伝統板・第二

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放てば、自由① - 伝統

2015/04/13 (Mon) 04:01:12

*光明掲示板・伝統・第一「放てば、自由 (33)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=20

・・・

《信じて其儘たらしめよ》

         *「叡智の断片」(P88~90)より


人を自由に放つことが最大の美徳である。
その完全なる解放の奥には人間性の善に対する深い信頼があるのである。
人間性の深い信頼の奥には、人間を創造りたまえる神への深い信頼と尊敬があるのである。

人を悪であると思うものはこの意味に於いて、彼は神を信頼せず神の創造の本来の
完全さを信仰せず、神の全智全能を信頼せず、神にも欠陥あるものだという不敬な観念が
奥底に潜んでいるのである。

一切の不幸は、神の善と愛と智慧と力との完きことを信ぜず、
その創造に欠陥ありとする漠然たる又は明瞭なる潜在意識の信念の具象化であって、
神の創造には責任はないのである。

神の創造は、今も、(諸君が不幸に見舞われているように見えている時にも、また病気に
襲われているように見えている時にも)完全円満にして、今ここに実在するのである。

その実在に心の眼をひらかず、自己の心の仮作せる禍の雲を見、病の霜を見て、日光の
燦然と輝くごとき実相世界(実在)の完全なる相を見ないのが、あわれなる禍と病いに
なやむ人である。

神を信ぜよ。
神の創造の完きを信ぜよ。
禍いと病いと悪しき人とは、神が創造りたまいしものではないから非実在なのである。

わが言葉を信ぜよ。
而して神の創造の善なることを信ぜよ。
しかして全ての人間が神の子として善なることを信ぜよ。

信じて人を縛ることなかれ。
「こうあって欲しい」と思うのも人を縛ることである。
彼自身を《そのまま》たらしむることが真の人間の解放である。

そのままたらしめたときに、全ての人に善そのままの実相があらわれる。
その時すべての悪は消え去り、総ての人は善となり、禍いと病いと貧しさと悩みとは
此の世界から姿を消すであろう。

信じて《そのまま》たらしめよ。
そのままの時、実相あらわる。
実相は完全円満である。

          ・・・

(初出は、『白鳩』誌・昭和22年5月号<巻頭言>で、
 「叡智の断片」は昭和24年(1949年)初版発行)

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「無執着 (9518)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 

(2)*光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

           <感謝合掌 平成27年4月13日 頓首再拝>

何物にも縛られないのが「生命(せいめい)」の実相(ほうとうのすがた) - 伝統

2015/04/20 (Mon) 04:57:49


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P36~37)より

その「生命(せいめい)」の実相(ほんとうのすがた)というものは
どんなものであるかというと何物にも縛られない自由自在なものである。

こういうとその束縛を破ってしまわなければ自由自在になれないかというとそうではない、
《何々しなければ》自由自在になれないというのでは、
その自由自在さは条件付きの自由自在さである。

われわれの生命の実相の自由自在さは、そんな条件付きの自由自在さではない。

「縛られていても自由自在」ということが「智慧の言葉」に書いてありますが、
縛られていても自由自在なのが生命(せいめい)の実相(ほんとうのすがた)なのであります。

生命(せいめい)を縛るという物質的条件の縛りは
真に実在するものではないのでありますから、実在しないものに縛られていても、
なんらわれわれの《本当の生命》は束縛せられるものではないのであります。

これが解らないと、自分は境遇に縛られているから自由自在になれないなどと
月並みなことを考えるようになるのであります。


人間は本来神の子であるから救われている、
すなわち本来自由自在である。
束縛を脱して後はじめて自由になれるというようなものではない。

本来神の子なる人間は縛られていても縛られていないでも、
どちらでも自由自在なのであります。

この真理はただそう思っているだけでは「実)じつ)」にならないのでありまして、
それを動的工夫に移し、その真理を実際に移して実行するとき、

いくら余裕がないように見えても余裕ができてき、
弱いように見えている身体から無限のカが湧き出て来るので、
はじめてわれすなわち神の子なる生命の実相が如実に悟られてくるのであります。

           <感謝合掌 平成27年4月20日 頓首再拝>

自分は無形の存在だと解れば自由になれる - 伝統

2015/04/27 (Mon) 04:55:24


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P169~172)より


人間は「肉体」ではない、有形のものではない、無形のものだということが
悟れるまでは、肉体という物質的な制限に心が捉えられていますから、
本当に心が自由になれないのであります。

心が自由になれないから、本当ののびのびした安らかな心境になれないのであります。


これに反して、「人間」は無形のものだ、「本当の自分」というものは無形のものだ、
ということがわかってきますと、心全体が「行雲流水(こううんりゆうすい)」の
ように自由な境地になれるのであります。

行雲流水といいますが、まだ雲でも水でも形がありますから、風とか、岸とか
いうものに支配されるのでありますが、「自分」というものが本当に無形の存在である
ということがわかってきますと、もう何物にも支配されない自由自在な心境に
でられるのであります。

この真理がわかったとき人間は本当に安らかな心境になり
この安らかな心境を実生活に顕(あら)わしたときには、
それがそのままで「生長の家の生き方」になるのでありまます。

だから「生長の家の生き方」というものは、常に明るい生活であって、
暗い影をもっていない生活であります。

ふつう考えられるこれまでの宗教家らしい生活というものは、
山へでも籠(こも)って微笑一つだにしないで四角四面な顔をして、
窮屈そのもののような生活をしているべきだと思われていましたが、
これほど本当の宗教的生活から遠ざかっているものはないのであります。

本当の宗教生活というものは、生命の実相を生かす生活でなければならないのであります。
つまり大生命の波長と調子を合わした生活でなければならないのであります。

「大生命」すなわち神は白由自在な円満具足完全な、無限に生々として
安らかな力に満ちた生命的波動ともいうべきものでありますから、
この生命的波動と調子を合わした生活こそ真の宗教的生活であって、
その生活なら、ひとりでに実に明るい朗らかな生活となってくるのであります。

よく道徳家とか善人とかいう人が病気になるというような場合には、
おうおうその善人の心が暗いという場合があるのであります。
心が暗ければ他のいかなる点で善人であってもその点で悪人であるということになる
のであります。

先日電車に乗っていると、わたしの前に実に見ていても苦しくて気の毒なほど
眉をひそめ、眼をいびつにした表情をしている四十五、六歳の婦人がいるのです。
表情というものは実に不思議なものでありまして、こうしてその表情のまねをしてみますと、
その不快さが自分にもなんとなしにわかる。

笑った顔をして見るとなんとなく嬉しくなる。
だからなるべくわれわれは無理にでも眉を伸ばし、
にこやかに笑うようにするがよいのであります。

笑うだけで老婆の子宮筋腫が治ってきたという実験談を中畑さんは発表せられましたが、
これはまた別にくわしく述べますが、この表情を明るくし、心を明るくするということは、
あらゆる善行のなかで首位に置かるべきものなのでありますから、
ぜひこの本をお読みになった方はこれを機会にいっそう表情を明るくする修行に
とりかかりたいものであります。


愛とか善とかいうことを人に「物」を与えることばかりだと考えているのはまちがいで
ありまして、(欠乏している人に「物」を与えるということはむろん善いことでありますが、)
それよりもなおいっそう大切なことがある。

それは明るい善い心の波動を人々に与えることであって、
これはあらゆる善行のうちの王者であるとさえいえるのであります。

だからキリストは断食するときにも、「苦しそうな表情をするな。
顔に紅をぬって朗らかな顔をしておれ」と教えているのであります。

人に愉快な表情を与えて歩くということは、物を与えて歩くということよりも
いっそう結構な愛他的行為だということになりますので、

どんな善人でも人々の欠点ばかりが眼についてそれを慨嘆(がいたん)して
不愉快な表情や叱声を人々の前へ振りまいて歩くというようなことでは、
善人の資格のうちでもっとも大切な資格が欠けていることになり、
そういう家庭では家族にしじゅう病気などの不幸が絶えないようなことになるのであります。

           <感謝合掌 平成27年4月27日 頓首再拝>

縛られていても自由自在 - 伝統

2015/05/03 (Sun) 04:37:41


         *『生命の實相』第3巻光明篇(P35~37)より

最初わたしは『生長の家』という雑誌をわたしという人間が出すつもりをしていたので
ありましたが、それが、神の出し給う教誌になってしまったのであります。

「なんびとでも生命の実相を説くものがあれば、われはその人に顕われて一体とならん」
という最近の神示によって明瞭(めいりょう)となったことでありますが、
わたしの書くところわたしの生き方が生命の実相そのものになってきたので
神がそこに顕われ給うたのであります。

