伝統板・第二

2937885
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

実相を観ずる~「神想観」 - 伝統

2015/04/09 (Thu) 04:10:12

*光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

・・・

《神想観は、神の完全円満相を見詰める修行》

            *『生長の家』誌(昭和53年4月号)より

宗教というものは、神様の生命を頂いている人間の完全な相(すがた)を、
それを現わすことによって人間を救うのであります。

その《本来の完全な相》を『實相』というのであります。

その『實相』を現わすためには、その本来の完全な相を包み隠している欠点を
取除くために、その欠点をとくに見付けて「これはいかんぞ、此処はよくない」と
説くような方法もあるのであります。
大抵今までの教育の仕方はこれでありました。

これは宗教でいえば

『お前は罪の子である、罪の子である。原罪すなわちオリジナル・シン(orijinalsin)という、
人類の祖先なるアダムとイヴが神の教えに背いて、《知識の樹の実》を食べ、
エデンの楽園から追放されて以来、それから続いている深い罪を持っているのであるから、
それが救われるためにはキリストに振り向け』

と説くように、《罪を強調する》ことによって、
実相の完全な姿に振り向かせようとする教化方法もあるのであります。

しかし、そういう教化方法は今まで失敗して来たのであります。

それだからお釈迦さまが生まれてから約三千年、キリストが出られて約二千年、
人類の心をよくしようと思って、その弟子の僧侶や宣教師たちが釈迦、キリストの
教えを説いて来たけれども、人類の道徳性は少しもよくなっていないのであります。

それは罪を強調し、悪を強調して来たからであります。

子供の教育でも『お前は頭が悪いぞ。数学が下手だから余程勉強しなければならない』
というように、学校の先生や親たちが子供に言う。

すると子供はせっかく心を勉強の方に振り向かせても、《自分は頭が悪いのだ》という
先入観念にしばられて、何時まで経ってもその子供は発達しないのであります。

この世界には《見るものが現れる》という《心の法則》があるのであります。
いくらそこにあっても、”見なければ現れない”のであります。

我々の生命の實相は『神の子』であって、完全であるという本来の姿が現にあるのだ
けれども、それを見ないから現れないのであります。
  
欠点を見詰めると欠点が尚一層強く現れて来ます。
『病気、病気、病気』と病気ばかり考えていたら益々病気は悪くなります。

病気を癒そうと思ったら、病気を忘れて、
健康を見詰めれば健康が強く出て来るのであります。

心で観るものが現れて来るのでありますから、神想観では、心の眼で、
自分が神から頂いた生命の本当の姿、完全な姿をじいっと見詰めることによって、
その完全な神の子の姿を現象的にも、肉体的にも現わすことが出切るのであります。

そういう原理に従いまして、神想観というのは神から与えられた自分の生命の實の相
本当の相が完全圓萬であることを見詰める修行であります。

そのためには、神様のお造りになったこの世界が素晴らしく立派な完全なものである
ということを、心の眼でじいっと見詰めなければなりません。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18175787.html

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

           <感謝合掌 平成27年4月9日 頓首再拝>

“ 無私の祈り“としての神想観 - 伝統

2015/04/18 (Sat) 04:32:01



        *『 生長の家 』誌 昭和46年3月29日の法語より

神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。

「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」とは、
「五官の世界」即ち「現象世界」の一切の意欲を去ることである。

意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは、既に「五官の世界」を去った今は、
“自分の心”の中にないのであるから、現象世界の何ものをも求めないのである。

そして自分の欲望の願いも何もなく、
ひたすら心が“神”と“神の創造せる世界”(実相世界)に振り向いて、
実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私のパイプとなることである。

このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。

すると其処は、

神の無限の智慧の海であり、

神の無限の愛の海であり、

無限の生命の海であり、

無限にゆたかなる供給の海であり、

無限の歓喜の海であり、

無限の調和の海であるのである。


それを心の眼をもってハッキリと観るのである。

観ることは既にあるものを受け容れることである。

それをハッキリと受け入れたとき、実相世界の天国状態がハッキリ現象世界に
その姿を映し出して、此処に地上に、天国が現出することになるのである。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12729823.html

           <感謝合掌 平成27年4月18日 頓首再拝>

神想観を怠らない - 伝統

2015/04/24 (Fri) 03:40:00


坐禅をしない禅宗の信者、念仏を称えない真宗の信者
・・・ 神想観をしない生長の家
 
              『生長の家』 誌  昭和36年新年号 より

新年から、神想観を怠らず真剣に実修することにしようではありませんか。

神想観の功徳は遠藤義雄氏の 『真理は死刑の鎖も断つ』 と云う著作にも
その実例が出ているように、戦犯として死刑を宣告せられていた氏が、
その観の功徳によって無罪の判決を得、

獄中で神想観すれば無数の蚊が自分の裸の皮膚にむらがりとまっていても少しも螫さず、
自分のベッドにいた南京虫が無数に行列して集団移動をはじめたと云うような奇蹟が
記録されているのでありますが  〈※註 日本教文社 昭和37年発行〉

 
さて、神想観は、腕がだるい、脚が痛い、面倒くさい、退屈である。 
別に神想観をしないでも、本来神の子じゃ、その真理さえわかればよいじゃないか
と言う人もありますが、それでは坐禅をしない禅宗の信者、念仏をとなえない真宗の信者
みたいなものであります。


真理を自覚するには、

(1)真理を説いた聖典を読誦すること。

(2)菩薩の心を起し愛他行を実践すること。
 
(3)常に実相を観じて正念を失わないこと。
 
(4)すべての衆生を見るに、神の子、仏子として
   礼し敬するようにつとめることであります。

 
“観普賢菩薩行法経” には、
釈尊が 「自分はもう3ヶ月したら涅槃に入る」 と仰せられときに、弟子が 

「世尊、あなたが滅くなられました後には生ける師匠とては
ございませんので、どのようにしたら無上菩提の心を失わず、煩悩を断ぜず、
五慾を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することができますか」 

とおたずね申上げたとき、釈尊は 

「実相を観ぜよ。 ・・・ 無量の勝れたる方便は実相を思うより得、
一切の業障海は、皆妄想より生ず。 若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。 
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」 と教えていられるのであります。


実相を観ずるには、禅宗には坐禅の方法があり、真言宗には阿字観等色々の観法がある。 
しかしどの観法によるにしても最初は心が動揺散乱して、精神統一境に入ることができないで、
退屈になってしまい、ついにそれを抛棄して何の得るところもない人が多いのである。

併し何の修行をするにも、ある心域又はある境地に達するまでは、
或る程度、退屈であり、苦行である。 

それは剣道の修行然り、柔道の修行然り、茶道、華道、書道の修行みなしかり。 

凡そ 「道」 と称するものに到達し得るには
余程の決心がなければ途中にして挫折してしまうのである。 

その途中の挫折を、仏典や聖書では象徴的に悪魔波旬又は悪魔サタンが、
その成道を妨げんが為に出現したと云う風に書かれている。 
この悪魔の誘惑の境界を超えたとき、はじめて私たちは彼岸 (実相の自覚) に
達することができるのである。

それなのに神想観を怠る人が多いのは、最初の関門を突破し得るところまで実修しないで、
「未だ得ざるに得たり」 と思って実修をやめてしまうからである。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18979593.html


           <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

「神の御心」を聴く『神想観』 - 伝統

2015/04/30 (Thu) 03:57:41


          *谷口清超先生・著『神想観はすばらしい』(P12~13)より

心がいつも「希望」に輝いている人には、すべてのことがうまく行きます。

でもその希望が、自分のわがままや自分勝手な願いである場合は、
たとい一時的にその希望が実現しても、かならずしも幸福にはなれません。
それは、神の御心にかなわないことですと、不幸な運命にも結びつくからです。

だから、最初の言葉は「希望」の代わりに
「神の御心」と言いかえたほうがよいでしょう。

「神の御心」はどうしたら分かるかといいますと、神に聞けば良いのです。
神は、すでにあなたの中に宿る「真実のあなた」ですから、神に聞くことは難しくない。

ただ毎日「聞く練習」をして行くならば、間違いなく聞けるのです。
その練習が「神想観」なのであります。

           <感謝合掌 平成27年4月30日 頓首再拝>

神のコトバを素直に受ける - 伝統

2015/05/07 (Thu) 04:12:37

          *『精神科学』誌(昭和48年12月号)より

イエスはその神癒能力に限りがなかったように、色々の病気を治し、
或は死者を蘇生せしめたりしているのであるが、彼はその奇蹟的治癒又は蘇生を
「自分がした」とはいわないで

「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして御業を為さしめ給うのである」 
といっているのである。

だから、イエス自身は、自分の治癒能力を強化する霊的ヴァイブレーター 〈霊的振動器〉 
になるような修行をしてはいないのである。 彼は弟子から離れてひとり山にのぼって
祈るようなことをしているが、これは天の父と交通するためだったのである。

彼の治癒能力は彼の肉体力又は幽体又は霊体の力ではなく、
天の父から出ずるものであったから限りがないのであった。 
イエスによる治癒は、信仰治癒 〈Faith healing〉 であったといえるのである。

それ故にイエスは治病の目的で遣わされた弟子が、その治癒に失敗して帰って来たときに 
「汝ら信仰うすき者よ」 といっているのである。 

そしてイエスは霊的治療能力を増強するためのメソッドについては、
弟子に対しては何事も教えていないのである。


実相無病の立場からは 「癌は治らない難症だというような」 ことはないのである。 
神のつくらないところの病いは、癌であろうとも、それは本来ないのだから、
完全円満な実相のみを想念すれば、そんな迷妄の産物は自然に消えるのである。

それが消えないのは、「神のつくり給うた世界にはどんな病気もないのだ」 
という信仰の欠乏 又は 薄弱によるのである。

 
神想観すなわち 「神のつくり給うた実在の世界には円満完全な実相のみ独在する」 
ということを信じ、その円満完全な実相のみを観ずる瞑想法によって、
その独在する実相を静かに観ずるのに、

何やら上手、下手とか、コツとか秘訣とかいうものがあるかというと、
そのコツは‘ある’といえば‘ある’が、‘ない’といえば‘ない’のである。

それは静かに瞑想する力を強化するというようなやり方のコツはないのである。 
自己の凝念すなわち精神集注 〈Concentration〉 によって、
実相 ― 完全な姿を凝視すると、その完全な相が凝念によって、患者に移入されて、
患者が健全になるというやり方もあるのである。

 ―  これは “コツが‘ある’といえば‘ある’” という方のやり方であるが、
自力的要素が強いために術者又は治療家は自分のエネルギーを消耗して疲れるのであり、
その治癒力も、自分のエネルギーの消耗によって限界がある。


しかし 「コツは‘ない’といえばコツは‘ない’」 という方のやり方には、
コツというような人為的な巧者工夫は一切入り来らないのであって、

『創世記』 第1章の終りにある 「神そのつくりたるものを見給いけるに甚だ善かりき」 
とある通りに、「神の創造には“善”あるのみなのだ」 と神が仰せられたら、
その通り素直に 「ハイその通りでございます」 とその神のコトバを素直に
そのまま幼な児の心をもって承認し受けるだけのことである。


素直に “神から与えられたもの” を受けるのには、凝念は要らないのである。 
私の著書の 『人類無罪宣言』 の144・145頁には次のように書いている。 ――

「祈るとは、神に対して絶えず 『われを忘れ給うな』 と警告するためではありません。
人間の方が神を思い出すためなのです。 祈っても祈らなくとも、神想観をしてもしなくても、
人間が神の子であることに変りはないのです。 

それだのに、われわれが神想観をして 『お前は神の子である』 と自分自身に呼びかけ 
『ハイハイ、私は神の子でございます、ありがとうございます』 とお受けするのは、
われわれ人間の方が神を忘れないようにするためであって、
神に 『われを忘れ給うな』 と警告するためではないのであります。

神は愛であり、全智でありすべてのものを知り尽くし、
すべての幸福をわれわれに与え給うている ―― もう決算はきまっているのです。 
もう決算報告書は書かれているのです。 

〈注。 「神その造りたるすべてのものを視たまけるに甚だ善かりき」〉 
決算報告書を前にして祈ってみたところがその決算は殖えもしないし、減りもしないのです。 
ただわれわれの役目は神から与えられた決算報告書を正しく算出することなのです。

『お前は神の子である。』

『ハイハイさようでございます。』 

『お前に無限億万円が与えてある。』 
〈注。 これは金額のことではない。 無限の幸福の比喩である〉 

『ハイハイ確かにさようでございます。』

これが正しい算出でありまして、これが祈りであり、神想観であります。 
与えられた勘定書を精確に承認することが神想観であり、祈りであります。」

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/38de700b6fdba45f6cffb034c4df8d73


           <感謝合掌 平成27年5月7日 頓首再拝>

《実相は金剛不壊完全である》 - 伝統

2015/05/13 (Wed) 04:19:17


           *『 生長の家 』(昭和26年5月5日の法語)より

   現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。

   実相は神によって造られ、神によってその存在が保たれているのであるから、
   それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

   遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
   その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

   吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。

   即ち 現象の不完全さ(五官の世界)に眼(め)を瞑(と)じて、
   神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓喜(よろこび)、
   無限の調和の満つる世界を心の眼で凝視するのである。

   凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110


           <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

「神想観せよ!」 とは神の愛の詔命 - 伝統

2015/05/21 (Thu) 04:11:17


           *『光の泉』誌(昭和38年新年号P25~28)より

             ~「光の泉」  真 理  先 生


〔真理先生〕

さて、神示は全篇、神の御愛の御言葉だが、
それを拝読する人には、それぞれ心ひかれるところが違うだろうが、
君は神示のどこに、神様の愛を一番、感じとっているかね。


〔K君〕

全篇に、愛と荘厳さがみなぎっていますが、特に好きな一節は何処かと申し上げますと、 
『新天新地の神示』 の中に、 

「吾れを呼ぶ者のもとに吾れは常にありて、汝らのために汝らの重きくくびきを軽からしめる。 
なんじ一人ならば吾れを念じて吾れとともに二人なりと思え。 
なんじら二人ならば、われを念じて吾れと倶に三人なりと思え ・・・ 」 

それから 『懺悔の神示』 の中に、 
「汝らは吾が真子なればなり。 吾れ汝らと一体なり」 とございますね。 

愛がひたひたと迫ってくるような御言葉。 
あそこに心をいたく打たれるんです。

神様は、私たちに、「何時も私を呼びなさい、何時もお前と一緒だよ」 
とやさしくおっしゃっているんですね。 
その親しさ、なつかしさ ・・・ 何と表現していいでしょうか。 

じっとその言葉を祈りの中で誦えつづけていると、勿体なくて涙する思いなんですね。 
神は愛なりとか何とか言ったって、これほど神の愛を真実に伝えるコトバはないんですね。

神想観の中で、かく私は語り給うて下さる人格的な神を、じっと瞑視していますと、
何とも言えないんですね。 

生ける我が父なる母なる神様が、あたたかくここに在すという幸福感 ・・・ 魂の歓喜と
妙なる充足感 ・・・ まさしく、神が今此処に生きて在ますじゃないですか。 
この生ける愛の神の、我らに語りかけ給う温かき御言葉が神示そのものなんですね。

その愛の御言葉を、神想観の中で、じっと誦えながら、瞑想してごらんなさい。 
静かに静かに神と対座してごらんなさいませ。 生ける神の息吹が、
生ける神の鼓動がひたひたと感じられるではありませんか。 

そう私は皆さんに言いたいのです。 
ここに私は、神示を通して神にふれる魂の秘儀があると思うんですね。

 
神は知識じゃないんですね。 
神は抽象的な概念でも説明でもない。 
神は触れられるべきもの、体感さるべきもの、切実に如実に感じとられるべき
生きてましますものだとわかったんんです。


〔真理先生〕

いい体験をしたね。 K君。 
君は神示によって、確かに魂を目覚めさせられたのだよ。 
君は幸せだよ、生ける神を知って ・・・ 神を体感するほどの生ける充足はないのだよ。


〔K君〕

さらに私は、神示によって、神想観の秘儀を知らして頂いたんですね。 それは、

「われ汝等に 『神想観』 という観行を教えたれば、それを為せ。 
われに汲むものは常に新しき力に涸れないであろう ・・・ 」

と宣し給うているんですね。 

私は今まで、神想観は毎日行じているわけではなかったんです。 
やったり、やらなかったり。 
それから、何か欲しいものを与えられんがために神想観するという風なところもあったんです。 

事実、神想観の功徳はすばらしいので、欲するものを神様にお願いしておくと、
必ず与えられるんです。 これらの体験は沢山あります。

けれども、この神示を瞑想していますと、
神想観の、それはそれは深い意味がわかってきたんです。 

よく神誌や御講演の中で、神想観は神授のものであると
谷口先生がおっしゃる意味がわかったんです。

神想観は、神様の愛の御心が動いて、我ら人類に授けて下さったものなんですね。 
その愛の御心が、 「我れ汝らに神想観を教えたればそれをなせ」 の中に、
生き生きと波打っているんですね。 

勿体ない神想観だと思って、神想観が一層なつかしくなったんですね。 
そして、ああ、神想観は生ける神に従い愛の神と対面する行事なんだな、
としみじみ実感がわいてきました。


