伝統板・第二

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新生 - 伝統

2015/04/13 (Mon) 03:55:49

*光明掲示板・伝統・第一「新生 (82)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=51

・・・

新生のための祈り~『聖経 真理の吟唱』


《新生を感謝する祈り》

           *「聖経 真理の吟唱」(P10)より

われらここに新しき日を迎う。
感謝すべきかな。

われ神に感謝し奉り、さらに天地一切のものに感謝し奉る。
覚めている間も、眠っている間も、一分一秒といえども、
神の護りなくしては私たちは生きていられなかったはずである。

日光は、空気は、水は、食物は、すべて神より来たり、私たちを養い給うたのであり、
これからも常に養い給うのである。

新しき年を迎うるにあたり、過去の御護りに感謝し奉るとともに、
今後もまた神の御護りの篤からんことを希い奉り神の御恩に報い奉らんがために、
神から与えられたる使命に誠心(まごころ)をつくして邁進せんことを誓い奉る。

神はすべてのすべてであり給う。

天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、
私たち人間も神の愛と智慧と生命との顕現であるから、
天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。

それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、
私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。

もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、
天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、
天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、

神は「省みて和解せよ」と教えられているのである。

神はすべてのすべてであり給い、一切処に偏在し給うのである。

神は無限にして神聖、常に永遠に、そして今ここに、私を取り巻き、私の周囲に、
上にも下にも、左にも右にも、前にもうしろにも、天地、上下、四方、四維、
神の在(いま)さざる処は無いのである。

その神の最高の表現体として 今 私はここに生きてあるのである。

したがって私は、永遠の存在であり、有限に見ゆれども無限、個とみゆれども全、
久遠即今、調和おのずから備わり、万物の霊長であり、万物の支配者であるのである。

したがって、わが往(ゆ)くところ常にそこは極楽となり、地上に天国の秩序が実現し、
争いは消え、暗黒は滅し、病は癒され、悦びと感謝とに充たされるのである。

私は今、この真理に目覚めたのである。
この真理に目覚めることが新生である。

私は今新生して、新しき日を迎う。

過去は過ぎ去り、すべてのもの新しき悦びに満たされ、
すべての者、神に向かいて賛歌を謳う。

真理の御光り照り輝き、今より後、悲しむものなく、嘆く者なく、
苦しみによる呻(うめ)きも、叫びも、この世界より消え、
ただ神に向かいて感謝の歌を謳う。

その歌、天に舞いのぼりて、天上楽となり、地に降りて泰平楽となる。
まことに我れ新生して真理に目覚めたる今、ここに久遠実成の浄土が現実に存するのである。

われ今、神を敬し、神に感謝し、悦びの賛歌を献げ奉る。
頓首、合掌して、再拝又三拝す。

ありがとうございます。


・・・

<参考Web:光明掲示板・第一「新生・新天新地」
         → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=983 >


           <感謝合掌 平成27年4月13日 頓首再拝>

新たに霊的に生まれるための祈り - 伝統

2015/05/01 (Fri) 04:28:41


        *「続・真理の吟唱」(P55~58)より

われわれの住んでいる世界は唯心所現の世界なのである。

換言すれば、自分の想念が具体化して顕現している世界なのである。
自分の心自体を鏡の如く眼に見える相に映して見せてくれている世界なのである。

それ故に現在わたしたちが体験している状態が不完全であるならば、
それを一層完全にするためには、即ち、一層完全なる健康を実現し、
一層自分の事業その他の成績を上げ、

一層人と人との関係を調和した状態にまで高めようと欲するならば、
自分の心を浄化し、一層善き事のみ、一層積極的なることのみを心に想うようにし、
一層繁栄し、一層成功せる有様を心の中に描き出し、

すべての人々から信頼され悦ばれるような深切丁寧な心をもって
人に接し、事に処すように心懸けなければならないのである。


あなたの心が向上する程度に従って、あなたの生活状態も向上し、健康は増進し、
環境は好転し、人と人との関係は一切調和したものなって来るのである。


“今”が時なのである。機会は毎日の中にあるのである。

“明日からやろう”“1週間後から始めよう”“来年の正月から生まれ変わろう”
などと実行を次にのばしているような事では、永遠に、あなた自身の“心”を
改善することが出来ず、過去の惰力に押し流されて、
過去の低い状態の生活を惰力で繰り返しているに過ぎなくなるのである。


“今”が生まれ変わりの時なのである。
毎日毎日があなたの人生の元旦でなければならないのである。

朝目が覚めたら、その時を1年の元旦のように思うがよろしい。

そしてすべての人々に「お目出とう。好い年が明けまして有りがとうございます」
と挨拶し得るほどに“新生の気分”になっていなければならないのである。

 
われわれが過去の沈滞せる不透明な消極的な生活から脱出して
生々発展の活気に満ちた生活に生まれ変わるためには、
何よりも自己の人間観が生まれ変わらなければならないのである。

今まで“物質の肉体”が自分であって、
単に物質の化学的作用と物理的機構のはたらきによって
生理作用が営まれて生きていたのだというような考えを棄てて、

「自己の内に“神”在(いま)して生き給う。その神の生命(せいめい)こそが
自己の生命(せいめい)である」と、自己存在の自覚を高揚させなければならない
のである。

 
このように自己の自覚を深化し強化するためには、
すべての存在を物質として知覚するところの五官の感覚を瞑目鎮静して放下し去り、
心の中に霊的存在なる“神の現前”を深く強く描いてそれを心で凝視するがよいのである。

そして自己が神そのものであってわが全身から霊光を放っている
荘厳崇高なる相(すがた)に於いて自己を見つめるが良いのである。

           <感謝合掌 平成27年5月1日 頓首再拝>

《我 今、神の子として新生せり》 - 伝統

2015/06/01 (Mon) 08:12:46


         *『 生長の家 』(昭和25年4月23日)の法語より 

今、自分は新生したのである。
肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。

吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。

過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
 
過去はないのである。
唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。

今 自分は 新生したのである。
今 自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて父の家に帰ったのである。
吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。

