろうとしておられます。

わたしたちは、お互いに心から助け合わなければなりません。
貧乏人にも金持ちにも、同じ尊敬の念をもって
心から接するようにしなければなりません。

そして、すべての隣人を、その人が自分とは違った種類の人間であっても、
心から受け入れてあげなければいけません。
すべての人が愛と親切に値するからです。

隣人のことで心を狭めたり、腹を立てたり、「もう、うんざりだ」なんて思う権利は
わたしたちにはありません。心の中で隣人を見くだしたり、非難する権利もありません。

わたしたちがこの世の人生からなにかもっていけるものがあるとしたら、
それは隣人のためにしてあげた善い行ない、ただそれだけです。

すべての善い行ないと親切なことばは、この世に人生が終われば、
今度はその何倍にもなってわたしたちを祝福してくれるものだとわかりました。
わたしたちの力は、隣人への思いやりのなかに見いだされるのです。


案内をしている人もわたしも、しばらく口を閉ざしていました。
あの酔いつぶれた男は、もの目の届かないところへ行ってしまいました。

わたしの魂は思いやりと愛とで満たされています。
あの酔っ払いが友を助けたように、どうかわたしも隣人を助けることができますように、
生きているあいだに、どうかわたしが隣人にとって恵みとなることができますように。

わたしの魂は、最後に示された事実に打ち震えています。

「わたしたちの力は、隣人への思いやりのなかに見いだされるのです」

          <感謝合掌 平成27年5月29日 頓首再拝>

祈り - 伝統

2015/05/30 (Sat) 18:28:58



        *「死んでわたしが体験したこと」(P154~157)より

光と知識がもっとほしくてたまらなくなりました。
ふたたび天が巻き戻ると、宇宙を回転している地球の姿が見えてきました。
その地球からは光の帯がいく筋も延びて、まるでサーチライトが照らしているように見えます。

幅の広い光線が何本か、レーザー光線のように天に太く刺さっています。
ペン・ライトのような細い光線もあれば、線香花火がチカチカしているだけのようなものも
あります。この強力な光線は、地球に住む人の祈りだと聞かされて、いささか驚きました。

その祈りに応えるために、天使たちがあちこちに走りまわっています。

できるだけ救いの手を差し伸べてあげようと、天使は統制のとれた動きをしています。

組織的に立ち働いている天使たちは、文字通り、
人から人へ、祈りから祈りへと飛びまわっています。
その働きによって、天使は愛と喜びに満たされるのです。

天使たちは喜んでわたしたちを助けています。

でも、天使たちがいちばん喜びを感ずるのは、
祈りは直ちに答えられると信ずる真剣な祈りの人に出会ったときなのです。

明るく輝いた太い祈りがまず最初に聞かれ、それからひとつひとつの祈りが
順番に聞き入れられて、すべての祈りが応えられていきます。

でも、誠意のない習慣的な祈りは、光が出ていてもほとんど見えないことに気がつきました。
力がないので、こうした祈りはほとんど聞かれません。

願いの祈りはすべて聞き入れられて応えられる、はっきりわたしはそう聞かされました。

困難の中にあるときや、隣人のために祈るときは、
光線がわたしたちからまっすぐに射しているので、だれの目にもすぐわかります。

また、母親が自分の子供のために祈る祈りほど力強い祈りはないということです。
子を思う母の祈りは最も純粋な祈りです。
その祈りには、強烈な願いと死にものぐるいの思いが込められているからです。

母親には、すべてを子供に捧げ、
神のまえで、子供のために力のかぎり哀願する能力が備わっています。

母親でなくとも、わたしたちにはだれでも祈りによって神に近づく能力が備わっています。


願いの祈りをひとたび口から出してしまえば、あとは祈りにすべてを委ね、
その祈りに応えてくださる神の力を信頼するだけでよいのです。

神はわたしたちの必要をいつも御存知で、
わたしたちの方から助けを求めてくるのをひたすら待っておられます。

神はすべての力を働かせて祈りに応えてくださるお方ですが、
ご自身の法則とわたしたちの意志という二つのものから制約を受けておられます。

神のみこころがわたしたちのものとなるよう、呼び求めねばなりません。
そして神を信頼しなければなりません。
なにも疑わずに、真剣な願いをもって祈れば、わたしたちは受け取ることができるのです。


隣人のためにの祈りには、大きな力がありますが、
相手の自由意思をそこなう祈りや相手の望みを打ち砕くような祈りは、聞き届けられません

神は、わたしたちに自由意志をお与えになられたのですが、
それでもあらゆる手をつくしてわたしたちを助けようとしておられます。


友人が信仰的に落ち込んでいたら、わたしたちの霊の力でその友人を
文字どおり持ちあげることができます。

友人が病気なら、わたしたちの信仰による祈りが
しばしばその友人の回復に力を与えることになります。

ただし、その病気が信仰の成長に必要な体験となっているときは、また話がちがいます。
まもなく召されそうな友人がいたら、神のみ心だけがなるようにと祈ることが大切です。