〔真理先生〕

聖書の中のキリストの言葉に 
「汝ら、我れを愛せば、わが戒を守らん」 というコトバがあるね。 

むしろ神様を愛したら、神の御コトバ 〈ここでは神示〉 に無条件に
従いたくなるものだよ。 
君は、今、本当の意味で神様を愛し始めたのだよ。


〔K君〕

そうなんです。 
今迄は、確かに自分のために神様を愛していたんですね。 
ところが、今は、神様のために神様を愛する心境になりました。


〔真理先生〕

ああ、それが、とりも直さず本当の自分 〈神の子〉 を愛することなんだよ。 
神はすべてのすべてだから、すべてのものを拝めるようになるんだよ。


〔K君〕

たしかに、そうです。 
神様を愛するということは、神の自己顕現であるすべてのものを
愛し礼拝することになるんですね。


〔真理先生〕

自分とか他人とかない、一切のものを含めた神様の立場から、
そのまま凡てのものを拝み愛するんだね。


〔K君〕

近頃は、神想観をする前に、 「汝ら神想観をなせ」  の神示の御言葉を
思い浮かべながら、実修に入りますと、とても楽しく素晴しい神想観が
出来るようになりました。 

平和な愛を深くたたえた神様のふところに抱かれて、
神想観をしているみたいな境地に入れるんですね。


〔真理先生〕

神想観による霊性の開顕と神力の充足涌出とは正比例するんだよ。 
神想観を怠るなよ。 神は常に見守り給うて、かく言い給うのだ。 
 「汝ら我が真子なればなり」 と。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/963d2432204570793d49ef1c398aa095


           <感謝合掌 平成27年5月21日 頓首再拝>

神想観の合掌 - 伝統

2015/05/27 (Wed) 03:48:49


          *『生長の家』誌(昭和24年7月号)(P25)より
           ~生長の家教団理事文書指導部長  吉 田  國 太 郎


此の頃胸底をはなれない思いを此処に認めてみる。

「物質無」 此の光明が生きないで今此処に 
「生命(いのち)の世界」 を生きることは出来無い。 

現実の根本観念が 「物質有」 になっていては、
今此処に 「生命(いのち)の世界」 は生れない。 

それ故に、人間の本当の生活はかくあるべきだとの
神の御声を素直にいかして行くことも出来無い。 

其の知識や経験が如何に豊富であっても、
其の堆積は 「生命(いのち)の世界」 の生きる力とはならない。 
其の力故に割り切れない矛盾撞着に堕ちて不信の徒となることもある。


「物質有」 の観念に在りながら、自分が懐疑の無明に覆われていないと思う者は、
深く自分の心に沈んでみれば、心の奥底に必ず懐疑の蟠りが潜んでいることを見出す。 
これが罪であり気枯(けがれ)であると真理は告げ給うのである。 

そして又此の苦悩を五官六感の力に依って折伏しようと努力するので、
其の収穫とみえるものにさえも何等真実の収穫は無く
生命(せいめい)はその縺れを増して行く。

「物質有」 と信じて顛倒している心が、
コトバの力に依って真理の念(こころ)を駆使しても、現象の功徳は現われる。 
現象顕現の心の法則にかなえば現われる。 

併しこれは現象の功徳であって、本当の功徳である無限生命そのものではない。 
無限の功徳そのものは、現象を超えて 「生命(せいめい)の世界」 に内在する。 

所詮一度は、死の関門を透過して生きる 「生命(せいめい)の世界」 である。 

此の誕生此の消息を導き生かす聖なる光明が生長の家の御教である。 
此の処が如実に生きて、現象の今此処に実相の永遠に生きる神の子の生活が誕生する。 

「神想観・今・ハジメ」 
此処に帰命し此処に誕生して神の子の生活に真理の書がその霊性を開眼する。 

此の光明に生かされて、神の子が拝むべき聖なるものを
本当に礼拝出来る処の至心の礼拝がさきはえられ、此処に一切万事が生かされて行く。 

一切皆空の底にすみきる礼拝の心。 
これより大いなるものはない。 
大小の問題ではない。 

遠く遥かなる今此処天国。 
五官六感を超えて神の子が生かされる。

教団本部道場の早朝神想観に坐し此の光明を拝し
此処に生命(いのち)が恵まれて来る日々(にちにち)である。 

神様有難う御座います。 
神様有難う御座います。 

此の感謝が滞るものなく虚空に澄み通る超現象の感謝合掌を祈っての日々である。

   (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/94d75fb5dab4c151193172d9ed0504ff

           <感謝合掌 平成27年5月27日 頓首再拝>

神想観が足りない - 伝統

2015/06/04 (Thu) 04:44:43


           *新版『幸福生活論』(P165~166)より

人間神の子の自覚がうすれて来たときに、人は禍に墜落する。 
病気も不幸も其処から出るのであります。 
人間神の子の自覚が永続しないのは、神想観が足りないからだと思います。

道元禅師は 「祇管打坐」 と云われました。 
祇管(ひたすら)坐ることが必要なのであります。

生長の家へ来て、話を熱心にきく人でも、神想観の時間になると帰ってしまう人がある。 
これは話よりも、神想観の方が尊い行事であると云うことを知らぬ人であります。

観普賢菩薩行法経にも 『端坐して実相を想え、慧日よく衆罪を消除す』 とあります。 
端坐して実相を念じているときには、そのまま仏・そのまま神の子であって、
実相があらわれているから、諸罪はそのまま無いのであります。

この行事を毎日毎夜行わぬ人は、いくら神の子だと一ぺん悟っても、
その実相が錆のために蔽われているのは、立派な名刀でも、毎日打粉をふって磨かぬと
その明晃々たる状態が錆にって蔽い隠されているようなものであります。

その打粉を打って毎日磨くのが、神想観であり、毎日、自分の実相と対面する行事であります。

瑞巌和尚は、毎日、自分の実相にむかって 「主人公、主人公」 と云って
喚び出したそうでありますが、ただ 「主人公」 とだけでは充分ではない。 

主人公が一体何者であるかをハッキリ知って対面するのでなければ
本当に自分の実相に対面したと云う訳には行かぬ。

そこで、自分と云うものを 「神の子」 だとハッキリ知って
それを言葉でとなえて対面するのです。 
これが神想観なのであります。

実際心境が段々高くなって行く人は神想観を怠らぬ人であり、
理論や智慧には明るくとも、生活が段々調わぬようになった人は
神想観を怠る人に多いのであります。

    (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/4884306cc6823c6eb0d0ec7ab1c4b194

           <感謝合掌 平成27年6月4日 頓首再拝>

「宇宙的力と結ばれる神想観」 - 伝統

2015/06/11 (Thu) 04:50:55


             *『人生を見つめて』 より
 

祈るということは 『個々の生命』〈人間のこと〉 が、
宇宙全体の生命 〈神といってもよろしい〉 とその精神や心の波長を共鳴させる

ことによって、個人でありながら宇宙的な力を其処に喚びおこして、
それをはたらかしていることになるのであります。

祈るたびごとに、私たちは、私たちの内部にある大いなる力を喚び起しているだけではなく、
自分にある内部の力と宇宙的な力との結びつきを完全ならしめ、
その結果、私たちの内部の力を補強し浄化することになるのであります。

あなたの内に宿る力が、宇宙的な力と結ばれるとき、
あなたは大宇宙の星辰を、無数の恒星を、無数の太陽の運行させている
大いなる力と結ばれることになるのであります。

本来あなたを生かしている力は、大宇宙を動かしている力と同じ力でありますのに、
あなたが、それを覚らないとき、親に‘はぐれた’迷子のように、
親のすべての財産の後継者でありながら、孤児になったと同じように、
大宇宙の大いなる力の後継者でありながら、孤独な何の力もない人になります。

 
「大宇宙」から‘はぐれ’ないように、いつもしっかりと親の手を握っていて、
迷子にならない子供のように、「大宇宙の力」の手を握ろうではありませんか。 

その手を握って、いつも「大宇宙の力」と私たちとが結びつく方法が祈りなのであります。

あなたの「内部の魂」を飢えさせてはなりません。 

あなたの肉体は物質的な食物を与えさえすれば飢えないでいますけれども、
あなたの「内部の魂」は、祈りによって、神の「大いなる力」に結ばれて、
其処から「霊的な力」を供給されることによってのみ飢えなでいられるのです。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18950095.html

           <感謝合掌 平成27年6月11日 頓首再拝>

神想観の注意 - 伝統

2015/06/18 (Thu) 04:11:52


          *『 真理 』第9巻 生活篇 (P287)より

神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から入って行かなければなりません。

心がそれによって神との一体感に慣れて来ますと、危急の場合、神想観も祈りも
する余裕がなくて、唯一言(ただひとこと)「神様 !!」と言っただけで、
神との一体感を得、そのために自動車や汽車に撥ねとばされたが身に微傷だも
受けなかったと云うような実例がでて来ます。

毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、却って雑念が浮かんで来て、精神統一が
失われて来るような場合には、如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行なうと
不思議に精神が統一するものである。

神想観を修するには、同一の言葉を念じても
常に新鮮な感情を籠めて念ずるように心掛けなければならない。

言葉がただ形式や、何の意味も感じも起らない呪文的繰り返しに陥らないように
溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。

           <感謝合掌 平成27年6月18日 頓首再拝>

常に神想観を怠らないこと - 伝統

2015/06/26 (Fri) 03:45:27


        *『 真理 』第9巻 生活篇(P288)より

神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。
朝は早く目が覚めず、すぐに仕事にかからなければならぬし、夜は、眠くて身体(からだ)が
だるくて合掌するにも疲れていて仕方がないと言うような場合には、
夜、床に入って仰臥したまま、ただ

「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。神と我とは一体である。
神は霊であるから我も霊である。霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。
金剛不壊であるから如何なる病菌にも気候の変化にも冒(おか)されない・・・」

(これは健康を欲する場合の思念の例)と云う風に、一念その思いに心を集中して
念じながら何時(いつ)の間にか眠ってしまうがよい。

もっと簡単な”思念の言葉”としては、

「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」と繰り返しつつ眠るがよい。

罪の観念や悔恨の観念が起って不安な感じがとれないと云うような場合には、
自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を「神の慈手(みて)」であると想像しつつ

「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
われは完全に赦されたり」

と念じながら眠るがよろしい。

           <感謝合掌 平成27年6月26日 頓首再拝>

《実相上に坐して修するのが神想観である》 - 伝統

2015/07/05 (Sun) 05:07:09


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P176)より

   ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
   「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

   するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

   先輩はこう言った

   「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
   神想観をしてから無限供給が来るのではない。
   われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

   この先輩の言葉はおもしろい。
   神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

   実相上に坐して修するのが神想観である。
   実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。


           <感謝合掌 平成27年7月5日 頓首再拝>

本当に毎日、神想観を実修していますか - 伝統

2015/07/14 (Tue) 04:43:09


           *『白鳩』誌(昭和22年5月号) より


米国光明思想家 グレーン・クラーク氏 の祈りは

『神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』 (Lord fill me with Thyself) 
と云うのであります。 

デイヴァイン・サイエンスのヘンリー・ヴイクター・モルガン氏と協同して
光明思想を宣伝している英国チチエスター市のヘンリー・トマス・ハンブリン氏の著書にも
同じ言葉が書かれています。 


メタフィジカル・ヒーリングでは、神の生命をわが内に流れ入らせて、
神に任せ切ってしまえばもう我の計いで思い煩うことは要らないのです。 

「わがわざはわが為すには非ず」 して、
おのずから神の祝福の中にある自分を見出すことが出来るのであります。


それは生長の家の招神歌第一首の 

『生きとし生けるものを生かし給へる御祖神、元つみたまゆ幸へ給へ』 

と云う所と全く一致するのであります。


招神歌は自分のみで実修するときは高声で朗唱する必要はありません。 

『生きとし生けるものを生かしたまへる神よ、あなたの生命を吾に流れ入らしめ給え』 

と云う心で念ずる。 

そして静かにその文句を繰返し念じて、今ここに神の生命が生きているのだ。 
自分が生きているのではない、神の生命が生きているのだ。 
有難う御座います、有難う御座いますと云う心になるのであります。


その気持は唯感謝感謝だけで他の気持は何もなくなるべきであります。 
何とか他に自分の註文をして、祈りをしなければ効かんように考えたり、
神様も私の願いに気がつかないかも知れない、私を忘れていらっしゃるかも知れない
などとか思って 『神よ吾を覚え給え』 などと祈る宗教もありますが、
之では神を信じていることにはならないのです。


本当の信仰は、神様に全部まかす。 
神様に全然『自分』と云う牙城を明け渡すのです。 

すっかり神様に城を明け渡してしまって 

『今神様のみがここにまします』 

と深くそれを思念する心境に達するのです。

 
『わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命』 

と云う、招神歌の第二首がそれであります。 

この歌の心を深く繰返し念じます。 
すると、自分の生きているのが自分の力でないことが判るのですから、
わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、

自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、
斯う云う心が起ってまいります。 

そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、
生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処に内からの催しと、外からの催しとで
実現する境に達するのであります。


尤も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現われるかも知れない。 
それは吾々の予想しないような順序を以って外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。 

どんな風に現れて来ようとも、

‘至善なる神様からは悪いこと出てくる筈がない’

若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が
転回する為の自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのです。


悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。 
それは唯真理が実現する為に出て来るのであります。 

それは恰も今まで間違った方向に歩いていた者が壁に打衝かって
自から向きが変るようなものである。 
悪いことは自然に消えてゆくのです。 

出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。 
そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、
任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。 


何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。 
神は総ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。 

自分は幸福であるより仕方がない、
自分の周囲には有難いことしか起りようがない、
自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。

 
その心境を呼び出す歌が第三首目の招神歌  

『わが業はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御祖神の権能』  

であります。

自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。 
神我一体です。 神我一体になるためには、『我』と云うものがあって、
『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。 

自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、
進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまって

そのときに出て来る 『我は全智全能で何でも出来る』 と云う大きな自覚こそ本当であり、
『我』が残っていて 『我は全智全能だ、何でも出来る』 と、考えたら増上慢であります。


だから吾らの祈りは 

『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧を、愛を、実現せしめ給え。 
私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』 

と云うようでなければならない。


此の無我の祈りを繰返しているうちに、

『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業を為さしめ給う』 

と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。 

神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。 
神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。


第四首目の 

『天地のみ親の道を伝へんと生れましし、生長の家の大神護りませ』  

は、神想観実修の途中の心境中、悪魔の憑依などの障礙の起らないように
生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。


 
皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。 
1日でも神想観を止めては可けません。 

誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、
或は神に就いて議論を戦わしたりするのは好きだけれども、
神想観をやるのは好きではないと云う人があります。 

以ってのほかです。 
吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。 
でなければ、何時の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うものが出来上ってしまうのです。 


吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、『物質』と見える世界に
棲んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。 

その誘惑と暗示を放って置いてはいけないのです。 
吾々は1日の中、少なくとも1時間以上は 〈これを30分づつ朝晩に分けても好い〉 
神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。 

その為に神想観はどうしても必要なのです。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/2e6882ee19c1a085df7bb27965bda2f8

・・・

<参考>

この「本当に毎日、神想観を実修していますか」というご文章は、
「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」において、「[427] 神想観の祈りと米国光明思想」
(by ”明鏡 さま”)の中においても、確認できます。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=78

           <感謝合掌 平成27年7月14日 頓首再拝>

「神想観」を行ずる - 伝統

2015/07/21 (Tue) 04:34:56


             *『明窓浄机』 昭和36年新年号 より


神想観は、腕がだるい、脚が痛い、面倒くさい、退屈である。

別に神想観をしないでも、本来神の子じゃ、
その真理さえわかればよいじゃないかと言う人もありますが、

それは坐禅をしない禅宗の信者、
念仏をとなえない真宗の信者みたいなものであります。

 
真理を自覚するには

  (一) 真理を説いた聖典を読誦すること

  (ニ) 菩薩の心を起し愛他行を実践すること

  (三) 常に実相を観じて正念を失わないこと

  (四) すべての衆生を見るに、
      神の子仏子として礼し敬するようにつとめること

 
「観普賢菩薩行法経」 には、釈尊が 『自分はもう三ヶ月したら涅槃に入る』 
と仰せられたとき、弟子が 

『世尊、あなたが滅くなられました後には生ける師匠とてございませんので、
どうしたら無上菩提の心を失わず、煩悩を断ぜず、五慾を離れずして、
諸根を浄め諸罪を滅除することができますか』 

とおたずね申上げたとき、 釈尊は 

『実相を観ぜよ。 ・・・・・ 無量の勝れたる方便は実相を思うより得、
一切の業障海は、皆妄想を思うより生ず。
若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。 
衆罪は霜露の如し、慧日能く消滅す』 

と教えてられるのであります。


実相を観ずるには、
禅宗には坐禅の方法があり、真言宗には阿字観等色々の観法がある。 

しかしどの観法によるにしても最初は心が動揺散乱して、
精神統一境に入ることができないで、退屈になってしまい、
ついにそれを抛棄して何の得るところもない人が多いのである。

併し何の修行をするにも、ある心境又は境地に達するまでは、
或る程度、退屈であり、苦行である。 

それは剣道の修行然り、茶道、華道、書道の修行みなしかり、
凡そ 『道』 と称するものに到達し得るには余程の決心がなければ
途中にして挫折してしまうのである。

 
その途中の挫折を、仏典や聖書では象徴的に悪魔波旬又は悪魔サタンが、
その成道を妨げんが為に出現したと云う風に書かれている。 

この境界を越えたとき、
はじめて私たちは彼岸 〈実相の自覚〉 に達することができるのである。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18599720.html