その「生命(せいめい)」の実相(ほんとうのすがた)というものは
どんなものであるかというと何物にも縛られない自由自在なものである。

こういうとその束縛を破ってしまわなければ自由自在になれないかというとそうではない、
《何々しなければ》自由自在になれないというのでは、その自由自在さは条件付きの
自由自在さである。

われわれの生命の実相の自由自在さは、そんな条件付きの自由自在さではない。

「縛られていても自由自在」ということが「智慧の言葉」に書いてありますが、
縛られていても自由自在なのが生命(せいめい)の実相(ほうとうのすがた)なのであります。

生命を縛るという物質的条件の縛りは真に実在するものではないのでありますから、
実在しないものに縛られていても、なんらわれわれの《本当の生命》は束縛せられる
ものではないのであります。

これが解らないと、自分は境遇に縛られているから自由自在になれないなどと
月並みなことを考えるようになるのであります。

人間は本来神の子であるから救われている、すなわち本来自由自在である。
束縛を脱して後はじめて自由になれるというようなものではない。

本来神の子なる人間は縛られていても縛られていないでも、
どちらでも自由自在なのであります。

この真理はただそう思っているだけでは「実(じつ)」にならないのでありまして、
それを動的工夫に移し、その真理を実際に移して実行するとき、
いくら余裕がないように見えても余裕ができてき、

弱いように見えている身体(からだ)から無限のカが湧き出て来るので、
はじめてわれすなわち神の子なる生命(せいめい)の実相(じっそう)が
如実に悟られてくるのであります。

           <感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>

愛すると云ふことは放つこと - 伝統

2015/05/12 (Tue) 04:18:16

     *谷口恵美子先生・編著「こころの旅路」(P270~271)より

~昭和27年1月21日 尾道巡錫中の雅春先生からの手紙より

   尾道教化部の奥座敷でこの手紙を認めます。
   大阪では面白い体験談がありました。

   浜口と云ふ老夫人がありましたが、
   胃癌になってもう3日間生命は持つまいと医者から
   宣告されました。

   これは寺田繁三氏が指導したのです。

   その夫人は自分の夫がお妾を3人もこしらえてゐるので、
   それで心に塊をこしらへて癌になつてゐるのでした。

   夫を赦すこと、夫を愛すると云ふことは、夫をつかんでゐると云ふことではない、
   愛すると云ふことは放つことだ。夫の喜びを喜びとすることだ。夫がお妾を拵へて
   喜んでおれば一緒に喜べば好いのだと云ふことを話したと云ふのです。

   その夫人はそれを悟つたと云ふのです。
   すると夫がかへつてお妾を解消してしまつたのです。

   そしてその夫は息子にあやまつた。
   その息子と云ふのはパチンコ屋を開業してゐて、親に見習つてお妾をもつてゐる。
   その息子に父親が、おまへがこんなことになつてゐるのも、皆私が悪いのだ。

   わしがお妾なんかこしらへてゐるから、
   この心が映つておまへがお妾を持つやうなことになつた。
   おまへが悪いのではない。皆私が悪いのだと云つて詫びた。

   すると、息子も「お父さんが悪いのでない、私が悪いのです」と云つて
   その息子もお妾を解消した。

   そしてパチンコ屋のやうな不健全な職業はやめたいとて、
   今その店を改造してゐると云うことでした。

   「一人出家すれば九族天に生る」と云ふのは本当です。

             <感謝合掌 平成27年5月12日 頓首再拝>

「本当の自分」を自覚すると、自由自在な状態が実現する - 伝統

2015/05/17 (Sun) 04:46:13


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P164)より

全世界のいかなる者にも自分が害しよう、傷つけよう、と思っても
害することも傷つけることもできない、

鎖(くさり)で縛って自由を奪ってやろうと思っても、
縛りきれない自由自在なものが「本当の自分」であるということがわかってくると、
もうなにも恐れるところがなくなるのであります。

トルストイはこの遺稿に次のように書いています。

   「吾人(ごじん)は肉体によって生くるに非ず、霊によって生くるのである。
   もしも吾人がこの事実を知って、自己の生命を肉体でなく霊に托するならば、
   吾人は鎖に縛られても、鉄の扉の中にいましめられても、
   なおかつ厳として自由である。」
                          (「人生の道」六十七ぺ-ジ)


このようにわれわれは自分自身というものを物質であると思わず、
「本当の自分」というものを「金剛不壊」の霊的実体であるということを
自覚することになると、

形の上では縛られていても、実際において縛られていない
自由自在な状態が実現するのであります。

すべての悲しみとか怒りとかいうものは、
自分自身をなにか形のあるものであって、ほかから縛り得るものだと
思っている妄想誤想を断ち切れば

われわれは悲しみや怒りやその他あらゆる心の不自由から
脱することができるのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月17日 頓首再拝>

「本当の自分」は無形の存在 - 伝統

2015/05/23 (Sat) 03:58:13


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P165~166)より

この世界は波動の世界であるから、その波動をある形に再現する装置をつくれば
その種類にしたがって、いろいろの姿が顕われ、いろいろの声が顕われるけれども、
その姿、その声が本来そこにあるのだと考えるとまちがいなのであります。

この点で、肉眼に見える世界はむろんのこと、靈眼に見える世界でも、
それがそのままそこに存在すると考えるものは迷いに捉われているといわねばなりません。

よく人は、見えるから存在するという、しかし、肉眼にせよ、霊眼にせよ、
見えるということはなんら存在するという証拠にはならないのであります。

トルストイもいっているように見えないものだけが本当の存在であります。

この谷口自身にしましても、この肉体は眼に見えていかにも一見確固とした
存在であるかのように見える。

しかしこの肉体はけっして確固不壊の存在ではないのでありまして、
なんぴともこの肉体の生活を終らねばならない、
言い換えると結局肉体は死滅してしまわねばならないのであります。

われわれは誰でも、われわれ自身を肉体であると考えるかぎりにおいて、
結局「死刑の宣告」を受けた死刑囚と同じであって一歩ずつ刑期に近づいて行く
のでありますから、常に前途不安、本当に明るい生活には出られないのが当然であります。

本当に明るい生活というものは、「本当の自分」というものが
無形のものであるということを悟ったときにはじめて到達しうるのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月23日 頓首再拝>

病気という念を放てば、健康になれる - 伝統

2015/05/30 (Sat) 04:12:34


         『生命の實相』第3巻生命篇上(P166~167)より

自分というものを形のあるものだと考えていますと、形のあるものは縛られる、
縛られるると思うから苦しい、逃げ出したいと思う、
逃げ出そうと思うからかえって縛っている束縛が眼について苦しくなる、

こうして自分自身を形のあるものだと思っているかぎりわれわれは苦しいのであります。

また、ちょっと病気をしてもここに病気をしている自分が形のままにあると思う、
そのためにその病気という念に捉えられて、その病気という念を常に心にもっているから、

念の客観化(かたちか)したものであるところの肉体は、「病気の念」すなわち
「病気の精神波動」が客観化して、いつまでも病気から免れることができなくなりますが、

これが逆に「自分」というものは無形のものである、
無形のものが有形の病気にかかるはずはないという真理をさとって、
今ここにあらわれている病気の状態は一種の念波である、念波が形にあらわれたものである。

波動というものは「迷いの世界」のものであるから、
ほっておけば時間のたつうちに消えてしまうものであるのは、
風のない湖面の波のようなものである、

心の風さえ騒がせなければそれはやがて自消自減してしまうものであると観じて、
心の平和にして円満完全な「生命」の実相をじっと平静に眺めるようにしていますと、
いろいろ思い惑って手当てをするよりも、結局病気はすみやかに消滅してしまうのであります。

これつまり肉体は念の影でありますから、
念を平静にたもてば肉体はおのずからその平和の念を映じ出して健康になれるのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月30日 頓首再拝>

【執着を捨てる】 - 伝統

2015/06/05 (Fri) 04:10:46


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年06月02日)」より

   (中村天風師の心に響く言葉より…)

   そりゃあ、私だって人間です。
   裸にすりゃあ、へそはやっぱり一つですよ。
   修行して、インドへ行って難行苦行したから、
   へそが三つになったわけじゃないんだから。


   だから、私だって、そりゃあ腹の立つこともあれば、悲しくなることもある。
   特に怒ることは、私は自分でも恥ずかしいくらい、
   のべつ怒ってたという人生だったんです。