さもないと、せっかく天国に召されかけている友人の目的を混乱させ、
じゃまをすることにもなりかねないからです。

隣人を助けてあげるてだては、無限といってもよいほどたくさんあります。
家族や友人のような隣人に対しては、それこそ考えられないほど
たくさんの善いことをしてあげることができます。

          <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

神を信頼して感謝できれば祝福がいただける - 伝統

2015/05/31 (Sun) 19:38:12

        *「死んでわたしが体験したこと」(P157~160)より

こんなことはいかにも簡単ではないかと、私はタカをくくっていました。
とくにはじめのうちは、これでは簡単すぎると思っていたのです。

ずっと昔から、私は、祈りは何時間も続く訓練の様なものだと考えていたからです。
主にうるさくせがむべきだと考えていたものですから、ともかく何かが起こるまでは、
せがみ続けようと思っていました。

私の祈りには自分の流儀がありました。
まず、欲しいもののおねだりから始めます。
それから、献金を片手にして、私を助けることが主にとって最善だということをほのめかします。

そして、それがダメだとわかると、今度は商談に入ります。
それらしい従順さや奉仕をちらつかせて、主から祝福をかすめ取ろうという算段でした。

それからヤケになって、物乞いを始めるのですが、どれもこれもうまく行かないと、
癇癪(かんしゃく)を起こしたりしたものです。
この流儀では、願ったものよりも、はるかに少ない応えしか私の祈りには返ってきませんでした。

いまになってみると、そうした私の祈りは
疑いの気持ちを表明していただけだったということがよくわかります。

こうした駆け引きをするようになったのは、
神は私の祈りに喜んで応えてくださる方だということを私が信頼せず、
ただ自分の欲求だけをひたすら追い求めていたからです。

神は果たして公正な方で、本当に何でもできる方なのだろうかと疑ってもいました。
わたしの言うことを開いてくださっているのかどうかも、確信がありませんでした。
こうした疑いの気持ちが、わたしと神の間に障壁を作りあげていたのです。

神はわたしたちの祈りを開いてくださる方であるばかりか、
わたしたちに必要なものをわたしたちよりも先に知っておられる方だということが、
いまやっとわかりました。

神とその天使たちは大いに喜んで私達の祈りに応えているのです。
神と天使にとっては、わたしたちの祈りに応えることが喜びだったのです。

しかし神には、わたしたいにはうかがい知ることのできない優位性があります。
神は、わたしたちの永遠にわたる過去と未来の全てをご存知で、
わたしたちにとって永遠に必要なことも承知しておられるからです。

神はその大いなる愛の中で全てをご存知で、永遠にわたるご自身のご計画に従って、
わたしたちの祈りに応えてくださっているのです。
神は、すべての祈りに完壁に応えてくださる方です。

もしかしたら神はご存じではないかもしれないなどと思って、
自分の願いをしつこく繰り返す必要は全くありません。
信頼と忍耐、必要なのはそれだけです。

神はわたしたちに自由意志をくださっているのですが、
わたしたちが神を呼び求める様になれば、
わたしたちの人生のなかに神の御心が働かれるようになります。

わたしたちが授かっているものについて、
神に感謝することが、どんなに大切なことかも良く解りました。
感謝の気持ちは永遠の美徳です。

へりくだってお願いして、感謝して受け取らなければいけません。
いただいた恵みを神に感謝すればするほど、
さらに多くの恵みをいただける道が開かれてきます。

神はともかくわたしたちを祝福したいと願っておられます。
わたしたちが自分の心を開いて神の祝福にあずかろうと思えば、
わたしたちもあふれるばかりの祝福で満たされるようになります。

神は生きておられます。
わたしたちも天使のように、困っている人を助けてあげることができるのです。
祈りと礼拝があれば、わたしたちの光はいつまでも輝いています。

礼拝こそ、思いやりと愛の火をともしたわたしたちのランプの油なのです。

          <感謝合掌 平成27年5月31日 頓首再拝>

母親になりたかったエバ - 伝統

2015/06/01 (Mon) 17:30:04

        *「死んでわたしが体験したこと」(P162~163)より

《男たちだけの委員会》

案内の二人は私を大きな建物へ連れていってくれました。
中に入ったとたん、ハッと息を飲みました。
手の込んだ装飾が何とも見事な造形美を造りあげています。
完壁な建物です。

直線、角度、細部の装飾、全てが建物全体と完全に調和して、
一体感と必然性を醸(かも)し出しています。

その造作と装飾の全てが一級品の芸術でした。
案内された部屋も実に見事な造りです。

中に入ると、いんげん豆の形をした机の両側に男の人達が座っていました。
その人達の前に連れて行かれた私は、机の窪んだ所に立つように言われました。

そのとき、ひとつのことが急に気になりました。
そこには十二人の人がいたのですが、全く女性抜きの男性ばかりだったのです。


《母親になりたかったエバ》

この世で女性の自立論にかなり肩入れしていた私は、
世の中の女性の役割にはとても敏感な人間でした。

機会均等や公正な処遇といったことが気に掛かっていましたし、
女性の能力という問題については、どんな状況でも男性に負けやしないという
強硬意見の持ち主だったのです。

