伝統板・第二

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無限の富を汲みだす① - 伝統

2015/04/08 (Wed) 03:41:05

*光明掲示板・伝統・第一「無限の富を汲みだす (67)」からの継続です。
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

・・・

《無限供給の意義について》

          *「眞理」第四巻青年篇(P127~128)より

実相哲学は神からの無限供給を説くけれども、
これは「実相人間」そのものが神の子であって、
すでに、「無限」を内に包蔵するものであると云うことを説くのであります。

「貧乏」ですから「与えたまえ」と乞食根性を出す事ではないのであります。

寧(むし)ろ「無限」を内に包蔵することを自覚するが故に
機会ある毎に「自分自身」を他(ひと)に「与えん」と欲して与えるがゆえに、

其処に価値の創造が行われ、その「与えたこと」の反映として、
現象的にも自然に「豊かなる供給」がめぐりめぐって自分自身の生活の上に
あらわれて来て、名実ともに富むことになるのであります。


併しながら、かかる現象が実現するに先立って、
現象的には今、なお貧しくありながらも「内在の無限の富」を自分が既に有(も)って、
既に富んでいると云うことを自覚しなければならないのであります。


《先ず心の富者となるべし》

          *「眞理」第四巻青年篇(P128~129)より

米国ニューソート界の耆宿(きしゅく)ウオルドー・トラインが嘗て自動車王、
第一世ヘンリー・フォードに「あなたは、25年前には無一物でありましたが、
今は今は巨億の富を持っていらっしゃいます。その致富の極意を教えて下さいませんか」
と言いますと

ヘンりー・フォードは「わたしが無一物だったですって? そんなことはありません。
わたしは決して無一物だったことはありません。すべての人間は既に自分の内に
無限の富を有(も)っているんですからな」と答えています。

このフォードの「無限の富の自覚」があってこそ、やがて、現象世界に
彼は「無限の富」を実現したのでありましょう。

この現象界に「無限の富」が現れるまでには、
「金銭無き富者」と言い得る如き状態を経過するのであります。

即ち「心の富者」であって、現実に貧しくとも
「与えてやまぬ」富める精神がそこにあらわれて来るのであります。

諸君が本当に富もうと思ったならば、先ず金銭に眼をくれてはなららない。
先ず自分を「内在無限の富者」だと信じて
「与える」ことから始めなければならないのであります。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

             <感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>

神の大宇宙銀行から引き出すとの自覚 - 伝統

2015/04/18 (Sat) 04:24:54

         * 『生命の實相』第8巻観行篇(P117~119)より

大宇宙銀行の頭取は宇宙主宰の神様であって、
宇宙の富のすべてを総覧していられるのであります。
そして常にその預金者たるわれらに対して言い給う。

「なんじの自覚する程度に従って、われなんじの預金を支払わん。
わが資本金は無限億万円である。

わが銀行に千円を預金せりと自覚するものに対しては、われ彼に千円を払戻し、
百万円を預金せりと自覚せるものに対しては、われ百万円を払戻し、
無尽蔵に預金せりと自覚せるものには無尽蔵を支払わん。」

これが大宇宙銀行とわれわれとの関係であります。

神は破綻銀行の出納係ではないのでありますから、大宇宙銀行の支払口に突っ立って、
払戻しを要求する人に支払を拒絶し給うことは決してないのであります。

ただ人間の方が、大宇宙銀行へは滅多に行かないで、
人間の設立した小さい処へ出かけて行って、小さな預金を払戻してくれと言ったり、
就職口を世話してくれなどと言うから、おうおうにして拒絶を食らうのであります。

(中略)

神の大宇宙銀行から引き出すのであるということを自覚している者にとっては
「富」は近づけば近づくほど、神に近づくことになります。

(法華経の長者窮子の教えの譬え→父の御許へ走れば長者の後継ぎになることができた)

「富」と「神」とを対立した関係にみないで、神がいっさいの根元であり、
神の中にこそ無限の供給があり、無限の富があるということを知る者は、
いつも神にもとめて富を得る、すなわち神から富を引き出して来るのであります。

この境地においては神を拝むことと富を得ることとは当然同じことなのであります。

             <感謝合掌 平成27年4月18日 頓首再拝>

富とは人のためになる働き - 伝統

2015/04/24 (Fri) 03:29:22


         * 『生命の實相』第8巻観行篇(P124~125)より

人間に与えられる供給が、神の愛の具象化であるということがわかりますと、
われわれは愛を与える生活をすることによってのみ、神の愛の波長に適合して、
そこに無限供給の世界が実現して来るのであります。


大体「富」というものはたんに物質の分量が多いということではないのであります。
「富む」というのは「《人のためになる働き》をする何か」が多いということであります。

《人のためになる働き》をするのが「愛」であって、
愛を実践すればそれが「富」に変わるのであります。

今までにも多くの「富」をこしらえた人たちは、多くの人々のためになる働きをした
人ばかりであります。「人のためになる働き」も、少しの人のためになる働きだけでは
少しの「富」しかできないのであります。

十人のためになる働きをいたしますと、十人から喜ばれて、直接なり間接なりに、
その十人からのお礼が自分にまわって来、それがおのずから富になってくるのであります。

しかしただたんに十人ぐらいのためになっているのでは、一人の人から1万円ずつお礼が
循環して来ても、十万円しか富ができないのであります。

だから富を作るためにはぜひとも、
《できるだけ大勢の人のためになる》ということが必要なのであります。

             <感謝合掌 平成27年4月24日 頓首再拝>

富とは愛と知恵と生命の結晶である - 伝統

2015/04/30 (Thu) 04:04:40


         * 『生命の實相』第8巻観行篇(P125~127)より

「人のためになろう」という考えは「愛」でありますが、ただたんに「人のためになろう」
と考えるだけでは、どうしたらためになるのかわからない。
それではなんにもならないのであります。

そこで富というものは、たんなる「愛」だけでは駄目であって、「愛」を実践する
「知恵」がともなわなければならないのであります。

大体「富」というものは「物質の蓄積」ではないのでありまして、
「ためになる知恵」が具象化したものであります。

「ためになる」すなわち愛と、そのための知恵と
 ―― この二つの精神的存在が形の世界に具象化した現象にすぎないのであります。
もっともそれを具象化さすためには、「生命力」が加わらなければならないのであります。

「人のためになるよい知恵」を考えついて、どうすればいいということがわかっただけで、
ただ寝ころんでいるだけでは、その知恵も愛も形に現われては来ないのであります。

それを形の世界に現わすにはぜひとも生命力を働かせることが必要なのであります。
愛と知恵と生命力が加わる、するとそれが具象化して無限の富となってくるのであります。

そこで我々が地上の世界に神の国そのまままの
豊かなる供給の世界を実現しようと思いましたならばキリストのいったように、
「まず神の国と神の国の義とを求め」なければならないのであります。

「神の国」というのは実相の世界 ―― すなわち現象世界の以前にある世界 ――
であって、その世界にある「正しき存在」がすなわり「義」であります。

すなわち「神の国の義」というのは、「神の国にあるところの無限の知恵、無限の愛、
無限の生命力」であります。これをわれらが求めたならば、それがおのずから
現象界に現われて来て、無限の富となって実現して来るのであります。

心の世界に無限の富を実現するには、神想観に及ぶものはないのであります。
なぜかというと、神想観においては、われわれは心のうちに「神の無限の愛と知恵と生命と
供給」とを今現実にあるように観じて、心にははっきりと描くからであります。


             <感謝合掌 平成27年4月30日 頓首再拝>

神をケチな物と考えてはならぬ - 伝統

2015/05/06 (Wed) 05:08:32


         * 『生命の實相』第8巻観行篇(P127)より

この宇宙には、波長の類似のものがあつまるという法則が存在するのでありまして、
「貧相を持続すれ貧者となり、富想を持続すれば富者となるのであります。

まず無限の富を実現するには神を《けち》な存在だと考えてはならないのであります。
神を《けち》な存在だと考えている限りは、少しく富んだら、自分は神さまから
許されている以上の「富」を欲ばっているのではなかろうか。

神さまに叱られはしないだろうかなどと考えて、せっかく無限の富が実現しつつある
途上に、その富を自己制限してしまうのであります。

すべての貧乏は神の無限供給に対し、
自己制限している結果だということができるのであります。

神の方では、実相世界の無限供給を現実界に放送していられるのですが、
われわれがそれを受信する場合、自己制限して波長を弱めてしまって、
受信しえないようにしてしまうのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月6日 頓首再拝>

清貧礼賛の心は人間を貧乏にする - 伝統

2015/05/13 (Wed) 04:14:13


          *『生命の實相』第8巻観行篇(P127~128)より

自分が豊かになるのを弱めるのに「清貧礼賛」という心もあります。
世の中には不思議な人間もあるもので、貧乏でいることを高徳であると思っている。

釈迦牟尼仏も、かつて山中を弟子と共に歩いておられた時に、弟子が谷の奥まった所に、
多分王様がかくしていたであろう金貨がざくざくとしているのを見られた。

そして、弟子たちがそれに近づこうとすると、
釈迦は「あれは毒蛇だ。近寄るとあぶない」といって避けて行かれたという話や、

キリストが富める青年から天国へ行く道を教えてくれといわれた時に、
「富める者の天国に入ることの難きことラクダの針の穴を通るが如し」と
教えられたことなどにも根拠があるのでありますが、
富んでいることを恰も罪悪のごとく思う。

そして宗教家が富んでいると、「彼は宗教家のくせに富んでいる」
などといって悪評するのであります。

しかし宗教家が富まなかったなだば、一体誰が富むのでありましょうか。
宗教家こそ常に「神の国の無限の愛と智慧と生命と創造力」に直接触れている者
なのであります。

宗教家みずから富んでみせることができないようなことでは、
その教えは空理空論であり、その信仰は実を結ばない信仰だと
いわなければならないのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月13日 頓首再拝>

神の供給は受け取る側の心の器の大小に従う - 伝統

2015/05/19 (Tue) 04:47:22


           *『生命の實相』第8巻観行篇(P128~129)より

神が無限の供給と云うことを忘れてしまい、
供給無限という唯物論的人生観にとらわれるから、
有限なものならば、世の中の他の一人が多くとれば、
その他の人々の受け取る分量が減ると云うことになるのでありますが、

供給が無限であれば、大海原から塩水をくみ取るようなものでありまして、
一人が余計に飛んだからといっても、他の人が汲み取る分量が
減るものではないのと同じです。

この場合には、大きい入れ物をもっていけば多く与えられます。
また、小さい入れ物を持っていけば少なく与えられるのであって、
私たちが受け取る分量は器の大小によります。

 
そこで無限の供給を受け取るためには、自分の心の容器を大きくしなければなりません。
心で、人間は少し余計に富んだら、天国に行けないなどというような思いや、
《けち》な神さまを否定することが必要です。

かかるしみったれな”けち”な神さまを想像することは、
神に対する冒涜だと考えなければならないのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月19日 頓首再拝>

神の広大無限なる供給力を知ること - 伝統

2015/05/25 (Mon) 04:40:17


           *『生命の實相』第8巻観行篇(P129~131)より

ごらんなさい、神はどれほどこの宇宙を豊かに造っていられるでありましょうか。
この宇宙はわれわれが測量することができないような
無量の広さをもっているのであります。

そそいて新しい太陽系統が無量に造られつつあるのであります。
われわれが住んでいる太陽系統は、その無量の太陽系統の中での
余り大きくないひとつにすぎないのであります。

その太陽系統のごく一部分である地球の上だけを眺めましても、
なんという大きなものでありましょう。その地上の神さまの箱庭には、
太平洋というのうな大きな泉水が掘ってあるのであります。

その泉水の彼方にはアメリカ大陸というような大きな島が浮かせてある。
そしてその島にはナイアガラの瀑布やヨセミテの峡谷というようなすばらしい
大仕掛な景色をもった庭園が造ってあるのであります。

この泉水のこちらにはアジア大陸という島が浮かんでをり、
その東の端に日本列島が点々と並んでいる。その日本列島の中央部には、白扇逆さまに
かかる東海の富士がその美しく壮麗なる山容をととのえて屹立しているのであります。

そして神さまは

「どうやら宇宙全体からみたら、ほんの百億万分の一にもたりない
この地球の上にあるわしの箱庭でさえ、これほど豊かに造ってあるではないか、

わしを、人間がかろうじて生活しうる以上に富んだら、嫉妬して天国へ入れてやらない
ような《けち》なものだと思っているのはまちがいじゃぞ。

太平洋の泉水の中にある魚(うお)だけでも、
人間がとってもとってもつきることがないほどに無限に造ってあるんだぞ。
ただ人間が神の智恵がたりないから自分でそれをよう採らんだけじゃないか。

迷いをはなれて神の智恵で実相をみよ。
そこにもすでに無限の供給があるのではないか」

と言われるのであります。


このように、まず貧乏人のみを愛して富者を追放するような、
《けち》な神さまを想像していた愚かさを捨てて、無限の冨をすでに与えておられる
神さまを、意識的にも、無意識的にも肯定することが、
まず「神の国の義」を心に描く第一なのであります。

そういうように神さまを寛大な恵み深き、どれだけでも供給を無限にやろうとして
おられるお父さまだと信ずることができるようになる時に、
人間は富むことの心の第一条件がそなわるのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月25日 頓首再拝>