吾は 神の独子(ひとりご)である。
神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。

     
   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html

           <感謝合掌 平成27年6月1日 頓首再拝>

神において新生する祈り - 伝統

2015/07/01 (Wed) 04:28:51

            *「真理の吟唱」(P200)より


わたしは今、新生したのである。
神において新生したのである。

わたしは今、完全なる神の子である。
古き自己は過ぎ去り、新たなる神の子が生まれたのである。
神の生命が私の生命である。

それゆえに 私は常に健かであり、元気溌剌としており、病むことも、
疲れることも、老いることもないのである。

わたしは今新生したのである。
神の愛において新生したのである。

それゆえに 私は神の愛に満たされているのである。
古き悲しみ、古き恨み、古き慍(いか)り、古き憎しみの心は
すでに過去のものとなったのである。

私はもはや、悲しむことなく、恨むことなく、慍ることなく、憎むことなく、
一切を祝福し、一切のものに愛念を送るのである。

わたしは今新生したのである。
神において新生したのである。

神は渾(すべ)ての渾てであるから一切の生きとし生ける者、
ありとし凡ゆるものの御親でありたまう。

生きとし生けるもの、ありとし凡ゆるものは神において互いに兄弟姉妹であるがゆえに、
私は すべてのものを愛さずにはいられないのである。

私が 一切のものを愛するがゆえに、一切のものも 私を愛して、
すべては、私が幸福になるような、調和した相(すがた)で触れ合うのである。

わたしは今新生したのである。
神において新生したのである。

神は無限の智慧であるから、神において新生した 私にも 無限の智慧が流れ入るのである。
私は 神の無限の智慧につながるがゆえに、常に神の智慧に導かれて、
安全と幸福と繁栄の道を歩むのである。

だから 私は 決して人の幸福や繁栄を羨むことはないのである。
私には 私独特の幸福があり、繁栄の道があるのである。

私は今新生したのである。
神に於いて新生したのである。
神は一切の根源でありたまう。

それゆえ一切のものは神より出で、神は無限の富者であるということができるのである。
神は 私を“神の子”として神の世嗣として神のもち給える一切のものを
継承する権を与え給うたのである。

それゆえ 私は すでに富んでいるのであって、
欲する事物は、私が 心を素直にして呼べば出てくるのである。
今まで欲する事物が出てこなかたのは、神の子たる自覚が足りなかったに過ぎない。 

今や 私は神の子たる実相に目覚めたのである。

だから 私は他の富を羨むことなく、他の繁栄を妬むことなく、悲しむことなく、
憂えることなく、争うことなく、調和した姿で、他(ひと)を生かしながら、
自分も栄える道を知っているのである。 

神が 私をこの境地に新生せしめ給うたことに感謝いたします。

           <感謝合掌 平成27年7月1日 頓首再拝>

朝々が新生である - 伝統

2015/07/11 (Sat) 04:28:09


         *「幸福を招く365章」(P4)より

(朝起きた時にこの簡単な方法で)

今、新生せり。

こう云う考えは、私達を清らかな新生活にまでおし進める力を持っているのである。
だから新年でなくとも、つねに今、新年だ。
今、新生だと常に考えることはまことによいのである。

吾々は毎日新生するのである。
毎朝々々が新生である。

この新生の最初の時間 ―― ポッカリと目覚めたその瞬間に、善きことを考えましょう。
「私は神の子だ。健康だ。素晴らしい朝だ。好い事が屹度訪れて来る」
こう心の中で、又言葉に出して二十遍となえてから起きましょう。

そして神想観をすぐ寝床の上で坐って行ないましょう。
この簡単な方法が、あなたに無限の可能性をひらいてくれる事になるのです。

無限に完全なあなたの實相への扉をひらいてくれるのです。

無限に円満な人格が日に日に大成されて来るのです。

           <感謝合掌 平成27年7月11日 頓首再拝>

《肉体を十字架につけて新生せよ》 - 伝統

2015/08/01 (Sat) 04:41:41


        *『生長の家』誌(昭和25年7月23日)の法語より

   「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。
   古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」

                 (コリント後書第五章十七節)


   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って
   肉体を抹殺しなければならない。

   かくて肉体無を悟る時、
   汝は自己の内にキリストを見、
   新たに造られたるものとなるのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

新生の日がはじまったのである - 伝統

2015/09/01 (Tue) 04:56:15


            *『幸福をひらく鍵』(P24)より

新生の日がはじまったのである。
悦びの日がはじまったのである。
古きもの、暗きものは消え去り、光ばかりの日がはじまったのである。

人々よ悦べ、自覚を新たにせよ。
肉体としての人間から”霊としての人間”に高昇する日がはじまったのである。
”神の子”の日がはじまったのである。

あらゆる時に、すべての事に、必要にしてすべてなる智慧と力を与えたまう
神つねにあなたを護りたまうのである。


心を素直にして、これら神の恵福を受けたまえ。
あなたの自信を新たにする日がはじまったのである。

あなたは単なる肉体ではない。
あなたは”神の子”である。
”神の子”であるから、神が霊であり給うごとく、あなたも霊であるのである。

あなたは神に護られているのである。


「わが眼よ、神はわが眼を通して正常に万物を視給うのである。
それゆえに、わが眼は常に健全である。

わが耳よ、神はわが耳を通して正常に万物を聴き給うのである。
それゆえに、わが耳は常に健全である。

わが鼻よ、神はわが鼻を通して呼吸し万物のよき匂いを?(か)ぎたまう。
それゆえに、わが鼻は常に健全である。

わが口よ、神はわが口を通して、コトバを発したまい、食物の美(よ)き味を味わいたまう。
それゆえに、わが口唇(くちびる)も歯も舌も常に健全であるのである。

わが皮膚よ、神はわが皮膚を通して、その美を表現したまい、
人々との触れ合いに皮膚を通して愛を実践したまう。
それゆえに、わが皮膚は常に肌理(きめ)こまかに美しいのである。」