           <感謝合掌 平成27年7月21日 頓首再拝>

《静かに坐して実相を観(み)よ》 - 伝統

2015/07/29 (Wed) 04:44:03


           *『 生長の家 』(昭和26年7月18日)の法語より  

   神を知り、神の無限供給と連繋(れんけい)しさえするならば
   富は 自然に流入するのである。

   と云うと 神は「 外にある無限力者 」 だと思うかも知れないけれども、
   神は一切所に充ち満ちていられながら、
   「 わが内に 」 その表現の意識的中心があると云うことが

   分かるならば、吾々は、外界の事情や、他の人々のはからいで、
   自分の幸福が奪われたとか、出世がおくれたとか、
   儲かる筈(はず)が損になったとかは 決して考えないのである。

   静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。
   そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

   観ずる程度に従って
   実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/379ab23c8551c38c4fb493db9ffed702

           <感謝合掌 平成27年7月29日 頓首再拝>

足を踏みしだくこと - 伝統

2015/08/01 (Sat) 09:16:23


          *「光明道中記」(8月扉の言葉<P238>)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

           <感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>

神への聖なる憧れ ~ 神想観の神髄 ~ - 伝統

2015/08/10 (Mon) 04:17:34


         *『生長の家』誌(昭和32年4月号)より

神の国は今此処にある。 
そして神は自己において顕現している。 
神は余所にあるのではない、 『汝の内にある』。 

それを見出さないで今此処を物質の国土と観、人間を物質の塊だと見る、其処に迷いがある。

その迷いを取去らなければ、人間が自縄自縛されている。 
人間は物質ではない。 
この身このままに霊的存在である神を見出さねばならない。 

人間は肉体ではない、霊的存在である。 
この事実を深く心に自覚せしめるための行事が 『神想観』 である。

神を頭脳で知っただけでは、神が 《わがもの》 とはならないのである。 
全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。 
それをなすのが 『神想観』 である。 

『神想観』 を必ず怠らず行ぜよ。

肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、何か一層高き神秘的なものが働いているという
感情的な自覚、すべての宗教的な体験はそこから生まれて来るのである。 
しかしその自覚に達する迄には、頭脳的な追求も、知的な探求も必要である。

『神想観』 を怠らず行じているうちに 『人間・神の子』 の真理が、
頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで全生命的な把握になって来るのである。

大抵の人は 『神』 を単に、理論的に、又は 『文字』 の上で知っているのである。 
それが単に 『文字』 や 『理論』 である限りにおいてその神は 『自己』 の全存在から
離れたものに過ぎないのであって、生活の上に何の力をも現わすことはできない。

神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって自己の生命そのものと自覚を
得はじめたとき、私たちの生活は変貌しはじめるのである。 

それは 《吾れみずからにては何事も成し得ず》 という謙遜と、
《天の父 (神) われにいまして御業を成さしめたまうのである》 という
高らかな明るい自覚との、不思議な組合せができるのである。 

そこにおいて魂の神秘な安息 (やすらぎ) が得られる。

 
神への追求、神への探求 ―― それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、
神への追求又は探求の奥には既に自己の本質が 『神である』 ことの
おぼろげなる自覚があるのである。

そのおぼろげなる自覚を探求の緒として手繰って行けば、其処についに
内在の神を見出し内在の神に到達する大通りを見出すことが出来るのである。

タバコを一度も経験しない人がタバコを追求しないごとく、
未だ一度も神を経験しない人が神を探求しようという衝動を
かすかながらも感ずるはずはないのである。 

既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。 
こうして、人類の神への聖なる追求と、神をたずねる聖なる巡礼とが始まる。

ある人は神を 『佛』 の名において仏教で見出す。 
ある人は 『慈悲』 の名において慈善的な行為や隣人への愛行において見出す。 
ある人は、神を教会において見出し教会の礼拝の中に神と自己との接点を見出そうとします。

 
正しく 『神』 を知り、本当の 『神』 に接するには、
神罰や仏罰を説かない、偏りのない 『愛の神』 を説く
経典又は著述を読まなければなりません。

『生命の實相』 を読んで、その文章の力、言葉の力によって忽然脊椎カリエスが治った
というような人の中には、ただ読書だけで自己内在の神を体感しえた人もありますけれども
万人が万人とも読書だけで、 《内在の神》 を全身全霊をもって体得するわけには行きかねます。

そこで神想観の実修が必要になるのです。 私たちは

   『神があらわるれば即ち善となり、義となり、慈悲となり、
   調和おのずから備わり、一切の生き物ところを得て争うものなく、
   相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし』

と、教えられています。 

神を顕わすのが神想観であります。

神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべては一つの神の示現であり、
従って 『一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界』 である。

すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって、
やっと築きあげた如き自力の世界ではないのである。  

すべてが神の示現の世界であるから、それは他力の世界であり、絶対慈悲の世界であり、
ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。 

随って、人間的なはからいによって 《この善》 《この幸福》 を求めることは不要である。 
ただ神の恩寵を感謝にゆって 『叩けば』 よい世界である。

既に 『形』 として 『物象化』 しているものは有限であり、
それを求め願うのはある場合には争いの元となります。 

私たちは事物の 『聖なる本源』 そして 『無限の本源』 である神に、
その供給を仰いで其処から 『既に完全なるもの』 の展開をこそ願うべきであります。
  
 
人間的工夫よりも 『内なる無限』 よりそのインスピレーションを求むべきであり、
病人もその治癒力の源泉を 『内なる無限』 より求むべきであり、

しかもその 『内なる無限』 は、自力で掘り出すのではなく、神の恩寵によって、
仏の本願によって、汲み出すべきであります。

 
まず自己の内に 『無限』 があること、それを素直にみとめること、
そして幼児の心になって、それに呼びかけることであります。 
《素直》 と 《幼な児の心》 とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。 

この 《幼な児の心》 を快復することが 《新たに生まれる》 ということである。  
理屈を言わずに 『人間は神の子である』 と言われれば、それを素直に承認して 
『ありがとうございます』 と感謝することである。

 
『人間は神の子であり、本来病いはないのだ』 と教えられれば、
たとい現象的に病いがあらわれておろうとも、そんな病いは本来無いのであって、
それは恰も 『夢』 を見ているようなものである。 

病いの苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病いは存在しないのであると、
完全にその病いを心の内から否定するのが 《幼な児の心》 というものである。

  
神想観を行ずるものは先ず 《幼な児の心》 になることが必要である。 
神想観とは決して自力の思念ではないのである。 
それは 《既にある實相の完全さ》 を素直な心で受けることである。 
遮二無二自己暗示的に 『神』 の観念を注ぎ込むことではないのである。

真に幼な児の心になって 『神』 と神のつくり給いし実相の完全さを、
完全に潜在意識の底までも受け入れるとき、現象的には曲れるは正しくなり、

不調和は調和し来り一切の人間処を得て、争う者なく、相食む者なく、
それぞれの個性に従って賦えられたる善きものが、
互いに調和した相において得られるということになるのである。

この時、もはやその人は単に 《自分のはからい》 や不安や混迷の中に生きず、
神の恩寵によって生かされていることになり、人事関係の調和、豊なる供給、事業の発展、
よき神徠 (インスピレーション) 等相次いで来るのである。

 
何よりも先ず、現象に先だって内部に 《幼な児の心》 が来なければならない。 
それが内部的 《生まれ更り》 である。 内部的 《生まれ更り》 があってこそ、
やがて現象的に外部的生まれ更りを生ずるのである。

現象を目蒐けて、現象の利益を追求しているようなことでは 
《内部的生まれ更り》 というものはあり得ない。 

現象界のある事物を得んがために、またある目的を達成せんがために神想観をするのは、
神を求めているのではなく、現象的な目的を達成せんがために、
神を利用しようとしているのである。 其処には 《神の恩寵》 はあり得ない。 

何故なら、人間が先に立って、神を利用しようとするのだからである。 
だから厳重に言うならば、病気を治すために、金を儲けるために、自動車を得るために
等々の目的で神想観すべきではないのである。 
 
  神想観と世俗の 《祈り》 とはその点が非常に異なるのである。

  神想観は 《内部的生まれ更り》 をするためにこそ行ずるべきである。

『神』 を自己の内に素直にみとめるのである。 
『神』 は既に汝の内にあるけれども、幼な児の心で素直にみとめない時には現れないのである。 

神想観は 『神がわが内にありたまい、われ神の内にある』 實相即ち真実を見るのである。 
神は一切の 《善き物》 を自己の内に蔵したまい、それを我らが素直に受けることによって
その 《善き物》 が現象的にも展開するのである。

 
神を自己の内に素直に見出し、それを受けることが
最初の出発点であり、最後の決着でなければならない。 

神と別なるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分が利益を得るもの
 ― それらを神想観中に求めたりするならば、それは神想観の本質を破壊してしまうことなる。

 
神はすべて 『善』 である。 
神以外のものを求める必要はないのである。 
神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである。 

物質を目的に祈ってはならないのである。 
物質は霊の投影であるから、霊の方がととのったならば、
その投影であるところの物質の方もととのうのである。 

だからキリストは 「先ず神の国と神の義 (ただしき) とを求めよ、
その余のものは汝らに加えらるべし」 と教えられたのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18574541.html

           <感謝合掌 平成27年8月10日 頓首再拝>

神のコトバを素直に受ける - 伝統

2015/08/17 (Mon) 07:09:06


            *『精神科学』誌(昭和48年12月号) より

イエスはその神癒能力に限りがなかったように、色々の病気を治し、
或は死者を蘇生せしめたりしているのであるが、彼はその奇蹟的治癒又は蘇生を 
「自分がした」 とはいわないで 

「われみずからにては何事をも為し得ず、天の父われにいまして御業を為さしめ給うのである」 

といっているのである。

だから、イエス自身は、自分の治癒能力を強化する霊的ヴァイブレーター 〈霊的振動器〉 
になるような修行をしてはいないのである。 彼は弟子から離れてひとり山にのぼって
祈るようなことをしているが、これは天の父と交通するためだったのである。

彼の治癒能力は彼の肉体力又は幽体又は霊体の力ではなく、
天の父から出ずるものであったから限りがないのであった。 
イエスによる治癒は、信仰治癒 〈Faith healing〉 であったといえるのである。

それ故にイエスは治病の目的で遣わされた弟子が、その治癒に失敗して帰って来たときに 
「汝ら信仰うすき者よ」 といっているのである。 

そしてイエスは霊的治療能力を増強するためのメソッドについては、
弟子に対しては何事も教えていないのである。


実相無病の立場からは 「癌は治らない難症だというような」 ことはないのである。 
神のつくらないところの病いは、癌であろうとも、それは本来ないのだから、
完全円満な実相のみを想念すれば、そんな迷妄の産物は自然に消えるのである。

それが消えないのは、「神のつくり給うた世界にはどんな病気もないのだ」 という
信仰の欠乏 又は 薄弱によるのである。

 
神想観すなわち 「神のつくり給うた実在の世界には円満完全な実相のみ独在する」 
ということを信じ、その円満完全な実相のみを観ずる瞑想法によって、その独在する実相を
静かに観ずるのに、何やら上手、下手とか、コツとか秘訣とかいうものがあるかというと、
そのコツは‘ある’といえば‘ある’が、‘ない’といえば‘ない’のである。

それは静かに瞑想する力を強化するというようなやり方のコツはないのである。 
自己の凝念すなわち精神集注 〈Concentration〉 によって、実相

 ― 完全な姿を凝視すると、その完全な相が凝念によって、患者に移入されて、
患者が健全になるというやり方もあるのである。 ―  

これは “コツが‘ある’といえば‘ある’” という方のやり方であるが、
自力的要素が強いために術者又は治療家は自分のエネルギーを消耗して疲れるのであり、
その治癒力も、自分のエネルギーの消耗によって限界がある。


しかし 「コツは‘ない’といえばコツは‘ない’」 という方のやり方には、
コツというような人為的な巧者工夫は一切入り来らないのであって、

『創世記』 第1章の終りにある 「神そのつくりたるものを見給いけるに甚だ善かりき」 
とある通りに、「神の創造には“善”あるのみなのだ」 と神が仰せられたら、
その通り素直に 「ハイその通りでございます」 とその神のコトバを素直に
そのまま幼な児の心をもって承認し受けるだけのことである。


素直に “神から与えられたもの” を受けるのには、凝念は要らないのである。 
私の著書の 『人類無罪宣言』 の144・145頁には次のように書いている。 ――

 
「祈るとは、神に対して絶えず 『われを忘れ給うな』 と警告するためではありません。 
人間の方が神を思い出すためなのです。 祈っても祈らなくとも、神想観をしてもしなくても、
人間が神の子であることに変りはないのです。 

それだのに、われわれが神想観をして 『お前は神の子である』 と自分自身に呼びかけ 
『ハイハイ、私は神の子でございます、ありがとうございます』 とお受けするのは、

われわれ人間の方が神を忘れないようにするためであって、
神に 『われを忘れ給うな』 と警告するためではないのであります。

神は愛であり、全智でありすべてのものを知り尽くし、
すべての幸福をわれわれに与え給うている ―― もう決算はきまっているのです。 
もう決算報告書は書かれているのです。 

〈注。 「神その造りたるすべてのものを視たまけるに甚だ善かりき」〉 
決算報告書を前にして祈ってみたところがその決算は殖えもしないし、減りもしないのです。 
ただわれわれの役目は神から与えられた決算報告書を正しく算出することなのです。

『お前は神の子である。』 『ハイハイさようでございます。』 
『お前に無限億万円が与えてある。』 〈注。 これは金額のことではない。 
無限の幸福の比喩である〉 『ハイハイ確かにさようでございます。』

これが正しい算出でありまして、これが祈りであり、神想観であります。 
与えられた勘定書を精確に承認することが神想観であり、祈りであります。」

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/38de700b6fdba45f6cffb034c4df8d73


           <感謝合掌 平成27年8月17日 頓首再拝>

無私の祈り ” としての神想観 - 伝統

2015/08/25 (Tue) 03:57:03


         *『 生長の家 』誌(昭和46年3月29日)の法語 より

神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。


「 吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る 」 とは、
「 五官の世界 」 即ち 「 現象世界 」 の一切の意欲を去ることである。

意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは、
既に 「 五官の世界 」 を去った今は、“自分の心”の中にないのであるから、
現象世界の何ものをも求めないのである。


そして自分の欲望の願いも何もなく、
ひたすら心が“ 神 ”と“ 神の創造せる世界 ”( 実相世界 )に振り向いて、
実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私のパイプとなることである。

このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。


すると其処は、神の無限の智慧の海であり、神の無限の愛の海であり、
無限の生命の海であり、無限にゆたかなる供給の海であり、無限の歓喜の海であり、
無限の調和の海であるのである。

それを心の眼をもってハッキリと観るのである。

観ることは既にあるものを受け容れることである。

それをハッキリと受け入れたとき、
実相世界の天国状態がハッキリ現象世界にその姿を映し出して、
此処に地上に、天国が現出することになるのである。


http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=124


           <感謝合掌 平成27年8月25日 頓首再拝>

神想観の際には招神歌(かみよびうた)を誦える - 伝統

2015/09/01 (Tue) 04:52:13


             *「生命の實相」第24巻参考篇/質疑篇(P111)より

神想観の時に指導すべく現れ給う白髭(はくぜん)白衣を裾まで垂れたる神の姿は、
生長の家の神様が、古神道的顕現としてお現われになる際の一定のお姿でありまして、
第二義の神、すなわち化身であります。

通常この姿にて神想観を指導し給うのであります。

しかし神想観は仏教の禅定および般若波羅蜜多の兼行でありまして
仏教的思想の持主が神想観をする時には、観世音菩薩または不動明王の姿で
出現して指導に当たられることもあります。

いずれも唯一実相本源の神様の顕現でありますけれども、

まず「生長の家の神」の御名において出現して神想観を教え給うたのですから、
神想観の際にはやはり聖典に示せるとおりの
招神歌(かみよびうた)をお誦えになるがよいのであります。

           <感謝合掌 平成27年9月1日 頓首再拝>

神と波長を合わすための神想観 - 伝統

2015/09/11 (Fri) 05:00:23


           *『光の泉』(昭和40年6月号) より

神様はどんな場合にでも、吾々の必要なものを必要な時に与えて下さっているのであります。 
ただその神の賜物を現象世界にあらわすには信仰をもって、
神に波長を合わさなければならないのです。 

その波長を合わす方法が神想観であり、祈りであります。

神様を本当に信じて祈ると、それは必ず与えられるのです。 
イエスは 「もし芥子種ほどの信だにあらば、この山に動いて海に入れというと雖も必ず成らん」 
といわれました。 

“そんな事言っても、そんな馬鹿な事あるもんか。 それは偶然だよ” と言う人が
あるかも知れませんけれども、決して偶然では得られないような不思議な奇蹟的な出来事も
矢張りあるのであります。

本当に必要なものは 「既に実相の世界」 に於いて与えられているのであります。 
だからイエスは 「神は求むるに先立ちて無くてならぬものを知り給う」 と教えていられる。 