持つ者よりも味わう者のの方が富者です - 伝統

2015/05/31 (Sun) 04:21:05


        *「真理」第4巻青年篇(P132~133)より

多くの億万長者は、「立派な画廊の建物」を自分の富める資産として所有している
かもしれませんが、実際にその画廊に展覧してある美術品の本当の美的価値を
受けっ取っているかどうか判(わ)からないのであります。

寧(むし)ろ、物質的貧しき少女、少年、青年男女の方がそこにある美術品から、
無限の価値を引出し、それを身に付けて帰るのであります。

多くの物質的富者はただの「物(もの)」の蒐集家(しゅうしゅうか)であって
価値の蒐集家ではないのである。

極端に物質的に貧しくてその日の食事にも得られない人を除いては、
普通の貧しさの境遇にいる人は、ごくたまに美術館や映画館を訪れるだけで、
それらの館(やかた)の持主の得ないところの無限の価値を携えて帰るのであります。

而(しか)も、人間は「内在の無限の富」を自覚して、自分の力を他に与えて
奉仕している限りは、決して、その日の食事に事欠くようなことは起こらないのであります。 

では、何のために「物」を蒐集するために、単なる貨幣を蒐集するために、
相争い、感情を興奮させ、日本人同士が互いに敵意を含んで挑みあわねばならない
のでしょうか。

この世界には、貨幣と、安逸と贅沢と、虚栄の他に
好ましきものが存在しないのでありましょうか。

普通は富と言えば直(すぐ)に物質的なものを想像するが、
否々(いないな)、それよりも、もっともっと尊い精神的な、
好ましき富が存在することを知らなければならないのであります。

吾々の幸福は、五官の眼に、耳に、触覚に、味覚にふれる
一時的な快感にのみ限られているのでありましょうか。
決してそうではないのであります。

もっと永続的な喜びを、生命の伸びる喜びを、あなたがそれを選びさえするならば、
何時(いつ)でもそれを得ることが出来るのであります。

             <感謝合掌 平成27年5月31日 頓首再拝>

斯くの如く諸君は既に多く有(も)ちたまう - 伝統

2015/06/07 (Sun) 04:55:14

          *「眞理」第四巻青年篇(P129~132)より

現象的に言っても、既に健全なる肉体を有(も)ち、たとい全身が健全でなくとも、
眼が健全であり、耳が健全であり、鼻が健全であり、手が健全であり、足が健全であり、
肺臓が健全であり、心臓が健全であり、胃腸が健全である者は既に大いに富める者ではないか。

また、たとい、上記のすべてが健全でなくとも、その内の一部だけでも健全であるならば、
それだけでも既に大いに富める者ではないだろうか。


「無きもの」及び「不完全なるもの」を数えあげて不平を言うこと勿れ。

それよりも、先ず既に与えられている「善きもの」を数えあげて感謝せよ。


あなたの眼が見えるならば、その眼は百万円の貨幣より高貴なる富である。
あなたの耳が聞えるならば、その耳は一千万円のダイヤモンドよりも素晴しき富である。
あなたの口から声が出るならばその口は一億円の株券よりも価値多き富である。

かくしてあなたが全身のひとつひとつの器官が驚くべき富であることに気著くならば、
あなたの富は幾千億円に数えても、なお評価しすぎたと云うことはないことを
知るでありましょう。


では、あなたは既に現象的にも無限の富者なのです。
何を迷って、地上の富のうちの最も小さき富を、紙幣で表現されたような、
くだらない富を求めるのですか。

諸君は既に大いに富める者なのである。
何のために他の人の富を羨む必要がありましょうぞ。

諸君よ、大いなる心の容器をもって、実相無限の大海から、
汝の欲するだけの富を汲みとることにしようではありませんか。

諸君は、日本橋通りや銀座通りのビルディングの持ち主になる必要はないのである。
これらの持ち主は唯(ただ)、これ、諸君の無限の富の一部を適当に保存するための
「管理人」にすぎないのである。

諸君はそんな映画館やビルディングを、重々しく自分の心の富みに背負って
歩かなければならないと云うことはないのである。

それらの持ち主、否「管理人」に、ただその管理料のごく一部にすぎない交通費を
支払えば、銀座のビル街にでも、日本橋のビル街でも、上野の博物館でも、美術館でも、
はては有楽座でも日本劇場でも歌舞伎座へでも自由に行くことも出来れば、
見ることも出来るのであります。

何を好んでみずからその管理人になったり、管財人になったりする必要がありましょうぞ。
若しこれらの建物を諸君の所有権に登記して、たといそれらをあなたの家に携えて帰る
ことが出来ると仮定しても、あなた自身は、その千分の一ほども管理することも
整理することも出来ないでしょう。

そのためには又、新たな月給を支払ってその建物を管理し掃除し整備する人を
雇わなければならないでしょう。何たる愚かなる手数であろう。

既に、あなたは無限の富をもっているのである。

あなたの周囲にあるすべての建物の中では、どうして貴方を喜ばそうかと、一所懸命
考えていてくれる人々が、資産家が、映画のプロデューサーが、歌舞伎役者が、
画家が、スターがいるのである。

あなたの前にある天を摩するような大建造物 ―― 

それは、あなたの百貨店である。
それは、あなたの劇場である。
それは、あなたの映画館である。

その全部を所有しようと思ったら、何十億円も貨幣を支払わなければならぬであろうが、
ただあなたは、その管理料として何百円かを出せば、それから得られる
一番生粋の上等の「楽しみの部分」だけを享受することが出来るのであります。

             <感謝合掌 平成27年6月7日 頓首再拝>

本当の富というものは - 伝統

2015/06/14 (Sun) 04:36:05


        *「真理」第4巻(P133~134)より

本当の富というものは、あなたの人格の高さです。
尊さです。愛の深さです。魂の味わいです。智慧の豊かさです。人情の美しさです。

これらの本当の富を失ってさえも、物質の富を貨幣の富を、得たい人が有りましょうか。
そんな人は無い筈です。
ただ彼らは、自分が何を求めているかを知らないので迷っているに過ぎません。 

若しあなたが、今沈みかかっている船に乗っていると仮定します。
そしてあなたは金貨をザクザクあなたのポケットに持っていて、
その重さの故にその船が沈みかかっているのだと仮定します。

そしてそのポッケットの中の一枚残らず捨ててしまったならばその船は沈まずに済むと仮定します。
あなたはそれでもその金貨にしがみついていますか。
もし金貨にしがみついているならば、あなたの尊い命は失われようとしているのです。

キリストは「もし全世界を得るとも生命を失うならば何の甲斐あらんや」と申されました。
其処です。あなたの愛が、あなたの人格が、あなたの魂が失われることは、
あなたの生命の失われることなのです。

全世界の物質的富を得てさえも
あなたのこの尊き生命を失ったら何の甲斐もないではありませんか。

             <感謝合掌 平成27年6月14日 頓首再拝>

神学より観たる貧困~その1 - 伝統

2015/06/21 (Sun) 04:53:12


         *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P167~169)より

  
   神いい給いけるはわれらに象(かたど)りてわれらの像(かたち)のごとくにわれら人を造り、
   これに海の魚と空の鳥と家畜と全地と地に匍(は)うところのすべての昆虫(はうもの)を
   治めしめんと神その像のごとくに人を創造(つく)りたまえり・・・

   神いい給いけるは、視よわれ全地の面(おも)にある実?(たね)のなる諸(すべ)ての草蔬(くさ)と
   核(たね)ある果実(このみ)のなる諸ての樹とをなんじらに与う、
   これはなんじらの糧となるべし。(『創世記』)


人間は本来貧しくあるようには造られていません。
貧しくあるべく造られていると思うものは造り主の愛がどれほどのものか、
その力がどれほどのものかを疑うものであります。

人間ははじめ裸でつくられてエデンの楽園におかれました。彼は裸であるから無一物でした。
しかしエデンの園には欲する物が一つとして手に入らないものはないのであります。
だから人間は裸であるけれども本来無尽蔵の富の中に置かれていたのであります。

それだのになぜ人間が、無限供給のエデンの楽園から追い出されて
「一生のあいだ労苦してその食を得」なければならなくなったかといいますと、
それは神が禁じ給いし、「善悪を知る樹」の果(み)を、蛇にだまされて食べたからであります。

すると、聖書によりますと、「彼らの目ともに開けて彼らその裸なるを知り、
すなわち無花果樹(いちじく)の葉をつづりて裳(きもの)を作れり」とあるのであります。

 
人間は神の言いつけを守らなかった ―― すなわち神をうたがった、
その時にすでに人間は本当の自己を見る目が曇ったのであります。

自己の生命は神の生命と一体であるから、知恵の果実(このみ)などで
不足を補わなくとも無限の英知を蔵しているのです。
それだのに知恵の果実を食べてもっとよけいに賢くなろうとしました。

この態度には人間が、自己に埋蔵(かく)されている無限の英知を信ずることができず、
外からの物に頼ろうとした不信があらわれているのであります。

この不信ほど人間本来無限の自己を小さく限ってしまうものはないのであります。

われわれに通じている無限供給の配水管に堰(せき)をしてしまうものは常にこの不信であります。

 
本来の人間は「知恵」においても「富」においても「生命」においても本来無尽蔵です。
それは水脈が神に通うているがために、必要に応じて汲めども汲めども水のつきぬ
井戸のようなものでありますのに、

人間は神の言葉を信ぜず、自己の無尽蔵を信ぜず、外に物を求めたがために、
その結果、自己の「裸身(はだか)」なることを見ることになったのであります。

すなわち彼は無限供給の天園(てんえん)に置かれながら、
自己に与えられたところの無限供給を見ず、自己が裸身(はだか)であること
すなわち自己が貧しき無一物であるということに気がついたのであります。

「気がつく」ということ、すなわち心で認めるということ、
これが心の法則からいえば事物を存在に入れるための第一原因となるのであって、
われらが心で認めないものは何も存在に入ることはできないのであります。

御承知のとおり英国の詩人オスカー・ワイルドは
「ロンドンの霧は詩人がそれを歌うまでは存在しなかった」といっているのであります。

倉田百三氏も「自己に眼瞼(まぶた)があると気がついたために、目をつぶると、
どうしても自分の眼瞼の裏が目に見えて眠られないで不眠症になった」と告白しておられます。
 

このように人間というものはエデンの楽園の無限供給に気がついている間は
無限に富んでいるのでありますが、自身の裸(はだか)に気がつけば、
気がついただけの程度に貧しくなるのであります。

             <感謝合掌 平成27年6月21日 頓首再拝>

神学より観たる貧困~その2 - 伝統

2015/06/22 (Mon) 05:09:21


         *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P169~171)より

 
だから、富もうと思う者は人間に本来与えられている無限の供給に気がつかねばなりません。
シェイクスピアは「身体を富ましめるものは心なり」('Tis the mind that makes the body rich.)
といっていますが、さすがに彼は霊感的作者だといわねばなりません。

近代「新思想(ニュー・ソート)」の霊感的執筆者中の随一人なるマーデン博士は
ニューヨークのある大繁昌をしている店の事務所を訪れた時、一つの標語が書いてあったのを見て
その店が繁昌する理由をなるほどと感心したといっていられます。それには、

 「われらはわが家の繁昌のみをここで語る」

と麗々しく書いてあったのであります。

 
語るものは皆出てくる。
これは言葉の創造力です。
これが存在の法則であります。

言葉に出していう時、必ず心は影響を受けます。
そして心に常に思っているとおりに、その人の運命は造られるのです。

言葉は神であることを知らねばなりません。
そして三界は唯心の現われであることを知らねばなりません。

貧しい人々は常に自己の貧しさを呟(つぶや)きがちですが、
それはますます言葉の力で自己を貧しくするにすぎません。

今日(きょう)からわれわれはいっさい自己の貧しいことを口にしないでいましょう。
そして、貧しい遣る瀬ない窮乏感に襲われて来たならば、静かに別室に退いて「神想観」をして
精神を統一し、

「神とわれとは一体である。神はすべてのものをもち給う。
神のもち給うものをわれもまたもつのである。
すべての物はわれに与えられているから自分は貧しくはないのである」

という意味の言葉を強く強く自己に自信のできるまで思念せられるがよいのであります。

毎日一定時間静坐して自分の心にこのことを強く強く刻みつけるための修行
「神想観」については後に詳しく書いてあります。

わたしがこのことを説いた時に、
ある人はわたしのことをドン・キホーテ式の空想家だと評しました。

しかしこのことをわたしのすすめたとおりに正直に実行している多数の人は現に今相当の
くらしをしていられますし、会社の整理のあった時にも首にならずに済んだ人もあり、
たとい全体の会社の事情として馘首(かくしゅ)せられましても、
それがいっそうその人の運命が好転すべき一転機となっているのであります。

就職難が突破できないとか、冗員淘汰(じょういんとうた)で首になるとかいいますけれども、
それはみな心の問題であります。

人間は現実に富む前に、まず「心」が富まねばなりません。
諸君も知っていられるとおり心が富んでいる人は対談していてもなんとなく人を引きつけます。

人を引きつける人は成功する人でありますが、
人を引きつけない人は就職試験でハネられる人か、冗員淘汰で首になる人であります。

 
皆さんは御承知でしょうが、繁昌している商店にはよく稲荷さんが祀ってあります。
そしてよく紅(あか)いちょうちんに「寿福円満」とか「商売繁昌無病息災」などと書いてあります。

