伝統板・第二
神への全托① - 伝統
2015/04/08 (Wed) 03:35:00
*光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」からの継続です。
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50
・・・
神の管理に一切を委ねよ
*「幸福を招く365章」(P208)より
何よりも、「神はすべてのすべて」と云う真理を認めることが先である。
「神はすべてのすべて」であり、一切の創造者であり、一切の主(しゅ)にまします
のであるから、人間自身が高慢僭上(こうまんせんじょう)にも「俺のもの」
「儂(わし)のもの」「僕のもの」などと云い得る何物も存在しないのである。
だから、自分自身と、自分の有(も)てるものと、自分の仕事と、その一切を
神に明け渡して、先ず神に無条件降伏をすることが大切である。
かく決心が出来たのちに、万物は外見から見れば同様に見えてうるかも知れないけれども、
内容から云えば、神の管理の下(もと)に、神の導きの下(もと)に一切が置かれた
ことになるのである。
神の管理の下(もと)に神の導きの下(もと)に一切が置かれたとき
万事は必ず調和して運ぶのである。
・・・
<関連Web:光明掲示板・第一「神に全托」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562 >
<感謝合掌 平成27年4月8日 頓首再拝>
問題を神にゆだねよ - 伝統
2015/04/17 (Fri) 04:15:30
*「生活の智慧365章」(P140)より
如何なる問題が起こって来ても、常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。
どんな問題でも、神なら解決できるのである。
自分の「我」の力で解決しようと思うから、
解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。
そのためには、「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、
その問題を神に委ねるがよい。
徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。
それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、誰か、思いがけないところから、
援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。
充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば素直にそれに従うがよい。
<感謝合掌 平成27年4月17日 頓首再拝>
宗教には全托と云うことが要求されます - 伝統
2015/04/22 (Wed) 04:54:59
*『明窓浄机』 戦後篇より
~本流宣言掲示板「80%の信仰は許されない。 (9990)」より転写
・・・宗教は天啓の文化活動でありまして、
それは『啓示』即ち天降りであることを特色としているのであります。
宗教と政治とは異なるのです。
政治はそのあるべき様のあり方に従い或る場合は民主主義形態で、多数決により、
人民みずからの責任に於いて人民みずからの幸福をさだめても宜しいのでありますが、
宗教と云うものは、教祖又は教主が『信者』を指導すると云う立場にあるのでありまして、
その指導に従うのが嫌やな人は、そのまま嫌やでよろしいのでありますが、
既にその人は指導者に対する『信者』ではないのでありますから、
その宗教から去れば好いのでありまして、
自分の気に入る或る部分は指導に従うが、
自分の気にいらぬ部分は指導に従わないと云うような、
半信半疑的な信者は本当の信者ではないのであります。
宗教には全托と云うことが要求されます。
『全てか、無か』でありまして、『八十パーセントと二十パーセント』と
云うようなことは許されないのであります。
(http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2373)
<感謝合掌 平成27年4月22日 頓首再拝>
《自分が無くなり神に全托すること》 - 伝統
2015/04/28 (Tue) 03:21:17
*『 生長の家 』 昭和25年4月9日の法語 より
吾は 今 神の無限の力に信頼 して、すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。
私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。
私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
自分の生命を神に全く うち任せたのである。
‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。
「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
いい給うているのが それが神であるのである。
神にすべてをまかす吾は強いのである。
(http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html)
<感謝合掌 平成27年4月28日 頓首再拝>
《神と一体となりて仕事をするには》 - 伝統
2015/05/03 (Sun) 04:26:19
*『生長の家』(昭和26年4月9日の法語)より
神にすべての仕事をゆだねよ。
神にすべての仕事をゆだねると云っても
自分が何事もなさないと云うことではないのである。
自分が神の力の流れ出(い)ずるパイプとなり出口となると云うことである。
何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。
すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。
すべての仕事を神に導かれ為すところの自己向上の途(みち)であると思ってなせば
楽しく好成績に順潮に運ぶのである。
(http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html)
<感謝合掌 平成27年5月3日 頓首再拝>
神に全托せよ! - 伝統
2015/05/09 (Sat) 04:55:59
*『青年の書』(P217~218)より
何事も、神にお委せなさるのがよいのでございます。
神は全ての全てなのですもの。
しかし神にまかせると云うのは憂鬱にまかせ切って憂鬱の奴隷となることではございません。
神は「光」なのでございますから、「光」に全て打ちまかさねばなりません。
神は「希望」なのですもの、「希望」に全てお委せにならなければなりません。
神は「智慧」なのですから神の導きの「智慧」にお従いにならなければなりません。
神は「生命(いのち)」なのですから
「生命(いのち)」の摂理にお委せにならなければなりません。
神にお委まかせなると云うのは、征服され切ると云うことではございません。
今、今、今、神の力を自己のうちに感じて起ち上がることなのでございます。
境遇に屈服し環境に屈服してしまうことではありません。
「そのまま素直に受ける」と云うのは奴隷になることではございません。
与えられたすべてを自己の「生命の糧」と化するのでございます。
すべてのものを大度量の下(もと)に嚥(の)み下(くだ)して吐き出さず、