それでは、「祈る」 ということは、どういうことかと言いますと、
自分の心を静かにして、雑音を入れないようにして

 「既に与えられている神様の恵み」

の方へ心をふり向けて、そこへ波長を合わすということになるのであります。 
波長を合わすと、実相界のものがテレビのように現実界にあらわれて来るのであります。

 
神様は既に吾々に必要なものを知っておられて与えて下さっているのであります。 
それが 「実相」 〈実のすがた〉 なんです。 

だから金光教祖は “百節の御理解” の中で 「頼まいでもお蔭はやってある」 と言い、
しかし 「お蔭はわが心にある」 という風に説いていられる。 

「神は求むるに先立ちで、なくてならぬものを知り給う」 というイエスの教えと同じであります。

神は、頼む奴にはお蔭をやって、頼まぬ奴にはお蔭をやらぬというような不公平な方ではない。 
私たちのなくてならぬものを知り給うて、それを私たちが求むるに先だちて既に与えておられる
のだけれども、「叩けをさらば与えられん」 というわけで、叩かなかったら出て来ない。

“叩く” というのが即ち 「波長を合わす」 ということになる訳なんです。 
そして、その波長を合わすのが即ち 「祈り」 であり 「神想観」 であります。

心を静かにして神の供給に波長を合わすのです。 
静かにするというのは心に雑音を入れないことです。 
これをイエスは 「密室に入りて祈れ」 という風に表現しておられます。 

ラジオの放送でも雑音を入れたらうまく聞えないですね。 
だから雑音を入れないようにして、 
「神様の既に与えられている実相」 に波長を合わすのです。

神様のことを “祈り” という手練手管によって泣きついて懇願して、
“どうぞ助けて下さい” と言っておじぎをしたから助けてやる。 
“あいつはおじぎせずに、‘つん’としている” から助けてやらんというような、
そんな依怙贔屓をするような方だと考えることは、神様を侮辱するものであります。

神は依怙贔屓がない、すべての人に平等に、なくてならぬものを既に与えておられるけれども、
私達の心がそこへ波長を合わさなかったならば、その与えられたものが出て来ない
ということになる訳なのであります。

本当に金光教祖のいわれた通り、「神は頼まいでもお蔭はやってある」 であります。 
それにも拘らず、金光教祖が 「まことの大道を開き見よ、お蔭はわが心にあり」 
と言われたのは、「まことの大道」 というのが‘まこと’即ち実相に到る道であります。

その実相を開く道が祈りなのであります。 
そこを開かなくちゃいかんです。 

与えておられても、開かなかったら駄目なんです。 
その 「開けば出て来る」 のが 「お蔭はわが心にあり」 というわけです。 

心の波長が神様の恵みとピッタリと一致するようになった時に、
それが与えられるということになる訳なのであります。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19433112.html より転写)

           <感謝合掌 平成27年9月11日 頓首再拝>

竜宮・平和・普賢観 - 伝統

2015/09/18 (Fri) 04:10:54

           *「詳説・神想観」(P233~235)より


われ今五官の世界を去って実相の世界に入る。
はるばると目路(めじ)のかぎり眺むるに十方世界ことごとく神なり。
われ十方世界を礼拝す。

十方世界の一切のもの有難うございます。
有難うございます。

十方世界ことごとく神なり。

無限の智慧の海、無限の愛の海、無限の生命の海、
無限の供給の海、無限の歓喜の海、無限の調和の海。

この大調和の実相の大海原(おおうなばら)に宮柱(みやはしら)太しく立ち、
甍(いらか)高く聳(そび)えたり。

ここ竜宮城なり、塩椎神(しおつちのかみ)の宮なり、住吉神(すみよしのかみ)の宮なり。
一切の宝あまねく満ち、一切の調度ことごとく七宝(しっぽう)もて荘厳(しょうごん)せり。

住む人ことごとく身すこやかに、姿形(すがたかたち)うるわしく和顔愛語讃歎に満たされたり。

吾れ今ここ竜宮城に坐して、塩椎神より如意宝珠(にょいほうじゅ)を得たり、
わが全身如意宝珠なり、光明燦然(さんぜん)として十方世界を照らす。

十方世界光明遍照、わが全身光明遍照、十方世界光明遍照、わが全身光明遍照・・・
わが全身如意宝珠にして智慧と愛と平和の大光明を放ちて、その光遍(あまね)く全人類の魂を
射照らし、全人類の魂に智慧と愛と平和を以って満たすのである。

(「十方世界光明遍照・・・」を以下繰り返す)

(一転して)

われ遍(あまね)くわが全身を観ずるに、この身このまま普賢菩薩である。

六本の牙(きば)ある白い象に乗り、花びらがことごとく如意宝珠なる蓮華の宝座に座し、
合掌のうちに如意宝珠を持し、全身四百兆の細胞ことごとく如意宝珠にして
光明燦然として十方世界を照す。合掌の如意宝珠また大光明を放つ。

六神通如意自在にして無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限歓喜、無限調和なり。

われ普賢菩薩、無限智なるがゆえに、一切の物に事に人に智慧自在にして希望を実現し
人生の勝利者となるのである。人類の幸福のために無限の智慧を施すがゆえに
無限の智慧が還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、無限愛なるがゆえに、一切の人間および生物に慈悲の心を起こし、
その苦しみを除き、楽を与うるを行ずるのである。われ人類の幸福のために
惜しみなく愛を施すがゆえに、無限の愛が還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、無限生命なるが故に、寿命無量にして病むこと無く老いることなく
疲れることなく死することなく、病菌に冒されず、ヴィールスに冒されず、
気候の変化、水の変化、食物の変化に冒されず、金剛不壊の健康を得て久遠不死なり。

われ人類の幸福のために惜しみなく生命を与うるがゆえに、
無限の生命が還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、無限供給なるがゆえに、実相無限の富を自己の内に包蔵し、
よくそれを現象界に実現す。人類の幸福のために豊かに財を喜捨するがゆえに、
無限の富が還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、無限の歓喜なるがゆえに、一切の物に事に人に光明面を見て
よろこびを見出だし、常に明るく、和顔、愛語、人類の幸福のために歓びを施すがゆえに、
無限の歓びが還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、無限の調和なるがゆえに、一切の物に事に人に調和し、すべての生活に
抵抗なく争いなく宇宙の波長と同調するがゆえに、一切の希望を円滑に実現成就するのである。
われ人類の幸福のために調和の徳を施すがゆえに、無限の調和が還流し来たるのである。


われ普賢菩薩、その聖使命を感得し、
人類を救済せんがために地上に出生して聖使命菩薩となる。

聖使命菩薩はこれ普賢菩薩なり。
普賢菩薩とはこれ我なり。
智慧無限、愛無限、生命無限、供給無限、歓喜無限、調和無限である。

(以下、「われ遍くわが全身を観ずるに、この身このまま普賢菩薩である」・・・から
 時間の許すかぎり繰返し念ずる)

           <感謝合掌 平成27年9月18日 頓首再拝>

蓮華日宝王地観 - 伝統

2015/09/27 (Sun) 04:51:50

蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)

          *『聖光録』(P259~261)より


吾れ、今、五官の世界を去って吾が身を観ずるに
吾が身はこの身このまま観世音菩薩なり。

吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見す。

(と心に誦え、自己を観世音菩薩だと見立てて神想観をするのであります。
自己を観世音菩薩と何故観じても好いかと言うと、観世音菩薩は一定の形ある菩薩ではない。
世の中の音を観じてその音の通りに現われ給う観自在の原理であり、
その観自在の原理は各人の腹中に各々豊かに備わっているからである。)

吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見す。

物質はない、物質はない、物質はない。
肉体はない、肉体はない、肉体はない。
心もない、心もない、心もない、心もない。

(と繰返し念じて、五蘊上に浮ぶ迷妄世界をすべてを否定し去ります。
物質も、肉体も、心も、そして斯く観ずる心も、悉く空(くう)じ去った了った
心境に到達してから、)

虚空中に宇宙大の大日輪浮かぶ。光明遍照実相世界ここ也(なり)。

(と念じて大日輪が宇宙一杯に充満している有様を観じ更にその大日輪中に
千葉(せんよう)の蓮華が開花せる姿を観じて、)

ここ蓮華蔵世界なり。

(と念じて、その花の中心上に観世音菩薩が坐っている姿を心に描き、)

その菩薩は自分自身也(なり)。

(と観じ、静かなる呼吸と共に、)

大日輪の霊気自分に流れ入って自分を生かす。

(と観じ、)

大日輪に生かされている、生かされている・・・(繰返す)

吾れ大日輪の智慧也(なり)。
吾れ大日輪の愛也(なり)。
吾れ大日輪の生命(せいめい)也(なり)。

一切のもの吾れに備わり、意(い)に随(したが)って集り来たり、用足りて自から去る。

(と繰返し念じつつ、大日輪の無限の智慧、愛、生命、供給、調和と云うものが
自分に流れ入ると観ずるのであります。)


               ・・・


【蓮華日宝王地観】

             *『詳説 神想観』(P117~121)より

蓮華日宝王地(れんげにっぽうおうち)とは、これは「華厳経(けごんぎょう)」に書いてある言葉
でありまして、釈尊の仰せられるには、この世界すなわち宇宙は蓮華蔵(れんげぞう)世界であって、
内に蓮華の理念を蔵し、それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、
ハチスといって蜂の「巣」のような子房(しぼう)があるのであります。

これは中心座に巣(統、スの言葉――五十音を統一すればスの一音となる)があって、
そこから現象のハナビラが八方に展開していることを象徴している。

その中心になるスの世界は金剛の日の宝地であって、
破壊し得ないという意味が「蓮華日宝王地」であります。
これが実相の世界であります。

その実相世界を観ずるのが「蓮華日宝王地観」であります。

まず瞑目合掌して、

「吾れ今五官の世界を去って、吾が身を観ずるに、吾が身はこのまま観世音菩薩なり、
吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見す。」

こういうふうに唱えて、そして、自分自身が観世音菩薩であって、
その自分が深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみた)(=神想観)を行ずるつもりになり、

五蘊皆空(五蘊――「蘊(うん)」というのは“かさなる”という意味の字。
“波動”という意味もあります。五蘊というのは、この「波動」が重なって
色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)のモヤモヤのかさなりができている
のを言うのであります。

「色」とは波によって現われている形象、つまり物質。
「受」はこれを感受する五官、「想」は心の想い、「行」は意志によって行ずる働き、
「識」はこれらの心の働きを統一する統一意識です。)

――物質も心も、ありとあらゆるものが無いと観ずるのであります。

それには「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見す、物質はない、物質はない、物質はない、
肉体はない、肉体はない」と、心に繰返し唱えまして、
その次には「心もない、心もない、心もない」とずーっと念ずるのです。

そして、物質も肉体も心もなんにもなくなった実感を喚(よ)び起して、
その次に虚空中に「宇宙大の大日輪(だいにちりん)」が浮んでいる光景を
《じっと》心に思い浮べるのです。


「宇宙大の大日輪」――日輪というのは太陽ですが、肉眼で見る太陽は現象でありますが、
太陽の実相は虚空(こくう)に満ちている「大生命体」であります。
それを観ずるのであります。

目の裡(うち)に、宇宙大の大日輪が充ち満ちておる光景を心に描き、
その中央部に千葉(せんようとは、千の花弁)の蓮(はちす)の花が浮んでおり、
それが蓮華の台座となって、その上に観世音菩薩が坐っている光景を心に描いて
《じっと》観ずるのであります。

蓮華の台座の上に坐したまう観世音菩薩を心の眼に思い浮べて、そして《じっと》
それをみつめまして、その観世音菩薩が、自分に《じっと》近接(ちかづ)いてきて、
自分と一体になった感じを起すのです。

そして我れ観世音菩薩なり、とこう観ずるわけであります。

これを観ずる場合に、以上のような光景の観世音菩薩像を一間半ばかり距(はな)れた位置に掛けて
それを眼を半眼にひらいて見詰めながら精神統一に入り、やがて眼をとじてその観世音菩薩と
一体になった感じを起されるのもよろしいのです。

宇治市の生長の家練成道場の「祈りの間」には、有留弘泰(ありとめひろやす)氏の筆になる、
大日輪中の蓮華の台座に坐したまう観世音菩薩像が掛けてありますが、あの前に正坐して、
しばらくジッと観世音菩薩像を眺め、じっとみつめながら、
その観世音菩薩は自分であって、自分自身が観世音菩薩であると観ずるのです。

大日輪の霊気が自分に流れ入って、自分を生かしつつあるのであるとこう観じまして、
静かに息を吸いながら「大日輪に生かされている、生かされている」と繰返して、
「我れ大日輪の智慧なり、我れ大日輪の愛なり、我れ大日輪の生命なり、一切のもの我れに備わり、
意(こころ)に従って集り来たり、用足りて自(おのず)から去る」と念ずるのであります。


これは「般若心経」の観世音菩薩が深般若波羅蜜多の行法において、
五蘊皆空と観ぜられたやり方を、近代化して、「蓮華日宝王地観」という神想観として
ここに説明してあるのであります。

次の如くお念じ下さい。

『吾れ、今、五官の世界を去って、普(あまね)く吾が全身を観ずるに、
この身このまま観世音菩薩なり。』

こう念じて自分の全身が観世音菩薩であると観じます。

自分を観世音菩薩と何故観じてもよいかと言うと、観世音は一定の形ある菩薩ではない。
世の中の音を観じてその音の通りに現われ給う観自在の原理であり、
その観自在の原理は各人におのおの豊かに備わっているからであります。


  『吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見し、一切の苦厄を度す。
  物質はない、物質はない、物質はない・・・
  肉体はない、肉体はない、肉体はない・・・
  心もない、心もない、心もない・・・』

 
じっとこう何回でも繰返して五蘊上に浮ぶ迷妄世界をすべて否定し去ります。
物質も、肉体も、心も、そしてかく観ずる心も、ことごとく空(くう)じ去った世界に
入ってしまって、


 『虚空中に宇宙大の大日輪浮ぶ。光明遍照実相世界ここなり』


と念じて、見渡すかぎり明るい大日輪が宇宙一杯に充満している有様を観じ、
そしてその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華が開いて浮んでいる有様をじっと観じて、


 『ここ蓮華蔵世界なり』


と念じてその蓮華の台座の上に観世音菩薩坐し給う有様を見詰めて、


 『この菩薩は自分自身なり』


と観じ、静かなる呼吸と共に、

 『大日輪の智慧吾れに流れ入る、流れ入る・・・
  大日輪の愛吾れに流れ入る、流れ入る・・・
  大日輪の生命吾れに流れ入る、流れ入る・・・

  吾れ大日輪の智慧なり。吾れ大日輪の愛なり。吾れ大日輪の生命なり。
  一切のもの吾れに備わり、意(こころ)に随って集り来たり、用足りて自から去る』

 
と繰返し念じつつ自分が観世音菩薩で大日輪中に浮んでおり、
大日輪の智慧、愛、生命が自分に流れ入る様を観ずるのであります。


           <感謝合掌 平成27年9月27日 頓首再拝>

【蓮華日宝王地観】~その2、その3 - 伝統

2015/10/06 (Tue) 03:51:49

         *「真佛教の把握」『般若心経』講義<老病死が無いということ>より抜粋

蓮華日宝王地とは、これは『華厳経』に書いてある言葉でありまして、
釈尊の仰せられるには、この世界即ち宇宙は蓮華蔵世界であって、
内に蓮華の理念を増し、それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、
その中心座に、ハチスと言って蜂の「巣」のような子房があるのであります。

これは中心座に巣(統、スの言葉―五十音を統一すればスの一音となる)があって、
そこから現象のハナビラが八方に展開していることを象徴している。

その中心になるスの世界は金剛の日の宝地であって、
破壊し得ないという意味が「蓮華日宝王地」であります。
これが実相の世界であります。

その実相世界を観ずるのが「蓮華日宝王地観」であります

           <感謝合掌 平成27年10月6日 頓首再拝>
               ・・・

《蓮華日宝王地観~その3》

     *『あなたは自分で治せる』 般若心経講義 ( 227頁、256頁~259頁 )より

五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観(み)ることができるのです。

この観世音菩薩の「般若(はんにゃ)波羅蜜多(はらみた)の
行(ぎょう)を実行」する方法が 『 聖光録 』 の中に書いてある
“ 蓮華(れんげ)日宝王地(にっぽうおうじ)観 ” という勧行(かんぎょう)であります。
これを行じていただくのが 「 五蘊(ごうん)皆空(かいくう) 」 を悟るための近道であります。

先ず 「 観世音菩薩 五蘊皆空と照見(しょうけん)す 」 と心に唱えまして、
「 物質はない、物質はない、物質はない。肉体はない、肉体はない 」 と繰返し
心の中で唱えるのであります。

その中(うち)に、その物質も肉体も何にもない中心に 「 霊妙きわまりなき自己 」 が
目覚めて来るのであります・・・・・ ( 227頁 )


般若の空観(くうかん)と 空観を更に超えて 「 既に 往(ゆ)き往きて
今 此処 実相世界 」 ということを観ずる神想観が 『 聖光録 』 に示されて
いる 「 蓮華日宝王地観 」 という観法であります。

『 聖光録 』 は 常にポケットに携帯して 時々お読みになるといいと思います。

蓮華日宝王地とは、これは 華厳(けごん)経に書いてある言葉でありまして、
釈尊の仰せられるには、この世界 即ち 宇宙は 蓮華蔵世界であって、
内に 蓮華の理念を蔵(ぞう)し、それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、
ハチスと言って蜂(はち)の 「 巣(す) 」 のような子房(しぼう)があるのであります。

これは 中心座(ざ)に巣( 統(す)、スの言葉 ― 五十音を統一すればスの一音となる )
があって、そこから現象のハナビラが 八方に展開していることを象徴している。