昔のわたしだったら、女性抜きで男性ばかりの、こんな会議のテーブルにつかされたら、
きっと不愉快な素振りを見せていたはずです。


しかし、このときの私は、
男女の役割分担についてそれまでとは違った考え方を身につけていました。
こんな風に考えられるようになったのは、天地創造の場面を見せてもらってからのことでした。

あのとき、アダムとエバの違いが解ったのです。

アダムはエデンの園の生活が気に入っていましたが、エバは腰がすわっていませんでした。
子供が欲しくてしょうがなかったエバは、母親になるためには死をも辞さぬ覚悟でした。

エバは誘惑に「負けた」のではありません。
そうではなくて、立派になりたかったエバは
自分に必要な状況をつくりだそうと意識的な決断をくだしたのです。

そしてエバがアダムを誘って、ついにはアダムにも木の実を食べさせてしまいました。
アダムとエバが木の実を食べてしまったので、人類に死が入ってきました。

その結果、人間は子供を産めるようにはなりましたが、
同時に死から逃れられなくなってしまったのです。


神の霊がエバの上で休んでいます。
女性にはいつの時代にも特別な役割が与えられています。

感情的につくられている女性は、愛に敏感に反応するので、
神の霊を宿し易くなっているのです。それに母親という役割が、
創造主としての神と一種特別な関係をつくりだしています。

          <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

サタンは女性に攻撃を仕掛けてくる - 伝統

2015/06/02 (Tue) 19:37:06


        *「死んでわたしが体験したこと」(P164~165)より

また、女性が直面する危険は、サタンから来ていることも解りました。

エデンの園のときと全く同じ誘惑の手口を、サタンはこの世でも使っています。
サタンは女性を誘惑して、家族を破滅に誘い、
人間性を打ち砕こうと必死になっています。

心が塞(ふさ)ぎますが、ともかくそれが真実です。

サタンの計画はいかにも単純です。
サタンは女性の不安定さを突破口に攻撃を仕掛けてきます。
そして、女性の感情の力を巧妙に利用して来ます。

その女性の感情はエバの場合と全く同じです。
現状に満足し切っていたアダムの心を動かしてしまうほどの力を
エバに与えたあの感情です。


サタンは夫婦の関係に攻撃を仕掛けてきます。
夫婦を引き離して、セックスや欲望といったエサで家庭を破滅に向かわせていきます。
家庭が崩壊すれば、子供たちもダメになります。

そして妻たちは恐怖感と罪意識から、必ず打ちひしがれるようになります。
家族をバラバラにしてしまった罪意識、そして将来への恐怖感。

サタンはこの恐怖感と罪意識を巧みに利用して、女性を破滅に向かわせ、
この世で女性に約束されていた神聖な目的を崩壊させてしまいます。

女が一旦サタンの手に落ちてしまえば、
男を落とすのは赤子の手をひねるよりも簡単です。

こうして、男と女の役割の違いが私にも解るようになりました。
男女の役割は、それぞれ必要で、はじめから整然と分かれていたのです。

          <感謝合掌 平成27年6月2日 頓首再拝>

あなたはこの世に帰っていただきます - 伝統

2015/06/03 (Wed) 17:33:56

        *「死んでわたしが体験したこと」(P165~166)より

こうした新しい考え方に変えられていた私は、
委員会のメンバーが男性だけだったとしても、それには反発は感じませんでした。

男には男の役割があって、
私には私の役割があるという事実をありのままに受け入れていたからです。

その人達からは私への愛が降り注がれています。
その人達と同席しているだけで、心の安らぎを覚えます。
委員会のメンバーは額を寄せてなにやら相談を始めました。

しばらくして、中の一人が私に話し掛けて来ました。
「ときがまだ来ないうちに死んでしまったのですから、あなたはこの世に帰っていただきます」
口々にこんなことを言っていました。

この世にどうしても帰っていただきます、
あちらにまだやらななければならない使命が残っています

でも、私は厭でした。
だって、ここが私の家なのに。
誰が何と言おうと、ここを出るように私を納得させることはできやしないと思いました。

委員会のメンバーはふたたび協議をすると、今度は、
あなたは自分の人生を振りかえってみたくはありませんか
と、聞いてきました。

それは、まるで命令のような質問でした。
私はためらいを覚えました。
こんなにも愛に溢れた清らかな場所で、自分のはかない過去を振りかえるなんて、
なんだか場ちがいのような気がしたからです。

あなたにはとても重要なことなのです、
委員会の人達がそう言うので、言われたとおりにすることにしました。
一条の光が片隅から射してきました。
救い主の愛が私のすぐそばに感じられます。