   今でもときどき、そういう気持ちが出ますよ。


   こう言うと、「へえー、じゃあ天風、あんまり偉くないね」「あんまり偉くねえんだ」
   「それじゃあ、俺たちと同じじゃないか」「そう。同じ人間だもの」。

   ただ、違うところが一つある。

   どこだというと、同じ怒る、同じ悲しむんでも、
   「あ、今、天風先生、怒ったな、今、天風先生、悲しんだな」と、
   あなた方に見えないうちに消しちまう。

   パパッ、パパッと。


   あなた方は、怒りだしたり、悲しみだすと、そらもう派手ですぜ。
   すぐ第三者に、「あ、怒ってる、悲しんでる」とわかるようにやりだすね。

   そうして、わからせたうえに、これがまた実に、ほかのことじゃ辛抱強くもないのに、
   そういうときの感情だけは実に念を入れて長く続かせるね。

   それを執着と言うんですがね。

         <『ほんとうの心の力』PHP研究所>

               ・・・

「今泣いた烏(カラス)がもう笑う」という言葉がある。

今までずっと泣いていた子どもが、ちょっと面白いことがあると、
次の瞬間もう笑っている、というようなことを言う。


子どもは感性が豊かだから、その時その時に集中して、即今(そっこん)の感情で動く。


しかし、大人はそうはいかない。
一度怒ってしまったら最後、すぐに笑うなどということはなかなかできない。
それが、メンツだったり、権威だったり、世間体だったりする。


つまり、大人になるにしたがって「しがらみ」が多くなり、
感性が鈍(にぶ)ってしまうのだ。
その場その場に集中できず、いつまでも引きずってしまう。

どんなに怒りを覚えても、それを瞬間に消すという、「執着」を捨てる修行。

いつまでも怒っている人は、執念深い人。

執念深い人は嫌われる。

             <感謝合掌 平成27年6月5日 頓首再拝>

病いを放てば、癒ゆ - 伝統

2015/06/12 (Fri) 03:50:52

        *「真理」第4巻青年篇(P317~319)より

(病気を歓待する心を捨てて胃下垂が治った実例)


同じく龍野の中島富蔵さんは、胃下垂であらゆる療法をやって見た、自力健康法器も、 
薬物療法も食物の摂生もあらゆる療法をやってみたけど良くならない。

そこである日の夕方、そのしくしく痛む胃袋に対して絶縁を宣告したのである。

「お前には随分世話をしてやった。自力健康法もつ使かってやった。。
電気療法も、薬物療法も、お前のしたいと云うあらゆる療法を施してやったけれども
お前はブツブッ~小言ばかりを言うばかりである。お前にはもう愛想が尽きたのである。

もうおまえが小言を言っても私は一切構わぬことにしたのである。
もうお前の要求を聞いている訳には行かない。
お前はもう、痛もうと苦しもうと勝手にするがよい。私は私の勝手にするのである。」

こう真面目に自分の胃袋に対して宣告したというのである。

それから中島富蔵さんは夕食の食前のところへ出て来た。
そしてその決心を家内に述べた。

「私は胃袋に愛想がつきて、もう胃袋にかまってやることをやめたよ。
これから私は何でも自分の好きな物を食べて、
胃袋が痛もうが痛むまいがそんなことには頓着しないのだ。

○ね、生きると生長の家では教えているが、私はもうもうこの痛む胃に食物を
思いっきり放り込んで、そのために今晩ねて死んでしまっていたならば、
「生長の家」の教えにだまされて、私はその通り実行して死んだのだ。
「生長の家」は夫を殺した仇だと宣伝してくれ。これが私の唯一の遺言だ」

私はこう言ってその時食膳にあった手打ちのよく精白していないザラザラのウドン粉で
こしらえたウドンを腹一杯食べた。

「これで私は胃袋の機嫌などはとらないのだ。いつまで機嫌とったとて駄目だ。
これで死んだら、もうこの面倒な肉体とはおさらばだ」

と思いながら眠ってしまった。
家内は泪をこぼしながら聞いていた。

私は、こうして「胃袋よ、どうなとなれ」と云うような放つ気持ちで寝た。
するとその晩、私は熟睡して朝までグッスリ眠ってしまった。
今までこんな気持ちよくグッスリ眠ったことはなかった。

夜中、胃も痛まず、目が覚めて見ると、それっきり長い間の胃病が治っていたというのである。
病気は掴んでいる間だけあるのであって放てば無い。
「○ね、生きる」と云う生長の家の教へを実行した体験だと話されたのであります。

・・・

○:死

             <感謝合掌 平成27年6月12日 頓首再拝>

「人間」を完全に解放せよ - 伝統

2015/06/20 (Sat) 04:53:20


           *「若人のための78章」(P58~60)より


諸君は何人をも縛ってはならないのである。
形で縛ってはならないと同時に、心で縛ってはならないのである。
他の人を縛ってはならないと同時に、自分自身を縛ってはならないのである。

何故なら、すべての人間は神の子であるからである。

如何なる人に対しても一切の制限を心に描くことは、その人を縛ることになるのである。

「彼は悪しき者である」と考えることは彼を縛ることである。
「彼は病気であるから動けないであろう」と考えることは彼を縛ることである。
「彼は黴菌に侵されていて再び起つことが出来ないであろう」と考えることは彼を縛ることである。
「彼の性格は悪しきものであるから、彼は欺くかもしれない」と考えることは彼を縛ることである。

すべての消極的な形容詞を彼に興えることは彼を縛ることである。

吾々は彼に一切の制限し束縛する形容詞を興えてはならないのである。
あらゆる点に完全円満にして一切具足せる可能性を心に描いてそれを礼拝することが、
彼を真に解放することなのである。

 
その人に投げかけられたる想念及び感情はその想念及び感情の相において
其人を束縛しその人を限定することになるのである。

吾々はその人のあらゆる可能性に対して
自由に伸びる窓を開いて置いてあげなければならないのである。

これは他人に対してそうでなければならないと同様に、
自分に対してもそうでなければならないのである。

 
自己を天才乏しき者と思う者は自己を縛る者である。
自己を虚弱な体質なりと思う者は自己を縛る者である。
自己を腹立て易き者と思う者は自己を縛る者である。
一切の消極的な性格を自己の性格だと思う者は自己を縛る者である。

 
吾々はもっと人間の神性に就いて信念をもたなければならないのである。
人は信ずる通りの処のものとなり、また信ぜられる通りの処のものとなるのである。
人間の可能性は無限であるからである。
あらゆる機会、あらゆる経験、悉く人を縛り傷つけるように興えられているのではないのである。


神は一切の機会と経験とを、吾等に内在する可能性をより一層磨き出すために興えたのである。
吾々はそれを知って如何なる機会も如何なる境遇も、よりよく吾等の内在無限の可能性を
磨き出すほか何物でもないと感謝して受けることによって
自己内在の神性を一層磨き出す機会とすることが出来るのである。

             <感謝合掌 平成27年6月20日 頓首再拝>

愛する者を放つ時、最高の幸せが返ってくる - 伝統

2015/06/28 (Sun) 06:24:39


        *『叡智の断片』(P305)より

相手を縛る時、相手は決してありの儘(まま)の完全な姿を現わすものではない。
人を縛ってはならない。

良人(おっと)を、妻を、子供を、本当に愛するならば、
良人を、妻を、子供を、完全に《自由に放た》ねばならない。


愛する者を放つ時、最愛のものは自分のふところに帰ってくる。
愛する者を縛る時、最愛の者は自分から離れ去ってしまう。


             <感謝合掌 平成27年6月28日 頓首再拝>

自分は無形の存在だと解れば自由になれる - 伝統

2015/07/07 (Tue) 04:21:47


           *「生命の實相」第三巻生命篇上(P169~170)より

人間は「肉体」ではない、有形のものではない、無形のものだということが悟れるまでは、
肉体という物質的な制限に心が捉えられていますから、本当に心が自由になれないのであります。

心が自由になれないから、本当ののびのびした安らかな心境になれないのであります。


これに反して、「人間」は無形のものだ、「本当の自分」というものは無形のものだ、
ということがわかってきますと、心全体が「行雲流水(こううんりゆうすい)」のように
自由な境地になれるのであります。

行雲流水といいますが、まだ雲でも水でも形がありますから、
風とカ、岸とかいうものに支配されるのでありますが、
「自分」というものが本当に無形の存在であるということがわかってきますと、
もう何物にも支配されない自由自在な心境にでられるのであります

             <感謝合掌 平成27年7月7日 頓首再拝>

放てば満つる - 伝統

2015/07/16 (Thu) 04:23:32


        *『生命の實相』第3巻 より

放てば手に満つる。掴(つか)めば苦しみが来る

人間は本来神の子であるから救われているのです。
本来自由自在であります。

これが多くの人々が救われている生長の家の説く根本真理であります。

束縛を脱して後始めて自由になれるというようなものではないのです。

神の子の自覚は放し切った大自在の境地であります。
病気、不幸、その他何事でも掴(つか)めばそこからすぐ苦しみが生じます。

  (http://blog.livedoor.jp/kou233-nitikun/archives/51552674.html

・・・

【放てば手にみてり】
~手放してこそ大切なものが手に入る~

         *Web より

意味:

「手放せば、手に入る」曹洞宗開祖、道元禅師の言葉で
『坐禅修行をすることで、思いを手放し執着を捨て、心を空にすれば、
真理と一体になったゆたかな境地が手に入る』と説いた。

人は生きている間中、あれも欲しいこれも欲しい、
ああしたいこうしたいという思いにとらわれる事が多い生き物です。

もちろん、欲をかくばかりでなく、
「自分はどう生きればいいのか」と真剣に悩み、考え抜く人もいるでしょう。

このコトバはそんな、勉学、研究、仕事、事業、経営、人間関係、恋愛など、
あらゆる人間の営みと、それが引き起こすあらゆる苦難に向けたものです。

壁に行き当たり、すべての手段、すべての努力を延々と続け、
ついに力尽き、にっちもさっちも行かなくなった人に、
最後の手立て、「それ」を「手放す」勇気を教えてくれています。

もちろん、ただ断念し、放棄するわけではありません。
あきらめることは、もっと根の深い「執着」を後々までも引きずることになりますから、
諦めると手放すの違いには注意しなければいけません。

あれこれ真面目に考えることも雑念であり妄執。
自分にとって命の次に大切な「それ」の存在そのものをからっ、と空白にすることです。
そうして手から放たれたとき、自然に手に満ちてきます。

何かを掴んだままの手には、別のものを渡しようがありません。
まずは、それを手放してみましょう。
放してみたら、「なんだこんなつまらないモノを掴んでいたのか」と
笑ってしまうかもしれませんよ。

https://ja-jp.facebook.com/kai.sou.naka/posts/668079733271235

             <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

心を放てば心無し - 伝統

2015/07/22 (Wed) 04:58:33


            *「善き人生の創造」(P230~231)より要約


(達磨大師と慧可禅師との問答の場面)

慧可:「わが心悩む。どうぞ、お救い下さいませ」

達磨:「其の悩んでいる心を此処へ持って来い。安(やす)ませてやるから」

   
   (慧可は、心を探し回ったが)

慧可:「心を覓(もと)むるに心なし」 (と慧可は思わず云った)

達磨:「そらもうないじゃないか。心がなければ悩むこともないのだ」(と、達磨は云われた)



そしたら慧可の悩む心はスッと消えたのです。

迷える心が病気の因だと言いますと、
その心をどうしようかと益々つかんで苦しむ人がありますが、
「心」と云うものは、それに引っかかって捕まえるから悩むのです。

心を放せたら自ずから悩みを消えるのであります。

要するに悩みを消すには心を放つと云うことが大切です。

本当の宗教は心を放つことを教える、
それは病気治しではないけれども、
心を放つから心の滞(とどこお)りがなくなり病気が治るのであります。

             <感謝合掌 平成27年7月22日 頓首再拝>

去るものは追わず - 伝統

2015/07/29 (Wed) 04:35:42


            *「女性の幸福365章」(P384)より


過去は過去である。
既に過ぎ去ったのである。
過去の悲しみを反芻(はんすう)するな。

古いものをつかんでいたならば、新しいものを捉(とら)えることはできない。
過去を捨てるときには過去に感謝して捨てるがよい。

困難だった過去でも、その困難と闘わなければ発達せしめることができないような
ある種の自分の能力を発達させてくれたのであるから、
そのことに感謝して過去と別れるがよい。



去る者に執着して追ってはならない。
去りゆく者はあなたの魂に何物かを与える役目を果たし終わったから去るのである。
去る者に対して自分を裏切ったなどと憤(いか)りや恨みをもってはならない。

去る者を感謝して放ち去ったとき、
新しい友または伴侶が来るための空席がしつらえられるのである。

過去の恋人をいつまでも心の中に持っていて結婚するならば、
その結婚は禍(わざわい)となる。

去り行くすべての人と物と事とに感謝せよ、新しき良きもの来(きた)る。

             <感謝合掌 平成27年7月29日 頓首再拝>

拳を開け - 伝統

2015/08/05 (Wed) 04:52:02


          *『生長の家』誌(昭和18年8月号 40頁)より

拳を握っていては、人と手を繋ぐことが出来ない、
開いた時、初めて握手することが出来るのである。

心 ・・・ 自分の心を本当に打開いた時、
天地一切のものと和解することが出来るのである。

遠くに求めてはならぬ。
手近にあるものが、神の与え給うたものである。

仮令軽少な物でも、それに全力を打込んでやり遂げることだ。

而もそれが立派に出来上った時、
神は更に重責を与え給うのである。

人間の生長とか、健康とか、又は家庭の調和とか云うことも、
実は些細な点にかかるのである。

たとえば、人には種々の癖がある。

言葉が判然しないとか、表情が常に暗いとか
そう云う癖を自ら反省し、矯正することだけによっても、
容易且つ自然に周囲と調和し、家庭も明るくなるのである。

このことは軈て一国の運命、その勝利と云うことにも関わることである。

すべて ――  小事大切である。

 (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19380333.html

             <感謝合掌 平成27年8月5日 頓首再拝>

親の虚栄心(きょえいしん)で神の子たる子供を縛るな - 伝統

2015/08/12 (Wed) 04:35:38


           *谷口清超ヒューマン・ブックス10『愛は凡てを癒す』より

親は自分の「好みの型」に子供をはめ込もうとしないで、
子供の天分をのばしてやることが大切です。

子供がいかなる職業に向くか、
どの学校に行くのが適しているかという事は
神様のみが御存知(ごぞんじ)なのであって、

親が子供を心で縛るならば、
子供の才能を窒息せしめてしまうのであります。

             <感謝合掌 平成27年8月12日 頓首再拝>

家族とは「惑星」のようなもの - 伝統

2015/08/19 (Wed) 04:28:55

家族とは「惑星」のようなもの
――。頼りなく迷うように見えて、宇宙の精妙な力で運行されている

               *Webより

《宇宙の法則にゆだねる》

人生における大きな悩みのひとつに、
自分のパートナーや子供などの「家族の問題」があります。

よその家の出来事ならば、「そういうこともあるよねぇ、きっと大丈夫だよ」と
軽やかにとらえられる問題でも、自分の家庭のこととなると、
「人生を揺り動かす大問題」に思えたりするものです。

そしてパートナーなり子供をきちんと「コントロールしてあげる」ことが、
相手のためを思ってする正義なり愛情だと考えてしまう…。

スピリチュアルなメッセージやカウンセリングなどではよく、
「自分の価値意識や信念を相手に押し付けるのは良くない」と言われます。

そのとりわけ難しいレッスンの場がといえるのが、「家族」関係でしょう――。

もちろん、相手の話をしっかり聞いたり、
一緒に考えてあげることはとても大切なことです。

でも実は――、最終的には自分が「コントロールを手放してゆだねる」ことを学ぶ
という目的のために、家族の色んな問題が目の前に起こってくるのではないかな、
と考えています。

そして最終的には、信頼してじっくり見守っていくことだけが、唯一の道なのでしょう。



家族の関係というのは、「惑星」のようなものだと考えています。

たとえば自分を「地球」だとすれば、
パートナーは「金星」で、子供が「火星」、といった感じ。

これらの星は、宇宙の中ではものすごく近い距離にあります。
そして、同じ太陽の周りを回っている。まさに1つの家族のようなものです。
でも、「軌道」が同じわけではありません――。

それぞれの惑星は、あくまでも「異なる道」を歩んでいるのです。
ここからがなかなか面白い現象なのですが、近い距離で異なる軌道を回っている惑星は、
地上からはどんなふうに動いて見えるでしょうか?――

夜空の星には、それぞれの位置が定まった「星座」があります。
シリウスがいつの間にか大犬座から抜け出ていたり、
オリオン座の3つ星が並び方を変えたり、ということは絶対にあり得ないです。

それに対して、金星や火星などの惑星には星座がない。
日がたつにつれ、位置がどんどん移り変わっていきます。

だから「惑(まど)う星」と書くわけです。
(英語の「Planet」も、ギリシャ語の「さまよえるもの」が語源といわれます)

で、この記事タイトルの下にある図は何かというと――、2つある上のほうのは、
日の入り時刻に西の空に見える「金星」の位置の推移です
(2013年、画像は「つるちゃんのプラネタリウム」より)。

いわゆる「宵の明星」で、夕暮れ空を見上げて「明るく輝いてきれいだなぁ」と
思う人は多いとけど、日々こんなふうに動いているんですね。
何だか、行き先も定まらず、ゆらめきながら旋回している感じですよね…。

そして下の図のほうは、日の出時刻における「水星」の位置の推移です。
何だか不規則に跳ね回るような動きで、「これでマトモなの?」って言いたくなる感じ…。
ほかの星たちはきちんと定まった星座があるというのに、まるで放蕩息子のようです。