毎日数回、このように唱えて自分の五官を祝福するがよい。


            <感謝合掌 平成27年9月1日 頓首再拝>

《新たに生まれる言葉》 - 伝統

2015/10/01 (Thu) 04:38:45


          *『 白鳩 』昭和49年1月1日の法語より抜粋

   新たに生まれる時が来たのである。
   新たに生まれるということは決して此の肉体が生まれ変る
   ということではないのである。

   私たちが生まれ変るということは、そんな肉体のことではないのである。
   自覚の生まれ更ることなのである。

   『ヨハネ伝』第三章に、イエスがユダヤの長老ニコデモに答え給う 

   「まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生まれずば、
   神の国に入ること能わず。
   肉により生まるる者は肉なり、霊によりて生まるる者は霊なり。
   なんぢら新たに生まるべしと、我が汝に言いしを怪むな」

   以上はイエスの言葉そのままの引用であるが、
   わたしたちは幾度もこの言葉を復唱して、
   「自分は霊的実在である」という自覚に於て、生まれ更るがよい。


            <感謝合掌 平成27年10月1日 頓首再拝>

『新生のための祈り』 - 伝統

2015/11/01 (Sun) 05:02:41

             *「私はこうして祈る」(P32~34)より

吾々は日々新生しているのである。
このことを自覚せねばならないのである。


日々の人体細胞群は刻々新生している。
だから1時間前と同一の細胞は存在しないのである。

しかし、吾々はこの常に新しく生まれ更(かわ)っているという
真理を真に理解しているものは少ない。

その証拠として、この素晴らしい真理 ―― 日々新生す ―― を知っている
相当多くの人が病気のことに悩む苦しんでいるのである。

吾々の細胞は、一時でも同じ細胞はないはずであるから、たとい病気であっても、
病気の細胞は一時刻前のものであって、「今」の細胞は病んでいないのである。

ところが「迷い心」によって今でも病んでいると思い違いをしているのである。 


喜べ、 悦べ、 吾々は常に新生しているのだ。

吾々は常に新生しているのだ。


この自覚を得、かつ、強めるためには次の思念の言葉を、
自己心中にいいきかせることがよろしいのである。


   「神よ、われに新しき生命を降(くだ)したまいて われを新生せしめたまえ。
   われを雪よりも白く潔(きよ)めたまえ。
   しかして、あなたの天の理想が、
   地に実現するための媒体とならしめたまえ。

   神よ、われに新しき智慧(ちえ)を与えたまえ。
   わが利益のための智慧にあらず、人類を救うための智慧を与えたまえ。
   天の理想が地に実現するための智慧を与えたまえ。

   神よ、われに新しき愛を与え給え。
   肉体の愛にあらず、性欲の愛にあらず、神の愛を与えたまえ。
   人類のすべての悩みと苦しみとを癒(いや)し得る愛を与えたまえ」

            <感謝合掌 平成27年11月1日 頓首再拝>

毎朝が新生 - 伝統

2015/12/01 (Tue) 04:34:54


           *「生命の實相」第23巻常楽篇(P2)(巻頭)

われらにとっては毎朝が新生である。
われらは朝ごとに新しく生まれかわる。

一日の務めを終わって振り返るとき、そこにどんな過ちがあろうとも、
われらは夜ごとにそのすべてを大生命にあずけて新生の準備をするのである。

かの大海原が地上のすべての塵芥(じんかい)を呑吐(どんと)しても、
すべてを浄化して澄みきっていると同様に、

われらがすべての過ちを大生命にあずけて眠るとき、
大生命はわれらの罪すべてを浄化して下さるのである。

この偉大な大海原の浄化力よ、この不思議な大生命の罪の消去力よ!

過去がいつまでもその呪いをもって、
われらに追い迫っていると思うのは誤れる見解である。

過去はすでに過ぎ去ったものである。
涙はすでに流されたのだ。

過去を捉えて離さないものはただ自分の心でしかない。
過去の過ちを消す極意はただ過去からの心を放つにある。

毎日の朝は一日の過去から心を放って新しく生まれかわる好機である。
「生長の家」は新年の朝において半生の過去から心を放って新生する。

            <感謝合掌 平成27年12月1日 頓首再拝>

今、新生せり。 - 伝統

2016/01/02 (Sat) 04:56:11

《朝起きた時にこの簡単な方法で》

          *「幸福を招く365章」(P4)より

今、新生せり。

こう云う考えは、私達を清らかな新生活にまでおし進める力を持っているのである。

だから新年でなくとも、つねに今、新年だ。
今、新生だと常に考えることはまことによいのである。

吾々は毎日新生するのである。
毎朝々々が新生である。

この新生の最初の時間 ―― ポッカリと目覚めたその瞬間に、善きことを考えましょう。
「私は神の子だ。健康だ。素晴らしい朝だ。好い事が屹度訪れて来る」
こう心の中で、又言葉に出して二十遍となえてから起きましょう。

そして神想観をすぐ寝床の上で坐って行ないましょう。
この簡単な方法が、あなたに無限の可能性をひらいてくれる事になるのです。

無限に完全なあなたの實相への扉をひらいてくれるのです。

無限に円満な人格が日に日に大成されて来るのです。

            <感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>

新天地開ける日 - 伝統

2016/01/16 (Sat) 03:30:20


           *「光明道中記」(P23)より

【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
                            (「生命の實相」第四巻)】

新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。

注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、惰力に押し流されていたような自分を発見して
悲しくなる人が多い。

併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、大自然の愛を感ずること、
人の愛を感ずること、すべての物と事とに内在する愛を感ずること ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが此の月の毎日の課題であったのである。

有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」「空気さん有難う」「御食事有難う」「日光有難う」
「お父さん有難う」「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

            <感謝合掌 平成28年1月16日 頓首再拝>

新生とは霊的目覚め - 伝統

2016/02/01 (Mon) 03:54:32


             *「善と福との実現」(P228)より

悔改めとは新生である。

”New birth ”である。

肉によって生るるものは、幾度生まれ変わっても肉に過ぎない。
新たに生まれるとは本来「肉」ならざる実相人間が肉の霊的自覚によって新生することである。
イエスはユダヤ人の長老ニコデモとの対話で云っているのである。