          <感謝合掌 平成27年6月3日 頓首再拝>

私の人生の再現 - 伝統

2015/06/04 (Thu) 18:56:39


        *「死んでわたしが体験したこと」(P166~168)より

わたしは左に寄って、自分の人生の再現を見つめることになりました。
さっきまで立っていた所で、全てが始まりました。

眼前で再現される私の人生は、精巧なホログラムのように、
とんでもないスピードで進んでいきました。

あんなにものすごいスピードで進んでいながら、
ほとんどの内容が理解できたのには、我ながら驚きました。

人生にはさまざまな事件が起こるものですが、
その一つひとつの事件について、自分が覚えていた事実よりも、
もっと多くのことが理解できました。

そのときどきに感じた自分の気持ちを追体験しただけではありません。
そこにいた他の人達の気持ちも体験できたのです。
その場にいた人達が、私のことをどんなふうに考え、どんなふうに感じていたか、
それを体験することができたのです。

このときの体験を通して、いろいろな出来事が、
全く新しい姿で私の目に浮き彫りにされてきました。

「そうだったのか」 つい一人ごとが出てしまいます。
「なるほど。そういう訳だったのね。そんなこと、誰が考えられて?
でも、もういいの。よくわかったわ」

それから、私のせいで誰かが味わうことになった失意も見させられました。
失意のどん底に置かれた人の気持ちが伝わってきて、身の凍るような思いがします。
そこに罪意識が重なっていきます。

私はどんなに人を苦しめてきたことでしょう。
その人達の苦しみを肌で感じました。
身体がわなないてきます。

私の悪い性質がどれほどの悲しみをつくりだしていたかがわかりました。
その悲しみを思うと、つらくなります。
本当に私はわがままでした。

私の心は、大声で救いを求めています。
なんと思い遣りのない私だったのでしょう。

苦しみのただなかにいた私は、
委員会の人達の愛が自分の身に降り注がれているように感じました。
その委員会の全員が私の人生を思い遣りと憐れみの目で見てくれていたのです。

私の人生の全てのことに配慮がなされていました。

どんなふうに育てられたか、
どんなことを教えられたか、
人からどんな苦痛を味わわされたか、
人生でどんなチャンスが与えられたか、
またどんなチャンスが奪われたか・・・・

この委員会は私のことを裁いていたのではありません。
私が自分で自分自身のことを裁いていたのです。
委員会のメンバーの愛と思い遣りは、揺るぎのないものでした。

あの人たちの私への敬意が弱まるようなことは決してありません。

委員会の人達の愛がなおのこと有り難く思われたのは、
目の前の私の人生が新しい場面に切り変わったときでした。

          <感謝合掌 平成27年6月4日 頓首再拝>

思わぬ所でほかの人を傷つけていた私 - 伝統

2015/06/05 (Fri) 17:58:56


        *「死んでわたしが体験したこと」(P168~165)より

それは、委員会が「波及効果」と呼んでいた場面です。

そこには、人を傷つけてばかりいた私の姿がありました。
そして私が傷つけた人達が、今度は別の人を同じように傷つけている姿がありました。

この被害者の連鎖はドミノ倒しのように続いていって、また振り出しに戻ってきます。
最後のドミノは加害者である私自身だったのです。

ドミノの波は向こうへ行ったかと思うと、また戻ってきます。
思わぬ所で思わぬ人を私は苦しめていました。
心の痛みが耐えられぬほど大きくなっていきました。


救い主が私に歩み寄って来てくださいました。
私のことを心から心配して愛しておられたのです。
主の霊が私を力づけてくれました。

そして、私は自分を厳しく裁きすぎているのだと言われました。
「あなたは自分に厳しすぎる」
そう言われたのです。

そのあとで、さっきの波及効果の裏返しの面を見せてくださいました。
そこには、なにか善いことをしている私の姿がありました。
善いことといっても、わがままを出さなかったという程度なのですが、
それがドミノの波となって外へ広がっていきました。

私が優しくしてあげた友人が、今度はその友人に優しくしてあげる、
こんなふうに連鎖が続いていくのです。
まわりの人の人生は、愛と幸せがいや増すばかりです。

こうなったのも、私のちょっとした行いがあったからです。
みんなは、ますます幸せになっていきました。
幸せになったおかげで、人生の歩みも前向きで意義のあるものになっていきました。

私の心の痛みは、喜びに変わりました。
みんなが感じている愛を私も感じています。
みんなの喜びを私も感じています。

こんな素晴らしいことが、それもたった一度のちょっとした親切で・・・・

力のある言葉が浮かんできました。
心のなかでそれを何度も繰り返してみました。

「いちばん大切なもの、それは愛。
いちばん大切なもの、それは愛。
そして愛は喜び」

次の聖書のみ言葉も思い出しました。

「私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ十章十節)