それを吸収し、養分として、そこから自分の力をいっそう大きく生長せしめて
起(た)ち上(あ)がるということなのでございます。
そういうような心的態度におなり下さいましたならば、
人生の事件悉く自己を生かすのみに存することが判ります。
(「静思集」(P84~85)より)
<感謝合掌 平成27年5月9日 頓首再拝>
《我(が)の力みが無くなる時 神が働く》 - 伝統
2015/05/15 (Fri) 04:15:17
*『生長の家』(昭和25年4月22日の法語)より
神は 吾(わ)が内に宿る無限の癒(い)やす力である。
凡(あら)ゆる病気と凡ゆる不幸と凡ゆる苦しみとを癒やし給う所の
不思議なる力がわが内に宿っているのである。
その力は 「 我 」 の力によって何とかしようとあせっている時には
自分の心が狭く狭窄(きょうさく)しているから神の無限の癒やす力が
豊かに流れ入らないのである。
自分の力で 自分の病気を治そうと思うな。
自分の力で 自分の不幸をなおそうと思うな。
自分が無くなり、自分の心に少しも力みがなくなって、ゆったりとした時に
神の癒やす力が豊かに流れるのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836927.html
<感謝合掌 平成27年5月15日 頓首再拝>
神にまかせ、天分を発揮する - 伝統
2015/05/22 (Fri) 03:59:17
*『静思集』(P87~88)より
「苦しいときにわれを招(よ)べ、我れは汝のために祈るものなり」
とは神の教えでございます。
「我(が)を捨て切ってすべてを神にゆだねると申します」とは、
自分の個性を捨てよと申すことではございません。
神にまかせるとは、自分の内なる神をあらわすことでありまして、
神があなたのうちに置いたところの、あなたの天分を生かすことこそ
神にゆだねると云うことでございます。
すべて歪みは本物でございませんが、
個性と云うのは性格の歪みと云うことではございません。
菊が菊であり、柳が柳であるのが個性でありまして、菊の花がいじけたり、
柳が樫の木のように硬直しているのが歪みでございます。
すべて歪みは捨てなければなりません。
歪みを捨てたとき、本当に菊が菊であり、
柳が柳である個性を発揮するのでございます。
すべて人間は類型的に造られているものではございませぬ。
神はすべて類型をいといたまいて、ひとつと雖も同じものを
お造りにならなかったのでございます。
しずかに「私が本当の私でありますように」と祈りの時にお祈りなさいませ。
どうぞあなたの天分を発揮して下さいますように、
書道を習う人は先ず自分の癖を捨てるために、
我流を捨ててひたすらに手本のままに従うのでございます。
手本のままに従っておりますうちに、我流の歪みがなくなったときに、
その人でなければ書けない美しい字が書けてまいります。
<感謝合掌 平成27年5月22日 頓首再拝>
《難問題の解決は神にゆだねよ》 - 伝統
2015/05/28 (Thu) 04:55:41
*『 生長の家 』誌(昭和25年5月17日の法語)より
右すべきか左すべきか決定することのできないような難問題に面した時には、
直ちに神にふりむく事が必要である。
神の智慧は曲れるを直くし、くだけたるを完全ならしめ、
傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。
かかる際には
「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
と念ずることが必要である。
この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
如何なる難問題も解決されることになるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 平成27年5月28日 頓首再拝>
無我になって神の導きに随いましょう - 伝統
2015/06/03 (Wed) 04:12:11
*「真理」第9巻生活篇(P327~328)より
『天使の言葉』には「人間は神より出でたる光なり」と書かれています。
人間の本質は神より出でたる霊光の波動なのです。
それは神より出でたるものですから、神の御意志を表現するのが使命なのです。
自分自身の”我(が)”を表現するために肉体を使ってはなりません。
”我(が)”を表現するために肉体をつかえば、それは本来の目的に反するものですから、
其処に摩擦が生じ、苦痛や悩みがでて来るのは明らかです。
自分の”生命(いのち)”のように見えても、自分の”生命(いのち)”ではない。
神の”生命(いのち)”なのですから、神の”生命(いのち)”の発現するように
無我になってしまったら何事もスラスラと運ぶようになるのです。
だから常に神想観を行ずるときには、
「神の智慧が流れ入(い)って我(わ)が生活を導きたまうように」と念ずるべきで
あって「わが智慧で欲する通りに物事を実現せしめ給え」と祈るべきではありません。
<感謝合掌 平成27年6月3日 頓首再拝>
全托の心が先天性股関節の脱臼を治した実例 - 伝統
2015/06/10 (Wed) 04:16:01
*「真理」第4巻青年篇(P316~317)より
龍野で講習会があった時に、同町の小島すみこさんはこんな体験談を話されたのである。
自分は身体(からだ)が虚弱であるから到底、妊娠するなどと云うことは難しいと
考えていたのであるが、黒田正男さんが<○(丸)>で生長の家の話をされた時に、
何事も神に全托すればよい、神は一切を解決してくれる本源である
と云うことをきいて、それから神に全托する気持ちになった時に、
この虚弱と思ってた身体(からだ)に妊娠した。
赤十字病院で診察して貰うと、本当に妊娠しているけれども、
骨盤の寸法を指(さ)して見ると、広さはあるけども厚みが少ないから、
これは途中で人口流産さすか、帝王切開して胎児を分娩するかしなければならぬといわれた。
然し何事も神様に委ねれば神は全能であるから、そして神が胎児を宿し給うのであるから、
神は屹度(きっと)自分に無痛分娩、快感分娩をさせてくれるにちがいないと信じていた。
するといよいよお産が来た。少しも痛まないので、いつお産が来るか解らないのである。
愈々(いよいよ)の時、たった3回シキリが来たとき、「あゝ好い気持ち!」と言ったら
三度目のシキリで本当に快感を感じながら出産したと云うのである。
快感分娩で、それはよかったが、産後出血が多量であって
稍々(やや)衰弱して2か月間臥床(がしょう)したのである。
ところがそれが回復して起きてみると、自分は生まれた時から
股関節の脱臼があって、右脚が少し短く、軽いチンバを引いていたのであるが、
その臥床中に脱臼が整復したと見えて脚の長さが平均している。
ただ過去に左脚にのみ身体の重みをかけるようにしていたから、
左脚の方が太くて右脚の発達が遅れていて細いのと、右脚に重荷を掛けないで歩こうとする
習慣があるために時々前のような歩きようをすることがあるが、それも殆ど目立たなくなってきた。
出血多量で悪いと見えていたことが、却ってこんなに好い結果になるのであって、
神に全托していれば、何事も悪いと云うことは無いと云う事が分かります
と言って感謝の言葉をのべられた。
<感謝合掌 平成27年6月10日 頓首再拝>
神に全托して愉快に楽しく勇敢に - 伝統
2015/06/17 (Wed) 04:52:05
*「幸福を招く365章」(P146)より
神は「重荷を負える者よ、我に来たれ。われ汝らを休ません」と言い給うているのであります。
重荷を自己に背負う必要がないのであります。
それなら何もしなくて好いのかと云うとそうではありません。