その中心になるスの世界は 金剛の日の宝地であって、破壊し得ないという意味が
「 蓮華日宝王地 」 であります。これが実相の世界であります。

その実相世界を観ずるのが 「 蓮華日宝王地観 」 であります。( 256頁 ~ 257頁 )


『あなたは自分で治せる』 般若心経講義 ( 227頁、256頁~259頁 ) 谷 口 雅春 先 生


※ やり方は、『 詳説 神想観 』( 117頁 ~ 121頁 )、
新編 『 聖光録 』( 109頁 ~111頁 )を参照して下さい。

  (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/410c2a049e0dcf1e10a6c1a007a12229

           <感謝合掌 平成28年2月25日 頓首再拝>追加

               ・・・

如意宝珠観 - 伝統

2015/10/14 (Wed) 04:07:09



Web版「神想観(如意宝珠観) 谷口雅春先生指導」 (ビデオ)
 → http://www.doovi.com/video/RpMB1BQiusI

              ・・・


神想観-如意宝珠観-

    *Web:谷口雅春先生の「生命の實相」を学ぶ(2012年12月05日)より


某ブログより引用

神想観-如意宝珠観-

1.各種の神想観

 基本的神想観に習熟し、坐法や呼吸法なども正しくできるところまで進んだ方は、
 次の各種の神想観を実修されることをお勧めします。

 各種の神想観には、「神を讃える神想観」「蓮華日宝王地観」「如意宝珠観」「浄円月観」
 「四無量心を行ずる神想観」「大日本神国観」等ありますが、基本的神想観に加えて
 各種の神想観を実修することで、魂の底から新鮮な悦びと感動が沸々と湧いてきて、
 より一層 神との一体感を深め、実相世界の荘厳さを観想することができるのです。

 生長の家創始者・谷口雅春先生は、新版『詳説神想観』の中で、
 各種の神想観についてお説き下さっていますが、
 その中で「如意宝珠観」について、次のようにご教示下さっています。

 「竜宮観」或いは「如意宝珠観」と言われる神想観であります。

 「今、ここが竜宮城 である」と観ずるのでありますが、

 (中略)

 竜宮の世界、極楽浄土の世界、キリスト教で言えば、「天国」はすがた形がないかと言うと、
 肉眼では見えないけれ ども、実際はすがた形がある世界であります。

 この肉眼で見えるような艶消(つやけ)しの世界ではなくて、
 光明燦然と輝いている所の素晴しい世界が今ここに あるのであります。

 (中略)

 本当の世界、実相の世界はもっと素晴しいものが充満している、
 その有様をじっと観ずるのが如意宝珠観であります。


2.如意宝珠観の念じる言葉 (参照:『詳説神想観』121~130頁)

 如意宝珠観では、招神歌を唱え、気合をかけて次のように念じます。

 「吾れ今(いま)五官(ごかん)の世界を去って実相の世界に入(い)る。
 はるばると目路(めじ)の限りながむるに、十方世界(じっぽうせかい)悉く神なり、
 吾れ十方世界を礼拝す。十方世界の一切のものありがとうございます、ありがとうございます。」
 
 こう念じて、十方世界の一切のものに感謝して、神様の波長に合うように心を整えて、
 「十方世界(じっぽうせかい)悉(ことごと)く神なり。

神の無限の知恵の海なり、………、
神の無限の愛の海なり、 ………、
神の無限の生命の海なり、………、
神の無限の供給の海なり、………、
神の無限の悦びの海なり、………、
神の無限の調和の海なり、………」

 こうくり返し念じ、神の知恵、愛、生命、供給、悦び、調和の御徳が光明燦然と輝いて
 充ち満ちている有様をじっと心の眼(まなこ)で見つめる気持になります。

 つづいて、

 「この大調和の実相の大海原(おおうなばら)に宮柱(みやはしら)太しく立ち、
 甍(いらか)高く聳(そび)えたり、ここ竜宮城(りゅうぐうじょう)なり、
 綿津見(わたつみ)の神の宮なり、塩椎(しおつち)の神の宮なり、
 一切の宝周(あまね)く満ち、一切の調度(ちょうど)尽く七宝(しっぽう)もて
 荘厳(しょうごん)せり。」

 綿津見の神、塩椎の神とは竜宮界(実相世界)の神様です。

 調度(ちょうど)とは日常使う道具・家具等で、

 七宝(しっぽう)とは金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しゃこ・珊瑚(さんご)・
 瑪瑙(めのう)等であり、それらの七宝で飾られ、宮柱が太しく立ち、
 甍が高く聳えている竜宮城の荘厳なる光景を観じ、次のように念じます。

 「住む人悉く身健(みすこや)かに、心美しく、相形(すがたかたち)美(うる)わしく
 和顔(わがん)愛語(あいご)讃歎(さんたん)に満たされたり。」

 こう念じて、住む人悉く竜宮の乙姫(おとひめ)様のように、相形(すがたかたち)美わしく
 和顔、愛語、讃歎に満たされている有様をじっと観じます。

 そして、家族お一人お一人を思いうかべて、

 「わが父、誰(たれ)それは身健かに、心美しく、相形(すがたかたち)美(うる)わしく、
 和顔愛語讃歎に満たされたり。
 わが母、誰それは身健かに、…………。
 わが夫、誰それは身健かに、…………。
わが妻、誰それは身健かに、…………。」

 とくり返し念じます。

 家族お一人お一人の名前を唱え、皆んな健康で心美しく、相形美わしく、
 和顔愛語讃歎に満たされている有様をじっと心に描くのがよいのです。
 描いたものは必ず実現するということになるのです。

 最後に自分に移って、

 「われ今此処(ここ)竜宮城に坐して、塩椎(しおつち)の大神より如意宝珠(にょいほうじゅ)
 を得たり、わが全身如意宝珠なり、光明燦然(さんぜん)として十方世界を照らす、
 十方世界光明遍照(こうみょうへんじょう)、わが全身光明遍照、十方世界光明遍照、……」

 何回でもくり返します。

 そして自分の身体(からだ)から光明が十方世界に照り渡り、その光線の反射が
 十方世界から照り返してきて、無限に照る光と、照り返 す黄金色の光とが
 交錯(こうさく)して、荘厳(そうごん)なる光景が心に描かれるまで、

 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照、十方世界光明遍照、……」 とくり返し、
 光明燦然と輝く自己と十方世界の有様をじっと見つめるのです。そして、

 「わが全身如意宝珠なり、潮満(しおみつ)の珠(たま)なり、汐干(しおひる)の珠(たま)
 なり、欲するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの
 自から去る。」

 こう念じまして、最後に「ありがとうございます、ありがとうございます…」と
 感謝の言葉を唱え、また、2回目はもとに帰って、

 「はるばると目路(めじ)の 限りながむるに、十方世界悉く神なり、神の無限の知恵の海なり、
 ……」とくり返し、竜宮界(実相世界)の荘厳さをじっと観想するのです。

   (http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/18363937.html より転写)

           <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

『如意寶珠觀』 講義 ~その1 - 伝統

2015/10/23 (Fri) 04:15:51


         *『生長の家』誌(昭和23年3月号 5頁 ~7頁)
            ― 『維摩経』を劇化して上演せられし時の講話 ― より

生長の家で行う観法のなかに 『如意寶珠觀』 といって、
自分の身を、全身を、全身の細胞悉く如意宝珠なりと観ずる行法がありますが、
実際吾々の全身は、こんな光明のない穢い糞雑衣のような塊ではない。 

光明輝いている如意自在の法身なのであります。

如意宝珠というと、こんな小さな一定寸法の宝珠という意味じゃないのであって、
法身のことであります。 
自分は法身である。 法の体であり真理の身であると云う事であります。

「真理は汝を自由ならしめん」とキリストが 『ヨハネ傳」 にいっていらっしゃいますが、
此の法身・真理の体こそ如意宝珠であって、
それこそが応に本当の「我」であると云うのであります。 

又 『仏身こそ応に「我」なり』 と維摩経にありますが、仏の身が本当の自分であります。

仏の身というのは、決して死人のことではないのであります。 
死んだらその死骸を「よい仏になった」と云う人がありますけれども、
あれは仏身の脱け殻であって、潜水服にすぎないのであります。 
脱け殻を人間だと間違えているから間違が起るのであります。 

吾々は潜水服や「脱け殻」を人間だと思わないで、
仏身こそ応に「我」である、仏のいのちこそ自分だ。 
『金剛身こそ応に「我」だ』 自分は宇宙に充満している真理のからだだ。 
宇宙に充満している真理のからだだから金剛不壊なのだと知らねばなりません。

真理は金剛不壊であって、何時まで経っても滅びるものではない。 
2+2=4 というのは数学上の真理であるとすると、
2+2=4 ということは、何年経っても何百年経っても是は消えるものではない、
この数字は消えますが、その真理は消えない。 

それと同じようにこの身体は消えましても、
自分の真理の身体は決して消えないのであります。

 
肉体は 『縁』 によって生じたものであります。 
父母を縁とし、食物空気等を縁とします。 

ところが、吾々の真理の体というものは縁に依って生じたのではないから消えはしない。 

因縁に依って生じたものは、因縁の寄せ集めです。 
因縁の寄せ集めは因縁の変化で状態が変る。 
或は食物を食べ、空気を吸い込んで、それを縁として此の頭脳で何か考えている。 

そういう自分というものはモルヒネをちょっと注射したらものを考えなくなる。 
「我」「我」 と思っている「我」というものはどっかへ行ってしまう。 
そんな詰らない「我」で頑張っても話にならないのであります。

1グラムのモルヒネにも対抗することが出来ないようなそんなものを「我」と思わず、
金剛不壊の「我」を、火にも焼けず、水にも溺れざるところの
金剛不壊の「我」を知らねばなりません。 

宇宙に充満している法身であり如意宝珠であるところのものが私である。 
久遠不滅の永久に死なないものこそ「我」である。 
尽十方に満つるものこそ「我」であると知らねばなりません。


神想観なり、如意寶珠觀と云うのは、即ちそれを自覚する方法で、
自分の体は神の生命そのものだ、仏のいのちなのだ、仏身だ、法身だと観じて、
実際に光明輝いている相を一念不動の状態で心に思い浮かべるのであります。


じっと坐って自分の全身が神の生命そのものに満たされて輝いている状態を
心に描いてそれを見詰めておりますと、最初は「自分」と云うかたまりが
中核体として輝いているけれども、

次第にその輝きが宇宙全体に満ちひろがって来るように観じられ、
自分から発する光波が宇宙にみち満ちて我と宇宙とが一体になった感じが得られます。 
こうして尽十方に満ちみちている自分を如実に体得することが出来るのであります。

 
自分と云うものは、こんな五尺何寸かの小さな塊のようでありますけれども、
実は宇宙に満つる一大実在であります。 

空を仰いで見ますと、無際涯と見える空間に星が無限に並んでおりますが、
そういうものを吾々は知ることが出来るのは何故であるか、それは
自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来るということをあらわしております。

自分の心が全宇宙を包んでしまうことが出来るというのは何故であるか。 
それは自分の生命が全宇宙にみちているということであります。 

自分には全宇宙を包む無限大の心がある。 
自分の生命は宇宙にひとしき無限大の自分の生命だと云うことを知るとき
吾々は何を小さなことにクヨクヨする必要がありましょう。

宇宙にひとしき尽十方にみつるところのものが本当の自分である。 
こんな小さい肉体の体が自分ではないのだ。 

まことにも 『尽十方に満つるものこそ応に「我」なり』 と喝破した 
『維摩経』 はまことに素晴しいと云わねばなりません。


こんな素晴しい教が仏教にはありますのに、それが生活に生きなかったのは何故でしょうか。 
それはそう云う高尚なことは印度哲学であって、生活と遊離した、ただの「学」だと
考えていたからではなでしょうか。 

或は、実相の自分は、そんなものでも、現象の肉体の自分はやはり弱いものだと、
実相と現象とを別々に分けて考え、実相の自分は金剛不壊でも、現象の自分は弱小なもの
として取扱わねばならぬと区別した所に、実相無限の力が現象界に現れ得なくなったのだ
と考えられるのです。

 
ところが生長の家では 「現象なし」 と一度キレイに現象を際断してしまいます。 
そして 「実相のみがある」 と自覚して、実相に跳躍して生活を生きる。 
其処に「弱さ」を心に描かぬから、「弱さ」に捉えられなくなり、
現象界にまでも強力な実相の力が投影して来る事になるのであります。

 (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/660ab5aa6ecc5feaffe5e9b8b9e08257 から転写)

           <感謝合掌 平成27年10月23日 頓首再拝>

『如意寶珠觀』 講義 ~その2 - 伝統

2015/11/02 (Mon) 03:29:14


『龍宮觀』 或は 『如意寶珠觀』 と言われる神想観であります。

「今、此処が龍宮城である」と観ずるのでありますが、「龍宮城」と言うと、
一体何処であるかと言うと、海の底であると、こう考えられているのでありますが、
「うみの底」と云うのは凡てのものを生み出す根底の世界、即ち現象界のありとあらゆるものが
生れて来るところの元の世界でありまして、所謂 「実相世界」 のことであります。 

それを 「龍宮城」 と、こう言うのであります。 
「龍宮海」 とも言う。

 
この世界は「極楽浄土」と言われる世界であって、住み吉き所のゴクラクでありますから、
神道の方では「住吉の世界」と言われているのであります。 

極楽世界の御本尊は阿弥陀仏でありますが、それを住吉の世界と称える場合には、
住吉の大神、或は海の底の神でありますから龍宮の大神、
或は綿津見の大神、又は塩椎の大神とも言われているのであります。

「わだつみ」と云うのは、「わだ」と云うのは海であります。 
「つ」は「の」であって「み」というのは身体でありまして、
海の御本体の神様であると云う訳であります。 

住吉の神と言うと、その御働きの方である‘すみよき’ところの御働きを
人格化してあらわしているので住吉の大神と申し上げるのであります。

 
塩椎の神と言う場合には「し」というのは「水」であります。 
タオルを絞るとしづくがシタシタと下に‘し’たたる、すると下が‘し’める
と云う具合に皆「し」がつきますが、「し」と云うのは水の言霊でありまして、
その「し」と云う言葉そのものに水の韻きがあるのであります。 

「ほ」と云うのは火であります。 
火は赤く燃え上がるもの、火事を「ぼや」と言う。 

或は‘ほのほ’と云う、或は船の帆、麦の穂と云う。 

そこで「し」は水であり陰である。 「ほ」は火であり陽である。 

「つ」は‘つながり’。 
陰陽のつながり結び合って一切のものを生み出すところの本源の神
と云う意味で塩椎の神と、こう言われているのであります。

 
そこで塩椎の神も、綿津見の神も、住吉の神も同じ神であるわけであります。 
それが仏教では阿弥陀仏と申し、極楽浄土の主人公であって、無量寿国にいらっしゃる。 
無量寿国とは無限の‘いのち’の国であると云うわけであります。

 
ところがその龍宮城に浦島太郎が行きましたとき、
龍宮海に居ったときは浦島太郎は年が寄らなかった。 
即ち無限の生命の国に居った訳でありますから、何時までたっても年が寄らない。 

それは時間・空間を超えている世界であります。 

無限と言っても、一つ、二つ、三つと数える無限じゃなくってその数を超えた無限であります。 
その数を超えた彼方の世界という意味で十万億土の彼方と言って、極楽浄土はその十万億土を
超越したと、こう形容した訳で矢張り同じことであります。

 
極楽浄土は年の寄らない無量寿の国である、そこの御主人公は阿弥陀仏であり、
龍宮城と云う場合は住吉の大神、或は塩椎の大神であり、
塩釜神社としても祭られているのであります。 

塩釜の神様はお産の神様であるとされているのは、
「しほがま」というのは「しは交む」で、陰陽が交み合わされ、
結合して一切のものを産み出す神様であるからであります。 

そこで生長の家を信ずる人は無痛分娩であると云う事が事実にあらわれているのであります。


さて、今此処が龍宮城であり、極楽浄土でそしてそれが十万億土の彼方にあると云うのは
決して距離の問題ではないのであって、今ここにあるけれども波長が合わなかったら
十万億土の彼方である。 

それで、 「吾れ今五官の世界を去って実相の世界にいる」  と云うのは、
五官の世界、肉眼の世界を去って、今ここが龍宮城であると斯く観ずるのであります。

龍宮の世界、極楽浄土の世界、キリスト教で言えば、「天国」はすがた形が無いかと云うと、
肉眼では見えないけれども、実際はすがた形がある世界であります。 

この肉眼で見えるような艶消しの世界ではなくて、
光明燦然と輝いている所の素晴しい世界が今ここにあるのであります。

けれども、そのうちの一部分だけを吾々の五官を通して、感じているのです。 
それは丁度色彩が豊富なこの世界を白黒の写真に写して見ているような世界が現象世界であって、
実物はもっと素晴しいんだけれども肉眼で見る世界はその実物の素晴しさを大部抜きにして、
影だけを見ている丁度白黒の、厚みの無い写真を見ているような世界が現象世界で、

本当の世界、実相の世界はもっと素晴しいものが充満している、
その有様をじっと観ずるのが  『如意寶珠觀』  であります。

http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e1a9444997586934525d16c69ee948d0?fm=entry_awp より転写)