             <感謝合掌 平成27年6月22日 頓首再拝>

神学より観たる貧困~その3 - 伝統

2015/06/23 (Tue) 04:54:43


         *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P171~174)より

一知半解な神学者は神は神聖であって我欲のために祈るべきではないといいます。
また科学者はそれを一がいに迷信だといってけなします。

しかしそういってけなす人の方が心の法則から見れば神学迷信とか、
科学迷信とかにとらわれているのであります。

なぜかといいますと、これを心理学的に観ますと、
毎日、神前に坐して宣詞(のりと)なりお経なりを読めばおのずから精神統一ができます。

その時目を引くような紅い提灯に「商売繁昌」と書いてあるのを見るならば、
心に常に自家の「商売繁昌」を念(おも)っていることになり、宇宙に漂っている「商売繁昌」の
精神波動を受けることにもなり、

両方相まって、それが容貌や態度や応接ぶりなどにも影響して、
人の気受(きう)けがよくなり、自己の自信力もでき、
したがって本当に商売が繁昌するようになるのであります。

毎日稲荷さんの前にぶらさげた「商売繁昌」と書いた提灯を眺めているのは、
ニューヨークの大商店の事務所に「われらはわが家の繁昌のみをここで語る」と
麗々しく書いて眺めているのと効果においては好一対であります。

 
これとは反対に、常に自己が貧しいことを人につぶやいている人は、
常に自己の心のうちに貧困が刻みつけられて、容貌がなんとなく貧乏相になります。

新聞に求人の広告が出ているからとて、そんな人が往ってもそんな人を雇っては
店が繁昌しそうでないので断られがちでありましょうし、またそんな人は
自己の心を顧みないで他を恨み怒り憎むようにもなりましょう。

人間が自己を顧みず、自己のおちどを他人のセイにして恨んだり怒ったり憎んだり
しているようでは発達しませんし、発達しない人は落後するほかはないのであります。
すなわち不成功に終るのであります。

 
人間は希望をいだいて勉強し積極的に精力を使うようにすればふつうの人の2、3倍働いても
疲れませんが、恨んだり怒ったり憎んだりして消極的に精力をつかうから、
積極的に進歩する以上の精力を費しながら結局なんの効果もあがらなくなり、

その結果、自分の心にますます自己の不遇を印象し、自分の雰囲気を毒し、人相を悪くし、
その結果いよいよ現実的にも不遇から浮かび上がることができなくなるばかりであります。

 
貧困になやむ人は他を怨んだり憎んだりするよりも、
まず自己の心を顧みることから始めねばなりません。

自分の心が自己の無限力を小さくしていないか、
いくらでもはいって来るべき供給をじゃまするようなことをしていないか。
これを顧みることであります。

 
心の無限力をみとめず、自己の境遇を他人の掠奪の結果だとする経済観には
「生長の家」は賛成できません。

 
われわれの立場は本源の世界すなわち心の世界から貧困を癒そうとするのであって、
本源に貧困の原因をそのままにしておいて、末流に小細工や膏薬貼りをしようとする
のではないのであります。

心から貧困の原因を取り去らないでおきながら、暴力で富める者から掠奪して貧者を富ませても、
その人の心に貧困の原因が存在している限り、掠奪した物資を使い果たしてしまったら
すぐまたその人は貧乏に帰ります。

だから最も大切なのは心であって物ではありません。

             <感謝合掌 平成27年6月23日 頓首再拝>

心と服装との相関作用 - 伝統

2015/06/30 (Tue) 05:06:36


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P174~181)より

ここでわたしは、「心」と「形」との相関的作用を述べたいと思います。
ほかの宗教では極端に服装の質素を強要するような戒律もありますけれども、
「生長の家」は生命の生長にふさわしい服装であれば、どんな服装でもよいのであります。

かならずしも豊かな美しい服装を排斥しないのでありまして、
服装の価値と不価値とはそれが自己の生長または向上に役立つかどうかによって
きまるのであります。それで思い出されるのはナポレオンの逸話であります。

ある時ナポレオン将軍のところへ伝令が馬に乗って
大いそぎで戦線から報告書をたずさえてきたことがあります。

あまりに急速に馬を走らせたので、伝令がナポレオン将軍のところへ着くと間もなく、
馬は心臓麻痺でたおれてしまった。

ナポレオンは戦線の司令へあてた返事を秘書にしたためさせると、
やおらその伝令にむかって、「この馬に乗って全速力でこの返事を持って行け」
と命じました。

この馬というのはナポレオンの秘蔵する名馬でした。
 
伝令はビックリしてナポレオン将軍の顔をうかがいながら

「閣下、わたしは一兵卒にすぎません。閣下の御乗馬のような
立派なお馬に乗りましたら罰があたります」

と身体(からだ)を固くして気をつけの姿勢で答えました。

この時ナポレオン将軍は

「貴様、フランスの軍人にとって、
立派すぎるというものはどこにもないぞ!」

と一喝したそうであります。

諸君はこの憐れなる伝令の一兵卒についてどうお考えになるでありましょうか? 
世界には実際この憐れな一兵卒のように考えている人間が非常に多いのであります。

 ―― 自分のような人間には、こんな服装はもったいなさすぎる。
もっともっと貧しいみすぼらしい服装こそ自分を包むにふさわしいのであるといって、
人から見て不快がられるような服装を強いてしているような人もありますが、

「生長の家」はそのような自己縮小的な消極的な生活者に対して、
ナポレオン将軍がしたと同じように、
「あなたよ、神の子たるあなたには立派すぎるという服装はどこにもありませんよ」
と言明したのであります。

『生命の實相』全集第四巻生活篇に、わたしは「鏡をみて幸福の表情をして笑う方法」を
説明してこれによって病気がなおり、運命が開けてくるということを書いていますが、

それは表情の印象力を応用して自身の心を生き生きとさし、気分を晴れやかにし、
血行をよくし、接する人々を愉快ならしめる心理学応用の生活法でありますが、

わたしがここにいおうとするのは服装のもつ印象力を利用して、
自己の性格を改善し、自信力を増進し、接する人ごとに尊敬の念を起こさしめ、
結局、自身の境遇と運命とを良化するところの「生長の家」式生活法であります。

 
最近わたしはある父(てて)無しの赤ん坊がかなりの富豪のところへ養女として
もらわれていったときの話をきいたが、仲介に立った人が、
「赤ん坊はそんなに容貌は良くありません」といったら、

もらう家の夫人は平然として「いくら醜くてもかまいません。美人に育てますから」と
自信をもって答えたということであります。わたしはそのときこの美人に育てるという言葉に
非常に興味を覚えたのであります。


諸君は良家の教養ある子女が、目鼻立ちのよくととのった貧家の子女よりも
よっぽど醜い顔の道具をもっていながら、かえってどことなく奥ゆかしい美人らしく
見える事実にいくたびも接しられたことがあるだろうと思います。

彼女らのごときは、生まれつきの目鼻立ちはさほど良くはないが
美人に育てられた娘に属するといってよいでありましょう。
 

周囲の人々の愛撫の仕方や、境遇の匂いや、服装の色彩や、その家庭に漂っている
なんとなくゆったりとした気分空気が、その娘の心にしみ込み、
娘の心は娘の容貌となってあらわれてくるのであります。

何事でも心がもとですから、その心をゆたかにのびのびと明かるくする服装をする
ということは必要なのであります。

 
あなたの心をゆたかならしめ、これを生長さす方法なら、
どんな方法でも惜しまずに行なうがよいのであります。

あなたとは「心」であって「心」のほかにはあなたはないのだからであります。
窮屈に、何事でも、服装でも、これでなければならぬと凝り固まるのはいけないのであります。

 
わたしがここに「服装の威力」を説くからといって、
それは何も必ず華美なきらびやかな服装をせよというのではありません。

それは自己の職業または生活に応じて勝利者としての自覚を強める服装
でありさえすればよいのであります。
 
徳高き高僧はただ一枚の墨染めの衣をまとうことによって、
自己が色香の世界にまどわされない高きさとりの境涯にいるという
勝利者としての自覚を強めるのであります。
 
一燈園の西田天香氏のような霊界の偉人は、そのただ一枚の紺の筒袖をまとうことによって、
「われ世に勝てり」の氏の自覚をかえってつよめることができたのであります。

 
およそ人にはいろいろの天分と、それが開発される時期とがありまして、
一枚の破衣に勝利感を味わう時期もあれば、豪奢なる調度服装に勝利感を味わう時代もあります。

またある人々は容貌の秀麗さとそれを引き立てる美しい衣服に勝利感を味わいますが、
われわれが中学時代には制帽のシンを抜いてヘナヘナな形のくずれた帽子をかむること
によって勝利感を味わったものであります。


だから「生長の家」ではどんな服装にしなければ
勝利者としての自覚が得られないなどとしゃくし定規な事はいわないのであります。

ただわれらは常に「われ勝利者なり」という自覚を得るの助けとなるような服装を
しなければならぬと教えるのであります。

なぜなら「われ勝利者なり」という自覚が心にあってのみ、
はじめてわれらの生長はのびのびと行なわれるからであります。

何よりもまず心でありまして、心に成功感があってその人は成功し、
心に勝利感があつてその人は勝利し、心に生長感があってその人は生長するのであります。


人生はたとえていえば「心」という役者が演ずる舞台であります。

成功したい者はすでに成功者であるかのように演出し、
高徳者になりたい者はすでに高僧であるかのように演出し、
健康になりたい者はすでに健康であるかのように眉をのばし、

役者がある人物を舞台で演ずるように、
心から自分のなりたいと思う人物になりきって人生という舞台で演出するとき、
その人の「心」は人生でそれを形に現わすことをうるにいたるのであります。

そして服装はこの演出のさいの気分を助ける一要素となるものでありますから、
経済的に成功しようとする者は、それにふさわしい衣装を着て人生の舞台に出るべきであります。

次に掲げる実話は生活様式は心を支配し、心は成功を支配する実例として興味あるものです。


今は米国財界に時めく千万長者の某氏は、
長いあいだ自分の貧困を脱することができなかったのでありますが、
ある日ふと自分の読んだ本に「貧乏とは心の病気」だということが書いてあるのを見出して
「コレだ。自分がいつまでも貧しいのは。今日からぜんぜん生活をやり直そう」
と豁然(かつぜん)さとったのであります。

氏は今まで「自分は貧乏だからできるだけシマツをしなければならない」と、
一挙手一投足「自分は貧乏だから」を前提とした生活を送っていたために骨の髄まで
心のうちに貧乏の感じがしみとおっている自分を笑いたくなった。

氏はそれ以来毎日

「おれは貧乏ではないぞ。心で富を呼び寄せるのだ。
貧乏という観念(こころのたね)をおれはもう自分の心から駆逐した。
自分は神の子だ。神は無限供給だから、神のもちたまうすべては自分に与えられているのだ。

自分は無尽蔵の富を与えられているのだ。
その自分を貧しいと思っていたのは自分のまちがいだったのだ。
欲しいものはすべて今後は磁石に吸い寄せられるように自分のところへ集まってくるのだ。
恐れることはない。今現にきつつあるのだ」

と、公園をひとりで散歩するとき、就寝前の静かなる時などに、
耳に聞こえるほどの声で、自分自身に強くはっきりと断定的にいって聞かすことにした。

つまり、これは後に説く「自己暗示法」であって、言葉の力の応用であります。
氏はしだいに成功に対する自信を得てきて、今まで心に横たわっていた貧乏の恐怖は消失しました。

今たとい貧しくあろうとも、それは氏にとって消えるべく約束されたる
過去の貧しい心の影にすぎないということがさとれたのです。

未来には現在心にもっているところの無限供給の確信が形にあらわれてくるに相違ない
という自信が強くムクムクと心の底から湧いてきたのであります。

 
で、氏の生活様式も一変しました。
 
今まで、氏は何事をするにも「自分は貧乏だから」を前提としていた。

食事をとる時には、できるだけ安価な食事をとったし、
数マイルのところへ通うにも、自分は貧乏だからとテクついたし、
あらゆる生活様式がお前は貧乏だぞと氏の耳元で囁(ささや)いていたのでした。

しかし氏は新しい勇気にかられて生活様式全体で、
自分の富めることを印象(しみ)こませようとした。

彼はふところの許す限り良い食事をとりました。
一流の喫茶店でコーヒーをすするとき、悠揚とその柔かいソファに身体をもたせかけながら
「われ富めり」という感じをたましいの底の底まで吸い込むようにしました。

彼は今までの見るからに見すぼらしい乞食のような靴や帽子や洋服を捨てて、
かなり紳士らしい服装を身にまとうことにしました。
住宅も引っ越した。

氏は「類は類を招(よ)ぶ」という真理にしたがって、
できるだけ知名の富める人々と交際しはじめました。

すると、そこから氏の運命はひとりでにひらけてきました。
 
氏の快活な挙動、紳士らしい服装、自信のある態度は
人々に氏を信用ある人物と認めしめるようになったのであります。
 
氏はついにある人から大事業を託されるにいたり、
それが氏の今日千万長者たる端緒になったのであります。


金銭的成功を名誉ともなんとも思っていない本書の多数読者には、
この話は大した興味をそそらないかもしれません。

が、この実例によっても、境遇でも運命でも、
自分の心の変化でどうにでも自由にできるという例証にはなろうと思います。

心が一切の元であるから、境遇でも運命でも心しだいで思うとおりにねじ曲げられる
―― という真理を「生長の家」が発見したということはただ富だけの問題ではない。
健康だけの問題ではない。