でも当然のことながら、金星も水星も、太陽を中心とする精密な楕円軌道上を運行しています。
それなのに、私たちが地上から見れば、「惑ってさまよう」みたいな動きで見えるのです。
どうしてこんな不思議な動き方になるのか、考えたら頭がこんがらがってきます…。



家族というのは、いわばこの惑星のように、
「近い関係にありながら異なる道を歩んでいる」からこそ、
自分の目には心配なほど不安定な動きに映るのだと言えるのではないでしょうか。

でも、いくらそうにしか見えなくても、
それは宇宙の法則によって完璧に安定して動かされている。
自分はただそれを信頼して、ゆだねればいい――。


この真実を見いだすことが、家族関係を通じた大きなレッスンではないかな、と思うのです。
記事の最後に、終末期医療の先駆者のエリザベス・キューブラー・ロスの言葉を引用します――。

「子供に教えなくても、子供の体はちゃんと成長する。
咲き方のセミナーなど開かなくても時期がくれば花は咲くし、
いちいち指示がなくても惑星は正確に軌道どおりに運行する。
宇宙は、こうした驚異的に複雑な作業を、信じられない巧みさでやってのける」

「私たちが自分を明け渡すことを恐れている相手とは、実はこの宇宙の力そのものなのだ」――

http://www.el-aura.com/20131126-01/

             <感謝合掌 平成27年8月19日 頓首再拝>

手放す - 伝統

2015/09/08 (Tue) 03:51:13


     *『チャック・スペザーノ博士のこころを癒すと、カラダが癒される』
       チャック・スペザーノ/ティスハースト/ジェニー(著)(P39~42)より

手放すという癒しの原則は、問題を抜けて私たちを前に進ませてくれます。
どんな病気の下にも、執着があり、病気の度合いだけ、私たちはしがみついています。

過去に欠けていると思ったものに執着していれば満たされずはずだ、
という思い込みが私たちにはあるのです。
しがみつくことで欲求を満たそうとするわけです。

ただし、しがみついているものは、もはや存在していないかもしれないのですが、
しがみついていると、欲求は浸り込みとなり、そこから中毒へ、
最終的には偶像へと発展します。

それが私たちを救い、幸せにしてくれると思っているのです。
執着は欲求を満たしてくれると私たちはなぜか思うのです。
私たちを前に進ませないのは、このしがみつきであり、それに伴うファンタジーです。

しがみつきは、欲求、要求、期待の部分があるため、
私たちの受け取る能力を妨げます。しがみつきとその自滅的な傾向は
私たちを停滞させ、死の方向へと向わせます。


何にしがみついているかを発見し、手放すと、私たちは自由になり、
前に進むことができます。

これまでしがみついてきた幻想やファンタジーを手放していくと、
再び人生の流れに戻ることができます。
手放すと、受け取ることに鷹揚になります。


健康の問題を引き起こしている執着を手放すと、
私たちは癒され、陣しえの次のステップに進むことができます。

前に進むことを拒んでいると感じる時には、執着が私たちを止めています。
しがみつきは私たちを今いる場所にしばりつけ、エネルギーを引き止め、
私たちを可能性や人生から引き離し、全く新しい道へと向わせないようにします。

手放すという原則は、本当に手放した時に、
今よりいいものがやってきて、あるべき位置につくということです。


☆エクササイズ

リラックスしましょう。
そして深呼吸しながら、心を落ち着けます。

これからする質問に、思いつくまま答えてください。


①もしわかるとしたら、あなたが手放すのを拒絶しているのは何なのでしょう。
 または誰なのでしょうか。

 私が手放すのを拒絶しているのは__________です。


②もしわかるとしたら、この状況や人にしがみついていることで、
 あなたは何をしなくてすむのでしょうか。

 しがみついていることで、私は_________しなくてすみます。

③もしわかるとしたら、しがみついていることで、
 あなたは何をすることができるでしょうか。

 しがみついていることで、私は_________できます。


この手放すというプロセスがうまくいくように、助けを求めてください。
しがみついているものをすべてあなたの手にひらに置き、宇宙がこの執着を
あなたの手から取り上げてくれるのを感じてください。

そして、あなた自身がこの人、あの場所、それからあなたがずっと
背負い続けてきた物事を手放すことに意欲的になっているのを感じてください。
あなたがもはやこの執着を必要としていないことに気づいてください。

手に入れようと躍起になっていたものがなんであろうと、
うまくいかなかったことに気づいて下さい。

新しいやり方で始められるようにお願いして下さい。

宇宙があなたに執着の代わりに何を与えてくれるかにマインドを向けていてください。

             <感謝合掌 平成27年9月8日 頓首再拝>

病気を「心」から放って神にまかせましょう - 伝統

2015/10/23 (Fri) 04:09:40


          *「真理」第9巻生活篇(P233~234)より

肉体が病気になっても、その肉体の病気の有様を見て、それに恐怖し、
それに抵抗しようとしてはなりません。

此処にもイエスの山上の垂訓にあらわれたる無抵抗主義
「人もし汝に一里ゆくことを強いれば、共に二里を行け」
の教えは応用されるのであります。

いたずらに症状に抵抗してはならないのです。

体温が38度まで上ったら、、「40度まで行け」と思って、
それに抵抗しないのがよいのです。

現象との戦いを止(や)めて、その成行を神にまかせて、
完全に抛棄(ほうき)するのです。

(注意。神を信じ、神にまかせることなしに、抛棄してはなりません。
それでは自暴自棄であります)

肉体は貴方自身の創造したものではないから、あなたが如何に努力をしても
どうすることも出来ないのです。

それは神の「完全創造」の影であります。
「影」を完全な姿であらわそうと思われましたら、
病気の姿を心に留めて心のレンズを曇らせぬようにすることが肝腎です。

             <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

過去から心を放つ - 伝統

2015/11/05 (Thu) 03:20:48

過去から心を放つ

         *「生命の實相」第23巻常楽篇(P2)(巻頭)より


過去がいつまでもその呪いをもって、
われらに追い迫っていると思うのは誤れる見解である。

過去はすでに過ぎ去ったものである。
涙はすでに流されたのだ。

過去を捉えて離さないものはただ自分の心でしかない。
過去の過ちを消す極意はただ過去からの心を放つにある。

毎日の朝は一日の過去から心を放って新しく生まれかわる好機である。
「生長の家」は新年の朝において半生の過去から心を放って新生する。

            <感謝合掌 平成27年11月5日 頓首再拝>

<物も心も捨てる> - 伝統

2015/11/18 (Wed) 04:47:33


       *『善き人生の創造』第十二章「常住の祈りと云うこと」(P165~167)より

キリストは

「神の国に入ろうと思ったならば、すべての持物を捨てて十字架を負うて我に従え」

と、こう云う風に仰ったのでありますが、すべての持物と云うのは、財産のみではない。

財産もすべての持物の中の一つかも知れませんが、
決してこの物質の富を捨てるだけがすべての持物を捨てるのじゃないのであります。

心も捨てなければならぬ、物も心もすべて捨てて、もう何もなくなってしまって一切のものを
磔殺(クロスアウト)してしまったときに神の国に入ることが出来るのであります。

すなわち実相金剛不壊の円満完全な世界を発見するのであります。


物を捨てるのはまだ易(やさ)しいですけれども
「心」を捨てることは一層難しいのであります。
「私の心」と云っているその心を捨てなければならない。

しかし、その「心」を「ある」と思って掴んでいる間はなかなか捨てられないのです。
「心もない」と悟ることが必要であります。

「わしの心」―― 此の「我」と云うものが、
段々進化して行ってそうして佛になるのではないのであります。


『法華経』に

「唯佛与佛乃能究尽(ただほとけとほとけとのみぐうじんす)」

とあるように、

「我」と云う心、「私の心」「この私が修行している」と云うようなそんな
「私」と云うものが悉く粉砕されてしまって、換言すれば、
そんな肉我が十字架に附けられてしまって、内在の「佛」のみが出て来る。

「私」がなくなって無我になってしまう。

わしがわしがと云っている心と云うものが、それが本当に本来ないものだから、
そんな「心」が迷っていても迷わずにいても我々は初めから佛である。

初めから神であるのであります。

瓦を磨いて珠になるのではなく、
初めから珠だから磨けば一層光が出て珠になるのであります。

   (http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15501071 より転写)

            <感謝合掌 平成27年11月18日 頓首再拝>

手放す - 伝統

2016/01/14 (Thu) 04:49:38


     *「アイムパーフェクト! あなたの中のパワースポットとつながる方法」
      はせくら みゆき・著(P85~91)より

《本来の自分を取り戻すために「手放す」》

(1)手放すこと、それは”執着をやめる”ということです。

(2)執着をやめると、ものごとにとらわれなくなります。
   ものごとにとらわれなくなったとき、あなたは自由です。
   それは、あらゆる可能性の場が与えられた、ということです。