責任を神に負わせて自分は神の子として自由に神の導きのままに活動すれば好いのです。
重荷をもって重圧される感じで生活するのは、神様の御心ではないのであります。
「「空を飛べる鳥を見よ、つとめず、倉にたくわえず・・・云々」とイエスは教えていますが、
勤勉であるとか、必要な時のために貯えるえるなとか云う意味ではありません。
空の鳥のように、無邪気に神に負かせ切って囀るような楽しさで生きよと云う意味であります。
あなたはあなたとしての仕事を楽しく愉快にやればよいのです。
責任は神が持ち給う。
神に全托して、愉快に楽しく勇敢に。
<感謝合掌 平成27年6月17日 頓首再拝>
《神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ》 - 伝統
2015/06/24 (Wed) 03:08:20
*『 生長の家 』誌(昭和25年5月29日の法語)より
凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて 神がましますということは、
凡ゆる時と場所とに於いて 神が吾らを守って い給うということである。
あなたの心を神に対して投げかけよ。
神はあなたに与え給うであろう。
常に神の助けのない世界はないのである。
どこから如何にして神が吾々を助け給うかはわからないにしても、
神の 目に見えぬ智慧の手が凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて
あなたを本当の幸福に導き給うのである。
神は一切のものを
調和と繁栄と幸福とに導き給う所の
中心的統一者である。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
<感謝合掌 平成27年6月24日 頓首再拝>
《神に全托する者は悩まない》 - 伝統
2015/07/01 (Wed) 04:15:04
*『 生長の家 』(昭和26年6月20日)の法語より
若し何事かが起って貴方の心を悩ますならば、
その問題の解決は その問題に就いて悩むと云うことではないのである。
問題の解決法は、
第一、問題から「 悩む心 」を放つことである。
第二、その問題を神に委ねることである。
如何なる条件が起ろうとも「 神の愛の御手(みて)が護っており、
すべての人々に最もよいようにこの問題が解決せられるに相異ない 」 と思念して、
その思念の通りになることを信ずるが好いのである。
愛する子供や、愛する良人(おっと)や、愛する妻について、
その病気や、その素行について疑うな。
すべての人々の内には神が宿っていて
それみずからを健全の方向へ導いているのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 平成27年7月1日 頓首再拝>
《神の容器(いれもの)として自分は空っぽである》 - 伝統
2015/07/08 (Wed) 03:09:53
*『生長の家』誌(昭和25年6月22日)の法語より
今自分は全然 「 空っぽ 」 になったのである。
自分は何一つ自分のものを
求めようとは思わないのである。
されば神は滔々(とうとう)として
自分の中に流れ入って来るのである。
神が流れ入って来た所の自分は
もうすでに神そのものである。
吾はすでに 「 新生 」 したのである。
「 我 」 の造った凡ゆる悪しきものは
流れ去ってしまったのである。
自分は今日より後
如何(いか)なる 「 自分 」 のことをも なさないのである。
唯 神のことのみを なすのである。
神は吾(わ)が内に現われ給い、
神の力をもて神の仕事をなし給うのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
<感謝合掌 平成27年7月8日 頓首再拝>
神に委(まか)せるとは、今、神の力を自己のうちに感じて起ち上がること - 伝統
2015/07/17 (Fri) 04:22:09
*「静思集」(P84~85)より
何事にも、神にお委(まか)せなさるのが好いのでございます。
神は全ての全てなのですもの。
併し神にまかせると云うのは憂鬱にまかせ切って憂鬱の奴隷となることではございません。
神は「光(ひかり)なのでございますから「光」に全てを打ちまかせねばなりません。
神は「希望」なのですもの、「希望」に全てをお委せにならなければなりません。
神は「智慧」なのですから神の導きの「智慧」にお従いにならなければなりません。
神は「生命(いのち)」なのですから「生命」の摂理にお委せにならなければなりません。
神にお委せになると云うのは、征服され切ると云うことではございません。
今、今、今、神の力を自己のうちに感じて起ち上がることなのです。
境遇に屈従し環境に屈服してしまうことではありません。
「そのまま素直に受けれる」と云うのは奴隷になることではございません。
与えられたすべてを自己の「生命(いのち)の糧(かて)」と化するのでございます。
すべてのものを大度量の下(もと)に嚥下(のみくだ)して吐き出さず、それを吸収して、
そこから自分の力を一層大きく生長せしめて起ち上がると云うことなのでございます。
そう云うような心的態度におなり下さいましたならば、
人生の事件悉く自己を生かすのみに存することが判ります。
<感謝合掌 平成27年7月17日 頓首再拝>
神に時期を委ねよ - 伝統
2015/07/24 (Fri) 04:00:47
*「幸福を招く365章」(P98)より
あなたに求むることがありましたならば、
「汝ら祈りて何事にても求むるとき
既にそれを受けたりと信ぜよ、さらば汝はそれを得ん」と
イエスが教え給いしように、あなたは祈って既に受けたと信じたら好いのです。
その受けたものが何時(いつ)、何処(どこ)で、いかなる経路であらわれてくるか
と云うことは、神のみこころに委(まか)せておいたら好いのです。
あまりに早く富が来すぎたために、ある人には禍(わざわい)となることがあります。
吾々が真に求めている事物は、事物そのものも、あなたを求めているのです。
これは互いに精神感応の問題でありまして間違いはありません。
しかし時期が大切であります。
早産児は、既に与えられているにしても、それは育ちが悪いのです。
神に時期をお委せなさい。
<感謝合掌 平成27年7月24日 頓首再拝>
種を蒔いたら発芽は神に委ねよ - 伝統
2015/08/01 (Sat) 04:47:16
*「幸福を招く365章」(P98~99)より
神に一度おまかせしたならば、神からそれを再び取り戻してはならない。
若しあなたが人に「これをやる」と云って何かを与え、
その翌日それを取り戻すようなことをしたならば、
そして又その翌々日それを又相手に与えるとしたならばどうでしょう。
その人は喜んでその贈り物を受け取るでしょうか。
それと同じように、一度神に委ねながら、又自力で解決しようと思って
その問題を自分に取り戻し、それが自力で旨く行かぬと云って
又神に頼むとしたならばどうでしょうか。
一度、神におまかせしたならば、神は必ずよき解決をしてくださると信じて、
その解決の時期を神に委ねなければなりません。
一度大地に種を蒔いたら、
その発芽の時期は自然にまかせなければならないのと同じであります。
<感謝合掌 平成27年8月1日 頓首再拝>
神を愛するなら神の掟を守れ - 伝統
2015/08/07 (Fri) 04:31:36
*「幸福を招く365章」(P99)より
神に与うべきものに2つあります。
「汝、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、力を尽くして主たる神を愛せよ」