人間は先ず一見「自然人」(肉体人)として生まれる。
それは霊的人の新生するための胎として生まれるのである。

或る期間はその「胎」の生育のために費やされる。
そしてその「胎」がある時期に達したとき、その胎を縁として、「神」が新生するのである。

一生のうちに唯の「唯物人間」として神が新生しないで終わる人もある。
「神」が新生するための「胎」として創造られた肉体人間に、
「神」が新生しなかったならば、神御自身にとっては深い悲しみに相違ないのである。

その意味に於いて「神の自覚」のまだ生まれない人間に対して、
その自覚の目覚めた先達から、神の自覚に誘導してあげると云うことは、
神に対して最も価値ある恩返しと云わなければならないのである。

            <感謝合掌 平成28年2月1日 頓首再拝>

常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統

2016/02/16 (Tue) 03:38:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より

常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。

人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを生物学上の実験によって
確かめられたという。

人間の肉体が老いて衰え死するということは、細胞が複雑に組み合っているために、常に新しく
なれないからであって、必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。
ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、
過去の惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、過去の惰力で若い人を推し測るからである。

過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

            <感謝合掌 平成28年2月16日 頓首再拝>

《新生の悦びの歌》 - 伝統

2016/03/01 (Tue) 03:12:13


       *『白鳩』(昭和49年1月26日)の箴言より
   
     われにいのちを与えたまひしことを
     神に感謝します

     神がわれを選びて
     わがいのちとして宿り給ひしことを感謝します

     天の与えたまひし何よりも優るこの悦び ―――
     ただわれ生きてあることの悦び
     ああ、われ生きてあることの悦び!


   これは『信仰の科学』の251頁に 
   ”新生の悦びの歌” として載せられている詩である。

   神が ”わがいのち” として、
   今ここに宿り、且つ生きていられるのである。
   これを知ることが「新たに生まれる」ということである。

   かくて ”有限の肉体の生命” の自覚から、
   「未だかつて生まれたることもなく、失われることもない、
   不生不滅、久遠不死の存在である神の生命が自分である」
   との自覚の世界に超入するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成28年3月1日 頓首再拝>

《常に新たを加えるが宇宙の心》 - 伝統

2016/04/01 (Fri) 03:20:46


        *『 生長の家 』(昭和25年12月1日)の法語より

   宇宙が永遠につづいて行くものである限りに於いて、
   我々の仕事になお未完成な部分があるのである。

   未完成と云うのは何か新しいものが加わって行きつつある
   と云うことである。

   我々は新しくなることによってのみ
   常に永遠に完成の道へと進展しつつある宇宙目的に
   かなうと云うことが出来るのである。

   常に新しくならないものは、宇宙永遠の心に一致しないのである。
   吾々が永遠に生きて行くためには宇宙の心に一致して
   永遠に新しくならなければならないのである。

   吾々の生活に解決を要する難問題が出て来るのは、
   吾々が自然に新しき進展を見出さずにおれないための摂理である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12270163.html

            <感謝合掌 平成28年4月1日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2016/04/08 (Fri) 03:58:06

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

               ・・・

《釈迦新生の日》

           *「光明道中記」(4月8日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

            <感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>

《日に新しく愛せよ》 - 伝統

2016/05/01 (Sun) 04:45:18


        *『 生長の家 』(昭和25年12月2日の法語)より

   宇宙の無限進展に協力しない生命は、
   宇宙の生命に協力しないのであるから、
   また宇宙の生命に協力してもらうことは出来ないのである。

   吾々は日に日に新しくならなければならないのである。

   日に日に新しくなる間は 常に若く、
   新しくなることを停止したときに
   人間でも事物でも凋落しはじめる。

   吾々は毎日新しく魂を磨かなければならないし、
   毎日新しく良人(おっと)を愛し、妻を愛し、
   子を愛し、親を愛し、人類を愛し、
   国家を愛し、社会を愛さなければならない。

   過去の成績や功績を蝶々(ちょうちょう)して
   みずから新しくなる道を講じないようになったとき
   人間は老衰しはじめるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12273624.html

            <感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>

《我 今、神の子として新生せり》 - 伝統

2016/06/01 (Wed) 03:29:37


          *『 生長の家 』(昭和25年4月23日の法語)より 

   今、自分は新生したのである。
   肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
   物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。

   吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。

   過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
   過去はないのである。

   唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。


   今 自分は 新生したのである。
   
   今自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて
   父の家に帰ったのである。

   吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。

   吾は 神の独子(ひとりご)である。

   神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html


            <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>

《月の始めに新しき心となれ》 - 伝統

2016/07/01 (Fri) 04:23:42


       *「生長の家」(昭和25年6月1日の法語)より

   今日一日が新しき日であり、
   すばらしい機会を
   吾々に与えてくれる日であるのである。

   この日一日は 何事も順調に進むのであって
   悪いことなど起り様がないのである。

   すべての日は
   神の愛に満たされ、
   神の智慧に導かれ、
   悪いことといって何一つ起り様がないのである。

   吾はこれを信じて
   この月を始めるのである。

   神は吾々のすべてを
   愛して い給うのである。

   吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を
   愛して 祝福し給うているのである。

   我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 平成28年7月1日 頓首再拝>

新生の日がはじまったのである - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:06:35


          *「幸福をひらく鍵」(P24)より

悦びの日がはじまったのである。
古きもの、暗きものは消え去り、光ばかりの日がはじまったのである。

人々よ悦べ。
自覚を新たにせよ。

肉体としての人間から”霊としての人間”に高昇する日がはじまったのである。
”神の子”の日がはじまったのである。

あらゆる時に、すべての事に、
必要にしてすべてなる智慧と力を与えたまう神、
つねにあなたを護りたまうのである。


心を素直にしてすべてなる神の恵福を受けたまえ。

あなたの自信を新たにする日がはじまったのである。

あなたは単なる肉体ではない。
あなたは”神の子”である。

”神の子”であるから神が霊であり給うごとく、
あなたも霊であるのである。
あなたは神に護られているのである。


「わが神よ、神はわが眼を通して正常に万物を観給うのである。
それゆえに、わが眼は常に健全である。

わが耳よ、神はわが耳を通して正常に万物を聴き給うのである。
それゆえにわが耳は常に健全である。

わが鼻よ、神はわが鼻を通して呼吸し万物のよき匂いを齅(か)ぎ給う。
それゆえに、わが鼻は常に健全である。

わが口よ、神はわが口を通して、コトバを発したまい、
食物の美(よ)き味を味わいたまう。
それゆえに、わが口唇(くちびる)は歯も舌も常に健全である。

わが皮膚よ、神はわが皮膚を通して、その美を表現したまい、
人々との触れ合い皮膚を通して愛を実現したまう。
それゆえに、わが皮膚は常に肌理(きめ)こまかに美しいのである。」