私の魂は豊かな喜びに満たされていました。

          <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

喜びが解るようになるには、悲しみを知らなければいけません - 伝統

2015/06/06 (Sat) 19:33:20


        *「死んでわたしが体験したこと」(P170~172)より

全てが、いかにも単純でした。
優しくしてあげれば、喜びが向こうからやってくる、ただそれだけなのです。

そんな私に、こんな疑問が湧いてきました。
「どうしていままでこんなことが解らなかったのかしら」

イエスさまがお答えになったのか、さっきの委員の人が答えてくれたのか、
よくはわかりませんが、その回答は私の胸に探く突き刺さりました。

魂の奥底にまで触れたその言葉は、
苦難や敵意についての解釈を根本的に変えてしまうものでした。
その答えとは、こういうものでした。

「あなたがたは、この世にあっては、暗い体験も明るい体験もどちらも必要だったのです。
喜びが解るようになるには、悲しみを知らなければいけません」

私が体験してきた全てのことが、今まさに新しい意味を持ってきました。
これまでの人生で、本当に取り返しのつかない過ちなど、なにひとつなかったのです。

一つひとつの体験が私を成長させてくれる材料になっていました。
一つひとつの不幸な体験を通して、私は自分自身のことがはっきり見えるようになりました。

その結果、こうした不幸な体験からやっと解放されることができました。
また、隣人を助ける力が自分についてきていることも解りました。

自分の体験したことでも、その多くは守護天使の手で導かれていました。
悲しい体験もあれば、楽しい体験もあります。
どちらにしても、私をもっと高いレベルの知識にたどり着かせるために、
あらゆる体験が計画されていたのです。

苦しんでいた私のそばには、いつも守護天使がいて、
あらゆる手をつくして助けてくれていました。

そのときの必要に応じて、守護天使の数はたくさんだったり、
ほんの数人だったりします。

自分の人生を振りかえっているうちに、
同じ過ちを何度となく繰り返していた自分に気付かされました。

イヤというほど同じ悪事を繰り返さなければ、
結局の所、私には真理など何も解らなかったことでしょう。

しかし、いったんその真理に気が付きさえすれば、
大きな飛躍に通ずる門があちこちに開かれてくるのです。

門は本当に開かれています。
自分の力でやったと思っていることも、
たいがいは神から助けの手が伸べられていたのです。

          <感謝合掌 平成27年6月6日 頓首再拝>

罪を許されて、成長していく - 伝統

2015/06/07 (Sun) 18:25:27


        *「死んでわたしが体験したこと」(P172~175)より

ここで、私の人生の舞台は暗い体験の場面から本格的な明るい体験の場面に変わりました。
自分を計る尺度が変わっていたので、
私はさまざまな角度から自分の罪や欠点を光に照らしてみました。

たしかにこうした罪や欠点は、誰にとっても面白くないものなのですが、
私には、真理を学んだり、自分の考え方や行いを修正していくための道具になりました。

許された罪は忘れ去られています。

新しい知識と新しい生き方が、罪を覆い隠してくれるのです。
この新しい知識を知ってから、私は罪が自然に捨てられるようになりました。

ただし罪そのものは忘れ去られるとしても、
罪を体験するという教育的な面はやはり残っています。
このように許された罪が私の成長を促し、隣人を助ける力を強めているのです。

この新しい知識は、自分を完全に許すために必要な座標軸を与えてくれました。
自分を許すということが、全てを許すことの出発点だったのです。

自分のことが許せない人には、隣人を心から許すことができません。
私は隣人を許してあげなければならなかったのです。

自分が与えたものを、自分が受け取ることになります。
自分のことを許して欲しければ、まず相手のことを許さなければいけません。

私は、相手のしたことに目くじらをたてたり、
許したりできないと思ってしまうたちの人間です。
所が自分だって同じことをやりかねないし、現にやっているかもしれません。

隣人のしたことで自分の弱さが暴かれてしまうのではないかと、私はビクビクしていました。
ひょっとしたら自分の潜在的な弱さにビクビクしていたのかもしれません。

この世のものにこだわっていると、とんでもない害毒が及んできます。
成長は全て霊的なものだからです。
物欲やむさぼりといったこの世的な欲望にとらわれていると、霊が窒息してしまいます。

この世の欲望を神として崇めると、私たちは肉に縛られるようになります。
そして、まことの神が望んでおられる成長と喜びを、
私たちは自由に体験できなくなってしまうのです。


今度は言葉ではなしに、私に与えられた英知がこんなことを語りかけてきました。

人生で最も大切なことは、自分と同じように隣人を愛することだというのです。
所が、自分と同じように隣人を愛するには、
まず自分自身を心から愛さなければいけません。

私の中にはキリストの美しさと光があります。
主はそれをご存じです。

今度は、私が自分の内側を覗いて、それを探さなければなりません。
命令でも受けたかのように、自分の内側を覗いてみました。

すると、もともと自分の魂に備わっていた優美さを、
私が自分で抑えつけていたことが解りました。
昔のような美しい輝きを、もう一度取り返さなければいけません。

          <感謝合掌 平成27年6月7日 頓首再拝>

イエスさまが教えてくれたこの世の私の使命 - 伝統

2015/06/08 (Mon) 19:23:01

        *「死んでわたしが体験したこと」(P175~177)より

人生の再現はこれで終わりました。
委員会のメンバーは黙って席についています。
その人達からは、私への揺るがぬ愛が送られています。
そこには、光に包まれた救い主がおられて、笑みを浮かべながら私の成長ぶりを喜んでおられました。