           <感謝合掌 平成27年11月2日 頓首再拝>

神を讃える神想観 - 伝統

2015/11/11 (Wed) 05:03:11


         *「詳説 神想観」(P113~117)より

(1)招神歌を終わってのち、次の如く念じます。

(2)『われ今五官の世界を去って実相の世界に入る。
   ここがこのまま実相の世界である』


   こう念じて肉眼の奥の心の眼の玉をクルクルと広く実相世界の辺周までも
   見渡す気持ちになり、実相の世界の光がどこにもかしこにも充ち満ちて充満している様を、
   はるばると、ひろびろと見渡し、見詰め、その光は物質の光ではなく、

   神の智慧、愛、生命、供給、悦び、調和の光であると観じて、
   その光り輝く有様を見詰めながら、


(3)『ああ、神の造り給いし実相の世界の妙なるかな!
    神の無限の智慧に満たされているかな!
    神の無限の愛に満たされているかな!
    神の無限の生命に満たされているかな!
    神の無限の供給に満たされているかな!
    神の無限の悦びに満たされているかな!
    神の無限の調和に満たされているかな! 』

   こう感情をゆすぶり動かすように《本当に》讃嘆する気持ちを起すのです。

(4)そして続いて、

   『この大調和の実相の世界にいて吾れ神の子として
    神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである』

   と念じて、神の6つの御徳 ―― これをひっくるめて神の生かす力というのでありますが
   ―― これを静かに吸い込む気持ちになるのであります。

   鼻から静かに生きを吸うて空気を吸うと思わず、この光り輝く神の生かす力を
   吸い込む気持ちでできるだけ《ゆっくり》息を吸いながら心の眼の裡(うち)で
   光り輝くものが頭の先から自分の全身に上から下へ流れる有様を心に描きまして、
   息を吸っている間中、心のうちで次の如く念じます。

   『ああ、神の無限の生かす力、我に流れ入るかな!! 
    ああ、神の無限の生かす力、我に流れ入るかな!! 』

   と繰り返し讃嘆する気持ちで念じます。

(5)すっかり息が入ったら、臍より上の辺り、みずおちを脊柱の方へひっこめ、
   その辺りに入っている息を下腹の方へ「うーん」と唾を呑み込み落すような気持で
   下腹へ落として、下腹に力を入れて下腹を前方に張り出すと
   下腹に充ち満ちた感じが起ります。

   その満ちた漢字を空気が満ちているなんて思わないで、
   「神も無限の生かす力に充たされている」とこう思いまして、

   『ああ、神の無限の生かす力に充たされてあるかな!! 
    ああ、神の無限の生かす力に充たされてあるかな!!
    もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり!! 』

   こう唱えていると何とも言えない本当に神があるという自覚が沸々と心の底から
   わきたぎってきて本当に法悦とでもいう気持ちになる。

   そのうちに徐々に鼻より息が漏れて出ます。
   七分通り息が漏れたときまた静かに息を吸いながら、

   『ああ、神の無限の生かす力、我に流れ入るかな!! 
    ああ、神の無限の生かす力、我に流れ入るかな!! 』

   その息を下腹に落して、

   『ああ、神の無限の生かす力に充たされてあるかな!! 
    もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり!! 』

   と繰り返します。

   そして自然と本当にありがたい気持ちが湧き起ってくるのであります。


           <感謝合掌 平成27年11月11日 頓首再拝>

『神想観』 は自力か他力か - 伝統

2015/11/20 (Fri) 04:53:57


              *『幸福生活論』 より 

私は神想観をして救われる、神想観をしないと救われぬと云っているのではないのであります。 
生長の家本来の教によると、人間は悟っても悟らないでも、神想観をしてもしないでも、
本来人間は神の子であるから、救われて‘いる’と云っているのであります。

人間は本来神の子であり、仏の子でありますから、どうしないでも其侭で救われている
 ―― これが実相であります。 

併し現象は心の波の相にあらわれるのであります。 
神の子であり、仏の子であっても、現象にその立派な円満完全な相があらわれるためには、
心の波を調整しなければなりません。

心の波を調整するためには、深く祈ることが必要であります。 
神想観と云うのは一種の自力的坐禅行にも観えるかもしれませんが、
実は祈りの行事であります。 

人間は神の子である ―― 斯う自覚しても深く祈らなければ、
その自覚が現象界に永続してあらわれない。 

無論、神は祈ったから我々に 「生命を幸え」 たまい、
祈らなかったら 「生命を幸え賜わない」 と云う訳ではない。

 
祈りは其の事実を自分の潜在意識に深く印象せしめ、
神に和解していなかった吾が潜在意識をして
神に和解せしめ調和せしめる働きをするのであります。 

その結果、既に神に生かされている実相の円満さが現象界にあらわれて来、
現象界の生活も整うて来ることになるのであります。

神想観は坐禅的行事であるがたしかに祈りである。 

その招神歌の第1首にある  
「生きとし生けるものを生かし給える御祖神、元津霊ゆ幸え給え」と云う歌は、
ただ、それを歌のつもりで朗誦しているのでは可けない。 

「生きとし生けるものを生かし給える御親神さま、
どうぞあなた様の大本源のみたまから生命を先延えて下さいませ。 
そして此処に生きている生命がまったく貴方様の生命の延長であることを知らして下さいませ」

  ―― と切実に祈る事が必要であります。

そうすると、第2首の歌、第3首の歌の、 
わが生くるはわが力ならず天地を貫きて生くる御親神の生命であり、
わが業はわが為すに非ず天地を貫きて生くる御親神のお力である ことが
深い心境の奥底から判って来るのであります。

これは真宗のお念仏とおなじことだと思います。 
真宗でも 南無阿弥陀仏 と唱えれば救われると云いますが、
それはそれをただ呪文だと思って心の表面で称えれば好いと云うのではない、
やはり雑行雑修の心を振り捨てて、
ただ ‘一向専心’、 南無阿弥陀仏 と唱名せよと云います。

南無とは帰命と云うこと、自己の命を仏の命の中に投げ入れてまったく一体になること、
即ち 「わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる御親の命」 が、
此処に生きているのだ、その無量壽の命、その無礙光の智慧が此処に生きているのだと自覚する。 
その祈りが念仏である。

真宗では祈りと云わずに念仏と云うが、念ずると祈るとは、語源は同じであります。 
祈るとは 「‘い’のち宣‘る’」 の略語で 「帰命宣言」 であり、 
「此処に仏の生命が、此処に神の生命が、生きている」 と云う仏我一体、神我一体の自覚を
喚び起すところの言葉の力が祈りであり、念仏であります。

 
人間の生命は本来神の生命の延長であって、完全円満であるから、
どうしないでも其侭で救われているのが人間の実相である。 
一切衆生悉有仏性である。 

これは 「一切衆生悉く仏性あり」 と読んではならない。 
一切衆生悉有〈しつう〉仏性 と 道元禅師のように読まなければならない。 
悉有 〈しつう〉 とは 「有るもの皆」 である。 
苟も ‘あるもの’ は悉く仏性である。 仏性のみがあるのである。

だから悟ろうが悟るまいが、はからい心を捨てようが、捨て得なかろうが、
人間はそのまま救われている。 

そのまま神の子であり、仏子であり、救われているのならば神想観する必要はないではないか、
坐禅する必要はないではないか、念仏する必要はないではないか、
祈る必要はないではないかと云う人があるかも知れぬ。 

そうではない。 そのまま神の子であり、仏子であるからこそ、
神の子を行じ、仏の子が仏の子を行ずることになる。 
道元禅師はこれを 「行仏威儀」 と云っておられる。


その行仏が神想観であり、行仏すれば自然に懈怠の心も起らず、
頓得のさとりを永久に生活の上に持続することが出来るのであります。 

神想観は自力か他力かと云う問題になりますと、
行仏は自力か他力かと云う問題になってまいります。 

自分のいのちではない、仏のいのちであると云うことがわかって、
仏自身が仏のいのちを行ずるのであるならば、坐禅をしても、神想観をしても、
それはもう自力ではないと云うことになります。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18444779.html より転写)

           <感謝合掌 平成27年11月20日 頓首再拝>

神想観は、絶対他力への帰命信頼の表白なり - 伝統

2015/11/30 (Mon) 04:23:12

神想観は「ハイハイ有難うございます」なり、絶対他力への帰命信頼の表白なり

            *「詳説 神想観」(P41~43)より


神想観の修行というのは「ハイハイ有難うございます」の修行なので
少しも難しいことはないのであります。

「お前は神の子だ」と自分の心に呼んで
「ハイハイ、私は神の子でございます。有難うございます」と
受ける行事が神想観なのであります。

神想観において「神の生命が割(さ)き延(は)えられて、自分に流れ入って
神の生命が自分の生命となる」と念じながら静かに息を吸うのは、「お前は神の子だ」と
自分自身に対して呼びかけ、その事実に対して注意を促していると同様なのであります。

次に静かに腹中に息を湛えながら、「神の生命(いかすちから)に満たされている」と
観ずるのは「ハイハ、私は神の子でございます」と素直に受ける事なのであります。

その間に何等の理屈もない、議論もない。

ただ事実の実相を素直に受けるほかに何もないのであります。


み心は実相の世界に既に成っている ―― すでに「事畢(ことおわ)れり」であります。
仏教なら既に法蔵菩薩の救いの《本源力は成就して阿弥陀仏に成られた》。
キリスト教なら既にキリストは人類の罪を消すために十字架にかかって《罪を消してしまわれた》。

もう罪はあるか無いかと尋ねたり、罪人だと人間を呼ばわったり、
救うて貰えぬかと心配したりする必要はないのであります。

「既にお前は神の子である。無病である、無罪である、不苦である、不悩である」という神示を
「ハイハイ有難うございます」と素直に受けるのが好いのであります。

イエスは仰せられました、
「おおよそ幼児のごとくに、神の国をうくる者ならずば、之に入ること能わず」
(「ルカ伝」第17章15節)。

「生長の家」で行ずる神想観の祈りは、このように絶対他力への帰命信頼の表白でありまして、
何々の修行によって救われる資格ができるのでもなければ、祈りますからその功徳によって
救って下さいというのでもないのです。

           <感謝合掌 平成27年11月30日 頓首再拝>

『神想観』 とは如何なるものか - 伝統

2015/12/08 (Tue) 04:24:09


            *『生長の家』誌 31年9月号より
             ~吉田武利 


聖典 『生命の實相』 に於て 
『神想観』 に関する谷口雅春先生の御言葉を抜書きしてみた。 

『神想観』 についてこんな御言葉があったか、
こんな御説明があったかと知らされる事ばかりであった。




 ◎神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。

 ◎神想観は 『無想観』 にあらず、 『凝念』 にあらず。

 ◎神想観は神の力、仏の力なり。

 ◎神想観はその使命を以てあらわれた守護の神に護られて行う何よりも完全な行法である。

 ◎心と視力を集めて実相を静観するのが神想観である。

 ◎神想観は 『ハイハイ有難うございます』 の修行で少しも難しい事はないのです。

 ◎神想観の祈りは、絶対他力への帰命信頼の表白である。

 ◎与えられた勘定書を精確に承認するのが神想観である。

 ◎神想観は 『実相観』 なり。

 ◎実相上に坐して修するのが神想観である。

 ◎神想観は全身が真理と成る為なり。

 ◎神想観こそ最高の祈りである。

 ◎神想観は 『祈り』 と 『観法』 との調和し合体したものである。

 ◎神想観は神と二人切りの対座なり。

 ◎神想観は永く別れていた親子の対面なり。

 ◎神想観の中(うち)にのみ永遠なる拠り処を吾々は見出す。

 ◎神想観にまさる喜び、幸福は他にない。

 ◎神想観は諸仏現前三昧なり。

 ◎神想観は他力、自力を絶した 『絶対力』 である。

 ◎神想観は実行が実相を念ずるコトバの大行なり。

 ◎神想観は往相精進の行なり。

 ◎神想観は求める場でなく与える場である。

 ◎神想観は 『證上(しょうじょう)の修』 なり。

 ◎忙しく 『睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観』 をなすべし。

 ◎人類光明化運動の基礎となるもの ―― それは神想観である。

          (以上は神想観に関する先生の御言葉の一部の列記にすぎない)


『神想観』 が他の如何なる行法にも勝る全き観法である所以と、
これを生長の家の大神より谷口先生を通して授けられた尊さを、
今はじめての如く知り得たと同時に、不勉強であった自分を更めて痛感させられた。

孔子は 『易経』 を読んで韋編三たび絶ったというではないか。 

この古今に冠絶する生命の書、真理の書をいただきながら何という不勉強ぞ。 
須く、繰返し、徹底的に 『生命の實相』 を真讀すべし、心讀すべし、身讀すべし。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24588893.html より転写)


           <感謝合掌 平成27年12月8日 頓首再拝>

『神想観』 とは - 伝統

2015/12/15 (Tue) 03:49:39


《「詳説 神想観」より》

(1)神想観は谷口雅春大聖師が修行中に神授せられたる
   般若の知恵を禅定によって到達せる道である              はしがきP3

(2)神想観は日々の精神的糧

  ①人間は肉体ではない霊的実在である
   この事実を深く心に自覚せしむるための行事が神想観である。

  ②神を頭脳で知っただけでは神が「わがもの」とはならないのである。  P17

(3)神想観は人間が意識的に神と接触する最も荘厳な行事である

(4)実相覚によって真の自己を把握するのが神想観である    P19

(5)神想観は実相の扉を開いて実相を知る最も簡単な鍵である  P24

(6)神想観は神から直接授かった行法             P25

(7)神想観は積極的に霊力を増大する法            P28

(8)神想観は守護の神に護られて行う完全確実な観法である   P29

(9)神想観は無相観ではない                 P32

(10)神想観は心の視力を集めて実相を静観すること       P37

(11)神想観は「術」ではない。神の力、仏の力である      P37

(12)神想観は「疑念」ではない。
   神相観は最も正しい意味に於ける精神統一法        P38

(13)神想観は必ずしも精神統一を必要としない
   * 精神統一に越したことはないが招神歌で神を招ぶのですから
     精神が統一しなくてもただ形式通りにおやりになれば
     神徳が得られるのです                P39

(14)神想観によって罪は消える
   「罪はない」という因縁は超越できるということです。   P40

(15)神想観は「欠乏観」ではない
   完全な自己放棄の全自我の生れ変わりである        P42

(16)神想観は「ハイハイ有り難うございます」なり
   絶対他力への帰命信頼の表白なり             P42

(17)神想観「絶対力」である実相が実相するコトバの大行である P43

(18)祈りとしての神想観―「祈り」は哀願ではない       P45

(19)神想観にまさる「祈り」はない神を真に愛するのが神想観である

   * 自分の生命が神の生命であるということを
     知らねばならないのです。              P47

(20)神想観は実相観なり。
   与えられた勘定書を正確に算出する「祈り」なり      P48

(21)神想観は「祈り」と「観法」との調和合体せるもの     P51~52

   * 人格的な祈りをする人は、
     どちらかというと他力的な祈りになります。
   * 観法による祈りをする人は、
     どちらかというと自力的になり易いのであります。

(22)神想観は父子の体面                   P54

(23)神想観は永遠の依りどころ                P54

(24)神想観は最高の悦び、最高の幸福             P55

(25)神想観は祇管「しかん、ひたすら」唯観実相観       P56

(26)神想観は全身が真理となる
   神想観は病気を治すためにするものに非ず、
   貧乏を治すためにするものに非ず。

   功利目的を遂げるためにするものに非ず、
   全身が真理となるためである。              P55

(27)神想観は身、口、意 の三業をして神の相を現ぜしめる   P55

(28)神想観は宇宙のいのちと一つなる自己を発見する行法である P56

           <感謝合掌 平成27年12月15日 頓首再拝>

『 神想観は坐禅観法 』 - 伝統

2015/12/24 (Thu) 06:13:53


          *「 精神科学」(昭和三十年八月号)より抜粋し要約 


(1)神想観は、一種の坐禅観法であって、各自が
   「 神の生命 吾れに流れ入りて 吾が生命 遍(あまね)く法界に満つ 」 底の念を持して
   精神統一に入るのであって、誰も互いに相手に術を施(ほどこ)すのではありません。

(2)古来、坐禅に於いて先輩と倶に一室に端坐して その雰囲気的指導も
   受ける事が行われたが、神想観の指導も、それと同じ意味に於いて
   何十人でも何百人でも一堂に坐し、

   特定の修行室に入り得ざるときは、宇宙を一つの堂と観じ、同時刻に坐して、
   相互修養の同志又は先輩と共に一堂に参ずる思いをなし、
    「 神の生命 吾れに流れ入りて、吾が生命 遍法界に満つ 」 底の観念を為して
   共に倶に精神統一に入ることは悟を進める上に偉大なる効果があるのであります。

(3)神想観によって病気が治る例があっても それは吾々の功績ではなく
   その人自身の悟の功績であり、その人の心のストレスが除かれた結果でもあります。
   又 治らぬ例があってもそれは吾々の問題ではなく、その人の心の問題であります。

   何をやっても下手(へた)にやれば悪結果を得、上手にやれば良果を収めるのであります。

(4)神想観を正しく行うならば何人も弊害(へいがい)はない。

   神想観中の霊動は まだ其(そ)の人に迷いがあり、
   迷いの自壊する作用を起しているのであるとして
   吾々の仲間では卑(いやし)められています。

   霊動の起る人は 合掌瞑目しても霊動のなくなる迄神想観をしないが宜(よろ)しい。

(5)神想観は全然危険のないところの最も有効なる坐禅であって、
   神人融合の徹底自覚に到達せしむる勝れたる方便であります。

(6)神懸(がか)りになって二重人格的に神と云う別人格がその人を
   指導して呉(く)れるように思うのは所謂(いわゆ)る 「 霊媒に神を招ぶ 」 種類の者で、
   生長の家の教に背(そむ)く者であります。