もっと深い問題、
人間の無限性、人間の自由性が悟られるので尊いのであります。

             <感謝合掌 平成27年6月30日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その1 - 伝統

2015/07/08 (Wed) 03:12:03


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P181~184)より

考えてみますに、われわれは神の子であって無限の神の供給源から養われているのであります
から、われわれに与えられている能力にしましても、健康にしましても、各個人の富にしましても、
それは決して有限のところから取ってくるのではないのであります。

仮にわたしが能力を増して2人前3人前の仕事がひとりでできるようになったとしましても、
わたしは無限の大生命からわたしの能力を汲んでくるのでありまして、そのために、
それだけのほかの人の能力が減るというわけのものではありません。

また仮にわたしが健康を2倍ほども増進しましたからといって、
わたしはひとの健康を横どりしてくるのでもありません。
わたしが健康すぎたからとて、ひとがそれだけ病気になるわけのものでもありません。

これはちょっと考えるとなんでもないことでありますが、
しかもそのなんでもないところに不思議な真理があるのであります。

能力とか健康とかいうものが宇宙に一定の分量しかないものならば、わたしが能力や健康を
増せば増すほどほかの人の能力や健康がそれだけ減るべきはずでありますが、別にそれが
減らないのですから、宇宙にある能力や健康の分量は無限だと考えるほかはないのであります。

そうするとわたしたちは能力や健康をどこからいただいてくるかと申しますと、
無限の生命の大海からいただいてくると考えるより仕方がありません。
 
そこでわたしたちは「無限」というものにつながっているということが解るのであります。

 ―― ここが実に大切なところであります。こうしてわたしたちの生命力は自分だけのもの
でない、有限のものではない。無限の大生命につながっているということがわかってきますと、
非常に自分の「生命」が結構な貴いものだと解ってくるのであります。

「生長の家」で「人間はみんな神の子だ」とか「無量寿仏の子だ」とか申しますのは
こんなところからもわかるのであります。

能力や健康はこのようにいくら自分のものをふやしましても、
人のものを減らしはしないのでありますが、これが富の問題になってきますと、
そう簡単に片づけることができなくなります。

世のなかには一人の者が富んで繁昌すればするほど残りの多勢の者が貧乏するようになっている
と考えている人がかなりあるようです。こう考えている人がありますので、
「富の分配の公平」という事が経済界に重大な問題となっているのであります。

資本家がよけいとれば勤労者は貧乏する、勤労者がよけいとれば資本家の収入が減る、
と互いに血まなこになって騒ぎまわっているしだいで、
これでは実に窮屈な世の中だといわねばなりません。

むろんこの窮屈な考え方は一つの生産会社などについていえば真理であります。

それは会社からあがる利益などというものは有限なものであって、
その有限なものをある人数に分配するということになりますと、
一人がよけいとれば他の人たちに分配する分量が減るのは当り前だからであります。

しかしこれは「富」というものをただ会社という有限な物に引っかかって考えるから
こんな窮屈なことになるのでありまして、われわれの富は何も会社からばかりくるものだ
と考える必要はないのであります。

富はわれわれが無限の供給――すなわち神――と離れない限り、
どこからでも必要に応じてやってくるものであります。
「生長の家」ではこう考えるのであります。

今、わたしは「神と離れる」という言葉を使いましたが、
神は宇宙のどこにでも満ちていられますので、本当に神と離れるということは
実際上できないことではありますが、

たとい神のみふところに抱かれていましても、そこに吸うに応じて無限にでてくる
栄養の多いお乳が鼻先にありましても、それに気がつかないで、どこかほかに
牛乳のびんでもないかとさがしている間は神と離れているのも同じであります。

             <感謝合掌 平成27年7月8日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その2 - 伝統

2015/07/16 (Thu) 04:41:21


     *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P184~185)より

「生長の家」ではたびたび申す言葉でありますが、
世のなかには心で認めたものだけが存在に入るのですから、
無限の供給であるところの神さまに気がつかず、

有限な会社の利益の分け前ということばかりに心が引っかかって、
できるだけ多くその分け前にありつこうと思って争っているような人たちは、
いだかれている神さまのみふところの乳房に気がつかずに、

有限な牛乳びんの中から、自分のコップに注がれた牛乳が少ないとか多いとか
いい争っているようなもので、生活難、就職難、馘首(くびきり)恐怖などの
大化け小化けが幻覚(まぼろし)の夢になって襲ってくるのもむりはありません。

しかし、何もわれわれは行き詰まってきた今までの生産会社とか、
その他なんでも有限な生産の資源しかないものに強いて引っかかって
その利益の分け前ばかりを争っている必要はないのでありまして、

行き詰まらない無限の供給 ―― すなわち神様 ―― と直接取り引きをひらいて
新しい方面の事業を授かるようにすればよいのであります。

これは、資本家の方でその気になりさえすれば、
どのようにでも道がひらけてくるのでありまして、
そこは心しだいで、神さまが道をひらいてくださるのであります。

そうすれば現在多くある失業者も就職口ができることになり、
こんなけっこうなことはないのであります。

 
新事業を起こすといっても、新会社をこしらえるといっても、
この不景気ではしようがないという人があるかもしれません。

しかしこの不景気というものは、新事業を起こさないで、今までの事業の種類だけで
互いに利益を争ったり、もう既成産業は膨脹するだけ膨脹しきっていて、
これ以上産額をふやしても買い手がないので、

職工を解雇でもして人員をへらし、操業短縮でもするよりほかに道はないような状態で
ありますのに、雇われたい人間の数はますますふえて行くために起こるのでありまして、

不景気だといって新しい方面に事業を開拓せず、緊縮だ節約だといって、
人類の兄弟がせっかくつくってくれたものを使わないようにするために、
つくってくれたものは売れない。

売れないから会社は今後つくる必要はない、つくる必要がないから、
職工でも社員でも新たに雇い入れるどころか、かえって減らさねばならぬ ――

だからとうとうたる失業者の洪水などという恐しい新聞の標題(みだし)が
でてくるのもむりはありません。

考えてもごらんなさい、今後5年間、日本国中の人間が節約だといって
米と野菜のほか何も買わないことにしましたらどうなるでしょうか。
実に恐しい結果になります。
 
あらゆる会社という会社、あらゆる工場という工場、米屋と八百屋以外の
あらゆる商店という商店、これらはみんな失業者になってしまわねばなりません。

どうもこれでは節約というものが道徳的にも経済的にも善い
ということはできないのであります。

             <感謝合掌 平成27年7月16日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その3 - 伝統

2015/07/23 (Thu) 04:48:40


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P186~189)より

がんらい、人類の兄弟がせっかくつくってくれた品物を、
金を出すのが惜しいといって使わぬということが善いはずはない。

節約が美徳だというのは、ものがたらぬ場合に、それを自分ばかりがあまり使っては、
ほかの人がそれを使いたくとも使えなくなる場合に、自分は使いたいのを我慢して
兄弟にその品物を譲るという意味において尊い愛のあらわれと見ることができたからであります。

つまり節約とは物を使い惜しみをするのが貴いのではなく、
兄弟に譲るという愛の行為として貴いのであります。

ところがこのごろの節約は品物は生産過剰で有り余っている。
何も自分が金を出して買って使用したからとて、
ほかの使いたい人が使えないで困るというようなことはない。

かえってその品物に払った金の一部は社員や職工のふところにも廻りますし、
会社も引き合うし、社員や職工も解雇されずにすむのであります。


わたしは節約が美徳だというのはものがたらぬ場合に、それをあまり自分ばかり使っては、
ほかの人がそれを使えなくなる場合に、その品物を兄弟に譲るという意味において
尊い愛のあらわれと見ることができるからであると申しました。

すなわちその品物が足らぬからよけい使っては、ひとの迷惑になるから節約する
ということが美徳となるのでありまして、たらぬという前提がなければ、
節約が美徳だということは成り立たないのであります。

自分が使っても他の人が使うのになんのさしつかえもなく、人々の用にたりさえすれば、
兄弟のせっかくつくってくれたもの、神がせっかく与えてくださったものは、
喜んでありがたく使うようにすればよいのであります。


ところが宇宙総体からいって物がたらぬということを
「生長の家」ではみとめないのであります。

科学の方でも、「物質不滅則」という法則がありますが、
いくらわれわれが使っても物質はなくなってしまわない。

何か別の形になって残っていて、
ある方法を加えればまたもとの姿になって帰ってくるのであります。


なるほど、何か一つのものについていえば、それはたりなくなることはあります。
しかし何もわれわれはその一つのものに引っかかっている必要はないのでありまして、
その一つが足りなくなったならば何か代りになるものは必ず与えられるのであります。

たとえば欧州大戦のときにドイツでは非常に食料が欠乏して困った。
しかしその結果ドイツ人は人造肉といって酵母を繁殖させてたべることを考えついた。

なるほどこれなら実に狭い面積で多量の食物が得られます。
田地などにくらべると数十倍も収穫量があります。
それに夏でも冬でも四季かまわずいつでも繁殖するのですから大したものであります。

栄養の点からいってもほとんど肉類と大差のない成分を有していまして、
しかも肉類に欠乏しているビタミンなども豊富に含んでいますので、
実に健康食としてのあらゆる要素を完備しているという批評でありました。


こういうように人間は何か一つ必要なものが足りなくなれば、
それにかわるほかのものは必ず与えられるのであります。

むろんこの世の中には一つとしてまったく同じ品物はありませんから、
ただ一つのものにこだわっている限りは、どんな金持でも欲しいものは得られません。

千万長者がわたしのもっている万年筆と同じ万年筆をもう一本欲しいといっても、
まったく一分一厘もちがわぬ同じものは、どこをさがしても見つかるはずがありませんから、
この一つのものに心が引っかかっている限りは、どんな金持でも貧乏人と同じことで
二進も三進もゆかないのであります。

ところが同じものでなくとも代りのものでもよい、同じ役にさえ立てばよいのだ
ということになりますと、そこから道がひらけてくるのであります。

 
このことは資本家側でも雇われる者の側からいっても同じことでありまして、
今日の不景気は生産者側からいえば、資本家が特定の会社の利益に心が引っかかって
いるから、その会社の利益のあがり高がわるくなると、職工を解雇するとか、
操業を短縮するとか、減給するとか、ものを消極的に消極的に運ぼうとするから
起こったのであります。

 
人は節約といえば美徳のように考え、職工や労働者を解雇するといえば、
その雇い主をいかにも没義道な不徳漢のように思いますが、
それは大いに考え方が違っていると思います。

節約するということは職工や労働者が労力を出して造ってくれた
品物を使わないことにするのでありますから、結局、職工や労画者の力を
使わないようにすることであります。

そしてまた解雇するということも職工や労働者の力は使わないようにすることでありますから、
節約と解雇とは結局同じものを二様にいっているにすぎないのであります。

この社会の実情に照らしてみましても、節約宣伝が行なわれるようになってから
解雇者や失業者がふえてきたのは事実であります。

これはつまり、「物」を節約するのは「人間」の力を利用することを節約するのと
同じことであるからであります。

             <感謝合掌 平成27年7月23日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その4 - 伝統

2015/07/31 (Fri) 03:35:36


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P189~190)より

これを消費者側からいいますと、
信仰心の深い人は「もったいない」ということをよくいわれますが、
なんでも買わず使わずに不自由をがまんして窮屈な生活をしている方があります。

「生長の家」ではそんな節約ぶりには大反対であります。

どんなものでも元は神さまが作ってくださったのだからもったいない
 ―― そのところまでは同じでありますが、次は異(ちが)います。

わたくしどもでは、つかわないではもったいないから
できるだけ生かして使えというのであります。

与えられていないものまでを無理をして使うのはいけませんが、
与えられているものを生かさない節約は人類の敵であります。

われわれが生命力を出して仕事をした。
その仕事をだれも使ってくれなくてはその努力が生きて来ません。

物を生かして使うということは、
人がそれをつくるために注いでくれた生命を生かすということになります。

この世は持ちつ持たれつの世のなかでありますから、
人の注いだ生命を生かすことは自分の生命を生長向上発展さすことになるのであります。

だから「生長の家」では買うことを節約せよとはいいません。
買うて生かせというのであります。
 
大いに生かすためには大いに買わねばなりません。
こうしますと購買力はふえ、製造会社や販売店の収入が増加し、
職工も社員も店員もその収入が増加し、したがってますます購買力がふえ、
新事業の計画もなんらの危険なく行なうことができ、
したがってあとからあとから増加する人間の職業にも道がひらけてくるのであります。