委員会のメンバーはふたたび協議を始めると、私の方に向き直って、こう言いました。
「あなたはこの世での自分の使命をまだ果たしていません。
この世に帰ってもらう必要があります。
でも、私たちには強制はできません。
選択するのはあなたです」

ためらわずに、私は答えました。
「いいえ、イヤです。帰るなんて、とんでもありません。
私はここの人間です。ここが私の家なんです」
断固とした態度を示しながら、私はテコでも動くものかと思っていました。

委員の一人が、こちらも断固とした口調で言ってきました。
「あなたの仕事はまだ終わっていません。帰ってもらうしかないのです」
ぜったいに帰りたくなんかありませんでした。

子供のころ身につけた「けんか」の必勝法を、次から次に試してみました。
床に身を投げ出して、大声で叫びました。
「帰るのなんか、いやだ」
悲しそうな声で泣いてもみました。
「誰が釆たって、帰ってなんかあげるもんですか。
ずっとここにいるんだから。私のこの世の人生はもう終わったのよ」

ほど遠からぬ所に、イエスさまの姿が見えました。

私の右手の方の、きらきら輝いた光のなかにおられます。
こちらに向かって来られます。
私のことを心配しておられるようです。

でも、その心配のなかにはなにか楽しんでいる気配が見え隠れしています。
私が機嫌を悪くしているのはご存じでしたが、
それでもイエスさまは私のことを喜んでおられます。
ここにずっといたいという私の願いも、ご存じのようでした。

私が床から立ちあがると、イエスさまは委員会のメンバーにこう言われました。
「この人に自分の使命を教えてあげなさい」
それからイエスさまは私の方を向いて、こう言われました。

「自分ではっきり決められるように、あなたの使命を教えてあげよう。
そのあとは、自分で決断するのだ。
この世の人生に戻ったら、あなたの使命も、
ここであなたが教わったことも、全て記憶から消えてしまうことになる」

しぶしぶ、私は自分の使命を教えてもらうことにしました。

          <感謝合掌 平成27年6月8日 頓首再拝>

この世に戻る準備 - 伝統

2015/06/09 (Tue) 18:12:34


        *「死んでわたしが体験したこと」(P177~179)より

教えてもらった手前、私はこの世の生活に戻らざるをえなくなりました。

光と愛に溢れたこの栄光の世界を捨てて、
労苦と不安の世界に戻っていくのは気が進まなかったのですが、
使命のあまりの重大さに、帰らないというわけにはいかなくなりました。

でもすぐに、その場にいた全員の人が約束をしてくれました。
イエスさまも約束してくださいました。
その使命を果たししだい、
即刻、このふるさとに連れ戻してくれるという約束を私は取りつけたのです。

1分だって必要以上の時間をこの世で過ごしたくなんかありません。
ここが私のふるさとだからです。

全員が私の条件に賛成してくれました。

私がこの世に戻る準備がはじまりました。
救い主がこちらに来られて、私の決断を嬉しく思うと声をかけてくださいました。

そして、この世に戻ったら、ここで自分の使命について教わったことは
なにひとつ思い出せないのだということをもう一度話してくださいました。

「この世にいる間、自分の使命はなにかということにこだわっていてはいけない。
そのときがくれば、必ず成就されるのだから」

「さすがに私のことをよくご存じなのね」、私はそう思いました。

もしも私がこの世で自分の使命を覚えていたりしたら、
きっと「やっつけ」仕事でもかたづけるように、たちどころに、
しかも適当に済ませてしまうはずだったからです。

全てが救い主の言葉どおりでした。
私の使命はその詳細が記憶から消されてしまいました。
それをにおわすような痕跡すら残っていなかったのです。

不思議なことに、その使命にこだわるような気持ちも起こりませんでした。
使命を果たししだい、私を連れ戻してくださるという主の約束がありましたが、
その約束について主が最後に語られた言葉は、いまでも耳に残っています。

「この世に残された日数は少ない。長くは向こうにはおれない。
あなたはこちらに帰ってくる」

          <感謝合掌 平成27年6月9日 頓首再拝>

おわりに - 伝統

2015/06/12 (Fri) 19:10:42


著者は、この後、多くの天使たちの祝福を受けながら、天使たちとお別れをし、
この不自由な世界(病院のベットに横たわっている肉体)へと帰還していきます。

肉体へ帰還してから、病いが治るまで、悪霊による干渉を幾度となく受けますが、
守護の天使たちの護りで、悪霊は跳ね返されます。

しかしながら、病いから回復しても、
あの世とこの世とのギャップの差があまりにも大きいため、
精神的には落ち込んだ状況から中々立ち上げることができません。

その中で、家族への愛により、少しずつ前進をしていきます。

その途上で、新たな家族(魂的には実の子であるが、現象的には他人が生んだ子)を
迎え、育てていくことになります。


著者は、次のように述べております。

      
   子宮切除の手術を受けたわたしのところに産まれてくることができなかったので、
   彼女は別の方法でわたしの人生の一部になろうとしたこともわかりました。

   そして、赤ん坊の彼女を引き取るようにことが進んでいった理由もわかりました。

   わたしたちは永遠にわたって友だちのなかの友だちだったのです。
   わたしたちの背後に横たわる永遠、そしてわたしたちの前方に広がる永遠をとおして、
   わたしたちは友だちだったのです。      (P218 より)