毎日数回、このように唱えて自分の五官を祝福するがよい。

            <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《肉体を十字架につけて新生せよ》 - 伝統

2016/09/01 (Thu) 03:43:23


           *『生長の家』(昭和25年7月23日の法語)より

   「 人もしキリストにあらば、新たに造られたるものなり。
   古きはすでにすぎさり、見よ、新しくなりたり。」
                 (コリント後書第五章十七節)

   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   そうでないものは 今すぐ「 肉体無 」 を悟って
   肉体を抹殺しなければならない。

   かくて肉体無を悟る時、
   汝は自己の内にキリストを見、
   新たに造られたるものとなるのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

《毎日毎日が新しい体験である》 - 伝統

2016/11/01 (Tue) 04:05:54


         *『白鳩』(昭和42年12月1日の箴言)より

   この世界は常に新しいのである。
   毎日あなたは同じような生活を送っているかの如く思っている
   かも知れないが、一瞬一瞬、この世界は遷り変りつつあるのであり、
   一瞬一瞬、あなたも変りつつあるのである。

   その事を釈尊は『諸行無常』と説かれたのであり、
   多くの仏教者はそれを、この世の儚さ、人間のはかなさのように
   解釈して来たのであるが、生長の家は異う。

   一瞬一瞬、世界は変りつつあり、人間は変りつつあり、
   前と同じものは一つもない。

   それ故に、すべてのものは常に新しいのであり、
   自分の生活は常に新しいのである。

   退屈にも毎日同じことを繰返していて人生は無意義であるなどと
   考えていたのが間違いだったのである。

   同じものは一つもないのである。

   私たちは毎日毎日新しい体験をなしつつあるのである。

            <感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>

「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。 - 伝統

2016/11/02 (Wed) 03:40:07


          *「光明道中記」(11月2日)より

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

           <感謝合掌 平成28年11月2日 頓首再拝>

「新たなる自分」の発見 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 03:25:55


          *「真理」第九巻生活篇(P3~4)より

だれでも「生」の或る輝く瞬間が来ます。
自分の内に光が燃えるような感じなのです。

その光は天から閃(ひらめ)くように自分の内に入って来て、
自分全体の存在を輝き出し、今、自分が生きている有限のこの肉体生命以上に ――
無限におおいなる生命(せいめい)が自分の内に生きていることを感得する一瞬が
来るのです。

この感じをそのまま見過ごしてしまう人もありますが、
此の生命(せいめい)の光耀(こうよう)のなかに「新たなる自分」を発見して
「第二の自分」を ―― 否(いな)これこそが最も「本源的なる久遠の自分」を ――
発見して、人間が変わると云う人もあるのです。

それが多くの預言者であり、宗教の開祖であり、
大発明家であり、神の命を受けた大政治家であり、
釈尊であり、イエスであり、ワシントンであったのです。

この大自覚を獲得した時、あなたは今まで自分がどんなに弱小であり、
どんなに本物でなかったかがわかるのです。

まことにイススが自己を「神の子」と宣言し、
釈尊が「天上天下唯我独尊」と自覚した境地が
自分自身にもひらけて来るのです。

           <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

《新たに生まれる》  - 伝統

2016/12/22 (Thu) 04:40:21


          *「光明法語」(12月22日)より

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

           <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>

《新生のため準備整う日》 - 伝統

2016/12/31 (Sat) 03:12:39

《再び新生をする》

          *「光明法語」(12月31日)より

愈々今年もこれで終わる。

吾等は今日限り一切の悪しき習慣、
人を怒ること、憎むこと、恨むこと、不平に思うこと、悲しむこと、
取越苦労すること、持越苦労する事を止めることを誓うのである。

何事に対しても腹立てることなく、常に愉快に、明るく、
人々の心の中に、行いの中に、常に善のみを見て悪を見ず、

物事は今を生かして積極的に取進み、
常に自らが神の子であり、円満完全であり、
無限の能力と健康とを所有していることを自覚自信し、

撓(たゆ)むことなくひるむことなく神の道に邁進せんことを誓う。

              ・・・

《新生のため準備整う日》

           *「光明道中記」(12月31日)より

【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。
                        (『生命の實相』(第一巻)】

愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。

振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。

併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。

要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。

振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。

まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。


           <感謝合掌 平成28年12月31日 頓首再拝>

百事如意の神性を発揮する祈り - 伝統

2017/01/01 (Sun) 05:00:23


      *「光の泉」(昭和55年新年号・日々読誦毎月真理経)より

ここに吾らは新しき年を迎え、自己本質の如意自在の魂が蘇生(よみがえ)り、
新たに生まれる実感を味うに適する好機会が訪れて来たのである。

“機会”は常にあ’る’けれども、自分がどの機会を捉え、
自分が“何”と自己同一するかはみずからが選ぶのである。
ここに自己の個性ある人生が展開する。

自己がそ’れ’と自己同一したところの物に自分自身が成るのである。
自分が“神の子”だと信じ、一心にそ’れ’を信じて心をそ’れ’に集中すれば
実際に自分が“神の子”になるのである。