(3)イノチとは本来、自由でパワフル、豊かでピュアな意識の場です。
   そして、あらゆる可能性、創造性の源とつながっています。

   あなたが執着・とらわれを手放して、イノチ本来の在り方にアクセスしたとき、
   モノゴトはおのずと叶っていくようになっています。


《上手に手放すには「忘れる・ゆだねる」》


《未来をひらく歌「むすんで、ひらいて」》


む~すんで (つかんで、グー)

ひ~ら~い~て (手放して、パー)


手を打って (音が「産まれる」、何かが「生成される・成就する」イメージ)
 
むすんで (また、新たにつかみ)


またひらいて (また手放して)

手を打って  (また産まれて)

その手を 上に~ (手を大きく開きながら )



上にするのは。お手上げの手。

手を上げて、宇宙に、天に、内なる叡智にすべてをゆだね、
まかせますといったイメージ。

するとますます、手からあふれるほどに満ちて(想像を超えて)
豊かさ(成就)がやってきます。

            <感謝合掌 平成28年1月14日 頓首再拝>

<心を放てば罪は消える> - 伝統

2016/01/24 (Sun) 03:23:48


      *『善き人生の創造』第十七章「自縄自縛からの解放」(P234~235)より

繰返して云うようですが、この僧璨(そうさん)と云う坊さんが、
慧可の弟子になる時にはまだリウマチであった。

そして慧可禅師が「お前みたいなリウマチ患者みたいなものは、私の弟子には出来んよ」
と仰ったら、「身体はリウマチでも、心はあなたの心と一つです。実相はあなたと一つです」
こう言ったから実相は本来完全で無病息災である慧可先生と同じだと思っていたに違いない。

それだのに、その時に病気が何故治らなかったかと云うと、実相は完全だが、
実相の外に罪業と云うものがまだあると思って居ったからであります。

実相のみ実在である、実相独在だと云うことが、まだハッキリしていなかった。
実相もあるが、罪業と云うものもまだ他に別にあると二元的な観に陥って居ったのです。

それが間違っておったので病気が消えなかった。

慧可から「罪業を出して見せよ」と云われた時に、初めて罪業と云うものは実体がない、
と本当に分った時にリウマチが消えてしまったのでありますが、だけども
リウマチを治すのが目的で弟子になったのではないのです。

そこは注意しなければならないところです。

生長の家へ来る人でも真理を悟ろうと思って来て、真理を知ると、
「真理は汝を自由ならしめん」とイエスの云った如くその人の生命が解放され自由になって
病気が治るのですが、病気を治す為にお導きを受けようなどと思って来ると、
修行が逆になって却ってなかなか治り難いのであります。

これは心が病を把んで放たないからであります。

病気と云うものは、心に把まえていると、
把まえている間はあるのですが、放てば消えるのです。
そこで放つ修行をすれば宜いのであります。

把まえていると病気になるのです。

放てば消えるのです。

   (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=41 を参照願います)

            <感謝合掌 平成28年1月24日 頓首再拝>

過去を手放し、新たな今ここを生きる - 伝統

2016/02/02 (Tue) 04:46:27


           *Web:天にお任せ(2015年11月29日)より

「過去」とは、去年の自分や昔の出来事の事ではありません。

自分の性格、人生観、今起きている出来事や人生模様全てが、
過去に起因しているのです。過去にいろんなことを体験し、学び、
そこから身につけた自分の生き方や習慣、また、どう生きるべきかと考え、
価値観や能力も身に付けました。

逆に、繰り返し実行したことが悪習として身についてしまっていたり、
繰り返し失敗したり傷ついたことによりトラウマや不安感が根付いているかもしれません。


つまり、自分自身や自分の人生模様の全部が過去の現実化なのです。
潜在意識には、過去に使った言葉、聞いた言葉、体験、気持ち等全てが一つ残らず、
決して消えることなく格納されていて、
その集積が今の自分と自分の人生として現れているのです。

そして、現れた自分自身と現実を見て、またそれを潜在意識に貯めていきます。

しかも体験や使った言葉は、繰り返した回数の掛算・つまり相乗効果とになるので、
どんどん膨らんでいきます。

だからもう過去からの脱出は困難を極めます。
いえ、はっきり言うと不可能なのです。

あなたも、情けない自分を変えようと何度決意しても、
結局変わり切れなかった体験が、嫌という程あるでしょう。

その時、「自分はなんと意志が弱いんだ」と思ったのではありませんか?
決してあなたが弱いのではないのです。
十分頑張ったのですよ。

決意だけでは変われないのは当たり前なのですから、
自分を責めないで!!

ではどうすれば、変われるのでしょうか?


《しっかりとプラスの言葉を選ぶ》

嫌な習慣や、嫌な出来事、不安感等のマイナスに、意識を向けなければよいのです。

マイナスを見てマイナスと戦ったらまたマイナスを増やし、必ず負けます。
例え、何とか勝ち抜いて変われたとしても、
そのストレスは山より高く、人生は辛いものとなり、心身共にて病気になりそうです。

実は、マイナスを無視して、プラスだけを見ると良いのです。
しかし、あまりプラスを体験していない人の場合、
プラスに意識を向けることも難しいかもしれません。

だからプラスの言葉を選ぶのです。

全ての過去は、潜在意識に貯まる時、言葉に置き換えられます。
だからプラスの言葉をしっかりと選び、繰り返せばよいのです。
人生は全て、必ず言葉通りになるのです。

ただ、この方法にも困難があります。

今選んだ言葉は確かに潜在意識に入り、
やがて言葉通りに自分を変えてゆくのですが、
過去にあまりに大きなマイナスが貯まっていると、
そちらのパワーの方が圧倒的に大きいため、そのマイナスが今現れる現実となり、
今使ったプラスの言葉通りになるには、時間がかかります。


《「ありがとうございます」で心の大掃除とプラス一杯になる》

だから、一気に心の中に貯まった全ての言葉、
そして体験も感情もトラウマも、大掃除しましょう。
その大掃除力のある言葉は、祈り言葉、つまり真言といわれる言霊です。

いろいろな真言がたくさんある中でも、
より大きく宗教に全く関係しない真言が「ありがとうございます」です。

「ありがとうございます」によって心が清められ、
そこに
「ありがとうございます」の絶対プラス、無限の愛、無限健康、絶対調和のパワーが充満します。

愛に満ち、プラス思考で、喜びと笑顔にあふれた自分に必ずなれるのです。

「ありがとうございます」は、
心を「新たなる無限の無限の輝きが無限に無限にいっぱい」にするすばらしい言霊です。


          (http://zacky.hamazo.tv/e6506482.html

            <感謝合掌 平成28年2月2日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2016/02/10 (Wed) 04:10:22


           *「光明法語」(P39)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。


            <感謝合掌 平成28年2月10日 頓首再拝>

何事にも引っかからぬのが「生長の家の生活」 - 伝統

2016/02/17 (Wed) 03:17:11


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P28~29)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

            <感謝合掌 平成28年2月17日 頓首再拝>

《就寝直前の神想観》 - 伝統

2016/02/26 (Fri) 03:43:39


          *『生長の家』(昭和41年12月2日)の法語より

   あなたが一日の仕事を終って、眠りに入ろうとする直前、
   時間が許さなかったら極短時間でもよいから神想観して、

   先ず神に感謝を述べ、一日じゅう仕事の事に熱中して、
   色々の外界の問題を心に掴んでいたその心の〃掴み〃を放して、
   その問題を神に委ねて、心を軽くしてから眠りに入るのがよい
   のである。


   次の如く神想観中に念じなさい

   『今日いちにち中、神の愛によって護られ、
   神の智慧によって導かれ、健康と繁栄との道を歩ませて
   頂きました事を感謝いたします。

   私が今日の生活中、腹立ち人を憤り憎みました事が
   少しでもありましたら、その心の汚れを潔めたまえ。

   今、わたしはすべての人々を完全に赦しました。
   その如く神よ、私の過ちを赦したまえ。

   わが生命をすべての仕事を神様あなたに委ねて
   眠りに入らせて頂きます。

   私の眠っています間にわが魂に平和を、わが肉体に健康を、
   わが精神に自信と断行の勇気とを、わが事業に繁栄の智慧を
   与えたまえ、すべてを神様あなたにお委せいたします。 
   ありがとうございます』

   このように念じて、神がすべてを良くしたまうことを信じ、
   本当に一切の思い煩いから脱却して、
   心の重荷を解除してから安らかな眠りに入るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成28年2月26日 頓首再拝>