こうなれば就職難も会社のつぶれる心配もないのであります。
生産者側からいっても消費者側からいっても
消極と積極とではこうも異ってくるのであります。

             <感謝合掌 平成27年7月31日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その5 - 伝統

2015/08/07 (Fri) 04:36:41


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P190~192)より

人は「寄付」行為の美徳を説きますが、
買うということは、観方によれば一つの「寄付」であります。

金をあるところから無い方へ寄付して、
そのかわり物をあるところから無い方へ廻してもらうのであります。

この有るところから無いところへ廻すということが一つの愛の行為でありまして、
人間の美徳の一つであり、これによって経済界が円滑に循環して行くのであります。

しかも「買う」ということは、
単に「寄付」するということよりもいっそうの美徳であります。

寄付するということは、働かぬ者にでも、なまけてずるい者にでも
与えることになる場合があるのでありますが、

「買う」ということは、働きという尊い生命活動に価いを支払い、
次の生命活動を起こすだけの養いと勇気とを与えることになるので、
いっそう尊いのであります。

 
金は使ったら減るから使うのはもったいない、というように、ふつう考えられていますが、
わたしの考えでは、金は使っても持っている人が変わるだけで世界のどこかには必ず
合計すれば同じだけの金がある。

だから、宇宙経済の上から少しももったいないことはない。

しかもその効用の上からいえば、金は使えばつかうほどふえるのであります。
つまり同じだけの金の分量しかなくともその社会に循環する回転率が増えるからです。

十円の金でも世間をグルグル廻って1ヵ月に十ぺん自分の手に戻っては出て行くと
百円に生かしてつかうことができます。

それを手許に死蔵しておきますと十円が十円だけの値打ちもない、
なんにも利用できないことになるのであります。

 
しかし金を使って帰ってくるのならだれだって使いたいが、
使えばなかなか帰って来ないので万一の時に貯蓄しておくことが必要だという人があります。
これが世間の一般的な考え方であります。

「生長の家」では「心の法則」ということを常に申しまして、
身体は心で思うようになるというのでありますが、
経済界も心で思うようになるのであります。

「金は使ったらなかなか帰って来るものでない」と一般の人が固く心で思っている。
だから自分の手許へ金がはいってきたが最後、金輪際出すまいとがんばります。
まちがった道徳家はそれを節約の美徳だとして推賞します。

そこで流通と循環とが本体であるべき経済界に、
金の流れをじゃまする詰まったところがあちらにもこちらにもできてきます。

節約だといって、大金持までが金をたんまりと持っていながら雇い人を解雇したり、
人の作ったものを買わなくなったりします。

こうなると、経済界は不景気になって出した金がなかなか手許に帰って来なくなります。

すなわち心で思ったとおりになったのでありまして、
実際の不景気が先に起こるのでなく心に起こった不景気が、
つぎに形をあらわしたので、経済界も心のままになるのであります。

             <感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>

富の無限供給と循環~その6 - 伝統

2015/08/14 (Fri) 04:11:38


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P192~195)より

現在社会問題として富の分配ということが問題となっているのは、
富が一方に片寄っているからであります。

富がありすぎるところには山のように積まれているのに、
無いところには今日のパンにもさしつかえる。

これではいけないから富豪に対抗するためにプロレタリアが連合して、
今日の経済制度というものをもっとよいものにしなければならぬという。

なるほどこれも一つの対症療法であります。
 
これは身体(からだ)にたとえると、
頭に血がのぼせているから頭を冷やせというのと同じであります。
しかし血を頭にのぼらせぬように根本からすれば冷やす必要はないのであります。
 
なぜあたまに血がのぼるかというと血の循環が悪く一箇所にたまっているからであります。
一箇所に血がたまらぬようにすれば冷やす必要もない、
そんな対症療法も必要でなくなるのであります。

 
経済界もこれと同じことでありまして、
財を一箇所に停滞せしめないように根本からすれば問題はないのであります。

なんでも一箇所に「積む」ということはよろしくない。
これを日本人は太古(むかし)はよく知っていた。
だから古代日本人は「罪」を「積む」という言葉と同じ語源から作ったのであります。

ところがたぶん外国からでありましょう、「節約」という言葉が輸入されて来ました。
これを日本語では「しまつ」といいます。

「しまつ」というのは「しまる」ことすなわち「引きしめる」ことでありまして、
出口をくくってしまうことであります。
出口をくくってしまうから財が循環できなくなる。

循環しないで一少部分の人間のところに富が蓄積するから、
ここに近代の資本主義経済組織ができあがったのであります。


マルクスは唯物史観を説きますが、「生長の家」は唯心史観であります。
近代の経済組織は節約しなければ万一のために困ることが起こる、
という人間の恐怖心が原動力となって築かれたと観るのであります。

この恐怖心がもとになって富が一部に蓄積され、
有無相通ずる流通が完全に行なわれないために、貧富の懸隔がますますはげしくなり、
資本家が無資産家を脅かすようになったのであります。

だから、この不完全な経済組織を改造するには、
何も制度そのものに斧鉞(ふえつ)を加えるにはおよばない。

人間の心からこの恐怖心をとり去り、財をわれわれは蓄積しないでも、
われわれの生活になくてならぬものは必ず神が与え給う

 ―― 換言すれば無尽蔵の大生命から与えられる ―― という大信念を人間に与える
ようにすればよいので、こうすれば財がある一箇所に片寄って有るという奇形な状態は
なくなって、全体の人間に平等に富が循環するようになるというのであります。

 
本来、神につくられ、神に生かされ、無限供給の神と一体であるところの人間が、
みすぼらしくもその日のパンに困ったり、職業が得られなかったり、
免職される心配でふるえておらねばならなかったりするのは、実に不合理な話でありまして、
どこかにきっとまちがいがあって、無限供給の配水管に栓がされているに相違ないのであります。

このまちがいさえ無くすれば人間は無限供給の泉にふれて、
直接その無尽蔵の供給を受けることができるに違いないのであります。

このまちがいというのがなんであるかといいますと、
神の無限供給性を自覚しないことであります。


さきにもいいましたように、人間は本来貧しくあるようには造られていないのであります。
ケチケチせねばならぬようには造られてはいないのであります。
これが「生長の家」の信念であります。

みんな人間は無尽蔵に善いものが充ち満ちているエデンの楽園にすんでいるのでありますが、
いろいろ受けるところに相異があるのは、心だけのものを受けるからであります。

心という器(うつわ)が小さければ少ししか盛ることができないのであります。
心という器が大きい者は多くを得ることができるのです。

聖書に「少なくもてる者はなおうばわれ、多くもてる者はなお与えらる」という
言葉がありますが、この心の法則をいったものでありましょう。

だから心という器を大きくし、富想(ふうそう)を持続するようにしさえすれば、
われわれは欲する事物を自分のところへ呼び寄せることができるのであります。

心を大きくするには、神すなわち無限供給者、無限英知者、無限能力者、無限生命者と
一体であるとの自覚を深めることにまさるものはありません。

かくして無限供給者なる神にわれわれが精神を集中するとき、
同波長のものを呼び寄せる原理に従って、霊知的活動または霊知的微粒子体で互いに
交流して、想念のうちに描いた富を実現することができるのであります。


             <感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法 - 伝統

2015/08/22 (Sat) 05:02:11


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P195~197)より

記者 ―― 実は光明思想による事業経営の問題で、ぜひあなたの御意見をうかがいたいと
      思いまして、ちょっとお騒がせ申したわけです。

      全世界はあなたが、世界最大の工場の一つーフォードの大自動車工場の創立者だった
      ことを知っています。僕は若い時には資本も何もないほとんど無一物だったあなたが、
      これだけの事業を成就したのには驚嘆せずにはいられません。

      その秘訣をうけたまわりたくってまいったのですが。


フォード
   ―― 失礼ですがちょっとちがいます。
      君は僕がそのとき「ほとんど無一物」だったとおっしゃるが、正しいとはいえません。
      誰でもあらゆる物をもって出発する。すべてがわがうちにあるんですからな。

記者 ―― まったくです。僕はその言葉を聞きたかったのです。
      あなたがこれだけの仕事をし、これだけ偉大な人類への貢献をするのに要るだけの
      巨富を集めたその力は、「すでに自己の内に無限の富がある」というあなたの自覚です。

      しかもあなたは、あなたの冨を少しも重大視していない。
      そこがあなたのえらいところだと思っているんです。

フォード
   ―― そうですとも。富は仕事をする道具でそのほかのなんでもない。
      富は炉に投げ込む燃料とか、機械を廻すベルトとかいうふうなもので
      ―― 目的に達するためのただの手段なんです。


《心の不思議な力》

記者 ―― ところで光明思想はアメリカのでも日本のでも、それをつらぬいている精神は、
      あなたもいつかおっしゃったとおり

      「信じて自分自身を偉大なる者だと思い、必ずこうだと思えば、その瞬間から、
      そのとおりに自分と周囲というものが築かれはじめる」ということなんです。

      僕にとっては発明家、詩人、予言者 ―― こういう連中は同じクラスに
      属する人たちですね。この種の人は霊覚者です。ある種の洞察というか、霊覚というか
      ―― とにかくふつの人以上のものをもっている。

      ふつうの人より先に、人力ではわからぬものをなんらかの方法によって
      何者かに接触して知らされる。

      で僕があなたにうかがいたいというのは、あなたの心または経験のうちに、
      われわれよりも偉大な、われわれの触れうる力を御経験になったことはありませんか。
      それをうかがいたいのです。

      この力をあなたは神とお呼びになるかもしれないが、
      そんな力にいつも同化していることがあなたには可能ですか?

      あなたはそれを自覚していられますか?
      この力に触れるために毎日の生活に規則正しく意識的に
      なんらかの努力をしていられますか?

フォード
   ―― わたしは霊界に来て、いっそうその力がすべてだということがわかりました。
      いっさいの根元がそこにあるんです。
      われわれは、ただそのカを認めるだけのことです。

      すべてのものの精髄(せいずい)と本質とがそこにあるのです。
      われわれが霊といい物質というものは一つですよ。
      霊と物質とは一つの全体です。

      僕は「霊」とか「物質」とかいってぜんぜんちがう
      反対のものがあるように考えたくはない。
      この二つはまったく一つです。全体の裏表なんです。

      この力と接触する道は、最大多数の人間に最大多数の善をなそうと思って、
      自己の生活を正しくすることですよ。僕が自己の生活を正しくするというのは、
      最大多数の人間に最大多数の善をなそうと心がけることなんです。

記者 ―― それだけで全部ですか?

             <感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その2 - 伝統

2015/08/29 (Sat) 04:19:40


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P198~199)より

幸福の天使のような霊的元素体

フォード
   ――これから説明します。各人は自己自身が一個の宇宙なんです。
     それと同時に全宇宙の一部分なんです。
     全宇宙すなわち「全体」のなかにわれわれは浸って生きている。

     その全宇宙の中心が自分なんです。
     この自分という中心が小さい霊体(目に見えない生命の霊的元素)を引き寄せて
     自分自身を築きあげるのです。

     自分のなしつつある営みにこの《生命の霊的元素体》が引き寄せられて加わって、
     その営みを大きくしてくれるのです。

     われわれが何を希望するにもせよ、それは心想(しんそう)を集中してその実現を念じ、
     その目的実現に向かって動き出せば、この《生命の霊的元素体》が集まってきて、
     われわれを助けて自分の希望するものを形に築きあげてくれるのです。

     正しいこと有益なことをしつつある人は、誰でもこの《霊的元素体》の助けを
     受けることができます。この《生命の霊的元素体》は外からやって来て助けても
     くれますが、内からも出て行くのです ―― 自分の想念を乗り物として出掛けて行き、
     必要なものを持って来てくれるのです。

     この《霊体》は、われわれの向上進歩を形づくる実質になるものです。
     この《霊体》の性質や分量は、各人の想念(こころ)のタイプにしたがって決まるのです。


フォード
   ――(語をついで)この《霊体》を神秘な遠いところにわれわれと離れてあると
     考えるのはまちがっている ―― みんなここにあるんです。すべて準備されている。
     何もかもここにちゃんとある。われわれの内にあり外にあり、
     われわれはそれに包まれている。

     インドのヨガの行者がプラナといっているような一種の生きた実質ですね。
     われわれは想念によってそれを受けて使うことができるのです。
     よいことでも悪いことでも、これが想念を伝達する。

     自分が実現したいと思うことをハッキリと心に観る。
     するとプラナの波動が、その想念を中心にして動きはじめる。

     この《霊体》が助けに来る。また自分の方からもこの霊体が出かけて行く。
     必要な要素と霊感とが集まって来て、事柄がすらすら運んでゆきます。


             <感謝合掌 平成27年8月29日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その3 - 伝統

2015/09/05 (Sat) 03:16:15


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P199~201)より


記者――目的の実現しているさまを心にハッキリと思い浮かべれば、
    心に浮かべた状態はその時から形をとりはじめるのでしょう。


フォード
  ――そうです。この霊体がわれわれの希望のぐるりに飛んできて、
    絶えまなくそれを形に化しはじめるのです。

    希望の実現を心に描くこと、それを心にハッキリと観ること、
    つまり、心で事物の雛形をつくるのです ――これが信念です。
    信念はこれから形になろうとするものの実体になるのです。

    まだ人類の多くは信念というものがどんなに実験的なものか
    「実質的」なものかを知らないようですね。

    僕は「実質的」だという言葉を、ほかの人が心霊的だというところに使うのです。
    なぜって、僕は「生命(せいめい)」と「宇宙」との実質について
    考えているんですからな。