自分が病気であるということを始終心に思うようにし、
“病気”と自己同一すればその人は病気になるのである。

自分が“健康”であるということを始終心に思うようにし、
“健康”と自己同一すれば、その人は健康になるのである。

健不健だけの問題ではない。

人間は“神の子”であり、神とひとしく霊であって無相無限相であるから、
どんな相(すがた)のものにでも成ることが出来るのである。

自己が常に“富者”であることを常に思うようにし、
“富者”と自己同一すれば、そのひとは“富者”に成ってしまうのである。

“富者”と自己同一するというのは、特定の富者を心に描いて、
彼と自己同一することではないのである。

この世界は「神の心動き出でてコトバと成れば一切の現象展開して万物成る」と
聖経『甘露の法雨』に於いて示されたる如くコトバの展開する世界である。

そしてコトバとはアイディアであり、人間そのものの本質が“神性”であり“仏性”であり、
“神の心”は各人それぞれの内に宿っているのである。

その各人に宿るところの“神の心”が動き出(いだ)して、コトバと成る
―― 即ち彼自身が希望するアイディアを(例えば“われ富者なり”というアイディアを)
強く自己の心内に描いて持続し、そのアイディアと自己同一すれば、
彼はその描かれたるアイディア(即ち言葉)の具体化として富者に成るのである。

即ち『ヨハネ伝』福音書の冒頭に「はじめに言(ことば)あり、言は神と偕に在り、
言は神なりき、万のもの之に由りて成り……」と示されたる如く、
彼自身に宿るところの“無相にして無限相”なる神性・仏性が具体化して
自己の欲するアイディアの実現体となるのである。

即ち自分自身の生命の本質である如意宝珠が動き出でて、

「欲するもの、好ましきもの、おのずから集まり来たり、
欲せざるもの、好ましからざるものおのずから去る」

ところの如意自在の運命が自己の人生に展開するのである。

即ち「祈り合いの神想観」のとき、その席に列するすべての人々が
住吉大神より実相界の如意宝珠を授かり、更にその具体化として聖餐式に於いて
如意宝珠を象徴する霊球を自己の聖体中におさめて、実相現象一如となり、
自己の生命が現象界に於いても如実に百事如意の本質を発揮するに至るのである。

新年を迎えるに方(あた)りて此の深遠なる真理を教え給いし
神に深く篤く感謝し奉る。

ありがとうございます。

  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )


            <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

新天地開ける日 - 伝統

2017/01/15 (Sun) 04:10:40


           *「光明道中記」(1月15日)より

【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
                            (「生命の實相」第四巻)】

新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。

注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、惰力に押し流されていたような自分を発見して
悲しくなる人が多い。

併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、大自然の愛を感ずること、
人の愛を感ずること、すべての物と事とに内在する愛を感ずること ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが此の月の毎日の課題であったのである。

有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」「空気さん有難う」「御食事有難う」「日光有難う」
「お父さん有難う」「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

            <感謝合掌 平成29年1月15日 頓首再拝>

《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》 - 伝統

2017/01/17 (Tue) 04:44:53


         *「光明法語」(1月17日)より

新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。

新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。

今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。

新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。

如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。

満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。

            <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

《毎日新しき意義を生活に見出せ》 - 伝統

2017/02/01 (Wed) 06:21:50


        *『白鳩』(昭和42年12月2日の箴言)より

   自覚の問題である。

   この世界を古いものの毎日の繰返しだと考えるのは、
   自分の心が固定してしまって新鮮さを失っているからである。

   毎朝目覚めて、神に対せよ。
   そして『今日また新しき日を迎えさせて頂きまして、
   ありがとうございます』と神に感謝せよ。

   新しき日を迎える感謝の祈りをせよ。

   新しき日を迎える感謝祈りによって心が新しきものに目覚め、
   新しき方向を向き、繰返しと見える毎日の中に、新しきものを見出し、
   新しき意義を感得し、新しき体験を得て、自分の魂が向上進歩するのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年2月1日 頓首再拝>

新芽には力がある - 伝統

2017/02/17 (Fri) 04:23:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より

ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。

開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。

宗教でも古い時代に起こったものは過ぎ去る。
今は新しい時代が来つつあるのである。史代革新期である。
新しい酒を古き革袋に容れるときは破れる。

            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

【 新天新地の歌 】 - 伝統

2017/03/02 (Thu) 04:44:32


           *「生命の讃歌」より
             ~ 初出・・「白鳩」昭和14年1月号


 往昔(そのむかし)第一の世界浄化(きよめ)の
 洪水(おおみず)の時にてありき、
 海原(うなばら)の主宰(つかさ) 素戔嗚尊は
 言依(こよ)され給いし現(うつ)し国を
 え治め給わずして泣きいさちる。


 かれ速(はや)素戔嗚尊は
 現し国の御位(みくらい)を辷(すべ)り給いて
 天照大御神に
 海原の統治(すべよ)の権(ちから)を
 譲らまして御空(みよら)へと参上(まいのぼ)る。


 その勢い猛々(たけだけ)しく
 山川(やまかわ)国土(くにつち)悉く震(ゆ)り撼(うご)き
 海原の水ことごとく
 尊(みこと)に随(したが)い御空にのぼる。


 御空にのぼりし海原の水
 悉く沛然(はいぜん)たる雨となりて
 地上は四十日四十夜
 小歇(おや)みもなく大雨降る。


 その大雨の水量(みずかさ)は
 丘を蔽(おお)い山を蔽い
 全地ことごとく
 洪水を被(こうむ)りたりき
 これ第一の世界浄化なり


 そのとき一人の翁(おきな)ありき
 名を塩土翁(しおつちのおうじ)と云う
 又の名をノアと云う

 No(ノ)は無字(むじ)をあらわし
 A(ア)は阿字(あじ)をあらわす。

 ノアは一切の物質の否定と
 阿字即ち摩訶(まか)毘盧遮那(びるしゃな)の
 華蔵(けぞう)世界君臨とを象徴す。


 塩土翁は目無堅間(めなしかつま)の御船をつくり
 ノアは「ノアの方舟(かこぶね)」を作り、
 すべて蒼生(あおひとくさ)の一つ一つを
 その御船(みふね)ーー方舟の中に収(おさ)めて
 金剛實相の国、龍宮海に避難せり。