さらに、著者は、この書の最後の部分に「なによりも、まず互いに愛し合いなさい」と
述べて、この書を結んでおります。


   わたしたちは互いに愛し合わなければいけません。
   親切で、寛容で、骨おしみせずに人に仕えなければいけません。
   愛ほどわたしたちに大きな喜びをもたらしてくれるものは、ほかにありません。

   愛の報酬はこのうえなくすばらしいものです。

   わたしが体験させられたひとつひとつのことに意味があるとしたら、それは
   わたしたちに愛を教えるというただ一点につきています。
   それ以外のことは、すべてつけたしにすぎません。

   なにも考えずに、ただ救い主のみことばに従うだけです。

   イエスさまは、このみことばをはっきりとわたしに語ってくださいました。

   「なによりも、まず互いに愛し合いなさい」

   これからもわたしは愛することを学んでいくつもりです。 (P220 より)

・・・

この書のあとがきとして、医学博士メルビン・モース による所見が収録されております。

次回は、このあとがきを紹介して、このスレッドの一応の区切りとする予定です。

  
           <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

あとがき~医学博士 メルビン・モース - 伝統

2015/06/19 (Fri) 18:06:04

        *「死んでわたしが体験したこと」(P221~230)より要約

(1)死ぬとということは、ただ暗闇に入っていって、いのちが終るだけだ、
   私はそんな風に考えていた。

   臨床医として、私は老若男女の多くの方々の死を看取ってきたが、
   人の死については、それ以外の考え方などできなかった。

   しかし、医学的な死から生還ししてきた患者の方々にそのときの模様を聞くようになって
   からは、死ぬということは喜びをともなった霊的なものであることが私にもわかるように
   なってきた。

   いのちが終わるときには、暗闇ではなく、愛にあふれた光が私たちを待っている。
   その光のことを、一人の子供がこんなふうに語っている。

   「そこは、すばらしいものだらけなんだ」


(2)20年にわたる科学的な研究の積みかさねによって、
   臨死体験は通常な自然なプロセスであることも立証されている。
   つまり、臨死体験は科学的な事実であって、精神的な幻覚とちがうのである。


(3)人間は生物体であると同時に霊的な存在であることを、
   私たちは改めて認識する必要がある。

   人間社会のさまざまな問題(健康問題、尊厳死、欲望第一主義、・・・)は
   人間が霊的な存在であって相互に依存しあっているという事実を、
   私たちが理解していないことに起因している。


(4)死ぬときに神の光のなかに入った人は、
   次のような美しくも明快な言葉を携えて生還している。

   「愛こそ最高のもの・・・すべては愛が支配していなければいけません・・・
   わたしたちは自分で考えたとおりに周囲の状況をつくりあげています・・・

   わたしたちがこの世に送られてきた目的は、充実した人生を思いきり生きて、
   わたしたちがつくりだすもののなかに喜びを見いだし、失敗と成功を体験して、
   自分の自由意志を働かせて人生を開拓していくためなのです」

   医学的な死から生還したベティ(本書の著者)は、新しく教会を建設しろだとか、
   病人を癒す奇跡を行なえだとかいった仰々しい使命を負わされてきたのではなく、
   ただ愛の言葉を携えてきただけだった。


(5)臨死体験について次のことを私たちは忘れがちである。

   「わたしたちは互いに愛し合わなければいけません。
   親切で、寛容で、骨惜しみせずに人に仕えなければいけません」


(6)ベティー・イーディーの本は、巧みな筆致で、臨死体験を順を追って解説している。
   私たちの知りえないことを、彼女はわからせてくれるのである。

   彼女の体験は、臨死体験について何年間も人々が私に問い続けてきた質問に
   対する回答となっている。私はこれまでその質問に答えることができなかった。


(7)そして、死んでしまった者がなぜ自分の肉体に戻ることをいやがるのかも
   教えてくれる。

   「肉の身体は重たいうえに冷たくて、ともかくわずらわしくていやでした。
   ついさっきまで霊の解放感を心ゆくまで味わっていたわたしは、
   また肉の奴隷になってしまったのです」

   彼女はこう語っている。


(8)人生というものを教えてくれるから臨死体験は重要なのだと、
   ベティー・イーディーは私たちにメッセージを送っている。      

   人間には霊なんてものはない・・・だから死後のいのちなどないのだと私たちが
   考えるようになってから、たかが数百年しか経っていない。

   それ以来、人間は死を不自然に恐れるようになり、死はいのちをむしばむもので、
   人生を豊かに生きる障害となるものだと考えるようになってしまった。

   死は霊的な話だということがわかると、私たちは死を願うようになるのではなく、
   人生をもっと豊かに生きようと思うようになる、ベティーは私たちにそう語っている。

   「神は本当におられることがわかりました。もはや『普遍的な力』を信じている
   のではなく・・・宇宙を創造された『愛なる神』と出会ったのです」


(9)私たちの社会は、本来もっていた霊的な信仰や夢がわからなくなっている。
   その結果、死を変に忌みきらうようになってしまった。

   だから人が死ぬときも、病院のどこかで人間味のない機械にがんじがらめに
   なってしまう。血のかよった家族や友人に囲まれて死ぬようなことは少ない。
   私たちは死に方を忘れている。