    人間は一つの宇宙であって、その字宙にはさっきいったある霊体、
    すなわち「生命(せいめい)の霊的元素体」が無数に棲(す)んでいる。

    そして人間自身はこの無数の霊体を支配し統率する大生命であり王者であるともいえる。
    ある人は人間を「霊」だというが、霊はまさに事物の「実質」であるんです。


記者――あなたの「生命の霊的元素体」のお説はなかなかおもしろいと思います。
    この霊体を仮定すると、心に起こった原因が形という結果に現われるまでの方法、
    過程がハッキリしますね。

    というのは、原因が結果を持ちきたすには、力の実際の移動がなければならない。
    つまり実際の仕事を実現する実質とか生命力とかいうものが移動しなければならない。

    さっき僕は「霊覚者」という言葉を使いましたね。
    そしてある鋭敏な直覚と力ふつの人とはちがう
    第六感を備えてでもいるような人のことを話しました。


フォード
  ――ところが、それは体験の問題です。
    ある人はそれを特殊の才能だとか、天賦だとか考えているようですが、
    それは人生をいく度も生きてきた人の長い経験の結果だと思います。

    人生をいく度も生きるというのは、僕は人間が生まれ代わるものだということを
    信じているという前提に立つことを断っておかなければならない。

    君、われわれはなんべんも生まれかわる。
    われわれはいく代も経験を積む。
    そしていくたの経験をたくわえる。

    ある生命(せいめい)は他の生命よりも年功を積んでいる。
    ちょっと見れば直覚的天賦だと思われるかもしれぬが、
    それは実に刻苦して得た経験の賜(たまもの)です。

    これはわたしが霊界へ来ていよいよ明らかになったところです。


記者――ではあなたは、発明家、詩人、予言者・・・などという事物を先見し、
    事物の深いところが、ふつの人よりもよくわかる人は、この世に生まれ代わって来る
    までの前世において生活した経験がふつの人よりも広いというのですね。


フォード
  ――そうです。そういう人たちはみな生命としての年長者です。
    キリストは肉体は三十歳でも生命は年長者であったのです。

             <感謝合掌 平成27年9月5日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その4 - 伝統

2015/09/13 (Sun) 04:50:29


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P201~202)より


記者――ところで、あなたはスウェーデンボルグを知っていられるでしょう。
    スウェーデンボルグは、あなたも知っていられるとおり、当時では、
    全世界で最も有名な科学者の一人でした。

    彼はストックホルムに住居をかまえていたが、百マイルもへだたったある市で、
    ある晩その市長と晩餐(ばんさん)をともにしていた。
    高官の紳士たちがその晩餐の席には連なっていた。

    晩餐の進行中突然スウェーデンボルグは、
    何やら言い訳をいいながら起ち上がってベランダヘ出かけていった。

    すぐ市長もそのあとからベランダヘ出かけて行った。
    するとスウェーデンボルグは市長はじめ皆のものに、今ストックホルムに
    大火があるといってその有様を説明し出した。

    その火事はどこから始まって今どこが焼けているかという詳細の有様を
    目に見るように説明する――そのうちにしだいにその火は消えたが、
    どこが消えたかということをはっきり言った。

    市長はあまり珍しい事件なので、スウェーテンボルグのいった事を詳しく書きとめておいた。
    その後、使者がストツクホルムの火事の報告書を持って来たところ、スウ一ーデンボルグが
    晩餐会の席上で述べたところと一分一厘違わなかった。

    あなたはこの秤学者のこの種の能カをなんと説明されるのでしょう。

フォード
  ――スウェーデンボルグは自己の内にもあり外にもある例の霊的元素体を遣わしたり
    受けたりすることのできる能力者だったのです。

    これはいく度も生まれかわった高級霊のみできることです。

             <感謝合掌 平成27年9月13日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その5 - 伝統

2015/09/20 (Sun) 04:55:50


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P202~205)より

《見えざるわれらの協カ者》

記者――あなたのいわれる霊的元素体というのは、
    思念は生命体である、思念は実体であるということですか。


フォード
  ――なんといってよいかどうも容易に適当な言葉が見つからない。
    われわれはそいつをつるはしにかけて掘り出すことはできないんですからね。
    肝心の相手が心なんですからね。

    《われわれは心よりほかに働かすべき協力者はない。》
    念波とか精神波動とかいう学説は今のところ僕にとっては
    一番確定的な学説のようですね。

    ちょっと研究すればその説明はすこぶる簡単のようです。
    僕の考えでは《想念は力である》、また言いかえると《想念は生命をもっている》
     ―― これはどちらでもあなたのおすきなように解釈されたいが、
    ともかく、想念というものはわれわれから、出入去来する《小さな生命体》で
    成りたっている《流れ》ですね。それは波動であると同時に、生命の粒子である。


《自己と外界とをつなぐ霊知的小生命体》

記者――あなたが「《霊的元素体》」とか「《霊体》」とかおっしゃったものの意味が
    だんだん掴めて来たように思われます。この「《霊体》」こそ肉体を司どり、
    おそらくは脳髄に精神作用起こしている生命力なんでしようね。

    あなたはそれを霊体をもった霊知的エネルギーとお呼びになりたいんでしよう?

    わたしの考えでは、われわれの肉体細胞一つ一つは、
    一個の霊知の中枢(ちゅうすう)をもつている。

    それはいわゆる脳髄ではなくとも、少なくとも霊知を備え、
    その霊知の中枢になるべき「霊知的小生命体(れいちてきしょうめいたい)」を
    やどしていることを、人間はついに発見するに相違ないと思うんです。


フォード
  ――細胞にも小さい霊魂がある。外界にも小霊知体がある。
    この霊知的小生命体はわれわれの肉体紬胞と同じように組織的に集合している。
    それはたがいに結合して、われわれの人格を形造っているのです。

    われわれがある人のことある目的のことを思うと、
    われわれの人格のエネルギーの一部がこの霊知的小命体に乗って、
    その人のところや、目的物のところへ達するのです。

    またこの《霊知的小生命体》はわれわれの内にあるばかりではなく、
    われわれの外にもある。
    われわれを取り巻いている雰囲気となっていて、われわれの人格や精神状態や
    健康状態にいろいろ影響を与えているのです。


    われわれは気分をかえたいとか、健康状態を変化したいとか思うと、
    旅行をしたり転地療養をする。そしてやってみると、なるほどききめがある。
    なぜだと思います?

    あれは常に自分の周囲をとりまいていて
    新鮮な影響を与えなくなった《霊知的小生命体》をあとにして、
    新しい雰囲気を造っている霊体の集まりのなかへ突入して行くからなんです。

    快速力でできるだけ遠方に行く方が、
    今までの雰囲気を置いてきぼりにするのに都合がよい。

    僕は住居や土地を変える効果を信じているのです。
    われわれは住居や土地をかえることによって古い雰囲気から脱して、
    新しい「霊知的生命体」に触れることができるんです。

    この点では霊界では便利です。
    思念の力で、乗り物もなく自由に長距離のかなたへ行けますからね。


記者――ではあなたはわれわれの内外にともに
    「霊知的小生命体」が集まって雰囲気をつくっているとおっしゃるんですね。


フォード
  ――われわれの生命はその想念の力によってわれわれおのおのの周囲に
    この「霊知的小生命体」を引きつける一つの中心なんです。

    周囲に引きつけたこの小さな生命体はやがてわれわれ自身の一部分となって
    われわれの指図のままに、われわれの性格どおりに活動するんです。


記者――わたくしの考えでは、宇宙のすべての事物の根抵には「無限の大生命」があって、
    それがすべてを生かしている。それがすべての存在をささえている。

    だから、この無限の大生命こそいっさいの存在の霊的根源だが、あなたのお説は、
    この大生命が個性をもっていろいろの相(すがた)にあらわれる方法、
    換言すれば一つの大生命が個別的表現をとって、われわれの周囲にあらわれる過程を
    説明していておもしろいと思います。

    「想念」と「存在」とはわたくしにいわせればまったく同じものの裏おもてです。


フォード
  ――そうです。「想念」と「存在」とはまったく同じものを指したのです。
    「想念」なしに「存在」はないし、「存在」のあるところ必ず「想念」が
    そこに現われているのです。

             <感謝合掌 平成27年9月20日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その6 - 伝統

2015/09/29 (Tue) 04:32:55


       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P205~207)より



持続的に希望の事物に専念せよ


記者――われわれは心の思いすなわち想念をば、力であると認めざるをえないのですが、
    もし想念が力ならば、このカをなんらかの方法によって開拓して、ふつうの人以上に
    有効に利用する方法があるにちがいない。
    精神統一によって一定の方向に思念を導くことによって?


フォード
  ――思念を集中すれば、そこに霊知的小生命体を引き寄せる中心磁カを生じます。
    たとえばある事業に思念を集中するならば、
    その思念の磁力にてその事業を成就するに必要なあらゆる要素が集まってくるのです。

    志すものを大いに絶えず強く思えばその事物は引き寄せられて来るのです。
    われわれがいろいろの事業をやりかけてみて成功しないのは、
    その志すものを絶えず強く勲意をもって思わないからです。

    志す事物を招(よ)び寄せるのには、その思いを中断せずに、
    気長くその希望と熱意とを持続しなければならない。
    短気で、すぐ失望するようではだめです。

    その事物が成就するのに適当な条件を引き寄せるにはあるいは
    3、4ヵ月かかることもあるし、時には、6ヵ月かかることもあります。

    ともかく、思念を長時間持続的に集中することは、
    必要な事物を引き寄せる磁力となるのです。

    すなわちその事物を成就するに必要な要素――霊知的生命体がその人の周囲に
    集まって来、それが自然にその事物の成就のために働いてくれるのです。

    要するに持続的に志す事物に想念を集中してやまなければ、
    事物それ自身は、それだけでできあがるのです。
    それは想念は事物の実体だからです。想念そく事物だといってよろしい。


記者――想念は力である。類は友を招ぶ、同種の想いは同種の事物を造り上げる。
    だから自己の思想を成功に向けるか失敗に向けるか、
    光明に向けるか暗黒に向けるかということは、その人の生涯を決するのだと
    われわれは常に説いているのですが、この説にはおそらくあなたも賛成なのですね。


フォード
  ――そうです。「類は友を招(よ)ぶ」のです。
    苦難を起こしたいと思ったら苦難を想うがよい。
    その人には苦難がやってくる。


右にその要旨を引用した文章の中で、記者の言葉は、
アメリカの有名なる光明思想家ウォルドウ・トラインの語(ご)である。

このわれわれのために働いてくれる霊知的微小体を、
ハービィ・ハードマン博士は「視えざる協力者」(Silent partner)といっています。

この「視えざる協力者」と協同一致して事業を成就するためには、
神なる無限供給者・無限英知者・無限生命者と一体である
との自覚を深めることにまさるものはありません。

たといわが個(ひとり)の力は弱くとも無限力なる神がわがためになし給うであろうとの、
いと深き自覚を得ることが必要なのであります。

             <感謝合掌 平成27年9月29日 頓首再拝>

ヘンリー・フォードの致富法~その7 - 伝統

2015/10/07 (Wed) 04:25:31

       *『生命の實相』第2巻實相篇下第6章経済問題の解決(P207~211)より


「生長の家」の誌友には、この信念に達していられるずいぶん信仰の深い方が多勢ありまして、
日々神の無限力を目のあたりに見せていただいているのであります。
なんでも自分にぜひ要ると思うものは不思議に誰かが持って来てくださるという事実であります。

これは理論でも、推理でも、想像でもないのでありまして、
実際日常生活にたびたび目撃し体験させられる事実であります。

かつてわたしが『生長の家』誌を創刊するについて、子供とお仲間で使っていた小さな机では、
原稿書きと、雑誌の発送と、子供の勉強とに兼用するにはあまりに狭くて不便になって
来ましたので、家内が「もう一つ机が欲しい。買ってください」というものですから、

「生長の家の出版で経済に余裕がないからもう少し待て」といっていますと、
その翌日、大阪の松本外次(まつもとそとじ)さんから
「あなたに机を造ってあげようと思っています」という意味の手紙をいただいたのであります。

家内が机を欲しいといっていたちょうどその日に、松本さんのお書きになっていたお手紙だった
ので神さまはわれらになくてはならぬものを知り給うと、その時も互いに語り合って
感謝したのでありました。現在もその机を私は執筆に使っているのであります。


こんな経験はわたしばかりではなく、今は故人であるが今井楳軒先生や
尼崎にいられる杉江重誠さんなどは常に経験していられるところであります。

深き信念によって神とむすばれているものには誰にでもあることでありまして、
私に机をこしらえてやろうといわれる松本さんなども「明日の用意はしていない」
で別にそれで生活にお困りにはならないのであります。


こうなると、もうわれわれには経済的不安はないのであります。
生活に必要なものは必ず神が誰かの手をとおしてわれわれのところへ持って来てくださる、
ということが理論ではなく実際にわかってくるからであります。

すべての人類がこの経済観に達すると財の循環と分配が完全に行なわれて
地上に経済的天国ができあがるのであります。

各個人がこの境地に達するにはどうすればよいかと申しますと、
自已と神すなわち無限供給との一体感を深めればよいのであります。

「メタフィジカル・ヒーリング」と申しますのは、この「神と自己との一体の自覚」から
起こるところのおのずからなる「神の癒し」でありまして、手のひら療治その他の霊力治療の
ように病気を癒すだけではなく、われわれの生活において治してもらう必要のあるもの
いっさいについて与えられるのであります。