解き放たれると”幸せ”になる - 伝統

2016/03/05 (Sat) 03:56:15


       *メルマガ「おやじむしの3分書評(2008年10月21日)」より


(1)共鳴・共振

   振動体である人間の体は、他の波動に共鳴・共振することもあるし、
   他の振動体に影響を与えることもできます。

   その仕組みは、ラジオやテレビと同じ。

   ラジオやテレビは受信機だと思われていますが、
   受信機であるとともに発信機でもあります。

   例えばテレビは、チャンネルを変えると発信機からそのチャンネルと同じ周波数の
   波動を出すことによって、空間に存在する波動を受信することができる、
   という仕組みになっているそうです。

   受信機側から発信しないと、波動を受信することができないのです。

   これは人間の波動も同じで、ある人がある波動で振動していると
   その人からはある周波数の波動が発振されることになります。

   すると、その波動に共鳴・共振する人が自然と集まってくるようになります。

   「類は友を呼ぶ」という諺は確かにその通りで、
   同じ波動を発している者同士が集まってきます。

   波動が違う者が近くにいると、なんとなく居心地が悪くてどちらかが離れてしまいます。

   ということがわかると、いつも自分の近くに自然に集まる人間は
   同じ波動を発している者同士ということが言えそうです。

   「自分の周りは嫌なヤツばかり」と感じている人は、
   自らがそういう波動を発しているということになります。

   宇宙に存在する物は全て波動を発しています。

   どの波動をキャッチするのかは、自らが発している周波数次第です。


(2)神さまはどうやら「喜ばれると嬉しい」という周波数の波動を発振しているそうです。

   私たちが「喜ばれると嬉しい」という波動を発振していれば、
   それは神さまにも喜ばれるということになるそうです。

   「喜ばれる存在になる」

   これが「楽に楽しく生きる人生」には大切みたいです。


(3)漢字の語源の話~「執」

   執着の「執」という時は、「幸せに丸」と書きます。

   「幸」と言う文字は、中国で体の自由を奪うための道具だった
   「手かせ・首かせ」の象形文字なのだそうです。

   「丸」という文字は、人間が座った姿の象形文字です。

   人間が手かせ・首かせをはめられ、
   自由を奪われて座った状態が「執」の文字となります。


   「執」の文字から人間を解き放つと「幸」の文字になるとのこと。

   つまり「執着から解き放たれると幸せになる」ということになります。

   様々なことにとらわれないと幸せになれますということのようです。

           <感謝合掌 平成28年3月5日 頓首再拝>

すべての思いやレッテルを横に置く - 伝統

2016/03/14 (Mon) 03:38:39


        *Web:Care of the Soul “魂のケア”(2013年4月4日)


13世紀ペルシャの詩人、ルーミーの詩を掲載いたします。

<ゲストハウス>

人間という存在は、みなゲストハウス

毎朝、新しい客がやってくる
喜び、憂鬱、卑しさ、そして一瞬の気づきも
思いがけない訪問者としてやってくる



訪れるすべてのものを歓迎し、もてなそう!

たとえ、それが家具を一掃してしまうほど乱暴に家を荒らす、
悲しみの一団だとしても、できるかぎり立派なもてなしをしなさい。

もしかすると訪問者は、あなたの気分を一新し、
新しい喜びが入って来られるようにしているのかもしれない。



暗い気持ちや、ごまかし、ときには悪意がやって来ても
扉のところで笑いながら出迎え、中へと招き入れなさい。



どんなものがやって来ても、ありがたく感じよう。
どれも、はるか彼方からあなたの人生の案内人として
送られてきたのだから。


<エクササイズ>

① 自分の中に出てくるネガティブな感情、体の痛みに意識を向ける。

② “嫌だ”、“早くなくなれ”、“まだある”、“ずっと治らなかったらどうしよう”、
  “私はどうせネガティブだ”といった感情や痛みについてくる思いをちょっと横に置く
  (それらの思考が、すっかり消えなくても大丈夫)。

③ 怒り、悲しみ、不安、孤独感、重たい感じ、ずきずきする、
  といった感情や痛みを表す言葉も横に置く。

④ とにかく、すべての思いやレッテルを横に置く。

⑤ そしてそこに残った生のエネルギーを感じてみる。

⑥ 全身をリラックスし、そのエネルギーに降参してみよう。
  お好きなようにお過ごしくださいという気持ちになってみる。

⑦ そして、“いつまでもそこにいてもいいですよ”と心の底から言ってあげる。

⑧ 好きなだけただそのままでいる。

  エネルギーは、ものすごく大きくなるかもしれないし、暴れ出すかもしれません。
  それでも、そのたびに“怖い”とか、“嫌だ”といった思いを横に置き、
  ゲストとして向かえ入れてみましょう。


これは、ネガティブな感情や体の痛みをなくすエクササイズではありません。
でも、思考を横に置いてしまえば、苦しみはなくなります。

ネガティブな感情=来るしみ、痛み=苦しみではないんですね。
そこに思考が入ることで、苦しみが生まれるんです。

そして、思考を脇に置いて、ポジティブ、ネガティブという二極の考えを超えれば、
すべてを無条件で受け入れる真のあなたに触れることができるかもしれません♪

           <感謝合掌 平成28年3月14日 頓首再拝>

良い、悪いの判断を手放せば、人生はもっと楽しくなる - 伝統

2016/03/23 (Wed) 03:21:56


       *『読むだけで心がラクになる22の言葉』本田健・著(P110~115)より

(1)私たちの悩みの多くは、「それが、良いか、悪いか」が
   よくわかなくなってしまうことによって生じます。

   「これって、いいんですか? 」
   「それとも、悪いんですか? 」

(2)私たちは、何か起きると、それが「良いこと」か、「悪いこと」かで考えがちです。
   しかし、ある時点での良いことが、その後悪いことにつながる場合もあれば、
   その逆もあるのです。

(3)あるマイナスの体験が幸運につながることがあります。
   逆に、良いことだと思っていたことが不運につながることもよくあるのです。

(4)「良い、悪い」に振り回されると、苦しくなるのです。
   長い人生では、ある時点でどちらを選んでも、あまり変わらないものです。

(5)人生では、どちらを選ぶかという岐路に立たされることが何度かあると思います。
   しかし、「どちらに行ってもあまり代わらない」ことを知っていれば、
   ストレスが大幅に減るのではないでしょうか。

(6)後悔しないためには、どんなこともワクワクするかどうかを規準に選べばいいのです。
   自分がドキドキする、楽しめそうなことをやっていけば、あなたの人生はもっと
   豊かで幸せなものになっていきます。

   
   「良いか」「悪いか」で迷ったときには、「どちらでもいいや」と軽い気持ちで、
   楽しそうなほうを選びましょう。

           <感謝合掌 平成28年3月23日 頓首再拝>

迷いを手放す - 伝統

2016/03/30 (Wed) 04:34:33


          *『 生長の家 』(昭和46年3月25日)の法語より

《“迷い”は虚像にすぎない》

   “迷い”は真理を知らないために生じた虚像であるから
   真理を悟れば“迷い”が消えるのである。

   そして病気は“迷い”のあらわれであるから、
   “迷い”が消えれば病気が消えるのである。

   人間は“霊”であるから物質的束縛によって縛られることはないのである。

   “霊”は完全に自由であるから、それが縛られるのは
   自分自身が自己限定して自縄自縛するに過ぎないのである。

   その自縄自縛を称して“迷い”と称するに過ぎないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12714145.html

           <感謝合掌 平成28年3月30日 頓首再拝>

手放す - 伝統

2016/04/13 (Wed) 04:52:10


        *Web:「ossyの日記」(2009年04月03日)より

「殊更に、小我を大我に合わさんならんと力みかえらなならんというような必要はありません。
ただ、ワシがッと思っているもの…我を放かせばそれでええんです。
放かさなならんものを、放かさんから、それで悩まんならんのだ。

つづめて申しましたら、 …我を生かして神を殺すか、神を生かして我を殺すか…そのどっちかで
ありまして、そこに眼ェつけて、万事をやらして頂いていきましたら、まちがいはありません。
で、この行き方が一番安全な行き方であり、また永遠の助かりということになって来るのであります。」

『湯川安太郎信話』(あゆみ社)

         (http://perfectseed.seesaa.net/

・・・

<参考Web>

(1)湯川安太郎~金光教玉水教会初代教会長
          → http://ginza-konko.net/c3/

(2)スレッド「繁栄の書」(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6780068)内子記事

  ①信心に徹して聖者となり 多くの人を救った人物~その1(2016/03/15 )
  ②“足信心”     (2016/03/16)
  ③湯川安太郎 先生  (2016/03/17)

  ④「一を信じたら二を信じ、二を信じたら三を信じる」(2016/03/18)
  ⑤湯川安太郎先生のエピソード     (2016/03/19)
  ⑥湯川安太郎先生の指導例と解説~その1(2016/03/20)