―― 即ち先ず、愛を神に与うべきであります。
神を愛しないで、神に問題だけを与えてその解決だけをお願いしても、
それを解決して貰えるかどうかは問題であります。
では神を愛するとは如何にすべきかは、
「汝ら吾を愛せば、わが戒めを守るなり」
とイエスは云っているのであります。
愛する人の言う事は何でも従いたくなるのが愛の証拠であります。
男を愛する女は、男の言うことに従って自分の最も大切な貞操さえも委ねるのです。
そしたらあなたが神を真に愛するならば、
神の言いつけをどんな事でも従えるのではないでしょうか。
正しい事をせよと云う神の言いつけ位に従えないで神を愛してると云えましょうか。
<感謝合掌 平成27年8月7日 頓首再拝>
神にあなたの子供を委せた場合 - 伝統
2015/08/14 (Fri) 03:48:33
*「幸福を招く365章」(P100)より
あなたの子供の問題について困ったことが起こったならば、その子供を神に委ねなさい。
その子供に付随した一切の心配も恐怖も悉く神に委ねればよいのです。
そして神がこれを如何に解決するかを、信頼と興味を以てご覧になっておれば好いのです。
「細工は流々、仕上げを御覧じろ」と云う諺があります。
神は神の流儀に従ってその問題を解決してくださるのです。
細工の途中でどんな有様を呈しようとも、そんなことを恐れてはなりません。
仕上げを待っていれば好いのであります。
もう一遍この問題を神から取り戻したいなどと思ってはなりません。
そんな誘惑を全然退けねばなりません。
神に任せたが、さてどうなるか――と云うような心配を全然してはなりません。
必ず良くなるこの信念が必要です。
<感謝合掌 平成27年8月14日 頓首再拝>
「重荷を負える者よ吾れに来たれ!」 - 伝統
2015/08/22 (Sat) 04:56:11
*「幸福を招く365章」(P100)より
神にまかせるのは無条件全托である。
完全に神にその処置権を譲り渡すのでなければなりません。
何一つ、自分のところへ止め置くと云うものがあってならないのです。
魚釣りの餌のように、
神に与えたものに釣糸をつけて置くと云うようなことをしてならないのです。
人間は神に任せた程度に従って、自分の肩の重荷がおりるのです。
神の自動車にのせて頂きながら、
自分の荷物を自動車の中に肩にかけているようなことをしてはなりません。
「重荷を負える者よ、吾れに来たれ、吾れ汝らを休ましめん。」
神はこう云い給うているのです。
あなたが重荷を負う位なら、神は貴方を救う必要がないのです。
神は貴方を完全に重荷から解放するために生長の家をお創(はじ)めになったのです。
<感謝合掌 平成27年8月22日 頓首再拝>
神に肩代わりしてもらう - 伝統
2015/08/30 (Sun) 04:46:57
*『希望を叶える365章』(P254~255)より
あなたの悩みを神にゆだねよ。
神は無限の力であるから、その悩みは消え始める。
人生の重荷があなたの背に重くかかるとき、その重荷だと思う念をあなたの心から放しなさい。
そして、「重荷はない」と唱えて笑いなさい。
「神はその重荷を必ず解決させて下さる」と念じて紳想観をしなさい。
悩みと云うもの、重荷と云うものは、実相に於いては、本来無いのです。
笑って、心を明るくもって、
神が必ずそれを解決して下さると信じて神にその重荷を肩代わりしてもらい、
神からの智慧を頂いて、当面の問題を神の導きに随って真剣に努力すれば、
どんな重荷も軽くなってしまうのです。
重荷を重荷だと思ってはならない。
それは自分の信仰心を高めるために神から授けられた課題と思うがよいのです。
そしてその重荷と見えるものを呪わないで不平に思わないで、祝福しながら立ち向かうのです。
神に肩代わりして貰うとは神の智慧を頂いて勇敢に努力することです。
<感謝合掌 平成27年8月30日 頓首再拝>
神の通路となること - 伝統
2015/09/09 (Wed) 04:55:02
*「希望を叶える365章」(P255~256)より
あまり焦っては幸福になれない。
“そのままの心”の中に一切の進歩がある。
“そのまま”は無我である。
無我であれば、神があらわれ、神の智慧が導く。
神の智慧の導くところに失敗すつことはあり得ない。
神はみずからを自己表現し給うチャンネル(通路)として
”無我の人間”を求め給うのである。
自己表現の通路に「我」の歪みがあったら神そのままの表現が出来ないで
其処に不完全があらわれることになるのである。
無我の中には恐怖も取越し苦労も憎しみも争いもあり得ない。
我の要求があらわれて、無我のチャンネルを閉塞してしまうから
何事も思うように行かないことになるのである。
”我”を征服することが”神の声”を今此処に実現する道である。
「先ず“神の国”を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」とイエスは教えられたが、
“神の国”を求めるには、無我になり無想になって神の通路となることである。
<感謝合掌 平成27年9月9日 頓首再拝>
主権を神に返せ - 伝統
2015/09/17 (Thu) 04:56:17
*『生活の智慧365章』(P133)より
神に完全に無条件降伏せよ。神はすべての癒す力を持ち給うのである。
神は戦争に於ける占領軍のように、こちらに抵抗の心があるのに無理に暴力をもって
進駐して来られる云うことはないのである。
神は一切のものの生みの親として、また創造(つく)り主として、
吾等の人事に潜在主権をもち給うのである。
しかし、吾々自身が「我」の仮主権を握って頑張っている限りは、
その仮主権を排除してまで、神の潜在主権を実行に移し給うことはないのである。
神の全能の完全なる機能を、わが身体及び人事、事業等に於て実現しようと思ったならば、
完全に神に主権を返還して、神の叡智によって、自分の一挙手一投足を
支配せしめるようにしなければならないのである。
神に主権を返還するなどと言えば、
自分以外の「神」に自分の主権を奪われるかのように錯覚する人があるかも知れぬが、
「神」と云うのは、自己の霊なる“本当の自分”なのである。
“肉体の自我”の主権を“霊の自我”の主権に譲り渡すことなのである。
<感謝合掌 平成27年9月17日 頓首再拝>
意識的努力と神への全托との一致 - 伝統
2015/09/26 (Sat) 04:53:48
*「善と福との実現」(P7~9)より
それでは我らは何事をも努力せずして、
呆然として神まかせて置いたら可いのであるかと云うと、決してそうではない。
神に祈るにしてもやはり一種の自己の意識的努力が要るのである。
ハンブリン氏は「併しこの意識的努力の最初の段階は必要なことである。
そして事物の計画の中に、その最初の段階は是非なくてはならぬ段階でもある。
併し、それはやがて最後には捨てられなければならない段階であるのである。
それは唯階梯的な、準備的なものである。何よりも先ず必要なことは
『凡て善なるものは神より来る』ということを深く自覚することである」と云っている。
(ハ氏著『摂理』13頁)
トロワード氏の「エデンバラーに於けるメンタル・サイエンス講義」の「意志」の項には
自我が神に還る此の「最初の意識的努力」(意志の力)を次の如き譬喩(たとえ)を
もって説明しているに我々の求めるものを現実の形に創造して下さる神の創造力を、
万能ダライ盤にたとえているのである。
神のこの、万能ダライ盤に持って行って、それを当てがいするならば、宇宙の素材を
其のダライ盤に、欲する形に創って下さるのである。
その創造って下さる力はどこまでも、自分の意志ではない。万能ダライ盤の力である。
けれどもその旋盤(ダライ盤)に対して、しっかり素材を当てがうために