神の子たる人間は生活難にくるしむように造られていませんから、
さきに申しましたように、経済的にでも欲しいものは、
どこからか自分の手に入るようになるのであります。

これは術者が霊力で治すのではありません。
指導者は「神想観」によって神との一体感を深くする道を開くだけでありまして、
あとはその人その人の修行と信念の深さだけの《おかげ》を受けるのであります。


この修行というのは主として「神想観」でありますが、
要は神との一体感が深くなればおのずからなくてならぬ物は手許に集まり
求むるとおりに癒されるのであります。

副修行法としましては、『生命の實相』第四巻に説明いたします『自己暗示』の法を
応用せられるとともに、常につとめて信仰を高むる言葉を読むようにしなければなりません。

ある誌友は『生長の家』誌を読んだだけで病気が治ったといわれました。
またある誌友は『生長の家』をポッケトに入れて出ると、
その日終日気分が明るくて仕事が順調に運ぶといってよこされました。


これはなぜかといいますと、真理の言葉の書かれてある書物には真理の霊波がありますので、
言葉の霊波で信仰が高まり信仰の精神波動が霊界の善霊を引き寄せてその人の気分を快活にし、
かねてその人になくてならぬものを招き寄せてくれるのであります。

書物に印刷された真理の言葉に霊波があるといいますと、迷信だと思う人があるかも
しれませんが、書かれてある言葉も発声される言葉と同じように霊波があるのであります。

古来から『大般若経』をペラペラ病人の前で翻すだけで病気が治ったり、
憑(つ)きものが落ちたりすることがあるのは書かれてある言葉の霊波によります。


また神社などからもらう護符や、お守り、虫封じの符(ふだ)などは相当効力のあるもので、
それは必ずしも迷信とはいえない実証があります。

テイ・ステッド氏よりの霊界通信によりますと「あなた方に、はたして会得しうるかどうか
しれないが、《あなた方の有する書物 ―― 印刷し、装丁してあるドッシリ重い書物は
霊界より観れば一つの光体である。書物の生命はその光の価値できまる》」
といっているのであります。

これによればどんな分厚い書物でもただの紙屑にすぎないものもあれば片々たる冊子でも
神仏の護符同様霊光たるものがあるはずであります。

しかも、その霊光にもいろいろの種類があるので、読まずにただそばに置くだけでも
われわれの心に悪影響を与えるもの、良影響を与えるもの等さまざまあるわけです。

総じて明るい言葉を書いた書物より発する光は善霊を呼び、
暗い言葉を書いた書物より発する光は悪霊を呼ぶのであります。

『法華経』や『甘露の法雨』が、それを受持(じゆじ)し、書写(しょしゃ)し、
読誦(どくじゆ)するだけでも功徳があるというのは、
その言葉の霊波のしからしむるところだと考えられるのであります。

(「ヘンリー・フォードの致富法」の謹写、終了です)

             <感謝合掌 平成27年10月7日 頓首再拝>

《人の富を非難してはならない》 - 伝統

2015/10/14 (Wed) 04:03:01


           *『 生長の家 』(昭和26年7月13日)の法語より

   逆境がやって来たときに、人は 大抵自分よりも順境でいる人や、
   幸福な人に対して 批評的になりたがるものである。

   他人の富を批評して、

   「 屹度(きっと)それは 闇(やみ)をして儲(もう)けたに相違ない 」 とか

   「 屹度 狡(ずる)い事をしたに相違ない 」 とか考え勝ちであるのである。

   しかし 他の富を非難する者には、
   自分に対しても 「 富 」 は近づいて来ないのである。

   税務官吏で千万長者になった者がないのは、
   常に他の富を苛辣(からつ)に批判して
   それから奪おうと云う心理状態が働くからである。

   奪おうと云うものは奪われるのである。
   すべて心の世界に蒔(ま)いたものは
   現実の世界に刈りとらねばならぬのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/69716c487dd8dd8c398cc91ac4318be5

             <感謝合掌 平成27年10月14日 頓首再拝>

《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》 - 伝統

2015/10/21 (Wed) 04:47:25


          *『 生長の家 』(昭和26年7月17日)の法語 より

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な
   大まかな運動や構成は出来るのであるが、
   意識的な発動的創造の中心は、
   神が人間として現われてのみ出来ることになったのである。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

   だから人間を神の子だと云うのである。

   神の子たるものが、貧しく生活しなければならぬなどと
   云うことは 実際あり得ないことなのである。

   汝(なんじ)が貧しいのは 神の真意を知らず、
   神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f

             <感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>

《無限供給は先(ま)ず愛念から》 - 伝統

2015/10/29 (Thu) 03:40:24


          *『 生長の家 』(昭和26年6月23日)の法語より

   吾々が神の無限供給に接触することが出来るのは、
   吾々内部に宿る神性を通してのみである。

   神性のみ神性に接触して、そこから
   無限を引き出して来ることが出来るのである。

   人を愛しないでいて神から愛されようと思っても
   無駄のことである。
   何故(なぜ)なら神は愛であるから
   愛によってのみ波長が合うからである。

   神の無限供給は 決して
   「 物質 」の形で来るものではないのである。
   何故なら 神は「 物質 」ではないからである。

   神は 智慧であるから、神の無限供給は
   良き智慧の形をもって吾々を訪れる。

   愛念を起して良き智慧の流入を受け、その良き智慧を
   愛念をもって実践することである。

  
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127


             <感謝合掌 平成27年10月29日 頓首再拝>

神立「大宇宙銀行」と繋がる - 伝統

2015/11/09 (Mon) 04:44:19


    *『生命の實相』第八巻観行篇第五章「無限供給を受ける道(P115~117)」より

全宇宙は一つの生命体でありますから、
例えば、人間の身体(しんたい)にも比(くら)ぶべきものであります。

われわれの身体においては、皮膚にある損傷ができますと、皮膚そのものに
変化が起こるだけでなく、全身にその違和が感じられ、全身の血液が環流して、
その所の皮膚の傷を癒す成分を送ってくれるのであります。

それと同じことが、われわれ個人の経済状態においても起こるのであります。

われわれが経済状態にあるマイナス状態を生じますと、必ず全宇宙の供給の流れが
還流して、そのマイマス状態を埋めてくれるようになっているのであります。

だからわれわれの生活が大宇宙の一つの流れに繋がっているという実相に目覚める
限り、われわれには絶対に「貧(ひん)」ということはありえないのです。

宇宙は無限供給である。

その無限供給に繋がっているとき、
どうしてわれわれに「貧」ということがありましょうぞ。


すべての富は今すでにわれらに与えられているのであります。
われわれは、宇宙の無限供給の富の中心にいるのであります。

今必要でないものまで無限無尽にその供給を「私」という肉体的有限容積のものに
背負わされては、それでは「私」も取り扱いに困りますので、世人が金があれば、
当座用として若干を手許において、他は銀行に預けておきますと同じく、

「私」はすべて当座用以外の全財産を、人間の設立した銀行ではない、
神立「大宇宙銀行」に預けてあるのであります。

仮に「私」と申しましたが、「私」と称したのは仮であって、「皆様」も同様であります。
ただ異うのは「私」は無限財産を、神を頭取とする「大宇宙銀行」に預けてある事実を
自覚していますけれども、ひょっとしたら皆様はそれを自覚していられないかもしれない
―― ここがわたしと皆様とが異う点かもしれないのです。

皆様が仮に銀行に多額の預金をしていられて、そして今、金が必要であられましょうとも、
もし自分の預金が銀行にあることを自覚せられなかったならば、
皆様はその預金を引き出しには行かれないでありましょう。

それと同じことで、誰でも誰でもこの神立「大宇宙銀行」には無限の預金をもっている
のですが、自覚しないために必要に応じてそれを引き出すことができないというのが、
ふつうの人のふつうの状態なのであります。

また別の人たちは神立「大宇宙銀行」というものがあるということを知らないから、
当座用以外を永久につぶれることのないこの「大宇宙銀行」に預けておけばよいものを、
財産を掻き集め掻き集めして潰れるかもしれない人間の銀行に預けておいて、
常にその財産が無くなりはしないかと戦々兢々としている方もあるのであります。

そういう方はたとい百億万円の富が自分の名義になっていようとも、
当座用以外に自分名義の富のないわたしなどよりも貧乏な方なのであります。


金持とか財産家とか言いましても、「金(かね)」というものを「形」あるだけのもののように
思い、ある一定の銀行にある額だけとか、自分の名義になっている証券の額だけとかを自分の
財産のように思っていられる方は、その額がどんなに多額にありましても、それは大した富豪
ではないのであります。

なぜなら、《かかる富はすでに数えられているからであります》。
本当の大富豪と言いうる者は、自分名義の財産は何一つなくても、「大宇宙銀行」に
無限無形の預金があって、それをいつでも引き出せるという自覚をもっている人だけであります。

             <感謝合掌 平成27年11月9日 頓首再拝>

神から富を引き出して来る - 伝統

2015/11/17 (Tue) 04:53:41


      *『生命の實相』第八巻観行篇第五章「無限供給を受ける道(P117~119)より

大宇宙銀行の頭取は宇宙主宰の神様であって、
宇宙の富のすべてを総覧していられるのであります。
そして常にその預金者たるわれらに対して言い給う。

「なんじの自覚する程度に従って、われなんじの預金を支払わん。
わが資本金は無限億万円である。

わが銀行に千円を預金せりと自覚するものに対しては、われ彼に千円を払戻し、
百万円を預金せりと自覚せるものに対しては、われ百万円を払戻し、
無尽蔵に預金せりと自覚せるものには無尽蔵を支払わん。」

これが大宇宙銀行とわれわれとの関係であります。

神は破綻銀行の出納係ではないのでありますから、大宇宙銀行の支払口に突っ立って、
払戻しを要求する人に支払を拒絶し給うことは決してないのであります。

ただ人間の方が、大宇宙銀行へは滅多に行かないで、
人間の設立した小さい処へ出かけて行って、小さな預金を払戻してくれと言ったり、
就職口を世話してくれなどと言うから、おうおうにして拒絶を食らうのであります。

(中略)

神の大宇宙銀行から引き出すのであるということを自覚している者にとっては
「富」は近づけば近づくほど、神に近づくことになります。

(法華経の長者窮子の教えの譬え→父の御許へ走れば長者の後継ぎになることができた)

「富」と「神」とを対立した関係にみないで、神がいっさいの根元であり、
神の中にこそ無限の供給があり、無限の富があるということを知る者は、
いつも神にもとめて富を得る、すなわち神から富を引き出して来るのであります。

この境地においては神を拝むことと富を得ることとは当然同じことなのであります。

             <感謝合掌 平成27年11月17日 頓首再拝>

貴方の内在の資源に振り向きなさい - 伝統

2015/11/27 (Fri) 04:53:26


           *「幸福を招く365章」(P88~89)

あなたは既に、神が遍在でありたもうことを知ったのである。
神が遍在であり給うならば、あなたの内にも神はいますのである。

神は光でありあなたを内より導き給う。
偏在であるから外からも導き給う。

内からの直感、外からの自然の摂理としてあなたの周囲に
あらわれるもの悉くよきものである。
あなたをやがて高め上げるものである。

あなたは神の護りより逃げ出そうと思っても、
逃げ出すことは出来ないのである。

あなたが病気のように見えるときでも、
あなたの「内在の健康の源泉」として神はましますのである。

あなたが貧苦に悩むと見えるときにも、
あなたの内に「供給の源泉」として神はいますのである。

あなたが、この内在の「健康の源泉」に振り向きさえすれば健康は忽ち得られ、
あなたがこの内在の「供給の源泉」に振り向きさえするならば、
忽ち無限の供給は得られるのである。

             <感謝合掌 平成27年11月27日 頓首再拝>

真の富者は「自由」を所有する - 伝統

2015/12/05 (Sat) 06:10:38


           *「幸福を招く365章」(P178)

本当の富者とは「自由」を完全に有っている者であって、
金銭や「所有品」を沢山もっている者ではない。

この事をまだ本当に悟らぬ人が多いために、
富めば富むほど自分の心がその富に縛られて、富を護るための奴隷となり、
屈従の生活を送りながら、自分を富者だと思っている人が多いのである。

「物を所有するために、心がひっかかって自由を失う不利益」によって相殺され勝ちである。
「無所有」と云うことが仏教で尊ばれるのも其の為である。

しかし「無所有」と云うことは「貧乏」と云うことではない。
「貧乏」な者は、また「貧乏」を心に掴んで苦しむのだ。
「貧乏」を掴まず、富を掴まず、欲するに従って自ずから 自由に集まる
――― これが真に富者である。

             <感謝合掌 平成27年12月5日 頓首再拝>

富を実現するには - 伝統

2015/12/12 (Sat) 04:47:05


           *「幸福を招く365章」(P180)より

「吾れは今富んでいるのである」と念ずれば空(くう)よりして「富」が実現して来るのである。
次の瞬間「そんなことがあるものか」と念ずれば、「そんなことはなくなる」のである。