 目無堅間の御船の構造は
 横は無字 縦は阿字にて成る、
 目無とは洩(も)れ無きなり
 堅間とは金剛不壊なり

 金剛不壊、無字阿字の船
 これノアの方舟なり、華厳経なり。


 このとき方舟の中の蒼生のみ救われき
 これ第一の世界浄化なりき、
 雨歇(や)みて乾ける土を
 指示すべく遣わされたるは白鳩なりき、
 これぞ伝書鳩の濫觴(はじめ)なる。


 第二の世界浄化も
 第一のそれと同様なり。

 その救いの願船は
 横は無字にして本来空
 三界唯心の真理にて成る。

 縦は阿字にして
 久遠實成(くおんじつじょう)の不滅の生命の自覚(さとり)なり
 それを作り給えるも塩土翁なり。

 塩土翁は新しき乾ける土を
 人類のために見出さしめんとして
 白鳩を先ず遣わす。
 これ第二の世界浄化の使命なり。


 白鳩は日輪の使者
 塩土翁に導かれて
 新しき乾ける沃土(よくど)、地上天国へと導かん。


 万国の白鳩たちよ連合せよ
 汝(いまし)たちの行くところに
 必ずや新しき地上天国は現れん。


            <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

朝讃歌 - 伝統

2017/04/01 (Sat) 03:37:17


           *「生活の智慧365章」(P4)より

朝 東方に面して
合掌礼拝して
霊々
妙々
円満の大生命を観ずれば

心身清浄
微妙(みみょう)の大生命は
雰囲気となって
我が身 我が心をひたす。

吾れとその雰囲気と
一体にして界(さかい)なし

あゝ 讃うべきかな生命

   <谷口雅春著『ひかりの語録』より>

            <感謝合掌 平成29年4月1日 頓首再拝>

たえず新しくなること - 伝統

2017/04/03 (Mon) 04:12:28


    *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より

創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。

現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。

表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。

たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。

たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。

            <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2017/04/08 (Sat) 04:34:21

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。

なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

・・・

釈迦新生の日

           *「光明道中記」(4月8日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》 私が永遠か? 」

「そうだ、 《その》 お前が永遠者なのだ。
併し 《そのお前》 と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の 《いのち》 そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

            <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>

《常に新たを加えるが宇宙の心》 - 伝統

2017/05/01 (Mon) 05:00:12


          *『 生長の家 』(昭和25年12月1日の法語)より

   宇宙が永遠につづいて行くものである限りに於いて、
   我々の仕事になお未完成な部分があるのである。

   未完成と云うのは何か新しいものが加わって行きつつある
   と云うことである。

   我々は新しくなることによってのみ
   常に永遠に完成の道へと進展しつつある宇宙目的に
   かなうと云うことが出来るのである。

   常に新しくならないものは、宇宙永遠の心に一致しないのである。
   吾々が永遠に生きて行くためには宇宙の心に一致して
   永遠に新しくならなければならないのである。

   吾々の生活に解決を要する難問題が出て来るのは、
   吾々が自然に新しき進展を見出さずにおれないための摂理である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12270163.html

            <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>

《日に新しく愛せよ》 - 伝統

2017/06/01 (Thu) 04:20:25


         *『 生長の家 』(昭和25年12月2日の法語)より

   宇宙の無限進展に協力しない生命は、
   宇宙の生命に協力しないのであるから、
   また宇宙の生命に協力してもらうことは出来ないのである。

   吾々は日に日に新しくならなければならないのである。

   日に日に新しくなる間は 常に若く、
   新しくなることを停止したときに
   人間でも事物でも凋落しはじめる。

   吾々は毎日新しく魂を磨かなければならないし、
   毎日新しく良人(おっと)を愛し、妻を愛し、
   子を愛し、親を愛し、人類を愛し、
   国家を愛し、社会を愛さなければならない。

   過去の成績や功績を蝶々(ちょうちょう)して
   みずから新しくなる道を講じないようになったとき
   人間は老衰しはじめるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12273624.html

            <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>

今、新天新地に変貌する - 伝統

2017/06/29 (Thu) 04:52:15


          *「光明道中記」(6月29日)より

天国成就の日

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

            <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

《毎日毎日が新しい体験である》 - 伝統

2017/08/01 (Tue) 04:51:44

         *『白鳩』(昭和42年12月1日の法語)より

   この世界は常に新しいのである。
   毎日あなたは同じような生活を送っているかの如く思っている
   かも知れないが、一瞬一瞬、この世界は遷り変りつつあるのであり、
   一瞬一瞬、あなたも変りつつあるのである。

   その事を釈尊は『諸行無常』と説かれたのであり、
   多くの仏教者はそれを、この世の儚さ、人間のはかなさのように
   解釈して来たのであるが、生長の家は異う。

   一瞬一瞬、世界は変りつつあり、人間は変りつつあり、
   前と同じものは一つもない。

   それ故に、すべてのものは常に新しいのであり、
   自分の生活は常に新しいのである。

   退屈にも毎日同じことを繰返していて人生は無意義であるなどと
   考えていたのが間違いだったのである。

   同じものは一つもないのである。

   私たちは毎日毎日新しい体験をなしつつあるのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

《毎日新しき意義を生活に見出せ》 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 05:01:22


        *『白鳩』(昭和42年12月2日の箴言)より

   自覚の問題である。

   この世界を古いものの毎日の繰返しだと考えるのは、
   自分の心が固定してしまって新鮮さを失っているからである。

   毎朝目覚めて、神に対せよ。
   そして『今日また新しき日を迎えさせて頂きまして、
   ありがとうございます』と神に感謝せよ。

   新しき日を迎える感謝の祈りをせよ。

   新しき日を迎える感謝祈りによって心が新しきものに目覚め、
   新しき方向を向き、繰返しと見える毎日の中に、新しきものを見出し、
   新しき意義を感得し、新しき体験を得て、自分の魂が向上進歩するのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