「把握する道具」は我らの意志の力である、と云うのである。
最初意志の力をもって、自分の欲する形に素材を削って貰うように
万能旋盤のところへ当てがうと云う最初の階梯は必要なのであって、
しかしあとは神にまかせることが必要なのである。
換言すれば欲する事物を心に描いて、それを「祈り」によって神のところへ持ち出すことは
必要なのであって、あとは神の自働にまかせるのである。
と云っても、《強いて》自分が動かないように頑張るのではなく、「外からの導き」と
「内からの自然の衝動」とで、導かれ、促されるままに、《そのまま》に「自然法爾に動く」
のである。
「自然法爾に動く」と云うのは、「我(が)」で動くのではなく、また「動かない」のでも
なく、そのまま自然(じねん)に、スラスラ動くことなのである。
恰度、5月の鯉幟が、中に吹き入る風のままに自然に動いている、
自分で努力しているのではない、動かないのでもない、自然に動いているのと同じである。
それは実に安楽なる行である。
しかし最初に鯉幟は、その自然の風の吹き入る高さまで
意志の力で掲げねばならないのである。
<感謝合掌 平成27年9月26日 頓首再拝>
神に托して生きましょう - 伝統
2015/10/04 (Sun) 03:30:02
*『女性の幸福365章』(P393)より
問題がこんがらがって来たら、
それは自分の“心の影”だと懺悔する謙遜な心になって、
神様に解決をお願いする心になるがよい。
神は、あらゆる問題を解決して下さる無限の智慧と能力とをもっていられるのである。
神は、私たちが求めるに先立ちて私たちのなくてならぬものを知り給うのである。
本当に神を信ずるならば、私たちは明日のことについて
思い煩う必要は決してないのである。
真に神を信ずる者には、取り越し苦労も心配もあり得ないのである。
神が地上に人を生み出し給うた以上は、その人の果すべき役割は必ずあるのである。
自分が行きたい学校に入学できなくとも、自分の入社したい会社に入ることが
できなくとも、その場合はその人にとってもっとも適当な場所が与えられているのである。
「この学校または会社へ入れて下さい」と祈るよりも、
「私にとって最も適当な人類への貢献の場所が与えられますように」
と祈る方がよいのである。
「我(が)の心」の祈りはかなえられないことがあっても、
神の御心にかないたいという祈りは、諾(き)かれないということはないのである。
<感謝合掌 平成27年10月4日 頓首再拝>
わが全存在を神にゆだねる - 伝統
2015/10/21 (Wed) 04:45:32
*「真理」第9巻生活篇(P313~314)より
完全に自己が救われたとき
「わが全存在を神にゆだねる」これがあなたの全存在の革命です。
今まで物質的な欲望をもった肉体的なニセモノがあなたの全存在を占領していたのが、
神にまで無条件降伏して、その全存在を「肉体的ならざるもの」「神なるもの」
「真(しん)に無我の愛なるもの」に明け渡すのです。
「神よ、わが城に入り給え」 と無条件に 「わが存在」 という城を明け渡すのです。
その時あなたの肉体の外観は元のままであるかも知れないけれども、
その肉体の中に生きている主人公が一変(いっぺん)したのです。
今迄の主人公は肉体に属する色々の因襲や、業因や、習慣を背負っていた欲望である
けれども、過去の主人公が降伏してそれを明け渡したとき、
もう肉体と云う城に住む主人公は 「神」 御自身となったのです。
その人は新たに生れ更(かわ)ったのです。
さればあなたは 神そのままに 完全に世界を観、神そのままに完全なる人間を観、
神そのままに 完全なる悦びを感じ、神そのままに 立所(たちどころ)に病いを消し、
神そのままに 罪人を清浄(しょうじょう)ならしめ、その行くところに、
平和と豊かさとを来らしめ、神がなし得る凡(あら)ゆる神聖にして
偉大なる御業(みわざ)を成すことを得るのです。
<感謝合掌 平成27年10月21日 頓首再拝>
真の天国は神への無我献身 - 伝統
2015/10/30 (Fri) 04:49:21
*「続・常楽への道」吉田国太郎・著(P86~88)より
真の天国は「自分がなくなる」ところから生ずるのである。
自分がなくなりただ仏性のみが顕れるのである。
(中略)
仏性が現れる所にのみ天国があり浄土がある。
(中略)
自分というものが亡くならない限り、仏性はあらわれて来ないのである。
それまでの苦しみは結局「自我」を守る為の苦しみであり、戦いであったのであるから、
「自己に宿るキリスト」の現れようが無いのである。
(Web:天子の卵(2012年10月18日)より転写
→ http://igaiganet.seesaa.net/article/297894451.html )
<感謝合掌 平成27年10月30日 頓首再拝>
我を死に切るには - 伝統
2015/11/09 (Mon) 04:34:42
*『みんな神の子 ありがとう 人生問答集 5』谷口清超・著より
H 吉田國太郎先生の御本の中に「我を死に切らないで我を生きたところに、
真理をどれだけ聞かせておいても何にもならない」と書いてあったんです。
私は、上辺ではわりと我を死に切っているんですが、中までは死に切っていないので、
ときどき気に食わないことがあると醜い心を起こすんです。
浄心行をしましたが、消えてるか消えてないかが、まだ分からないんです。
灰になるまで生長の家の人類光明化運動を続けていきたいので、
我の死に切り方を教えて下さい。
清超 我というのは本来無いんだから、あまり我にとらわれる必要はないですよ。
病気も無い、死も無い。「無我全托」と言うでしょう?
神様にスポッとお任せする練習をしていけばいい。
無我とは本来そういうものである。
そして神に全托する、仏に全托するという、全てをお任せする
・・・
H では、醜い心が起こったときには・・・
清超 例えばどういう心ですか?
H 私はちょっと善人なところがあるものですから、仕事をさぼっている人を見ると
むしゃくしゃして情けなくて・・・そういうことや、
意地の悪いことを言われたときなんかは、相手は二分の釘のつもりでも、
こっちに刺されるときには五寸釘に感じるんです。
生長の家のお話を結構聞かせてもらっていますので、
そういうときもカーッとはならないですが、
やっぱりそれが心に引っかかって、いい感じがしないんです。
清超 それは誰でもそうでしょうね。
そうしたことを神様に全托する練習をするのが「信仰」ですからね。
H どういうふうに全托すればいいんですか?
清超 「神様よろしくお願いします」と任せるんです。
H 醜い心が起きた時に?
清超 向こうの人も一緒に全托するんですよ。何もかも全托するんです。
<感謝合掌 平成27年11月9日 頓首再拝>
無我直心 - 伝統
2015/11/18 (Wed) 04:50:12
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より
仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。
キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。
小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。
天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。
文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。
無我直心を行ずるを徳という。
<感謝合掌 平成27年11月18日 頓首再拝>