   神と云うものは 内に深く神性を掘って行くときに、
   其処(そこ)から一如の相で出て来るので、
   人格分裂の二重人格的出現ではないのであります。

   (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「神想観は坐禅観法」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=81 )

           <感謝合掌 平成27年12月24日 頓首再拝>

神想観を怠らず真剣に実修すべし - 伝統

2016/01/01 (Fri) 04:56:03


           * 『生長の家』誌(昭和36年新年号)より

新年から、神想観を怠らず真剣に実修することにしようではありませんか。

神想観の功徳は遠藤義雄氏の 『真理は死刑の鎖も断つ』 
と云う著作にもその実例が出ているように、戦犯として死刑を宣告せられていた氏が、
その観の功徳によって無罪の判決を得、

獄中で神想観すれば無数の蚊が自分の裸の皮膚にむらがりとまっていても少しも螫さず、
自分のベッドにいた南京虫が無数に行列して集団移動をはじめたと云うような
奇蹟が記録されているのでありますが  〈※註 日本教文社 昭和37年発行〉

 
さて、神想観は、腕がだるい、脚が痛い、面倒くさい、退屈である。 
別に神想観をしないでも、本来神の子じゃ、その真理さえわかればよいじゃないか
と言う人もありますが、それでは坐禅をしない禅宗の信者、念仏をとなえない
真宗の信者みたいなものであります。


真理を自覚するには、

(1) 真理を説いた聖典を読誦すること。

(2) 菩薩の心を起し愛他行を実践すること。

(3) 常に実相を観じて正念を失わないこと。

(4) すべての衆生を見るに、神の子、仏子として
    礼し敬するようにつとめることであります。


“観普賢菩薩行法経” には、釈尊が 「自分はもう3ヶ月したら涅槃に入る」 
と仰せられときに、弟子が 

「世尊、あなたが滅くなられました後には生ける師匠とてはございませんので、
どのようにしたら無上菩提の心を失わず、煩悩を断ぜず、五慾を離れずして、
諸根を浄め諸罪を滅除することができますか」 

とおたずね申上げたとき、釈尊は 

「実相を観ぜよ。 ・・・ 無量の勝れたる方便は実相を思うより得、
一切の業障海は、皆妄想より生ず。 若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。 
衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」 

と教えていられるのであります。


実相を観ずるには、禅宗には坐禅の方法があり、真言宗には阿字観等色々の観法がある。 
しかしどの観法によるにしても最初は心が動揺散乱して、精神統一境に入ることが
できないで、退屈になってしまい、ついにそれを抛棄して何の得るところもない人が
多いのである。

併し何の修行をするにも、ある心域又はある境地に達するまでは、
或る程度、退屈であり、苦行である。 それは剣道の修行然り、柔道の修行然り、
茶道、華道、書道の修行みなしかり。 

凡そ 「道」 と称するものに到達し得るには余程の決心がなければ
途中にして挫折してしまうのである。 

その途中の挫折を、仏典や聖書では象徴的に悪魔波旬又は悪魔サタンが、
その成道を妨げんが為に出現したと云う風に書かれている。 

この悪魔の誘惑の境界を超えたとき、
はじめて私たちは彼岸 (実相の自覚) に達することができるのである。

それなのに神想観を怠る人が多いのは、最初の関門を突破し得るところまで実修しないで、
「未だ得ざるに得たり」 と思って実修をやめてしまうからである。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18979593.html より転載)

           <感謝合掌 平成28年1月1日 頓首再拝>

『 神想観についての心得書き 』 - 伝統

2016/01/10 (Sun) 04:49:10


            *『 光の泉 』 昭和35年12月号 より

(1)肉体を安らかに どこにも凝(こ)りのないように統制する

  ①生長の家では、一番正しい坐り方にあることが、どこにも凝りのない姿勢であるとして、
   尻を後方に引き、前方にある膝(ひざ)と尻とで背骨を載せる三角の台たらしめ、
   其(そ)の上にちゃんと柱である背骨が立って、重心が一定の処(ところ)へ落ち着いて
   一番楽で長時間疲れない姿勢と云うのが、あの生長の家の神想観の正しい姿勢であります。

  ②日本的な神想観の坐り方は万全の坐り方で、どの点からも隙(すき)がありません。


(2)リズミカルな規則正しい呼吸をできるだけ静かにゆっくり行なう

   神想観では念ずる言葉と呼吸とをちゃんと調和 して、
   息を吸う時には、「 神の生命(いのち)流れ入る 」 と念じ、

   その息を吐くときには、徐々に吐くために腹部に力を入れて張り出し
    「 満たされている 」 感じを誘導し
   「 神の生命に満たされ、生かされている 」 と念じます。


(3)自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナとして
   宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって全身心が浄められ、
   それによって支配されると感ずる

   神想観の時には、この肉体および感情体並びに精神体が、自分の脳髄をアンテナとして、
   自分の全体に宇宙霊を流れ入らしめるように感ずるがよい。

   そうして宇宙霊によって自分の全存在が浄(きよ)められるように感ずるとよろしい。


(4)意志の力により、ある一定の言葉を心に念じて それに精神を集中する

  ①生長の家では、「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」 と云う
   語(ことば)が基本的な神想観に於ける念ずる言葉であります。

  ②同じ念ずる語(ことば)を毎日繰返していると、それが習慣的になって、
   唱えていることばの意味を本当に想念しないことになると
   かえって効果が無いのであります。

  ③その言葉の意味を通して 真に神を想(おも)うところに効果が有るのです。

  ④その念ずる時に、例えば 「 流れ入る・・・ 」 と念ずれば、
   ある光体が流れ入るような有様を眼の裏に描いて、目を閉じているけれども
   その奥に在(あ)る「 心の眼 」で、じーっと それを見詰める気持ちになると、
   意識がハッキリしながら精神が統一し易いのであります。


(5)かく精神を集中して念ずる所の言葉は大体次の通りである―

   「 吾が本体は、太陽よりも尚一そう光輝燦然(こうきさんぜん)として輝き、
   雪よりも尚一層清浄であり、エーテルよりも尚一そう精妙であり、
   これがわが中(うち)に宿る霊であって、それが本当の自分である 」


(6)その次の言葉に精神を集中するのもよい―

   「 神は今 吾を見つめてい給うのである 」


(7)最後に次の意味の言葉を繰返して精神統一するのである―

   「 吾々は永遠の世界に住んでいる。吾が魂の中には言葉に言い表すことのできない、
   平和がみちみちているのである。今ここにすべてのものを新たならしめる所の力がある。
   今、自分は神と一体であるが故にその力は吾が中(うち)に生き動いているのである 」


  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=82 より抜粋)

           <感謝合掌 平成28年1月10日 頓首再拝>

悟りと神想観 - 伝統

2016/01/19 (Tue) 04:13:12


         *『理想世界』誌(昭和32年10月号)より抜粋


【 断食修行について 】

(1)断食その他肉体を苦しめる修行が霊的方面の発達に寄与するというのは、
   肉体の否定、物質の否定というものが、生活の上に実際に行われるから
   霊的覚(さと)りというものが得られ易(やす)くなるのであります。


(2)今でも山へこもって断食をしたり、水行をしたり滝に打たれたりする人もあり、
   それによって何らかの覚(さと)りに到達するというような人もあります。

   私も断食したことがあるけれども、私は断食したから覚ったというわけでもないけれども、
   ある覚りが得やすくなるということは事実です。

   しかし皆さんに断食をせよというのではありません。

(3)山に籠(こも)り断食などをしていると、山に浮浪(ふろう)しているような
   野天狗(のてんぐ)とかいうようなつまらない種類の霊魂にひっかかったりして、

   其(そ)の結果、ちょっと位の第六感が働いて霊眼がひらいて
   霊の姿や霊界の一部が見えたり、或いは天言通(てんげんつう)を得たとか言って、
   「神様の言葉」を自分でしゃべるとかというような境地になる人もあります。

   けれども、それは霊的感受力が鋭敏になった結果、一種の霊媒状態になったのであって、
   自分の実相が神であるという実相の神性を覚ったという状態ではないから、
   その霊の示すところにだまされて脱線する危険性が非常にあるのであります。

(4)ですから、山へこもって断食水行をするとかいうようなことは
   しない方がいいのであります。

   神は普遍者でありますから、山へ行く必要はない。

   悟るためにはやっぱり神想観をするのが一番いいのであります。


【 神想観について 】

(1)神想観時の姿勢

  ①体の姿勢というものが、「心の姿勢」というものに互いに影響を与えます。

   ちょっと姿勢が違うと波長が変わるんです。

  ②ちょっと位足が痛いからというのでごまかしているといかんのであります。

  ③それで神想観する時には本当に正しい姿勢をもって
   神想観するということが必要なわけです。


(2)悟りの時期

  ①神想観してもある人は早く覚(さと)れるしある人は早く覚れない。
   これはその人の霊魂の発達の程度だから、仕方がない。

  ②人間の霊魂は、皆神の霊魂が宿っているんだけれども、
   皆出発の時期が違うんですから、スタートが違うんですね。

   その人の魂の発達が遅れていると言って低級なという意味で遅れているのではなくて、
   その霊魂が神から生み出された最初の出発時期が違うんです。

  ③何遍でも生まれ更(かわ)って修行している霊魂もあれば、
   まだ回数少なくしかこの世に出ていない霊魂もあるのです。

   そういう霊魂は他の人が早く覚れても、自分はまだ覚りが遅いというのは、
   これは止むを得ないことなんですよ。

  ④だから悟りにもいろいろな段階があるわけですよ。

   だけども、ともかくこの自分の本性(ほんしょう)が神であるということを、
   本を読んだり、話をきいたりして、知的にでもそれがうなずけるというのは、
   既に神なる実相がそこまで現われて来ているからであります。

  ⑤そういう人がだんだん神想観もやり、本も読みやっているうちには
   「我(われ)は神の子である」という自覚を得てですね、本当に何というべきか、
   法悦というべきか、歓喜勇躍というような状態になるときが来るんです。


【 悟りの行的把握について 】

(1)神想観でも坐禅でも。どちらでも覚れるけれども、
   それで最後ということじゃないのであって、白隠(はくいん)禅師でも
   「大悟(だいご)十八回、小悟(しょうご)は数知れず」と言っておられます。

   大悟徹底したと思っても、まだまだそれは、ひとつの段階であって、
   今度こそ大悟徹底したと思っても、まだそれもひとつの段階で十八回も
   大悟したと言われておりますがね、だからもうこれでお終(しま)いだと
   思ったら無限生長じゃないのであります。

   ですから、まだまだ吾々は修行をしなければならない。

(2)知的にまず把握し、それから感情的にも把握し、
   それから今度は行(ぎょう)的に把握しなければならない。

  ①愛行が真理の行的把握です。
   人に本当に愛を与えた時に本当に生き甲斐の自覚というものが感じられ、
   そして「我れ神の子である」というよろこびが実感として起って来るというのが、
   真理の行的把握ですね。

  ②真理の書物を読んでそして同時に神想観をして、それによって
   全生命が感情的に情感的に悟って、その悟りから起(た)ち上って、
   そして人を救うという実際運動を行じてこそ、そこに本当に
   永続的な覚(さと)りのよろこびというようなものが得られて来るのです。

  ③真理の書物を読み、神想観をし、そこから愛行を実践するという風に、
   この3つを常に一緒に具体的に実行するということによって、
   神に対する悟りがだんだん深まって来るということになるわけであります。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=77 より抜粋要約)


           <感謝合掌 平成28年1月19日 頓首再拝>

神想観の諸段階とその功徳 - 伝統

2016/01/28 (Thu) 04:52:06


        *『生長の家』誌 昭和34年8月号より抜粋

生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。

「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は若(も)しきわめて完全に行われたならば、
それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。

それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に執(とら)われる必要はないのであるが、
すべて美が形として表現されるときには、それぞれの根本的法則があるように、

メディテーションを行うにも一定の法則があり、その法則が完全に行われるときには、
意識の高揚を体験することができるのである。」


このようにスター・デーリーは言って、
その根本法則を次の7つの段階に分けて示しています ー


(1)決意

  ①「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」

   と云う決意をなすことが必要なのである。

  ②神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、
   私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて
   自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。

  ③「“どんな事があっても精進努力をつづけて退転しないと云う決意”
   と云うものが最初に是非必要だ」


(2)心身を放下すること。(緊張を解くこと)

  ①全託の気持になり、呼吸を調(ととの)え、呼吸に合わせて「平和であれ、静かであれ」
   と念ずるとよい。

  ②或(あるい)は「われ神の生命の洗礼を受く、われ神の生命の洗礼を受く」と
   念じながら息を静かに静かに吸い、

   「われ神の生命に浄められたり、われ、新らしき者なりたり」と念ずると
   不思議に全心身が浄まって最早、罪なき者と云う自覚とともに、
   「脱落身心、身心脱落」の境地に入るのであります。


(3)精神を本尊に集中すること。

  ①デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。
   彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を
   視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、それに精神を一点に集中するのである。

  ②それぞれの宗派の人は、それぞれの本尊に集中するとよい。

  ③今まで信仰なくして最初から純粋に生長の家だけの信仰に入った人や、
   「実相」の中に一切の本尊が存在すると云うことが理解された人ならば、
   「「実相」の大文字を本尊として心に描いて、それに精神を集注するがよいのであります。

   要するに本尊への心の集注によって、
   本尊の御遺徳によって、一切の雑念妄想が消え去るのであります。


(4)精神統一

   Concentrationである。
   精神集中が一層強力となり純化されて、一切の雑念が消える状態である。
   目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる。


(5)祈りの言葉の黙念。

   本尊に対して欲する事物を念ずる。


(6)欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。

  ①神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。
   「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」とスター・デーリーは言っています。

  ②「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、
   瞑想の場合には吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」とデーリーは注釈しています。


(7)既に成就せりとの強烈な自覚。

  ①(神想観の深まりによって)
   段々、「自分」が無くなり、「自分」と云うものが神に同化する境地になります。
   自分と神とが一体になってしまう。

  ②神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだと云う境地になるのであります。

  ③これが黙念 → 瞑想 → 既に成就せりとの強烈なる自覚への到達と云う順序であります。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=80 より抜粋要約)

           <感謝合掌 平成28年1月28日 頓首再拝>

何故神想観では『神の無限の智慧の海』からはじまるのか - 伝統

2016/02/05 (Fri) 04:06:40

『神は愛也』というのに、何故神想観では『神の無限の智慧の海』からはじまるのか

         (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱<童子 さま ご投稿>
          より抜粋)


         *『白鳩』誌(昭和47年4月 5日~10日)の箴言より


(1)“神” は絶対者であるから、名辞によって限定しがたきものであり、 
   “愛” とか “智慧” とか相対的な名辞をもって限定したら、却って 
   “神” の本質はその人の理解から逃げ去ってしまうのである。


(2)神の “愛” と “智慧” と “生命” とは、相入無礙であり、相即無礙なのである。

   “愛” の中に “智慧” があり、 “智慧” の中に “愛” があり、
   それらのはたらきは、 “生命” の中にすべて包容されているのであり、

   愛は智慧によって生き、智慧は愛によって完うせられ、
   愛の中に智慧はあり、智慧の中に愛はあり、
   生命は愛によって生き、愛は生命によって生かされ、

   生命は渾沌を、智慧の示すところの秩序によって生かされて生物は発生したのである。

   生命と智慧と愛とは互に相入し、相即して、どちらが先ということはないのである。

   実相界を構成する智慧と愛と生命とを相即相入して同時融合の形で三者を同時に
   表現し得ないものだから、それを言葉に表現するとき、どちらかを先に書くか言うしか
   なければならないから、時には智慧を先にして唱え、時には生命を先にして唱え、
   時には愛を先にして唱えるのである。

(3)智慧を生命から分離して考えたり、愛から分離して考えたりするのは、
   唯物論的な考え方であってこれら生命・智慧・愛は分離して考えることが出来ない
   ところの相即・相入的なものなのである。


              ・・・

       * 『明窓浄机』(昭和47年5月号) の補筆 より

(4)神を吾々の 『現象界の事物を説明するために生じたる言辞』 をもって表現するならば、
   吾々は神を現象的に限定してしまうことになるのである。 

   神は限定すべからざるものであるから、本当は限定する言語をもって表現するならば、
   神の御本質は、われわれの理解の外に逃げてしまって頭脳智をもっては捉えることは
   できなくなるのである。 

(5)そこで 『限定』 をなくするために、工夫して表現された語(ことば)が 
   『絶対の愛』 である。

   『絶対の愛』 と言うならば、『相対の愛』 が生まれる以前の 
   『既に “愛” とは表現しがたき “何ものか”』であり、
   それは 『智慧』 や 『生命』 に対しても対立しない 

   “空(くう)・無限・無相にして無限を孕むもの” といっても、
   吾々の現象用語で表現し難き神秘者なのである。

(6)神を救済者として見るとき 『神は愛であり』 であるが、
   神を創造者として見るとき、神は智慧であり生命であるのである。 

   智慧は、愛のように 『誰か』 又は 『何物か』 を愛するというように
   対立者がなくとも、智慧ははたらくのである。 
   智慧は自主的に宇宙創造の設計を考える事も出来る。