《月の始めに新しき心となれ》 - 伝統

2017/10/01 (Sun) 04:38:50


       *『生長の家』(昭和25年6月1日の法語)より

   今日一日が新しき日であり、
   すばらしい機会を
   吾々に与えてくれる日であるのである。

   この日一日は 何事も順調に進むのであって
   悪いことなど起り様がないのである。

   すべての日は
   神の愛に満たされ、
   神の智慧に導かれ、
   悪いことといって何一つ起り様がないのである。

   吾はこれを信じて
   この月を始めるのである。

   神は吾々のすべてを
   愛して い給うのである。

   吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を
   愛して 祝福し給うているのである。

   我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

            <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

《新しきものを生み出す力》 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 04:35:53


        *『 生長の家 』(昭和25年12月15日の法語)より

   「 行き詰れる者は福(さいわい)なるかな。
   汝らは新しき想念計画を生み出さん 」

   この世界は神の自己表現の世界であるから、
   いつまでも同じ考え同じやり方で
   通用するものではないのである。

   同じ考え、同じやり方をやっていたら
   必ず行き詰まる時が来るのである。
   そして新しき一層よき考え、よきやり方が案出せられる。

   そして新しきものを生み出さんとする宇宙的な力に協力する者は
   栄えるが、それに逆らって旧態依然たるものは衰え
   而(しか)して滅びるほかはないのである。

   常に新しくなるものは老いず、停滞せず、衰えず、
   愈々(いよいよ)栄えて隆々たるに到(いた)らん。

   これ宇宙的法則である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12323201.html

            <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

《常に新たなる物を生み出せ》 - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:24:27


        *『 生長の家 』(昭和25年12月16日の法語)より

   常に自己の内なる「新しき人」に呼びかけよ。
   「新しき考えと、新しき方法とを教え給え」と。

   汝のうちには「常に新しき自己」が神性として仏性として
   宿っているのである。


   吾々が自己の内部の「新しき人」に呼びかけない限り、
   その「新しき人」は眠っていて
   「新しき考え」と「新しき方法」とを教えては くれないのである。

   無限の力は内部に宿っているけれども、
   それを汲(く)む器の大小によって
   自分の獲得し得る分量は異るのである。

   常に新しきものを呼び出すと云うことは
   今までありしものを弊履(へいり)の如く捨て去ると
   云うことではない。

   今までありしものに感謝して増大することである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12325893.html

            <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

《新たに生まれる》  - 伝統

2017/12/22 (Fri) 03:49:01


         *「光明法語」(12月22日)より

知恵の樹の果を食べたときアダムとイヴとはエデンの楽園から追放せられた。

人間は自分自身を五官の感覚で観て『物質』の塊だと思い出したときに
自由自在の境涯(楽園)から追放せられたのである。

『物質』とは霊の自由に対する障礙であるからである。

だから吾々が真に自由自在の境涯になろうと思うならば
吾々は『新たに生れ』なければならないのである。

物質的存在としての自覚から『霊的実在』としての自覚への更生である。

これをキリストは『人あらたに生れずば、神を見ること能わず』
(『ヨハネ伝』第三章三)と言ったのである。

            <感謝合掌 平成29年12月22日 頓首再拝>

新生とは、『霊』として復活すること - 伝統

2017/12/23 (Sat) 03:42:20


         *「光明法語」(12月23日《キリストの復活》)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

            <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>

新生のため準備整う日 - 伝統

2017/12/31 (Sun) 04:37:46


           *「光明道中記」(12月31日)より

【植物の種子と等しく人間の事業の発芽にも時間を要する。急ぐな。
                        (『生命の實相』(第一巻)】

愈々(いよいよ)今日で本年も終わるのである。
終わると思うと、名残り惜しいような気もする。

振返ってみると、どれだけ私の魂はこの1年間に進歩したことだろう。
色々の失敗もあったであろう。色々の躓きもあったであろう。

併しその時には魔誤ついた如く見えた失敗も躓きも、今から振り返って見ると、
悉く私の魂の生長に必要欠くべからざる要素をなしていることを発見するのである。

要するに、本当の意味に於て失敗と云うことはなかったのである。
躓きと云うものはあり得ないのである。
今から見ればすべてのものが拝まれる。

振返って見て拝まれるだけでは尚心細いと思う。
どんなときにも拝めるようになっていなければならない筈である。
その時その場で拝めるようでなければならないのである。

まだ私は、本当に拝み切っていることが出来なかったようにも反省せられもする。

愈々今年もこれで終わるのかと思うと、今年と云うものに申し訳ない気がする。
私自身の生命にも申し訳がないような気がする。
誌友諸君に対してもまことに申し訳がない。

この私を茲(ここ)まで鞭撻し、
ここまで引摺るようにして導いて下さったのは誌友の私に対する信頼である。

私は茲に感謝を以て本年の日記を終ろうと思う。

            <感謝合掌 平成29年12月31日 頓首再拝>

新たに生まれる - 伝統

2018/01/01 (Mon) 04:26:29

     <「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より抜粋>

 新しい年には新しい心が生まれる。
 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。

 他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
 われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。

 元旦からまず始めよう。
 それは明るい心を持つということである。

 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
 新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。

 ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
 ただそれだけ一つのことである。
 これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
 何事が起こっても悲しまぬということである。
 何事が起こっても失望せぬということである。

 何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
 起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。

 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
 すんだからこそ新しい年が来たのである。
 木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。


 天地一新。
 悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
 それはすべて一新していく姿である。

           <感謝合掌 平成30年1月1日 頓首再拝>

心の眼(まなこ)ひらくが新生 - 伝統

2018/01/03 (Wed) 03:23:25


           *「光明道中記」(1月3日そのまま素直な日)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】

一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って吾々を生かしてくれていると知るのが
悟りである。斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が
如何に鹹(から)く、如何に酸(す)っぱきかを思え。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、外国人に生まれずして日本人と生まれたり、有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。

            <感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>

新天地開ける日 - 伝統

2018/01/15 (Mon) 04:36:01


           *「光明道中記」(1月15日)より

【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
                            (「生命の實相」第四巻)】

新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。

注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、
惰力に押し流されていたような自分を発見して悲しくなる人が多い。


併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、
大自然の愛を感ずること、人の愛を感ずること、
すべての物と事とに内在する愛を感ずること

 ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが
此の月の毎日の課題であったのである。


有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。
自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」
「空気さん有難う」
「御食事有難う」

「日光有難う」
「お父さん有難う」
「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

            <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

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