   それは、死がもはや日常生活の延長線上のものではないからである。
   同時に、私たちは生き方も忘れている。


(10)著名な神話学者のジョセフ・キャンベルによれば、
   現代の大都会が抱えている問題は麻薬から暴力にいたるまで、
   霊的な夢がどこにもなくなってしまったことが直接の原因だとされている。

   ふつうの人生を生きることが霊的には重要だという事実を、
   私たちは忘れている。

(11)本書「死んで私が体験したこと」には重大な秘密が隠されている。
   その秘密は、数千年にわたって偉大な預言者や霊的な指導者が私たちに
   教えようとしてきたことだ。

   ベティー・イーディーは、その秘密を臨死体験を通して自分のものにすることが
   できた。それは、あなたの人生を変えるだけの力をもった秘密なのである。




                        医学博士  メルビン・モース


           <感謝合掌 平成27年6月19日 頓首再拝>

聖心女子大学 鈴木秀子教授が語る死後生 - 伝統

2015/07/01 (Wed) 18:13:27

           *Webより

鈴木秀子教授はご自身が翻訳された「死んで私が体験したこと」の著書より、
ベティー・イーディーというネイティブ・アメリカンの母とアイルランド系の
父の間に生まれた彼女の体験を挙げられています。



ベティー・イーディーは31歳のとき子宮摘出の手術を受ける

             ↓

     術後に大量の出血をして、一度死を経験する
     数時間だれもその状況に気づいていなかった
 担当医はベティーは間違いなく死んでいたことを認めている

             ↓

死んだベティーは、自分の身体から抜け出るという「幽体離脱」をし、
自分の肉体を高いところから眺めていた。

             ↓

その後、生前7人の子どもと夫を残して○ねないと思っていたので、家族の
いる自分の家に行くと、夫も子どもたちも快適そうに過ごしているのを見る。
その姿を見ているベティーの心の中に、それぞれの家族の予告編が映し出された。

そして・・・自分がいなくても、みな自分なりの価値ある人生を歩んでいく
ことを知り、気がかりだった家族のことが心配ないと確認したベティーは、
ほっとして、この世から旅立つ。

             ↓

ベティーは真っ暗のトンネルを超高速で進んでいく。

             ↓

そのうち、とてつもなくまばゆい光が近づいてきた。

             ↓

そして、愛の光を放つキリストを見た。

(これは、あの世の計らいであることが、江原啓之氏、飯田史彦教授、
坂本政道氏などの書籍で説明されています。日本人がよく見る三途の川や
お花畑も同じ現象で、「死してあの世に戻って来た魂」を安らがせるため)

             ↓

ベティーは「ここが、わたしのほんとうのふるさとなんだ」と確信した。
そこで、あの世で教えてもらったこととして・・・

・この世に生まれようとする霊が、自分で一生のプランを立て、使命を負い、
 受胎した胎児の中に宿るということ

・幼くして死ぬというプランもある

・障害をもって生まれてくるというプランもある

・辛い人生を歩むというプランもある

このような一見不遇そうに見えるプランが自分と周囲の人を成長させるために
必要だと判断するからこそ、そのようなプランを立てて生まれてくる。

この世界へ来て問われることは「愛をもって生きてきたか」だけである。

そこ(トンネルを通過するとき、あるいは光に包まれるとき)では、人生の場面
が映画のシーンのように映し出される。
(この経験をする人が多いのも臨死体験の特徴)

それぞれのシーンでは、自分の気持ちだけでなく、
そのシーンにいる他の人々の気持ちも、自分の気持ちのようによく分かる。

※これも、福島大学 飯田史彦教授「生きがいの創造」でも語られています。

この人を悲しませた → 後悔の念を抱く
この人は私を心から大切に思ってくれていたのだ → 感謝の念を抱く など

そしていずれの場面でも、「愛の大切さ」を強く認識すると
鈴木秀子教授は述べられています。



そして・・・このことから、鈴木秀子教授は、
「この世に生を享けたものはすべて、それぞれのすばらしい使命をもつ存在」
であると述べられています。

たとえ凶悪な犯罪者でさえ、この世に使命をもって生まれてきた存在なのです
とも述べています。

                ↓
ベティーは、まだこの世での使命を果たしていないという理由で再びこの世に
送り返されます。

本人は「もうあんな不完全で、労苦と不安に満ちた世界(この世)へは帰りた
くない」と必死に抵抗しますが、泣く泣くこの世に帰ってきたそうです。


http://blog.goo.ne.jp/fasb2002account/e/b465de83bb6f24db7361966d4933fbcb

○:死

           <感謝合掌 平成27年7月1日 頓首再拝>

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