《神の完全通路となれ》 - 伝統
2015/11/28 (Sat) 04:47:22
*『 生長の家 』(昭和25年11月13日)の法語より
「 ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ 」
と金光教組は喝破された。
それが焼け糞(くそ)の 「 どうなとなれ 」 では、
此の世に悪が存在すると云う前提の下での 「 ままよ 」 であるから、
それは寧(むし)ろ破壊的に働くのである。
「 神の み心に全託しましょう。悪いように見えても、
神の み心の中には悪は無いのであるから、
神の みこころのままよ 」 と云う全託、自己抛棄(ほうき)のカ
ラッポの気持になったとき、
そのカラッポを完全通路として、神の生かす力が働いて来るのである。
無我全託(むがでそのまままかせきり)は
神の創造には決して悪はないという
神への「 絶対信 」 からのみ来るのである。
<感謝合掌 平成27年11月28日 頓首再拝>
汝の悩みを神にゆだねよ - 伝統
2015/12/17 (Thu) 04:54:45
*「幸福を招く365章」(P76~77)より
多くの人たちは大事件にはそれほど心を騒がせないで、家庭内の小事件に
心をイライラさせて折角の人生を不快なものにしてしまいがちである。
大事件には「仕方がない」とあきらめがつくが、
小事件ほど何とかなると思ってその事件をつかむからである。
なんでも心でつかめば、心が悩むのである。
もしあなたの心を悩ますものがあるならばそれをあなたの心から放して
「神よ、この問題をあなたの無限の知恵のはからいにお任せ致します」と
唱えて神(大生命)のはからいにませてしまうがよい。
<感謝合掌 平成27年12月17日 頓首再拝>
神への無条件降伏 - 伝統
2016/01/02 (Sat) 04:54:08
《天地一切のものと和解すること》
*『生長の家』(昭和24年12月17日)の法語より
天地一切のものと和解するということには、
神のみこころと和解していなければならぬと云うことが含まれている。
神のみこころにかなわないようなことを幾ら祈ってもかなえられないし、
或る程度まで人間の努力によって目的を達しても、
それは結局くだけてしまうことになるのである。
神のみこころと和解するには神と対立があってはならない
と云うことが含まれている。
神への無条件降伏と云うことが何よりも必要である。
神への無条件降伏と云うことは、何でも与えられるものに
其儘(そのまま)素直にハイと従うことである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96
<感謝合掌 平成28年1月2日 頓首再拝>
《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統
2016/01/18 (Mon) 04:25:16
*「光明法語」(P26)より
吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。
神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。
されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。
吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。
<感謝合掌 平成28年1月18日 頓首再拝>
面白くない出来事が起こりましたら - 伝統
2016/01/27 (Wed) 04:43:43
*「真理」第9巻(P91~92)より
何か不都合な出来事が起こって来たとき、
その不都合な出来事の表面の姿を心でつかんで、
自分の心をその不都合から放たないでいますと、
自分の心がその「不都合さ」に縛りつけられて自由を失ってしまって、
自由自在の活動ができなくなりますから失敗するに到るのであります。
それよりも先ず神の方へ心を振り向けよ。
そして
”この事件に対しては神の愛と智慧と調和とが、
自分にためにも彼にためにも働いているのであるから必ず好都合に解決する”
と強く強く念じて神の《おはからい》に信じて
お委(まか)せして置くのが好(よ)いのであります。
私達の想念は習慣性をもっておりますから、
心配する癖を付けますと、益々心配するようになり、
神にまかせて明朗になる習慣をつけると、そのようになりますから、
神に祈って委まかせする習慣をつけましよう。
<感謝合掌 平成28年1月27日 頓首再拝>
《神に全托(ぜんたく)すれば最も善いものが来る》 - 伝統
2016/02/05 (Fri) 03:53:43
*『 生長の家 』(昭和25年1月20日)の法語より
「 私の意志が 神様にきかれますように」と祈るよりも、
「 神さまの意志が、み心の通りに私の中に行われますように 」 と
祈る方が正しき祈りであるのである。
自分の欲するものが その祈りの結果として実現して来なくとも、
それは 却(かえ)っていいことなのである。
自分の意志よりも、神さまの み心の方が、
何が一そう善いかということをよりよく知り給うからである。
神への無条件降伏は 宗教の極致であり、
幸福の源泉であるのである。
無条件降伏が無条件幸福である。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/04babba361b61c4710eb0611f64f4c45
<感謝合掌 平成28年2月5日 頓首再拝>
《最早吾生くるに非ず》 - 伝統
2016/02/13 (Sat) 03:30:33
*「光明法語」(P30)より
吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。
あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。
今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。
此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。
吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。
<感謝合掌 平成28年2月13日 頓首再拝>
《神にのみ頼れ》 - 伝統
2016/02/22 (Mon) 03:19:24
*「光明法語」(P32)より
吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。
吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。
だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。
唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。
<感謝合掌 平成28年2月22日 頓首再拝>
本当の信仰は、神への全托 - 伝統
2016/03/03 (Thu) 03:27:42
*『白鳩』(昭和22年5月号) より
本当の信仰は、神様に全部まかす。
神様に全然『自分』と云う牙城を明け渡すのです。
すっかり神様に城を明け渡してしまって 『今神様のみがここにまします』 と
深くそれを思念する心境に達するのです。
『わが生くるはわが力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命』 と云う、
招神歌の第二首がそれであります。