(7)創造者としての神を観ずるとき、『神は智慧である』 という風に感じられ、
   神を救済者として観る場合、神は愛なりと感じられ、

   救済は、衆生が創造せられた後に起るところのはたらきであるから、
   若し順位を設けるというならば智慧が先ず先行するのである。

   それ故に神想観のときに念ずる言葉で智慧が先に念じられているのであるが、
   それは決してどちらが優位に立つとかいうような区別ではないのである。
   
   神の智慧と愛とは相即相入の関係にあるのである。


   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=92 より抜粋要約)

           <感謝合掌 平成28年2月5日 頓首再拝>

真の正しき祈りとは - 伝統

2016/02/13 (Sat) 03:53:54


          *「幸福を招く365章」(P225)より

神想観は、実相観であり、実相においてすべてのものが
すでに与えられていることを確認し肯定するための強き観法であり、
不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。

既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
ほめ、讃え、感謝する祈りである。

現在、不完全な世界が与えられていることを認め、神に懇請することによって、
神がこれを修正したもうなどと考えるのは神を侮辱するものである。

現象の不完全さは、実相を受信する「人間、ラジオ・セット」の心の波の不完全さで、
いろいろのものを混同しているからで、わが心を調べれば不完全さは消えるのである。

           <感謝合掌 平成28年2月13日 頓首再拝>

自己礼拝の神想観 - 伝統

2016/02/22 (Mon) 03:24:22


             *「詳説 神想観」(P142~143)より

「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る。ここがこのまま実相の世界である。

 神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海、・・・

 神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、・・・

 神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、・・・

 神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、・・・

 神の無限の悦びの海、神の無限の悦びの海、・・・

 神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、・・・


 一切大調和の実相の世界にいて、吾れ神の子として
 神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである。」

 (ここまでは基本的神想観と同じであります)

そして静かに息を吸いながら、

「神のいのちわれに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。吾れは神の子である」

と念じます。

そして吸った息を下腹に落として下腹に息の充ちた感じを保ったままこう念じます。

「既に無限の智慧にましますことを礼拝し奉る。」

こう自分が神の子としてこのに坐っているその自分を自己礼拝する訳であります。

そのうちに息が自然ともれて出ます。

次に順次、息を調和せしめながら繰り返し次の如く念ずるのであります。

「神のいのち吾れに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。
吾れは神の子である。すでに無限の愛にまします事を礼拝し奉る。


神のいのち吾れに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。
吾れは神の子である。すでに無限のいのちにまします事を礼拝し奉る。


神のいのち吾れに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。
吾れは神の子である。すでに無限の富にまします事を礼拝し奉る。

神のいのち吾れに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。
吾れは神の子である。すでに無限の歓喜にまします事を礼拝し奉る。


神のいのち吾れに流れ入りたまいて吾がいのちとなり給う。
吾れは神の子である。すでに無限の調和にまします事を礼拝し奉る。」


           <感謝合掌 平成28年2月22日 頓首再拝>

観普賢菩薩行法 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 04:29:37


         *『詳説神想観』(P133~138)より


「無量義経」「法華経」「観普賢菩薩行法経」を称して法華の三部経と言います。

釋迦如来が今まで四十年間説いて来た教えはすべて方便の教えで本当のことを説かなかった。
今こそ本当の事を説くぞ、その本当の真理とは、人間は如来のいのちがここに生きている、
無限のいのちそのものであるという事である、とこう説いてあるのが「法華経」でありまして、

それならこの真理を如何にして実現することが出来るかという事が書いてあるのが
「観普賢菩薩行法経」であります。

そしてそれには「大乗の経典を読み、昼夜六時に普賢菩薩を観ぜよ」
という事が書いてあるのであります。

よくお寺などで見ますが、六本の牙のある白い象がおり、
その鞍に蓮華の花のついた宝座があり、そこに普賢菩薩が坐っておられる。

象というのは「大きい」という事で無限大をあらわし、
白い象の「白い」というのはちょうど太陽光線のようにどんな色もついていず、
どんな色もそこに含んでいる。

あらゆるものが一つにあって、実際はありながらあらゆる相(すがた)が現れていない。
それで、「白い象」というのは無限に大きくして、
一切のものがその中にある虚空――全宇宙をあらわす。

六本の牙というものは、仏教で言われている六つの神通力を言う。

六神通というのは

天眼通・天耳通・他心通(他の心を知る神力)・
宿命通(この男は前世において何に生れており何の因縁によって今こういうすがたに生れて
こういう経験を受けているのである――というような事が分る)

・神足通(空中歩行する、歩かないでも釈迦牟尼仏は「華厳経」の説法をなさったとき
座を立たずして夜摩天という天人のいる世界に昇って行かれたとあるが、ここに居りながら
何処かに姿を現わす通力)・漏尽通(漏というのは煩悩の事、煩悩の尽きて無くなる事)

を言う。

そこでこの観では普賢菩薩は虚空に充ち満ち無色透明で相が無い、
しかも一切の相を内に蔵している虚空に跨って、一つ一つの花片(はなびら)が如意宝珠である
ところの蓮華の宝座に坐って合掌のうちに如意宝珠を持って精神統一をしているわけなんです。


そして合掌のうちに如意宝珠があるだけでなく全身四百兆一つ一つの細胞が物質の肉体ではなく
如意宝珠そのもので、光明燦然たる光を放っている。

その全身四百兆の如意宝珠の一つ一つに三千の普賢菩薩が六牙の白象上に乗って
合掌していらっしゃる、そして光明燦然と光を放っている。

そしてその光を放っている普賢菩薩の身体(からだ)の一つ一つの細胞がまた如意宝珠であって、
その中にまた三千の御仏が坐っておられる、その仏の細胞が如意宝珠で、その如意宝珠にまたまた
三千の普賢菩薩が坐っておられて、それがまた無限に続くのですから素晴らしいですね。

これを華厳の重現無礙(じゅうげんむげ)と言うのです。

子供のオモチャによくあるでしょう。
ちょっと大きい箱を買ってやると、その箱の蓋を開けると小さい箱がその中に入っている、
その蓋を開けるとまた小さい箱がある。その蓋を開けるとまた小さい箱があると
いうようにいくらでも箱が入っておる。

そのように吾々の身体(からだ)の細胞一つ一つが如意宝珠で、
その如意宝珠は蓋を開けないでもそこに三千の普賢菩薩が坐っておられる。

その普賢菩薩一人一人の全細胞がまたまた三千の普賢菩薩に満たされ光明燦然として輝いておる
――こう観ずると「人間は肉体ではない」という事が分るのです。

すばらしい神想観であります。


舞鶴にその人が部屋にいると異臭ぷんぷんするというようなひどい《わきが》の
お嬢さんがおられて、舞鶴の長村(おさむら)婦美子講師に相談された。

人間はそんな臭い匂いのするような肉体にあらず、物質にあらず、それはウソである。
その《ほんもの》でないウソを《ほんもの》であると思っているのが迷いである。

《ほんもの》は何であるかというと、人間は仏のいのちであり、普賢菩薩そのものである。

普賢菩薩を前に述べたお寺にあるような、そういう恰好をした仏で、
釈迦牟尼如来が説法された時代に観世音菩薩などと一緒に出現して説法を聴かれた、
そういう菩薩であるというのは顕教的な、表れている表面的の解釈でありますが、

密教的(密教というのは、お経の表面の意味の奥にかくされた秘密の意義を解する教えの意)
に言うと自分自身が普賢菩薩そのものであるというわけです。

すなわち「普賢」というのは「普(あまね)く賢い」――どこにもかしこにも
充ち満ちている智慧そのものである。その智慧によって一切のものができている。
宇宙のありとしあらゆるものはみんな法則によって支配されている。

それが人間智慧によって解明できるということは、
一切のものが智慧によってできているからである。

それで、人間の身体は肉身にあらず、智慧身である。
それを観ずるのが観普賢菩薩行法です。

真言密教では、普賢菩薩を描いた掛軸を目の前一間位のところに掛けて置いて、
それを《じっと》見詰めて精神統一して、その像がずっと自分の方へ入ってきて、
自分自身が普賢菩薩であるというすがたを観ずるのであります。


さてこの観普賢菩薩行法をやんなさいと長村婦美子さんがお嬢さんにすすめ、
長村さんとお嬢さんが向い合って神想観をしたところ、終るとたちまち
その異臭ぷんぷんたる《わきが》が消えておったというような体験もあるのであります。

 
観じ方は次の如くであります。

最初普通の神想観をするのでありますが、
「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」
というこの心境が深まった続きとしまして念じて下さい。
 

 『吾れ普(あまね)く我が全身を観ずるに此身このまま普賢の身なり。
  六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、
  合掌の内に一大如意宝珠を持し、全身の細胞悉く如意宝珠にして
  光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠に三千の御仏坐し給う。各々六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が悉く
  如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く如意宝珠にして
  光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。

  一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。各々六牙の白象に乗り、花片(はなびら)が
  悉く如意宝珠なる蓮華の宝座に坐し、合掌の内に如意宝珠を持し、全身の細胞悉く
  如意宝珠にして光明燦然として十方世界を照らす。合掌の如意宝珠またまた大光明を放つ。
  一々の如意宝珠にまたまた三千の御仏坐し給う。』

 
これを繰返して下さい。

全身の細胞の中に三千の御仏、すなわち普賢菩薩が坐って光明燦然と輝いておられる有様を
繰返し観ずるのでありますが、その時、今坐っている自分自身が白い象に乗って合掌して
光明燦然と輝いている普賢菩薩であるとして、その姿をじっと見つめ、それを繰返し念ずる、

細胞の中の三千の御仏と一体に重なっているようにじっと心で見つめ繰返し念ずるのであります。

普賢菩薩を自分と別ではなく、自分の中にある、自分の姿として観ずるのであります。

繰返し繰返し念じておりますと、もう自分が肉体ではなく、普賢菩薩そのものである
という実感が湧いて来るのでありまして、これは非常に精神統一しやすい所の神想観であります。

これを繰返して精神統一の極に入りまして、最後に神想観をやめる直前に、

 『吾れ普く我が全身を観ずるにこの身このまま普賢の身なり。
  身量無量、色像無辺、音声無限にして虚空に満ち、六神通自在にして
  無限智、無限愛、無限生命なり。
  よく一切衆生の苦厄を度し、一切衆生の病悩を癒すのである。』


これを繰返し念じて、やがて終るわけであります。

「身量無量」というのは自分の身体の分量が無限であって、宇宙に拡がっている。
「色像無辺」というのは物質または霊体として現れている波の体が無辺であって限りがないという事。
「音声無限」というと、自分の《いのち》のコトバの響きが無限であって虚空に充ち満ちている

と観ずるのであります。

                    ・・・

《自分自身を普賢菩薩と観じよう》 - 伝統

2016/02/28 (Sun) 04:30:51

         *『詳説神想観』(P138~139)より

病気にかかった場合、病気の姿を心に描いて、
それを治そうと考えては却って治らないのであります。
何故なら心で「病気」をつかむからです。

「病気なんて、そんなものは全然無い。神はそんなものを造らないから絶対無い」と、
病気を心から放ち去るのです。

そうして、自分はもう既に、普賢菩薩そのものであり、仏のいのち、神のいのちそのもので
あって光明燦然と輝いている自分だということを《じっと》精神を統一して観ずるのです。

大体、病気というものは「人間は肉体であり、滅ぶべきものである」という人類意識の
あらわれとして出てくるのですから、その人類意識から超出するために、物質でないところの
霊的存在である自分(普賢菩薩)を完全に心の眼で精神を統一して見つめるというわけです。

肉体は心の影にすぎないのであって、「霊なる自分」だけがあるのですから、
その霊なる光明輝く自分を見つめるのです。

肉体と霊体と二つあるように神想観中に思うと、
「肉体は滅ぶべきもの」という人類意識に引っかかるからいけません。

「肉体なんて無いんだ」とハッキリと断ち切って、神想観をして、
「ここに坐しているのは、霊体そのもの、普賢菩薩そのものがここにこういう姿で現れているのだ」
とその完全な自身の姿だけを心の眼で見つめるのです。

常に観普賢菩薩行法を行なっているものには、常に金剛不壊のオーラがとりまいていて、
如何なる悪波動も、自分に近づくことができないのである。

黴菌といい、ヴィールスといい、いずれもこれは悪しき想念の具象化であるから
黄金色のオーラをもって全身を完全に保護しているものには、
決して侵入することができないのである。

・・・

<関連>

(1)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」内記事
   『観普賢菩薩行法経』の功徳 (1477)日時:2014年11月04日
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(2)生長の家「今昔物語」
   『實相研鑽』第一集 <テーマ> 普賢菩薩なる自己を観る(昭和36年7月19日)
   → http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/1168/


           <感謝合掌 平成28年2月28日 頓首再拝>

神を真に愛するのが神想観 - 伝統

2016/03/06 (Sun) 04:57:54


神想観にまさる「祈り」はない ―― 神を真に愛するのが神想観

         *『詳説神想観』(P47)より     

本当に神を愛するとは、本当に神を好きにならなければならないのです。
では本当に神を好きになるには、神と自分とが一体であることを知らなければならないのです。

即ち、神の生命が自分の生命であり、
《自分の生命が神の生命であると云うことを知らなければならないのです》。

神を見るに吾れ自身として見、神を愛するに吾れ自身として愛しなければならないのです。
それにはどうしても、《神と自己との一体感を深めなければならないのです》。

自分と神とが不可分の一体であると云うことが実感的に深まって来なければ、
我等は本当に神を愛することは出来ないのです。


神を愛するとは、素直に実相に直参(じきさん)して、
「神よ、私は神の子です。あなたは私の実父(ちち)です。
貴方の生命(いのち)が私に宿って、私の生命(いのち)となったのです」と、
驀(まっしぐ)らに神の膝の上にかき上がることになるのです。

正しい祈りとは、実にこの 「私は神の子です」 との命宣(いの)りであります。
この命宣(いの)りさえ完全であれば、すべての第二次的なものは、
自然に成就することになるのであります。

「神の生命(いのち)われに流れいり給いて、吾が生命となる」
「われは神に満たされ生かされて、神と不可分の一体である」

この感じを理屈でなしに、現在意識だけでなしに潜在意識の底の底までもたたき込むのが
神想観であります。

だから、多くの祈り方はありますけれども、神想観にまさるものはないのです。

           <感謝合掌 平成28年3月6日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2016/03/20 (Sun) 03:37:14


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

           <感謝合掌 平成28年3月20日 頓首再拝>

神想観は実相妙有を眺め、讃嘆し、礼拝し、感謝する行である - 伝統

2016/03/28 (Mon) 04:58:22


             *『静思集』(P138~139)より


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、
神の智慧と、愛と、生命(せいめい)との充ち満ちてある、
その妙(たえ)なる有様(ありさま)を観ることである。

吾々は我(が)の凝念(ぎょうねん)の力によっては、そう多くは動かし得ない。

実相の創化作用の自動によってのみ、無限の力が湧いて来るのである。
ただ自分と云うものを、仏(神)の家に投げ入れて仏(神)から
はかられることが正しいのである。

愛憎によって人間が注文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは
神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず、神想観の効果は少ない。


若し吾々が実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、無限智、無限愛、無限生命、
無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現してこないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面へ創造するのではなくて
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讃嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我(が)の念力の凝念法だと思っている人は全然間違いであるが、
何か欲する事物を招(よ)び出すためにする行事だと思っている人も間違いである。

そしてそれを一種の観念法と思っている人は全然当らずという訳でもないが一面観である。

神想観は讃嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。


讃嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。

それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。
それは南無阿弥陀仏と称えて信心決定(しんじんけつじょう)せると同じことである。

ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定(しんじんけつじょう)せるだけではなく、
神想観に於いては、「今」すべての救いが信心決定(しんじんけつじょう)せることである。

           <感謝合掌 平成28年3月28日 頓首再拝>

《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統

2016/04/06 (Wed) 04:28:41


            *「光明法語」(4月6日の法語)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

           <感謝合掌 平成28年4月6日 頓首再拝>

《神と實相のみを愛せよ》  - 伝統

2016/04/07 (Thu) 04:58:55


            *「光明法語」(4月7日の法語)より

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

           <感謝合掌 平成28年4月7日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2016/04/17 (Sun) 04:03:38


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

           <感謝合掌 平成28年4月17日 頓首再拝>

《“ 無私の祈り“としての神想観》 - 伝統

2016/04/26 (Tue) 04:52:23


          *『 生長の家 』(昭和46年3月29日)の法語より

   神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。

   「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」とは、
   「五官の世界」即ち「現象世界」の一切の意欲を去ることである。

   意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは、既に「五官の世界」を去った今は、
   “自分の心”の中にないのであるから、現象世界の何ものをも求めないのである。

   そして自分の欲望の願いも何もなく、ひたすら心が“神”と“神の創造せる世界”
   (実相世界)に振り向いて、実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私の
   パイプとなることである。

   このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。

   すると其処は、神の無限の智慧の海であり、神の無限の愛の海であり、無限の生命の海であり、
   無限にゆたかなる供給の海であり、無限の歓喜の海であり、無限の調和の海であるのである。

   それを心の眼をもってハッキリと観るのである。
   観ることは既にあるものを受け容れることである。

   それをハッキリと受け入れたとき、実相世界の天国状態がハッキリ現象世界に
   その姿を映し出して、此処に地上に、天国が現出することになるのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12729823.html

           <感謝合掌 平成28年4月26日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.