  ⑦湯川安太郎先生の指導例と解説~その2 (2016/03/21)
  ⑧湯川安太郎先生の指導例と解説~その3 (2016/03/22)
  ⑨湯川安太郎先生の指導例と解説~その4 (2016/03/23)

  ⑩湯川安太郎先生の指導例と解説~その5 (2016/03/24)
  ⑪湯川聖者の教化ぶり~その1      (2016/03/25)
  ⑫湯川聖者の教化ぶり~その2      (2016/03/26)

  ⑬湯川聖者の教化ぶり~その3      (2016/03/27)
  ⑭湯川聖者の教化ぶり~その4      (2016/03/28)
  ⑮湯川聖者の教化ぶり~その5      (2016/03/29)

  ⑯湯川聖者の教化ぶり~その6      (2016/03/30)
  ⑰湯川聖者の教化ぶり~その7      (2016/03/31)

           <感謝合掌 平成28年4月13日 頓首再拝>

《神の愛は放つ愛である》 - 伝統

2016/04/20 (Wed) 04:31:52


              *「光明法語」(4月20日)の法語より

神の愛は《そのまま》である。
人間に完全なる自由を与えたまうているのである。
決して善へとのみ強制し給わないのである。

愛とは相手を自由に解放することである。
解放が愛である。

愛は朝顔に朝顔の花を開かしめ、牡丹には牡丹の花を開かしめ、
薔薇には薔薇の花を開かしめる。
それ自身の本性をのびのび解放するのである。

相手を自分につなぎとめて置くのは飼犬を鎖で縛りつけ、
愛鳥を籠の中に入れて置く愛である。

愛は相手の生命を自由に解放して、その生命の本然のところに行かしめるのである。

           <感謝合掌 平成28年4月20日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2016/04/23 (Sat) 04:34:35


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、竹も枯れるであろうし、
なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、回っている独楽(こま)を
触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝>

心の拳(こぶし)を開く - 伝統

2016/06/13 (Mon) 03:42:10


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」と不平に思う人は、
そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在はどこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから神様どうぞ祝福して下さい」といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。
「甲はまだ無我になっていない。善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」と祝嗣(のりと)にとなえる
《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。
相手の心に「我(が)」を握らせておいて、神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

            <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2016/06/27 (Mon) 03:58:22


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

           <感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2016/07/06 (Wed) 04:10:59


           *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いていと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、
一切のものに執着しない事、あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

           <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

《自己の迷いで縛られるな》 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 04:43:47


           *『生長の家』(昭和25年7月19日の法語)より

   蚕は自ら糸をはいて繭をつくり、
   自らそれに縛られて眠るのである。

   人間も煩悩の糸をはいて、
   迷いによって自分の環境の繭をつくって
   その内にとりかこまれて身動きができなくなるのである。

   いつまでも囚人(とらわれびと)の如(ごと)く
   煩悩の繭の中に眠っていてはならない。

   煩悩の繭を食い破って
   自己解放をとげなければならないのである。

   煩悩の糸に縛られるものは
   囚人(しゅうじん)である。

   煩悩の糸を悉(ことごと)く摧破(さいは)し
   克服したものが仏である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

「無一物中無盡蔵」 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 03:22:16


            *『真佛教の把握』(P126~127)より
  
さて、文殊菩薩が釈尊の代理として維摩詰のところへ病気見舞いにまいりますと、
維摩詰は大富豪でありますから、その部屋には豪奢な装飾品が絢爛としてあるか
と思うと、豈はからんやその部屋はガランとして空っぽである。

そこは大富豪の家にふさわしい無数の立派な置物や飾りが一杯ある筈であるのに、
何もなくて空っぽであるというのは何故でしょうか。

これは維摩の説く真理が〝無一物中無盡蔵〟という真理を象徴しているのであります。
  
この無一物中無盡蔵の〝無一物〟というのが〝ただ〟です。

〝ただ〟とは構える心のないことです。

なんにも求めず、つかまないところに〝全てのもの〟があるんです。
全てのものが無一物中にある。
空手(くうしゅ)にして郷に還るです。

なんでも把んだら自由を失う。

(中略)

だから把んだらいかん。
放して〝ただ〟になる。〝無〟になってしまう。

そうすると無盡蔵のはたらきが出て来るというわけなんです。

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

執着を断つ - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:25:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月25日>(P63)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

        <感謝合掌 平成284年8月25日 頓首再拝>

無執無縛と云うこと - 伝統

2016/09/05 (Mon) 03:48:14


        *「常楽への道」吉田国太郎・著(P180)より


無執無縛と云うこと。
憑(つ)かれた人があり、憑かれていない人がある。

憑かれた人とは、言葉を変えれば、執(しゅう)した人、縛(ばく)せられた人、
又、凡夫と云うこと。

そして、無執無縛が独り神の子。


人はともすれば、何かに憑かれた人になっており、恐らくは世の大方の人々が、
此のうらぶれた姿を巷(ちまた)に曝(さら)しているのである。

特殊の使命のある人を除いては、憑かれた処の無くなった人は最早此の世に
生まれて来ることはないであろう。

此の世は、憑かれを追い、執(しゅう)から無執に、縛から無縛にかえる、
一つの道場に他(ほか)ならない。

此の無執を、無縛を、絶対の空所(くうしょ)とも云い、
《現象無し》とも呼ぶ。

            <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

空をも捨てて自由を得る日 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 04:26:24


         *「光明道中記」(9月23日)より


 【空にして一切を破(は)しおわらば空も応(まさ)に待つべし。智度論。(『仏教の把握』)】

(歎異抄十六条)

   信心の行者、自然(じねん)に腹(はら)をもたて、あしざまなることをも犯し、
   同朋同侶にもあひて口論をもしては、必ず廻心(えしん)すべしといふこと。
   この条、断悪修善(だんまくしゅぜん)のここちか。

   一向専修(せんじゅ)のひとにをいては、廻心といふことただひとたびあるべし。

   廻心は日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまはりて、
   日ごろのこころにては往生叶(かな)ふべからずと思ひて、もとのこころをひき代へて、
   本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申しさふらへ。

信心する人は、自然腹を立てたり、悪いことを犯したり、
念仏の同信者たち互いに口論することがあったりしたら

よく廻心(くいあらため)して二度とそんな罪を犯さないようにしなければ救われない
と言う人があるが、それは自力で悪を断じ善を修して、救われの原因とするのであるから
本当の他力信心ではないのである。


本当の廻心とは心が三百六十度転回して、自力を捨てて、仏の本願にたのみ切って、
そのまま私のはからいをせず、まかせる心になることなのである。

            <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

真の愛は放つ - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:13:43


        *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。
個人個人の自由を縛るのは、神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。
それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

執着を手放す - 伝統

2016/10/07 (Fri) 03:46:15


           *「人生の目的」本田健・著(P201~202)より

人生の達人の生き方は、自分のところにやってくるものを拒まず、
100&受け入れることです。そして自分の人生から去っていくものを追わず、
期待せず、ただ淡々と生きることです。

人生の目的は、あなたが心から大切だと思うものを
大事にすることによってしか実現できません。
また、それは、目の前に来たものを大事にするということでもあります。

それがポジティブなものでもネガティブなものでも、来るものを拒まず受けとめること。

去っていくものは、追いかけようとはせず、ただただきれいに手放すこと。

そうはいっても、執着は、なかなか手放せないものです。
それはお金かもしれませんし、若さかもしれません。

執着の対象は、別れた恋人かもしれませんし、
就職できなかった会社かもしれません。

そういうときに、それにしがみつこうとすると、他のものが見えなくなってしまいます。
いったん執着してしまうと、苦しくなるのは自分です。

苦しくなったとき、「また、次があるさ」というのは、
心を楽にしてくれるアファメーションです。

自分がいましがみつこうとしているよりも、もっと素敵なパートナー、
チャンスが必ず来ると保証されたら、楽に手放せるはずです。

あなたが成長したら、きっとそれに見合うものがやってきます。
そのためにも、何かにしがみつきそうになったら、
大きく深呼吸して、硬くなった手を開きましょう。

           <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

愛憎を超える - 伝統

2016/10/17 (Mon) 04:49:32


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月17日))より

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。(『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は元の兵来たって彼を斬ろうとした時
平然として「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と一喝を
諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>

愛憎を捨てる - 伝統

2016/10/18 (Tue) 03:51:57


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月18日)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。(『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。
止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候
(まじくそうろう)。若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば受流す
べけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆、
用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>

「欲しい」を捨てる - 伝統

2016/10/29 (Sat) 03:46:15


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月20日)より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                          (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの

「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を
「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、八つの埃と言っている。

「たい」が心の病気であり、
心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、斯うして《欲しい》
と思うことがあるでしょう」と言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>  

偽我を捨てよ! - 伝統

2016/11/07 (Mon) 03:33:49


          *「光明道中記」(11月7日)より

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

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