この歌の心を深く繰返し念じます。
すると、自分の生きているのが自分の力でないことが判るのですから、
わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、自分の生活の一瞬一刻が、
神様の生活の一瞬一刻でありますように、斯う云う心が起ってまいります。
そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、
生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処に内からの催しと、
外からの催しとで実現する境に達するのであります。
尤も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現われるかも知れない。
それは吾々の予想しないような順序を以って外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。
どんな風に現れて来ようとも、‘至善なる神様からは悪いこと出てくる筈がない’
若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が転回する為の
自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのです。
悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。
それは唯真理が実現する為に出て来るのであります。
それは恰も今まで間違った方向に歩いていた者が
壁に打衝かって自から向きが変るようなものである。
悪いことは自然に消えてゆくのです。
出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。
そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、
任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。
何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。
神は総ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。
自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、
自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。
(http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/2e6882ee19c1a085df7bb27965bda2f8 より抜粋)
<感謝合掌 平成28年3月3日 頓首再拝>
内在の神性に委せ切れ - 伝統
2016/04/08 (Fri) 03:45:59
*「光明法語」(P72~73)より
イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。
「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。
ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。
この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。
<感謝合掌 平成28年4月8日 頓首再拝>
《汝の悩みを神にゆだねよ》 - 伝統
2016/04/22 (Fri) 03:33:39
*『幸福を招く365章』(P76) より
多くの人たちは大事件にはそれほど心を騒がせないで、
家庭内の小事件に心をイライラさせて折角の人生を不快なものにしてしまいがちである。
大事件には「仕方がない」とあきらめがつくが、
小事件ほど、何とか成ると思ってその事件をつかむからである。
何でも心でつかめば、心が悩むのである。
若し貴方の心を悩ますものがあるならば、それを貴方の心から放して、
「神よ、この問題を貴方の無限の智慧のはからいにお任せ致します」
と唱えて神(大生命)のはからいにまかせてしまうがよい。
<感謝合掌 平成28年4月22日 頓首再拝>
《神に一切を献(ささ)ぐること》 - 伝統
2016/05/01 (Sun) 04:28:05
*『幸福を招く365章』第4項(P77) より
あなたは今日(きょう)一日何事も神に委ねて争わず、
はからず、まかせきりの其の儘の心になる稽古をするのです。
無我全托(まかせきり)になったとき神の智慧があなたに流れ込んで
最もよき導きをして下さるのある。
神は倒れたる者を起き上がらせ、
萎(な)えたる者に活力を与え、行詰った扉をひらき給う。
あなたは今日(きょう)決して自分の我を出さないのである。
今日一日を聖別(せいべつ)して、神に献納したと思え。
献納したものを取戻してはならないのである。
神にあなたの一日を献(ささ)げたとき、その一日は神聖なものとなる。
<感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>
全托の信仰と行動の必要とは如何に調和するか - 伝統
2016/05/09 (Mon) 04:35:46
*『 精神科学 』誌 昭和27年12月号 より
~ 「 効果ある祈りと効果なき祈り 」
「 行動を伴わない信仰は、実は まだ信仰していないのである 」 ―
このことは真(まこと)に真理であるのであります。
信仰は神への全托でなければなりませんが、神へ全托すると言うことは、
自分が何もしないで、神様がして下さるだろうと怠けていることではありません。
神は遍在したまい、外にも内にも到る所に充ち満ちていられるのでありますから、
人間の「 内 」にも神があって、その神は、人間の肉体を動作せしむることによって
神みずからの目的に協働させていられるのですから、神の導きを受けると同時に、
その導かれた通りにみずからが動き出すことが必要なのであります。
吾々は常に慌(あわただ)しく自我の考えで動いているばかりが能ではありません。
時々静かにして「 静 」の中から神の み声を聴くことによって、神の導きを受け
なければなりません。
しかし導きは「 動 」によって完成するのだと言うことを知らねばなりません。
こんな話があります。
或る処に、二人の生徒がありました。
どちらも信仰深い家庭に育った子供でありましたので祈りの効果を知っていました。
二人が学校の校舎近くなりますと、始業の1分間前に鳴るベルが鳴っているのです。
もう1分間のうちに教室に入らなかったら、遅刻になってしまうのです。
それには二人の少年にとっては肉体的限度を超えたほどの速力を要するのです。
一人の少年は、其処へ‘ ぴたり ’と跪(ひざまず)いて
「 どうぞ私を遅刻せしめないで下さい」と祈りはじめました。
もう一人の少年は、心のうちで「 どうぞ私を遅刻せしめないで下さい。
私は神様と一緒に走っているのであるから断じて遅刻することはない」 と
祈りながら懸命に走りました。
すると、どちらが学校に遅刻せずについたでしょうか。
言うまでもなく、跪いて走らずに祈ってばかりいた生徒は遅刻 したのでありまして、
「祈りはきかれた、自分は神と共に走るから遅刻 しない」 と信じて走った方の生徒は
遅刻 しないで始業に間に合ったのであります。
( http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13966207.html?type=folderlist より転写)