多くの人々が、何を念じても、それが成就しないのは、その成就に信念がなく、
次の瞬間から「そんなことがあるものか」と念ずる
―― その念じ方の方が力強く、且つ長時間であるからである。

若し芥子種ほどの信仰があって「吾れは今富んでいるのである」と念じた信念が、
次の瞬間にも崩れることなく、力強く、且つ長時間その想念をつづけることが出来れば
必ず富は実現するのである。

             <感謝合掌 平成27年12月12日 頓首再拝>

神の供給を大きく受けよ - 伝統

2015/12/20 (Sun) 04:55:56


          *「幸福を招く365章」(P187)より

神より来る資源は無限である。しかしその無限は只存在するだけであって、
具体的に人間のものになっていないのである。

具体的には人間のものとなるには、それをみずから進んで受取らばなれぬものである。

神は光のようなものである。
地上に充ち満ちていても、みずから眼をひらかぬ者には、
神が眼瞼を押しあげて、光を押し込み給うことはないのである。

神は海原の水のようなものである。
大きな容器をもって行って汲めば、いくらでも多く満たしてくれて、
しかし小さな杯をもって汲めば小さな杯の分量しか与えられないのである。

心をひろく持つことである。

             <感謝合掌 平成27年12月20日 頓首再拝>

《われは無限供給の世界を見る》 - 伝統

2015/12/27 (Sun) 04:49:39


          *『生長の家』(昭和24年11月17日)の法語より

   静かに静かに、吾は今 神の無限供給の世界をみるのである。
   今の現実がどうであろうとも、
   ただ実相のみが実在であるのである。

   神の造り給いし無限供給の実相世界が
   今 ここに あるのである。

   神は吾らの父であり給い、
   神の子たる吾らの富むことを喜び給うのである。

   神のもちたまえる無限の富の後継者として
   吾はすでに無限の富に資格づけられているのである。

   唯(ただ)吾等は「 神の子 」なる本当の血統(ちすじ)を
   知れば好(よ)いのである。

   本当の血統を知り 吾神の子なりと名のって出さえすれば
   凡(あら)ゆるものは 既に神から与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102


             <感謝合掌 平成27年12月27日 頓首再拝>

富の種蒔き - 伝統

2016/01/05 (Tue) 04:26:33


         *『生活の智慧365章』(P42~43)より

貧しい人も、その人が實相に於て貧しいのではないのである。
彼は實相に於て富める「富」を現象界に表現する方法を知らないだけの事である。
彼は多分「与えよ、さらば与えられん」の心の法則を知らないのである。

人に与えることをせず、爪に火をともすようにして蓄積しさえすれば富むのだと
《めのこ》算用的な考えをもっていて、人を救うために献資をして出すことが、
富の「種」蒔きになるのだということを知らないのである。

「種」を金庫に入れて蓄積すれば、蓄積するだけは殖えるけれども、
「種」は蒔かない限り、百倍千倍万倍に子を産んで増殖することはあり得ないのである。
だから釈尊は「飢饉の時ほど托鉢せよ」と仰せられたのである。

飢饉の時には作物はとれず、百姓自身も貧しくなっているのに、それにも拘らず
報謝米の施しを求めて歩くのが”托鉢”である。

何故そんなことをするかといえば、飢饉のために貧しくなっているのは、「与えれば与えられる」
という法則を彼が知らないで、謂わば「種」を天地に与えて「種蒔き」をして置かなかった結果
であるから、彼に「施しの心」を起さしめて富の「種蒔き」を為さしめるために、

釈尊は、「飢饉の時ほど農家へ往って施し(富の種蒔き)を求めよ」と仰せられた訳である。

             <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

屏風と商売は曲がらにゃ立たぬか ~ そろばんの教訓 - 伝統

2016/01/13 (Wed) 04:39:46


      *「光に向かって 100の花束より」高森顕徹・著(第30話)より

九州博多の聖福寺の和尚であった仙崖が、
あるとき、大福帳とそろばんの絵をかき、その上に賛をした。

「手もとを上ぐれば向こうにゆく。手もとを下ぐればこちらにくる。わするな、わするな」

そろばんというものは、手もとを上げると、玉はガラガラと向こうにゆく。
手もとを下げると、玉はガラガラとこちらへくるものである。
 
それと同じで、品物を悪くして値段を上げると、
お得意さんもガラガラと向こうにいってしまう。
 
品物を良くして値段を下げると、
お客はガラガラとこちらのほうにきて、商売は大繁盛する。
 
忘れるなよ、忘れるなよ、といましめている。

「屏風と商売は曲がらにゃ立たぬ」
と、世間には平気で、あくどい商売をする者がいるが、決して成功はできない。

「ドカ儲けすりゃ、ドカ損する」
といわれるように、曲がったことで金儲けすれば、一時は儲かるかもしれぬが
不信用もえて、必ず後がふさがるものだ。

信用は巨万の財産である。
儲かるという字は、“信用ある者”とあるではないか。

             <感謝合掌 平成28年1月13日 頓首再拝>

人の富を批評してはならない  - 伝統

2016/01/23 (Sat) 04:49:45


          *「幸福を招く365章」(P219~220)より

逆境がやってきたときに、人は大抵自分より順境でいる人や、
幸福な人に対して批評的になりたがるものである。

他人の富を批評して、「きっとそれは闇をして儲けたに相違ない」とか
「きっとずるいことをしたに相違ない」とか考えがちであるのである。

しかし他(ひと)の富を非難する者には、
自分に対しても「富」は近づいて来ないのである。

税務官吏で千万長者になった者がないのは常に他の富を苛辣(からつ)に
批判してそれから奪おうという心理状態が働くからである。

奪おうというものは奪われるのである。

すべて心の世界に蒔いたものは現実の世界に刈りとらねばならぬのである。

             <感謝合掌 平成28年1月23日 頓首再拝>

神なる無限供給の源泉と連絡せよ - 伝統

2016/01/31 (Sun) 04:55:26


          *「幸福を招く365章」(P221)より   

神は万物を生み給うた。神は愛である。
それゆえに神は無限の富の源泉であり、
与えるために、貯えられたる貯蔵庫であることが判るのであろう。

神御自身では天然現象のような受動的な無意識的な大まかな運動や構成は出来るのであるが、
意識的な発動的創造の中心は、神が人間として現れてのみ出来ることになったのである。

神は無限の富の源泉であるから、
人間はその無限の富の意識的表出口だと云うことが出来るのである。

だから人間を神の子だと云うのである。

神の子たるものが貧しく生活しなければならぬなどと云うことは実際あり得ないことなのである。
汝が貧しいのは神の真意を知らず、神と人間との連絡を汝自身で断ち切っているからである。

             <感謝合掌 平成28年1月31日 頓首再拝>

富と幸福 - 伝統

2016/02/08 (Mon) 04:32:26


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(P22~23)より

心の平和を得ることが幸福の本である。
心が平和を得なければ億兆の富といえどもなんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

             <感謝合掌 平成28年2月8日 頓首再拝>

《人間は本来富んでいる》 - 伝統

2016/02/15 (Mon) 03:26:41


         *『 生長の家 』(昭和25年12月28日)の法語より

   一度や二度の努力が失敗したからとて、
   自分は運が悪いのだ、自分の運命は貧乏に定められているのだ、
   神の御心は自分の富まないことにあるのだなどと考えてはならないのである。

   神のみ心の中には「貧乏」などのプログラムはないのである。

   神の定めたまえる「富」のプログラムを巧(たく)みに
   こちらが演出しないから「貧乏」にあらわれるのである。

   「貧乏」と云うものは本来存在しないのである。
   それは「富」が其処(そこ)にあらわれていないと云うことに過ぎない。

   神の意志は人類の全部を幸福に健康にゆたかに愉快に楽しく
   生活させたいと云うことである。

   これを信ぜよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12366588.html


             <感謝合掌 平成28年2月15日 頓首再拝>

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2016/02/23 (Tue) 04:50:56


           *「光明法語」(P47)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロックフェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

             <感謝合掌 平成28年2月23日 頓首再拝>

【お金が喜ぶような使い方をする】 - 伝統

2016/02/29 (Mon) 04:56:15


           *メルマガ「人の心に火を灯す(2015年04月02日)」より

   (五日市剛氏の心に響く言葉より…)

   ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で
   博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。

   S氏はこんなことをいいました。


   「世の中の物は、陽子と中性子できている。
   その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。
   しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」

   こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、
   「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と
   真剣に考えてみました。

   要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、
   もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、
   「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が
   増大するかもしれない…。


   例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。

   毎日心を込めて洗車したり、
   ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。

   毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、
   その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、
   事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。


   そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、
   自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて
   大事にしている人が多いと聞きます。

   そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに
   膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、
   それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。

   お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。

   「世の中、カネじゃないよ」という人だって、
   ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。

   使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、
   人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。

   これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、
   やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。


   我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。

   お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。

   でも、意思と意識がある、とすると、
   お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?

   おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれる
   ご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。

   しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。


   さて、今度は人間の側に戻ります。

   いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。

   そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、
   金運も上がるようです。


   大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。
   ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。

   ほんとうにうまい。

   お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、
   ちょっとした演出ができるかたが多いです。

   喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。

   するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。


         <『なぜ、感謝するとうまくいくのか』マキノ出版>

               ・・・

「山川草木悉皆成仏(さんせんそうもく しっかいじょうぶつ)」という仏教の言葉がある。

山や川や草木にもみなことごとく、仏になれる仏性を持っているということ。

山や川や木や石あるいは道具などに「意思」と「意識」という『仏性』がある
と感じることができる人は、そこに限りない愛情をそそぎ、大事にすることが出来る人。


人も道具も、大事にすれば、大事にされる。

ぞんざいにすれば、ぞんざいにされる。

感謝すれば、感謝される。

つまり、喜ばれるような存在になること。


「お金が喜ぶような使い方をする」

感謝の気持ちで、喜ばれる生き方をしてみたい。


             <感謝合掌 平成28年2月29日 頓首再拝>

《富の原則は 「 与える 」 にある》 - 伝統

2016/03/07 (Mon) 03:53:03


         *『 生長の家 』( 昭和25年1月23日)の法語より

   富の原則は、物質を追求することによって得られるのではない。
   生命を捧(ささ)げることによって得られるのである。

   捧げられたる生命の影が 富なのである。

   「 正しく与えることが 豊かなる富を得る鍵(かぎ) 」であると
   チャールス・フイルモアは いっているのである。

   「 与えよ されば与えられん 」 というのが
   無限供給の黄金律であるのである。
    ( 「 人間救いの原理 」 第二章参照 )


   然し与えると云っても 正しく与えないものは
   豊かに恵まれるということはないのである。

   金でも労力でも 正しい与え方があるのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/168cd6b3063806e70be20617fd700587


             <感謝合掌 平成28年3月7日 頓首再拝>

《すべてのものは神より来る》 - 伝統

2016/03/15 (Tue) 03:12:47


           *『 生長の家 』(昭和25年12月29日)の法語より

   神は無限供給の神である。

   すべての供給と増加とは神より来るのであって、
   苟(いやしく)も「わしが、わしの力で生み出した」と
   考えてはならないのである。

   神は法則であり、法則に人間が順応したとき、
   法則が生み出して下さるのである。

   物の来るごとに神に感謝し、神を賞(ほ)め讚(たた)え、
   「 神様のお蔭であります 」 と合掌せよ。

   かくの如くして既に与えられているものの徳を神に感謝し、
   それを祝福し、更に愛念を起してそれを他(ひと)に頒(わか)つ
   とき、無限の供給はやって来るのである。


   「イエス、パンを取りて謝し、座したる人々に分ち与え」と
   ヨハネ伝には書かれている。

   これが無限供給の原理である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12370580.html

             <感謝合掌 平成28年3月15日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2016/03/20 (Sun) 03:32:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 平成28年3月20日 頓首再拝>

無限供給を受けるためには、まず、「争い奪う心」を止(や)めよ - 伝統

2016/03/28 (Mon) 04:52:28


          *「生命の實相」第八巻観行篇(P123~124)より

人間に必要なる供給は、神から来たまうのでありますから、
無限の供給を得るには、ただ「浪費する」という意味での「使う」だけでは駄目で、
神の心に波長を合わせなければならないのであります。

神の波長に合うようにするには、人のためになるように与えられるのでありますから、
われわれは神の心の波長に合うようにするには、人のためになるように
与える心を起こしてこそ、また自分も豊富に与えるようになるのであります。
 
争う心を起こして奪い合いをしているようなことでは、
結局、生産資源が枯渇してしまって供給が減少してしまうのであります。

奪えばふえるだろうと思って争ってみた結果は、かえって自分の供給が減ってしまうのは、
一杯のコップの水でも、二人の者が互いに奪い合いをするとその水がこぼれてしまって、
二人ともその水を飲むことができない、おまけに争った結果、たくさん汗が出て
ますます体の水分は枯渇して咽喉がかわいてしまうのであります。
 
この一杯の水でも「まあ、君、君のほうから飲み給え」というようにして半分ずつわけ合って、
それを飲んで二人とも元気が出て、どこか谷川でもなかろうかと、二人仲良く水を探しに参りますと、
そこに滾滾と湧き出でている清水を見出すことができるようなものであります。

            <感謝合掌 平成28年3月28日 頓首再拝>

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