<感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>
《難問題は神にゆだねよ》 - 伝統
2016/05/16 (Mon) 04:13:57
*『幸福を招く365章』第4項(P82) より
あなたは問題が起ったならば神の導きを受けるために、直ぐ神様の方へ振り向くことです。
「神よ、この問題は私の自分の智慧では解決する道がわからないのです。
あなたは無限の愛であり、智慧でありますから、すべての人々に調和する
よき解決法を知っていられます。あなたの愛と智慧とによってこの問題の解決法を
お導き下さいませ」
こう一心に祈って、祈ったあとは、心配や取越苦労を決して心にとどめず、
神にすっかり委(まか)せた気になって、日常の義務を怠らずにいれば、
神からの導きが来るのである。
<感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>
《難問題は神に委ねよ》 - 伝統
2016/05/20 (Fri) 03:35:01
*「光明法語」(5月20日の法語)より
人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。
「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。
また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。
<感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>
《全てを神の手に托せよ》 - 伝統
2016/05/21 (Sat) 03:20:20
*「光明法語」(5月21日の法語)より
如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。
それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。
それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。
すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。
神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。
<感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>
《自分が無くなり神に全托すること》 - 伝統
2016/05/29 (Sun) 03:37:56
*『 生長の家 』(昭和25年4月9日の法語)より
吾は 今 神の無限の力に信頼 して、
すっかり神に任せきって 心 平和であるのである。
私の体にも、心にも、魂にも、何らの無理な緊張もないのである。
私の全心身には何らの力みも無理な強直もないのである。
私は ぬれ手拭(てぬぐい)が手拭掛けにかかっている様に
自分の生命を神に全く うち任せたのである。
‘ ぬれ ’ 手拭には 何らの力みもないのである。
それと同じように私の全心身にも何らの力みもないのである。
「 この世の終りに至るまで 吾れ 常に汝を愛し 汝(なんじ)を守る 」 と
いい給うているのが それが神であるのである。
神にすべてをまかす吾は強いのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13787033.html
<感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>
《神は吾が重荷を軽からしめ給う》 - 伝統
2016/06/07 (Tue) 03:21:50
*『 生長の家 』(昭和25年5月21日の法語)より
あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、
神にとって難しいものは一つもないのである。
どんな病気も神なら治すことができるし、
どんな借金も神なら払うことができるのである。
自分の体を 神の体だと思え。
自分の仕事を 神の仕事だと思え。
神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、
貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。
今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。
重荷を自分で負うな。
重荷は神に委(ゆだ)ねよ。
然して平安であれ、心安かれ。
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<感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>
一切を神に托し切れ - 伝統
2016/06/14 (Tue) 04:41:44
*「光明法語」(6月14日)より
自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。
それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。
取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。
神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。
ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。
これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。
<感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>
神に全托する - 伝統
2016/06/25 (Sat) 04:41:56
*「光明道中記」(6月25日)より
【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】
自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。
自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。
自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。
公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。
讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。
われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。
みすからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。
「主はみこころを必ず成し給わん」
<感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>
Re: 神への全托① - niqkfwhfv URL
2020/08/29 (Sat) 22:01:56
伝統板・第二
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